郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保

2007年03月03日 | フリーメーソン・理神論と幕末
えーと、本日はもしかして、江戸は極楽である の続きだったりします。
どこが続きかって………、明治4年(1871)暮れから明治6年にわたって、欧米をまわった岩倉使節団における、もめ事の話だからです。幕末維新の天皇と憲法のはざま半神ではない、人としての天皇を で、少しだけ触れましたように、留守政府ももめましたが、使節団ももめました。

もっとも、台風の目は、使節団員ではない、駐米公使(正確には初代少辮務使)森有礼だったんです。
江戸は極楽であるで触れました吉田清成との喧嘩はすさまじいもので、吉田の起債を邪魔するために、あらゆる手をつくし、ついに吉田はアメリカでの公債をあきらめ、イギリスで起債することになります。しかし、森有礼は、イギリスにまで手をのばして、邪魔しようとしたんです。
いえ、あのー、つい数年前、パリで薩摩藩は幕府の起債をモンブラン伯を使って妨げましたし、留学生としてイギリスにいて、ある程度はその経緯を知っているだろう森有礼と吉田清成なんですが、えーと、もう幕府は倒れていまして。
森有礼は明治新政府から派遣された公使で、吉田清成個人が起債しようとしているわけではなく、明治新政府が起債しようとしているんです。
これは、木戸孝允でなくとも、あきれますよね。

木戸が、森有礼に激しい怒りを覚えていたのは、それだけが原因ではないんです。
幕府が欧米各国と結んだ不平等条約の改正は、明治新政府の悲願でした。明治5年(1872)から改正交渉に入ることになっていたため、岩倉使節団は派遣されたのですが、現在では、改正するための国内法の準備が進んでいないので延期交渉をするためだったのではないか、といわれているそうです。
少なくとも、岩倉使節団が、直ちに本格的な改正交渉をするつもりがなかったことは確かなのですが、森有礼は、アメリカ政府はただちに日本側に有利な改正に応じる可能性がある、というような幻想を抱きまして、使節団の伊藤博文は、その説に心酔するんですね。
それで、本交渉をするつもりならば全権委任状が必要だとアメリカ側に指摘され、大久保利通と伊藤博文が日本へ取りに帰り、その間、使節団はアメリカに足止めされます。
しかし、結局、アメリカ側の思惑は、かならずしも日本側の立場に譲歩したものではなく、大久保と伊藤がアメリカに帰りつく前に、交渉は暗礁に乗り上げていました。
森有礼のアメリカ幻想にふりまわされ、しかもそれに子分の伊藤博文が心酔しているとなりますと、まあ、木戸にしてみれば、おもしろかろうはずもありません。
しかも、その心酔の仕方が、です。『醒めた炎 木戸孝允〈4〉』によれば、どうも、「キリスト教を国教にする」という話が中心であったらしいのです。使節団にいた土佐出身の佐々木高行の日記に、「耶蘇教国ならずては、とても条約改正も望みなく、かつ日本の独立もむつかしくと伊藤などは信じたるなり」と、あるんだそうです。

『青木周蔵自伝』

平凡社

このアイテムの詳細を見る


これは、長州出身で、当時ドイツに留学していた青木周三の後年の回顧録なんですが、これを見ますと、佐々木高行が、簡単に記していた問題が、詳しく記されています。
当時ベルリンで政治学を学んでいた青木は、木戸にロンドンまで呼び出されて、質問されたのだそうです。以下、引用です。

木戸翁は予に問いて曰く
「欧米人は何故に彼の如く宗教に熱心なるや。予の如きは、仏教以外他の宗教の真意を知らざるのみならず、従前予等の学問は孔孟(儒教)を主としたれば、仏教と雖も、現世と未来にわたる勧善懲悪の意味以外、果たして別に高尚なる教義の存するや否やも、なおかつ解する能はざるなり。そもそも西人(西洋人)の尊信する宗教は素といかなるものなりや。足下、もし知る所あらば幸いに語るべし」
と。予答へて曰く
「本件たる、ほとんど天地を震動せしむる大問題あり。不肖、欧州に留学せし以来、欧人の宗教に熱心なるを目睹として多大の疑惑を生ぜしにより、某宗教家ついてキリスト教教典の講義を聞き、また、あるインドの学者について多少仏教の教義に関しても聞知する所有り。しかれども未だいづれに関してもその堂奥に達せざるをもって、なんら参考に資すべき説なし」

と、まあ、問答が始まるのですが、要するに、理神論的な宗教を知らない日本人である木戸には、欧米人が宗教熱心であるのが不思議で、「欧米では、宗教にはどういう高級な理論があるといっているのか」と、同じ長州の青木に、聞いたんですね。
後年の回顧録ですから、どこまで正確かはわかりませんが、さすがは松蔭を生んだ長州人の会話です。
この二人のやりとりでわかることは、結局、理神論的な普遍性を持つ一神教的な神、つまりモンブラン伯の日本観に引用しましたシュリーマンのように、ですね、「宗教……キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なこと」が、文明の根底にあるべきだ、とする欧米人の考え方が、当時の日本の知識人には、さっぱりわけがわからなかった、ということでしょう。
といいますか、現在でも、果たしてわかるんですかね。まあ、知識人ではないんですけど、少なくとも私も、木戸と同じで、さっぱりわかりません。
そして、仏教にしろ、青木周蔵が欧州で勉強した、と言っていますように、日本の仏教は、別に普遍性のある一神教的な神、を呈示するものではありませんし、おそらくインドでも他の地域でも、そういう近代的理念に適合する仏教は、西洋近代に接触した刺激から生まれた、といってもいいんじゃないんでしょうか。といいますか、そもそも西洋人が、発見したものでしょう。
イスラム教については、ユダヤ教とともに、もともと根がキリスト教と同じですので、西洋近代の側でも、理念にくるみやすかったとは思うんですが、それにしても、現実の信仰の形は、その理念をはじくものであった、といえるような気がします。

