郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

アーネスト・サトウと龍馬暗殺

2008年10月17日 | アーネスト・サトウ
 またまた突然ですが、ちょっと気にかかるものを発見しまして。
 お題なんですが、サトウと龍馬暗殺が直接関係するか、といえば、直接ではないんです。
 このふたつを結びつけるのは、西尾秋風氏です。
 西尾秋風氏は、坂本龍馬暗殺犯は中村半次郎と土佐脱藩士だった!という、突拍子もない説で有名なお方です。
 私、ご本人が出されていたのだと思うのですが、小冊子「龍馬謀殺秘聞余話」の部分コピーしかもっていませんで、なんでコピーを持っているかといいますと、関西在住の久坂ファンさんが、なにかの会合でご本人にお会いして、いただいたかなんかで、桐野の話が出てくる部分だけ、コピーして送ってくださったのです。
 説としてはとんでもないんですが、きっちりくずし字の読める方で、こう、まあ、身軽に取材しようという意欲のあった方のようでして、桐野の京都時代の愛人、村田サトさんの実家の村田煙草店のご子孫の方に取材しておられまして、いや、いったいサトさんのお身内のご子孫が、なんで龍馬暗殺に関係するのかは、私にはさっぱりわからなかったのですが、ともかく、その部分があったために、私はコピーをずっととっておいたようなわけです。

 部分しか読んでいませんので、まちがっていたらごめんなさい。しかし、西尾秋風氏の大意としては、桐野利秋と龍馬暗殺 前編 後編に出てくる土佐人なんですが、三条制札事件で逃げ延びて、薩摩藩邸にかくまわれていた松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平が、桐野とともに、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったんだろうというのです。
いや、あの、そのー、どこからどう見ても、5人は薩摩藩邸を出た後、陸援隊に属してまして、そのうちの4人までが、龍馬と中岡の仇討ちをめざした天満屋事件に参加しています。
 ものすごい発想です!!! 久しぶりに読んで、頭痛がしてきました。
 あー、まあ、いいんですけど。世の中には、いろいろな方がおられますから。

 その西尾秋風氏が、です。「中岡慎太郎全集」(えらいお値段ですが、私は知人から安くゆずってもらいました)で、山本頼蔵の「洛陽日記」の読み下しをなさっている、と知ったときには、少々ショックでした。しかし、まあ、発想が突拍子もないことと、くずし字を読み解く能力はまた別の話ですから、いいんでないのか、と納得していたのです。

 しかし、なんでよりにもよって、山本頼蔵の「洛陽日記」なのか、と思いはしたのですが。といいますのも、京都時代の桐野、つまり中村半次郎、それも薩長同盟締結まで、については、同時代の日記や手紙、といった確実な史料が、ほとんどなにもありませんで、この山本頼蔵の「洛陽日記」、元治元年(1864年)4月16日条に、「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」、つまり「中岡慎太郎が薩摩藩の肝付十郎、中村半次郎に会って話した。この二人は、(薩人には珍しく)ずいぶん正義の趣だったよ」とあるのが、一番早い時期のものだったのです。今回、いつものfhさまが、もっと早い時期のものを松方日記から発見してくださいまして、それは次回に詳細を書きます。

 ところで、山本頼蔵というお方は、中岡と同郷の土佐郷士ですが、名前の知れた方ではありませんので、その日記も注目されていたわけではないんですが、「洛陽日記」が活字になったのは、なにも「中岡慎太郎全集」が最初、ではありません。戦前から平尾道雄氏が注目なさって、ご著書の「中岡慎太郎」と「陸援隊始末記」に、一部抜粋して載せておられるんです。中岡慎太郎が、早くから薩摩との連携を模索していた、という話で、桐野が出てくる部分も活字化してくださっていましたので、たとえ西尾秋風氏が、少々変わった読み方をなさったにしても、その部分は動かせない、という安心感はありました。

 で、今回、松方日記との関係で、「中岡慎太郎全集」を読み返していましたら、西尾秋風氏の「洛陽日記」論考、という論文がありまして、その中で、本文部分におさめきれなかった山本頼蔵の日記の断片、雑文などが一部、収録されているのですが、そこになんと、アーネスト・サトウが出てくるんです!!! いえ、名前は出てきません。英夷となっていますが、あきらかにサトウなんです。

