郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

続・中村半次郎人斬り伝説

2006年01月31日 | 桐野利秋
いったい、いつごろから、中村半次郎の前に「人斬り」とつくようになったのか、といえば、実のところさっぱりわかっておりません。
ともかく、です。私が知る限り、桐野利秋の最初の伝記は、明治11年、つまりは、西南戦争直後に出版された、金田耕平著『近世英傑略伝』という全2巻の伝記集です。
一巻に、まだ生存中の三条実美、岩倉具視、大久保利通、森有礼、福沢諭吉、佐藤尚中、板垣退助の七人が収められ、そして二巻で、死去したばかりの三人、西郷隆盛、木戸孝允、桐野利秋が取り上げられているわけです。

ごく短いのですが、偉人伝といった趣で、内容はわりに正確です。
しかし、西南戦争当時の新聞紙面には、デマや中傷じみたものも散見されまして、当時、新聞条例によって、反政府的な内容は取り締まられていましたから、御用新聞ゆえなのか、と受け取れます。
鹿児島県資料に、『西南の役懲役人質問』というのがありまして、降伏して服役した参加者の取り調べ質問なんですが、実にくだらない質問が多くありまして、「桐野は酒を飲みたる時は泣く癖あると云うは実なりや」とか、「桐野の妾降参したる説あり、実なりや」とか、懲役人はみな、あきれて否定しているんですが、全部、戦争中の新聞に書かれていたことなんですね。

しかし、文字では悪くかくしかなくとも、当時の錦絵は、庶民の気持ちを代弁して、大方、政府軍よりも、反乱軍(西郷軍)の方を、美しく、りっぱに描いていたりするんです。そうでなければ、売れなかったんですね。
月岡芳年描く桐野の錦絵を持っておりますが、美しゅうございます。
そして、西南戦争が終結したとき、新聞も庶民が西郷軍に抱いた思いを、小さな記事で伝えています。
夜空に赤く輝く火星(軍神マルス)を、人々は西郷星と呼んでふり仰いだのですが、その火星に衛星が発見されました。
「至って小さき星ゆえ望遠鏡でなければ見られませんが、もしアリアリと見へたなら、多分桐野星とでも申して立ち騒ぎましたろう」と、郵便報知は、書いています。

さて、「人斬り」の方なんですが、戦前の資料にもフィクションにも、そういった表現は出てきません。
実際、桐野が斬ったとはっきりわかっているのは、自ら日記に記している赤松小三郎のみで、それを戦前に語ったのは、有馬藤太だけでしょう。
維新前の中村半次郎時代については、あまりにも確実な資料が少なく、逸話や物語のみが一人歩きをした、ということのようです。
西南戦争についても、「桐野は望んでいなかった」とする証言は多いのですが、大久保利通が「桐野が起こした」と信じ込んで、伊藤博文への書簡に書いたためでしょうか、戦後になって、そういう受け止め方が主流になったのではないでしょうか。

どうも、戦後のある時期から、太平洋戦争と西南戦争を重ねて見る風潮が生まれ、帝国陸軍の暴走と西郷軍がダブルイメージとなったように感じるのです。そしてその時期は、「剣豪」がマイナスイメージとなった時期に、重なるのではないでしょうか。
おそらく、昭和48年に発行された池波正太郎氏の『人斬り半次郎』 が、中村半次郎人斬り伝説を決定づけたのでしょうけれども、この小説は、作者の半次郎にそそがれる視線はあたたかいもので、また、「剣豪」が嫌われる時期でも、なかったのではないか、と思われるのです。

(えーと、掲示板の方でご指摘がありまして、「池波氏の『人斬り半次郎』は昭和44年2月、東京・文京区の東方社から既に出版されている」とのことです。謹んで、ご報告を)

決定的だったのは、昭和47年に毎日新聞に連載が始まり、昭和51年に単行本として刊行された、司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』だったでしょう。
ここに描かれた桐野が……、なんといえばいいのでしょうか、ある本で、丸谷才一氏が、以下のように述べておられました。
「司馬さんのなかには桐野的人物に対する分裂した好悪の念があるんだね。かなり好きなところもある。でもね、おれが好きになる以上、もうちょっと利口であってほしかったていう恨みもかなりある」
実をいえば私は、『翔ぶが如く』をきっかけに、桐野のファンになったのです。
魅力的に描かれていないわけでは、ないのです。魅力はあります。しかし、『人斬り半次郎』の桐野のような、明るさがありません。暗いんです。
だいたいまあ、『翔ぶが如く』自体がじっとりと暗くて、それは、合理性の尊重をひとつの尺度にして、明快に幕末維新の人物像を描き分けてきた司馬遼太郎氏が、西郷隆盛という巨大な不合理を、扱いかねていた暗さ、なのではないでしょうか。
司馬遼太郎氏が桐野を描いたのは、『翔ぶが如く』が最初ではなく、昭和39年に刊行されました『新選組血風録』にも、脇役としてなのですが、ちらほらと出てきますし、昭和40年刊行の『十一番目の志士 』にも、わずかながら登場します。
そして、一番切れ者風に描かれていますのは、『新選組血風録』なのです。
『新選組血風録』は、土方歳三を主人公にした『燃えよ剣』と同時期に書かれたものですし、桐野と土方は、敵陣営にいる似たタイプ、という感じがあって、あるいは、素材としての中村半次郎は、『燃えよ剣』の土方歳三のように描かれる可能性もなくはなかったのだと、思えます。
ちがいを言えば、徹底して政治にかかわらなかった土方にくらべ、桐野は政治的な動きを見せますから、そこらへんが、司馬さんの好みにあわなかったのでしょう。

