郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場

2018年01月30日 | NHK大河「西郷どん」

 「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代で予告しましたように、NHK大河『西郷どん』について、定期的に感想を書いていくことにいたしました。
 いまのところ、 大河「花燃ゆ」と史実シリーズほど、克明に史実を追うつもりはないのですが、そこは私のことですから、どうなるかわかりません。

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
クリエーター情報なし
NHK出版


 ともかく、第3話にして、中村半次郎(桐野利秋)登場!です。

5分で分かる「西郷どん」第3回『子どもは国の宝』


 まだごらんになっていない方は、上の5分で分かる「西郷どん」を、どうぞ。
 けっこうたっぷり出てくるんですが、子役の中村瑠輝人くん!!! かわいい上に芸達者!!!
 えー、太刀さばきに見惚れてしまって、文句を言う舌が鈍ります。

 彼に文句はないんです。先を見る気にさせてくれました。
 しかし。
 NHKは貧しい=汚いだと、勘違いしてやしませんか?
 いくら流罪人の子で貧しいとはいえ、あそこまで泥だらけで髪ぼうぼうのこ汚さは、ないと思うんですのよ。

 そういえば、一話目をいっしょに見ていました妹が、「西郷家が貧しい貧しいって、土佐の岩崎弥太郎の家より貧しいことはないでしょう?」と聞くんですね。
 「いや、西郷家の方が貧しいと思うよ」と私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に載せました中岡慎太郎の手紙の話をしました。
 つまり「薩摩のれっきとした士族は土佐の足軽より貧しい者が多く、ほんの少しの給料で歩兵になる」と中岡は故郷への手紙に書いています。
 実際、薩摩士族の数は異常に多かったわけですし、いくら岩崎家が郷士株を売った地下浪人だとはいえ、岩崎弥太郎には、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたように、江戸の超一流漢学塾に遊学するだけの経済的余裕がありました。

 ところが、です。妹がNHK大河「龍馬伝」で見ました岩崎弥太郎の生家は、超ボロボロでこ汚かったそうでして、その汚さにおいて「西郷どん」の西郷家を上回っていたんだそうなんですのよ。
 視覚に訴える印象は強烈ですからねえ。花のお江戸の安積艮斎塾で学んだ俊才が、泥まみれの貧民だったと、一般には印象づけられてしまったようなんですね。
 私、あの「龍馬伝」は、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書きましたように、あまりにばかばかしくて、ほとんど見てません。

 成長期の半次郎のエピソードにつきましては、あまり資料がなく、明治32年出版の春山育次郎著『少年読本第十一編 桐野利秋』くらいではないかと思うんですね。
 春山育次郎は薩摩出身で、子供の頃、桐野に頭を撫でてもらった思い出があったそうですし、桐野の甥(妹の子)と親しく、身内にいろいろ話を聞かせてもらったと同時に、幕末からの桐野の友人・中井桜洲(中井桜洲と桐野利秋)にも話を聞いて書いておりますので、かなり信憑性があろうかと思います。

 で、『少年読本第十一編 桐野利秋』によりますと、半次郎(桐野)の父は単身赴任の江戸詰であったため、最初の手習いは実兄に、次いで近所に住む外祖父(母の父)の別府四郎兵衛に、学問を教わった、というんですね。
 別府家には、半次郎の従兄弟になる別府晋介がおりまして、幼なじみのはずですが、晋介は後年、城山で西郷隆盛の介錯をしたと伝わります。
 普通に考えて、晋介は出してしかるべきではないか、と思ったのですが、話がややっこしくなりますし、もしかしてこのドラマは晋介の存在を消して、半次郎が介錯をしたことにするのかもね、と思い、林真理子の原作の最後の部分だけ、本屋で立ち読みいたしました。
 原作では一応、通説通り、晋介が介錯しておりました。
 しかしこのドラマ、かなり原作離れしているらしく、そもそも、子供の半次郎は登場しないらしいんですね。
 まあ、いいんですけどね。おかげで、かわいい半次郎を見ることができまして。

 半次郎の父親が流罪になった年は、はっきりしないのですが、およそ、彼が10歳の頃であったようです。
 私、これは、確証があることではないのですが、中井桜洲と桐野利秋に、以下のように書きました。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後、東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。