話をもとにもどします。さらなる木戸の求めに応じ、青木は、キリスト教と西欧文明の関係を、木戸に説明します。青木がごく簡単に要約したものを、ひらたく述べますと、以下です。
「ギリシャ、ローマには一神教が存在しなかったので、物質的には繁栄したが、キリスト教の高尚な理念を理解することなく、堕落、退廃したままで滅んだ。キリスト教が、暗愚だった欧州に光をもたらし、崇神、正心、博愛的な道徳をもって、文明に導いたわけです。仏教というのは、老荘思想(儒教の中で仏教に近いもの)のように巧みな議論のみの虚無的なものではなく、哲学的で、広大無辺の思想です。しかし、バラモン教の輪廻の思想が入り込んでいて、涅槃の境地などというのは、人間の生産的な活動を妨げる趣もあります。したがって、私はキリスト教がすぐれていると思いますね」
青木はこの回顧録を書いたころには、キリスト教徒になっています。もっとも、木戸に話をしている時点では、そうではないのですけどね。

続いて木戸が聞きます。
「しからば足下は、われら日本人もまた、キリスト教を信じる必要ありとするか」
青木の答えの大意は、こうです。
「今現在、かならずしもそう言ってしまうことはできないのですが、白人だろうが黄色人種だろうが、人たるもの、なんらかの宗教を信じる必要があります。学問の要は、理論を極めることであって、それは手段であり、人がよりよく生き、国をよりよく治めるための支柱にはなりません。宗教は必要でしょう」
さらに木戸が問います。
「われわれはアメリカで条約改正を提議したが、アメリカ政府は、日本のような無宗教の国、あるいはキリスト教を信じていない国と平等の条約を締結して、日本の法律や裁判官に、日本にいるアメリカ人を任せるのは危険だと、提議をしりぞけた。有力なアメリカ人にも、条約改正を望むなら日本はキリスト教を国教にするべきだ、と熱心に言う者がいた。それを聞いて、われらの一行の中には、この事情を陛下に申し上げてまず陛下にご入信いただき、高官がみなこれに習えば、国民もすべて改宗するだろう、なんぞと言う者がいるんだが、どう思う?」
青木が答えます。
「もし、本当にそんなことを実行するという話ならば、忠告します。欧州では、キリスト教宗派の争いで、悲惨な内戦を経てきています。その苦い経験から、最近の各国憲法では、信仰の自由をうたっているんです。政略的改宗などといっても、国民がそんなことを納得するはずがありません。内乱が起こります」
この場には、伊藤博文がいたのですが、木戸は、この青木の言葉を待っていたように、「おまえが日頃言っていることと、青木くんのいうことはちがうじゃないか」と、伊藤を怒鳴りつけて怒ったというのです。

この青木の回顧録を読んでいますと、青木の言い分の方がまともですし、理屈が通っているんですが、ほんとうに、ここまで単純に、伊藤博文がキリスト教を国教にしよう、というようなことを言っていたのでしょうか。
青木も、最初の問答では、理神論的な信仰が文明開化には必要だと言っていますし、しかも、その信仰は、キリスト教であるべきだ、というように述べているんです。ただ、それを国教にするとなると問題だ、ということで、信仰の自由の話になるのですが、それくらいの筋道は、伊藤にもわかっていただろうと思うのです。
あるいは伊藤にとっては、宗教は衣装のようなもので、現実に天皇陛下に洋装をお願いし、官員も洋装になったのだから、理神論的な信仰が必要だというのならば、そんなものは日本にはないのだから、キリスト教の導入がてっとり早かろう、という気分で、しゃべりまわったのかも、しれませんね。
この子分の軽薄さが、ただでさえ、森有礼や吉田清成や、無神経に海外で大喧嘩をする薩摩人にうんざりしていた木戸さんにとって、がまんの限界を超えて、癇に障ったのでしょう。

そんなわけで、親分のご不興にむっとした伊藤は、大久保利通になつきます。それがまた、木戸さんの気に障るのですが。
しかし、大久保はなにを考えていたのでしょうか。森有礼のしたことに、もっとも腹を立ててしかるべきは、同じ薩摩人の大久保でありそうなものですが、あまり、そんな様子もみえません。
外交という分野は、これまで、大久保は薩摩藩時代にも体験していませんから、口を出せなかった、というのもあるかもしれませんが、「若者(ニセ)どんの暴走と失敗は成長の肥やし」くらいに、高をくくっていた気がしないでもないんです。実際、後に大久保は、台湾出兵の際の清との交渉に森有礼を使い、見事に成功しています。

そして、キリスト教の国教化の話、ですね。
はっきり言って、木戸は、神経を昂ぶらせすぎだったでしょう。
伊藤博文の説は、森有礼の影響だと思われます。現実に森は、アメリカの有識者に、日本の教育についての助言を求めているのですが、当時のアメリカの有識者というのは、プロテスタントの牧師が多いですし、かなりの人数が、「日本におけるキリスト教の国教化」を提言しているんです。
しかし、いくら伊藤や森が外国で叫んでみても、現実に当時の日本で、そんなことが可能なはずがないんです。
そして、伊藤博文にしろ森有礼にしろ、事の本質を見ていないわけでは、ありません。
むしろ、イギリスの王制がイギリス国教会にささえられている現実を見て、幕末維新の天皇と憲法のはざま半神ではない、人としての天皇を で書きましたように、半神ではなくなった天皇の新しい権威に思をめぐらしていた大久保にとっては、森や伊藤が持ち出すキリスト教の方が、日本的な儒教道徳よりも、はるかに頷けるものだったでしょう。

