郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき12

2010年10月26日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき11の続きです。

 今回は、広瀬常と森有礼 美女ありき10でご紹介しました河内山雅郎氏の「開拓使仮学校女学校ー幻の北方帝国大学女子部」を参考に、開拓使女学校でのお常さんをさぐっていきたいと思うのですが、まずは最初に、河内山氏ががまとめておられます女生徒名前考から。
 開拓使女学校の女生徒の名前は、明治5年入校前の「女学生徒入校願」と入校後の書類では、55名中29名、半分以上が名前表記が変わっていまして、河内山氏は、丁寧にそれを調べておられます。ちなみに常は、変わっておりません。

 これは、明治5年に編製されました壬申戸籍の影響でしょう。
 江戸時代の女性の名前は、基本的にはひらがなです。「しの」でしたら、通常は「お」をつけて、「おしの」と呼ばれます。
 しかし、「しの」を変体仮名を使って表記しますと「志乃」というように漢字まじりになりますし、「篠」と漢字一字の表記を決めている場合もありました。「常」の場合がそうですよね。
 とはいえ、壬申戸籍ができますまでは、別にどう名前を表記するかが決まっていたわけでもありませんで、気分によって使い分けたりもしていたわけです。もちろん、戸籍ができましても、書簡の署名などは戸籍名が漢字でもひらがな、ということはいくらでもありましたが、書類に関しては、一応、戸籍名を書いたようです。
 で、河内山氏の女生徒名前考の中で、一人だけ、「女学生徒入校願」において、筆記者が名前を聞き間違えたのか、と思われる例があります。残りの28人は、「たみ」が入校後に「民」になっているとか、「喜代」が「清」になっているとか、表記のちがいですのに、大鳥圭介の娘「品」は、入校後に「雛」となっていまして、「ひな」を「しな」と聞き間違えて漢字をあてたのでは? と思われるのです。

 だいたい壬申戸籍作成にあたりましても、西郷従道が自分の名前を音読みしまして「りゅうどう(隆道)」と言いましたのを、筆記者が「じゅうどう」と聞き間違えて「従道」になった、という話が残っておりまして、実際西郷家の本名(名のり)には「隆」の字がつきますので、信憑性のある話です。
 戸籍ができました後にも、名前がいいかげんに表記されている例としましては、生麦事件シリーズで取りあげました久木村治休がいます。アジ歴の書類でも変動がありますが、明治14年の陸軍省の書類に「陸軍憲兵中尉久木村治休」とあって、どうやら治休に定まったようですのに、明治45年の鹿児島新聞では「知休」、「薩藩海軍史」では「利休」と、いずれも本人が生きていますのに、聞き間違いらしい名前が記録されています。
 岩下長十郎くんが、清十郎とされていたりするのも、それです。

 えー、薩摩の例ばかりあげるな、とおっしゃるかもしれませんが、開拓使は「チェストーッ! 名前でんどうでんよかが」と超いーかげんな薩摩閥が、牛耳っていましたのよ。「寅五郎」「冨五郎」と聞き間違えるくらいのこと、平気でしますわよ、きっと(笑)
 後、常の父・広瀬冨五郎が、入校後には広瀬秀雄になっている件ですが、これは壬申戸籍で、冨五郎(あるいは寅五郎)という通称を捨て、秀雄という本名(名のり・本来は源だか平だか藤原だか大伴だか越智だかの氏族名に続いたんです)を、戸籍名にしたわけです。
 樋口一葉の父・大吉は、幕臣になってからの通称は「為之助」だったんですが、やはり壬申戸籍で「則義」という本名で届け出ました。

  次いで、常の学友のお話です。
 実は河内山氏は、開拓使女学校に最初から最後まで在籍しました神尾栄、神尾春姉妹の縁戚にあたられるのです。姉妹に関しましては、これまで知られていなかった資料もお持ちで、詳しく書いておられます。「開拓使仮学校女学校ー幻の北方帝国大学女子部」を出される前に、「維新を生き抜くーある会津藩士姉妹の明治維新」という姉妹の伝記も書いておられるのですが、これも国会図書館にしかありませんから、手作りコピー本なのでしょうか。残念ながら、読ませていただいておりません。

 河内山氏は、神尾姉妹だけではなく、開拓使女学校卒業生が卒業後にどうしていたか、全員ではありませんが調べておられまして、しかし大方は、詳しい消息がわかりません。
 当然といいますか、広瀬常が一番詳しいのですが、これについては、森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」によっておられまして、私にとっての新しい発見は、この部分にはありませんでした。

 しかし、一人一人の女生徒のその後をたどろうとなさる河内山氏の熱意には、頭が下がる思いでして、彼女たちの生涯に思いを馳せますと、女学校そのものが愛おしくなってまいります。
 おそらく常も、日本を遠く離れ、あらためて女学校時代を、懐かしく思い出したりしたんじゃないんでしょうか。口ずさむ歌は、ぜひ、オールド・ラング・サインで(笑)

 で、神尾姉妹です。
 実は、神尾姉妹の名は、常が学校をやめて後、学校が札幌に移り、ほどなく廃止になる際に、その口実となった事件がありまして、そこに出てくるんです。
 以前も出しましたが、「北大百年史 通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)」(Ciniiにて無料で読めます)に、開拓使役人で、女学校廃校を取り仕切りました松本十郎の回顧が引用されています。
 私、広瀬常と森有礼 美女ありき6で、「また同じく松本によりますと、調所校長の下にいた福住三という幹事が、女生徒を個人的に女中のように使ったり、かなりうろんな人物であった、という話でして」と書いたんですが、その典拠が、上の引用なんです。「福住三が病気になって姉妹に看病させた」という話で、松本によれば「神尾春其妹栄ナルモノアリ。美ニシテ艶ナリ。福〔住〕三此姉妹ヲ愛ス」ということでして、これがスキャンダルになり、開拓使女学校を廃止するにあたって、どうも、このスキャンダルが利用されたらしいのですね。
 ただ、松本の回顧でも、スキャンダルが事実だったとは書かれていませんし、私は、「福住が美しい神尾姉妹を気に入り、病気になったとき、女中がわりに看病させたものだから、あらぬ噂が立って、それが廃校の理由として利用された」と受け取りました。
 河内山氏にとりましては、松本の回顧自体が、信用できないものであられるようでして、うーん、これは植松三十里氏の下の小説も、お勧めできないな、と。

辛夷開花
植松 三十里
文藝春秋


 いえ、決して、スキャンダルが本当だったと書かれているわけではないんですけれども。
 植松氏は、「女学生生徒表」は参考文献にあげておられますが、「女学生徒入校願」は見ておられません。
 「女学生生徒表」の方には、神尾姉妹の父兄について、なぜか詳しく載っておりませんで、だから、なんでしょうけれど、「お栄とお春は箱館の豪商の娘で、姉妹で入学していた。すでに箱館にいた頃から、イギリス人について英語を習っていたという。女学生の中では英語は別格のうえ、ふたりとも鼻筋が通った美人顔で、何かと目立つ存在だ」
 で、常と同室で仲良くなったという設定の福島照(元佐賀藩士の娘)に、「神尾姉妹、感じ悪かねえ。いっつもふたりして、ひそひそやりよってからに。いざとなると英語で、ツワーテル先生に取り入りよるし」とか「知っとう? あんふたり、オランダ訛りの英語は嫌だゆうて、何かと仮学校のアメリカ人の男の先生に、英語ですりよっとらすとよ」とか言わせまして、こう、金持ちの商人の娘なので、派手でハイカラで、人にとりいるのがうまい、というような感じに描いておられるんですけれども。

 河内山氏に代わって、言わせていただきます。ちがいます!!!
 事実は小説より奇なり。神尾姉妹は、会津藩士、それも百八十石、江戸常詰、留守居という上級藩士の娘だったんです。神尾家は、藩祖・保科正之の母方御由緒の家だそうです。母親の実家は家老職。
 つまり、神尾姉妹が「美ニシテ艶」でしたのは、江戸育ちの会津藩士の娘として、凛として垢抜けた立ち居振る舞いが身についていたから、なのです。

 姉妹の父は、鳥羽伏見の敗戦の後、姉妹を含む家族全員を会津へ帰し、江戸に残って、兵器調達と和平交渉を担当しました。やがて新潟、仙台へ移り、奥羽列藩同盟各藩の間を走りまわっていて、消息を絶ちます。
 姉妹とその母は、会津籠城の日、城門の閉鎖に間に合わず、郊外に逃れて、落城の日を迎えました。
 降伏後、会津藩の子女は、農家に割り当てられて耐乏生活を強いられましたが、そんな中でも学校が開かれ、姉妹は勉学に励みました。
 明治3年、会津藩は斗南へ転封となり、姉妹も母とともに斗南へ行き、さらに貧しく、食べるにも困るような生活をしていたのですが、明治4年春、行方不明だった父親から、突然、連絡があります。父は、どういう事情だったのか、明治2年の10月から開拓使に奉職し、必死になって家族をさがしていたのですが、見つけられないでいたのです。
 父は函館在勤で、人並みの暮らしをしていまして、姉妹たちは函館へ行き、開拓使が女子留学生を募集しているという知らせに、勇んで応募しますが、東京在住ではなかったために、間に合いませんでした。
 明治5年、東京に女学校ができることになり、真っ先に応募します。函館からの応募は、姉妹を含んで6人でした。
 姉妹は、女学校が札幌に移った後も在学し、明治9年の廃校まで学びます。
 そのころの神尾家は、父が函館に単身赴任で、母と弟は東京へ移っていました。
 姉妹も東京へ帰りますが、結婚相手はともに、開拓使仮学校の生徒で、ライマンの助手になり、技術を身につけた男性でした。

