郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

国連とルワンダと北朝鮮

2005年06月17日 | 時事感想
 昨日のオンラインニュースで、国連のアナン事務総長がイラク人道支援事業汚職に関係したという疑惑の再燃が伝えられていました。この件に関しては、以前から、日本のテレビはほとんど報じていないような気がしますが、今回もそうでした。
 どうも、国連と中国に関して、日本のメディアには、バイアスがかかり続けているような気がします。みんながみんな、オンラインで国際ニュースを見たり、新聞をすみずみまで読んだりするわけではないのですから、テレビニュースが取り上げなければ、多くの日本人が知らないままで終わります。
 現実にアナン事務総長が汚職に関係しているとして、それで、彼の全人格が否定されるわけではないでしょう。しかし、そういった疑惑があることも知っていなければ、イラク問題への認識も一面的になるでしょうし、国連という官僚組織についての見解も、気楽な幻想となってしまうのではないでしょうか。
 前回、虐殺を傍観した国連の話をして、ボスニアでの明石氏が非難されたことを述べましたが、ルワンダの責任者は、当時事務次長だったアナン氏でした。もちろん、彼も強い批判を受けたのです。国連の平和維持軍が展開しながら、100万人ともいわれる虐殺を黙認したのですから、それではいったい、国連の存在意義とはなんなのか、という話になってくるでしょう。

 国家、というものもそうなのですが、結局のところ官僚組織なのですから、不正は起こって当然ですし、利害のせめぎあいから判断を誤ることも日常茶飯事です。しかし、国家がなければ秩序が成り立たないように、現在のところ国連も、ないよりはあった方がましでしょう。
 だとすれば、どうすれば上手く利用できるか、どうすれば弊害を少なくすることができるかを、考えるべきなのではないでしょうか。

 ルワンダ虐殺当時のアメリカ大統領はクリントン氏で、国連大使はマドレーン・オルブライト女史でした。オルブライト女史は、ルワンダ問題で判断を誤ったとされ、後に謝罪していますが、北朝鮮でもそうだったのではないでしょうか。
 ただ、極東の場合は、同盟国である韓国の大統領に泣きつかれ、同じく同盟国である日本からも「穏便に」と要請されたら、アメリカとしても、最大限、北に譲歩するしか道はなかった、という見方もできます。
 日本人としては、オルブライト女史を批判する前に、朝鮮総連の袖の下と北朝鮮利権に染まり、拉致被害者をないものとしてきた日本の政治家を非難するべきなのでしょう。しかしおそらく、彼らにも言い分はあるのです。万が一の事態、つまり朝鮮半島の動乱と極東の不安定化は、日本の国益にかなわない以上、多少のことには目をつぶって、金を出して解決する方が得策だと。
 しかし、国益というものは、長期で考えるべきではないでしょうか。
 目先の利益に執着して、万が一の危険にしりごみすることは、単なる怯懦であって、いい意味での現実主義ではありえません。
 他国の政府機関が国民を袋詰めにして連れ去るような異常事に目をつぶり、「多少のこと」と片づけるようでは、それこそ、国家の存在意義が問われます。

 それだけではありません。
 アメリカ国内では、1994年の核危機への対応において、当時から、クリントン大統領とオルブライト国務長官の対応が甘すぎる、という批判があったわけですが、その甘すぎる対応の結果である米朝枠組み合意は、金王朝の延命に手を貸し、北朝鮮大飢餓の遠因となってしまったのです。
 これも100万人にのぼるといわれる北朝鮮の大飢餓は、人為的なものです。大虐殺といってもいいでしょう。
 だとすれば、「穏便」を望んだことで、日本政府もまた、金王朝の大虐殺に手を貸したともいえます。
 ルワンダの難民キャンプへの食料援助は、あきらかに世界の善意でした。しかし、その食料援助が、虐殺の主体だった元フツ族政府戦闘組織の手で牛耳られ、虐殺を長引かせたという側面があるように、日本の北朝鮮への多量の食料援助もまた、虐殺の主体である金王朝に利用され、北朝鮮は、飢餓を呼ぶ体制を継続させているのです。

