郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ34』と史実◆久坂玄瑞と高杉晋作

2015年08月30日 | 大河「花燃ゆ」と史実

珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗の続きです。


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 本題に入ります前に、私のこのブログ、簡単なアクセス解析がついています。どのページにどの程度のアクセスがあったかはわかるのですが、どういう経過でアクセスされたのかは、結局、よくわからない解析です。
 で、ここのところ、少しづつなのですが、薩摩スチューデント、路傍に死すへのアクセスがありましたのを不思議に思い、「村橋久成 テレビ」で検索をかけてみましたところ、北海道新聞の「村橋久成、大河ドラマに 撮影誘致へ会設立 札幌に開拓使麦酒醸造所」という記事が出てきました。
 うちのコメント欄にもこられました『残響』の著者・田中和夫氏が中心になられて、誘致運動が行われるみたいです。

 

 実は去年、中村さまにおつきあい願い、鹿児島県いちき串木野市羽島の「薩摩藩英国留学生記念館」のオープンセレモニーに出かけました。
 関連の催しで、神田紅さんの講談があったのですが、やはり、村橋久成を題材に選んでおられました。劇的な生涯、ですものね。

 
薩摩藩英国留学生 (1974年) (中公新書)
犬塚 孝明
中央公論社


 昔、乙女のころ、犬塚孝明氏の「薩摩藩英国留学生」を読みまして、もっとも心引かれましたのが、村橋久成と英国へ渡った土佐郷士の流離で書きました高見弥一(大石団蔵)でした。

 しかし、ですね。村橋久成一人では弱い気がしまして、薩摩スチューデントと開拓史がらみの集団劇ならけっこうおもしろいし、美形オンパレードなんだけどなあ、と思ったんですが、あえて誰かを主人公にするなら、村橋と森有礼と、対照的な二人中心でやればどんなでしょう。
 森有礼につきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき5が一番略歴がわかりやすいんですが、日本初の女学校、開拓史女学校へ通っていた広瀬常と結婚し、これが鹿鳴館スキャンダルにつながりますし、有礼の留学仲間で魂の伴侶、鮫島尚信は、東京大学教養学部附属博物館所蔵の肖像画でみますと、ものすごい美形ですわよ。

 高杉晋作の従弟・南貞助のドキドキ国際派人生 下で見ていただけたら、と思うのですが鮫ちゃんは、高杉晋作の従弟で、素っ頓狂な貞ちゃんとも無二の親友っぽいですし、美形同士で絵になります。
 江戸は極楽であるに書いております、有礼と吉田清成の国際的大喧嘩も、二人とも若くていい男ですから、これまた絵になります。
 モンブラン伯爵とグラバーの大喧嘩も出して、町田兄弟から岩下、新納少年、そしてもちろん五代友厚を出す必要がありますが、いくら来期の朝ドラが五代がらみとはいえ、朝ドラとはまったくちがって、善悪相半ばする桁外れな発想力の持ち主として、描けると思うんですね。パリ万博が出てきて、外交をやっていた岩下方平が帰国した途端に京都で王政復古。高見弥一を出しますと、龍馬と中岡慎太郎も出してこれますし、村橋にからめて、箱館戦争で幕府海軍と新撰組も登場。薩長土、幕府、全部ひっくるめて、幕末維新が描けますわよ。
 
 これね、薩摩・長崎(小菅修船場は薩摩が造ったものです)の明治近代産業遺産にも関係しますし、ぜひ、ボクサーパトロンや薩摩バンドの話も出していただければ、と。
 シナリオはジェームス三木あたりかな。
 去年の薩摩藩英国留学生記念館オープンの関連催しで、薩摩近代産業遺産の世界遺産登録についての報告もあったのですが、舞台に立たれたどなただったかが、「この前の会議では、安倍さんがまるで幕末の近代化は長州が中心、みたいな話をされた」と、ご不満をもらしておられました(笑) どう考えても、近代化産業では薩摩・佐賀の方が上なのですが、いかんせん、現在の政治力は、長州の方がはるかに上ですわねえ。まあ、明治からそうなんですが。
 北海道もあまり政治力はなさそうですが、ぜひ、鹿児島と組んで、運動すべきだと思います。

 さて、本題ですが。
 またまた、脚本が金子ありさ氏です。
 
 とっぱなから、興丸のお小姓を決めねば、とか、奥とはそれほど関係のなさそうな話を奥でしてしていまして、あげくの果てに銀姫さまいわく、「征長軍が再びさしむけられるであろう。裏にはあの薩摩がー」です。
 どや顔美和さんに関しましては、すべて出来の悪い嘘話なのでどーでもいいのですが、馬鹿が、なにを考えているんだか。 なんの得にもならず、金がかかるばかりの征長を、なんで薩摩がやりたがったことにしてしまっているんだろ。これまでの西郷の描き方が妙ちきりんなので仕方ないけど、それにしても調子外れだわさと、そっぽを向きたい気分満点。

 どこまでが金子ありさ氏の責任かは、判然としませんが、公卿の描き方のひどさも絶好調。
 どや顔小田村が、大宰府の五卿の元を訪れた、までは史実ですが、「幕府と戦う? (長州)たった一藩で? 正気の沙汰とは思えん」なんぞと、三条侯がそんな暢気なこと、言うわけがないでしょうが、糞馬鹿!!!です。

 史実としまして、小田村は藩命を受けて、五卿に長州藩の時事を知らせるために大宰府入りし、坂本龍馬に会いましたのは、慶応元年(1865年)5月24日のことです。
 すでにこの三ヶ月以上前、2月に、ですね。三条側近の土佐脱藩士・土方久元と中岡慎太郎は、薩摩藩士の吉井幸輔と共に上京するつもりで、船待ちの間、下関の白石正一郎宅で、報国隊(乃木希典が属していた長府藩の有志隊)隊長や白石正一郎の実弟・大庭伝七、赤禰武人とともに、薩長和解を謀り懇談(土方久元「回天実記」より)していまして、あきらかに土方、中岡は、ともに三条の意を受けて、上京の後も薩長和解に動いているんですね。
 薩摩に身をよせていました龍馬は、京で土方と会い、鹿児島へ入った後、三条に会いに来ているんです。

 ところが、ですね。このキチガイドラマのくたびれ果てた龍馬は、小田村に向かって、「どうやったかの? お公家さんらは? この国の大事を語る相手としてはちっくとものたらんろ」なんぞと、「そこまで三条を馬鹿にしてるんなら、あんた、なんのために大宰府にいるのさ!」と怒鳴りつけてやりたくなるようなことを、平気でぬかすんですのよ。

 そして、さらに龍馬は続けます。
 「昔会うたとき、久坂さんは言いよった。幕府も公家も大名も顧みるに価せん。草莽の志士がこの国を変える。草莽崛起じゃと。それを聞いて胸が熱うなって、わしは脱藩ー(以下略)」 
 だ・か・ら、いまさらそんなことを言うなら、ちゃんと久坂が草莽崛起を語り、龍馬が胸を熱くする場面を描いとけよっ!!!!!と、もう、私、あきれ果てました。
 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』で書きましたが、第18回「龍馬!登場」で、肝心要のこの久坂の見せ場をまったく描かないで終わらせたのは、金子ありさ氏です。いまさら、くたびれ龍馬になんと語らせたところで、このキチガイドラマの久坂のイメージは、ぼーっとしたでくの棒のまま、ですわ。

