郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6

2014年04月23日 | 乃木殉死と士族反乱

 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol5の続きです。

 前回、司馬遼太郎氏の『殉死』に、ドイツ留学から帰国後の希典の意見書への批判が載っていることは述べましたが、書き忘れたことがあります。
 意見書の前半部分について、司馬氏は以下のように言っているんです。

 論文は論旨からみて二項にわかれているように思われる。第一項にはしきりと「操典」の必要を説いている。かれがこの論文でいう操典という言葉はやや不明で、最初は歩兵操典のようなものかとおもいつつ筆者は読んだが、どうやらそうでもなさそうにおもわれる。

 意見書の全文は、黒木勇吉氏著『乃木希典』(昭和53年 講談社発行)に収録されていまして、読んでみました。
 いったい……、司馬氏の頭の中って、どうなっているんでしょうか。
 この後に続けて司馬氏は、なぜか知りませんけれども、歩兵操典のはずがないと決めつけてしまわれ、「おそらく独逸(ドイツ)留学中、デュフェ大尉が教科書として用い、現地教育のときもそれを携えていたあの小冊子が、乃木にとって不思議なほどの魅力を感じたのであろう」と、想像をひろげておいでなのですが、い、いやー、ちゃんと希典は「歩兵ノ操典」と書いていますのに、なんなんでしょか??? ほんとうに、わけがわかりません。

 
乃木希典 (文春文庫)
福田 和也
文藝春秋


 福田和也氏の『乃木希典』には、はっきりと「(この論文では)まず陸軍における歩兵操典の重要さが論じられ」と書かれています。ただ福田氏は、「冒頭の歩兵操典の部分は、操典をテキストに講義をしてくれたドイツ参謀本部への義理立てから書かれたのだろう」としておられるのですが。

 い、いや、だからー。
 なんでみなさん、普通に読まれないんでしょうか。
 意見書の歩兵操典に関します肝心な部分を意訳しますと。

 わが日本の陸軍は、明治維新に際して、それまでのものをすべて捨てて、新たにヨーロッパの兵式を採用して、まだ20年を越えていない。いろいろな法典も、フランスからとったりドイツからとったり、折衷しようとしているが、木に石を継いだようで、黒白が交錯してしまっている。陸軍の諸学校で、教える方も教えられる方も、フランス式なのかドイツ式なのか、さっぱり定まっていない。ところが去年(明治20年-1887年 )、私がドイツにいる間に、第三回の改正歩兵操典を天皇陛下の勅裁をもって発布している。騎兵、砲兵の操典も、いずれ勅裁をもってされるのだろうが、フランス式とドイツ式がまだらのままでは、近代軍隊のすべては操典が基本なのだから、困ったことになるだろう。

 wiki-歩兵操典をご覧になってみてください。要するに、明治20年の歩兵操典は、明治7年(1874年)に採用されましたフランス歩兵操典翻訳から大きな変化はなく、木に石を継ぐように、部分的にドイツ式を入れただけ、だったようなんですね。
 明治24年(1891年)に出されました日本の歩兵操典は、ほぼ明治21年(1888年)のドイツ歩兵操典翻訳だったそうですから、希典帰国後に、持ち帰ったものが翻訳された、と見るべきではないのでしょうか。
 ただ、翻訳に3年はちょっと長すぎるのではないか、という気がしないでもありませんで、これには、帰国後の希典の左遷がからんでいるかもしれず、それについては後述しますが、とりあえず希典は、フランス式がだめだといっているわけではなく、ドイツ式でいくつもりなのならまず操典をちゃんとそうしろと、言っているだけなのですから、まっとうな上にもまっとうな意見だと、私は思うのですが、なにをどうひねくれば『殉死』の妄想となるのか、さっぱりわかりません。

 黒木勇吉氏の『乃木希典』によりますと、希典と川上操六は、「わが陸軍の統轄および教育の方法を完備するために、ドイツにおける兵制の実理を研究、熟察せよ」という訓令を受けて留学したのだそうでして、川上操六は、希典より一つ年下の薩摩の人ですが、非常な俊才で、帰国後、日清戦争時の陸軍を取り仕切り、参謀総長となった人です。日露戦争前に病没してしまい、後世、あまり一般に名が知られていませんが、「陸軍の統轄のための視察」が期待されていたのは、あきらかに彼でしょう。

 つまり希典には、「陸軍の教育のための視察」が期待されていたわけでして、とすれば、直球の意見書だった、といえます。

 しかし帰国後の希典が、教育畑を歩かなかったにつきましては、どうも、おそらくは山縣有朋と、見解の相違があったのではないか、と私は推測しています。
 陸軍教育総監部(wiki)の前身であります監軍部(wiki)を見てみますと、第一次のそれには、三浦梧楼、谷干城、鳥尾小弥太、曽我佑準が名を連ね、陸軍の教育畑は、山縣有朋と対立していました反主流派(フランス派)の牙城だったように見えます。
 希典がドイツ留学中の明治20年に、その牙城をつぶした上、山縣有朋が監軍におさまり、頻繁に薩摩の大山巌と交代はしているのですが、大山巌は砲兵が専門ですし、最終的に歩兵の教育問題に関しては、トップは山縣有朋だったといえるのではないでしょうか。

 明治21年の6月に帰国しました希典は、留学前のポスト、熊本歩兵第11旅団長にそのまま返り咲きますが、翌明治22年の3月、近衛の歩兵第2旅団長に栄転します。東京勤務ですし、参謀次長に転出した川上操六の後だそうですので、これはあきらかに、希典のドイツ留学の成果を、陸軍の教育改革に生かすためだったと推測できます。
 ところが、わずか1年あまり、翌明治23年の7月に、希典は名古屋の歩兵第5旅団長に左遷されるんです。
 この間の希典の日記が残っていないそうでして、詳しい事情はわからないのですが、黒木勇吉氏は、参謀長でした長州閥の児玉源太郎と希典の仲は悪くはなかったはずで、軋轢があったのはこれまた長州閥の桂太郎とではなかったか、としておられます。

 結局、ドイツ歩兵操典丸ごとコピーを実施しましたのは、児玉源太郎だったみたいですし、教育改革の中心も彼ではなかったのかと思われます。
 実は、黒木氏ご紹介の希典のドイツ語日記の余白メモからしますと、将校教育のあり方をめぐっての軋轢であったようなのですね。
 メモの内容は、「将としての才能のある者が下士官や兵卒と同じ教育であっていいはずはない、という者がいるが、愚かで狂った話だ」といったところで、希典は、将校教育におきます年少時からの特別扱いを、嫌っていたのではなかったでしょうか。とすれば、桂太郎はもちろん、児玉とももめたのではないか、という気がしないでもありません。

 もう一つ、この時期に希典が、出身の長州閥と軋轢を生じた理由があるとしますならば、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3にも書きましたが、明治22年、憲法発布に伴います大赦で、西郷隆盛が追贈され、名誉回復しましたにもかかわらず、萩の乱の関係者はまったく顧みられてなかったことがあるのではないかと、私は憶測しています。この年、熊本から東京へ赴任の途中、希典は萩によって、萩の乱で戦死しました実弟・玉木正誼の遺児、12歳になりました正之を引き取っているんです。

 希典は以降、陸軍の教育畑にはかかわることなく、大方信念に基づいてのことですが、4度の休職をくりかえし、選ばれてドイツ留学をした経歴からしますと、あまりぱっとしないままに日露戦争を迎えます。

 乃木希典が、日本陸軍を代表します国際的な名士となりましたのは、旅順攻防戦によって、です。

乃木大将と日本人 (講談社学術文庫 455)
クリエーター情報なし
講談社


 スタンレー=ウォシュバン氏は、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol4ですでに書きましたが、アメリカ人ジャーナリストで、日露戦争時、希典が司令官を務めていました第三軍について取材し、乃木希典に心服して、乃木殉死の翌年、明治2年の2月にこの『乃木大将と日本人 』(英文『NOGI』)を、ニューヨークで出版しました。

 「大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に貢献をする人が、三十年に一度か六十年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後二,三十年の間は、ただ功績をもって知られているのみであろうが、歳月の経つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光りを放つ時がくる。たとえば軍人であるとすれば、その統率した将士の遺骨が、墳墓の裡(うち)に朽ちてしまい、その蹂躙した都城が、塵土と化してしまった後までも、なおその人格と、人格より発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であった」 

 上は、その冒頭の文章でして、親しく希典に接しましたスタンレー=ウォシュバン氏は、なによりも希典の人格に傾倒したわけです。

 一兵卒の戦死さえ、乃木大将は肉親の不幸として感ずる人である。ましてこの旅順口攻撃戦によって与えられた苦痛にいたっては、比ぶべきものもなかった。第一回総攻撃のあった八月の一週間、乃木大将は常に前線に出ていた。こなたの丘に立ったかと思えば、また彼方の山に移る。そして部下の師団、聯隊が、露軍の砲火を浴びて、さながら日光の下に消ゆる靄のように、相次いで消えてゆくのを視守った。しかもなお将軍は、毎日彼らに頑張らせて止(や)まなかった。この計画は将軍自らの計画ではない。将軍はただその責任を負うたのだ。 

 ウォシュバン氏は、旅順攻略に際して、日本軍が多大な犠牲を払った最大の責任は、参謀本部にあると見ていました。

 司令官として責任を自覚するもの、幾千の人命を死地に陥らすべき決定の、ゆゆしき大事なることを知悉するもの、何人といえども、その命令執行に伴う損害を悲しまないことはないが、しかし戦争は、勝利をもたらすための犠牲をば、やむをえないものとして、由来これを是認する覚悟を生み出すものである。ただかような命令を下すものとして、はらわたを断たずにいられないのは、問題の誤算に基づく不完全な計画によって、いたずらに部下の命を失うことであって、乃木大将のごとく、その司令官となった人は、ただ本国参謀本部の立案を実行する、いわば道具にすぎなかったからといって、とうてい自ら慰めていられるものではない。


旅順攻防戦の真実 乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)
別宮 暖朗
PHP研究所


 別宮暖朗氏の『旅順攻防戦の真実』にも、井口省吾と松川敏胤、メッケル(モルトケの推薦で陸軍大学講師として日本が招いたドイツ帝国軍人)の弟子で、参謀本部の首脳だった彼らが、ロシアの要塞防備を過小評価し、乃木司令部に総攻撃をせかしたことが、取り上げられています。
 しかし、希典はいっさいの責任逃れをしようとはしませんで、多くの人命が失われていくことの責めを、引き受けていました。
 最後の最後まで、その希典をかばったのは、大山巌と明治天皇であったといいます。

 日露戦争におきまして、第三軍司令官の希典直属の参謀長は、伊地知幸介でした。
 「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第3回に書いておりますが、『坂の上の雲』は、希典とともに、といいますか、希典以上に、伊地知幸介を無能者に仕立てていまして、司馬氏へ、ご子孫から抗議があったそうなんですね。
 あって当然の貶め方、と、私は思います。

