郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編

2008年08月22日 | アーネスト・サトウ
 現在、私、アーネスト・サトウ vol1を放ったまま、バーティ・ミットフォードに迷っていってしまっているんですが、それは、「なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか」というvol1の最後の疑問が、けっこう難しいものであったから、でもあります。
 当時のイギリスの社会情勢、文化、外交姿勢、そこでサトウが置かれていた状況などなど、ともかく、知らなければいけないことがあまりに多すぎまして(私が無知なだけの話なんですが)、とりあえずまわりから………、つまり、とっかかりのいいミットフォードから、埋めていっているわけなのですが。

アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より (東西交流叢書)
イアン・C. ラックストン
雄松堂出版

このアイテムの詳細を見る


 上記の本は、サトウの日記に加えて手紙の訳文が、けっこう多く収録されていまして、萩原延寿著「 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」 の記述を補うに恰好の参考書です。
 この中に、明治12年(1879)、ですから、西南戦争の2年後、琉球処分について、F.V.ディキンズ(幕末、英国海軍軍医として来日。「パークス伝」の著者)に手紙を書いているのですが、この一節が………、笑っちゃいけないんでしょうけれど、なんとも笑えました。

 もし私が琉球人(沖縄人)であったなら、彼らと同じように感じたでしょう。それは全く体に合わない黒い服を着て、二週間も着古したようなワイシャツを着た、江戸から派遣された人々に開化を強いられるよりも、昔ながらのやり方に従った方が、遙かに好ましいということなのです。

 「二週間も着古したようなワイシャツ」って!!!
 笑い転げたんですが、なかなかに奥深いサトウの皮肉、でもあります。

 町田清蔵くんとパリス中尉で引用しました、フランスのパリス中尉の以下の感想。(「フランス艦長の見た堺事件」より。)

 われわれの京都での滞在の残りの二日間は、買い物や見物に充てられた。
 また、われわれを持て成してくれた人々とより広く知り合うこともできた。
 あの老練な司令官に加えて、いつもわれわれと一緒にいた若い将校がその一人であるが、私が今まで出会った日本人の中で、彼はもっともヨーロッパ化された男で、ワイシャツを着、付け外しできるカラーを付け、フロックコートを羽織っていたのである。
 下着類を使用するなどということは、彼の同郷人らには思いもつかぬことだった。金のある連中は、頻繁に衣服を取り替え、古くなったものは捨て去るが、そうでない連中は、いつまでも同じ服を着続け、自分の体を頻繁に洗うことによって、洗濯不足を補っているのである。


 衣服というのは、文化です。
 その社会の文脈にそってあるものですから、その衣服の生まれた社会をよく知ることなく、うわべだけをまねて着ますと、とても変なことになります。
 当時の日本の衣類は、ひんぱんに洗濯するものではなかったわけでして……、といいますか、今でも着物は、肌襦袢をも含めて、洗濯を前提に作られていません。
 しかし、当時の西洋の中流以上の洋服は……、いえ、労働者や農民であっても晴れ着は、カラーやワイシャツを、ぴしっとのりをきかせ、清潔に、そして純白に保つことが、基本だったんですね。
 よれよれのうす汚れたワイシャツは、だらしのない生活を意味し、おそらく……、着る人の人格を疑わせるものであったとさえ、いえるのではないでしょうか。
 ところが、明治初期の官吏たちの大多数は、普段着ならばともかく、公の場で、権威の象徴として洋服を着ながら、ろくに西洋社会を知らないで、珍妙な着方をしているものですから、西洋人から見れば、なんともあきれ果てる光景であったわけです。

 明治の洋服は、軍服にはじまったわけでして、これは、いわば機能性を求めたものです。
 なにしろ、江戸300年の太平の間、戦闘服にはほとんどなんの変化もなかったのですから、兵器や戦術の近代化を進めますと、衣服も動きやすい洋服を、ということになります。
 しかし、当時の西洋の軍服といいますのは、儀礼服的な要素も相当に強く、華やかなものでした。
 幕末、横浜に駐屯した英仏陸軍ですが、イギリスは上着が真っ赤で、フランスはズボンが真っ赤、です。
 将校の軍服ともなれば、当然、金モールきらきら。
 結局、武官が派手な洋服だから文官も、ということだったのでしょうか。
 明治3年(1870)には、陸海の軍服とともに、官吏の制服が決められています。

 しかし、どうもこの性急な洋服導入は、世界的にもまれな、奇異な自文化否定、であったのではないかと……、サトウの皮肉に笑い転げた後で、ふと思いました。
 以前にも幾度かご紹介しましたが、ピエール・ロチ著の「江戸の舞踏会」は、明治18年(1885)の鹿鳴館の舞踏会を、実録風に描いたものです。以下、村上菊一郎・吉氷清訳の「江戸の舞踏会」より引用です。

 ちと金ぴかでありすぎる、ちとあくどく飾りすぎている。この盛装した無数の日本の紳士や大臣や提督やどこかの官公吏たちは。彼らはどことなく、かつて評判の高かったブーム某将軍を思い出させる。それにまた、燕尾服というものは、すでにわれわれにとってもあんなに醜悪であるのに、何と彼らは奇妙な恰好にそれを着ていることだろう! もちろん、彼らはこの種のものに適した背中を持ってはいないのである。どうしてそうなのかはいえないけれど、わたしには彼らがみな、いつも、何だか猿によく似ているように思える。

 この舞踏会には、清国大使の一行も招かれていたのですが、「猿によく似た」日本人の洋装にくらべ、こちらは、実に堂々としていました。

 十時、大清国の大使一行の入場。矮小な日本人の全群衆の上に頭を抜き出し、嘲けるような眼つきをした、この十二人ほどの尊大な連中。北方の優秀民族の支那人たちは、その歩き方のうちにも、そのきらびやかな絹の下にも、大そう上品な典雅さを具えている。そしてまた、彼ら支那人は、その国民的な衣服や、華やかに金銀をちりばめ刺繍をほどこした長い上衣や、垂れた粗い口髭や、弁髪などを墨守して、良い趣味《ボン・グウ》と威厳とを表している。