 今回、私、久坂について、少し語りたいと思います。
 
 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊 」に、村塾生だった渡辺蒿蔵(天野清三郎)の次のような回想が載っています。
「久坂と高杉の差は、久坂には誰もついてゆきたいが、高杉にはどうもならんとみな言うほどに、高杉の乱暴なりやすきには人望少なく、久坂の方人望多し」 

  にもかかわらず、ですね。 昨今、高杉晋作はトリックスターとしてもてはやされます一方、久坂が悪く言われるのはなぜか、といえば、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3で書いております加徳丸事件が大きいでしょう。
 これ、一坂太郎氏が「長州奇兵隊」で書かれて、一般に知られるようになったのですが、一坂氏も文中で述べておられますように、もとはといえば、井上勝生氏の「幕末維新政治史の研究―日本近代国家の生成について」に書かれていることなのですね。
 
長州奇兵隊―勝者のなかの敗者たち (中公新書)
一坂 太郎
中央公論新社


幕末維新政治史の研究―日本近代国家の生成について
井上 勝生
塙書房


 一坂氏は、基本的には、中原邦平の「忠正公勤王事蹟」に基づいて事件の全体像を描いておられまして、新書版という制約もあったかと思うのですが、おおざっぱで、正確さに欠ける記述になっています。
 私、あらためて、できるだけ原本にあたりつつ、検討してみたのですが、この事件処理にまつわる悲劇の責任を久坂におわせるのは、はっきり言いまして無茶苦茶でしょう。

 まず、ですね。加徳丸事件の先例として、長崎丸事件があるんですが、この二つの事件は、似ているようでいて、まったくちがっています。

 長崎丸は、薩英戦争で蒸気船が足りなくなりました薩摩藩が、幕府の長崎製鉄所所属の老朽船を借り受け、自藩士を乗せて藩の商用に使っていました。
 文久3年12月、繰綿などの商品を積んで、長崎丸は兵庫から長崎に向かって航行していまして、下関において、砲撃を受けます。
 砲撃したのは、長州奇兵隊ですが、薩摩船だと認識していたかどうかは、定かではありません。折からの濃霧で、長崎丸が掲げた明かりを目標に砲撃していた、というのですが、一寸先も見えない瀬戸内海の濃霧を経験したことがあります私としましては、薩摩藩の船印なんぞ確認しようもなかっただろう、としか思えません。

 砲撃が命中した、というわけではなかったようなのですが、なにしろ老朽船ですし、砲撃を受けて回避行動をとるうち、蒸気機関が火を噴き、綿に燃え移ったんだそうなんです。乗り組んでいた68人のうち、28人が死亡しました。以前に書きましたが、その中には前田正名の実兄もいます。おそらく、蒸気機関が爆発したのではないんでしょうか。
 死亡者のほとんどは薩摩藩士ですし、長州としましても、これはひたすら謝るしかない事件です。
 
 一方、加徳丸の船主は、実は長州藩上関に近い、田布施別府の住人でした。つまり、長州の民間の船だったわけです。
 長崎丸事件から一月後の元治元年一月、その民間船を、薩摩商人が雇い、大阪で買い集めた繰綿を長崎へ運ぶ途中、船の母港・田布施別府に停泊していましたところ、地元上関の攘夷有志隊・上関義勇軍の数名に襲われ、船は積み荷ごと焼き捨てられ、同乗していました薩摩商人・大谷仲之進は斬り殺されました。
 つまり、積み荷の綿は薩摩商人のもので、綿でしたら結局取り引きに薩摩藩もかかわってはいたでしょうけれども、焼き捨てられました船は薩摩のものではありませんし、乗組員も薩摩人ではありません。
 おそらく、薩摩藩の船印をかかげたりはしていなかった、と思われますのに、なぜ襲われたか、といえば、地元の船でしたから、上関義勇軍隊士が噂を聞きつけたわけなのでしょう。

 これまでに幾度か書いてきたのですが、アメリカの南北戦争で、南部の綿花輸出が止まり、値段が高騰したんですね。
 グラバー(ジャーデン・マセソン)を中心とした在日商人たちが綿花を求め、薩摩藩はそれに応えて、大阪で買い占めを行っていました。
 薩摩商人の買い占めはすさまじいばかりで、材料が入らなくなりました日本の綿織業は、操業ができなくなり、怨嗟の声が上がります。
 油などの買い占めも行われ、物価が急上昇し、それが海外交易のせいだということは、火を見るよりも明らかでしたから、それにたずさわる商人は憎まれることとなり、攘夷のために結成されました上関義勇隊では、襲うことが正義、という気分が盛り上がっちゃったんでしょうね。

 なんと、上関義勇隊では、隊員二人に斬り落とした薩摩商人の首をもたせて、大阪まで行き、さらそうとします。
 これは別に二人だけの判断ではなく、隊としての行動でしたから、後ろめたさはなにもなかったわけなのです。
 ここで、久坂が出てきます。以下、野村靖の「追懐録」(マツノ書店復刻版)より、です。

 「久坂など今回、永井など(船を焼き討ちした上関義勇隊員)の軍令を犯したることを聞きて、痛く規律の緩慢に流れたるあらんことを憂い、品川弥二郎および余(野村靖)をしてこれを処理せしむ」 

 つまり、久坂など、在京の長州藩政務役の命令で、野村靖たち(他に杉山松介、時山直八)は、隊の規律違反だとして、二人に自裁を迫ったんですね。二人にしてみましたら思いもよらないことで、逃げ出して、上関に帰りますが、野村と品川弥二郎はそれを追いかけ、山口の政庁に処分を計って、藩の決定により、大阪まで二人を連れ帰り、自刃させます。
 その自刃が、薩摩商人の首をさらしたそばで行われましたことは、異常といえば異常なんですが、これって、長州が藩として、決定したことですわね。
 長州人の船主にしてみましたら、船を焼かれるなど財産権の侵害ですし、船の乗組員も職を失ったわけですし、地元から苦情が上がっていた、と見るべきではないでしょうか。

 なお、このとき、二人が自刃すべきだと決定を下した山口の政庁には、政務役として高杉晋作がいますし、久坂が政務役となっていましたのは、おそらくは高杉の引き立てですし、なんでこの事件の処理で、久坂ばかりが悪くいわれなければならないのか、私にはさっぱりわかりません。

 次は、ちゃんと小倉口の戦いをやってくれるのでしょうかね。


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珍大河『花燃ゆ33』と史実◆高杉晋作挙兵と明暗

2015年08月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実の続きです。
 
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 なんだか、文句を叫ぶのにもあきてまいりました昨今ですが、一つだけ、叫びます。
 傅役(守り役)って、主には女じゃないから!!! まずは藩士。興丸の傅役の一人は、高杉のおやじです。
 ついでに言いますと、銀姫の守り役は、乃木希典の父親で、乃木家は玉木家の本家で、杉家と親戚です。私は、その縁で、文(美和)が奥勤めに上がったものと推測しています。

 

 久坂美和の奥勤めの史料はちゃんと残っていまして、山本栄一郎氏が「女儀日記」や「中正公伝」を探索して、調べておいでです。
 山本氏の「吉田松陰の妹・文(美和)」によりますと、慶応元年(1865)9月25日に銀姫付きのお次女中として召し出されているんですね。
 もちろん、高杉の挙兵より後の話で、道明が久坂家を継ぎ、父・百合之助を看取った後です。