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 伊地知幸介は薩摩人で、大山巌と同じく砲兵専門ですし、巌の姪婿でもありました。姪といいましても、早くに病没しました長兄の娘で、巌が引き取っていたのだった、と記憶しています。
 大山巌には、手放しと言っていいくらいの賞賛を贈っています司馬氏が、なぜ伊地知幸介を嫌っているのかは、よくはわからないのですが。

 これから、順を追って書いていくつもりなのですが、希典は、そもそも陸軍に入ったときから、長州閥ではなく薩摩閥の引きを受けて、でしたし、望んで薩摩出身の妻を迎え、生涯、薩摩閥との親和性が、非常に高かったように思えます。
 その理由として、私は、薩摩出身者の大多数が、西南戦争に参加した身内をかかえ、肉親を敵にせざるをえなかった痛みを、心中に抱いていたことがあるのではないか、と憶測しています。
 西南戦争にくらべまして、萩の乱は非常に小規模で、陸軍長州閥の中で、身内を敵にした者はほとんどおらず、希典はそういう意味において、孤独でした。

 大山巌は、よく知られておりますように、西郷隆盛の従兄弟で、実弟も、そして実姉の一家も、みな西郷軍の側にいました。明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2に書いていますが、巌は戦中、姉の国子に、「おまんさあ、どげなおつもりで戻ってきやしたか。大恩ある西郷先生に刃向かい、生まれ故郷を攻め立て、血をわけた兄弟に大筒をむけるとは、人間としてできんこつごわんそな。腹切りにもどってきやしたとごわんそな」と、つめよられ、言葉を無くした、といいます。

 そして、明治天皇。
 これもまた、順を追って書いていきたいのですが、明治天皇もまた、士族反乱におきまして、身内を敵にまわさざるをえませんでした大山巌や希典の痛みを、深く理解しておられたと、私は思っています。

 再びウォシュバンにもどりますが、彼は、こう記しています。

 旅順口が陥落して、乃木大将と、その老練な軍勢の解放されたのは、露軍の運命にはこの上ない不利な形勢となった。十年後の今日から見ると、乃木大将のこの成功が、日露戦役の峠の絶頂であったといってよい。

 降伏しました敵将ステッセルおよびロシア守備軍への、希典の礼を尽くした対応もあって、日露戦後、希典は、日本海海戦の東郷平八郎とともに、世界的な名士となります。
 前回書きましたが、明治44年(1911年)、ジョージ5世の戴冠式において、東郷平八郎とともに、東伏見宮殿下、妃殿下に随行しましたのは、イギリスからの要請があったからだと言います。



 前列右端、周子妃殿下(岩倉具視の孫)のお隣が希典で、左端が東郷平八郎です。

 東郷平八郎もまた、兄たちが西郷軍の側にいました。本人はイギリス留学中で、肉親相手に戦うはめには陥っておりませんが、二番目の兄は戦死し、母親の益子は、戦場に仮埋葬された息子の遺体を探し当てて素手で掘り返し、一人で埋葬し直し、丁寧に弔ったといいます。
 日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていたんです。

 明治大帝大喪礼に参列されるために来日しておられましたコンノート殿下は、はからずも接伴役だった乃木希典の自刃に遭遇し、9月18日に執り行われました空前の国民葬に、参列されます。接伴役を希典から引き継いだのは、東郷平八郎でした。

 たまたま来日していましたアメリカ海軍士官候補生チェスター・ニミッツは、日本海海戦の祝勝会に招かれて東郷平八郎に感銘を受け、第二次世界大戦後には占領軍の将として日本の土を踏み、戦艦三笠の保存、東郷神社の再建に尽力を惜しみませんでした。
 一方、ダグラス・マッカーサーの父は、日露戦争時、観戦武官として旅順にいて、戦後に日本に招かれた際、息子を副官として伴っていました。ダグラスは、乃木希典に心酔し、占領軍の長として敗戦国日本に君臨しましたときにも、焼け残った乃木邸を守り(神社の方は空襲で焼失していました)、離日にあたっては、ハナミズキを植樹して、希典の思い出にささげています。

 乃木希典は、苦渋を乗り越えて、世界に通用する人格を、身につけていたんです。

 続きます。

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明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol5

2014年04月16日 | 乃木殉死と士族反乱


 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol4の続きです。

 どうも、ですね。二回にわたりまして大庭柯公の目で乃木希典を見て参りまして、私の乃木将軍像は、がらりと変わりました。
 あらためて、司馬遼太郎氏の『殉死』を読んでいるのですが、ひどいですね。ここまで、つい百年前に実在した人物(うちの高祖父とあまり違わない年です)をゆがめて語るって、ゆるされることなのでしょうか。

 
殉死 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 司馬氏は、『殉死』の冒頭で「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く」としておられるのですが、「思考って、ね。なにを材料に思考を?」と、思わずつっこまないではいられないんです。
 「自分自身の思考」といいますよりは、「乃木希典という、生涯洞窟のなかで灯をともしていたような、そういう数奇なにおいの人物」とか、 「このひとが自分の伯父かなにかであれば、閉口してその家は敬遠したにちがいない」とか、根拠のない「自分自身のイメージ」をもとに、巧みに物語=フィクションをつづられた、としか、私には受け取れません。

人間乃木と妻静子 (1971年) (太平選書)
菊池 又祐
太平観光出版局


 菊池又祐氏の『人間乃木と妻静子』は、出版年が1971年なので、1967年に出版されました『殉死』への反論、という面もあったのでしょうか。

 追記 私、菊池又祐氏の文章は、黒木勇吉氏の『乃木希典』(昭和53年 講談社発行)から孫引きしておりました。本日、『人間乃木と妻静子』が届いたのですが、これ、昭和8年に出版されました『乃木夫妻の生活の中から』の再版なのだそうです。菊池氏は、若くして両親を亡くし、乃木将軍夫妻に関する三冊の著作と一冊の戯曲を残して、独身のままで昭和15年(1940年)に45歳で亡くなられました。早稲田大学のロシア文学科(!)を卒業なさっていたとか。少々、書き直します。

 菊池又祐氏は、静子夫人の実姉の孫にあたられ、日露戦争の凱旋帰国の日、10歳でおられましたが、一族と共に乃木邸で将軍を迎えました。

 夫人が玄関の石段に一段下りた。それにむかって将軍はつかつかと進んだ。帽子をとって、それを左の小脇にはさんだ将軍は、右手で今しも頭を垂れた夫人の右手をとりあげた。そしてその上に軽く左の掌をかさねた。
「ただいま帰りました。るす中は、ご苦労でした」
 夫人は何か言いたげであったが、何とも言わないで、ただ黙って、頭を下げたままでいた。多分、胸がいっぱいで、何の言葉も出されなかったのであろう。
 ―叔父様、へんなまねをするなア―
 この光景を、ちょうど将軍と夫人との側面から、偶然にも、一番はっきりと見もし、この言葉を耳にもした私は、目を丸くせずにはいられなかった。
 私にとっては、「武士が戦場にのぞんだ以上、家を忘れ、親を忘れ、まして妻子などの女々しい愛におぼれるのは、卑怯未練な一番恥ずべき行為である。かりそめにもかかることはなすべからざることである」というのが、武人に対するほとんど絶対の信条だった。実際それが物心ついてから、誰からも言い聞かされ、教えさとされていた環境の中には、武門の血が流れ、武士のたしなみが生きていた。
 だから私には、武人の心がけという点ではかなりやかましい、そして又、それを自分自身にも実践している、この叔父―すなわち乃木将軍が、戦争から還るとすぐに、誰にも何とも言わぬ先に、まずわが妻に言葉をかけ、しかもその手をとるに至っては、全然予期していなかっただけ、大いなる驚きだった。


 10歳の頃の思い出を、大切に暖めておられた菊池氏が、もしも生きておられたとすれば、やさしかった「叔父様」が、有名作家の小説の中で化け物のように描かれておりますのは、耐えがたいことだったのではないでしょうか。公的な面での批判ならばともかく、司馬氏が貶めておられますのは、乃木将軍の私的な像も、なのです。
 『人間乃木と妻静子』が再版されましたのは、やはり『殉死』が出されたころ、乃木希典に対します否定的評価があまりに多かったことが、要因の一つではあったようです。

 菊池氏は、続けて、その凱旋帰国の日の祝宴におきますエピソードも、いくつかつづっておられます。

 希典の幼友達に、実業家になっていた人物から、シャンパンかなにか、とても高価な洋酒が届いたことが、希典の気に入りません。
 それで希典は、菊池氏の父親をはじめ、身内をつかまえては、「シロウマを買ってこい」 と言いつのっておりました。シロウマとは濁り酒(どぶろく)のことなんだそうでして、つまるところが安酒です。希典は、さらに「きっと自分で行くんだぞ。他人を買いにやっちゃあいかんぞ」と、フロックコートで正装した身内を困らせ、楽しんでいたそうでして、菊池氏は決意し、話しかけます。

「叔父様! 叔父様!」
 呼びかけたが、その声などは耳にも入れず、前を行きすぎようとした。ここだ! といきなり私は将軍の上衣の裾をおさえた。
「叔父様!」
「う?」
 おさえられて、私を見おろした。
「シロウマは、買いにいかないでも、厩にいけばおります」
「う? 厩に、シロウマがいる? む、さようか!」
 将軍は、しばらく私の顔を見ていたが、破顔した。
「それに、ちがいないなァ!」
と、いいながら行ってしまった。
 

 縁戚の少年から見ました乃木将軍は、当時の軍人にすれば、むしろ破格なほどに女子供への思いやりを持ち、茶目っ気もあって、司馬氏の描写からはほど遠い感じを受けます。

 もう一つ、菊池氏の著述から、わかったことがあります。
 大庭柯公がロシアで粛正されました理由の一つに、シベリア出兵の第三師団長だった大庭二郎中将が親戚だったから、という噂があった旨、久米茂氏の『消えた新聞記者』に出てくるのですが、しかし久米氏は、親族関係を確かめられないままに、書いておられたんですね。
 菊池氏によれば、大庭二郎中将は乃木家の遠い親戚なのだそうです。日露戦争時は中佐で、希典配下の参謀副長だったそうですし、希典の紹介で、柯公からロシア語を教わった可能性は、高そうに思います。

 ともかく。
 『殉死』のなにがもっとも信用できないかと申しますと、実は、以下の部分です。

 戦術にはETAPPE(兵站)の問題が出てくる。食料、弾薬、器財の輸送と集積のことである。日本陸軍はこのことばの意味を創設以来知らなかった。 

 「一個師団を日本から大陸派遣するとしてその兵站はどうするか」
 という意味の応用問題も、当然デュフェ(ドイツ留学中の乃木希典と川上操六にモルトケがつけてくれた付属教官)は出したであろう。その言葉の意味は、この前々年、日本陸軍が陸軍大学校開設にあたり、独逸(ドイツ)参謀本部から招聘したメッケル少佐によって川上操六は聞き知っていた。しかしメッケルの薫陶をうけなかった乃木希典は知っていたかどうか。