「外国交際 遠い崖5 アーネスト・サトウ日記抄」 (朝日文庫 は 29-5)
萩原 延壽
朝日新聞社

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 「遠い崖」のこの5巻に出てまいりまして、再び8巻で解説がくりかえされる、西郷隆盛の書簡があります。萩原延壽氏は、明治2年の1月、サトウが6年半滞在した日本を離れ、初めての休暇でイギリスに帰る際、サトウが流した涙、そして帰国後、同僚に「つくづく日本がいやになった」と書いているその心情を、懇切丁寧に解説なさっているんですが、その焦点となるのが、この西郷書簡なのです。

 若き日の通訳官サトウは、維新を傍観していたのではなく、あきらかに一方の側、つまりは薩摩に、ですが、荷担して、身をもって維新を体験しました。この手紙は、それを象徴していまして、後年、老練な外交官となったサトウの外交官としての立場からすれば、消してしまいたい過去であったことは確かでしょう。
 サトウは、北京公使を最後に、明治39年、62歳で外交官を引退し、帰国の途上、日英同盟のもと日露戦争に勝利したばかりの日本を訪れ、大歓迎を受けます。40年近くの昔、サトウが語り合った多くの日本人は、すでにこの世の人ではありませんでしたが、それでも生き残りはいて、サトウは薩摩出身の松方正義から、「あなたの名前が出てくるから」と、西郷の大久保宛手紙の写しをもらうんですね。
 その手紙のサトウが出てくる部分なのですが。

「さて、薩道(サトウ)へ逢いとり見候処、まったく已前(以前)の通りの訳にて、かくべつなにも替わり候向きとは相見え申さず、依然たる次第にて、柴山(良助)の疑迷とは大いに違い申し候ゆえ、先日よりおはなし申し上げおり候通り、大阪商社仏人(フランス人)と取り結び、大いに利をはかり候趣くわしく申し聞け、仏人のつかわれものと御話しの通りいいかけ、いささか腹を立てさせて見たきつもりに御座候ゆえ、仏に憤激いたし候様説きこみ候ところ、おおいによく乗り、思い通りにおこらせ候処、だんだん意底をはなし出し申し候間、左の通りに御座候」

 これと同じことを、西郷は桂久武(西郷と仲が良かった薩摩の家老)宛の手紙にはもっと詳しく書いていまして、それとあわせた萩原氏の解釈を参考にしまして、簡単に解説しますと、以下のようです。
「サトウに会ってみたところ、以前にあったときと変わった様子もなく、柴山(良助)が心配していたようなこともなさそうだったので、今度の兵庫・大阪開港で、幕府は大阪商社を作って、横浜でやっているのと同じように、フランス人と独占取り引きをしようとしているようだが、と詳しく語り、兵庫開港に骨を折ったのはイギリスだが、利はフランスにさらわれる結果になるとは、結局、イギリスはフランスのつかわれもの(召使い)ではないのか、と、腹を立てるように話してみたところ、サトウはこちらの思ったように怒って、だんだんと正直な胸の内を話すようになったよ」

 柴山良助は、慶応はじめころからの江戸藩邸の留守居役です。寺田屋事件で謹慎をくらった人ですが、西郷復帰によって、重要な役をこなすようになったんですね。サトウは、この柴山と、とても親しくしていたようで、この年の暮れ、柴山は庄内藩の攻撃で捕らえられ拳銃自殺したのですが、サトウは柴山が打ち首になったと聞いて、「仇を討ってやりたいものだ」とまで、日記に書きつけています。

 しかし、それにしても。私、松方正義って、なんだか鈍感な人のようなイメージがあるんですが、いくら名前が出てくるからって、そして、いくら40年も前の手紙だからって、これって、見せられて嬉しい文面ですかねえ。サトウにとっては、手玉にとられた、って話なんですから。鳥羽伏見の直後に、モンブラン伯爵がとびだしてきて、まあ、サトウはそのときから、つくづく、薩摩藩の外交感覚には舌をまいたでしょうし、手玉にとられた、とも感じていたでしょうし、それでもその数年は、サトウにとって「本当に生きた」と実感できる充実した日々で、西郷に好意をよせていたサトウです。そして………、すべては遠い過去ですし、笑えたのかもしれませんけれど。

 この手紙が書かれたのは、慶応3年の7月27日です。これがどんな時期だったかといえば、大政奉還と桐野利秋の暗殺を見ていただければわかりやすいのですが、7月2日、後藤象二郎は、小松帯刀、大久保利通と会合し、土佐の藩論を大政奉還論に統一し、10日後には兵力を率いて再び上京することを約束し、帰国したのですが、そこでイカロス号事件が起こり、約束は守られませんでした。
 このイカロス号事件、長崎でイギリス船の水夫二人が殺されたもので、疑いは海援隊にかかり、イギリス公使館は土佐への態度を硬化させていました。