 その後、明治2年の記録があるんだそうですが、興丸「着袴の儀」のとき、お伽(子守)同役で、拝領金に預かれた女中の中では、一番下の身分です。なお、このときの記録に、奥女中の守り役の名前が出てきますが、どうも興丸につきっきり、というわけではないようでして、銀姫付きの奥女中が兼任した様子、なんですね。御中臈頭・御守役・袖野、御側・御守役・濱野ということです。ちなみに、美和が銀姫のお側女中として記録されていますのは、翌明治3年のこと、です。
 まあ、ともかく、ですね。大出世の守役でっせ!!!みたいな、ドラマの描き方は、?????です。まあ、もともと、史実では、興丸誕生の時、文(美和)はまだ、奥御殿に上がっていないわけなんですが。 

 で、本題です。
 私、けっこうなショックを受けております。
 なんだかんだいいまして、桐野利秋が禁門の変の前から長州びいきだったことは史料に残っていることですし、高杉晋作を尊敬していたのではないか、というような伝説もありましたし、やはり、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と、後世形容されました高杉の挙兵伝説を、私も信じてしまっていたから、です。
 司馬遼太郎氏の作品が、けっして史実ではないと知ってはいましても、やはり、若かった頃に読みました巧みな表現は、脳裏にしみついてしまっていたのでしょう。

 
世に棲む日日〈4〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 以下、司馬遼太郎氏著「世に棲む日々」より、「功山寺挙兵」の部分の引用です。
 奇妙なものであった。結果からいえば、
「高杉晋作の挙兵」
 として維新史を大旋回させることになるクーデターも、伊藤俊輔をのぞくほか、かつての同志のすべてが賛同しなかった。
 歴史は天才の出現によって旋回するとすれば、この場合の晋作はまさにそうであった。かれの両眼だけが、未来の風景を見ていた。いま進行中の政治状況という山河も、晋作の眼光を通してみれば、山県狂介らの目で見る平凡な風景とはまるでちがっていた。晋作は、この風景の弱点を見ぬき、河を渡ればかならず敵陣がくずれるとみていた。が、かれは自分の頭脳の映写機に映っている彼だけの特殊な風景を、凡庸な状況感受能力しかもっていない山県狂介以下の頭脳群に口頭で説明することができなかった。
(行動で示すあるのみ)
 と、晋作がおもったことは、悲痛であった。なぜならば、行動とは伊藤俊輔がひきいる力士隊三十人だけで挙兵することであり、三十人で全藩と戦うことであった。その前途は死あるのみであった。
 

 いまにして思えば、いったい、どこうがどうなって、ここまでの大嘘になってしまったのでしょうか。

まず結論から言いまして、高杉の挙兵は、決して維新史を大旋回させたわけではなく、むしろ、殺されるはずではなかった前田孫右衛門や松岡剛蔵など、長州「正義党」幹部が殺されることとなり、薩摩が長州に手をさしのべることへの支障を作り、傷口をひろげただけだった、と言えるでしょう。
 現在の私にとりましては、これで長州海軍の生みの親・松島剛蔵が殺され、奇兵隊を赤禰武人ではなく山縣有朋が牛耳ることになったわけですから、明治になっての長州の陸軍偏重という悶着の種が芽ばえた痛恨の挙兵、のように思えます。

 以下、「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房版)より、元治元年12月23日付け小松帯刀宛西郷隆盛書簡の一部引用です。
 二十一日朝、萩表より使者両人岩国へ相達し、変動の向き相聞得候折柄、岩国より差し出し置き候人々も罷り帰り、得と承り合い仕るところ、長谷川惣蔵萩へ参り居り、余程せり立ち、討ち取るの策を立て候向き、もちろん戸川鉡三郎、山口城破却巡見として参り居り、色々責め付けられ候向きと相聞こえ、十八日晩七人の者を入牢申し付け、翌日はすぐさま斬罪に取り行い候よし、前田孫右衛門・楢崎弥八郎・山田又助・大和国之助・渡辺内蔵太・松崎(島)剛蔵・毛利登人、この七人にてござ候。左候て、末藩等へも人数差し出し候様相達し、千人位の勢い萩表より押し立て候よし。激党の内には蒸気船一艘を奪い、撫育金と申すをかすめ取り候よし、いずかたへ乗り廻し候かいまだ相分らず、繋場より届け申し出候までにござ候。とんと調和の道も絶え果て、残念の事にござ候。右等の拙策を用いられ候ては実にこまった事にござ候。 

また、いい加減な現代語訳をしますと、以下です。
 12月21日の朝、萩からの使者が岩国へ来まして、変動(12月16日高杉挙兵)があったと聞こえてきたところへ、岩国から萩へ行っていた人々も帰ってまいりました。じっくりと話を聞きましたところが、ちょうど折悪しくその挙兵のときに尾張藩士の長谷川(征長軍強硬派)が来ていて、鎮圧しろと萩政府に迫り、おりから幕府目付の戸山も山口城破却の検分に行っていまして、いろいろと圧迫されたこともあり、萩政府は18日夜、「正義党」幹部の七人を野山獄に入れ、翌日にはすぐさま全員斬罪にしてしまったんです。そのうえ、支藩からも兵隊をかり集め、千人ばかりを諸隊の追討に出す勢いで、決起した諸隊激派の中には、蒸気船を奪い、撫育金をかすめとって、行方をくらます者も出る始末です。現在の萩政府から三人を罷免し、代わりに「正義党」幹部から三人を政府に入れ、諸隊と政府の融和をはかって、五卿に移転していただく心づもりが無になってしまい、残念でなりません。挙兵する方も、それを理由に無駄な血を流す方も、実に困ったことです。

 いったいなぜ、高杉は挙兵したのでしょうか? 
 挙兵といいましても、決して、司馬氏が書かれたような悲壮なものではありません。
まず人数ですが、力士隊と遊撃隊あわせて、80人ほどが高杉に応じました。力士隊も遊撃隊も、来島又兵衛の直属部隊として、禁門の変で奮闘しましたその生き残りです。


 力士隊は、隊長が戦死し、残りの者が又兵衛の遺骸を運んで無事埋葬し、長州に帰り着いた者たちは、とりあえず、馬関新地(下関の萩藩直轄地)の会所で通訳業務をしていた伊藤俊輔(博聞)が、自分の護衛として預かっていました。参加したのは、伊藤が高杉にくどかれたからだと言われますが、なにしろ、禁門の変での活躍が評価されませんような体制では、いつ解散となるかわからない状態ですし、征長軍とそれに迎合する「俗論党」政府への恨みが深かったのでしょう。
 遊撃隊の方は、全員が駆けつけたわけではなく、一部なのですが、その多くが脱藩しました他藩人で、これまた、追い詰められていた人々です。そして、この時、挙兵遊撃隊の隊長となりましたのは、石川小五郎(後の河瀬真孝)で、れっきとした長州藩士だったものですから元は先鋒隊だったのですが、朝陽丸事件で幕府使節を暗殺していまして、幕府からしましたらまさに、お尋ね者でした。
 元松下村塾の参加者は力士隊を率いた伊藤と、後は単身で参加しました前原一誠のみ、なんですが、伊藤の場合は高杉に恩を売っておく損得を考えたのでしょうし、前原は、本人がれっきとした藩士でしたので、村塾では数少なかった中級藩士で、しかも俊才でした高杉に、心底心酔していた、ということだったでしょう。

