郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

象犬鼠!パリ籠城戦のレストランメニュー

2006年02月22日 | 日仏関係
明治3年(1870)、フランスはプロシャに宣戦布告。フランスの軍艦マーチ に書きましたように、普仏戦争がはじまりました。
結果は、フランスの劣勢でして、函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) で見ていただけるように、無惨な戦いで、ナポレオン三世は捕虜となり、帝政は崩壊しました。
しかし、共和制となったパリのフランス政府は降伏せず、結局、パリ籠城戦になるんですね。
この籠城戦は、龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子 でご紹介しましたように、前田正名のような日本人留学生も経験しました。

籠城戦です。プロシャ軍の包囲で、パリは物資を断たれ食料不足。配給もだんだんと質が落ち、馬肉も食べ尽くして、パンの質も落ちていきます。
美食に慣れたパリの住民は、それでもレストラン通いをやめず、レストランのメニューは象の鼻料理だったり、羊とうたった犬調理だったり、鼠の肉も供したり。

そんなパリ籠城戦の食料事情を教えてくれるのは、『美食の社会史』です。『ゴンクールの日記』をもとに書かれているのですが、リンクでわかりますように、『ゴンクールの日記』の邦訳は手に入れ辛いんですね。
ゴングール日記の著者、ゴングール兄弟は作家で、日本美術に傾倒し、浮世絵の紹介者となったことで有名です。19世紀パリのジャポニスムを語るときには、欠かせない人材です。

北山晴一著『美食の社会史』には、フランス革命以降に花開いたパリの美食文化が楽しく語られていまして、第二帝政期の美食については、またの機会に、この本からご紹介したいと思います。


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ライブドアと北朝鮮の闇の関係???

2006年02月21日 | 時事感想
いえ、直接関係がある、という話ではありません。
ただ、北朝鮮のマネーロンダリング(資金洗浄)に、日本の闇の勢力がかかわり、それにライブドアが関係した可能性があるのではないか、ということです。
フォーサイト3月号、小田博利氏の著名記事です。

現在、アメリカは北朝鮮の資金源を断とうと、マネーロンダリング摘発を積極的に進めていて、日本政府も当然、といいますか、さすがにここにいたっては積極的に、協力しています。
過去をふりかえってみますと、日本では北朝鮮系の金融機関野放し状態だったんですが、アメリカの北朝鮮に対する姿勢が強行になった先年以来、ようやく日本政府も、あたりまえのことをし始めた、というだけのことではあるのですが。
で、ライブドア事件も、そのアメリカの北朝鮮政策に関係しているのではないか、という推測なんですが、ありえない話ではなさそうですね。
現在も偽メール事件でばかばかしい騒動が起こっていますが、ライブドア摘発は、現政権にはマイナス要因の方が大きい。にもかかわらず、果敢に検察が摘発したには、それなりの理由があるはずで、北朝鮮マネーとの関連というならば、納得がいきます。

フォーサイトの記事は、奥歯にもののはさまったような言い方なんですが、ポイントはここでしょうか。
ライブドアが傘下におさめた中古車販売のジャック・ホールディングスや、マンション販売のダイナシティ。これらの買収をライブドアに持ちかけた面々に、故・新井将敬代議士(当時自民党)と関係のある経営者組織の面々が、多く存在するのだそうなんです。
首吊り自殺したとされております新井将敬氏なんですが、その「自殺」には疑念がもたれていたようですし、「関係のある経営者組織の面々」って、どういう面々なのか、はっきり書かれていないのですけれども、ここから日本の闇勢力と北朝鮮のマネーロンダリングに話がいくわけですから、まあ、憶測のいきつくところは、大方定まります。

詮索をかけていたら、関連していそうなニュースがありました。

sankei Web スイスに調査官派遣 ライブドア事件で証取委

これまでの調べや関係者によると、ライブドアや関連会社は株式交換による企業買収で、事前に傘下の投資事業組合が買収先の100%株主になるなどして、交換用に発行した自社の新株をコントロール下に置き、投資事業組合やスイス、香港の金融機関、英領バージン諸島の企業などを経由させて売却。本体に売却益を還流させた疑いが浮上している。

 スイス系金融機関などには、ライブドアや前社長、堀江貴文(ほりえ・たかふみ)被告(33)=同法違反罪で起訴=名義の口座があり、こうした還流の仕組みは前取締役、宮内亮治(みやうち・りょうじ)被告(38)=同=らがプライベートバンク業務に精通した東京都内の金融ブローカーに相談して進めたとされる。