 「柴山良助の疑迷」について、荻原氏は、この春、将軍慶喜公が、大阪城で各国公使を謁見し、パークス公使が非常な感銘を受けた上に、慶喜が兵庫・大阪開港を実現させたことで、イギリス公使館自体が幕府支持にかたむきかけていることなのではないか、と推測されていますが、私は、それもあったでしょうけれども、タイミングとしては、イカロス号事件が大きかったと思います。大政奉還から倒幕へと事を運ぶには、土佐藩は、どうしても同志として引き入れる必要のある存在であり、その土佐藩がイギリス公使館から嫌われ、イギリスが積極的な幕府支持にまわったのでは、事がなりようもありません。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。

 私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
 つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
 そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。

 で、まあ、そんな薩摩藩ですから、宣伝のつもりで、話を流すこともありえるかなあ、とも思うのですが、驚いたことに、西尾秋風氏によれば、慶応3年7月27日朝、「西郷がサトウを訪れ、わざと怒らせて本音をはかせた」話が、それから一ヶ月もたたない8月22日、大阪から土佐の片田舎の山本頼蔵に届いた手紙に、書かれていた、というのです。
 西尾秋風氏が読み解かれたという、その「浪花よりの書簡ぬき書き」を、「中岡慎太郎全集」より、以下、引用してみます。(あー、とはいえ、漢字、カタカナをひらがなに直したり、旧かなを新かなにしたりで、正確ではありませんので、悪しからず)

「西郷、過日下坂の節、英人に接しいう。英国は世界第一の強国と聞こえしに、今日をもって見れば英に人無しと。英夷おおいに憤激、そのいはれ何にとおおいに迫り来る。吉(西郷吉之助)、しかればいい聞かすべし。なんじ、さきに我横浜を開く。今は仏のために使役せらる。人無しというべしと。英、いよいよ怒り、なんぞかの小仏に役せらるる事をせんや。そのいわれ如何。吉、いわく、なんじ知らざるか、仏の日本に来る、なんじに遅るる事ひさし。江戸始め兵庫に至るまで、好市場みな仏に取られてその役に従う。これ、その人なきいわれなりと。英、おおいに憤慨して退くという。英仏離間の策なるべし」

 うーん。こうして、書き写していますと、なにしろイカロス号事件がありますから、心配する土佐の同志、中岡慎太郎かだれか、を、安心させるために西郷がわかりやすく語ったことを、その中岡かだれか、が、国許に書き送った、のかもしれないんですが、「英(サトウ)が憤慨」したままでは、あまり意味がなさげな気もしないではないのです。
 とはいえこの話、最後まで出しますと、サトウが「薩摩側にイギリスは軍事支援してもいい」とまで言ってしまい、西郷が「日本の政体改革は自分たちだけの力でする」と応じた、という、見方によっては、「薩摩はイギリスと通じている」と、とられかねない結末でして、「幕府はフランスに日本を売りかけている」といったような、それまでさんざん薩摩藩がくりひろげた宣伝とちがって、これは宣伝することなのか、という気がしたわけなのです。
 まあ、ありえる道筋としては、西郷は、土佐の同志を安心させるつもりで語り、それを聞いた中岡なりが、国許の攘夷気分にあった語り代えをして、手紙に書いた、ということでしょうか。

 ともかく、土佐の田舎の文書にアーネスト・サトウ登場!!!とは、偽もの???と思わず疑ってしまったほど、驚きました!!! 桂久武宛の書簡には、かなり詳しく、これに近い感じで書かれていますし、萩原氏の解説のしめが、西郷が狙ったのは「英仏離間」だった、ということでしたので、私はつい、疑ってしまったのです。

 世の中には、奇妙な創作意欲で偽文書を作る方がいて、また学者さんが簡単にそれに騙されることについては、松本 健一氏の「真贋―中居屋重兵衛のまぼろし」 (幻冬舎アウトロー文庫)を読んで、「いかにもありそう」と思ったりもしまして、まあ、あれです。どうも最近の学者さんは、ご自分でくずし字がちゃんと読めない方がけっこういて、それで騙される場合がけっこうありげな感じですが、しかし今回、私が疑ってしまったことには、もちろん、私の西尾氏への偏見があります(笑)

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文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編

