伝説の金日成将軍と故国山川 vol7の続きです。
実は、このシリーズの題名にあります「故国山川」と言いますのは、1937年(昭和12年)、ソビエト政府によりまして、突然、中央アジアへ強制移住させられました極東沿海州の高麗人(朝鮮人)20万人の望郷の歌なんです。
シリーズを書きはじめます2年前、NHKの新シルクロード・激動の大地をゆく「第4集 荒野に響く声 祖国へ」を見ていましたら、高麗人のお年寄りが、耳なじみのあるメロディで、望郷の歌をうたっていまして、「あれ? これ、美しき天然だよね」と想ったら、やっぱりそうでした。
調べてみましたら、2003年に熊本放送で「流転~追放の高麗人と日本のメロディー~」という作品が制作されていました。NHKはこれを元ネタに、取材したようだったんですね。できれば熊本放送のものが見たかったのですが、術が無く、それで、作品のもとになりました下の本を読んでみました。
![]() | 追放の高麗人―天然の美と百年の記憶 |
姜 信子 | |
石風社 |
極東の国々の中で、西洋近代音楽を最初に本格的に取り入れましたのは、日本です。
カテゴリー 明治音楽で、さんざん書いたように思うのですが、要するに、近代西洋のルールを丸呑みしまして、西洋とつきあうには、西洋音楽のリズムを国民に身につけさせることも必要なことでしたから、工夫をこらしまして、日本人の感覚になじみますように取り入れたわけです。
当然なのですが、日本人の感覚になじむ、ということは、他の極東の人々にもなじみやすい、ということです。
日本が併合し、教育に大きな影響を及ぼした、ということもありまして、日本の唱歌や軍歌は、歌詞が代わり、もとが日本の歌だとは知られないままに、現在でも、韓国や北朝鮮で歌われていますものが、けっこうあったりします。
姜信子氏によりますと、戦前の半島にも満州にも、美しき天然(天然の美)のメロディにのせた望郷歌が、複数あったようなのですね。
これにつきましては、後述します。
美しき天然の作曲者は、田中穂積。安政2年、岩国藩士の家に生まれ、藩軍で鼓手を務めました。
1873年(明治6年)海兵隊に志願し、軍楽隊に配属。
1899年(明治32年)、佐世保海兵団に軍楽長として赴任し、1902年(明治35年)、海軍将校の子女のために佐世保女学校が開設されますと、音楽の嘱託教師となります。
同年、女学生たちが愛唱するためにと、武島羽衣の詩にあわせて、日本で初めてのワルツ、ともいわれます美しき天然を、作曲しました。
やがて、活動写真の伴奏、サーカスやチンドン屋のジンタとなって、日本全国にひろがったメロディです。
美しき天然
実は、以前、YouTubeに、沢田研二、ジュリーが歌います美しき天然(音楽劇act. シリーズ#10「むちゃくちゃでこじゃりまする」)があがっていまして、編曲が劇的ですばらしく、アコーディオンとヴァイオリンの伴奏がまたよく、艶があって、しみじみと胸にしみいる歌声で、歌詞こそちがいますが、金光瑞が歌っただろう故国山川を彷彿とさせるのはこれしかない、と思っていたのですが、なぜか現在、消えているんです。残念です。
なぜ高麗人は、中央アジアにまで、このメロディを携えて行くほどに、なじんでいたのか。
これは、私の憶測にすぎないのですが、日本のシベリア出兵がからんでいたのではないでしょうか。
北海道大学のスラブ研究、45号「ロシア極東の朝鮮人-ソビエト民族政策と強制移住-」岡奈津子著の「1. 1920年代のロシア極東における朝鮮人」に、以下のような記述があります。
ロシア極東の米作は、いわゆるシベリア出兵のさいに進駐した日本軍の食糧として、米に対する需要が高まったことから発展した。
日本は朝鮮人の村々に親日組織をつくり富裕な朝鮮人をその会員としたほか、占領機関や水産業などで朝鮮人を積極的に雇用した。 また沿海州には、日本軍へ物資を納入するため、朝鮮からたくさんの業者が流れ込んで来た。
岡奈津子氏は、肯定的な文脈で書かれているわけではないんですけれども、シベリア出兵で、沿海州の高麗人社会が、好景気に沸いたのは、動かせない事実でしょう。