といいますのも、日本の武家的な儒教道徳は、かならずしも天皇に絶対の権威を約束するものではなかったからです。
例えば、陽明学からきているといわれる、西郷隆盛の「敬天愛人」ですけれども、「道は天然自然のもの、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て、人を愛するなり」とあります。
「人の道の道理というものは、天然自然に存在するものであり、天を敬うことを目的として、行うべきものである。天は、他の人間にも自分にも、同等な愛を与えてくれるものなのだから、自分を愛すると同じように、他人も愛するべきである」というのですから、この西郷が言うところの「天」とは、理神論的な神の概念にかなり近いものではありますし、近代国家の道徳をささえるに十分なものなのです。
ただ、革命は死に至るオプティミズムか に出てきました孟子の言葉に、「民を貴しとなす。社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」とありますように、天皇もまた人の子であられるのならば、天命の下にあり、人の道には従わなければいけない、というのが基本ですから、君主の絶対的権威を保証するものではありません。
現実に、半神ではない、人としての天皇を でご紹介しました小田為綱は、廃帝の規定を考えていますよね。
日本的なキリスト教者を志した内村鑑三が、西郷隆盛に心酔していたのも、ゆえのないことではないんです。
あるいは、日本的な道徳規範として、武士道をアメリカに紹介した新渡戸稲造を想起してもいいでしょう。

「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」という大久保の信念は、イギリス的な王権をささえるキリスト教のかわりに、「万世一系」の国体論に守られた天皇の大権を、という置き換え論から、導かれたものともいえ、それはすでに、森有礼や吉田清成などの欧米体験談から、組み立てられていたのではないでしょうか。

明治21年(1888)5月8日、枢密院における憲法草案の審議において、伊藤博文はこう述べています。
「歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ浸潤シテ、人心此ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ國家ノ機軸タルヘキモノナシ。佛教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ、上下ノ人心ヲ繋キタルモ、今日ニ至テハ巳ニ衰替ニ傾キタリ。神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖、宗教トシテ人心ヲ歸向セシムルノ力ニ乏シ。我國ニ在テ機軸トスヘキハ、獨リ皇室アルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ專ラ意ヲ此點ニ用ヒ、君憲ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサラン事ヲ勉メリ」
ひらたくいって、こういうことでしょう。
「欧州においては、憲政に歴史があるとともに、宗教がこの基軸をなしているので、人心がまとまっている。しかし、わが国においては、宗教の力が微弱で、仏教にしろ神道にしろ国家の基軸にはなりえない。わが国の基軸となるのは、皇室しかない。したがって、この憲法草案においては、天皇大権を中心にすえ、これに束縛がくわわらないよう勉めた」

これは、大久保利通が明治6年に意図したところと、ほとんど変わらないでしょう。
伊藤内閣において、森有礼は文部大臣となり、「国家公共ノ福利」を教育の柱とし、国家主義的な教育施策を展開したため、「変節か」といわれたりもしますが、まったくもって、変節ではありません。
キリスト教の理神論的な神のかわりに、天皇大権を置き、その絶対の権威のもとに国民の道徳意識を確立する、という大久保の国家観は、森有礼のキリスト教受容と、かならずしも矛盾するものではなかったはずです。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇書生ロニーはフリーメーソンだった!

2007年03月01日 | フリーメーソン・理神論と幕末
本日は、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい の続きなんですが、後半で、グラバーは坂本龍馬の黒幕か? にも続きます。

あー、またまた、いつものお方が、すごい資料を送ってくださったんです!
大東文化大学紀要に載った大蔵親志著「レオン・ド・ロニー研究 フリーメーソンとしての活躍」です。

私が初めてレオン・ド・ロニーに関心を抱いたのは、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く〈1〉』です。
物語の冒頭、明治5年(1872)、パリへ警察制度の視察に赴く、薩摩出身の川路利良が描かれます。
で、一行がパリに着いてまもなく、「羅尼(ロニー)」と名乗るフランス人の若者が、ホテルに現れます。司馬氏によれば、「日本きちがいだという。日本語を勉強し、パリで日本語塾をひらいているが、生徒はほとんど来ないようであった」ということで、さらに「極貧で、偏屈者で、母親孝行だが女嫌いの奇書生」。川路の第一印象は、「暗か若者(ニセ)じゃな」だが、「稚児好きの他の薩摩モンにみせれば食指の動く感じかもしれない」。

もう、なんといいますか………、この人いったい何者???と、好奇心をそそられる描写ではありませんか。
それで、幕末の幕府フランス使節団や留学生関係の本を読み返してみましたら、このレオン・ド・ロニー、かならず現れるのですが、説明は簡略です。例えば、大塚孝明著『薩摩藩英国留学生』では、以下の通り。

フランス人「ロニー」というのは、幕末対仏交渉関係の文献にも時折その名の見える人物で、当時、同国では著名な日本人学者であった。1837年4月の生れであるから、この時、弱冠28歳、留学生たちとは、ほぼ同年配ということになる。
若くして有名な東洋学者ジュリアンに中国語を学び、次いで東洋語学校で日本語を専攻、日本に非常な興味を抱き、日本語を話し、また日本文字をうまく書きこなしたと伝えられる。

さらに同書によれば、文久2年(1862)、竹内保徳を正使とする幕府の第一回遣欧使節団来仏の折には、フランス政府からその語学力を買われて、通訳官として接待にあたったんだそうなんです。
となれば、『翔ぶが如く』の司馬氏のロニーに関する記述は、かなりな部分が創作であることになります。なにしろ、竹内使節団来仏当時のロニーは少年で、使節団の堂々とした姿に「未知の文明」を見て、日本学を志した、としているんですから。
頭痛がしてきました。しかし、司馬氏の描くロニーは、魅力的です。