2008年08月22日 | アーネスト・サトウ
 現在、私、アーネスト・サトウ vol1を放ったまま、バーティ・ミットフォードに迷っていってしまっているんですが、それは、「なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか」というvol1の最後の疑問が、けっこう難しいものであったから、でもあります。
 当時のイギリスの社会情勢、文化、外交姿勢、そこでサトウが置かれていた状況などなど、ともかく、知らなければいけないことがあまりに多すぎまして(私が無知なだけの話なんですが)、とりあえずまわりから………、つまり、とっかかりのいいミットフォードから、埋めていっているわけなのですが。

アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より (東西交流叢書)
イアン・C. ラックストン
雄松堂出版

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 上記の本は、サトウの日記に加えて手紙の訳文が、けっこう多く収録されていまして、萩原延寿著「 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」 の記述を補うに恰好の参考書です。
 この中に、明治12年(1879)、ですから、西南戦争の2年後、琉球処分について、F.V.ディキンズ(幕末、英国海軍軍医として来日。「パークス伝」の著者)に手紙を書いているのですが、この一節が………、笑っちゃいけないんでしょうけれど、なんとも笑えました。

 もし私が琉球人(沖縄人)であったなら、彼らと同じように感じたでしょう。それは全く体に合わない黒い服を着て、二週間も着古したようなワイシャツを着た、江戸から派遣された人々に開化を強いられるよりも、昔ながらのやり方に従った方が、遙かに好ましいということなのです。

 「二週間も着古したようなワイシャツ」って!!!
 笑い転げたんですが、なかなかに奥深いサトウの皮肉、でもあります。

 町田清蔵くんとパリス中尉で引用しました、フランスのパリス中尉の以下の感想。(「フランス艦長の見た堺事件」より。)

 われわれの京都での滞在の残りの二日間は、買い物や見物に充てられた。
 また、われわれを持て成してくれた人々とより広く知り合うこともできた。
 あの老練な司令官に加えて、いつもわれわれと一緒にいた若い将校がその一人であるが、私が今まで出会った日本人の中で、彼はもっともヨーロッパ化された男で、ワイシャツを着、付け外しできるカラーを付け、フロックコートを羽織っていたのである。
 下着類を使用するなどということは、彼の同郷人らには思いもつかぬことだった。金のある連中は、頻繁に衣服を取り替え、古くなったものは捨て去るが、そうでない連中は、いつまでも同じ服を着続け、自分の体を頻繁に洗うことによって、洗濯不足を補っているのである。


 衣服というのは、文化です。
 その社会の文脈にそってあるものですから、その衣服の生まれた社会をよく知ることなく、うわべだけをまねて着ますと、とても変なことになります。
 当時の日本の衣類は、ひんぱんに洗濯するものではなかったわけでして……、といいますか、今でも着物は、肌襦袢をも含めて、洗濯を前提に作られていません。
 しかし、当時の西洋の中流以上の洋服は……、いえ、労働者や農民であっても晴れ着は、カラーやワイシャツを、ぴしっとのりをきかせ、清潔に、そして純白に保つことが、基本だったんですね。
 よれよれのうす汚れたワイシャツは、だらしのない生活を意味し、おそらく……、着る人の人格を疑わせるものであったとさえ、いえるのではないでしょうか。
 ところが、明治初期の官吏たちの大多数は、普段着ならばともかく、公の場で、権威の象徴として洋服を着ながら、ろくに西洋社会を知らないで、珍妙な着方をしているものですから、西洋人から見れば、なんともあきれ果てる光景であったわけです。

 明治の洋服は、軍服にはじまったわけでして、これは、いわば機能性を求めたものです。
 なにしろ、江戸300年の太平の間、戦闘服にはほとんどなんの変化もなかったのですから、兵器や戦術の近代化を進めますと、衣服も動きやすい洋服を、ということになります。
 しかし、当時の西洋の軍服といいますのは、儀礼服的な要素も相当に強く、華やかなものでした。
 幕末、横浜に駐屯した英仏陸軍ですが、イギリスは上着が真っ赤で、フランスはズボンが真っ赤、です。
 将校の軍服ともなれば、当然、金モールきらきら。
 結局、武官が派手な洋服だから文官も、ということだったのでしょうか。
 明治3年(1870)には、陸海の軍服とともに、官吏の制服が決められています。

 しかし、どうもこの性急な洋服導入は、世界的にもまれな、奇異な自文化否定、であったのではないかと……、サトウの皮肉に笑い転げた後で、ふと思いました。
 以前にも幾度かご紹介しましたが、ピエール・ロチ著の「江戸の舞踏会」は、明治18年(1885)の鹿鳴館の舞踏会を、実録風に描いたものです。以下、村上菊一郎・吉氷清訳の「江戸の舞踏会」より引用です。