一方で、金光瑞たちが、パルチザン活動をくりひろげていたにしても、です。
シベリアの米作も、北海道開拓で生まれました寒さに強い日本の品種を、朝鮮人商人が、シベリア出兵の需要を当て込んで苗を沿海州に持ち込み、本格的にはじまったようなものです。
出兵の間、ウラジオストクには、日本兵向けの娯楽もさまざまに提供され、美しき天然も鳴り響き、当然のことなのですけれども、高麗人もそれを楽しんだでしょう。
![]() | アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫) |
ニム ウェールズ,キム サン | |
岩波書店 |
「アリランの歌」のキム・サン(張志楽)は、原注において、現在(1937年)の吳成崙に言及しています。
「呉は満州の義勇軍の再編を手伝い、現在はそこの東北抗日連軍第二軍の政治委員の任にある。この連軍は三つの軍団があり、第二軍は七千人全員が朝鮮人で共産主義者の統制下にある。他の二つの軍団は中国人パルチザンで、朝鮮人民族主義者三千人が参加している。呉はまた広い大衆的基盤を有する祖国光復会中央委員のメンバーである。当地での仕事は現在たいへん成功しており、自分も大きな仕事をなし遂げた、と彼は書いてきた。私にも、できるだけ早く参加しに来てくれと言っている」
うーん。
キム・サンの英語の語りをニム・ウェールズが整理して書きとめ、それがまた、日本語に訳されているわけですから、事実関係に錯誤があるのは、当然と言えば、当然なのですけれども。
「三つの軍団」がなにを表すのか、なんですが、伝説の金日成将軍と故国山川 vol5でご紹介しております、wikiの東北抗日聯軍をご覧ください。
中国共産党の抗日パルチザン組織・東北抗日連軍には、最終的に、第一路軍、第二路軍、第三路軍の三軍がありました。
ですけれども、第三路軍が再編成立しましたのは1939年のことでして、張志楽(キム・サン)の死後です。
キム・サンが語った時点で、第一路軍の一軍、二軍があったことは確かですから、これに残りをひっくるめて三軍、だったのでしょうか。
とすれば、吳成崙は第一路軍第二軍の政治委員でしたので、そこまではいいのですけれども、以前にも書きましたが、7000人は、あまりにも誇大です。二軍だけでしたら、多く見積もって3000人、日本側資料では700人あまり、といったところです。
それでも、この記述がありがたいのは、在満韓人祖国光復会を、吳成崙が誇っていたとわかりますことです。
そして、金成柱(金日成)の黒幕でありながら、吳成崙は、張志楽がそばにいてくれることを求めていたのだ、とも。
ともかく。
この1937年(昭和12年)、張志楽がニム・ウェールズに出会う直前に、第一路軍第二軍六師長・金成柱現場指揮、第二軍政治委員・吳成崙黒幕で、普天堡襲撃は、すでに起こっていたのですけれども、張志楽は、おそらく知らなかったでしょう。
朝鮮半島内の普天堡が襲撃され、しかも追撃しました警察部隊から7人の犠牲者が出まして、朝鮮総督府も満州国も、血眼になります。
もともと、東北抗日聯軍は、中国共産党の組織でしたけれども、資金が出ていたわけではありませんで、ソ連の援助も得られていません。
馬賊のように、いわば税金を地元民から取り上げる形をとっていたのですが、うまくいっていたとは言い難く、日本人、朝鮮人、現地人の区別なく、強奪、身代金目的の誘拐など、暴力行為を常とし、匪賊と大差はありませんでした。
そして、普天堡襲撃から間もなく、1937年(昭和12年)の秋、突然、沿海州の高麗人(朝鮮人)が、根こそぎ消えてしまいます。
詳しくは、先にご紹介しました岡奈津子氏の論文「ロシア極東の朝鮮人-ソビエト民族政策と強制移住-」を見ていただきたいのですが、スターリンの大粛正の一環で、すでに1936年から、高麗人たちの主な指導者が、逮捕、投獄されるようになっていました。金光瑞も、その一人です。
満州に住む朝鮮人たちには、沿海州に親戚もあったでしょうし、国境線の向こうで、根こそぎ同胞が消えてしまったのですから、これが、わからないはずはありません。