 さらに挙兵といいましても、伊藤の勤め先、馬関新地の会所を包囲して空砲を放っただけのことでして、会所の奉行は「正義党」ですから最初から戦争になるはずもなく、「俗論党」だった人々が萩へ帰っただけのことでした。次いで三田尻(防府)の海軍局に船を奪いに行くのですが、ここもそもそもトップは松島剛蔵で「正義党」の集まりですから、抵抗するはずもなかったわけなんです。

 しかも、征長軍総督参謀の西郷隆盛が、戦う気がまったくありませんで、ということはつまり、征長軍のうちの薩摩軍が戦闘に入る心配はまるでなかったわけですから、司馬氏いわくの「その前途は死あるのみ」なんぞということはまったくありえませんで、挙兵側にはなんの危険も無く、「俗論党」政府に諸隊追討令を出させて、対決姿勢をとらせるためだけの挙兵でした。
 そして、確かに挙兵の時にたまたま、征長軍強硬派の長谷川が萩にいたとか、不運がありはしたのですけれども、捕らえられていた「正義党」幹部が斬罪になる可能性を、高杉は十分に認識していたはずなのです。

 太田市之進(御堀耕助)が止め、野村靖が止め、奇兵隊副将の福田良助にいたっては、伊藤の回想によれば、雪の中に土下座して「今日だけはぜひおとどまりを願いたい」と、高杉に頼んだというのですね。それはどう考えても、挙兵すれば、「正義党」幹部が斬罪になる可能性が高かったから、でしょう。交渉が続いているわけなのですから、いざとなればやるぞ、と、戦闘姿勢を見せる必要はありますが、挙兵してしまえば、相手に口実を与えてしまうだけなのです。

 再び、いったいなぜ、高杉は挙兵してしまったのでしょうか? 
 私には、赤禰武人への反感と不信としか、思えません。
 「元を正せば周防の島医者の子でしかない赤禰ごときが、生意気な! 征長軍総督参謀の薩摩芋(さつまいも)が動き、吉川が動くって? 赤禰のホラに決まっている。「正義党」の復活交渉なんぞ、どうせ失敗するのだから、こちらが先に挙兵すべきなんだっ!」 
 そういうことでは、なかったんでしょうか。

 「正義党」幹部が斬罪になり、諸隊追討令が出て、戦闘をためらう理由がまったくなくなったから、奇兵隊を中心とした諸隊は、決起したわけです。
 交渉の失敗と高杉との確執から、奇兵隊総督だった赤禰武人は居場所を無くし、決起したときに奇兵隊を牛耳っていましたのは、山縣有朋でした。
 こののち、赤禰は幕府のスパイだという嫌疑をかけられ、濡れ衣によって惨殺されますが、その名誉回復を、大正になってまで拒み続けたのも、山縣有朋です。

 「俗論党」は、千人ほどの諸隊討伐軍を繰り出したわけですが、「俗論党」とは、中級以上の藩士を中心としました保守派なんですから、ろくろく軍の改革もできてはいませんし、戦闘意欲のある軍勢では、ありませんでした。
 私が疑問に思いますのは、「正義党」幹部を斬ってしまいましたら、諸隊に歯止めがなくなることはわかりきったことでして、なぜ椋梨藤太たち「俗論党」幹部は、そんな冒険をあえてやったのか、ということです。征長軍によほど怯えていたのか、あるいは、「正義党」幹部によほど恨みをもっていたのか、どうなんでしょうか。

 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のあとがきに、次のように述べておられます。
 (高杉晋作について書くことに苦労する)もう一つの理由は、もう少し複雑だし、それに政治的でもある。いつ、どのようにして「有名」になり、どのような経緯で、彼にまつわる伝説が作られていったか、を常に念頭に置いておかなければならないせいである。伝説や神話に引きずられてしまうと、史料の言葉が本来の意味どおりに読めなくなり、人物像までが変形させられる。その引力に抗しながら、史料から実像を読み出すのは、「無名人」相手に比べて三倍のエネルギーを要する。
 後者の問題は、もとより高杉晋作だけの問題では済まない。それは、おそらく明治から大正、昭和と、日本の近代国家が確立してゆく過程で、いわば建国神話のような意味合いで編み上げられてゆく物語の一環なのだろう。それはそれで、別に機会を設けて考えるべき課題である。吉田松陰にしても、晋作にしても、その神話のなかに、神々の一人として役割を割り振られて登場するのだろうと、今のところ私は考えている。
 この神々は、第二次大戦の敗戦という、価値観の大きな変動のなかで、大多数が消滅していった。楠木正成や小島高徳は天皇制の変容に殉じて、「七生報国」や「誉の桜」のフレーズとともに、いなくなった。晋作、それに坂本龍馬は、大上段に振りかぶった尊皇イデオロギーとは少し離れた場所に役割を振られていたため、姿を変えて生き延びた。高度経済成長期には、自由奔放、恋と冒険、このあたりが二人を象徴するキーワードになった。国のために命を捧げることが最大の価値とされた「帝国臣民」にかわって、自由主義社会のもとで豊かな生活を謳歌しているはずの「市民」にとって、幕末の動乱を生きたトリックスターたちは、夢を託すに恰好の存在であったし、今もそうであるらしい。
 

 歴史とは物語である、と私は思います。
 過去の出来事にまったく物語を読み取らなかったとしたら、それは、歴史とはならないでしょう。
 しかし、私は、勝者にのみ光があたる歴史を好みません。
 無数の無名の人々がいて、不運な敗残者も多数いて、複雑に明暗が織りなされる物語こそが、歴史の名に値するのではないでしょうか。
 明後年は、明治維新から150年の年です。
 もう一度、維新史が見直される節目と、なってくれたらいいのですが。

 次回(すでに明日です)は、もう一人のトリックスター、坂本龍馬が登場するようですけれども、暗澹と、ため息しかでないドラマになることは、確実な気がします。

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珍大河『花燃ゆ32』と史実◆高杉晋作伝説の虚実

2015年08月13日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ31』と史実◆高杉は西郷と会ったか?の続きです。

 感想を一言だけ。
 今回一応、玉木文之進の一人息子、玉木彦助の戦死を描いていましたね。
 彦助が品川弥二郎より二つ年上で、同じ御楯隊にいたとは、さっぱりわからない描き方ではあるんですけれども。
 この戦死によって、乃木希典の弟が、跡継ぎのいなくなった玉木家へ養子に入ります。
 今回のシナリオは宮村優子氏で、まあ、この方がまだ、一番マシではあるのかもしれません。
 彦助の戦死以外、さっぱりなにも印象に残っていませんし、金子ありさ氏よりはマシ、という程度の話ですが。
 
花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 えー、時間軸を狂わせまくりましたこのドラマ、松島剛蔵を含みます「正義党」幹部がすでに殺されたからと、今回がいわゆる「功山寺挙兵」です。史実は、高杉の挙兵があったから、「正義党」幹部は殺されたわけでして、まるで逆です。

 しかし、ですね。
 この時間軸の逆転に、なぜNHKが無頓着なのかといえば、これまで、一般には、三家老・四参謀の処分と「正義党」幹部の惨殺はどちらも「俗論党」が征長軍に屈してしたことで、高杉晋作はその非道な「俗論党」を叩いて長州の生気を取り戻すために立ち上がった、という伝説が、信じられてきたからではないんでしょうか。 

高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏は、「高杉晋作と奇兵隊」のプロローグにおいて、東行庵に建つ巨大な顕彰碑の銘文を紹介しています。
 伊藤博文撰の「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」に始まる、有名な長文です。