 フランス海軍士官だったピエール・ロチは、このとき、けっして、清国に好感を持ってはいませんでした。
 現在のベトナムをめぐって起こった、清仏戦争の直後だったのです。清国は善戦したといってよく、イギリスの調停により、フランスはかろうじて面目を保ったような形で、あるいは、だからこそ、なのかもしれませんが、国の指導者レベルにおいて(というのも、この時期一般の日本人は、ほとんど洋服なぞ着ていませんので)、「軽薄に西洋の猿まねをする醜い日本人」と、「自国文化に強烈な自信を持った威厳ある清国人」という印象を、受けていたようです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。

 しかし、ほんとうにそうだったのでしょうか。
 結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえたのではなかったでしょうか。
 そして、明治新政府の洋化が、うわべの権威を求めるものであった以上、西洋文明への本質的な理解とはほど遠いものとなり、日本人を愛したアーネスト・サトウにさえも……、いえ、日本人を愛していたサトウであったからこそ、かもしれませんが、激しい嫌悪を催させるものとなったのではないでしょうか。

 明治5年(1872)だったと思いますが、大久保利通が岩倉使節団の一員として渡航し、洋装の写真を撮って西郷に送ったおりに、西郷が確か「醜い」というように評した返事を、書いていたように記憶しているのですが、サトウは、確実にその気分を西郷と共有していました。
 そしてさらに、明治新政府は、明治6年政変以降、うわべの洋化に権威を求めた上で、専制政治を行ったのです。
 サトウにとっての西洋文明は、もちろん、専制政治を許容するものでは、ありませんでした。
 明治10年7月、西南戦争の最中に、アーネスト・サトウは、日記にこう書いています。(「西南戦争 遠い崖13 アーネスト・サトウ日記抄」より)
 

  わたしは、これほど人民の発言を封ずる政府は、ありがたい政府ではなく、そういう政府に服従するよう西郷にすすめるのは、理にかなったこととは思えないと述べた。


 アーネスト・サトウは、もちろん、イギリス公使館の一員であることを強く認識していましたので、けっして、西郷軍への共感を公言することなく、後年にも、同僚のA.H.マウンジーが書いた「薩摩反乱記」の書評を断っています。ただの旧弊士族反乱であるかのような「薩摩反乱記」の描き方に対して、あきらかにサトウはちがう意見を持っていましたが、イギリス外交官として、それを公然と口にすることは、イギリスのためにならない、という判断です。

 1895年(明治28年)、日清戦争の直後、モロッコ駐在特命全権公使だったサトウは、やはりディキンズへの手紙に、こう書いています。

  私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした。

 おそらく、アーネスト・サトウには、日本人が西南戦争によって、なにか基本的なものを自ら押しつぶしたように、見えたのではないでしょうか。
 その青春の日に、維新の動乱を日本人とともにしたアーネスト・サトウは、時を超えて、江藤淳氏がその晩年に述べた以下の感慨を、共有していたのではないかと、そんな気がするのです。

  このとき実は山県は、自裁せず戦死した西郷南州という強烈な思想と対決していたのである。陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。
「南洲残影」より)



クリックのほどを

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-

2008年08月18日 | 桐野利秋
 突然ですけれども、いつものfhさまが、今回は資料ならぬ、「バトン」をくださいました。
 最初、「バトンとはなんぞや?」と考え込みまして、小学校の運動会で、なんでだったか理由は忘れましたが、リレー走に出なくてはならなくなったときの恐怖が……、一瞬、蘇りましたです。
 しばらくして、ようやく意味がわかりまして、嬉しゅうございましたわ、fhさま。


【愛してるんだけどバトン】

1.包み隠さず全て語ること
2.アンカーを突っ走るのは禁止
3.指定されたキャラの萌を語ること
4.指定するキャラは男の子キャラであること
5.回されたら何回もやること
指定→ 桐野利秋


1.初めて出会った場所は?

それが………、よく覚えてないんです。
司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」だと思いこんでいたのですが、よくよく考えてみれば、先に海音寺潮五郎氏のエッセイ集「乱世の英雄」の中の一編で出会っていたような。
萌えたのは、まちがいなく、「翔ぶが如く」を読んでからです。
海音寺氏が描く、伊達で豪快で陽気な桐野と、司馬氏が描く、じとっと暗くて恰好がいいのか悪いのかよくわからない桐野と、こう、「どうしてここまでちがうの?」と、ミステリアスな魅力を感じまして。

(追記)
思い出しました!!!
最初の出会いは、司馬遼太郎氏の「新選組血風録」でした。
土方歳三を追いかけて読んで、これに出てくる中村半次郎(桐野)は、土方のむこうをはる感じで、けっこう印象には残っていて、その後に海音寺氏の著作、です。


2.どこに萌を感じる?

まず、「男は容姿」が私のモットーです。
容姿については、同時代人の証言があります。
大隈重信「身体も大きくて立派なら容貌態度ともに優れた男であった」
佐々友房「容姿秀逸、威風凛然」

しかし、いくら「男は容姿」と申しましても、お人形さんみたいにきれいなだけでは、萌えるわけはないのでございまして、なにより、はあ???とお口あんぐりになるような、アンバランスなところ、です。
やけに農業熱心で、芋ばかり食べて育って、後年にも、最近はやりのエコロジー地味版かよ、という感じで、好んでぼろを着て開拓に励む、かと思えば、一転、上着が青でズボンが真っ赤で金モールいっぱいのフランス軍服(おそらく、明治初期はそのはずです)に、名刀綾小路を金銀のサーベル仕立てにして、フランス製の香水を愛用し、消費の王道を行く!
これが萌えずにいられましょうかっ!!!


3.M?orS?どっちでいて欲しい?

Mにはなっていただきたくないです!
だって、病気で気弱なM気分になったりすると、ド下手くそな上に乙女なお歌を作りますからねえ。
それよりは、チェストォォォーッ!!! と、稲藁相手にSをやっていていただきたいです。


4.どんな仕草が萌?

どんな仕草でも萌えます。お歌を作る以外の仕草なら。
しかし、さっそうと白いアラビア馬に乗って榊原邸に駆け込み、ぱさっと緋色のマントをひるがえして下馬して、太郎くんに手綱をあずけ、ぱぱっと上半身裸になるやいなや、鍬をにぎって、庭の芋畑をたがやしはじめたりしたら………、ほんとに萌えます!