 この金融ブローカーの依頼で、香港に住むスイス系金融機関の邦人社員が関与したことも判明している。

捜査の真のねらいは、やはりマネーロンダリングを追求することににあったのではないか、と思わせる報道です。


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皇室典範改正問題の不思議

2006年02月19日 | 時事感想
珍しく時事です。皇室典範の改正について。
私はもともと、原則的には女帝容認派です。
ただ、女系容認派であるかどうか、といわれますと、微妙なものがあります。

数年前に、男系絶対維持派の男性と、チャットで討論をしたことがありました。
そのときには私は、女系容認でした。
それが望ましいと思っていたわけではありませんけれども、現在の皇族、宮家に皇子が恵まれませんでした場合、女帝は皇室の過去に例があることですし、女帝が継がれ、さらにはそのお子が継がれることも、かならずしも伝統に反することではない、という考え方でした。旧宮家の復帰よりは、女帝の方が現代になじむのでは、という思いもあったりしましたし。

江戸期の家の相続は、天皇家と将軍家を別にして考えますと、庶民から大名、摂政関白家まで、男系がとぎれた場合は、女系で継いでいる場合が、けっこう多いのですね。娘に婿をとることもあれば、嫁に行った娘の子を養子に迎えることも、ありです。
だいたいわが家は、曾祖父の父親が婿養子で、私の父も婿養子です。皇統の話に庶民の例を持ち出すな、といわれるかもしれませんが、男子がいなければ婿養子、というのは、日本の家族制度の伝統ですし、気分として、なじみやすいんです。
皇室にしましても、例えば江戸時代、直系が途絶えて傍系の宮家から入った光格天皇の場合、中宮には、先帝・後桃園天皇の一粒種である欣子内親王を迎えられていて、養子の形をとっていますから、男系の皇統を守った上で、しかしやはり直系もまた、重んじられてはいるわけです。
余談になりますが、現在の皇室は、この光格天皇の直系となります。

ただ、やはり皇室の場合は、千数百年にわたって男系が守られてきた事実の重みがあります。
できうれば現代でも、女帝の婿君には、旧宮家の男性が望ましくはありますし、それ以前に、これまでの女帝は、独身か、天皇や皇太子の未亡人ですから、女帝の婿君を処遇する伝統がありません。
伝統の問題だけではなく、今の日本の現実として、イギリスなどとちがって貴族制もすでにありませんし、女帝の婿君という立場をどう処遇するか、難しいお話です。
女系容認にまで至らない方が、はるかに望ましくはあるでしょう。

女帝論争は、明治にもありました。当時は幼児死亡率が高く、明治大帝のお世継ぎについても、憂慮されていた期間がけっこうあったのです。
かろうじて大正天皇お一人が、無事に成人なさって、直系男子の相続がかないましたが、それは結果です。
このとき、女帝容認論を唱えたのは、保守派でした。
なぜならば、女帝を容認することが、日本の皇室の伝統であったからです。
しかし、この当時、たとえ女帝が立ったにしましても、男系の血統が変わる心配は、あまりなかったのです。血筋の遠い宮家の男性が数多くありましたので、その血筋に女帝のご結婚相手を限ればよかったからです。
実際、明治から終戦までの間、皇女のご結婚相手は宮家の男性に限られておりましたし、それには、いざとなれば宮家からお世継ぎを、という心づもりもあったでしょう。
明治天皇にも、その父君の孝明天皇にも、そのまた父君の仁孝天皇にも、無事に育たれたご兄弟はおられませんでした。したがって宮家は遠く離れた傍系であり、直系を重んじる意味からは、皇女が嫁がれた方が宮家の重みが増す、ということであったわけです。

今回の皇室典範改正の話には、唖然としました。
私は女系容認論者でしたけれども、それは、他に選択肢のない場合です。
なにがなんでも長子優先というのは、あんまりでしょう。例えご兄弟がおられても、女性の方が年上ならば優先して女帝って、伝統を断つ必要がなくとも断ってしまえ、といっていることと同じではないでしょうか。
また、もしも女帝が立った場合、婿君の処遇をどうするかなど、踏み込んだ議論もなく、ただ女帝、女系容認、長子優先では、目先のことしか考えていなかった、といわれても、仕方がないでしょう。