付け加えます。もう少し詳しいロニーの記述を見ていたはずなんですが、なにで見たか思い出せないでいたところ、検索をかけましたら、上智大学のHPに、佐藤文樹氏の詳細な論文がありました! レオン・ド・ロニー : フランスにおける日本研究の先駆者
第二回遣欧使節団の池田筑後守が書きました復命書に、ロニーについて「家産寒貧、老母奉養之暇読書三昧」とあるのと、栗本鋤雲の書き残したものに「ロニー歳二〇余、一個の奇書生なり、家至って貧なれとも産を治めず。母に事へすこぶる孝なり」とありまして、司馬氏は作中に栗本鋤雲の名を出していますから、元になさったのは鋤雲の『暁窓追録』みたいですね。
佐藤文樹氏の論文では、最初の竹内使節団以来、フランス政府に用いられなかった、という点が興味深いところです。

それはともかく、です。幕末、日本人がパリへ来るたびに、いえ、薩摩留学生のときなどは、ロンドンまで足をのばして、ロニーは日本人に会うのですが、モンブラン伯爵と連携している様子がうかがえるのです。
で、普仏戦争後の明治6年(1873)には、ロニーとモンブラン伯爵は、パリにおいて、日本文化研究協会を作り、初代会長はロニーが、明治8年(1875)からの二代目はモンブラン伯爵が務めています。
モンブラン伯爵はフリーメーソンか? で、私は西周などとの関係から、モンブラン伯がフリーメーソンであった可能性が高そうに思えた、と書きましたが、そうであったとすれば、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい で述べましたように、日本学におけるオランダのライデン大学との関係から、あるいは、レオン・ド・ロニーもフリーメーソン? と、考えたのですが、やはりそうだったようです。

大蔵親志氏によれば、ロニーの父親は、北フランスのバレンシアで生まれ、フリーメーソンとなり、共和主義者だったため、ナポレオン三世のクーデターで、イギリスへの亡命を余儀なくされたんだそうです。
ロニーは、父親のパリの友人(やはりフリーメーソン)に預けられ、10代のころから日本語研究と東洋研究に打ち込み、1856年、弱冠20歳でヨーロッパ初の日本語研究書『日本語研究叙説』を出版したんだそうです。
パリ・コミューン時には、コミューン側の新聞発行にかかわっていますので、あきらかに共和主義者ですが、穏健派だったのでしょう。追放などの憂き目にはあっていません。
先に、フランス政府に用いられなかった旨、書きましたが、共和主義者であったという、政治的経歴が忌諱されたのでは、という気がします。
なお、ロニーに会った日本人は独身と思いこんでいたようで、佐藤氏もそう書かれていますが、この大蔵氏の論文では、1891年(明治24年)に21歳の長女を亡くしていますから、少なくとも明治初年ころには、結婚していたことになります。

さらに大蔵親志氏は、モンブラン伯爵がベルギーのフリーメーソンであったと、されています。
幕末の駐日フランス公使だったレオン・ロッシュもパリのフリーメーソン、グラバーはスコットランドのフリーメーソン、東北列藩同盟に武器を売っていたエドワルド・スネルはプロシャのフリーメーソン、なんだそうです。

ところで、グラバーは坂本龍馬の黒幕か?で書きました、加治 将一の本を初めて読みました。

『あやつられた龍馬 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』

祥伝社

このアイテムの詳細を見る


いや、まあ、話をおもしろおかしくしようとなさっているんでしょうけど、こじつけもここまできますと………。
といいますか、アーネスト・サトーがフリーメーソンのエージェントで、なんで中岡慎太郎と陸援隊が龍馬暗殺の主犯???
なんかもう………、あきれてものも言えません。
イギリスの陰謀で明治維新がなった、と大まじめな推理小説仕立てにされるよりは、モンブラン伯王政復古黒幕説 で書きました、鹿島茂氏の『妖人白山伯』の方が、はるかに面白いですね。いえ、くらべること自体、鹿島氏に失礼なんですが。鹿島氏は、あきらかにパロディになさっていますから、私が楽しめなかったのは、おそらく、私の好みの問題でして。

ただ一つ、この本で有益だったのは、オランダ東インド会社の社員として来日し、長崎のオランダ商館長を務めて、日本に関する著作を多く残したティチング(Issac Titsingh)が、フリーメーソンだったという話。
日本フリーメイスン のページにも載っていますし、ライデン大学の日本学、そしてパリの日本学、という幕末の流れを考えますと、ヨーロッパにおける日本学へのフリーメーソンの貢献、という面で、注目されます。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがい

2007年02月26日 | フリーメーソン・理神論と幕末
えーと、またまたフリーメーソンです。昨日のモンブラン伯爵はフリーメーソンか?に続きます。
ネットの情報のみしか知りませんで、しかもそのネット情報でも、現実に確証はないそうなんですが、トーマス・ブレーク・グラバーがフリーメーソンだったのではないか、と言われますと、そうだったかもしれないな、と思います。長崎のグラバー邸には、フリーメイソンのシンボルの入った門があるそうですし。
どうも龍馬との関係で、グラバーのフリーメーソン説は話題にのぼっているようなんですが、薩摩密航留学生をイギリスに送り出した貿易商、グラバーです。ちなみに、長州ファイブは、グラバーの世話ではなく、横浜のジャーデン・マセソン商会の世話だそうです。
このグラバー、モンブラン伯とは犬猿の仲でした。去年、モンブラン伯とグラバーに書いたのですが、グラバーはモンブラン伯について、「非常に嫌な奴でありました。自分は大分彼の邪魔をしてやりました。西洋の言葉で申すと棺に釘を打ってやったのです」とまで言っています。