 司馬遼太郎氏は、近代戦といえば、自らも末端将校として満州に渡りました太平洋戦争を想起して、どうも、兵站といえば海上輸送とばかり考えておられるようなのですが、前回書きましたように、モルトケの兵站は、整備された鉄道網を前提として、いかにそれを効率よく使うか、ということなんですね。プロイセン(ドイツ)は日本のような島国ではありませんで、仮想敵国はすべて地続きだったんですから。

 普仏戦争と前田正名 Vol7を見ていただければと思うのですが、モルトケが指導して、プロイセンが戦った1864年(元治元年)の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、1866年(慶応2年)の普墺戦争、1870年(明治2年)の普仏戦争において、海戦はまったく戦争の勝敗に影響していませんで、フランスは制海権を握ったままで、負けています。陸の劣勢に、フランスは、海軍陸戦隊をほとんどすべて陸揚げして、内陸で戦わせる始末です。
 日本と同じ島国で、海軍強国のイギリスを除きまして、欧州の大陸諸国が、19世紀後半あたりから、イギリスにはかなわないまでもそれなりに、海軍に力を入れはじめたのはなぜか、といえば、アジア、太平洋、アフリカとの通商交易に結びつきました植民地獲得の必要が大きく、欧州の中の戦争では、海上封鎖も試みなかったわけではないのですが、少なくともモルトケの時代には、たいしたことはできていませんし、だいたいそれは、陸軍ではなく海軍の担当です。

 司馬氏は、ものすごい勘違いの上に、帰国後の意見書の内容を並べて、乃木希典は兵站に関心を持たなかった、と決めつけておられるんですが、だいたい、希典のドイツ留学は明治20年(1887年)のことでして、シベリア鉄道もまだ起工してはおりません。前々回、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3で書きました、明治24年(1891年)のロシア皇太子・ニコライ来日が、そもそもはウラジオストクでのシベリア鉄道起工式に出席するついで、でしたので、それ以降ならばまだわかるのですが(尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2参照)、仮想敵をロシアとして兵站を考えるにしましても、まだモルトケ流が役立つ段階ではないんですね。
 私は、前々回、前回に書きましたように、希典はモルトケ流兵站を理解し、大庭柯公と二葉亭四迷という、当時の日本で最大のロシア通の協力を得まして、ロシアの兵站調査をした、と思っています。

 さらに希典の意見書について、司馬氏は、以下のように決めつけておられます。

 第二項は、おもに服装・容儀に関するものである。乃木希典は独逸(ドイツ)留学後、独逸軍人における「外形美」ともいうべきものに傾倒し、その美の信徒といったようなものになりはじめており、これがこの論文の最大の力点であろう。

 これではまるで、異様な制服マニアのようなのですが、司馬氏が引用しておられます意見書原文を読めば、要するに、こういうことです。
「ドイツでは、将校が出入りするレストランや酒場は、下品だったり猥雑だったりしてはならない。ところがわが国では、高級武官が寝間着のままで任務の話や訓戒を部下にしたり、制服を着たままで売春宿へ出入りすることをはばからないなど、どちらも、礼節、徳義を捨ててしまった行いだ。将校の制服は、将校であることの名誉と責任を表しているのであって、それを忘れて、平気で売春宿へ出入りするのは、もってのほかだ」

 司馬氏は、ここでも大きな勘違いをしておられるのですが、ドイツに限りませんで、この当時の将校の軍服は、決して機能性のみを追求したものではないんです。
 たいぶん以前の記事ですが、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編に書いておりますが、儀礼服的な要素も相当に強く、華やかなものでした。
 そして、キリスト教道徳を基本としています当時の欧米では、まっとうな人間は娼館に出入りするべきではなかったんです。
 まして、ですね。将校ともあろう者は、部下の手本となって徳義を示すべきでして、名誉と責任を表象する軍服で娼館に出入りするなぞもってのほか、でした。
 こっそり娼婦を買いますのは、また別の話です。ここらへんが偽善的といえば偽善的でして、従軍慰安婦に対します受け止めが、アメリカと日本で大きくちがってきます原因だったりします。
 日本を愛しましたアーネスト・サトウも、奇妙な日本人の洋装にうんざりすると同時に、酒盛りの席で、突然、露骨な猥談が出たりすることにも、相当な抵抗があったようです。

 つまり、希典は、ですね。
 ドイツに行って、江戸時代の士族が普通に共有しておりました礼儀や道徳は、決して特殊なものではなく、欧州には欧州なりのそういったものがあり、それを無視した軍隊は、決して欧州列強に認められることがないだろう、と悟ったんですね。
 なにしろ海軍は、遠洋航海をしますので、国際的なつきあいが多く、明治海軍はイギリスを見習い、将校の身だしなみ、礼儀にはずいぶんとうるさかったのですが、陸軍はなにしろ、山縣有朋が中枢に腰を据えていますようなうち籠もり、でしたのでねえ。なってなかったんでしょう。
 希典は、いわば陸軍の国際化を提言していたのであって、それがなんで、まるで偏執狂みたいな描写になるのでしょうか。

 この司馬氏の思い込みの元凶は、芥川龍之介だったのかな、と思われる話が、このシリーズを書く最初のきっかけとなりました長山靖生氏の『大帝没後―大正という時代を考える―』に出てまいります。

大帝没後―大正という時代を考える―(新潮新書)
長山 靖生
新潮社


 芥川龍之介は大正11年(1922年)、『将軍』(青空文庫『将軍』)という、乃木希典の殉死を題材にした短編を書きました。
 以下、作中、陸軍少々の父親と、文化系大学生の息子がかわす会話です。

 「閣下のお前がたに遠いと云うのは?」
「何と云えば好いですか?――まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会のあった、河合と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に――」
 青年は真面目に父の顔を見た。
「写真をとる余裕はなかったようです。」
 今度は機嫌の好い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。
「写真をとっても好いじゃないか? 最後の記念と云う意味もあるし、――」
「誰のためにですか?」
「誰と云う事もないが、――我々始めN閣下の最後の顔は見たいじゃないか?」
「それは少くともN将軍は、考うべき事ではないと思うのです。僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られる事を、――」
 少将はほとんど、憤然と、青年の言葉を遮さえぎった。
「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」
 しかし青年はあいかわらず、顔色も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」
 

 「N閣下」が乃木希典なのですが、自刃する当日に撮った写真の件には、芥川龍之介の大きな誤解があると、長山靖生氏は言います。




 上の3枚の写真なのですが、大正元年(明治45年ー1912年)9月13日、明治天皇大葬の日の朝、写真師を呼んで撮られたものです。
 この日の午前中、宮中において行われます殯宮祭に列席するため、希典は陸軍大将の正装、静子夫人は喪の礼装でした。
 長山靖生氏は、このときの秋尾写真師の談話を、大正元年の新聞で見つけられたそうなのですが、最初は、希典一人の写真を撮る予定でしたが、「奥様の写真もご一緒にいかがか」と、写真師が勧め、残りの2枚も撮ったのだといいます。

 希典一人の写真をご覧ください。
 胸に大きな勲章をつけていますが、これは、バス勲章(グランド・クロス)ほか、イギリス王室から授けられました勲章なんです。
 明治大帝大喪礼に参列されるために、同盟国のイギリスから、ヴィクトリア女王の三男で、エドワード7世の弟にあたりますコンノート殿下が来日されていて、希典は、海軍中将坂本俊篤とともに、接伴役を務めていたんですね。
 そのコンノート殿下が、希典の写真を所望されていたんです。


 
 自刃の2日前、コンノート殿下とともに馬車に乗っている希典です。
 コンノート殿下は、イギリス陸軍に所属されていたこともあり、旅順の名将・乃木希典のファンでおられて、ぜひにと求められたものですから、希典は公式行事の前の慌ただしい中で、バス勲章を着用して写真を撮ったんです。

 その夜、自刃しました希典は、接伴役を務め終えないまま世を去ることについて、コンノート殿下へのおわびの言葉も残しています。

 前年の明治44年(1911年)、ジョージ5世の戴冠式に東伏見宮殿下、妃殿下が列席されるに際し、希典は海軍の東郷平八郎とともに随行し、イギリスにおいてはもちろん、歴訪した欧州各国で熱烈な歓迎を受け、勲章をもらっていました。

 芥川龍之介は、別に乃木将軍を貶めているわけではありませんで、世代の感覚のちがいをうまく短編に仕立てているのですが、コンノート殿下に求められたがために写真師を呼んでいたのだと、もしもそれを知っていたとすれば、とても書けない小説ですし、実像ではなく、イメージが先行しています点では、司馬遼太郎氏の先達だったわけです。

 続きます。

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明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol4

2014年04月12日 | 乃木殉死と士族反乱

 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3の続きです。

 前回に引き続き、大庭柯公につきましては、久米茂氏著『消えた新聞記者』(雪書房)を、乃木希典につきましては大濱徹也氏の『乃木希典』を、主に参考にさせていただきます。

乃木希典 (講談社学術文庫)
大濱 徹也
講談社


 内田魯庵著「二葉亭四迷の一生」(青空文庫)で見ますと、ハルピンの二葉亭四迷は、日本人を警戒する状況の中で長くはとどまれなかったようなのですが、しかし「哈爾賓(ハルビン)を中心として北満一帯東蒙古に到るの商工業、物産、貨物の集散、交通輸送の状況等を細つぶさに調査し」とありまして、日露戦争になった場合を想定すれば、ロシアの極東への鉄道輸送、集荷力を、日本は知っておく必要がありますから、おそらく、これこそが目的で、柯公とともに活動したものと思われます。

 大陸での戦争におきまして、当時、鉄道輸送は決定的な役割を果たしていました。
 最初に、鉄道によります効率的な兵站で、画期的な成果を挙げましたのは、1866年(慶応3年)、普墺戦争におきますプロイセン参謀本部です。
 普仏戦争と前田正名 Vol5に書いておりますように、4年後の1870年(明治3年)にはじまりました普仏戦争におきまして、プロイセンのフランスに対する勝利は、兵員、物資の鉄道輸送の差で決した、と言っても過言ではありません。
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争イギリスVSフランス 薩長兵制論争2を見ていただければと思うのですが、明治新政府の陸軍は、長閥主導でフランス兵制をとります。それがやがて、やはり長閥主導でドイツ兵制に転換していくにつきましては、普仏戦争にプロイセンが勝利し、ドイツ統一がなされたことが大きく影響しています。

乃木希典 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


 福田和也氏の『乃木希典』には、明治20年(1887年)から1年半にわたります、希典のドイツ留学に際して、最晩年のヘルムート・フォン・モルトケに面会したことが記されていまして、同時にプロイセン軍の参謀総長だったモルトケこそが、普仏戦争を勝利に導き、近代戦の代名詞になった人物だとして、以下のような実に的確な解説を加えてくれています。