なにしろ、とても日本人には考えられませんあまりの事態に、朝鮮、満州の国境警備隊の日本人が、茫然自失してしまったほどだったんです。
崔庸健(吳成崙に同じく、広州蜂起に参加し、満州に派遣された中国共産党の朝鮮人)が参謀長になっていました第二路軍の受け持ち地域は、高麗人が多数住んでいました沿海州ポシェト地区と隣接し、国境線の見張りがきびしくなっていたとはいいますものの、出入りもあったわけですので、真っ先に知り、それはやがて、第一路軍にも伝わったと思われます。
東北抗日連軍の朝鮮人メンバーにも、ソ連に対します不信感が、芽生えて当然だったのではないでしょうか。
そして、1938年(昭和13年)6月、高麗人の強制移住を実行しましたソ連の極東内務人民委員部長官ゲンリフ・リュシコフが、国境線を越え満州国へ入り、日本へ亡命します。リュシコフは、スターリンの大粛清に当初からかかわっていまして、今度は、自分の身が危うくなっていたのです。
このことにより、満州、朝鮮、ソ連(沿海州)の国境線は極度に緊張し、同年7月末、張鼓峰事件が起こります。
また同年末、北満州に展開し、翌年には三路軍と呼ばれるようになりました東北人民革命軍第六軍五師が、満州軍に追われ、部隊ごとソ連領に入りましたが、ソ連は越境の罪で師長を逮捕し、全員を新疆省に送っています。
なにしろソ連は、大粛清の最中でした。
ひるがえって、満州国側です。
張志楽の予想通り、盧溝橋事件によりまして、1937年(昭和12年)、日中戦争ははじまっていました。
さらにはソ連との紛争をかかえ、抗日勢力の取り締まりは強化されます。網の目を細かく張ってゲリラ活動を封じ、治安を維持したのですが、その一つの手段としまして、投降者を処刑することなく、そのまま治安維持の警察部隊として採用しまして、賞金や職場を保障する帰順作戦をとりました。
もともと東北抗日連軍は、満州国内に残りました馬賊などを吸収して大きくなった組織でしたから、警察隊となって命が助かり、衣食住が保証されますならば、それでよしとするメンバーも多かったわけです。
部隊ごとなど、多人数の投降が相次ぎ、しかも投降したメンバーは、かつての仲間の行動パターンを把握しているわけですし、非常な活躍を見せ、第一路軍は壊滅状態に陥ります。
1940年(昭和15年)2月23日、一路軍の総司令・楊靖宇(中国人)が投降を拒んで射殺され、この年の秋には、金成柱(北朝鮮の金日成)が、独自の判断で部下十数名を引き連れてソ連領に逃げ込みましたが、当初は、投獄されたといわれます。
11月になりまして、二路軍の総司令・周保中(中国人)が、参謀長の崔庸健とともに、こちらはソ連側としっかり連絡をとった上でソ連入りし、金成柱の身分を保障しましたので、監禁は終わりました。
吳成崙が投降しましたのは、翌1941年(昭和16年)の1月です。
なぜソ連へ行かず、投降したのでしょうか。
一つには、高麗人を根こそぎ強制移住させましたソ連への、不信感があったのだと思います。
もう一つ、1938年の張志楽の粛正は、極秘に行われたことでしたけれども、吳成崙は、それを知り得たのではないのでしょうか。
張志楽は、吳成崙と別れて北京へ行った後、二度も国民党政府の警察に逮捕され、二度とも、朝鮮人だと名乗って、日本領事館に引き渡され、朝鮮半島で裁きを受けました。
国民党にかかると、裁判もなく殺されることがざらなものですから、張志楽は、例え拷問を受けようとも、確実に法のもとに置かれます日本統治下の故国へ帰ることを、望んだのです。
拷問に耐えて、共産党員であることを認めませんでした張志楽は、それでは拘留の法的根拠が無くなりますから、二度とも、短期間で釈放されます。
しかし、無法が常の中国では、これは信じられないことでして、張志楽は転向して日本のスパイになったかと疑われ、なかなか党籍が回復されませんでした。
また、党内に張志楽を排斥する人物もいて、不遇をかこうようになりもしました。
これは、中国共産党内でのことですので、満州にいたとはいえ、吳成崙にもある程度、聞こえていたはずです。だからこそ、おそらく、「満州へ来てくれ。いっしょにやろう」と手紙で誘っていたのでしょうし、張志楽の身辺情報には、気を配ってもいたでしょう。