 ちと金ぴかでありすぎる、ちとあくどく飾りすぎている。この盛装した無数の日本の紳士や大臣や提督やどこかの官公吏たちは。彼らはどことなく、かつて評判の高かったブーム某将軍を思い出させる。それにまた、燕尾服というものは、すでにわれわれにとってもあんなに醜悪であるのに、何と彼らは奇妙な恰好にそれを着ていることだろう! もちろん、彼らはこの種のものに適した背中を持ってはいないのである。どうしてそうなのかはいえないけれど、わたしには彼らがみな、いつも、何だか猿によく似ているように思える。

 この舞踏会には、清国大使の一行も招かれていたのですが、「猿によく似た」日本人の洋装にくらべ、こちらは、実に堂々としていました。

 十時、大清国の大使一行の入場。矮小な日本人の全群衆の上に頭を抜き出し、嘲けるような眼つきをした、この十二人ほどの尊大な連中。北方の優秀民族の支那人たちは、その歩き方のうちにも、そのきらびやかな絹の下にも、大そう上品な典雅さを具えている。そしてまた、彼ら支那人は、その国民的な衣服や、華やかに金銀をちりばめ刺繍をほどこした長い上衣や、垂れた粗い口髭や、弁髪などを墨守して、良い趣味《ボン・グウ》と威厳とを表している。

 フランス海軍士官だったピエール・ロチは、このとき、けっして、清国に好感を持ってはいませんでした。
 現在のベトナムをめぐって起こった、清仏戦争の直後だったのです。清国は善戦したといってよく、イギリスの調停により、フランスはかろうじて面目を保ったような形で、あるいは、だからこそ、なのかもしれませんが、国の指導者レベルにおいて(というのも、この時期一般の日本人は、ほとんど洋服なぞ着ていませんので)、「軽薄に西洋の猿まねをする醜い日本人」と、「自国文化に強烈な自信を持った威厳ある清国人」という印象を、受けていたようです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。

 しかし、ほんとうにそうだったのでしょうか。
 結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえたのではなかったでしょうか。
 そして、明治新政府の洋化が、うわべの権威を求めるものであった以上、西洋文明への本質的な理解とはほど遠いものとなり、日本人を愛したアーネスト・サトウにさえも……、いえ、日本人を愛していたサトウであったからこそ、かもしれませんが、激しい嫌悪を催させるものとなったのではないでしょうか。

 明治5年(1872)だったと思いますが、大久保利通が岩倉使節団の一員として渡航し、洋装の写真を撮って西郷に送ったおりに、西郷が確か「醜い」というように評した返事を、書いていたように記憶しているのですが、サトウは、確実にその気分を西郷と共有していました。
 そしてさらに、明治新政府は、明治6年政変以降、うわべの洋化に権威を求めた上で、専制政治を行ったのです。
 サトウにとっての西洋文明は、もちろん、専制政治を許容するものでは、ありませんでした。
 明治10年7月、西南戦争の最中に、アーネスト・サトウは、日記にこう書いています。(「西南戦争 遠い崖13 アーネスト・サトウ日記抄」より)
 

  わたしは、これほど人民の発言を封ずる政府は、ありがたい政府ではなく、そういう政府に服従するよう西郷にすすめるのは、理にかなったこととは思えないと述べた。


 アーネスト・サトウは、もちろん、イギリス公使館の一員であることを強く認識していましたので、けっして、西郷軍への共感を公言することなく、後年にも、同僚のA.H.マウンジーが書いた「薩摩反乱記」の書評を断っています。ただの旧弊士族反乱であるかのような「薩摩反乱記」の描き方に対して、あきらかにサトウはちがう意見を持っていましたが、イギリス外交官として、それを公然と口にすることは、イギリスのためにならない、という判断です。

 1895年(明治28年)、日清戦争の直後、モロッコ駐在特命全権公使だったサトウは、やはりディキンズへの手紙に、こう書いています。

  私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした。

 おそらく、アーネスト・サトウには、日本人が西南戦争によって、なにか基本的なものを自ら押しつぶしたように、見えたのではないでしょうか。
 その青春の日に、維新の動乱を日本人とともにしたアーネスト・サトウは、時を超えて、江藤淳氏がその晩年に述べた以下の感慨を、共有していたのではないかと、そんな気がするのです。

  このとき実は山県は、自裁せず戦死した西郷南州という強烈な思想と対決していたのである。陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。
「南洲残影」より)