 モルトケのしたことを、素人講釈で乱暴にまとめれば、「計画」の一語になる。
 戦場の主役を、運命の女神から、列車や輸送部隊のダイヤグラムに変えてしまうこと。
                                  

 乃木希典が、帰国後にまとめた意見書は、なぜか「いかに軍紀を保つか」ということにつきているのですが、しかし本場ドイツで学んだわけなのですから、近代戦の基本が兵站であることは、熟知した上でのことだったでしょう。
 えーと、だとすれば、二葉亭と柯公は、希典を通じて陸軍の委任を受けていた線も、ありですかね? どちらかといえば盛り上がり気分だけが先行しそうな彼らが、実際の役に立ったかどうかは別にしまして、普仏戦争直前のプロイセン軍も、多くの探索者、いいかえれば民間スパイを、進軍予定地のアルザス、ロレーヌ地方に放っていたのですし。

 二葉亭は、ハルピンから北京へ行き、明治36年に帰国。翌明治37年(1904年)、日露戦争がはじまってまもなく、大阪朝日新聞社に入社します。新聞記者となりました二葉亭の活動は、魯庵によりますと、以下のようです。

 折角苦辛惨澹して拵こしらえ上げた細密なる調査も、故池辺三山が二葉亭歿後に私に語った如く参謀本部向き外務省向きであって新聞紙向きではなかった。例えば当時『朝日新聞』に連掲された東露及び満洲輸送力の調査の如きは参謀本部の当局者をさえ驚嘆せしめたほどに周到細密を究めたが、読者には少しも受けないで誰も振向いても見なかった。

 どうも、結局、役に立ったということ、だったようです。

 柯公の方は、一年ほどで帰国し、日露開戦に伴って陸軍に出仕し、前線で通訳を務めます。
 終戦後は、静岡のロシア人捕虜収容所で通訳を務め、当時の捕虜収容所はとても自由なものでしたので、ここで柯公は、多くのロシア人知己を得ます。
 明治39年、捕虜収容所解散と共に、柯公はウラジオストクに渡ります。このとき柯公は、十数日間拘禁され、一説に、ロシア革命支持の文書を持っていたから、といわれているそうですが、1905年(明治38年)、第一次ロシア革命の直後です。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2をご参照いただきたいのですが、第一次の時のロシア革命は、穏健な改革派の支持も得ていまして、柯公が最初のウラジオストク滞在で知り合ったニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフも、立憲民主党員として革命運動に加わっていましたし、捕虜収容所で知り合った人々にも革命支持派は多かったでしょうから、十分にありえることです。

 しかし、帝政ロシアの日本人拘禁は、後年のボルシェヴィキ独裁政権の「そのまま投獄、惨殺され行方不明も珍しくない」といった無茶苦茶なものではなく、柯公はすぐに釈放されたものですから、「帝政ロシアがそうだったのだから、社会主義政権ならば絶対に大丈夫」と、思い込んで、足をすくわれる遠因になったのかもしれません。

 ともかく。
 帰国した柯公は、ここで、34歳にして大阪毎日新聞の記者となります。
 日露戦争の結果、極東ロシアと日本の経済関係は濃密なものになりましたし、西欧列強の一員でありましたロシアにまがりなりにも勝ったということで、一般日本国民の視野が海外へとひろがり、外国語がわかり、国際感覚のある記者が、求められるようになってきていました。
 二葉亭にくらべまして、柯公は新聞記者に向いていたようでして、特派員としてオーストラリアへ渡ったり、フィリピン、満州、韓国、シベリアへ赴いたほか、軍艦生駒に便乗して、南米、欧州、中東、中央アジアと、ほぼ世界一周。
 明治44年(1911年)には東京日日新聞に転じますが、短期間で辞職。「外交時報」を主催し、国際情報誌「イースタン・レビュー」を発刊するなど、明治末年の柯公は、充実したジャーナリズム活動とともにありました。

 そして、明治天皇が崩御し、乃木希典が自刃します。
 その自刃の直後、しみじみと追悼文をつづっているのですが、それは、「(私は)将軍や夫人に特殊な知遇をかたじけなうしたものであります」という言葉からはじまっていました。
 見てまいりましたように、少なくとも柯公は、26歳にして善通寺の第11師団でロシア語を教えたあたりから、日露戦争時の通訳まで、希典の世話になっていたと思われ、その従軍経験は、ジャーナリストとしての柯公をも生み出しもしたわけですから、その言葉には、真情がこもっています。

 また久米茂氏は、柯公が希典だけではなく、静子夫人にも傾倒していたとして、以下のように記しています。

 (柯公は)乃木を語ろうとして静子を語り、静子を語ろうとして乃木を語る……というぐあいに、柯公にとって乃木夫妻は精神のひとつの拠りどころであったようである。 

 なぜ、それほどまでに柯公は、乃木将軍を慕っていたのでしょうか?
 久米茂氏が挙げておられるのは、もちろんまずは、幕末、柯公の父・伝七と希典が長府報国隊の同志で、第二次長州征伐の小倉口で戦った戦友であったこと。
 もう一つは、日露戦争において、ともに肉親を失っていること、です。
 希典が陸軍に奉職していました息子二人を失ったことは有名ですが、実は山縣の書生を努めて軍人となった柯公の長兄も、日露戦争で戦死したんです。 
 柯公は、陸軍長州閥の親玉・山縣有朋を心底嫌っていましたし、おそらくそれは、希典もそうです。
 だからこそ柯公は、長兄の生き方に批判的でしたけれども、近代国家としての日本が、西洋列強と互角になるためにすべてをかけて戦った日露戦争に、指揮官として命をささげた長兄の存在は、柯公の中で、慕わしいものに変わっていたでしょう。

 したがいまして、久米茂氏が挙げられた二つの理由は、もっともではあるのですけれども、これに関連して私は、柯公が「吉田松陰」で書いたことの方を重視したいと思います。
 久米氏によれば、「(柯公の)松陰論はロシア革命直後に書いた。大正七年の四月である。ロシア革命の成功を喜び、革命に奮闘した人間を思いうかべて書いたことが、文中からわかる」ということでして、これは、主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』の最後に書いておりますが、田中彰氏が取り上げておられる大正7年(1918年) 大阪朝日新聞連載のものです。

吉田松陰―変転する人物像 (中公新書)
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中央公論新社


 柯公の「吉田松陰」は、柯公全集の第五巻に収録されているそうなのですが、うちの方の図書館には、大学を含めてないですし、買うには高価ですし、ねえ。ふう。
 久米茂氏の『消えた新聞記者』から孫引きさせていただきます。
 久米氏によれば、柯公は、乃木将軍の自刃が、萩の乱に参加した人々の悲憤の死につながっていると見て、以下のように書いているのだそうです。

 「松下村塾の門人中には、明治九年の前原の乱に組みし、戦死または自殺をしたものが多く、乃木大将の令弟もその一人としてこの乱に戦死し、松陰の叔父、玉木も割腹して果てられた。これより三十五年の後に、この玉木の家に久しく教養された大将が、その叔父の最期に似た、いさぎよい最期をとげられたことは、決して偶然ではない」

  柯公は、父の伝七の、そして希典の、幕末の体験談に耳を傾け、身近に感じながら松陰を尊敬し、維新が革命であったことを信じていました。

 1905年にきざしたロシア革命が、その初幕の大成した昨年(大正6年ー1917年)までには、十年の歳月を経ている。松陰が刑戮された安政6年から、明治の維新まではちょうど十年の日子がすぎている。したがって、世界主義の宣伝に浮き身をやつした佐久間象三はロシア革命の長老プレハーノフに比すべく、松陰はケレンスキー、高杉はレーニン、前原一誠はトロツキーともみることができる。前原は維新後まで生きのびたが、彼のような熱血児は、もはや平凡な明治廷臣の群には堪え得なかった。かの萩の乱は、じつは松下村塾に養われた慷慨鬱勃の気の、太平時における爆発ともみるべきである。 

 い、いや、これ、十月革命の後に書かれたものなのですから、ケレンスキーはすでに亡命していますし、もう少し情報が入っていてもよさそうに思うのですが、しかし。尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5の最後に出て参りますが、ニコラエフスクのユダヤ人一家で、結局、日本に亡命しましたリューリ一家も、大正8年(1919年)まではウラジオストクにいたわけですから、あるいは柯公のボルシェヴィキ独裁政権への高評価も、致し方のないものだったのかもしれません。
 ロシア革命から百年の月日が流れ、なにがどうなったのか、かなりの情報を持っております私としましては、「レーニンは、柯公さんの大嫌いな山縣有朋に大久保利通をプラスして、悪魔をかけあわせたような怪物でしたよ!」と、時をさかのぼって教えてあげたい気分です。

 柯公は、山縣有朋だけではなく、金銭に汚い井上馨や、そして伊藤博文なども、大嫌いでした。

 「かくいさぎよいものは、皆お先へと御免を蒙って、権勢に憧れ、名に囓り付き、財に執念し、色に耽溺するものだけが、松陰没後の六十年後にまで生き残って、至誠真勇の長州人を、才子肌の長州人に俗化し、更に陰険私心の長州人と下落させてしまった『長州人』は、じつに憎いかぎりだ。
 一体、長州出身の政治家ほど、得手勝手な政治振りを続けたものはすくない。」
 

 実は大正5年(1916年)、大正天皇即位にともない、ようやくのことで、前原一誠は従四位を追贈され復権を果たしました。ちなみに、これと同時に桐野利秋も正五位を追贈され、明治が終わって、ようやく、西郷隆盛一人ではなく、士族反乱にかかわった多くの人々の名誉が回復されたのですけれども、しかし。
 柯公にとりまして、それは遅きに失したことであり、大正の御代になってなお、陸軍中枢に陣取ります長州閥は、心底がまんのならないものだったようです。

 「当世の将軍連中ときたら、かの二宮尊徳をひんまげてかつぎまわっている怪しげな団体と手をむすび、全国の青年を掌中ににぎって何事かをたくらんでいる。かれらは、青年特有の活気をそぎ、その特権である自由を奪い、その溌剌の気、鋭俊の風を銷摩させようとしている。しかも彼等は軍閥の旨を奉じた軍人を先頭に、青年団の旗を押し立て、好んで乃木神社や松陰神社へまいる。ところが、貴族の子弟を罵倒し、叱咤したのが乃木将軍であり、個性の自由発育を、児童教養の神髄としたのが松陰である。」

 その元凶は、なんといいましても、山縣有朋です。

 「智謀の如くにして陰険、誠実の如くにして実は老巧、公平をよそおって実は朋党をつくり、謹厳の如くにして実は横着……屋上屋を架した会合をもったり、枢機秘密の奥の院やらを、小田原ういろうの産地からあやつっている老人ー山縣」 

 そしてもちろん、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2の最後に提示しておりますが、希典の乃木家絶家遺言を、山縣を中心とします陸軍長閥が握りつぶしたことについて、柯公は激怒しておりました。