しかし、ネット上に氾濫するグラバーの陰謀説も、いかがなものか、と思います。維新がなって、グラバーは破産してますし。詳しくは、杉山 伸也著『明治維新とイギリス商人 トマス・グラバーの生涯』がお勧めです。
グラバーといい、グラバーやジャーデン・マセソン商会から引き継いで、イギリスで長州や薩摩の留学生の面倒をみたローレンス・オリファント(江戸は極楽である参照)といい、「日本人を文明に導く手伝いをしたい」といった親切を感じますし、そういった親切といいますか、彼らなりの善意は、フリーメーソンの理神論と博愛の精神、あるいはそれに類似した思想、に導かれたものでしょう。

ところで、そのオリファントの影響を強く受けた森有礼が、です。モンブラン伯を、非常に悪く言っているのですね。これは、そういう書簡が残っております。
薩摩をめぐって、モンブランとグラバーが商売の綱引きをしているような関係もありますし、利害は当然ありえると思うのですけれども、例え同じフリーメーソンでも、イギリスとフランスのちがいがかなりあるのではないか、という気もします。
昨日の『宗教VS.国家』でも、そのちがいはある程度わかったのですが、もう少し系統だててフリーメーソンの英仏のちがいを知りたい、ということで、これです。

フリーメーソン

創元社

このアイテムの詳細を見る


かなりうまく、フリーメーソンの歴史がまとめられた本だと思います。
そもそも近代フリーメーソンは、モンテスキューなどの啓蒙思想に誘発され、イギリスで生まれた、上流知識人のサロン的結社でした。
会員の絆は、理神論………、えーと、つまり『すべての人間が同意できる宗教』なんだそうで、当時の実態としては、キリスト教の宗派に関係のない、普遍的な神、ですね。「神は天地を創造したが、その後は人間世界に恣意的に介入することなく、自然に内在する合理的な法に基づいてのみ宇宙を統治する」というのですから、一神教的的ではありますが、寛容で、理知的な信仰と、友愛精神です。
アメリカに伝わったのは、このイギリスのフリーメーソンで、昨日書きましたように、今なお、なんらかの信仰(仏教でもイスラム教でもいいそうですが、神道でもいいんですかね? おそらく、普遍的な宗教じゃなければだめなんじゃないでしょうか)が、入会の条件です。

ところが、これがフランスに入ると、少々、様相がちがってきます。
イギリスはイギリス国教会が大多数ですし、これは、国家が管理する宗教です。その次に多いのがプロテスタントで、プロテスタントは、そもそも理神論的な要素を持って生まれ、近代国家と衝突するものでは、なかったんです。
一方フランスは、圧倒的にカトリック教徒が多い国です。カトリックにはローマ教皇の存在がありますし、教会も修道院も、国家に管理されることなく、存在してきたものです。
またカトリックは、古い宗教であるだけに、ですね、土俗的な(普遍的ではない、ローカルな)宗教の要素を取り込んでいて、聖人遺物崇拝だとか、迷信じみた、言い方をかえるならば神秘的な要素を持っていて、理神論とは、折り合わない部分もありました。
それが、18世紀にフランスに入った当初は、神秘主義的な傾向となって現れるのですが、やがて、反カトリック、といいますか、反教皇権的傾向をおび、無神論をまで、許容するに至ることになります。
ここらへんの事情は、以下の別冊宝島233の記事にも、詳しく出てきます。


日本ロッジ元グランド・マスター・ロングインタビュー ベールを脱いだ日本のフリーメーソンたち
今日においてなお歴史的評価が難しいのは、イギリスの次にグランド・ロッジが成立したフランスのメーソンリーであろう。世界史の展開に深く、しかも劇的に関わったという点では、フランスのメーソンたちは、本家イギリスのメーソンをしのぐ。オルレアン公フィリップ、ヴォルテール、ミラボー、ロベスピエール、ラファイエット、モンテスキュー、ディドロ等々、フランス革命の名だたる立役者がフリーメーソンであったことはまぎれもない史実である。
ここで注意を要するのは、1771年(73年という説もある)にフランス・グランド・ロッジから独立する形で創設されたグラントリアン(大東社)である。日本において公刊されているフリーメーソンリーの研究書は、ほとんどがこのグラントリアンと、イギリスに誕生した「正統」フリーメーソンリーとを並列するか、あるいは曖昧に混同して記述している。しかし、イギリス系はすでに述べてきたように、教会と王権の支配を相対化したものの、「至高存在」と王政を否定しはしなかった。それに対し、グラントリアンは実際、急進的な啓蒙主義の影響を受けて、「至高存在」に対する尊崇を排し、無神論的な政治結社になっていく。明らかに両者は、ある時期から別種の思想を報じる別種の団体となっていったのである。もっとも、英米系と大陸系メーソンリーが混同されがちなのは、仕方がないところもある。本家のイギリス系メーソンリーが、グラントリアンに対する承認を取り消し、絶縁を宣告したのは、フランス革命勃発から約80年後の1868年のことである。


イギリスとフランスのフリーメーソンが断絶した1868年というのは、明治元年のことです。
ちなみに、この3年後のパリ・コミューンでは、コミューン側に多数のフリーメーソンが、個人的に参加していたりもしていまして、無神論もごく普通であったわけです。
モンブラン伯爵が、はたして無神論者であったかどうかはわかりませんが、そうであった可能性が、高そうに思えます。昨日見ましたように、当時のフランスの上流、中流家庭では、男は無神論者で、女は熱心なカトリック信者、というのも、けっこうあったりしたようなのですから。
あるいは、無神論者、とはっきりしてはいなくても、日本の葬式仏教的な、冠婚葬祭のみカトリック、という形式的な信仰が、はびこってもいたようなのです。
宗教に対する態度が、イギリス人とはちがったわけなのですね。
とすれば、たとえオリファントとモンブラン伯がともにフリーメーソンであったにしましても(あるいはなかったにしましても、ですが)、理神論に忠実な、といいますか、むしろ熱心な理神論的キリスト教信者であるオリファントから見て、モンブラン伯爵が信用のおける人間に見えるはずもないでしょう。