 極東は、あきらかにアフリカよりも恵まれた条件下にあります。
 万が一、戦乱が起こったにせよ短期間ですむでしょうし、経済的な落ち込みも、吸収できないものではないでしょう。
 アメリカの現政権は、北朝鮮の体制崩壊を睨んでいます。
 少なくとも、今回日本は、それを邪魔するべきではないでしょう。
 問題は、いわゆる「幸せ回路」にひたり、当事者でありながら「バランサー」とやらになれるという、楽観誇大妄想にとりつかれている韓国ですが、勝手にさせておけばいいのではないか、という以外に、言葉がみつかりません。
 前回の核危機のとき、韓国大統領は、掛け値なしの危機感を持って、アメリカに泣きつきました。
 しかし今回の韓国は、現実を見ないで詭弁を弄んでいるだけなのですから、同盟解消に向かおうとするアメリカの言い分の方が、よく理解できます。

 9.11は悲劇でした。
 しかし、あの悲劇がなければ、アメリカが今ほど北朝鮮にきびしい目を向けることもなく、日本政府に迫って朝鮮総連の金の流れを追求させることもなく、一年後に、北朝鮮が日本人拉致を認めることもなかったでしょう。
 強硬姿勢と軍事力がなければ、庶民の虐殺をとめることもできなければ、一般庶民が犠牲となっている現在進行中の不法行為でさえ、やめさせることができないのだと、わたしたちは認識すべきではないでしょうか。
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『哀歌』と『ジュノサイドの丘』

2005年06月16日 | 読書感想
『哀歌』曽野綾子著
『ジュノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著

『哀歌』の参考文献に、唯一の翻訳文献として『ジュノサイドの丘』があげられていたので、読んでみました。
『哀歌』を読んで、「これは、中国の文化大革命やカンボジアの虐殺に近いのではないか」という感触を持っていたのですが、『ジュノサイドの丘』で、その思いは強められました。もっとも、著者のフィリップ・ゴーレイヴィッチは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のみを類似例としてあげています。著者がアメリカ人である以上、「ルワンダに対してアメリカはどうあるべきだったか」という問題意識が主題の一つになっていて、アメリカには手の出しようのなかった中国や、中国の影響下にカンボジアで起こった虐殺は、類例として適切ではなかったのかもしれませんけれども。

