郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき15

2010年12月17日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき14の続きです。
 内容の上からは、今回も広瀬常と森有礼 美女ありき10広瀬常と森有礼 美女ありき11の続報になります。

 現在までのところ、慶応3年以降の広瀬寅五郎の動静がわかります史料に、私はめぐりあっていません。
 広瀬寅五郎=冨五郎、広瀬常の父であったと仮定して話を進めますと、冨五郎は「静岡県士族」とされているわけですから、一度は静岡へ行ったものと推測されます。
 おそらく、静岡では生活が成りたたなかったのでしょう。
 明治5年の開拓使「女学生徒入校願」によれば、広瀬冨五郎は娘の常とともに、「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長屋」に住んでいます。
 元大洲藩上屋敷、加藤泰秋邸の門長屋です。

 「力石本加藤家譜」によりますと、明治4年2月23日、大洲藩知事・加藤泰秋は上京していたようです。
 同年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県。
 元大洲藩上屋敷と中屋敷の処置について、以下、「力石本加藤家譜」より、fhさまに解読していただきました。

 同年同月廿三日右之通願書差出ス
   邸地振替願書
 今般諸県上邸被仰出候ニ付下谷和泉橋通大洲県邸地建家共私邸ニ拝領仕度依テ同所私邸右為代リト家作共奉還仕候間別紙絵図面二通相添右振替之儀御聞済被下置候様此段奉願候以
 
 上
  明治四年辛未十月廿三日 位 名
   東京府御中
 書面下谷和泉橋通私邸家作共可致返上同所大洲県元邸家作共引替下賜候事
  辛未十月   東京府


 明治4年9月、東京府は旧大名屋敷をすべて収公することになりましたが、元知事(藩主)に、一つは屋敷を下げ渡していたんですね。
 私、加藤泰秋は最初から元上屋敷を私邸にもらっていたのだと思い込んでいて、上の文章の意味がうまくとれなかったのですが、fhさまのご教授によりまして、最初、東京府から下げ渡されたのは元中屋敷であった、と考えれば、筋が通るのだと気づきました。

 goo古地図 江戸切絵図 東下谷-1

 上の切り絵図で見るとわかるのですが、元大洲藩上屋敷と中屋敷は、路地を隔ててすぐそばにあります。
 江戸時代の上屋敷を、明治になって私邸にした大名はほとんどいないようですから、あるいは一応、上屋敷は差し出すことにでもなっていたのでしょうか。
 もちろん、上屋敷の方が敷地が広く、建物もりっぱだったでしょうから、東京府の意向が中屋敷を私邸に、ということだったとしますと、加藤家としては承服できなかったでしょう。
 まず、加藤家から東京府への「邸地振替願書」の解釈です。

 「今般、諸県に江戸屋敷を差し出すようにと仰せがありましたが、下谷和泉橋通にある大洲県邸地と建物(上屋敷)を拝領したいと思います。これに代えまして、同所にある現在の私邸(中屋敷)を、地内の家作(貸家)とともに返還いたしますので、別紙の絵図面2通を添えて、振替許可をお願いいたします。

 これに対する東京府の返事です。

 「書面にある下谷和泉橋通の私邸及び家作を返上すれば、同所の大洲県元邸と家作をその引替として下賜する」

 大名屋敷には、長屋がたくさんありましたから、維新以降、大洲藩では、関係者で望む者に貸したりしていたんでしょうね。
 そして、どうも加藤家では、中屋敷も手放したくなかったらしいのです。
 翌11月、改めて中屋敷の払い下げを願っています。

 同年同月八日願書差出ス
  元私邸地御払下ケ願
  前月私邸振替ノ儀奉願候所御聞済被下置難有仕合奉存候就テハ又候私邸三千七百七十八坪余ノ地所別紙図面ノ通別段御用ノ筋無之候得者開拓ノ上地味相応ノ物品植付申度候間相当ノ価ヲ以御払下ケ被下度此段奉願候 以上
  十一月八日   位 氏 名
   東京府御中  図面此ニ略ス

 別紙地所払下ケ願ハ当時見合申尤場所姓名懸ニ留メ置書面差戻申候追テ一定ノ規則相立候上可及沙汰候此段申入候也
  十一月十四日   東京府


 「先月(10月)、私邸振替を願い出ましたところ、お聞き届けくださり、有難い幸せと存じます。つきましてはまた、私邸3778坪余の地所(中屋敷)について、別紙の図面の通り、別に官でご利用の予定がなければ、開拓して地味にふさわしいものを植えつけたいと思いますので、相当の価格でもって払い下げられますことを、このたびお願いいたします」

 これに対する東京府の回答は、拒否でした。

 別紙の地所払い下げについての願出は、今のところ見合わせ、当該の場所と(請願者の)姓名は、東京府の担当係(宅地係)に記録した上で、願書は差し戻す。追って(収公した土地についての)一定の規則が定まった上で、沙汰することを申し入れる」

 どうもこれは危ないと、加藤家では思ったみたいです。
 おそらく、なんですが、中屋敷のブロックの右隣、秋田藩佐竹氏の大きな上屋敷は、明治8年の地図では「陸軍造兵司御用地」になっていまして、一帯を陸軍省が狙っている、という情報をつかんでいたんじゃないでしょうか。
 誰から情報が入ったかって……、武田斐三郎からです。
 一ヶ月あまりの後、明治4年のうちに、加藤家は対策を講じています。

 竹門もと私邸昨冬御払下ケ願書差出ノ所当年ニテハ願意御採用難相成趣ニ付武田成章ヘ示談ノ上同人ヨリ願書差出ス但入用ノ節ハ引受候筈

 下谷和泉橋通名元私邸先般邸相成候由ニ付御用無之候得者私へ御払下ケ被成下度則図面相添此段奉願候、已上
  十二月廿三日  武田陸軍中佐
   東京府 邸宅懸御中

 願之家作金百八十五両二部二朱永五十五文八歩ニテ払下ケ候条当二月ヨリ十六ヶ月ニ割合可被致上納右地所ハ更ニ拝借相済候事但上納方相滞候節ハ仮令自費修繕相成候共地所家作其儘取揚可申事
 明治五年壬申正月


 竹門の元私邸(中屋敷)について、昨冬に払い下げ願いを提出したところ、当年は願いは採用されないとの趣旨だったので、武田成章(斐三郎)へ示談の上、武田から願書を提出した。もっとも経費についてはこちらで引き受ける予定である。

 下谷和泉橋通名の元私邸(中屋敷)について、先般収公されたそうですが、官でご利用の予定がなければ、私へ払い下げてくださるよう、図面を添えてお願いします。 12月23日  武田陸軍中佐
 東京府 邸宅懸御中


 中屋敷の家作、つまり借家人は、武田斐三郎だったんです。
 以前に書きましたが、大洲藩の上屋敷と中屋敷は隣にありながら、実は町名がちがい、明治8年の住所で、上屋敷は徒町、中屋敷は竹町です。明治以前の切り絵図でも、徒町は徒町なのですが、竹町は竹門になっています。佐竹藩邸の西門の扉が竹でできていたため、中屋敷のあるブロックと佐竹邸一帯は、竹門と呼ばれていたそうです。
 つまり、中屋敷は下谷和泉橋通を冠して呼ばれるゆえんはないのですが、振替と払い下げを有利に運ぼうとしたためでしょうか、中屋敷が上屋敷の付録であるかのように、東京府への願書では、上屋敷と同じく下谷和泉橋通の名を被せていたのではないでしょうか。加藤家の内部文書で、初めて「竹門」をだしてきてくれてまして、おかげで、これが中屋敷であることがはっきりします。

 陸軍中佐になっていました借家人の武田斐三郎に願書を出させて、費用を加藤家が出すことで、実質的に中屋敷も手元に残そうとしたんですね。
 この企ては、うまくいきました。以下、東京都の回答部分です。

 払い下げを願い出た家作が、金185両2歩2朱・永55文8歩で払い下げとなったことについて、この2月から16ヶ月の月賦にして上納させることで、右地所は再び拝借済みとする。ただし、上納が滞ったときには、たとえ自費で修繕をしていたとしても、地所および家作はそのまま取り上げる。明治五年壬申正月

 広瀬一家は、この明治4年、おそらくは廃藩置県の前後に、静岡を引き払って、江戸へ帰ったのではないでしょうか。
 冨五郎は、旧知の武田斐三郎を頼り、斐三郎は陸軍省に勤めて、中屋敷を借りて住んでいたようですから、当初は、中屋敷の長屋に住まわせてもらったのでしょう。
 そして、この大名屋敷収公に出くわし、斐三郎を通じて、加藤家に知恵を貸したのではないかと思われます。
 斐三郎が中屋敷すべてを使うことはなかったでしょうし、多数あっただろう長屋は、そのまま借家にもなったでしょう。

 実は広瀬冨五郎は、娘の常が森有礼と結婚した後、森家の土地の売り買いに、かかわっているんです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上に書いていますが、有礼は特命全権公使として清国にいる間に、木挽町の屋敷を引き払い、新しく外務省から払い下げを受けて、麹町区永田町1丁目14蕃地の大邸宅に引っ越す手配をしているのですが、この土地の取得、不用地の売却を、広瀬冨五郎がしているようなのです。
 明治10年の有礼の家族宛書簡には、「永田町も広瀬様御配慮にて追々片付候趣」(1月24日付)とか、「永田町東方二三千坪賈払之儀広瀬氏へ頼入候」(2月15日付)とかの文言が見えて、冨五郎が不動産の扱いに長けていたことを、裏付けてくれます。

 当初、斐三郎の居候であった広瀬一家は、冨五郎が加藤家の財産管理にかかわったことで、明治5年当時、加藤家の私邸となった上屋敷の門長屋に無料で住まわせてもらえることになったのではないか、というのが、私の推測です。

 このシリーズ、続きます。


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広瀬常と森有礼 美女ありき14

2010年12月15日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき13の続きです。
 内容の上からは、広瀬常と森有礼 美女ありき10広瀬常と森有礼 美女ありき11の続報です。

 まず、北海道文書館に頼んでおりました広瀬寅五郎に関する資料の複写2点が届きました。
 2点とも箱館奉行所文書からですが、うち慶応2年の履歴明細短冊は、「江戸幕臣人名事典」収録の短冊とほぼ同内容なのですが、年齢はこちらが二つ年長になっています。保存状態がよく、虫食いもないようで、わからなかった部分が全部判明しました。
 以下、北海道立文書館による解読文です。

 子四月十五日講武所勤番ニ仰付候

 まず冒頭、上の赤字の部分が大きく書かれて、線で消されています。
 
 祖父田口小十郎死 元小川道伯家来 
 父田口喜兵衛死 同断

 紋所井桁花菱
 函館奉行支配定役
 広瀬寅五郎 子年四十五

 高三十俵三人扶持 本国生国共下野
 内 三十俵二人扶持元高 一人扶持御足扶持
 外 役扶持三人扶持 

 嘉永七寅年十一月 
  御先手紅林勘解由組同心高木銓太郎明跡江御抱入被
 安政四巳年 九月 
  箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付
 文久元酉年 九月 
  定役被仰付 
 元治元子年 四月 
  講武所勤番被仰付候旨田安仮御殿於焼火之間替席若年寄衆出座諏訪因幡守殿被仰渡 
 同年    五月 
  講武所勤番組頭勤方見習被仰付候旨井上河内守殿以御書付被仰渡候段沢左近将監申渡 
 同年    八月(十七日) 
  箱館奉行支配定役被仰付候旨水野和泉守殿以御書付被仰渡候段赤松左衛門尉申渡候