5.好きなところは?

えええええっ!!!というような、意外性、ですかしら。

市来四郎「速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」
桐野は民権論者だったわけでして、こういった意外な話が次々出てくるところが、奥が深くて、好きです。
もうないか、と思っていたら、つい最近も、実は、モンブラン伯爵の秘書をした前田正名と仲良しだったらしい、とわかったり。


6.嫌いなところは?

ド下手くそなお歌を作るところ。
だって………、あの不細工な山県有朋に負けている!!!わけですから。

まあ、いいですわ。お歌の上手い軍人なんて、ろくなもんじゃないからと、それでも弁護してあげる私がけなげです。


7.望んでいることは?

あと1回も2回も3回も………、お墓参りに行きたい。


8.もっとこの子と絡んで欲しい人は?

最近、三つどもえがいいな、と。

永山弥一と中井桜州と、いったい三人でどんな漫才をやっていたのか………、不思議です。

時期は非常にかぎられてしまうのですが、前田正名とモンブラン伯爵と三人、もいいし。

吉田清成と中村太郎くんと三人、なんかもよさげで。
吉田清成がダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとお茶したことと、桐野の絵描き好きをからめたいなあ、と、ちょっと考えてみたんですが、場面設定がとてもむつかしくてー。
いつか、挑戦してみます。


9.この子を描くときに特に主張して描く所は?

絵はまったく描きませんので、文章で、ですかねえ。
うーん。やっぱり意外性を。


10.家族にするなら?

いやです、絶対。
薩摩の田舎で、暮らしたくないです。
でも、うちの曾祖父は、ほんとうに半次郎という名です。


11.学ランとブレザーどっちを着て欲しい?

通常、学ランのイメージなんでしょうけど、ぜひ、ブレザー………、といいますか、イートン校の制服を。
似合いましてよ、絶対!!! シルクハットを投げ捨て、バーティ・ミットフォードと、鼻の骨がまがるまで、ボクシングで喧嘩なんかするとステキです。


12.私服ではジャージとGパンどっちでいて欲しい?

ジャージ着て、潮風の中、豪快にかつおの一本釣りなんかしている姿も捨て難いのですが、破れGパンに銀のピアスなんかつけて、シンフォニック・メタルのリード・ギターなんか弾いてくれるといいですわ。
歌っているところを想像すると、あい、きゃんとげっとのおー さーてすふぁくしょん!とか、薩摩語なまりになりそうなので、ギターがいいです。


13.結婚したい?

いやです、絶対。
薩摩の田舎で姑さんに仕えて、肝心の半次郎さあは、ろくろく家にいない暮らしに、この私が、耐えられるわけがありませんですわ、はい。
私は自分のお家にいて、半次郎さあが通ってきてくださる愛人なら、よさげな気はするんですけど、それでもけっこう、気まぐれにふりまわされて、ヒステリー起こして茶碗をなげつけそうな気が。特にド下手くそなお歌なんか作られますと。


14.最後に愛をどうぞ

KIRINO TOSIAKI
In all your fantasies, you always knew
that man and mystery……


IRATUME
……were both in you.

Nightwish "The Phantom Of The Opera" with lyrics



15.回す人

 耳の家のみみこさまが、なんと!、アーネスト・サトウで、お引き受けくださるとのこと。なんて幸せでしょう! みみこさまのサトウ萌えを読ませていただけるなんて……。よろしくお願いします。




クリックのほどを

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リーズデイル卿とジャパニズム vol9 赤毛のいとこ

2008年08月14日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズムvol8 赤毛のいとこの続きです。

 1846年、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)、通称バーティは、9歳で英国に帰国し、イートン校に入学しました。
 もともと、父親のヘンリー・レベリーがイートンの卒業生で、当時のイートンの校長エドワード・ハートレイ博士は、かつてレベリーの家庭教師だった人で、家族ぐるみの友人でもあったのだそうです。
 イートンの入学年齢は、通常、12~3歳で、9歳はずいぶん早いのですが、おそらく、もしかすると、双子の兄が学齢に達したので、一家で帰国してバーティも、という話になったのではないんでしょうか。

 バーティは、校内の寮に入るには幼すぎる、というので、当時まだ校外にあった私塾のようなところに下宿しました。
 そこでは、私塾教師の若い娘さんが、母親のようにおぶって寝室に連れていってくれたり、かわいがってくれて、快適だったようです。
 
 えーと、このシリーズの途中でご紹介しましたが、バーティの曾孫、ジョナサン・ギネス著の下の著作を少しずつ読み進めておりまして、今回も、それをもとに書いているのですが。

The House Of Mitford

Orion

このアイテムの詳細を見る


イートンはバーティのためにあり、バーティはイートンのためにあったようなものだった。

 とは、すごい表現です!
 えー、vol2 イートン校vol3 イートン校で、19世紀前半のパブリックスクール改革について書きまして、「この当時のイートンは、おそらく改革にとりかかったばかりで、どこまで、アナザー・カントリーに描かれたようであったかは、わかりません」としていたんですが、イートンで改革をはじめたのはハートレイ博士で、やはり、バーティが入学した時には、すでに改革がはじまっていたそうです。

 やがて、バーティは校内の寮に移りましたが、以前のように、大人数の給費生が大部屋一つに押し込められていた状態は改められ、小部屋の全寮制になり、少なくとも寮は、アナザー・カントリーに描かれたようになっていました。
 そしてバーティーは、「Slxth Form」という成績優秀者集団にいて、卒業時に2番の成績であり、「Pop」と呼ばれる指導的立場にもあり、寮長を務めたそうですので、アナザー・カントリーでガイがなりたがっていた代表ではなかったものの、カラーベストを着てえらそーにしているメンバーのうちの、おそらくはナンバー2だったんでしょう。
 ただ、バーティが、そうして、校長とも親しく話せる指導的立場の上級生になったとき、ハートレイ博士は校長をやめて市長になっていて、後任の校長は、バーティにとっては退屈な人物だったそうです。

