今年になって初めての記事です。
去年書きかけてはいたのですが、途中、調べなければいけないことがいくつかでてきまして、さらに正月の準備やらが重なりました。
今年になりましてからは、町内会の用事と青色申告の準備でごちゃごちゃと。
遅くなりましたが、
近藤長次郎とライアンの娘 vol8の続きです。
現在、一般に近藤長次郎とユニオン号事件著述の元になっておりますのは、
坂崎紫蘭の「維新土佐勤王史」 です。
この「維新土佐勤王史」がどのような本で、坂崎紫蘭が描きました龍馬像がどのようなものであったか、端的にまとめられました論文がありました。
松下祐三氏の
「薩長商社計画と坂本龍馬 : 坂崎紫瀾の叙述をめぐって」(駒澤史学59号収録)です。
この論文の最後に書かれておりますが、「維新土佐勤王史」は、 坂崎紫瀾が執筆していますが、編纂は瑞山会です。「瑞山」は言うまでもなく、武市半平太の号でして、その名を冠しました瑞山会は、土方久元、田中光顕(青山伯)、佐々木高行など、土佐出身者の中でも、元は土佐勤王党の郷士や下級士族だった面々が中心となって結成されたものです。
吉田東洋の暗殺、土佐勤王党の弾圧によります軋轢は、明治の維新史編纂にまで尾を引きまして、山内家の維新編纂に対峙する形で、瑞山会は「維新土佐勤王史」を企画しました。
したがいまして、彼らにとりましての「維新を成し遂げた土佐人」とは、藩主や藩秩序に忠実だった上士ではなく、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎を中心とする土佐勤王党の郷士や庄屋、下級士族たちでした。
その事績を顕彰するためにこそ、「維新土佐勤王史」は書かれたわけでして、瑞山会が提示しましたこの目的は、幕末の土佐勤王党の活動と明治の自由民権運動を重ね、坂本龍馬に民権運動闘士の先達としての面影を見ていました執筆者の坂崎紫瀾にとりましても、十二分に共有できるものでした。
そして、松下祐三氏が書いておられますように、その目的のためであれば、坂崎紫瀾は、史料の読み方も恣意的に行っておりますし、史料にない創作もしています。「維新土佐勤王史」とは、そういう書物なのです。
松下祐三氏の論文は、近藤長次郎の死後、薩長商社計画をめぐりまして、「維新土佐勤王史」が坂本龍馬をその中心にすえて描いたことの虚実、影響を論じているのですが、結局のところ、
龍馬が商社の元祖!といいますような現代の虚像も、実はどうも、「維新土佐勤王史」の創作が元になっているようなのです。
当然のことなのですが、「維新土佐勤王史」が描きますユニオン号事件と近藤長次郎の死にもまた、かなり恣意的な史料解釈が見受けられます。しかし。ここで初めて登場します史料もあり、事実関係は正確なものと見なされて、今なおこれが、基本史料とされているわけなのです。そのことの是非は、また後で検討するとしまして、ここで一つ、私、坂崎紫瀾の著作で、見逃していたものがありました。
松下祐三氏の論文の脚注で気づかされたのですが、坂崎紫瀾は「維新土佐勤王史」に先立ち、少年読本シリーズで伝記「坂本龍馬」を書いています。
少年読本は、明治に刊行されました少年向けの伝記シリーズなのですが、けっこうちゃんと書かれたものが多く、第十一編、春山育次郎著「桐野利秋」(中村半次郎)は、桐野のもっとも詳しい伝記ですし、春山育次郎が桐野の甥と友人で、身内に話を聞いて書いていますから、信頼できる記述が多いんです。
少年読本第十九編・坂崎紫瀾著「坂本龍馬」、初版は明治33年2月7日発行です。
紫瀾も龍馬の甥・坂本直寛(南海男)と友人で、身内に話を聞いて書いたということでは、春山育次郎と同じような書き方をしています。