 この長文のさわりの部分を引いた後、青山氏は、次のように述べておられます。

 要するに長州毛利家における「俗論」党打倒、「藩論」統一のさきがけをなしたのは高杉による馬関挙兵であり、それに当初から加わっていたのは自分(伊藤)たちだったというストーリーが、ここには盛りこまれている。そして、このストーリーは、現在に至るまで、高杉伝と言わず、長州藩幕末史の定説になっているようだ。
 結論だけを先に言ってしまえば、このストーリーは、本文で詳述するように八割がた虚構である。そのような虚構が、なぜ碑文に記されるのか。それは、伊藤博文、山縣有朋、井上馨といった長州閥の「元勲」たちにとって、高杉と行動をともにしたことは、自らの過去を装飾し、さらには現在の政治的立場を強固にしてくれる華々しい経歴だったからである。


 高杉晋作が挙兵にいたるまでの状況について、比較的、脚色なく語っているのではないか、と思われますのが、天野御民(冷泉雅二郎)の回顧録(一坂太郎氏編「高杉晋作史料 第三巻」収録)です。
 天野御民は、御堀耕助(乃木希典の従兄弟)と同い年、品川弥二郎より二つ上で、禁門の変で破れて帰って来ました彼らと共に、御楯隊を結成しました、元松下村塾生、なんです。
 この御楯隊、玉木文之進の息子の玉木彦助や、久坂と共に死んだ村塾生・寺島忠三郎の兄・秀之助も参加していまして、そもそも隊長の御堀耕助は玉木家の親戚ですし、松下村塾関係者が中核となっていた隊、なんですね。

 で、天野御民の回顧録は、後年のものですし、高杉の挙兵前に「正義党」幹部粛正があったとしますような、時間軸の思い違いも入っているのですが、御楯隊が関係しましたことの事実関係に、大筋でまちがいはないと思われます。
 天野が言いますことには、11月17日、五卿を奉じまして長府に入りました諸隊(およそ750人)は、八方ふさがりでした。
 その状況をまとめますと、おおよそ以下のようだったそうなのです。

 長州藩士の隊員は、萩から来た親戚知人に脱退を促されて脱ける者も多く、また尊皇攘夷の旗頭の元に長州諸隊に参加した他藩人も、「俗論党」が政権をとり、尊皇攘夷の旗を降ろした長州の現状に不満で隊をぬける者が多く、諸隊がこれからどうするのか、隊長たちの会議でも意見がまとまらなかった。
 そこで、御楯隊のうちの有志が、「このままでは諸隊はみなだめになる。外からの衝撃が必要だから、われわれは今から各郡をまわり、俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう。そうすれば俗論藩庁は諸隊全体に罪をかぶせ、討伐するだろうから、戦争になる。戦争になってこそ、諸隊は人心団結して、たちまち俗論軍を倒すことができる」と、密かに語り合っていた。
 高杉晋作が亡命先から帰ってきて(11月25日)、このことを持ちかけたが、最初は高杉は、「諸隊が一致団結して行動するべきときに勝手にそんなことをするのはだめだ」と賛成しなかった。
 しかし高杉は、どうしようもない諸隊の現状がわかってくるにつれ、馬関新地(下関本藩領)の官署を襲撃しようと、御楯隊の総督・太田市之進(御堀耕助)、遊撃隊の軍艦・高橋熊太郎にその話をもちかけ、承諾させていた。
 

 御楯隊は、先にいいましたように、松下村塾関係者が中核となっていた隊で、珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」に書いておりますが、禁門の変でろくに戦えなかった悔しさをばねに結成された隊ですし、遊撃隊は他藩士が圧倒的に多く、来島又兵衛が率いて禁門の変で奮闘しました、その生き残りです。

 この話の流れですと、要するに高杉は、「俗論党」政権に諸隊追討令を出させて、諸隊に戦う気を起こさせるために挙兵するつもりだった、ということになります。
 考えてみましたら、奇兵隊は攘夷のためにできた組織ですし、遊撃隊にしましても御楯隊にしましても、尊皇攘夷の旗を降ろして、戦う相手を無くしてしまえば、存在意義を失い、組織は解体してしまいかねない、ですよね。
 要するに、軍隊が軍隊として存続するためには、敵が必要、なんです。

 ところが、ですね。
 天野御民いわく、ですが、「直前になって太田市之進(御堀耕助)は、挙兵を取りやめ、高杉は、決行予定日だった12月12日の夜、酔っ払って、長府修繕寺の御盾隊陣営を訪れ、傍若無人にふるまった。太田市之進に頼まれて、村塾生だった品川弥二郎が止め、同じく元村塾生で奇兵隊の客分だった野村靖がいさめても高杉はきかず、「おまえらは赤禰武人に騙されているんだ! 武人なんぞ大島郡の一土民だぞ。あいつに国家の大事や両君公の危急がわかるわけがない。おれは毛利家三百年来の家臣だ!」と、毛髪を逆立て、まなじりがさけんばかりの憤怒の形相で難じたが、それは、一同、肌に粟を生じるほどに恐ろしいものだった」ということでした。

 諸隊が高杉への同調をためらった理由について、青山氏は、以下の二点を挙げておられます。
 一つには、奇兵隊総督赤禰武人が進めてきた萩政府との「調和論」が順調に運び、12月6日以降には、諸隊解散(10月21日通達済み)は取りやめ、諸隊員は「土着」と内決、という事情があった。
 二つには、征長軍と五卿の存在である。下関対岸の小倉には福総督府があり、解兵条件の五卿移転を待ち望んでいた。その五卿を長府に置いたまま、下関で行動を起こせば、征長軍の介入を招きかねない。今、ここで事を起こすのは、どう見ても得策ではない。
 

 一つ目の理由に関しましては、雑多な人々の集まりでしかない奇兵隊はともかく、元村塾生を中核としました本藩下級藩士が主流の御盾隊では、当初、「俗論家が選任した代官を惨殺してまわろう」という意見があり、「俗論党」政権が継続したままでの諸隊土着では意味がない、と考える者が多く、ためらいの理由とはならなかったからこそ、高杉の挙兵に同調する予定だった、ということではないでしょうか。

 そして、二つ目です。
 これにつきましては、同じ青山氏の「明治維新と国家形成」の方で、より詳しく見てみましょう。

明治維新と国家形成
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吉川弘文館


 五卿は、移転交渉に来ていました、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬へ、五卿は「長州藩の内紛で、諸隊の有志が動揺しているため、移転は考えられない」と伝えていて、要するに、五卿移転と諸隊の要求はリンクしていたわけです。
 では、その諸隊の要求とはなんだったか、といえば、以下です。

 ●諸隊の土着
 ●「正義党」幹部(前田孫右衛門、松島剛蔵など)の解放
 ●現「俗論党」政権から3人罷免、代わりに「正義党」幹部から三人を政権へ加える


 このうち、諸隊の土着とは、青山氏いわく、「諸隊を存続させるための基盤を確保することではないか」としておられ、前述しましたように、12月6日以降、ほぼ妥協が成り立っていたもようなんですね。
 残る二点なのですが、なにしろ、五卿移転が解兵の条件ですから、征長総督参謀・西郷隆盛が直接乗り出します。