桐野が小説に描かれるとき、司馬さんに限らず、どうも短編の脇役の方が、好ましく描かれているような気がするのです。
私が好きなのは、船山馨氏の『薄野心中 新選組最後の人』(『新選組傑作コレクション〈烈士の巻〉』収録)です。
主人公は、新選組の斉藤一で、舞台は維新後の北海道です。
明治4年、斉藤一が北海道で土木人足をしていて、陸軍少将・桐野利秋が北海道視察に訪れるのですが、驕る勝者の中で、桐野一人、さわやかに描かれていたりしまして、ちらっとしか出てこないのですが、ラストシーンが感動的なんです。

結論を言いますと、中村半次郎人斬り伝説は、後世の講談や小説が作り上げたもの、としか思われません。

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中村半次郎人斬り伝説とホリエモン

2006年01月30日 | 桐野利秋
久しぶりにニューズウィークを買って読んでいて、あきれました。
なににあきれたって、ホリエモンの描きぶりに、です。
私はなにしろ、「男は容姿」を信条としておりますので、以前からホリエモンは嫌いです。
昨今、ニュースを見ていたらかならずあの顔を拝まされるのには、うんざりしていました。
とはいえ、別に極悪人だと思っているわけではなく、やたらに持ち上げておいて、叩くとなったらこれまたいっせいに叩きまくるマスコミに、うんざりしていただけです。持ち上げるにしろ、叩くにしろ、あの顔は拝まされるわけですから。

で、ニューズウィークの記事です。
記事の著名は東京支局長クリスチャン・カリル氏と平田紀之氏。
物語仕立てで、冒頭に、ドラマティックに六本木ヒルズにある事務所の手入れを描いたあげく、「フジテレビに敵対的買収を仕掛け、日本の企業文化を激変させた男に、いったいなにが起きたのか」と、問いかけてはじまります。
芸が細かいですねえ。「企業文化」ときましたか。
別にホリエモンが「日本企業」を激変させたわけじゃないんですけどね、「企業文化」として置けば、いったい企業文化がなになのか、指す内容が曖昧ですから、ラフな格好でテレビに出まくった程度のことを、「日本企業のビジネススタイルを根本から変えるという野望」なんぞという、美辞麗句で飾れるわけですね。
で、あげくの果てに、フジテレビとの攻防戦を「買収には失敗したが、もっと大きな戦果を上げた。リストラを進めて体力を強化し、株主価値を上げなければ買収される可能性があることを、日本企業に知らしめたのだ」と評価するとなると、物語仕立ての筋書きが露わになって、読む気が失せてしまいます。
公平を装いながら、フジテレビは悪役、ホリエモンは改革の旗手で善玉、という図式は、堅持しているわけなんですよね。
なるほど、検察の真の狙いが、フジテレビ買収劇に動いた外資系金融機関への牽制にあったことは、事実でしょう。しかし、それが言いたかったのなら、もっと他に書くべきことがあるでしょう。ホリエモン善玉物語が、そのまま外資系金融機関善玉につながるような印象操作をする前に、です。
ともかく、テレビのワイドショーにしろ、このニューズウィークにしろ、いいかげん、陳腐な勧善懲悪物語仕立ては、やめていただきたいものだと思うのです。

もっとも、これがエンターティメント、大衆的なフィクションとなりますと、仕方のない面があることは確かです。
勧善懲悪とまでいかなくても、人物をある程度類型的に描きわけ、はっきりとした対立の図式を描いて見せなければ、お話がおもしろくならないですし、第一、わかり辛いでしょう。
で、ここでようやっと話が、桐野につながります。

戦後もある時期まで、時代小説における剣豪、つまりすぐれた剣の使い手であることは、ヒーローの条件であり、プラスのイメージが強かったでしょう。ある時期って、おそらく……、高度成長が終わるころまで、なんじゃないかと思うんですけど。
これは、架空のヒーローではなく、幕末の志士たちについてもいえることで、剣にすぐれていた、というのは、賞賛に価することだったんですね。
ところがある時期から、剣の使い手であることは、あまりいいイメージにつながらなくなったような気がするのです。
いえ、それはそれで、人気の種でないこともないのですが、「腕はたったがけっしてむやみに人は斬らなかった」とか、言い訳じみたセリフがついてみたり、するようになったわけなんですよね。