 「遺書を改除するような不心得な連中が大きな顔をして(乃木家の)親戚会議などに出しゃばるところをみると、この先何が始まるか分らぬ。大将や夫人がつねに家名を尊ばれたことを知っている私は、意志に反する乃木家継続などという小人共の小細工が一番気にかかる」

 この問題につきましては、次回にこそ、そこまでたどり着くつもりでおりますが、あるいは柯公は、希典の国家への遺言をも長州閥は握りつぶした!ということも、知っていたかもしれません。
 といいますのも、柯公は最後、読売新聞に入社して、特派員の形で極東共和国へ入るのですが、柯公がソビエト・ロシアで消息を断った翌年、大正11年の9月10日に、「国勢は軍隊にのみ頼って存立上の安心を得られるものではない。軍隊に頼ることは決して国家の発展を促すものではなくして、かえって阻害するのみか遂には存立をさへ危くするものである。軍隊の拡張は経費の膨張によって国民に苦痛を与へ、外には軍国的の誤解を招いてかえって危険が多い。日本の現状はこの弊を改めなければならぬ時機にある。軍備縮小による内容充実は青年団少年団等の国民的団結を益々訓練し平和的に備えておけば良い」 と、軍縮を訴えます希典の国家的遺言の片鱗を掲載しましたのは、読売新聞だったんです。

 希典は、死の直前にも、陸軍長州閥の田中義一に軍縮を訴えていたのですし、こんなことを知っていたのは、同じ長府の出身で、希典と個人的にごく親しかった柯公しかいなかったのではないか、と私には思えるのです。

 柯公は大正3年(1914年)、東京朝日新聞に乞われて特派員となり、ロシア・ペトログラードに赴いて、第一次世界大戦東部戦線への従軍取材を実現しているのですが、このときの記者団のうち、ロシア人5人、フランス人1人、アメリカ人1人が知日派だったといいます。そのアメリカ人記者は、日露戦争で旅順の取材をし、乃木将軍に傾倒して、後に『乃木大将と日本人』を記したスタンレー=ウォシュバンでして、これは柯公にとって、非常な喜びであったようです。

乃木大将と日本人 (講談社学術文庫 455)
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講談社


 このときの柯公の記事は、前線の悲惨さをリアルに伝えていまして、後世に残ってしかるべき仕事だったと思うのですが、その第一次大戦が呼び起こしましたロシア革命は、結局、ボルシェヴィキ独裁という未曾有の怪物を生み出し、ちょうど尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7で書きました異常事態の中へ、柯公は飛び込んで、消息を断ちます。

 「西郷隆盛は実は生きていて、ロシアの軍艦で帰国する!」という明治日本人の夢に導かれ、ロシアに親しんだ柯公は、第二の明治維新をロシア革命に見てしまい、リアルな状況判断ができなかったのでしょう。あるいは、吉田松陰の革命家としてのオプティミズムを、柯公はだれよりも素直に、受け継いでいたのかもしれません。
 
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明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3

2014年04月08日 | 乃木殉死と士族反乱

 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2の続きなのですが、主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』の続き、でもあります。

 なんといいましても、大庭柯公!です。

柯公全集 (第1-5巻)
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柯公全集刊行会


 全集が復刻されているのですが、なにぶん高価でして、迷っています。
 下の本は、比較的手に入れやすく、大庭柯公のロシアに関する革命以降の著作をまとめたもので、柯公がボルシェヴイキ独裁の闇に呑み込まれる直前の大正10年(1921年)、極東共和国の状況を記した記事も収録されています。

露国及び露人研究 (中公文庫)
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中央公論社

 
 とりあえず、これも絶版なのですが、大庭柯公の唯一の伝記、久米茂氏著の『消えた新聞記者』(雪書房)を手に入れました。
 著者は佐賀県出身の産経新聞の記者さんだった方で、大正12年(1923年)生まれですから、司馬遼太郎氏と同じ年で、同僚でいらしたことになります。
 『消えた新聞記者』が書かれましたのは、昭和43年(1968年)。司馬氏が産経新聞で『坂の上の雲』を連載し始めた年なのですが、時代の空気なんでしょうか。奇妙なまでにロシア革命は肯定されています。ソ連が崩壊してしまった現在、うへー、と思う記述も多いのですが、そういう時代だったんですよね、当時は。

 主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』に書きましたが、大庭柯公は、「長州奇兵隊のスポンサーだった白石正一郎の弟で、長府報国隊の参謀となりました大庭伝七の三男」でした。しかし本人は、「長閥の子」と題された文章に、こう書いているのだそうです。

 「いまでは、奇兵隊が編成された馬関(下関)の家に生まれたことを誇りとしていた父も、バリバリの長州軍人で有頂天になって、そのため二度までも休職になった長兄も、勤皇家の後裔を売り物にした次兄も、みないっしょに、青山の墓地の一角に冷くねむっております。散歩のついでに父の墓に立ち寄って、その前に立つと、いつも四十年来の経過がかれこれ思い出されてくるが、その感想の第一には、わずか十数年さきに生まれた二人の兄は、ともかくも長閥謳歌者でその一生を終っているのに、わずか十数年ちがいの私は、防長人(山口県人)の中で故人としてはただ前原一誠一人を慕い、今日の人としては河上肇博士の研究に同一の趣味をもつようになったことの、そのかなり大きな思想上の変遷を、いつもしみじみ感ぜぬわけにはいかぬ」 

 前原一誠は、民富まずんば仁愛また何くにありやで描きましたが、萩の乱の首謀者でして、高杉晋作がもっとも信頼していた人物であり、その実弟・山田頴太郎は、桐野利秋が熊本鎮台司令長官だったときの直接の部下でして、小倉の連隊長を勤めていました。
 明治6年、桐野が下野して鹿児島に帰りました後も、小倉に留まっていたのですが、新政府中枢からは、萩の士族が前原を中心として兵を挙げたとすれば、山田は鎮台兵を引き連れて呼応し、それが鹿児島の桐野への呼び水になりかねない、と危惧されていました。
 それがために、なんとか山田頴太郎を辞めさせようと、その後釜に乃木希典をもってきたんです。乃木の実弟は玉木正誼で、これがまた前原一誠と親しかったため、山田が辞めてもその部下の動揺が少ないだろうと見られていたようなのですが、このことはまた、あらためて書きます。

 河上肇博士というのは、柯公より七つ年下で、長州の支藩的存在だった岩国の出身。マルクス経済学を研究し、共産主義者となった人です。
 治安維持法によって検挙された後、獄中で転向。太平洋戦争終結後まもなく、病没しました。

 柯公の父、大庭伝七は、天保3年(1832年)生まれですから、吉田松陰、大久保利通より二つ年下、木戸孝允より一つ年上です。
 長府は長州の支藩ですが、その長府にあって、高杉晋作の功山寺挙兵に共鳴した青年たちが中心になって結成され、藩に認められる運びになった隊こそが、報国隊です。
 大庭伝七は、実兄の白石正一郎とともに高杉とはごく親しく、功山寺挙兵に際しては、高杉から遺書を託されたほどです。
 
 伝七が参謀となりました報国隊には、嘉永2年(1849年)生まれですから、伝七より17年若い乃木希典が参加していまして、第2次長州征討におきます小倉口では、ともに戦いました。
 この戦いにおいて、報国隊は山縣有朋の指揮下にあったように書かれていることが多いのですが、長府藩士は山縣率いる奇兵隊を嫌っていまして、正式には高杉が指揮し、病に倒れた後は前原一誠が高杉の後を引き継いで指揮した、ということであった、と思われます。
 報国隊はその後、戊辰に際して北越戦争に従軍するのですが、乃木は参加しておらず、これについてはまた述べたいと思いますが、伝七が従軍しているのかどうかは、ちょっとまだ調べておりません。

 ともかく。
 長府報国隊にいたといいますことは、戊辰戦争においては勝者の側にいたわけなのですが、戊辰戦争後の奇兵隊脱退騒動にも見られますように、勝者の中の敗者になった者も数多くいまして、下手をしますと、敗者よりも恵まれない勝者もあったりします。

 大庭伝七も、幕末の活躍の華々しさにくらべますと、けっして恵まれた方ではなかったようです。
 維新後の秩禄処分により、大多数の士族が失業状態に陥ったわけなのですが、経済的に窮地に追い込まれたのは、決して武士だけではありません。
 それまでの城下町の経済は、武士の消費によって成り立っていたわけでして、その武士たちの消費が大きく落ち込んだのですから、近郊の農家も収入が目減りしますし、武家相手の商人も、例えば新政府の伝をたどって納入業者になるなど、うまく立ち回ったごく一部を除いては、生活が成り立たなくなっていきました。
 大年寄だった大庭家もまた落ちぶれます。

 柯公は明治5年、父伝七47歳、母40歳の時に、長府で生まれました。
 長兄とは17も年が離れ、次兄も13年上です。
 柯公が生まれた頃、すでに長兄は東京へ出て、軍人としての道を歩き始めていた様子なのですが、「山縣有朋宅に書生に住み込んだ」結果、それは得られたことでした。
 幕末、高杉晋作の大きな信頼を得ていました伝七にしてみましたら、維新後の山縣と自分の立ち位置の格差に、愕然とせざるをえなかったのではないでしょうか。

 明治9年、柯公5歳の年に、伝七は故郷長府を後にせざるをえなくなります。
 経済的な行き詰まりも大きかったのでしょうけれども、明治9年といえば、萩の乱が起こった年です。
 後年の柯公の前原一誠への傾倒から逆算しての話なのですが、あるいは伝七は、士族反乱への関与を疑われて、故郷に居づらくなったのではなかったでしょうか。
 このとき、柯公の母親は長府に残ったもようで、幼い柯公は母と生別。2年後に、母は長府で病没します。

 伝七一家が最初に落ち着いたのは大阪です。
 伝七がありついた職は、大阪府庁の学務課でした。
 幕末の伝七の功績からしますならば、たいした職ではないのですが、上司に日柳燕石の息子・日柳政愬がいて、なにしろ燕石は、高杉晋作を匿って、身代わりに高松藩の牢に囚われた人ですし、やはり高杉と格別な関係にあった伝七にとっては、居心地のいい職場だったのだそうです。

 しかし、大阪にいたのは1年ほどで、東京で軍人になっていた長男の勧めがあり、伝七一家は徒歩で東海道を上り、東京へ向かいます。
 落ち着いた先は、四谷鮫河橋町88番地。うーん。
 四谷鮫河橋も広いのかもしれませんが、鮫河橋谷町は、有名な貧民街です。
 まあ、伝七一家が食い詰めて上京したことは確かですので、相当に貧しい生活であったのではないでしょうか。
 伝七は、息子二人の勧めでなけなしの持ち金をはたいて洋服をあつらえ、長州閥の縁をたどって就職活動。
 結局、佐久間良一という人物が口をきいてくれて、太政官文部省の末端役人にひろわれます。