 前回も書きましたように、12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったことは、12月23日つけ西郷の小松帯刀宛て書簡(大和書房版「西郷隆盛全集 第1巻」収録)にあります。
 西郷が会った諸隊の隊長などの中心が赤禰武人であったことは、「防長回天史」の推察する通りだと思うのですが、太田市之進、野村靖、品川弥二郎なども赤禰に誘われて会った可能性が高いのではないでしょうか。
 赤禰は短期間とはいえ、松下村塾に籍を置いていましたし、高杉を説得して挙兵を押さえることができるのは、彼ら(太田、野村、品川など)である、と思っていたはずですし、西郷は「諸隊4、5人」と言っているのですから、奇兵隊の赤禰だけでは無く、他の隊の者とも会ったはずです。
 ちなみに、青山氏が「高杉晋作と奇兵隊」で挙げておられます表から言いますと、挙兵後の翌元治2年(慶応元年)1~2月、総勢1637人(人数不明二隊のぞく)にふくれあがりました諸隊のうち、奇兵隊は303人、御盾隊が277人ですから、もともとそれほど人数に差があったわけではなかったようなんです。

 この翌日の12月12日、西郷と諸隊の交渉を踏まえた月形、早川は、五卿と面談し、「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」と訴え、それに対して五卿は「諸隊の要求が通り、長州の内紛がおさまれば即、移転しよう」と答えています。
 一方、西郷の小松宛書簡によれば、西郷は「諸隊と俗論党政府の和解が成り立てば五卿移転が可能」という諸隊、五卿との会談結果に基づき、吉川監物に動いてもらおうと岩国へ向かったわけです。
 その最大の目的は「萩府にての俗吏両三人を退け、激党より望みを掛け居り候者両三人も引き上げ、調和の筋も相立つつもりに御座候」
(萩の「俗論党」政府から三人を罷免し、代わりに諸隊が希望する「正義党」から三人を政府に入れたら、長州の内紛もおさまり、五卿移転の障害も無くなるものと思っておりました)ということです。

 「正義党」幹部から三人復職、ということは、前提として「正義党」幹部の解放は含まれているはずですから、征長軍参謀の西郷が乗りだし、仲介役の岩国藩主・吉川監物を動かして、確実に「正義党」幹部解放、政権復帰は行われる手はずとなっていた、わけなんです。
 太田市之進(御堀耕助)が挙兵をとりやめたのは、当然じゃなかったでしょうか。

 で、高杉です。
 この12月11日、高杉は西郷に会ったと、後年、早川養敬は証言しています。
 しかし、この証言に問題がないわけでは、ありません。
 西郷と高杉が会見したときに同席していたのは月形洗蔵で、早川は月形から伝え聞いただけだそうなんですね。おまけに月形は、会見の翌年、慶応元年の秋には、築前藩の内紛で斬首されていますので、伝え聞きが正しいかどうか、確かめる術もなかったわけなんです。

 以下、宮地佐一郎氏編「中岡慎太郎全集」収録、史談会速記第241輯「報効志士早川勇事蹟書(下)」より、です。
 隆盛、友実(吉井)、税所篤をともない下ノ関に至る。隊士(諸隊過激派)の暴行を避け、秋月藩士と唱う。洗蔵(月形)迎へて稲荷町大阪屋に至る。宴席の間交誼を温め款話をつくし、半夜におよぶ。この日会する者、晋作(高杉)、洗蔵(月形)、円太(中村)、泰、対馬人多田荘蔵、藤四郎、安田喜八郎、真木菊四郎等とす。積日の敵讐、散解して痕なからしむ。この夜、晋作も名を裏みて席に陪し、晋作は酔余、隆盛を指して薯堀爺(いもほりじい)と戯言を発し、隆盛一笑ただいに隔意なかりしと。隆盛、洗蔵、晋作など内密の主意は、以後幕府如何の処為におよばんも計られず、薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらずというに存す。 

 この引用、少々漢字をひらいたり、仮名遣いを改めたりしていますので、正確ではありませんことをお断りします。
 非常にわかりづらいのですが、まず晋作も名を裏みて席に陪しとあるのですが、これは高杉は変名を使って同席したということで、いいんじゃないんでしょうか。

 で、この会合の他のメンバー、洗蔵(月形)、円太(中村)、藤四郎、安田喜八郎の4人は、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)です。
 対馬人・多田荘蔵は、桂小五郎と親しく、この時期、京都から幾松を連れて下関へ来ていたようなのですが、対馬藩も保守派が政権を握って帰れなくなり、九州の藩の飛地と下関(あるいは長府)の間を、いったり来たりしていたんだそうなんですね。
 真木菊四郎は、禁門の変で自決しました真木和泉の4男。久留米の人ですが、父に従って禁門の変に参戦し、五卿側近として長州に身をよせていました。
 「泰」が誰なのかは、私にはわかりませんで、どなたかおわかりの方、ご教授頂ければ幸いです。

 ともかく。
 高杉以外で名前が挙がっています中に、長州人はいないんですね。
 となりますとこの会合は、西郷が「諸浪(諸隊)の内4・5輩も参り」と書簡で述べている会合とは、別ではないでしょうか。高杉はこのとき、どこの隊にも属してはいませんし。 

 しかも話の内容も、対諸隊のものと高杉が出たものでは、少々、ちがっていたように思えます。
 先に述べましたように、西郷と諸隊との話の中心は「萩「俗論党」政権の改革」であったと推測できるのですが、高杉のいた会合では、「薩、筑、長三藩聯合して輩下(猊下?)を取り巻かずんばあらず」の輩下を猊下のまちがいだと考え、三条侯のことだとしますと、これは筑前移転後の五卿の待遇の問題ですから、翌12日に早川、月形が五卿に訴えた「移転された後には、筑前・薩摩が共同で、三条侯の朝廷復帰をはかり、幕府の横暴を防ぐ」ということだったようです。

 つまるところ、高杉は名前を変え、長州人であることも隠して、薩摩の出方をさぐるため、九州の人々にまじって西郷に会った、ということではないでしょうか。
 そして、それとは別に、西郷と諸隊(赤禰、太田、野村など)の会合があり、したがって、西郷その人も税所篤も吉井も、長州の高杉晋作に会った、という認識はなかった、と思われます。

 とすれば、ここで高杉は、「薩摩は解兵したがっている。とすれば、幕府がどういうつもりだろうが、薩摩が長州の内政に干渉する気は無いな」ということのみを洞察し、西郷は相手が長州人だとは思っていませんので、長州「正義党」復権のために岩国へ出かけて吉川監物を動かすつもりだ、というようなことは、話さなかったのではないでしょうか。

 高杉晋作とモンブラン伯爵で、高杉の漢詩を紹介しておりますが、あきらかに高杉は、五卿の扱いで、薩摩の幕府との距離のとり方をはかっていた、ということでしょう。

 長くなりましたので、続きます。

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珍大河『花燃ゆ31』と史実◆高杉は西郷と会ったか?