桐野につなぐ前に、ちょっと土居通夫の話を。
土居通夫は、宇和島藩出身の志士で、後に関西で実業家になり、通天閣は土居通夫の「通」をとって名付けられた、という通説ができていたほど、大阪経済の発展に尽力した人です。
司馬遼太郎氏が、『花屋町の襲撃』(『幕末』収録)という短編で、この人をモデルにして「後家鞘の彦六」という剣豪を描いているのですが、花屋町の襲撃は、陸奥宗光たちが、龍馬暗殺の仇討ちに、新選組に守られた紀州の三浦休太郎を襲った実際の事件ですし、最後に土居通夫の名を出して、実録風に書いてあります。
以前に、知り合いから、土居通夫のことを旅行案内本のコラムに書くというので、相談を受けたことがありました。『花屋町の襲撃』に書いてあることは事実か? と言うのですね。
いや、小説ですしね。虚実とりまぜで、おまけに私が知っている範囲では、花屋町の襲撃に土居通夫が加わっていた、ということ自体、司馬さんのフィクションであるらしかったんです。
それで、同じ司馬遼太郎氏の随筆『剣豪商人』(『歴史の世界から』収録)を、紹介しました。
ところが、ここに書いてあることは事実か?、とたたみかけられますと、これもちょっと首をかしげざるをえません。一度、調べたときに、剣豪だと言われていた事実があり、新選組と斬り合いをした、というような話は読んだんですけど、それもどこまで事実やら、という感じでしたし、「剣の腕がすぐれているので、土方歳三が新選組に入らないかと誘った」というあたりなど、後に実業家になってからの伝説くさいんですよね。
で、結局、「短いコラムだから、司馬遼太郎氏はこう言っている、と書けばいいですかね?」と聞かれ、「それならまちがいないと思います」と答えておきました。
が、それでも問題は起こったんです。
北海道旅行の最中に携帯が鳴り、なにかと思えば、「読者の方から電話があって、土居通夫が剣豪だったなどと、司馬遼太郎がそんな嘘を書くわけがない、と言われて困っているんです」と。
これには、あきれました。出典を告げてことなきを得たのですが、なにやら、剣豪と書かれることが、悪いことであるかのような抗議だったらしいのです。
『剣豪商人』の初出は、昭和36年の『歴史読本』です。
つくづく、時代の変化だよなあ、と、思いました。
土居通夫が剣の達人であったことは、事実だったようなのです。
新選組と斬り合ったことも、なかったとはいえません。
戦前には、それが誇張されて伝説となるほどにプラスイメージだったのでしょうし、戦後も昭和30年代には、まだ、そういう風潮が濃厚にあったのでしょう。
ところが昨今では、「人斬り」どころか、「剣豪」でさえ、マイナスイメージであるようなのです。

で、やっと桐野です。といいますか、「人斬り」といわれる中村半次郎像の変遷について語りたかったのですが、話がそれて、前触れだけで終わってしまいました。
次回に続きます。

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男女逆転のパロディ『大奥』

2006年01月29日 | 読書感想
ちょっと用事があって街へ出かけ、本屋さんに寄りました。
よしながふみ著の漫画『大奥 (1)』が平積みになっていて、つい目について買いました。
最近はあまり漫画を読まなくなって、よしながふみさんのものは初めてです。
たしか、同人作家出身だとか、誰かが言っていたよーな気がします。
おもしろい! 笑えます。実に巧みなパロディです。
お鈴廊下に朗々とひびく、「上様のお成ーりー!!」。
ひれ伏すは、三千人の美女ならぬ美男。だって、上様は女なのです。

下敷きにしているのは、きっちり、吉屋信子の『徳川の夫人たち』上下巻、『続 徳川の夫人たち』上下巻(ともに朝日文庫)です。
戦前の少女小説作家、人気女流作家として知られる著者が、その晩年に時代小説に取り組み、昭和40年から朝日新聞に連載しはじめた『徳川の夫人たち』は、たちまちベストセラーになり、舞台化、テレビドラマ化されて、大奥ブームを巻き起こした、のだそうです。
本書は、この大奥ドラマの古典を、見事にパロディ化しています。

男女の性を入れ替えるだけで、ここまで皮肉になるものかと目から鱗、脱帽でした。
『徳川の夫人たち』の楽しさは、絢爛豪華な衣装にもあったのですが、三代将軍家光の側室、お万の方の衣装にまつわる原作のエピソードを、そのまま借りてきて、「お万好み」ときっちり種明かしまでする手際は、さすがにパロディを書き慣れた漫画家さんならでは、です。
もちろん、元ネタを知らなくても十分に楽しめる漫画ですが、元ネタを知れば、なお楽しめます。

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海防に始まった幕末と薩の海軍

2006年01月28日 | 幕末薩摩
江戸時代の後半には、ペリーの黒船以前にも、異国船による事件は、頻繁に起こっていました。
高杉晋作と危機の兵学
でご紹介しました野口武彦氏の『江戸の兵学思想』によれば、江戸の兵学には「海戦」の概念がなかったのだそうです。

日本は島国ですから、これはちょっと不思議なことではあります。
しかし、そもそも「海戦」の概念とは、海上通商路を確保し、制海権を得るために艦隊が誕生してからの概念だった、と解説されると、なるほど、という気がします。
つまるところ、国家規模でが海外交易をし、その交易を守り発展させるために、西洋の海軍はあったわけですから、鎖国していた日本の近世に「海戦」は、概念すらなくてあたりまえなのです。
つまり近代海軍とは、そもそも、その存在意義からして、内政には関係のない存在なのですね。
一方の陸軍は、本質的に、内政に深くかかわる組織です。現在でも、軍事クーデターの起こる国は、多々ありますし、中国の人民解放軍がその筆頭ですが、政治にかかわっている陸軍も、多く存在します。

西洋近代の脅威は、黒船となって姿を現したわけですから、維新への原動力の最初の柱となったのは、海防意識です。
しかし、近代海軍を建設するためには、結局、大きく国を改革するしかないことが、やがて、わかってきます。
近代海軍建設に、最初に取り組んだのは政権を担っていた幕府ですが、長崎でのオランダ海軍伝習の中心となった勝海舟は、早くから、そのことに気づきます。
近代海軍建設を学ぶということは、それを培ってきた西洋近代を学ぶことでも、あったから、です。
しかし、海軍的な思考は、ある意味、内政に関しては不得手になりがちなのですね。国の変革をなすための決断は、軍事力を掌握した者にしかできないわけで、国内的な軍事力の掌握は、きわめて陸軍的な発想でなされるものです。
勝海舟は、そういう意味では、政治に疎い人でした。
それは、弟子だった坂本龍馬もいっしょで、維新前夜、薩長倒幕派首脳部と、一方で小栗上野介を中心とする幕府のフランス派が、武力で中央集権を達成するしかない、と見極めていた状況の中で、その必然性が見えていなかった、というべきでしょう。

