珍大河『花燃ゆ』と史実◆24回「母になるために」の続きです。
花燃ゆ 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) | |
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NHK出版 |
相変わらず私、文と小田村には拒絶反応が起こりまして、すすっととばし、今回の焦点は池田屋事件のみ、です。
瀬戸康史の吉田稔麿は、このドラマでは数少ない、ぴったりのキャスティングだと思うんですね。
これまでのこのドラマでは、高杉と久坂の間をとりもつ、なあなあまあまあ係ということにつきまして、まともに描いてもらっているわけではないんですが、実際のところ、聡明で、機転が利いて、交渉力があって、という印象ですから、雰囲気としてはこうだったかな、と。
池田屋事件の研究 (講談社現代新書) | |
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講談社 |
池田屋事件につきましては、吉田稔麿のことも含めまして、中村武生氏の「池田屋事件の研究」を主な参考書とさせていただきます。以前、薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチで、すでに紹介しているのですが。いやしかし今回のシナリオライターと演出家、まさか「薄桜鬼」で池田屋事件をお勉強したんじゃないんでしょうねえ? このドラマの沖田総司、お口が血で染まったアイドル風吸血鬼ですわ!!!
えーと、池田屋事件です。
中村武生氏のご著書は、長州側から事件を探求したものです。
しかし、池田屋事件といいますと、姪の千鶴ちゃんも言っておりましたように、新撰組です。
新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫) | |
子母沢 寛 | |
中央公論社 |
祖父が幕臣だったといいます子母澤寛が、昭和3年(1928)に送り出しましたこの『新選組始末記』が、新撰組と池田屋事件を、広く世に知らしめました。
以降、多くの小説がこれを踏襲していまして、司馬遼太郎氏も新撰組を書くとき、子母澤寛のもとへ挨拶に行ったと言われます。
で、子母澤寛の描きます「池田屋事変」が史実かと言いますと、かなり創作もまじっているのですが、まったく史料を無視しているわけではなく、近藤勇が江戸の養父へ書いた手紙は、そのまま載せていますし、また、これもよく引き合いに出されます、桂小五郎(木戸孝允)の回想文(後年、明治になって書いたものです)も、原文をぬき出して載せていたりします。
この桂の回想がくせものなんです。「木戸孝允文書第八」(近代デジタルライブラリー)の197ページ、「池田屋及び蛤御門の変に関する自叙」という短い文章ですので、ご覧になってみてください。
これがなぜ問題かと言いますと、池田屋事件に関し、長州側には他にも史料がありまして、そのもっとも基本的なものが、事件当時、京都長州藩邸のトップにいた乃美織江の手記なんですが、当日の桂の行動に関して、自叙と記述が食い違うんです。
昭和12年に菊池寛が書いた「大衆維新史読本 池田屋襲撃」(青空文庫)には、「乃美の手記によると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命をひろったとなつているが、事実は違うらしい。この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州(対馬)の藩邸を訪うて、大島友之丞としばらく対談していると、市中がにわかに騒々しくなつた。何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ」
大島友之丞といいますのは、対馬藩京都藩邸の留守居役で、桂と親交があった人で、村松剛氏の醒めた炎―木戸孝允にも出てきます。
これは、中村氏によれば、明治44年(1911)、山口県出身の史家・中原邦平が「忠正公勤王事蹟」に書いていることでして、以来、池田屋事件に関します多くの著作で、踏襲されてきたんだそうです。
しかし、これまた中村氏によりますと、大島は事件の当日は江戸にいて、京にはいないとのことですし、また維新後に乃美自身が書いた手記も「桂は屋根を伝って逃れた」としていて、こちらの方が信用できる!そうなんです。
つまり、桂は後年の自叙で嘘をついた!!!ことになりますね。
池田屋へ新撰組が踏み込みましたのは、近藤勇の手紙によれば、元治元年(1864)6月5日夜四つ時頃(夜の10時半過ぎ)です。
月は、三日月と上弦の月の間で、頼りになる明かりではありませんでした。
志士たちの会合は、2階で行われていました。行灯の明かりを消してしまえば、漆黒の闇です。
一方、一階には大型の釣り行灯があって(冨成博氏著「新選組・池田屋事件顛末記」)、吹き消すことができず、かなり明るかったようでして、おそらく、なんですが、斬り合いの多くは1階で行われたようなんですね。
で、京都の地図をご覧になってみてください。
中村氏によりますと、現在の池田屋跡地の石碑の位置は、信用できないんだそうなんですけれども、それほど大きく位置がづれているわけでもないと思うんですね。
一応、現在の「海鮮茶屋 池田屋はなの舞」に昔の池田屋があったとしまして、対馬藩邸は、現在の京都ロイヤルホテルでして、ごく近いんですね。池田屋の2階の窓から逃げ出し、屋根伝いに対馬藩邸に行けたとしましたら、もっとも安全なルートだったと思われ、身体能力にすぐれた桂小五郎は、とっさの判断で、そうしたのではないでしょうか。
しかし、なんで嘘ついたんですかね?
一つには、桂本人も書いていますが、長州藩邸にいて、事件の知らせを聞いた杉山松助が桂の身を案じて、鑓を持って池田屋に駆けつけようとしたのですが、途中ではばまれて重傷を負い、長州藩邸に引き返して、落命した、ということがあります。
もう一つ、この会合は新撰組につかまった古高俊太郎奪還のためのもので、古高は長州藩の諜報活動、朝廷工作にかかわっていたキーパーソンです。したがって、長州藩京都留守居役の桂が、主催した会合であったらしいんですね。自分が逃げて、他藩の志士たちが落命したことは、生真面目な桂にとっては、慚愧に堪えない出来事であったでしょう。
長州の京都藩邸は、現在の京都ホテルオークラです。そして、長州藩邸(ホテルオークラ)と対馬藩邸(ロイヤルホテル)の間には、京都加賀藩邸があっただけ、ですので、ごく近かったのですが、中村氏によりますと、会津藩はこの夜、長州藩と戦争する覚悟を固めていまして、京都所司代の桑名、禁裏御守衛総督の一橋慶喜にも連絡がいき、出動決定。長州藩邸のまわりはすでに、一会桑の軍勢に固められていた模様なんですね。
藩邸の中は一応、治外法権ですから、対馬藩邸から動かなかった桂の用心深さは、正解だったんですが、後年「逃げの小五郎」と呼ばれた本人にしてみましたら、なにやら、みんなを見捨てて、一人で身の安全をはかったような、後ろめたい気がしまして、明治になりましてからの桂は、ノイローゼ気味でもありましたし、嘘をついて、それが本当と思いたい気分いっぱい、だったのかもしれません。
そして、吉田稔麿です。
子母沢寛は、「長州の吉田稔麿は、肩先を一太刀やられたが、幸に薄手だったので、そのまま危地を脱し、一旦、長州屋敷へ引き返して、この急を報じ、援兵を求めてから再び手槍を引き下げて、池田屋へ取って返し、裏庭で沖田総司と一騎討になったが、何しろ天才的な剣法者沖田に立ち向かっては、殆ど子供扱にされて、斃れて終った。長州の浦靱負の日記には、吉田は池田屋内ではなく加州屋敷の前で見張と戦って死んだことになっている」と、書いていますが、沖田と戦ったというのは、もちろん創作です。
稔麿に関しましては、新資料をまじえながらの中村氏の推測がほぼ正しいのでは、と感じますので、要約しますと以下のようです。
「稔麿は、池田屋での会合の世話係だったので、事前に池田屋に出向いて準備をしたが、会合に参加する予定はなく、新撰組が踏み込む前に長州藩邸に帰っていた。そこへ、新撰組池田屋襲撃の報が入り、駆けつけようとしたところが、加賀藩邸の前で、長州藩邸を包囲する一会桑どこかの軍勢にぶつかり、戦って死んだ」
池田屋に駆けつけようとした理由としましては、やはり、杉山松助に同じく、桂小五郎の身を案じて、ということがもっとも考えられまして、どうも、杉山と一緒だった、というような資料もあるみたいですね。
このドラマ、杉山は出してませんし、桂小五郎は、なんとも中途半端に、一階にいて会合の席にはおらず逃げおおせた、ことにしてしまっています。
どーせ、逃げの小五郎説をとるんでしたら、二階暗闇での派手な立ち回りをへて、窓から屋根へ、鼠小僧のような身軽さで遁走させた方が、見応えがあったでしょうに。とはいいますものの、東山の桂では、老けすぎで、似合いそうもないですけどねえ。
このとき、史実の桂は31、2ですのに、東山では、西南戦争の知らせを聞いて悶えながら死ぬ直前の木戸さん、としか思えません。
で、稔麿です。
彼に関しても、実に中途半端に、史実を使っています。
まあ、加賀藩邸の前で、一会桑、どこかの軍勢と戦って斃れた、ということだけは確かですから、それを生かす手ももちろんありか、と思うのですが、だとすれば、以下の点をちゃんと描写すべきでしょう。
池田屋の会合人数は現実には10人ちょっとで、けっして多くはなく、長州屋敷には、長州藩士、浪士含めておよそ百人近くがいて、一会桑の包囲を受け、全員討ち死にを覚悟したほどの事態だったこと。一会桑の出動は遅れましたが、各所で浪士狩りを行い、洛中は騒乱状態だったこと、です。
ドラマでは、一応、長州屋敷は出していましたが、下宿屋に居候が群れているだけ、みたいな緊迫感のなさ。
長州側も新撰組も、クラブ活動対外試合じゃないんだからっ!!!です。
私、実は「花神」はほとんど見ていないのですが、池田屋事変の動画をさがしていたら、これが出てきました。
池田屋騒動
昔の大河ドラマは、すごいですっ!!!
内容がほとんど創作だって、そんなことは忘れて見入ってしまいました。迫力に圧倒されますね。
この緊迫感があればこそ、戦った双方の情が、かけがえのないものに思えてくるのではないでしょうか。
えーと、稔麿につきましては、このとき、朝陽丸事件に関する交渉のため、江戸へ行く直前だったのではないかと中村氏は推測しておられます。
朝陽丸につきましては、 近藤長次郎とライアンの娘 vol10に書いております。私にとりましては、このとき朝陽丸の艦長だった甲賀源吾から入った事件なのですが、いまだに、よく理解できておりませんで、今回、スルーさせていただきます。
王政復古への道 (原口清著作集) | |
原口 清 | |
岩田書院 |
原口清氏の「王政復古への道」収録、「禁門の変の一考察」は、すぐれた論文なのですが、私、このたび初めてじっくりと読みまして、馬鹿なものですから、要約するにはもう少し読み込む必要があります。
とりあえず、参考にさせていただきながら、他の論文などもまじえつつ、幕末という時代を俯瞰しますと。
幕末の動乱は、日米修好通商条約の締結をめぐります、幕府と朝廷のボタンのかけちがいに始まります。
将軍継承者問題が同時に起こり、糸がもつれて、安政の大獄となりましたことから、孝明天皇、そして摂関家から下級官吏にいたるまで、かなりの数の公家が攘夷に傾き、反幕感情を抱きます。
桜田門外の変で井伊大老は、水戸と薩摩の浪士に暗殺され、幕府の権威は傾きますが、しかし、幕藩体制はまだ変化を見せません。
文久2年(1862年)春、薩摩の島津久光が、朝幕間に立っての国政改革を志し、一千名の兵を率いての上京を果たします。
このとき、国父久光の意志とは別に、薩摩藩の有志は、長州藩、そして他藩有志との連携を模索しつつ、京都所司代を襲う計画(伏見義挙)を企てていました。
完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族に書いておりますが、この計画には、中山家の家司・田中河内介がかかわり、公子も関係していた形跡があります。
孝明天皇は、島津家と婚姻関係にあります近衛家への信頼もあり、一千名の兵で幕府を圧倒してくれる久光を、心より歓迎するのですが、一方、京に集結し始めました諸藩志士たちの策動には、嫌悪を示され、久光に鎮圧を依頼されました。
久光は自藩有志を寺田屋で上意討ちにし、寺田屋にいた他藩有志は所属藩に引き渡し、田中河内介は暗殺してしまうわけです。
久光のこの乱暴な手法は以降も続き、京都薩摩藩邸の留守居役は、長州で義挙に参加するはずだった久坂玄瑞他の元松下村塾門下、武市半平太を中心とする土佐勤王党と連絡を持ちつつ、近衛家の依頼を受けて、安政の大獄の恨みを晴らす天誅の口火をきりました。
孝明天皇の厚い信頼を受けながら、しかし京の情勢は、久光の思うようにはならず、多数の中下級公家が、長州と土佐勤王党など尊攘激派の支持の元に策動し、しかも久光が江戸で幕政改革を果たした帰り道には、生麦事件が起こって、薩英戦争に踏み切らざるをえなくなります。
幕府の勢力が目に見えて衰えるにつけ、それは幕藩体制の衰えでもありますから、朝廷におきましても、それまで権力が集中しておりました摂関家は統率力をなくし、下級の公家や官吏が長州、土佐を中心とします志士たちと結んで、活発に動き出したことが、大きな結果を生んでいくんですね。
薩摩が薩英戦争を戦うために、京都を空にしていた間に、珍大河『花燃ゆ』と史実◆23回「夫の告白」に出てきました大和行幸になるわけなんですが、結局、孝明天皇は、自分から望んだわけでもない勅が出るのがお嫌で、信頼する薩摩藩にクーデターを依頼なさり、薩英戦争のために軍勢のない薩摩藩は、会津を誘うわけです。
この年の春、三条実美は京都御守衛御用掛となり、朝廷の兵力として各藩が出しました御守衛兵一千を統率し、また彼ら過激派公卿が連携する長州藩は、二千の兵を滞京させていましたから、合計三千の兵をバックに、孝明天皇に圧力をかけることができていたんです。
孝明天皇は、攘夷そのものがお嫌だったわけではなく、騒乱と中下級の公家が策動する秩序の乱れがお嫌でした。
えーと。
ドラマはこのまま、禁門の変に突入して、冴えないままに久坂玄瑞は世を去る勢いですが、長くなりましたのでまたもや、辰路さんと養子の件は、次回へまわします。
なお、昨夜、同窓会がありまして、実はそこに、同窓の安倍派国会議員の方が出席しておられました。
私、なにげに遠回しに、「安倍さんの地元・長州の幕末史をNHKが最低最悪に貶めていますが、安倍さんはどう受け止めておられますか」 と聞いてみたのですが、「安倍さんはそんなことを気にするほど暇じゃない」とのことでした(笑)
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