 ハートレイ博士のイートン改革は、パブリック・スクール改革の先鞭をつけたラグビー校のアーノルド博士のそれにくらべると、より世俗的なものであり……、ということは、上流階級的な野蛮や異端に対してより寛容であった、ということです。
 ハートレイ校長は、他国へ出ていた期間も長く………、他国とは、おそらくフランスとかイタリアとかドイツとか、なのだと思うのですが、インテリ上流階級の国際性を身につけ、思想、芸術において欧州最先端のものに通じており、イギリス一国の価値観にとどまらないものを持っていた、というのが、バーティの見解でした。
 まあ、上流階級からの入学が一番多いイートンですから、宗教熱心な中流階級的しめつけが強いと、おさまりがつかなかったでしょうし、外交官の卵をも育てていたわけですから、それが、必要な方向性だったのでしょう。
 イートンは、いち早く、ギリシャ語ラテン語古典教育の偏重も見直し、フランス語と数学を、教科に取り入れもしました。

 さて、バーティの同い年の赤毛の従兄弟、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)です。
 スウィンバーンは、12歳の年に、イートンへやってきました。
 その燃えるようなくしゃくしゃの赤毛こそ、父のスウィンバーン海軍大佐にそっくりでしたが、似ていたのはそれだけで、小柄で華奢で、ひ弱な男の子でした。

 
 
The Victorian Web- Aboy in the Lowe school fagging-Sydney P.Hall 1870

 1870に描かれたイートンの低学年生徒ですが、かわいいですよねえ。
 バーティが、こんな感じだったんだと思うんです。
 
 12歳で、すでに3年間もイートンにいた実績をもつバーティは、心配そうなスウィンバーン大佐とレディ・ジェインに、頼まれました。

 レディ・ジェイン
「バーティ、弟だと思って、うちのアルジー(スウィンバーン)のめんどうをみてくださらないかしら、お願いするわ」

 スウィンバーン大佐
「同じ年でも、君は先輩だし、しっかりしているし、よろしく頼むよ」


 こんな感じだったようです。
 スウィーンバーンは、そんな両親のそばで、きっと、指をくわえ、目をまるくして、従兄弟のバーティを値踏みしていたにちがいありません。
 そしてバーティは………、そんなスウィンバーンの審美眼に、かならずやかなったことでしょう。
 なにしろバーティは後年、詩人のエドマンド・ゴスに、こう評されています。

 リーズデイル卿はいわゆるプリンス・チャーミングといわれる人間であった。彼の顔立ちは立派で、目は輝き、姿勢はまっすぐで、しかもしなやかであった。

 プリンス・チャーミングときました。つまり、白馬の王子さまです。

 で、その白馬の王子さま、バーティも、悪戯な赤毛の妖精のような従兄弟が、とても気に入ったようなのです。
 なにしろ、アルジーは、アッシュバーナム伯爵家から引き継いだ不思議な、妙なる歌声の持ち主でした。
 4つの年に別れた母、レディ・ジョージアナを思い出させる歌声の主、だったわけです。

 なんといえばいいのか………、もう、12歳の二人の出会いは、名香智子さんの漫画のワンシーンのよう、ではないですか。
 それにしましても、「バーティはスウィンバーンのめんどうをみて、彼を隠れた危険から守った」って………、なんなんでしょうか、いったい。
 「隠れた危険」、ってね。
 つまるところ、ですね。優等生で、しかも腕力にもすぐれていたバーティが、従兄弟のアルジーを保護していたら、きっとだれもアルジーには手が出せなかった、ですよね。
 ところがアルジーは、「同性愛はイートンで覚えた」みたいなことを後年いうわけでして………、ふーん。
 これが怪しくなくて、なにが怪しいんでしょう。

 アルジーの言葉は、子供のころから美しく、語彙が豊かで、空想的でした。
 二人はよく、いっしょに散歩にでかけ、「空想をたくましく」し、その空想は、大方、「スウィンバーンの盛んな読書に基づいていた」のだそうです。
 読書って………、まさか、サド侯爵だったりしたんでしょうか。しかし、二人ともフランス語は得意、ですし……、ねえ。


The Victorian Web - Eton from Windsor Castle Terrace.

 上は、1850年ころ、といいますから、ちょうど、バーティとアルジーがいたころのイートンです。
 イートンは、ウィンザー城の近くにありまして、そのウィンザー城のテラスから見た全景だそうなんですが、あたりはのどかな田園です。
 しなやかな白馬の王子さまと、美しい声の赤毛のお姫さまが、空想にひたりながら、のびのびと、緑の田園を散歩したわけです。

 当時はまだ、スポーツは受業ではなく、バーティは一人乗りのボート競技を好んだそうですが、アルジーにとっては、強制的に受業でスポーツをやらされなかったのは、ありがたいことでした。
 スポーツ競技なんか大嫌いなアルジーでしたが、水泳だけはよくしたそうで、きっと、海軍大佐のおとうさんが、これだけは、と教え込んだんでしょうねえ。
 しかし………、泳ぐアルジーは、それこそ、悪戯妖精のようだったことでしょう。

 で、鞭打ちです。
 ジョナサン・ギネスによれば、当時のイートン校の生徒たちは、鞭打ちを辱めとは受け取っておらず、通過儀礼のように受け止めていて、きびしい鞭打ちを怖がらずに堂々と受ける生徒は、賞賛のまとであった、ということなのです。
 したがって、自分の勇気を示すために、わざとひどい悪戯をして、好んで鞭打ちを受ける、ということが多かったそうで、だとすれば、これって果たして、罰として役に立っていたのでしょうか???
 ギネス氏は、こうも言っています。「そのころは、鞭打ちに、性的要素の可能性は疑われていなかった」
 いや、ごもっともです。
 だから、アルジーが、サド侯爵を読んで、空想したんですよねえ。

 しかし、王子さまのような従兄弟のバーティに守られた、アルジー・スウィンバーンのイートンでの生活は、実のところ、とても楽しいものだったのではないんでしょうか。晩年にいたるまで、このころに使っていた銀のカップを、大切に使っていた、という話ですし。
 なにしろ、どうやらバーティは、アルジーの空想を受け止め、才能を賞賛し、なおかつ守ったのです。
 アルジーの方は、この少年時代の甘美な体験が習い性になり、すっかり、守られてなくては生きていけなくなったり………、したんじゃないんですかしら、ねえ。