 広瀬寅五郎=冨五郎と仮定しますと、広瀬常の父・寅五郎は、安政3年(1856)に紅林勘解由が病気引退しました翌年、常が満2歳の年に箱館奉行所勤務を志願したことになります。このときの寅五郎の勤務先は、おそらくは函館ではなかった、と思われるのですが、妻と幼い娘を連れて室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)などへ赴任したとも思えず、しかし、箱館奉行所勤務は7年とけっこう長くて、その間に次女も生まれているようですから、家族は函館にいたのではないか、と推測されます。
 元治元年(1864)4月、武田斐三郎とともに迅速丸で江戸に向かいましたとき、寅五郎は講武所転勤が決まっていて、斐三郎の方が、当初は江戸出張だったみたいです。
 しかし、斐三郎が7月23日付けで開成所教授に任じられ、挨拶と引っ越しのため箱館へ戻ったとき、寅五郎は共をしたと思われ、そしてそのまま、箱館奉行所勤務にもどったわけです。

 箱館奉行所文書には。もう一つ、広瀬寅五郎の名前のある文書がありまして、これは、「慶応二年十一月十五日付 航海書並ニ字引、送付ノ件」という文書でして、箱館奉行所当番のうち、広瀬寅五郎と宮塚三平が主務者となって、箱館から江戸へ、航海書30冊、英語字引2冊、地理字引5冊、貿易方字引5冊を送付したときの書類です。
 江戸の側で印鑑を押しています上席の「伊賀守」は、老中板倉勝静でしょうか。
 連署は河津三郎太郎 安間純之進の二人です。
 
 河津三郎太郎とは、河津伊豆守祐邦のことです。「モンブラン伯の長崎憲法講義」で書いたんですが、文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で、最後の長崎奉行です。
 彼の職歴なんですが、安政元年徒歩目付として蝦夷調査。箱館奉行支配調役、やがて組頭に出世。
 武田斐三郎が設計した五稜郭の普請掛です。
 文久2年新徴組組頭、翌3年外国奉行となり、鎖港使節副使。帰国後免職、逼塞。
 許されて歩兵頭並となり、この慶応2年11月は関東郡代です。

(追記)うへー!!! 河津三郎太郎が五稜郭の普請掛であったことは確かなんですが、「文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で最後の長崎奉行・河津伊豆守祐邦と同一人物かどうかは、わからなくなりました。どうも鳥羽伏見の伝習隊指揮官に、河津三郎太郎という人物がいるようなんです。これから、ちゃんと調べてみます。


 安間純之進についても、函館市史(デジタル版)によれば、安政元年のペリーの箱館来港時、外国通の支配勘定役として、応接の一行の中にいます。そしてこの一行の中には、通訳として武田斐三郎がいました。

 つまり、もしかしまして、この航海書や字引は、武田斐三郎のもので、その要望により、函館から江戸に送られたのではなかったんでしょうか。
 この三日後、慶応2年11月18日、講武所が廃止になり、講武所の砲術部は陸軍所砲術部になっています。
 そして武田斐三郎は、陸軍所の大砲製造頭取に就任するんです。
 また、広瀬寅五郎が当初属していた紅林勘解由の後継者も、砲術教授方として、こちらにいたようです。

 憶測でしかないんですが、同年8月の時点で、すでに講武所廃止の方向はうちだされていて、広瀬寅五郎は、武田斐三郎が箱館で開いていました諸術調所の後始末のためにも、とりあえず箱館奉行所勤務に戻ったのではないでしょうか。
 としますと、間もなく陸軍所勤務になり、江戸へ帰ったのではないかと推測され、とりあえず杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」で、慶応2年の11月と12月を、見てみる必用がありそうです。

 次回、fhさまのご協力によりまして、「力石本加藤家譜」をもとに、武田斐三郎と広瀬冨五郎の関係を追ってみたいと思います。



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広瀬常と森有礼 美女ありき13

2010年12月03日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき12の続きです。

 えーと、まず。
 広瀬常と森有礼 美女ありき1において、「広瀬姓の幕臣で、旗本は一家しかない」ということが判明いたしまして、以下のように書きました。

「これ(寛政重修諸家譜 )に載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
 5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
 この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です」


 この広瀬吉利(吉之丞)の後継者なんですが、「寛政譜以降 旗本家百科事典」という本が図書館にあり、おおよそのことが、わかりました。

 広瀬伊八郎、70俵5人扶持。居屋敷・深川伊勢崎町254坪。拝領屋敷・深川寺町通57坪余。安政(1855)小普請戸川支配。

 伊八郎の父親は広瀬茂十郎(小普請)だそうでして、とすれば、広瀬吉利(吉之丞)の孫になるのか、と思えます。
 伊八郎は明治元年帰商。静岡へ行かず、江戸に残ったんですね。
 しかし明治3年、病気になって、養子の専三郎に家督をゆずります。
 専三郎は徳川家に帰藩し、相良勤番組之頭支配、5人扶持になりました。

 この本によっても、広瀬姓の旗本は、この一家しかありません。広瀬吉利(吉之丞)の本国が「下野」とされているのが、ちょっと気にかかりまして、もう一度、「寛政重修諸家譜」で確かめてみる必要があるんですが、ともかく、広瀬常の父・広瀬冨五郎(秀雄)が、旗本ではなかったことは、これではっきりしたと思います。

 広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたことなんですが、広瀬冨五郎=寅五郎としまして、慶応2年以降の寅五郎の動向は、杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」、慶応3年の前半も読んでみる必要がありそうです。あと、北海道立文書館の箱館奉行所文書に、ネットにあがっています以外の文書はないのか、というところでしょうか。
 静岡県士族ということは、新政府に仕える道も、帰農(あるいは帰商)の道も選ばず、一度は駿府へ行ったと思われ、静岡へ行った幕臣の史料がないものか、という点も気になっていました。「寛政譜以降 旗本家百科事典」の参考文献により、「駿遠に移住した徳川家臣団」という本があることがわかったのですが、これも国会図書館で見るしかなさそうな文献です。

 また私、広瀬常と森有礼 美女ありき11の内容を裏付ける史料をさがして、大洲まででかけたのですが、ひいーっ!!!なんと、「力石本加藤家譜」の写本を、伊予史談会が所有していまして、近くの図書館にあったんです!!! といいますか、現存する史料では、この写本にしか、明治2年以降の加藤家の話は載っていないようです。
 さっそく、見に行きました。
 明治4年10月、大洲藩上屋敷を加藤家私邸としたい旨を東京府に願った「邸地振替願書」や、中屋敷の処分に触れている同年12月の武田斐三郎(成章)の文書とかあり、私、広瀬冨五郎は、もしかして、大洲藩中屋敷の処分にかかわっていたのではないだろうか、と憶測していたのですが、その可能性が、ありそうな感じなんです。
 ただ、私、この明治のくずし字がろくに読めません!!!
 なにやら、あやしい読み取りでして、母にも読んでもらったのですが、いまひとつ。またまたfhさまと中村さまに解読をお願いしちゃいましたので、また後日。

 本日は、お常さんを主人公にしました短編小説二編の感想を、手短に。

へび女房
蜂谷 涼
文藝春秋


 上の本に収録されています「うらみ葛の葉」は、お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツと結婚しました花の視点から、青い目の子を産んだばかりの森有礼夫人・常を描いています。
 ちょっと怪談じみた書き方なんですが、ともかく上手い!!!
 「秋霖譜―森有礼とその妻」の創作ともいえます藪重雄義兄弟説を踏襲なさるなど、ろくに資料を読まれていないんですけれども、思わず引き込まれてしまいますところが、すごい筆力です。
 しかし、さすがに、最後の種明かしには、笑い転げてしまいました。
 有礼はえらい変人ですが、ピューリタニズムとシンクロしたモラリストの薩摩隼人です。絶対に、そんな「倫理」にはずれたこと、しませんってば!!!
 確かに上手いんですが、現実離れのしすぎ、です。
 フィクションはフィクションとしても、時代を映している、という意味のリアリティが、ありません。
 だけど、上手いから、困るんですよね。いくらなんでも、やくざな悪鬼にされたのでは、有礼もうかばれませんわ。鮫ちゃん、怒ってやって!(笑)
 
 史実離れのおとぎ話風お常さんの物語でありながら、時代を映している、という意味での傑作としては、山田風太郎氏の「エドの舞踏会」をあげることができます。


鹿鳴館の肖像
東 秀紀
新人物往来社


 上も開化ものの連作小説なんですが、冒頭の「鹿鳴館の肖像」が、お常さんのお話です。
 これはまた、だれもかれもが苦悩する善人でして、「うらみ葛の葉」を読んだ後では、ほっとするのですが、いくらなんでも、ジョサイア・コンドルの妻・おくめさんが実はお常さんだったって……、荒唐無稽にすぎまして、ちょっと真面目に読む気になれませんでした。

 このシリーズ、続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき12

2010年10月26日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき11の続きです。

 今回は、広瀬常と森有礼 美女ありき10でご紹介しました河内山雅郎氏の「開拓使仮学校女学校ー幻の北方帝国大学女子部」を参考に、開拓使女学校でのお常さんをさぐっていきたいと思うのですが、まずは最初に、河内山氏ががまとめておられます女生徒名前考から。
 開拓使女学校の女生徒の名前は、明治5年入校前の「女学生徒入校願」と入校後の書類では、55名中29名、半分以上が名前表記が変わっていまして、河内山氏は、丁寧にそれを調べておられます。ちなみに常は、変わっておりません。

 これは、明治5年に編製されました壬申戸籍の影響でしょう。
 江戸時代の女性の名前は、基本的にはひらがなです。「しの」でしたら、通常は「お」をつけて、「おしの」と呼ばれます。
 しかし、「しの」を変体仮名を使って表記しますと「志乃」というように漢字まじりになりますし、「篠」と漢字一字の表記を決めている場合もありました。「常」の場合がそうですよね。
 とはいえ、壬申戸籍ができますまでは、別にどう名前を表記するかが決まっていたわけでもありませんで、気分によって使い分けたりもしていたわけです。もちろん、戸籍ができましても、書簡の署名などは戸籍名が漢字でもひらがな、ということはいくらでもありましたが、書類に関しては、一応、戸籍名を書いたようです。
 で、河内山氏の女生徒名前考の中で、一人だけ、「女学生徒入校願」において、筆記者が名前を聞き間違えたのか、と思われる例があります。残りの28人は、「たみ」が入校後に「民」になっているとか、「喜代」が「清」になっているとか、表記のちがいですのに、大鳥圭介の娘「品」は、入校後に「雛」となっていまして、「ひな」を「しな」と聞き間違えて漢字をあてたのでは? と思われるのです。

 だいたい壬申戸籍作成にあたりましても、西郷従道が自分の名前を音読みしまして「りゅうどう(隆道)」と言いましたのを、筆記者が「じゅうどう」と聞き間違えて「従道」になった、という話が残っておりまして、実際西郷家の本名(名のり)には「隆」の字がつきますので、信憑性のある話です。
 戸籍ができました後にも、名前がいいかげんに表記されている例としましては、生麦事件シリーズで取りあげました久木村治休がいます。アジ歴の書類でも変動がありますが、明治14年の陸軍省の書類に「陸軍憲兵中尉久木村治休」とあって、どうやら治休に定まったようですのに、明治45年の鹿児島新聞では「知休」、「薩藩海軍史」では「利休」と、いずれも本人が生きていますのに、聞き間違いらしい名前が記録されています。
 岩下長十郎くんが、清十郎とされていたりするのも、それです。

 えー、薩摩の例ばかりあげるな、とおっしゃるかもしれませんが、開拓使は「チェストーッ! 名前でんどうでんよかが」と超いーかげんな薩摩閥が、牛耳っていましたのよ。「寅五郎」「冨五郎」と聞き間違えるくらいのこと、平気でしますわよ、きっと(笑)
 後、常の父・広瀬冨五郎が、入校後には広瀬秀雄になっている件ですが、これは壬申戸籍で、冨五郎(あるいは寅五郎)という通称を捨て、秀雄という本名(名のり・本来は源だか平だか藤原だか大伴だか越智だかの氏族名に続いたんです)を、戸籍名にしたわけです。
 樋口一葉の父・大吉は、幕臣になってからの通称は「為之助」だったんですが、やはり壬申戸籍で「則義」という本名で届け出ました。