 海老原穆が海老原清熙の親族であったことは、確かなことだとわかりました。
 しかし、それ以外はいまだに雲をつかむような話なのですが、私は、島津斉彬が藩主になってのちに、父親は流罪になったのではないか、と思っております。

 それと、ですね。薩摩では士族の流罪はよくあったことでして、少なくとも桐野家の場合、自家で開墾した土地まで取り上げられたりはしておりません。
 もともとの石高はわずか五石でして、これとともに、父親が役職についてもらっていたお手当が、なくなったわけです。
 しかし開墾地では狭すぎまして、新たに開墾すると同時に、近隣の農民から土地を借りて耕していた、と伝わります。

 まあ、そんなこんななんですが、第4話にも、かわいい半次郎が登場しましたねえ。
 見ていると、批判する気も失せるのですが、次回、西郷とか大久保とか、もっと全般的なことについて、遠慮なく感想を書くつもりでおります。
コメント (4)
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「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代

2018年01月22日 | 幕末東西

 去年は災難続きでした。ほとんどなにも書けないままに年は去り、新年。
 本日は、本の紹介です。
 なんの続きと言うことはないのですが、関係が深い記事を上げるならば、宮廷料理と装飾菓子『春の雪』の歴史意識あたりでしょうか。
 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」へ出かけましたら、会場ロビーで思文閣出版さんが本の紹介をしていて、この本のパンフレットが目を引きました。

天皇のダイニングホール―知られざる明治天皇の宮廷外交―
山﨑鯛介,メアリー・レッドファーン,今泉宜子
思文閣出版


 「天皇のダイニング」という題名そのままに、明治宮廷の晩餐会について、舞台となった建築、使われた食器、饗された料理、出席した人々の服装について、詳細に描かれた本です。
 欲をいえば、もっとカラー写真を多用したムック版で見たかったかなあ、という気がします。
 とはいえ、この手頃なお値段からしますと、巻頭グラビアに掲載されました16ページのカラー図版は、嬉しい限りです。

  なによりもまず、びっくりしましたのは、明治、外交の舞台ともなりました赤坂仮皇居御会食所の建物が、「明治記念館」となって神宮外苑に残り、披露宴やパーティだけでなく、普段の食事でも、一般人が使える、という事実です。今度東京へ行ったときは、ぜひ、たずねてみたいなあ、と。
  本館ラウンジ、上部の壁の模様は、京都御所紫宸殿・北庇の間に使われていた花鳥模様をそのまま使ったそうで、とても魅力的な和洋折衷の装飾です。現在は、その模様にちなんでラウンジ「kinkei(金鶏)」と名づけられ、貸し切りの時以外は、個人でランチやディナー、ティータイムに利用できるみたいなんです。

 明治天皇は、明治元年に京都から東京へ御幸されましたが、最初に住まわれたのは、江戸城の西の丸御殿です。しかし明治6年、御殿は失火により焼失し、紀州徳川家の江戸屋敷があった赤坂に、仮御所が造られます。このときから明治22年までのおよそ16年間、天皇は仮御所に住まわれたわけなのですが、後半は、ぴったりと鹿鳴館外交の時期と重なりまして、宮中儀礼におきましても、洋式化が行き着くとこまでいきまして、少々滑稽なまでになっていた時期なんですね。


 

 上の錦絵は、明治初期の伝統的な女官の服装なんですが、皇后を筆頭に、これが洋装に変わります。
 明治時代、前半期は、写真よりもむしろ錦絵で、天皇、皇后両陛下の姿が世間にひろまり、したがいまして、下のような洋装の皇室錦絵が数多く残っております。
 揚州周延と桐野利秋でご紹介しました周延のものです。
 


 この当時の女性の洋装は、バッスルスタイルでして、スカートの後ろにコブのようなバッスル(腰当て)を入れています。幕末当時のクリノリン(二人の皇后とクリノリン参照)のような、ゴージャスな復古調お姫様スタイルとはちがい、なんとなく貧乏くさい感じがするのですが、それなりにびらびらひらひらですから、乙女心がときめかないわけでもありません。
 普仏戦争を経て、ヨーロッパ文化はしだいに、殺風景な近代に近づいていたわけでして、しかし、第1次世界大戦後のように、さっぱり、すっきりしたわけではなく、要するに中途半端なスタイルです。
 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1で、私は、以下のように書きました。