2015年08月08日 | 大河「花燃ゆ」と史実
 珍大河『花燃ゆ』と史実◆30回「お世継ぎ騒動!」の続きです。

  最初に、来る9月19日(土)、京都で幕末祭がありまして、翌20日、同志社大学で行われます「幕末本気トークライブ」に文(美和)さん研究家(笑)でおられます山本栄一郎氏が出演されるそうです。私はどうも、行けそうもないのですが、関西方面にお住まいの方は、どうぞ、お出かけください。

花燃ゆ 後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 まずは簡単に感想を。
 このドラマ、脚本家が複数います。いまのところ3人ですが、手がけた回数の多さから順に並べますと、大島里美氏、宮村優子氏、金子ありさ氏。
 このうち宮村優子氏のみは時代劇の経験があるみたいなんですが、大河は、例えば捕物帖系の話のように一話一話それなりに完結するものではないですし、はっきり申しまして、私には、ほとんどどの回が誰なのか、区別がつかないひどさです。
 しかし、ただ、一番回数の少ない金子ありさ氏の回が、なぜかけっこう、目立って調子外れに拍車がかかってくるような気がします。
 今回の「命がけの伝言」、金子ありさ氏、3度目の脚本です。

 いえね。すでにこの異次元RPGに、幕末の歴史のリアルさは、まったく期待していません私。
 その上で、なにがひどいって、主人公の恋愛感情にまったく共感できないこと、だと思うんですね。
 本物の美和(文)さんは、最晩年にいたるまで、久坂からもらった手紙を読み返し読み返し、すっかりそらんじていたと、家族が語り残しているほどでして、若くして逝ってしまった夫の姿は、いつまでも美しく、彼女の胸にとどまり続けたわけなんですね。
 ところが制作統括の某氏は、最初から文がスカーレット・オハラで、小田村がレッド・バトラー。ヒロインが、初恋の人と一度は別れるが、やはり愛していたと気づいて再婚する話。という、?????とあきれるばかりの構想を、講演で述べておられたようでして、まったくもって脚本家さんの責任ではなさそうなんですが、理解に苦しむだけの話になっちまっているんです。

 だいたいそもそも、スカーレットの初恋はレッドではなくアシュレー・ウィルクスで、10代で男を虜にする術を身につけた我の強いスカーレットと、地味な家庭に育って「不美人」伝説を持つ文さんは似ても似つかず、レッドと小田村も共通点といえば世の中の変動で成金になったことだけですし、幕末で和風「風と共に去りぬ」(アメリカの南北戦争は幕末と同時代なので、思いつき自体が悪いわけではないのですが)をめざすんでしたら、無理矢理、不自然なはめこみをしないで、架空のヒロイン、ヒーローでやればよかったんです。
 幕末を舞台にしました大河は、「三姉妹」「獅子の時代」と、架空の主人公のものが、すでに複数あったりします。

 例えば、架空の江戸詰長州藩士の娘をヒロインにして、銀姫さまが9歳で本藩養女になったときからお側女中で上がっていて、文久の銀姫さまお国入りで生まれて初めて長州へ行き、しかし家族は江戸詰のままだった、というような設定ですと、江戸の長州藩邸内にいました姉小路なぞも登場させ、本物の江戸城大奥も描けますし、なにしろ生まれ育ったのは江戸ですから、ヒロインの初恋の人は幕臣だったけれど最初の結婚は長州藩士、とすれば、「大奥」もまともに描けますし、相当に劇的な少女漫画風展開も可能だったはずなんですけれど、ねえ。

 まあ、そういうわけですから、かならずしも脚本家さんの責任ではないと思うのですが、今回、なにが気持ちが悪かったって、姉の寿さんが「夫(小田村)を助けて」と妹に土下座するところと、えらく場違いに美和さんが小田村の命乞いをし、「大事なお人なのであろう?」と聞く銀姫さまに、悪びれることもなく「私の初恋の人にございます」と答える場面です。
 いや、だから。なんで世子夫人の下っ端女中でしかない妹に姉が土下座??? しかも、仕える主人に姉の夫を指して妹が「初恋の人」???
 いくらなんでもあんまりすぎる、調子外れの展開でした。
 
 で、本論です。

高杉晋作 (文春新書)
一坂 太郎
文藝春秋


幕末維新の政治と天皇
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吉川弘文館


 一坂太郎氏の「高杉晋作」(文春新書)は、10年あまり前に出版されているのですが、私、持っていながら、ろくに読んでいなかったようなのですね。
 一坂氏は、赤禰武人の書簡によって、一般的に世間に定着しています「一人先見の明を持って藩内俗論党打破に決起した高杉晋作」という像に、疑問を呈していました。

 これまでに高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」を主な参考文献に、書いてきましたことをまとめますと、以下のようです。

 ●三家老・四参謀の処分は、長州藩「正義党」政権がすでに決定していた。 
 ●「正義党」政権中枢全員を罷免して「俗論党」が政権を握ったが、逃亡した高杉をのぞく「正義党」は拘束されたとみられる。(ただし野山獄に入れられたわけではない) 
 ●征長軍参謀・西郷隆盛が「三家老・四参謀の処分」を求めたのは攻撃猶予の条件で、早急に果たされた。 
 ●次いで解兵のための条件が出されたが、三条実美以下五卿の差し出し以外の要件は、簡単に満たせるものだった。

 これまでに書いてまいりましたが、なぜ元治元年10月のはじめまで、いわゆる「俗論党」が政権をとれなかったかと言いますと、奇兵隊をはじめとします諸隊が「正義党」を支持していたからです。
 そもそも、長州正規軍がまったく機能しないということは、攘夷戦においても禁門の変においても証明済みでして、およそ750名と、諸隊の人数は少なくとも、征長軍が迫っていましたからこそ、これを無視することはできなかったわけでした。
 藩主そうせい侯を手中にしました「俗論党」政権は、一応、10月21日に諸隊の解散令を出していたのですが、そんなものに実効性のあろうはずもありません。なにしろ「俗論党」には、ろくに武力がありませんで、「正義党」の井上聞多にしかけたように、個々の暗殺を狙うのがせいいっぱいだったんです。

 藩主を萩に連れ去られた諸隊は、11月4日、西郷が岩国を訪れたと同じ日に山口へ入って、「俗論党」政権に圧力をかけようとしていたのですが、前回書きましたように、11月15日、山口を出て、湯田温泉にいた五卿を奉じ、17日、長府に入りました。
 五卿とは、8月18日の政変で都を追われ、長州に身をよせました七卿から、病死しました錦小路頼徳と、生野の変に参加し、潜伏していました澤宣嘉をのぞき、残った尊攘過派の公卿です。
 もともと、諸隊のうちの遊撃隊には、五卿について長州へ来ました他藩士も多かったですし、奇兵隊は攘夷のためにできた規格外の有志隊で、幕藩体制からははずれた存在でした。したがいまして諸隊にとりましては、長州藩主が「俗論党」のもとにあるなら、五卿を奉じることが、自然な成り行きではあったんです。

 高杉晋作が亡命していました筑前から帰ってきましたのは、11月25日です。
 そして、功山寺挙兵が12月15日夜。
 その間、五卿を預かることになりました筑前藩から長州への働きかけがあり、その五卿の警護には薩摩藩が中心的役割を果たすことになっていましたので、総督府参謀の西郷隆盛が動き、筑前の尊攘派(いわば「正義党」)、月形洗蔵と早川養敬も、西郷隆盛の要請で、五卿&諸隊の説得に動きます。

 高杉晋作の亡命は、筑前出身で長州に身をよせていました中村円太の案内によるものでした。
 幕府の長州征長に批判的な九州諸藩に呼びかけて、長州の味方をしてもらおう、という円太の提案に、高杉が乗ってのことでしたから、当然なのですが円太は、筑前に潜伏する高杉を、月形、早川に会わせています。
 しかも、諸隊説得のため下関に渡った月形、早川の元へ、12月2日、五卿のもとにいました中岡慎太郎が現れ、早川の従僕ということにしてもらった慎太郎は、小倉にいた西郷に会い、真意をただしています。