では、薩摩倒幕派の中心だった西郷、大久保の思考が海軍的であったか、というと、なにしろ倒幕派なわけですから、そういう武力変革の思考は、海軍のものではありません。
しかし、倒幕を果たした時点で、大久保利通は、維新本来の目標であった海防に思考を切り替えるのです。
新政府が取り組む近代軍隊の建設において、大久保利通は海軍を中心に押し、長州は陸軍を中心にと、最初のヘゲモニー争いがはじまります。
海軍を中心に考え、それでも大久保が、ほぼ新政府の主導権を握り得たのは、大久保自身の思考は、必ずしも海軍的なものではなかったからでしょう。
しかし、明治6年の政変と西南戦争によって、薩摩閥は多くの人材を失い、大久保利通もまた倒れます。
それでも、薩摩閥は海軍を掌握しますが、陸軍を握った長州閥にくらべるならば、政治力は、格段に劣ったものとなりました。

薩摩閥の海軍で、政治的に傑出した人物を挙げるならば、海軍軍政に大鉈をふるった山本権兵衛くらいなものなのですが、大正になって政治家となり、内閣を組閣したところで、シーメンス事件に足をすくわれます。
長州閥の仕掛けた倒閣運動に、もろくも屈したわけでして、やはり海軍と政治は、相性の悪いものであったようです。

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函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)

2006年01月27日 | 日仏関係
函館戦争のフランス人vol2
において、函館戦争に参加したフランス陸軍伝習隊教師たちのお話をしたわけなんですが、今回は、伝習隊に属していなくて、個々に函館に駆けつけた残りのフランス人たちのお話です。

まずはフランス海軍の見習い士官であった、アンリ・ポール・イポリット・ド・ニコールと、フェリックス・ウージェーヌ・コラッシュです。
この二人は、軍艦ミネルバ号に乗り組んでいて、明治元年五月に横浜に到着し、十月までいたのですが、その間にブリュネ大尉と知り合ったものか、十月十八日に一日だけの上陸許可をもらい、脱走して、商船を乗り継ぎ、函館に至りました。
二人とも二十歳そこそこで、日本語を学んでいたそうなのですが、戦いのロマンを求めたんでしょうね。

宮古湾海戦におけるアポルタージュ作戦は、ニコールの発案でした。
写真は、このとき旧幕軍が奪おうとした甲鉄艦、ストーン・ウォール・ジャクソン号の後の姿です。
ストーン・ウォール・ジャクソン号は、鉄壁のジャクソン、という意味でして、アメリカ南軍の名将の名を冠して、南軍がフランスに発注していた最新の軍艦でした。
しかし、南北戦争終結で不要になり、幕府がアメリカと買いとり契約を結んで、半分だったかは支払ってあったんです。
ところが、日本に到着したころには、戊辰戦争の最中でして、当初、アメリカは局外中立を盾に新政府への引き渡しを拒んでいたのですが、旧幕府軍に引き渡すわけにもいかず、ついに、新政府に渡しました。

アポルタージュ・ボールディング、接舷攻撃は、砲が発達していない帆船時代の海戦では、もっとも一般的なものだったんだそうです。以下、個人サイトの掲示板でお教えていただいたことです。
その伝統から、かならず欧米の艦船には、軍艦乗っ取りのための斬り込み戦闘専門の海兵隊がいて、これが、現在のアメリカ海兵隊の前身なのだとか。

旧幕海軍には、海兵隊がいなかったのでしょう。臨時の海兵隊として、神木隊・彰義隊を、三艦に乗り込ませ、その検分役、つまりは海兵隊の総指揮官として土方歳三、その側近として新選組相馬主計、同役野村利三郎が、旗艦回天に乗り込んだわけですね。
ニコールはその回天に、コラッシュは高雄丸に、そして蟠龍には、後で述べますが、一般から参加したフランス人のクラトー、と、それぞれ、フランス人が一人づつ乗り込みます。
結果的に、この作戦は失敗します。
回天艦長、甲賀源吾は戦死し、ニコールも砲弾を受けて負傷。
高雄丸は座礁し、コラッシュは、上陸した他の日本人たちとともに降伏して、南部藩の捕虜となるのですが、このコラシュが、後にフランスで、このときのリアルな挿絵入りの手記を出版して残しています。
内容は、簡略ながら、鈴木明氏の『追跡』に載せられているのですが、挿絵は一枚しかなく、残念だったのですが、それが、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光』に、おそらくは全部、載っていたのです。買ってよかった本でした。

ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。

蟠龍に乗り込んだクラトーは、水兵だったといわれます。ただ、フランス海軍を脱走して函館戦争に参加したわけではなく、横浜に住み着いていて、だったようで、五稜郭脱出後、そのまま日本に居残り、明治になってからですが、築地の居留地でホテル・メトロポールを経営しました。
銀座の木村屋は、このホテルでパン作りを習ったと、いわれています。

後二人、函館戦争にフランス人が参加しています。
一人はトリポー。元フランス陸軍にいた人だといわれますが、経歴もその後のことも、まったくわかっていません。
もう一人のオーギュスト・ブラディエは、横浜の商人でした。函館戦争に参加したときには30歳です。脱出後は元の商人に返り、日本女性と結婚して、明治4年に男の子が生まれ、その二年後には死去し、横浜の外人墓地に葬られました。
残された息子は、日本国籍で育てられ、リヨン郊外のモンテリマールという父の故郷へ、何通かの手紙を書きました。フランス片田舎の村の親族は、その手紙を大切に長く保存していて、鈴木明氏がそれを発見します。
氏の『追跡』は、日本とフランスにまたがって、函館戦争に参加したフランス人のその後を克明に追っていて、読み応えのある本です。

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『トラトラトラ!』と『男たちの大和』

2006年01月26日 | 映画感想
『男たちの大和』を見まして、つい思い出しましたのが、先年、DVDを買って見ました『トラトラトラ!』『ハワイ・マレー沖海戦』です。
『トラトラトラ!』は、日米合作でハワイの真珠湾攻撃を描き、1970年に公開された映画です。
近年の『パール・ハーバー』は、アメリカでも史実歪曲の駄作として知られていますが、『トラトラトラ!』の方は評判がよさげでしたし、ゼロ戦やら九九艦爆やら九七艦攻やらが、実際に飛んでいる姿を見たくなったのです。
さすがに、アメリカの海軍が協力したという映画、でした。
いえ、なんでアメリカが負けっ放しの映画にアメリカ海軍が協力したかといえば、なんでもハリウッドの製作側が、相当なお金を払ったとかで。
『男たちの大和』はどうなんでしょ? なんだか海上自衛隊は、宣伝のために、無料奉仕してそうな気がするんですけど。

ともかく、『トラトラトラ!』は、よかったです。
民間に被害が及びませんし、戦闘とそこに至る駆け引きを楽しむ、本来の意味での戦争映画、ですね。
だから、なにがいいって、冒頭の日本海軍の様式美と、対照的に描かれるアメリカ軍のラフな戦闘魂。
そしてやはり、本物の空母を使った離艦シーンや、特撮に頼らない迫力の爆撃シーン、ですね。

冒頭、山本五十六が連合艦隊司令長官となり、旗艦長門に乗り込むシーンは、重厚な美しさで、『男たちの大和』もこれを意識して引き継ぎ、長官乗り込みの場面を新兵の乗り込みに、そしてまた同じ開戦前の格式高い正装の場面を、終戦間際のカーキー一色の悲壮な場面にと、対称させているんだと思えるんですね。
まあ、くらべれば、やはり、勝ち戦であるにもかかわらず、『トラトラトラ!』の男たちの方がずっしりと重々しい存在感を見せ、悲壮なはずの『男たちの大和』の男たちの方がふわっと軽いな、って印象はあるんですけど、映画を作った時代がちがうんですから、それは仕方がないですね。

で、開戦の日の暁闇に、空母赤城から真珠湾をめざし、艦爆が、艦攻が、ゼロ戦が、次々に発艦していくシーンの美しさは、茫然と息を呑むほどでした。
日本側アクション部分の監督は、深作欽二だと書いていたので、私はこの場面もそうだと思ったんですけど、空母がアメリカのものなので、(えー、あたりまえですね、戦後、日本は空母を持ってませんから)、アメリカ側の撮影シーンなのかもしれません。
たた、後で知ったんですけど、『トラトラトラ!』の真珠湾攻撃の赤城の場面は、赤城内部のドラマ的場面まで含めて、日本帝国海軍が戦時中に戦意高揚映画として作った、『ハワイ・マレー沖海戦』を、ほとんどそっくりに踏襲しているんですね。
現在ではこの映画、円谷英二が手がけた日本初の高度な特撮映画、としての評価しかされていませんで、実際、ドラマとしておもしろいとは、お世辞にもいえません。
ところが、いうまでもないんですが、現在の目で日本初の特撮を見れば、実にちゃっちいんです。
やはり、なんといってもこの映画の値打ちは、本物の水兵さん、本物の日本の空母、本物の帝国海軍航空機の、圧倒的な迫力です。
たしか、飛行機好きで知られていた斉藤茂太氏(斉藤茂吉の長男で北杜夫の兄)だったと思うんですが、「陸軍航空隊にくらべて、海軍航空隊の編隊飛行は、翼が触れそうなほどびしっと連なって、実に見事なものだった」と書いておられて、印象に残っていたのですが、まさに、おっしゃる通りでした。
本物の帝国海軍航空隊による『ハワイ・マレー沖海戦』の編隊飛行は、『トラトラトラ!』の編隊飛行に、はるかに勝る美しさです。
しかし、戦前のオタクは大変だったようでして、飛行機オタだった斉藤茂太少年は、陸海軍の飛行機写真を集めていたのですが、その中に陸軍の発表前の飛行機のものが含まれていたとかで、憲兵隊に呼ばれるんですね。
もっとも、茂太少年は、飛行機のことをなにもしらない憲兵さんたちに、これからの航空戦力の重要性を啓蒙して、たいしたこともなく帰されたようですけど。

で、さすがは帝国海軍宣伝映画です。
最後に、なんの関係もなく、軍艦マーチが高らかに鳴り響き、演習なんでしょうけれど、実物の数隻の軍艦が荒波にもまれて、実際に発砲するシーンがあるんです。
私は、まったく軍艦には詳しくないので、いったいなにが参加しているのかわからないんですけど、ともかく本物です。
どっしりと重量感のある軍艦が、波を蹴立てて走り、砲が黒煙をあげて火を吹く。
モノクロ映像の荒い画面ですが、その実物の迫力にはもう、圧倒されてしまいまして、いや、なんか……、軍艦オタの殿方の気持ちが、よくわかりました。