実は、うちの近くの図書館に、数冊、少年読本の合本がありまして、紫瀾の「坂本龍馬」は春山育次郎の「桐野利秋」といっしょに綴じられていますから、私は幾度か借り出したことがありました。にもかかわらず、ろくに読んでいなかったのですが、思い出しまして、また借りてまいりました。
さて、近藤長次郎の死についてどう書かれているかといいますと、これが……、前作
「汗血千里駒」そのまま!なんです。全体が短くなっていますので、少々、簡略化されてはいるのですが、そっくりな上に、近藤長次郎その人の描写につきましては、「汗血千里駒」は非常に詳しく、好意的な面もあったのですけれども、簡略化することによって、印象が変わってしまっています。
例えば、龍馬の竹馬の友として、長次郎の生い立ちを紹介する部分。
「汗血千里駒」
龍馬が家にほど遠からぬ水道丁なる商人の息子に長次郎といえるものあり。苗字は近藤といい父の名を伝次と呼びけるが、長次郎は幼きより軍書など読むを好みてほぼ我が国の歴史にも通ずるまでになり、後には細川延平に入門して漢学を修め、今は唐本の会読さえ差支なきほどに進みければ、かの唐詩選読むと孔雀の尾が欲しいといえる人情の常とて、自ら名をば昶(えい)、字(あざな)は子長とし、藤陰と号し、また別号を梅花堂人といいければ、さなきだに妬み嫉みのくせある俗人ばらは、「町人風情の身で家業の二一天作に厘毛のもうけを弾き出すことには精出さで、青表紙(漢籍)ひねくりまわす博士顔はよけれども、あまりに現をぬかして店の饅頭を子供に盗みぐいせらるるをも気づかざるは、沙汰の限りの保け者なり」と後指さして笑い罵りしかども、流石にまのあたり長次郎を辱しむる者は一人もあらざりし。
少年読本第十九編「坂本龍馬」
さてまた龍馬の隣家に饅頭屋の長次郎といえる少年ありけり。その父の名は伝次と呼びて店には饅頭を売り、長次郎は焼継を渡世として市中を徘徊するに、この長次郎は常に坂本家に来たりて軍書などそらんじつつ、後には師につきて漢学を修め、おこがましくも名は昶(えい)、字(あざな)は子長とて、梅花堂人といえる別号さへ称するに隣家の者どもは「あな笑止や伝次の小せがれが青表紙をひねくる博士顔こそ憎さげなれ」と罵れど、燕雀なんぞ大鵬の志を知らんとてあえてこれを意とせず。
町人に似つかわしくない学問に打ち込む長次郎を、近所の人々が、身のほど知らずだと罵っていた、という話なのですが、その近所の人々に対して、
「汗血千里駒」は
「妬み嫉みのくせある俗人ばら」と酷評して、むしろ非難する隣人の方がおかしい、という書き方です。
しかし
少年読本第十九編「坂本龍馬」は、すっぽりそれを落としていますし、隣人の長次郎への罵りの言葉も、前者は学問をすること自体に、ではなく、打ち込むあまりに日常の商売がおろそかになっていることへの非難であって、まだ暖かみがあるのですが、後者は「えらそうに博士顔をしている」ことへの反発で、長次郎の人格に問題があったかのようにも、受け取れる表現なのです。
そして、
近藤長次郎とライアンの娘 vol5に引用しておりますが、明治32年の11月、高知の地方紙「土陽新聞」に連載されました川田雪山の龍馬の妻・お龍さんへの聞き書き
千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)において、お龍さんは
「伏見の寺田屋にいた龍馬の元へ、長崎から、陸奥宗光が近藤長次郎の自刃を知らせに来た」と言っているわけですから、 明治16年に紫瀾が
「汗血千里駒」において、
「長崎において、龍馬が長次郎を糾弾して切腹させた」という話は否定されているのですが、
少年読本第十九編「坂本龍馬」執筆時点(執筆は明治32年だったようです)で、紫瀾はその記事を読んでいなかったようでして、そのまま、龍馬が長崎で糾弾したという話になってしまっています。