ところで、このイギリスとフランスの宗教観をくらべてみましたとき、どちらの宗教観が日本に近いか、といえば、フランスです。
モンブラン伯の日本観にしろ、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に出てきますM・ド・モージュ侯爵の来日観察にしろ、フランスの知識人がかなり正確な日本への認識を持ち得たのは、そういう宗教観もあったのではないか、と思うのです。
下の、近代古典学の成立、2.近代古典学の草創 をご覧になってみてください。


新しい価値観の確立と古典学研究所の設置について
産業革命を経、フランス革命をなし遂げた18世紀末の西洋が開始した古典研究は、科学と合理主義を旗印とし、堅固な文献学的手法に拠る点において、縦前のものと質的に異なったものとなった。
 先ずこのような近代古典学の中心となったのは、パリである。コレージュ・ド・フランスには、中国学(1814年、初代教授レミュザ)、インド学(1814年、初代教授シェジ)、エジプト学(1831年、初代教授シャンポリオン)の講座が次々に創設され、アジア学会(パリ・1822年)も設立された。
 これに刺激を受け、ヨーロッパ各国に古典学の講座が設けられ、また王立アジア学会(ロンドン・1823年)、アメリカ東洋学会(1842年)、ドイツ東洋学会(1847年)等の学会が創立された。
 王立アジア学会は1857年にアッシリア学を認定した。
 日本学は、関係の深かったオランダにおいてはJ.J.ホフマンが1835年にライデン大学教授となり、パリ東洋語学校ではレオン・ド・ロニーが1863年以来講じ始めた。
 後者は第1回国際東洋学者会議(1873年・パリ)では会長となって会議を差配し、議事録の3分の1を日本学関係の論文が占めた。


パリで花開いたアジア学を、オリエンタリズムの産物である、と決めつけることはできないでしょう。
普遍性の根底に宗教を置かない、ということは、他の文明を文明として認める、第一歩であるからです。
パリ東洋語学校の学者であるレオン・ド・ロニーは、モンブラン伯爵と行動をともにしていることが多く、パリの日本学は、おそらく、フリーメーソンのつながりで、オランダのライデン大学から情報を得ることも多かったと思われます。

そういえば私、大昔に澁澤龍彦氏の『秘密結社の手帖』で、フリーメーソンのことを一応読んでおりましたのに、ころりと忘れておりました。
いえ、当時の私は、とても神秘的な、怪しい団体であることを期待しまして、わくわくしながら本を開いたのですが、あまりに神秘と遠い、普通のおじさんばかりがいそうな団体でしたので、がっかりして、忘れてしまったものでした………。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンブラン伯爵はフリーメーソンか?

2007年02月25日 | フリーメーソン・理神論と幕末
という疑いを抱いたのは、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理 で書きました、『社会志林』の中の宮永孝氏の論文「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」のある記事によるところが、大きいんです。
ある記事とは、慶応元年(1865)12月(旧暦10月)、幕府のオランダ留学生だった津田真道と西周が、帰国の途中でパリへより、当時パリにいた幕府の使節団(柴田日向守一行)には会えず、モンブラン伯とひんぱんに会っていた、というのですね。薩摩の五代友厚が、やはりパリにいて、モンブラン伯と会っている時期ですし、当然、五代とも会っています。

なんで、突然、津田と西が現れるのか、ということなんですけど、吉村 正和著『フリーメイソン 西欧神秘主義の変容』によれば、津田と西が学んでいたライデン大学のフィッセリング教授はフリーメーソンで、津田と西は教授の紹介で、日本人として初のフリーメーソン会員となったことが、記録に残っているんだそうなんです。
フリーメーソンというのは、なにやら怪しげな陰謀団体のように、日本ではイメージされることが多いのですが、おそらくこれには、カトリック教団から敵視されて以来の歴史がありまして、当時のヨーロッパでは、国境と宗教を越えた知識人の親睦サークル、みたいなものなのですね。
メンバーの紹介がなければ入れませんから、津田と西は、フィッセリング教授によほど気に入られたのでしょうし、メンバーとなれば、他国のフリーメーソン会員にも受け入れられ、旅先で知己を得ることが簡単にできるのです。

だとすれば、モンブラン伯はフリーメーソンだったのか?
そう考えれば、頷けることも多いのです。モンブラン伯の日本観幕末版『明日は舞踏会』 にも書きましたように、モンブラン伯の日本観は、当時の欧米人としては、特殊な感じを受けるのです。
啓蒙主義的な思想でも、「文明の根底には、キリスト教徒が理解しているような意味での宗教がある」というのが、当時のごく一般的な欧米の文明観ですから、日本文化に興味は抱いても、それを西洋文明と同じ次元で見たりはしないものなのです。

さらには、田辺太一の回想だったと思うのですが、「フランスの上流社会では評判が悪い人物」みたいなことも出てきます。
ただこれは、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きましたように、グロ男爵の使節団のメンバーにはなっていたりしますので、フランスでの人脈の問題もあるのかな、と思ったりもしたのですが、やはり、当時のフランス上流社会のごく一般的な思想からは、少しはずれているのではないか、という気もしたりしていました。
ただ、フリーメーソンにしましても、吉村正和氏の解説では、「文明の根底には、キリスト教徒が理解しているような意味での宗教がある」ということですし、現在でもフリーメーソン入団は、なにかの宗教(キリスト教である必要はないんですが)を信じていることが、入団の条件みたいです。
おそらく、その「宗教」の意味するところが、問題なのではないか、と思うのです。一神教的な宗教しか認めないのかどうか、ということなんですけれども。