 在学時の話にもどりますが、明治6年の末、皇后が開拓使仮学校へ行啓され、女生徒たちも日頃の成果をご覧にいれます。
 その中心になりましのが、以下の4人です。

 福島照(入学時16 旧佐賀藩士で開拓使出仕者の孫)   奧地誌畧暗唱講義並習字英語作文
 千葉震(入学時16 旧鳥取藩士・開拓使権大主典の娘)  勧善訓蒙暗唱講義並習字英文翻訳
 広瀬常(入学時16 旧幕臣の娘)            史畧暗唱講義並習字裁花
 神尾栄(入学時15 旧会津藩士・開拓使中主典の娘)   史畧暗唱講義並習字裁花

 当日のそれぞれの発表内容なのですが、勧善訓蒙は、箕作麟祥訳述の『泰西勧善訓蒙』、史畧は大槻文彦訳述の『萬國史畧』だろう、と思われます。
 常の年齢が二つさばを読んだものであったことは以前に述べましたが、他はわかりません。
 申告した年齢で、入校時に9歳から16歳までと幅広く、当然、年齢が高い方が優秀だということはあるのですが、特にこの4人が、模範生であったみたいです。
 この日、女生徒で最優秀に選ばれましたのは、福島照と神尾栄でした。

 河内山氏は、神尾栄の作文二編を一部分、収録してくださっていまして、常の作文二編は、「新修森有礼全集」に全文収録してくれています。同じ出題のものですので、くらべてみることができます。
 そのうち「地球四季の変化を起こす論」は、父母への手紙文の形で書くように、という注文があったもののようで、神尾栄のものは、以下です。

「天ハ丸クシテ動キ地ハ方ニシテ静カナルモノト存スレドモ只今ニテハ毎度申上候トオリ当校の御高恩ヲ戴キ勉強イタシテ居リ候ママ地球ノ自転公転イタシ候モノト存ジ候……」
「天が丸くて動き、地が四角で静かなものと思っていたのですが、今は、いつも申し上げております通り、開拓使学校の御高恩をいただいて勉強しておりますので、地球が自転公転しているのだと知るようになりました」

 この部分しか載っていませんので、即断かもしれませんが、とても素直で、お行儀のいい文章だと思えます。
 一方の常なんですが、これがおもしろいんです。前後の挨拶文をはぶいて、引用します。
 
「……私事も四季の変化いたし候ハ何れの所より生し候と考へ様々な書物を見候ても固より愚なる私故なかなか解し候まま皆殿方ニ伺候所其仰せにハ地球太陽の周囲お公転する時日光を真直ニ受時有り、又ハ斜に其光を受るニ従ヒ春夏秋冬を生し候事御仰せ被下候へ共御満へ様御事如何お目しにあそハし候也伺度存候……」
 「私、四季が変化するのはどういう理由によるのかと考え、様々な書物を読んでみたのですが、もともと馬鹿ですからわかりませんで、殿方に伺ってみましたの。その仰せでは、地球が太陽の周囲を公転する時、日光をまっすぐに受けるときがあるけれども、だんだん斜めに受けるようになって春夏秋冬が生まれるのだということですの。どう思われます? ご感想をうかがいたく存じております」

 他の作文もそうだったのかどうかわからないのですが、常は、両親に問いかける形をとり、それに対する返信まで、作文しています。同じく、前後の挨拶を省きまして。

「……今日ハ又無すかしき御尋に預り真ニ當惑いたし候へ共、しかし愚考にハ地軸正しく其黄道に直立せすして太陽の周囲を公転するにより四季の変化を生し候事と存をり候へ共未た其の実を存せす候まま宜しく察被下度願上参らせ候……」
「今日はまた、なつかしいお尋ねだね。困ってしまうが、地軸が正しく黄道に直立していないので、太陽の周囲を公転すると四季の変化が生まれるのだと理解しているけれど、事実がどうなのかは確かめたことがないので、察してくれることを願います」

 い、い、いや、なんか……、すごいです!!!
 茶目っ気があって、才気があって、理解力にすぐれ。
 しかし案外、律儀で端正な神尾栄女と仲がよかったりしまして。
 ともかく、惚れ直しました。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき11

2010年10月24日 | 森有礼夫人・広瀬常
広瀬常と森有礼 美女ありき10の続きです。

 まずは河内山雅郎氏がお送りくださいました原本の画像から。

 

 「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長屋 静岡縣士族広瀬冨五郎長女 広瀬常女 申歳拾六」

 fhさまのご指摘通り、「長屋」でした! ありがとうございます。

 となりますと、「女学校生徒俵」の方には、「宿所 第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」と、ありまして、開拓使女学校時代の広瀬家の住まいは、元大洲藩上屋敷、加藤泰秋邸の門長屋であった、と断言できます。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上を書きましたときから、青石横丁が小三区ではありませんことにとまどい、あるいは元大洲藩邸の門長屋なのでは? と思いつつ、確証のないまま、広瀬常と森有礼 美女ありき1で、妄想の形で書いたことだったんですが、はっきりしたと思います。

 下は、「明治八年 東京区分絵図」の第五大區部分です。(江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京 (古地図ライブラリー)より)




 地図の真ん中左手、細く水色で塗っていますのが青石横丁です。西黒門のあたりから、下谷中徒町を元大洲藩邸「加藤家」に向かっています。この緑色で塗られた部分は七小区です。
 赤い線が小区の境界でして、六小区と三小区が同じ紅色で塗られていてわかり辛いのですが、「加藤家」のすぐ上の路地に赤い境界線がありますので、「加藤家」は三小区です。
 そして、緑ベタの七小区と紅ベタの三小区の堺を縦に走っています通りが、泉橋通です。地図は切れていますが、この通りをずっと下へたどりますと、神田川にかかる和泉橋があるんです。
 つまり、当時広瀬一家が住んでいましたのは、青石横丁の突き当たり、泉橋通に面した、加藤泰秋邸の門長屋、ということになります。住所でいえば、三小区下谷徒町です。
 明治8年の加藤泰秋邸の敷地は、幕末の東都下谷絵図の大洲藩上屋敷の敷地を、そのまま保っています。
 加藤泰秋は、珍しく、大正時代まで、この上屋敷を自邸にしておりまして、広瀬一家が加藤家の長屋に住んでいたといいますことは、後述しますように、加藤家に傭われていた可能性が、非常に高いのです。

 で、前回書きましたが、武田斐三郎が住んだと思われる元大洲藩中屋敷なんですが、「加藤家」の右、陸軍造兵司御用地(元佐竹右京太夫上屋敷)の左の区画にありました。住所は下谷竹町です。この明治8年の地図では、消えています。

 次に、広瀬寅五郎の職歴です。

広瀬寅五郎 子年四十三 高三十俵三人扶持内○二人扶持元高○扶持御足扶持外役扶持三人扶持 本国生国共下野
 嘉永七寅年十一月御先手紅林勘解由組同心 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役 元治元子年四月講武所勤番被仰付候 ○田安仮御殿於焼火之間○衆中○被仰渡 同年五月講武所勤番組頭勤方見習○候旨井上河内守被仰渡候段沢左近将監申渡 同年八月箱館奉行支配定役被仰付候御書付被仰渡候旨赤松左衛門尉申渡候


 これにつきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき1の内容を訂正しなければいけないことが、かなりあります。

  まず、御先手紅林勘解由組同心なんですが、紅林勘解由について調べてみましたところ、紅林桂翁(勘解由)が弘化4年(1847)に御先御鉄砲頭(御先手筒頭)になっていまして、安政3年(1856)に病気で引退しますまでこの役についています。
 紅林勘解由の名と家督を継ぎましたのは、どういうわけか実子の養子、つまりは養孫だったようでして、この人が砲術教授方を勤めていますので、フランス兵式に関係していますのは、こちらのようです。

 次いで、箱館奉行所の職制について、わかっていなかったことが多々ありまして、以下、参考書は新北海道史二巻 通説一(昭和45年、北海道編集発行)です。
 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役「調役下役」は、安政6年(1859)4月に「定役」と改称されました。「出役過人」の部分は、意味するところが、いまだによくわかっておりませんで、どなたか、ご教授のほどを。
 ともかく、安政何年かに箱館奉行所に転任になりました時点で、寅五郎は、すでに同心からぬけだし、定役か、それに近い身分になっていた、ということのようです。
 以下に、函館奉行支配の属使を身分順にあげます。

