尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2の続きです。
尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1で書きましたが、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)の父、メイエル・リューリが、ニコラエフスクにおきましてリューリ兄弟商会を設立しましたのは、1901年(明治34年)、日露開戦の3年ほど前のことでした。
メイエルは、やはりニコラエフスクの事業家(製材、毛皮、漁業)、ユダ・ルビンシュテインの妹、ライーサと結婚していまして、日露戦争開戦前年、1903年(明治36年)に長男アレクサンドル、日露戦争後の1906年(明治39年)に次男ロベルト、そして1909年(明治42年)に初めての女の子、エラが生まれました。
ここまでは、主に「白系ロシア人と日本文化」の「漁業家リューリ一族」を参考にしています。
白系ロシア人と日本文化 | |
沢田 和彦 | |
成文社 |
ここからは主に「ニコラエフスクの破壊」、米訳者(エラ)前文から。
1914年(大正3年)、エラが5歳になった年、第一次世界大戦が始まりますが、この年、アムール河の下流域は、ウラジオストクを中心とする沿海州から分離され、サハリン州となり、ニコラエフスクはその州都になります。
永住人口(夏期だけではなく冬もニコラエフスクで過ごす人口)は12000人。
主な産業は、郊外の金鉱山、鮭鱒を中心とする漁業、林業、毛皮取り引きなどで、夏の出稼ぎ期には、人口は倍以上にふくれあがりました。百年後の現在、ニコラエフスク・ナ・アムーレの人口は3万人をきるそうですから、夏に限ればほとんど変わっていませんで、当時のシベリアにおきましては、かなりの都市でした。
尼港事件の理解を助ける地図
上の地図で、赤い炎の印がニコラエフスクです。
間宮海峡を隔てて北樺太と向かい合っていますから、11月から5月までの半年以上、港が氷に閉ざされるほどに気候は寒冷です。とはいうものの、緯度をいうならば、アイルランドのダブリンやドイツのベルリンとあまりかわりませんで、ペテルブルクはもちろん、モスクワよりも南になります。
幕末の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編、中編、後編上、後編下と書きましたが、結局、黒田清隆がイニシャティブをとりましたことから、日本は、明治8年(1875年)、ロシアと千島・樺太交換条約を結び、南樺太を放棄します。
幕末には、ずっと幕府が、南樺太の保持に腐心してきていましたから、これは、明治新政府の敗北といってもいい条約だったのですが、日露戦争の勝利により、ようやく日本は、南樺太を取り返します。
つまり、ですね。この当時、南樺太は日本領でしたから、ニコラエフスクは、日本にとりまして、近隣といっていいロシアの都市でした。
ニコラエフスクの学校は、無料の市立学校が2校と工業学校。そして高等教育を望むコースとしまして、女子には7年制のギムナジウム(古典科目中心)、男子にはやはり7年制の実業学校(科学や現代語中心)があり、この2校に入るには、8、9歳で入学試験を受けなければなりませんでしたので、子供たちは、家庭教師についたり、幼稚園に通ったりして、受験に備えました。
新聞は2紙。映画館が2軒。一軒には、ステージもあって、劇場公演が行われていました。
アムール河を見渡せる美しい公園があり、上手く運営されている公民館、図書館もありました。
当時、ロシアの遠隔地にはほとんどなかった電灯や電話もありましたが、上下水道はなく、一部の富裕層のみが、自家用水道と屋内水洗トイレを持っていました。
公共交通機関はありませんでしたが、辻馬車があり、大多数の人は馬を持っていました。1919年(大正8年)には、自家用車を持つ家も、何軒かはあったようです。
チューリン商会、クンスト・アーリベルト商会、ノーベリ商会という3軒の大きな百貨店があり、ロシア正教の洗礼を受けました日本人、ピョートル・ニコラエビッチ・シマダ(島田元太郎のことです。エラは、島田はロシアに帰化していたといっているのですが、ちょっとその点は確認できていません)が経営する日本商店もありました。他は小さな商店で、そのほとんどは中国人が経営していましたが、グルジア人の店も、2、3軒あったといいます。
6年後の1920年(大正9年)といいますから、尼港事件の起こった年ですが、ニコラエフスクの人口は16000人に増えていました。町で一番大きな企業は、イギリス人経営のオルスク・ゴールドフィールズ有限会社です。