 植民地となる以前、ルワンダは王国だったのだそうです。フツ族とツチ族は、この王国の段階から分離しかけていたようなのですが、ちがう民族であったわけではなく、おおざっぱにいって、ツチ族が貴族階級、フツ族は被支配階級ではあるものの、その境界線はあいまいでした。
 著者は、そこへ、「ヨーロッパ人種に似た顔立ちのエチオピア人がアフリカで唯一の文明の担い手」というような、19世紀末ヨーロッパの選民思想が入り込み、支配者層であったツチ族とフツ族は人種がちがう、という神話になったのだとしています。一般に、ツチ族は背が高く面長で、フツ族はずんぐりして丸顔といわれるにもかかわらず、現実には、見分けはつかないのです。
 そういえば、徳川将軍家の墓所が調査されたとき、3代目あたりから、面長で貴族的な顔立ちになっている、と報告されていましたが、食べ物などのライフスタイルで、顔立ちも身長も相当にちがってきますから、結局、ツチ族とフツ族のちがいは、その程度のものなのでしょう。
 19世紀末、王位継承の争いでルワンダは乱れ、それに乗じて、ドイツが間接支配の植民地とします。第1次世界大戦によるドイツの敗戦で、支配者はベルギーに代わりますが、ベルギーはツチ族を貴族階級として優遇し、ツチとフツの断絶を深めたと、著者は言います。第2次大戦後、独立が日程にのぼり、ベルギーは民主革命をめざすフツに肩入れするようになりましたが、ルワンダの民主革命は、多数派のフツがツチに取って代わることであり、少数派の権利は考慮されなかった、のだそうです。
 しかし考えてみれば、そもそもフランス革命がそうであり、血まみれの虐殺は、民主主義革命の側面だったのではなかったでしょうか。
 結局、フツ族は流血の暴力革命で政権を奪い、ベルギーもそれを応援しました。
 以来、ツチ族は、中華人民共和国や北朝鮮における「地主・資本家・反革命者」のようなものとなり、差別を受けるのです。
 共産政権の例を引いたのは、著者のように、ドイツにおけるユダヤ人を引っ張ってくるよりも、その方が、状況がわかりやすいからです。
 ツチ族は、資本家であり地主であり知識階層であったわけですから、最初からすべて抹殺してしまうと、国が成り立ちません。したがって、政権の一角を担うツチ族もいましたし、始終、流血沙汰が起こっていたわけでもありません。また、難民となったり亡命者となって、国外へ逃れたツチ族も多かったわけで、1994年に起こった未曾有の大虐殺は、文化大革命だったと考えると、理解しやすいのです。ツチ族は、ルワンダにおける「黒五類」でした。
 貧しい、ごく普通の農家の息子や娘が、国営ラジオの扇動で民兵となり、隣人を殺し、犯し、略奪をする。文化大革命にそっくりではありませんか。
 ちがうところといえば、隣国を拠点とするツチ族の反政府ゲリラがいたことで、文化大革命の影響を受けた、カンボジアの大虐殺に例える方が、あるいはもっとわかりやすいかもしれません。
 当時のルワンダには、国連の平和維持軍が展開していました。しかし、ソマリアで米軍が虐殺された直後であり、また、当初にベルギーからの派遣兵が死者10名を出したことによって、国連軍は虐殺を傍観し、引き上げました。
 虐殺は、長期間にわたって準備されていました。ルワンダ政府そのものが、虐殺を扇動していたのです。これを防ぐことができたのは、ルワンダ軍よりも強力な武器を持った、軍隊だけでした。
 犠牲者100万人という大虐殺を止めたのは、反政府軍の侵攻でした。しかし、最初から政府軍の方に肩入れしていたフランスは、国際世論を誤った方向に導き、ジュノサイドをくりひろげる政府軍に、余裕を与えるような停戦のための派兵に、踏み切ったといいます。
 また、今度はフツ族が難民として国外へ出ることになり、もちろんその中にはジュノサイドの指導者も多数まじっていましたが、ここでようやく悲劇を知った世界の援助は、難民キャンプに集中し、虐殺の主体を助けるという皮肉な現象も起こったようです。
 『ジュノサイドの丘』は当然、最初に、見て見ぬふりをして放置した国連とアメリカ政府を問題視しています。
 そういえば、これと同じ頃、ボスニアでも虐殺が起こっていたのですが、国連指揮下にいたNATO軍は、国連の許可が出なかったために介入できず、虐殺を止めることができませんでした。このときの国連の現地最高指揮者は、明石康氏でした。
 明石氏は、この2年前のカンボジアPKOでは、選挙を成功させ、カンボジアに秩序を取り戻すという快挙を成し遂げましたが、カンボジアの場合、虐殺はベトナム軍の侵攻でとっくの昔に収束した後でしたし、人には向き不向きというものがあるのでしょう。
 といいますか、結局のところ国連は、頭のない、不効率で巨大な官僚組織にすぎませんから、責任逃れは体質であり、暴力には弱い、ということなのでしょうか。
 いまなお日本では、ボスニア紛争でのNATOの空爆を非難するむきもあるようですが、欧米ではリベラル派も空爆を支持し、明石氏を非難しています。

 ルワンダ虐殺における国連の責任について、当時のアメリカ国連代表部職員は、こう証言したそうです。
「まさに悲劇的な計算ですが、何人のルワンダ人が死のうが関係ないのです。ルワンダ人の命は、アメリカ人やベルギー人、あるいは日本人の命に見合う価値はないのです」