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アーネスト・サトウ  vol1

2008年04月07日 | アーネスト・サトウ
 アーネスト・サトウは、これまでに幾度か、名前だけは出しましたが、ちゃんと取り上げたことはなかったように記憶しています。
 ここ2、3年、モンブラン伯爵にはまりこんで、fhさまをはじめ、さまざまな方のおかげもあり、少しづつ、輪郭が見えてくるようになり、驚きの連続です。
 調べ初めて最初のころ、モンブラン伯爵王政復古黒幕説において、鹿島茂氏の『妖人白山伯』という小説が、「王政復古はモンブラン伯の筋書きで大久保利通が行った」というようなパロディ小説であることをご紹介したのですが、いや、調べていくにつれ、現実にモンブラン伯が大きく明治維新にかかわっていたことがわかってまいりました。
 フランス艦長の見た堺事件は、フランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長が、1868年2月10日(慶応4年1月17日)、鳥羽伏見の戦いの直後、横浜に到着してから、翌1869年6月19日(明治2年5月10日)、ブリュネ大尉をはじめとする函館戦争に参加したフランス軍人を乗せて離日するまで、一年間の見聞を記したものです。
 艦長は、来日からまだ一年もたたない1868年11月14日(明治元年10月1日)、以下のような、実に的確な感慨を述べています。

 われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
 それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
 薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。


 イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しです。
 フランスの外交政策が、「排他と独占に基づく貿易」を指向するようになったのは、ロッシュ公使が来日した元治元年以降のことですから、長州は禁門の変で朝敵となり、幕府と戦うことしか道はなかったわけでして、対外を意識し、外交的に幕府を追い詰めたのは、薩摩です。
 そして、それは鹿島氏のパロディのように、モンブラン伯の筋書きに薩摩が乗せられたのではなく、薩摩が主体的に、イギリス人とモンブラン伯爵を利用したのです。

 で、そのイギリス人です。
 以前にも書いたと思うのですが、慶応3年の10月ですから、ちょうど大政奉還のころ、イギリス海軍伝習団が来日し、築地の幕府海軍操練所において伝習を開始しますし、またこの年、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。などでたびたび紹介しましたパリ万国博覧会幕府使節団、プリンス昭武一行を、イギリスは執拗に誘い、自国にて大歓迎してみせますし、当時、幕府が送り出していた留学生の数をいうならば、イギリス留学生が一番多いのです。
 つまり、当時の、といますのは、鳥羽伏見の戦いまでの、ですが、イギリスの公式外交政策は、あくまでも幕府支持がメインであり、かならずしも薩長を支援していたわけではないのですね。

 では、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しのイギリス人とはだれか、ということなのですが、これは明白です。
 イギリス本国においては、来日経験を持ち、薩摩密航留学生の面倒をみていたイギリス下院議員ローレンス・オリファントであり、日本においては、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官であったアーネスト・サトウなんです。もちろん、二人の活動の後ろには、フランスと幕府の提携による排他と独占に基づく貿易に不満をもった、多数の在日イギリス商人がいたわけなのですが。
 慶応3年後半から明治元年にかけて、大政奉還から王政復古のクーデター、そして鳥羽伏見の戦いへと続く、幕末維新のいきづまるような政治闘争の裏をいうならば、実際にその現場にいて、薩摩の後押しをしたイギリス人とは、薩道愛之助とも名乗ったアーネスト・サトウにほかならず、プティ・トゥアール艦長のいうイギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しとは、薩道愛之助と白山伯の後押しと言い換えることも、可能でしょう。

旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 (は29-1)) (朝日文庫 (は29-1))
萩原 延壽
朝日新聞社

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 まずは主に、上記、萩原延壽氏の名著をもとに、アーネスト・サトウ(ErnestSatow)について、語ってみたいと思います。

 サトウ(Satow)という名字は、日本の「佐藤」に音が似ていて、イギリスでは珍しい名字です。
 かつて、萩原延壽氏がロンドンの電話帳で調べたところ、サトウ姓は二人しかいなくて、それはアーネスト・サトウの甥のクリストファ・サトウと、その長男ポール・サトウだったそうです。
 
 アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、実は、現在のドイツ東部、バルト海に面したハンザ同盟都市・ヴィスマールという港町の出身でした。つまり、移民だったのです。
 ヴィスマールの近くにSatowという村があり、「種蒔く人」というスラブ系の地名なのだそうです。このあたりではごくありふれた名字で、中世西スラブ系のウェンド人かソルブ人によってもたらされたものだろう、という推測です。
 中世のハンザ同盟都市ヴィスマールは、17世紀の半ばからスウェーデン王の統治下に入っていましたが、デーヴィッド・サトウの父、つまりアーネスト・サトウの祖父は、この港町で、ロンドンと取り引きをする貿易業者でした。
 ややっこしい話なのですが、「スウェーデン王の統治下」といいましても、ヴィスマールが神聖ローマ帝国の一都市であることに変化はなく、スウェーデン王はヴィスマールなどを所有することによって神聖ローマ帝国諸侯となりましたので、あくまでもドイツ文化圏の都市であった、ということは、いえると思います。

 フランス革命によって、話はますますややっこしくなります。
 フランス革命とスウェーデンといいますと、もうこれはベルバラの世界、といいますか、シュテファン・ツヴァイクが描いたフランス王妃マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルゼン伯爵の恋を思い出すんですが、当時、伝統的に親フランス外交によって安定を得て、ロシア帝国に対していたスウェーデン王は、革命に困惑し、ロシアと同盟を結ぶにいたります。
 しかし、ナポレオンの台頭により、経済的混乱に見舞われると同時に、ロシアとの同盟も破れ、戦争はさけられない情勢となって、1803年、ヴィスマールは、神聖ローマ帝国諸侯の一人であったメクレンブルグ大公に売り払われます。
 このメクレンブルグ大公がナポレオンの同盟軍に加わったため、1806年、ヴィスマールは大陸封鎖令にまきこまれるんです。ナポレオンのイギリス封じ込め作戦です。ロンドンとの取り引きを家業としていたサトウ家は、これでは食べていけません。
 1808年かあるいはその翌年、サトウ家は、先祖代々住み慣れたヴィスマールを後に、ラトヴィアのリガに移住します。リガにはドイツ人が多く住み、ドイツ語が通用していたんです。このとき、アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、兄が4人、姉が1人、弟が3人という大家族の一員で、7、8歳でした。
 1812年、ナポレオンがロシアに侵攻し、サトウ家はさらなる避難を余儀なくされ、11歳のデーヴィッドは、2年間、商船に乗り込んで世界をまわります。船長のボーイをしていたのだろう、というのが、アーネスト・サトウの推測です。
 デーヴィッドは14歳でリガの実家に帰り、数年間の学校教育を受け、シュナッケンブルグという人物の経営する商会で、貿易業を見習います。1825年、24歳になった年、雇い主のシュナッケンブルグと兄の出資を得て、ロンドンへ渡り、やがて金融業、不動産業を営むこととなりました。
 8年の後、デーヴィッドは、イギリス人で、法律関係の代書人の娘であるマーガレット・メイスンと結婚し、ヴィクトリア朝のロンドンにおいて、中流といえる一家を築き、イギリスに帰化します。

 アーネスト・サトウは、1843年(天保14年)6月30日、ロンドンのサトウ家の三男として生まれました。
 早世した者も含めますと、兄2人のほかに姉が5人いますし、弟が3人。11人兄弟という大家族です。
 西郷従道、伊東祐亨、品川弥二郎、田中光顕などと同じ年です。
 桐野利秋よりは5つ年下、1833(天保4年)生まれのモンブラン伯爵より10歳若いことになります。

 サトウ家が、かならずしも典型的なロンドン中流家庭、といいきれないのは、やはり家主デーヴィッドが移民であったことと無縁ではありません。デーヴィッドは、マルティン・ルターにはじまるドイツ・プロテスタント、ルーテル会派の熱心な信者だったのです。
 18世紀から19世紀ヨーロッパの宗教観は、国といいますか、地域と階級によって、かなり大きなちがいがあったように感じられます。
 フランツ・リストの愛人であったマリー・ダグー伯爵夫人は、フランス革命を逃れてドイツに亡命したフランス王党派のフラヴィニ子爵と、フランクフルトの銀行家ベトマン家の娘との間に、1805年といいますから、デーヴィッド・サトウに4年遅れて生まれますが、フランス貴族の父親について、以下のように記しています。坂本千代氏著「マリー・ダグー 19世紀フランス 伯爵夫人の孤独と熱情」よりの引用です。
 
 彼は気質的にまったくのガリア人であり、夢想にも、熱狂にも、形而上学にも、音楽にも縁がなかった。信仰心にはそれ以上に縁がなかった。そんなものは当時の貴族のものではなかったのだ。彼の読む作家はホラティウス、オヴィディウス、ラブレー、モンテーニュ、ラ・フォンテーヌ、そしてなによりヴォルテールだった。わたしに書き取りをさせるために彼が一部分を選び取り出すのは、異教のあるいは世俗のこのような作品からであって、けっして聖書からではなかった。私は神話を書きながら字を習ったのである。聖母マリアの受胎告知を知るずっと前にプロセルピナの誘拐を知った、まぐさ桶と幼な子イエスをまだ知らぬ頃すでに幼いヘラクレスの驚くべき揺りかごに感激していた。

 つまり、聖書より先に、ギリシャ・ローマ神話を知ったわけですね。
 マリー・ダグーはフランクフルトで生まれ、ほどなくフランスに帰国しますが、フランスで生きる以上、カトリックでなければ将来よい結婚は望めない、という父方の祖父母の意見にしたがい、カトリックの洗礼を受けます。信仰心ではなく、いわば冠婚葬祭のためのカトリック、日本の葬式仏教に近い感じがします。
 ところが、これに異議を唱えたのが、母方、フランクフルトのベトマン家の祖母でした。
 ベトマン家はルーテル会派で、一家の女主人である祖母は、「聖書の教えと信仰箇条を厳守」する熱心な信者だったのです。ベトマン家は大ブルジョアで、中流商人のサトウ家と階層はちがいますけれども、ドイツ語圏のルーテル会派という点では同じで、無信仰に近いフランス貴族とは、大きく宗教意識がちがっていたことがわかります。

 ロンドン東北部クラプトン地区。公共緑地がひろがり、テラスハウスが並ぶ、品のいい中流階級の住宅地で、アーネスト・サトウは生まれました。ヴィクトリア女王が18歳で即位して、6年後のことです。
 サトウ家は大家族でしたが、兄弟姉妹、みな幼少のころから家庭教師について、ドイツ語、フランス語はもちろん、ギリシャ語、ラテン語という古典の基礎を学んでいたといいますから、両親は教育熱心であり、中流といえるだけの財力はあったようです。

 わたしの父は非常にしつけがきびしく、われわれは父のいいつけには絶対に服従しなければならなかった。父のいいつけをひどく無視するようなことをした場合、われわれはかならず鞭でたたかれるという罰をうけた。

 と、後年、アーネスト・サトウは回顧しています。
 そして、「本当に信仰心のあつい父と母」でもありました。
 毎日、朝晩、聖書の一章を家族で読み、日曜日にはそろって教会へ出かけた後、「すべての玩具が取りあげられ、平日のような読書は禁じられ、ただモーゼの『十戒』をくりかえし暗唱し、さらに聖書を読みつづける」ような、家庭だったのです。
 これが、イギリスの典型的な中流家庭とちがっていたことは、サトウ家において「国教徒は、宗教にあまり関心のない、世俗的な人々である」と、見られていたことでもわかります。
 イギリスでは、上流階級をはじめとして、イギリス国教会、つまりは「国教徒」が主流であったからです。

 アーネストは、ほっそりとした利発な少年で、教育熱心な父母の期待の星でした。
 近所の私立塾で初等教育を受けた後、13歳で、ミル・ヒル・スクールへ進学します。
 ミル・ヒル・スクールは、現在では名門パブリック・スクールの仲間入りをしているそうですが、当時はそうではありませんでした。イートン、ハロー、ウインチェスターなど、ジェントルマン階級の子弟を教育する名門パブリック・スクールには、国教徒でなければ入学できず、そういう教育の場からはみだした、非国教徒の子弟の教育の受け皿が、ミル・ヒルだったんです。
 同じ理由で、非国教徒の移民の子であるアーネストには、オックスフォード、ケンブリッジという名門大学への道が、事実上閉ざされていました。この二校が非国教徒に開かれたのは、1871(明治3年)からのことです。
 ミル・ヒルでの教育は、ラテン語、ギリシャ語を中心とする古典で、しかも宗教的な規律がきびしく、早熟だったらしいアーネストにとっては、「退屈な学校生活」でした。
 1859年、16歳のアーネストは主席でミル・ヒルを卒業し、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)の奨学金を得て、進学します。UCLは、非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学で、後に、森有礼などの薩摩藩イギリス密航留学生たちも、この大学で学ぶことになります。
 荻原氏は、当時、「神不在の大学」といわれていたUCLの学風から、アーネストは父母の教えを離れて、無神論者に近くなったのではないか、と推測されています。

 1861年(文久元年)アーネスト18歳、イギリス外務省は、中国と日本の領事部門に所属する通訳生の推薦を、いくつかの大学に求め、UCLにも3名がわりあてられました。推薦を受けた後、さらに採用試験を受けるのですが、アーネストは、これに最年少で応募し、主席で合格します。
 これが、生涯にわたるアーネスト・サトウと日本の縁のはじまりだったのですが、なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか、次回vol2では、そこらあたりから、語っていきたいと思います。


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