さて、いよいよ
「井上伯伝」と
「維新土佐勤王史」が語りますところの、ユニオン号事件です。
ユニオン号事件は、龍馬と長次郎を中心とします社中が、薩長の連携をめざして活動する中で起こったのですが、まずは、そこへ至りますまでの経緯をふりかえってみたいと思います。
桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3をごらんください。
文久3年(1863年)、土佐藩政に参画し、京都におきまして活動しておりました土佐勤王党は、しかし前年に土佐藩重臣・吉田東洋を暗殺しておりましたことから、前藩主・山内容堂の復帰にともない、その足場は危うくなり、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太という中心メンバーが入牢、切腹。
8.18政変で長州が京都を追われますと同時に、武市半平太など、幹部すべてが国元で逮捕。壊滅状態に陥ります。
神戸海軍操練所で学ぶ土佐出身者にも帰藩命令が出ますが、龍馬&長次郎たちは無視し、とどまります。
土佐勤王党が土佐藩政を牛耳りますと同時に、龍馬が勝海舟の門をたたいた理由を、私は越前藩の記録・「続再夢紀事」
「大坂近海の海防策」という記述を手がかりに、
「土佐藩が受け持ちます大阪近海のコーストガードに取り組もうとしたもの」と推測したわけなのですが、結局これは土佐勤王党としての取り組みだったわけですし、としますと。
私、松浦玲氏の「坂本龍馬」を読み返していまして、文久3年7月、ですから、平井・間崎・弘瀬が国元で切腹となって勤王党の足下がゆらぎはじめ、長州は攘夷戦をはじめ、薩英戦争が起こった直後、のことですけれども、
「龍馬は、幕府海軍とは別に朝廷の海軍を設立する構想を持っていた」とあるのにめぐりあい、
「結局、これは海の御親兵構想だろうか」と思ったんですね。
佐藤与之介が龍馬と連名で勝海舟に出した書簡に、龍馬の構想として、
「神戸海軍の総督を京都朝廷で人選し、その総督のもとで身分にとらわれず人材を集める。運営の費用は関西の諸侯に出させる」とあるのだそうです。
松浦氏は、「これは当時、横井小南を中心とする越前藩改革派が、将軍が退京したのだから幕府は中央政権ではなくなったのであり、京都に新政権を樹立するべき、としていたのに呼応した構想だろう」とされ、しかしほぼ同時期に越前藩で政変が起こって改革派は失脚し、8月に入ってからの京都では、薩摩と会津が手を握って8.18クーデターが起こり、情勢は激変します。
長州が主導していましたクーデター前の朝廷では、学習院御用掛徴士として、真木和泉守など諸藩の尊皇の志士が召し出されていましたし、一方で、土佐の国元では勤王党に危機がしのびよっています。こういった諸般の状況の中、龍馬は、越前を核としまして、藩の垣を越えて諸藩士が集まった朝廷の海軍をイメージするようになっていたようです。
そもそも、土佐勤王党の結成理念が、
「自分たち郷士や庄屋は天皇の直臣」 というものですから、現実をとりあえず横に置き、朝廷が中心だということにしてしまいますと、幕府が消え藩も消えでしまうわけなのでしょう。
松浦玲氏が明記しておられますが、勝海舟は、神戸海軍繰練所の運営に西日本各地の大名が参画することを考え、朝廷のあります近畿のコーストガードを見込んでいたでしょうけれども、あくまでもそれは幕府の海軍の範疇であり、すでにここで、龍馬とは根本的な認識がずれています。
龍馬の構想といいますのは、非常に感覚的でして、観念の上では簡単でしょうけれども、現実には非常な困難をともない、多大な軋轢の末にしか、成し遂げえないことです。
大きな方向性としてはいいのですが、なんの障害もなく簡単にそうできるかのように言われましても、この時点におきましては、飛躍がすぎまして、大風呂敷の珍奇なホラ話、としか、受け取れません。
