郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

珍大河『花燃ゆ』と史実◆25回「風になる友」

2015年06月27日 | 大河「花燃ゆ」と史実


 珍大河『花燃ゆ』と史実◆24回「母になるために」の続きです。

花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 
 相変わらず私、文と小田村には拒絶反応が起こりまして、すすっととばし、今回の焦点は池田屋事件のみ、です。
 瀬戸康史の吉田稔麿は、このドラマでは数少ない、ぴったりのキャスティングだと思うんですね。
 これまでのこのドラマでは、高杉と久坂の間をとりもつ、なあなあまあまあ係ということにつきまして、まともに描いてもらっているわけではないんですが、実際のところ、聡明で、機転が利いて、交渉力があって、という印象ですから、雰囲気としてはこうだったかな、と。
 
池田屋事件の研究 (講談社現代新書)
クリエーター情報なし
講談社


 池田屋事件につきましては、吉田稔麿のことも含めまして、中村武生氏の「池田屋事件の研究」を主な参考書とさせていただきます。以前、薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチで、すでに紹介しているのですが。いやしかし今回のシナリオライターと演出家、まさか「薄桜鬼」で池田屋事件をお勉強したんじゃないんでしょうねえ? このドラマの沖田総司、お口が血で染まったアイドル風吸血鬼ですわ!!! 

 えーと、池田屋事件です。
 中村武生氏のご著書は、長州側から事件を探求したものです。
 しかし、池田屋事件といいますと、姪の千鶴ちゃんも言っておりましたように、新撰組です。
 
新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫)
子母沢 寛
中央公論社


 祖父が幕臣だったといいます子母澤寛が、昭和3年(1928)に送り出しましたこの『新選組始末記』が、新撰組と池田屋事件を、広く世に知らしめました。
 以降、多くの小説がこれを踏襲していまして、司馬遼太郎氏も新撰組を書くとき、子母澤寛のもとへ挨拶に行ったと言われます。
 で、子母澤寛の描きます「池田屋事変」が史実かと言いますと、かなり創作もまじっているのですが、まったく史料を無視しているわけではなく、近藤勇が江戸の養父へ書いた手紙は、そのまま載せていますし、また、これもよく引き合いに出されます、桂小五郎(木戸孝允)の回想文(後年、明治になって書いたものです)も、原文をぬき出して載せていたりします。

 この桂の回想がくせものなんです。「木戸孝允文書第八」(近代デジタルライブラリー)の197ページ、「池田屋及び蛤御門の変に関する自叙」という短い文章ですので、ご覧になってみてください。

 これがなぜ問題かと言いますと、池田屋事件に関し、長州側には他にも史料がありまして、そのもっとも基本的なものが、事件当時、京都長州藩邸のトップにいた乃美織江の手記なんですが、当日の桂の行動に関して、自叙と記述が食い違うんです。
 昭和12年に菊池寛が書いた「大衆維新史読本 池田屋襲撃」(青空文庫)には、「乃美の手記によると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命をひろったとなつているが、事実は違うらしい。この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州(対馬)の藩邸を訪うて、大島友之丞としばらく対談していると、市中がにわかに騒々しくなつた。何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ」

 大島友之丞といいますのは、対馬藩京都藩邸の留守居役で、桂と親交があった人で、村松剛氏の醒めた炎―木戸孝允にも出てきます。
 これは、中村氏によれば、明治44年(1911)、山口県出身の史家・中原邦平が「忠正公勤王事蹟」に書いていることでして、以来、池田屋事件に関します多くの著作で、踏襲されてきたんだそうです。
 しかし、これまた中村氏によりますと、大島は事件の当日は江戸にいて、京にはいないとのことですし、また維新後に乃美自身が書いた手記も「桂は屋根を伝って逃れた」としていて、こちらの方が信用できる!そうなんです。
 つまり、桂は後年の自叙で嘘をついた!!!ことになりますね。

 池田屋へ新撰組が踏み込みましたのは、近藤勇の手紙によれば、元治元年(1864)6月5日夜四つ時頃(夜の10時半過ぎ)です。
 月は、三日月と上弦の月の間で、頼りになる明かりではありませんでした。
 志士たちの会合は、2階で行われていました。行灯の明かりを消してしまえば、漆黒の闇です。
 一方、一階には大型の釣り行灯があって(冨成博氏著「新選組・池田屋事件顛末記」)、吹き消すことができず、かなり明るかったようでして、おそらく、なんですが、斬り合いの多くは1階で行われたようなんですね。

 で、京都の地図をご覧になってみてください。
 中村氏によりますと、現在の池田屋跡地の石碑の位置は、信用できないんだそうなんですけれども、それほど大きく位置がづれているわけでもないと思うんですね。
 一応、現在の「海鮮茶屋 池田屋はなの舞」に昔の池田屋があったとしまして、対馬藩邸は、現在の京都ロイヤルホテルでして、ごく近いんですね。池田屋の2階の窓から逃げ出し、屋根伝いに対馬藩邸に行けたとしましたら、もっとも安全なルートだったと思われ、身体能力にすぐれた桂小五郎は、とっさの判断で、そうしたのではないでしょうか。
 
 しかし、なんで嘘ついたんですかね?
 一つには、桂本人も書いていますが、長州藩邸にいて、事件の知らせを聞いた杉山松助が桂の身を案じて、鑓を持って池田屋に駆けつけようとしたのですが、途中ではばまれて重傷を負い、長州藩邸に引き返して、落命した、ということがあります。
 もう一つ、この会合は新撰組につかまった古高俊太郎奪還のためのもので、古高は長州藩の諜報活動、朝廷工作にかかわっていたキーパーソンです。したがって、長州藩京都留守居役の桂が、主催した会合であったらしいんですね。自分が逃げて、他藩の志士たちが落命したことは、生真面目な桂にとっては、慚愧に堪えない出来事であったでしょう。

 長州の京都藩邸は、現在の京都ホテルオークラです。そして、長州藩邸(ホテルオークラ)と対馬藩邸(ロイヤルホテル)の間には、京都加賀藩邸があっただけ、ですので、ごく近かったのですが、中村氏によりますと、会津藩はこの夜、長州藩と戦争する覚悟を固めていまして、京都所司代の桑名、禁裏御守衛総督の一橋慶喜にも連絡がいき、出動決定。長州藩邸のまわりはすでに、一会桑の軍勢に固められていた模様なんですね。
 藩邸の中は一応、治外法権ですから、対馬藩邸から動かなかった桂の用心深さは、正解だったんですが、後年「逃げの小五郎」と呼ばれた本人にしてみましたら、なにやら、みんなを見捨てて、一人で身の安全をはかったような、後ろめたい気がしまして、明治になりましてからの桂は、ノイローゼ気味でもありましたし、嘘をついて、それが本当と思いたい気分いっぱい、だったのかもしれません。

 そして、吉田稔麿です。
 子母沢寛は、「長州の吉田稔麿は、肩先を一太刀やられたが、幸に薄手だったので、そのまま危地を脱し、一旦、長州屋敷へ引き返して、この急を報じ、援兵を求めてから再び手槍を引き下げて、池田屋へ取って返し、裏庭で沖田総司と一騎討になったが、何しろ天才的な剣法者沖田に立ち向かっては、殆ど子供扱にされて、斃れて終った。長州の浦靱負の日記には、吉田は池田屋内ではなく加州屋敷の前で見張と戦って死んだことになっている」と、書いていますが、沖田と戦ったというのは、もちろん創作です。

