主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』の続きです。
さる4月29日、山本栄一郎氏のご案内で、中村太郎さまにもごいっしょしていただき、生まれて初めて、萩へ行って参りましたっ!
若い頃、お盆休みに、萩と山口へ行く計画を立てたことがあったのですが、仕事の取材が入り、そこはフリーの悲しさ、「ここで断れば仕事がこなくなるかも~」と泣く泣くあきらめ、キャンセル。長府、東行庵、防府は二度行きましたし、そして去年は山本氏に、下関へも連れて行っていただいたのですが、萩、山口はまだでした。
私、乃木さんとその弟と玉木文之進の足跡をたどることが大きな目的で出かけたのですが、松陰が生まれ、妹三人も生まれ、長兄の民治や末弟の敏三郎も生まれ、杉、吉田、玉木、久坂家の人々の墓が並び、萩の乱に際しては千代さんが文之進叔父さんを介錯しました萩の団子岩に立ちますと、なぜか生々しく、文さんの久坂玄瑞への思いが胸に迫り、すっかり「花燃ゆ」紀行となってしまいました。なんとも、染まりやすい私です。
上は、道の駅・萩往還のそばにある門なのですが、さっそく「花燃ゆ決定!」の看板が。
当日は午前中いっぱい雨でして、写真はあまりよく撮れていません。
雨のせいなのか、休日にもかかわらず、道は空いていて、早く着きましたので、まずは萩城趾へ。
萩城趾の藤の花です。
文さんに藤の花が似合うというわけではありません。
萩城趾では、これしか花の写真を撮っていなかったので、「花燃ゆ」という題にちなみまして。文さんは、ですね。撫子かなあ。
それにしても、ですね。
萩ナビの特集に、花燃ゆ制作統括・土屋氏講演会のルポが載っていまして、これによりますと、「花燃ゆ」というタイトルは、松陰が刑死する直前に獄中で書き残しました「留魂録」にちなんでいるそうでして、唖然呆然です。
吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫) | |
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松陰は、満の29歳、数えでも30で生涯を終えています。その松陰が、「留魂録」に以下のように記しているんです。
われ行年三十、一事成ることなくして死して、禾稼(かか)のいまだ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。しかれども義卿の身をもっていえば、これまた秀実の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人壽は定まりなし。禾稼の必ず四時を経るごときにあらず。十歳にして死する者は十歳中自ずから四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪古(けいこ)をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲するなり。ひとしく命に達せずとす。義卿三十、四時すでに備はる、また秀でまた実る、その秕(しいな)たるとその粟(ぞく)たるとわが知る所にあらず。もし同志の士その微衷(びちゅう)を憐み継紹の人あらば、すなわち後来の種子いまだ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同志それこれを考思せよ。
私はいま三十歳で、なにも成さないで死のうとしている。世間から見るならば、まだよく実っていない穀物のようなものだから、命を惜しむべきなのだろう。しかしながら、私自身にしてみれば、私なりの実りの時を迎えているのだから、悲しむ必要はない。なぜならば人の寿命は定まっておらず、穀物が必ず一年の間に四季を経るようなものではない。十歳で死ぬ者には十年の間に四季がめぐり、二十歳には二十歳の四季、三十歳には三十歳の四季、五十、百まで生きれば、これまたそれぞれに四季がある。十歳の人生を短いというならば、それは短い夏蝉の一生を長寿の椿の霊木であるべきだということと同じで、百歳の人生を長いというのは、椿の木に夏蝉のようであれということに等しい。私は三十歳で、すでに四季を経て、実りの時を迎えている。つけた実が熟した粟(あわ)なのか、籾殻(もみがら)にすぎないのかは、私にわかることではない。もしも同志のあなた方のなかに、私のささやかな真心を憐れみ、志を受け継ごうとしてくれる人がいたならば、穀物の命が次の年に受け継がれるように、私は種を稔らせたことになるだろう。同志たちよ、それをよく考えてくれ。