  次いで、常の学友のお話です。
 実は河内山氏は、開拓使女学校に最初から最後まで在籍しました神尾栄、神尾春姉妹の縁戚にあたられるのです。姉妹に関しましては、これまで知られていなかった資料もお持ちで、詳しく書いておられます。「開拓使仮学校女学校ー幻の北方帝国大学女子部」を出される前に、「維新を生き抜くーある会津藩士姉妹の明治維新」という姉妹の伝記も書いておられるのですが、これも国会図書館にしかありませんから、手作りコピー本なのでしょうか。残念ながら、読ませていただいておりません。

 河内山氏は、神尾姉妹だけではなく、開拓使女学校卒業生が卒業後にどうしていたか、全員ではありませんが調べておられまして、しかし大方は、詳しい消息がわかりません。
 当然といいますか、広瀬常が一番詳しいのですが、これについては、森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」によっておられまして、私にとっての新しい発見は、この部分にはありませんでした。

 しかし、一人一人の女生徒のその後をたどろうとなさる河内山氏の熱意には、頭が下がる思いでして、彼女たちの生涯に思いを馳せますと、女学校そのものが愛おしくなってまいります。
 おそらく常も、日本を遠く離れ、あらためて女学校時代を、懐かしく思い出したりしたんじゃないんでしょうか。口ずさむ歌は、ぜひ、オールド・ラング・サインで(笑)

 で、神尾姉妹です。
 実は、神尾姉妹の名は、常が学校をやめて後、学校が札幌に移り、ほどなく廃止になる際に、その口実となった事件がありまして、そこに出てくるんです。
 以前も出しましたが、「北大百年史 通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)」(Ciniiにて無料で読めます)に、開拓使役人で、女学校廃校を取り仕切りました松本十郎の回顧が引用されています。
 私、広瀬常と森有礼 美女ありき6で、「また同じく松本によりますと、調所校長の下にいた福住三という幹事が、女生徒を個人的に女中のように使ったり、かなりうろんな人物であった、という話でして」と書いたんですが、その典拠が、上の引用なんです。「福住三が病気になって姉妹に看病させた」という話で、松本によれば「神尾春其妹栄ナルモノアリ。美ニシテ艶ナリ。福〔住〕三此姉妹ヲ愛ス」ということでして、これがスキャンダルになり、開拓使女学校を廃止するにあたって、どうも、このスキャンダルが利用されたらしいのですね。
 ただ、松本の回顧でも、スキャンダルが事実だったとは書かれていませんし、私は、「福住が美しい神尾姉妹を気に入り、病気になったとき、女中がわりに看病させたものだから、あらぬ噂が立って、それが廃校の理由として利用された」と受け取りました。
 河内山氏にとりましては、松本の回顧自体が、信用できないものであられるようでして、うーん、これは植松三十里氏の下の小説も、お勧めできないな、と。

辛夷開花
植松 三十里
文藝春秋


 いえ、決して、スキャンダルが本当だったと書かれているわけではないんですけれども。
 植松氏は、「女学生生徒表」は参考文献にあげておられますが、「女学生徒入校願」は見ておられません。
 「女学生生徒表」の方には、神尾姉妹の父兄について、なぜか詳しく載っておりませんで、だから、なんでしょうけれど、「お栄とお春は箱館の豪商の娘で、姉妹で入学していた。すでに箱館にいた頃から、イギリス人について英語を習っていたという。女学生の中では英語は別格のうえ、ふたりとも鼻筋が通った美人顔で、何かと目立つ存在だ」
 で、常と同室で仲良くなったという設定の福島照(元佐賀藩士の娘)に、「神尾姉妹、感じ悪かねえ。いっつもふたりして、ひそひそやりよってからに。いざとなると英語で、ツワーテル先生に取り入りよるし」とか「知っとう? あんふたり、オランダ訛りの英語は嫌だゆうて、何かと仮学校のアメリカ人の男の先生に、英語ですりよっとらすとよ」とか言わせまして、こう、金持ちの商人の娘なので、派手でハイカラで、人にとりいるのがうまい、というような感じに描いておられるんですけれども。

 河内山氏に代わって、言わせていただきます。ちがいます!!!
 事実は小説より奇なり。神尾姉妹は、会津藩士、それも百八十石、江戸常詰、留守居という上級藩士の娘だったんです。神尾家は、藩祖・保科正之の母方御由緒の家だそうです。母親の実家は家老職。
 つまり、神尾姉妹が「美ニシテ艶」でしたのは、江戸育ちの会津藩士の娘として、凛として垢抜けた立ち居振る舞いが身についていたから、なのです。

 姉妹の父は、鳥羽伏見の敗戦の後、姉妹を含む家族全員を会津へ帰し、江戸に残って、兵器調達と和平交渉を担当しました。やがて新潟、仙台へ移り、奥羽列藩同盟各藩の間を走りまわっていて、消息を絶ちます。
 姉妹とその母は、会津籠城の日、城門の閉鎖に間に合わず、郊外に逃れて、落城の日を迎えました。
 降伏後、会津藩の子女は、農家に割り当てられて耐乏生活を強いられましたが、そんな中でも学校が開かれ、姉妹は勉学に励みました。
 明治3年、会津藩は斗南へ転封となり、姉妹も母とともに斗南へ行き、さらに貧しく、食べるにも困るような生活をしていたのですが、明治4年春、行方不明だった父親から、突然、連絡があります。父は、どういう事情だったのか、明治2年の10月から開拓使に奉職し、必死になって家族をさがしていたのですが、見つけられないでいたのです。
 父は函館在勤で、人並みの暮らしをしていまして、姉妹たちは函館へ行き、開拓使が女子留学生を募集しているという知らせに、勇んで応募しますが、東京在住ではなかったために、間に合いませんでした。
 明治5年、東京に女学校ができることになり、真っ先に応募します。函館からの応募は、姉妹を含んで6人でした。
 姉妹は、女学校が札幌に移った後も在学し、明治9年の廃校まで学びます。
 そのころの神尾家は、父が函館に単身赴任で、母と弟は東京へ移っていました。
 姉妹も東京へ帰りますが、結婚相手はともに、開拓使仮学校の生徒で、ライマンの助手になり、技術を身につけた男性でした。

 在学時の話にもどりますが、明治6年の末、皇后が開拓使仮学校へ行啓され、女生徒たちも日頃の成果をご覧にいれます。
 その中心になりましのが、以下の4人です。

 福島照(入学時16 旧佐賀藩士で開拓使出仕者の孫)   奧地誌畧暗唱講義並習字英語作文
 千葉震(入学時16 旧鳥取藩士・開拓使権大主典の娘)  勧善訓蒙暗唱講義並習字英文翻訳
 広瀬常(入学時16 旧幕臣の娘)            史畧暗唱講義並習字裁花
 神尾栄(入学時15 旧会津藩士・開拓使中主典の娘)   史畧暗唱講義並習字裁花

 当日のそれぞれの発表内容なのですが、勧善訓蒙は、箕作麟祥訳述の『泰西勧善訓蒙』、史畧は大槻文彦訳述の『萬國史畧』だろう、と思われます。
 常の年齢が二つさばを読んだものであったことは以前に述べましたが、他はわかりません。
 申告した年齢で、入校時に9歳から16歳までと幅広く、当然、年齢が高い方が優秀だということはあるのですが、特にこの4人が、模範生であったみたいです。
 この日、女生徒で最優秀に選ばれましたのは、福島照と神尾栄でした。

 河内山氏は、神尾栄の作文二編を一部分、収録してくださっていまして、常の作文二編は、「新修森有礼全集」に全文収録してくれています。同じ出題のものですので、くらべてみることができます。
 そのうち「地球四季の変化を起こす論」は、父母への手紙文の形で書くように、という注文があったもののようで、神尾栄のものは、以下です。

「天ハ丸クシテ動キ地ハ方ニシテ静カナルモノト存スレドモ只今ニテハ毎度申上候トオリ当校の御高恩ヲ戴キ勉強イタシテ居リ候ママ地球ノ自転公転イタシ候モノト存ジ候……」
「天が丸くて動き、地が四角で静かなものと思っていたのですが、今は、いつも申し上げております通り、開拓使学校の御高恩をいただいて勉強しておりますので、地球が自転公転しているのだと知るようになりました」

 この部分しか載っていませんので、即断かもしれませんが、とても素直で、お行儀のいい文章だと思えます。
 一方の常なんですが、これがおもしろいんです。前後の挨拶文をはぶいて、引用します。
 
「……私事も四季の変化いたし候ハ何れの所より生し候と考へ様々な書物を見候ても固より愚なる私故なかなか解し候まま皆殿方ニ伺候所其仰せにハ地球太陽の周囲お公転する時日光を真直ニ受時有り、又ハ斜に其光を受るニ従ヒ春夏秋冬を生し候事御仰せ被下候へ共御満へ様御事如何お目しにあそハし候也伺度存候……」
 「私、四季が変化するのはどういう理由によるのかと考え、様々な書物を読んでみたのですが、もともと馬鹿ですからわかりませんで、殿方に伺ってみましたの。その仰せでは、地球が太陽の周囲を公転する時、日光をまっすぐに受けるときがあるけれども、だんだん斜めに受けるようになって春夏秋冬が生まれるのだということですの。どう思われます? ご感想をうかがいたく存じております」

 他の作文もそうだったのかどうかわからないのですが、常は、両親に問いかける形をとり、それに対する返信まで、作文しています。同じく、前後の挨拶を省きまして。

「……今日ハ又無すかしき御尋に預り真ニ當惑いたし候へ共、しかし愚考にハ地軸正しく其黄道に直立せすして太陽の周囲を公転するにより四季の変化を生し候事と存をり候へ共未た其の実を存せす候まま宜しく察被下度願上参らせ候……」
「今日はまた、なつかしいお尋ねだね。困ってしまうが、地軸が正しく黄道に直立していないので、太陽の周囲を公転すると四季の変化が生まれるのだと理解しているけれど、事実がどうなのかは確かめたことがないので、察してくれることを願います」

 い、い、いや、なんか……、すごいです!!!
 茶目っ気があって、才気があって、理解力にすぐれ。
 しかし案外、律儀で端正な神尾栄女と仲がよかったりしまして。
 ともかく、惚れ直しました。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき11

2010年10月24日 | 森有礼夫人・広瀬常
広瀬常と森有礼 美女ありき10の続きです。

 まずは河内山雅郎氏がお送りくださいました原本の画像から。

 

 「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長屋 静岡縣士族広瀬冨五郎長女 広瀬常女 申歳拾六」

 fhさまのご指摘通り、「長屋」でした! ありがとうございます。

 となりますと、「女学校生徒俵」の方には、「宿所 第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」と、ありまして、開拓使女学校時代の広瀬家の住まいは、元大洲藩上屋敷、加藤泰秋邸の門長屋であった、と断言できます。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上を書きましたときから、青石横丁が小三区ではありませんことにとまどい、あるいは元大洲藩邸の門長屋なのでは? と思いつつ、確証のないまま、広瀬常と森有礼 美女ありき1で、妄想の形で書いたことだったんですが、はっきりしたと思います。

 下は、「明治八年 東京区分絵図」の第五大區部分です。(江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京 (古地図ライブラリー)より)




 地図の真ん中左手、細く水色で塗っていますのが青石横丁です。西黒門のあたりから、下谷中徒町を元大洲藩邸「加藤家」に向かっています。この緑色で塗られた部分は七小区です。
 赤い線が小区の境界でして、六小区と三小区が同じ紅色で塗られていてわかり辛いのですが、「加藤家」のすぐ上の路地に赤い境界線がありますので、「加藤家」は三小区です。
 そして、緑ベタの七小区と紅ベタの三小区の堺を縦に走っています通りが、泉橋通です。地図は切れていますが、この通りをずっと下へたどりますと、神田川にかかる和泉橋があるんです。
 つまり、当時広瀬一家が住んでいましたのは、青石横丁の突き当たり、泉橋通に面した、加藤泰秋邸の門長屋、ということになります。住所でいえば、三小区下谷徒町です。
 明治8年の加藤泰秋邸の敷地は、幕末の東都下谷絵図の大洲藩上屋敷の敷地を、そのまま保っています。
 加藤泰秋は、珍しく、大正時代まで、この上屋敷を自邸にしておりまして、広瀬一家が加藤家の長屋に住んでいたといいますことは、後述しますように、加藤家に傭われていた可能性が、非常に高いのです。