 バーティは後年、外交官として日本に赴任したとき、部下だった6歳年下のアーネスト・サトウが、非常に気に入ったようで、その才能を愛で、引きたてようと務めた形跡があるのですが、それは、イートンでアルジーを保護した気分と似ているように、思えます。
 どちらも、才能豊かな被保護者なのですよね。
 バーティは、自分にない優れた才能を持った弟分を好む保護者気質を、イートンで育てていたんじゃないんでしょうか。
 これはまだ、そこまで読み進めてないのですが、4つ年下のエドワード皇太子についても、バーティにとっては、守ってあげなければいけない弟分、だったように感じます。
 とすれば、アーネスト・サトウは、皇太子にバーティをとられてしまったわけでして、これは負けますわね。
 

 アルジー、というのは、私が勝手に、唯美派詩人アルジャーノン・スウィンバーンをそう呼んでいるだけなのですが、次回、イートン以降のアルジーについて、知り得た範囲で、書いてみたいと思っています。



クリックのほどを

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ  にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リーズデイル卿とジャパニズム vol8 赤毛のいとこ

2008年08月09日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズム vol7 母と妹との続きです。

 後のリーズデイル男爵(Baron Redesdale)、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)、通称バーティは、1837年(天保8年)2月24日、ロンドンで生まれました。
 この年の6月20日には、18歳の若さでヴィクトリア女王が即位しています。戴冠式は翌1838年ですけれども。
 
 モンブラン伯爵より四つ、土方歳三、五代友厚、井上馨より二つ年下、最後の将軍・徳川慶喜公、土佐の板垣退助と同じ年で、桐野利秋、後藤象次郎、中井桜州より一つ年上です。
 
 ところで、バーティの母方の従兄弟、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)も、この年の4月5日、ロンドンのGrosvenor Placeで生まれたそうなんですが、実は、スウィンバーンの詳しい伝記を読んでいないものでして、いったいこれが父方の家なのか母方の家なのか、さっぱりわかりません。
 しかし、それはバーティについても言えることでして、双方、父方のタウン・ハウスで生まれた可能性もあるのですが、以下の話は、もしかすると……、という私の勝手な想像です。

  vol6 恋の波紋で書いていますが、バーティの母レディ・ジョージアナと、スウィンバーンの母レディ・ジェインは、アッシュバーナム伯爵家の姉妹です。
 数多い姉妹のうち、このヴィクトリア女王即位の年に結婚していたのは、どうも、この二人だけのようです。
 ジョージアナは32歳で、ジェインは28歳。
 ジョージアナが、フィレンツェでヘンリー・レベリーと結婚したのは23歳のころで、すでに出産経験があります。
 一方、妹のジェインが、チャールズ・スウィンバーン海軍大佐に嫁いだのは、つい一年前で、初産です。
 二人は仲が良く、そろって実家アッシュバーナム伯爵家のロンドンのタウン・ハウスで出産、ってことも、ありえるんじゃないんでしょうか。
 もしかすると……、なんですが、当時フランシス・モリノーがロンドン勤務だったりしまして、ジョージアナは、そばにいたかったかも、しれませんし。
 ジェインは初産で心細かったり。
 ちなみに、当時の女性のコスチュームは、こんな感じです。


Maggie Mays Costume History Pages

 バーティとスウィンバーンは、ヴィクトリア女王即位の年、ロンドンの同じ屋根の下で産声を上げていたかも、しれないのです。
 しかし、生まれたばかりのバーティとスウィンバーンを、それぞれ腕に抱いた姉妹にの心情には、大きなちがいがあったことでしょう。
 おそらく………、なんですが、レディ・ジョージアナにとって、いったいバーティの父親は夫なのか、あるいはモリノーなのか、判断がつきかねていた、かもしれませんし、そしてその心は、たまに、それも人目をしのんでしか、二人きりになることのできない愛人モリノーの上に、さまよっていたことでしょう。
 一方、妹のジェインは、新婚早々の初産です。夫にそっくりの赤毛の男の子に恵まれた喜びに、満ち足りていたにちがいありません。

 スウィンバーン海軍大佐とレディ・ジェインの住まいはワイト島(Isle of Wight)にあり、ヘンリー・レベリーとレディ・ジョージアナが暮らすエクスベリー(Exbury)とは、ソレント海峡をへだてていますが、すぐ近くです。
 ヘンリー・レベリーの父親は艦長でしたし、ミットフォード家の親戚に、海軍関係者もいました。
 あるいは、なんですが、レディ・ジェインは、姉ジョージアナの社交関係で、スウィンバーン大佐と知り合ったのかもしれず、そうでなくとも、両家の行き来はあった、と考えられるでしょう。

 しかし以前にに書きましたように、ロンドンでバーティとスウィンバーンが生まれた翌1838年、ヘンリー・レベリーとジョージアナは、エクスベリーを貸し出して、フランシス・モリノーが外交官として赴任していたフランクフルトへ、一家そろって行くことになります。
 当時のドイツは統一されておらず、フランクフルトは、ドイツ連邦に加盟してはいますが、自由都市です。ドイツの一部となるのは、およそ三十年後の普墺戦争で、オーストリア側について負けてからのことです。

 この当時のドイツを描いた映画としては、「哀愁のトロイメライ/クララ・シューマン物語」が、けっこう風俗がわかる感じです。
 映画自体のできは、といえば、どうなんでしょう。音楽演奏の質は非常に高く、若き日のナスターシャ・キンスキーの演技もすばらしく、さすがにドイツ映画、リアリティはあるんですが、画面といい話といい、暗い雰囲気で、あまり、私の好みではありません。
 ちょうど、クララがシューマンと結婚するあたりが、レディ・ジョージアナがモリノーと駆け落ちした、ヴィースバーデン事件のころにあたっている、はずです。もっとも映画は、ザクセン王国のライプツィヒが主な舞台なんですけれども。
 ヘッセン選帝侯国のヴィースバーデンも、ザクセン王国も自由都市フランクフルトも、ドイツ連邦に加盟してはいましたが、明治維新直前の普墺戦争までは、それぞれに主権を持った独立国でした。