 明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
 つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。


 あだ花といえばあだ花だったのですが、しかし、少なくとも宮中の礼服は、『春の雪』の歴史意識で書きましたように、洋装が定着します。

皇族女性の礼服が、お雛様のような袿袴姿から洋装に変わったのは、明治19年、鹿鳴館の舞踏会が華やかなりしころです。これを推進したのは、長州の志士だった伊藤博文と井上聞多の元勲コンビ。二人とも、幕末には火付け暗殺にかかわり、聞多などは刺客に襲われて一命をとりとめ、全身に刀傷が残っていました。
明治の時代に、「宮廷と新華族とのまったき親交のかたち」として、「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として、伝統の宮廷衣装は、マント・ド・クール、ロープ・デコルテ、ロープ・モンタントといった洋装に、とってかわられたのです。
つまり、下級武士に担がれた天皇家は、公卿の長であった伝統を捨てて、近代日本にふさわしく、西洋的な皇室となったのであり、三代目の清顕にとっては、それはもう、自明の現実なのです。


 しかし、これを言い換えますと、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編に書いた、以下のような状況でもあったわけです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。
 

 事態を一変させたのは、第1次世界大戦です。
 大戦後、西洋近代の女性の洋装が、簡便で、活動に適したものとなり、西洋近代の仲間入りをしようとする他文化圏でも、受け入れやすいものとなり、日本においても、庶民の間で洋装が広まっていったのです。
 こうなってきますと、頂点の皇室が洋装であることも、安定感をもって受け入れられます。

 「天皇のダイニングホール」では、外交儀礼の必要上からの女性の洋装を描いてくれていますが、ただ、この点については、どうなのかな、と思います。
 明治13年、イタリア公使となって赴任しました鍋島直大夫人・栄子は、イタリアでの外交儀礼に和装で臨んだ、というような話があったと思います。民族衣装は、現在でも普通に、外交儀礼で認められているわけですし。
 とはいえ、栄子夫人はとても美しい洋装の写真も残しておりまして、鹿鳴館の華でもありました。

 この本で、なによりも楽しかったのは、西洋料理導入のお話しです。
 使われた洋食器にも詳しく、ミントンやセーブルなど海外に特注されたもの、有田など、国内で製作されたものなど、カラー写真が載っているのが嬉しい限りです。

 なにより興味深いのは、明治期の午餐・晩餐メニューが紹介されていることです。味の素食の文化センターの所有のメニューカードを解説してくれているのですが、いまひとつイメージがひろがらず、できればこれ、再現料理をカラー写真で見たかったなと。
 私、タイタニック号レストランの料理再現本とか、大好きなんです。
 
 幕末日本のおもてなし料理につきましては、宮廷料理と装飾菓子白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に書いているんですが、それが明治になって、本格的フランス料理導入となっていった様子が、この本には克明に描かれています。
 こちらも、もちろん、西洋外交の定番だったフランス料理そのものの変遷、ということも当然ありまして、そしていまや、和食は欧米においても高級料理店が出現し、宮中晩餐会の和テイストも当然になってきましたのは、日本人として喜ばしいかぎりです。
 現代人としましては、和洋のコラボは、心地よいかぎりなんですよね。

 最後に、この本では、明治外交の裏で活躍しましたおイネさんの異母弟たち、アレクサンダー、ハインリッヒのシーボルト兄弟が大きく取り上げられています。
 それほど目新しいことは書かれていなかったのですが、あまり世間に知られていません兄弟の活躍が描かれているのは、嬉しい限りでした。

 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」のコメント欄で書きましたが、西郷隆盛とおイネさんは半年違いで、ほぼ同世代です。
 3回目にして、超かわいらしい中村半次郎も出て来たことですし、私、次回からNHK大河「西郷どん」の感想を、定期的に書くことにいたしました。

 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
コメント (2)
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