 で、前回書きましたが、武田斐三郎が住んだと思われる元大洲藩中屋敷なんですが、「加藤家」の右、陸軍造兵司御用地(元佐竹右京太夫上屋敷)の左の区画にありました。住所は下谷竹町です。この明治8年の地図では、消えています。

 次に、広瀬寅五郎の職歴です。

広瀬寅五郎 子年四十三 高三十俵三人扶持内○二人扶持元高○扶持御足扶持外役扶持三人扶持 本国生国共下野
 嘉永七寅年十一月御先手紅林勘解由組同心 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役 元治元子年四月講武所勤番被仰付候 ○田安仮御殿於焼火之間○衆中○被仰渡 同年五月講武所勤番組頭勤方見習○候旨井上河内守被仰渡候段沢左近将監申渡 同年八月箱館奉行支配定役被仰付候御書付被仰渡候旨赤松左衛門尉申渡候


 これにつきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき1の内容を訂正しなければいけないことが、かなりあります。

  まず、御先手紅林勘解由組同心なんですが、紅林勘解由について調べてみましたところ、紅林桂翁(勘解由)が弘化4年(1847)に御先御鉄砲頭(御先手筒頭)になっていまして、安政3年(1856)に病気で引退しますまでこの役についています。
 紅林勘解由の名と家督を継ぎましたのは、どういうわけか実子の養子、つまりは養孫だったようでして、この人が砲術教授方を勤めていますので、フランス兵式に関係していますのは、こちらのようです。

 次いで、箱館奉行所の職制について、わかっていなかったことが多々ありまして、以下、参考書は新北海道史二巻 通説一(昭和45年、北海道編集発行)です。
 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役「調役下役」は、安政6年(1859)4月に「定役」と改称されました。「出役過人」の部分は、意味するところが、いまだによくわかっておりませんで、どなたか、ご教授のほどを。
 ともかく、安政何年かに箱館奉行所に転任になりました時点で、寅五郎は、すでに同心からぬけだし、定役か、それに近い身分になっていた、ということのようです。
 以下に、函館奉行支配の属使を身分順にあげます。

 組頭 組頭勤方 調役 調役並 調役下役元締 調役下役(定役) 同心組頭 同心 足軽

 もう一つ、箱館奉行所の定役といいましても、箱館在勤とは限らず、室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の10支所に長として調役が配され、そのうち室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷には、それぞれ3~5個所の調役下役(定役)常駐支所があり、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の調役の下にも、それぞれ2~4名の調役下役(定役)がいた、ということです。各地、その調役下役(定役)の下に同心、足軽がいます。
 これに箱館在勤者が加わりますから、調役下役(定役)は数十人にのぼったわけです。

 幕府が、安政2年(1855)、松前藩の支配としていました蝦夷地(北海道)の大部分を再上地させ、箱館奉行の管轄としましたときから、もしかしますと、武芸がすぐれている上に事務処理に長けた者が、僻地勤務覚悟で箱館奉行所赴任を志願しますと、同心身分からぬけ出しての出世が早かった、のかもしれません。

 で、広瀬寅五郎=冨五郎としまして、です。
 明治5年に元大洲藩主・加藤泰秋に傭われているらしいことについて、勝之丞さまからアドバイスをいただきました。
 同心株を買ったということは、樋口一葉の父親と同じく、財産管理の事務処理において、かなりのやり手だったのではないか、ということなんです。
 さっそく、下の本を読み返してみました。

 
樋口一葉 (1960年) (人物叢書 日本歴史学会編)
塩田 良平,日本歴史学会
吉川弘文館


 甲州の中農の家に生まれた一葉の父・大吉(則義)は、同村の娘・あやめと惚れあいましたが、あやめの親が結婚を許さないままに、妊娠8ヶ月。駆け落ちして江戸へ出て、まず幕臣株を買って蕃書調所に勤務していた郷里の先輩を訪ね、大吉はしばらくそこで働き、あやめは子供を産んだ直後から、旗本の家へ乳母奉公に上がります。
 次いで大吉は、大番組与力に仕えて一年ほど大阪城勤めをし、江戸に帰って、勘定組頭・菊池氏の個人秘書を務め、菊池氏が大目付兼外国奉行に昇進すると、公用人に抜擢されたといいますが、この間、あやめは奉公をやめて、菊池邸内の長屋に、夫とともに住むようになりました。
 大吉は、これによって同心株を買うだけの蓄財をしたわけなのですが、定められた武家奉公の給金だけで、貯まるものでもないでしょう。
 武家奉公には、その家の管財も含まれます。
 大吉が同心株を買って、陪臣ではなく、幕臣となりましたのは、慶応3年のことで、翌年には明治維新です。
 大吉は、そのまま新政府に仕える道を選び、やがて東京府の役人になりますが、明治9年に免官となった後、金融、土地売買、近所の寺院の貸地の差配などをしたといいます。

 おそらくは、なんですが、広瀬寅五郎もそういった武家奉公で蓄財し、同心株を買ったのでしょうし、土地売買や貸地の差配など、財産管理の能力を買われて、明治4年の廃藩置県で、財産整理の必要があった加藤家に傭われたのではないのでしょうか。
 娘の常が森有礼と結婚して後の話なのですが、広瀬秀雄が、森家の財産、家政管理をしているらしいことが、有礼の家族宛書簡(「新修森有礼全集」収録)でうかがえます。
 以前にも書きましたが、当時の高級官僚はものすごい俸給をもらい、かつての大名屋敷の払い下げを受け、暮らしも財産も小大名級なんです。江戸の武家奉公で財産管理に慣れ、本物の大名・加藤家のそれも任されていたとしましたら、有礼の信頼を得たのも、頷けるように思うのです。

 最後に、あるいは妄想のしすぎかもしれないのですが。「大洲市誌」によりますと、明治24年(1891)、常が有礼と離婚して5年後のことになるのですが、加藤泰秋は突然、北海道虻田郡幌萌に広大な農場、真狩村にもっと広大な牧場を買い、かつての大洲藩領から開拓民を募りました。これって、広瀬秀雄がらみではないのだろうか、と、ふと思ったりしました。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき10

2010年10月20日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき9の続きです。
 とはいいますものの、今回、内容の上からは、広瀬常と森有礼 美女ありき1の検証、ということになりまして、実は、お常さんの父・広瀬秀雄について、新たな資料が見つかったんです!

 国会図書館の蔵書の検索をかけましたら、河内山雅郎氏の「開拓使仮学校女学校ー幻の北方帝国大学女子部」という本が出てきまして、2010年1月、今年の発行です。見たい!と思ったのですが、他で検索をかけてもまったく出てこない本でして、新しい本ですから、オンラインでまるごとコピーをしてもらうこともできません。
 結局、国会図書館へ出かけました。
 驚いたことに、手作りのコピー本だったのですが、実によく調べられたすぐれものです。
 他にも見たいものがたくさんあり、時間が限られていたものですから、ざざっと見て、必要な部分のコピーを頼みました。
 なによりの収穫は、明治5年の「女学生徒入校願」という書類です。
 これまで、私が読みました限り、開拓使女学校の生徒名簿のようなものは、明治6年9月の「女学校生徒表」のみでした。そこに出てきます広瀬常に関する情報は、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上に書いていますが、河内山氏のご著書から再録しますと、以下です。

 宿所   第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門
 拝命入校  壬申(明治五年)九月十八日同十月十九日
 本貫生國  静岡県武蔵
 父兄引請  父士族 広瀬秀雄
 年齢    明治六年九月、十六年四ヶ月


 これが、ですね。一年前の「女学生徒入校願」によりますと「広瀬常 広瀬富五郎長女」になっているというのです!!!
 「うわあああああっ! 富じゃなくて、寅の可能性はないのっ???」と思った私は、収録されております原本の写真を必死になって虫眼鏡で見たのですが、コピーのコピーのコピーであります上に、小さすぎまして、さっぱりわかりません。
 突然、ご迷惑ではなかろうかと思いつつ、がまんしきれず、著者の河内山氏にお電話いたしました。
 河内山氏は、快く応対くださり、なんとこの本が10数冊作っただけのものだとわかったのですが、なんて……もったいない!!! 私、開拓使女学校についてのこんなに詳しい本は、初めて見ましたのに。

 河内山氏は、北海道大学文書館所蔵の原本をデジカメにおさめられたそうでして、ありがたいことに、問題の個所を印刷して送ってくださるとお申し出くださいました。
 待ちきれず、ご著書の小さな写真を、スキャナーで取り込み、拡大いたしましたのが下です。

 

「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長雇 静岡縣士族広瀬富五郎長女 広瀬常女 申歳拾六」

 確かにこれは、どう見ても、寅五郎ではなく富五郎です。
 しかし、開拓使の役人が聞き取って書いた書類と思われますだけに、広瀬秀雄=寅五郎の可能性は、格段に高まるのではないでしょうか。
 もう一つ、「加藤泰秋長雇」の部分なんですが、「雇」と読んでいいのかどうか、自信がありません。もしかして、「住」なんでしょうか? どなたか、ご教授のほどを。
 加藤泰秋は、最後の大洲藩主です。

  俄然、広瀬常と森有礼 美女ありき1でご紹介しました下の本の広瀬寅五郎の経歴を、もっと子細に検討してみよう、という気になりました。

江戸幕臣人名事典
クリエーター情報なし
新人物往来社


 広瀬寅五郎 子年四十三 高三十俵三人扶持内○二人扶持元高○扶持御足扶持外役扶持三人扶持 本国生国共下野
 嘉永七寅年十一月御先手紅林勘解由組同心 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役 元治元子年四月講武所勤番被仰付候 ○田安仮御殿於焼火之間○衆中○被仰渡 同年五月講武所勤番組頭勤方見習○候旨井上河内守被仰渡候段沢左近将監申渡 同年八月箱館奉行支配定役被仰付候御書付被仰渡候旨赤松左衛門尉申渡候


 以上ですべてですが、○は原本が虫食いかなにかで、読めないみたいです。
 まず年齢なのですが、最初、無知にも、この記録を作りました時点で子年生まれの43だった、ということなのか、と思ったのですが、「子四十五歳」「丑年四十三」」などという人物もいて、ちがうみたいなんですね。
 どうも、載っています職歴の最後の年にいくつだったか、ということみたいでして、とすれば、元治元年(1864)甲子に43歳です。これは数えでしょうから、文政3年(1820)の生まれ、だったのでしょう。
 としますと、嘉永3年(1850)の敵討ちのときに、満30。嘉永7年(1854)、同心になったときには、すでに34だったわけです。
 また、職歴の最後が元治元年ですから、元治元年の4月に講武所勤番となって箱館から江戸へ帰り、同年8月には支配定役となって再び箱館勤務となったわけです。実に慌ただしいのですが、これが、調べてみますとどうも、武田斐三郎に同行していたらしいのです。

 つまり、広瀬常と森有礼 美女ありき1で、以下のように妄想いたしましたことが、かなり信憑性をおびてきます。

常が、3つから9つの年まで函館で過ごしたとなりますと、その間に五稜郭の新しい奉行所ができたことになりまして、父親の秀雄は、大洲藩出身で五稜郭設計者の武田斐三郎と知り合っていたかもしれませんし、だとすれば、開拓使女学校時代の常の東京の住所、「第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」というのは、大洲藩邸の長屋に住まわせてもらったのかもしれなかったり