 ところで、ミットフォード家にいくらお金がない、といいましても、農地を所有し、りっぱなカントリー・ハウスをかまえたジェントリーなのですから、子供のめんどうは、ナースメイド(乳母)がみたはずです。ナースは、後にはナニーと呼ばれるようになりまして、「メリーポピンズ 」も、20世紀初頭のナニーのお話です。
 バーティの子供時代をイメージするなら、こちらの方がまだ近い、かもしれません。

ナニー・マクフィーの魔法のステッキ

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

このアイテムの詳細を見る


 原作はクリスチナ・ブランド著の児童書「ふしぎなマチルダばあや」です。
 クリスチナは1907年生まれの推理作家ですが、実家に伝わっていたビクトリア中期のナースメイドのおとぎ話を、祖父から聞いていて、それをもとにこれを書いたそうなのです。
 ちょうどバーティの孫の世代になりますから、バーティから聞いた話を孫が書いた、という感じです。
 映画は、おとぎ話らしく、いつの時代かわからないのですが、しいて言えば、ビクトリア朝末期、みたいに見えます。
 
 ともかく、1838年の5月か6月ですから、ちょうどヴィクトリア女王の戴冠式のころ、まだ一つになったばかりのバーティは、おそらくは、イギリス人のナースに抱かれて、父と母と五歳の兄二人とともに、フランクフルトへ渡りました。
 1841年の5月、ヴィースバーデンで、レディ・ジョージアナはバーティに別れのキスをして、モリノーと出ていったわけですが、4つになったバーティの世界は、ナースメイドが中心でまわっていて、それほど、生活に変化はなかった、と思われます。もっとも、離婚裁判のためにロンドンへ帰ることになったのですから、変化があった、といえば、そうなんですが。

 バーティの曾孫のジョナサン・ギネスは、バーティの血筋がセフトン伯爵モリノー家のものであると信じているようですが、私には、ちょっとそうは思えません。
 モリノーの子である可能性はある状況だったのでしょうけれども、もしほんとうにモリノーの子だったならば、レディ・ジョージアナが、バーティだけでも、連れて出ていそうに思えるのです。
 もう一つ、バーティとヘンリー・レベリー、父子の仲はとてもよさそうに思えます。
 バーティは、成人して日本へ赴任しているときにも、こまめに父に手紙を書いていまして、しかも、その手紙の内容は、義務で書いたというようなものではなく、仲の良い友人に書いているような、書くのを楽しんでいる文面なのです。
 泥沼の離婚裁判のあげくに、レディ・ジョージアナと別れたヘンリー・レベリーです。もし、バーティにモリノーの面影が見えたとすれば、父子関係がこれほどうまくいくものなのか、ちょと疑問なんです。

 ともかく、離婚裁判が終わるとすぐに、ヘンリー・レベリーは、子供たちを連れて、フランスへ渡ります。
 エクスベリーは、貸し出したまま、だったようです。
 もちろん、ナースメイドもいっしょだったことでしょう。
 それから2~3年の間、一家は、夏はトルーヴィル(Trouville)で、冬と春はパリですごします。
 パリの住居は、マドレーヌ教会の近く、でした。
 チェイルリ宮殿にも近く、その前の広場で、バーティは、パリの子供たちとマーブル遊びをしていたんだそうです。
 
 フランスは7月王制期です。
 ナポレオン戦争後のウィーン体制で、王制が復古したのですが、あまりにも旧式に固執しすぎまして、貴族の間からさえも不満がわく有様。7月革命が起こります。
 シャルル10世は退位して亡命し、その後に、ブルジョアに推されたオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、とりあえず、おさまりがついた形でした。
 ただ、このオルレアン家、正統なブルボン家の血筋からいきますと、ずいぶんと昔に枝分かれした王族でして、しかもルイ・フィリップの父、オルレアン公は、当初フランス革命の側に立ち、ルイ16世の死刑に賛成票を投じたことで、「王殺し」と呼ばれた人でした。まあ、結局は革命の過激化で、そのオルレアン公も処刑されたわけですが。

 以前にも話を出しました、レディ・ジョージアナと同じ年のフランツ・リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人なんですが、亡命貴族の娘で、王政復古の後、1827年に、正統王制派のダグー伯爵と結婚します。
 彼女は、その結婚によって、正統王家のそば近くにあがることとなり、あんまりにも旧式で退屈な礼儀作法にうんざりしますし、リストと駆け落ちする奔放さを持ち、後にダニエル・ステルンのペン・ネームで評論家となり、共和制に共感さえ示す才女です。
 それでも……、というか、だから、でしょうか、7月革命後のくだけすぎたルイ・フィリップ王には、侮蔑を感じずにはいられなかったようです。
 「国民の王」を名のり、庶民的であることを意識すればするほど、ルイ・フィリップは見るからにそこらへんのおいちゃんになってしまい、多くのフランス国民の王統への尊崇の念を、無くさせてしまったわけです。

 幼いバーティは、チェイルリ宮殿前の広場で、お供はいつも一人だけで、地味な灰色のコートを着て散歩しているルイ・フィリップ王を見て、畏敬の念を抱いたのだそうですが、父ヘンリー・レベリーのもとに集まってくるフランスの友人たちは、それに賛成しませんでした。
 どうやらヘンリー・レベリーの友人は、正統王制派ばかりだったようでして、バーティが父の友人たちから聞いたのは、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」への嫌悪、でした。

 6歳からか7歳からか、バーティは私塾に通い、家庭教師にも学んだりしていたようです。
 フランス語、ドイツ語、そしてもしかするとイタリア語。もちろん、ラテン語、ギリシャ語の基礎も、やっていたわけなんでしょうねえ。
 
