郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol4

2009年06月07日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol3の続きです。

 大正8年(1919年)、休暇をとって東京を離れた金光瑞は、ひとまず、ソウル仁旺山の麓にある家に、妻子とともに落ち着きました。
 ソウル滞在は3ヶ月ほどでしたが、その間、後輩の池青天たちとともに、仁寺洞にあった売れっ子妓生(キーセン)の家に出入りしたり、中華料理店でビリヤードに興じたりと、遊蕩にふけるふりをしていたのだそうです。もちろんそれは、三・一独立運動後のきびしい取り締まりの目をのがれるために、なんですが。
 さらに金光瑞は、義和君李カン(李垠殿下の異母兄)の愛人と浮き名を流し、ソウル中に名をとどろかせた、といいますから、「取り締まりの目をのがれるため」とはいうものの、女に好まれる素養を、そなえた人だったんでしょうね。

 そして6月、金光瑞と池青天は満州に脱出し、柳河県孤山子(あるいは通化県とも)にあった新興軍官学校で、軍事教育に携わります。
 この新興軍官学校というのは、明治40年(1907年)にはじまった丁未義兵闘争の独立運動家たちが、満州に入って作った私塾のようなものです。
 これまでにも幾度か述べましたが、丁未義兵闘争は、大韓帝国の軍隊が解散させられたことに伴い、軍人が中心となって起こったものですし、独立とは戦いとるものである以上、独立軍を育成する必要がある、ということで設立されたのですが、学校というものは維持費のかかるものでして、次第に細々としたものになり、大正7年(1918年)、つまり第一次世界大戦が終結した年、三・一独立運動の前年、満州の大凶作により、ほぼ閉鎖状態に陥っていました。
 そこへ、金光瑞、池青天という、日本陸軍の現役将校が教師として現れたわけで、600人の生徒が集まる盛況となりました。

 なぜ満州か、ということなのですが、「伝説の金日成将軍と故国山川 」vol1で書きましたように、間島を中心に、国境に近い満州は、もともと朝鮮族が住む土地だったんですね。李朝の最盛期には、間島までも支配がおよんでいたようですが、末期にはおよばなくなり、かといって清朝の支配がおよんでいるかといえば、これもまたいいかげんで、朝鮮国内にくらべれば、勝手に耕せる土地が多かったんです。匪賊が跋扈していましたから、自衛の必要はあったんですけれども。

 で、ですね、まず、半島内では、総督府の取り締まりで、独立武力闘争は不可能でした。そして、独立運動というものは、お金がかかります。その活動資金は、主に支持者の寄付です。その寄付を募るにも、また戦士となる人材を得るにも、朝鮮族の多く住む地である必要があるわけなのです。
 したがって、まずは満州(わけても間島)、次いでロシア領沿海州に、独立運動家が、移り住んでいったのです。

 三・一独立運動当時、満州はといえば、明治44年(1911年)の辛亥革命以降、一応は中華民国の領土となっていたわけなのですが、北京政府の威令は行き渡らず、軍閥割拠状態の中、馬賊上がりの張作霖が実権を握っていました。
 また、ロシアの東清鉄道(辛亥革命によって中東鉄路と名が変わります)と、明治38年(1905年)以来、日本のものとなった満州鉄道と、その付属地が点在していますから、線路と付属地に関しては、ロシア、日本の警備、行政下にあったわけです。
 沿海州はロシア領ですから、大正6年(1917年)に勃発したロシア革命の混乱のただ中です。満州の中東鉄路とその付属地にも、革命は押し寄せていました。
 満州、沿海州における、これだけの混乱の中では、独立運動を取り締まる日本側も、外交ルートで異議を申し立てても無駄です。

 そういうようなわけで、三・一独立運動以降も、武装闘争をめざす人々は、大挙して、まずは満州(主に間島)をめざしました。
 しかし、その人々の意志は、けっして統一されていたわけではなく、間島においては、複数の独立武装運動団体が競合することになり、これはある意味、ある意味、といいますのは、住民からの寄付の取り立て、という点において、なんですが、馬賊と競合することともなり、結局は、より武力の強い団体が生き残るわけですから、国境線を越えて半島内にも出没することとなり、朝鮮総督府の取り締まりを誘うこととなっていきます。

 金光瑞と池青天がいた新興軍官学校は、武装独立団体がひしめく間島(東満)からは少々離れ、南満と呼ばれる地域にありました。
 ここで、金光瑞は擎天、池大亨は青天と名のり、もう一人、旧大韓帝国軍官学校出身の将校だった申八均も新興軍官学校の教官となっていたのですが、申東天と名のり、「南満の三天」と称えられたといいます。しかしこれは、戦闘で名を挙げたというわけではなく、軍事教官としての名声でした。
 
 金光瑞が新興軍官学校にいたのは、半年ほどのことでした。
 大正9年(1920年)の初めには、ハルピン(満州中東鉄路の付属地で、ロシア人によって統治されていました)にいて、沿海州ウラジオストックの同志たちと、連絡をとっていたもようです。
 以下は、防衛省に残っています、陸軍省大日記からです。

大正九年一月二十三日高警第一五三五号 秘 国外情報 不逞鮮人ノ行動 (浦潮派遣員報告)
 哈爾賓埠頭区十三道街居住金擎天ナル者ヨリ、目下浦潮ニ居住セル元平安南道平壌鎮衛隊下士ニシテ暴徒派不逞鮮人金燦五、及元咸鏡南道北青鎮衛隊下士崔元吉、並海牙密使事件ノ張本人李儁ノ実子李鏞等十二名ニ宛テ、陰十二月十五日(陽暦二月四日)愈々前進ノ予定ナルヲ以テ各位ハ二十人長トシテ部下ヲ引率シ同日迄ニ哈爾賓ニ集合セラレ度シトノ書面ノ発送シ来レリト謂フ 
 発送先 内閣総理大臣 各省大臣 拓殖局長官 警視総監 検事総長 軍司令官 両師団長 憲兵隊司令官 関東長官 関東軍司令官
 
 
 つまり、ハルピン埠頭区十三道街に住んでいる金擎天(光瑞)なるものが、ウラジオストックに住む金燦五(元平安南道平壌鎮衛隊下士)、崔元吉(元咸鏡南道北青鎮衛隊下士)、李鏞(ハーグ密使事件で客死した李儁の息子)など12名に宛てて、「2月4日に前進(進軍)するので、それぞれ20人長として部下を引率し、ハルピンに集合してくれ」という手紙を出した、というんですね。
 ううっー、なんで、金光瑞が出した手紙の内容が、日本側にわかるんでしょう!!!
 シベリア出兵中の話で、日本軍はウラジオストックを根拠地にしていましたから、密偵がもぐりこんでいた、といいますか、ウラジオの独立運動団体の中に、日本軍に内応する人物がいたんでしょうね。

 「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」では、新興軍官学校にいたことがあるという李範ソク(韓国初代国務総理)の後年の談話から、「金光瑞は武器購入のルートを開拓するために沿海州へ行った」としているんですが、これを見ると、ウラジオストックの同志たちから指揮官として迎えられたのではないか、と思えます。

 ということで、調べてみましたところ、あきらかに李範ソク氏の記憶ちがいです。
 陸軍省大日記の資料などによりますと、この年の1月4日に、朝鮮銀行の咸鏡北道会寧出張所から、間島龍井村出張所へ、現金を運んでいましたところが、強盗団十数名に襲われ、日本人の警衛巡査長と朝鮮人の巡査が殺害され、現金15万円が奪われたんですね。捜査しましたところ、朝鮮銀行龍井村出張所の書記だった朝鮮人が、現金輸送のルートと時間を、間島独立武装団の一つに内報したことがわかり、強盗を働いた武装集団のメンバーも判明したんです。
 彼らは、15万円をかかえて、「武器を購入する」といい置いてウラジオストックに逃げていました。
 1月31日、日本軍はウラジオストックの新韓村(朝鮮人街)を急襲し、強盗団をはじめ数百人を逮捕し、現金12万8000円余りを押収した、といいます。

 金光瑞は、この強盗とは、なんの関係もありません。
 しかし、強盗が十数人でしかありませんのに、数百人の逮捕! 
 あきらかに日本軍は、沿海州での独立運動をつぶそうとしていたわけでして、強盗事件はいい口実となったわけです。
 すでに、白軍と共闘していましたチェコスロバキア軍団は戦闘をやめ、2月から引き上げがはじまる予定でしたし、それにあわせて、出兵中のアメリカも、撤兵する予定でした。
 となれば、赤軍と共闘していました沿海州の朝鮮独立軍団は、これからが、活動を活発化させる好機だったのです。
 にもかかわらず、です。「強盗の摘発」となれば、抗議の声を上げるわけにもいきませんし、これは、とんでもない迷惑だったでしょう。

 おそらく、なんですが、日本軍の将校だった金光瑞にとって、間島における、強盗まで発生するような独立武装団の乱立は、運動の先細りにしかつながらない苦々しいものに見え、世界に認知される武装闘争をするならばシベリア、ということになったのではないでしょうか。
 またシベリアには、旧知の人々がいもしたのでしょう。手紙の宛先の一人である崔元吉は、「元咸鏡南道北青鎮衛隊下士」と見えますが、元咸鏡南道北青郡は、金光瑞の故郷です。彼らが、自分たちには能力のある指揮官が必要だ、ということで、金光瑞に来援を求めたのではないか、と思うのです。

 ただ、1月31日にウラジオストックの新韓村手入れがあったとすれば、当時ハルピンにいたらしい金光瑞の書簡の件は、あるいは、実現しなかったのではないでしょうか。日本側は、ハルピンに手勢を率いていくはずのメンバーの名前まで、つかんでいたわけなのですから。
 とすれば、金光瑞は、事態を案じて、そのままウラジオストック入りしたのではないか、と推測できるのです。

 えーと、ですね。
 なぜシベリアでの武闘闘争なのか、ということなのですが、当時の現実として、独立国家の設立は、民族自決の理念をいくら口で唱えても、容易に得られるものではありませんでした。
 武装闘争と巧みな外交が不可欠で、しかもそれが、うまく連動する必要があります。
 そのお手本、チェコスロバキア独立運動の成功が、このとき、金光瑞の目の前にあったのです。

 次回は、成功のお手本であったシベリアのチェコスロバキア軍団から、お話を進めて行きたいと思います。

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コメント (12)
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