歩兵とシルクと小栗上野介 vol1の続きです。
まず参考書の追加を。
慶応4年(明治元年・1868)1月15日、勘定奉行であると同時に、陸海軍奉行でもあった小栗上野介は、鳥羽伏見から逃げ帰った慶喜公に、徹底抗戦を訴えて、罷免されます。
その日、勘定奉行の管轄下にある岩鼻代官所の渋谷鷲郎は、独自に小栗上野介の抗戦構想を実施しようと、村々の役人を呼び集めます。
中山道を攻め上ってくるだろう官軍を、碓氷峠(軽井沢の近く)で待ち受け、迎え撃とうというのです。
同じ中山道の信州和田峠にも、防御戦を張る計画が、こちらは上田藩を中心に練られていました。
そのために、村々から兵卒を出させて、本格的な農兵銃隊を編成するつもりだったのです。
しかし、これが、農村の多大な反発を招きました。
そもそも、農村役人(地元実力者)と代官所の対立は、慶応2年、幕府勘定方が、フランスとの提携を進めて、蚕種や生糸に、代官所が重税を課しはじめてから、潜在していました。武州世直し一揆も、それで起こったのです。
もちろん、村々の人々は、その重税がフランスとの専売契約によって生じたとは、知りません。国内生糸商人の策謀と受け取っていたのですが、生糸輸出にまつわることはわかっていますし、攘夷気分はいやでも盛り上がります。
そこへ今度は、兵卒を差し出せ、です。
浪士隊の挙兵や一揆の場合は、村で火付けや強盗をする可能性もありますし、治安を維持して村を守るためには、兵卒を差し出すことも納得がいきました。一揆の場合も、といいますのは、一揆に加勢しなかった村を、他村の一揆が襲撃することは常道でしたし、富農だけではなく、一般の農家も被害を被ることは多いわけですから。
しかし、今度は碓氷峠まで出ていって戦え、というのです。なんのためでしょうか?
「もし遠方戦争の地へ繰り出しあいなり、万一の義これあり」ということ、つまり「よそへまで戦争に出かけていって、戦死してしまうこと」を、農民たちは怖れたのです。
結局、尊王攘夷をかかげた長州の場合とちがって、幕府直轄地、旗本知行地の農村では、幕末の尊王攘夷気分により、幕府への帰属心はほとんどなくなっていたともいえるでしょう。
2月12日、慶喜公が上野寛永寺で謹慎すると同時に、朝廷からの命を奉じた尾張藩士が、碓氷峠へ姿を現します。
朝廷は、鳥羽伏見戦の後、幕府旗本の領地を、とりあえず尾張藩に属するものと規定していたのです。
これで、旗本領への幕府の支配権は正式に否定され、上州の農民たちは集結し、世直し一揆へとなだれこみます。
ねらうは富農や生糸商人たちですが、もちろん代官所が、一番の襲撃目標です。
2月19日、岩鼻陣屋(代官所)が一揆に襲われ、渋谷鷲郎たち幕府役人は逃亡した、という記録があります。
これと、金井之恭たちは3月になって岩鼻陣屋の牢獄から官軍に救い出された、という話との整合をどうつけるか、なのですが、あるいは渋谷鷲郎たち役人は、囚人も連れた上で、野州羽生陣屋(代官所)に避難したのではないのでしょうか。
羽生陣屋は、慶応3年11月に築かれたばかりの代官所で、羽生城跡を利用したため、敷地は広大で、防御の地の利もあったようですし、岩鼻陣屋が崩壊した2月から、農兵隊を集めて訓練をはじめているんです。
そうであったとすれば、後の話がわかりやすいのです。
鳥羽伏見でも活躍した幕府歩兵隊は、農兵というよりも、江戸の武家臨時雇い人や博徒、農村のアウトローをよせ集めたような銃隊だったのですが、「負けました、将軍さまはご謹慎、はい解散!」で、納得がいこうはずがありません。放り出されたら、食い扶持がなくなるのです。武器を持って隊ごと脱走する者が、多くありました。
これを見た古屋佐久左衛門が、一計を案じます。
古屋佐久左衛門については、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。で書きましたが、プリンスの侍医としてパリへ行き、函館で榎本軍の医師を務めた高松凌雲の兄です。筑後の庄屋の息子で、古屋も英学をおさめ、軍書を訳すなどして幕府に取り立てられる一方、英学塾を開いたりもしていました。
その古屋が、脱走歩兵隊の説得に赴いたのですが、別にそれは、武器を捨てさせるためではありません。
古屋佐久左衛門は、罷免となった小栗上野介の自宅を訪れて会ったりもしていたようですし、渋谷鷲郎を知っていたのではないでしょうか。薩摩屋敷の浪人に、家族が皆殺しにされた悲劇とともに。
3月1日、古屋佐久左衛門は、歩兵隊を懐柔すると同時に、勝海舟に談じて、歩兵頭並格の地位と、信州の幕府直轄地鎮撫の命をもらい、大砲やら資金もたっぷりと得て、900人ほどの歩兵隊を率いて野州羽生陣屋へ向かうんです。
渋谷鷲郎は、羽生陣屋において、古屋佐久左衛門の配下となっています。
この隊には、京都見廻組の今井信郎も参加していて、後に衝峰隊と名乗ります。
ところで、小栗上野介が、上州の知行地・権田村に着いたのは、3月1日です。勘定奉行であった小栗が、渋谷鷲郎の動向や悲劇を、知らなかったなんてことがあるのでしょうか。古屋佐久左衛門の歩兵隊が信州に向かうはずだ、ということも、です。
その翌日、権田村の隣の室田村に、上州世直し一揆勢は集合しますが、一揆を煽動した博徒たちは、小栗上野介が渋谷鷲郎の親分であったと、知ってのことではなかったんでしょうか。
そして、その博徒たちの中に、挙兵浪士側にくみしていた、猫絵の殿様まわりの者があったとしても不思議はないでしょう。
3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵は、あっさりと退け、首謀者を斬首します。
古屋率いる歩兵隊は、東山道軍先鋒隊の進路をさけて、信州へ向かおうとして、3月9日、梁田に宿営していましたが、それを知った東山道軍先鋒隊(薩長大垣軍)の襲撃を受け、多数の死者を出して逃走します。翌10日、どうやら長州隊の手で、羽生陣屋は焼かれたようで、このとき金井之恭たちが解放されたとすれば、話のつじつまがあうのではないか、と思うのです。
渋谷鷲郎は、梁田で敗れて逃走し、親しくしていた村役人のところへ寄り、刀と金を贈られて会津へ向かい、再び古屋佐久左衛門の衝鋒隊に加わって、越後の戦いで行方不明になっているのだそうです。
戦死したのかどうか、留守宅の家族を皆殺しにされたこの人の恨みは、尽きることがなかったでしょう。
小栗上野介は、あきらかに、古屋佐久左衛門のくわだてに期待していたでしょう。
しかし事敗れて、なぜ知行地に居残ったのかは、不可解です。
たしかに一揆は諸刃で、当初は一揆を利用していた東山道軍も、征圧の後は一転して一揆鎮圧に転じ、小栗上野介が一揆を退けたことを責めようはなかったわけですが、薩長新政府の幕府納地の方針からして、旗本の知行地が無事であるはずはなく、領主然と農兵を組織する行為は、反逆と見なされる可能性が高かっただろうに、と思うのです。
また、小栗上野介が中心となっていた幕府の富国強兵策が、関東農村の多数の恨みをかっていたことに、果たして本人は、気づいていなかったのでしょうか。
小栗上野介の富国強兵近代化策は、明治新政府のそれの先駆けといえますが、庶民に重税と兵役という大きな負担を強いるという面においても先駆けであった、とはいえるでしょう。
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慶応4年(明治元年・1868)1月15日、勘定奉行であると同時に、陸海軍奉行でもあった小栗上野介は、鳥羽伏見から逃げ帰った慶喜公に、徹底抗戦を訴えて、罷免されます。
その日、勘定奉行の管轄下にある岩鼻代官所の渋谷鷲郎は、独自に小栗上野介の抗戦構想を実施しようと、村々の役人を呼び集めます。
中山道を攻め上ってくるだろう官軍を、碓氷峠(軽井沢の近く)で待ち受け、迎え撃とうというのです。
同じ中山道の信州和田峠にも、防御戦を張る計画が、こちらは上田藩を中心に練られていました。
そのために、村々から兵卒を出させて、本格的な農兵銃隊を編成するつもりだったのです。
しかし、これが、農村の多大な反発を招きました。
そもそも、農村役人(地元実力者)と代官所の対立は、慶応2年、幕府勘定方が、フランスとの提携を進めて、蚕種や生糸に、代官所が重税を課しはじめてから、潜在していました。武州世直し一揆も、それで起こったのです。
もちろん、村々の人々は、その重税がフランスとの専売契約によって生じたとは、知りません。国内生糸商人の策謀と受け取っていたのですが、生糸輸出にまつわることはわかっていますし、攘夷気分はいやでも盛り上がります。
そこへ今度は、兵卒を差し出せ、です。
浪士隊の挙兵や一揆の場合は、村で火付けや強盗をする可能性もありますし、治安を維持して村を守るためには、兵卒を差し出すことも納得がいきました。一揆の場合も、といいますのは、一揆に加勢しなかった村を、他村の一揆が襲撃することは常道でしたし、富農だけではなく、一般の農家も被害を被ることは多いわけですから。
しかし、今度は碓氷峠まで出ていって戦え、というのです。なんのためでしょうか?
「もし遠方戦争の地へ繰り出しあいなり、万一の義これあり」ということ、つまり「よそへまで戦争に出かけていって、戦死してしまうこと」を、農民たちは怖れたのです。
結局、尊王攘夷をかかげた長州の場合とちがって、幕府直轄地、旗本知行地の農村では、幕末の尊王攘夷気分により、幕府への帰属心はほとんどなくなっていたともいえるでしょう。
2月12日、慶喜公が上野寛永寺で謹慎すると同時に、朝廷からの命を奉じた尾張藩士が、碓氷峠へ姿を現します。
朝廷は、鳥羽伏見戦の後、幕府旗本の領地を、とりあえず尾張藩に属するものと規定していたのです。
これで、旗本領への幕府の支配権は正式に否定され、上州の農民たちは集結し、世直し一揆へとなだれこみます。
ねらうは富農や生糸商人たちですが、もちろん代官所が、一番の襲撃目標です。
2月19日、岩鼻陣屋(代官所)が一揆に襲われ、渋谷鷲郎たち幕府役人は逃亡した、という記録があります。
これと、金井之恭たちは3月になって岩鼻陣屋の牢獄から官軍に救い出された、という話との整合をどうつけるか、なのですが、あるいは渋谷鷲郎たち役人は、囚人も連れた上で、野州羽生陣屋(代官所)に避難したのではないのでしょうか。
羽生陣屋は、慶応3年11月に築かれたばかりの代官所で、羽生城跡を利用したため、敷地は広大で、防御の地の利もあったようですし、岩鼻陣屋が崩壊した2月から、農兵隊を集めて訓練をはじめているんです。
そうであったとすれば、後の話がわかりやすいのです。
鳥羽伏見でも活躍した幕府歩兵隊は、農兵というよりも、江戸の武家臨時雇い人や博徒、農村のアウトローをよせ集めたような銃隊だったのですが、「負けました、将軍さまはご謹慎、はい解散!」で、納得がいこうはずがありません。放り出されたら、食い扶持がなくなるのです。武器を持って隊ごと脱走する者が、多くありました。
これを見た古屋佐久左衛門が、一計を案じます。
古屋佐久左衛門については、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。で書きましたが、プリンスの侍医としてパリへ行き、函館で榎本軍の医師を務めた高松凌雲の兄です。筑後の庄屋の息子で、古屋も英学をおさめ、軍書を訳すなどして幕府に取り立てられる一方、英学塾を開いたりもしていました。
その古屋が、脱走歩兵隊の説得に赴いたのですが、別にそれは、武器を捨てさせるためではありません。
古屋佐久左衛門は、罷免となった小栗上野介の自宅を訪れて会ったりもしていたようですし、渋谷鷲郎を知っていたのではないでしょうか。薩摩屋敷の浪人に、家族が皆殺しにされた悲劇とともに。
3月1日、古屋佐久左衛門は、歩兵隊を懐柔すると同時に、勝海舟に談じて、歩兵頭並格の地位と、信州の幕府直轄地鎮撫の命をもらい、大砲やら資金もたっぷりと得て、900人ほどの歩兵隊を率いて野州羽生陣屋へ向かうんです。
渋谷鷲郎は、羽生陣屋において、古屋佐久左衛門の配下となっています。
この隊には、京都見廻組の今井信郎も参加していて、後に衝峰隊と名乗ります。
ところで、小栗上野介が、上州の知行地・権田村に着いたのは、3月1日です。勘定奉行であった小栗が、渋谷鷲郎の動向や悲劇を、知らなかったなんてことがあるのでしょうか。古屋佐久左衛門の歩兵隊が信州に向かうはずだ、ということも、です。
その翌日、権田村の隣の室田村に、上州世直し一揆勢は集合しますが、一揆を煽動した博徒たちは、小栗上野介が渋谷鷲郎の親分であったと、知ってのことではなかったんでしょうか。
そして、その博徒たちの中に、挙兵浪士側にくみしていた、猫絵の殿様まわりの者があったとしても不思議はないでしょう。
3月4日、権田村に襲いかかった一揆を、フランス陸軍伝習を受けた権田村の小栗歩兵は、あっさりと退け、首謀者を斬首します。
古屋率いる歩兵隊は、東山道軍先鋒隊の進路をさけて、信州へ向かおうとして、3月9日、梁田に宿営していましたが、それを知った東山道軍先鋒隊(薩長大垣軍)の襲撃を受け、多数の死者を出して逃走します。翌10日、どうやら長州隊の手で、羽生陣屋は焼かれたようで、このとき金井之恭たちが解放されたとすれば、話のつじつまがあうのではないか、と思うのです。
渋谷鷲郎は、梁田で敗れて逃走し、親しくしていた村役人のところへ寄り、刀と金を贈られて会津へ向かい、再び古屋佐久左衛門の衝鋒隊に加わって、越後の戦いで行方不明になっているのだそうです。
戦死したのかどうか、留守宅の家族を皆殺しにされたこの人の恨みは、尽きることがなかったでしょう。
小栗上野介は、あきらかに、古屋佐久左衛門のくわだてに期待していたでしょう。
しかし事敗れて、なぜ知行地に居残ったのかは、不可解です。
たしかに一揆は諸刃で、当初は一揆を利用していた東山道軍も、征圧の後は一転して一揆鎮圧に転じ、小栗上野介が一揆を退けたことを責めようはなかったわけですが、薩長新政府の幕府納地の方針からして、旗本の知行地が無事であるはずはなく、領主然と農兵を組織する行為は、反逆と見なされる可能性が高かっただろうに、と思うのです。
また、小栗上野介が中心となっていた幕府の富国強兵策が、関東農村の多数の恨みをかっていたことに、果たして本人は、気づいていなかったのでしょうか。
小栗上野介の富国強兵近代化策は、明治新政府のそれの先駆けといえますが、庶民に重税と兵役という大きな負担を強いるという面においても先駆けであった、とはいえるでしょう。
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