郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

土方歳三と伝習隊

2005年11月30日 | 土方歳三
野口武彦著『新撰組の遠景』(集英社発行)

野口武彦氏の著書を、次々に読んでいるところです。
昨年でしたか、NHKの大河で新撰組をやったせいか、新撰組関係の著書が多数出ていたようです。この本もその関係で出版社が企画したらしく、野口武彦氏の幕末ものでは、最新の単行本です。
新撰組関係の著書は、以前に読みすぎて食傷気味だったのですが、さすがに目配りが聞いて、おもしろく読めました。

新撰組といえば、やはり土方歳三です。なぜ土方かといえば、やはりあの写真でしょうね。それともちろん、司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』。
あの写真については、草野紳一氏が、ほとんどそれだけを素材にして、『歳三の写真』という著作を残しておられるほどです。以下は、その著作をご自分で解説なさって、述べられた言葉です。

私は、男の顔っぷりには興味がある。しかし男の容貌そのものには気をほとんどひかれるということはないのだが、写真ながら、私は土方歳三に惚れてしまっていた。
彼の風貌に、私は「近代性」の匂いとやらを感じとったのかもしれぬ。薩長系には、むしむしたハイカラは多いが、旧幕系の人間には、近代性がある。
近代性を感覚的に身につけながらも、彼等が滅びいく幕府についたところに、日本の近代の運命がある。そのことは、もともと武士ではなかった新撰組の土方歳三にも言えるだろう。

いえね、函館戦争に参加した旧幕軍には、榎本武揚をはじめ海外留学組もかなりいますし、洋装の写真は多く残っているのですが、土方の写真がいちばん、しっくりと洋服を着こなしているように見えるんですよね。たしかに、容貌がいいから、なんでしょうけれども、それだけではないような、草野氏ならずとも、「近代性」といってしまいたくなるような、そんな感じがありませんか?
野口武彦氏は土方を、いわばすぐれた現場指揮官、と位置づけ、鳥羽伏見という短期間の敗戦経験で近代戦の指揮を身につけたのは、天性のものとしかいいようがない、としているのですが、実際、その通りですね。
近代軍隊の機能性は、近代性をもっとも濃縮した形で表象していますし、その軍隊の指揮官は、もっともスタイリッシュに機能性をまとうべき存在です。着こなしもまた、天性のものなのでしょう。

ちょっと残念だったのは、野口氏が、あまり土方と伝習隊の関係に踏み込んでおられなかったことです。土方が鳥羽伏見以降、剣を捨てたことは強調しておられますが、新撰組とは不可分であったように書かれています。たしかに、土方は新撰組を捨てたわけではないのですが、片方で、伝習隊との関係を育んでいたわけです。ろくに資料がないことなので、野口氏が触れておられないのは、もっともではあるのですけれども。

一つだけ、傍証があります。
釣洋一著『新撰組再掘記』に載っているのですが、岡崎市の法蔵寺に、近藤勇の首塚だとされる石碑があります。

http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/okazaki.htm

釣氏によれば、この石碑の土台には、土方歳三以下10名の名前が刻まれ、その10名、当初は新撰組隊士の偽名であろう、といわれていたそうなのですが、うち数名は、鳥羽伏見以来、土方歳三と行動を共にした伝習隊員の本名であったことが、わかったということなのです。しかも、建立年は慶応三年と刻まれてていて、近藤勇の死より前のことです。
結局、真相はわからないのですが、釣氏は小論の最後を、「この墓は伝習隊の墓ではないかという疑念を抱き始めているのだが」と結んでおられます。

流山で近藤勇が囚われた後、土方は単身で江戸へ帰って近藤の救援を試み、大鳥圭介率いる脱走伝習歩兵隊に合流します。新撰組の大多数は、先に、会津へ向かわせているのです。それまでに、土方が伝習隊となんらかの関係を持っていなかったとするならば、これは、あまりに唐突ではないでしょうか。
鳥羽伏見の戦いにおける伝習歩兵隊の動向については、ほとんど資料が残されていないらしいのですが、少なくとも一隊が、伏見から千両松の戦いにおいて、土方率いる新撰組や会津軍と、行動をともにしていたことは確かです。
伝習の期間も短く、実戦経験のない幕府の若手士官たちが、突然、戦場に立たされたとき、修羅場に慣れ、天性の指揮の才能を備えた新撰組副長を、頼りにしたと推測するのは、自然なことではないでしょうか。
おそらく、岡崎法蔵寺の石碑は、伏見で戦死した伝習隊の隊長のものであり、隊長の戦死後、伝習隊は土方の指揮下に入って生死をともにしたのでしょう。
だとするならば、江戸へ帰った後も伝習隊士官たちと土方の間には、連絡があったわけですし、土方の突然の洋装も頷けるのです。