1938年、延安の張志楽は、「トロツキー分子・日本間諜」であることを理由に、処刑されました。
処刑の責任者は康生。1933年からモスクワに滞在し、スターリンの大粛正に遭遇しまして、「反革命分子」の逮捕、拷問、処刑について、学びました。1937年に帰国し、さっそく、延安でスターリンのまねごとを始めたわけです。
後の話になりますが、康生は毛沢東の片腕として文化大革命を推進。生涯を、大量粛清にささげたような人物でした。
おそらく、なんですが、吳成崙は、張志楽の死が中国共産党の手によるものであることに、薄々気づいたのでは、なかったでしょうか。
自分と張志楽が、命をかけて守ろうとした共産党が、理不尽に自分たち朝鮮人を虐げることしかしないのであれば。
そして、満州国が田中大将狙撃犯であることを知りながら、自分を受け入れるというのであれば。
ソ連から日本へ亡命しましたゲンリフ・リュシコフは、東京で記者会見をした後、文筆活動と共に、諜報活動の助言などを行っていましたが、軍事顧問となって、満州国入りもしました。
あるいは吳成崙は、リュシコフの話も、聞いてみたかったのではないか、と、私は思うのです。
![]() | 金正日は日本人だった |
佐藤 守 | |
講談社 |
再び、この本です。
佐藤守氏のご主張を、ごく簡単にまとめますと。
「金日成は偽物だった。北朝鮮で、金日成の片腕だった金策は、畑中理という黒龍会の日本人で、残置諜者としてわざと北朝鮮に残った。ソ連にいるとき、金日成の妻と不倫関係になり、金正日が生まれた。金策の任務は朝鮮半島の赤化阻止で、金策は金日成を傀儡にして、朝鮮戦争を始め、アメリカを誘い込んで、半島全体の赤化を防いだ。金王朝は日本の天皇制と江戸時代の封建制のまねをしたもので、北朝鮮の粛正は、金日成が偽物であることと、跡継ぎの金正日が日本人の血を引いていることを隠すためのもの。金策は日本の残置諜者だったのだから、日本人には、金王朝の三代世襲を助ける義務がある」
キチガイの世迷い言にしてもひどすぎますっ!!!
日本人にも失礼きわまりないですが、朝鮮人にも失礼きわまりない、でしょう。
なんでここまで、北朝鮮の共産主義を擁護なさるんでしょうか。
金策が、一度入ソしながら、1943年(昭和18年)まで満州で戦っていたのは、事実です。
また確かに、東北抗日聯軍は、馬賊も吸収して大きくなったのですし、満州国側に情報をもたらすスパイももぐりこんでいましたから、その中には、入ソしたものもあったかもしれません。
しかし、それは朝鮮人であったり、中国人であったり、でして、日本人がもぐりこむことは不可能でした。
なにしろ東北抗日聯軍は、共産党の組織なんです。共産党の組織に粛正は日常茶飯事でして、日本人とわかれば粛正されます。
そして金策は、第三路軍の政治委員でした正規の中国共産党員です。
張志楽が党籍を回復しますことが難しかったように、朝鮮人が、正規の中国共産党員となりますのは、当時、とても難しいことだったんです。
身元は、きっちり調べられています。
その金策が、長く満州にいたことにつきましては、ソ連への不信があったでしょう。
高麗人がすべて強制移住させられましたし、新疆省に流された仲間もいたのですし。
で、金策が満州国に投降することなく、昭和18年にソ連に入ったのが、残置諜者???
わけがわかりません。
1941年(昭和16年)、日ソ中立条約が結ばれていたんです。
当時、ソ連が勝手にそれを廃棄し、勝手に宣戦布告して攻めてこようとは、日本側では思ってもみていませんでした。
まして、朝鮮半島にまで手を出して、傀儡政権まで作ることになろうとは、です。
ソ連がどう動くのか、事前に情報をくれるスパイならば、日本軍も欲しかったでしょうけれども、そういう意味では、金策が入ソしたからって、日本人にとりましては、なんの役にも立っていないんです。
日本の敗戦に乗じて、ソ連が参戦し、朝鮮半島の南北を、米ソで分けて占領することになろうとは、敗戦の2年前に、朝鮮総督府も満州国も、予想できようはずもないことでした。
そして、北朝鮮が朝鮮戦争を引き起こしたのが、赤化防止のため?????
