郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

中西輝政と半藤一利の幕末史観

2012年11月25日 | 幕末雑話

 えーと、ですね。
 ユニオン号に帰るはずだったのですが、その前に、ちょっと書いておきたいことがありまして。

 最初のきっかけは、張作霖爆殺事件でした。
 夏ころ、だったでしょうか。 勝之丞さまと電話でお話をしていて、「中西輝政氏が張作霖爆殺事件コミンテルン陰謀説を唱え、それに秦郁彦が反論している」というようなことをうかがいました。「中西氏のコミンテルン陰謀説ってどんなものなんだろう?」と、これに載っているかな? とめぼしをつけて、秦郁彦氏の「陰謀史観」を読んでみました。

陰謀史観 (新潮新書)
秦 郁彦
新潮社


 これで見ます限りにおいて、なのですけれども、中西氏が直接、張作霖爆殺事件コミンテルン陰謀説を唱えているわけではなく、秦郁彦氏は、田母神史観批判のついでに、対談などで中西氏がコミンテルン陰謀説に共感をよせておられるのを、批判しているだけのようなのです。
 しかし、その秦郁彦氏の批判に、私がさっぱり説得力を感じませんでしたのは、先に「謎解き 張作霖爆殺事件」を読んでいたからでしょう。

謎解き「張作霖爆殺事件」 (PHP新書)
加藤 康男
PHP研究所


 私、この件の資料につきましては、まったく読んでおりませんので、単なる気分の話にすぎませんが、けっこうこの本に説得力を感じておりまして、「まあ、謎は残るんじゃないの」、程度のことですが、秦郁彦氏のおっしゃる「通説」を、鵜呑みにできてはおりません。

 それで、秦氏です。
 私、ふと、「そういえば秦郁彦氏って、尼港事件をどう書いているのだろう?」と思い、検索をかけたんですね。で、出てまいりましたのが、「法華狼の日記 2012-09-28 尼港事件についての秦郁彦見解」です。
 「2000年に出版された文春新書『昭和史を点検する』に秦郁彦の見解が載っている」と、法華狼氏は書いておられるのですが、捜しても文春新書にそんな題名の本はなく、「座談会形式で、坂本多加雄が参加」と注釈にありますことから、「昭和史の論点」だろう、と見当をつけました。

昭和史の論点 (文春新書)
坂本 多加雄,半藤 一利,秦 郁彦,保阪 正康
文藝春秋


 どうやら、この本でよかったらしいのですが、ここでまた、法華狼氏がまちがえておられます。
 狼氏がおっしゃるところの「休戦していたパルチザンを日本軍部隊が勝手に攻撃して敗北し、その際に日本人が虐殺された無意味な戦闘という見解。加えて、そのような経緯を無視してソ連への憎悪を煽る世論形成に利用されたと指摘していた」人物とは、秦郁彦氏ではなく半藤一利氏だったんです。

 「ああ、あの半藤一利ねえ」 と、私が思わず鼻で笑ってしまいました理由は、後述します。
 この場合、文脈としては、ですね。
 まず坂本多加雄氏が「シベリア出兵の大失敗が陸軍の威信を貶め、国内政局での発言力の低下を招いたこともありませんか」と、しごくまっとうなことを述べておられるのに反論して、半藤一利氏が次のように言っているんです。

「政府内部ではかなり影響力が低下したと思いますが、それが国民意識にまで広がっていたかどうかは疑問です。というのも、1920(大正9年)にニコライエフスクつまり尼港事件が起きますが、陸軍はこれをソ連の残虐行為として大々的に宣伝するんです。当時の新聞を読むと、ソ連に対する国民の憎悪がものすごい。実は尼港事件は、本来やらなくていい攻撃を陸軍がしかけ、結局、大失敗したものなんですが、その汚点を巧みにごまかし、残虐なるソ連というイメージづくりに成功した。それでシベリア出兵の失敗もうやむやになったところがあります」

 私、思わず「頭大丈夫???」と失笑してしまいました。
 詳しくはwiki-尼港事件を見ていただきたいのですが、逮捕・拷問しまくり、掠奪やり放題の赤軍の暴政が、治安維持にあたっていました日本軍にとって、見逃せるものだったとでも、半藤氏はおっしゃるのでしょうか?
 相手は、チェコ軍団に対してもそうでしたように、てのひら返しの嘘はあたりまえ。「武装解除だ! 従わなければ銃殺」なんぞと平気で叫ぶボルシェビキなんです(チェコ軍団に関しましてはトロツキーの命令書が残っております)。

 wikiにも書きましたが、井竿富雄氏の『尼港事件と日本社会、一九二〇年』をご覧下さい。尼港事件に対します国民感情を言いますならば、「政治の場で出てきた不可抗力論は、社会的には見殺しとして受けとめられた」わけでして、新聞はけっして、軍の命令で事件の残虐性を書き立てたわけではありません。

 軍の方は、なんとか勇ましい戦いに話をもっていきたいと談話を発表するのですが、報道されましたのは凄惨ななぶり殺しが中心でして、しかもそういう事態になったにつきましては、ろくに現地事情がわかっておりませんでした陸軍上層部の、二度に渡ります停戦命令があったのだと、明白に伝えられているんです。

 強姦、拷問の凄惨な様子がセンセーショナルに書き立てられますほど、国民は「なんで徴兵された国民軍兵士と在留邦人を、そんなキチガイ狼の前に、無防備で差し出したんだ? なんのための陸軍なんだ? なんのためのシベリア出兵なんだ?」と、陸軍上層部と政府への不信を強め、シベリア出兵の失敗を痛感することとなったんです。

 半藤一利氏の馬鹿げた発言に続きまして、秦郁彦氏が、次のようにシベリア出兵に言及しておられます。
 「シベリア出兵では、何ら利権に類するものは手に入らず、赤色政権樹立を妨害するという目的も達成できなかった」

「なにをおっしゃいますやら。尼港事件の賠償問題を棚上げにしたあげくに、北樺太の石油利権を得てるでしょうがっ!!!」です。
 井竿富雄氏の『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』に、その経緯は出てまいります。
 海軍も尼港事件で多くの犠牲を払っておりますが、北樺太の石油利権を欲しがっていた中心は海軍でして、半藤一利氏のおっしゃっておられますこととは逆に、ソ連憎しといいます国民感情は、軍にとりましてはやっかいなものだったんです。
 秦郁彦氏にしましても半藤一利氏にしましても、「ろくに史料を読んでないんじゃないの?」という私の疑いを、濃くした発言でした。

 半藤一利氏といえば、これです。

 
幕末史 (新潮文庫)
半藤 一利
新潮社


 この「幕末史」、実は私、読んでいません。
 なぜ読んでいないかといえば、以前にも確か、ご紹介したことがあると思うのですが、東善寺さんの小栗上野介随想「咸臨丸病の日本人」におきまして、次のように批判されておりました。

「ブルック大尉の『咸臨丸日記』が『遣米使節史料集成第5巻』(1961昭和36年)として公刊されて半世紀経過し、ほとんどの学者・作家が周知の史実を、こうして根拠もなく否定して語る作家(半藤一利氏)がいることに驚く。この本巻末の参考文献に『遣米使節史料集成』が見当たらないから、基本資料を見ないまま幕末史を語っているのだろうか。ふつうの読者は『幕末史』を読んで『福沢諭吉は厭味な男』と解釈することだろう。歴史は『(勝海舟が)船酔いして使いものにならないなんてことはない筈』『船酔いする海軍の父(勝海舟)なんておかしい』などと感情で語ってはいけないと、つくづく思う」

「うへーっ!!! 基本資料にあたらないで書いたような本、絶対に読みたくない」と、買わなかったんです。

 したがいまして、勝海舟と咸臨丸に関します以外で、半藤 一利氏がどういうでたらめを並べ立てておられるのか、私は存じません。しかし、アマゾンのレビューを読みましても、「勝手な想像ばかりを並べたものが幕末史??? というレベルの本みたい」としか、思えません。
 今にはじまったことではありませんけれども、こういうとんでも本に近そうな類の幕末史がベストセラーになるって、幕末ファンとしましては、実に悲しいことです。

 そして今回、こうして、一応「保守派」と呼ばれます方々の近代史に関します発言をとばし読みしました結果、なんですが、張作霖爆殺事件ではないのですが、幕末史に関して、ついに「中西輝政氏よ、あんたもかいっ!!!」とあきれるしかない著作に、つきあたりました。
 中西輝政氏と言えば、以前に『大英帝国衰亡史』 を読みまして、これ一冊しか読んでだことはなかったのですが、参考になります記述が多く、けっこう尊敬申し上げていたんですけれども。

大英帝国衰亡史
中西 輝政
PHP研究所


 うろ覚えで書いてしまいますが、「クリミア戦争時、イギリスと敵対するロシアの戦費がロンドンの金融市場で調達されていた。イギリスの自由貿易とは、それほどに徹底したものだった」というようなことを書かれていまして、なるほどねえ、と感心した覚えがあります。
 といいますのも、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3に書いておりますが、薩摩は薩英戦争のためにアームストロング砲をイギリスから購入しようとし、さすがにこれは、直前にイギリスで輸出手続きが差し止められますが、このとき在日イギリス商人は、薩摩に大量の武器を売り、気前よく薩摩が買ってくれますので、藩主に金時計をプレゼントしたりしているんですね。
 
 また、リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の、これはコメントの方で触れているのですが、第一次世界大戦とイギリスにつきましては、ほんとうに勉強させていただきました。
 ところが。

日本人が知らない世界と日本の見方
中西 輝政
PHP研究所


 この「日本人が知らない世界と日本の見方」、まえがきによりますと、「私が京都大学で2008年の前期に『現代国際政治』という名称で行った講義をまとめたもの」だそうでして、「この年くらいから『ゆとり世代』の学生が多くなり、大切な歴史を学んでこなかった若者を強く意識し、『現代』国際政治と銘打っているのに歴史の話題をとりわけ多く盛り込んで話すことにしました」ということなんです。

 結果、「これが京大の講義なの??? 勘弁してっ!!!」と、嘆息、です。来年、甥が京大受けるらしいんですけど……、中西教授!!!
 いや、「お願いですから、史料を読みもしないで、いいかげんなことをおっしゃらないでくださいっ!!!」と、声をふりしぼって叫びたくなってしまいました。
 幕末、イギリスの対日外交なんですけれども。

 「西郷隆盛や坂本龍馬に賄賂を渡し、『鉄砲を渡すから、これで幕府を倒せ。開国して自由貿易のマーケットをつくれ』と指示した。その指示に従い、イギリスの飼い犬のように動いたのが坂本龍馬だったというのは、よくいわれることです」

 「はあああああっ??? だれがそんなこと言っているんですか、教授???」
 賄賂って、なあ。馬鹿馬鹿しいにもほどというものがあります。
 幕末イギリスの対日外交につきましては、私、いろいろと書き散らしているのですが、一番まとまっておりますのが、アーネスト・サトウ  vol1でしょうか。

 あげくに、中西教授がおっしゃられることには。

「薩摩藩あるいは長州藩にとって邪魔だったのは龍馬で、もしかしたら西郷や大久保が命令を下していたかもしれません。蓋然性、利害関係だけでいえば『薩摩説』というのは合理的です」

 誰の俗説を読まれて、こういうことを信じ込んでおられるのでしょう。
 「教授、お願いですから幕末でたらめ史の講義はおやめになってくださいっ!!!」

 こんな幕末史を読んでしまいますと、教授が語られるイギリス近代史まで、信じられなくなってしまうんですよねえ。
 私、甥の受験を、とめるべきでしょうかしらん(笑)

 次回こそは、近藤長次郎とユニオン号事件です。

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御所のいちばん長い夜

2007年04月19日 | 幕末雑話
本日は、野口武彦氏が描く、妖怪のような岩倉具視のリアルさに感激しまして、ひさしぶりにちょっと読書感想を。

江戸は燃えているか

文藝春秋

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この本の内容は、野口武彦先生ご自身の後書きでご紹介するのが、一番早そうです。
「この一冊に収めた七篇の作品は、いずれも幕末史の中で特に強く個性の輝きを放った人物を主人公にしている」
その七人とは、清川八郎、伴林光平、孝明天皇、山内容堂、相楽総三、小栗上野介、勝海舟、です。
ほんとうは私、小栗上野介の話が読みたくて、これを買ったのですが……、というのも、野口先生は、きっちり資料を見られ、最近の歴史学的成果にも目を通された上で、ひじょうに的確に、息づかいが聞こえてくるようなリアルな感覚で、時代と人物を描いてくださいますから、どういうとらえ方をなさっているのか、知りたかったんです。

期待通り、小栗を描いた「空っ風赤城山」はもちろん、七篇全部、すばらしかったのですが、圧巻は山内容堂を主人公とする「御所の一番長い夜」です。
「御所の一番長い夜」とは、もちろん、王政復興のクーデターの夜です。
不機嫌がとぐろをまいたような山内容堂の描き方も秀逸ですが、それぞれの人物の思惑、動きが、生々しく浮き彫りにされ、わけてもぞくっとするような存在感を持つのが、岩倉具視です。以下、クライマックスの引用です。

 御所の一番長い夜が始まった。
 上背と体格では満座を圧する山内容堂は、全身から怒気を放っていた。まだ体内から抜けきらない酒気が攻撃性を発散させている。
 真正面にいる岩倉具視とは初顔合わせである。春嶽も「御公家様の顔は初めて対面せり」(『逸事史補』)といっている。岩倉は短?だった。品川弥二郎などは最初一見し、あまりにも「身体矮小にして風采揚がらざる」(『大久保利通伝』中)容姿なので、こんな男と組んで大丈夫かと思ったほどだ。それが今は毛の生え揃わぬ頭に冠を載せて、不退転の決意を眉目にみなぎらせ、まるで別人のように大きく輝いて見えた。

徳川慶喜の処遇についての岩倉と容堂の対立は、やがて大久保利通と後藤象二郎の激論へとうつり、紛糾するあまりに休憩。そこで岩倉は、どっちつかずになりかけている安芸藩主・浅野茂勲をつかまえ、容堂を説得するようにと、迫ります。

 膝詰め談判であった。本当に膝と膝を突き合わせ、鉄漿(おはぐろ)で染めた歯の間から口臭が匂うほど顔を差し付けるのである。尋常な形相ではなかった。真っ青になって眼が据わり、唇をわなわな震わせている。

もう、脱帽するしかない描写です。
御所を征圧した、薩摩藩兵の無言の圧力も、その場にいるように、ひしひしと伝わってくるんです。
久しぶりに、野口先生の筆力を、堪能させていただきました。


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勝海舟というお方は‥‥‥

2007年02月12日 | 幕末雑話
どういうお方なのかと思います。
いえね、私、勝さんについてはさっぱり詳しくないんです。
なんとなく虫が好かない、とでもいえばいいんでしょうか、妙に好きになれなくって‥‥‥、といいますか、たいして好きではなくとも、その人物について詳しく調べる、ということはあるんですけど、いったいなにをしたっていうの? という気分がぬけなかったんです、この人に関しては。
そこへもってきまして、晩年のおしゃべりぶりが、あまり好感を持てませんで。とはいえ、談話集とかは読んでいて、たしかにおもしろいおしゃべりなんですけど、要するに、おしゃべり男は好みにあわない、わけでして。

で、ですね。甲賀源吾と回天丸、そしてwiki に書きましたような事情で、記事を書いていましたところ、甲賀源吾の師匠だった矢田堀鴻の項目が、ないんですね。『回天艦長 甲賀源吾傳』に写真と略歴が載っていますので、じゃあついでだ、これも書こう! ということになりまして、読み返してあきれました。勝海舟というお方に‥‥‥。

詳しくはwikiの記事を見ていただきたいんですが、矢田堀鴻は、勝海舟より6つ年下で、同期で長崎海軍伝習所でオランダ海軍の伝習を受け、勝さんより優秀だった幕臣なんですね。幕府の最後、海軍総裁を務めますが、維新以降は不遇で、勝さんより先に死に、勝さんが墓碑銘をよせているんです。それがまあ、なんといいますか。
「利刃缺けやすく、敏才伸びがたし」って、ねえ。「鋭い刃物は欠けやすく、学業秀才は案外のびねえもんだよな。あんたの人生もそうだったよ」って、ことですよね? 私が矢田堀の遺族だったら、つっかえしますよ。いくらそれが勝さんから見た真実だったにしても、墓碑銘なんですから。
もちろん、そんなことはwikiには、書いてませんけど。

『長崎海軍伝習所 十九世紀東西文化の接点』

中央公論社

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で、この本です。この本で、謎がとけました。
私、カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』は、昔読んでいたんですが、読んだ視点が「オランダ人は当時の日本をどう見たか?」というものでして、伝習所に関しては、司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』で、薄ぼんやりとしたイメージをもっていたくらいのものでした。それで、幕府海軍といえば勝海舟、という話を、あまり疑ってはいなかったのですが、今回、資料を読んでいますと、どうもおかしいのです。
根本資料の「海軍歴史」は、勝海舟著となっていますように、勝さんが中心になってまとめたものなんですが、それでも、資料部分を読んでいますと、なにやら少々、話がちがうんです。

それで、この『長崎海軍伝習所』を読んでみますと、やっぱり、勝さんの話には、そうとうな潤色があるようなんですね。この本の後書きによれば、『海軍歴史』は資料部分は信用できるけれども、そこに勝さんのホラ話がまじるんだとか。いや、実は主に必要な資料部分しか見てないもので、ホラには気づかなかったんですが、資料部分だけ見ていたら、薄ぼんやりともっていた、勝さんイコール旧幕府海軍、みたいなイメージは変ですわ。
それで『長崎海軍伝習所』の著者は、オランダ人が書いた長崎海軍伝習に関する論文と、『海軍歴史』の資料部分だけを使って、この本を書かれたんだそうで。海軍兵学校出の方で、海軍知識が確かで、いい本でした。

そういえば、忘れていましたけど、『軍艦奉行木村摂津守 近代海軍誕生の陰の立役者』にも、福沢諭吉がなぜ勝海舟を嫌ったか、ということで、勝さんは『海軍歴史』で、あたかも自分一人で幕府海軍を作ったかのようにしてしまっていることが、許せなかったのだと、していましたね。
渡米時の咸臨丸での勝さんを見ていた諭吉さんにとっては、諭吉さんにとっては恩人である木村摂津守をないがしろにして、しかもさっぱり艦長の役目を果たすことができなかったくせに、という思いが、生涯ぬけなかったのだとも。
さらに当時の勝さんは、年下の木村奉行が、航海術も知らないのに、門閥であるというだけで咸臨丸の長におさまっているのが気に入らなくて、すねていたのだというんですけど。

えーと、じゃあ、あれなんでしょうか。矢田堀の場合は、年下であるのに、自分よりはるかに学問吸収が上で、航海術に長けていたのが、気に入らなかったんでしょうか。出身身分は同じ小普請組で、かわりませんし。
それにしても勝さんは、オランダ海軍伝習では、出来がよくなかったらしいにもかかわらず、カッテンディーケにもうまく取り入っていますし、アメリカ行きも、幕閣への売り込みが功を奏したようなんですのに、すねるって、ねえ。
これじゃあ、咸臨丸の部下たちから嫌われて、帰国後しばらく海軍をはずされた、って話にも、うなずけますわ。

まあ、なんといいますか、歴史は勝者が作る、といいますけどねえ。勝さんも立身出世街道では、勝者だったわけで。
おそらく、薩摩の海軍閥が勝さんを持ち上げたんでしょうね。肥前海軍閥を押さえるために。それに勝さんが、うまく調子をあわせて乗った、と。勝さん、薩摩が好きですしねえ。
いやしかし、やはり、好きにはなれないお方です。
政治的、といっても、大久保利通くらいすさまじく政治的ですと、それはそれで、私はけっこう評価したりするんですが、こう、なんといいますか、ねちねちねちねちと政治的なのは、どうにも好きにはなれないんです、はい。


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甲賀源吾と回天丸、そしてwiki

2007年02月06日 | 幕末雑話
いやもう、疲れました。
なにに疲れたって、wikiの記事を書くのに、です。
桐野の記事は、ちょこっとつけくわえさせてもらっただけだったので疲れなかったのですが、それで、甲賀源吾と回天丸を書く気になったのが、まちがいのもとでした。
なんで書く気になったかといえば、昔、けっこう奮発して、あまり人様の持っていない古書を買っていたから、なんですね。
いえ、図書館にもなかなかない本でしたし。昭和8年に発行された『回天艦長 甲賀源吾傳』です。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦) ではちらっとしか書きませんでしたが、この宮古湾海戦の主役となった回天丸と、その船長だった甲賀源吾が、昔、どうにも気になりまして。気になったのに資料がない、というので、買ったものです。

しかし、まあ、けっこう内容を忘れているものです。
他の書籍と読みくらべて、ああでもない、こうでもないと、まるで仕事をしているようでした。
このブログだったら、うろ覚えで、けっこういいかげんに書き飛ばし、ずいぶん後になって、あれ? もしかしてまちがえたよねえ、と思い出して直したりもするのですが。めんどうになると、細かなことははぶいちゃいますし。
回天丸が奪取をめざした甲鉄艦のことも、あとから、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で補ったりしてますよねえ。

それがwikiとなりますと、なにしろ、他人様の書いておられることを消したり直したりするわけですから、くれぐれもまちがいのないようにと、あっち見てこっち見て確かめて、きっちり客観的に、って、ほんと仕事ですよねえ。つくづく、無料でやることじゃありませんわ。
桐野の項目だって、あれほどに正確に、詳細に書いていただいた後でなければ、とても手をつける気には、ならなかったんですのにねえ。

あー、それでちょっと気になったことがあります。篠原宏著『海軍創設史 イギリス軍事顧問団の影』では、甲賀源吾と荒井郁之助の名が、長崎のオランダ海軍伝習生名簿に載っているのですが、ぐぐってみましたところ、他にはそれを書いたものがないようなんですね。篠原氏は、主に勝海舟の『海軍歴史』を資料になさって名簿を作られたようなので、これは見てみるつもりなんですけど、長崎オランダ伝習生に関する根本資料って、ほかにはないものなんでしょうか? もし、おわかりになられる方がおられましたら、ご教授のほどを。

資料を読んで、書いていて、あらためて確認したことがあります。
甲賀源吾って、理数系のテクノクラートなんですよねえ。その上に戦闘魂があるわけですから、海軍将官としては理想的な人だったように思えます。


付け加えます。
あーもう、篠原氏ったらば、甲賀本人と兄さんをまちがえるとは!!!
(のち回天艦長で戦死)とある注意書きに目を奪われて、名前をよく見ていませんでしたわ。
甲賀「郡之丞」って、それは兄さんで、回天艦長にはなっていませんし、戦死もしてませんってばさ。
ふりまわされました。

おまけにー、よーく考えたら、伝習生の名簿が載っている本を、他に持っていましたわ。文倉平次郎著『幕末軍艦咸臨丸〈上〉』です。「荒井郁之助」も、郁之助じゃなく光太郎だし、親の名前が全然ちがうし。。。 なんなんでしょう。。。
うー、篠原氏の著述、不安になってきました。イギリス海軍伝習の話は、だいじょうぶなんでしょうねえ。

あー、もう一言だけ。
近代デジタルライブラリーに『海軍歴史』がありましたので、見てみましたら、しかも荒井光太郎は、巳12月24日病死とあるし!!!!!!!


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アウトローがささえた草莽崛起

2007年01月25日 | 幕末雑話
『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』

平凡社

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こちらの方が表紙がきれいなので貼り付けましたが、中公新書版がありまして、そちらも古書になりますが安価ですので、もしもこの本に興味を持たれましたせつは、さがしてみてください。
中公新書版が昭和52年の発行ですから、かなり古い本なんです。しかし、最近になって知り、読みました。
自由民権運動については、昔、少々読みかじっていた時期があるのですが、ほとんど図書館で借りて読んでいまして、手元にありますのは、『加波山事件 民権派激挙の記録』のみでして、鹿鳴館のハーレークインロマンスで、ご紹介しました『秋霖譜 森有礼とその妻』を読み、なにか静岡事件の参考になりそうな本はないかとさがしていました。
といいますのも、『秋霖譜』では、時の文部大臣・森有礼の妻であったお常さんの運命が、実家の養子、広瀬重雄が静岡事件を起こしたことによって狂ったっだけではなく、静岡事件そのものの裁き方が、文部大臣夫人の身内がかかわっていたことで変わり、さらには、森有礼の暗殺にまで影響している、という話でして、少々、疑問を抱いたことにもよります。
それにどうも、著者の森本貞子氏は、明治の自由民権運動には、あまりお詳しくなさそうにお見受けしました。「静岡事件容疑者たちはいずれも天皇制保持主義者である。これまでの民権事件や、加波山事件、大阪事件などの首謀者の共和制主義者とはまるで異質だ」と書いておられるんですけれども、「共和制主義者」が天皇制否定論者という意味だとしますなら、私の知る限り、そんな自由民権論者はいません。民権論者の私擬憲法もいくつか読みましたが、天皇制を否定しているものはありませんでした。この当時、共和制という言葉が出てきましても、天皇を否定しての共和制ではないんですね。
ただ、静岡の自由民権運動が、伊勢神宮に直結した新興の神道教団、実行教信仰と重なっていたことは、森本貞子氏によって、初めて教えられました。この線から森有礼暗殺を考えられていることは、卓見かと思います。

疑問点というのは、以下です。
たしかに、実家の養子が総理大臣だった伊藤博文の命を狙い、重罪人となったことは、文部大臣夫人だったお常さんの立場を危うくしたでしょう。しかし、犯人の中に文部大臣夫人の身内がいる、ということが、事件の裁き方にどこまで影響したかは推測の領域になりますし、広瀬重雄が、国事犯ではなく、強盗事件のみを問題とされる破廉恥罪での裁きに甘んじたことが、すべて常夫人の存在ゆえ、というのもどんなものだろう、という気がしたんです。
森本貞子氏は、広瀬重雄がたびたび名古屋へ足を運んでいることを描写され、、静岡と名古屋の自由民権運動が、一続きのものであるようにも書いておられるのですが、それでいて、静岡事件の直前に起こった名古屋事件に触れておられません。広瀬重雄は、名古屋事件の容疑者になっていませんので、枝葉末節は省いたのか、とも思われますが、名古屋事件は静岡事件に先立ち、国事犯としてではなく破廉恥罪で裁かれた事件なのです。
それで手にしたのが、この『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』でした。

なぜ、もっと早くに読まなかったのか、と思います。
この本によれば、尾張藩が維新時に仕立てた草莽隊には、博徒の親分を士分に取り立て、博徒組織そのままに歩兵隊として、戊辰戦争に参加させたものがあったのだそうです。他にも、庄屋層が隊長格になり、隊員は公募で集めた草莽隊もあったのですが、応募してきた者はほとんど、博徒予備群のような農村や城下町のアウトローであった、ということなんですね。

民富まずんば仁愛また何くにありやでご紹介しましたように、長州の奇兵隊をはじめとする諸隊が、アウトローの集団であったとしまして、 彼らのいない靖国でもの幕府歩兵隊も、大鳥圭介の証言によれば、ほとんどが江戸のアウトローであった、ということで、薩摩をのぞく幕末歩兵隊の主力は、アウトロー集団であった、ということになります。
幕府歩兵隊については、石高に応じて歩兵を差し出すようなお触れもありますし、フランス軍事顧問団が、「天領の良民の二,三男を」というような提言もしています。しかし、提言をしているということは、現実には大鳥の証言にあるように、博徒予備軍のようなアウトローを雇っていた、ということなのでしょう。
で、あればこそ、れっきとした旗本のお行儀のいい青年たちが、フランスの伝習を受けて士官になっても、とても統率のできる代物ではなかった、ということになります。
私は以前から、高杉晋作が奇兵隊を立ち上げながら、すぐに放り出し、奇兵隊への強い影響力を持っていなかったこと……、つまり功山寺挙兵において、奇兵隊を握っていたのが山縣有朋であり、山縣が決断するまで奇兵隊は動かなかったことを少々不思議に思っていたのですが、アウトロー集団である奇兵隊の統率も、高杉のように本質的にはお行儀のいいれっきとした藩士ではなく、山縣のような叩き上げでなければ、不可能だったのでしょう。
また、功山寺挙兵のとき、伊藤博文が立ち上げたという力士隊なんですが、なぜ力士なんだろう、と奇妙な感じを受けていました。これも、この本で謎がとけました。力士の興業は、博徒組織がかかわりますので、博徒が力士になることもありますし、力士とアウトロー集団とのつながりは、とても濃いというのですね。言われてみれば、たしかにそうです。
前原一誠が、攘夷戦でれっきとした藩士たちの干城隊を指導しましたとき、あまりにものの役に立たないので、憤慨した、という話がありましたが、三百年の太平は、れっきとした藩士をお役人に変え、軍学など、学問としては研究しても、現実の命をはっての闘争とはさっぱり無縁にしていたんですね。
武士が歩兵になることを厭うならば、農民商人はそれに輪をかけて嫌でしょう。お国を守るために武士が命をはらないのなら、なんのために武士を食わせているのか、ということになります。
慶喜公と天璋院vol1の余談で書きましたように、薩摩はちがいました。貧しい薩摩藩士たちは、歩兵となることを嫌がりませんでしたし、また歩兵を卑しむような気風がなかったのです。
徴兵制への薩長の温度差は、ここらあたりからきているのではないか、と、思ったりします。
ああ、そうでした。あるいは土佐も、ちがったかもしれないですね。土佐の郷士、庄野層は、勇猛な歩兵となりました。

話をもとにもどしましょう。
博徒草莽隊は、尾張藩の部隊の中ではもっとも果敢で、戊辰戦争に貢献するのですが、長州奇兵隊と同じく、使い捨ての運命にありました。解隊にあたって、士族身分が得られないということになりかかったのですが、これに猛反発した博徒隊員が直接中央政府に訴えて、ついに士族身分とわずかながらも秩禄保証を勝ち取ります。
しかし、失業は失業です。彼らは、博徒組織と密接な関係を保ちつつ、やがて同じく失業するにいたったれっきとした旧士族をも誘い、興業撃剣をはじめるんです。
博徒の親分、隊長級は、日頃から斬った張ったをやっていますから、士族の指南級の剣の腕前ですし、相撲興行を手がけていますので、興業はお手のものなのです。
そして、どうやら、その興業撃剣組織が、そのまま自由民権運動組織へと横滑りしていきました。単純な横滑り、というわけではなく、庄屋層や旧士族の反政府知識層の下に博徒組織があるような形、とでもいえばいいんでしょうか。アウトロー集団が知識層の下にある形は、自由民権檄派の他の騒動でもうかがえるのですが、尾張、三河の場合は、非常に博徒組織が強かった、というわけです。
やがて、松方デフレによる生活苦から、この地方の自由民権活動組織は、世直し強盗のようなことをはじめます。
取り締まる政府としては、国事犯となるような反政府自由民権活動は、当時、非常に人気がありましたので、弁の立つインテリ層を狙ってスターを作るよりも、博徒を狙う方が先、ということで、政府はまず、活動家とつながりがあると見られていた博徒組織の総検挙に踏み切り、その上で、自由民権組織の料理に取りかかったのです。
実際、強盗を繰り返した名古屋事件のメンバーにおいては、インテリ層が上にいたんですが、彼らはあまり他の強盗メンバーとかかわりを持たず、実質的なリーダーは博徒草莽隊の隊長格だった人物であったそうなのです。
だとするならば、です。静岡事件も、そうであったのではないか、と思うのです。
広瀬重雄は、旧幕臣のインテリ層です。そして、彼が実際にかかわった強盗事件はわずか2件であったとしても、です。彼の標榜する自由民権は、博徒と重なるアウトロー集団によって共有され、その集団が数多くの強盗事件を引き起こしている。見せしめ的に、彼らは名古屋事件と同じ破廉恥罪で裁かれたのではなかったでしょうか。
知識層からアウトロー集団を引きはがせば、牙はぬかれたことになり、大きな騒動は引き起こせない、ということになります。
実際、静岡事件は、最後の自由民権檄派事件となりました。
法廷で、国事犯としての主張をさせないために、官警が、常夫人を利用して、広瀬重雄を説得したということは、十分にありえるとは思うのですけれども。


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完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月18日 | 幕末雑話
明治大帝の父君、孝明天皇の御代、宮廷の女官長は、先帝の御代から引き続いて仕えた大典侍中山績子でした。
弘化三年(1846)、孝明天皇即位の時点で、すでに52歳です。
慶応二年(1866)、孝明天皇崩御のときにも、72歳の高齢で女官長を務めていました。
中山績子は、倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました、尊号事件の伝説のヒーロー、中山愛親の娘です。
明治大帝の母、中山慶子にとっては、大叔母にあたります。
孝明天皇の女官長の座に、終始、反幕のヒーローの娘が座っていた、ということには、それなりに意味のあることではないでしょうか。

幕末の中山家に、反幕感情が流れ続けていたのではないか、ということの傍証は、出石出身の尊攘志士、田中河内介が、家司としてかかえられていたことに見られると思います。
田中河内介は、嘉永6年(1853)ペリー来航以降、主人である中山忠能卿に、さまざまな献策をしますが、後に「中山の狂人」といわれるようになった忠光卿をはじめとする子息も、彼の影響を強く受けて育ったようです。
河内介は、筑前の平野国臣や薩摩の尊攘檄派と親しく、忠光卿の長兄で、中山家の後継者・忠愛卿も、薩摩の志士たちと出歩いていた資料がありますし、後に書きます寺田屋事件では、田中河内介の要請を受けて、志士たちへの檄文を書くことまでしていたりするんです。
しかし、父親の忠能卿は、しだいに河内介を遠ざけるようになりました。
これはおそらく、井伊大老が決行した安政の大獄による朝廷弾圧と、万延元年(1860)、中山慶子の生んだ祐宮が、九歳で親王宣下を受け、儲君(もうけのきみ)となったことに、関係しているでしょう。

江戸時代の朝廷は、現在の皇室とは、まったく制度が異なります。直系の皇子が誕生したからといって、ただちに親王になるわけではありません。
そして、親王でなければ、皇位継承の資格として不十分なのです。
安政の大獄の中で、孝明天皇は譲位を表明しますが、そのとき位を譲ろうとしたのは、まだ親王となっていなかった祐宮ではなく、伏見宮家や有栖川宮家の皇子たちのうち、先代、先生代の天皇の猶子となり、親王宣下を受けていた三人でした。
朝廷が、将軍家の後継に英明な年長者を求めた関係もあって、幼い祐宮の名を出せなかったこともあるのですが、親王宣下を受けるということには、けっこう重要な意味があったのです。

話をもとにもどしますと、祐宮が儲君となり、皇位継承がほぼ約束された以上、外戚である忠能卿は、あまり危ない橋を渡ることはできなくなった、ということでしょう。
田中河内介は、中山家を辞し、薩摩の尊攘檄派とともに、島津久光の上京を迎えて、倒幕の義挙を志しました。
しかし、久光はそれを望まず、自藩の檄派を伏見寺田屋で上意討ちにします。寺田屋事件です。河内介は捕らえられ、海路薩摩へ護送される途中、播磨灘で斬殺されました。
続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族 で書きました忠光卿の「狂人」ぶりは、田中河内介の志を受け継いだものであったと、いえるかもしれません。

さらに、忠光卿が参加した天誅組の大和義挙には、もう一人、中山忠伊卿という、中山家の公子がかかわっていた、という伝説があります。
いえ……、忠伊卿は表面上、忠能卿の兄で、忠光卿には伯父、ということになていますが、実は尊号事件の中心となった光格天皇の皇子で、中山家に養子に入ったのだというのです。
尊号事件で屈辱を呑んだ光格天皇は、晩年に儲けた皇子を、ともに幕府と戦ってくれた中山愛親の孫の養子に入れ、倒幕の志を託した、というこの筋書きは、物語としか思えないのですが、一応、史家も検討を加えている話なんです。
『幕末・京大坂 歴史の旅』、「平野卿に消えた謎の皇子」において、松浦玲氏は、忠伊卿にまつわる伝説について、資料が不確かであることを指摘なさって疑問符をつけつつ、「天誅組壊滅の翌年二月十日に中山忠伊、号を道春という人物が平野郷で没したという事実は、動かし難いようである」とされています。

もう一つ、伝説があります。今度は、中山三屋(みや)という女性です。
楠戸義昭著『維新の女』』(毎日新聞社発行)に収録されていますお話なのですが、中山三屋は、幕末の女流歌人です。
父親の実家は、山口県徳山市中山の豪農・戸倉家で、三屋の父は戸倉の名を捨て、中山を名乗ります。
一見、公家の中山家とはなんのかかわりもなさそうなのですが、三屋が父親の実家に、「私は何者の子か、先祖さえはっきりしらない」と書いて出した書簡が、残っていたのだそうなのです。
この中山三屋に、女性史を研究する柴桂子氏が、大胆な光をあてました。
三屋(みや)は14歳の若さで出家し、多くの公家とまじわり、藩主や神官、豪商、学者、歌人など、四百人にあまる人名を、覚え書きに残しているのですが、これは、三屋がスパイだったからだ、というのです。
だれのスパイかといえば、公家・中山家のスパイなんだそうで、というのも、『中山忠能履歴資料』にある二十通を超える某女からの手紙が、三屋にそっくりな文体なのだとか。三屋の母の民子は、京都の出身なので、忠能卿の手がついて三屋をみごもったのではないか、とまで、推測は進みます。

ここまできますと、さすがに眉唾なのですが、ともかく、それほどに中山家には反幕伝説がつきまとっていたわけでして、いえ……、忠光卿の事跡など、伝説より劇的ですし、いくらもてあましていたとはいえ、若くして殺された一族の公子を、中山家の人々が悼まないわけもないでしょう。
倒幕の密勅に名を連ねるだけの素地は、それまでに、十分に積み重ねられていた、というべきではないでしょうか。


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続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月17日 | 幕末雑話
昨日に続きまして、明治大帝の母、中山典侍の一族のお話です。
よく知られていますのは、典侍の弟の中山忠光卿でしょう。
なんといいますか、過激なお公家さん、とでもいいましょうか。
長州の志士や土佐勤王党など、尊攘檄派とのつき合いが深く、天誅組の総裁となり、長州に走って、二十の若さで非命に倒れました。

なにしろ明治帝の叔父君です。十四歳で朝廷に出仕、七つ年下の祐宮(後の明治帝)のお相手を務めます。
しかし、型破りの行動が多く、父親の忠能卿ももてあまし気味でした。
尊攘檄派が牛耳っていたころには、公武合体派と見られていた公卿を暗殺しようとして、土佐勤王党の武智半平太に制止されたこともあり、土佐藩主の山内容堂などは、「中山の狂人」と呼んでいたといわれます。
当時の忠能卿の日記には、息子の忠光に会いに来たとして、武智半平太や同じく土佐の吉村虎太郎、長州の久坂玄瑞や入江九一の名が見え、尊攘檄派のアイドル的存在であったことがうかがえます。

結局、長州まで行って攘夷戦に参加し、久留米藩に押し掛けて、投獄されていた真木和泉などの志士を釈放させて、京都に帰ります。
そのころ、京の尊攘檄派は、孝明天皇の大和御幸を画策していたのですが、土佐の吉村虎太郎を中心とする天誅組によって、それに呼応した大和での挙兵が計画されました。忠光卿はその天誅組の旗頭となり、大和五条の代官所を襲います。
しかしそのとき、八.一八クーデターで京の情勢が一変し、天誅組は幕府の討伐を受け、壊滅してしまいます。
忠光卿は逃亡に成功し、長州に身を寄せるのですが、その後の長州藩内部の抗争で、佐幕派の手で暗殺されてしまうのです。
そのほんの一月あまりの後、高杉晋作の功山寺挙兵があり、長州の藩論はまたしても一変するのですが、その前に、秘かに抹殺された忠光卿は、下関市綾羅木の浜に葬られ、後に中山神社が建てられました。

忠光卿は、忘れ形見を残していました。尊攘派に心をよせる下関の回船問屋の娘、恩地トミは、忠光卿の側に仕えて、種を宿していたのです。
父親の死後、この世に生を受けたのは女の子で、南加と名づけられました。
やがて長州藩は、明治天皇の叔父の忘れ形見をさがしだし、毛利家の養女とした上で、中山家に送り届けます。
忠能卿は、息子の忘れ形見を娘として迎え入れ、成人した南加は、維新後、嵯峨公勝に嫁ぎました。
嵯峨公爵家とは、幕末の正親町三条家です。公勝の父親は、正親町三条実愛。
そうなんです。
倒幕の密勅に名を連ねた公卿は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三人。
中山忠能の母親は、正親町三条家の娘で、両家は縁が深かったのです。
そして、南加の孫娘である嵯峨浩は、満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑氏に嫁いだ「流転の王妃」です。
満州国滅亡の後、生き別れとなった二人は、激動を乗り越え、やがて再会し、中国で晩年を過ごしました。
現在、中山神社のそばに、愛新覚羅社があります。先に世を去った浩さんが、夭折した長女の慧生さんとともに、非命に倒れた曾祖父、忠光卿のそばに眠ることを望まれたのでしょう。後に、夫の溥傑氏の分骨もそばに葬られ、親子三人が祀られています。

幕末の中山家には、はっきりと事績が知られている忠光卿だけではなく、倒幕の伝説の影がちらついています。
というわけで、明日に続きます。

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倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月16日 | 幕末雑話
って、もちろん、中山家のことです。
明治大帝の母君は、公家・中山忠能の娘、慶子です。中山家は藤原氏ですが、家格は羽林家。通常は大納言まで、長生きすれば大臣になることもある、という中級公家です。
江戸時代、天皇の正妃になることができたのは、原則として、同じ藤原氏でも、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家の娘だけです。
その点では、平安の昔とかわらないのですが、ただしこの時代には、「女御、更衣あまたさぶらいける」というように、華やかに複数の側室がいたわけではありませんで、中級公家の娘が務める女官が、側室を兼ねたんですね。
後の中山一位の局、中山慶子も、孝明天皇の女官、典侍としてそばにあってお手がつき、結果的に一粒種となった皇子の母となったわけです。
明治大帝は、当時の慣例で、その幼児期、わずか二百石の母の実家、中山家ですごされました。

この中山家、実は、反幕府の旗頭としての伝説を持つ家、でした。
明治大帝が誕生されたのは嘉永5年(1852)。その60年ほど前のことです。
朝廷と幕府の間で、尊号事件が起こりました。
当時の天皇は光格天皇。孝明天皇の祖父、明治天皇には曾祖父にあたられる方です。
幕末の朝廷を考えるにあたって、この光格天皇は、画期となる方です。重要な朝廷行事を再興され、朝廷の権威の充実に努められたからです。

ところで、光格天皇は、後桃園天皇が皇子なく崩御されたのにともない、急遽、閑院宮家から入って、皇位を継がれました。血筋をいうならば、後桃園天皇の父君である桃園天皇の又従兄弟ですから、かなり直系をはずれていたお方なのです。
それで、光格天皇は、父君である閑院宮典仁親王に、太上天皇の尊号を贈ろうとされました。というのも、この当時、親王の宮中での席次は大臣より下で、天皇の父君でありながら、閑院宮は臣下である大臣の下座につかねばならず、それを光格天皇が、心苦しく思われたからなのです。
しかし、幕府はこれに反対しました。
詳細ははぶきますが、光格天皇は、幕府の意向を無視し、尊号宣下を強行しようとします。
幕府はこれを押さえつけ、公家の責任者を江戸へ呼びつけたのですが、その一人が、中山忠能の曾祖父である大納言中山愛親でした。愛親は、光格天皇の側近だったのです。
結局、中山愛親は幕府によって職を解かれ、閉門の処罰を受けます。全面的な朝廷の敗北でした。しかし朝廷に同情的な世間は、中山愛親を英雄のように語り、それが伝説化されるに至るのです。
『中山夢物語』『中山瑞夢記』『中山記』『中山問答記』『小夜聞書』などなど。中山愛親を主人公とする尊号事件の顛末記、それも実際とはちがって、愛親がさっそうと幕府をやりこめて活躍する話がいくつも作られ、写本となってひろまっていきました。

この伝説は、幕末の中山家を方向づける、一つの要素となったのではないでしょうか。ということで、以降の話は、明日に続きます。

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