 もちろん、場合にもよるでしょう。しかし、虐殺をとめることができたにもかかわらず、軍事介入をしぶった場合、それは卑怯で傲慢な態度だと見なされるのだということを、私たちも知っておくべきではないでしょうか。
 話してわかるものならば、虐殺など起こりはしません。虐殺をとめうるのは、軍事力だけなのです。
 それにしましても、かつて大虐殺を引き起こした独裁政権のままの中国が、常任理事国であることを考えますと、国連というのは、つくづく異常な組織です。

ルワンダ大虐殺を描いた『哀歌』の題は、旧約聖書からとられました。
エルサレムの滅亡と捕囚という民族の悲劇を歌った哀歌です。

「街では老人も子供も地に倒れ伏し
おとめも若者も剣にかかって死にました。
あなたは、ついに怒り殺し、屠って容赦されませんでした」

「主よ、生死にかかわるこの争いをわたしに代わって争い
命を贖ってくださ。
主よ、わたしになされた不正を見、わたしの訴えを取り上げてください。
わたしに対する悪意を、謀のすべてを見てください」

「立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ。あなたの幼子らのために」
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『千々にくだけて』と『哀歌』

2005年06月14日 | 読書感想
『千々にくだけて』リービ英雄
『哀歌』曾野綾子

この2冊を、一気に読んでしまいました。
その感想が書きたくなって、ブログをはじめた次第です。
『千々にくだけて』は9.11、『哀歌』はルワンダ虐殺。
どちらも大量虐殺を素材にしているんですが、対照的な小説です。

リービ英雄は、非常に美しい日本語で、私小説を書く在日アメリカ人作家です。70年安保世代、いわゆる団塊の世代、でしょう。
一方、曾野綾子は、リービ英雄の母親に近いくらいのお年。保守的なカトリック信者で、構成が緻密な、つまり、感覚を重視する私小説とは対極にあるような、西洋的な小説を書いてきた女性です。

私はもともと、私小説を好みませんでした。湿気がありすぎる、とでもいうんでしょうか、じっとりと湿ったような感触が嫌いで、ほとんど読んでなかったのですが、リービ英雄はちがいました。日本語が本来の母語ではなかっただけに、距離感が作用しているのでしょうか。突き放したような、乾いた感覚で、しかし、しっかりと臨場感のある、美しい表現になっているんです。
wev上で偶然、彼の9.11関するアメリカの妹への書簡を見てから、『千々にくだけて』の発行を待ちかねていました。
現実にリービ英雄は、年に一度の恒例で、アメリカにいる母と妹に会うため、日本からカナダ経由でNYに飛ぼうとして、飛行機の中で、9.11の事件を知ったそうです。
9.11を「大量虐殺事件」と呼ぶことには、抵抗がある方もいるかもしれません。アメリカ合衆国は、その強大な国力ゆえに、日本では通常、「被害者の立場にある」という想念とは、結びつけて報道され辛いからです。
しかし、『千々にくだけて』によれば、日本からバンクーバーに向けて飛んでいた飛行機の機長は、直訳すれば「アメリカ合衆国は被害者となった。甚大なテロ攻撃の。したがって合衆国は、その国境を全部閉鎖しました」と放送したのだそうです。続いた日本人スチュワーデスのアナウンスにはもちろん、「被害者となった」という表現はありません。「アメリカ合衆国はテロリストの攻撃を受けました」と、「自分とは特に関係のない事柄だ、といった事務的な」声のアナウンスだったといいます。