 稔麿に関しましては、新資料をまじえながらの中村氏の推測がほぼ正しいのでは、と感じますので、要約しますと以下のようです。
 「稔麿は、池田屋での会合の世話係だったので、事前に池田屋に出向いて準備をしたが、会合に参加する予定はなく、新撰組が踏み込む前に長州藩邸に帰っていた。そこへ、新撰組池田屋襲撃の報が入り、駆けつけようとしたところが、加賀藩邸の前で、長州藩邸を包囲する一会桑どこかの軍勢にぶつかり、戦って死んだ」 
 池田屋に駆けつけようとした理由としましては、やはり、杉山松助に同じく、桂小五郎の身を案じて、ということがもっとも考えられまして、どうも、杉山と一緒だった、というような資料もあるみたいですね。

 このドラマ、杉山は出してませんし、桂小五郎は、なんとも中途半端に、一階にいて会合の席にはおらず逃げおおせた、ことにしてしまっています。
 どーせ、逃げの小五郎説をとるんでしたら、二階暗闇での派手な立ち回りをへて、窓から屋根へ、鼠小僧のような身軽さで遁走させた方が、見応えがあったでしょうに。とはいいますものの、東山の桂では、老けすぎで、似合いそうもないですけどねえ。
 このとき、史実の桂は31、2ですのに、東山では、西南戦争の知らせを聞いて悶えながら死ぬ直前の木戸さん、としか思えません。

 で、稔麿です。
 彼に関しても、実に中途半端に、史実を使っています。
 まあ、加賀藩邸の前で、一会桑、どこかの軍勢と戦って斃れた、ということだけは確かですから、それを生かす手ももちろんありか、と思うのですが、だとすれば、以下の点をちゃんと描写すべきでしょう。
 池田屋の会合人数は現実には10人ちょっとで、けっして多くはなく、長州屋敷には、長州藩士、浪士含めておよそ百人近くがいて、一会桑の包囲を受け、全員討ち死にを覚悟したほどの事態だったこと。一会桑の出動は遅れましたが、各所で浪士狩りを行い、洛中は騒乱状態だったこと、です。

 ドラマでは、一応、長州屋敷は出していましたが、下宿屋に居候が群れているだけ、みたいな緊迫感のなさ。
 長州側も新撰組も、クラブ活動対外試合じゃないんだからっ!!!です。
 私、実は「花神」はほとんど見ていないのですが、池田屋事変の動画をさがしていたら、これが出てきました。
 
池田屋騒動


 昔の大河ドラマは、すごいですっ!!!
 内容がほとんど創作だって、そんなことは忘れて見入ってしまいました。迫力に圧倒されますね。
 この緊迫感があればこそ、戦った双方の情が、かけがえのないものに思えてくるのではないでしょうか。

 えーと、稔麿につきましては、このとき、朝陽丸事件に関する交渉のため、江戸へ行く直前だったのではないかと中村氏は推測しておられます。
 朝陽丸につきましては、 近藤長次郎とライアンの娘 vol10に書いております。私にとりましては、このとき朝陽丸の艦長だった甲賀源吾から入った事件なのですが、いまだに、よく理解できておりませんで、今回、スルーさせていただきます。

王政復古への道 (原口清著作集)
原口 清
岩田書院


 原口清氏の「王政復古への道」収録、「禁門の変の一考察」は、すぐれた論文なのですが、私、このたび初めてじっくりと読みまして、馬鹿なものですから、要約するにはもう少し読み込む必要があります。
 とりあえず、参考にさせていただきながら、他の論文などもまじえつつ、幕末という時代を俯瞰しますと。

 幕末の動乱は、日米修好通商条約の締結をめぐります、幕府と朝廷のボタンのかけちがいに始まります。
 将軍継承者問題が同時に起こり、糸がもつれて、安政の大獄となりましたことから、孝明天皇、そして摂関家から下級官吏にいたるまで、かなりの数の公家が攘夷に傾き、反幕感情を抱きます。
 桜田門外の変で井伊大老は、水戸と薩摩の浪士に暗殺され、幕府の権威は傾きますが、しかし、幕藩体制はまだ変化を見せません。
 
 文久2年(1862年)春、薩摩の島津久光が、朝幕間に立っての国政改革を志し、一千名の兵を率いての上京を果たします。
 このとき、国父久光の意志とは別に、薩摩藩の有志は、長州藩、そして他藩有志との連携を模索しつつ、京都所司代を襲う計画(伏見義挙)を企てていました。
 完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族に書いておりますが、この計画には、中山家の家司・田中河内介がかかわり、公子も関係していた形跡があります。

 孝明天皇は、島津家と婚姻関係にあります近衛家への信頼もあり、一千名の兵で幕府を圧倒してくれる久光を、心より歓迎するのですが、一方、京に集結し始めました諸藩志士たちの策動には、嫌悪を示され、久光に鎮圧を依頼されました。
 久光は自藩有志を寺田屋で上意討ちにし、寺田屋にいた他藩有志は所属藩に引き渡し、田中河内介は暗殺してしまうわけです。
 久光のこの乱暴な手法は以降も続き、京都薩摩藩邸の留守居役は、長州で義挙に参加するはずだった久坂玄瑞他の元松下村塾門下、武市半平太を中心とする土佐勤王党と連絡を持ちつつ、近衛家の依頼を受けて、安政の大獄の恨みを晴らす天誅の口火をきりました。

 孝明天皇の厚い信頼を受けながら、しかし京の情勢は、久光の思うようにはならず、多数の中下級公家が、長州と土佐勤王党など尊攘激派の支持の元に策動し、しかも久光が江戸で幕政改革を果たした帰り道には、生麦事件が起こって、薩英戦争に踏み切らざるをえなくなります。
 幕府の勢力が目に見えて衰えるにつけ、それは幕藩体制の衰えでもありますから、朝廷におきましても、それまで権力が集中しておりました摂関家は統率力をなくし、下級の公家や官吏が長州、土佐を中心とします志士たちと結んで、活発に動き出したことが、大きな結果を生んでいくんですね。

 薩摩が薩英戦争を戦うために、京都を空にしていた間に、珍大河『花燃ゆ』と史実◆23回「夫の告白」に出てきました大和行幸になるわけなんですが、結局、孝明天皇は、自分から望んだわけでもない勅が出るのがお嫌で、信頼する薩摩藩にクーデターを依頼なさり、薩英戦争のために軍勢のない薩摩藩は、会津を誘うわけです。
 この年の春、三条実美は京都御守衛御用掛となり、朝廷の兵力として各藩が出しました御守衛兵一千を統率し、また彼ら過激派公卿が連携する長州藩は、二千の兵を滞京させていましたから、合計三千の兵をバックに、孝明天皇に圧力をかけることができていたんです。
 孝明天皇は、攘夷そのものがお嫌だったわけではなく、騒乱と中下級の公家が策動する秩序の乱れがお嫌でした。

 えーと。
 ドラマはこのまま、禁門の変に突入して、冴えないままに久坂玄瑞は世を去る勢いですが、長くなりましたのでまたもや、辰路さんと養子の件は、次回へまわします。
 なお、昨夜、同窓会がありまして、実はそこに、同窓の安倍派国会議員の方が出席しておられました。
 私、なにげに遠回しに、「安倍さんの地元・長州の幕末史をNHKが最低最悪に貶めていますが、安倍さんはどう受け止めておられますか」 と聞いてみたのですが、「安倍さんはそんなことを気にするほど暇じゃない」とのことでした(笑)

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珍大河『花燃ゆ』と史実◆24回「母になるために」

2015年06月22日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 珍大河『花燃ゆ』と史実♦23回「夫の告白」の続きです。
 
花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 えーと。これを書くために仕方なく見ているのですが、文さんと小田村のドアップがほんっっとにうざく、ついに嫌悪感すらわく今日この頃です。どうすれば、ここまでつまらないドラマを作ることができるんでしょうか。