理解不可能です。
アメリカが介入しないと見て、金日成がソ連と中国に援助を乞いましたことは、はっきり史料で裏付けられることです。
金日成が日本の傀儡だというのでしたら、なんであそこまで北朝鮮は反日で、日本人が奴隷のように差別されるのでしょう?
日本国籍を持つ正真正銘の日本人が、自由に日本へ帰ることもできない国なんですよ?
ひるがえって中国人は、北朝鮮の自国民より、はるかに優遇されていたりしますのに、ねえ。
で、日本の残置諜者である金策が、わざと朝鮮戦争を引き起こして、対馬が韓国領土だと唱えた反日独裁者の李承晩に、半島全体を献上するつもりだった、ですって?????
まったくもって、わけがわかりません。
百歩ゆずって、金策が日本人で、金日成の妻との不倫関係で、金正日が生まれたのだとしましょう。
だからなんなんでしょう?
北朝鮮は、現代の日本どころか、大日本帝国とも似ても似つきません。
ひねくれて、いびつな、スターリンの申し子国家です。
日本は戦前から、立憲君主国で、男性のみですが、普通選挙を行っていた国なんです。
日本列島に居住していましたら、半島出身者にも選挙権、被選挙権があったんです。
中国共産党員だった張志楽でさえ、日本が法治国家であることを認めていたんです。
北朝鮮のような無法な共産主義独裁王朝を、日本に似ているなんぞと、どういう狂った頭が考えることなのでしょうか。
カーター・J.エッカート著の「日本帝国の申し子―高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」
日本の陸軍師範学校に留学し、満州国軍の士官でした朴正煕氏は、李承晩時代には帰国できないでおられました李垠殿下と方子妃殿下を迎え、敬意をもって待遇したのですし、そういった朴正煕氏のやり方は、簒奪を否定する日本の伝統にもかなうものです。
スターリンと毛沢東に習って粛正大好き。
黒五類、紅五類といいます中国共産党の身分制度にそっくりでありながら、もっと細かな「出身成分」といいます身分制度を持ち、日本人は最低の被差別民。
略奪、拉致を伝統として恥じず、それが得意だった血筋が王として居座り続ける変態国家。
そんな北朝鮮の、どこが日本に似ているというのでしょうか?
日本に対して失礼ですし、李王朝といいます独自の王朝文化を持っていました、もともとの朝鮮に対しても失礼です。
そして、朝鮮独立のために身をささげながら、信じたものに裏切られて果てました、闘士たちの魂にも。
高麗人が、追放されました中央アジアで、美しき天然のメロディに乗せて歌いました「故国山川」。
「追放の高麗人―天然の美と百年の記憶」より、姜信子の訳詞の引用です。
故国山川を離れ 数千里 他郷へ
山も川も見慣れぬ 他郷へ
寂しい心が向かうのは故郷だけ
ただ思い描くは 懐かしいあの人 友よ
戦前の朝鮮半島、1921年(大正10年)には、「望郷歌」として歌われたそうです。
東山に月がのぼり窓を照らす
いつの間にか落ちていた深い眠りが不意に破られ
あたりをじっと見わたせば
夢に見た故郷は もう消えて跡形もない
満州の独立軍で歌われた「思郷曲」には、「望郷歌」とはちがう第二節があるのだそうです。
見知らぬ異国の地の寂しい旅人
月光照らす夜となれば 震えるほどに寂しさがつのる
この春にも花を咲かせたことだろう 赤いつつじ
なつかしい故郷 夢にも忘れはしない
金光瑞が歌い、そして呉成崙が、張志楽が、歌ったのでしょうか、この歌を。
「故国山川」があれば、一番いいのですが、見つけることができませんで、これを。
月の砂漠 白竜
今度こそ、幕末に、といいますか、前田正名に帰る予定です。
クリックのほどを! お願い申し上げます。
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