近藤長次郎は、そういった龍馬のそばにいて、客観的で、理論だった観察力、著述力を持ち、参謀として龍馬を助けていたのではないか、と推測できるエピソードがあります。
「完本 坂本龍馬日記」P116-118にあります『続再夢紀事』からの引用です。
文久3年6月29日、龍馬は京都の越前藩邸を訪れ、越前藩士で春嶽公側近の村田巳三郎(『続再夢紀事』の著者)と、長州の攘夷戦に関して、激論を戦わせます。
龍馬は同日、土佐の乙女姉さんに手紙を書いていまして、長州の攘夷戦に対します龍馬の心情は、こちらの方に、激情のまま素直に書かれていますので、
青空文庫 図書カード:No.5139 文久三年六月二十九日 坂本乙女あて書簡より、以下、引用します。
然ニ誠になげくべき事ハながと(長門)の国に軍初り、後月より六度の戦に日本
ハナハダ利すくなく、あきれはてたる事ハ、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふく(修復)いたし又長州でたゝかい申候。是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて候へども、龍馬二三家の大名とやくそく(約束)をかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて、夫より江戸の同志(はたもと大名其余段々)と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。
いいかげんな現代語訳ですが、ご参考までに。
実に嘆かわしい事態になっているんだよ。長門の国(長州)で戦が始まったんだけど、六度戦って六度とも、日本側には得るところが少なかった。あきれたことには、長州で戦った外国の船は、江戸で修理して、また長州で戦っているんだよ。これはみな、幕府の腐った役人たちが異人に内通したもので、売国奴の役人どもは勢力もあって、数も多いけれども、私龍馬は、二、三の大名と堅く約束し、同志をつのって、朝廷を中心にして神州日本の大本を守り、江戸の旗本や大名などの同志と心をあわせ、売国奴の役人たちを一掃する戦を起こして殺し、日本をもう一度洗濯したいものだと、神に願っているよ。
まあ、さすがに勝海舟のもとにいただけのことはありまして、長州に砲撃された外国船が、江戸の幕府のドッグで修理されて、長州を攻撃に行くことに怒っているのですが。
長州の攘夷海戦につきましては、
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に簡単に書きましたが、突然、狂犬みたいな長州軍艦に襲いかかられましたアメリカ商船やオランダ軍艦にしてみましたら、
日本人は狂ったかっ!と驚愕しただろう、状況です。
で、長州海軍がやられましたのは、アメリカでは南北戦争の最中ですから、南軍の巡洋艦をさがして香港に入った北軍の軍艦ワイオミング号でして、生麦事件の影響なんだと思いますが、自国民保護を命じられて横浜へ来ていましたところが、突然、アメリカ商船が襲撃されたとの知らせを受け、報復のため急遽下関へ出向いて、10名の死傷者を出しながら、長州海軍を壊滅させるんですね。
この当時の幕府のドッグは、
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1に書いておりますように、簡単なものが浦賀にありました。江戸ではありません。本格的な修理ができるドッグではありませんし、ワイオミング号が浦賀ドッグに入った可能性は、なさそうに思います。
で、
「戦って殺すべき売国奴の幕府役人たち」 って、だれなんですかね?
勝海舟の悪口を鵜呑みにしていたとしましたら、小野友五郎とか、小栗上野介とか、でしょうか。
『続再夢紀事』によりますと、龍馬の言います大名の同志とは、越前の春嶽公と、肥後熊本藩主の六男で、喜連川藩主だったことのある長岡護美。旗本は勝海舟と大久保一翁のことのようなんですけれども、実際には、彼らと龍馬の間には、相当大きな溝があります。
したがいまして、龍馬の書いている情報はいいかげんなものですが、ただ、狂犬みたいな長州に味方して、
「日本の代表だ! がんばれっ!」と応援する心情は、当時の西日本の庶民の総意に、あい通じるものがあったのではないでしょうか。
花冠の会津武士、パリへ。で書いておりますが、こののちの四国艦隊下関砲撃戦で勝利しましたオランダの軍艦が本国へ帰り、歓迎されておりましたところに、欧州歴訪中の会津藩士・海老名李昌が行き会い、
「長州をうちて勝利を得たる軍艦帰り祝う。余、朝敵なれども同国のことなれば身を潜め見るにしのびず」 と、会津とは敵対していました長州の攘夷戦ではありましても、長州は日本ですし、それに勝ったというオランダの祝いは、日本人として見るにしのびなかったわけです。
敵対する山国の会津藩士にしてこうですから、まして西日本の庶民は、瀬戸内海を異国船がわがもの顔に行き来し、自分たちの生活圏に踏み込んで来るのを日々目の当たりにしていたわけでして、理屈は横へ置いておいて、
「日本の代表だ! がんばれっ、長州!」という心情が、一般的だったでしょう。
『続再夢紀事』によりますと、姉に手紙を書いた日、京都の越前藩邸を訪れました龍馬は、姉に書いたと同じような無茶苦茶な感情論を、村田巳三郎にぶつけます。
「このままでは長州は異国に占領されてしまいますき。日本の全力を挙げて、長州の応援をすべきです。そのためには、まず幕府の売国役人どもを片付けなければならず、勝海舟と大久保一翁に相談して標的をさだめ、春嶽公、長岡公子、うちの殿様容堂公とに上京してもらって、幕府の掃除をしましょうぞ」
よくも言ったり無茶苦茶を、でして、村田もあきれ果てたようです。
「とんでもないまちがいをやらかしたのは、長州人の方ですよ。例え、異国と談判して退去してもらうことができたとしても、償金をはらって、こちらが謝らざるをえません。そうしなければ日本は、不義無道の汚名を世界にとどろかすこととなり、武力で攻められても文句が言えなくなります。にもかかわらず今、朝廷は長州の暴挙を賞賛していて、それがために外国との和談が進まないことが頭痛の種です」
これに答えまして龍馬は
「国のために死のうという長州の心意気は、賞賛すべきじゃないか!!! 長州の地を外人に取られて、憤激した長州人が江戸へ出て火をつけ、横浜を砲撃して内戦になったらどうするんだっ!!!」 と絶叫します。
もうね。どう頭をひねくれば、こんな無茶苦茶な話が出てくるんでしょうか。
船を全部沈められた長州人が、どうやって横浜を砲撃するんでしょう? 江戸に火を放つんでしょう?
村田巳三郎の筋道だった話に、長州の罪を認めざるをえなくなりました龍馬は、それでも幕府の売国役人退治に固執し(いったい、どこから入った情報を信じ込んでのことなんでしょうか?)、翌日、近藤長次郎を連れて、再び、越前屋敷に乗り込みます。
そして、龍馬は再び昨日の話を蒸し返すのですが、話し合いの結果、
「長州の事は天下の公論にゆだねる。私情でその罪を判断してはいけない。外国とのことは、当然の道理に基づいて談判を尽くすべき。国内においては人心一和をはかり、もしも外国と戦をするのであれば、日本全国一致し、全国民が必死になる必要がある」 という、ごく一般的な話で落ち着き、龍馬は幕府の売国役人退治をあきらめたようです。
近藤長次郎が説得したのは、村田巳三郎ではなく、どうも、龍馬だったようですね。
えーと、次回もちょっと復習、といいますか、近藤長次郎の上書(「玉里島津家史料三」に収録)はいつ書かれたのか、という問題などもありまして、ユニオン号事件にいたるまでの薩長の状況を、いましばらく、追ってみたいと思います。
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