戦闘を描く本来の戦争映画が、そういえば最近、あまりないような気がします。
人間ドラマに重点を置いた戦争もの、最近では「反戦映画」という言い方もされるようですが、「反戦」というようなスローガンが目的になってしまっては、スローガンが逆なだけで、戦意高揚映画と変わりません。
それはそれで、お定まりに悲惨を煽ってみました、というのではなく、きちんと人間が描けているものは、いいんですけどね。要するに、映画の出来でしょう。
この手のものでは、私は、これも古いですけど、『ディア・ハンター』が好きです。
『男たちの大和』は、どちらかといえば後者、人間ドラマに重点を置いている映画なんですが、映像としては、『トラトラトラ!』を引き継ぐものでも、あると思うんです。

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戦中世代と見た『男たちの大和』


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戦中世代と見た『男たちの大和』

2006年01月25日 | 映画感想
母を連れて、見てきました。
実は見ようかどうしようか、かなり迷っていました。
なにしろ片道特攻の大和です。片道しか燃料を積んでいなかった、というのは伝説らしいですけどね。に、しましても、特攻であったことはたしかです。
悲壮美が嫌いなわけじゃあないんですけど、あんまりこれでもかと、じめじめ悲壮を強調されるのは好きではないですし、悲壮と言うより、無惨になりかねない。
あるいは軽々しく「戦争はいやです!」なんぞと陳腐なことを登場人物が叫んで、お定まりの安易な反戦ムードを出されても、うんざりします。
どうしようか、と迷っていましたところ、週刊新潮で福田和也氏がほめてらしたんですね。「するべき仕事をしている、という描き方で、あの世代の人々への畏敬の念があるのがいい」というようなほめ方で、それなら見てみたい、となったわけです。
母も見たい、ということで、戦中世代と『男たちの大和』を見ることとなりました。

えーと、その、結論から言いますと、私は泣きっぱなし。
母はまったく泣きませんで、「いい映画だった」と。
そうなんです。泣かないかわりに、ぶつぶつつぶやくのです。

母「昭和20年4月? えーと、昭和20年っていうと……」
私「終戦の年。ちょうど、あんたが学徒動員で軍需工場に行ったころ」
母「終戦の年か。ああ、いやな音! あの小憎らしいB29が……」

ここで私は、母の足を蹴って黙らせました。
おかーさん、B29は爆弾や焼夷弾を落としたのであって、機銃掃射であんたを狙ったのは、護衛戦闘機の、おそらくグラマンよ。
それに、戦艦大和に襲いかかっているのは、B29じゃないわよ。

母の話では、あまりにB29が小憎らしいので、みんなでナギナタを振りまわして悔しがったけれども、ナギナタを振りまわしたところでどうなるわけでもなし、もう負けるだろう、とは、わかっていたのだそうです。
母が軍需工場で造っていたのは、紫電改の翼だったそうなのですが、終戦で、結局飛ばなかったそうです。母が造った紫電改なぞ、空中分解するに決まっていますので、飛ばなくて幸いでした。
その軍需工場よりも先に、実家が焼けて、母は親元へ帰っていいことになりました。母が親の避難先にたどり着いたころ、軍需工場は本格的な爆撃を受け、母の同級生は多数、犠牲になっています。
まあ、そんなわけでして、母にとっては現実だったわけですから、悲惨とも思わず、泣けもせず、「小憎らしいB29と闘う男たちは美しい。いい映画だった」と、なったもののようです。

私も、いい映画だったと思います。
そりゃあ、突っ込み所は多々あります。
DVDで見た『トラトラトラ!』などとくらべると、戦闘シーンに今ひとつ、迫力がありませんし、映画ですから、あまり汚く描くのもなんですが、原爆にあったら、いくらなんでもあのきれいな顔は不自然だろう、とか。
ああ、一番不自然だったのは、音楽ですね。いい音楽でしたが、せめて水葬シーンは、『海ゆかば』を流してくださいな。後ね、『軍艦マーチ』のない帝国海軍なんて、帝国海軍じゃありませんわ。
パンフレットを買って読みましたが、大和生き残りの方も、『海ゆかば』『軍艦マーチ』『君が代』を、挙げておられるじゃありませんか。
海上自衛隊にも吹奏楽団はあるでしょうに。フランス陸軍の吹奏楽団ギャルド風に編曲して演奏していただければ、映画のスピード感にもぴったりだったはず。
しかし、心配した軍人らしい動作は、海上自衛隊の全面協力で、見事に、きびきびとした海軍らしさを再現していましたし、専門職に徹する男たちの描き方は、淡々としていて、よけいな思想性がなく、あざとさもなくって、かえって泣けました。

そうなんです。
淡々と描かれているだけに、もう、戦艦大和が姿を現しただけで、泣けました。
こんなに泣けた映画は、生まれて初めてです。私は、あんまり映画で泣かないんですけどね。個人に感情移入して映画を見る質ではないので、集団の運命では泣けても、個人的な悲劇では、泣かないんです。
最近では、そうですね、『ロード・オブ・ザ・リング』の『二つの塔』で、ローハンの闘いぶりに泣いて以来の、映画で涙、でした。
『二つの塔』のローハンの描き方は、とても日本的で、「あんたらは太平洋戦争の日本軍か」と思ったんですけど、あの場面、黒澤明監督の影響が強い、という話で、納得しました。
で、「どうして、日本人がああいう戦争映画を撮らないわけ?」と思っていたんですけど、今回は、そういう戦争映画、だったですね。

戦艦大和は、大艦巨砲主義の象徴であり、戦後、海軍内部からこそ、強い批判にさらされたわけですし、無謀であった太平洋戦争の反省材料の象徴でもあるのですが、一方で、近代日本の夢の象徴であったこともまた、事実です。
幕末、黒船の脅威を目前にして、島国日本の意識は海防にそそがれます。日本の近代化は、まず海軍にはじまったのです。
維新により、近代国民国家として生まれ出た大日本帝国は、日露戦争で、一応の目標を達成します。しかし、日本海海戦の軍艦は、すべて外国製、主にイギリス製なのです。
大正に入って、ようやく国産できるようになり、そして急速に、世界でトップクラスの造船技術を培い、その粋を集めて造り上げたのが、戦艦大和でした。
戦艦大和は、日本の近代がたどり着いた、ひとつの頂点であったわけです。
そして、帝国海軍が培った造船技術は、戦後日本の産業の出発点ともなりますし、帝国海軍が好敵手だったと評価したアメリカは、海上自衛隊にその伝統が引き継がれることを認めました。

戦艦大和も、そして、ともに海底に沈んだ男たちも、美しくあっていいんです。
それが、先人の業績に対する礼儀というものでしょう。
母もその気になりそうですし、尾道のYAMATOロケセットと、呉の大和ミュージアムを訪れてみようかと思います。

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大河ドラマと土佐勤王党

2006年01月24日 | 幕末土佐
あー、また下手な写真なんですが、桂浜の龍馬像です。おもしろい角度でしょう?
逆光で、太平洋がきれいに写っていると龍馬像が蔭になって黒くなってしまい、像がちゃんと写ると、この写真のように海がとんでしまっちゃったんです。

一昨日のことです。
この写真の近くに住んでおります妹から、電話がありました。
「今ね、大河がつまらなくて、見るものがなくて、退屈しているだろーと思って、電話してあげたの」
たしかに、つまらない大河を、見るともなくつけていたのですが、「電話してあげた」ってあーた、退屈ならすることは他にもありますわね。
ま、ともかく、最近の大河はほんとうにつまらない、という話になりまして、なにが題材ならいいんだろうと、あれこれ、言いあっておりました。
私は以前にも、「土佐なら長曽我部。『夏草の賦』がいいのに」といったことがあったのですが、妹は、これには賛成ではありませんでした。
地味すぎる、というのです。

司馬遼太郎氏の『夏草の賦』は、いいと思うんですけどねえ。
「男は容姿」の私としましては、やはり、薩摩島津との戦で戦死する、元親の長男、弥三郎信親がよいですわ。
しかし、やはり、幕切れが寂しいといえば、寂しいですね。
敵の長男の死を悼む薩摩の家老が風格があって、実に絵になっているんですけど、ともかく悲しい。
たしかに、地味かもしれませんね。

しかし土佐なら、山内さんよりいいじゃありませんか。
四国を席巻した長曽我部の地侍たちと、後に土佐に乗り込んで来た山内家の家臣たちの確執は、結局、幕末まで尾を引きますよね。
龍馬も含め、脱藩して命を落とした土佐勤王党の志士たちの大多数は、郷士や庄屋で、長曽我部侍です。
土着の土佐勤王党の志士たちは、京へ上れば、長曽我部氏の墓に参っていたりします。
上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士が山内侍。
土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。

ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』でも取り上げられています。
事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
 これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の『竜馬がゆく』では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、しています。
 しかしこれは、娯楽小説ゆえの表現、というべきでしょう。
 忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の『流離譚』(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
 安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
 親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
 喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
 宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
 つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。
 物理学者で随筆家の寺田寅彦氏は、喜久馬の甥にあたりまして、寅彦氏の父が、弟の喜久馬を介錯したそうです。

あー、なにが言いたいかといいますと、これは、習俗としての男色なのですね。
なにも土佐だけではなく、日本全国にあったわけでして、長州下関の奇兵隊のパトロン、白石正一郎の短歌にも、こういうものがあります。

みめよきはあやしき物か 男すらをとこに迷う心ありけり
(『白石家文書』 下関市教育委員会編 より)

って、まさか正一郎さん、お相手は晋作さんじゃ、ないですよね。

 わしが稚児(とんと)に 触れなば触れよ
 腰の……が鞘走る~♪
 よさこい、よさこい~♪

……部分を忘れてしまいましたが、そんなよさこい節もあります。

まあ、ともかく、日本全国に幕末まで残った習俗ではあったのですが、土佐、薩摩で特に色濃く残っておりまして、私は、これは南島文化の通過儀礼としての男色の名残、であったのだと思っております。

で、別にそのつながりではないのですが、大河の題材について、妹はこう申しました。
「島津はどうよ? 薩摩ならじめじめしてなくてよさそう」
「あー、それはいいわね」
と、私も即座に賛成いたしました。
関ヶ原の退(の)き口といい、その後の生き残り政略といい、爽快です。
戦国時代の大河なら、今度は薩摩島津がいいですね。


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高杉晋作と危機の兵学

2006年01月23日 | 幕末長州
この写真は、東行記念館が所蔵していた、吉田松陰の講義録『孫子評註』の写本です。写っている指はおそらく、一坂太郎氏のものです。
きゃあー!!! 『孫子評註』だっ! わあっ!!! 撮らせてくださーい。
ってことだったと思うんです。この本の由来もちゃんとお聞きしたはずなんですが、さっぱり覚えてません。
『孫子評註』に黄色い声を上げるのもおかしなものですが、その所以はといば、私の高杉によせる思いの中心に、この『孫子評註』があったからなのです。
えーと、いくら「男は容姿だ」という信念を持った私といえども、です。容姿にのみこだわっているわけではないですし、桐野のことは別にしても、高杉晋作は、容姿ぬきに好きだったりします。
つーか、どこからどう見ても、晋作さんの容姿はよくないですよねえ。

彼らのいない靖国でも

上の記事に出てまいります、野口武彦氏の『江戸の兵学思想』(中央公論社)なんですが、たしか当時、長州の奇兵隊と明治の徴兵制の関係を考えていて、手にとってみたのだと思います。
つまり、近代国民国家と近代軍隊は不可分ですから、兵学思想をぬきにして、明治維新を考えることはできないはずなんですね。
しかし従来……、といいますか、おそらく戦後、なんでしょうけれども、歴史学にそういう発想は、ありませんでした。

あまり一般に知られてないことなのですが、吉田松陰は、もともと藩の軍学者なのです。松陰が養子に入った吉田家は、山鹿流の兵学を家学としていました。
その松陰が、ペリー来航以来の危機を目前にして、兵学的思考で孫子を読み抜き、現実に引き寄せ、近代西洋の脅威と対峙したとき、それは敵である近代西洋の兵学に通じるものとなりました。
そして、「これを亡地に投じて然る後存し、これを死地に陥れて然る後生く」という孫子の一節は、長州一国を死地に投じて日本を変革しようとする、革命思想に変じるのです。

その松陰の兵学的な革命論を、もっとも濃厚に受け継いだのが高杉晋作でした。
後の奇兵隊の発想は、松陰の思考を発展させて、生まれたものです。
松陰は自らを死地に投じ、死を目前にした牢獄から、高杉晋作に何通かの手紙を書いています。
その中で、孫子の版本の差し入れを望み、また、「久坂玄瑞に高杉へ『孫子評註』を贈るよう頼んだがどうなっているか」と気にしているんです。
野口武彦氏は、この本の最後を、以下の言葉で締めくくっておられます。

勤王思想家としての松陰は、当初から幕府打倒を叫んでいたのではなかった。
諫幕から倒幕への転換は、ほかでもない「死地」の思想戦、激烈な内面の思想闘争のはての決意だったのである。
後世、吉田松陰を精神主義にまつりあげてしまったのは、その兵学的著述などろくすっぽ読まなかった連中である。

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高杉晋作 長府紀行

2006年01月22日 | 幕末長州
十数年前の旅です。三田尻(防府)へ行った次の日、とてもご親切な山口県出身の方に、長府の功山寺と東行庵を案内していただきました。




功山寺挙兵のときの高杉晋作の銅像です。
うーん。ピントがあってないですねえ。実は銅像の下に私がいて、双方にピントをあわせるのは、難しかったんでしょう、おそらく。




功山寺の山門なんですが、下手くそな写真ですよねえ。私が撮ったんです。




こちらは、たしか、東行庵にあった高杉の銅像だったはず。
だったはずって……、よく覚えてなかったりします。
(ぐぐってみましたら、東行庵はまちがいないのですが、銅像ではなく陶像、でした)
久坂玄瑞の法事
に書きましたように、一坂太郎氏をお訪ねして、桐野利秋についての情報をお願いしましたのは、このときです。



東行記念館に展示してあった「いろは文庫」です。
元治元年、晋作が京都から、妻お政(雅子)に宛てて書いた手紙に、以下の一節があるんです。

近日の中大阪へ帰り候故、さ候わば曽我物語、いろは文庫など送り候間、それを御読みなされ心をみがく事専一にござ候。
(一坂太郎著『高杉晋作の手紙』新人物往来社発行 より)

長州は八・一八政変で京を追われ、進発論が盛んだった時期です。
高杉は藩主の命で、進発論の最先鋒だった来島又兵衛を説得しようとして、罵られ、自分が脱藩して勝手に京へ上りました。帰藩後、投獄、謹慎となりますが、そのおかげで、池田屋事変、禁門の変敗戦という長州の窮地を、無事やりすごした、ともいえます。
そういう時期に、妻にいろは文庫を贈っていた、というのが、私にはとても印象的でした。
「心をみがく事専一にござ候」なんぞと、堅苦しい書き方をしていますが、いろは文庫って、ご覧のように絵入りで、為永春水が手がけた人情本なんですね。けっして、堅い本ではありません。
萩では手に入らない、きれいな絵入り読み物を妻のために買うって、なんだかかわいいじゃありませんか。
雅子さんが後年に語り残していることなんですが、高杉は彼女をを連れて料亭へ行き、芸者をあげて遊んだことがあります。「なにがおもしろいのかわからなかった」と、彼女は述懐しているんです。
当時、江戸の幕臣の妻は、夫とともに、柳橋の料亭や隅田川の遊覧屋根船に芸者を招き、三味の音と洗練された料理を楽しんだりすることが、けっこうありました。
おそらく、そんな江戸の風流を妻にも経験させてあげたいと、江戸遊学期間がけっこうあった晋作さんは、思ったんじゃないんでしょうか。




やはり東行記念館に展示してありました、有名な辞世の歌の色紙です。

高杉晋作  「面白きこともなき世を面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」

野村望東尼は、筑前藩士の未亡人で、元治元年の暮れ、亡命してきた晋作を山荘に匿い、勤王方の藩士たちに協力した罪もあって、姫島に流されます。それを晋作が助け出し、長州で晩年をすごして、臨終にも立ち会いました。
望東尼との交流を見ましても、晋作さんは、ずいぶんとかわいげのある男だったんだろうな、と思うのです。

僭越ながら、今回は、晋作さんの上の句に続けてみました。

  面白きこともなき世を面白く 君翔けゆきぬ風のはるけき


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