 武田成章(斐三郎)は伊予の出身者ですので、近くの図書館に伝記があります。
 以下、参考書は、愛媛県教育委員会編「愛媛の先覚者」(1965年)と、白山友正著「武田斐三郎伝」(昭和46年 北海道経済史研究所発行)です。

 斐三郎は、伊予大洲藩(6万石)の下級藩士の次男として、文政10年(1827)に生まれました。兄の亀五郎敬孝が7つ年上で、広瀬寅五郎と同じ年です。
 父親が早くに死に、次男であったため、斐三郎は母方の家業である医者を志して、弘化5年(1848年)大阪の緒方洪庵塾に入門しますが、蘭学を学ぶうち、洋式兵学に関心をよせます。2年先輩に大村益次郎がいますし、時代が時代ですから、医学より兵学、という流れだったのでしょう。
 嘉永3年(1851)、緒方洪庵の紹介により、江戸の伊東玄朴のもとに身をよせ、佐久間象山門下となります。
 嘉永6年(1853)、ペリー来航。同年、斐三郎は幕府に出仕し、同時に、長崎出張となり、ロシア船の応接に参加。翌嘉永7年(安政元年 1854)、箱館出張。そのまま箱館詰となり、軍備顧問と来航外国人の応対を務めることになりました。

 嘉永7年の日米和親条約は、アメリカ船の寄港地として、下田と箱館を開港する、というものでして、条約締結直後、さっそくペリー艦隊は箱館に寄港します。斐三郎の箱館出張も、そのためだったわけなのですが、同年、ロシアのプチャーチンが箱館来港。
 プチャーチンは全権を帯びて、ペリーと並行して日本に条約締結を迫っていました。ところがその嘉永6年、クリミア戦争が勃発し、極東においてもロシアは英仏艦隊と対峙することとなり、プチャーチンはそれを警戒しながら、慌ただしく日本に開港を迫ることとなったのです。

 クリミア戦争の極東における戦いにつきましては、wiki-ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦をご覧下さい。
 この記事には、「1855年5月に英仏連合艦隊は再度ペトロパブロフスクを攻めたがもはや無人であった」と書いてあるのですが、にもかかわらず英仏艦隊は、多数の戦病者を出したらしいのですね。
 といいますのも、「武田斐三郎伝」によりますと、安政2年(1855)6月7日、仏艦シビル号が戦病者およそ40人を積んで箱館入港。同月14日には、同じく仏艦ウィルギニー号が入港。函館奉行・竹内下野守は、両艦乗組員の上陸を許可し、シビル号の戦病者については、実行寺を開放して療養を認めます。この厚遇を伝え聞いたためか、7月29日、長崎へ向かっていた仏旗艦コンスタンチン号が入港。
 英艦も入港したようなのですが、なにしろ仏艦は傷病者の治癒を待ちましたので、長期滞在。
 この機会を、斐三郎が見逃すわけはありません。
 軍備について、わけても砲の製造について、コンスタンチン号の副艦長に指導を乞いました。
 フランス側は大乗り気で快諾し、斐三郎はこのときから、フランスと縁を持ちました。

 また副艦長は、長崎の防備の薄さを指摘し、堡塁構築の必要を語ったというのですが、それにかぶせて艦長は、首都パリ防衛のための要塞の有様を述べ、その図面が船中にあるから写し取ってかまわない、と言ったんだそうなのです。
 いきなりパリかよ!!!なんですが、実はこれが、五稜郭建築に向けて、どうも、大きく影響したらしいのですね。
 当初は、港湾防備のための堡塁の建設と、奉行所の施設は、別なものにする予定だったのですが、どうもこのときから、ヴォーバン式(稜堡式)要塞が浮上し、その中央に奉行所が位置することとなったようなのです。
 いったい……、どんな図を見せられたのかわかりませんが、竹内奉行の脳裏には、防備堅固で美しく生まれ変わった箱館の姿が浮かび上がり、計画は壮大になっていったんでしょうね。
 で、数年後、実際に遣欧使節としてパリを訪れた竹内下野守は、どんな感慨を持ったのでしょう。
 五稜郭は、資金不足で中途半端なものとなり、設計者の斐三郎が悪くいわれたりもしてきたのですが、斐三郎が責任を負うべき話ではないでしょう。

 話がそれましたが、11年間、箱館に勤務した斐三郎は、五稜郭や弁天台場などの設計を手がけるとともに、溶鉱炉の開発にも従事。そのかたわら、安政3年(1856)には諸術調所を開いて、洋式兵学を教えます。砲術、航海術、測量術、聞きかじりの英語、ロシア語です。生徒は幕臣に限りませんでしたので、長州の山尾庸三、井上勝も、弟子になっています。
 斐三郎が英語を、函館在住のアメリカ人に学んでいたことは伝えられているのですが、フランス語については、伝えられていないようです。
 しかし、どうなんでしょうか。前述のフランス軍艦との接触がありますし、安政6年(1859)の暮れにはメルメ・カションが箱館に着任します。斐三郎は、江戸転任となった後、フランス軍事顧問団のもとで仕事をし、維新直後にはどうやら、フランス語を教えているようですので、箱館時代から習っていたのではないか、と推測してもよさそうです。

 さて、広瀬寅五郎です。原本虫食い状態で、安政の何年に箱館に赴任したのかは、わかりません。
 しかし、どうやら確実に、斐三郎と親しくはしていたようなのです。
 斐三郎は、元治元年(1864)4月、江戸出張を命じられます。蝦夷巡察中の迅速丸に便乗して、5月に江戸着。7月23日付けで開成所教授に任じられ、挨拶と引っ越しのため箱館へ戻り、8月、箱館を離れます。
 つまり、元治元年の寅五郎の江戸転任は、斐三郎の足取りとぴったり重なり、共をしていたものと推測されるのです。

 斐三郎の開成所教授は長くは続かず、同年、大砲製造頭取。以降、維新まで、大砲の国産化に取り組み、慶応3年(1867)春からは、フランス軍事顧問団のもとで、ナポレオン砲製造の技術を習得しようと奮闘します。
 斐三郎の兄、敬孝は、大橋訥庵門下にいたこともある勤王家で、大洲藩周旋方として京にあり、薩長側について活躍していました。藩主・加藤泰秋の姉が長府毛利氏に嫁いでいたりもしまして、小藩ながら、王政復古のクーデター、鳥羽伏見にかけて、鮮明に反幕陣営に与したんです。
 幕府倒壊にあたって、斐三郎は出身藩の動向とも無縁でいられず、身を潜め、結局、明治元年の暮れに松代藩に招かれ、フランス式士官学校の教授を務めます。明治2年8月、開拓使からお呼びが掛かりますが断り、翌3年暮れ、松代士官学校廃校により、東京へ。当初は、松代藩邸にいて、一ヶ月ほど桜田門外旧井伊邸にいたのち、下谷竹町に居を定めました。
 ところで、大洲藩の中屋敷は、上屋敷のすぐそばにあり、この一帯、下谷竹町と呼ばれていたんです。

goo古地図 江戸切絵図 東下谷-1

 ここでどうも、斐三郎はフランス語の私塾を開いていたらしいのですが、明治4年(1871)4月、フランス兵式を採用した兵部省からお呼びが掛かり、出仕の運びとなりました。

 一方の広瀬寅五郎なんですが、慶応2年(1866)の函館奉行所履歴明細短冊には、定役として名前が見えます。
 しかし、杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」、慶応3年の暮れからの部分を、国会図書館でコピーして見てみたのですが、杉浦奉行とともに箱館を引き揚げた中に、広瀬寅五郎の名はありません。
 どうも、感触としましては、慶応3年中に役職が変わって江戸へ帰っていたのではないのか、という気がします。静岡県士族、ということは、そのまま新政府に仕えたわけではなさそうだから、です。
 で、明治5年に元大洲藩主・加藤泰秋に傭われ、大洲藩上屋敷に住んでいたのですから、これはどうも、斐三郎の世話だったのではないのか、他に大洲藩との接点はないだろう、と思うような次第なのです。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき9

2010年10月08日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき8の続きです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 前編後編下で書きました、下の本が発売されました。

辛夷開花
植松 三十里
文藝春秋


 とばし読みしかしてないんですけれども。
 このお常さん、怖いんですっ!!!
 なんといいますか……、テーストは「徳川の夫人たち」文明開化判!!!
 えー、広瀬寅五郎=秀雄説をとっておられますが、函館奉行所履歴明細短冊(慶応二年)では定役ですのに、なぜか同心から調役まで出世して旗本、ということになっていたりしまして、常は旗本の一人娘で、美人で、いやーな感じにえらそーなんですの。

 しかも、ですね。
 「徳川の夫人たち」の主人公・永光院お万の方は、ですね。公家の娘の誇りはあっても、そこにとどまることなく、なぜ公家が落魄れているかを考え、与えられた環境でせいいっぱ自分を生かし、春日局との戦い方も見事で、秘めた恋にも共感がわくんですが、この小説のお常さんはただただ西洋かぶれの白人男好きでヒステリーな感じでして、「わあああああっ、無名のお芋ちゃんたちかわいそう!」「お里さんもお広さんも、かわいそう!」なんです。


 だいたい、森有礼全集を見ましたら、末っ子の有礼は明治3年に分家しておりまして、本家の跡取りは、有礼の長兄の遺児、有祐です。つまり広瀬常と森有礼 美女ありき2で書きましたが、クララ・ホイットニーが「「王子さまみたい!」「これほど洗練されて優雅な子はほかに日本にはいない!」「美の典型!」」と絶賛した有祐少年が本家の跡取りですし、その母が広さんです。なんでその広さんを、横山家の嫁にして、底意地の悪い同居親族に仕立てなければならないのか、まったくもって、私にはわかりません。
 文庫で読めます「勝海舟の嫁 クララの明治日記」では、ホイットニー一家の来日は明治8年8月で、森有礼と常の結婚式(2月)のときにはまだ来日していませんのに、していることとなり、まあ、それはいいとしまして、有礼の両親と広さん、有祐の本家一族は、有礼と常の新婚分家夫妻とは、別所帯だったらしいことが読み取れますのに、同居にしてしまい、気の毒な里さんは、西洋嫌いで、絵に描いた鬼婆のような姑にされてしまってます。
 えー、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上で、「常が明治8年12月30日、長男の清を生んだときに、取りあげたのは、シーボルトの娘イネではなかったか」と推測したんですが、ちょうど、そのわずか15日ほど後の平成9年1月14日、クララが同じ敷地の森本家を訪ねた描写があります。以下、「クララの明治日記」より引用です。

今日、神様のお顔を見、お手を感じる厳粛な出来事があった。森さんのおばあさま(里)は、先頃卒中におかかりになった。とても親切な方なので、私たちは皆気づかっていたが、悲しいことに、今にも去ってしまいそうな魂のために、木と石の神様に随分祈願をなさっておられる。昨夜お祈りの後で、母が有祐さんに、おばあさまはイエス様のことを聞いたことがおありになるかどうか尋ねると、有祐さんは、いいえ、と言った。母はいい種を蒔こうといつも心掛けているので、有祐さんにおばあさまがいつか、お祈りや、神様についての話をお聞きになりたいかどうかをうかがって下さい、と言った。有祐さんはお辞儀をして、聞いてみますと答えたが、間もなく走って戻って来て、おばあさまがすぐに母に来て欲しいと言っていらっしゃる。と言った。(中略) 森さんのお父さまと、背の高いお孫さん、それから日本人があと二人、一部屋で将棋を指していた。そして別の部屋に、屏風で仕切った陰におばあさまが、左側がすっかり麻痺しておられるので、とても苦しそうに寝ていらっしゃった。日本式の寝床なので、私たちはそばに坐り、ヒロ(広)と少し話をした。母がお祈りを始めると、部屋にいた人たちはは皆低くお辞儀をした。(後略)