えーと、まあ、あれこれ、第二帝政期のフランスの思想書の翻訳などを読んでみたんですけれども、私にとっては、抽象的にすぎまして、どうにも、モンブラン伯の宗教観や思想がどんなものであったのか、イメージがわきません。
よくよく考えてみましたら、私、フローベルやモーパッサン、ゾラの小説や、読み飛ばしたエッセイ類などで、漠然とした当時のフランスのイメージはあるのですが、具体的にどう、フランスの宗教観が変遷していったのか、その流れを知っているわけでもないのです。
さて………、と思っていたところで、この本にめぐりあいました。

『宗教VS.国家』

講談社

このアイテムの詳細を見る


著者は工藤康子氏。フランス文学専攻の東大名誉教授ですが、文学者だけに、実にイメージ豊かに、しかし整然と、わかりやすく、近代フランスの宗教と国家の関係を、述べてくださっています。
最初に登場しますのが、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』。ここでまず、フランスにおいて、革命で生まれた市民意識と、カトリック信仰がどう対立し、どう融合しようとしていたかを、具体的に描き込まれた場面で示し、さらにそれ以降も、よく知られた文学作品を例にあげ、詳しく解説を加えていく形です。

昔から、不思議に思っていたことがありました。
ルルドの奇跡をご存じでしょうか? フランスのピレネー山脈に近い田舎ルルドで、ベルナデッタという農家の少女が聖母の出現を見て、その聖母が現れた洞窟の泉の水を飲めば難病も治る、というので、その少女は聖人となり、ルルドは聖地となって、現代でも巡礼の人が絶えない、というのですが。
今は知りませんが、私が子供の頃には、近所のカトリック教会に、ルルドの岩窟を模して、聖母と聖ベルナデッタの像が飾ってあったりしたものです。私は、その教会のシスターから、ルルドの奇跡の話を、お聞きしました。

いえ、これが昔のことなら不思議ではないのですが、ベルナデッタが聖母を見たのは第二帝政期、モンブラン伯が最初に来日した2年後のことです。さらに、ベルナデッタが聖人に列せられたのは20世紀になってからのこと、だったりしまして、いや、そりゃあ日本でも、「ここのお寺の湧き水は万病にきく」とかいう話は、幕末にもあったでしょうし、現在もあるでしょうけれど、「それって世界中に宣伝する事なの?」みたいな、驚きがありまして。

実は、ゾラが、ルルドを題材に小説を書いているんだそうなんです。フランスでは、『ナナ』や『居酒屋』並のベストセラーなのですが、日本では訳出されてないんだとか。
この本のしめくくりは、それが題材になっていまして、カトリックの側にも、国家の側にも偏らない、客観的な著述ではないか、とも思えます。

で、モンブラン伯の宗教観に関して、この本で参考になったことをあげますならば、米国とフランスの宗教観のちがい、でしょうか。
吉村氏のフリーメーソンの著述は、米国が中心になっていますけれども、米国はフランスのように、国家と宗教の激しい葛藤を経た国ではありません。一言で信仰の自由と言いますが、その内実に、大きなちがいがあるようなのです。
フランスで、本格的に、政教分離、公教育からの宗教(結局はカトリック)排除に取り組んだのは、第三共和制のジュール・フェリーなんだそうですが、この人がフリーメーソンなんです。モンブラン伯と同世代です。
穏健なブルジョワの共和主義者で、伯父など、親族の男はフリーメーソン。父親は無神論者でしたが、母や姉は熱心なカトリック信者だったんだそうです。

ともかく、複雑なフランスの宗教事情を、とてもわかりやすく、楽しく解説してくれている好著でした。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸は極楽である

2006年12月23日 | フリーメーソン・理神論と幕末
江戸は夢か

筑摩書房

このアイテムの詳細を見る


久しぶりに、突然書きます。
個人掲示板の方でこの本を思い出させていただいて、けっこうこれは、明治維新の本質にかかわる問題かな、と。

水谷三公氏の『江戸は夢か』は、手元にあるちくまライブラリー版が、1992年の発行になってまして、現在の江戸時代再評価のはしりのような書であったかと思うのです。
「江戸は極楽である、しかし失われる運命にあった極楽である」という福沢諭吉の言葉が、はしがきの冒頭に引かれていまして、なにやらここいらあたり、なぜいま江戸ブームなのか、という理由が見えてくるのではないか、という気がしないでもないんです。
つまり、福沢諭吉の著述を水谷氏が現代的に言い直した表現では、「江戸時代は経済的な平等政策が行き渡り、一種社会主義的な極楽社会だった。鎖国を守り、自分たちだけでやっていられるなら、この極楽をずっと楽しんでいられたかもしれない。しかし、対外的解放体制に移行した今となっては、国際的競争力向上のため、国内でも弱肉強食と不平等配分をさけることはできない」となり、これは、「江戸時代」を「太平洋戦争中にはじまり、戦後確立して最近まで存続した社会主義的な日本の経済体制」に置き換えると、昨今の世界経済グローバル化にあわせた結果の国内格差拡大懸念、という問題と、重なって見えてくるからなのです。

この本のお話は、明治五年、アメリカはワシントンでくりひろげられた、まだ若い薩摩人二人の大喧嘩にはじまります。
アメリカ駐在公使役だった26歳の森有礼と、大蔵省次官級役人で28歳の吉田清成です。
どちらも、幕末の薩摩藩が、ひそかにイギリスに送り出した留学生で、わけてもこの二人は、藩の仕送りが途絶えた後もアメリカに渡って勉強を重ね、維新後に新政府に呼び返された俊英です。
ただ、この二人、同じ経験を重ねながら、日本人が西洋近代の受け入れをどうなすべきかについて、根本的な見解の相違を持っていたようなのです。