 シャルル・ド・モンブラン伯爵はバーティより四つ年上で、おそらくこのころ、パリにいます。
 モンブランはパリで生まれ、よくはわかっていませんが、パリで教育を受けたようなのです。
 もしもモンブラン伯爵家のパリでの住居が、このころから、後年のサン・ラザール駅のそばのものと同じだったとしますと、マドレーヌ教会は近いですし、二人は、いっしょに遊んだ可能性も、あります。
 明治維新のそのとき、日本で火花を散らした英仏のこの二人が、子供の頃、パリで仲良しだったりしたら、おもしろいんですけれど。
 
 ミットフォード家が夏を過ごしたトルーヴィルは、イギリス海峡に面しています。ルアーブルに近く、海峡の向こうには、スウィンバーンの住むワイト島があります。普通の漁村でしたが、ちょうど流行のリゾート地に変わりはじめたところ、でした。
 これからだいぶん後のことですが、トルーヴィルの海岸は画家に好まれたようで、クロード・モネも絵を残していますが、バーティとの関係でいえば、1865年の秋、ですから、ほぼ20年後、ホイッスラーがクールベとともに滞在して、連作を描き残しています。
 後に、バーティはホイッスラーとは、かなり親しくなるのですが、それはまたの機会にまわします。

 ここへは、ヘンリー・レベリーの異母姉たちがやってきて、家政のめんどうをみました。
 そしてまた、このころ、ヘンリー・レベリーの再婚した母親は、二度目の夫にも先立たれ、ファーラー未亡人となっていて、彼女もやってきましたが、これは、バーティにとって、あまり嬉しいことではありませんでした。
 というのも、ファーラー未亡人はスコットランド人で、宗教熱心であり、安息日厳守主義者だったのです。
 以前に書きましたが、フランスのカトリックは、かなり世俗的でした。イギリス国教会も、どちらかといえば、そうです。
 アーネスト・サトウ vol1に出てきますが、サトウ家のように、プロテスタントの家庭の方が、安息日厳守主義者が多く、宗教熱心だったわけです。
 スコットランドは、サトウ家のようなルター派ではなく、カルバン派長老教会が主流でしたが、プロテスタント信者が多く、国教会中心のイングランドにくらべて、安息日厳守、つまり、日曜日は宗教一色であることが、重んじられる傾向にあったようです。

 ファーラー未亡人は、カルバン派ではなく、イングランド国教会の流れの聖公会信者でしたが、そこがスコットランド人、なんでしょうか、日曜日には延々、息子と孫を相手に、プロの牧師も顔負けの情熱をこめた説教をし、長々しい祈祷を続けたのだそうで、遊ばせてもらえないバーティには、不満だったのです。
 なにしろ場所はフランス。日曜日は楽しく遊ぶことが、ふつうだったわけですから。
 ヘンリー・レベリーをはじめとするミットフォード家の人々は、いつもは世俗的だったようです。
 ヘンリー・レベリーが母の度をこえた宗教熱心に耐えたのは、幼いころに再婚して去り、ようやく壮年になってから帰ってきてくれたその姿に、満たされなかった子供の頃の思いを重ねて、母と過ごすその時間を、愛おしんだからなんでしょう………、おそらくは。

 えーと、次回、いよいよバーティは、イートンで、赤毛の従兄弟スウィンバーンに出会います。


人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ  にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リーズデイル卿とジャパニズム vol7 母と妹と

2008年08月01日 | ミットフォード
 ちょっといま、こんなことをしている場合ではないのですが、リーズデイル卿とジャパニズム vol6 恋の波紋に追記しました「それからヴィースバーデン事件は?」というセリフが頭を離れませんで。

 1892年2月、ロンドンで初上演された「ウィンダミア卿夫人の扇」は、大ヒットし、オスカー・ワイルドに富と名声をもたらすのですが、その話のネタが、あからさまにバーティ・ミットフォードの母親のスキャンダルなのだとしましたら、この大ヒットには、ゴシップ的な意味もあったのではないかと、考えてしまいたくなります。
 1892年には、ヴィースバーデン事件の主要関係者は、すでに世を去っています。
 バーティの母、レディ・ジョージアナは、8年前の1882年。
 父親のヘンリー・レベリーは翌1883年に。
 そして、ジョージアナを連れて逃げたフランシス・モリノーは、1886年に。

 関係者がみな死去し、事件が50年も前のこととなった時期に、ゴシップとしての意味があるんでしょうか?
 それが………、ありえたのではないかと思うのです。
 実は、フランシス・モリノーとレディ・ジョージアナの間には、女の子が生まれていました。
 コンスタンス・フィリッピナ・ジョージナ・モリノーです。
 バーティの異父妹です。いえ………、異父ではないのかもしれないのですが。
 生まれた年は、わかりません。
 ただ、常識的に考えれば、ジョージアナとヘンリー・レベリーの離婚が成立した1842前後じゃないんでしょうか。
 くだっても、1850以降ということは、なさそうに思えます。
 
 そのコンスタンス・モリノーが、1890年に、ロンドンで結婚しているのです。
 おそらく40代、それも50歳が近いと思われる晩婚です。
 相手は………、ウィリアム・メルビルという1850年生まれ、40歳の男でした。
 何者?と好奇心がわき、むだだろう、と思いつつ調べてみましたら、英語のwikiに載っていました。WilliamMelville-wiki
 なんと、ロンドン警視庁の治安維持部門で活躍し、後に諜報部門の中心になった人物みたいなんです。

 誤解なきよう申し上げておきますが、「ウィンダミア卿夫人の扇」は、非常にできのいい風俗劇だと思います。
 大ヒットはゴシップ性ゆえではなく、作品の質であったにはちがいないのですが、すでに大衆社会になっていた19世紀末ロンドンで、「見てみようか」という動機には、ゴシップ性も手伝った、と考えられるのではないでしょうか。

サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇 (新潮文庫)
オスカー ワイルド
新潮社

このアイテムの詳細を見る


 ウィンダミア卿夫人は、20歳の若さです。
 母となったばかりの21歳の誕生日間近、夫のウィンダミア卿の浮気の噂が、夫人の耳に入ります。
 相手はアーリン夫人。過去になにか大きなスキャンダルがあり、不道徳、つまりは男をくいものにして世渡りをしている、というような噂をもち、正体が知れず、まっとうなご婦人方がとりしきる社交界では、相手にされていない女性です。
 ウィンダミア卿夫人は、夫への不信感から、つい、プレイボーイで知られるダーリントン卿のくどきに乗り、駆け落ちをしようとするのですが、それをとめたのが、アーリン夫人でした。
 アーリン夫人は、実は20年前、生まれたばかりのウィンダミア卿夫人と夫を捨て、愛人とかけおちした母親だったのです。
 成長した娘を見たい、というのもあって………、というのも、とは、どうもそれをネタに、ウィンダミア卿をゆすっている節もあり、かならずしも当初は、母性愛から、というわけではなかったのですが、20年前の自分と同じことをしようとしている娘の姿に衝撃を受け、自分の正体を隠したまま、なんとか娘を思いとどまらせようとします。

  どん底まで落ちて、軽蔑され、嘲笑され、見捨てられ、冷笑され……世間のつまはじきにされる! どこへ行ってみても、家の戸は閉じられていて入れてもらえず、いまにも仮面がはぎとられはしないかとびくびくしながら、ぞっとするようなぬけ道を忍び足で歩かねばならない。しかも、そのあいだずっと、笑いを、世間の恐ろしい笑いを耳にする、これは世間の人々が流してきたどんな涙より悲しいことなのですけれど、奥さまは、それをご存じないのです。それがどんなことであるか、ご存じない。

 お帰りなさいまし、ウィンダミアの奥さま、奥さまを愛し、また奥さまが愛していらっしゃるご主人のもとへ。お子さまがいらっしゃるのですよ、ウィンダミアの奥さま。いまのいまでも、苦しみか喜びかで、奥さまを呼んでいらっしゃるかもしれない、あのお子さまのもとへお帰りあそばせ。神さまが、あのお子さまを、奥さまにさずけてくださいました。お子さまをりっぱに育てあげ、その世話をなさる義務が神さまに対してありますわ。もしお子さまの生涯が奥さまゆえに台なしにでもなったら、どういって神さまにお答えなさいます? お宅にお帰りなさいまし、ウィンダミアの奥さま。

 娘を捨てた母が、子供を捨てようとしている娘を押しとどめようと、必死でかきくどく場面のこのセリフは、スリリングな場面設定に生かされてリアリティを持ち、感動を誘うものです。

 バーティ・ミット・フォードは、いったい、この劇をどう見たのでしょうか?
 私は、もしかするとバーティは、オスカー・ワイルドに、おそらくは一般論の形をとり、子供を捨てた母親について語ったことがあったのではないか、と思うのです。
 子供を捨てた過去を悔いるアーリン夫人は、捨てられた子供の側からして、もっとも望ましく、あるべき母親像ではないでしょうか。
 自分と父を捨てたことで、母親は苦しんだのであって欲しい………。捨てられた子供にしてみれば、当然の願望でしょう。
 その母も、そして父もこの世を去り、すべては過去のこととなり、バーティにとっての「ウィンダミア卿夫人の扇」は、父母へのレクイエムであったのではないか、と感じます。

 しかし、バーティの妹、コンスタンス・モリノーにとっては、どうだったでしょうか。
 すべては、憶測でしかないのですが、母がアッシュバーナム伯爵家、父がセフトン伯爵家の出でありながら、果たして、コンスタンスの前に、ロンドン上流社交界は扉を開いたでしょうか。
 おそらくはイタリアで生まれ、いつロンドンへ帰ったのか、そのとき父母もいっしょだったのかどうかもわかりませんが、歓迎されない存在であったのではないか、と思えるのです。
 そして、そうであったとき、父母ともに上流階級の出で、おそらくはそれにふさわしい教養を持ち、自らにはなんの過失もないコンスタンスの思いは、どんなものだったでしょうか。
 「お子さまの生涯が奥さまゆえに台なしにでもなったら」というアーリン夫人の危惧は、そのままレディ・ジョージアナがコンスタンスに対して抱いただろう「私がこの子の人生を台なしにした」という悔い、だったのではないでしょうか。

 ウィリアム・メルビルが、王室テロ防止によって出世したらしいことを見れば、コンスタンスとメルビルとの出会いには、あるいはバーティが介在していたか、とも思えます。
 それにしてもメルビルは、アイルランドの居酒屋だかパン屋だかの息子で、実力で地位を築いた人のようですし、先妻があったらしく、すでに息子がいたようです。
 もちろん、自らの力で人生を切り開いてきた男をコンスタンスが深く愛した、ということも十分にありえると思うのですが、当時のロンドンの社交界から見れば、「伯爵家の血を引くとはいえ、母親があんなだったからあんな結婚を」ということに、なるのではないでしょうか。
 そして、メルビルがコンスタンスを愛していたかどうかは、置いておくにしても、メルビルにしてみれば、コンスタンスとの結婚には、社会の階段をのぼる、意味があったことは確かでしょう。

 だとすれば、です。
 少なくともメルビルが、妻の母親のスキャンダルを思い出させる、オスカー・ワイルドの「ウィンダミア卿夫人の扇」を歓迎したとはとても思えず、数年後の男色事件で、オスカー・ワイルドが異常なほどに苛酷なとりあつかいを受けることに、もしかするとメルビルは、関係していたのではないだろうか、と、ふと憶測してみたくなるのです。

 ひとつ、気になる事実があります。
 オスカー・ワイルドの兄は、「デイリー・テリグラフ」で仕事をしていたそうなのですが、この劇による弟の大成功に嫉妬し、「オスカー・ワイルド氏はこの劇に自分の男性版と女性版を多く登場させただけだ。できのよくない劇である」という批判を書いて、ニューヨークに移住したのだそうです。
 ワイルドと兄との間にどんな確執があったかは知らないのですが、この劇評は変でしょう。
 だれの作品であっても、作品の登場人物は作者の分身にほかならないわけでして、それが出来が悪い理由にはなりません。
 妄想なんですが………、ワイルドの兄は、作品のモデルとなった事件について書こうとして、………それを書けば評判になること請け合いですし………、脅されたのではないのでしょうか。
 だれにかって………、もちろんメルビルに、です。
 秘密警察的な仕事をしていたメルビルにとっては、弱みを見つけて脅しをかけることなど、お手のものだったことでしょう。



人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする