郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

花びら餅と和製ピエスモンテ

2007年01月26日 | 幕末文化
昔、母がお茶の先生から、花びら餅をもらってきました。
たしか、そのお茶の先生が、京都で買ったかもらったかしたもののお裾分けだったんですが、ともかく、おいしかったんです。やわらかい白い羽二重餅が、ほんのりと紅を透かして、食べると、白味噌の風味と牛蒡の芳しさが、ふんわりと口にとけて出まして。
正式の名は、菱葩(ひしはなびら)。江戸時代、京の朝廷で、正月に食べられていたお菓子だと聞きまして、納得の雅な趣でした。
以降、花びら餅と称するものを、何回か食べたことがあるんですが、これがまったく味がちがうんです。餅の部分が堅かったり、白味噌の風味が利かず、甘すぎたりしまして。
ネットで調べましたところ、老舗中の老舗は京都の川端道喜とのこと。しかし、電話で予約した上、12月末の3日間の間に京都のお店で受け取り、となりますと、とても買えるものではありません。
今年の正月、通販しているところをさがし、買ってみました。



悪くはなかったんですけど、やはり、あの昔食べた味とはちがっていました。
薄紅の菱の入り方と、あとはやはり、白味噌の風味が足りなくて、甘いんですよねえ。

『和菓子の京都』

岩波書店

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上は十五代川端道喜氏の随筆のような本です。川端道喜といえば、粽が有名、といいますか、一月の花びら餅をのぞけば、粽しか置いていない和菓子屋さんですが、それほど凝ったお菓子でもない粽を、ともかく材料を厳選し、手間暇惜しまず、昔ながらに作っている様子を読みますと、これは一度は食べてみなくては、という気になります。
川端道喜は餅屋さんで、朝廷に餅を納めていたのであって、お菓子ではない、ということなのですが、季節の行事によって、さまざまな餅を納めていた江戸時代の話は、とても興味深いものです。
明治、天皇の東行に従わないで京都に残り、明治4年には、東京に呼ばれて、これまでの御定式を伝えたのだそうです。そして、京の川端道喜は、お茶菓子の店になったのだとか。

朝廷料理といえば、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きました、幕末幕府の饗応に登場します和風ピエスモンテ、です。幕末の幕府料理役で、明治朝廷の料理人となった石井治兵家の『続 料理法大全』の復刻版を見まして、驚きました。M・ド・モージュ侯爵の描写力は、的確です。
野菜を刻んで花を作ったり、鶴と松、ススキにウサギなどの飾り物を作る方法が、絵入りで載っているのですが、これがもう、牡丹といい菊といいカキツバタといい、気が遠くなるほど手が込んだ細工なんです。たしかに、フランス貴族もびっくりの盆栽と花束、だったことがわかります。
その前書きに、石井治兵家のことが以下のように書いてあります。

延宝の頃に伊勢の国から江戸に出て、京橋鈴木町(その頃魚市場)に住んで、元禄、宝永、正徳と続いて、料理師範と幕府用達をして、勅使参考、朝鮮人来聘、また諸家の馳走などを引き受けた六代目石井治兵衛と七代目の新形の教授目録(手記は文化・文政。新形は天保以来明治十年頃まで)によって、むき物、むき花、作り物などの名目を記載する。

こうなってきますと、幕末の石井治兵衛さんが、フランス使節団正式饗応料理を手がけたことは、確かなことのように思えるのですが、わからないのは「幕府用達」という言葉です。御台所組頭といったような、幕府の正式な役人ではなく、お抱え料理士みたいな形なんでしょうか。
ペリーのときにも、正式な饗応料理は、石井治兵衛さんが受け持ったのでしょうか。料亭の仕出しだという話も伝わっていますから、両方使い分けたとも考えられます。
宮廷料理と装飾菓子 で紹介しましたリュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵などは、正式の使節ではありませんから、幕府の接待を受けたのは、料亭であったと書いていたりします。


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『源氏物語』は江戸の国民文学

2006年02月15日 | 幕末文化
昨日、庄屋さんの幕末大奥見物ツアー でご紹介しました幕末の過激な女性。

多数の妾を認める中国の儒教を非難し、中国を淫国と罵り、夫(おそらく幕臣)にむかって、「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」と主張しったってお話、なんだかすごくないですか? 
幕末の女性たちへの国学の影響が、なんですけど。
幕末の国学といえば、過激な攘夷感情とのみ結びつけられてしまいがちなのですが、こういった形での浸透にも、注目すべきだと思うのですよね。
江戸時代における王朝文学の見直しは、儒教の価値観から解き放たれることでもあったんですね。
江戸時代における源氏物語の大衆的な享受については、『源氏物語の変奏曲―江戸の調べ』や、野口武彦氏の『源氏物語を江戸から読む』に詳しいのですが、やはり、本居宣長の果たした役割は大きいでしょう。
『源氏物語の変奏曲―江戸の調べ』収録、田中康二著「宣長以後の物語研究」から、以下、引用します。

本居宣長の「もののあはれを知る」説は、『源氏物語』のみならず、文学全般にも適用され得る文学理論である。仏教的教戒説や儒教的勧善懲悪説がコンテンポラリーの共通認識であった江戸時代にあって、文学そのものの自立性と自律性を謳いあげた「もののあはれを知る」説は、画期的なものであった。

野口武彦氏の『源氏物語を江戸から読む』には、さらにそこから発展して、より近代的な物語論に至った萩原広道が取り上げられていますが、ともかく、江戸も後期になってきますと、王朝文学を近代的にとらえるようになった、ということなんですね。つまり、国学的な王朝文学とは、中華文明圏離れであり、近代西洋における国民文学のようであったと、いえるのではないでしょうか。
ネイション・ステイトの模索は、江戸期、すでにはじまっていたのですね。

『江戸の女の底力 大奥随筆』に出てきます川路聖謨の妻・高子さんにしろ、さらに過激な女性にしろ、です。『源氏物語』だけではなく、おそらくは『蜻蛉日記』などの王朝女流文学を、儒教道徳の価値観からは離れて、読んでいたわけですよね。
だとするならば、女の嫉妬は責められるべきことではなく、自然な感情だと当然思うでしょうし、嫉妬の苦しみを生む妾の存在が道徳的にすぐれたものだというのは、「蛮国の淫風」にすぎないと、儒教道徳は相対化されるわけなのでしょう。

『源氏物語』を漢詩に詠んだ江戸後期の女流詩人、江馬細香。頼山陽の愛人であった彼女のことは、野口武彦氏の楽しい「ゴシップ史観」 でご紹介しました『大江戸曲者列伝―太平の巻』に出てきます。
頼山陽については、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を渡る……」うたわれる漢詩の作者であり、幕末の歴史書ベストセラー『日本外史』の著者です。儒者の家に生まれましたが、若い頃には放蕩、家出を重ね、放浪癖のあった変わり者であった、といわれます。
細香女史は、大垣藩の藩医の長女です。遊び人、頼山陽との結婚を、父親が許さなかったのだ、といわれているようですが、ともかく、結婚することなく、頼山陽と文通し、京都に訪ねて人目もかまわず二人で歩き、野口先生もいわれておりますが、妾ではなく、愛人でいたのです。
父親の元にいて、藩医のお嬢さまという安定は得ていたのですから、今でいえばパラサイトですね。
しかしおそらく、彼女にとっても、実家にいて自由な愛人の立場、というのは、望ましいものであったのではないのでしょうか。夫としての頼山陽は、疲れる相手であるように思えますし。
細香女史の生き方にもまた、近代的、ともいえる雰囲気を感じたりします。


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庄屋さんの幕末大奥見物ツアー

2006年02月14日 | 幕末文化
慶応元年(1865)といえば、維新まであと3年の動乱期。この年、近江堅田村から江戸へ、助郷役免除の嘆願に出かけた庄屋さん。ついでに江戸見物もしたのでしょうが、江戸城大奥見物ツアーにも出かけた、といったら、ちょっと驚きませんか?
男子禁制の大奥です。庄屋さんはもちろん男です。
でも、ほんとうなんです。許可を得て見学した庄屋さんの日記が残っているのだそうなんです。

このお話が載っているのは、氏家幹人氏の『江戸の女の底力 大奥随筆』
氏家幹人氏といえば、『武士道とエロス』『小石川御家人物語』で、江戸時代の意外な断面を、確かな資料を駆使しつつ、鮮やかに切り取って驚かせてくださったんですが、今回も期待を裏切りませんでした。
江戸の女たちは、どんな人生を送ったのか?
大奥の女性たちをも含めて、思い込みが覆されるお話が、けっこうあります。

さまざまな女性たちが登場するのですが、一番、印象に残ったのは、幕末、日露外交などに腕をふるった幕臣・川路聖謨の妻、高子です。この夫婦の仲がよかったことは、たしか野口武彦氏のご著書(なんだったか思い出せません)にも、載っていました。
幕臣の娘として生まれた高子さんは、15歳で紀州徳川家の江戸屋敷の奥女中となり、その後、広島浅野家の江戸屋敷でやはり奥女中を務め、三十五歳、当時としては高齢で、川路聖謨の四度目の妻となります。
川路家には、先妻の子供たちがいて、聖謨の養父母、つまり舅、姑もいます。おまけに高子さんは病弱。
しょっちゅう寝付いて、聖謨にいわせれば「立ちはたらきはすくなく」なのですが、聖謨は高子さんを大切に思っていた様子が、日記などにうかがえますし、高子さんはまた、りっぱに一家をきりまわしていたのだ、というのです。
おまけに彼女は教養深く、歴史問題、男女問題など、正面から聖謨に反論します。
面白いのは、女の嫉妬と男の妾に関する論争で、高子さんは堂々と、「周公の心の内疑うべし」と、漢籍の儒教道徳を非難し、男が妾を持つことを否定した、というのです。

川路聖謨の日記には、高子さんの上をいくインテリ女性の話も出てくるのだそうです。その女性は、多数の妾を認める中国の儒教を非難し、中国を淫国と罵ったというのです。さらにその女性は夫に、「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」と、論じたてたのだそうです。

川路聖謨は、戊辰の春、江戸開城を目前にして、自決しました。享年68歳。
冷静沈着にそれを受けとめた高子さんは、そののち16年生きて、世を去りました。


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幕末人気コミック『白縫譚』復刻のニュース

2006年02月13日 | 幕末文化
普通の人々の幕末ベストセラー 、そして幕末の人気伝奇コミック『白縫譚』 で、ご紹介しました『白縫譚』、なんと今年、上段に木版の原本を全編収録の上、下段には読みやすい活字の文章を載せた復刻本が、全三巻で刊行されると、国書刊行会 最新ニュース にありました。

『白縫譚 しらぬいものがたり』全3巻 高田衛=監修/佐藤至子=編・校訂
 群雄割拠する戦国時代の九州。謀計に斃れた大友宗隣の遺児として御家再興と九州平定を誓う若菜姫は、山妖から土蜘蛛の妖術を授かる。時に男に変じて人々の目を眩まし、時に蜘蛛の糸に乗って国々を遍歴しながら、若菜姫は土蜘蛛を自在に操り、父の仇である菊地・太宰両家の攪乱を謀る。
 いっぽう菊地家では美貌の小姓青柳春之助(実は海賊の遺児七草四郎)が主君貞行の寵愛を一身に集め、権力をほしいままにしていた。春之助が御家横領を企んでいることに気づいた鳥山豊後之助は貞行に諌言するも容れられず、豊後之介が左遷された菊地家は存亡の危機に陥る。
 挙兵の時を待つ若菜姫を待ち受ける運命とははたして?
 生き別れた弟との再会、家来たちの数奇な運命、妖術を封じる宝鏡の流転など、さまざまなエピソードを交えながら、美貌の妖賊・若菜姫の活躍を描いた合巻中の最大にして最高の傑作長編伝奇小説。泉鏡花によって「江戸児の張と意気地」を体現した女性像が賞賛され、江戸川乱歩も原本を愛蔵していたことでも知られる、幻の幕末のベストセラー小説が、読みやすい翻刻と、原本の美しいすべての挿絵とともに、ついによみがえる!
 夢枕獏、延広真治氏推薦! 定価92400円(税込・分売不可)5月刊行予定

ああ、しかし、定価92400円って!!! 辛いものがありますねえ。
購入した木版の五編、すべて表紙を載せておきます。




三十二編 上下二冊 柳下亭種員・作 歌川国貞・画 、廣岡屋幸助梓 出版年不明




三十三編 上下二冊 柳下亭種員・作 歌川国貞・画 、廣岡屋幸助梓 出版年不明




三十五編 上下二冊 柳下亭種員・作 歌川国貞・画 、廣岡屋幸助梓 文久2年




五十六編 上下二冊 柳亭種彦(二世)・作 (歌川)芳幾・画  廣岡屋幸助梓 慶應4年




五十七編 上下二冊 柳亭種彦(二世)・作 (歌川)芳幾・画  廣岡屋幸助梓 慶應4年


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戊辰の春、名女形の壮絶な舞台

2006年02月12日 | 幕末文化
チャンネルをまわしていて、偶然、時代劇チャンネルで『田之助紅』という古い映画を見ました。
三代沢村田之助といえば、幕末の名女形です。
幕開けは、万延元年(1860)、田之助の立女形披露らしき場面。
安政六年(1859)正月15歳で襲名、翌年、16歳で立女形になった、という事実からしますと、映画の役者さんは老けていたんですが、これは見なくっちゃ! と。

映画は、もちろん実話ではなく、実在の田之助を主人公とした舟橋聖一原作のフィクションです。モノクロで、ずいぶんと古い映画みたいでした。
で、いま、時代劇チャンネルのHPで見てみましたら、なんと、1947年の映画!
終戦の2年後ではないですか。

後世の感覚って、なんか変なんですよね。
戦争していたら、当時の世の中はそれ一色だったんだろうと、つい思ってしまいます。
戊辰戦争もそうで、戊辰の春の江戸も、いつもにかわらず歌舞伎が上演され、多くの人々は普通に暮らしていたんですよね。
そして1947年、戦後の占領期、時代小説でさえ検問を受けて、出版できなかった時期とはいえ、作り方によってはこうい映画も、ありえたんですよね。
制作年を最初、勘違いしていて、戦時中の映画だと思い込んでしまっていました。
映画の筋を簡単にいえば、田之助は「風紀を乱す」という感じで奉行所に睨まれるのですが、芸一筋の田之助は、慕う女たちに庇われ、さらには、真摯な田之助の舞台が奉行の心をも動かす、といったものです。
これ、軍部をお奉行さまに見立てて、田之助の芸にかける心意気が、映画人の心意気なのかと思っていたのですが、あるいは、お奉行さまは、GHQであったかもしれないですね。

ちょうど太平洋戦争開戦の2ヶ月ほど前に、『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』という聞き語り本が出版されました。
語り手は、今泉みね。
 徳川将軍家の蘭医・桂川家の娘として、安政2年(1855年)、幕末の江戸に生まれた女性です。
 みねは、維新後、落ちぶれた桂川家から、元佐賀藩士で新政府出仕の今泉利春に嫁ぎますが、司法畑にいた利春は反政府運動にもかかわり、みねが獄中に差し入れにいくようなこともありました。
 昭和になって、80を越えたみねの少女時代の想い出を、孫たちが聞き書きしたものが、この『名ごりの夢』なのです。
 花のお江戸から飛行機が上空を飛ぶ東京へと、みねの生きた時代は、すさまじいスピードで流れました。
 「私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした」と、みねは、消え果てた江戸の光景を、夢のようになつかしむのです。
その『名ごりの夢』で、三代田之助のことが語られています。

私がよく見ましたのはあの足の悪かった田之助でした。この役者の人気と申したらとても大したもので、どうしてあんなに人気があったのかと聞かれますが、実に名優だったのでしょうね。美しいことも、私が見た中であれほどの美しさは前後になかったと思います。ただの美しさではなく、なんとなくこうごうしい美しさでした。それに足の悪いことも贔屓の人たちの同情をひいて、一層の人気を増したかもしれません。とにかく芝居小屋は田之助の紋のついたものばかり、幕があいても「紀の国や紀の国や」の声はわれるようでしばらくは鳴りもしずまらぬほどでした。あの最初の宣教師であり医者でもあったヘボン博士が外科手術で田之助の足を切断したことは、当時田之助をも博士をも有名にした話だったでしょう。歩けなくなってからの田之助は大きな笊(ざる)の浅いようなものに乗って舞台へ出ました。