9.11事件の最初の報道は、日本では夜中でした。
私がなにをしていたかというと、当時行きつけだったチャットをのぞいていました。しかしいつもの常連はいなくて、しばらく様子を見ていると、久しぶりに見る(おそらく1、2年ぶり)、ネット上の知り合いの男性が、顔を出しました。9.11のニュースを知って、だれかと話したくなったのだそうです。
私は、さっぱりニュースを見ていなかったので、知って驚かなかったわけではないのですが、まだ、なにが起こったのかよくはわからない段階でしたし、それこそ「自分とは特に関係のない事柄」というのが、第一印象でした。それより、その久しぶりのチャット相手が、いまなにをしているのかといった個人的な話題がはずんで、明け方近くまで語らっていました。
実感がわいたのは、寝て起きて、貿易センタービルがくずれ落ちる映像を、テレビで見てからです。それでも、「アメリカ合衆国は被害者になった」という実感は、わかなかったように記憶しています。

『千々にくだけて』という題は、芭蕉の句、「嶋々や千々にくだけて夏の海」からとったのだそうです。
リービ英雄、いえ、『千々にくだけて』の主人公エドワードは、カナダ西海岸の海岸線を機上から見下ろし、この句の英訳を思い浮かべていました。着陸後、余儀なく留まることとなったバンクーバーの宿で、テレビ画面の貿易センターの崩壊を見て、「ちぢにくだけて」という日本語と、「Broken into thousands of pieces」という翻訳が、彼の頭の中を走りまわります。

芭蕉の句! あの映像を見て芭蕉の句、というのは、ちょっとした驚きでした。
それはおそらく、アメリカ国籍を持ち、アメリカに親族がいる著者と、ごく普通の日本人である私との、9.11事件に対する距離感のちがい、なんでしょう。

ようやく電話連絡がとれたブルックリンの妹は、震える声で、そのときの様子を語ります。
マンハッタンの方向から、空を流れてくる灰の川。デッキにふりつもる灰に、焼けた紙切れがまじり、その紙切れの一つに「Miss Kato at Fuji Bank」の文字。富士銀行のミス・カトーは、どうなったのか‥‥‥。
印象的な描写です。

私が事件の重大さを実感したのは、妹の知り合いの肉親の女性が、出張で貿易センタービルを訪れていて行方不明だと聞き、同ビルで開業していた母の知り合いの医者が、当日、緊急の往診に呼ばれていたおかげで助かった、という話を聞いたあげく、だったでしょう。
「ミス・カトー」は、妹の知り合いの肉親の女性だったでしょう。
日本の地方都市の日常は、否応もなくアメリカ合衆国の貿易センタービルの日常とつながっていて、アラブのテロリストの日常と、つながってはいないのです。
ただそれは、たまたま出かけていた先の国で、地震や津波などの天災にまきこまれることもあると実感することと、あまりちがいはないような気がします。
少なくとも、エドワードがバンクーバーのテレビで見たイギリスやカナダの追悼式で、星条旗をかざし、あるいは「星条旗よ永遠なれ」を歌う人々のような、「私たちは悪意による攻撃の被害者の一員になった」という一体感とは、大きくずれているでしょう。
そういった日本人の距離感も、著者は、カナダに来ていて足止めされた日本人観光客を描くことで、見事に表現しています。

もっとも印象的な日本人の登場人物は、飛行機で、エドワードが隣あわせた老女でしょうか。「エドワードの母よりは若い」そうですが、おそらくは、曾野綾子と同年代でしょう。ブランドものの派手な花柄のドレスを着て、強い香水の匂いをまとった厚化粧の老女は、豪華客船によるアラスカ・クルーズに参加するため、バンクーバー行きの飛行機に乗っていたのですが、9.11を報じる機内放送で、はじめてエドワードは老女と会話をかわします。
アメリカ行きの飛行機は飛ばない、というアナウンスに、エドワードが「今日の夜は空港のベンチで寝ることになるかもしれない」と笑うと、老女は、「戦争が終わったときのことを、あなたは知らないでしょう」と応じます。
この言葉に、エドワードは不意をつかれます。
「戦争が終わったとき、わたし、三日間も駅のホームで寝たことがある。いざとなったときは大丈夫ですよ」
続いた老女の言葉に、エドワードは、「焼け跡の中で家へ帰ろうとしているもんぺ姿の女学生」を思い浮かべるのです。
これは現実にあったことだと、著者が週刊文春のインタビューで答えていましたが、実際、この老女の描写には、肉親や知り合いのこの年代の日本女性のだれであってもおかしくないような、リアリティがありました。
米軍の爆撃で学徒動員先の工場を焼かれ、機銃掃射に追われたもんぺ姿の女学生は、家も焼かれていて、両親の疎開先へ向かおうとする途中、列車が動かなくなり、駅のホームで寝たのでしょうか。
それは、当時の女学生のだれにでも起こったことなのですが、その女学生たちは戦後教育を受け、教師になったか、サラリーマンの妻になったか、商店や中小企業のおかみさんになったか、ともかく、日本の高度成長をささえて乗り越え、子供たちを育てあげ、豊かな蓄えを持って、少女時代にかなわなかった夢のかけらでも満たそうと、世界中へ出かけています。
そして、彼女たちの多くは、美しい外国の風景や珍しい風俗、あるいは昔読んだ小説や映画の舞台、本場のオペラやバレーなどに満足の吐息をもらし、帰国して言うのです。「すばらしかった。だけど日本が一番いい。日本に生まれてよかった」と。
彼女たちは、同年代の曾野綾子が、『哀歌』において、主人公であるルワンダの日本人修道女を、「日の丸とパスポート」に命を守られている、と描写したように、菊の紋章のパスポートに守られていることを、強く意識しています。国民を守るに足る国力を、焼け跡の中から再び築き上げたのは自分たちだ、という自負とともに。
老女がエドワードに、自分の息子を重ねていたのは確かでしょう。
「大丈夫ですよ」に続く言葉は、老女にとっては、自明のものだったはずです。
「あなたは、星条旗とアメリカのパスポートに守られているから」
エドワードがテレビで、アメリカの追悼式に出席した歴代大統領を見て、「かれらのために、だれが死ぬものか」と思うとき、私の頭に真っ先に浮かんできたのは、日本人の老女の姿です。彼女が、そんなエドワードをもし見たならば、苦笑とともにもらす言葉は、やはり、「でもあなたは、星条旗に守られている」でしょう。

著者は、そこまで計算して、日本人の老女を登場させたのでしょうか。だとするならば、舌を巻くうまさです。
登場人物それぞれの事件への距離感の的確な描写は、著者が、日本語で小説を書く在日アメリカ人でなければ、なしえなかったことでしょう。
老女に近い場所に身を置きながら、私小説という、近代日本が生んだ独特のジャンルが、これほどまでに実り豊かなものであったと気づかせてくれた著者の技に、感嘆を禁じえません。

リービ英雄と曾野綾子の対談を読んでみたい、と、いま、思っているのですが、曾野綾子の作品は、これまでに、『不在の部屋』しか読んでいませんでした。

『不在の部屋』は、おそらく著者の曾野綾子よりも10歳くらい若い、つまり、太平洋戦争の最中あたりに生まれた小川多枝子を主人公として、第二ヴァチカン公会議の結果にゆれる、日本のある地方都市の修道女の世界を描いたもので、書かれたのは1970年代です。
オードリー・ヘプバーン主演の『尼僧物語』という古い映画をご存じでしょうか。私もテレビで放映されて見ただけなのですが、その前に、アメリカのベストセラー小説である原作の翻訳を読んでいました。
舞台は戦前のベルギーです。主人公のガブリエラは、医学者の父を持ち、母を早くに亡くして、修道女の道を歩みます。信仰心と修道生活の不合理との狭間で葛藤しつつ、熱帯医学を学び、植民地コンゴの伝道に生き甲斐を見出しますが、修道院は彼女を、内地へ呼び返します。やがて第二次世界大戦が始まり、ベルギーはドイツに占領されて、修道院も戦争と無縁ではいられなくなります。ガブリエラは「敵を愛せよ」という神の教えに、どうしても従えない自分を発見し、ついに還俗することを決意します。神への絶対の服従を誓った修道女にとって、愛国心は私情であり、その私情に溺れることは許されないのです。
曽野綾子は当然、『尼僧物語』を読んでいたでしょう。
『不在の部屋』の主人公、多枝子は、1950年代に、聖心女子大を思わせる地方都市のカトリック系女子大で英文学を学び、修道女になる道を選びます。修道生活の不合理に驚きつつ、勝ち気な多枝子は、それを、打ち勝たなければならない試練と受け止め、修道院での地位を築きつつありました。
『不在の部屋』の最後に出てくる言葉ですが、修道院はなにも「特別」な場所ではなかったのです。個人の能力や実家の勢力による待遇の差もあれば、ねたみや偏見もありうる、社会の縮図でさえあったのですが、しかし、それでもやはり「特別」な場でありえたのは、神への絶対の服従を表明するために、修道女たちが耐え忍んでいた不合理でした。
 1962年にはじまった第二ヴァチカン公会議は、修道会が中世から引きずっていた修道女間の身分差を無くし、修道女たちの生活をおおっていた不合理、つまり、新聞やテレビ、ラジオのニュースとも無縁で、個室もない集団生活、蒸し暑い日本の夏でも入浴は週二回、食べるにも着るにも個人の好みはすべて排除される、そんな服従の不合理を、解消する方向へと進みました。
 それは当初、いいことずくめであるように見えたのです。たしかに、不合理な不自由はなくして、人並みな生活をしつつ世間にまじわる方が、より世の中の役に立つことができて、神の御心にもかなう、という理屈は、成り立ちそうに思えます。
 しかし、抑圧からの解放は、かえって修道女たちに、修道生活の意味を見失わせてしまいます。『不在の部屋』の「不在」は、神の不在を示しているのです。
 『不在の部屋』が、修道院という特殊な世界を舞台にしながら、確かなリアリティを持って迫るのは、曾野綾子の描くそれが、戦後の日本そのものの縮図であるから、でしょう。
 50年代の地方都市で、カトリック系の女子校は、戦前の公立女学校にとってかわってお嬢さま学校となり、戦後教育を受ける少女たちは、西洋文化の具象を、西洋人の修道女に見て、憧れます。やがて高度成長の中、洋式化は進み、生ハムや手作りのチョコレートといった贅沢品が地方でも手に入るようになり、海外旅行も普通のこととなる一方、「平等」のはきちがいが始まり、義務は忘れ去られ、権利の要求のみが声高に叫ばれるようになります。
 1970年代、修道女たちが神を見失ったように、一般の日本人もまた、合理性と快適のみを追い求めるあまりに、なにかを見失いつつあったのです。

最初、私は『哀歌』を、『不在の部屋』の続編として読もうとしたのですが、70年代から90年代へ、その落差を克明に描くことを、著者はしていませんでした。
『哀歌』の前半、ルワンダにおける主人公・春菜の修道生活と、ルワンダの社会、虐殺の過程は、具象性をもって緻密に描かれるのですが、一般の日本人にとっては非日常にすぎるその世界と、帰国した春菜が住む90年代の日本は、大きく断絶していて、ルワンダでの強姦の結果を引き受けて還俗した春菜の暮らしは、むしろ修道女であったとき以上に、日本の現実からは離れて、神に献身する世捨て人のように受け取れるのです。
日本の今を描くことにかけては、『哀歌』は『千々にくだけて』に劣っているでしょう。これは、二人の著者の年代の差なのでしょうか。
曾野綾子の最近の発言を見ていると、現在の日本を小説として構築することに、関心をなくしているのではないか、という気もします。
したがって、作品の完成度からすれば、『哀歌』は『不在の部屋』に劣るのです。ただ、「これだけは言っておきたい」という、荒削りな迫力のようなもの、ちょうど、『千々にくだけて』でエドワードが隣席の老女の言葉に「思わぬ力がこめられていた」と感じたと同じような感慨が、強く残りました。
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