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上野モンマルトル

2005年11月29日 | モンブラン伯爵
野口武彦著『幕末気分』講談社文庫

今回の幕末物語の着想には、ずいぶん、野口武彦氏の著作のお世話になっています。
野口武彦氏といえば国文学者で、最初に知ったのは、三島由紀夫の評論家としてです。その後、幕末にはまって墓参りに精を出していたころ、『王道と革命の間~日本思想と孟子問題~』と『江戸の兵学思想』で、吉田松陰を取り上げていることを知り、読んでみました。これらの著書の切り口が、実にぴったりと、私が幕末によせて抱いていた問題意識に答えてくれるものだった、というんでしょうか、つぼにはまったんです。
ただ、ここらへんの著書は学問的で、とっつきが悪く、幕末好きの知り合いに勧めても読んではもらえなかったんですが、最近、週刊新潮で、幕末エッセイの連載がはじまりまして、これは実に読みやすく、おもしろく書かれていたので、ちょっと驚きました。
ちょうど、幕末物語が書けそう、と思いついていたときでしたし、アマゾンで野口氏の著書を検索してみましたら、知らない間に、ずいぶんと幕末関係の著書を出されていました。とりあえず、と買ったのが、『幕末気分』です。
これはまた、はまりました。特に、「上野モンマルトル1868 世界史から見た彰義隊」には、脱帽です。
上野彰義隊の戦いと、その二年後に起こったパリ・コミューンを、同時代の事件として活写なさっているんですね。野口氏は、最初にそれをなさっていますが、パリ・コミューンの革命幻想をとっぱらってみたら、実際、上野とモンマルトルはよく似ているんですね。
帝政末期のパリと幕末お江戸の共通項。
これに、最初に私が思いをはせたのは、前田愛著『成島柳北』を読んだときでした。成島柳北は育ちのいい幕臣ですが、幕末には、フランス顧問団の軍事伝習を受け、維新早々、フランスへ渡っているんです。これが、明治新政府の遣欧使節団と同時期でして、このときの政府側との視点のちがいには、目を見張るものがあります。
ここらあたりは、山田風太郎氏が、非常に巧みにすくって小説になさったりしています。
前回、私が幕末物語を書けなくなった理由の一つには、こうして、維新の群像を重層的に扱いつつ、なおかつ物語としておもしろく書くだけの才能がない、と覚ってしまったこともあります。
しかしまあ、なんとかなるでしょう。いえ、小説家をやっているわけではないんですから、書いている本人が楽しければ、それでいいことですわね。

で、書くための調べものは各方面にわたっています。
モンブラン伯は、幕末に五代友厚と商社契約を結ぶんですが、これは薩摩藩が破棄した、とされています。
結果的に、もちろんそうなんですが、そこらあたりの事情は、いま一つはっきりしていません。事業契約の内容に、「電信」とあったので、ひょっとすると、とぐぐってみました。ありました。

http://www.kenkenfukuyo.org/reki/ormoru/tsuushin1/tsuushin214.html

 さて、いよいよ明治元年になった。
 先に廣瀬自愨が電信架渉の許可を願い出た――と記したが、それはこの年の十月のことであった。
 また十一月にはフランス人のモンブランが「大阪~神戸間」の電信施設の許可願いを、大阪府に出している。
 さらに三菱財閥の創始者岩崎彌太郎も電信事業に大いなる野心を持っていたようで、この少し後で政府に希望を出したと言われている。
 ここにいたって明治政府としては、電信事業を民間にやらせるか、あるいは国として建設・運営するか、の岐路に立つことになる。

なるほど、と思えます。おそらく、この許可願いには、五代友厚が噛んでいるのでしょう。それをはばんだのは、五代と並ぶ薩摩の開明派だった寺島宗則(松木弘安)。
いえね、上海から長崎、そしてウラジオストックへの国際海底電信線開設も、明治維新から間もない時期なんですが、この事業は、デンマークの国策会社がやっているんですね。極東各国の折衝に活躍したのは、幕末、フランス海軍の士官として来日していたデンマーク人、エドアルド・スエンソンなんです。

エドアルド・スエンソン著『江戸幕末滞在記』講談社学術文庫

いや、いろいろと発見があって、興味はつきません。
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志士たちへ花束

2005年11月28日 | 桐野利秋
昨日の続きです。
お墓参りといえば、桐野利秋のお墓には、もちろんお参りしました。鹿児島の南洲墓地です。
ここは、話に聞いていた通り、すばらしいところでした。小高い丘で、錦江湾と噴煙をあげる桜島が見渡せるのです。

 我が胸の燃ゆる想いに比ぶれば煙は薄し桜島山

と、思わず平野国臣になりました。いえ、晴れ晴れとしていて、それでいて情趣があって、かかえていった百合の花束が、ぴったりと似合いました。入り口近くに、ちゃんと花屋さんもあるんです。
それに、さすがに桐野です。熱心なファンがいるようで、それもおそらく女性なんでしょう、私の前にすでに、きれいな蘭の花束が手向けられていました。さすがは、「香水紳士」といわれたお方ですね。
事前に、「南洲墓地は明るくて美しい」と、幕末維新好きの知り合いの方から聞いていたのですが、その方がおっしゃるには、「熊本の神風連の墓地は暗くて幽鬼がただよっているみたい」というお話でした。