 とすれば、中村円太、月形、早川、中岡慎太郎と、これだけ顔ぶれがそろえば、高杉晋作は、挙兵前に西郷に会っていたのではないか?と、普通、思います。ところが、これには否定的意見が多いんですね。
 それにつきましては、基本的な文献であります「防長回天史」が、否定していることが大きいと思います。
 
 12月11日夜、西郷隆盛は、吉井幸輔、税所篤を供に下関に渡り、諸隊の隊長など4、5人に会ったと、西郷の小松帯刀宛の書簡にあるのですが、同席した税所篤が高杉晋作はそこにいなかったと証言していまして、「防長回天史」は「西郷が会った諸隊の隊長は、当時、奇兵隊総督だった赤禰武人ではないだろうか」と推論しているんですね。

 実は、ですね。ただ一人、早川養敬は「高杉と西郷は会った」と証言しているんです。
 早川養敬には「落葉の錦」という手記があるんですが、「会った説」はすべて、これを元ネタにしています。しかし活字化されていないのか、容易に手に入りませんで、私、山本氏にお願いしてはいるのですが、まだ、見ていません。
 ところが、手持ちの本の中で、中岡慎太郎全集の年譜のみは、「会った説」を確定的に記載していまして、「なぜだろう?」と目次に見入りますうち、なんと!、早川養敬の史談会速記録が収録されていることに、気づきました。

 結論からいきますと、やはり西郷と高杉は会っていた可能性が高いのでは?と、私は思います。
 その詳細を述べます前に、高橋秀直氏の「幕末維新の政治と天皇」には、以下のような記述があります。

 高杉はその挙兵の論理を正月二日、討奸檄という檄文で示した。そこで述べられている「俗論党」政権の非は何よりも征長軍への恭順方針であり、具体的には1.山口城破却、2.三家老・四参謀の処刑、3.「敵兵を御城下に誘引」、4.親敬父子への処分の容認であった。しかしこれは無理な非難である。そもそも征長軍への恭順は高杉もその一員であった「正義党」政権段階で決定されていたものであり、1の山口城破却は形式に留まり、2、4の受け入れはその段階で覚悟していたものであった。そして、3も征長軍の使節が山口を訪れただけであり、征長軍の乗り込みや藩主が軍門に下るといった屈辱的な儀式は行われていなかった。つまり、絶対的恭順論にたつ「俗論党」の恭順といっても、もし「正義党」政権が存続していればやったであろうことにすぎなかったのであり、ここの高杉の非難は多分にためにする議論なのであった。

 さらに高橋氏は、脚注において、これまで一般的でした、さっそうとした高杉晋作像が壊れかねないことを、述べておられます。

 平和的に要求が実現する可能性があったのに高杉はなぜあえて決起したのだろうか。彼が決起の趣旨を説明した討奸檄がためにする議論であり、説得姓をもたないことはすでに述べた。そして、ここで決起すれば、現在拘束中の前田(孫右衛門)ら「正義党」幹部の生命が危険にさらされるのは高杉の予想できることであったろう。それなのになぜ彼がここで挙兵したのだろうか。この挙兵は高杉の生涯のいわばハイライトであるが、その動機について今後なお検討する必要があるだろう。

 高橋氏が述べておられますところの、平和的に要求が実現する可能性とは、「正義党」の政権復帰でして、これは、奇兵隊総督赤禰武人などを中心に、進められてきていたことなのですが、五卿の九州移転問題の中で、五卿の側から「移転の条件」としてその話が持ち出されるなど、平和裏に「俗論党」「正義党」連立政権が樹立される可能性は、高くなってきておりました。

 一坂太郎氏は「高杉晋作」において、慶応元年の3月に、赤禰武人が故郷の叔父と養母に書いた手紙の一部を引用しています。赤字、下手な現代語訳は私です。
 諸隊いよいよ沈静つかまつり候ところ、高杉晋作一手遊撃隊わたくしの議論ききわけ申さず、下関新地の一暴挙(いわゆる功山寺挙兵)いたし候てより、萩俗論家共たちまち約束にそむき、こころなくも前田已(以)下有志の人々をさんりくいたし残念の至り、なげかわしき事にござ候。 
 萩「俗論党」政府との調停が進み、諸隊もようやく静かになろうとしていましたところが、高杉晋作と遊撃隊の一手のみが私の意見を聞かず、挙兵して新地の藩会所を襲撃してしまいました。萩の「俗論党」たちは、たちまち約束に背き、心なくも前田孫右衛門以下七名(山田亦介、松島剛蔵を含む)の「正義党」幹部の方々を、惨殺してしまい、残念でなりません。なげかわしいことです。

 
高杉晋作と奇兵隊 (幕末維新の個性 7)
青山 忠正
吉川弘文館


 青山忠正氏の「高杉晋作と奇兵隊」は、今回、初めて読ませていただいたのですが、明治以来、形作られてきました高杉晋作英雄伝説の中から実像を探り出しました、画期的な伝記で、今の今までこれを知らなかったことが悔やまれます。
 プロローグにおいて、青山氏は、「私の見るところ、高杉晋作とは、プライドの高い、しかも向こう見ずのおっちょこちょいに近い人物だったようだ」 と書いておられまして、これは、私が晋作さんに感じていましたかわいらしさ、愛嬌そのもの、なんです。

 古い記事ですが、高杉晋作 長府紀行のコメント欄に書いております、これ。
 面白きこともなき世を面白く 住みなす心得「男は愛嬌」

 さて、青山氏もまた、前田以下「正義党」幹部七人の斬首、続く、小田村以下三人の入牢、元家老・清水清太郎の切腹、について、以下のように書いています。

 この時点で彼らを処刑また投獄しなければならない理由は他にない。すなわち、彼らが萩において、晋作側と呼応することを、椋梨党(「俗論党」)が警戒したためである。半ば疑心暗鬼の所産だが、振り返ってみれば、前年九月坪井党(「俗論党」)が弾圧されたとき、「高杉が坪井九右衛門などに腹を切らせた」(伊藤博文談話)とすれば、晋作は椋梨党から見て不倶戴天の仇だった。晋作の挙動が不穏であれば、その党類も根絶やしにしておく必要があると思われたのだろう。

 あまり一般に知られていませんが、実は8.18政変の直後にいわば「俗論党」がクーデターを起こし、「正義党」中枢の毛利登人、前田孫右衛門、周布政之助を罷免したことがあったんですね。しかし、京都に出していました軍勢二千人が帰国し、10日間で状況は一変します。主に高杉の活躍により、「正義党」中枢は返り咲き、続いて、高杉、久坂などが政務役に抜擢されるのですが、同時に、「俗論党」首領格の坪井九右衛門は切腹、椋梨以下4人が隠居、他数名遠流、永流になっていまして、青山氏いわく、禁門の変から下関戦争を経たのちの内乱の過程では、血みどろの党派抗争が繰り広げられるのだが、その直接のきっかけは、八月政変後の「俗論沸騰」と麻田(周布)党(「正義党」)側の反撃にあったのである、ということなんですね。

 とすれば、いったい高杉は、なにを考えて挙兵したのか、という謎は深まるばかりでして、私は、あるいは高杉は計算違いをしてしまったのではないのか、そして、それはむしろ、高杉が西郷と会っていたからではないのか、と思いついたのですが、長くなりましたので、次回に続きます。
 
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コメント (14)
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