郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍 番外編 コピペ横行

2014年03月28日 | 伝説の金日成将軍


  伝説の金日成将軍シリーズの番外編です。
 
 最近、世間を騒がせました佐村河内守氏のゴーストライター問題と、小保方晴子氏のコピー&ペースト問題。今回取り上げたいのは、コピペの方です。

 小保方氏は、博士論文におきまして、冒頭の20ページほどを、ほとんどそのまま、アメリカ国立衛生研究所のサイトからコピー&ペーストしていた、ということが、今回の騒動で明かされています。
 いわば一般論を述べる部分ですから、参照した上で、自分の言葉に直して語れば問題ないですし、一部分ならば、出典を明記して引用することもできます。
 しかし、いくら本論部分ではないとはいえ、博士論文で、出典もなく延々コピペって、常軌を逸しているでしょう。

 これに対して小保方氏は、「悪いことだと知らなかった」と言っているとも伝えられ、唖然とします。
 紙にかかれた論文ではなく、署名のないネットの文章、ということで、常識が飛んでいってしまうのでしょうか。
 
 実は、ですね。最近、ギョッとするようなwikiのコピペにめぐりあったんです。

歴史通 2014年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
ワック



 上の雑誌、半島特集の萩原遼氏と黒田勝弘氏の記事が読みたくて買ったのですが、連載らしい宮脇淳子氏の東洋史エッセイも、半島のお話でした。
 「金日成は何人もいた」という題で、文章量は見開き2ページ。
 内容は、ちょうどこの伝説の金日成将軍シリーズに重なるものですが、短いですし、結論部分で少々首をかしげたくなる話が出てくることは、後述します。

 宮脇淳子氏は、東洋史家とはいえ、モンゴル史がご専門ですし、北朝鮮の現代史にあまりお詳しくなくても仕方がないですし、Wikiの文章をそのままもってこられるにしても、「一般的によくいわれていることは、例えばwikiでは」と前置きした上で引用なさるのであれば、なんの不都合もありません。
 ところが、まったくwikiへの言及はなく、にもかかわらずWiki-金日成の文章とそっくりな部分がありまして、息をのみました。

 なんで私にそれがわかったかと言いますと、コピペされていたのは、私が書き換えた部分だったからです。
 私が書いた、というのではありません。書き換えたのです。

 wikiペディアの項目は、だれでも編集することができますが、いくら好きに書いてもほとんど誰からもなにも文句が出ない項目と、ちょっと書き直しただけで即ひっくりかえされたり、抗議されたりする項目があります。
 Wiki-金日成は、もちろん後者、多数の執筆者が関心を持ち、下手なことをすると騒動が起こる項目です。
 できれば触りたくなかったのですが、金日成伝説のモデル金ギョン天(金光瑞)を2009年に立ち上げました時、整合性をとりたくなりまして、おそるおそる手を入れました。
 下手をするともめる項目ですから、徹底的に原典を明記し、脚注を多用し、後述しますが、直さなくてもなんとかなる語句は、文章として多少不自然でもそのまま残し、書き換えたんです。

 おかげで、本文は文句をつけられることもなく、幾度も書き換えたのですが、一昨年(2012年)に金日成の上官でした呉成崙の項目を立ち上げまして、そのときやはり整合性をとりたくなり、本文だけではなく、冒頭の定義文にも手を出しましたところが、もめにもめまして、その記録はノートの最後「17 金日成のパルチザン活動について」に残っております。

 まあ、ともかく、私一人で書いた文章ではないですし、wikiに書いた時点で、著作権は放棄しております。
 しかし、だからといって、商業誌の連載エッセイに出典明記もないコピペは、いかがなものでしょうか。
 あまりにも露骨なコピペですので、あるいは、だれか学生アルバイトにでもやらせた結果なのか、とも思うのですが、あんまりうろんなことをなさると、宮脇氏がおっしゃるところの「北朝鮮寄りの研究者たち」、おそらく和田春樹東大名誉教授とか水野直樹京大教授とかではないかと思うのですが、彼らの言説への批判として、まったく説得力がなくなってしまうんですよね。

モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで (刀水歴史全書)
宮脇 淳子
刀水書房


 宮脇氏の代表作はこちらでしょうか。専門では、りっぱなご研究をなさっているのですから、マルクス史観の中国、北朝鮮史を正面から批判していただくためにも、揚げ足をとられるような著述はひかえていただきたいと、あえて引用比較させていただきます。

歴史通 2014年 3月号 宮脇淳子著 東洋史エッセイ「金日成は何人もいた」
 確かな史実として金日成の名前が残るのは、1937年6月4日、満州の東北抗日聯軍の一部隊が、朝鮮の咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件である。
 国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったので、大きく報道されたことと、日本の官憲が討伐のために、現場指揮官の一人だった金日成を初めとする面々に多額の懸賞金をかけたので、その名が知られるようになった。
 日本軍は、このあと東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦をおこない、朝鮮の咸興(かんこう)の師団に属する恵山(けいざん)鎮守備隊を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況下で、金日成は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ、1940年3月には、満州の警察部隊の前田隊を事実上全滅させた、と北朝鮮寄りの研究者たちは書くが、それはあくまで、この金日成と、のちの主席が同一人物だという前提での話である。
 この抗日パルチザンの金日成の部下は、中国人苦力(クーリー)と朝鮮人農民と、人質を兵士に仕立て上げた朝鮮人の若者で、全滅した満州の前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人だった。
 満州の東北抗日聯軍は、日本側の帰順工作や討伐作戦により壊滅状態に陥り、1940年の秋、金日成は党の上層部の許可を得ぬまま、上司を置き去りにし、十数の部下とともにソ連邦領沿海州に逃れた。
 


Wiki-金日成
抗日パルチザン活動
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと[9]、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円[10]で、金日成が一人突出していたわけではない。
 また、この普天堡襲撃は、在満韓人祖国光復会甲山支部(のちの朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている[11]。
 その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムフン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ[12][13]、1940年3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている[14][15]。
 このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
ソ連への退却
しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れた[16]。
 

Wiki-金日成脚注
13.^ 徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、47-53頁。金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた。
15.^ 和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、41頁。前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人であり、死亡者も多くがそうだった。


 まず、「国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だった」という文章なのですが、これは確か、私が書き直す前に書かれていたものを、そのまま生かしたんだったと思います。「稀有だった」って、あるいは、もしかしましたら、他に表現を思いつかず、思いつかないままに私が使ったのかもしれませんが、最近あまり使わない言葉ですし、なんとか別の言葉をと思案した記憶が、鮮明に残っています。
 次に、「このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ」の部分なんですが、私が書き直す前の文章は、あきらかに北朝鮮よりのもので、よくは覚えておりませんが(wikiの履歴をたどればわかるのですが、面倒でして)、「このように困難な状況下で、なお金日成は日本軍に勝利した」みたいなことが書いてあったんですね。だいたい金日成は、日本軍そのものとはまったく戦ってはおりませんで、「このように困難な状況のなかで」という金日成によりそいました言葉は残したままで(金日成の項目ですのでそれもいいかと)、「襲撃、略奪、拉致を成功させ」と、脚注にもありますように、佐々木春隆氏と徐大粛氏の著作を原典として、書き換えたんです。
 佐々木春隆氏は戦前の陸士を卒業され、防衛大学の教授だった方ですし、徐大粛(ソ・デエスク)氏は、コロンビア大学政治学博士で、ハワイ大学朝鮮研究センター所長を努めた方で、お二方とも、まったくもって「北朝鮮寄りの研究者たち」ではありません。
 私は、北朝鮮寄りの和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授のご著書も、確かな事実関係を記述している部分は、存分に活用させていただいておりますが、正反対の立場の著作ともつきあわせて、ちゃんと検証して書き直したつもりです。

 こうしてwikiをほとんど引き写されたあげくに、宮脇淳子氏は、「というのが、(金日成の)公式の経歴である」とされているのですが、無茶苦茶でしょう。北朝鮮寄りの和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授にしましても、北朝鮮の公式発表をそのまま書かれているわけではなく、主に中国共産党系の史料を活用なさって、事実を究明しようとされていますし、それをまた私は、佐々木春隆氏や徐大粛氏の著作とも照らし合わせてwikiを書き換えましたし、wikiの記述は、けっして金日成の「公式の経歴」ではありません。

 あげく、「しかし、実際に抗日パルチザンだった朝鮮人たちは、戦後、今の金日成は別人だと証言した」とおっしゃるんですが、いったいなにを根拠にしておられるのでしょうか。
 
 東北抗日聯軍は、wikiにも書きましたし、この 伝説の金日成将軍シリーズでも書いておりますが、中国共産党の組織なんです。これに属した朝鮮人パルチザンで、金日成別人説を唱えた者はだれ一人としておりませんし、同じ部隊にいた中国人パルチザンもそうです。
 唯一、ですね、伝説の金日成将軍と故国山川 vol6に書いております朝鮮半島内・咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡を中心に活動していた朴金、朴達などの共産主義団体(のちの朝鮮労働党甲山派が、別人説を唱えていたと伝わるんですが、彼らは満州の金日成と同じ部隊にいたわけではなく、朝鮮国内にいて、吳成崙にオルグされただけでして、金日成を直接知っていたわけではないんですね。
 憶測になりますが、私はこのシリーズで書きましたように「金成柱が実戦部隊の指揮をしていたことは確かで、それを吳成崙が金日成将軍として演出した」と考えていますし、ほぼ、それでまちがっていないでしょう。

 宮脇淳子氏の結論、「金日成という名前は抗日英雄というアイコン(記号)にすぎない」に異を唱えるわけではありません。むしろ、それに同感だからこそ、事実関係は正確に著述なさるべきではないのか、と思うんですね。
 だいたい和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授には、肩書きで負けておられるのですから(笑)、短いエッセイでも、つっこみどころのないように要心していただければと。
 wikiのコピペは、わかってしまう確立が高いものです。くれぐれもお気をつけあそばせね、みなさま。
 
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伝説の金日成将軍と故国山川 vol9

2012年06月08日 | 伝説の金日成将軍

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol8の続きです。

 このシリーズを書き継ぐつもりはなかったのですが、書いているうちは、その内容にそった読書にはげむものですから、尾をひくことになるようです。

 まず、金日成偽物説について、つけ加えたいことが出てまいりました。
 延々とこれまで書いてきましたように、北朝鮮の金日成、本名・金成柱が、東北抗日聯軍の第一路軍第二軍の第六師長でありましたことにはまちがいがなく、満州で抗日パルチザン活動をしてましたことは事実ですし、普天堡襲撃の現場指揮も、おそらく本人です。

 ただ、これもさんざん書いてきたことなのですけれども、伝説の金日成将軍は、金成柱よりはるかに年上で、金日成の父親の年代に近いんです。金日成が平壌に姿を現しましたとき、騒がれましたのは、金日成将軍にしては、若すぎる!!!ということだったんです。

 しかし、ですね。伝説はあくまで伝説ですから、金日成将軍伝説が、当時から流布していましたことについては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol5で引用しております、金日成のロシア語の通訳を務めていました高麗人・兪成哲(ユ・ソンチョル)氏の証言以外、といいますならば、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」の李命英氏が、韓国内の年配の人に聞いてまわった証言、くらいのものしかありませんで、どちらも文書じゃありませんから、伝説があったこと自体を否定します研究者も、韓国、日本ともにいたりするわけです。

 しかし、ですね。伝説がなかったならば、若すぎる!!!なんぞという観衆の反応は出てこないわけでして、また伝説があったのでしたら、そのモデルもあっただろうと私は思いますし、金光瑞はモデルの一人だっただろうとも、思っております。

 えーと。
 実は、ですね。私が朝鮮半島に興味を持ちました一番最初のきっかけ、といいますのは、中学生のときに読みました、パール・バックの「生きる葦」という小説だったんです。
 これ、明治から日本の敗戦まで、物語の冒頭では閔妃に仕えていました両斑一族の、三代にわたる物語でして、歴史的な事実関係をいいますならば、相当にいいかげんなものです。

 ただ、ですね。私がこれを読みました当時は、ソ連もまだ崩壊しておりませんでしたし、日本は左巻き全盛期でして、朝鮮戦争もベトナム戦争も、悪かったのはみーんなアメリカで、北ベトナムも北朝鮮も、民族自決の精神でアメリカに抵抗しただけでー、みたいなおとぎ話がまじめに語られておりました。
 ところが、ですね。さすがはパール・バック、宣教師の娘です。信仰の自由を最大限度に重んじますので、宗教を否定します共産主義は許容していませんし、「アメリカは無知で、当初、朝鮮半島に対する対処を誤ったけれども、韓国の自由のためにアメリカ兵は命をかけて、ともに戦った」というようなことが述べられていまして、「アメリカ側から見るならば、そういう視点もあったのか!!!」と、とても新鮮でした。

 パール・バックの父親は、長老教会の宣教師でして、中国が主な伝導の舞台でしたが、確か、朝鮮にも伝導していますし、中国、朝鮮のアメリカの宣教師たちは、民族派の独立運動には同情的でして、大日本帝国に批判的です。したがいまして、「生きる葦」もいわば抗日独立運動の物語です。
 私、よくは覚えていないのですが、第二世代に「生きる葦」と呼ばれる伝説の独立運動家がいて、第三世代には、共産主義者もいます。まあ、つまり、第二世代の「生きる葦」が伝説の金日成将軍で、第三世代に金成柱がいる、ということになるようなわけなんです。
 しかも確か、「生きる葦」の名は、独立運動家に次々と受け継がれていく、というような話でして、私、小説の題材になるくらい、伝説は有名だったのだと、ずっと思っておりました。

ドキュメント 金日成の真実―英雄伝説「1912年~1945年」を踏査する
恵谷 治
毎日新聞


 上の本を読んでびっくりしたことがありました。

 日本の敗戦時、ソ連にいてソ連軍大尉となっておりました金日成は、ウラジオストクから軍艦に乗り、1945年9月19日、ソ連占領下の故国の元山に上陸します。汽車に乗って、平壌到着は9月22日。帰国は、ひっそりとしたものでした。
 そして10月14日、平壌で「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」が催されまして、これが、金成柱こと金日成のお披露目大集会となったわけなのですけれども、金成柱は金日成将軍と名乗って「朝鮮独立万歳! ソ連軍隊とスターリン元帥万歳!」と演説し、群衆から、「にせ者だ」「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」といわれました。

 恵谷治氏は、このとき金成柱の後ろ盾になっておりましたソ連軍のメクレル中佐に、インタビューをしております。
 兪成哲(ユ・ソンチョル)氏の証言では、「この大会の後、ソ連軍の調査によれば、偽物だ!という反応があまりに多く、ソ連軍はイメージアップのために、金日成を父親の実家があった万景台に連れていき、親族との再会を演出して、本物であることを強調した」ということなのですが、これを裏付けるように、メクレル中佐は金日成の万景台訪問写真を持っていまして、その写真の裏には、「李スィパンの偽金日成宣言に反駁するために」と書かれていたのだそうなんです。

 恵谷治氏は「当時李スィパンという人物が、金日成偽物説を主張していたようだが、残念ながら、その経緯をメクレルは記憶していなかった」と、しておられます。
 いや、そのー、「李スィパンって、李承晩(イ・スンマン)以外にいないでしょう!!!」と私は思います。

増補 朝鮮現代史の岐路―なぜ朝鮮半島は分断されたのか (平凡社選書)
李 景珉
平凡社


 上の本の脚注によりますと、1945年10月15日に「平壌民報」が創刊され、どうもそれで、韓載徳が大会の様子を報じた、といいますか、金日成将軍の帰国を宣伝した、ようなのですね。えーと。1947年に平壌で民主朝鮮社から出版されました「金日成将軍凱旋記」に、その文面は収録されているそうなのですけれども。ふう。国会図書館にありますかねえ。
 ともかく、ソ連軍によって、10月14日直後、金日成将軍の凱旋は、宣伝されていたわけなのです。

 一方、米軍が駐留します首都ソウルでは、10月16日に、33年におよびます亡命生活に終止符を打ち、70歳の老独立運動家・李承晩が、帰国します。
 李承晩は帰国直後に、ソ連軍が金日成将軍と名乗る若造を、独立した祖国の指導者に押し立てようとしていることを知らされたことになります。
 10月17日、李承晩はソウル中央放送(ラジオ)で、朝鮮独立へ向けての団結を訴え、米軍への信頼を表明した、といいます。

 ここで、李承晩がソ連軍と、ソ連軍が後ろ盾となりました「金日成将軍」とやらを、牽制しますのは、まあ、当然のことかと、私は思います。
 で、検索をかけていまして、こんなものを見つけました。
 聯合ニュース 米国は「金日成」を偽者と判断、1948年資料です。

 2009年8月13日(木)11:20
【ワシントン12日聯合ニュース】第二次世界大戦後、日本植民地支配から解放された韓国を信託統治していた米国軍政は、北朝鮮の故金日成(キム・イルソン)主席を早くから「偽の金日成」と判断していたことが明らかになった。金日成の本名は金成柱(キム・ソンジュ)で、金成柱が日本植民地時代に満州での抗日武装闘争で名声を得た「金日成」のように振舞っていたとするもの。
 聯合ニュースが12日、米メリーランド州の米国国立公文書記録管理院(NARA)で発見した資料から確認された。これまで韓国では、「偽金日成」問題が1950年の朝鮮戦争後に右翼により広まったという主張が繰り返されてきた。
 「北朝鮮の韓国人たち」と題するこの資料は、米国が大韓民国政府樹立直前の1948年8月1日に作成したとされ、当時は極秘資料に分類されていた。資料は、金成柱は1924年に父親について中国に行ったが、この父親が、抗日闘士として名を上げた本物の金日成の兄弟だったと記す。金成柱が叔父(伯父)の名をかたったと指摘したことになる。金成柱は1929~1930年、満州と朝鮮の国境で活動していた本物の金日成の遊撃部隊に合流し、金日成が死亡(当時55~60歳)すると、命令によるものか自発的なものかは不明だが、「有名な戦士(金日成を指す)」として振舞ったという。金成柱という人物については、明晰(めいせき)で落ち着きがあり、物事の核心をすぐに把握し業務を掌握するものと知られていたと記されている。
 資料はまた、別の説として、金成柱は訓練のためシベリアに渡った韓国人の一人で、1943年にはソ連により欧州に行ったこともあるとの話も紹介した。第二次世界大戦後に戻った金成柱は、北朝鮮の共産政権の指導者と満州の朝鮮義勇軍の指導者になったという。
 米国はこの資料に先立ち1947年9月1日付で作成した「有力な韓国政治指導者の略歴」という別の資料でも、金日成の本名は金成柱だと記述している。ただ、ここでは金日成を満州国境地帯にいた遊撃隊指導者だと書いていた。