実際、秋篠宮家のご慶事でひっこめてしまうくらいなのですから、拙速にすぎたことは確かです。
皇室典範の改正が必要であることは、わかります。
また皇室は、これまでも時代にあわせて変わってきたのですから、新しい皇室像の模索も、必要でないとは思いません。
しかし、まったくこれまでの皇室の伝統を無視してしまうのならば、皇室が存続する意味もまた、霧散してしまうでしょう。
あまりにも軽率な今回の騒動を見ていまして、女系容認に疑問を持つようになりました。

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完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月18日 | 幕末雑話
明治大帝の父君、孝明天皇の御代、宮廷の女官長は、先帝の御代から引き続いて仕えた大典侍中山績子でした。
弘化三年(1846)、孝明天皇即位の時点で、すでに52歳です。
慶応二年(1866)、孝明天皇崩御のときにも、72歳の高齢で女官長を務めていました。
中山績子は、倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました、尊号事件の伝説のヒーロー、中山愛親の娘です。
明治大帝の母、中山慶子にとっては、大叔母にあたります。
孝明天皇の女官長の座に、終始、反幕のヒーローの娘が座っていた、ということには、それなりに意味のあることではないでしょうか。

幕末の中山家に、反幕感情が流れ続けていたのではないか、ということの傍証は、出石出身の尊攘志士、田中河内介が、家司としてかかえられていたことに見られると思います。
田中河内介は、嘉永6年(1853)ペリー来航以降、主人である中山忠能卿に、さまざまな献策をしますが、後に「中山の狂人」といわれるようになった忠光卿をはじめとする子息も、彼の影響を強く受けて育ったようです。
河内介は、筑前の平野国臣や薩摩の尊攘檄派と親しく、忠光卿の長兄で、中山家の後継者・忠愛卿も、薩摩の志士たちと出歩いていた資料がありますし、後に書きます寺田屋事件では、田中河内介の要請を受けて、志士たちへの檄文を書くことまでしていたりするんです。
しかし、父親の忠能卿は、しだいに河内介を遠ざけるようになりました。
これはおそらく、井伊大老が決行した安政の大獄による朝廷弾圧と、万延元年(1860)、中山慶子の生んだ祐宮が、九歳で親王宣下を受け、儲君(もうけのきみ)となったことに、関係しているでしょう。

江戸時代の朝廷は、現在の皇室とは、まったく制度が異なります。直系の皇子が誕生したからといって、ただちに親王になるわけではありません。
そして、親王でなければ、皇位継承の資格として不十分なのです。
安政の大獄の中で、孝明天皇は譲位を表明しますが、そのとき位を譲ろうとしたのは、まだ親王となっていなかった祐宮ではなく、伏見宮家や有栖川宮家の皇子たちのうち、先代、先生代の天皇の猶子となり、親王宣下を受けていた三人でした。
朝廷が、将軍家の後継に英明な年長者を求めた関係もあって、幼い祐宮の名を出せなかったこともあるのですが、親王宣下を受けるということには、けっこう重要な意味があったのです。

話をもとにもどしますと、祐宮が儲君となり、皇位継承がほぼ約束された以上、外戚である忠能卿は、あまり危ない橋を渡ることはできなくなった、ということでしょう。
田中河内介は、中山家を辞し、薩摩の尊攘檄派とともに、島津久光の上京を迎えて、倒幕の義挙を志しました。
しかし、久光はそれを望まず、自藩の檄派を伏見寺田屋で上意討ちにします。寺田屋事件です。河内介は捕らえられ、海路薩摩へ護送される途中、播磨灘で斬殺されました。
続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました忠光卿の「狂人」ぶりは、田中河内介の志を受け継いだものであったと、いえるかもしれません。

さらに、忠光卿が参加した天誅組の大和義挙には、もう一人、中山忠伊卿という、中山家の公子がかかわっていた、という伝説があります。
いえ……、忠伊卿は表面上、忠能卿の兄で、忠光卿には伯父、ということになていますが、実は尊号事件の中心となった光格天皇の皇子で、中山家に養子に入ったのだというのです。
尊号事件で屈辱を呑んだ光格天皇は、晩年に儲けた皇子を、ともに幕府と戦ってくれた中山愛親の孫の養子に入れ、倒幕の志を託した、というこの筋書きは、物語としか思えないのですが、一応、史家も検討を加えている話なんです。
『幕末・京大坂 歴史の旅』、「平野卿に消えた謎の皇子」において、松浦玲氏は、忠伊卿にまつわる伝説について、資料が不確かであることを指摘なさって疑問符をつけつつ、「天誅組壊滅の翌年二月十日に中山忠伊、号を道春という人物が平野郷で没したという事実は、動かし難いようである」とされています。

もう一つ、伝説があります。今度は、中山三屋(みや)という女性です。
楠戸義昭著『維新の女』』(毎日新聞社発行)に収録されていますお話なのですが、中山三屋は、幕末の女流歌人です。
父親の実家は、山口県徳山市中山の豪農・戸倉家で、三屋の父は戸倉の名を捨て、中山を名乗ります。
一見、公家の中山家とはなんのかかわりもなさそうなのですが、三屋が父親の実家に、「私は何者の子か、先祖さえはっきりしらない」と書いて出した書簡が、残っていたのだそうなのです。
この中山三屋に、女性史を研究する柴桂子氏が、大胆な光をあてました。
三屋(みや)は14歳の若さで出家し、多くの公家とまじわり、藩主や神官、豪商、学者、歌人など、四百人にあまる人名を、覚え書きに残しているのですが、これは、三屋がスパイだったからだ、というのです。
だれのスパイかといえば、公家・中山家のスパイなんだそうで、というのも、『中山忠能履歴資料』にある二十通を超える某女からの手紙が、三屋にそっくりな文体なのだとか。三屋の母の民子は、京都の出身なので、忠能卿の手がついて三屋をみごもったのではないか、とまで、推測は進みます。

ここまできますと、さすがに眉唾なのですが、ともかく、それほどに中山家には反幕伝説がつきまとっていたわけでして、いえ……、忠光卿の事跡など、伝説より劇的ですし、いくらもてあましていたとはいえ、若くして殺された一族の公子を、中山家の人々が悼まないわけもないでしょう。
倒幕の密勅に名を連ねるだけの素地は、それまでに、十分に積み重ねられていた、というべきではないでしょうか。


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続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月17日 | 幕末雑話
昨日に続きまして、明治大帝の母、中山典侍の一族のお話です。
よく知られていますのは、典侍の弟の中山忠光卿でしょう。
なんといいますか、過激なお公家さん、とでもいいましょうか。
長州の志士や土佐勤王党など、尊攘檄派とのつき合いが深く、天誅組の総裁となり、長州に走って、二十の若さで非命に倒れました。

なにしろ明治帝の叔父君です。十四歳で朝廷に出仕、七つ年下の祐宮(後の明治帝)のお相手を務めます。
しかし、型破りの行動が多く、父親の忠能卿ももてあまし気味でした。
尊攘檄派が牛耳っていたころには、公武合体派と見られていた公卿を暗殺しようとして、土佐勤王党の武智半平太に制止されたこともあり、土佐藩主の山内容堂などは、「中山の狂人」と呼んでいたといわれます。
当時の忠能卿の日記には、息子の忠光に会いに来たとして、武智半平太や同じく土佐の吉村虎太郎、長州の久坂玄瑞や入江九一の名が見え、尊攘檄派のアイドル的存在であったことがうかがえます。

結局、長州まで行って攘夷戦に参加し、久留米藩に押し掛けて、投獄されていた真木和泉などの志士を釈放させて、京都に帰ります。
そのころ、京の尊攘檄派は、孝明天皇の大和御幸を画策していたのですが、土佐の吉村虎太郎を中心とする天誅組によって、それに呼応した大和での挙兵が計画されました。忠光卿はその天誅組の旗頭となり、大和五条の代官所を襲います。
しかしそのとき、八.一八クーデターで京の情勢が一変し、天誅組は幕府の討伐を受け、壊滅してしまいます。
忠光卿は逃亡に成功し、長州に身を寄せるのですが、その後の長州藩内部の抗争で、佐幕派の手で暗殺されてしまうのです。
そのほんの一月あまりの後、高杉晋作の功山寺挙兵があり、長州の藩論はまたしても一変するのですが、その前に、秘かに抹殺された忠光卿は、下関市綾羅木の浜に葬られ、後に中山神社が建てられました。

忠光卿は、忘れ形見を残していました。尊攘派に心をよせる下関の回船問屋の娘、恩地トミは、忠光卿の側に仕えて、種を宿していたのです。
父親の死後、この世に生を受けたのは女の子で、南加と名づけられました。
やがて長州藩は、明治天皇の叔父の忘れ形見をさがしだし、毛利家の養女とした上で、中山家に送り届けます。
忠能卿は、息子の忘れ形見を娘として迎え入れ、成人した南加は、維新後、嵯峨公勝に嫁ぎました。
嵯峨公爵家とは、幕末の正親町三条家です。公勝の父親は、正親町三条実愛。
そうなんです。
倒幕の密勅に名を連ねた公卿は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三人。
中山忠能の母親は、正親町三条家の娘で、両家は縁が深かったのです。
そして、南加の孫娘である嵯峨浩は、満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑氏に嫁いだ「流転の王妃」です。
満州国滅亡の後、生き別れとなった二人は、激動を乗り越え、やがて再会し、中国で晩年を過ごしました。
現在、中山神社のそばに、愛新覚羅社があります。先に世を去った浩さんが、夭折した長女の慧生さんとともに、非命に倒れた曾祖父、忠光卿のそばに眠ることを望まれたのでしょう。後に、夫の溥傑氏の分骨もそばに葬られ、親子三人が祀られています。

幕末の中山家には、はっきりと事績が知られている忠光卿だけではなく、倒幕の伝説の影がちらついています。
というわけで、明日に続きます。

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倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月16日 | 幕末雑話
って、もちろん、中山家のことです。
明治大帝の母君は、公家・中山忠能の娘、慶子です。中山家は藤原氏ですが、家格は羽林家。通常は大納言まで、長生きすれば大臣になることもある、という中級公家です。
江戸時代、天皇の正妃になることができたのは、原則として、同じ藤原氏でも、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家の娘だけです。
その点では、平安の昔とかわらないのですが、ただしこの時代には、「女御、更衣あまたさぶらいける」というように、華やかに複数の側室がいたわけではありませんで、中級公家の娘が務める女官が、側室を兼ねたんですね。
後の中山一位の局、中山慶子も、孝明天皇の女官、典侍としてそばにあってお手がつき、結果的に一粒種となった皇子の母となったわけです。
明治大帝は、当時の慣例で、その幼児期、わずか二百石の母の実家、中山家ですごされました。

この中山家、実は、反幕府の旗頭としての伝説を持つ家、でした。
明治大帝が誕生されたのは嘉永5年(1852)。その60年ほど前のことです。
朝廷と幕府の間で、尊号事件が起こりました。
当時の天皇は光格天皇。孝明天皇の祖父、明治天皇には曾祖父にあたられる方です。
幕末の朝廷を考えるにあたって、この光格天皇は、画期となる方です。重要な朝廷行事を再興され、朝廷の権威の充実に努められたからです。

ところで、光格天皇は、後桃園天皇が皇子なく崩御されたのにともない、急遽、閑院宮家から入って、皇位を継がれました。血筋をいうならば、後桃園天皇の父君である桃園天皇の又従兄弟ですから、かなり直系をはずれていたお方なのです。
それで、光格天皇は、父君である閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊号を贈ろうとされました。というのも、この当時、親王の宮中での席次は大臣より下で、天皇の父君でありながら、閑院宮は臣下である大臣の下座につかねばならず、それを光格天皇が、心苦しく思われたからなのです。
しかし、幕府はこれに反対しました。
詳細ははぶきますが、光格天皇は、幕府の意向を無視し、尊号宣下を強行しようとします。
幕府はこれを押さえつけ、公家の責任者を江戸へ呼びつけたのですが、その一人が、中山忠能の曾祖父である大納言中山愛親でした。愛親は、光格天皇の側近だったのです。
結局、中山愛親は幕府によって職を解かれ、閉門の処罰を受けます。全面的な朝廷の敗北でした。しかし朝廷に同情的な世間は、中山愛親を英雄のように語り、それが伝説化されるに至るのです。
『中山夢物語』『中山瑞夢記』『中山記』『中山問答記』『小夜聞書』などなど。中山愛親を主人公とする尊号事件の顛末記、それも実際とはちがって、愛親がさっそうと幕府をやりこめて活躍する話がいくつも作られ、写本となってひろまっていきました。

この伝説は、幕末の中山家を方向づける、一つの要素となったのではないでしょうか。ということで、以降の話は、明日に続きます。

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『源氏物語』は江戸の国民文学

2006年02月15日 | 幕末文化
昨日、庄屋さんの幕末大奥見物ツアー でご紹介しました幕末の過激な女性。

多数の妾を認める中国の儒教を非難し、中国を淫国と罵り、夫(おそらく幕臣)にむかって、「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」と主張しったってお話、なんだかすごくないですか? 
幕末の女性たちへの国学の影響が、なんですけど。
幕末の国学といえば、過激な攘夷感情とのみ結びつけられてしまいがちなのですが、こういった形での浸透にも、注目すべきだと思うのですよね。
江戸時代における王朝文学の見直しは、儒教の価値観から解き放たれることでもあったんですね。
江戸時代における源氏物語の大衆的な享受については、『源氏物語の変奏曲―江戸の調べ』や、野口武彦氏の『源氏物語を江戸から読む』に詳しいのですが、やはり、本居宣長の果たした役割は大きいでしょう。
『源氏物語の変奏曲―江戸の調べ』収録、田中康二著「宣長以後の物語研究」から、以下、引用します。

本居宣長の「もののあはれを知る」説は、『源氏物語』のみならず、文学全般にも適用され得る文学理論である。仏教的教戒説や儒教的勧善懲悪説がコンテンポラリーの共通認識であった江戸時代にあって、文学そのものの自立性と自律性を謳いあげた「もののあはれを知る」説は、画期的なものであった。

野口武彦氏の『源氏物語を江戸から読む』には、さらにそこから発展して、より近代的な物語論に至った萩原広道が取り上げられていますが、ともかく、江戸も後期になってきますと、王朝文学を近代的にとらえるようになった、ということなんですね。つまり、国学的な王朝文学とは、中華文明圏離れであり、近代西洋における国民文学のようであったと、いえるのではないでしょうか。
ネイション・ステイトの模索は、江戸期、すでにはじまっていたのですね。

『江戸の女の底力 大奥随筆』に出てきます川路聖謨の妻・高子さんにしろ、さらに過激な女性にしろ、です。『源氏物語』だけではなく、おそらくは『蜻蛉日記』などの王朝女流文学を、儒教道徳の価値観からは離れて、読んでいたわけですよね。
だとするならば、女の嫉妬は責められるべきことではなく、自然な感情だと当然思うでしょうし、嫉妬の苦しみを生む妾の存在が道徳的にすぐれたものだというのは、「蛮国の淫風」にすぎないと、儒教道徳は相対化されるわけなのでしょう。

『源氏物語』を漢詩に詠んだ江戸後期の女流詩人、江馬細香。頼山陽の愛人であった彼女のことは、野口武彦氏の楽しい「ゴシップ史観」 でご紹介しました『大江戸曲者列伝―太平の巻』に出てきます。
頼山陽については、「鞭声(べんせい)粛々(しゅくしゅく)夜河を渡る……」うたわれる漢詩の作者であり、幕末の歴史書ベストセラー『日本外史』の著者です。儒者の家に生まれましたが、若い頃には放蕩、家出を重ね、放浪癖のあった変わり者であった、といわれます。
細香女史は、大垣藩の藩医の長女です。遊び人、頼山陽との結婚を、父親が許さなかったのだ、といわれているようですが、ともかく、結婚することなく、頼山陽と文通し、京都に訪ねて人目もかまわず二人で歩き、野口先生もいわれておりますが、妾ではなく、愛人でいたのです。
父親の元にいて、藩医のお嬢さまという安定は得ていたのですから、今でいえばパラサイトですね。
しかしおそらく、彼女にとっても、実家にいて自由な愛人の立場、というのは、望ましいものであったのではないのでしょうか。夫としての頼山陽は、疲れる相手であるように思えますし。
細香女史の生き方にもまた、近代的、ともいえる雰囲気を感じたりします。


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庄屋さんの幕末大奥見物ツアー

2006年02月14日 | 幕末文化
慶応元年(1865)といえば、維新まであと3年の動乱期。この年、近江堅田村から江戸へ、助郷役免除の嘆願に出かけた庄屋さん。ついでに江戸見物もしたのでしょうが、江戸城大奥見物ツアーにも出かけた、といったら、ちょっと驚きませんか?
男子禁制の大奥です。庄屋さんはもちろん男です。
でも、ほんとうなんです。許可を得て見学した庄屋さんの日記が残っているのだそうなんです。

このお話が載っているのは、氏家幹人氏の『江戸の女の底力 大奥随筆』
氏家幹人氏といえば、『武士道とエロス』『小石川御家人物語』で、江戸時代の意外な断面を、確かな資料を駆使しつつ、鮮やかに切り取って驚かせてくださったんですが、今回も期待を裏切りませんでした。
江戸の女たちは、どんな人生を送ったのか?
大奥の女性たちをも含めて、思い込みが覆されるお話が、けっこうあります。

さまざまな女性たちが登場するのですが、一番、印象に残ったのは、幕末、日露外交などに腕をふるった幕臣・川路聖謨の妻、高子です。この夫婦の仲がよかったことは、たしか野口武彦氏のご著書(なんだったか思い出せません)にも、載っていました。
幕臣の娘として生まれた高子さんは、15歳で紀州徳川家の江戸屋敷の奥女中となり、その後、広島浅野家の江戸屋敷でやはり奥女中を務め、三十五歳、当時としては高齢で、川路聖謨の四度目の妻となります。
川路家には、先妻の子供たちがいて、聖謨の養父母、つまり舅、姑もいます。おまけに高子さんは病弱。
しょっちゅう寝付いて、聖謨にいわせれば「立ちはたらきはすくなく」なのですが、聖謨は高子さんを大切に思っていた様子が、日記などにうかがえますし、高子さんはまた、りっぱに一家をきりまわしていたのだ、というのです。
おまけに彼女は教養深く、歴史問題、男女問題など、正面から聖謨に反論します。
面白いのは、女の嫉妬と男の妾に関する論争で、高子さんは堂々と、「周公の心の内疑うべし」と、漢籍の儒教道徳を非難し、男が妾を持つことを否定した、というのです。

川路聖謨の日記には、高子さんの上をいくインテリ女性の話も出てくるのだそうです。その女性は、多数の妾を認める中国の儒教を非難し、中国を淫国と罵ったというのです。さらにその女性は夫に、「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」と、論じたてたのだそうです。

川路聖謨は、戊辰の春、江戸開城を目前にして、自決しました。享年68歳。
冷静沈着にそれを受けとめた高子さんは、そののち16年生きて、世を去りました。


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幕末人気コミック『白縫譚』復刻のニュース

2006年02月13日 | 幕末文化
普通の人々の幕末ベストセラー 、そして幕末の人気伝奇コミック『白縫譚』 で、ご紹介しました『白縫譚』、なんと今年、上段に木版の原本を全編収録の上、下段には読みやすい活字の文章を載せた復刻本が、全三巻で刊行されると、国書刊行会 最新ニュース にありました。

『白縫譚 しらぬいものがたり』全3巻 高田衛=監修/佐藤至子=編・校訂
 群雄割拠する戦国時代の九州。謀計に斃れた大友宗隣の遺児として御家再興と九州平定を誓う若菜姫は、山妖から土蜘蛛の妖術を授かる。時に男に変じて人々の目を眩まし、時に蜘蛛の糸に乗って国々を遍歴しながら、若菜姫は土蜘蛛を自在に操り、父の仇である菊地・太宰両家の攪乱を謀る。
 いっぽう菊地家では美貌の小姓青柳春之助(実は海賊の遺児七草四郎)が主君貞行の寵愛を一身に集め、権力をほしいままにしていた。春之助が御家横領を企んでいることに気づいた鳥山豊後之助は貞行に諌言するも容れられず、豊後之介が左遷された菊地家は存亡の危機に陥る。
 挙兵の時を待つ若菜姫を待ち受ける運命とははたして?
 生き別れた弟との再会、家来たちの数奇な運命、妖術を封じる宝鏡の流転など、さまざまなエピソードを交えながら、美貌の妖賊・若菜姫の活躍を描いた合巻中の最大にして最高の傑作長編伝奇小説。泉鏡花によって「江戸児の張と意気地」を体現した女性像が賞賛され、江戸川乱歩も原本を愛蔵していたことでも知られる、幻の幕末のベストセラー小説が、読みやすい翻刻と、原本の美しいすべての挿絵とともに、ついによみがえる!
 夢枕獏、延広真治氏推薦! 定価92400円(税込・分売不可)5月刊行予定

ああ、しかし、定価92400円って!!! 辛いものがありますねえ。
購入した木版の五編、すべて表紙を載せておきます。




三十二編 上下二冊 柳下亭種員・作 歌川国貞・画 、廣岡屋幸助梓 出版年不明




三十三編 上下二冊 柳下亭種員・作 歌川国貞・画 、廣岡屋幸助梓 出版年不明




三十五編 上下二冊 柳下亭種員・作 歌川国貞・画 、廣岡屋幸助梓 文久2年




五十六編 上下二冊 柳亭種彦(二世)・作 (歌川)芳幾・画  廣岡屋幸助梓 慶應4年




五十七編 上下二冊 柳亭種彦(二世)・作 (歌川)芳幾・画  廣岡屋幸助梓 慶應4年


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戊辰の春、名女形の壮絶な舞台

2006年02月12日 | 幕末文化
チャンネルをまわしていて、偶然、時代劇チャンネルで『田之助紅』という古い映画を見ました。
三代沢村田之助といえば、幕末の名女形です。
幕開けは、万延元年(1860)、田之助の立女形披露らしき場面。
安政六年(1859)正月15歳で襲名、翌年、16歳で立女形になった、という事実からしますと、映画の役者さんは老けていたんですが、これは見なくっちゃ! と。

映画は、もちろん実話ではなく、実在の田之助を主人公とした舟橋聖一原作のフィクションです。モノクロで、ずいぶんと古い映画みたいでした。
で、いま、時代劇チャンネルのHPで見てみましたら、なんと、1947年の映画!
終戦の2年後ではないですか。

後世の感覚って、なんか変なんですよね。
戦争していたら、当時の世の中はそれ一色だったんだろうと、つい思ってしまいます。
戊辰戦争もそうで、戊辰の春の江戸も、いつもにかわらず歌舞伎が上演され、多くの人々は普通に暮らしていたんですよね。
そして1947年、戦後の占領期、時代小説でさえ検問を受けて、出版できなかった時期とはいえ、作り方によってはこうい映画も、ありえたんですよね。
制作年を最初、勘違いしていて、戦時中の映画だと思い込んでしまっていました。
映画の筋を簡単にいえば、田之助は「風紀を乱す」という感じで奉行所に睨まれるのですが、芸一筋の田之助は、慕う女たちに庇われ、さらには、真摯な田之助の舞台が奉行の心をも動かす、といったものです。
これ、軍部をお奉行さまに見立てて、田之助の芸にかける心意気が、映画人の心意気なのかと思っていたのですが、あるいは、お奉行さまは、GHQであったかもしれないですね。

ちょうど太平洋戦争開戦の2ヶ月ほど前に、『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』という聞き語り本が出版されました。
語り手は、今泉みね。
 徳川将軍家の蘭医・桂川家の娘として、安政2年(1855年)、幕末の江戸に生まれた女性です。
 みねは、維新後、落ちぶれた桂川家から、元佐賀藩士で新政府出仕の今泉利春に嫁ぎますが、司法畑にいた利春は反政府運動にもかかわり、みねが獄中に差し入れにいくようなこともありました。
 昭和になって、80を越えたみねの少女時代の想い出を、孫たちが聞き書きしたものが、この『名ごりの夢』なのです。
 花のお江戸から飛行機が上空を飛ぶ東京へと、みねの生きた時代は、すさまじいスピードで流れました。
 「私の幼いころのすみだ川は実にきれいでした」と、みねは、消え果てた江戸の光景を、夢のようになつかしむのです。
その『名ごりの夢』で、三代田之助のことが語られています。

私がよく見ましたのはあの足の悪かった田之助でした。この役者の人気と申したらとても大したもので、どうしてあんなに人気があったのかと聞かれますが、実に名優だったのでしょうね。美しいことも、私が見た中であれほどの美しさは前後になかったと思います。ただの美しさではなく、なんとなくこうごうしい美しさでした。それに足の悪いことも贔屓の人たちの同情をひいて、一層の人気を増したかもしれません。とにかく芝居小屋は田之助の紋のついたものばかり、幕があいても「紀の国や紀の国や」の声はわれるようでしばらくは鳴りもしずまらぬほどでした。あの最初の宣教師であり医者でもあったヘボン博士が外科手術で田之助の足を切断したことは、当時田之助をも博士をも有名にした話だったでしょう。歩けなくなってからの田之助は大きな笊(ざる)の浅いようなものに乗って舞台へ出ました。

足が悪かった、というのは、壊疽だったといわれます。
横浜のヘボン博士の手術で片足を切り落とししたのが、慶応三年です。
明けて戊辰の春、田之助はアメリカ製の義足をつけて、舞台に立ちます。
さらにはもう一つの足も失いつつ、なおも舞台に立ちつづけた名女形は、壮絶なまでに美しかったのです。

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