足が悪かった、というのは、壊疽だったといわれます。
横浜のヘボン博士の手術で片足を切り落とししたのが、慶応三年です。
明けて戊辰の春、田之助はアメリカ製の義足をつけて、舞台に立ちます。
さらにはもう一つの足も失いつつ、なおも舞台に立ちつづけた名女形は、壮絶なまでに美しかったのです。

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幕末の人気伝奇コミック『白縫譚』

2006年02月11日 | 幕末文化
普通の人々の幕末ベストセラー でご紹介しました『白縫譚(しらぬいものがたり)』。幕末当時の木版本がばら売りされているのを、古書サイトで見つけまして、バラですのでさほど高価ではなく、状態のよさそうなのを選んで、五編購入しました。

三十二編 各上下 柳下亭種員 作 歌川国貞 画 、廣岡屋幸助梓 、2冊 、不明

三十三編 各上下 種員 作 国貞 画  廣岡屋幸助梓 、2冊 、不明

三十五編 各上下 種員 作 国貞 画 、廣岡屋幸助梓 、2冊 、文久2年

五十六編 各上下 柳亭種彦(二世) 作 (歌川)芳幾 画  廣岡屋幸助梓 2冊 、慶應4年

五十七編 各上下 種彦 作 芳幾 画 、廣岡屋幸助梓 、2冊 、慶應4年


普通の人々の幕末ベストセラー に載せました写真が三十二編です。
出版年は不明ですが、ほぼ年に二冊づつの刊行のようで、三十五編が文久2年(1862)と明記されていますので、万延元年(1860)ではないか、と推測されます。桜田門外の変の年でして、手にして、感無量です。

今日の写真は、五十七編。慶応四年、つまり明治元年の戊辰の春です。
春っていわれても、五十六編も同じ年の春になっていますし、正月に続けて出されたものやら、少し間があいているのか、よくはわからないのですが、鳥羽伏見の戦いは終わった後ではないのか、と思えるんです。
出版年がわかるのは、前書きがついているから、でして、この五十七編の前書きは、なんとも意味深です。
と言いつつ、かなり読みやすい木版ではあるのですが、ひらがなのくずしが……、実は私、読めません。くずし字字典と格闘しなければなりませんが、くずし字字典がとっさに見つかりませんで。ちがっていたら、ごめんなさい。
「波うつ則(とき)の逆怒(げきど)当(あた)るは痛く、忠孝も二なし。太平の世の忠臣と富貴の家の孝子とは、よく尽くせども平々しかり然(しこ)うして、最(もっとも)難し」
というような書き出しで、物語の展開の説明に入っていきます。
「波うつ則(とき)の逆怒(げきど)」って、鳥羽伏見の戦いに重ねていっているのではないかと、思えるのです。

本文は、コミックそのようです。カラーなのは表紙だけですが、前書きをのぞく全ページに挿絵があり、その挿絵の余白にびっしりと、細かい文字で、物語が記してあるのです。本文の文字のくずしぐあいは、前書きより強く、私にはろくに読めませんです、はい。

年に二編の刊行って、ずいぶん待たされる感じがするのですが、考えてみましたら、現在でも月刊誌などに連載された漫画のコミックスで、年に二冊しか刊行されないものはありますね。
戊辰の春の江戸で、この冊子を手に取った少女は、どんな気持ちで読んだのでしょうね。


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野口武彦氏の楽しい「ゴシップ史観」

2006年02月10日 | 幕末文化
野口武彦氏の最新刊『大江戸曲者列伝―太平の巻』を読みました。
週刊新潮に連載された『OH! EDO物語』をまとめられたもので、一話一話は短い、歴史のゴシップ、「蔭の声」なんです。
先生ご自身が、「ゴシップ史観」と名付けておられますが、それこそ『今昔物語』のようで、大江戸説話集とでも申し上げたい佳作です。
『坂の上の雲』と脱イデオロギー で書きましたように、司馬遼太郎氏のめざしたものが「近代説話」なのだとすれば、野口武彦氏は、司馬氏の後継者、といえるかもしれないな、と、思いはじめているところ、です。
しかも野口氏の場合、語り口はおもしろいのですが、資料には忠実でおられます。

今回は「太平の巻」で、続いて「幕末の巻」も出されるそうです。
とはいえ、「太平の巻」も江戸後期の題材が多いですし、幕末まで踏み込んでいて、よく知られた話もあるんですが、うそ! と驚くような話もあります。
一番受けましたのは、「奥様と雪隠」です。
江戸も幕末に近いころ、旗本の奥方だった井関隆子。この方の日記が残っているそうなのですが、古典文学の教養が深く、ウンチクを傾けて、文字通りの臭い話、つまりトイレ系の話を、王朝文学の香気につつんで、語っておられるのだとか。

「幕末の巻」が待たれます。


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普通の人々の幕末ベストセラー

2006年02月06日 | 幕末文化
野口武彦氏の幕末ものがおもしろい! という話は、以前に上野モンマルトル でしました。

幕末維新、といいましても、当然のことながら、みんながみんな志士でもなければ、新選組でもないわけでして、圧倒的に、普通の人たちが多いわけです。
野口氏は、その、ごく普通の人々にスポットをあてていて、おもしろいんです。
普通の人たち、って、どんな人か、といえば、たとえば、土方歳三のリベンジ に書きました、野口武彦氏の『幕末伝説』収録、「幕末不戦派軍記」の主人公、なまけもの幕府下っ端役人四人組み、とか、じゃないでしょうか。
歩兵の訓練なんてしんどいからいやで、コネをつかってさぼろうとしたところが、結局、鳥羽伏見の戦いにまきこまれて、逃げまどい、行き場に困ったあげくの成り行きで、砲弾が飛んでくる淀でお握り炊き出し隊をやっていましたところが、土方歳三にばったり。どうして土方さんが現れたかといえば、鳥羽伏見の土方歳三 に、あるようなわけでして。

ともかく、普通の人たちは、いままで通り普通にやろうとして、しかし、いろいろと災難にまきこまれたりもするわけなんですが、どちらの陣営にしろ、がんばろう!と、勢い込んでいた人々の方が少数派で、だめだめな普通の人たちが、大多数であったでしょう。
当然、ごく普通の人々の楽しみ、というものもあったわけでして、幕末の江戸の女たちが、どんな本を楽しんでいたかって、ちょっと知りたくなったことがありました。

『白縫譚(しらぬいものがたり』

これです。なんとも、きれいな本でしょう?
嘉永2年(1849)から明治18年(1885)まで、延々書き継がれた伝奇物語なんです。36年間!です。14歳の少女が読み始めて、50のおばさんになるまで刊行され続けた、ロングセラー本だったんです。
途中で、作者も三名にわたって変わっています。うろ覚えなんですが、維新後に一度、刊行が中断されたことがあったようでした。二番目の作者は、幕臣であったのではないかと、私は思ったり。
非役の下っ端の幕臣が書いていて、気がついてみたら維新の騒動で、もうかなりの年ではあるし、世の変化についていけず、病気になったとか。いえ、想像なんですけど。

内容はといえば、黒田家のお家騒動と天草の乱を素材にした歴史伝奇もの。
実は、明治後期に、一冊にまとめて活字印刷本になっていまして、それは、近くの図書館で借り出し可能だったので、少しは読んだのですが、あまり読み進まないうちに期限が来て、挫折しました。
今読んで、おもしろいものか、といわれると、ちょっと、あれなんです。
なんでも現在、実物は、90編あるうちの71編までしか見つかってないんだそうです。
これもかなり以前なんですが、古書目録で、たしか五〇数編くらいがまとめて、数十万円(たしか百万に近かったような)で売りに出ていました。
見るだけでも見てみたかったんですけどね、こうやって、ネットで見ることができて、幸せです。

江戸の少女は、毎年、こんな本を楽しみに読み重ねながら、黒船騒動やら大地震やら火事やら、桜田門外の変やらを経験し、年を重ね、結婚して子供が生まれ、維新を迎え、明治の世になってもなお、楽しみに読み継いだんですよね。


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