 つまるところ、米軍も、李承晩の偽金日成宣言に注目したようなのですね。
 それで、米軍が「本物の金日成」について、調べました情報から逆算しますと、やはり、「本物にしては若すぎる!」ということが、最大のポイントだったのだと思われます。それともう一つ、李承晩の主張としましては、「本物の金日成は民族派の独立運動家で、共産主義者ではない!」ということだったのでしょう。
 
 金成柱(金日成)の父親、金亨稷(キム・ヒョングォン)は、18歳の若さで長男の成柱を儲けていまして、1888年生まれの金光瑞よりも、実は6つも若いんです。叔父の金亨権は1905年生まれで、金成柱よりも7つ年上なだけなのですが、まあ、そんな細かなことは、米軍にはわかっていなかったと思われます。
 で、叔父の金亨権は、満州にありました抗日独立武装団体・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛が率いていた左派に、成柱とともに所属していたと思われるのですが、1930年(昭和5年)に逮捕され(奉天軍閥に、ですかね)、朝鮮総督府に引き渡されて、京城(ソウル)の刑務所で服役し、1936年に獄中で病死した、といわれています。

 米軍では、成柱の抗日団体加盟を1929~1930年とし、そして叔父の金亨権が1930年逮捕、と伝えられているのですけれども、これが、微妙なんですね。
 1931年に柳条湖事件が起こり、満州事変がはじまりますまで、抗日闘争はほとんどない、といっていい状態でして、では、民族派の朝鮮独立武装団体が満州でなにをしていたかといいますと、なにしろ満州は軍閥支配でしたし、満州鉄道ぞいに日本軍が警備しています以外は、馬賊が闊歩します無法状態。

 朝鮮革命軍のような抗日独立運動団体といえども、朝鮮族の自警団として、警察と民事裁判所の役割を果たし、寄付金と言いますか税金といいますか、を集めて、場合によりましては、学校を作ったりもしていました。
 したがいまして、満州事変までは、抗日運動は休止状態で、むしろ、乱立します団体同士の縄張り争いの方に忙しかったわけなのです。
 金亨権の逮捕も、抗日運動ではなく、縄張り争いにからんだもの、と見た方がよさげに思います。

 そして、李鐘洛は左派ではありましたけれども、呉成崙の勧誘にもかかわらず中国共産党に入党してはいませんで、共産主義者とは言えませんでしたから、金亨権は民族派として獄死した、ということが可能です。実は、単に盗みで服役しただけなのかもしれないにしても、です。
 李承晩とともに、米軍をとりまいておりました朝鮮の古参独立運動家たちにとりましては、ソ連傘下の共産主義者が、なにはともわれ忌むべき存在だったことは、容易に推測できます。

 といいますのも、wiki-金光瑞に書いておりますが、李承晩が初代大統領を務めました上海臨時政府は、その後分裂して、高麗共産党といわれた運動家たちが朝鮮共和国を名乗って、一時はソ連を頼り、ウラジオストクへ移るんですが、結局、ソ連はこれを追い出すんですね。

 この朝鮮共和国の閣僚には、ですね、wiki-金光瑞に書いておりますように、金光瑞とともに日本陸軍を脱走して、新興武官学校の教師をしていました池青天がいます。
 で、池は、金光瑞と袂をわかち、ソ連を見限って満州へ帰るんですが、正義府という抗日独立運動団体の幹部になっていまして、金成柱の父親・亨稷は、この正義府の支持者、あるいはメンバーであったようなのです。息子の成柱は一時、この正義府が運営する軍事学校の華成義塾で学んでいました。
 
 金亨稷は満州で漢方薬店、漢方医をやっていまして、かなり裕福でした。
 といいますことは、朝鮮人参だとか阿片だとか(当時の軍閥満州で阿片取り引きに違法性はありません)、少量で高価で、匪賊、馬賊が取り引きにからむ可能性の高いものを扱っていたと思われ、武力団体の保護が必要ですから、必ずしも独立運動に熱心だったというわけでもなさそうなのですが、それにいたしましても一応、抗日独立運動支持者であった、とは言えると思います。

 亨稷は若くして病死し、おそらく寄付を拒んで、ということだと思われますが、共産主義者に殺された、という説もあるようです。
 ともかく、亨稷が若死にして後の話になるんですが、満州の朝鮮独立運動団体は、分裂、再編されまして、正義府も左右に分かれます。
 紆余曲折の末、右派だった池青天は韓国独立党の幹部となり、成柱と叔父の亨権は、どうやら、左派が結成しました朝鮮革命軍の中のさらに左派だった李鐘洛の一党に、参加することになったようなのですね。
 そんなわけでして、叔父といいますよりは父親が、正義府の支持者であったことは、米軍支配下の韓国でも、知る人はけっこういたはずです。
 光復軍総司令官になっておりました池青天も、1946年には、韓国に帰国いたしましたし。

 そして、もちろん李承晩は、最初からシベリアの高麗共産党とは対立する立場でしたが、それさえ助けようとはしませんでしたソ連を、信用する気になれなかったでしょう。
 高麗人の粛正や根こそぎ強制移住については、知らなかったにしても、です。

 なにしろ、伝説のキム・イルソン将軍に比べて金成柱は、「若すぎるから偽だ!」というわけなのですけれども、じゃあ本物はだれ? ということになりますと、伝説ですからねえ。モデルはありましても、それが本物とは言いづらいわけでして、各方面から仕入れました情報を、合理的に整理しようとしまして、米軍の「金成柱の叔父が本物」といいいます、相当に珍妙な説ができあがったわけなのでしょう。
 とはいえ、日本の敗戦からわずか2ヶ月、金日成北朝鮮登場直後に真贋論争ははじまり、ソ連の金日成将軍偶像宣伝もまたはじまっていた、ということが、よくわかります。

 仕事の方が、ようやく色校が終わったそうでして、これで百パーセント終了です。
 そろそろ、幕末に帰るべき、と思いつつ、あと一回だけ、呉成崙について、追加で書きたいことがあります。
 私、かなり、彼に魅せられておりまして。
 
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伝説の金日成将軍と故国山川 vol8

2012年05月17日 | 伝説の金日成将軍

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol7の続きです。

 実は、このシリーズの題名にあります「故国山川」と言いますのは、1937年(昭和12年)、ソビエト政府によりまして、突然、中央アジアへ強制移住させられました極東沿海州の高麗人(朝鮮人)20万人の望郷の歌なんです。
 シリーズを書きはじめます2年前、NHKの新シルクロード・激動の大地をゆく「第4集 荒野に響く声 祖国へ」を見ていましたら、高麗人のお年寄りが、耳なじみのあるメロディで、望郷の歌をうたっていまして、「あれ? これ、美しき天然だよね」と想ったら、やっぱりそうでした。

 調べてみましたら、2003年に熊本放送で「流転~追放の高麗人と日本のメロディー~」という作品が制作されていました。NHKはこれを元ネタに、取材したようだったんですね。できれば熊本放送のものが見たかったのですが、術が無く、それで、作品のもとになりました下の本を読んでみました。

追放の高麗人―天然の美と百年の記憶
姜 信子
石風社


 極東の国々の中で、西洋近代音楽を最初に本格的に取り入れましたのは、日本です。
 カテゴリー 明治音楽で、さんざん書いたように思うのですが、要するに、近代西洋のルールを丸呑みしまして、西洋とつきあうには、西洋音楽のリズムを国民に身につけさせることも必要なことでしたから、工夫をこらしまして、日本人の感覚になじみますように取り入れたわけです。

 当然なのですが、日本人の感覚になじむ、ということは、他の極東の人々にもなじみやすい、ということです。
 日本が併合し、教育に大きな影響を及ぼした、ということもありまして、日本の唱歌や軍歌は、歌詞が代わり、もとが日本の歌だとは知られないままに、現在でも、韓国や北朝鮮で歌われていますものが、けっこうあったりします。
 姜信子氏によりますと、戦前の半島にも満州にも、美しき天然(天然の美)のメロディにのせた望郷歌が、複数あったようなのですね。
 これにつきましては、後述します。

 美しき天然の作曲者は、田中穂積。安政2年、岩国藩士の家に生まれ、藩軍で鼓手を務めました。
 1873年(明治6年)海兵隊に志願し、軍楽隊に配属。

 1899年(明治32年)、佐世保海兵団に軍楽長として赴任し、1902年(明治35年)、海軍将校の子女のために佐世保女学校が開設されますと、音楽の嘱託教師となります。
 同年、女学生たちが愛唱するためにと、武島羽衣の詩にあわせて、日本で初めてのワルツ、ともいわれます美しき天然を、作曲しました。
 やがて、活動写真の伴奏、サーカスやチンドン屋のジンタとなって、日本全国にひろがったメロディです。

 美しき天然


 実は、以前、YouTubeに、沢田研二、ジュリーが歌います美しき天然(音楽劇act. シリーズ#10「むちゃくちゃでこじゃりまする」)があがっていまして、編曲が劇的ですばらしく、アコーディオンとヴァイオリンの伴奏がまたよく、艶があって、しみじみと胸にしみいる歌声で、歌詞こそちがいますが、金光瑞が歌っただろう故国山川を彷彿とさせるのはこれしかない、と思っていたのですが、なぜか現在、消えているんです。残念です。
 
 なぜ高麗人は、中央アジアにまで、このメロディを携えて行くほどに、なじんでいたのか。
 これは、私の憶測にすぎないのですが、日本のシベリア出兵がからんでいたのではないでしょうか。
 北海道大学のスラブ研究45号「ロシア極東の朝鮮人-ソビエト民族政策と強制移住-」岡奈津子著の「1. 1920年代のロシア極東における朝鮮人」に、以下のような記述があります。

 ロシア極東の米作は、いわゆるシベリア出兵のさいに進駐した日本軍の食糧として、米に対する需要が高まったことから発展した。

日本は朝鮮人の村々に親日組織をつくり富裕な朝鮮人をその会員としたほか、占領機関や水産業などで朝鮮人を積極的に雇用した。 また沿海州には、日本軍へ物資を納入するため、朝鮮からたくさんの業者が流れ込んで来た。

 岡奈津子氏は、肯定的な文脈で書かれているわけではないんですけれども、シベリア出兵で、沿海州の高麗人社会が、好景気に沸いたのは、動かせない事実でしょう。
 一方で、金光瑞たちが、パルチザン活動をくりひろげていたにしても、です。
 シベリアの米作も、北海道開拓で生まれました寒さに強い日本の品種を、朝鮮人商人が、シベリア出兵の需要を当て込んで苗を沿海州に持ち込み、本格的にはじまったようなものです。
 出兵の間、ウラジオストクには、日本兵向けの娯楽もさまざまに提供され、美しき天然も鳴り響き、当然のことなのですけれども、高麗人もそれを楽しんだでしょう。

アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 「アリランの歌」のキム・サン(張志楽)は、原注において、現在(1937年)の吳成崙に言及しています。

 「呉は満州の義勇軍の再編を手伝い、現在はそこの東北抗日連軍第二軍の政治委員の任にある。この連軍は三つの軍団があり、第二軍は七千人全員が朝鮮人で共産主義者の統制下にある。他の二つの軍団は中国人パルチザンで、朝鮮人民族主義者三千人が参加している。呉はまた広い大衆的基盤を有する祖国光復会中央委員のメンバーである。当地での仕事は現在たいへん成功しており、自分も大きな仕事をなし遂げた、と彼は書いてきた。私にも、できるだけ早く参加しに来てくれと言っている」

 うーん。
 キム・サンの英語の語りをニム・ウェールズが整理して書きとめ、それがまた、日本語に訳されているわけですから、事実関係に錯誤があるのは、当然と言えば、当然なのですけれども。
 「三つの軍団」がなにを表すのか、なんですが、伝説の金日成将軍と故国山川 vol5でご紹介しております、wikiの東北抗日聯軍をご覧ください。

 中国共産党の抗日パルチザン組織・東北抗日連軍には、最終的に、第一路軍、第二路軍、第三路軍の三軍がありました。
 ですけれども、第三路軍が再編成立しましたのは1939年のことでして、張志楽(キム・サン)の死後です。
 キム・サンが語った時点で、第一路軍の一軍、二軍があったことは確かですから、これに残りをひっくるめて三軍、だったのでしょうか。
 とすれば、吳成崙は第一路軍第二軍の政治委員でしたので、そこまではいいのですけれども、以前にも書きましたが、7000人は、あまりにも誇大です。二軍だけでしたら、多く見積もって3000人、日本側資料では700人あまり、といったところです。

 それでも、この記述がありがたいのは、在満韓人祖国光復会を、吳成崙が誇っていたとわかりますことです。
 そして、金成柱(金日成)の黒幕でありながら、吳成崙は、張志楽がそばにいてくれることを求めていたのだ、とも。
 ともかく。
 この1937年(昭和12年)、張志楽がニム・ウェールズに出会う直前に、第一路軍第二軍六師長・金成柱現場指揮、第二軍政治委員・吳成崙黒幕で、普天堡襲撃は、すでに起こっていたのですけれども、張志楽は、おそらく知らなかったでしょう。

 朝鮮半島内の普天堡が襲撃され、しかも追撃しました警察部隊から7人の犠牲者が出まして、朝鮮総督府も満州国も、血眼になります。
 もともと、東北抗日聯軍は、中国共産党の組織でしたけれども、資金が出ていたわけではありませんで、ソ連の援助も得られていません。
 馬賊のように、いわば税金を地元民から取り上げる形をとっていたのですが、うまくいっていたとは言い難く、日本人、朝鮮人、現地人の区別なく、強奪、身代金目的の誘拐など、暴力行為を常とし、匪賊と大差はありませんでした。

 そして、普天堡襲撃から間もなく、1937年(昭和12年)の秋、突然、沿海州の高麗人(朝鮮人)が、根こそぎ消えてしまいます。
 詳しくは、先にご紹介しました岡奈津子氏の論文「ロシア極東の朝鮮人-ソビエト民族政策と強制移住-」を見ていただきたいのですが、スターリンの大粛正の一環で、すでに1936年から、高麗人たちの主な指導者が、逮捕、投獄されるようになっていました。金光瑞も、その一人です。

 満州に住む朝鮮人たちには、沿海州に親戚もあったでしょうし、国境線の向こうで、根こそぎ同胞が消えてしまったのですから、これが、わからないはずはありません。
 なにしろ、とても日本人には考えられませんあまりの事態に、朝鮮、満州の国境警備隊の日本人が、茫然自失してしまったほどだったんです。

 崔庸健(吳成崙に同じく、広州蜂起に参加し、満州に派遣された中国共産党の朝鮮人)が参謀長になっていました第二路軍の受け持ち地域は、高麗人が多数住んでいました沿海州ポシェト地区と隣接し、国境線の見張りがきびしくなっていたとはいいますものの、出入りもあったわけですので、真っ先に知り、それはやがて、第一路軍にも伝わったと思われます。
 東北抗日連軍の朝鮮人メンバーにも、ソ連に対します不信感が、芽生えて当然だったのではないでしょうか。

 そして、1938年(昭和13年)6月、高麗人の強制移住を実行しましたソ連の極東内務人民委員部長官ゲンリフ・リュシコフが、国境線を越え満州国へ入り、日本へ亡命します。リュシコフは、スターリンの大粛清に当初からかかわっていまして、今度は、自分の身が危うくなっていたのです。
 このことにより、満州、朝鮮、ソ連(沿海州)の国境線は極度に緊張し、同年7月末、張鼓峰事件が起こります。
 また同年末、北満州に展開し、翌年には三路軍と呼ばれるようになりました東北人民革命軍第六軍五師が、満州軍に追われ、部隊ごとソ連領に入りましたが、ソ連は越境の罪で師長を逮捕し、全員を新疆省に送っています。
 なにしろソ連は、大粛清の最中でした。

 ひるがえって、満州国側です。
 張志楽の予想通り、盧溝橋事件によりまして、1937年(昭和12年)、日中戦争ははじまっていました。
 さらにはソ連との紛争をかかえ、抗日勢力の取り締まりは強化されます。網の目を細かく張ってゲリラ活動を封じ、治安を維持したのですが、その一つの手段としまして、投降者を処刑することなく、そのまま治安維持の警察部隊として採用しまして、賞金や職場を保障する帰順作戦をとりました。

 もともと東北抗日連軍は、満州国内に残りました馬賊などを吸収して大きくなった組織でしたから、警察隊となって命が助かり、衣食住が保証されますならば、それでよしとするメンバーも多かったわけです。
 部隊ごとなど、多人数の投降が相次ぎ、しかも投降したメンバーは、かつての仲間の行動パターンを把握しているわけですし、非常な活躍を見せ、第一路軍は壊滅状態に陥ります。

 1940年(昭和15年)2月23日、一路軍の総司令・楊靖宇(中国人)が投降を拒んで射殺され、この年の秋には、金成柱(北朝鮮の金日成)が、独自の判断で部下十数名を引き連れてソ連領に逃げ込みましたが、当初は、投獄されたといわれます。
 11月になりまして、二路軍の総司令・周保中(中国人)が、参謀長の崔庸健とともに、こちらはソ連側としっかり連絡をとった上でソ連入りし、金成柱の身分を保障しましたので、監禁は終わりました。

 吳成崙が投降しましたのは、翌1941年(昭和16年)の1月です。
 なぜソ連へ行かず、投降したのでしょうか。
 一つには、高麗人を根こそぎ強制移住させましたソ連への、不信感があったのだと思います。
 もう一つ、1938年の張志楽の粛正は、極秘に行われたことでしたけれども、吳成崙は、それを知り得たのではないのでしょうか。

 張志楽は、吳成崙と別れて北京へ行った後、二度も国民党政府の警察に逮捕され、二度とも、朝鮮人だと名乗って、日本領事館に引き渡され、朝鮮半島で裁きを受けました。
 国民党にかかると、裁判もなく殺されることがざらなものですから、張志楽は、例え拷問を受けようとも、確実に法のもとに置かれます日本統治下の故国へ帰ることを、望んだのです。
 拷問に耐えて、共産党員であることを認めませんでした張志楽は、それでは拘留の法的根拠が無くなりますから、二度とも、短期間で釈放されます。

 しかし、無法が常の中国では、これは信じられないことでして、張志楽は転向して日本のスパイになったかと疑われ、なかなか党籍が回復されませんでした。
 また、党内に張志楽を排斥する人物もいて、不遇をかこうようになりもしました。
 これは、中国共産党内でのことですので、満州にいたとはいえ、吳成崙にもある程度、聞こえていたはずです。だからこそ、おそらく、「満州へ来てくれ。いっしょにやろう」と手紙で誘っていたのでしょうし、張志楽の身辺情報には、気を配ってもいたでしょう。

 1938年、延安の張志楽は、「トロツキー分子・日本間諜」であることを理由に、処刑されました。
 処刑の責任者は康生。1933年からモスクワに滞在し、スターリンの大粛正に遭遇しまして、「反革命分子」の逮捕、拷問、処刑について、学びました。1937年に帰国し、さっそく、延安でスターリンのまねごとを始めたわけです。
 後の話になりますが、康生は毛沢東の片腕として文化大革命を推進。生涯を、大量粛清にささげたような人物でした。

 おそらく、なんですが、吳成崙は、張志楽の死が中国共産党の手によるものであることに、薄々気づいたのでは、なかったでしょうか。
 自分と張志楽が、命をかけて守ろうとした共産党が、理不尽に自分たち朝鮮人を虐げることしかしないのであれば。
 そして、満州国が田中大将狙撃犯であることを知りながら、自分を受け入れるというのであれば。
 
 ソ連から日本へ亡命しましたゲンリフ・リュシコフは、東京で記者会見をした後、文筆活動と共に、諜報活動の助言などを行っていましたが、軍事顧問となって、満州国入りもしました。
 あるいは吳成崙は、リュシコフの話も、聞いてみたかったのではないか、と、私は思うのです。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


 再び、この本です。
 佐藤守氏のご主張を、ごく簡単にまとめますと。
「金日成は偽物だった。北朝鮮で、金日成の片腕だった金策は、畑中理という黒龍会の日本人で、残置諜者としてわざと北朝鮮に残った。ソ連にいるとき、金日成の妻と不倫関係になり、金正日が生まれた。金策の任務は朝鮮半島の赤化阻止で、金策は金日成を傀儡にして、朝鮮戦争を始め、アメリカを誘い込んで、半島全体の赤化を防いだ。金王朝は日本の天皇制と江戸時代の封建制のまねをしたもので、北朝鮮の粛正は、金日成が偽物であることと、跡継ぎの金正日が日本人の血を引いていることを隠すためのもの。金策は日本の残置諜者だったのだから、日本人には、金王朝の三代世襲を助ける義務がある」

 キチガイの世迷い言にしてもひどすぎますっ!!!
 日本人にも失礼きわまりないですが、朝鮮人にも失礼きわまりない、でしょう。
 なんでここまで、北朝鮮の共産主義を擁護なさるんでしょうか。

 金策が、一度入ソしながら、1943年(昭和18年)まで満州で戦っていたのは、事実です。
 また確かに、東北抗日聯軍は、馬賊も吸収して大きくなったのですし、満州国側に情報をもたらすスパイももぐりこんでいましたから、その中には、入ソしたものもあったかもしれません。
 しかし、それは朝鮮人であったり、中国人であったり、でして、日本人がもぐりこむことは不可能でした。
 なにしろ東北抗日聯軍は、共産党の組織なんです。共産党の組織に粛正は日常茶飯事でして、日本人とわかれば粛正されます。

 そして金策は、第三路軍の政治委員でした正規の中国共産党員です。
 張志楽が党籍を回復しますことが難しかったように、朝鮮人が、正規の中国共産党員となりますのは、当時、とても難しいことだったんです。
 身元は、きっちり調べられています。
 その金策が、長く満州にいたことにつきましては、ソ連への不信があったでしょう。
 高麗人がすべて強制移住させられましたし、新疆省に流された仲間もいたのですし。

 で、金策が満州国に投降することなく、昭和18年にソ連に入ったのが、残置諜者???
 わけがわかりません。
 1941年(昭和16年)、日ソ中立条約が結ばれていたんです。
 当時、ソ連が勝手にそれを廃棄し、勝手に宣戦布告して攻めてこようとは、日本側では思ってもみていませんでした。
 まして、朝鮮半島にまで手を出して、傀儡政権まで作ることになろうとは、です。

 ソ連がどう動くのか、事前に情報をくれるスパイならば、日本軍も欲しかったでしょうけれども、そういう意味では、金策が入ソしたからって、日本人にとりましては、なんの役にも立っていないんです。
 日本の敗戦に乗じて、ソ連が参戦し、朝鮮半島の南北を、米ソで分けて占領することになろうとは、敗戦の2年前に、朝鮮総督府も満州国も、予想できようはずもないことでした。

 そして、北朝鮮が朝鮮戦争を引き起こしたのが、赤化防止のため?????
 理解不可能です。
 アメリカが介入しないと見て、金日成がソ連と中国に援助を乞いましたことは、はっきり史料で裏付けられることです。
 金日成が日本の傀儡だというのでしたら、なんであそこまで北朝鮮は反日で、日本人が奴隷のように差別されるのでしょう?
 日本国籍を持つ正真正銘の日本人が、自由に日本へ帰ることもできない国なんですよ?
 ひるがえって中国人は、北朝鮮の自国民より、はるかに優遇されていたりしますのに、ねえ。

 で、日本の残置諜者である金策が、わざと朝鮮戦争を引き起こして、対馬が韓国領土だと唱えた反日独裁者の李承晩に、半島全体を献上するつもりだった、ですって?????
 まったくもって、わけがわかりません。
 
 百歩ゆずって、金策が日本人で、金日成の妻との不倫関係で、金正日が生まれたのだとしましょう。
 だからなんなんでしょう?
 北朝鮮は、現代の日本どころか、大日本帝国とも似ても似つきません。
 ひねくれて、いびつな、スターリンの申し子国家です。

 日本は戦前から、立憲君主国で、男性のみですが、普通選挙を行っていた国なんです。
 日本列島に居住していましたら、半島出身者にも選挙権、被選挙権があったんです。
 中国共産党員だった張志楽でさえ、日本が法治国家であることを認めていたんです。

 北朝鮮のような無法な共産主義独裁王朝を、日本に似ているなんぞと、どういう狂った頭が考えることなのでしょうか。
 カーター・J.エッカート著の「日本帝国の申し子―高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源 1876-1945」という本がありまして、朴正煕氏が権力を握りましてからの韓国が、大日本帝国の申し子であったことには、私も納得がいきます。
 日本の陸軍師範学校に留学し、満州国軍の士官でした朴正煕氏は、李承晩時代には帰国できないでおられました李垠殿下と方子妃殿下を迎え、敬意をもって待遇したのですし、そういった朴正煕氏のやり方は、簒奪を否定する日本の伝統にもかなうものです。

 スターリンと毛沢東に習って粛正大好き。
 黒五類、紅五類といいます中国共産党の身分制度にそっくりでありながら、もっと細かな「出身成分」といいます身分制度を持ち、日本人は最低の被差別民。
 略奪、拉致を伝統として恥じず、それが得意だった血筋が王として居座り続ける変態国家。
 そんな北朝鮮の、どこが日本に似ているというのでしょうか?
 日本に対して失礼ですし、李王朝といいます独自の王朝文化を持っていました、もともとの朝鮮に対しても失礼です。

 そして、朝鮮独立のために身をささげながら、信じたものに裏切られて果てました、闘士たちの魂にも。

 高麗人が、追放されました中央アジアで、美しき天然のメロディに乗せて歌いました「故国山川」。
 「追放の高麗人―天然の美と百年の記憶」より、姜信子の訳詞の引用です。

 故国山川を離れ 数千里 他郷へ
 山も川も見慣れぬ 他郷へ
 寂しい心が向かうのは故郷だけ 
 ただ思い描くは 懐かしいあの人 友よ


 戦前の朝鮮半島、1921年(大正10年)には、「望郷歌」として歌われたそうです。

 東山に月がのぼり窓を照らす
 いつの間にか落ちていた深い眠りが不意に破られ
 あたりをじっと見わたせば
 夢に見た故郷は もう消えて跡形もない


 満州の独立軍で歌われた「思郷曲」には、「望郷歌」とはちがう第二節があるのだそうです。

 見知らぬ異国の地の寂しい旅人
 月光照らす夜となれば 震えるほどに寂しさがつのる
 この春にも花を咲かせたことだろう 赤いつつじ
 なつかしい故郷 夢にも忘れはしない


 金光瑞が歌い、そして呉成崙が、張志楽が、歌ったのでしょうか、この歌を。
 「故国山川」があれば、一番いいのですが、見つけることができませんで、これを。


月の砂漠 白竜



 今度こそ、幕末に、といいますか、前田正名に帰る予定です。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol7

2012年05月14日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol6の続きです。

 数日前、母が目の手術をしまして、たいした手術ではなかったのですが、全身麻酔だったこともあり、泊まり込みで母の入院につきあいました。その間、「アリランの歌」を読み返していました。

アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 ニム・ウェールズは、張志楽と出会う以前に、中国を舞台にしました長編小説「大地」の著者・パール・バックと知り合い、感銘を受けていました。自身、詩を作ったりもしていまして、非常に筆の立つ女性です。

 「アリランの歌」の冒頭、ニム・ウェールズの宿泊所にキム・サン(張志楽)が姿を現して、物語が幕を開けるのですが、ドアがわりの青いカーテンを手でまきあげ、際だって背の高い男性が、逆光の中に姿を現します。障子窓の外は、雨です。
 臨場感あふれる描写に引き込まれて、おそらくは、ニム・ウェールズの想像力による部分も多々あるのでしょうけれども、読み終わったとき、歴史の狭間に消えていってしまいましたキム・サンという人物が、とても愛おしくなってまいります。そして、そのキム・サンが、「一番の親友」という呉成崙も、また。

 それはもちろん、ニム・ウェールズの筆の力によるものなのですけれども、キム・サン、張志楽の語りがすばらしくなければ、ニム・ウェールズの心がゆさぶられることはなく、この本は生まれなかったでしょう。
 私、これまで仕事で、インタビュー記事をけっこう書いてまいりました。めったにないことなのですが、語りがすばらしければ、もう、それをただ忠実に筆記しますだけで、名文になります。

 『坂の上の雲』と脱イデオロギーに書いておりますが、司馬遼太郎氏のお話をうかがった故・石浜典夫氏が、そういう語り手でおられまして、おっしゃることをそのまま筆記しただけなのですが、私は、自分が過去に書きましたインタビュー記事の中で、満足がいきましたのは、このときのもののみです。
 石浜氏は元新聞記者、それも司馬氏の弟子でおられましたが、張志楽も、自らが小説や詩を書く人でした。

 ではなぜ、張志楽は、自分が書こうとしなかったのか。
 それは一つには、英語で書かれることによりまして、朝鮮独立を望んでいる自分たちのことがもっと世界に知られることを望んでいた、ということが大きいと思うのですが、もう一つ、「自分にはもう時間がない」と悟っていたのではなかったでしょうか。
 粛正されることがわかっていた、とわけではないでしょうけれども、肺結核でしたし、安静にできる暮らしではなく、戦いの中に身を置くことを望んでいたのですから、なにも書くことができないうちに自分の命は燃え尽きると覚悟して、彼は語ったのでしょう。

 1937年(昭和12年)、延安でニム・ウェールズが張志楽に会います直前に、盧溝橋事件が起こっておりました。
 張志楽は、これによって、日中間で本格的に戦争が起こるとにらんでいました。実際、起こったのですけれども。
 以下、「アリランの歌」の「まえがき」より、張志楽の言葉の引用です。

 「戦争状態にはいったら、私はすぐ朝鮮人パルチザンを連れて満州にはいり、日本人と戦うつもりです。一番の親友が現在満州の第一軍の師団長をしていて、いっしょにやろうとたびたび手紙をくれます。この師団は朝鮮人七千人で編成されているんです」

 「第一軍の師団長」という言い方はおかしいですし、東北抗日聯軍第一路軍は、中国人も含めた数で、中共側資料(『中共延辺党組織活動年代記』『東北抗日聯軍闘争史』など)から6000人あまり、日本側資料(『満州共産匪の研究』)では1630人ほどです。
 吳成崙(全光)は第一路軍の政治主任なんですが、朝鮮人の数が多く、金成柱(北朝鮮の金日成)もいた、第一路軍第二軍の方の政治主任だったようです。

 しかし、張志楽がいう「一番の親友」は、まぎれもなく呉成崙です。
 張志楽は、この翌年、33歳の若すぎるその死の瞬間まで、満州の呉成崙のそばへ行くことを、願っていたにちがいありません。
 
 「まえがき」に続く「序章ーアリランの歌」からは、一人称のキム・サンの語りとして書かれています。
 
 朝鮮には受難の人々の真情からわき出た古い美しい民謡がある。深く心を打つ美が常に悲しいように、この歌も悲しい。朝鮮が永くそうであったように、この歌も悲劇的である。美しく悲劇的であるが故に、この三百年というものこの歌は全朝鮮人から愛されてきた。

 歌の意味は幾多の障害をのりこえた末にあるものはただ死ばかりであることを表わすもので、生のうたではなく、死のうたなのである。ただし、死は敗北ではない。多くの死から勝利は生まれよう。われわれの仲間がこの古い「アリランの歌」に新たな歌詞を書き加えるだろうが、最終の章はまだ書かれていない。われわれの多くは死に、さらに多くが「鴨緑江を渡って」逃げた。しかしわれわれの還る日は遠くはあるまい。

 男性が歌うアリランで、キム・サンが語る悲しみがこめられているものを、とさがしたのですが、韓国語のものでは見つかりませんで、白竜になりました。
 昔、乙女のころ、渋谷のライブ・ハウスで、生で聞いたことがあります。
 それに、この若いころの白竜は、呉成崙に似ていると思うんですよねえ。

 白竜 「アリランの唄」


 
 下は、昭和16年(1941年)、投降して一月ほど後、吉林討伐隊司令部における吳成崙です。満41歳になるはずですが、討伐隊側では39歳と思っていたようです。
 東アジア問題研究会編著、株式会社成甲書房発行「アルバム・謎の金日成〈増補〉ー写真で捉えたその正体ー」より、転載です。



 決して美形ではないんですけれども、とても個性的で、雰囲気が似ていませんか? 白竜に。
 「アリランの歌」を読みました後、この写真を見て、私はなにか、訴えかけられているように、感じずにはいられませんでした。
 百年近く昔、強い絆で結ばれていました二人の青年は、共に不本意な死を迎え、しかし魂は、「鴨緑江を渡って」故国へ帰ったのでしょうか?

 確かに、日本は敗れて、大陸から手を引きました。
 とはいえ、破れましたのはアメリカに、であって、ソ連にも中華民国にも敗れたわけではありませんし、朝鮮半島も自力で独立をもぎとったわけではありませんでした。
 二つに分かれました故国。わけても、共産主義の瘤妖怪、金成柱が金王朝を打ち立てました北朝鮮のその後に、二つの魂……、いえ、金光瑞もいますし、悲劇的に人生の幕を閉じた無数の闘士たちの魂は、果たして勝利の歌をうたえるのでしょうか?
 彼らにとって、最終の章はまだ書かれていないのだと、私には思えます。

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol4のコメント欄に書いておりますが、かつて、T.K生という匿名で岩波の雑誌「世界」にコラムを持ち、北朝鮮を擁護しておられました韓国人の池明観氏が、実際に北朝鮮を訪問し、言っておられます。
「北の状況をひとことでいえば、1945年以前日本の統治下にいた時よりももっとひどい状況にあります。私は北に行って来て、北に対して何をどうすればいいのかわからなくなってしまった」

 池明観氏は、大正13年(1924年)、平安北道定州、現在の北朝鮮に生まれ、日本の統治を身をもってご存じです。
 その池氏が、そうおっしゃったのですから、故国の独立のため、非命に倒れた多くの魂が、安らぎを得ていようとは、私にはとても思えないのです。
 
 前回に書きましたが、張志楽は1905年(明治38年)、日露戦争の最中に生まれていまして、中国側の記録では平安北道龍川郡出身だそうです。
 家は貧しい農家でしたが、兄の一人が当時まだ珍しかった洋式の靴屋を開いていて、援助してくれたため、平壌の中学校へ通うことができました。
 1919年(大正8年)、三・一運動の後に、働きながら大学で学ぼうと東京へ渡ります。
 第一次世界大戦が終わった直後で、「当時の東京は極東全体の学生のメッカであり、多種多彩な革命家たちの避難所だった」のだそうです。

 1917年(大正6年)、第一次大戦の最中にロシア革命が起こりまして、反ボリシェヴィキ運動に民族運動が重なり、ロシアは内戦状態。1919年は、シベリア出兵の最中でした。
 しかし、当時の日本の大学生の間では、革命思想が大流行。社会科学、経済学関係の新しい雑誌も、次々に出版されていたのだそうです。
 張志楽は、クロポトキンのアナキズムに心惹かれ、「モスクワこそが新思想の根源」だと思い、1919年のうちに日本を去ります。

 したがいまして張志楽は、関東大震災を経験しておりませんで、当然、伝聞になるのですが、そしてもしかしますと、ニム・ウェールズの責任かもしれないのですが、この本の朝鮮人虐殺描写は、荒唐無稽です。地震で死んだ者が、すべて虐殺されたことになったとしましても誇大ですが、さらに大阪、名古屋でも虐殺が起こった、とされているにつきましては、目眩がしてまいります。
 この本が英語で書かれ、第二次大戦前にアメリカで読まれていたといいますのは、ちょっと考え込まされます。

 さて、一度朝鮮に帰った張志楽は、満州経由のソ連入りを試みますが、ロシア内戦のため列車が運行されていませんで、結局、南満州の新興武官学校へ入ります。
 そうです。新興武官学校は、金光瑞が、擎天と名乗って教官を務めた学校です。
 しかし、張志楽の入学は1920年(大正9年)のことでして、擎天がハルピン経由でシベリア入りしましたのと入れ違いとなり、擎天には教わっていないようです。

 新興武官学校の学習期間は三ヶ月で終わり、同年の冬に、張志楽は上海へ行きます。
 1920年当時の上海には、大韓民国臨時政府があり、朝鮮独立を目指す多くの活動家が集まっていました。
 その上海で、張志楽は、義烈団に属していましたアナキストにしてテロリスト、吳成崙に出会います。

 私が上海で吳成崙に会った頃、彼は三十歳前後、私はまだ十六歳だからその時は親しくならなかったが、数年後の広東では私の生涯を通して二人の親友のうちの一人となった。

 呉は非常に強い性格でおのずと人々の頭に立った。忠実に彼に従う者は多かったが、敵も多かった。私は彼に気に入られて特別の子分にしてもらい、一九二六年以後二人で組んで仕事をした。私たちの革命活動においては彼が黒幕を務め、私が表向きの指導者だった。
 呉は控え目のもの静かな人物で、あけっぴろげではなかった。彼の一生は秘密のうちに過ぎ、ともに何度も死に直面したことのある私でさえ彼の身の上のすべてを聞いてはいない。彼は言葉に信をおかず、ただ行動のみを信じた。容易に人を信用せず、長く知り合ったのちはじめて信用した。一旦決意すればめったなことでは変わらなかった。
 中背で、感じがいいがハンサムではない、モンゴル風に頬骨が高く、広い額には濃い髪がかぶさっている。健康そうでたくましい。美術と文学が好きで、故郷の村では教師をしていたことがあった。ロシアの虚無主義者と無政府主義者に影響を受け、一九一九年に義烈団に加わった。


 この「私たちの革命活動においては彼が黒幕を務め、私が表向きの指導者だった」といいますキム・サンの回想から、私は、東北抗日聯軍において、吳成崙は金成柱(北朝鮮の金日成)を金日成と名乗らせて表向きの顔とし、黒幕を務めたのではないか、と推測したんです。
 そうであってみれば、在満韓人祖国光復会の組織など、吳成崙の業績を盗んだにしましても、吳成崙は満州国に投降してしまった人ですし、金成柱にはまったくもって、後ろめたさはなかったんでしょうし、ね。

 若き日の金成柱には、それなりの魅力があっただろうことは、私にもわかるのですが、吳成崙もまた、とんでもない人物を選んで、表向きの顔にしてしまったものです。
 しかし、ひるがえって考えてみますと、張志楽のようにインテリで、繊細な感受性を持つ人物では、するりと危機をすりぬけることは難しい、ということが、呉成崙にはわかっていたのかもしれません。愛しながらも、ですが。
 東北抗日聯軍におきましては、教養が無く、神経が図太く、しかし要領が良く、機敏にたちまわることができた金成柱を表向きの顔にし、しかし、どうにも好きにはなれませんで、延安の張志楽に、「そばに来てくれ。いっしょに戦おう」と、たびたび手紙を書いた、ということなのでしょう。

 韓国映画に「アナーキスト」という義烈団を扱った作品がありますが、登場人物はすべて架空で、空想ドタバタ劇のようです。風俗でもそれらしくやってくれていたらいいのですが、現代的すぎまして、映像が平板で、ノスタルジックじゃないんですよねえ。

The Anarchist (2000) - ????? - Trailer


 吳成崙は、1900年(明治33年。1898、1899説もあります)、咸鏡北道に生まれ、幼い頃、家族とともに豆満江を渡り、和龍県(現在の吉林省和竜市)傑満洞、つまり間島、現在の延辺朝鮮族自治州に移り住みました。
 張志楽より五つ年上なだけでして、上海で知り合ったときに張志楽が16歳だったというのですから、吳成崙は21歳のはずですが、実際より10も年上に見られていますから、よほどふけて見える容姿だったのでしょう。

 独立運動のための武装テロ組織・義烈団は、1919年、吉林省におきまして、吳成崙より二つ年上の金元鳳(金若山)が中心となって立ち上げました。
 確証はないんですが、呉成崙もかなりはじめからメンバーに入っていたようでして、金元鳳は、金擎天が教官をしておりました時期の新興武官学校を出ました直後に、義烈団を結成しています。
 吳成崙は、もともと実家が吉林省にありますし、金元鳳とともに新興武官学校で学んでいて、金擎天に教わった可能性は、相当に高いと思います。

 1922年(大正11年)3月28日、吳成崙は上海黄浦灘で、陸軍大将・田中義一を狙撃します。
 「アリランの歌」の記述は、まず起こった年を1924年と2年まちがえていまして、さらに、以下の部分も、おかしなことになっています。

「田中は日本の領土拡張政策の主要な理論家であり、有名な田中書簡を書いた人物で、その反動的な征服計画は全中国人、朝鮮人および自由思想の日本人から甚しく憎悪されていた」

 補注にもあるのですが、「有名な田中書簡」とは、いわゆる「田中メモランダム(上奏文)」のことでして、今現在もアメリカには、これを信じる人々が存在するそうですが、学問的に、偽造文書であることがはっきりしています。

 しかし、ニム・ウェールズが話を聞き取り、この本を書きました時期には、他ならぬニムの夫エドガー・スノーがアメリカに紹介し、反日宣伝をくりひろげまして、多くのアメリカ人が本物と信じていたわけですから、ニムが田中メモランダムで有名な人物、と書くのは致し方がないのですけれども、いったい、ちゃんとメモランダムを読んで書いているんですかねえ。
 あるいは夫に、いいかげんに内容を聞いただけだったのかもしれません。
 これは、昭和2年(1927年)、田中義一が昭和天皇に上奏したという触れ込みの偽書でして、吳成崙の狙撃はその5年前ですから、狙撃の理由にはなりえないんですよね。

 吳成崙が田中義一を狙った理由は、田中がシベリア出兵のときの陸軍大臣であったことと、たまたま上海に姿を現したから、でしょう。
 どうも、ですね。
 このように、ニム・ウェールズが調べて書いた、と思われます部分には、相当にいいかげんな記述も多いのですが、具体的な吳成崙の行動につきましては、非常にコミカルになっていまして、あまりにおもしろく、これはこれで、どこまでほんとうなのかと、思わずにはいられません。

 田中が船をはなれた時、彼の前をアメリカの女が歩いていた。田中が八メートルほどのところに来ると呉が射った。アメリカの女は驚いてふりむき、田中に抱きついた。呉は確実に狙いを定めてそらさず射撃を続けたので、正確に女の体の同じ所に三発あたった。田中が倒れて死んだふりをしたので、呉成崙は成功したものと思って巧みに逃れた。

 無茶苦茶です。
 この「アメリカの女」はシュナイダー夫人だったと言われ、死亡という説と重傷だったという説と、あるのですが、いずれにせよ、田中義一は傷一つ負わなかったのですから、とんでもない失敗ですよねえ。

 呉成崙は逃げながら追って来る巡査何人かに傷を負わせバンドから漢口路まで来て自動車にとび乗り運転手をおどかしたが、車を動かすことを拒まれて呉は運転手を蹴り出してしまった。車の動かし方をよく知らなかったのだが、何とか道を通り抜けようとしてエドワード七世通りまで行ったところで他の車に衝突してしまい、イギリス人に逮捕された。フランス租界の住人だから、イギリス警察は呉成崙をフランス人に渡し、フランス人が日本領事に引き渡した。
 彼は領事館の三階の、扉と窓に鉄棒をはめた房に閉じこめられた。同室に五人の日本人がおり、一人は大工、一人はアナーキストで、呉に同情して逃亡を手伝ってくれた。
 日本人の娘が鋼鉄の小刀を届け、呉は大工に教わりながら扉の錠のまわりに穴をあけた。ある夜、彼とアナーキストとは扉を開け、真赤な囚人服を着たままで囲いのへいをのりこえて逃げた。他の日本人は短い刑でしかなかったから、企てには乗ってこなかった。
 呉がアメリカ人の仲間のところに行って三日間かくれていた間、イギリス、フランス、日本の警察は上海中の朝鮮人の家をとり囲み捜査していた。彼の写真はそこら中にばらまかれ、五万元の賞金がかけられた。


 少なくとも、吳成崙が逃げたことは、本当です。
 私、アジア歴史資料センターで、お間抜け領事館の電報文を見つけました。外務省外交史料館/外務省記録/レファレンスコードB03040762000です。

 〇二八五 暗 上海発本省著 大正十一年五月二日后二、四五 四、三〇 主、 内田外務大臣 船津総領事 第一一〇号 田中大将狙撃犯人二人ノ中呉世倫ハ厳重ナル監視ヲ為セルニ拘ラス手足ノ鎖鑰ヲ破リ更ニ監房ヲ破リテ本日午前二時項逃走セリ工部局警察ニ交渉シ各方面ニ亘リ極力捜査中ナリ 在支公使ヘ転電セリ 暗 大正十一年五月四日 大臣 在米大使宛 第二二七号 電送第三三六〇号暗 大正十一年五月四日前后六時〇分発 情報@舩津総領事ノ報告ニ依レハ田中大将狙撃犯人中逃走セル呉世倫ノ逮捕者ニ五百弗ノ懸賞金ヲ提供シ極力捜査中ナリ@ 六九八五 暗 上海発本省着 大正十一年五月三日后三、〇〇 三日后一〇、〇〇 主@、会、 内田外務大臣 船津総領事

 いまちょっと、手元になくて確かめられないのですけれども、「『アリランの歌』覚書―キム・サンとニム・ウェールズ」という本には、張志楽の小説「奇妙な武器」が収録されていまして、これは、このときの呉成崙の体験をもとに描いた短編です。確か、この電報の「手足ノ鎖鑰ヲ破リ」というような部分も、リアルに描かれていたように記憶しています。
 張志楽は詩も作ったそうなのですが、これにも吳成崙が題材のものがあって、ほんとうに張志楽は、吳成崙が好きだったんだと思います。

 「アリランの歌」によりますと、吳成崙は、広東に逃げ、パスポートを偽造してドイツへ行きました。
 嘘か本当かわかりませんが、「ベルリンではドイツ娘が彼に夢中になり、彼女の家族のもとで一年暮らした」そうでして、その後、ソ連領事館で手はずを整えてもらって、1925年(大正14年)にモスクワへ行き、共産党に入って、東方勤労者共産大学で学びました。
 翌1926年、吳成崙はウラジオストックから、再び上海に渡ります。

 このとき、ウラジオストックには金光瑞(擎天)がいて、朝鮮師範大学の日本語と軍事学の講師を務めていたはずです。前年、彼が妻子をウラジオストックに呼び寄せたことは、確かなのですし。
 とすれば、東方勤労者共産大学で学び、おそらくはかつて新興武官学校で金光瑞の教え子でした吳成崙は、金光瑞に会っただろう、と推測されます。
 これらのことを思い合わせまして、私、金日成伝説の流布には、吳成崙が一役買っていたのではないか、と思ったりするのですよね。

 一方の張志楽は、北京へ行って医学生となり、1925年まで在学します。北京で、吳成崙と並ぶもう一人の親友だという金忠昌(1898-1969)に出会います。その影響もあって、マルクスを本格的に学び、共産主義者となります。
 そして、 1926年(大正15年)の暮れ、広州におきまして、張志楽は吳成崙と再開し、生死をともにすることになります。

 なぜ広州か、ということなんですけれども、私、中国共産党の歴史は、まだちゃんと勉強しておりませんで、ちょっといいかげんな要約になるかもしれないんですけれども、とりあえず。
 1917年(大正6年)に起こりましたロシア革命の成功は、世界に衝撃を与えました。
 なにしろ、共産主義国家が、まがりなりにも現実に誕生したわけなのですから。
 1919年(大正8年)、そのロシア共産党が指導しまして、国際共産党組織コミンテルンがモスクワで発足します。

 1920年(大正10年)、シベリアにコミンテルン極東支局が誕生しまして、その指導の下、1921年には中国共産党が結成されます。日本共産党の成立の一年前のことです。
 生まれたばかりの中国共産党は、コミンテルンの指導のままに、1923年(大正12年)、北京の北洋軍閥政府に対抗しまして、孫文が率います国民党と第一次国共合作を遂げます。これによりまして広州には、ソビエト連邦の支援を受けました第三次広東政府が樹立されました。

  つまり、広州には、共産党員が入閣しました政府が成り立っていたわけでして、黄埔軍官学校もできましたし、共産党員となりました張志楽や吳成崙も、広州につどうことになったんです。
 「アリランの歌」より、キム・サンが語ります広州の日々の吳成崙です。

 呉は黄埔軍官学校の兵科でロシア語を教えた。また階級闘争や国際問題について論文を書き、ソ連邦について講話を行なった。詩がきらいで、それを時々書くからといって私を青二才扱いしたが、感情を表わさないだけで実は私同様悲しいものが好きだった。

 ところが、1925年(大正14年)、孫文が病死し、黄埔軍官学校の校長でした蒋介石が主導権を握り、やがて反共に転じます。
 各地で、共産党員が排除、逮捕される事件が相次ぎ、1927年(昭和2年)、第一次国共合作は終わりました。
 1927年8月1日、中国共産党は江西省南昌で蜂起しますが、失敗し、広東方面に向かって、海豊県、陸豊県に集結し、海陸豊ソビエト政権を作りました。

 張志楽と吳成崙は、この間、ずっと広州を動いていませんでしたが、コミンテルンの指令があり、1927年12月に起こされました広州蜂起に参加します。
 結局、この蜂起も失敗に終わり、張志楽と吳成崙は退去し、海陸豊ソビエトに逃げ込みました。
 張志楽がここで目撃しましたことは、農民たちが集団で、ろくな裁判もなく、にこにこと笑いながら、生きながらに、地主とその家族たちの両手を斬り、両目をえぐって、胴を切断する、といった、共産主義革命の残酷な実体です。

 私には、トルストイを愛する人道主義者だった張志楽が、なぜ、ここで共産主義に絶望しなかったのか理解できないのですが、衝撃を受けながらも、一生懸命、それはかつて地主が残酷だった反動だと、自分に言い聞かせていたようです。
 ともかく。
 すでにこのとき、海陸豊ソビエトは包囲されていたのですが、1928年5月まで、持ちこたえたと言います。

 張志楽と吳成崙は、戦闘に加わって転戦し、山中を逃走します。
 7月、サンパン船で香港に逃げようとしましたところ、待ち伏せにあって銃撃され、張志楽は、呉成崙とはぐれました。

 水からはい上がって蛇のように草にもぐり、村へ向かった。闇の中でつまずいて転んだように私の頭はからっぽで、狂気にとりつかれたようにただ呉は死んだか無事かとばかり問い続けていた。

 結局、張志楽は一人で香港へたどり着き、病が重くなったところを朝鮮人の商人に助けられて、上海へ行きます。

 或る日、ジャンクの帆柱が林立し、それぞれ重々しく旗をかかげた諸外国の砲艦が不気味に並ぶ黄浦港を眺めながら、あてどもなくフランス租界の海岸通りを歩いていた。ふと目を上げると、一つの顔が私の方に向かって来るのが幻覚のように見えた。まさか? 顔はだんだん大きく浮かび出て、夢の中にいるようにぼんやりと私の目の前に迫ってきた。なじみのある、荒れた手が私の手をつかみ、しわがれた二つの声が同時にささやきかけた。「死んだと思っていたよ!」。二つの体は同じ血と肉でできているかのように、次の言葉も出せずに、何分かはそのままくぎづけになっていた。やがてゆっくりと、涙が彼の顔を流れおちた。彼が泣く姿を見せたのははじめてだった。

 吳成崙でした。
 1929年(昭和4年)の春、張志楽は、共産主義活動のために北京へ移ります。
 呉成崙は体を壊していて、上海に残りますが、1930年(昭和5年)の秋、満州へ行きます。前回の伝説の金日成将軍と故国山川 vol6で、アジ歴の日本側資料をご紹介しておりますが、昭和5年の9月、吳成崙が満州で活動しておりますことは、確かです。

 再び、二人はめぐり会うことなく、それぞれの生を終えるのですけれども、キム・サンが語った吳成崙は、なんと魅力的なことでしょう。そして、ニム・ウェールズが、「アリランの歌」に二人の姿を書きとどめてくれましたのは、なんという僥倖でしょうか。

 もう少し、吳成崙を追いたいのですが、長くなりましたので、今度こそ、あと一度だけ、次回に続きます。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol6

2012年05月10日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol5の続きです。

 検索をかけていましたら、朝鮮日報日本語版の 「抗日武装闘争リーダー、金擎天将軍の肉筆日記出版」という記事を見つけました。今年の3月の記事ですね。記事が消えると怖いので、引用させてもらいます。

 抗日運動家の金擎天(キム・ギョンチョン)将軍(1888-1942)ほど、波乱に満ちた人生を送った人物も珍しい。
 金擎天将軍は、大韓帝国期に政府の留学生として、日本の陸軍士官学校を卒業し、日本陸軍の騎兵中尉を務めていた際、三・一運動で満州に亡命し、沿海州の独立軍司令官として活躍したが、ソ連でスパイ容疑に問われ、強制労働収容所で死亡した。「満州の金日成(キム・イルソン)将軍」を描く伝説の主人公としても知られる。

 そんな金擎天将軍の、1920年代前後の亡命と抗日闘争を記録した肉筆の回顧録と日記『擎天児日録』が1日、出版された。国を失った軍人の悲痛な思いと独立運動最前線の実情がつづられた告白録だ。

■伊藤博文暗殺に感激
「ある日、東京郊外で反撃演習をしていると、伊藤博文暗殺という号外が飛び交い、東京市が大騒ぎになった。衝撃を受けた。ああ、偉大だ。われわれにも大人物がいるのだな」(1909年10月)

 日本の陸軍幼年学校を卒業したばかりの、20歳の金擎天の感激に満ちた心内だった。金擎天は幼年学校でも日本人に甘く見られないよう心掛けた。
 「六百数十人の日本の学徒が、初めて弱小国の人間である自分が入学したことを奇異に感じている。私は輝く眼差しで彼らを見つめ、一言でもみだりに言葉を発さず、鼻で笑うばかりか、行動も平凡な人間ではないことを見せつけた」

 1910年12月末、日本軍の少尉として任官された直後には、自分の数奇な運命についてこうつづっている。
 「実に奇妙だ。私は光武帝(高宗)の時期には駐日大韓帝国留学生だったが、今は日本の将校になった。ああ、私の前途はこれほどまでに変化に満ちているのだろうか」

■「友が刀を抜けと勧める」
 金擎天は1919年1月、休暇で京城(現在のソウル)を訪れた際、三・一運動に遭遇した。
 「東大門の内側にある婦人病院前で青年団が万歳を叫び、看護婦全員が泣きながら万歳で応じた場面は、私の心をさらに憤らせた。青年会館にいるときも友人が私に刀を抜け、今はほかにすべがないから刀を抜けと何度も勧める」(19年3月1日)

 金擎天は中国亡命を決心する。当時、金擎天は31歳で、妻と娘3人がいた。金擎天とともに中国に亡命した陸軍士官学校の同窓生が、後に光復軍総司令官を務める池青天(1888-1957)だ。

 金擎天は当時、国際情勢を冷徹に見つめる知識人だった。
 「直接の独立は第2次世界大戦が起きなければ不可能だ。ゆえに、私の亡命は少し早いと言える。しかし、私はまだ若く、気概と勇気があるため、海外を数年漂流し、功を積み上げる必要があると考えた」
 金擎天は1920年代初め、沿海州で日本軍、中国の馬賊、ロシア白軍(反革命軍)と戦った。「白馬に乗った金将軍」というエピソードが生まれたのもこのころだ。1921年3月1日の日記では、進展がない独立運動を批判した。「あまりにも努力する者が少なく、虚名に酔いしれた者たちが多い。上海臨時政府に役職をもらいに行くのを見てもしかり、当事者が勢力争いをするのを見てもしかり」

■「軍隊全体がこじきのようだ」
 独立軍の生活は悲惨だった。「食料、衣服、費用は全て不足し、軍隊全部が本当にこじきのようだった」(1921年10月11日)
 1922年夏、金擎天が率いる独立軍を含め、ロシア領内の朝鮮人系武装勢力はソ連当局に武装解除された。抗日武装運動が挫折した後、金擎天は独立運動の一線を退き、沿海州の協同農場で歳月を過ごした。その後、朝鮮人が中央アジアに強制移住させられる直前の1936年秋に政治犯として逮捕され、2年半服役した。だが、釈放から1カ月後に再びスパイ罪で懲役8年の刑を受け、ソ連北部の強制労働収容所で1942年に死亡した。

 『擎天児日録』を整理した元高麗日報記者のキム・ビョンハク氏は「金擎天将軍が共産党に加入しないなど、ソ連式の共産主義に積極的に加わらなかったことが、迫害を受けた原因の一つとみられる」と述べた。『擎天児日録』は、崇実大韓国文芸研究所の学術資料叢書初巻として出版された。


 『擎天児日録』って、ハングルなんですかねえ。
 漢文だとなんとか読めるのでは、と思うのですが、どうすれば手に入れるのかも、問題です。場合によっては、wikiの書き換えが必要なこともあるかと思うのですけれども。
 なお朝鮮日報は、日本の統治時代からの伝統を誇ります韓国の保守紙でして、下手な日本の新聞よりよほど信用できますが、こと日本との歴史問題に関しますかぎり、おかしなことを書く場合も相当にありまして、金擎天(金光瑞)はシベリアで、日本軍と直接には戦っていません。

 それにいたしましても、朝鮮日報が言います通り、金光瑞の生涯は波乱に満ちて、私、ついのめりこんでしまったんですけれども、北朝鮮の金日成につきましては、実のところ、なんの興味もありませんでした。
 だって、スターリンのまねっこ乞食の恐怖統治のあげくに、あんな気色の悪い王朝を作りあげた瘤妖怪なんですよ?

 戦前、朝鮮半島に軍人として行っていた方が、小泉訪朝で金正日が拉致事件を認めた直後に、言っておられました。
 「やつら、昔満州でやりよったと同じことを、相変わらずやりよるんですよ。抗日といってもね、略奪で村を荒らし、人を拉致して、取れる場合は身代金を取り、仲間にできる者は下働きにしていただけですよ。金正日の父親の金日成は、そういう匪賊の親分でした」

 しかし、ですね。
 金光瑞に関連しまして、うんざりしながら北朝鮮の金日成(本名金成柱)を調べていますうちに、魅力的で、興味深い人物に行き着いたんです。
 満州で、金日成と同じ東北抗日聯軍(参照wiki-東北抗日聯軍)の部隊にいた、といいますか、東北抗日聯軍で金日成の上司だった吳成崙(全光)です。
 彼については、後述します。
 まずは、佐藤守氏がおっしゃいますところの「普天堡(ポチョンボ)の戦い(昭和12年・1937年)を指揮した本物の金日成将軍」から、話をはじめます。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房


 李命英氏は「金日成は四人いた」の中で、北朝鮮の金日成とは世代がちがい、活躍時期もちがいます金光瑞と金一成を、伝説のモデルとして挙げた後、伝説の金日成将軍の名を踏襲しましたもう二人の金日成を、本物として描いているのですが、これは二人とも、北朝鮮の金日成が実際に所属しました東北抗日聯軍にいた、とされています。

 普天堡襲撃の指揮者が金日成no3、no3の死亡後、その後を継いだ金一星(キム・イルソンと読みます)がno4、北朝鮮の金日成は、このno4の部下だっただけで、ろくになにもしていないにもかかわらず、生き残って、no3、no4の事績のいいとこ取りをしたのだ、というわけです。

 李命英氏は、主に討伐する側だった日本軍関係者に話を聞いているのですけれども、日本の敗戦で、当地にあった日本側資料の多くは、中国、北朝鮮が押さえていますし、李命英氏が取材なさった当時、すでに関係者は高齢で、記憶が定かでありませんのは人の常です。

 先にno4の金一星なのですが、wiki-抗日パルチザンの「満州の抗日パルチザン/中国共産党に吸収されたパルチザン」の前半に以下のようにあります。

 1930年、コミンテルンの意向があり、満州の朝鮮共産党は、中国共産党に吸収されることとなる。中国共産党満州省委は、この方針に基づき「赤い五月」行動を指令した。朝鮮族の多い間島では、どれほど熱心にこの指令を実行するかで、朝鮮人の中国共産党入党の可否を決める、というような方針があり、間島五・三〇事件(間島暴動)が発生する。最初に行動を起こした部隊を率いていた人物の一人は、金一星(キム・イルソン)という龍井の大成中学生だった。

 李命英氏は、この金一星がno4だとしていたんですが、まずこれは、伝説の金日成将軍と故国山川 vol3でご紹介しました「北朝鮮王朝成立秘史」で、ソ連共産党の幹部だった許真氏が否定しておられます。
 いま、手元にこの本がありませんで、詳細は忘れたのですけれども、間島暴動の金一星は、東北抗日聯軍とは関係なく、北朝鮮の金日成が東北抗日聯軍で戦闘指揮者であったことは、事実とされています。許真氏は北朝鮮からソ連へ亡命された方で、けっして金日成を評価して書いているわけではありませんので、信憑性があります。

 
北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 (1982年)
林隠
自由社


 また、東北抗日聯軍は中国共産党の組織でして、朝鮮族を含む中国人には、北朝鮮の金日成と行動を共にしてソ連に入り、生き延びた人々もいたわけでして、こうした人々の証言により、李命英氏の描くno4は、そのまま北朝鮮の金日成その人だということは、あきらかになっている、といえるでしょう。

 ただ、日本軍関係者の話で留意すべきなのは、「複数の指揮者が金日成を名乗った」という証言です。
 北朝鮮の金日成にしましても、金日成(キム・イルソン)という名前は、伝説にあやかっての仮名でした。日本の敗戦後、北朝鮮に姿を現した当初の金日成は、金成柱(キム・ソンジュ)と本名を名乗っていたという証言もあります。

 したがいまして、金成柱(北朝鮮の金日成)は第一路軍・第二軍・第六師の師長でしたけれども、吳成崙が政治委員を務めました第一路軍・第二軍には、他にも複数、金日成を名乗る人物がいたのではないか、と私は思っています。
 といいますか、伝説の金日成将軍の名を利用しますこと自体、吳成崙のアイデアで、場合によっては、吳成崙自身も金日成を名乗ったこともあったのではなかったか、と。

 李命英氏が普天堡襲撃の指揮者である金日成no3を、北朝鮮の金日成と別人だとしておりました根拠は、まずは日本人関係者の証言と、当時の新聞記事などです。
 しかし、これにつきましては、和田春樹東大名誉教授が、朝鮮総督府が「本名金成柱当二十九年」と確定していることや、北朝鮮の金日成の実弟を特定し、母親もさがし出したりしておりますことから、別人説を否定しています。

 しかしこの普天堡襲撃、満州にいました東北抗日聯軍の第一路軍第二軍の第六師単独ではありませんで、朝鮮半島内の共産主義者の手引きがあって、襲撃に成功したものです。
 以下、wiki-東北抗日聯軍から引用です。

 一方、1936年、第一路軍の第二軍は、長白地区に根拠地を作ろうとしていた。第四師の師長・安鳳学が逮捕され投降、第二軍の軍長・王徳泰が包囲され戦死するなど、相当な犠牲を払いつつ、まずは金日成が師長を務める第六師が根拠地開拓に成功し、1937年には、一路軍の第一軍第二師と、第二軍の第四師も、長白へ根拠地を移しつつあった。
 もともと、1932年に東北人民革命軍を立ち上げたのは、中国共産党満州省委磐石県委だったが、その当初からの古参朝鮮人メンバーに、吳成崙(全光)、李相俊(李東光)がいた。吳成崙は第二軍の政治主任で、李相俊も第二軍にかかわっていたとみられるが、彼らは民生団事件の反省に基づき、、政治委員・魏拯民の支持を得て、朝鮮人の民族意識に訴えようと、在満韓人祖国光復会 を組織する方針を打ち出していたのである。長白への侵攻は、これに従ったもので、第六師は支持基盤の構築工作を開始し、その一環として、鴨緑江対岸の朝鮮半島内・咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡を中心に活動していた朴金喆、朴達などの共産主義団体(のちの朝鮮労働党甲山派)と連絡をつけた。
 1937年6月、第六師は鴨緑江を渡り、甲山郡普天面保田里(旧名、普天堡)の襲撃に成功したが(普天堡の戦い)が、これは、甲山グループの手引き、参加によって成功したものである。


 この甲山グループの朴金喆、朴達など、金日成とともに普天堡を襲撃したはずのメンバーが、後に検挙されて取り調べを受け、日本の敗戦後まで生き残ったのですが、取り調べでも、また仲間への語り残しでも、「金日成は普天堡襲撃当時35、6歳くらいで、モスクワ共産党大学を出ている」というようなことを言っているんですね。
 李命英氏も佐藤守氏も、甲山グループの証言を重視して、別人説を唱えておられまして、一方、否定する側の和田春樹氏は、「捕まったパルチザンは偽情報を流すものだ」といいますような一般論で片づけておられるのですが、いま一つ、説得力がないんです。前述しましたように、朴金喆も朴達も、取り調べ側だけではなく、抗日同志にもそう語っていたといわれているから、なのですけれども。

 私、思いますに、要するに、ですね。
 朴金喆も朴達も、小さな村を襲撃しましたときの現場指揮者の若僧・金成柱が金日成将軍だとは思っておりませんで、自分たち甲山グループに働きかけてきましたモスクワ帰りの中国共産党の大物が金日成を名乗ったので、そちらが指導者だという認識だったのではなかったんでしょうか。
 普天堡襲撃の一年ほど前の日付で、「在満韓人祖国光復会宣言」という書類が残っておりまして、その発起委員は、吳成崙、嚴洙明、李相俊であり、金成柱(北朝鮮の金日成)の名前はないんです。

 吳成崙は1900年(明治33年)の生まれといわれますから、1912年(明治45年)生まれの金成柱より12歳年上で、この当時、満37歳。しかもモスクワで、東方勤労者共産大学(クートヴェ)に学んだ経歴がありました。
 つまりは、朴金喆や朴達が語り残しました普天堡の金日成将軍の条件に、ぴったりなのです。
 
 さらには、1930年(昭和5年)、金成柱は18歳の少年で、在南満州の朝鮮人民族派の抗日武装団(馬賊とあまり変わりませんが)朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団に属していたのですが、中国共産党から派遣されて満州入りしました吳成崙が、李鐘洛の一団と密接に関係していたことが、日本側の探索資料に見えます。
 アジア歴史資料センターの外務省外交史料館/外務省記録【 レファレンスコード 】B04013183200(日本共産党関係雑件/朝鮮共産党関係 第八巻 1.昭和五年八月ヨリ九月マデ 分割3)より、以下引用です。

 昭和5年9月18日 在吉林 総領事 石射猪太郎
 外務大臣男爵 幣原喜重郎 殿

 鮮人共産党員ノ行動ニ関スル件
 首題ノ件ニ関シ当館ノ得タル情報御参考迄別紙ノ通リ報告申○ス
 本信写送付先 上海、北平、奉天、哈爾浜、間島、長春
        関東長官、朝鮮総督

 在満鮮人共産主義ML派幹部タリシ陳公木(張国三、本名李炳照)及呉成崙(曽テ田中大将狙撃犯人)等ハ既ニ中国共産党ニ加入シ中共党満州省委員会ノ重要地位ヲ占メ磐石県煙筒山ヲ根拠トシテ支鮮人共産党員数名ト共ニ絶エス吉林省域ニ出入シ他ノ同志ト共ニ策動シツツアルカ数日前当地ニ於テ右両名及李鐘洛一派ノ金根赫等密会シ速ニ赤軍特務隊ヲ組織シ吉ニ於ケル走狗機関破壊走狗輩ノ暗殺撲滅等ヲ決議シタル上呉成崙ハ去一六日朝吉海線ニテ奉天ニ向ケ出発(後略)


 朴金喆は北朝鮮で要職につき、1968年(昭和42年)に粛正されるまで、金日成(成柱)のそばで生きていましたから、当然、東北抗日聯軍において、呉成崙が金成柱の指導者であり、在満韓人祖国光復会を組織して、朝鮮側で自分たちをリクルートし、すべてをお膳立てした真の金日成将軍は、実は吳成崙であったのだと、わかっていたはずです。
 しかし、いっさい、彼らが呉成崙について語り残していないことには、理由があります。
 
吳成崙は、昭和16年(1941年)、満州国通化地区討伐隊(日本側)に投降し、満州国の治安部顧問になっているんです。日本の敗戦後、通化に入ってきた中国共産党に粛正された、といわれていましたが、一方、許されて一年ほどは生き延び、病死した、というような話もあるみたいです。

 そのためなのか、吳成崙は、北朝鮮はもちろん、現在の韓国でも人気がないようでして、ハングルサイトをさがしてみたのですが、あまり情報がありません。
 吳成崙は金光瑞とちがいまして、非常にくせのある人物で、テロリストでもあったのですが、波乱の人生といえば金光瑞以上です。
 北朝鮮の歴史書では、吳成崙が組織しました在満韓人祖国光復会が、金成柱が組織したことになっていたりしまして、あきらかに、北朝鮮の金日成(金成柱)は、吳成崙の業績を盗んでもいます。

 とはいえ、略歴のみで見ますかぎり、吳成崙は、それほど魅力的な人物ではないんですけれども、実は、このシリーズを書き始めましたとき、さまざまな関連書を読みました中で、私、「アリランの歌」を読んだんです。

 
アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 「アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯」の著者、ニム・ウェールズは、1907年(明治40年)生まれのアメリカ人女性で、本名はヘレン・フォスター・スノー。中国共産党を擁護宣伝しましたことで名高いアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーの最初の妻で、自身もジャーナリストでした。
 夫とともに中国で活動し、普天堡襲撃が起こりました1937年(昭和12年)に中国共産党の本拠延安に取材に入り、朝鮮人革命家のキム・サン、本名張志楽に出会います。

 張志楽は1905年(明治38年)、日露戦争の最中に生まれた朝鮮人で、ニム・ウェールズより二つ年上。
 日本語、中国語をこなし、さらに英語も流ちょうに話しました張志楽とニム・ウェールズは意気投合し、張志楽が自分の人生を英語で語り、ニム・ウェールズが聞き取って文字に起こし、「アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯」が生まれました。
 張志楽は母国語で語ったわけではないですし、ニム・ウェールズの聞き取りには、当然、主観が入ったでしょう。
 あるいはまた、かならずしも事実ではない噂話も含まれていたりもしている様子ではあるのですけれども、二人の魂がふれあい、共鳴して生まれた本であることが、読む者に伝わってくる一冊です。

 ニム・ウェールズと別れて間もなく、33歳の若さで張志楽が粛正されてしまった悲劇を知れば、なおさらに、この二人の出会いは貴重です。
 そして張志楽は、この本におきまして、吳成崙こそが、一番の親友、生涯の友であると、語り残しているんです。

 えー、長くなりましたので、このシリーズ、もう一回、続きます。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol5

2012年05月07日 | 伝説の金日成将軍

 今回もう一度、幕末を離れます。
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol4の続きといえば続き、なんですが、このシリーズを書いておりました当時には、シベリアのロシア内戦におきますチェコ軍団の活躍を書き、金光瑞はそれを手本に朝鮮独立を達成しようと思ったのではないか、というところへ話をもっていくはずでした。

中欧の分裂と統合―マサリクとチェコスロヴァキア建国 (中公新書)
林 忠行
中央公論社


 上の本を主な参考書に、草稿の冒頭は書いていたのですが、面倒になりまして、さらにはハングルサイトの機械翻訳で、金光瑞の詳しい事績と子孫の行方が、現在の韓国では知られていて、建国勲章まで追敍されているとわかったものですから、wiki-金擎天を立ち上げることにしました。
 戸籍に載っています本名の金光瑞ではなく、金擎天で立ち上げましたのは、先にあった韓国語wikiがそうだったからです。

 このブログで書くよりは、wikiに書いた方が多くの方が読んでくださるわけですし、金光瑞の生涯について、韓国でははっきりと伝わっているにもかかわらず、日本語では間違えたままの情報しかない、という状況を、なんとかしたいと思ったような次第です。

 wikiに金擎天を書いた当時、ついでに金日成に関連しても、wikiの記事にいくつか訂正、加筆しました。
 私がほとんど書き換えたといっていいのは、東北抗日聯軍抗日パルチザンなんですが、金日成につきましても、経歴のうちの出生からソ連への退却と、最後の別人説に手を入れています。

 その別人説なのですが、最近、あまりにもひどい説を読みまして。
 トンデモなのですから放っておけばいいんですけれども、中途半端に事実を含み、いかにもありそうな雰囲気をかもし出しておいて、結論がありえないトンデモになっているのですが、それがまた、現代日本人の朝鮮半島への無知につけこみ、結果的に親北朝鮮、反米論調に傾きすぎまして、あげく「金王朝の三代世襲を、日本人には擁護する義務がある!!!」と訴えるにいたっては、「かつての左翼でもここまで脳天気ではなかったなあ。戦前右翼、戦後左翼に受け継がれたアジア主義のなれの果てにしてもひどすぎるよねえ」と、著者の頭の構造を疑わずにはいられません。

金正日は日本人だった
佐藤 守
講談社


 この本なんですけれども、著者の佐藤守氏は、元航空自衛隊空将というご経歴で、それが、どちらかといえば保守よりの陰謀論好き読者を捕らえ、説得してしまう大きな要因であるようなのですが、北朝鮮という国は、以前から、和田春樹東大名誉教授のような左巻きの学者さんだけではありませんで、保守よりの政治家にも食い込み、長い間、日本において、拉致事件をまるでなかったことのようにしてきた前歴がありまして、右だろうが左だろうが、油断がならないんですよねえ。

 佐藤守氏は、昭和14年(1939)樺太に生まれ、終戦の年に6歳。防衛大学校は7期でおられますから、教官には、旧軍関係者が多かったのではないんでしょうか。ご自身がブログに「中国空軍設立秘話」を書いておられるんですが、終戦時、満州にいました帝国陸軍関東軍第2航空部隊の一部は、通化において、八路軍(中国共産党軍)の空軍設立に協力しました。(参照「人民中国」中国空軍創設につくした日本人教官/元空軍司令官が回想する
 で、その通化には朝鮮人民義勇軍といいます中国共産党系の朝鮮人部隊がいまして、この人たちは、ソ連に逃げ込みました金日成たちとはちがい、北朝鮮へ帰国後は延安派と呼ばれ、上層部は大方粛正されることになるんですけれども、終戦直後に関東軍の航空隊と接触があったことは確かです。

 また、北朝鮮空軍を創設しました李闊(リ・ファル)は、名古屋の民間飛行学校でパイロットになり、読売新聞社の専属パイロットになっていたといわれるのですが、どうも北朝鮮の記録では、日本帝国陸軍の軍人だった経歴を消しているみたいなんですね。
 終戦直後の9月、李闊(リ・ファル)は新義州にいて、日本軍にいた朝鮮人を集め、日本軍の飛行機で航空隊の育成を始めた、とも伝えられていまして、これはどうも、金日成が帰国する以前の話みたいですし、新義州は満州の通化に近いんです。
 憶測にすぎないんですが、李闊(リ・ファル)の活動は、当初、八路軍の空軍設立と連動して、延安派のもとで行われたものだったのではなかったでしょうか。

 ともかく、です。
 いずれにせよ、終戦を満州、北朝鮮で迎えました帝国陸軍航空隊の中には、中共、北朝鮮の航空隊創設にかかわって教官となり、教え子はそれなりにかわいいでしょうから、彼らの新しい祖国に親近感を持ち、日本へ帰国した人々が複数いた、ということなんです。
 それにだいたい、当時の日本は、アジア主義をかかげて欧米と戦争をして敗れたわけでして、反欧米でありさえしましたら、共産主義であってもなかっても、とりあえず肩入れしたくなる、といった心情を、多くの日本人が持ち合わせていた、ということもあります。

 さて、佐藤守氏の「金正日は日本人だった」です。
 この本の幕開けが、金日成別人説です。
 根拠は、北朝鮮新義州ー中朝国境の町伝説の金日成将軍と故国山川 vol3でもご紹介しました、下の本です。
 
金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
クリエーター情報なし
成甲書房


 この李命英氏の「金日成は四人いた」は、けっしてトンデモ本ではないんですけれども、中国共産党系の資料ですとか、ソ連の崩壊で出てきました証言ですとか、李命英氏の目には触れなかった材料が近年出てきておりますので、ちょっとそのままは、鵜呑みにできない内容なんです。

 簡単に言ってしまいますと、「伝説のキム・イルソン将軍には実は四人のモデルがいたのだけれども、現在の北朝鮮の金日成は、そのうちの誰でもない偽物だ」ということなのですけれども、その四人のうち最初の二人、金一成と金光瑞は、北朝鮮の金日成より二十数歳年上です。
 このシリーズは、金光瑞について書こうとして始めたものでして、結果、冒頭に書きましたようにwikiの記事となりました。
 金一成につきましては、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1伝説の金日成将軍と故国山川 vol2に書いております。
 
 wiki金日成の「別人説」にも書いたのですが、佐々木春隆著「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」 (1985年)では、次のように述べられています。
 「伝説のキム・イルソン将軍については、李命英氏が『金日成は四人いた』において述べている4人の人物のうち、義兵時代から白頭山で活躍したという金一成(キム・イルソン)と、陸士出身で白馬に乗って活躍した金擎天(金光瑞)が、生まれた年がともに1888年、出身地も同じ咸鏡南道であること、また二人とも1920年代後半以降の消息が知れず謎につつまれていたことなどから、混同されて生まれたものではないだろうか」

 「1920年代後半以降の消息が知れず」という部分につきましては、近年、ちょっとちがってきておりますが、当時の朝鮮民衆にとりましてはそうだったでしょうし、また、日本の敗戦後、ソ連によりまして、金日成が平壌に姿を現すことになりましたとき、騒ぎが起こりましたのは「若すぎる!」ということだったんです。

朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀 (文春文庫)
萩原 遼
文藝春秋


 荻原遼氏の「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀」の中に、金日成のロシア語の通訳を務めていた高麗人の兪成哲(ユ・ソンチョル)の回想が出て参ります。彼は、金日成お披露目の会場にいて、「にせ者だ」「ありゃ子どもじゃないか。なにが金日成将軍なもんか」という民衆の声を聞いたと語っているんです。
 また荻原氏によりますと、事実上の北朝鮮の国歌である『金日成将軍の歌』の作詞者が、当時金日成を称えて書いた『歓迎・金日成将軍』という詩には、「将軍がもどって来られることは誰も知らなかったが、将軍がもどって来られたことは誰もが知った。ー中略ー 誰もが将軍は若いという。そのとおり、将軍は若い」とあるのだそうです。

 つまり、北朝鮮の伝説のキム・イルソン将軍は、現実の金日成よりも一世代上と考えてよく、金一成の事績から「義兵闘争のころから活躍していた」「白頭山を根城にして戦った」といわれ、金光瑞の事績から「日本陸軍士官学校を出ている」「白馬に乗って野山を駆けた」ということになったのだとすれば、佐々木春隆氏のおっしゃることはもっともに、私には思えます。

 ところが佐藤守氏は、以下のようにおっしゃるのです。
 だが、この金日成は、金光瑞(金擎天)でも、白頭山のパルチザンの一人であった金昌希(金一成)でもあり得ない。後で詳述するが、二人とも、後に北朝鮮に入った自称金日成とは年齢が違い過ぎるからだ。
 金日成将軍を自称し、有名になった人物は他にもいる。いや、金光瑞も金昌希も英雄伝説のモデルでない可能性の方が高い。植民地時代、救世主として朝鮮の人々の脳裏に刻まれた金日成将軍の本命は別にいる。
 金日成の名を轟かせ、英雄伝説が流布するきっかけをつくったのは、一九三七年の「普天堡(ポチョンボ)の戦い」だった。


 いや、だから、伝説のキム・イルソン(金日成)将軍は、現実の金日成よりはるかに年上なんです。
 そして、「一九三七年の「普天堡(ポチョンボ)の戦い」って、伝説の金日成将軍と故国山川 vol2に書いたんですけれども、再録します。
 後年のことですが、普天堡襲撃に参加していた北朝鮮のある老将軍は、自国の新聞記者に、軍糧調達、つまりは、軍資金と食料を強奪することが目的であったのだと正直に語り、さらには、「寝ぼけ眼の倭奴が、ズボンもはかずに飛び出してきて哀願するのを殺した」と、自慢げにつけくわえて、それを知った金日成の怒りを買いました。(「北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 」より)
 普天堡は、およそ300戸ほど(うち日本人は26戸)の村役場所在地にすぎませんで、「寝ぼけ眼の倭奴」とは、交番の近くで食堂を経営していた日本人です。農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付け、同胞の民家で強盗を働いてまわった、という、匪賊とかわらない行為だったのです。それが北朝鮮では、「朝鮮人民に希望を与えためざましい抗日の戦い」だったと評価され、金日成の業績として美化されようとしていて、金日成は老将軍の正直な回顧談を、許しておくわけにはいかなかったわけなのです。


 そして、wiki金日成の注釈に書いたのですが、徐大粛著、林茂訳「金日成(キムイルソン)―その思想と支配体制」によりますと、1937年(昭和12年)、普天堡襲撃当時の金日成部隊に関する朝鮮半島内の報道は、おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに同情を寄せたものが多かったわけでして、1920年代前半(大正10~15年ころ)、シベリアにおきます金光瑞の独立闘争が、東亜日報や朝鮮日報で英雄のように報じられましたのとは、大きくちがっているんです。

 実際、金日成が属して普天堡襲撃を引き起こしました中国共産党指導下の抗日パルチザン組織・東北抗日聯軍は、詳しくは後述しますが、やっていることが匪賊と変わりませんで、しかも同胞、つまり朝鮮人を多々襲っているんです。
 金光瑞は普天堡襲撃のころ、ソ連にいて、スパイ容疑で当局に逮捕されておりますが、金一成は、といえば、東北抗日聯軍の活動範囲でありました白頭山にいたのではないかと、私は、伝説の金日成将軍と故国山川 vol2で推測しております。
 ともかく、金一成の方も、東北抗日聯軍とはちがって、「古武士的な風格を持っていた」のだそうでして、品格がちがいます。

 普天堡襲撃がいくら有名になったところで、それで英雄扱いはありえないですし、なにをもって佐藤守氏が普天堡を大層なことのように評価なさっておられるのか、謎です。
 また佐藤守氏は、「金光瑞は一九二五年に満州に移ってから消息を絶っており、その後の足取りはつかめていない」と断言なさっているんですが、金光瑞が1936年以来、スターリンの大粛清にひっかかり、1942年、アルハンゲリスクのラーゲリで心臓疾患により死亡したとされていますことは、子孫によって伝えられた確実な情報です。

 金光瑞と東北抗日聯軍にも縁がなかったわけではないこと、そして普天堡襲撃の金日成は、果たして北朝鮮・金王朝の金日成なのかどうか、そういったことを書きたかったのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol4

2009年06月07日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol3の続きです。

 大正8年(1919年)、休暇をとって東京を離れた金光瑞は、ひとまず、ソウル仁旺山の麓にある家に、妻子とともに落ち着きました。
 ソウル滞在は3ヶ月ほどでしたが、その間、後輩の池青天たちとともに、仁寺洞にあった売れっ子妓生(キーセン)の家に出入りしたり、中華料理店でビリヤードに興じたりと、遊蕩にふけるふりをしていたのだそうです。もちろんそれは、三・一独立運動後のきびしい取り締まりの目をのがれるために、なんですが。
 さらに金光瑞は、義和君李カン(李垠殿下の異母兄)の愛人と浮き名を流し、ソウル中に名をとどろかせた、といいますから、「取り締まりの目をのがれるため」とはいうものの、女に好まれる素養を、そなえた人だったんでしょうね。

 そして6月、金光瑞と池青天は満州に脱出し、柳河県孤山子(あるいは通化県とも)にあった新興軍官学校で、軍事教育に携わります。
 この新興軍官学校というのは、明治40年(1907年)にはじまった丁未義兵闘争の独立運動家たちが、満州に入って作った私塾のようなものです。
 これまでにも幾度か述べましたが、丁未義兵闘争は、大韓帝国の軍隊が解散させられたことに伴い、軍人が中心となって起こったものですし、独立とは戦いとるものである以上、独立軍を育成する必要がある、ということで設立されたのですが、学校というものは維持費のかかるものでして、次第に細々としたものになり、大正7年(1918年)、つまり第一次世界大戦が終結した年、三・一独立運動の前年、満州の大凶作により、ほぼ閉鎖状態に陥っていました。
 そこへ、金光瑞、池青天という、日本陸軍の現役将校が教師として現れたわけで、600人の生徒が集まる盛況となりました。

 なぜ満州か、ということなのですが、「伝説の金日成将軍と故国山川 」vol1で書きましたように、間島を中心に、国境に近い満州は、もともと朝鮮族が住む土地だったんですね。李朝の最盛期には、間島までも支配がおよんでいたようですが、末期にはおよばなくなり、かといって清朝の支配がおよんでいるかといえば、これもまたいいかげんで、朝鮮国内にくらべれば、勝手に耕せる土地が多かったんです。匪賊が跋扈していましたから、自衛の必要はあったんですけれども。

 で、ですね、まず、半島内では、総督府の取り締まりで、独立武力闘争は不可能でした。そして、独立運動というものは、お金がかかります。その活動資金は、主に支持者の寄付です。その寄付を募るにも、また戦士となる人材を得るにも、朝鮮族の多く住む地である必要があるわけなのです。
 したがって、まずは満州(わけても間島)、次いでロシア領沿海州に、独立運動家が、移り住んでいったのです。

 三・一独立運動当時、満州はといえば、明治44年(1911年)の辛亥革命以降、一応は中華民国の領土となっていたわけなのですが、北京政府の威令は行き渡らず、軍閥割拠状態の中、馬賊上がりの張作霖が実権を握っていました。
 また、ロシアの東清鉄道(辛亥革命によって中東鉄路と名が変わります)と、明治38年(1905年)以来、日本のものとなった満州鉄道と、その付属地が点在していますから、線路と付属地に関しては、ロシア、日本の警備、行政下にあったわけです。
 沿海州はロシア領ですから、大正6年(1917年)に勃発したロシア革命の混乱のただ中です。満州の中東鉄路とその付属地にも、革命は押し寄せていました。
 満州、沿海州における、これだけの混乱の中では、独立運動を取り締まる日本側も、外交ルートで異議を申し立てても無駄です。

 そういうようなわけで、三・一独立運動以降も、武装闘争をめざす人々は、大挙して、まずは満州(主に間島)をめざしました。
 しかし、その人々の意志は、けっして統一されていたわけではなく、間島においては、複数の独立武装運動団体が競合することになり、これはある意味、ある意味、といいますのは、住民からの寄付の取り立て、という点において、なんですが、馬賊と競合することともなり、結局は、より武力の強い団体が生き残るわけですから、国境線を越えて半島内にも出没することとなり、朝鮮総督府の取り締まりを誘うこととなっていきます。

 金光瑞と池青天がいた新興軍官学校は、武装独立団体がひしめく間島(東満)からは少々離れ、南満と呼ばれる地域にありました。
 ここで、金光瑞は擎天、池大亨は青天と名のり、もう一人、旧大韓帝国軍官学校出身の将校だった申八均も新興軍官学校の教官となっていたのですが、申東天と名のり、「南満の三天」と称えられたといいます。しかしこれは、戦闘で名を挙げたというわけではなく、軍事教官としての名声でした。
 
 金光瑞が新興軍官学校にいたのは、半年ほどのことでした。
 大正9年(1920年)の初めには、ハルピン(満州中東鉄路の付属地で、ロシア人によって統治されていました)にいて、沿海州ウラジオストックの同志たちと、連絡をとっていたもようです。
 以下は、防衛省に残っています、陸軍省大日記からです。

大正九年一月二十三日高警第一五三五号 秘 国外情報 不逞鮮人ノ行動 (浦潮派遣員報告)
 哈爾賓埠頭区十三道街居住金擎天ナル者ヨリ、目下浦潮ニ居住セル元平安南道平壌鎮衛隊下士ニシテ暴徒派不逞鮮人金燦五、及元咸鏡南道北青鎮衛隊下士崔元吉、並海牙密使事件ノ張本人李儁ノ実子李鏞等十二名ニ宛テ、陰十二月十五日(陽暦二月四日)愈々前進ノ予定ナルヲ以テ各位ハ二十人長トシテ部下ヲ引率シ同日迄ニ哈爾賓ニ集合セラレ度シトノ書面ノ発送シ来レリト謂フ 
 発送先 内閣総理大臣 各省大臣 拓殖局長官 警視総監 検事総長 軍司令官 両師団長 憲兵隊司令官 関東長官 関東軍司令官
 
 
 つまり、ハルピン埠頭区十三道街に住んでいる金擎天(光瑞)なるものが、ウラジオストックに住む金燦五(元平安南道平壌鎮衛隊下士)、崔元吉(元咸鏡南道北青鎮衛隊下士)、李鏞(ハーグ密使事件で客死した李儁の息子)など12名に宛てて、「2月4日に前進(進軍)するので、それぞれ20人長として部下を引率し、ハルピンに集合してくれ」という手紙を出した、というんですね。
 ううっー、なんで、金光瑞が出した手紙の内容が、日本側にわかるんでしょう!!!
 シベリア出兵中の話で、日本軍はウラジオストックを根拠地にしていましたから、密偵がもぐりこんでいた、といいますか、ウラジオの独立運動団体の中に、日本軍に内応する人物がいたんでしょうね。

 「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」では、新興軍官学校にいたことがあるという李範ソク(韓国初代国務総理)の後年の談話から、「金光瑞は武器購入のルートを開拓するために沿海州へ行った」としているんですが、これを見ると、ウラジオストックの同志たちから指揮官として迎えられたのではないか、と思えます。

 ということで、調べてみましたところ、あきらかに李範ソク氏の記憶ちがいです。
 陸軍省大日記の資料などによりますと、この年の1月4日に、朝鮮銀行の咸鏡北道会寧出張所から、間島龍井村出張所へ、現金を運んでいましたところが、強盗団十数名に襲われ、日本人の警衛巡査長と朝鮮人の巡査が殺害され、現金15万円が奪われたんですね。捜査しましたところ、朝鮮銀行龍井村出張所の書記だった朝鮮人が、現金輸送のルートと時間を、間島独立武装団の一つに内報したことがわかり、強盗を働いた武装集団のメンバーも判明したんです。
 彼らは、15万円をかかえて、「武器を購入する」といい置いてウラジオストックに逃げていました。
 1月31日、日本軍はウラジオストックの新韓村(朝鮮人街)を急襲し、強盗団をはじめ数百人を逮捕し、現金12万8000円余りを押収した、といいます。

 金光瑞は、この強盗とは、なんの関係もありません。
 しかし、強盗が十数人でしかありませんのに、数百人の逮捕! 
 あきらかに日本軍は、沿海州での独立運動をつぶそうとしていたわけでして、強盗事件はいい口実となったわけです。
 すでに、白軍と共闘していましたチェコスロバキア軍団は戦闘をやめ、2月から引き上げがはじまる予定でしたし、それにあわせて、出兵中のアメリカも、撤兵する予定でした。
 となれば、赤軍と共闘していました沿海州の朝鮮独立軍団は、これからが、活動を活発化させる好機だったのです。
 にもかかわらず、です。「強盗の摘発」となれば、抗議の声を上げるわけにもいきませんし、これは、とんでもない迷惑だったでしょう。

 おそらく、なんですが、日本軍の将校だった金光瑞にとって、間島における、強盗まで発生するような独立武装団の乱立は、運動の先細りにしかつながらない苦々しいものに見え、世界に認知される武装闘争をするならばシベリア、ということになったのではないでしょうか。
 またシベリアには、旧知の人々がいもしたのでしょう。手紙の宛先の一人である崔元吉は、「元咸鏡南道北青鎮衛隊下士」と見えますが、元咸鏡南道北青郡は、金光瑞の故郷です。彼らが、自分たちには能力のある指揮官が必要だ、ということで、金光瑞に来援を求めたのではないか、と思うのです。

 ただ、1月31日にウラジオストックの新韓村手入れがあったとすれば、当時ハルピンにいたらしい金光瑞の書簡の件は、あるいは、実現しなかったのではないでしょうか。日本側は、ハルピンに手勢を率いていくはずのメンバーの名前まで、つかんでいたわけなのですから。
 とすれば、金光瑞は、事態を案じて、そのままウラジオストック入りしたのではないか、と推測できるのです。

 えーと、ですね。
 なぜシベリアでの武闘闘争なのか、ということなのですが、当時の現実として、独立国家の設立は、民族自決の理念をいくら口で唱えても、容易に得られるものではありませんでした。
 武装闘争と巧みな外交が不可欠で、しかもそれが、うまく連動する必要があります。
 そのお手本、チェコスロバキア独立運動の成功が、このとき、金光瑞の目の前にあったのです。

 次回は、成功のお手本であったシベリアのチェコスロバキア軍団から、お話を進めて行きたいと思います。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol3

2009年05月31日 | 伝説の金日成将軍
 「伝説の金日成将軍と故国山川 vol2」の続きです。
 「伝説の金日成将軍と故国山川 vol1」の冒頭で述べましたが、「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」が転載していました「金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報」とは、実は、下の本からのものなのです。

北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 (1982年)
林隠
自由社

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 なにやら題名があやしげなので、これまで読んでいなかったのですが、著者名の「林隠」はペンネームで、本名は、カスタマーレビューでも書かれていますように、許真。北朝鮮育ちの方です。
 私……、実にうかつだったんですが、「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀 」において、萩原遼氏がこの本を紹介しておられるのを、読んでいたはずなんですね。
 萩原遼氏がおっしゃるには、許真氏はこの本を書かれた当時、ソ連共産党の幹部でおられたそうで、立場上、本名での北朝鮮批判はできず、ペンネームを使われたそうです。
 私、一読して、ソ連崩壊前なので共産党批判にまではふみこめなかったのだろう、と思ったのですが、ソ連共産党の幹部だった、というならば、納得です。
 いえ、そういう立場の方が、ソ連崩壊以前に書かれたにしては、非常な真摯な内容です。
 
 で、「林隠」氏が高麗人(ロシア・ソ連領の朝鮮族)から聞き取った金光瑞の消息もまじえつつ、日本陸軍騎兵中尉として、三・一独立運動を迎えたところから、金光瑞の足跡を語っていきたいと思います。




 上の写真は、「北朝鮮新義州ー中朝国境の町」で、最初にご紹介しました下の本からの転載です。金光瑞が、金日成将軍伝説のモデルだったことについては、著者の李命英氏が最初に掘り起こされたことでして、このシリーズの参考書も、基本はこの本です。
 半島から留学した陸士卒業生が作っていました親睦団体・全諠会のアルバムに残された、金光瑞騎兵中尉の写真なんですが、私はこれで、彼に惚れ込んでしまったんです(笑)

金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房

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 大正8年(1919年)、三・一独立運動が起こった経緯については、「金日成将軍がオリンピック出場!?」で、簡単に書きました。
 少々補足しますと、三・一独立運動は、併合前後の義兵闘争とはちがい、武装闘争ではありません。
 宗教指導者と学生が中心となって、非暴力のうちに独立を求め、広範な半島民衆の支持をえて、現在でいいますところのデモ行進が、全土にひろがっていったんです。ただ、その過程で、暴動化もしたのですが、基本的には、武器をとっての抵抗運動ではありませんでした。
 朝鮮総督府、つまり日本側は、これに対して徹底的な弾圧で応じ、短期間で沈静化させます。
 しかし一方、万を超える逮捕者のうち、不起訴釈放も多く、起訴した者も重罪にはしていません。
 そしてなにより、朝鮮総督府は以降、それまでの武断政治を改め、言論、出版、集会の自由を認めるなど(完全に、ではありませんが)、宥和政策に転じました。

 これには、理由があります。
 前年に第1次世界大戦が終結し、この年、戦勝国が中心となってその後始末を協議するパリ講和会議が予定されていたんですね。
 戦勝国とは、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、そして日本です。
 アメリカのウィルソンは、民族自決と植民地問題の公正解決を唱えていまして、日本には体面がありました。
 といいますのも、半島内外の独立運動家は、このパリ講和会議で独立を訴えるかまえを見せていまして、三・一独立運動の盛り上がりはそれを勢いづけ、臨時政府創設の動きも出てきたんです。

 当初、各地にちらばった運動家が、連絡もなく、とりあえず構想を発表しましたので、京城(ソウル)、シベリア(沿海州)、上海、フィラデルフィアの四つの臨時政府が立ち上がりましたが、フィラデルフィアの運動家はすぐに構想をひっこめ、ソウルでのそれは、発表した閣僚がほとんど海外亡命運動家で、なすすべもなく、すぐにつぶれました。
 残るは、シベリアと上海です。
 結局、上海に一本化されるのですが、シベリアで運動の中心となっていたのは李東輝率いる「韓人社会党」で、これはすでにレーニンの承認を得ていて、共産主義団体ともいえましたし、彼らが加わることで、ただでさえまとまりに欠けていた上海臨時政府は、激しい派閥争いの場となります。

 さて、大日本帝国の陸軍騎兵中尉となり、東京にいた、金光瑞です。
 この年、東京の留学生たちが、三・一独立運動の呼び水となった二・八宣言を発しますが、いつの時点でか、金光瑞は休暇願いを出し、ソウルへ帰った、といいます。
 このとき、三・一独立運動に呼応しようとした陸士卒業生は、金光瑞だけではありませんでした。
 26期生だった池青天(陸士入学当時の名前は錫奎、入学後に大亨と改名したもようで、さらに独立運動に身を投じてから青天と名乗りました)は、当時、岡山の歩兵部隊にいまして、同期の李応俊としめしあわせ、平城で落ち合って、満州へ行く計画でした。ところが、李応俊は汽車に乗り遅れて機会を逸し、結局、池青天は単身ソウルへ行き、金光瑞と合流したもののようです。

 前回書きましたように、李応俊中将は大韓民国陸軍の初代参謀総長で、現在の韓国では、親日罪がかぶせられています。
 しかし、日韓併合以前の陸士留学生は、もともと日本陸軍の将校になろうとして留学したわけではありませんで、大韓帝国軍の指導者となることこそが当初の目的でしたし、光復を願う気持ちは、人一倍強かったのです。
 27期生の李種赫(馬徳昌)も、このとき満州に渡り、独立運動に身を投じましたが、彼のことは、よくはわかりません。昭和10年(1935年)ころ獄中で死亡、といわれているようです。

 大韓帝国成立当時の陸士留学生、11期生、15期生は、もちろん、大韓帝国軍が解散させられました明治40年(1907年)にはじまる、丁未義兵闘争の中心になっていました。金日成将軍のもう一人のモデルである、金一成が挙兵した闘争です。
 で、鎮圧後、国内にとどまった者も多かったのですが、金一成のように、国境を越えて満州などに逃れ、再起を期していた人々もいました。
 李応俊の岳父(妻の父)、李甲もそうでして、沿海州に亡命し、すでに大正6年(1917年)、ニコリスク(ウスリースク)で病没していましたが、ペテルスブルクにも行ったことがあった、といいますし、ロシア革命のただ中にいたわけです。

 その李甲の甥が、現千葉医大で学んでいまして、李応俊とも連絡がありました。一度は、李甲から李応俊へ、一人の男を介して「拳銃を譲ってくれ」という伝言がまいこみ、李応俊は岳父のために、自分の拳銃を男に託しましたが、この男が憲兵につかまり、拳銃の刻印番号から、李応俊の持ち物だとわかってしまった、という事件もあったそうです。しかし、この拳銃事件も脱走未遂事件も、当時の日本陸軍は不問に付し、李応俊は、将校として日本陸軍にとどまりました。(「洪思翊中将の処刑」より)
 
 三・一独立運動の後、10年ほど前の義兵騒動のときよりも、より多くの人々が、武力による独立運動を志し、満州、シベリア(沿海州)へと向かい、ソウルで落ち合った金光瑞と池青天も、その中にいました。

 次回、なぜ、満州、シベリアだったのか、というところから、お話を進めていきたいと思います。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol2

2009年05月29日 | 伝説の金日成将軍
 「伝説の金日成将軍と故国山河 vol1」の続きです。

 えー、われながら、なにをごちゃごちゃ極東史を解説しまくっているのか、とじれったいのですが、まあ、私の頭の中の整理でして、お許しください。
 前回、そして今回の参考文献はいろいろとありますが、以下の本はお勧めです。あまりにも記述が広範なので、著者のご専門以外の部分で、普仏戦争後のフランスをナポレオン3世の帝政としておられるようなうかつさには、ちょっと引きますし、前書きにおける、現代に歴史を敷衍してのナショナリズム解説には、そもそも前提がおかしいのではないか、という疑問もあるのですが、本論には、それを補ってあまりある視点のおもしろさがあります。

大清帝国と中華の混迷 (興亡の世界史)
平野 聡
講談社

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 なお、満州については「馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道」、沿海州の朝鮮族については、イザベラ・バードの「朝鮮奥地紀行」など、つい読みふけってしまう、おもしろい参考書が多数あります。

 さて、解説の続きです。
 断末魔の大清帝国の息の根をとめたのは、義和団の乱、といえなくもないでしょう。
 日清戦争の後、大清帝国は、巧みな外交で三国干渉を誘い、日本の遼東半島領有を阻止しましたが、その代償としてロシアの旅順、大連の租借、そして露清密約により東清鉄道の施設権を認め、列強各国の侵食を誘うとともに、日本の警戒心を刺激する結果となっていました。
 そこへ、義和団の乱です。

 義和団の乱は、明治33年(1900年)に、山東省から興った排外運動です。
 1880年代から、欧米列強による中国鉄道の建設が本格化し、綿製品などの輸入品が農村部にまで入りますし、内陸部にも租界ができ、キリスト教宣教師の活動も活発になります。
 日本の幕末もそうでしたが、欧米との交易は、国内物価の高騰につながりますし、一般庶民にとって、慣れ親しんだ生活に急激な変化が起こる徴候は歓迎できるものではなく、武力をともなう排外行動が、広範な支持を得ます。

 で、ですね、詳しいことははぶきますが、攻撃対象とされた欧米列強は共同で軍隊を派遣することとなり、しかし、それぞれの事情で極東まで多数の軍を派遣することはできず、その中心になったのは、日本とロシアでした。
 イギリスは、中央アジアでもロシアと角をつきあわせていましたから、大部隊を派遣することがわかりきっていたロシアへの牽制に、日本の大部隊派兵を求めたんですね。
 実際ロシアは、義和団騒動とは関係のない満州に大部隊を派遣し、他国が引き上げた後も、軍を引こうとはしませんでした。

 そして、沿海州へのシベリア鉄道と並んで、東清鉄道の建設が着々と進められます。
 この東清鉄道には、ロシアの鉄道会社が排他的行政権を持つ鉄道附属地がともなっていまして、ロシアは沿線に都市を建設し、そこには清朝の行政権がおよばず、満州には、いわば、線路で結ばれた飛び地のロシア植民地が建設されていったのです。
 東清鉄道の建設は、多くの漢人や朝鮮人の労働者を満州に呼び込み、しかもできあがったロシアの鉄道附属地都市には、賃労働も多く、比較的にいえば治安もよく、定住者が爆発的に増えます。同時にそれは、都市周辺農業の活性化にもつながり、さらなる移民をうみ、満州は短期間で開発されつつ、確実にロシアの支配下に入ろうとしていたのです。
 その傍ら、ロシアは地続きの朝鮮(大韓帝国)に影響力を強めていたわけでして、日本の危機感は一通りではなく、日英同盟のもと、日露開戦となっていきました。
 
 明治38年(1904年)、日本は日露戦争の勝利により、樺太(サハリン)南半の割譲、旅順・大連を含む遼東半島南端部の租借権、東清鉄道のうち長春から大連を経て旅順へと続く南満州支線の租借権などを得て、大韓帝国の保護国化、併合へと、進むことになったのです。
 明治43年(1910年)日韓併合のその翌44年、辛亥革命が起こり、大清帝国は崩れ去ります。

 金昌希改め金一成が挙兵した丁未義兵闘争は、大韓帝国の解散させられた軍隊が中心になっていたわけでして、それまでの守旧的な義兵闘争とちがい、ナショナリズムの萌芽を含むものであったのではないでしょうか。
 金一成の場合、僻地の山岳にこもっていた上、おそらくは数十人規模の少数ゲリラだったためでしょう。日韓併合後も健在なまま、日本の警察にマークされる身となり、拠点を北方の白頭山に移したといいます。

 白頭山は、朝鮮と満州の国境にそびえる山で、周囲は原生林におおわれ、国境越えが容易であると同時に、野生の朝鮮人参や鹿茸、貂の毛皮など、高額で取引される産物に恵まれ、満州側で売却が可能です。おそらく、なんですが、数十人規模の人数ならば、長期間、平地の一般民家を脅かすことなく、容易に隠れ住むことができたのではないでしょうか。

 この間、金一成より一つ年上の金光瑞は、「金日成将軍がオリンピック出場!?」で書きましたように、日本の陸軍士官学校23期に留学し、日本帝国陸軍の騎兵中尉となっておりました。
 金光瑞が陸士に入学したときの名前は、金顕忠でした。一年の後、日韓併合の年に、光瑞に改名したと言われます。「光復(独立回復)の瑞兆」になってみせる、という決意のあらわれだったのでは、ないでしょうか。

 実はですね、その光復の後、大韓民国の陸軍は、日本の陸軍士官学校と、日本が支配した満州国の陸軍軍官学校の卒業生が中心となって、創設されました。初代参謀総長は、陸士26期生の李応俊中将です。
 金大中氏以来、左翼政権が続きました現在の韓国では、彼らに「親日罪」を被せる動きがあります。
 しかし、併合当時には、幼年学校に留学していた26期、27期生たちが集まり、「全員脱走帰国して抵抗しよう」という声が高く、士官学校にいた先輩の金光瑞に訴えた、という話なのです。結局、「吸収するべきことを吸収して力をつけ、時期を見よう」ということで、落ち着いたそうなのですが(「洪思翊中将の処刑〈上)」より)、近代軍隊は、近代国民国家の礎ですし、長い目で見て、それは意味のあることだったでしょう。
 ただ……、その場にいた多くの者が、30数年後の光復の日を平穏に迎えることがかなわず、また、大韓民国軍の戦闘相手は北朝鮮の同胞だった、という結末は、やはり悲劇です。
 後述しますが、李応俊にしても、ほんの一歩のちがいで、あるいはまったく別の道をたどった可能性があります。金光瑞の運命が李応俊の運命であっても、けっしておかしくはなかったのです。

 併合からおよそ10年、第一次大戦後の三・一独立運動を迎え、白頭山にこもっていた金一成(キム・イルソン)の活動は、活発になります。大正11年(1922年)、一度、警察に捕まったことがあった、ともいいますが、うまく逃げだし、そのまま消息を絶ちます。そして、1920年代の後半には、まったく噂も聞かれなくなり、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」においては、大正末年ころに没したのではないか、と推測されています。

 しかし、「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」に、もしかすると、金一成が生存し続けたのではないか、と思われる証言があります。著者の佐々木春隆氏は、金光瑞のその後を語る証言、としてあげておられるのですが、正規の将校教育を受けた金光瑞は、山岳ゲリラ戦を行った形跡はありませんし、どうも、初代金日成将軍、金一成ではなかったか、と思われるのです。

 証言者は、李烱錫将軍。陸士45期生で、日本軍将校として満州の守備隊にいたことがあり、光復後は韓国軍の将軍となった人です。
 昭和10年(1935年)から13年ころのことです。
 白頭山の北部一帯は、測量部が危険で入れないので地図が無く、そのため「白色地帯」と呼ばれていたのだそうです。そこに、「金日成(キム・イルソン)部隊」がこもっていました。
 この当時、組織だって間島にいた抗日武装集団は、中国共産党系のパルチザンで、北朝鮮建国の父である金日成が率いていた部隊も、その中にいました。
 しかし、李烱錫が遭遇した「金日成部隊」は、どうも日本側がいうところの「共産党匪賊」、いわゆるパルチザンでは、なさそうなのです。

 李烱錫の部隊は鉄道を守備していましたが、この「金日成部隊」はそれを襲っていました。満州鉄道による日本軍の補給線を狙っていた、ということなんでしょう。
 この金日成は、「45歳から50歳くらいで、日本陸士の23期生、守備隊長の先輩だ」という噂が、ひろまってもいました。
 証拠は、まったくありません。
 ただ、この金日成部隊は、匪賊やパルチザンとちがって、古武士的な風格を持っていたのだそうです。
 まず、討伐に出た日本兵を戦死させると、遺体を丁寧に送り届けてきます。
 日本軍の歩兵砲をぶんどったときにも、「わが独立軍には必要がないのでお返しする。独立軍は兵器で戦うのではなく、精神で戦う」という手紙と共に、付近の住民にたくして、返してきた、と言います。
 そして関東軍司令部に、「韓国を独立させたら武装を解く、韓国が独立するまでは、万が一私が倒れても、何人かの金日成が受け継いで戦うだろう」という手紙をよこした、ともいうのです。

 「わが独立軍」という名のりからするならば、昭和7年(1832年)、満州国建国当時に、中華民国系の軍団と共闘して、満州平野部で抗日闘争をくりひろげていた「韓国独立軍」の残党が、流れこんでいたのではないか、と思われます。詳しくは後述しますが、この韓国独立軍の指導者には、陸士26期生で、途中まで金光瑞とともにあった池青天がいたのですが、翌昭和8年には壊滅状態となり、池青天は満州を去っていたのです。
 この残党の一部が、白頭山に逃れて、金一成の「金日成部隊」となり、独立軍の系譜を自負したとすれば、どうでしょうか。

 確かにこの「金日成部隊」は、同時期に豆満江を超え、故国に進入して、咸鏡南道の普天堡(保田)を襲った、パルチザンの「金日成部隊」とは、まったく風格がちがいます。

 後年のことですが、普天堡襲撃に参加していた北朝鮮のある老将軍は、自国の新聞記者に、軍糧調達、つまりは、軍資金と食料を強奪することが目的であったのだと正直に語り、さらには、「寝ぼけ眼の倭奴が、ズボンもはかずに飛び出してきて哀願するのを殺した」と、自慢げにつけくわえて、それを知った金日成の怒りを買いました。(「北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 」より)
 普天堡は、およそ300戸ほど(うち日本人は26戸)の村役場所在地にすぎませんで、「寝ぼけ眼の倭奴」とは、交番の近くで食堂を経営していた日本人です。農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付け、同胞の民家で強盗を働いてまわった、という、匪賊とかわらない行為だったのです。それが北朝鮮では、「朝鮮人民に希望を与えためざましい抗日の戦い」だったと評価され、金日成の業績として美化されようとしていて、金日成は老将軍の正直な回顧談を、許しておくわけにはいかなかったわけなのです。

 白頭山において、パルチザンと同時期までも、金一成が活動を続けていて、それを、日本軍の側にいた陸士出の半島出身者たちが、金光瑞と勘違いしたのならば、です。金一成と金光瑞が合体して「金日成将軍」伝説が生まれ、それをパルチザン部隊が利用した経緯も、わかりやすくなります。

 しかし、もしそうだったと仮定して、金一成は、いつまで生存していたのでしょうか。光復の日を、その目で見たでしょうか。
 故郷へ帰った形跡がないところからして、伝説の金日成将軍の一人、金一成は、光復を目前にして白頭山で没し、将軍峰の洞窟に葬られたのだと想像することが、あるいは、伝説にもっともふさわしいのかもしれません。

 次回、やっと本論、金光瑞の足跡を追います。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol1

2009年05月27日 | 伝説の金日成将軍
 「金日成将軍がオリンピック出場!?」伝説の金日成将軍はオリンピックに出ていなかった!!の続きです。

 前回、伝説の金日成将軍のモデルであった金光瑞は、「大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います」と書いたのですが、手持ちの本やウェッブの情報では、朝鮮半島独立運動があんまりにもごちゃごちゃと四分五裂で、書いている方のイデオロギーによって内容がちがい、わけがわかりませんので、次の本を見てみました。

 
「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究 」(1985年)
佐々木 春隆
国書刊行会

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 著者の佐々木 春隆氏は、陸士54期生で、中・南支に連戦し、戦後、自衛官となられた後、防衛大学教授、京都大学法学博士、という経歴です。
 いや、実によくまとまっていまして、ようやくなんとか朝鮮半島の独立運動の筋道が、頭に入りました。途中、「わが民族は」とおっしゃっている部分があって、もしかしまして、戦後日本に帰化なさった方なんでしょうか。

 で………、なんということでしょう! 金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報が、この本に転載されていたんです。
 そして……、もしそうだったのだとすれば、と考えると、私の中の金光瑞が、かなりはっきりとした像を結んできたんです。
 あるいは、理想化のしすぎかもしれませんが、なにしろ私、いい男に弱いものですから(笑)

 えーと、ですね、この本を読んで、もう一つ、「ああ、そうだったのか」と気づかされたことがあります。
 「白馬に乗った金日成将軍が、いつか独立に導いてくれる」という、朝鮮半島の伝説のモデルは、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」で述べられていますところの、一人目の金一成(キム・イルソン)と二人目の金光瑞との二人のみであり、すでに昭和の初めには伝説ができあがっていて、ソ連のコミンテルンにつながっていた中国共産党系の抗日パルチザン部隊がこれを利用し、またそれに対した日本側も錯覚し、半島の人々もそうだったのだろう、ということです。

 金一成と金光瑞が混同された理由について、佐々木春隆氏は、「二人とも咸鏡南道の出身であり、年齢もほぼ同じで(一つちがい)、活動時期も似ている上に、正体不明だったから」とおっしゃっておられて、もっともなご意見なんですが、正体不明というよりは、二人ともどの団体にも属さず、独自に抗日運動を続けたので、団体内部の権力闘争や、殺し合いまでともなった内部分裂には関係せず、孤高を保っていたから、といった方が、よさそうに思えます。

 そんなわけで、まずは前回省いた一人目の金日成(キム・イルソン)将軍のモデル、金一成(キム・イルソン)について、ちょっと述べてみたいと思います。
 本名は金昌希。威鏡南道端山郡黄谷里で、明治21年(1888年)か22年かに生まれました。年齢は、金光瑞より一つ、二つ下です。父親は威鏡北道隠城郡の郡守を務めた人で、次男でした。地方の有力者、いい家の息子、ですね。もっとも東学教徒であったため、一家は地域から浮いていた、という話もあります。

 明治40年(1907年)、19歳のとき、前々回にも書きましたが、第三次日韓協約により大韓帝国軍は解散させられてしまい、それを不服とした軍人たちが地方に散り丁未義兵闘争をまき起こすのですが、金昌希も故郷に近い五峯山に拠って、挙兵するんですね。
 あるいは、もしかすると、なんですが、金昌希は、漢城(ソウル)で軍の将校になっていたか、軍解散と同時に廃止された陸軍武官学校の生徒だったか、といった可能性もあるのではないか、と思います。
 挙兵と同時に、金一成(キム・イルソン)と名乗ったようです。

 三年後の日韓併合により、半島内での抗日闘争は難しいものとなり、かなりまとまった抗日武装集団が、豆満江を越え、間島と呼ばれる、対岸の満州国境地帯に渡ります。ここには、現在でも延辺朝鮮族自治州があり、朝鮮族が多数住んでいます。
 
 えーと、ですね。現在、私たちの頭の中にあります「国境線」というのは、西洋近代がもたらしたものでして、条約によって、きっちり国境線が確定されるわけなのですが、極東にこの概念を持ち込んだのは、17世紀の半ば以来、盛んに南下していたロシア帝国でした。
 1689年、日本でいえば元禄2年に、清朝の康熙帝とロシアの間で結ばれたネルチンスク条約がそれで、結局のところ、です、インドを手中におさめましたイギリスが、19世紀になって、さらなる交易の拡大をもくろみ、海路大清帝国にに手をのばしましたときにも、西洋諸国の一員であるロシアと清朝間の条約がすでにありましたがゆえに、広大な領土を、とりあえずは清朝のものと認めた上で、砲艦外交を重ね、すでに勢力が衰えていた清朝の譲歩を引き出し、アジアにおける植民地支配の基本ルールを、あみだしたわけなのです。

 で、ですね。康熙帝の時代の清国には、イエズス会宣教師がアドバイザーとしておりましたし、とりあえず、でしかないんですが、西洋的な国境線の概念が認知され、ネルチンスク条約の直後、1712年に、清朝の故地である満州と李氏朝鮮とのとりきめとして、白頭山に、「西は 鴨緑江、 東は土門江を境界とする」定界碑を建てたんですね。
 この「土門江」がどの川をさすのか、現在では、土門江を豆満江として中朝国境線が認識されているわけなのですが、19世紀末になって、大韓帝国は「土門江は松花江支流」と主張します。とすれば、間島は朝鮮半島に属する地、なわけでして、現在でも韓国にはこの主張があり(現実にいま中国と国境を接しているのは北朝鮮なので、おかしな話ではあるのですが)、中韓国境論争になっています。

 清朝は、満州族(女真族)の王朝です。その満州族の故地だったために、現在の中国東北部は満州と呼ばれるようになりました。
 満州族は、モンゴル人と同盟し、騎馬兵力によって明を滅ぼし、清朝を打ち立てました。皇帝は騎馬民族のハーンでもあり、モンゴルと同じくチベット仏教を信奉していたんですね。
 この皇帝の旗本である騎馬軍団を満州八旗といいますが、康熙帝のころには、盛んに外征し、南下したロシアのコサックを圧倒するほどだったこの武勇も、やがて少数の支配者として漢人の地で暮らすうちに奢侈に流れ、薄れてきたんですね。18世紀の半ば、これを憂えた皇帝が、なんとか満州八旗の姿をそのままに残そうと務め、その一環として、故地だった満州には封禁令が出されて、漢人の立ち入りが禁じられました。
 この封禁令、厳格に守られたわけではなく、満州族の荘園の小作人だとかの形をとって漢人が入り込み、19世紀のはじめには、有名無実と化します。

 この満州に国境を接する朝鮮半島の北部(主に咸鏡南道、北道)は、農業に適した条件になく、農民は豆満江を超えて間島に耕作に出かけ、飢餓の年には、年貢逃れに李王朝の支配の及ばない満州へ、移住していたんです。「土門江」がどの川であったにせよ、19世紀には、豆満江までしか李王朝の実行支配はおよんでいなかったわけでして、しかしでは、豆満江が国境線として意識されていたかというと、これもまたちがうでしょう。中華王朝が中心となった極東の秩序世界に、西洋近代の産物であるくっきりとした国境線は、なかったんです。

 ネルチンスク条約以降も、ロシア帝国のシベリア東進、南下は続きまして、ついには樺太、千島へ達し、18世紀末から、幕末の日本ともさまざまな摩擦を引き起こします。 
 しかし、ロシアが再び清と条約を結ぶにいたったのは、南方海路から清に迫ったイギリスに乗じて、でして、1858年(安政5年)のアイグン条約、1860年の北京条約によって、ネルチンスク条約は反古となり、ロシアは極東に沿海州を得ます。
 ちなみに、アメリカにより開国させられた日本は、清朝より早く、1855年2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約を結び、千島列島については、択捉島と得撫島の間に国境を定めますが、樺太は日露雑居のままで、国境を定めませんでした。

 で、話をもとにもどしまして、明治維新の7年前に、ロシアが得た沿海州なんですが、わずか18キロほどですが、朝鮮北部の咸鏡北道と、豆満江を国境として接しているんですね。
 当時の沿海州は人口が希薄で、ロシアが欲していたのは港と軍事拠点ですが、石炭、食料などの補給のためにも、開拓の必要がありました。
 沿海州がロシア領となった直後から、朝鮮族の移民はあったのですが、当初、ロシアは開拓民としてこれを歓迎しました。明治2年(1869年)、朝鮮北部で大飢餓が起こり、農民たちは大挙して豆満江を超えます。ロシア領沿海州にも、数千人規模で押し寄せ、食べるもののなかった彼らには、当座の食料や農具や種などの援助が与えられたといいます。
 こういった初期の朝鮮族移民は、なにしろロシアにとっては獲得したばかりの辺境ですから、農地を得ることも容易で、自治も認められていました。治安もよく、朝鮮にいたときには考えられなかった豊かな暮らしを手にし、ロシア正教を受け入れる者も多く出てきます。
 こうして沿海州は、朝鮮族が多数住む地となりました。
 
 清朝の統治は、もともと地方の治安まで保障するものではありませんで、地方に派遣された長官は、持たされた徴税権、人事権、治安維持権を、勝手に地元有力者に与え、上納金といいますか賄賂といいますか、を受け取り、いわば名義貸しのほったらかし状態でしたので、治安が乱れてきますと際限が無く、匪賊やら自警団やらの武装集団が跋扈して、といいますか、だれもが自分の身は自分で守るしかなくなり、富豪であれば自分で武装集団を組織したり雇ったり、あるいは有力武装集団に献金したりしますし、貧しい農民、商人といえども、こういった集団に税のようなものをおさめるか、あるいはその一員になるか、といった状況になっていきます。
 19世紀の満州は、まさにそういう状態でして、そこへ、ロシアの南下が続きました。

 19世紀、極東におけるもう一つの台風は、日本です。
 開国した日本は、徐々に真の攘夷に目覚め、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しますが、1867年(明治元年)、明治維新によって、その受け入れは加速します。
  ロシアとは、幕末以来もめ続けていた樺太の領有権について、明治8年(1875年)、北部千島列島と樺太の領有権を交換することで、話し合いにより、とりあえずの決着がついたのですが、問題は清朝でした。

 大清帝国は、満州族による征服中華王朝です。したがって皇帝には、先にも述べましたように、建国以来のチベット仏教の信者でありハーンでもある満州族としての側面と、儒教に基づき華夷秩序を重んじる中華王朝の皇帝である側面と、二つの顔がありまして、蛮族であるはずのハーンが中華文明の中心にある、という矛楯をはらんでいました。
 大清帝国自体も、建国以来の同盟者であったモンゴル、同じく文化的基盤の共通性から満州族の同盟者として位置づけられたチベット、ウイグルといった内陸部へ向けた顔と、経済の中心であった華中、華南の周辺に向けた顔は別のものでして、前者が藩部とされたのに対して、後者は朝貢国という伝統的な位置づけでした。
 李氏朝鮮は、その接点にあり、当初、満州族から同盟を迫られたのですが、中華世界の一員であることを誇りにしていたがためにこれを断り、討伐されて朝貢国となっていたわけです。

 中華帝国としての清朝が築いていた国際秩序は、西洋近代の国際ルールとは相容れないものでした。中心に清朝の天下があり、それを頂点として、周辺に朝貢国があるわけなのですが、朝貢国としてのあり方もさまざまでしたし、欧米諸国の視点からしますならば、朝貢国とは清国の主権が及んでいる国ではなく、とすれば、清国に関係なく、現地政権に対する砲艦外交によって、植民地が獲得できる対象であったのです。
  例えば、阮朝ベトナムです。19世紀の初期から、すでにフランスの接触がはじまり、幕末の文久元年(1862年)には、国土の一部がフランス領となり、半植民地状態でした。

 日本において、「朝貢国」の位置づけにもっとも敏感であったのは、琉球を支配していた薩摩藩です。
 琉球は、江戸期を通じて薩摩藩の支配を受けながら、清朝の朝貢国でもある、という二面性を持っていまして、ペリー来航に先立つ1844年(弘化元年)からフランスの接触を受け、やがて部分的な開国に応じました。
 そして、嘉永6年(1853年)、日本に来航したペリーは、琉球へも立ち寄り、薩摩藩の指示によって琉球は独自にアメリカと条約を結んで開国すると同時に、これに便乗したフランス、オランダとも条約締結に至りました。

 西洋近代の国際ルールを受け入れた日本にとって、朝貢国は、植民地化の危機にさらされた主権独立国です。
 しかし、日本がいち早くそういう視点を持ち得たについては、日本は大清帝国を中心とする秩序の外の海洋国家であって、日本国内の安定に清朝の存在は関係がなかった一方で、西洋列強による植民地化の危機を敏感に感じとる位置にあったからです。
 清朝が築き上げた秩序のうちにある朝貢国にとっては、その秩序こそが国の安定の源であり、まして、その頂点にあった大清帝国にとっては、その秩序が覆されるということは、王朝の存続、自らのアイデンティティにかかわる問題でした。

 明治維新以降、日本にとってまずは琉球が問題となるわけなのですが、朝鮮問題がそれに連動します。
 琉球については、薩摩藩が実行支配していた実績があり、イギリスもまたそれを認めていました。しかしそれでも、清は朝貢国であった琉球を日本の領土として認めることを拒み、また琉球王朝の側にも、大清帝国が築いた秩序の中に留まることを望む勢力がありました。
 それは、当然のことであったでしょう。維新以降の日本の変身は、性急といえばあまりに性急で、長らく極東を支配してきた中華秩序の中にある者にとっては、一見、いまだ威風堂々と見える大清帝国にくらべ、東海の蛮族が、奇妙で危うい、洋夷の猿まねをしている、としか、見えなかったのです。

 江戸期を通じて、幕府は李氏朝鮮と独自の外交関係を持ち、対馬藩は釜山に居留地を与えられてもいました。清の朝貢国であり、ロシア領沿海州と国境を接する朝鮮は、明治新政府にとって、極東外交の試金石となります。
 朝貢国は決して清の領土ではなく、日本と清とは対等の外交関係にあるのだと認めさせ、琉球を日本領土と確定することがかかっていましたし、弱体化した清に朝鮮をまかせておいたのでは、すでに隣の沿海州まで来ていたロシアが呑み込んで、日本にとっては、のど元に突きつけられた刃になりかねない、という危惧があったのです。
 実際に幕末、ロシアの軍艦は朝鮮領の巨文島に寄港して、貯炭所の設置を計画したことがありましたし、その直後に、対馬を占領し、得ようとしたわけです。

 朝貢国、琉球と朝鮮をめぐっての日清のにらみ合いの結果は、やがて日清戦争となり、勝利した日本は、沖縄を日本領土、朝鮮を独立国として認めさせ、極東における大清帝国の支配秩序を、突き崩すことに成功したのです。
 結果、日本は、それまで李朝がけっして受け入れようとしなかった近代化作を、高圧的に押しつけるのですが、これがまた性急すぎるもので、李王朝内部にも閔妃(王妃)を中心として多大な反発を生み、親ロシア勢力が増大しますし、その閔妃を日本公使館がかかわって暗殺してしまったことに加えて、なによりも断髪令が、両班や儒生を中心に憤激を呼び、最初の義兵闘争がまきおこります。

 とはいえ、一度日本が軌道に乗せた朝鮮の近代化は、それまでの李朝の価値観を反転させ、明治30年(1897年)、国号が大韓と改められ、朝鮮国王高宗は皇帝となって、大韓帝国が誕生します。大清帝国の皇帝を迎えるための迎恩門は倒され、冊封体制からの離脱を記念して、独立門が建てられるのです。このとき、大韓帝国軍から、多数の陸士留学生が日本にわたりましたし、とりあえず、近代国民国家への模索は、はじまろうとしていたのです。

 一方の大清帝国です。
 すでにベトナムもフランスの植民地となっていましたし、日清戦争の敗戦で、朝鮮も独立し、その支配論理が根底から崩れ去ったのです。結果、知識層が多数、日本への留学を選び、明治維新をモデルとした近代国家形成が、さまざまに構想されることとなりましたが、清と日本では、事情がちがいすぎます。
 清の支配層には少数民族である満州族がいて、広大な清朝の勢力範囲には、あまりにも多数の異民族がいました。
 いえ、そもそも、大清帝国の多数民族である漢族ですが、一言で「漢人」といっても、とりあえず漢字を使っている人々の間でさえ、地域によって言語はかけはなれていますし、文化にも相当なちがいがあります。
 しかし、なによりも大きな問題だったのは、建国以来の満州族の友邦、藩部とされていたモンゴル、チベット、そして回教徒のウィグルで、宗教、言語、文化のすべてにおいて、ベトナム、朝鮮などの朝貢国よりも、いえ、漢文、儒教をそれなりに受容した歴史を持つ日本とくらべても、中華文明とのへだたりが大きいのです。
 したがって、です。ありうべき近代国民国家中国の構想からは、当初、モンゴル、チベット、ウィグルが斬り捨てられる傾向があり、漢人の流入が進んだ満州については、微妙でしたが、これも中華民族主義からするならば、捨ててもいい地域ともなっていました。

 長くなりましたので、次回へ続きます。

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