 常の出産時、里さんは卒中で倒れ、半身不随になっていたことがわかりますし、中心になってそのめんどうを見ていたのは、本家の嫁である広さんであることも、はっきりします。里さんと広さん、二人して初産の常をいじめまくったって、どこから思いつかれたのやら。
 また広さんは、常より先にホイットニー一家と知り合っていますし、里さんは病床まで、ホイットニー夫人とクララを入れたんです。有礼の密航留学が決まったとき、「チェストー!!! 気張りやんせ、金之丞(有礼)!」と大喜びした里さんが、外国人嫌いのはずがないじゃありませんか。
 この翌日、クララはこう書いています。

今日、森さんのおばあさまから母にお祈りに来て欲しいとというお使いが来た。今度は通訳もつけていらっしゃり、ご自分の神様は信じる価値がないから、もっといいものが欲しいと言われた。

 まあ、ですね。ここらへんのクララの記述を読んでいますと、クリスチャンではない私などは、既成のプロテスタントもけっこうカルトじみてるなあ、と思うのですが、クララの母・ホイットニー夫人がとてもいい人で、里さんの身をほんとうに案じていたのはよくわかりますし、里さんはその博愛の情を感じとって、キリスト教に帰依してもいい、と思ったんでしょうね。
 おそらく、夫からか息子からか勧められて、八田じいさまの「大理論畧」を読んでいたでしょうし、有礼は「キリスト教の神も日本の神も同じだから」なんっちゃって理論を語っていたでしょうし、愛息のすることを、逐一理解するだけの教養を、里さんは備えていたと思いますわよ。単に、英語がしゃべれないだけで。



 で、なんといっても呆然といたしましたのが、「ライマンなんかに惚れるかあ、普通???」ってところでしょう。広瀬常と森有礼 美女ありき6で書きましたが、ライマンって、あきれた上から目線のいやーな男ですし、松本十郎は「常は断った」と回想しているんですし。
 おまけに、安の父親はゆきずりのアメリカ人設定で、恋する常はヒステリー状態。理解に苦しみます。
 最後に、私的には、「鮫ちゃんが出てこないっ!!!」が、けっこうな不満かな(笑) 鮫ちゃんは、有礼の魂の伴侶ですわよ。

 すみません。植松三十里さま。小説ですものね。同じ資料を材料にしましても、いろいろな書き方があるのは百も承知です。
 しかし、常を調べているうちに、里さんも広さんも大好きになりました私としましては、ちょっと黙ってはいられない気分でした。
 言いたいことを言い終えましたので、ギャグだと思って楽しむことにします。

 このシリーズ、続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき8

2010年09月21日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき7の続きです。

 今回は、前回ギャグにしましたように、なぜ広瀬常が、森有礼との結婚を望んでいなかったと私が考えたか、その理由について、ちょっと書いてみたいと思います。
 「若き森有礼―東と西の狭間で」において、犬塚孝明氏は、常にとっての有礼の求婚は、「まさに玉の輿であった」と書いておられます。
 
 これは、おっしゃる通りでしょう。
 この当時の官員は、ものすごい給料をもらっていまして、位階なども、ですね、森有礼クラスになりますと小大名級。おまけに東京の屋敷は、元大名屋敷の払い下げを受けていたりします。
 森有礼全集の伝記資料によりますと、有礼は、明治6年(1873)、帰国当初は仮住まいで、翌7年(1874)、木挽町に屋敷をかまえています。明治7年のいつからなのか、正確にはわからないみたいなのですが、この屋敷に西洋館を建てて、翌8年(1875)2月、常とのシヴィルウェディングを執り行い、同年8月には、アメリカから商法講習署の教授として招きましたホイットニー一家を、この洋館に住まわせているんです。
 ですから、一家の長女で、当時15歳のクララ・ホイットニーは「勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉」
におきまして、この屋敷の様子を書き残してくれています。以下、引用です。

「私たちの家はこの辺で一番大きい家で、馬車道がついている門が二つあって、一つにはこぎれいな小さな門番小屋がある。(中略)台所はこの家と森さんのご両親の家との間にあり、台所の隣は浴室である。中庭はとても広く、そこを下りると庭園があって、日本人の家族が管理している。この家族は庭の中にあるきれいな小さい家に住み、すべてに行き届いた手入れをしている」

 これを読みまして私、元大名屋敷だろうな、と思い、調べてみました。
 木挽町10丁目で、采女町の静養軒の隣、ということでして、静養軒は、東銀座の現在の時事通信ビルにありました。となれば、有礼邸は、現在の銀座東駐車場を中心に、おそらくは新橋演舞場も含む一帯と思われます。これを幕末の切絵図で見ますと、松平周防守屋敷でして、あるいは隣の稲垣若狭守屋敷も含まれるかもしれませんで、あきらかに小大名屋敷です。ここいら一帯が、明治4年の東京大絵図では、外務省御用地になっていますから、払い下げを受けたみたいですね。

 薩摩出身の高級官僚であります有礼は小大名。広瀬常は食べるにも事欠く旧幕臣の娘。まさに玉の輿なのです。
 おまけにもってきまして有礼は、女子教育の推進者ですし、「妻妾論」で、夫婦間において貞節を守る義務は男性にもある、としまして、西洋流に女性を尊重する結婚観の持ち主、ということで、常にとってのこの結婚は、通常、この上ない良縁であったかのように語られます。
 しかし果たして、常はこの玉の輿を、ありがたいものと受け取っていたのでしょうか。
 経済的には、確かにそうでしょう。しかし、気持ちの上においてどうだったか、ということなのですが。
 参考書は下の二冊だけではないんですけれども、いろいろな例を参照しまして、幕末から明治へかけての下級士族の女性の結婚、恋愛観を下敷きにし、「妻妾論」を書いた有礼の意識と、それを受け止める常個人の意識とを、私なりにさぐってみたいと思います。

武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)
磯田 道史
新潮社


不義密通―禁じられた恋の江戸 (講談社選書メチエ)
氏家 幹人
講談社



森有礼の「妻妾論」について、犬塚孝明氏は、「若き森有礼―東と西の狭間で」で、「妻妾を同親等とみなす旧態依然たる国法の下、妻妾同居も珍しくない当時の社会的風潮にあって、この論説は近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論として識者の注目を集めただけでなく、世間に大きな衝撃をあたえるものとなった」と書いておられまして、それがまちがっているというわけではないんですけれども、「妻妾論」の主意は、現代では、かなり重点がずれて受け取られているのではないか、と思うのです。

 だいたいです。「妻妾論ノ一」で有礼は、「凡ソ其妾ナル者ハ概ネ芸妓遊女ノ類ニシテ、之ヲ娶ル者ハ凡ソ貴族富人ニ係ル」、つまり「妾は、たいていは芸者や遊女が金で買われたもので、したがって妾を置くのはたいていは貴族や金持ちだ」としておりまして、日本の婚姻の実態は、基本的に一夫一婦制であるにもかかわらず、立法者たる高級官僚(有礼本人がそうですが、この明治初期、高級官僚は小大名級の貴人金持ちになっています)が、かつての大名や上層士族、富商を見習って妾(側室)を蓄え、そういう意識だから、妾を公認する民法を放置しておくのだと、政府の立法姿勢を批判し、意識改革を訴えているわけです。
 これは、法制の面からいいますと、確かに「西洋近代法を見習え」ということになるのですけれども、有礼の意識からしますならば、むしろあるべき士族の道徳観だったのではないでしょうか。
 
 また有礼は、上の一説に続けまして「故ニ貴族富人ノ家系ハ買女ニ由テ存スル者多シ」としていまして、これは買春を悪としますキリスト教的価値観であり、同時に「妻妾論ノ二」を見ますと、有礼が家の血統を重んじ、基本的に父系の血筋を重視しつつ、母系の家柄も尊重します、当時の欧米の中流的な保守的価値観を享受しているものと受け取れます。
 しかし一夫一婦制のもと、夫の側の貞操をも求めます西洋的価値観は、「庄屋さんの幕末大奥見物ツアー」「『源氏物語』は江戸の国民文学」で見ましたように、おそらく、なんですが、幕末から、国学の影響下、江戸の上級旗本など、一部においては、受容されつつあったのではないでしょうか。
 そして薩摩の国学は、その中心にいました八田知紀が、島津斉彬に重んじられ、京の近衛家に出入りする歌人でありましただけに、蘭学重視、開国、雅に重点を置きました、いわば上流の国学になっていたように思えるのです。

 そしてまた、畑尚子氏の「江戸奥女中物語 」によりますと、将軍家の正妻の立場は、幕末に近づきますほど強化され、側室はあくまでも臣下であり、例え世継ぎを生みましても、世継ぎは正室の子とされ、それは大名家も同じようなものだったとされています。
 有礼は、そういった強化されました正室と、使用人としての側室をも否定しているのですが、あるいはこれには、お由羅騒動が大きく影響してはいないでしょうか。

 お由羅騒動(高崎崩れ)は、有礼が生まれて間もなく起こっておりまして、ちょうどそのころ森家は、春日町から城ヶ谷に引っ越しています。
 城ヶ谷は、西南戦争で西郷や桐野が最期を遂げました岩崎谷に近く、犬塚氏によれば「陰鬱な表情」をした場所で、ここへ移り住むとは「父有恕の仙骨めいた気風がそうさせたのであろうか」となさっておられるのです。有恕についてはさっぱり資料が無く、犬塚氏は根拠のない憶測をひかえられたのでしょうけれども、有恕は斉彬より三つ年上の中級藩士であったわけですし、心情斉彬派であったのではないか、という推測は許されると思うのです。
 いずれにしましても、お由羅騒動は、由緒正しい家柄の正室の子として生まれました世子斉彬派と、素性の知れない側室お由羅が生みました久光派と、島津家中がまっぷたつに割れ、多数の斉彬派家臣が、切腹、蟄居、遠島といった苛酷な処分を受けました事件でして、西郷、大久保一家も斉彬派でした。その後、斉彬が無事藩主となり、久光の息子を次代藩主に指名しましたことで、つぐなわれたかに見えるんですけれども、この事件が藩内に長く陰を落とし、家臣にとりましての島津家の威信をゆるがしましたことは、確かでしょう。
 いわば、です。藩主の好色がお家を危うくしたわけでして、そんな中、斉彬の母親でありました正室の良妻賢母ぶりは、藩士の間で喧伝されていくことになります。
 斉彬の母・周子は、鳥取藩池田家に生まれ、島津家に嫁するにあたって、多数の漢籍を嫁入り道具といっしょに持ち込んだ、といわれる才女ですし、斉彬の養女として将軍家正室となりました篤姫も、日本外史を愛読した良妻です。
 そもそも、です。儒教的な道徳におきましても、遊女、芸者と遊びますことは、お家を滅ぼしかねない遊蕩とされてきていたのですし、ピューリタニズムと武家道徳には、共鳴するものがありえたでしょう。

 有礼は、薩摩の中級藩士の家に生まれ、男ばかり五人兄弟の末っ子。
 武士の家におきましても、男子の母親となりました女の立場は、非常に強いのです。そこへもってまいりまして、里さんは男勝りの孟母。
 ストイックな英才教育を受け、18歳でイギリスに渡り、そこで有礼が最大の影響を受けた人物が、上流階級の淫蕩な風潮に嫌気がさして禁欲的なハリス教団に走りましたオリファントです。
 理知的な有礼の場合、国学的な価値観からすっぽりと「雅」がぬけ落ちまして(いえ、ここで「雅」が残りますと、かならずしもピューリタニズムとは合致しないわけなのですが)、男女関係におきましては、ストイックな上にもストイックな倫理観が、身についたものではないでしょうか。