それにしても、史跡として知られているような墓地はいいのですが、幕末維新好きは、あまり知られていない人物の墓をさがして、うろうろしてしまったり、するものです。
かくいう私も、桐野と仲がよかったという人物の墓を求めて、京都の相国寺や東福寺をうろうろしました。相国寺の方のお墓は見つかりましたが、東福寺の方は、結局、わからず、だったと記憶しています。
知り合いにつき合っての墓さがし、というのもやりました。よく覚えてないのですが、たしか、松陰の肖像画を描いた松浦亀太郎のお墓だったと思うんです。この人、性急にも文久2年に京都で切腹して果てていまして、京都にお墓があるのですが、いやはや、さがしまわりました。ついにさがしあてたときの喜びだけは、いまだに、よく覚えているんです。
しかし、ここまではまだ、京都の町中でしたからよかったんです。池田屋事件で切腹したといわれる海援隊の望月亀弥太。彼の高知のお墓をさがしたときは、山の中で迷うかと思いました。高知市内ではあったんですが、野草の生い茂った山中です。
ようやっと見つけて、それから先がまた、なにしろ草に埋もれていますので、知り合いはまず草刈りから始めまして、私はもう疲れ果て、ぼうっとそれを見ていたように覚えています。

しかし、松浦亀太郎も望月亀弥太も20代ですし、戊辰戦争で死んだ桐野の仲良しさんたちも、大方20代、少し年をくっていても30代の前半です。いえ、それどころか、戊辰戦争や西南戦争では、10代の戦死者も多いですしね。みんな死に急いだ時代だったんだなあ、と。

墓参り好きの癖を発揮して、インゲルムンステル城のモンブラン伯のお墓にも、ぜひ参ってみたいものですね。お城の礼拝堂ですから、捧げる花束はやはり薔薇でしょうか。
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桐野利秋とアラビア馬

2005年11月27日 | 桐野利秋
私の幕末好きは、桐野利秋と土方歳三にはじまりました。やはり、男は容姿です。
土方歳三には昔からファンが多く、詳細に調べつくされていますので、他人様が調べたものを読ませていただいただけなのですが、桐野利秋については、当時はろくにまとまった研究書がなかったものですから、今回のモンブラン伯以上に、熱心に調べてまわりました。
そのころ仲間が欲しくて、まだネットはなかったものですから、歴史雑誌などで、素人の幕末愛好会をさがしたんですが、なぜかこれが、新撰組と龍馬と長州しかないんですね。なぜに薩摩はないのか、と思いつつ、龍馬会じゃ仕方がないですし、新撰組は熱狂的すぎて怖いですし、こつこつ調べもの好きがいるのは長州系だけなので、長州好き幕末ファンの知り合いが、けっこうできました。
今はどうなのか知りませんが、新撰組好きと長州好きには女性が多く、なぜか女性ファンはお墓参りが好きです。お墓参りだけならばまだわかるのですが、なぜか彼女たちは、寄せ書きノートを作るのが好きだったんです。お墓にそのままノートを置いておくと、雨に濡れるので、クッキーの空き缶や大きめのタッパーなどに入れて置くわけなんです。
知り合いから聞いた話なんですが、土方歳三のお墓の前なぞ、そのノート置き場ぶんどり合戦で、火花が散る状態だったのだとか。

えーと、話がそれてしまいました。桐野利秋とアラビア馬です。
大正十年発行、有馬藤太の『維新史の片鱗』、流山で新撰組の近藤勇捕縛した経緯が書かれていることで有名な本なのですが、この後書きに、「立派な功績が他の人の事績になっていたり」する例として、以下の一行があるんです。

「桐野とアラビア馬」が「大西郷の妾」と化し(大正八年十一月発行ポケット)


アラビア馬って、おそらく、ナポレオン三世が将軍に贈ったアラビア馬です。幕末も押し詰まったころ、蚕種のお返しとして、馬匹改良のアラブ26頭がフランスから来たのですが、なにしろ格好の良いアラブですから、幕臣が乗馬用にしちゃったりしまして、そこへ維新の騒動で、その多くが行方不明になったんですね。
で、もしかすると桐野は、ナポレオン三世のアラビア馬にかかわっていたのか、と思うのですが、「桐野利秋とアラビア馬」という記事、それに関した古書をご存じでしたら、どうぞ、ご教授のほどを。

今回の幕末物語に桐野が関係するのか、といえば、桐野利秋と土方歳三は、もちろん登場します。登場させなければ、書く楽しみがなくなるではありませんか。
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幕末版『明日は舞踏会』

2005年11月26日 | モンブラン伯爵
鹿島茂『明日は舞踏会』中公文庫
鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会』河出書房新社

先日、以前に、一度、幕末を舞台にした物語を書きかかったことがある、と述べましたけれども、その時は、モンブラン伯は関係ありませんでした。ただ、函館戦争に参加したフランス人たちは出す予定で、当時も、いろいろ調べていたんです。
荒唐無稽な一大ロマンになるはずだったんですが、しかし、どうにもお話の焦点が定まらず、ほんの一部分を書いただけで、やめてしまいました。
今回の思いつきというのは、実は嶽本野ばら氏の『下妻物語』が気に入ってしまったことからきていまして、私にギャグの才能はありませんから、あんな感じは無理なんですが、「女の子の一人称、ですます調で幕末維新をやってみたらどうだろう」となったんです。
そんなときちょうど、鹿島茂氏の『明日は舞踏会』を読みまして、「女の子が語るなら、やはり舞踏会がなくっちゃ」というわけで、幕末から鹿鳴館までの物語、となったんです。
昨日は、さんざん『妖人白山伯』に文句をつけてしまいましたが、『明日は舞踏会』は名著です。
小説ではありません。19世紀前半のパリで、上流乙女の夢と現実はどうだったのか、フローベルやバルザックなどの小説を素材に、実録風に語ったエッセイです。
ついでに、構想を練って、手持ちの参考になりそうな本を読み返していたら、なんと、1867年、フランス第二帝政最後の万国博覧会を、詳細に解説してくれている『絶景、パリ万国博覧会』も、鹿島茂氏の著書ではないですか! いやはや、買って10年以上になるのに、著者名をろくに見ていなかったんです。
この方、フィクションはちょっとあれですが、エッセイや実録ものは、実にいいんですよねえ。
しかし、なんといいますか……、最初の思いつきは、ひらすら乙女チックだったんですが、資料を読み返しているうちに、やはり、だんだん政治に傾いていきまして、まあなんとか、そこらは背景に留めるよう工夫しないことには、また挫折しそうですね。

とはいえ、構想し、資料読むのが楽しいわけでして、またも昨日、注文していた本が届いていたので、ざっと目を通しました。

アルフレッド・ルサン著『フランス士官の下関海戦記』(新人物往来社発行)

シャルル・ド・モンブラン伯と同じくらいの時期に来日していた、フランス海軍士官の日本見聞録です。いえ、来日期間は同じくらいなのに、ここまでちがうものかと、あらためてモンブラン伯の観察眼の深さに感心しました。例をあげてみましょう。

アルフッレッド・ルサン
「日本社会は、数世紀前から停滞し、封建的で軍国的な性格が手付かずのまま残されていたのだった。また、私たちは、この社会の成員一人一人が、階層の中にとどまり、そこでは、誰の子として生まれたかという偶然によって地位が決定され、父の跡を継いで祖先が生きてきたと同じように生きることが定められていることを示してきた」
モンブラン伯爵
「習慣以外のこの社会のそれぞれの機構を調べると、日本を他のアジアの国民と同一視できるような全く東洋的な停滞性があると結論づけることも出来るかもしれぬが、それは全く違っている。それどころかこの社会には活力がみなぎっており、階級は区別されてはいるが、カースト制度を作っているのではない。貴族が多くの場所を占めていることは事実であれ、そのために社会生活が息の詰まるものでないことも事実である。それは日本で、どんな人間に対しても表される深い尊敬心と、牢獄というよりは指導上の枠組みである日本社会の階層形態の中で出会う個人の自由のおかげである。貴族は排他的ではなく、高貴の生まれに限られたものでもないので、各人は大君の行政階層の中でも、あるいは封建大領主の行政階層の中でも、自分の功績によって自らを高めて、これを主張する権利を有しているのである」

ルサン氏は艦隊勤務という仕事で来日し、つき合いが外国人社会に限られていたのに比べて、モンブラン伯は自由な立場で、日本人と個人的にかなり深くつきあったようですので、そこらあたりのちがいが大きいのでしょうけれども、思想見識の相違もありそうですね。
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モンブラン伯王政復古黒幕説

2005年11月25日 | モンブラン伯爵
鹿島茂著『妖人白山伯』2002年・講談社発行

先日、この小説がモンブラン伯を男色家に設定していて、先を越された! とショックだったことを書きました。
もう一つ、先を越された! という点があります。つまりそれが、昨日書いたことなんです。
古代ローマ皇帝を名目に、ナポレオンが帝国を立ち上げたことと、明治維新における王政復古の共通点ですね。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』(中公新書)という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
この「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
まあ、物語の余談としてそういう話題もありかなあ、と暖めていたところが、です。なんと鹿島茂氏は、王政復古のクーデターそのものの筋書きが、モンブラン伯によって書かれた、という、すばらしく強引な設定で、パロディにしてくださっていたのですね。

まず王政復古の日にちなんですが、最初に大久保利通が設定したのは12月の2日だと、鹿島氏はおっしゃいます。いや、そうだったかなあ、と関係書を見返してみたのですが、2日という日は出てこなくて、しかしまあ、クーデターの日取りは揺れ動きましたので、大久保利通の心づもりは2日だった、ということはあったのかもしれません。
で、鹿島氏は、「12月2日というのは、ナポレオン三世が皇帝となるためのクーデターを起こした日で、大ナポレオンが戴冠した日でもある」とおっしゃるのです。
ま、強引に過ぎる趣もありますが、そこらあたりはまだいいとして、王政復古はなにからなにまでモンブラン伯の企画で、実は大久保利通でさえも、伯に操られていた、とまで言い募られますと、いや、なんといいますか……、パロディというものは、「そういう可能性だってありよね」と、くすりと笑えてこそおもしろいのであって、あんまりにも大真面目に荒唐無稽をやられますと、退屈になってしまうもののようです。

ウェッブ上で、ちらっと見かけたんですが、鹿島氏は「全部フィクションだが史実との継ぎ目は見えないようにしてあるので、知らないものが見れば史実と思うだろう」というようなことを、豪語されているようでして、確かに、どこまでが資料に基づいた記述か、わかり辛いんですね。維新資料は膨大ですし、フランス語の資料となれば、訳出されてないものを、私は見ていないわけですし。

ああ、さらに、です。もう一つ、鹿島氏は、私の思いつきを、先取りなさってました。同じ思いつき、とまではいかないいですが、井上武子伯爵夫人を登場させよう、とは、私ももくろんでいたのですね。鹿島氏のように、直接モンブラン伯にからめるつもりは、ないんですけど。
彼女の場合、明治の元勲の夫人ですから、一応、素性とか生年とかははっきりしているのですが、鹿島氏は、それをまったく無視しちゃってますから、相当な部分、資料を無視なさっているのかなあ、と、思ってもみたり。
井上武子伯爵夫人って、鹿鳴館の華、長州の井上聞多の奥方です。『世外井上公伝』という大層な分量の、とても高価な伝記がありまして、これには、武子夫人のことも少しは出ているはずなんですが、実は私も、これは見ていません。『井上伯伝』という伝記もありまして、これは復刻版を持っているのですが、維新までの伝記なので、武子夫人のことはまったく出てないんですね。近くの図書館に『世外井上公伝』はないですし。ふう。

そういえば昔、高杉晋作と井上聞多に萌えておられた女性がいたなあ、どうしているかな、と、ついよけいなことを思い出したり。いや、聞多の仲良しさんなら伊藤博文だろうと言いたくなったりしたものですが、いえ、たしかに……、伊藤公爵では萌えようがないですね。

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モンブラン伯の日本観

2005年11月24日 | モンブラン伯爵
『モンブランの日本見聞録』S62新人物往来社発行

幕末維新に日本を訪れ、見聞録を残した欧米人はけっこういますし、日本語訳も多数出版されています。そのすべてに目を通したわけではないのですが、日本および日本人に好意的なものでも、最終的に、「われわれとはちがう世界に属する野蛮人」という感触を持っている様子がうかがえたりするものです。
そういった日本観は、結局のところ、日本の社会基盤にキリスト教がない、というところからきているのですが、わかりやすい例をあげるならば、ハインリッヒ・シュリーマンです。以下、講談社学術文庫『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子訳)から引用してみます。

もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。だがもし文明という言葉が次のことを意味するならば、すなわち心の最も高邁な憧憬と知性の最も高貴な理解力をかきたてるために、また迷信を打破し、寛容の精神を植えつけるために、宗教……キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なことを広め、定着させることを意味するならば、確かに、日本国民は少しも文明化されていないと言わざるをえない。

これと同じようなことは、イギリスの外交官だったオールコックも言っていますし、また、旧教のイタリア人でさえ、似たようなことを言っている例があります。
同じ世界の人間と認められなければ、まともな外交はできませんから、明治になってから、一部の政治家、識者が、「キリスト教を国教にしよう」などと、馬鹿なことを言い出したというのも、わからないではありません。

シャルル・ド・モンブラン伯爵の見聞録には、それがまったくない点が印象的です。
残念ながら、全編の訳出ではない上に、幕末での著作のようで、政治状況には読み違いもあるのですが、日本社会への観察眼は卓越しています。「個人の自由の希求」という近代の精神が、日本の社会にはある、としているんですね。
こういった近代精神は、キリスト教と不可分だとする考え方が、当時の西洋知識人の間では主流だったようですし、その状況からすると、モンブラン伯の価値観こそが、柔軟で自由なものだったと感じるのです。

このブログ、創作メモになろうとしていますが、この本の訳者後書きでは、「1861年から翌年にかけて日本に滞在し」となっていて、鹿島茂氏が『妖人白山伯』で、「1861年には相続のためベルギーへ帰っている」と書いているのと、まったくちがうのですが、うーん。
ここは鹿島氏の方が正しそうな気がしないでもないのは、訳者後書きでは、死亡年が1898となっていて、これは高橋邦太郎氏によれば1891年なんですよね。高橋氏は、モンブラン伯家の後継者にインゲルムンステル城の礼拝堂墓地まで案内してもらっているそうなので、正しい死亡年だと思われる次第なんです。
ああ、パリとインゲルムンステル城に取材に行きたい! 言葉ですか? 通訳を雇えばいいことです。
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アラゴルンは明治大帝か

2005年11月23日 | モンブラン伯爵
毎日書くようになったのは、少しでも多くの方が見てくだされば、情報が入る可能性も皆無ではなくなる、という下心のようです。

ということで、今日は昨日の続きから。
あらましわかったようなことを書きましたが、実のところ、下の英語のサイト、モンブラン伯家に関する情報はわずかなんです。

http://users.pandora.be/enchantingcastles/ingelmunster.html

In the middle of the 19th century, Charles Alb駻ic Descantons - count of Montblanc and Baron of Ingelmunster inherited the castle. The German part of the Plotho dynasty protested but Charles-Joseph and his brother Ferdinand, the 9th generation of Plotho's who owned the castle stayed without an heir and they decided to leave the castle to a Frenchman.

上を、なんとか訳してみたのが下なんですけど、訳が正しいかどうかは自信がありません。

19世紀の半ば、Charles Alb駻ic Descantons - モンブラン伯爵にしてインゲルムンステル男爵が、インゲルムンステル城を相続した。Plotho家のドイツの分家が抗議したが、しかし、城の所有者であったPlotho家9世代目、Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinandには、男系の相続人がなかったので、彼らはフランス人に城を任せることにした。

最初に出てくる人名、「Charles Alb駻ic Descantons」、シャルルの後のAlb駻icが文字化けしています。読めないんですけど、人名なのは確かでしょう。わからないのはDescantonsなんですが、Descantonsでぐぐってみると、「Descantons de Montblanc」という名が上位をしめるので、これはモンブラン家に固有の名ででもあるんでしょうか。
「Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinand」はPlotho家の方の人名らしいので、カール-ヨーゼフ(フランス語読みジョゼフ)と彼の兄弟フェルディナント、とドイツ語読みした方がいいものなんでしょうか。
後は憶測しかないのですが、19世紀半ばという年代からいって、「Charles Alb駻ic Descantons」は、来日したシャルル・フェルデナン・ド・モンブラン伯の父親でしょう。「Charles Alb駻ic Descantons」の母親、つまりモンブラン伯の祖母が、「Charles-Josephと彼の兄弟Ferdinand」の姉妹なんじゃないんでしょうか。
年代については、少々疑問がないでもありません。下のサイトはオランダ語らしいとわかったのですが、モンブラン伯家が、Plotho家からインゲルムンステル城を相続した年代については、1825と明記してあるんです。

ttp://xxr.xs4all.nl/kasteelbier/kasteelvaningelmunster.htm

- de familie Plotho; 1583 - 1825
- de familie de Montblanc; 1825 - 1986

モンブラン伯の生誕は1833年ですので、まあ父親が相続したとして、年代の矛盾はないんですけど。
下のページもオランダ語らしいとわかり、機械翻訳にかけてみましたところ、どうも、インゲルムンステル城に関する図書館じゃないのかと。しかし、なんでオランダ語なんでしょう。インゲルムンステル城のある西フランドル地方は、フランス語圏と聞いたような気がするんですが。城を買ったビール会社が、オランダ語圏の会社ででもあるのでしょうか。

http://home.scarlet.be/~priemjur/

こうなったら、オランダ語翻訳会社にでも頼んで、ここへ連絡をとってみるしかないですかしら。


で、本日のお題は、このややっこしい欧州言語事情と無縁ではないのですが、映画「ロード・オブ・ザ・リング」のパロディを書いていて、「アラゴルンは明治大帝ではないのか」とふと思ったんですね。
昔、乙女の頃、「指輪物語」を読んだときから、アラゴルンが当然のようにゴンドールの王に返り咲くのは、納得がいかなかったんです。ゴンドール王家が途絶えて1000年後に、2000年前に別れた王家の血筋から跡継ぎがやってきたからといって、1000年間ゴンドールを治めてきた執政家の権威がゆるぐものでしょうか?
インゲルムンステル城だとて、遠い男系が抗議はしても、相続権はないんですよね。
まあ、そこは物語、といってしまえばお終いなんですが、「西洋的な発想じゃないよなあ」という印象は、ずっともっていたんです。
欧州との事情のちがいは置いておいて、考えてみれば、1000年、2000年の時を越えて現代に蘇った帝王といえば、世界で明治大帝しかおられません。
執政、つまり武家に政権がうつってから考えるなら、維新はそのほぼ700年後ですし、王政復古は「神武のころに帰る」と宣言したわけですから、伝説によればたしか、2000年以上前に帰る、という宣言になるんですよね。もちろん、実質は近代国家の創設だったんですか、天皇家が長く血脈を伝えて神話を担っていたことも、また事実です。
トールキン教授は1892年の生まれ。子供のころに日露戦争があって、イギリスは日本の同盟国だったわけですし、維新に関する英語の著作もいろいろとあったわけですから、十分、創作のヒントになりえたと思うのです。

従来、アラゴルンのモデルとしてあげられてきたのは、フランス語読みのシャルルマーニュ大帝、ドイツ語でいうカール大帝です。
いうまでもなくフランク王国、カロリング朝の王で、滅びた西ローマ帝国を復活させた形をとり、皇帝として戴冠しましたので、神聖ローマ帝国の始祖とも見なされるようになります。
しかし、このカロリング朝というのは、メロビング朝の宰相が、王国を乗っ取って成立しているんですね。メロビング朝の王は、祭祀王の趣が強く、もしも宰相が宰相のまま、王を祭り上げて実権を握っていたら、日本の天皇制に近かったのでは、と思ったりします。

ところで、神聖ローマ帝国です。
日本の天皇制が西洋で理解されないのと同じくらい、日本人には理解し難いものですが、ごく簡単に言ってしまえば、「中世ドイツ王国を基礎にして10世紀から19世紀初頭までつづいた帝国。盛期にはドイツ・イタリア・ブルグントにまたがり、皇帝は中世ヨーロッパ世界における最高権威をローマ教皇とのあいだで争った」となるんでしょうか。
帝国は大中小さまざまな諸侯国から成り立ち、わずかな数の有力諸侯が選挙権を持って、諸侯の中から皇帝を選んだわけですが、15世紀から、ほぼハプスブルグ家の世襲となり、皇帝の権威がおよぶ範囲は、ドイツ語圏に限定されましたので、「ドイツ人の神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。
しかし、そうなりながら、フランス王が皇帝候補として名乗りを上げたりもしていますので、なんとも複雑です。

近代国民国家の成立は、神聖ローマ帝国を解体する方向で進みます。
近世、ヨーロッパの王家の中で、ハプスブルク家だけが皇帝を名乗るのですが、これは神聖ローマ皇帝であり、しかしハプスブルク家が統治する領域は、神聖ローマ帝国と重なる部分はあるにせよ、一致しないんですね。つまり、神聖ローマ帝国は、領域国家ではなかったんです。
最終的に、神聖ローマ帝国を葬ったのは、ナポレオンです。
一応貴族ではありましたが、王家の血筋とはまったく関係のないナポレオンが、実力によって、自ら皇帝を名乗ったのです。このときから、ハプスブルク家は、名ばかりとなっていた神聖ローマ皇帝の名乗りを捨て、オウストリア・ハンガリー帝国という領域国家の皇帝となりました。
ナポレオンが、神聖ローマ皇帝という古い権威を否定するために持ち出したのは、古代ローマ皇帝です。もちろん、「古代ローマ皇帝に習う」とは、実質、新秩序の立ち上げです。

こう考えてくると、国民国家である大日本帝国創設の形は、ドイツよりもむしろ、フランスに近いように感じます。
先に領域国家があり、極東の古い権威である中華皇帝に対峙して、神武に習うを名目とし、帝国を立ち上げたのですから。
しかしまた、プロイセン王国が、明治維新と同時期に、かつての神聖ローマ帝国の諸侯国を、ハプスブルク家の呪縛から完全に解き放ち、ドイツ帝国としてまとめあげた状況も、たしかに、明治維新の状況と共通項を持ちます。
要は、幕藩体制をどう見るか、なんですが、いとも簡単に廃藩置県ができてしまったのは、結局のところ、藩主が土地を所有していなかったからで、とすれば、フランスに近いとしていいのではないのでしょうか。



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19世紀の舞踏会とお城

2005年11月22日 | モンブラン伯爵
今日もまた、19世紀調べものに付随した余談と
モンブラン伯探求に関するお願いです。

先頃、おとぎ話を映像で見たくなって、DVDをさがして見ました。
おとぎ話って、シンデレラや白雪姫、なんですけどね。
シンデレラは、『エバー・アフター』が、けっこうよくできています。
ルネサンスのフランスに舞台を設定して、実録を装いつつ、笑えますし、適度にリアリティを出しながら、綺麗に仕上げてます。いや、フランス王が英語でイギリス王(おそらくヘンリー8世)の悪口を言いつつ、息子(王子)を「ヘンリー」と呼ぶのには、ちょっと違和感がありましたが。いや、フランスの王子ならば「アンリ」というのは、固定観念になってますので。
白雪姫、スノーホワイトの方は、二つ買ってみたんですが、一つはデズニーランド風のお話にならない安っぽい映像で、もう一つは、きっちり中世風にしてあるため、あまりにも映像が暗すぎて、華やかさに欠けました。

いえね、おとぎ話の舞台って、普通、どこらあたりの時代をイメージするものなんでしょうか。
シンデレラの絵本の挿絵などは、ルイ王朝風、バロックからロココあたりが多いと思いますし、それが一番、絢爛豪華ではありますね。
絵本の出版が盛んになったのは、19世紀半ばくらいからじゃないかと思うのですが、この時期、建築はネオ・バロック、ドレスもパニエでスカートを大きくふくらませた王朝風に回帰しますので、ここらあたりからも、おとぎ話の挿絵がバロックからロココ、となったのは、頷けます。
ただ、19世紀という時代は、昨日の舞踏のサイトにもありましたように、王侯貴族の文化は過去のものとなろうとしていて、はっきりと近代が顔を出しているんです。
服装でいうならば、女性のドレスはきらびやかに過去をなぞるのですが、男性の場合は、王朝風のレースやら刺繍やら宝石は排除されたままで、軍服をのぞけば、色も白黒灰色といった、無彩色が主流です。
舞踏会もまたそうでして、男女が抱き合った形で踊るの円舞曲(ワルツ)は、王朝文化から見るならば、近代的で野卑なものであったわけなのですが、イメージからするならば、シンデレラが王子さまと踊るのはワルツですね。結局のところ、「玉の輿」は身分制度が崩れてこそ成り立ちますので、ここは『山猫』のように、ワルツでいいんでしょう。
そういえば、昨日のサイトを見ていて、いつか、どこかで読んだ場面を思い出しました。
老夫婦が、貧相な屋根裏部屋で、時代遅れの王朝風の鬘をかぶってメヌエットを踊り、それを月が影絵として映し出す、といった情景だったと記憶しているんですが、なにに書かれていたのか思い出せなくて、しばらく考えあぐねて、ふと、あれはアンデルセンの『絵のない絵本』ではなかったかと思ったのですが、記憶ちがいでしょうか。

えーと、それでシャルル・ド・モンブラン伯爵です。
幕末以来、モンブラン伯は、「大山師、偽伯爵」と語られることが多かったようなのですが、「偽伯爵」であることを否定したのが、昭和42年発行、高橋邦太郎著「チョンマゲ大使海を行く」でした。高橋邦太郎氏は、フランス文学者です。
五代友厚の日記から、モンブラン伯の居城が、ベルギーのインゲルムンステル城であることがわかるのですが、高橋邦太郎氏は、実際にインゲルムンステル城に行き、モンブラン伯家の子孫に会われたようなのです。『妖人白山伯』の著者、鹿島茂氏も城を訪れられたようですが、ご子孫がいたかどうかは、ちょっとわかりません。1986年にインゲルムンステル城はモンブラン伯家の手を放れているらしいのです。
なぜそんなことがわかったかというと、インターネットって、つくづく便利ですね。
最初、カタカナでインゲルムンステルといれ、ぐぐってみましたところが、出てくるのはベルギービール販売のページばかり。なんと、インゲルムンステル城は、ビール会社のものになっていたんです。で、今度は原語の綴りでぐぐってみました。

http://users.pandora.be/enchantingcastles/ingelmunster.html

上は幸いにも英語だったので、あらましは理解できました。
ただ、16世紀にインゲルムンステル男爵領を創設し、1825年までの主だったドイツ人貴族、de familie Plothoの「Plotho」って、どうカタカナ表記すればいいのでしょうか。
それと、下のサイトはフランス語なんでしょうか。読めません。まあ、これはビールの話が多くて、あまり役立ちそうではないですけど。

http://xxr.xs4all.nl/kasteelbier/kasteelvaningelmunster.htm

問題は、以下のサイトです。これ、ドイツ語じゃないんでしょうか? それともオランダ語とか。

http://home.scarlet.be/~priemjur/


「CHARLES FERDINAND DE MONTBLANC EN JAPAN, 1860-1870」なんて記述も出てきますし、詳しそうなので、多いに関係ありなんですが、なんだかさっぱりわかりません。

以上、おわかりになる方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。
なにが知りたいって、鹿島茂氏は、「モンブラン伯は1858年にフランスの全権公使とともに来日した後、1861年に父親が死んだので相続のためベルギーへ帰国。文久年間に再び来日」としているのですが、これって、資料があることなのか、どうなのか、なんです。鹿島氏が資料なしに書くかな、とちょっと不安でして。
後は、シャルル・ド・モンブラン伯の家族関係。父母、姉妹、兄弟のことと、妻子がいたかどうかなんですが、どうぞ、よろしくお願いします。

あー、インゲルムンステル城は、18世紀に建て直されたバロック様式のものだったようですね。2001年に焼けたって……、モンブラン伯が薩摩で写した写真とかも、焼けちゃったんでしょうか。もしそうだとすれば、残念なことです。
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映画『山猫』の円舞曲

2005年11月21日 | 映画感想
ルキノ・ヴィスコンティ監督『山猫』、完全版DVDを購入して見ました。

山猫 イタリア語完全復元版

いえね、けっこうなお値段で迷っていたのですが、幕末物語の参考になる映像として必要だろう、と言い訳しつつ、買った次第です。
「山猫」の舞台は、イタリア統一戦争時のシチリア。幕開けの1960年といえば、万延元年。横浜開港の翌年で、桜田門外の変が起こった年です。明治維新まで、あと8年。
この時代を舞台にした映画といえば、南北戦争を扱った『風と共に去りぬ』もあるのですが、ハリウッド映画は時代風俗を正確には再現しませんので、やはり『山猫』だよなあ、と。

かつて見たルキノ・ヴィスコンティ監督の映画の中で、『山猫』それほど印象に残るものではありませんでした。さっぱり感情移入できなかった、とでもいうんでしょうか。同じくヴィスコンティの「老い」をテーマとしている作品で、先に見た『家族の肖像』がお気に入りだっただけに、ついくらべてしまったんですが、なにしろ若かったものですから、「老い」に共感できるわけもなく、となれば、対比して出てくる若さなんですが、『家族の肖像』のヘルムト・バーガー演じる青年にくらべて、『山猫』のアラン・ドロン演じるヒーローは、功利的かつ健康的にすぎた、とでもいうんでしょうか、思春期に感情移入できる役柄では、なかったんですね。

あらためて見返してみた『山猫』は、よかったですね。
『山猫』あたりまでのヴィスコンティは、個を描くことよりも、時代を描くことの方に、より重点を置いているんですね。イタリアのリソルジメントがなんであったか、シチリア貴族社会の断片を切り取ることで、全体を見事に、そしてリアルに伝え得ている作品だと思えます。

有名な舞踏会のシーン。なによりもこれを見返してみたかったんですが、ぐぐっていたら、私が感じていたことを、より深く解説してくれているサイトにめぐりあいました。

古典と古典舞踏 第10回「ワルツ」その2


そうでしたか。あのワルツは、ヴェルディでしたか。

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