幕末、日本へ来た外交官に、ローレンス・オリファントというイギリス人がいました。水戸攘夷藩士によるイギリス公使館襲撃で刀傷を負い、帰国するのですが、日本文化に好感を持ち続け、留学してきた薩摩藩士の面倒もみるんですね。
オリファントは、スコットランドの名門の出なのですが、スウェーデンボルグのキリスト教哲学に傾倒していました。スウェーデンボルグは、18世紀スウェーデンの科学者にして鉱山技師、政治家にして神学者、という人物です。
スウェーデンボルグの神学が革新的だったのは、キリスト教文明圏を特別なものと考えるのではなく、イスラム教も仏教も包括して、根源的な生命、普遍的な神の概念を提示したことなんじゃないんでしょうか。
で、スウェーデンボルグ信奉を通じてのオリファントの友人に、レーク・ハリスというアメリカ人の宗教家がおりました。
ハリスは、スウェデンボルグ神学から発展して、いわば原始共産制とでもいった宗教運動をくりひろげていたのですが、「共産制」といっても、けっして個人の能力を否定するものではないですし、功利的な経済活動を否定するものでもないんです。
まあ、そうですね、富の再配分は個人の宗教心と道徳観にゆだね、有志が個人の良心にしたがって新しい社会をめざす、とでもいったところなのじゃないのでしょうか。いえ、まったくもって私、よくわかっていないのですが。
ま、ともかくオリファントは、薩摩藩から帰国命令を受け、仕送りを断たれてなお欧米での勉学に心を残していた薩摩藩留学生たちに、ハリスを紹介するんですね。
ハリスの教団に入ることで、アメリカでの生活が保障され、勉学を重ねる道もある、ということで、薩摩藩留学生のうち6人がアメリカに渡ります。
その中に、森有礼と吉田清成はいたのですが、吉田清成はハリスの教団が肌にあわず、すぐに飛び出して、ラトガース大学で政治学を学びました。一方の森有礼は、ハリスに共鳴して教団に残り、ハリスの勧めで、維新直後の日本に帰国したんですね。

森有礼と吉田清成と、どちらが深く西洋近代を受け入れていたかといえば、やはり森有礼なのじゃないんでしょうか。なにしろ帰国後の森有礼は、文明開化のためにはキリスト教を受け入れ(信仰の自由を認めろ、というより、キリスト教を国教化しろ、というのに近いんです)、英語を国語にしろ、というようなことまで言っていたりしたこともあったのですから。
まあ、今はキリスト教は流行りませんが、「英語を国語にしろ」に近いような言説は、昨今のグローバル化危機感からか、現在もよく聞きますね。

ともかく、その森有礼と吉田清成が、アメリカで再会してなぜ大喧嘩をしたか。
実は大蔵省の清成は、士族の秩禄奉還を一手に任されていまして、奉還者を救済する資金として、外債募集を計画し、実行するためにアメリカに渡ったんですね。
前年の明治4年、廃藩置県が成り、それにともなって、各藩が抱えた士族の処遇が、問題となっていたわけなんです。
吉田清成の見解では、「士族の禄とは地方公務員の俸給のようなもので、廃藩置県で士族は失業したのであるから、退職金と失業手当を渡して救済する必用がある」というものでした。
ところが有礼は、そうは考えませんでした。「禄とは給金ではなく、農地を基本とする私有財産だ。私有財産を一方的に政府が奪うということは、個人の権利を侵害する古めかしい東洋流の横暴だ」というのですね。
これに対して、従来の歴史家は、「進歩的といっても森有礼は鹿児島士族なので、封建的な鹿児島の階級的な立場にとらわれていた」とか、あるいはもっと好意的なものでも、「鹿児島は商品経済が発達せず遅れていて、城下士も郷士のように農地を所有している形態になっていたので、鹿児島士族の有礼は私有財産と見た」というような見解だったわけなのですが、喧嘩相手の清成も鹿児島士族なのですから、どうも説得力に欠けていたんですね。
これを、水谷氏は、「有礼が西洋的な所有と権利の観念を全面的に受け入れていたから、こういう見解になった」と、おっしゃるのです。
つまり、ヨーロッパの貴族的土地所有は、封建制下の「封」に由来し、簡単に言ってしまえば、鎌倉武士が幕府から認められたと同じように、王から占有権を認められた貴族の封土が、やがて法に守られた私有財産となり、その法整備が進む過程で、貴族ではない一般人の財産権も認められるようになってきたんですね。
そういうヨーロッパの歴史を踏まえると、財産権は個人の権利であり、貴族だからといってその例外ではなく、それを侵害するのは政府の暴挙、となるわけです。



上は森有礼、下のリンクは北大図書館所蔵写真の吉田清成です。なんとも濃ゆい大喧嘩でしょう?

吉田清成写真

このときアメリカには、岩倉使節団が滞在していました。
その一員だった木戸孝允も、留守政府が企てた士族の家禄処分の話を、苦々しく思ったようですが、それはなにも、「家禄は私有財産なので奪うのは不当」と思ったからではなく、「留守政府の思惑はあまりにも性急すぎて、士族を追い詰めることになってしまう」と思ったからでして、基本的には、清成と同じ理解です。
つまり、日本の士族は公務員として俸給をもらっていたのであって、西洋貴族のように、土地を領有していたわけではなかったのですね。
だからこそ、廃藩置県もあっけないほど簡単にできてしまったわけでして、幕末の日本を、「幕府が倒れた後はドイツのような諸侯連合国になるだろう」と見ていたイギリス外交官の見方も、大きくはずれていたわけなのです。

ではなぜ、江戸の日本は西洋の封建制と大きくちがっていたのか。
この本は、楽しく、わかりやすく、それを解説してくれています。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする