郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

三千世界の鴉と桐野利秋

2012年03月12日 | 桐野利秋

 去年の3月11日の午後は、母を眼科に連れていっていました。
 なんといえばいいのでしょうか、関東大震災が当時の日本の世相を一変させてしまったことが、身をもってわかったような気がしました。
 安政の東海、南海、そして江戸直下型その他の連発大地震も、黒船来航と重なりまして、「生滅流転、この世に確かなものはない」というような諦念から、やがて、世の変革を促す大きなエネルギーが生まれたようにも思えます。

 そんなわけで(どんなわけやら)、今回もちょっと寄り道しまして、「三千世界の鴉を殺し」の続きです。
 なんだか最近、同名ライトノベルのおかげで、検索でこのページにアクセスする方が増えていたんですけれども、その理由の一つは、どうも私が、「主と朝寝がしてみたい」だけではなく、「主と添い寝がしてみたい」の歌詞も載せていたためでもあったのではないか、と思います。
 これ「朝寝」の方が一般によく知られていまして、「添い寝」と書いているサイトさんは少ないんですよね。

 それは、ともかく。
 私が前回、この都々逸について書きましたのは、
この秀逸な都々逸を、桐野利秋作だと書いているブログがある、とお聞きしてどびっくりし、しかもそのブログのこの都々逸の解釈が、「邪魔なものは全て殺してしまえという考え方を述べたもの」ということであることに呆然として、のことでした。

 要するに、私が憂えておりましたのは、です。
 日本人の日本語読解能力がここまで低下するって、許されることなんでしょうかっ!!!
 ということだったんですが、実はこれにはネタ本があった、ということが、最近わかりました。

名禅百話―人生の真理と不動の心を求めて (PHP文庫)
武田 鏡村
PHP研究所


 この武田鏡村氏の「名禅百話」が、元凶だったんですっ!!!
 しかも、信じられませんことに、検索をかけてみますと、著者の武田鏡村氏は、僧籍のある作家!!!だそうでして、ここまで読解力のない作家さんがいまの日本には存在するのかっ!!!と、呆然といたします。

 だいたい、書き出しからして、こうです。
 幕末に、人斬り半次郎と異名をとった人物がいた。薩摩の中村半次郎、のちの桐野利秋である。
 幕末に、人斬り半次郎なんて異名はないですから。あるとおっしゃるなら、典拠をはっきりさせていただきたいものです。

 つーか、人名の前に「人斬り」とつけることは、半次郎に限らず、幕末にはありません。
 人斬り俊輔とか、人斬り晋作とか、人撃ち龍馬とか、言わないですよねえ。
 それと同じことです。
 明治になっても、剣に強くて必要なときにそれを存分にふるえますことが英雄の条件だったとは、龍馬暗殺に黒幕はいたのか?に書いております近藤勇の例などを見ましても、わかることです。

 これもだいぶん以前の記事ですが、詳しくは続・中村半次郎人斬り伝説をご覧ください。

 
萌えよ乙女 幕末志士通信簿
幕末維新研究会
泉書房


 上の本を買いましたのは、ひとえに、薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチに書きましたように、姪に「薄桜鬼」を教えられまして、「最近の幕末死人のおっかけ事情はどうなっているの???」と、関心をもったためです。
 えー、それが、ですね。ちゃんと中村半次郎も見開きで載せてもらっていました。
 書かれました内容はともかく、濡れ羽色の長髪の半次郎のイラストの色っぽいこと色っぽいこと、でして、ここで「三千世界の鴉を殺し、主と添い寝がしてみたい」と台詞を入れてくれましたら、芸者さんも悩殺されるよねえ、と思ったほどでした。

 イラストは幾人かで分担して描かれているのですが、半次郎を手がけられたのは、あおいれびん氏。ぐぐってみましたら、BL系の漫画家さんみたいでして、どうりで、色っぽいはずです。
 しかし、後書きであおいれびん氏が書いておられますことには、「四大刺客を描かせて頂きました!」ということでして、「四大刺客」って「四大人斬りの言い換えだよねえ」と、田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎と並べられますことに、ちょっと違和感があったのですが、四人とも色っぽい中でも、半次郎は格別に色っぽく描かれていますので、まあいいか、と思いもしました。

 違和感といいますのは、なになのでしょうね。
 最大の違和感は、田中新兵衛も岡田以蔵も河上彦斎も、孤独な剣士という感じがしまして、桐野(中村半次郎)は、そうではないから、です。
 伊集院金次郎も肝付十郎も、戊辰戦争で先に逝ってしまいましたけれども、永山弥一とは生涯の友で、桐野の説得で、死を覚悟してともに戦うことを承知してくれたわけですし、桐野の死後に桐野を描いた歌舞伎を見まして中井桜洲はしのんでくれましたし、おそらく前田正名も、パリで泣いてくれたはずですし。

 なにしろ、私の半次郎に対しますイメージが、愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-に書いたようなものですから、ねえ。
 といいますか、フランス軍服に金銀装の儀礼刀を持ち、アラビア馬に乗っていた桐野も史実なんですから、田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎と並べますよりは、土方歳三の向こうを張るイメージの方が、事実に近いんじゃないんでしょうか。

 と、話がそれてしまいましたが、武田鏡村氏の著作です。
 人斬り半次郎云々の後に、こう続きます。
 あるとき、半次郎が京都相国寺の独園和尚を訪ねて、たわむれに「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」と詠いましたところが、独園和尚はニヤリと笑い、「桐野さん、そんなことでは天下は取れぬ。わしならこう詠む。三千世界の鴉とともに、主と朝寝がしてみたい」と詠った、というのです。
 ここまでは、いいんです。

 実は、ずいぶん以前から、中村太郎さまが、相国寺さんのサイトで桐野の名前を見つけ、教えてくださっていました。
 臨済宗相国寺派 歴史資料 関連人物に、独園承珠の項目があります。この最後に「参禅の居士に伊達千広、鳥居得庵(鳥尾小弥太)、桐野利秋、山岡鉄舟等があります」とありまして、独園和尚は、廃仏毀釈に反対して、信仰の自由を求めた方だそうですので、その和尚さんに私淑していましたといいますことは、これまた意外な桐野の側面ですよね、と、中村さまとも話していたようなことだったんです。

 京都の薩摩藩二本松藩邸は、相国寺の領地を借りて、相国寺に隣接して建てられておりましたので、幕末、中村半次郎時代から、相国寺で修業しておりました荻野独園を知っていた可能性はあるのですが、wiki-荻野独園を見ておりますと、「明治5年(1872年)教部省が設置されて独園は教導職として招かれたのを機に東京に入り、次いで増上寺に大教院が設置されると大教正に任じられ、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の総管長を兼務した」とありますこの時期に本格的に私淑したと考えますと、おさまりがいいんじゃないのか、と思います。

 ま、そういうわけでして、桐野と独園和尚との逸話伝説が残っていますこと自体は、ありえることとと思われました。
 それで、中村さまが国会図書館でさがしてくださいまして、武田鏡村氏がネタにした可能性があります戦前の禅の逸話集が、いくつか見つかりました。
 そのうち、一番古いものが、大正15年発行の「禅林逸話集」です。
 中村さまいわく「国会図書館のデジタル化が進みますと、もっと古いものが見つかりそうですね」でして、私もそう思いますが、短い逸話ですから、全文引用します。

 桐野利秋の情歌
 
 西郷南洲の股肱といわれた桐野利秋、ある時相国寺の独園和尚に参じて、
「和尚さん、拙者はかやうな都々逸を作ってみたが、如何です?」と大いに自慢して見せた情歌に曰く、
  三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい
 これを見た独園和尚、ニヤリと一笑して、
「桐野さん、そんな事ぢゃお気の毒だが天下は取れませんよ」
「それはまたどういふわけですか」
「わしならばかうするよ」と和尚が示した歌にいわく、
  三千世界の烏と共に主と添寝がしてみたい
 他日桐野が人に語って言ふやう、
「あの坊主はなかなか油断がならぬぞ」と。


 大正時代に出版されていますこの逸話と、武田鏡村氏が書いた逸話のどこがちがうかといいますと、もっともちがいますことは、大正時代のものは「添寝がしてみたい」で、鏡村氏のものは「朝寝がしてみたい」ということでしょう。
 添寝と朝寝。これだけでニュアンスが相当ちがってまいります。

 三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい
 この世の義理もしがらみをみんな捨て、あなた(おまえ)と体を重ねてしまいたい

 三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい
 この世の義理やしがらみから解き放たれて、あなた(おまえ)とのんびり朝寝ができる身分になりたい

 つまり、「添寝」は肉体関係を持つということですから、あからさまな恋歌にしかならないのですけれども、「朝寝」は朝寝坊という意味ですから、「のんびりしたいなあ」という気分の方が強く、高杉晋作や逃げの小五郎(木戸孝允)が作ったと仮託しますならば、「朝寝」の方がふさわしい、といえます。

 大正時代の方の逸話を解釈しますと、以下のようではないでしょうか。
桐野利秋が、あるとき独園和尚のもとへ来ていいました。
「和尚さん、こんな恋歌を作ってみたんですが、いかがですか? 三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい」
 桐野は、三千世界という仏教用語を使って、「この世の義理もしがらみも、仏の教えもみんなかまわず、おまえと体を重ねてしまいたい」という恋歌を巧みに作ったわけでして、色っぽい世界で粋にふるまっていることを自慢するとともに、独園和尚をちょっとからかったつもりでした。
 ところが、独園和尚はニヤリと笑って、こう返しました。
「桐野さん、そんなに色事にばかりかまけていては、お気の毒だがあなたは大成しませんよ。わしならばこうするよ。三千世界の烏と共に主と添寝がしてみたい」
 つまり和尚は、「烏を殺し」を「烏と共に」と一言言い換えただけで、「この世の義理やしがらみやさまざまな政治上の難問を、あなた(桐野あるいは国民)とともに解決しよう」と、恋歌を治政者の歌に変えてしまったのです。
 桐野は、「あの坊主はなかなか油断がならぬぞ」と感心して、他人にもそう言いました。


 ところが、ですね。
 武田鏡村氏ときましたら、「朝寝」の方でこの逸話を紹介しましたあげく、勝手に、こんな言葉を付け加えているんです。
 桐野のようにカラスが邪魔だからと、殺してしまっては何にもならない。カラスを殺さずに活かし、ともに生きる。これが本当の生き方である。
 その後、西郷隆盛に私淑する桐野は、政敵を倒すことを考えて蜂起し、西南戦争を引き起こして自滅した。
 ライバルや政敵は、殺して葬るのではなく、殺し(否定)、活かし(肯定)、そしてともに生きるものである。その度量がなければ、天下人や大企業の社長にはなれない。


 だいたい、桐野がこの歌を作ったということ自体、逸話の仮託にすぎませんが、それにしましても、「カラスが邪魔だからと、殺してしまっては」なんぞといいます無茶苦茶な解釈が、なんでできるのでしょう。えー、カラスが一匹、カラスが二匹と殺していく、これはカラス狩りの歌だとでもいうのでしょうか。馬鹿馬鹿しい。

 次に、桐野が私淑しておりましたのは独園和尚だと、相国寺さんのサイトにちゃんと書いております。 中村太郎さまがおっしゃっておられましたが、独園和尚は私淑します桐野になんの影響も与えることができない程度の人物だった、ということになりまして、失礼きわまりないんじゃないでしょうか。
 ちなみに、維新に際しまして、鹿児島で、徹底的に仏教が排斥されましたのを残念に思い、独園和尚は、禅宗の再布教を志し、明治9年から鹿児島入りするほど、熱心な導き手でした。

 もっともお口あんぐりになりますのが、西南戦争が政敵を倒すことを考えて蜂起って、はあ。このお人は、福沢諭吉の「丁丑公論」を読んだことがない!!!のでしょうか。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675))
福沢 諭吉
講談社


 佐賀の亂の時には斷じて江藤を殺して之を疑はず加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其塲所に於て刑に處したるは之を刑と云ふ可らず其の實は戰塲に討取たるものゝ如し鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云ふ可し一度び過て改れば尚可なり然るを政府は三年を經て前原の處刑に於ても其非を遂げて過を二にせり故に今回城山に籠たる西郷も亂丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず假令ひ生を得ざるは其覺悟にても生前に其平日の素志を述ぶ可きの路あれば必ず此路を求めて尋常に縛に就くこともある可き筈なれども江藤前原の前轍を見て死を决したるや必せり然らば則ち政府は啻に彼れを死地に陷れたるのみに非ず又從て之を殺したる者と云ふ可し

 「江藤新平をちゃんとした裁判もなしに殺し、前原一誠も問答無用で殺して、志や意見を述べる場さえ与えなかった。西郷はその前例を見ていて死を選んだのだから、西郷を殺したのは政府だ」と、福沢諭吉は言っていまして、つまり、殺しまくって人材を葬ったのは政府の側で、アーネスト・サトウも「ここまで言論弾圧ばかりやっている独裁政府をありがたがることはない」と言っていますし、イギリス流に言いますならば、西南戦争は、圧政によって言論の道が封じられ、勝手に政府が税金を増やしましたがために、有志が武器をとって義勇軍を形成し、国民の抵抗権を行使した戦い、という言い方もできるわけです。
 といいますか、福沢諭吉はそれに近い見方をしていますね。
 政府の言論弾圧にも重税にも、国民には抵抗する権利があります。

 で、西郷隆盛嫌いで、西南戦争も傍観しました元薩摩藩士、市来四郎は、『丁丑擾乱記』でこう言っているわけです。
「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」

 なんぞと、色気のない話になってしまいましたが、「三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい」と、情歌を詠う桐野を、ぜひぜひ、あおいれびんさまに描いていただきたいものです。

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薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチ

2012年03月10日 | 土方歳三

 ちょっと寄り道しまして、久しぶりの新撰組記事です。
 
 松山の我が家に、東京で大学生をやっております姪が遊びに来ていまして、いっしょに広島に行きました。
 姪の名は、仮に千鶴にしておきます。
 ちょうど私は、中村武生氏の「池田屋事件の研究」を読んでおりました。

池田屋事件の研究 (講談社現代新書)
中村 武生
講談社


「おばちゃん、なに読んでるの?」
「あんまり千鶴ちゃんの趣味ではなさそうな本よ」
「池田屋事件? 新撰組の池田屋事件でしょ?」
「新撰組の池田屋事件ってー、あー、まー、そういう言い方もできなくはないわね」
「おもしろい? おもしろかったら教えてね。千鶴、新撰組には詳しいよ」
「そーなの? じゃあ、原田左之助が松山の出身だったって、知ってる?」
「えええええっ!!! うそー。日野じゃないの???」

 いったい、どこが詳しいっていうのよっ!!!!!
 と、そのときは、そう胸の内でさけんだだけでして、私はこの姪に、歴史・文学などの知識に関しましては、まったくもってなんの期待も持っていませんから、それ以上、新撰組と伊予松山池田屋で闘死した郷土の男で、書きましたことは話しませんでした。

 実は、私がこの本を読みました最大の目的は、福岡祐次郎についてなにかわからないか、と思ったからなのですが、それにつきましては中村武生氏も、「福岡祐次郎なる人物はまったく正体不明である」としておられます。
 しかし、この年の春あたりからの薩摩藩の分析でありますとか、逃げの小五郎はやっぱり屋根から逃げていたらしいとか(だったらなぜ自叙伝で嘘ついたんですかね)、当時の龍馬は大仏の土佐浪士合宿所みたいな家にいたとか(ここに半次郎が出入りしていて龍馬とも知り合ったのではないかと想像がひろがります)、いろいろと教えられますことも多く、私にとりましてはおもしろい本だったのですけれども、まあ、ねえ。千鶴ちゃんにとっておもしろい本だとは、とても思えませんでした。

 千鶴ちゃんはノーパソを持ってきていませんで、私のノーパソを使いました。共有しましたから、なにげに、私がコメントを書いていましたこのブログも見るわけです。

「おばちゃん、幕末が好きなの? 千鶴も読者になってあげようか?」

 いや、最近は新撰組のことも書いていないしねえ。
 だいたい千鶴ちゃんは、「おばちゃん、なに読んでるの?」とのぞきこみました「井上伯伝」が、ほとんど読めませんでしたくせに、私のブログの読者になって、おもしろいことがあるものなんですかしら、ねえ。


 と思いはしましたものの、一応、「あー、ずいぶん以前の記事だけど、新撰組のことも書いているわよ」と、カテゴリー土方歳三をざざっと見せましたところが、土方歳三 函館紀行は、そこそこ気に入ったようでした。
 まあ、写真記事ですからねえ。

 で、広島旅行でのことでした。
 日の丸と君が代で書きました家族旅行のとき、千鶴ちゃんはニュージーランドに留学しておりまして、同行していなかったものですから、今回、江田島にも行きました。見所は、旧海軍兵学校の講堂、校舎と、教育参考館の展示です。
 日本海軍の歴史の展示に、幕末の人物が数名出てまいります。
 千鶴ちゃんは、さすがに、勝海舟と坂本龍馬の名前は、知っていました。しかし。
「おばちゃん、この人、どんな人?」と千鶴ちゃんが指し示した写真は、吉田松陰の肖像画でした。

 広島最後の夜、千鶴ちゃんは、東京へ帰る途中、京都で新撰組史跡を見物したいと言い出しました。「壬生寺周辺よね」と、私は検索をかけて、ネットで場所を示してあげたのですが。
「池田屋にも行ってみたい。食べ物屋さんになっているんでしょ?」
「食べ物屋さん? 昔、おばちゃんが行ったときは、パチンコ屋の前に小さな石碑があっただけだったけど」
「えー、そうなの? ちゃんと調べてみてよ、おばちゃん」

 調べてみましたら、その通りでした。
 あのパチンコ屋さんが、海鮮茶屋 池田屋 はなの舞という居酒屋さんに生まれ変わり、有名な「階段落ち」の大階段が、再現されているというんです。
 えー、中村武生氏の「池田屋事件の研究」によりますと、階段落ちはフィクションですし、池田屋が現在言われております位置にあったかどうかも、確たる証拠はないんだそうですけれども。

 もちろん、そんなことは、千鶴ちゃんにとりましてはどーでもいいことです。
 「食べられるようだったら、そこで昼ご飯でも食べたら?」と私が言いますと、さっそく千鶴ちゃんは、お店に予約の電話を入れました。なんでも、平日の昼は、予約がなければ食べられないそーでして。
 私はもう、寝ようとしていたのですけれども、千鶴ちゃんの電話予約を聞いていまして、思わず起き上がり、吹き出してしまいました。
 「明日のお昼なんですけど、沖田総司定食をお願いします。……あっ、それと薄桜鬼の隊士カクテル、ノンアルコールの沖田総司、一番組組長もお願いします」

 薄桜鬼って、いったいなに???なのですが、もともとはゲームです。
 
薄桜鬼 ~新選組奇譚~


 いわゆる乙女ゲーというやつでして、アニメにもなっているんだとか。
 要するに千鶴ちゃんは、このアニメのおかげで新撰組が好きになったというわけなのですが、説明がもうめちゃくちゃでして、話を聞いてもわけがわかりません。
 「新撰組の敵は鬼なの。羅刹化した土方さんは、鬼の血を飲んで薄桜鬼になったの」
 「はあああああ???」
 えー、私、いまだにさっぱりわかっておりませんが、雪村千鶴という名の男装の女の子が主人公で、新撰組の仲間入りして美形の隊員たちと運命をともにする、というような、これまでも少女漫画などでよくあったパターンの話のようでもあるのですが、そこにどーも、バンパイア物語のような怪奇要素がからむようです。

 「おばちゃん、薄桜鬼は歴史に忠実だから、幕末のことがよくわかるよ」
 「はあああああ??? どこがっ!!!」
 どーも、ですね、姪の千鶴ちゃんにとっては、池田屋があって、鳥羽・伏見があって、函館戦争があって、とりあえず、中身はどーでも、歴史上の事件が順番に出てまいりますと、それだけで歴史に忠実だということに、なるようです。

「千鶴ちゃんは、沖田総司のファンなの?」
「そうだよ。薄桜鬼の沖田総司のファン。ほんとうは、ヒラメみたいな顔だったんだって?」
「そういう話もあるわね。薄桜鬼の沖田総司はどんな性格?」
「ひねくれてて、意地悪なの」
 「はあああああ??? ひねくれてて、意地悪な沖田総司って!!!」
 土方のタトエばなしby『新選組の哲学』に書いておりますが、天才剣士でさわやかスポーツマンな総司は、司馬さんが造形なさいました。女の子向けに、ひとひねり陰を加えてあるってことなんでしょうかしら。

 いや、ですね。もとが乙女ゲーですから、美形キャラばかりなのは当然でして、といいますことは、当然、男同士のかけ算パロディも多く出回っている作品のようです。
 戦後の話、になると思うのですが、なんで乙女たちって、新撰組がこんなに好きになったんでしょ???
 やっぱり、元の種は、司馬遼太郎氏が蒔いたような気がするのですが、一度、ちょっぴりまじめに考察してみたい、ですね。

 薄桜鬼が興味深いのは、ですね。
 新撰組に敵対します鬼で、アニメでは、最後に土方と死闘を演じて、土方に薄桜鬼の名を贈りました謎の剣客・風間千景が、薩摩藩に雇われている、という設定なのだそうです。
 雇われている、といいますのが、ちょっとあれですが、やはりモデルは中村半次郎(桐野利秋)だったりしないんでしょうか?(笑)
 あと、ですね。トマス・レイク・ハリスとモンブラン伯爵の洋鬼対決なんぞも出てきますと、それはすばらしいゴシックロマンになったんですのに、ねえ。
 
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高杉晋作とモンブラン伯爵

2012年03月06日 | 近藤長次郎


 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5の続編、といいますか、発展といいますか。

 実をいいますと、高杉の従兄弟、南貞助のことが書きたくなりまして、書こうとしたのですけれども、慶応2年の高杉の洋行騒ぎについてちょっと補足をしたくなり、中原邦平著「井上伯伝」を読んでいますうちに、これって、モンブランがらみともいえるのかと。
 といいますか、えー、同じ時代の話なんですから、あたりまえといえばあたりまえなのですが、なにもかもが、驚くほどにリンクします。

 慶応2年(1866年)の一月、木戸孝允が上京し、西郷隆盛、小松帯刀と会談し、坂本龍馬が同席して、いわゆる薩長同盟の成立があります。それとほぼ同時期に、薩長同盟にからみますユニオン号のもつれで、薩長間の板挟みとなり、長崎におきまして近藤長次郎が自刃します。
 伏見の寺田屋で、龍馬が奉行所の捕り物にあって負傷し、京都の薩摩藩邸に移りましたところ、陸奥宗光が小松帯刀のもとへ、長次郎自刃の知らせを届けました。
 しかしユニオン号事件は、まったくもって解決しておりません。

 当然のことなのですが、木戸は薩長連合の話し合いの中で、西郷・小松に、ユニオン号のことも頼んでおります。
 それに答えまして、小松が、村田新八と川村純義を山口へ派遣しました。二人は、小松の書簡と龍馬の書簡(同行したかったが負傷して今は無理だという断り文)をたずさえていました。
 小松、龍馬の日付の手紙が2月6日でして、とすれば、陸奥宗光が小松の元へ長次郎自刃の知らせをもたらします以前の話で、村田と川村は、それを知らないうちに京都を発っています。

 小松帯刀が、村田・川村を通じまして木戸に伝えましたのは、だいたい、こういうことでした。
 「ユニオン号の所有権が長州にあると認めたいのは山々ですが、薩摩藩士や乗り組みの海援隊士には、それに反対する者が多いため、とりあえずユニオン号を鹿児島へ帰してもらえないだろうか。藩主に見せて、相談の上、返答したいと思う」

 西郷の意を受け、ちょうど長州にいました黒田清隆は、長州の薩摩連絡係・品川弥二郎に、「蒸気船の名義貸しは、近藤長次郎が公(長州藩主)に拝謁したときに頼まれて始まったことで、話がかなりこじれてしまったようなので、もう一度、公にご直筆の依頼書をお願いして、特使を鹿児島に派遣してもらうことはできないだろうか?」というようなことを言ったと、2月26日付け、弥二の木戸宛書簡に見えます。
 結局、藩主・毛利敬親は村田・川村に会ってねぎらい、いったん船を鹿児島へ帰すことを承知し、また特使派遣も決まりました。

 この特使に、高杉晋作と伊藤俊輔(博文)が志願します。
 といいますのも、ちょうどこのころ、イギリス公使パークスが鹿児島入りするという噂があり、二人は薩英会談に同席したいと、鹿児島行きを熱望していたんです。
 そして、そこへ現れましたのが、薩摩藩士・木藤市助です。

高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫)
一坂 太郎
講談社


 上の本に、3月7日付け、高杉晋作の白石正一郎(下関の商人)宛て書簡が載っています。
 このとき、晋作さんは大変でした。
 晋作さんがおうのさんと同棲している噂でも聞いたのでしょうか、晋作さんのおかあさんが、嫁の雅さん(晋作の妻)と幼い孫(晋作の子)の東一さんを引き連れ、萩から下関へ出向いてきていたんです。
 晋作さんは三人を、奇兵隊のスポンサーだった白石正一郎さん宅に預かってもらっていました。その正一郎さんも、援助疲弊で左前状態。晋作さんは、なんとかしてあげようと奔走中だったりします。

 晋作さんの言うことには。
 「昨日は薩摩の木藤市助を妓楼に案内して盛り上がって、そのままいろいろ話し込んで今夜もここに居座ります。明日はかならず帰りますので、母親ほかへの取りなしをどうぞよろく」
 まあ、だいたいそういうことなのですが、木藤さんとは意気投合しましたようで、一坂太郎氏によりますと、漢詩も贈っています。
 以下、読み下しは一坂太郎氏です。

 贈薩人木藤市助時幕府欲有事宰府、薩藩防之
 薩軍振起して龍鱗を護る
 天拝峰頭俗塵を拂う
 君更快然たらん吾亦快なり
 神州の形勢今より新たなり


 幕府が太宰府で事を起こそうとし、薩摩が之を防いだ時、薩摩の木藤市助に贈る。
 薩摩軍ががんばって五卿を守った。
 天に拝む峰の俗塵が、これで払われた。
 君も愉快だろうが、ぼくも愉快だ。
 神州日本は、新しい時代を迎えた。


 太宰府に五卿がいます。
 そのこと自体、西郷隆盛がはからったことですし、警護の中心に薩摩藩がいまして、粗略に扱われないように注意を払っています。幕府は五卿を京都に帰して罪を問おうとしたようでして、細かなことは私は調べてないんですけれども、小競り合いがあったようです。
 五卿の扱いが、長州の薩摩藩に対する信頼を呼び起こし、薩長の連帯によって新しい時代が来ると、晋作さんは歌っています。

 近藤長次郎に贈った漢詩ほど、個人的に親しげな感じはしないんですけれど、気分よく歌い上げた感じですよね。
 さらに一坂太郎氏によりますと、晋作さんは文久2年(1862年)、上海で、欧米の有名人のブロマイドを張り込みました手帳サイズのアルバムを買い、その一部を抜いて、友人、知人の写真を貼っているそうなのですが、薩摩藩士の写真は4枚。高見弥一を含みます三人の集合写真が一枚、残りは一人の写真で、五代友厚、野村宗七、そして木藤市助です。

 このときなぜ、木藤市助が下関にいたのか、ちょっとわからないのですが、間もなく(慶応2年7月3日・1866年8月12日)彼は、薩摩藩の第二次留学生となって横浜からアメリカへ渡り、およそ一年後の慶応3年(1867年)6月、マサチューセッツ州モンソンの近郊で、首をつって果てます。
 理由は、はっきりとはわかりません。
 せっかく選ばれて留学しながら、しかし、どうしようもない思いを抱えてしまった、ということなのでしょう。
 その二ヶ月前には、漢詩を贈った晋作さんの方も、結核でこの世を去っています。

 話をもどしまして、高杉と伊藤は、小松・西郷が西下する船に便乗しようと待っていましたが、来ませんので、グラバーが横浜へ行く途中で下関へ寄りましたのを捕まえ、長崎に帰るときには乗せてくれるように頼みます。
 このとき、すでに高杉は、鹿児島へ行ってユニオン号事件を解決し、薩英会談に同席した後に、その足で洋行するつもりでした。
 木藤市助はすでに洋行が決まっていたでしょうし、彼から聞いた話に、いてもたってもいられなくなったのではなかったでしょうか。
 どんな話って、えーと。五代と新納が欧州で見聞しました幕仏関係です。

 「井上伯伝」に、突然、ここでモンブランの名前が出てまいりまして、びっくりしたのですが、よく読んでみますと、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3に書いております、『続・再夢記事』慶応2年7月18日付け越前藩士の報告書と同じ内容なんです。
 「フランスも四,五百年前までは、大小名が各地に割拠し、その小国ごとに法律があったが、日本の今の状態はそれと同じであるので、現在のフランスのように中央集権化する必要がある。大名の権力をけずるためには、軍事力が必要だろう。それがないのであれば、日本はフランスに依頼して借りるべきだ」とモンブランが幕府に吹き込んだのだと、越前藩士の耳に入れましたのは、まちがいなく五代ですし、まあ、これに近い幕府とフランスの協力話を、木藤が高杉に語っていても、おかしくはないわけでは、あります。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2に、「五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます」と書いたのですが、いったいいつ、日本へ帰り着いたのか、ちょっとわかりません。
 しかし二人は、欧州での出来事を、書簡でいろいろと国元へは知らせているわけですし、第二次の留学予定者でしたら、かなりのことを知っていて、おかしくないと思うのですよね。
 そして、高杉は文久2年の上海行きで、五代友厚とすでに知り合っていますから、「五代さんはこう言ってきている」と、木藤が高杉に語った可能性は、かなり高いでしょう。

 それにいたしましても、五代!!!
 ものすごい反幕プロパガンダです。

 高杉と伊藤は、3月21日にグラバーの船で下関を離れ、長崎へ向かいます。当日の夜半には長崎に着きましたが、すでに小松と西郷は、鹿児島に帰っていませんでした。
 長崎の薩摩藩邸で留守番をしておりました市来六左衛門は、高杉たちに、「鹿児島では、いまだに薩長の連携を知らない人間も多いので、親書はかならずお届けしますが、入国は遠慮願います」と言ったというのですが、これってどーなんでしょ。
 長州藩主の特使が薩摩に入国できないって、ねえ。
 薩摩藩主父子の返書があった6月まで、薩長同盟が成立していたとはいいがたいのではないか、と、私が考えるゆえんです。久光が認めてなかったのではないか、という話なんですけれども。

 3月28日付けの高杉の木戸・井上宛書簡では、「薩ニハ家老新納刑部五代才助先日英ヨリ帰着、日々外国之事ニ手ヲ附候様子ニ御座候、既ニ昨夜モ米利幹ニ五人書生ヲ遣セシ也」とあり、五代と新納が薩摩へ帰っていたこと、薩摩の第二次留学生がアメリカへ旅立ったことが、わかります。
 結局、高杉晋作は、幕府との開戦が近づいたことから洋行をあきらめました。
 モンブランが日本へ入国しましたのは、翌慶応3年の秋で、晋作さんはすでにこの世の人ではありませんでしたけれども、晋作さんの義弟にして従兄弟、南貞助は、当然、モンブランとも面識があったものと思われます。

 次回はちょっと、素っ頓狂なところばかりが似ました、晋作さんのかわいい従兄弟の楽しい話を、してみたいと思います。


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