 一方の広瀬常です。
 これまで見てきましたように、広瀬家は、幕臣ではありましたけれども、どうやら、下級士族です。それも、関東の農村から出て、同心株を買った新興幕臣の可能性が高そうなのです。
 もともと農村の男女関係には、武家のように厳密な密通(私通)意識はありません。密通といいましても、武家道徳における密通は、かならずしも現在でいいます不倫だけではありませんで、親の許しを得ず、未婚の娘が男性と肉体関係を持ちますのも密通です。
 しかし、例えば樋口一葉の両親のように、関東の近郊農村のかなりな階層の家の未婚の娘と息子が、たがいに惚れあって娘が妊娠してしまい、しかし娘の親が結婚を許さないので、駆け落ちして江戸へ出て、男は武家奉公、女は旗本の家に乳母に上がり、コネと蓄えを得て同心株を買う、というようなことも、いくらでもありえたのです。
 こういった幕臣の流動化とともに、王朝文学の庶民的な受容が進みましたとき、武家道徳は相対化されます。

 そして、江戸は文化の中心地でした。
 旗本、御家人の色恋、結婚に対する感覚は、地方武士のそれとは、かなり乖離していたでしょう。
 余裕のある旗本の家では、妻女が芸者と席をともにして、夫や父親と季節の風情を楽しむことも多々あります。
 文芸の趣味を同じくした男女、ということですと、京都にもまた、新しい男女の形がありました。「『源氏物語』は江戸の国民文学」で書きました頼山陽の女弟子・江馬細香が典型的ですが、中村真一郎氏は、「頼山陽とその時代 上 」におきまして、以下のように述べておられます。

「ところで、(頼山陽と女弟子の)この対等の男女関係という問題は、さらに世代の共通課題として、発展させていく必要がある。
 また彼(頼山陽)の獲得した自由が、次の革命的世代のなかで、どのように変貌して行ったか。また、明治維新以後において、薩長の田舎漢たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度、大幅に後退して行ったことが、後世、山陽を遊蕩児と見ることに、大いに役立ったことの事情についても」


 つまり、なにが言いたいかといいますと、「雅」をすっきりとぬかして、ピューリタニズムとシンクロしました有礼の恋愛観は、常のそれよりも、はるかに不自由なものであっただろう、ということなんです。
 有礼にとっての夫婦愛は、理念上、私愛であってはならず、エロスが欠落しているのです。しかし、理念上そうであったにしましても、男女の愛は、本質的には、エロスを欠落させては成り立たないものであり、有礼が理想とする媒酌が入りましての紹介婚ではなかったわけなのですから、常を見初めるにあたって、エロスが介在しない、などということはありえないでしょう。にもかかわらず、それを認めない男といのは、けっこう、疲れる相手じゃないでしょうか。

 さらにもう一つ、幕末期、士族の娘といえども、生涯、実家との縁は切れません。実家から小遣いをもらい続ける例も、多数。かならずしも、夫にすべてを頼るわけではなかったわけでして、そうであればこそ、同格か、あるいは実家よりも格下の家に嫁ぐ方が、女の立場は楽なのです。
 まして広瀬家は、男子の跡取りがなかったような様子です。はっきりわかっています妹とは、10近く年が離れ、となりますと、おそらく常は、跡取り娘として、婿養子を迎える立場だったのだろうと推測できます。こうした女の立場は、やはり、とても気楽なものです。
 それが、です。実家は落魄れて、食べるにもこと欠く状態で、小大名のような勝者のもとへ嫁ぐ、といいますのは、なにもかも夫が頼りで肩身が狭く、士族としての誇りだけはあったでしょうから、それこそ妾にあがるような、屈辱感だったのではないでしょうか。
 この点におきまして、有礼が再婚しました寛子は、岩倉具視の娘で、実家は森家よりはるかに格上です。寛子夫人の回顧談により、有礼の女性観を評価し、常に批判的な視線をそそぎますのは、犬塚氏でさえそうでして、従来の一般的な論調なのですけれども、ちょっとちがうのではないか、と思います。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき7

2010年09月14日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき6の続きです。

 今回の参考書は、主に明六雑誌に連載されました、森有礼の「妻妾論」です。下の本に収録されています。
 しかしもう、今日のお話は妄想オンパレードでありますことを、ご承知おきください。

明治文化全集〈第5巻〉雑誌篇 (1955年)
クリエーター情報なし
日本評論新社


 開拓使東京出張所は、増上寺境内にあります。長官の黒田清隆は、常時こちらにいて中央行政にも根をはり、こまめに政争にかかわっています。そこらへんの生臭い世界は、理念にこだわります森有礼の苦手とするところでして、まったくもってタイプがちがいますだけに、かえって気楽に接することができたりします。
 四月の終わり、広大な境内は藤の花に彩られ、甘やかな香りがただよっておりました。
 有礼は、自分が黒田に勧めました女子教育の実験学校でありますだけに、開拓使女学校へはたびたび足を運び、見学しておりました。
 外務省からの払い下げを受け、木挽町に屋敷を構えましてから、同じ敷地内の隠居所に住みます母の里は、種子島から上京して森家に住み込みました古市静との結婚を勧めます。
 しかし、有礼には、意中の美女がありました。開拓使女学校の女生徒、広瀬常です。
 雛人形のように品のいい、整った顔立ちで、すらりとして姿勢が良く、お小姓の出で立ちが似合いそうな、美少年っぽい、きりりとした美人です。
 欧米から帰りました有礼の目に、日本女性の最大の欠点として映りましたのは、猫背のような、その姿勢なのですが、常はなぜか西洋式にぴんと背筋をのばしていて、体操が得意です。聞けば、父親が紅林組の同心で、フランス兵制を採用しましたときに、父親にねだってフランス式の体操を習ったりしたのだという話です。
 常は、よどみのない口調で、答えたものでした。
 「フランスの救国の英雄は、ジャンヌ・ダルクという少女で、鎧甲冑に身を固めイギリス軍と戦ったと聞きました。私もお国のために戦ってみたいものと、夢見ていたのでございます」
 清々しいその様子は、元服前の美少年そのもので、有礼は、昔の鮫島に似ている!(似てないってば!)と、ぞくっとするほど魅せられたのでした。
 今日も今日とて有礼は、女学校をのぞきたい誘惑にかられたのですが、条約改正の試案について、黒田に相談してみたいことがあり、楽しみは後にとっておき、まずは、黒田のもとを訪れました。
 黒田は大歓迎で、開口一番、「おじゃったもんせ。おもしろか話がありもっす」と上機嫌。ライマンが常に結婚を申し込み、常が即座に断った経緯を詳細に語り終えますと、「ライマン先生、おなごを知りもはんな。常女はよかおなごじゃが芯がきつかで、うぶな先生の手におえるもんじゃなか。ワハハハハ」と、気持ちよさそうに大笑いいたしました。

 有礼は、笑うどころではありません。「先を越されたっ!」とまず焦り、次いで「自分が見込んだ女性は、アメリカの知識人から見てもやっぱり魅力的なんだな」とほくほくもし、しかし一方で、ぴしゃりとライマンの申し出を断ったという常に、いったいどのように結婚を申し込めばいいのか、困惑もしました。一向に、それでひけめを感じているわけではありませんが、信念から、芸者遊びをしたことはありませんし、女を知らないことにかけては、ライマンといっしょなのです。
 ここはもう、自分流で押し通すしかありません。
「黒田どん、国家の基礎は、男女の正しい交わりから生まれもす。夫婦がたがいに人格を尊重することで、おなごはりっぱな母となり、国を担う子を育てることができもす。人格を尊重するためには、おなごにも知性が必要じゃって、ライマン先生が、女学校の生徒を正式な伴侶として見込まれたは、まっこて学校の誉れ。結婚は、浮ついた気分でするもんではなか。常女が、なんしてライマン先生の申し込みを断ったか、どういう結婚を望んじょるか、女子教育を考える上で、聞いてみたか」
 黒田は、「こいつ、アホか! 男女の好き嫌いに人格もくそもあるか」と内心思ったのですが、すぐに、どうやら有礼が常に気がありそうなことに気づき、笑いたいのをこらえて、まじめくさった顔をつくろいました。
「そりゃ、常女に直接、聞かねばなりもはんな」

 呼ばれた常は、しとやかに目を伏せ、勧められるままに、椅子に座りました。
「正直なところを、答えてもらえるとありがたい。ライマン先生は、りっぱな学者で、人格もすぐれておられる。あなたの人格を認められて、正式に結婚を申し込まれたにもかかわらず、即在に断わったというのはなぜなのか、女学校教育の今後のために、聞きたいんだが」
 有礼の言葉を聞きながら、黒田は「おい、りっぱな学者なんじゃろうが、あいつの人格はすぐれてねーぞ」と心の中でつっこみを入れつつ、興味しんしんで、常の答えを待ちました。
「正直にお答えして、よろしいのでしょうか? ……私は、ライマン先生がどのようなお方なのか、まったく存じておりません。ライマン先生も、私がどのような女であるか、ご存じのはずがございません。奧女中を見初めて側室にしたいという殿様と、どこがちがうのでしょうか。芸者を見初めて、正式な妻にしたいという場合は、まだしも、お座敷でのつきあいがございますので、お互いにわかりあえることもあろうかと存じますが」
 これには有礼も、どきっとしました。なにしろ一目惚れですので、常を知らないことにかけては、ライマンとたいしてかわりません。
「なるほど。……いやしかし、お座敷のつきあいで男女がわかりあえるというのは、あなたの誤解だ。男が金を払って、女を奴属させて遊ぶ不道徳な場に、人格の尊重はない」
 常の視線は、吹き出したいのを必死でこらえている黒田をとらえ、踊りました。
「お言葉ではございますが……、民の手本となるべき太政官の方々は、芸者を奥方にお迎えの方が多いと聞きおよびます」
「それがわが国の遅れたところで、改めていかねばならない。大官の人倫にもとる結婚は、世界の侮りを受ける」
 重々しい有礼の口調に、常は、「そんな演説は、太政官でしろよっ!!!」と、胸の中でつぶやきつつ、黒田に視線を走らせました。
 それに気づいた黒田も、「ここでする話かあ!?」と、以前からわかっていたことではありますが、有礼の変人ぶりにあきれて、かすかに肩をすくめ、有礼の代わりにと、常に向かって問いかけました。
「そいでは、おはんの理想の結婚相手とは、どんな人物かな?」
「さようでございますね……、筒井筒の仲でございます。幼い頃から知り合っていましたら、お互い、よくわかりあえますので」
 有礼は胸騒ぎを覚えつつ、聞かずにはいられませんでした。
「すでに、そういう相手がいると?」
「おりました。戊辰の折、大鳥さまについて行きましたきり、行方知れずでございます。大鳥さまがご赦免になりましてなお、姿を現しませんのですから、戦死いたしましたのでしょう。私は……、結婚するためにこの学校へ入ったのではございません」
 大鳥圭介は、戊辰戦争に際して、フランス軍事顧問団の伝習を受けておりました幕府伝習隊を率いて江戸から脱走し、関東各地、会津と転戦し、函館に至って抗戦いたしました。降伏した相手の黒田の尽力で赦免され、開拓使に奉職。娘二人が、開拓使女学校に通っております。
「では、どうしたいと?」
「母が静岡でお産でみまかりまして、私、できますれば、西洋医術を心得ました産婆となり、ご奉公いたしたいと存じております。教育も大切でございましょうが、その前に、子が無事に生まれて育ち、母も健やかでありますことが、まず第一と愚考いたします。伝え聞くところによりますと、函館でエルドリッチ先生が産科の講義をなさっておられるとか。こちらを卒業の後は、聴講させていただければ、この上ない幸せなのでございますが」

 常が去った後、有礼は呆然とし、黒田は笑いをかみ殺すのに必死でした。
 あきらかに常は、有礼が自分に気があることに気づき、予防線を張ったのです。
 しかし黒田は、内心、困ったことになった、とも思ってもおりました。「卒業後は5年間の開拓使奉公」と規定しましたものの、予算不足と文部省からの抗議で、開拓使でこれ以上、北海道での女子教育を積極的に進めることもできず、となれば、女性教師の数もそれほどいりません。また医学校は、最初に構想しました大規模なものは実現せず、函館で、エルドリッジが診療の傍ら、小規模に教えているような実態ですが、それでさえ、廃止の方向が打ち出されている現状なのです。
 これはもう、なんとか骨を折って「この変人の思いをかなえてやるしかない!」と、決心したところで、有礼が宣言しました。

 「決めもした! おいは常女を娶りもす」

 黒田は、「だからおまえ……、許婚が脱走兵になって死んだだの、母親が静岡移住で死んだだの、あれだけ嫌みを並べ立てたのは、気がないからだろうが」と脱力しつつ、「どげ、協力してやればいいもんか」と、思いをめぐらせたのです。
 そんな黒田の好意も知らず、有礼は、またも演説をはじめました。
「女学生に言われるようでは、まずは太政官のお歴々から、啓蒙せにゃなりもはんな」
 仕方なく、黒田は頷きました。黒田の妻は芸者ではなく士族ですが、もちろん、芸者遊びが嫌いなわけではありません。
「そいもよかが、長州攻撃ととられるのもやっかいじゃて、てげてげにな」
 えー、親分の木戸孝允に伊藤博文。長州閥のトップ2は、芸者さんを正妻に迎えていたんです。
「そげなことはなか。芸者を正妻にするよりも、正妻がありながら芸者を妾にするのは、もっと悪か。夫婦はたがいに貞節を守らにゃなりもはん。そいが人倫というもんごはす」
 黒田はもう、目を白黒させておりました。「大久保さあもかよ。おい、おい、おい、おい………」と、あきれつつ、いや自分も含まれるか、と苦笑して、まあ、この大まじめな変人の恋を助けてやれるのはおれしかない、と思い直したのでした。

 そんなわけで、有礼は急遽、「妻妾論ノ一」を書き上げ、明六雑誌に発表したような次第……、かもしれません(笑)
 続きます。


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広瀬常と森有礼 美女ありき6

2010年09月11日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき5の続きです。

 明治5年(1872)9月、17歳の常は、15歳4ヶ月だとさばをよんで、開拓使女学校に入学したわけなんですけれども、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)を見ますと、最初の入学条件に、「卒業後、北海道に永住すること」とあったそうです。となれば、広瀬常と森有礼 美女ありき1で妄想してみましたように、広瀬寅五郎=秀雄で、常は函館で少女時代を過ごした可能性が、非常に高いと思います。
 一家の静岡移住がうまくいかず、じゃあ慣れ親しんだ函館へ行こうか、函館には昔の同心仲間もいることだし、となったところへ、開拓使女学校の生徒募集があり、おそらく、なんですが、広瀬一家には男子の跡取りがいませんで、長女の常は、「手習いの先生か産婆さんか手に職を」と思った、という妄想は、それほど突飛なものではないでしょう。

 ところが翌明治6年(1873)4月、突然、校則が変わります。「5年間開拓使に従事すること、北海道に在籍する者と結婚すること、退学の場合は学費を弁済すること」となったんです。
 5年間の開拓使従事は、給料をもらえるのならば、まあいいでしょう。しかし北海道在籍者と結婚することって、どうなんでしょ。ただ、まあ、この時点では、あれです。5年間、なにをするのかわかりませんが、まあ例えば学校の先生とか、開拓使に奉職してしまえば、結婚云々はうやむやになってしまうかもしれませんし、常の場合、函館移住の後、かつての秀雄の同僚の家から養子をもらう、という線も考えられて、抵抗がなかったかも、しれません。

 ところが翌明治7年の4月、ベンジャミン・スミス・ライマンという開拓使お雇いアメリカ人地質学者が、常を見初めて、「あの娘が欲しい~♪」とわめきだしたんですね。
 ライマンの人間像については、藤田文子氏の下の本が、公平に見たところを、描いてくれていると思います。

北海道を開拓したアメリカ人 (新潮選書)
藤田 文子
新潮社


 黒田清隆が開拓使に招くアメリカ人を選ぶにあたって、森有礼にすべて頼ったことは、前回、紹介しました。
 実のところ、有礼がきっちり学問を修めたのは、ロンドン大学でのほぼ2年間だけでして、アメリカでは、ハリス教団にいた経験しかありません。しかしこのハリス教団、当時、世界を牛耳っておりました欧州の既成の価値観を否定していましたから、世界を救うのは新大陸のアメリカと東洋、ということで、日本人留学生勧誘に乗り出したんですね。
 したがいまして有礼は、実情を知らないままに、アメリカには非常に好感を抱いていたはずなのです。
 有礼のすごいところは、です。自分が正しいと思い込みますと、まわりの雑音など気にもとめず、もうしゃにむに押していきます、その実行力です。そのときに、さっぱり、まったく気配りがないですから、大きな反発をくらって、うまくいかなかったりするのですが、その信念には私情がないですから、人を使うのが上手い大久保利通と伊藤博文には能力を買われて、バックアップしてもらえたんでしょうね。

 岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保をいま読み返してみまして、大筋をまちがえていたとは思わないのですが、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」という大久保利通の最初の憲法観のブレーンは、維新直後の京都から、大久保のそばにいた森有礼だったのだと思います。
 で、あきらかに木戸も佐々木も、有礼が考える平田国学とスウェーデンボルグが一体となった「神」が、理解できなかったんでしょう。大久保は平田国学をかじった薩摩人ですから理解し、伊藤博文はおそらく、下関で白石正一郎などの国学を修めた商人層とのつきあいが深く、また、ものごとの本質を大づかみに理解する術に長けていますから、理解しえたのでしょうけれども、この時点では表現がまずく、「キリスト教を国教にしようとしている」という誤解を受けたのではないでしょうか。

 またも話が脱線してしまいましたが、ともかく、です。有礼は北海道開拓の構想をまかせられるアメリカ人を獲得すべく、アメリカ農務局長のケプロンに相談をもちかけますが、要職にあるそのケプロン本人が、来日してもいいという意向で、有礼も黒田も大感激し、長はケプロン、そして他の人材の人選を、すべてケプロンに任せます。
 というわけでして、「北海道開拓はアメリカを見習う」という方針は現実になったのですが、藤田文子氏がおっしゃるように、当時の北海道の現実と、アメリカ式開拓には多大なギャップがありまして、資金不足も手伝い、お雇いアメリカ人と開拓使は、摩擦を起こしつつ、紆余曲折をくりひろげます。
 
 で、お雇いアメリカ人、と一口に言いましても、個性はさまざまなわけでして、一概にどーのこうの言えるものでもないのですが、開拓使との摩擦がもっとも大きかったのが、ライマンなのです。
 ライマン家は、17世紀にイギリスからボストンに渡った名門で、この当時、資産家ではありませんでしたが、教育レベルが高い、東部のインテリ一族だったようです。
 ベンジャミン・スミス・ライマンは、ニューイングランドの名門私立校からハーバード大学に進み、さらにヨーロッパに遊学して、当時、その方面で一流とされていましたパリの国立鉱山学校、フライブルグの王立鉱山学校でみっちり学び、地質鉱山技師となっていました。イギリス政府の委託を受けて、インドで石油鉱脈の調査をした経験もあり、すぐれた技能を持った学者であったことは、疑いのないところです。
 まあ、しかし、です。だからといって男として魅力的かといいますと、これはまた別の話でして、来日を決意した明治4年(1862)、36歳で独身でした。アメリカ人には珍しい無神論者で、菜食主義者。年ごろの娘を持つ父親からは、娘の夫としてあまりふさわしくないと敬遠されているらしいと、自分でも感じていたようです。
 いまでいうリベラルなインテリで、リンカーンが即時に奴隷制度を停止せず、黒人に差別的な意識を持っている、というので、南北戦争にも従軍しませんでした。そのくせ、です。アングロサクソン人種だけが統治能力を持ち、世界の秩序を保ちえると信じていましたので、帰国して後の話ですが、日清戦争、日露戦争と続く日本の勢力拡大を非難しつつ、アメリカのフィリピン併合は支持していたんだそうです。なぜならば、アメリカの支配は「共和制、自治、普通教育」を広め、住民の福祉を向上させるよい支配、だから、なのだとか。やれやれ。
 
 ライマンは、地質学調査の弟子となった日本人たちからは、後々までも慕われていまして、そういう立場にいるときには人格者であった、ともいえそうなのです。
 しかし、だからといって、男として魅力的かといいますと、まったくもって別の話なのです。
 なにより、「日本は、若い王子(アメリカ)が命を吹き込み、美しさを蘇らせる眠れる森の美女」だとみなしていたという、この気色の悪いあきれた上から目線がいけません。同じく開拓使お雇いアメリカ人のエドウィン・ダンや、イギリス外交官アーネスト・サトウのように、日本女性と添い遂げた外国人には、この啓蒙してやる!という、上から目線がありません。

 ライマンは口数が少なく、人づき合いが悪く、善意に解釈すればシャイだったんでしょうけれども、内心はこのあきれた上から目線です。
 自分で申し込めばいいものを、どうやら開拓使女学校に、「あの娘が欲しい~♪」と、申し出たらしいんですね。
 あんたっ、女学校は芸者の置屋じゃないんだから!!!
 しかしまた、受けた女学校側も女学校側でして、なにしろどうやら、校長の調所広丈さんはじめ、大名屋敷の行儀見習いと同じような気分です。
 学校当局は、「文明国の知識人で独身のお人が、正式に結婚を申し込んでおじゃったは、広瀬常にも学校にも名誉なことでごわはんか。わが校の教育がすぐれちょる証拠で、他の学生の励みにもなりもっそ」と、黒田に上申。
 だからねー、薩摩屋敷の行儀見習い奧女中じゃないんだから!!!

 常にしてみれば、驚愕、仰天でしょう。
 講談「天保六花撰」の河内山宗春が頭に浮かんだんじゃないですかしらん。
 「ライマンとやらって、いったい、どういう大名きどりよっ!!! 私は、あんたの奧女中じゃないわよっ。おとといきやがれっ!!!」
 開拓使役人だった松本十郎の回想によれば、学校当局からライマンの意向を知らされた常は、即座に、きっぱり断ったそうです。
 「広瀬家には男子がおりませんので、私は婿養子を迎えねばなりません。そうでなければ私、ご祖先さまに申し訳がたちませんのでございます」とかなんとか、上手な断り方は、いくらでもあったでしょう。
 また同じく松本によりますと、調所校長の下にいた福住三という幹事が、女生徒を個人的に女中のように使ったり、かなりうろんな人物であった、という話でして、ライマンが、「常には無理な事情があり、他の女生徒ではいかがで?」と福住に女衒のように言われて、「常がイエスと言わなかったなぞと、学校当局の陰謀だ!!!」と思ったのは、なんせ学校当局が女衒みたいなんですから、仕方がないといえばないんですが、それにいたしましても、「文明国の知識人が、未開国の女に正式に結婚を申し込んでやっているんだ」という態度で学校当局に迫ったんでしょうし、婚約者のいる奧女中を妾にしたいとわめく大名と、その姿勢に大差はないですわね。

 常識的に考えまして、黒田がこの事件を、有礼に語らないわけがないと思うんですのよ。
「ライマン先生、おなごを知りもはんな。常女はよかおなごじゃが芯がきつかで、うぶな先生の手におえるもんじゃなか。ワハハハハ」
 絶対に、黒田は、大笑いしながら話しましたわよ(笑)
 これ以前に、有礼が常を知っていたかどうかはわかりませんし、あるいは、なにしろ面食いですから、すでに目ざとく見初めていたかもしれないんですけれども、「常女こそ、神が定めたもうた魂の伴侶!」と舞い上がりましたのは、このときからでしょう。
 といいますのも、ライマン事件の直後、明治7年5月、明六雑誌に、有礼は「妻妾論ノ一」を発表しまして、自らの結婚観を語っているんです。従来、あまり注目されておりませんでしたけれども、この妻妾論の成り立ちと常の存在は、けっこうつながる話だと、私は思っております。
 まあ、そんなわけでして、ようやく次回、実際に二人が出会うことになります。


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コメント (5)
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