なんというんでしょうか。三十で命を奪われようとして、この文章が書けるって、やっぱり松陰は天才です。
自分がいま死ぬとして、果たして果実といえるほどのものが残るのだろうか? と自問自答してしまいますし、そういう意味では、十分に現代にも通じる普遍性をもった遺言なのですが、弟子だろうが妹だろうが兄だろうが、これで火がつかない者は、松陰の周囲にいなかったと思うんですね。
しかし、えーと。要するに「花燃ゆ」のタイトルは、松陰の残した種が次々に花を咲かせ、長州が燃え、日本が燃えた、ということ、みたいなのですが、なんで「花」をもってこなきゃいけなかったんですかね。
「花燃ゆ」から「留魂録」は、私にはとても想起できませんわ。
ともかく。
実は山本栄一郎氏は、萩博物館が発行を予定しています楫取素彦と文さんの資料集の話で、博物館に用がおありで、私たちを案内するついでに……、いや、私たちの案内がついでですかね、開館と同時に博物館へ。
博物館の中庭です。
萩名物の夏みかんが、たわわに実っておりました。
夏みかんは、ジュースにすると、さっぱりして実においしいのですが、絞るのがけっこうめんどうです。
さて。
楫取&文資料集編纂の中心となられますのは、萩博物館の主任研究員でおられます道迫信吾氏です。
萩ナビの特集にルポが載っています、大河ドラマ「花燃ゆ」市民講座の講師をなさっておられますが、第一回市民講座(1)によりますと、もともと道迫氏は、文さんのお姉さんの寿子(久)さん押しだったみたいです。さらに萩ナビのルポによれば、なんですが、あんまりなトンデモ設定は阻止してくださるそうでして、確かに私、脚本が三谷幸喜だというので期待しました「新撰組!」だったんですが、川平慈英演じる気持ちの悪いヒュースケンが出てきました時点で、見るのをやめましたわ。期待させていただきます!
で、今現在、もっともお手軽に、来年の大河の主人公の文さんについて、基本的なことがわかるのは、歴史読本2014年5月号「特集 古写真集成幕末・明治の100人」に、道迫氏が書かれた「吉田松陰の妹文の肖像」じゃないでしょうか。
歴史読本2014年5月号電子特別版「特集 古写真集成幕末・明治の100人」 | |
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もっと詳しく、となりますと、山本栄一郎氏が5月31日(土)に防府図書館で講演会をなさるそうでして、詳しくは山本氏のブログ「松陰の妹・久坂文(楫取り美和子)」講演会告知をご覧ください。しかし……、防府まで行くのは大変です(笑)
ともかく私、山本氏のお導きがあり、昔のお友達・久坂ファン氏(続・久坂玄瑞の法事参照)にも連絡をとりまして、そこそこ文さんに詳しくなったのですが、いやあ、興味が無かった、といいますのは恐ろしいものでして、久坂玄瑞の全集は持っていますのに、そこに文さん宛の久坂の手紙が全部載っていることを、忘れこけてしまっていました。
久坂が文さんに出した手紙は21通ありまして、それを再婚相手の楫取が編集、装丁し、涙袖帖と名づけたんですね。
日本史籍協会編『楫取家文書〈1〉』(近デジにあります)に載ったものが、久坂全集には転載されているのですが、聞いたところによりますと、この涙袖帖をもとに、戦前、小説仕立てにしたものも出版されているそうなんです。
それでも読まれたのでしょうか。萩ナビの特集、花燃ゆ制作統括・土屋氏講演会 のルポでは、文さんが、「私は過去はすべて捨てます。けれども久坂からの手紙だけは捨てられません」 と言って楫取に嫁いだという話に、土屋氏は「これはいい!」と思われたんだそうなんです。いや、「過去は捨てる」なんぞと文さんは言わなかったと、私は思います。少女漫画風に妄想しますと、私的には、楫取いわく「久坂の思い出ごと僕が抱き取ってあげるから、姉さんの思い出ごと、僕を受け入れてくれ」だと思うんですね(笑)
実際楫取は、当時の男性にしましたら、驚くほど手放しで、妻の久(寿子)さんを愛おしんでいたような記述が、書簡に見えます。
芸者遊びの形跡もない、どころか、群馬県令(知事)時代には、廃娼運動を奨励した堅物で、奥さん一筋はいいんですが、堅物がいきすぎまして、山本氏によりますと、群馬県の芝居小屋をつぶしているそうなんですが、それってどうなんでしょ。
まあ、ともかく、粋な芸者遊びを好んだ久坂玄瑞とは、正反対なお方です。
しかし、久坂の文さん宛て手紙は、堅物楫取が喜んで編纂したのももっともなほど、志士の妻としての心得を説き聞かす、といった感じの、石みたいに堅いものでして、甘い言葉の一つも無いんですよねえ。
ところがところが。
維新侠艶録 (中公文庫) | |
井筒 月翁 | |
中央公論社 |
井筒月翁の「維新侠艶録」に、京都の芸者お辰に久坂が贈ったという恋文が載っています。この本の表紙絵は、小村雪岱の「久坂を追うお辰」です。
その後もお前様の事のみおもいつづけ候。軒端の月に梅雨とすむ、寒き夕べは手枕に、ついねられねばたちばなの匂える妹の恋しけれ。
これが結びの言葉なのですが、うーん。これ、8月18日のクーデター直後のラブレター、というふれこみですのに、8月にたちばなの匂える妹???と不審ですし、もともとは小川煙村の小説「勤王芸者」からとった話らしく、創作と見た方がいいでしょう。
この文さんの写真、ですね。広瀬敏子著「松陰先生にゆかり深き婦人」(改訂増補版 1936年、東京武蔵野書院)から、ですが、それほど不美人とは思えませんし、気丈な千代さん、しっかり者の久さんの姉二人にくらべましたら、おっとりして、性格もかわいらしかったのでは、という気がするのですが、なにしろ堅物一家の生まれですし、もしかして、久坂にしてみましたら、情緒的なものに欠けて見えたのかもしれません。
堅物一家の婿にふさわしく、堅物だった楫取素彦。それがいきすぎまして、庶民の芝居見物も禁止するほど(これはちょっと松陰の理念とはちがったものだと思います)だったのですが、鹿鳴館時代には、どうやら文さんにドレスを作ってあげて、あるいは二人でダンスを踊ったかも……、しれないんですね。
山本氏のブログ、明治二十年の楫取美和子をご覧ください。
明治20年(1887年)、楫取は男爵になりましたので、文(美和子)さんは男爵夫人。
国立公文書館 平成22年度第1回常設展 「暮らしのうつりかわり-明治編-」の「装う 17.女性の洋装 (明治19~20年)」に載っておりますが、明治20年には、昭憲皇后から「婦女服制のことに付て皇后陛下思食書」が出され、洋装が奨励 されましたので、楫取さんもはりきって、文さんにドレスを作ってあげちゃったようなんです。鹿鳴館は、井上馨&伊藤博文の長州コンビが始めたことですしねえ。
この話には道迫氏も大喜びされたそうで、さっそく、NHKの土屋氏にまで伝わったのではないんでしょうか(笑)
えーと。もちろん、私も大はしゃぎです。
団子岩の生家跡に立つ松陰像です。
松陰の死から30年足らず。一つ年上の義弟と実妹が、洋装で、弟子の伊藤博文が中心にいる「田舎の温泉場のカジノ」(ピエール・ロチ「江戸の舞踏会」より) のような鹿鳴館へ出向いていようとは(さすがに踊ってはいないと思いますけど)、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編で書きましたような状況から考えて、あの世の松陰は、自ら蒔いた種の新たな苦い実りを、どのように見たでしょうか。
団子岩、生家跡に並ぶ玉木家の墓地です。
この墓前で、千代さんが叔父の玉木文之進を介錯しました。
世に棲む日日〈1〉 (文春文庫) | |
司馬 遼太郎 | |
文藝春秋 |
司馬遼太郎氏が、「世に棲む日日」の冒頭、お芳(千代)の言葉として、介錯した様子を描いているのですが、これは、斉藤鹿三郎著「吉田松陰正史」に収録されている千代さんの言葉そのままでして、どうも、本当だったみたいです。
もちろん遺髪墓なのですが、団子岩には久坂玄瑞の墓もあります。
松陰と千代さん、久さん、文さんたちの兄、杉民治さんが、明治20年代に、久坂家のお墓をすべてここに移して、明治43年(1910年)に死ぬまで、祀っていたんだそうです。
団子岩から望む、萩城下です。
ここで文さんは生まれ、そして、ここへ来るたびに、若くして逝った兄をしのび、夫をしのんだのだと。
私、どうも血迷ったみたいでして、小説風伝記を書いてみたい気になっております。
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