 私、できるかぎり文さんと小田村は見ないようにしています。
 その上で、今回、もっともばかばかしかったことは、三条侯は単なるホームシックから、京を戦場にしても京へ帰りたい、と思い、文はそれならば八つ橋で三条侯のホームシックをなぐさめ、戦争を止めようとした! という話です。
 三条侯にしても文さんにしても、ここまで愚鈍に仕立てなくてもよさげなものですが。

 もう一つ、なんともうんざりしましたのが、京で久坂玄瑞が沖田総司に遭遇し、びびった久坂の元へ突然高杉が助太刀に現れ、高杉は威張り散らし、久坂はすねて、しかしそこへ温厚な入江九一と吉田稔麿が現れて二人を取りなし、松陰門下の結束を確かめる!!!といいます、最近お定まりになってきましたパターンとなるんですが、現実にはそれぞれに活動しておりました四人が、いったいなにをしているのかさっぱりわかりませんし、失敗はなんでも久坂一人の責任で、高杉がやけにえらそうにもったいぶり、入江と吉田はなにより仲良しが一番でなあなあまあまあといいます、漫画でもありえへん珍妙な松下村塾四天皇そろいぶみを見せつけられたことです。

 あと、養子の件に関しましては、スイーツ大河『花燃ゆ』と楫取道明に詳しく書きましたが、つけ加えたいこともあり、辰路さんのこととあわせまして、後述します。

 三条侯の件と松下村塾四天皇そろいぶみ場面について、なんですが、三条侯は土佐藩主の山内家と婚姻関係に有り、もともと京では土佐藩士(郷士中心)が身辺警護をしていました。また土佐では、勤王党弾圧が始まっていまして、長州に亡命してきて、七卿のまわりに集っていた土佐勤王党士は多いんですね。またNHKは、よほど公卿への偏見を持っているのか、と思うんですが、攘夷戦に関しましては過激公卿の方が熱心ですし、幕府への反感が高かったりもしまして、活動的ですし、ホームシックどころではない、攘夷、反幕活動の親玉たちなんです。

 また、久坂は京で、長州への同情票を集めるべく、共感を寄せる公家たちや在京他藩士に働きかけたりしているんですけれども、このとき京へ出奔しました高杉晋作がなにをしていたかと言いますと、桐野利秋と高杉晋作に書いておりますが、中岡慎太郎といっしょに島津久光暗殺を企てていた(「投獄文記」に本人がそう書いています)んです。高杉は他藩人との付き合いはあまり得意ではなく、たいていの場合、社交的な久坂が引き受けていますのに、中岡慎太郎とは、よほどうまがあったんでしょうね。
 まあ、ともかく。

 このドラマは、薩摩や土佐や水戸などなど、他藩との関係や公家社会などを、ろくろく描いてきていませんので、ほんとうに、なにがなにやらわけのわからない、面白くもない紙芝居になっていまして、とりあえず、前回の続きからご説明します。

 なぜ幕府は、日米修好通商条約締結にあたって、孝明天皇ご自身が、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」とまで述べられるほどの事態を招いてしまったのでしょうか。

講座 明治維新2 幕末政治と社会変動
明治維新史学会編
有志舎



 前回ご紹介いたしました「講座 明治維新2 幕末政治と社会変動」収録、奈良勝司氏の「徳川政権と万国対峙」に加えまして、久住真也氏の「幕末の将軍」も参照します。表紙は、幕臣出身の洋画家・川村清雄の手になります14代将軍家茂ですが、いや、つくづくいい男だったんですねえ、和宮さまの夫は。

幕末の将軍 (講談社選書メチエ)
久住 真也
講談社



 まず、ですね。
 ペリー来航の直後に、第12代将軍・徳川家慶が死去します。つまり、黒船騒動の最中に、将軍が代わったわけです。
 ときの主席老中は、阿部正弘。
 この人は、非常にバランス感覚にすぐれた人でして、ペリー来航以前から、御三家の水戸斉昭、越前の松平春嶽、琉球を支配する薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂など、これまではいっさい、幕政に参加してきませんでした親藩、外様の大名たちのうち、海防を強く意識していました、いわゆる有志大名たちを重視し、彼らの意見を聞くことによって、幕政を強化し、日本国中が一丸となって、対外危機に当たれる道をさぐります。
 阿部正弘は家慶の絶大な信頼を得て、また家慶の大奥を支配していました姉小路(スイーツ大河『花燃ゆ』とBABYMETAL参照)にも好かれていましたため、改革を断行できるだけの立場を築けていたんですね。

 13代将軍家定、つまり篤姫さんの夫ですが、病弱な上に言語不明瞭なところがあり、阿部正弘や有志大名たちは、暗愚と見ていた節があります。
 久住真也氏によりますと、暗愚ではなかった、という証言もあるのですが、ともかく。父の病死により、急遽、将軍となりましたときは30そこそこ。しかし、ペリー来航という未曾有の危機の中、引き続き老中阿部正弘がすべてを取り仕切り、日米和親条約が締結されますと同時に、安政の改革が行われます。家慶門閥にとらわれない人材登用、対外問題処理の機構整備によって、有能な外交官僚を育て、また軍制改革によって武備の充実も計られました。長崎のオランダ海軍伝習も、この一環として行われ、正弘当時の幕府は「諸藩に開かれた幕府」をめざしておりましたので、幕臣以外の伝習生も受け入れました。

 さて、しかし。
 安政2年(1855)大地震が起こり、翌年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任し、通商条約の締結を迫ります。
 しかし、その長く困難な交渉のただ中で、阿部正弘は老中のまま急死します。
 阿部は条約問題だけではなく、もう一つやっかいな問題を残していました。
 家定将軍には子がなく、後継者をだれにするか、という問題です。

 阿部正弘と有志大名たちは、未曾有の国難の折から、英明で、すぐにでも将軍の補佐ができる後継者をと、水戸斉昭の息子の一橋慶喜を押していました。
 慶喜の母親は、有栖川宮家の姫君で、先代家慶の御台所の実妹です。家慶は了承していた節があるのですが、久住氏によれば、家定は心底、慶喜を嫌っていた形跡があるんだそうなんですね。
 無理もない、といえば無理もない話でして、阿部老中が、ろくろく家定将軍を相手にもしませんで、次は英明な方にと慶喜を押していたんですから、不快以外のなにものでもないでしょう。
 そして、水戸家の血筋は当時の将軍家から遠くへだっていまして、血筋が近く、年若い家茂を養子に迎える方が、自然でした。

 また阿部正弘は、安政改革によりまして、保守派の多大な反感を買っていました。
 なににしろ、改革は既得権を侵害します。
 保守派にしてみましたら、有志大名の跋扈も、洋務官僚の取り立ても、気に入らないことばかり。
 ともかく、幕府の有り様を変えたくなかったのです。

 この保守派が、井伊直弼を大老に推したといいます。
 奈良勝司氏によれば、井伊大老は、真面目に家定の話を聞き、家定の望むままに、一橋慶喜を後継者候補からはずすべく活動します。
 条約の方は、阿部の後を受けました開明派の老中・堀田正睦が取り仕切っていたのですが、この人は一橋派です。
 井伊直弼は決して開港派ではなかったそうなのですが、有志大名たちの運動で、将軍後継者問題にも朝廷がからんできましたことから、話は非常にややっこしくなり、ねじれてきます。

 有志大名たちの中には、松平春嶽や島津斉彬など、開明的で、開港にも理解がある者もいたのですが、孝明天皇が譲位論者でおられますから、正面切って開港に賛成はしづらく、「ともかく次期将軍は英明な者を選び、武備充実を計って攘夷を可能にしたい」といいますような、もってまわった攘夷論者になっていたんですね。

 奈良氏によれば、孝明天皇の勅許が得られないまま、勝手に通商条約を結んでしまいましたのは幕府の洋務官僚であり、幕府に相談を持ちかけられながら、途中で無視され、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」と憤られました天皇に、井伊大老は狼狽し、「武備充実の上、13、4年後にはかならず条約改正をいたしますから」と、行き当たりばったりに約束して、なだめたんだそうなんです。
 つまり、ここで通商条約は、当の幕府が、脅しに負けて結んだので改正が必要と認めた、ろくでもない条約となります。

 いや、武備充実を計って条約を改正するには、結局、50年かかった!わけですけれども、ねえ。井伊大老の思い描いた改正とは、まったくちがう改正でしょうけれども。

 安政5年(1858)、通商条約が調印され、将軍家定が死去し、後継将軍は家茂となって、安政の大獄がはじまります。
 通商条約を憂えられました孝明天皇の密勅にからんでいましたから、ともかく昔ながらの幕府の権威にこだわります井伊大老は、弾圧に張り切りすぎまして、結果的に、幕府への信頼に大きな亀裂をいれてしまいます。有志大名や摂関家をはじめ、高位の公家まで弾圧の憂き目にあいましたので、怨嗟の声はなにも、松下村塾のみに満ちていたわけではありません。幕府への反感は、静かに、全国に浸透していきました。
 また、対外危機に際して、例えば土佐では郷士が海防に駆り出され、といった具合で、士族階級ばかりではなく、郷士や農民たちにも、政治参加の機運が、少しづつ盛り上がってきていたんですね。その人々も多くは、攘夷派でした。

 水戸と薩摩の有志による桜田門外の変が有り、勢いづきました長州の尊攘派は、桂小五郎や松島剛蔵が中心となり、水戸の有志と盟約を結びます。そんな中で、坂下門外の変が起こるのですが、このときの襲撃犯の一人で、越後の河本杜太郎は、萩まで、久坂を訪ねて来たりしています。
 しかし、大きな動きにつながりませんで、各地の志士が焦燥を募らせる中、文久2年(1862年)になって突然、島津久光が率兵上京をする、というニュースが西日本をかけめぐります。
 ドラマで、フレヘードニート龍馬が、武市半平太の手紙を持って訪れたのは、実は、このときのことなんです。

 なにしろ、島津久光は1000名の藩兵を引き連れて上京したわけでして、前代未聞な上に、幕府の権威が地に落ちた出来事でした。
 薩摩藩の有志は、各地の志士とともに京都所司代攻撃を計画し、もしそうなった場合、長州も藩を上げて、呼応できる体制をとろうとしていました。
 しかしこれは不発に終わりましたし、詳しいことははぶきます。
 このとき、久坂たちも土佐勤王党も、京へ上って活動していたわけなんですが、そういった全国的な動きとの連動が、このドラマではさっぱり、描かれません。

 8.18政変につきましても、結局、そういうことなんです。薩摩も土佐もろくに描かないで、わけがわからないままに池田屋事変となりそうですが、続きは次回。
 辰路さんと養子問題につきましても、次回にまわします。
 
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珍大河『花燃ゆ』と史実◆23回「夫の告白」

2015年06月14日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』の続きです。
 
花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 今回から、できれば毎週、ドラマと史実との関係を、ごく簡単にですが、追ってみることにします。
 久坂が逝き、大奥編とやらに突入しました後は、やる気がなくなるよーな気もするのですが。
 その前に一つだけ、前回書き漏らしたことを。まあ、品がなくて、漫画みたいなだけの話ですので、省いたのですが。

 文さんと久坂の結婚式で、高杉が下品に文さんの容貌の話をする場面がありました。中村さまは「普通に礼儀としてありえないことです」とおっしゃっておられたのですが、婿の友だちが下品な芸をするような、そんな珍妙な披露宴、いくら下級とはいえ、幕末の武士がするわけないだろうがっ!!! 糞馬鹿!!!です。
 よくは覚えてないのですが、その点「八重の桜」の八重の最初の結婚式はまともで、川崎尚之助が他藩人で会津に家がなく、結婚後も八重の家に同居なので、家老か誰かがどこかの場所を貸してくれて、そこから八重が嫁ぐ形だったかに、なっていたと思うんですね。
 当時の結婚式は、花嫁が花婿に先導されて、花婿の家まで、正式には駕籠で向かいます。花嫁の親族がそれに付き添うのですが、花婿の家での結婚式は夜ですので、提灯行列になるわけです。
 出席するのは、もちろん、親族だけです。

 久坂も川崎尚之助と同じく、実家がない状態で、結婚後は杉家に同居したと思われているのですが、私は、杉家の山屋敷(松陰が生まれた時代の家で、滝さんの持参金です。後々まで、松陰が勉強部屋として使っていた、というような伝えもあります)に新婚時代の二人は住み、今の松陰神社の杉家から、山屋敷まで嫁入り行列が行き、山屋敷で結婚式が行われたのではないかと、憶測しています。

 なお、すでにこの時期、花嫁が白無垢を着るのは古い習慣になっていまして、明治になってからと同じように、黒地の裾模様の振り袖が、普通の武家の一般的な花嫁衣装だったそうです。水戸藩なぞは絹物禁止で、しかし下着は絹でもよかったそうでしたから、木綿の振り袖がぞうきんを着込んだような状態になってしまい、女たちは嘆いたのだとか。

 さて、第23回「夫の告白」です。
 いや、なんなんでしょうか。文久三年の激動の京の渦中に久坂はいたんですのに、この題名!!!
 しょっぱなから、文句があります。

 鷹司関白に久坂玄瑞が、桂小五郎とともに、「大和行幸の勅を」、つまり「孝明天皇が大和へお出ましになって直接攘夷の指揮をおとりください」と願い出る場面があります。
 それにかぶせるナレーションが「久坂は京で、日本国一丸となっての攘夷実行のため奔走していた」なのですが、これじゃあ、公武合体論と区別がつかないじゃないのっ!!!
  で、会津と薩摩が過激な攘夷に反対して、久坂の動きを阻止しようとしていた、というのですが、会津は別に攘夷に反対していたわけではない!ですし、薩摩は鹿児島で英国艦隊を迎え撃っていた!んですし、大和親征行幸が実行されたら、幕府が反発すること請け合いで、日本国一丸どころか、確実に日本国分裂でしょうがっ!!!です。

  『八重の桜』第19回と王政復古 前編でちらりとは書いたのですが、『八重の桜』は、少なくとも幕末京都の政治劇につきましては、ものすごくまともでした。
 今回、久坂玄瑞が主人公の夫でありながら、8.18クーデターから禁門の変にいたります激動のクライマックスが、語るのもばかばかしくなるほどに薄っぺらかつ見所なしなのは、なぜなんでしょうか。いったい???

 今回の参考書は、前回に同じく、基本的には防長回天史(マツノ書店版)巻4文久3年と久坂玄瑞全集中心ですが、大和行幸、8月18日の政変に関しましては、手に入りやすく、かつ全体の流れがわかりやすい参考書として、以下の2冊があります。

醒めた炎〈2〉木戸孝允 (中公文庫)
村松 剛
中央公論社


流離譚 上 (講談社文芸文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 大和行幸につきまして、「醒めた炎」も「流離譚」も、「表向き攘夷親征だが実は討幕親征」としています。
 ところが近年、これを否定する論文が出てまいりまして、「大和行幸の企画意図はあくまでも攘夷で討幕ではなかった」という説が有力になっています。

 
幕藩権力と明治維新 (明治維新史研究 (1))
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 上記の本に収録されております原口清氏の「文久三年八月十八日の政変に関する一考察」が、それです。
 善意に解釈すれば、この説に依存して、久坂の攘夷親征要請に、鷹司関白がいまさら「弱腰の幕府が攘夷に動くかのう」なんぞとのたまう、間の抜けた場面になったのかもしれません。
 しかし、ここに至りますまでの京の政局が、ドラマではさっぱり描かれていませんし、薩英戦争のさの字も出て来ないで、薩摩藩士たちは京でのんびりと酒ばかりのんでいる有様。
 そんな中、久坂が一人で思いついて、一人じゃまだ心もとないからと先生につきそってもらった小学生みたいに、桂小五郎につきそってもらって関白に願い出て、薩摩と会津が、なぜかこのすばらしくガキっぽい久坂を、見張って阻止しようとしている、というありえへん話にしてしまいました中で、論文の一部だけを取り上げてナレーションにしてしまいますと、まったくの嘘になってしまうんですよね。
 まあ、久しぶりに論文を読み返すことになりまして、勉強させてもらっています。

 まず、この論文自体に書かれていることなのですが、直前まで、勅書の文面は、石清水八幡宮で攘夷祈願のはずでしたのに、八月十三日に布告された文面では、大和親征行幸になっていたわけです。
 そもそも、江戸時代の天皇は、長らく幕府に抑えつけられておりまして、まったくといっていいほど京都の御所を離れることはできませんでした。
 この年、文久3年の春になってから、孝明天皇が石清水八幡宮や賀茂神社へ攘夷祈願のため行幸されるという未曾有の事態になったわけなのですが、それにいたしましても、京都の内ですし、日帰りです。
 大和へ行って初代天皇神武の陵に詣でられる、といいますのは、それまでの幕藩体制の中の天皇、という立場を、大きく逸脱しているわけですね。

 そして、原口氏は論文の最後に書いておられます。
 だが以上のこと(討幕ではないということ)は、急進尊攘派の政敵たちが、彼らの言動の中に違勅・倒幕意志等々を疑い、あるいは口実とした事実、またそれが相当ひろくうけいれられた事実、などを否定するものではない。急進尊攘派の言動は、伝統的な宮廷内外の身分秩序を大きく麻痺させるものがあったし、攘夷の権を朝廷が掌握しようとすることは、委任された征夷大将軍の権限と大きく矛盾するものであった。五畿内の天朝直轄領化の企図は、佐幕的な人びとからみれば、許しがたい暴論と映じたであろう。 
 
 つまり、ですね。会津と薩摩が長州をさぐっていたとしまして(京都守護職でした会津は京都の治安維持がお仕事ですから当然さぐっていましたが、薩摩は薩英戦争をしている時期ですから、それほど長州に構ってはいられなかったでしょう。詳しくは後述します)、この論文からしましても、会津と薩摩は、長州は討幕を画策している!と受け取っていたわけでして、実際、大和親征御幸は、表面上は攘夷の推進祈願ですが、当時、攘夷を推進しますこと自体が、朝廷と幕府の対立を深め、王政復古への方向性もあった、というところまでは、原口氏も認めておられまして、倒幕の方向へもっていこうとする試みとなっていたことは、否定できないでしょう。

 なぜ攘夷推進が倒幕につながるのか? といいますと、攘夷は、幕府が朝廷の許可なくして結びました通商条約の否定だから、なんです。つまり、対外条約を結ぶ主体としての幕府を、否定することになってしまうんですね。
 以前、どこかに書いたと思うのですが、井伊大老は大きな勘違いをしていました。夷(外敵)を征すべき征夷大将軍が、武力に屈して通商条約を結んでしまったから、幕府の権威は落ちたわけでして、弾圧でその権威を回復することは不可能、どころか、反動で、よけい幕府の権威はがたがたと崩れ落ちる結果となったんですね。

幕末の天皇 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 上の「幕末の天皇」によりますが、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」といいますのは、安政5年(1858年)、実は、幕府が勝手に日米修好通商条約を締結してしまいましたときの、孝明天皇ご自身のお言葉なんです。

 ここまで、孝明天皇に言わせたに当たりましては、幕府の対応が悪かった、の一言です。
 幕府は、和親条約締結に当たって、朝廷へは事後報告ですませたのですが、通商条約に至って、前代未聞のことだったのですが、「許可をいただきたいのですが、いかがでしょう?」と締結前におうかがいをたてます。諸大名に異論が多かったため、朝廷の権威も動員しようとしたわけです。
 しかし、「朝廷が幕府のすることに意義を唱えるはずがない」という甘い見通しは、見事に裏切られます。

 孝明天皇は、天皇でありますことの自覚、つまり日本のあり方の最終的責任を負うのは自分である、といいます自覚を持って、幕府の申し出に真剣に対処します。
 
 倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族に書いているのですが、江戸時代の公家社会では、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家が飛び抜けて身分が高く、天皇の正妃になれましたのは原則、この五摂家の娘だけ、でしたし、将軍家御台所も、五摂家か宮家の娘、というのが慣例でした。
 そして、近衛家は薩摩の島津家と、鷹司家は長州の毛利家と、といいますように、裕福な大名との婚姻関係があり、経済的な援助もあって、豊かでした。

 しかし一方、通常は大納言まで、長生きすれば大臣になることもある、という中級公家(羽林家)の中山家でさえ、わずか二百石、長州の中級士族でした高杉家とかわらない石高しかなく、家格の高さに引き比べれば、非常に貧しかった、といえるでしょう。
 これまでの慣例でいきますと、朝廷の意思決定は、ほぼ時の関白(近衛、九条、二条、一条、鷹司のまわりもちです)一人で行われる、といっても過言ではなかったのですが、
孝明天皇は、「一般の公家たちも自由に意見を言えるようにするべきである」との考えをもたれるにいたり、結局、この天皇のご意向を受け、中下級の公家ばかりではなく、下級官員までが国家のため万死を顧みずと、条約締結反対に立ち上がる事態になっていくんですね。

 私、いまさらながらどうにも、このときの幕府のあまりにも不手際な動きが理解できず、今回、なにか新しい論文はないかと、さがしてみました。

講座 明治維新2 幕末政治と社会変動
明治維新史学会編
有志舎



 「講座 明治維新2 幕末政治と社会変動」収録、奈良勝司氏の「徳川政権と万国対峙」は、徳川幕府の外交官僚について論じられました、なかなか興味深い論文です。
 ペリーとの交渉過程において、幕府の外交官僚の中には、昌平黌を経由した学問エリートが入り込み、彼らは西洋列強が形作ります国際関係を、万国対峙(本質的には対等な諸国家群が地球上に対峙して互いに関係を結ぶ世界)と理解し、規範主義的な積極外交を唱えたというのですね。こういった見解が発展し、やがて幕臣の中には、条約は国家間の「信義」なのだから、最優先して守らなければならないという信念を持つ一派が現れた、というのですが。

 いや、だから。西洋列強が、非キリスト教圏のアジア諸国を対等と見ていたわけないでしょうが!!! 
 基本的に、文明とはキリスト教圏にしかない、ということですから、日本にとって彼らが「夷」なら、彼らにとっての日本も「夷」なんです。
 確かに一応列強諸国は、実効支配する政権が明確に確立されている地域は、アジアでも主権国家として認めるのですが、その外交交渉は武力を背景にしたものですし、アジア諸国はすべて格下でしかなく、結局の所、日本が不平等条約をすべて撤廃できましたのは、日露戦争の勝利の後だったわけです。列強のフルメンバーとなるためには相応の武力が必要な、弱肉強食の世界でもあった、ということですし、いつ、どこと戦争をするかはさておきまして、戦争なしで、対等のつきあいなんぞ、できるわけもなかったんですけどねえ。

 しかも、日本から欧米諸国の仲間に入れてくれと、望んだわけではないですし、武力で脅されて、変わりたくもないのに変革を迫られて、大多数の国民が開国を不満に思う、というのは自然ななりゆきでしょう。
 孝明天皇は、そういった日本の真の主権者としまして、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」と条約を勅許されなかったのですし、幕府のアイデンティティがゆらいでいますなかで、自らが頭の中に築き上げました理想的な国際秩序の中での信義がすべてだと思い込んで、自国の民情を考えないとは、さすがエリート官僚ですねえ。現在もこういうタイプのエリート官僚って、往々にしていますし、はっきり申しまして、国を滅ぼす元凶になりかねない人々です。
 だいたい、孝明天皇の勅許がない、ということはですね。通商条約は批准されなかった!わけですし、原理で政治はできませんわね。

 白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に書いておりますが、安政5年(1858年)、来日しましたフランス全権使節団の一員、M・ド・モージュ侯爵がすでに、以下のような認識を持っていたんです。

 日本には俗界的皇帝と宗教的皇帝、つまり大君とミカドが存在する。ヨーロッパ人が日本の皇帝と誤って命名する大君はミカドの代表、代理人にすぎず、ミカドが日本の真の主権者、昔の王朝の代表者であって神々の子孫である。ミカドはあまりの高位にあるので現世の所業に従事したり国事を規制したりせずに、それらを配下の者に任せて雑用から免除されている。 

いや、そのミカドが、政治意思を持って、「夷(諸外国)を征伐できないのでは征夷大将軍の官職名にふさわしくない!」とおっしゃったんです。

 あと、奈良勝司氏は、幕府エリート官僚の万国対峙の世界観が、「花燃ゆ」では松陰と文と小田村を結ぶ禁書ということになっています「海防臆測」を元してに生まれたのではないか、と言うのですが、いや前回書きましたように、実のところ、長州改革派の山田亦介も摺って配っていたものですし、松陰も読んでいます。まあ、同じものを読んでも、立場によって、いろいろな考え方をするものなのかもしれませんが、日本という国のアイデンティティを考えず、なにを守るべきかを明確に描けなかった幕府エリート官僚って、いったいなんなんでしょうか。

 それはともかく、話を続けたいのですが、長くなりすぎましたので、次回に続きます。

 なお最後に、杉敏三郎が奇兵隊に入った、という事実は、ありません。
 短いものですが、敏三郎の伝記は、甥の小太郎くんが書き残しておりまして、吉田松陰全集別巻(マツノ書店版)に収録されています。
 しかしね、こういう創作はいいと思うんですね。敏三郎が奇兵隊にいたからって、大勢に影響はないですし。

 また芸者の辰路さんにつきましては、次回に回します。
 
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唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』

2015年06月06日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 大河『花燃ゆ』ー山本氏・講演の衝撃の続きです。
 

花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 見ないで批判するのもいかがかと、とりあえずざざっと、とばしつつも大方、録画を見てみました。
 
 このドラマ、肝心要の部分で捏造をやらかし、支離滅裂になっていますし、ひどいところをあげればきりがないのですが、なに? この久坂玄瑞!!!と、もう茫然自失。主人公の夫なので、そう悪くは描いてないだろう、といいます事前の予想を見事に裏切ってくれまして、「捏造を重ねたあげくに、なんでこんな、かわいげのない、ボンクラでくの坊に描くわけ?!」と、腹立たしい限りです。

 私、「究極、幕末長州は松陰がすべて」と思っておりまして、格別、久坂のファンというわけではないのですが、ご子孫の久坂恵一氏との、続・久坂玄瑞の法事で書きましたようなご縁もあり、黙ってはいられない気分となりました。恵一氏が実の曾祖母だと信じておられました芸者の辰次さんの描き方が、これまた、ひどいですしねえ。
 恵一氏は逝去されましたそうでして、どなたに掲載のお願いをすればいいのかわからなかったのですが、そのときの写真です。
 すばらしい詩吟を聴かせていただきました。
 

 ともかくこの大河、全編を通して、捏造されました主人公、文と小田村(楫取素彦)のどアップどや顔がひたすらうざったいです。
 最初は人見知りで無口、とかいっていた文が、突然、どこぞのおばはんみたいに無神経にでしゃばり こんなこともした、あんなこともしたと、ありえへん無茶苦茶を重ねて、ものすごく気持ちの悪いどや顔ばばあになっちまっているんです。
 久坂と結婚した時点で、文さんはまだ15なんですよ? いったい、なにを考えてドラマを作ったのやら、です。
 文を中心にすえて幕末ドラマを作るんでしたら、語り手にするしかありません。少女の目で見た長州幕末、ということで、物語の中心に、しゃしゃり出るべきではない人です。

 楫取は楫取で、儒学者(医者と並ぶ、身分的には低い職種です)から、幕末長州改革派の上昇気流に乗って、実力派実務官僚にのし上がった地味な人です。頭はよく、儒学にはすぐれていたわけですけれども、洋学をやったのは実兄の松島剛蔵の方ですし、長州藩の洋学改革に大きく関わったのも、彼の方です。それを全部、楫取のやったことのように語ってしまい、なにかといえば眉根にしわをよせて、大声を張り上げ、しかしいったい、なにがしたいのかさっぱりわからない、気持ちの悪いどや顔おっさんに仕立てられちゃっているんですよねえ。この人も、本来、映像としては脇の脇にいる材料しか、ない人です。

 順を追いまして、第一話の違和感からいきます。ここで、基本設定が決まるわけですから、見過ごせません。
 
 まず、松陰が長州の軍事調練の指揮なんぞ、やらしてもらえたはずがないだろうが、糞馬鹿っ!!!
 最初から、ただひたすら、ありえへんスタイリッシュ松陰!!!で、視聴者に媚びようという捏造があり、あげく、松陰が改革を志した藩内の生々しい身分の壁が感じられなくなり、人物像が薄っぺらで、リアリティのないものになっていくんですよねえ。

 続いて、松陰と文と小田村を結ぶ禁書「海防臆測」です。
 松陰は熊本藩士の宮部鼎蔵から、取扱注意だと、渡されたことにされてしまっているんですけれども。

 
幕末期長州藩洋学史の研究
小川 亜弥子
思文閣出版


 この「幕末期長州藩洋学史の研究」によりますと、幕末長州で真剣に海防を考え、洋学振興の必要を唱えた中心人物は、まず村田清風なんですね。その志を受け継ぎ、藩校・明倫館改革までをも見据えたのが周布政之助で、弘化3年(1846)、北条瀬兵衛とともに、後に嚶鳴社(名づけたのは正親三条実愛です)と名乗る結社を、明倫館内に結成します。後に、この結社に、松陰の兄の杉民治や小田村も入ることになるんですが、小田村は、先に加入していた実兄の松島剛蔵に誘われて、のことです。
 結成された年、松陰はまだ17歳で、勉学中の身。ちょうど、長州長沼流兵学者の山田亦介から、免許を受けました。
 
 幕府が朝廷の許しなく通商条約を結んでしまいました安政5年(1858)、周布は藩政のリーダーシップを握り、隠居させられていました山田亦介を、軍制改革の総責任者に任命します。
 この山田亦介こそが、嘉永5年(1852)、「海防臆測」を摺って長州藩内で配り、過激な海防論を唱えたために、幕府を怖れた藩当局から、逼塞、隠居の処分を受けていたんです。つまり松陰は、当然、藩内の師匠から配ってもらっていたわけでして、なにが悲しゅうて、わけのわからない捏造をするのでしょうか。

 こう、ですね。長州では松陰と小田村だけが目覚めていたのよ、みたいなありえへん珍設定で、それぞれに勤皇家で、勉強家で、憂国の士でもありました兄の杉民治や父百合之助をそこいらの百姓風に見せ、松島剛蔵や周布政之助を取るに足らない小物風に仕立て、黒船来航の衝撃も、さっぱりリアリティのないものとなって、あげく、松陰と松下村塾はヒステリー集団だったの?と、貶める結果につながってしまっちゃっているような気がします。

 松島剛蔵につきましては、また後に述べますが、軽くなっているといえば、玉木文之進も、ですね。いや、だから、武士が武士の子の面をはたくわけがないでしょうが、きちがいっ!!! まして、女の子のねえ。
 ちゃんと資料を読むべきです。松陰に関しても「竹鞭でしばいた」と書いているでしょうが。肩とか背中とかでしょう、普通。

 それはともかく、このドラマの文之進は、やたらに怒りっぽいくせに、保身大好きで、史実は松陰の行為の正しさを藩当局に訴え、身をもってかばっていたといいますのに、なんなんでしょうか、ひたすら上にさからうな、といいますような、この安っぽい描き方は。
 小田村もそうなのですが、まずはわが身と家庭大事で、国家を考えるのは二の次、みたいな、日米安保のおかげで、国の安全なんて空気みたいなもの、九条があれば大丈夫!と錯覚しています団塊の世代のマイホームパパの身過ぎ世過ぎ、にしか、見えないんですよね。
 
 そして、ですね。
 文が生徒集めをして松下村塾が始まった! といいますようなキチガイ設定で、幕末の緊迫感はますますもって、消えてゆきます。
 もともと松下村塾は、玉木文之進がはじめたものでした。松陰と兄の民治は、そこへ、学びにいっています。
 文之進が忙しくて塾を続けられなくなったころ、吉田家の親戚の久保五郎左衛門が、隠居して手習い塾をはじめます。吉田稔麿や伊藤博文はここで学んでいまして、ここでは女の子も教えていましたので、文や稔麿の妹などが学んでいた可能性は、高いんですね。

 この久保塾は、杉家のごく近くにありまして、松下村塾と呼ばれるようになり、松陰の塾が平行して設立されます。
 稔麿や伊藤のように、久保塾から横滑りしてきた生徒もいましたが、野山獄でやっていました孟子の講義(講孟箚記)が評判を呼び、生徒が集まったんですね。
 なぜかといえば、松陰の孟子講義は、ただの解説ではありません。革命は死に至るオプティミズムかで書きましたように、「松蔭は孟子にわが同時代者を見出し、自由に読み解き、読み破って」いたからです。松陰にとっての孟子は、ただの漢籍ではなく、いま現在の日本の危機をどう救うかを、考えるための道具でした。
 罪人でありました松陰のもとへ、講義を聴きたいと弟子が集まってくるほど、危機意識を、大多数の人間が抱いていたんです。

 手習い塾をようやく卒業するかしないかの文さんが生徒を集めてまわる塾が、政治思想結社の側面も持つにいたった松陰の塾だったなんぞという捏造は、史実の松陰を馬鹿にしきったものですし、あげくの果てに、松陰が死んだ後、第18回「龍馬!登場」では、おにぎり文さんの大きな勘違いに、テレビを壊したい気分にさせられます。
 いやはやこのドラマ、文さんをここまで愚鈍な飯炊きおばはんに描くとは、史実とともに女をも、馬鹿にしきっています!よねえ。

 久坂を中心とする元塾生が集まって、講孟箚記の写本を作っています。これを売って、活動資金にしようといういわゆる「一燈銭申合」の場面です。
 なんの活動資金か、といえば、ですね。もちろん、幕府に殺されました松陰の志、一介の草莽の身でありながら、「主上御決心、後鳥羽・後醍醐両天皇の覆轍だに御厭ひ遊ばされず候はば」と天皇に迫り、幕府との戦いを辞さない覚悟で、主権を発動していただくための活動、なんですよね。松陰の村塾は、手習い塾ではなく、手習いもしないではない政治結社だったんですから。

 ところがどや顔のおにぎりおばはん、「斬ったり斬られたりのための資金ににーさまの本を使うなんて!」「にーさまなら学べというはず。村塾はどこへいったんでございますか?」(いや、あーた。先駆けとなり、殺したり死んでみせたりしないと、世の中は変えよーがない。ともかく実践せよ!というのが、あーたのにーさんの教えだから)、と妹が、まったくもって松陰を理解せず、講孟箚記になにが書かれているかもわからないで、まさに松陰の志を継ごうとしている夫の久坂にわめきちらすんですから、こんな支離滅裂な場面を見せられる方は、しらけきってしまいます。

 だいたい、ですね。
 安政の大獄の評定所の取り調べの席で、囚人の松陰が井伊大老に論戦をいどむという絶対にありえへん珍場面を捏造し、松陰が藩に武器弾薬の貸し出しまで願って老中間部詮勝を要撃しようとしたことに関して「間部さまをおいさめしようとしただけ」と大声で大嘘をつくという、これまた絶対にありえへん設定にしてしまうとは、なんなんでしょうか、いったい。
 大老が守ろうとした秩序からすれば、下っ端の陪臣風情が天下の政に首を突っ込もうとするとはおこがましいわけでして、まったくもって馬鹿馬鹿しいです。

 クライマックスがこれほどリアリティに欠けた紙芝居ですから、その大老が一介の浪士たちに暗殺されるという大事件も、雪の上に赤い椿が落ちただけの絵空事ですし、それを聞いた松陰の母親がまた、テレビで他国の大統領が暗殺されたのを見ている現代のおばはん風に、「奥方様はどねえなお気持ちだったろうか、お子様たちはどうなされたろうか」と人ごとのようにつぶやくというありえなさ。
 なんでこう、なにもかもが浮ついて、嘘っぽいんでしょう。

 そして、いよいよ久坂です。
 坂本龍馬が武市半平太の使者として萩に現れ、久坂が、「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」と記した有名な書簡を、龍馬に託す、という史実があります。
 このとき、文さんも茶でも出して龍馬に会っていた可能性は高く、相当な山場のはずなんですが、久坂を久坂たらしめていますこの書簡にはまったく触れず、久坂ぬきで龍馬が文さんにフレヘードを語って終わるんです。なんでここまで、久坂を貶めなければならないのでしょうか?
 
 おまけに、このドラマの龍馬のフレヘードの説明ときた日には。
 この話の元になった松陰の手紙には、ですね。「独立不羈三千年の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーヘードを唱へねば腹悶いやし難し」とあるわけでして、要するに「三千年の間、他国の支配を受けることなく独立を保ってきた日本が、突然、外国の支配を受けることになるのを、心ある日本人が平気で見ることができるだろうか。フランスのナポレオンのような英雄を立ち上がらせ、自由独立を唱えなければ、この苦悶をいやすことはできない」
 と、いうわけですから、この場合のフレヘード(自由)とは、他国の支配を受けない一国の自由、なんです。

 それを龍馬は、「フレヘードとは、なにものにもとらわれんということでっせ。よーわからんけど、まっことえーもんに思える。このかたっくるしい国のどこにあったろう。文さんの兄上は自由になった。フレヘードじゃき」とうっとうしく語るわけでして、いや、だから、松陰は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と、死しても魂となってこの国の独立自由を守る、という辞世の句を残したんであって、「おれ、なーんにもしばられたくないーんだあ」なんぞと、飢え死にすることのない、いまどきのニートみたいな、のんきなこといっていたわけじゃない!から。
 ほんとに、「志をもって危ないめにおーてはつまらん。握り飯を食らえさえすりゃ、あとはなにものにも束縛されんよう、小利口に立ち回れ」と、龍馬が説教しているような、脱力倦怠ありえへん珍大河です。
 握り飯を作って食って、どや顔でさけぶばかりの凡人を、映像で見て、なにが面白いでしょうか?