 柯公は四谷小学校へ通うこととなりましたが、伝七は上方から愛人を連れてきて家事を任せており、その愛人の母親も同居しているところへ、柯公の姉が身ごもって出戻ってきます。愛人の母親は、柯公に親切だったそうなんですが、女たちは三つどもえの不和で、柯公は家庭の愛情とは無縁に育ちました。
 そして伝七は、明治18年(1885年)、柯公が満13歳のころに、幕末の活躍、その教養の高さと引き比べるならば、不遇ともいえる境涯のまま、病没します。
 とはいえ、柯公の長兄は軍人に、次兄は役人になっていて、それはやはり長閥のおかげだったわけなのですが、末弟・柯公のめんどうをみるほどの出世ができていたわけでもなく、柯公は小学校を卒業後、13歳にして太政官の給仕となり、やがて書紀に取り立てられて、独学にはげむこととなりました。

 柯公をジャーナリズムの道へ導いたのは、ロシア語でした。
 教師は、佐賀藩出身の古川常一郎です。佐賀藩の留学生として、明治初年にロシアに渡った人のようでして、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編に書きましたように、佐賀藩は北方防備に積極的でして、明治2年、開拓使の前身であります蝦夷開拓御用局が設置されたときには、その長官(総督)に元佐賀藩主の鍋島閑叟がなっていますので、先々を考え、ロシアへ藩費留学生を送り出したらしいんですね。鍋島閑叟に見込まれた佐賀藩士ですから、古川常一郎は相当な秀才だったとみえ、帰国後、日本におきますロシア語の第一人者となり、二葉亭四迷のロシア語師匠として知られています。

 柯公がロシア語を習い始めたのは、明治24年(1891年)だそうでして、なぜロシア語を? という動機に関して、久米茂氏はなにも書いていないのですが、私は、この年のロシアの皇太子(ニコライ2世)来日によるところが大きかったのでは、と思います。
 実は、ですね。後に革命で惨殺されることになりますニコライ2世は、このときの軍艦による来日におきまして、最初の寄港地は長崎、次いで鹿児島に足を運んでいるんですね。
 江戸時代からの開港地で、ロシアとの交易関係が深い長崎はともかくとしまして、なぜ鹿児島? という疑問は普通に浮かびますし、あるいはこの事実から生まれたとも思えるのですが、「西郷隆盛は実は生きていて、ロシアの軍艦で帰国する!」という記事が、新聞を賑わせたんです。

 大津事件 ~ロシア皇太子遭難をめぐって~(アジ歴)

 上のアジ歴のページでも、ニコライを襲った津田巡査の思惑を同僚が証言して、「露国の皇太子が日本に御出なら先ず東京に御出になるべきに鹿児島に一番に行かるるは西郷あるがためなるべし」 と述べています。
 
 この2年前、憲法発布に伴います大赦で、士族反乱で賊とされた人々のうち西郷隆盛のみは、薩閥の強い働きかけで赦され、正三位を追贈されました。
 西郷隆盛一人は、賞賛することも明治政府のお墨付きになりました中で、自由民権運動の火は消え、政治的変革を求める青年たちの間では、閉塞感がただよっていたといえるでしょう。
 後年、柯公が前原一誠に傾倒していたにつきましては、憶測にすぎないのですが、父伝七の影響も大きかったように感じます。前原と、伝七はともに戦ったのですし、前原こそが高杉の維新変革の志を継ぐ人物、と考えていた可能性は高いのです。
 その前原を、長州閥は賊のままに放置していたのですが、もしも西郷が生きていて、ロシアの軍艦で帰ってくるのならば、中央でのさばる長州閥は退けられ、前原の敵討ちもかなうはずです。
 「西郷隆盛は生きていて、ロシアの軍艦で帰国する!」といいます、日本国民が見た夢に青年柯公は共鳴し、文化露寇以来の日本の宿敵でありながら、そんな夢を育んでくれたロシアという国を、知りたくなったのではないでしょうか。

 ともかく。
 5年後の明治29年、柯公はロシア極東ウラジオストクの商社に、通訳として職を得ます。
 この時代に、柯公はさまざまな人物と知り合いました。
 ロシア人で筆頭にあげられるのは、最初に函館で生まれたロシア人、ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフ。

  函館-ウラジオストク交流の諸相  特別寄稿 まるで現代そっくり(日露交流史研究会)

 上のページによれば、大正8年(1919年)、柯公が最後にロシア入りする2年前に日本へ亡命してきているのですし、どれほどにボルシェヴィキ独裁政権が非情なものか、じっくりと聞いておけばよかったのではないかと思うのですけれども。

 日本人で特筆すべきなのは、内田良平です。この人の叔父の平岡浩太郎は、福岡藩士として戊辰戦争に従軍し、明治6年政変後、土佐立志社に応じて自由民権運動に邁進し、西南戦争に呼応して福岡の変を起こし、敗れた後も単身、西郷軍に参加した人です。叔父の影響を強く受けました内田良平は、アジア主義者であり、中国の孫文、インドのラス・ビハリ・ボース、フィリピンのエミリオ・アギナルドなど、アジアの革命独立運動を支援しますが、また黒龍会を主催し、叔父が参加した西南戦争の記録を残しもしました。
 つまり、ですね。柯公が内田良平と意気投合したにつきましては、自由民権運動とつながっていました士族反乱に共感し、前原一誠を尊敬していたことと、無縁ではなかったでしょう。
 柯公は、ウラジオストク滞在2年の後、福岡の炭鉱に職を得ているのだそうなのですが、久米茂氏は、内田良平の紹介で、平岡浩太郎が経営する炭鉱に就職したのではないか、と推測しておられます。

 その後まもない明治31年(1898年)の暮れ、柯公は讃岐善通寺の陸軍第十一師団に招かれ、将校たちにロシア語を教えることとなりますが、これはあきらかに、乃木希典に呼ばれたものと思われます。
 
乃木希典 (講談社学術文庫)
大濱 徹也
講談社


 大濱徹也氏の『乃木希典』は、手に入りやすく、なお良質の伝記です。

 希典は、明治31年10月、第十一師団長に就任し、香川の善通寺へ単身赴任しますが、明治33年に起こりました義和団の乱に際して、連合軍として鎮圧に参加するため、乃木配下からも臨時派遣隊が出ます。このときの列強連合軍は、派手に略奪をくりひろげたことで有名ですが、規律正しかった日本軍も、まったくの例外とは言えず、私的といいますよりは組織ぐるみなのですが、指揮官レベルでの略奪はありました。天津での日本軍は、大量の馬蹄銀をぶんどり、それに部下の指揮官がかかわっていたらしいことを恥じまして、翌明治34年、希典は辞表を書き、依願休職します。
 どうやらこのとき、希典は柯公を推挙したらしく、柯公は参謀本部つきになりましたが、一年で辞職し、満州の大連やハルピンを放浪したのだそうです。

 休職中の希典は、那須の別邸で農業に励みます。
 これは、少年の頃の玉木文之進の教えに従ったものなのでしょうけれども、 那須の開拓地は大きく、実質的には実弟・大館集作が農園を取り仕切り、妻・静子も手伝って、人を雇っていたそうでして、希典が思い描いていたのは、ドイツのユンカーやイギリスのジェントリの日本的あり方であった、といえるでしょう。

 明治35年、その那須の希典のもとを、柯公が二葉亭四迷を連れて訪れています。
 二葉亭四迷といえば、文学者として高名ですから、大濱徹也氏も「農人故に乃木は注視の的となり、軍人以外の多様な人々の訪問をうけるようにもなった」ことの一環として、二葉亭四迷の訪問を記しておられるのですが、さすがは大濱氏です。二葉亭四迷の訪問が二度におよび、そして、二度目はハルビンへ出発のいとまごいであったことから、「あるいは風雲急をつげるロシア問題につき、日清戦争で旅順を陥した乃木の意見を聴するためのものであったかもしれない」 とも記しておられます。

 日露戦争の2年前です。
 このとき、柯公もともに満州へわたった、ということになるようなのですが、二葉亭四迷の方は、ハルピンに新しくできる日本の商社の顧問になるための渡航だった、といいます。満州のハルピンは当時、東清鉄道の付属地で、ロシアによって開発され、ロシア人の自治が行われていた都市です。

 内田魯庵著「二葉亭四迷の一生」(青空文庫)

 内田魯庵著の「二葉亭四迷の一生」によりますと、ハルピンの商店の顧問に招かれただけではなく、「ある筋からの使命を受けていた」 、つまり、「軍部から探索の使命をおびていたのではないか」という噂があったそうなのですが、結局魯庵は、以下のように否定しています。

 二葉亭は早くから国際的興味を有して或る場合には随分熱狂していた。が、秘密の使命を果すに適当な人物では決してなかった。二葉亭の人物を見立ててそんな使命を托する人もあるまいし、托せられて軽率に応ずる二葉亭でもなかった。 

 これはおっしゃる通りで、二葉亭だけではなく、柯公にしましても、決してスパイが務まるような性格ではないのですが、二人して乃木希典を訪ねての渡航だったとしますと、二人の目的としましては、憂国の情に駆り立てられ、ロシア語がたっしゃな自分たちならば、なにか日本にとって有益な情報をさぐりえるはず、ということだったのではないでしょうか。

 ちなみに、「二葉亭の伯父で今なお名古屋に健在する後藤老人は西南の役に招集されて、後に内相として辣腕らつわんを揮ふるった大浦兼武(当時軍曹)の配下となって戦った人だが、西郷贔負(びいき)の二葉亭はこの伯父さんが官軍だというのが気に喰くわないで、度々たびたび伯父さんを捉つかまえては大議論をしたそうだ」 ということでして、前原一誠びいきの柯公と、ここでもぴったり気があっていたのでしょう。

 長くなりましたので、次回へ続きます。

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明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2

2013年10月29日 | 乃木殉死と士族反乱

 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1の続きです。

 まずは、ですね。
 私がなぜ、乃木将軍が大嫌いだったのか、ですが、原因は、司馬遼太郎氏です。
 しかし、氏が「坂の上の雲」で描きました乃木さんの野戦指揮官としての無能ぶり、ではありません。これは、あんまりにも極端な描かれ方がされていまして、「ちょっと、ありえないよねえ」という感想を、最初から持っていました。
 だいたい、要塞の攻略には、当時、どこの国の軍であろうが、手こずるのが常でしたし、しかし、ロシアが太平洋をにらんで築きました海軍基地・旅順を攻略しなければ、日本がロシアの極東支配を押し返すことはできません。北京駐在イギリス公使でしたアーネスト・サトウをはじめ、日露戦争に関心を寄せ、なおかつ客観的に批評できたはずの外国人の誰もが、日本軍の旅順攻撃を賞賛し、乃木を評価しているんです。

 司馬氏の乃木無能説に対します批判を、私が最初に読みましたのは、入江隆則氏の「敗者の戦後」なんですが、現在ではもっと詳細な批判としまして、別宮暖朗氏の著作(デジタル版)などもあります。

 
敗者の戦後 (ちくま学芸文庫)
入江 隆則
筑摩書房


旅順攻防戦の真実 乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)
別宮 暖朗
PHP研究所


 司馬氏が描いた乃木希典、といえば、「殉死」ですが、大嫌いになりました原因は、これでもありません。
 「殉死」にも、うるさいくらいに乃木無能説が出てくるのですが、実は司馬氏は戦略とか戦術とかの話が苦手なのではないのか、と達観してしまいますと、司馬氏が描きます乃木さんの人柄につきまして、共感を抱いたとか、理解できたとか、というわけではないのですが、こういう人もいたんだろうなあ、と感嘆しますような、リアリティは濃厚にあったんです。
 といいますか、乃木さんは私にとりまして直接資料にあたるほど関心があった人物ではなく、人柄としましては、司馬氏の巧みな筆で描かれました「殉死」の乃木像に、説得されてしまった、ということなのでしょう。

殉死 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋

 
 私が「翔ぶが如く」を読みましたのは、「殉死」の後でした。
 いうまでもなく「翔ぶが如く」は、西南戦争を主眼として描いていますから、萩の乱に関する著述はさして多くはなく、乃木さんが登場しますのも、ほんの短い場面にすぎないのですが、なにしろ、「殉死」に説得された後でしたので、私は、司馬さんの描写を丸ごと信じ込んでしまいまして、信じ込んだあげくに、ここで、乃木さんが大嫌いになってしまった、というわけなんです。

翔ぶが如く〈7〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 なんでって……、乃木希典の実弟・玉木正誼は萩の乱に参加し、戦死しているんですが、その当時、希典は熊本鎮台に属します小倉で、連隊長を務めていました。
 乱の直前、正誼はしばしば兄を訪ねて、兄や、その配下の将校たちに、反乱に参加することを勧めていました。
 以下、「翔ぶが如く」より引用です。

 乃木自身は、すこしも動揺していない。政治論議のできないかれは弟に対して議論はしなかったが、態度を硬くしていた。しかも弟が洩らした同志たちの動きを、東京の陸軍省や直属上官の熊本鎮台司令長官種田政明に報じていた。

 種田政明は、芸者衆に人気の美男子で、花の左門さまと呼ばれました薩摩人ですが、神風連の乱で不覚をとり、殺されます。
 士族反乱の最初は明治7年の佐賀の乱で、この時期、桐野利秋は、鹿児島の自分の開墾地で、江藤新平に応じて乱に参加し、逃げて来た二人をかくまっていまして、おそらくは警視庁初代大警視で薩摩人の川路利良が放ったと思われます密偵が、身辺をかぎまわっていたといわれます。反乱の予防のための偵察は警察の役目であって、それが川路の仕事です。
 しかし当然のことながら、熊本鎮台の種田はろくろく用心していた形跡もありませんで、だからこそ、ふいを襲われて殺されたわけでしょう。
 
 種田は直接の上官ですから、希典が報告を入れるのは当然と言えば当然なのですが、なんとなく司馬氏の書き方では、やらなくてもいい密偵の役目を積極的に買って出て、血のつながった弟とその同志を政府に売っていた、という感じを受けます。しかもその理由を、司馬氏は、希典が陸軍省で山県有朋の下にいました福原和勝大佐(陸軍長州閥の先輩)へ出した書簡の文面から、次のように説明しているんです。
 ちなみに、司馬氏はまったく説明してくれていないのですが、他の伝記を読みますと、実はこの文面、福原が山県の指示で希典の反乱軍への処置が甘すぎると詰問の手紙を出し、希典がそれに反駁した手紙の一部です。

 「私は弟に対し骨肉の情まで断ったのだ」という意味のことを、以下のようなはげしい文書で書いている。
 「希典の去年、この職(註・小倉の連隊長)を奉ずるより居常寝食の間といえども、意をこの騒乱の因起するところに注がざるなく、終に骨肉の親を絶て、おのれを知る者のために報ずるあらんとするは、はやくすでに足下の知了せらるるところなり」
 この前後の文章を読んでも、晩年の乃木のすきな天皇への忠誠心などについての文章は出て来ない。かれのこの文章に関するかぎり、弟を義絶(註・乱の直前)したのは国家への忠誠心ではなく、「おのれを知る者のために報ずるあらん」としたためである。おのれを知る者とは、自分をとりたててくれた陸軍卿山県有朋であることは、まぎれもない。


 いくつか伝記を読みました現在、「おのれを知る者とは、自分をとりたててくれた陸軍卿山県有朋であることは、まぎれもない」と司馬氏が決めつけています部分については、「ほんとに山県なの?」と疑問なんですが、この司馬氏の書き方では、「自分の立身出世のために実の弟を売ったんかいな!!!」と私が受け取りましたのも、無理ないのではないでしょうか。

 司馬氏は、必ずしも、まったく根拠のないことを並べている、というわけではないのですが、なんといえばいいのでしょうか、説明するべき部分を省き、拡大鏡で見た細部が全体像であると錯覚させるような描写で、「翔ぶが如く」だけではなく、実は「殉死」も、なのですが、乃木希典という人物を、読者が好ましく受け取れるようには提示していないのです。

 そりゃあ、ですね。
 西南戦争におきます中央政府側の薩摩人にも、血のつながった兄弟と戦わざるをえなかった例は複数あります。
 大山巌の伝記にある話なのですが、戦中に鹿児島入りしました巌を、実姉の国子が訪ねてきまして、「おまんさあ、どげなおつもりで戻ってきやしたか。大恩ある西郷先生に刃向かい、生まれ故郷を攻め立て、血をわけた兄弟に大筒をむけるとは、人間としてできんこつごわんそな。腹切りにもどってきやしたとごわんそな」と激しく詰めより、巌は返す言葉もなく押し黙った、といわれています。

 おおよそ、そういった逸話から伝わってきますのは、肉親に銃を向けざるをえなくなった人間のつらさ、ですが、司馬氏の描く乃木希典からは、さっぱりとそういった懊悩が伝わってきませんで、立身出世のために弟を売った男!が浮き彫りにされてしまっているんです。
 そんなわけで私は、いやな男だねえ!と、思い込んでしまったような次第です。

大帝没後―大正という時代を考える―(新潮新書)
長山 靖生
新潮社


 「大帝没後―大正という時代を考える―」の記述におきまして、私が乃木さんを見直すこととなりました要因は、おおざっぱに言って二つに分かれます。
 まずなによりも、乃木さんの残した遺言を、山県有朋を中心とします陸軍中枢長州閥が、徹底的に無視し、都合の悪い部分を隠蔽した、という事実。
 そして、それを知った上で、乃木さんの死に誘発されて書かれました森鴎外、夏目漱石の小説を読みますと、殉死そのものが、これまで言われてきましたこととは、ちがった見え方をする、ということです。

 まずは、遺言の話からはじめましょう。
 これに関します結論は、この本の最後の章に書かれています。
 よく知られた話だと思うのですが、陸軍に奉職していました乃木さんの子息二人は、日露戦争で戦死しています。
 そのため乃木さんは、乃木家断絶、爵位返上を遺言で遺族に指示し、遺族は忠実にそれを守りましたにもかかわらず、山県有朋をトップにいただきます陸軍長州閥は、遺族の困惑を無視して、旧長府藩主毛利家によります乃木伯爵家再興を強行し、乃木さんの最後の願いをたたきつぶしたんです。

 このことで、私がなによりびっくりいたしましたのは、なんと! 乃木さんの葬儀の喪主を務め、乃木家の祭祀を受け継ぎましたのは、萩の乱で戦死し、賊名をおびたままの玉木正誼の長男・玉木正之少佐!!!だったことです。
 私はそれさえ知らなかったのですが、玉木正誼が23歳の若さで戦死しましたとき、その妻は妊娠5ヶ月。一粒種の正之を身ごもっていたんだというんです。しかもその妻とは、吉田松陰の実兄・杉民治の娘。つまりは、松陰の姪なんです。
 希典は、残されました甥を愛育し、陸軍に奉職させた、というような次第です。

 この乃木伯爵家無理矢理再興問題に関しましては、井戸田博史氏の「乃木希典殉死・以後 伯爵家再興をめぐって」という研究書もありまして、次回、ゆっくりと書いていくことにします。

乃木希典殉死・以後―伯爵家再興をめぐって
井戸田 博史
新人物往来社


 さらに、長山靖生氏によりますと、乃木希典の遺言には、山県有朋や田中義一など、長州閥陸軍中枢の面々へ残した、非常に公的な「国家への遺言」といえるようなものがあったそうなのですが、その内容はついに、公表されることがありませんでした。
 しかし、殉死から10年、大正11年(1922年)になりまして、ようやくその一部が新聞に載ります。以下の引用は、大正11年9月10日付の読売新聞からだそうです。

 内容は軍機に関する詳細な意見と共に大体「国勢は軍隊にのみ頼って存立上の安心を得られるものではない。軍隊に頼ることは決して国家の発展を促すものではなくして、かえって阻害するのみか遂には存立をさへ危くするものである。軍隊の拡張は経費の膨張によって国民に苦痛を与へ、外には軍国的の誤解を招いてかえって危険が多い。日本の現状はこの弊を改めなければならぬ時機にある。軍備縮小による内容充実は青年団少年団等の国民的団結を益々訓練し平和的に備えておけば良い」と力説してある。
 これはかつて大将(乃木希典)が、当時軍務局長をしていた田中大将を陸軍省に訪うてこの意見を直接述べたが、会見の当時田中局長は「これは軍隊組織の根本改革で重要問題で、元老が反対するであろうから御意見の発表は憚って頂きたい」といったので、このところに最後の書面として申し残したものであるという。
 

 乃木さんが生前、田中義一を訪ねて軍縮を訴えたといいますのは、どうやら死の直前のことだったようです。
 明治44年(1911年)から大帝崩御の大正元年(1912年)いっぱいまで続きました第二次西園寺内閣は、陸軍の二個師団増設問題、つまりは財政難の中で陸軍が無理な軍拡を要求したことにより、倒れました。
 乃木さんは生前から軍拡反対を訴えようとしていて、軍拡を望んでおりました山県を中心とします陸軍中枢長州閥は、その意見を握りつぶしました。そこで乃木さんは、遺言でさらにそれを訴え、またも長州閥が握りつぶして、第二次西園寺内閣を倒してしまった、ということのようなんですね。

 今回、私、いろいろな伝記を読んで初めて知ったのですが、日露戦争後、乃木さんは、人情豊かな旅順攻略の名将として、世界的な知名度と国内的な人気を誇っていたわけでして、乃木さんが軍拡反対を唱えたとしましたら、陸軍の軍拡は世論の支持を失うでしょう。まして、それを遺言で残していたわけですから、さっぱり国民に人気がありませんでした山県有朋にしてみましたら、なんとも許しがたいことです。
 それにいたしましても、つくづく、山県有朋はいやな男です。

 次回、その山県がもくろみました乃木伯爵家無理矢理再興事件を探求しつつ、乃木さんを語ってみたいと思います。

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明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1

2013年10月25日 | 乃木殉死と士族反乱
 ご無沙汰しております。
 私が現在なにをしているかって……、本とコピー書類の片付けを延々と、です。
 この家を建てて以来、長年、ごちゃごちゃのぐちゃぐちゃの蔵書の上に、さらに本を買って積み重ねる感じでやってきまして、ついに限界が来ました。今年の6月くらいから片付けをはじめましたが、いまだ、とりあえずの処置としてダンボールにおさめました本と書類が20箱以上。本棚を片付け、買い足しもし、少しづつ入れていってはいるのですが、いまだめどがつきません。
 どうなりますことやら、なんですが、そんな中でも、書きかけた記事は何本かあります。
 書かないで置いておくと、なにを書きたかったのかさえ忘れてしまうのが常でして、まあ、別に忘れてもいいか、という題材も多いのですが、これだけはちょっと、桐野に関係してくることですので、書きつつ、考えておかねば、と。

 一応、民富まずんば仁愛また何くにありや一夕夢迷、東海の雲の続き、ということになるでしょうか。


 えーと、実は、ですね。私、自分が書きましたこのブログを、けっこう読み返しております。
 今のところ、自分で読みまして一番おもしろいのは、尼港事件とロシア革命シリーズです。ブログの楽しさは、動画にリンクが張れたりするところですが、ロシア革命はけっこう映像化されていますし、日本史と世界史の接点の最前線で起こった悲劇であるにもかかわらず、これまで日本では、ほとんど語られてこなかった事件です。

 読み返しつつ、第一次世界大戦前後の時代を、またいろいろと考えてしまいました。

Parisian Costume Plates in Full Color 1912-1914
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Dover Pubns


 第一次世界大戦が始まりましたのは、1914年(大正3年)です。
 19世紀末からこのときまで、欧州ではベル・エポックとよばれます華やかな消費文化の時代でした。交通、産業の近代化が進み、好景気にわき、中産階級の層が厚くなりまして、文化も大きな変化をとげていたんです。

 上の雑誌の表紙のファッションは、大戦直前のものですが、東洋風のゆったりとした直線的なシルエットで、コルセットを必要としません。
 コルセットって、きゅうきゅうに体をしめつけ、ウェストを細く見せる下着ですが、19世紀半ば、ちょうど幕末から明治にかけてのころには、ものすごく細いウェストが好まれ、しめつけすぎて気絶することもざら、という代物でした。
 
 明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
 つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。

 ところがこの第一次世界大戦の直前、まだごく一部の、パリでも最先端ののファッションに限って、でしたけれども、劇的に変わろうとしていました。
 20世紀初頭からパリで活躍しました新進デザイナー、ポール・ポワレが、コルセット追放を宣言したんです。

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『シャネル&ストラヴィンスキー』2010年1月16日公開 予告編


 この映画は、予告編にも出てきますように、1913年(大正2年)、大戦の前年にパリのシャンゼリゼ劇場で初演されましたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の「春の祭典」で幕開けます。残念ながら、予告編には出てこないのですが、観劇するシャネルは、コルセットをつけないで夜のドレスを着ます。

 とはいいますものの、パリにおいても、大戦以前には、シャネルのような最先端のファッションリーダーは別としまして、通常はコルセットをつけていました。
 1912年(明治45年/大正元年)、与謝野晶子が夫を追って渡欧しているのですが、青空文庫の図書カード:No.4290「巴里にて」は、そのときの晶子のエッセイで、以下のような記述があります。

 日本服を着て巴里の街を歩くと何處へ行つても見世物の樣に人の目が自分に集る。日本服を少しく變へて作つたロオヴは、グラン・ブルヴアルの「サダヤツコ」と云ふ名の店や、巴里の三越と云つてよい大きなマガザンのルウヴルの三階などに陳(なら)べられて居るので、然(さ)まで珍しくも無いであらうが、白足袋を穿(は)いて草履(ざうり)で歩く足附が野蠻に見えるらしい。自分は芝居へ行くか、特別な人を訪問する時かの外は成るべく洋服を着るやうにして居る。併し未だコルセに慣れないので、洋服を着る事が一つの苦痛である。

 そして大戦後、この映画におきまして、ロシア革命を逃れてパリに亡命して来ました作曲家のストラビンスキーとシャネルは再会し、愛し合うわけなのですが、ここにいたって彼女の服装は、現代のシャネルのものとほとんど変わらなくなっているんです。

 第一次大戦は国家総力戦となり、工場生産に、看護に、多数の女性が駆り出されます。ずるずる、ぴらぴらのドレスは、こういった労働には向かず、戦場での看護服を筆頭としまして簡略で活動的なものとなり、それに引きずられますように、女性の通常の服装も大きな変化を見せ、戦後には、現代と同じように活発な活動に適したものとなりました。

 世界への近代西洋服の伝搬は、軍服に始まりました。
 おおよそ、世界のどこの国でも(欧州においても民族衣装はありましたから、それが消滅していく過程が存在します)、軍隊が西洋近代式になるとともに西洋式軍服が取り入れられ、同時に、少しずつですが、男性の洋装が見られるようになります。
 しかし、女性の民族衣装は、現代でも普段着として着用している国がけっこうありますし、通常、洋装の移入には多大な抵抗が見られます。

 非活動的で、拷問具のようなコルセットつき女性の洋装を移入しようとしました日本の鹿鳴館時代は、異様なまでの西洋かぶれだったと同時に、上流階級に限られた話で、一般庶民には関係のないあだ花でしたが、大戦後は状況がちがってきました。
 大戦により、欧州の生産は滞り、日本は空前の輸出増大で好景気に沸き、そして、戦場となりました欧州で女性の洋服は劇的な変化を見せ、活動的で、庶民でも気軽に着ることができるものとなっていたのです。

 
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 映画「華の乱」予告編 Auf dem Wasser zu singen


 「華の乱」は、吉永小百合演じる与謝野晶子を主役としまして、明治末から大正いっぱい、当時の日本の文化人たちが複雑にからみあいますフィクションです。まったくの作り話なんですが、そこそこちゃんと風俗は描いてくれているような気がしていました。
 しかし、あらためて見直してみますと、どうなんでしょうか。
 予告編にも出てまいります、帝国劇場での松井須磨子の「復活」(トルストイ原作)公演は、1914年(大正3年)3月ですから、まさに大戦直前です。しかし、その場面に出てきます女性の洋装は、なにやら昭和初期っぽくて、現代的にすぎるんですよねえ。

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 「春の雪」予告編


 著作権の関係だとかで、音のない、変な予告編ですが、映画「春の雪」にも帝国劇場での観劇の場面が出てきます。三島由紀夫の原作の設定で、1912年(大正元年)の12月はじめころ。こちらの洋装の方が、それっぽい感じです。
 
 女性の洋装の話から入りましたが、第一次世界大戦は世界を一変させた出来事でして、しかし開戦の直前、変化の兆候は、最先端の文物に現れていました。
 1912年(大正元年)、ベルエポック・バブルの象徴のような豪華客船・タイタニック号が沈み、そしてこの年、日本では明治大帝が崩御され、明治という時代は終わりを告げました。

 
春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社


 三島由紀夫の「春の雪」につきましては、だいぶん以前、『春の雪』の歴史意識で、映画の感想を書きました。
 物語の幕開けは、1912年(大正元年)10月。大帝崩御がこの年の7月30日ですから、それからわずか2ヶ月あまり。
 この前年の明治44年、帝国劇場がオープンしまして、日本では「今日は帝劇、明日は三越」というバブル時代が、幕開けようとしていました。
 18歳の主人公・清顕は、松枝侯爵家の一人息子で、学習院に通っています。以下、引用です。

 学習院が院長乃木将軍のあのような殉死を、もっとも崇高な事件として学生の頭に植えつけ、将軍がもし病に死んでいたら、それほど誇張した形であらわれなかったらう教育の伝承を、ますます強く押しつけてきたことから、武張ったことのきらひな清顕は、学校に漲っている素朴で剛健な気風のゆえに学校を嫌った。 

 三島由紀夫は、このことで清顕は学習院の学友たちから孤立しているような書き方をしているのですが、ちょうどこの2年前、有島武郎や武者小路実篤、志賀直哉など華族や高級官吏、実業家2代目の学習院卒業者を中心として、文芸誌「白樺」が創刊され、白樺派と呼ばれました彼らは、乃木の殉死を冷ややかに見ていました。
 清顕の祖父は薩摩藩士で、渋谷に屋敷があった侯爵というのですから、モデルは西郷従道でしょうか。

 有島武郎の父も薩摩藩士ですが、こちらは華族ではなく、高級官吏。
 また白樺派よりも少々下の世代ですが、耽美派の歌人・吉井勇の祖父も、従道と同じく薩摩の下級藩士で、伯爵となった吉井友実。勇は学習院ではありませんでしたが、相当に軟弱な印象です。
 
大帝没後―大正という時代を考える―(新潮新書)
長山 靖生
新潮社


 この本、デジタル化されているのですが、なかなかにおもしろい本でした。著者の長山靖生氏は歯医者さんだそうなんですけれども。
 ともかく。この本によりますと、白樺派の乃木大将の死に対する冷淡な視線は、彼らが上流階級の子弟で、皇室の存在が近しいからこそ生まれたものなのだそうです。
 長山氏は、白樺派の面々に批判的で、いわく、彼らは上流家庭に生まれながら、跡を継げない次男以下が多く、自負心とともにコンプレックスを持ち、親の経済力に甘えて、働かず、自立しようとしないくせに反抗的、なのだそうです。要するに、いつまでも大人にならず、子供でいたがる新しい世代で、しかし、彼らこそが、大正という時代を担った青年の典型、だというんですね。

 確かに、うなずける分析ではありまして、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校のコメント欄で触れておりますが、貴族やアッパーミドルの子弟こそが、率先して戦場の最前線に立つ、といいますイギリスの徹底したノーブレス・オブリージュの精神は、結局、日本には根付かなかった、ということかもしれません。

 しかし、これも長山氏のおっしゃる通り、大正バブル期は大衆社会の訪れ、でもありまして、現代のとば口です。
 そのとば口で、明治大帝に乃木将軍が殉死しましたことは、一見、非常に古風なことに見え、「春の雪」の清顕が白樺派と同じように冷淡だったことの方に、私は共感していましたし、また別な理由で、私はこれまで乃木将軍が大嫌い でした。

 長くなりましたので、なぜ嫌いだったかの説明は次回にまわしますが、私は今回、この「大帝没後―大正という時代を考える―」を読んで、目から鱗状態になり、さらに探索を重ねまして、乃木将軍を大きく見直すこととなったのです。
 次回へ、続きます。

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