ちょうど、事件前年の1919年10月、人類学者の鳥居龍蔵が、日本軍が駐留しているニコラエフスクを訪れ、滞在しました。
近デジで、鳥居龍蔵著「人類学及人種学上より見たる北東亜細亜. 西伯利,北満,樺太」が公開されていまして、見ることができるのですが、アルベルト商館(クンスト・アーリベルト商会)などの百貨店は、大戦開戦以来、欧州からの輸出入がほとんど止まった影響を受けて商品が入荷せず、島田商会の方が日本からの輸入が順調で、繁盛していた、と言います。
鳥居龍蔵は、日本軍守備隊長の紹介で島田元太郎の家に泊まり、半年後には尼港事件で殉難することになります石田虎松副領事にすきやきをごちそうになっています。鳥居氏いわく、「副領事は芸術趣味の極く深い人であって、寧ろ外交官といふよりも文学者ともいふべき面影があった」そうです。副領事は絵を描き、写真が上手く、ロシア文学に造詣が深く、鳥居にモスクワ芸術座の話を語って聞かせました。
日本人では、島田元太郎は別格として、他に米、木材、雑貨、菓子パン製造など、かなり大きな商店経営者が数人いました他、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職など、個人経営の職人が多く、また医師と歯科医もおりました。
1918年(大正7年)1月の調査で、日本人は500人ほどで、そのうちのほぼ半数が女性。多数をしめます既婚女性の他に、娼妓など水商売の女性が90人、家事労働者(乳母、家政婦、女中など)が60人ほどいます。
女性の水商売は、1895年(明治28年)、日本人の漁業関係者が多く進出していました時代に、天草の二組の夫婦が、近在の若い女性を連れて行ってはじめたもののようです。
なお、この当時の沿海州には朝鮮人が多く暮らしておりましたが、ロシア正教に入信し帰化してロシア国籍になっていません場合は、すべて日本国籍です。そうした朝鮮人は、およそ1000人前後いたようですが、郊外で農業を営むか、あるいは中国人や日本人の商店などに雇われて働いていました。
東北芸術工科大学東北文化研究センターのアーカイブスに、仙台の写真館が作ったらしい「尼港在住朝鮮ノ芸妓」という絵葉書が所蔵されていますが、娼妓には、朝鮮人もかなりいたものと思われます。
尼港事件におきまして、虐殺を行いました赤軍パルチザンは総数4000名ほど。そのうちの1000名、ですから、およそ4人に1人が朝鮮人だったわけですけれども、原暉之氏によれば、ニコラエフスク市内で編成されました部隊は、ワシリー朴率います100名ほど。残り900名は外部から来たもので、朴イリアが率いていました。
ワシリー朴にしろ朴イリアにしろ、ロシア正教の洗礼名を持っているわけですから、帰化してロシア国籍を得ていました。ワシリー朴は士官学校を出ていて、大戦に従軍していた、というような話も伝わっておりますし。
パルチザンに加わったサハリン州の朝鮮人は、原暉之氏の言うように、大方、鉱山労働者ではなかったかと思われ、おそらく、家族がいない単身者だったのでしょう。
ニコラエフスク近郊の農家の朝鮮人がどうだったかと言いますと、どうやら、村によって対応が別れたようなのですね。赤軍パルチザンは強制動員をかけていましたので、帰化していた場合などは、動員に応じなければ命が危ない、などということもあったかと思われます。
尼港事件の後に、廃墟となりましたニコラエフスクに入った日本軍が、逃げたパルチザンの行方を追い、捜査をしております最中、近在の朝鮮人の家の女の子が「生活に困っているので雇ってください」と言ってきたので、その子の家を訪れたところ、なんと事件で戦死した石川少佐の遺体から盗んだ金時計だかが見つかった、などという話もあります。
井竿富雄氏の『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』によりますと、尼港事件でパルチザンの被害にあった、と訴える日本国籍の朝鮮人も多数いたそうですし、実際、虐殺されるところだったロシア人一家が、近郊の朝鮮人の農家にかくまわれて助かったりもしています。
日本女性の家事労働者につきましては、沿海州のロシア人(とはいうものの、ユダヤ系だったりポーランド系だったりしますが)富裕層において、几帳面で温厚だと評判でした。
日本の開国以来、極東ロシアには、単身の男性が圧倒的に多く、娼妓とともに家事労働に従う女性も必要とされたわけでして、ロシア正教に改宗して帰化しないかぎり、正式な結婚はできませんから、いわゆる内縁の妻状態の日本女性も多かったようです。家政婦、女中につきましては、もと娼妓であったという場合も、けっこうあったかもしれません。
しかし、乳母となるとちょっと話がちがってきます。結婚して極東ロシアに渡り、未亡人になった女性などが多かったようです。
エラのいとこたち(メイエルの弟アブラハムの子供たち)の乳母は日本人でして、あるいは、エラにも日本人の乳母がいたかもしれません。
リューリ家と似ているのですが、政治犯としてシベリア徒刑となり、ウラジオストク近郊で鹿牧場を経営して富豪になりましたポーランド貴族のヤンコフスキー家でも、日本人の乳母を雇っていました。
当時のニコラエフスクは、おそらく現在のニコラエフスクよりも、はるかに国際的です。
ロシア正教の教会が二つ、ユダヤ教会が一つ、回教寺院が一つあったと言いますから、ロシア文化が基調ではありましても、様々な文化が共存していたわけです。
ニコラエフスクにおいて、「子供にとっては、長い冬は楽しみな季節で、私の記憶も冬のものが多い」とエラは回想します。
夏の楽しみは、ピクニックや定期的にやってくる移動サーカスや、たまに来る劇団でしたが、冬はアイススケートや板橇、犬橇でした。スケート場や橇のすべり台が、即席で作られました。公園には、公共のすべり台が設営され、それはアムール河の岸まで続いていて、最後は氷結した河面に出られたそうです。
冬は、ロシア正教会の行事が続く季節でした。
クリスマスには、巨大なクリスマスツリーが飾りつけられ、仮装パーティーが開かれました。
年が明けて2月には、謝肉祭(マースレニツァ)。ロシアでは、仮装や橇遊びを楽しむ習慣で、ごちそうは、キャビアをのせたソバ粉のパンケーキでした。
上は、謝肉祭に橇遊びをするロシアの子供たちです。場所はまったくちがいますが、1910年の絵ですので、参考にはなります。
冬の終わりを告げます最後の祝祭日が、イースター(ロシアではパスハ)、復活祭です。イースターエッグを贈ることが知られていますが、ロシアでは、パスハと呼ばれるお菓子や、クリーチというパン菓子を作って祝います。
上がパスハ、下がクリーチとイースターエッグです。
エラの家はユダヤ教でしたので、聖書の出エジプト記にちなんだ過ぎ超しの祭を、3月から4月にかけて祝います。この期間はイースト入りのパンは食べない、など、いろいろと食べ物に制限があるのですが、エラは、過ぎ超しの祭がイースターの前に終わって、ロシアの伝統料理パスハやクリーチが食べられることが嬉しかった、と言っています。
ユダヤ教徒ではありましても、あまり教条的ではなく、ロシア正教の祝日も祝っていたのかもしれません。
1993年(平成5年)、80を超えて、エラはこの「ニコラエフスクの破壊」米訳者前文を書いています。
「白系ロシア人と日本文化」によりますと、 「エラはソ連を3度訪れたが、ニコラエフスクに行けないことを残念がっていた」ということなのですが、米訳者前文を見ますと、おそらくはソ連崩壊の後、つまり80歳を超えてからだと思うのですが、生まれ故郷の土を踏むことができたようです。
冒頭に書きましたように、1914年、エラ5歳の年に、第一次世界大戦が始まります。
第一次革命といわれます血の日曜日事件の年の騒乱から、9年の年月が流れていました。
ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門) | |
ロバート・サーヴィス | |
岩波書店 |
読みやすいロシア革命の概説書をさがしていたのですが、オックスフォード大学教授ロバート・サーヴィス著の「ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門)」は、当時のロシアが置かれました状況も的確に解説されていて、かなり満足のいくものです。
第一次革命の後、1906年にロシア首相となりましたピョートル・ストルイピンは、過激な革命派を弾圧する一方で、言論、出版、結社などの自由を拡大し、ゼムストヴォと呼ばれます地方議会を強化し、農村改革、労働者の生活改善、ユダヤ人の権利拡大など、自由主義的な改革を行いました。ソ連崩壊後のロシアにおきまして、彼の改革は評価されるようになってまいりましたが、彼は1911年に暗殺され、改革は頓挫します。
とはいいますものの、1905年以降、あきらかにロシアは変わってきておりましたし、第一次世界大戦にロシアが参戦し、敗退することがなければ、果たして史上初の共産主義革命は、成り立ったのでしょうか。
参戦にいたる事情やその結果、開戦当初のロシア国内の空気につきましては、ロバート・K. マッシー著「ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇」が、上手く描いてくれています。
ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇 | |
ロバート・K. マッシー | |
時事通信社 |
社会革命党(エスエル)員で、2月革命後のロシア臨時政府指導者となったケレンスキーは、「対日戦争は王朝間の戦争でありまた植民地戦争であったが、1914年の対独戦争では、国民はこれが自分自身の戦争、ロシアの命運を左右すると直ぐに悟ったのである」と記し、さらに「宣戦の布告と同時に、革命運動は跡形もなくなくなった。国会のボルシェヴィキ議員ですら、祖国防衛に協力するのはプロレタリアートの義務であると、しぶしぶながらではあったが、承認したのである」と続けています。国会は、政府の軍事予算を、一票の反対もなく通過させました。
第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)の世継ぎフェルディナント大公がセルビア人に暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことに端を発します。その5年前、ちょうどニコラエフスクでエラが生まれた年なんですけれども、1909年、ロシアはオーストリアのボスニア併合を認めるかわりに、セルビアの後ろ楯になることを誓約していまして、セルビアを見捨てることは、ロシアにとって、大国としての面子を捨てることでした。
オーストリアと同盟関係にありましたドイツは、ロシアとオーストリアが開戦すれば、これもまた面子にかけてオーストリアの味方をすることになりますが、ロシアはフランスと同盟していましたので、西のフランス、東のロシアと同時に戦うことになります。1894年に露仏同盟が結ばれたときから、ドイツはそういう事態を予想し、対処プランを立てていました。鉄道網の発達が遅れたロシアは総動員に時間がかかるとみられることから、中立国ベルギーを通過して背後から迅速にフランスを叩き、反転してロシアを討とうというのです。
しかしベルギーを踏みにじるというこの案は、確実にイギリスの反発を買い、参戦を招く可能性が高いものでした。
実際、オーストリアの対セルビア宣戦布告に対してロシアが総動員令を発し、ドイツがロシアに宣戦布告して開戦となりますが、ロシアの動員には多大な時間がかかり、それを見たドイツはベルギー侵犯を決断して、イギリスが参戦します。
緒戦から危機に陥ったフランスは、ロシアの攻撃を急かしに急かし、ロシアは兵力がそろわず、兵站も追いつかないままに攻撃をしかけました。
結果、ロシアはタンネンベルクの戦いで、9万人が捕虜となり、死傷者数万人にのぼるという大敗北を喫し、以降、3年間で1550万人というものすごい数の兵員をつぎこみ、膨大な死傷者を出して奮闘しながら、劣勢に終始します。
しかしドイツは、東でロシアの相手をするために西のフランス戦線から兵力をまわさざるをえず、それがためにフランスは、マルヌ会戦でドイツをくいとめ、長期戦に持ち込むことができたわけでもあります。
いずれにせよ、第1次世界大戦は、未曾有の総力戦となり、交通網も工業力も、すべてにおいて、ドイツ・フランス・イギリスからは格段に劣りましたロシアは、武器弾薬が極度に不足し、鉄道網は麻痺し、大量動員で農村の生産力も落ちて、食料がなくなります。
ドイツによってバルチック海が、トルコによってダーダネルス海峡と黒海が封鎖され、海上交通も、凍結期間の長い北のアルハンゲリスクと極東のウラジオストク以外は不可能となり、ロシアの輸入は95パーセント、輸出は98パーセントが止まりました。
しかし開戦当初、ほとんどのロシア人は、戦争は半年で勝って終わる、と思っていましたし、だからこそ、ケレンスキーも記していますように、大方の国民が愛国心に燃えて開戦を歓迎し、ツァーリ(皇帝)を支持していたのです。
ニコラエフスクは、といえば、もちろん兵員の動員はありましたが、戦場ははるか彼方のヨーロッパでしたし、ごく近くに、連合国側で参戦していて、このときのロシアにとりましては心強い味方の日本があり、太平洋の彼方にはアメリカもひかえていましたから、物資の不足を心配することはなかったでしょう。
革命に至るまで、エラの子供時代は平和でした。
続きます。
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