 で、いま現在進行中の攘夷戦です。
 久坂は攘夷戦の実践指揮官だったわけじゃないからっ!!!
 もう、ほんとに、唖然呆然のでたらめ攘夷戦です。
 以下、参考文献は防長回天史(マツノ書店版)巻4文久3年と久坂玄瑞全集です。

 だいたい、長州は藩をあげて攘夷戦をはじめたんですし、正規軍の指揮官となれるのは、毛利一門のような高身分の者だけです。
 5月10日に、瀬戸内海の入り口、海上交通の要所、下関(赤間関・馬関)で攘夷戦をやると長州藩は決めまして、しかし4月半ばの段階で、下関に陣取っていたのは、支藩・長府の兵が十数名というありさま。
 で、本藩は、赤間関海防総奉行・毛利能登に命じて、配下の寄組二千名のうち、六百名を派遣するんですね。
 しかし六百名といいましても、当初、士分は91人にすぎず、これが軽率254人を率いていましたので、あわせて345人。ただ、非戦闘員の従者や人夫を入れたら七百人あまりだった、ということなんです。
 太平に慣れ、まったく危険のない調練さえしていましたら、萩のお城下でおっとりぬくぬく暮らしていけました中から上の多くの士族たちに、やる気があったかといえば疑問でして、それに率いられた士卒たちも、上にやる気がないとなれば、命を危険にさらすのはごめんでしょう。

 しかし、そうした旧式の藩の正規軍とは別に、世子従衛となっていました改革派の若い藩士たち、そして、京都で活動していました松下村塾生を中心とする志士たちが、下関にかけつけてきます。身分の低い者が多く、他藩人もまじったこの有志たちによって光明寺党が結成され、その中心になっていたのが久坂のなのですが、これに続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族で書きました中山忠光卿が加わるんですね。儲君(後の明治天皇)の母方の叔父ですし、侍従です。
 藩庁は、光明寺党を無視できなくなり、「敵情偵察」を目的とする別働隊、ということにして、認めます。
 久坂と光明寺党は、形の上では、毛利能登配下の来島又兵衛のそのまた配下、という扱いです。

 攘夷を決行するとはどういうことか。
 旧来の藩の軍事組織は有名無実。ろくろく役に立たないことはわかりきっていますので、下級士族や卒族あがりの松陰の弟子たちが、京でやっていましたように、朝廷直属の志士として活動し、藩の古い体質を解体することになります。
 そして、コーストガードは、実質藩の管轄です。朝廷が幕府の結んだ条約を認めていないわけですから、いわば条約は批准されていませんし、朝廷の叱責によって、幕府は破約攘夷をするのだと、号令を発したんですね。
 それに従って、朝廷のために働くわけですから、久坂は、「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」と書いたその通りのことを、実践しているんですね。松陰の意志を継いで。
 そう。天皇を中心として、身分に囚われず、有能な人材を登用し、しっかりと国防に励み、諸外国の支配を受けない自由な日本を造るためには、長州は滅びてもいいんです。久坂にとっては。

 最初に現れたのが、横浜から上海へ行く途中のアメリカの商船ですが、幕府が提供した日本人の水先案内人を乗せていて、神奈川奉行から長崎奉行への手紙もあずかっているという、幕府公認の船でした。
 そこで、当然のことながら、お家大事、ことなかれ主義の総大将・毛利能登は発砲を禁じます。
 しかし、これまた当然のことながら、「中山の狂人」を頂く光明寺党が、これに納得のいこうはずがありません。

 そこへ現れたのが、長州が誇る洋式帆船・庚申丸です。総督は、小田村の実兄で、勝海舟とともに長崎でオランダ海軍伝習を受け、長州洋式海軍の生みの親となった松島剛蔵。
 このドラマ、松島剛蔵を、小田村の義母死去とコレラ流行に際して、というおおよそどーでもいいような場面にわざわざ登場させておいて、この肝心要の攘夷戦争で、なんで出してこないんですかね。
 軍事の洋式化を、大々的に推進しましたのは、先にも述べましたように周布政之助ですし、これを桂小五郎が手助けするのですが、松島剛蔵はその同志で、松島と桂は、松陰の意志を継ごうと、丙辰丸上で水戸藩有志と盟約を結んだりもしていますし、弟の小田村よりはよほど、絵になる活躍をしているんですけどねえ。

 松島剛蔵の攘夷戦につきましては、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、これ実は、アメリカ船、オランダ船との間に、フランス船にも襲いかかったことがぬけております。このフランス船のときは、陸の砲台がかなり活躍したこともありまして、このときは省いて書きました。
 実は、光明寺党は陸上で戦ったわけではなく、三戦とも、この長州の二隻の軍艦に乗り組んでいました。
 なにをしていたかって‥‥、偵察とか連絡とか以外、ほとんどなにもしていなかったと思いますよ。三戦とも砲撃戦でしたし、松島が、軍艦の砲を素人に扱わせるとは思えませんし。

 久坂は、「中山の狂人」を軍艦に閉じ込めて、直接の手出しはできない形で攘夷戦に参加させたわけでして、ものすごくかしこかったと思います。
 海軍総督の松島は、陸の総督・毛利能登の管轄外にいたようですし、久坂は、親戚で、同志の松島と心をあわせて、藩の正規軍と摩擦を起こさないよう、それでいて攘夷の実績は残せるよう、上手く光明寺党を導いたたわけですわね。
 三戦終わって、久坂は京都に攘夷の報告に行き、中山卿もぬけ、光明寺党は解散状態になったところで、上海にいたアメリカ軍艦、ワイオミング号の報復が有り、しかし、これは上陸はしませんでしたが、続いて報復にきたフランス軍艦が、陸戦隊を上陸させ、長州の旧式正規軍はぼろ負けします。

 つまり、ですね。
 負け戦の時、久坂は現場にいないんですね。
 例えいたにしましても、陸で戦ったわけもなく、乗っていた軍艦が撃沈されるだけのことです。
 陸は近いですし、おおよそ、死ぬこともありませんでした。

 で、正規軍のだらしなさに、東行高杉が下関に呼び出され、光明寺党の残されたメンバーを核として、旧式の藩の正規軍とは別の、陸の奇兵隊を編成したわけです。
 これは、久坂のような医者上がりの下級士族ではなく、れっきとした中級士族の高杉だから、正規軍藩士たちの反感を押さえて、やれたことなんですね。
 つまり長州藩の陸軍を戦える組織にする改革は、久坂から高杉にバトンタッチされたわけでして、現実の高杉と久坂は、それぞれの持ち味を生かし、役割分担をしながら、松陰の志を継いでいますのに、なんなんでしょうか、この糞ドラマはっ!!! ガキのお遊びじゃないんだからっ!!!
 
 久坂が攘夷戦の総指揮官みたいな描き方で、一人でやって一人で負けて、異国(といってもたかが上海です。長州海軍には、咸臨丸でアメリカまで航海した人材もいるというのに、です)を見た高杉が、久坂を押しのけ、たった一人の思いつきと力で奇兵隊を創設し、「久坂、おまは失敗したんやから俺の下で働けよ」と、どや顔で、嫌味ったらしく、下品にふんぞり返り、うどの大木のような能無し久坂は、負け犬となり、すねくって引きこもりになってしまう、という、どーしようもなさ。

 しかも、高杉の嫁の雅さんがまた、ありえないガキっぽさで、どや顔おにぎり文さんとともに、見るに堪えません。
 そして芸者の辰次さんは、口が血で染まっていそうな妖怪変化。

  NHKは、よほど長州が嫌いなんでしょう。ともかく、こんな気持ちの悪い久坂と高杉は、初めて見ました。史実よりもよく描こうとするのが普通ですのに、二人とも、史実そのままの方が、はるかに魅力的で、感じがいいんです。

  これじゃあ、松陰も文さんも、久坂も高杉も、雅さんも辰次さんも、楫取も松島も、周布も木戸も、みんなみんなみんな、うかばれませんわねえ。

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コメント (9)
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