 組頭 組頭勤方 調役 調役並 調役下役元締 調役下役(定役) 同心組頭 同心 足軽

 もう一つ、箱館奉行所の定役といいましても、箱館在勤とは限らず、室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の10支所に長として調役が配され、そのうち室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷には、それぞれ3~5個所の調役下役(定役)常駐支所があり、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の調役の下にも、それぞれ2~4名の調役下役(定役)がいた、ということです。各地、その調役下役(定役)の下に同心、足軽がいます。
 これに箱館在勤者が加わりますから、調役下役(定役)は数十人にのぼったわけです。

 幕府が、安政2年(1855)、松前藩の支配としていました蝦夷地(北海道)の大部分を再上地させ、箱館奉行の管轄としましたときから、もしかしますと、武芸がすぐれている上に事務処理に長けた者が、僻地勤務覚悟で箱館奉行所赴任を志願しますと、同心身分からぬけ出しての出世が早かった、のかもしれません。

 で、広瀬寅五郎=冨五郎としまして、です。
 明治5年に元大洲藩主・加藤泰秋に傭われているらしいことについて、勝之丞さまからアドバイスをいただきました。
 同心株を買ったということは、樋口一葉の父親と同じく、財産管理の事務処理において、かなりのやり手だったのではないか、ということなんです。
 さっそく、下の本を読み返してみました。

 
樋口一葉 (1960年) (人物叢書 日本歴史学会編)
塩田 良平,日本歴史学会
吉川弘文館


 甲州の中農の家に生まれた一葉の父・大吉(則義)は、同村の娘・あやめと惚れあいましたが、あやめの親が結婚を許さないままに、妊娠8ヶ月。駆け落ちして江戸へ出て、まず幕臣株を買って蕃書調所に勤務していた郷里の先輩を訪ね、大吉はしばらくそこで働き、あやめは子供を産んだ直後から、旗本の家へ乳母奉公に上がります。
 次いで大吉は、大番組与力に仕えて一年ほど大阪城勤めをし、江戸に帰って、勘定組頭・菊池氏の個人秘書を務め、菊池氏が大目付兼外国奉行に昇進すると、公用人に抜擢されたといいますが、この間、あやめは奉公をやめて、菊池邸内の長屋に、夫とともに住むようになりました。
 大吉は、これによって同心株を買うだけの蓄財をしたわけなのですが、定められた武家奉公の給金だけで、貯まるものでもないでしょう。
 武家奉公には、その家の管財も含まれます。
 大吉が同心株を買って、陪臣ではなく、幕臣となりましたのは、慶応3年のことで、翌年には明治維新です。
 大吉は、そのまま新政府に仕える道を選び、やがて東京府の役人になりますが、明治9年に免官となった後、金融、土地売買、近所の寺院の貸地の差配などをしたといいます。

 おそらくは、なんですが、広瀬寅五郎もそういった武家奉公で蓄財し、同心株を買ったのでしょうし、土地売買や貸地の差配など、財産管理の能力を買われて、明治4年の廃藩置県で、財産整理の必要があった加藤家に傭われたのではないのでしょうか。
 娘の常が森有礼と結婚して後の話なのですが、広瀬秀雄が、森家の財産、家政管理をしているらしいことが、有礼の家族宛書簡(「新修森有礼全集」収録)でうかがえます。
 以前にも書きましたが、当時の高級官僚はものすごい俸給をもらい、かつての大名屋敷の払い下げを受け、暮らしも財産も小大名級なんです。江戸の武家奉公で財産管理に慣れ、本物の大名・加藤家のそれも任されていたとしましたら、有礼の信頼を得たのも、頷けるように思うのです。

 最後に、あるいは妄想のしすぎかもしれないのですが。「大洲市誌」によりますと、明治24年(1891)、常が有礼と離婚して5年後のことになるのですが、加藤泰秋は突然、北海道虻田郡幌萌に広大な農場、真狩村にもっと広大な牧場を買い、かつての大洲藩領から開拓民を募りました。これって、広瀬秀雄がらみではないのだろうか、と、ふと思ったりしました。

 続きます。

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広瀬常と森有礼 美女ありき10

2010年10月20日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき9の続きです。
 とはいいますものの、今回、内容の上からは、広瀬常と森有礼 美女ありき1の検証、ということになりまして、実は、お常さんの父・広瀬秀雄について、新たな資料が見つかったんです!

 国会図書館の蔵書の検索をかけましたら、河内山雅郎氏の「開拓使仮学校女学校ー幻の北方帝国大学女子部」という本が出てきまして、2010年1月、今年の発行です。見たい!と思ったのですが、他で検索をかけてもまったく出てこない本でして、新しい本ですから、オンラインでまるごとコピーをしてもらうこともできません。
 結局、国会図書館へ出かけました。
 驚いたことに、手作りのコピー本だったのですが、実によく調べられたすぐれものです。
 他にも見たいものがたくさんあり、時間が限られていたものですから、ざざっと見て、必要な部分のコピーを頼みました。
 なによりの収穫は、明治5年の「女学生徒入校願」という書類です。
 これまで、私が読みました限り、開拓使女学校の生徒名簿のようなものは、明治6年9月の「女学校生徒表」のみでした。そこに出てきます広瀬常に関する情報は、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上に書いていますが、河内山氏のご著書から再録しますと、以下です。

 宿所   第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門
 拝命入校  壬申(明治五年)九月十八日同十月十九日
 本貫生國  静岡県武蔵
 父兄引請  父士族 広瀬秀雄
 年齢    明治六年九月、十六年四ヶ月


 これが、ですね。一年前の「女学生徒入校願」によりますと「広瀬常 広瀬富五郎長女」になっているというのです!!!
 「うわあああああっ! 富じゃなくて、寅の可能性はないのっ???」と思った私は、収録されております原本の写真を必死になって虫眼鏡で見たのですが、コピーのコピーのコピーであります上に、小さすぎまして、さっぱりわかりません。
 突然、ご迷惑ではなかろうかと思いつつ、がまんしきれず、著者の河内山氏にお電話いたしました。
 河内山氏は、快く応対くださり、なんとこの本が10数冊作っただけのものだとわかったのですが、なんて……もったいない!!! 私、開拓使女学校についてのこんなに詳しい本は、初めて見ましたのに。

 河内山氏は、北海道大学文書館所蔵の原本をデジカメにおさめられたそうでして、ありがたいことに、問題の個所を印刷して送ってくださるとお申し出くださいました。
 待ちきれず、ご著書の小さな写真を、スキャナーで取り込み、拡大いたしましたのが下です。

 

「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長雇 静岡縣士族広瀬富五郎長女 広瀬常女 申歳拾六」

 確かにこれは、どう見ても、寅五郎ではなく富五郎です。
 しかし、開拓使の役人が聞き取って書いた書類と思われますだけに、広瀬秀雄=寅五郎の可能性は、格段に高まるのではないでしょうか。
 もう一つ、「加藤泰秋長雇」の部分なんですが、「雇」と読んでいいのかどうか、自信がありません。もしかして、「住」なんでしょうか? どなたか、ご教授のほどを。
 加藤泰秋は、最後の大洲藩主です。

  俄然、広瀬常と森有礼 美女ありき1でご紹介しました下の本の広瀬寅五郎の経歴を、もっと子細に検討してみよう、という気になりました。

江戸幕臣人名事典
クリエーター情報なし
新人物往来社


 広瀬寅五郎 子年四十三 高三十俵三人扶持内○二人扶持元高○扶持御足扶持外役扶持三人扶持 本国生国共下野
 嘉永七寅年十一月御先手紅林勘解由組同心 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役 元治元子年四月講武所勤番被仰付候 ○田安仮御殿於焼火之間○衆中○被仰渡 同年五月講武所勤番組頭勤方見習○候旨井上河内守被仰渡候段沢左近将監申渡 同年八月箱館奉行支配定役被仰付候御書付被仰渡候旨赤松左衛門尉申渡候


 以上ですべてですが、○は原本が虫食いかなにかで、読めないみたいです。
 まず年齢なのですが、最初、無知にも、この記録を作りました時点で子年生まれの43だった、ということなのか、と思ったのですが、「子四十五歳」「丑年四十三」」などという人物もいて、ちがうみたいなんですね。
 どうも、載っています職歴の最後の年にいくつだったか、ということみたいでして、とすれば、元治元年(1864)甲子に43歳です。これは数えでしょうから、文政3年(1820)の生まれ、だったのでしょう。
 としますと、嘉永3年(1850)の敵討ちのときに、満30。嘉永7年(1854)、同心になったときには、すでに34だったわけです。
 また、職歴の最後が元治元年ですから、元治元年の4月に講武所勤番となって箱館から江戸へ帰り、同年8月には支配定役となって再び箱館勤務となったわけです。実に慌ただしいのですが、これが、調べてみますとどうも、武田斐三郎に同行していたらしいのです。

 つまり、広瀬常と森有礼 美女ありき1で、以下のように妄想いたしましたことが、かなり信憑性をおびてきます。

常が、3つから9つの年まで函館で過ごしたとなりますと、その間に五稜郭の新しい奉行所ができたことになりまして、父親の秀雄は、大洲藩出身で五稜郭設計者の武田斐三郎と知り合っていたかもしれませんし、だとすれば、開拓使女学校時代の常の東京の住所、「第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」というのは、大洲藩邸の長屋に住まわせてもらったのかもしれなかったり

 武田成章(斐三郎)は伊予の出身者ですので、近くの図書館に伝記があります。
 以下、参考書は、愛媛県教育委員会編「愛媛の先覚者」(1965年)と、白山友正著「武田斐三郎伝」(昭和46年 北海道経済史研究所発行)です。

 斐三郎は、伊予大洲藩(6万石)の下級藩士の次男として、文政10年(1827)に生まれました。兄の亀五郎敬孝が7つ年上で、広瀬寅五郎と同じ年です。
 父親が早くに死に、次男であったため、斐三郎は母方の家業である医者を志して、弘化5年(1848年)大阪の緒方洪庵塾に入門しますが、蘭学を学ぶうち、洋式兵学に関心をよせます。2年先輩に大村益次郎がいますし、時代が時代ですから、医学より兵学、という流れだったのでしょう。
 嘉永3年(1851)、緒方洪庵の紹介により、江戸の伊東玄朴のもとに身をよせ、佐久間象山門下となります。
 嘉永6年(1853)、ペリー来航。同年、斐三郎は幕府に出仕し、同時に、長崎出張となり、ロシア船の応接に参加。翌嘉永7年(安政元年 1854)、箱館出張。そのまま箱館詰となり、軍備顧問と来航外国人の応対を務めることになりました。

 嘉永7年の日米和親条約は、アメリカ船の寄港地として、下田と箱館を開港する、というものでして、条約締結直後、さっそくペリー艦隊は箱館に寄港します。斐三郎の箱館出張も、そのためだったわけなのですが、同年、ロシアのプチャーチンが箱館来港。
 プチャーチンは全権を帯びて、ペリーと並行して日本に条約締結を迫っていました。ところがその嘉永6年、クリミア戦争が勃発し、極東においてもロシアは英仏艦隊と対峙することとなり、プチャーチンはそれを警戒しながら、慌ただしく日本に開港を迫ることとなったのです。

 クリミア戦争の極東における戦いにつきましては、wiki-ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦をご覧下さい。
 この記事には、「1855年5月に英仏連合艦隊は再度ペトロパブロフスクを攻めたがもはや無人であった」と書いてあるのですが、にもかかわらず英仏艦隊は、多数の戦病者を出したらしいのですね。
 といいますのも、「武田斐三郎伝」によりますと、安政2年(1855)6月7日、仏艦シビル号が戦病者およそ40人を積んで箱館入港。同月14日には、同じく仏艦ウィルギニー号が入港。函館奉行・竹内下野守は、両艦乗組員の上陸を許可し、シビル号の戦病者については、実行寺を開放して療養を認めます。この厚遇を伝え聞いたためか、7月29日、長崎へ向かっていた仏旗艦コンスタンチン号が入港。
 英艦も入港したようなのですが、なにしろ仏艦は傷病者の治癒を待ちましたので、長期滞在。
 この機会を、斐三郎が見逃すわけはありません。
 軍備について、わけても砲の製造について、コンスタンチン号の副艦長に指導を乞いました。
 フランス側は大乗り気で快諾し、斐三郎はこのときから、フランスと縁を持ちました。

 また副艦長は、長崎の防備の薄さを指摘し、堡塁構築の必要を語ったというのですが、それにかぶせて艦長は、首都パリ防衛のための要塞の有様を述べ、その図面が船中にあるから写し取ってかまわない、と言ったんだそうなのです。
 いきなりパリかよ!!!なんですが、実はこれが、五稜郭建築に向けて、どうも、大きく影響したらしいのですね。
 当初は、港湾防備のための堡塁の建設と、奉行所の施設は、別なものにする予定だったのですが、どうもこのときから、ヴォーバン式(稜堡式)要塞が浮上し、その中央に奉行所が位置することとなったようなのです。
 いったい……、どんな図を見せられたのかわかりませんが、竹内奉行の脳裏には、防備堅固で美しく生まれ変わった箱館の姿が浮かび上がり、計画は壮大になっていったんでしょうね。
 で、数年後、実際に遣欧使節としてパリを訪れた竹内下野守は、どんな感慨を持ったのでしょう。
 五稜郭は、資金不足で中途半端なものとなり、設計者の斐三郎が悪くいわれたりもしてきたのですが、斐三郎が責任を負うべき話ではないでしょう。

 話がそれましたが、11年間、箱館に勤務した斐三郎は、五稜郭や弁天台場などの設計を手がけるとともに、溶鉱炉の開発にも従事。そのかたわら、安政3年(1856)には諸術調所を開いて、洋式兵学を教えます。砲術、航海術、測量術、聞きかじりの英語、ロシア語です。生徒は幕臣に限りませんでしたので、長州の山尾庸三、井上勝も、弟子になっています。
 斐三郎が英語を、函館在住のアメリカ人に学んでいたことは伝えられているのですが、フランス語については、伝えられていないようです。
 しかし、どうなんでしょうか。前述のフランス軍艦との接触がありますし、安政6年(1859)の暮れにはメルメ・カションが箱館に着任します。斐三郎は、江戸転任となった後、フランス軍事顧問団のもとで仕事をし、維新直後にはどうやら、フランス語を教えているようですので、箱館時代から習っていたのではないか、と推測してもよさそうです。

 さて、広瀬寅五郎です。原本虫食い状態で、安政の何年に箱館に赴任したのかは、わかりません。
 しかし、どうやら確実に、斐三郎と親しくはしていたようなのです。
 斐三郎は、元治元年(1864)4月、江戸出張を命じられます。蝦夷巡察中の迅速丸に便乗して、5月に江戸着。7月23日付けで開成所教授に任じられ、挨拶と引っ越しのため箱館へ戻り、8月、箱館を離れます。
 つまり、元治元年の寅五郎の江戸転任は、斐三郎の足取りとぴったり重なり、共をしていたものと推測されるのです。

 斐三郎の開成所教授は長くは続かず、同年、大砲製造頭取。以降、維新まで、大砲の国産化に取り組み、慶応3年(1867)春からは、フランス軍事顧問団のもとで、ナポレオン砲製造の技術を習得しようと奮闘します。
 斐三郎の兄、敬孝は、大橋訥庵門下にいたこともある勤王家で、大洲藩周旋方として京にあり、薩長側について活躍していました。藩主・加藤泰秋の姉が長府毛利氏に嫁いでいたりもしまして、小藩ながら、王政復古のクーデター、鳥羽伏見にかけて、鮮明に反幕陣営に与したんです。
 幕府倒壊にあたって、斐三郎は出身藩の動向とも無縁でいられず、身を潜め、結局、明治元年の暮れに松代藩に招かれ、フランス式士官学校の教授を務めます。明治2年8月、開拓使からお呼びが掛かりますが断り、翌3年暮れ、松代士官学校廃校により、東京へ。当初は、松代藩邸にいて、一ヶ月ほど桜田門外旧井伊邸にいたのち、下谷竹町に居を定めました。
 ところで、大洲藩の中屋敷は、上屋敷のすぐそばにあり、この一帯、下谷竹町と呼ばれていたんです。

goo古地図 江戸切絵図 東下谷-1

 ここでどうも、斐三郎はフランス語の私塾を開いていたらしいのですが、明治4年(1871)4月、フランス兵式を採用した兵部省からお呼びが掛かり、出仕の運びとなりました。

 一方の広瀬寅五郎なんですが、慶応2年(1866)の函館奉行所履歴明細短冊には、定役として名前が見えます。
 しかし、杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」、慶応3年の暮れからの部分を、国会図書館でコピーして見てみたのですが、杉浦奉行とともに箱館を引き揚げた中に、広瀬寅五郎の名はありません。
 どうも、感触としましては、慶応3年中に役職が変わって江戸へ帰っていたのではないのか、という気がします。静岡県士族、ということは、そのまま新政府に仕えたわけではなさそうだから、です。
 で、明治5年に元大洲藩主・加藤泰秋に傭われ、大洲藩上屋敷に住んでいたのですから、これはどうも、斐三郎の世話だったのではないのか、他に大洲藩との接点はないだろう、と思うような次第なのです。

 続きます。

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映画「海角7号」君想う、国境の南

2010年10月16日 | 映画感想
 「半次郎」で、そういえば去年も東京で映画を見て失敗したなあ、と思い出しました。
 
 
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 かなり期待していたのですが。ひたすら眠くなった駄作です。
 アマゾンのレビューの中で、男性の方が「スッキリとした満足感からはほど遠かった。 自分が男性だからかもしれないですが」と書いておられますが、いいえ、男性だからじゃありません。女が見ても駄作は駄作です。
 「特にトム・ルフロイ(ジェームズ・マカヴォイ)には、八割がた共感できなかった」って、まったく同感です。ついでに、アン・ハサウェイ演じるジェインにも。
 この監督さん、「情愛と友情」や、BBCドラマ「大いなる遺産 」は、なかなかよかったんですのに。
 ついでに言えば、「つぐない」のジェームズ・マカヴォイはよかったですし、「プラダを着た悪魔 」のアン・ハサウェイもステキでしたのに。
 ほんとうに、映画ってわからないものです。

 口直しに、期待が裏切られませんでしたお話を。
 今年見た映画の中で、といっても、今年はほとんど映画館に足を運んでいませんので、最近見た新作映画の中で、と言い換えた方がいいんですが、台湾映画「海角七号/君想う、国境の南」は、いい映画でした。
 松山へ来るかどうか心配していたのですが、「長州ファイブ」をやってくれた小劇場に、今年の春になってかかったんです。これだけはと、時間を作って見に行きました。

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【台湾映画】『海角七号/君想う、国境の南』日本上映(公開)予告PV



 YouTubeで本編の一部もたっぷり見て、ネット上でさんざん評判も読んで、映画としての出来に危惧がなかったわけじゃあないんです。

 60数年前、日本の敗戦によって台湾を引き上げた日本人の若い教師が、教え子の台湾人女性・友子に恋をし、心ならずも彼女を残して台湾を離れ、その思いのたけをつづったラブレターを、出すことなく生涯を終えました。父親の遺品の中にそれを見つけた娘が、初めて若き日の父の思いを知り、手紙をそえて、「海角七号」という植民地時代の台湾の住所に発送します。
 そして現代。台北でバンドデビューをめざしたアガが、夢破れて故郷の恒春へ帰り、郵便配達のアルバイトをして日本から来た古いラブレターの束を手にしますが、60年の歳月は長く、その住所に彼女はいません。
 故郷に居場所を見いだせず悶々としていたアガは、町起こしのための地元バンド結成騒動にまきこまれ、個性的なバンドメンバーたちとの奮闘の中で、自分をとりもどしていきます。
 現代の日本人女性・友子は、台湾でモデルになる夢が破れ、行きがかり上、素人バンドのマネージャーをすることになったのですが、次第にアガに引かれ、同時に行き先のわからない古いラブレターの存在を知ります。

 昔の恋人たちの思い出を、現代の恋人たちが共有するわけなのですが、現代の話は、恋物語よりも、素人バンドのメンバーたちのそれぞれの表情を、コミカルに描く方に重点がおかれ、しんみりとした過去の話とうまくとけあっていない、というような批評も見受けられましたし、現代の日本人女性がヒステリックに描かれすぎて、感情移入できない、という感想もありました。
 実際、現代日本人役の田中千絵、けっして上手い演技ではないですし、過去の日本人教師と、現代ではシンガーとしての本人、二役を演じる中孝介も、なぜか本人役の方のセリフが、妙に素人くさすぎたりもしました。
 しかしそんなことはどうでもよくなってくるほどに、熱いものが伝わってくる映画でした。
 
 見ていて、思わず「これって、ナッシュビル!」と叫びそうになったくらいで、ひさびさに、ロバート・アルトマンの傑作「ナッシュビル」を思い出しました。
 アメリカのカントリーミュージックのメッカ・ナッシュビルで、大統領選挙のキャンペーン・コンサートが行われることになり、全米から人々が集まってきます。24人の5日間を追った群衆劇です。シニカルな、突き放した描写で、断片的なエピソードを積み上げながら、「アメリカ」という国のあり方を、切り取って見せてくれました。
 確かにアルトマンは、登場人物を冷笑の対象として描いているのですが、見終わると不思議に、「ああ、人間はみんな、必死になって生きているんだよなあ」とでもいった感慨に満たされます。
 ラスト、田舎出の歌手志願のさえない女が、偶然の成り行きから大観衆の前でマイクを持ち、ド迫力な歌声だけで巫女のように場を支配してしまう、その圧倒的な歌の力が、愚かな人間たちが織りなす欲望の混沌でさえも、愛しいものに変えてしまったのだと……、そんな気がするんですよね。

 『海角七号」のテーストは、「ナッシュビル」とはまったくちがいます。
 混沌は混沌なのですが、登場人物それぞれにそそがれる視線は、ふんわりと、暖かなもので、むしろ感傷的でもあり、わかりやすく、楽しいドラマに仕上がっています。
 ただ、『海角七号」が描いているのも、「台湾」という国のあり方なのです。
 主人公のアガもそうなのですが、バンドメンバーには複数の少数民族がいます。
 台湾という九州より小さな国は、多民族移民国家です。

 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編で書きましたが、清朝が台湾を領有したのは、明治7年(1874)の日本の台湾派兵に衝撃を受け、その直後に派兵し、現地人(現在の少数民族)を虐殺してからのことでして、明治27年(1894)の日清戦争により日本の領有となりますまで、わずか20年でした。
 もちろん明の時代から、大陸からの移民はいたのですが、客家をはじめ(李登輝元総統がそうです)、福建、広東からの移住がほとんどですから、北京官話とは縁がありません。
 共通の言語がなかったところで、日本の統治がはじまり、台湾の公用語は日本語になります。
 そして50年。日本の敗戦で、中華民国領となり、公用語は突然、北京官話となるんです。
 そしてこの映画は、国語である北京官話ではなく、台湾語が主である、といいます。

 小数民族をも含む台湾という国のアイデンティティは、中国にあるのでしょうか?
 決して、そうではないでしょう。
 台湾では、西洋近代化の受け入れが、清朝、日本、中華民国と、他国の支配のもとで、他国の解釈のもとに進みましたけれども、すべてを受け入れて消化し、日本の統治を離れた後は直接的なアメリカの影響も受け入れ、例え世界中が認めてくれなくとも、しかし、あるがままに台湾は台湾であるという、自然なアイデンティティが育ちつつあるように見受けられるのです。
 アメリカのカントリーミュージックが、良くも悪くもアメリカのものでありますように、日本統治時代に伝えられた西洋音楽・シューベルトの野ばらは、過去と現在をつなぐ台湾の歌として、最後の大合唱となり、「ああ、人が生きるってことは、愛おしいことなんだよね」と、見る者をじんとさせてくれるのではないでしょうか。
 なんといえばいいんでしょう。そうですね……、ローカルなものの力は、最終的に普遍をも抱き込みえるのではないかと、夢見させてくれたことへの感動、なのかもしれません。

 日本人として、泣かずにいられませんのは、日本の統治を離れ20年以上経って台湾に生まれた魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督が、古いラブレターの一節として、次の台詞を入れてくれたことです。

友子、悲しい味がしても食べておくれ。君にはわかるはず。君を捨てたのではなく、泣く泣く手放したということを。皆が寝ている甲板で、低く何度も繰り返す。「捨てたのではなく、泣く泣く手放したんだ。」と。

 
街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
司馬 遼太郎
朝日新聞社


 司馬遼太郎氏は台湾紀行で、昭和6年(1931)の台灣代表として夏の甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林の名選手・上松耕一のことを書いておられます。「上松耕一」と日本名ですが、日本人ではありません。当時高砂族と呼ばれた台湾の山岳小数民族でした。
 昔、これを読んで調べたのですが、嘉義農林を甲子園初出場、準優勝に導いたのは、戦前・戦後を通じて長く甲子園の強豪だった松山商業出身の近藤兵太郎監督でした。「松山の人が!」と、びっくりしたものでした。
 日本人、大陸系台湾人、高砂族の混成チームでしたが、主力は、身体能力にすぐれた高砂族だったんです。
 この快挙に、当時の新聞で、菊池寛は「僕はすっかり嘉義びいきになった。異なる人種が同じ目的のために努力する姿はなんとなく涙ぐましい感じを起こさせる」と語っているそうです。
 上松耕一は、日本統治時代に結婚し、日本が去った後には、否応もなく中国名に変わりましたが、母校に奉職し、子供に恵まれ、司馬氏が台湾を訪れたときには、世を去っていました。
 司馬氏は、その未亡人・蔡昭昭さんと会食をするのですが。以下、引用です。

 宴が終るころ、昭昭さんが、不意に、「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と、ゆっくりといった。美人だけに、怨ずるように、ただならぬ気配がした。私は意味もなくどぎまぎした。

 司馬氏は、これに答えることができませんでした。
 日本人ならば、思っても口にすることができ難いその答えを、台湾人である監督が、語ってくれたのです。
 
 私は、日本統治時代の日本が、国家の実力以上に台湾経営につくしたことはみとめている。
 むろん植民地支配が国家悪の最たるものということが、わかった上でのことである。


 と司馬氏がおっしゃるように、差別のない統治だったわけではありません。いえ……、むしろ朝鮮半島よりも、差別は大きかったのです。
 また近代化の押しつけは、霧社事件を初めとする現地人の抵抗をも生んでいます。
 そして、日本の後に居座った中国国民党の統治が暴政だっただけに、日本を懐かしむ台湾の日本語世代を、しかし戦後の日本は、ふり向こうともしませんでした。

 台湾紀行は、週間朝日に、平成5年(1993)から翌年にかけて連載され、司馬氏は、民主化に手をつけはじめていた李登輝総統と親しくなり、旅の途中でも気さくなその姿が活写されていますが、最後に、衝撃的な対談をしました。日本語世代の台湾人である総統は、このとき初めて、日本語によって、台湾という国のアイデンティティを語りました。
 このことは、中国の怒りを買ったのですけれども、司馬氏はこのとき、総統の決意に渾身の共鳴を示すことで、昭昭さんへの、せめてもの返答となさったように思えるのです。

 ささやかな台湾のアイデンティティは、チベットやウィグルのように、どん欲な中華帝国に踏みにじられてしまうのでしょうか。
 台湾における『海角七号』の大ヒットが、未来へつながることを祈らずにはいられません。

 国会図書館から頼んでいたコピーも届きましたし、次回から、お常さんのシリーズにもどりたいと思います。

 
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映画「半次郎」を見て……。

2010年10月14日 | 桐野利秋
 書こうかやめようか、相当に悩んだんです。
 えーと、ですね。
 桐野が主人公の映画を、けなしたくはありません。
 しかも、西南戦争が起こった理由の描き方は、これまでのドラマや小説からすれば珍しいほど、私の見解と重なります。
 多くの方に見てもらえたら、と………、思わないではないのです。
 しかし、映画としての出来は、まったくもって、よくありません。
 いえ……、もし桐野が主人公でなかったならば、きっと私は、「見る価値無し!」と、斬り捨てていたでしょう。
 まあ、あれです。よく知っている内容でありますだけに、パロディとして見ることも可能ですから、楽しめなかったわけではないんですけどね。
 
 「長州ファイブ」から「半次郎」への続き、ということになるでしょう。
 行ってきたんです。東京まで、映画「半次郎」を見に。
 まあ、国会図書館に行きたくもあったんですが、どちらがついでかというと、国会図書館がついでかも、です。



 あー、なにがいけないって……、まず第一、榎木孝明が似合わないんです!
 最初から、不安は大きかったんです。俳優さんが役に入れ込んで映画を企画すると、往々にしてろくなことにならないんです。なぜかわかりませんが。
 小松帯刀が、身をやつして半次郎のふりをしている!とでもいうのでしょうか、品が良すぎて、どうにもしっくりきません。
 半次郎、つまり桐野って、妙に三枚目じみたところもあるはずなんですが、えー、ほんと、榎木さんでは、なにをなさっても笑えませんし。品が良すぎる上に、真面目すぎ、とでも申しましょうか。
 ごいっしょに映画を見ました大先輩・中村さま、Nezuさまとお話していまして、永山弥一郎をやったAKIRAの方が、イメージ近いかな、と。じゃあ弥一ちゃんはだれが? ということになるんですが、篠原国幹をやりました永澤俊矢がぴったりです。篠原はもう少しこう、和風のイメージでして。

 シナリオについて言いますならば、幕末をはしょるしかないのはわかるんですが、はしょるならいっそ、慶応3年(1867)の暮れからやればいいのに、と思ったんですのよ。薩摩の貧乏時代にはじまり、文久2年(1862年)の上京、とずっとやるものですから、青蓮院に長州藩士がしのびこんで、半次郎が斬り殺すなんぞというわけのわからないフィクションが焦点になってみたり。
 白文ならまだしも、当時は子供でも読んでいました書き下しが読めない、っていうのも、ねえ。
 それに、京で長州人に共鳴し、革命を志すんですから、孔子じゃだめです。吉田松陰の講孟余話の類を、実際に目にした可能性が高いです。

 あー、愛人・村田さと役の女優さん、京都弁が超下手。関東出身者とまるわかりですわ。まあ、いいんですけど。
 なんか、ですね。こう、愛人二人との関係もねちねちっとした感じで、桐野らしいさわやかさに欠けます。正妻・ひささんは出てこないし。
 男女関係がそうですから、肝心の男同士の情が、しみじみしません。
 桐野と弥一ちゃんの友情を、もっと前面に出して欲しかった。

 あと、陸軍少将時代が最低最悪、ですね。好色な鯰ひげの官吏になった、といわんばかりの描き方でして。
 こう、ですね。貧乏やって芋を作っているのと同じトーンで、豪快にフランス軍服をまとい、金銀装の儀礼刀をひらめかしますのが、桐野の真骨頂ですのに。
 西南戦争になって、少しほっとしたのもつかの間、なんとも軽すぎ、なんです。
 まあ、金がないのは仕方ないんですが、いくらなんでも官軍、臨場感なさすぎ、です。あー、なんで自衛隊にエキストラ頼まなかったんでしょう。いえ、せめて一ヶ月……、いえせめて一週間でもいいから、エキストラ全員、自衛隊で訓練してもらうべきでした。

 ただ一点、しみじみよかったのが、薩軍の少年戦士です。実にかわいい上に演技達者で、メインで描かれていた13歳の子もよかったのですが、最後に英語の本を持って死ぬ子もよかった……。
 もういっそう、西南戦争少年戦士物語にすればよかったのでは? と思いましたわ。

 えー、そして最大の不満は、主要人物の死に方くらいは語り伝え通りにやってくれ、です。
 弥一ちゃんは、小屋に火をかけて、炎の中で死んで欲しかった。
 桐野は、少年戦士を逃がし、堡塁でライフルをうちまくって、最後に抜刀して死んで欲しかった。愛人がすがりつくなんて、嘘はなしで。
 NHK大河ドラマの「翔ぶが如く」は、いろいろと描き方に文句はあったんですが、この桐野の最後の場面は、実に秀逸でした。

 海軍軍楽隊(薩摩バンド)が戦場で惜別の演奏をした場面は、悪くはなかったんですが、検索をかけてみましたら曲目についてはわからないみたいですし、ヘンデルの「見よ勇者は帰る」は、どーにも、表彰式のイメージが強すぎていけません。ここはもう! ぜひとも、帝国海軍軍楽隊の「告別行進曲」、つまりオールド・ラング・サインでいってもらいたかったのですが、それじゃあ、「長州ファイブ」といっしょになりますかね。

Daniel Cartier "Auld Lang Syne"


 Should auld acquaintance be forgot,and never brought to mind ?
 Should auld acquaintance be forgot, and auld lang syne ?

 かつての薩摩バンドが薩軍に贈るに、これほどふさわしい曲は、ないと思います。
 「告別行進曲」は、西南戦争のとき、まだ子供だった薩摩人・瀬戸口藤吉の編曲みたいですが、薩摩バンドと海軍軍楽隊のお師匠さんフェントンが、オールド・ラング・サインを教えないわけはないでしょう。子供の頃、城山最後の日、海軍軍楽隊の演奏するオールド・ラング・サインを聞き、耳底に残した瀬戸口が、後年、「告別行進曲」として編曲した、という推測は、成り立つように思うのです。

 あと、村田新八さんがアコーディオンで弾いていた「ラ・マルセイエーズ」ですけどね、ここで桐野が前田正名を思い出し「あいつは、パリで元気にしちょっかい」とかつぶやくと、個人的にはとっても満足だったんですが。

 最後に、テーマソング、平原綾香の「ソルヴェイグの歌」です。

my Classics2
平原綾香
ドリーミュージック


 ラストに桐野の死体にすがりついた愛人・村田さとさんの思いにかぶせているんでしょうけれど、もともと「ソルヴェイグの歌」は、奔放な男の帰りを故郷でじっと待つ妻の歌でして、意を決して男を追いかける愛人の歌じゃないですわ。

 桐野の死を……、そして西南戦争の終結とともに消えていった薩摩隼人たちを悼むにふさわしい歌といえば、これはもう絶対、The Last Rose of Summer、「庭の千草」です。

 The Last Rose of Summer in Kerkrade


 So soon may I follow, When friendships decay,
 And from Love's shining circle The gems drop away!
 When true hearts lie withered, And fond ones are flown,
 Oh! who would inhabit This bleak world alone?

 アイルランド出身のウィリアム・ウィリスはきっと、逝ってしまった懐かしい薩人たちを思い出して、この歌をうたったんじゃないでしょうか。
 アーネスト・サトウが、ぽんとその肩に手を置いて、なぐさめたんですのよ、きっと。
 ぜひ、平原綾香さんに、うたっていただきたかった!

 
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広瀬常と森有礼 美女ありき9

2010年10月08日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき8の続きです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 前編後編下で書きました、下の本が発売されました。

辛夷開花
植松 三十里
文藝春秋


 とばし読みしかしてないんですけれども。
 このお常さん、怖いんですっ!!!
 なんといいますか……、テーストは「徳川の夫人たち」文明開化判!!!
 えー、広瀬寅五郎=秀雄説をとっておられますが、函館奉行所履歴明細短冊(慶応二年)では定役ですのに、なぜか同心から調役まで出世して旗本、ということになっていたりしまして、常は旗本の一人娘で、美人で、いやーな感じにえらそーなんですの。

 しかも、ですね。
 「徳川の夫人たち」の主人公・永光院お万の方は、ですね。公家の娘の誇りはあっても、そこにとどまることなく、なぜ公家が落魄れているかを考え、与えられた環境でせいいっぱ自分を生かし、春日局との戦い方も見事で、秘めた恋にも共感がわくんですが、この小説のお常さんはただただ西洋かぶれの白人男好きでヒステリーな感じでして、「わあああああっ、無名のお芋ちゃんたちかわいそう!」「お里さんもお広さんも、かわいそう!」なんです。


 だいたい、森有礼全集を見ましたら、末っ子の有礼は明治3年に分家しておりまして、本家の跡取りは、有礼の長兄の遺児、有祐です。つまり広瀬常と森有礼 美女ありき2で書きましたが、クララ・ホイットニーが「「王子さまみたい!」「これほど洗練されて優雅な子はほかに日本にはいない!」「美の典型!」」と絶賛した有祐少年が本家の跡取りですし、その母が広さんです。なんでその広さんを、横山家の嫁にして、底意地の悪い同居親族に仕立てなければならないのか、まったくもって、私にはわかりません。
 文庫で読めます「勝海舟の嫁 クララの明治日記」では、ホイットニー一家の来日は明治8年8月で、森有礼と常の結婚式(2月)のときにはまだ来日していませんのに、していることとなり、まあ、それはいいとしまして、有礼の両親と広さん、有祐の本家一族は、有礼と常の新婚分家夫妻とは、別所帯だったらしいことが読み取れますのに、同居にしてしまい、気の毒な里さんは、西洋嫌いで、絵に描いた鬼婆のような姑にされてしまってます。
 えー、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上で、「常が明治8年12月30日、長男の清を生んだときに、取りあげたのは、シーボルトの娘イネではなかったか」と推測したんですが、ちょうど、そのわずか15日ほど後の平成9年1月14日、クララが同じ敷地の森本家を訪ねた描写があります。以下、「クララの明治日記」より引用です。

今日、神様のお顔を見、お手を感じる厳粛な出来事があった。森さんのおばあさま(里)は、先頃卒中におかかりになった。とても親切な方なので、私たちは皆気づかっていたが、悲しいことに、今にも去ってしまいそうな魂のために、木と石の神様に随分祈願をなさっておられる。昨夜お祈りの後で、母が有祐さんに、おばあさまはイエス様のことを聞いたことがおありになるかどうか尋ねると、有祐さんは、いいえ、と言った。母はいい種を蒔こうといつも心掛けているので、有祐さんにおばあさまがいつか、お祈りや、神様についての話をお聞きになりたいかどうかをうかがって下さい、と言った。有祐さんはお辞儀をして、聞いてみますと答えたが、間もなく走って戻って来て、おばあさまがすぐに母に来て欲しいと言っていらっしゃる。と言った。(中略) 森さんのお父さまと、背の高いお孫さん、それから日本人があと二人、一部屋で将棋を指していた。そして別の部屋に、屏風で仕切った陰におばあさまが、左側がすっかり麻痺しておられるので、とても苦しそうに寝ていらっしゃった。日本式の寝床なので、私たちはそばに坐り、ヒロ(広)と少し話をした。母がお祈りを始めると、部屋にいた人たちはは皆低くお辞儀をした。(後略)

 常の出産時、里さんは卒中で倒れ、半身不随になっていたことがわかりますし、中心になってそのめんどうを見ていたのは、本家の嫁である広さんであることも、はっきりします。里さんと広さん、二人して初産の常をいじめまくったって、どこから思いつかれたのやら。
 また広さんは、常より先にホイットニー一家と知り合っていますし、里さんは病床まで、ホイットニー夫人とクララを入れたんです。有礼の密航留学が決まったとき、「チェストー!!! 気張りやんせ、金之丞(有礼)!」と大喜びした里さんが、外国人嫌いのはずがないじゃありませんか。
 この翌日、クララはこう書いています。

今日、森さんのおばあさまから母にお祈りに来て欲しいとというお使いが来た。今度は通訳もつけていらっしゃり、ご自分の神様は信じる価値がないから、もっといいものが欲しいと言われた。

 まあ、ですね。ここらへんのクララの記述を読んでいますと、クリスチャンではない私などは、既成のプロテスタントもけっこうカルトじみてるなあ、と思うのですが、クララの母・ホイットニー夫人がとてもいい人で、里さんの身をほんとうに案じていたのはよくわかりますし、里さんはその博愛の情を感じとって、キリスト教に帰依してもいい、と思ったんでしょうね。
 おそらく、夫からか息子からか勧められて、八田じいさまの「大理論畧」を読んでいたでしょうし、有礼は「キリスト教の神も日本の神も同じだから」なんっちゃって理論を語っていたでしょうし、愛息のすることを、逐一理解するだけの教養を、里さんは備えていたと思いますわよ。単に、英語がしゃべれないだけで。



 で、なんといっても呆然といたしましたのが、「ライマンなんかに惚れるかあ、普通???」ってところでしょう。広瀬常と森有礼 美女ありき6で書きましたが、ライマンって、あきれた上から目線のいやーな男ですし、松本十郎は「常は断った」と回想しているんですし。
 おまけに、安の父親はゆきずりのアメリカ人設定で、恋する常はヒステリー状態。理解に苦しみます。
 最後に、私的には、「鮫ちゃんが出てこないっ!!!」が、けっこうな不満かな(笑) 鮫ちゃんは、有礼の魂の伴侶ですわよ。

 すみません。植松三十里さま。小説ですものね。同じ資料を材料にしましても、いろいろな書き方があるのは百も承知です。
 しかし、常を調べているうちに、里さんも広さんも大好きになりました私としましては、ちょっと黙ってはいられない気分でした。
 言いたいことを言い終えましたので、ギャグだと思って楽しむことにします。

 このシリーズ、続きます。

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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編下

2010年10月03日 | モンブラン伯爵
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上の続きです。

 今回のシリーズは、これまでにも何度か出して参りました、下の榎本洋介氏のご著書に誘発されましたものでして、デ・ロングと樺太問題が出てきたものですから、これをメモしておこうと思い、ただ、モンブランの件がそっくりぬけているのが残念、と書き始めたものなのです。

開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 デ・ロングについては、まだろくに調べておりませんで、ちらっとでも見ておこうとアジ歴で検索を書けましたら……、出てくるわ出てくるわで、調べている余裕がありません。
 結局、「柯太境界談判」をしらみつぶしに読む必要があるのでしょうけれど、私、学者じゃありませんし、誰かきっちり、明治初年の樺太問題と露英仏米外交について調べてまとめてくれっ!!!と、悲鳴をあげたくなりました。
 そんなわけで、ちょっと見た程度なんですが、アジ歴の「柯太境界談判」も材料に、このシリーズを締めくくりたいと思います。
 その前に、ちょっと、前回書き忘れましたことを。
 モンブランが短時間なりとも函館に滞在したとしましたら、おそらく、堀達之助に会ったでしょう。
 堀達之助は、長崎通詞の家に生まれ、ペリー来航時に活躍しました洋学者で、慶応元年(1865年)から箱館奉行所で通訳を務め、そのまま新政府に奉職。明治2年には開拓使権少主典として、函館にいました。彼の次男・堀孝之は五代友厚と親しく、薩摩藩士となって、幕末留学生を伴いました五代の渡欧に同行し、通訳を務めて、モンブランのインゲルムンステル城に滞在したんです。

 で、本論ですが、まず、前回の以下の部分です。

此度佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候処右地方境界凡先年徳川ノ頃五十度ニテ相定メ云々ノ談判モ 有之当事政府ノ論ニテハ境界之処 如何之庁議一決ニ候哉同人心得迄に承置度段申出候ニ付 其段当月八日外務卿殿より岩倉大納言殿エ被申入御返答承之上 同人出帆之都合ニて出立見合せ此程中より築地ホテルに旅宿いたし日々宿料相掛候下知を相待居候 右は過日も認メ上候通同人儀来夕給料等も不被下儀ニて御用向相勤候事故御沙汰以来滞在中之宿料丈ケハ相当ニ不被下候ては相成間敷 就ては御下知速緩ニ相成候得は一同ハ一日丈ケノ御失費も相懸かり候

 えーと。いいかげんな口語訳です。ちがっていたら、ごめんなさい。
「このたびフランス人モンブランを我が国の弁理職に任じたことではあり、樺太が日露雑居になっている件について交渉することを命じました。樺太の日露国境について幕府は50°線で定めようと交渉してきた経緯があり、モンブランから、今の政府もそういう交渉でいいと庁議ではっきり決めているのか心得までに聞いておきたいと言ってきたので、10月8日、沢外務卿から岩倉大納言へ申し入れました。返答があってからと出発を見合わせておりまして、10月半ばから築地ホテルに泊まっています。モンブランは給料も受け取らず御用向きを務めるわけで、宿泊料くらいは払わないわけにはいかず、返答が一日のびればそれだけ費用もかかります」

 なんつー貧乏たらしい外務省なのか、とあきれるのですが、「幕府以来の50°線国境を主張」で首脳陣がまとまったのかどうか、返答の書類を、私は見つけることができないでいます。
 「モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟」で書いていますが、モンブランが前田正名と御堀耕助を伴い、フランスへ向けて出航しましたのが、11月24日。一ヶ月以上後のことです。
 時間かかりすぎでして、結論は出たのかと首をかしげたくなるのですが、私は、デ・ロングにまつわる資料から、なんですが、一応、「50°線国境主張をしてみよう」でまとまったのではないか、と思います。

 デ・ロングは、モンブランが離日する以前、外務省に接触し、樺太問題を問い合わせています。レファレンスコードB03041107700に、以下のようなデ・ロングの書簡があります。

合衆国ニてアラスコ並其領地を残らす 魯西亜より買入遣し以来北太平洋之 漁猟大ニ増進せり就ては近日右精細ニ取調んと頼すれは我政府並其業を 営む我国民之為貴国の北境いつれニ 御定相成居り候哉承知致し度存候 以上 千八百六十九年 大十二月十三日 合衆国ミニストルレジデント シ・イ・エル・デ・ロング 東京 外務卿閣下号

「アメリカはアラスカをロシアから買って、以来、北太平洋の漁業が盛んになっていましてね、いろいろ細かく実態を調べたいものだから、わが政府と漁労民のために、おたくとロシアの国境がどう定まっているのか、教えてくれないかな デ・ロング」

 この手紙は、1869年12月13日付けですから、明治2年の和暦でいえば、11月13日付けになるようなのです。
 これについての外務省の回答は、モンブラン離日後の12月10日、幕府がロシアと結んだ条約の文面を示すことでなされたと、レファレンスコードB03041107900の書類に見えます。このとき同時に、どうも日本側の主張が50°線国境であることも伝えたようなのですね。
 といいますのも、デ・ロングはさっそく、「アメリカこそが国境線を定める交渉の仲介をしよう!」、と申し出たらしく、レファレンスコードB03041108600に、「@@公使ヂロング 至澤 宣嘉 寺島宗則 樺太島境界一件 米大統領ノ@@依頼ノ件 」という明治3年3月20日にまとめられた書類があります。
 このとき、デ・ロングになにを依頼していたかの具体的な内容こそが、最初、私が榎本氏の「開拓使と北海道」に引用されていました資料を見て、メモメモ!!!と喜んだものだったようなのです。
 以下、明治3年2月13日付、岩村通俊宛、東久世通禧書簡(「岩村通俊関係文書」)の一部を、孫引きです。

「樺太之経界は五〇度を限りとし、来春古丹(クシュコタン)へ開港致候条約面に基き、アメリカ公使ヘ中人相頼魯政府ヘ申入候筈、其上にて買却ならは買却にて先々手始め中人にアメリカを入候事決定候よし」
「樺太国境は50度線ということで、クシュコタンを開港を条件に、アメリカ公使に仲介に入ってもらってロシアに申し入れるはずなんだよね。その上で、売却するなら売却するという話になるかもしれないが、まず手始めにアメリカを仲介に入れることが決定したんだよ」

 というわけでして、モンブランへの回答も「50度線国境でOK」ということだったと、推測されるわけなのです。
 で、モンブランの交渉がどうなったか、なのですが、在パリのロシア大使館にかけあうためには代表権が必要で、なにしろ「周旋申し付けた」わけですから、日本側はそれを了承していたのですが、「フランス人が日本の代表権を持つこと」をフランス政府が拒み、モンブランが公使としての役割を果たすことはできないと、早々とわかったようなのです。
 またフランス政府にしてみましたら、普仏戦争直前の多難な時期、ロシアが遠い極東でなにをしようが、気にかけるような余裕はなかったでしょう。

 間髪入れない、デ・ロングのアメリカ売り込みには感心するのですが、B03041108600には、日本政府がアメリカ仲介国境線策定交渉を決定したことに対する、反対意見書も添付されております。署名がなく、だれの意見書なのかわからないのですが、おそらく岡本監輔のものでしょう。「樺太は、本来全島が日本領なのであり、ロシアとの雑居という現状はまちがっているが、すでにロシアに呑み込まれようとしている現状で、国境策定をすることはもっとよくない。雑居していれば、いつかは盛り返すという望みがあるが、国境を定めてしまえば、本来日本のものである領土が永遠に失われてしまう。しかも、それをアメリカの仲介でするなどと、日本の弱みをさらすようなもので、費用も高くつくだろう。現状の方がましだ」というようなものです。

 一見、現実離れした意見書に見えるんですが、この時点においては、実のところ、かなり的確に状況を把握しているのです。
 検索をかけますと、麓慎一氏の「維新政府の成立とロシアのサハリン島政策―プリアムール地域の問題に関する特別審議会の議事録を中心に―」という論文がPDFで出てきます。明治初年のロシア側の樺太問題における姿勢を研究しましたもので、これによりますと、1870年(明治3年)5月のロシア当局は、「樺太雑居条約が、維新以来、日本に有利に作用している」と、脅威を感じていたんですね。岡本監輔の樺太移住振興は、意味のないものではなかったのです。
 ロシアにしましたら、樺太はどうしても手に入れておきたくはあったんですが、一方、ロシアの重心はヨーロッパに偏っていますから、極東の島のために武力衝突まではしたくはありませんでした。日本の後ろにはイギリス、アメリカがいる、ということで、そうなった場合には、国際的非難をあびることを、覚悟する必要もありましたし。
 そんなわけで、このとき日本が樺太移民を強化しましたからこそ、ロシアは国境策定交渉に応じることを望み、「できることならば樺太全島と千島の交換をしたいけれども、日本側はどうしても樺太南部に固執するだろうから、できるかぎり南へ国境線を下げることで妥協しよう」という結論だったんです。
 デ・ロングの介入は、どうも失敗に終わったらしいのですが、とはいえ、日本にとって、アメリカを味方につけている、と見せつけたことになり、それ自体は、けっして悪いことではなかったのですが、問題は、どうも「樺太の維持なんて無理なんだから、交渉がだめなら売ればいい」という、日本の弱腰の姿勢だったんです。

 明治3年の11月、ロシアは、まずは在北京代理公使ビュツォフを日本に派遣し、外務卿の沢と大輔・寺島宗則と会談を持ちます。このときの日本の外務省の姿勢は、まずは全島日本領を主張し、最低でも50°線から交渉をはじめるべき、という申し分のないものでした。このときの会談結果に基づき、翌明治4年5月、日本は参議・副島種臣をポシェット湾に派遣するのですが、前年の約束に反して、ロシア側は交渉に応じませんでした。
 1年の間に、樺太の状況が、ロシア有利に激変していたのです。
 元凶は、明治3年5月、黒田清隆が開拓使次官に就任し、この当初、樺太専任となって問題を手がけたことでした。
 黒田は結局、当初から樺太放棄論だったようでして、外務省をしきる寺島宗則と意見対立していたことが、榎本氏の「開拓使と北海道」に見えます。
 そりゃあそうでしょう。最初から放棄前提の樺太施策をとったのでは、交渉にもなにもなりはしません。さすがに、幕末から薩摩の対英外交をしきっていました寺島は、そこらへんの機微を、よく呑み込んでいたのです。
 デ・ロングが、この問題で具体的にどう動いたのか調べてはないのですが、意見書のいうごとく、どうも途中で、「樺太経営なんて無理だから、だめなら売ってもいいや」という日本の側の弱腰姿勢を、ロシア側にさらしたのではないか、という疑いがもたれます。

 明治2年から出ていました樺太売却論は、最初パークスが「ロシアがアラスカをアメリカに売ったように、ロシアに売ってもいいんじゃないか」ともらしたそうなんですが、これは金満海運国家イギリス公使の見当違いのアドバイスでした。金のない大陸国家ロシアには、買う気など、まったくありません。
 また、これもパークスのアドバイスがはずれていたことなのですが、当時のロシアは、北海道本土へまで攻め寄せる気は、まったくありませんでした。
 となれば、手駒がなければ交渉は成り立たないのですから、樺太南部をできるかぎり維持する努力が、日本側に必要だったのです。
 イギリス、アメリカ、フランスの理解を得て味方につけることは大事なことですが、同時に、日本が領有意欲を行動で見せなければ、相手(ロシア)には通じないのです。モンブランの建言の方が親身でした。アントワンくんの売り込みは余計でしたが、砲兵を駐留させるくらいのことは、した方がよかったでしょう。どうもこの当時から、外交の武器、抑止力としての駐留軍という概念が、日本人には希薄だったようです。

 (追記) うっかりしていました! 犬塚孝明氏の「寺島宗則」によれば、寺島はすでに明治2年の段階で、パークスのいいかげんなアドバイスを「日本への内政干渉になりかねない」と指摘し、箱館への高官派遣を進言しています。あるいは、なんですが、パークスの樺太現状説明とロシアの意図分析を、鵜呑みにすべきではないと見た寺島が、モンブランの樺太派遣を考えついたのかもしれません。
となれば、「樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付」ということの意味は、とりあえずロシアが樺太でやっていることへの抗議、だったんですわね。で、あわよくば国境交渉の糸口を作ろうと。寺島ママン、すごいです! フランスにとっての時期が悪かったことが、残念ですが。

 
 大久保利通はいったい、黒田と寺島と、ともに薩摩閥の、どちらの意見に傾いていたのでしょう。
 黒田に樺太を任せたところをみれば、放棄論に傾いていたのか、と思えますが、この甘さが、条約改正交渉でデ・ロングにしてやられた原因だったのでしょう。
 北海道開拓は、維新当初、井上石見がプロシャ人を雇い入れたり、イギリスから金を借りましたりで、特にどこに頼る、という方針もなかったことは見てきましたが、デ・ロング介入、黒田の開拓使次官就任で、アメリカ一辺倒が決定したようです。
 当時のアメリカは新興国で、列強の中ではもっとも日本に好意的、といっていいような外交姿勢でしたし、開拓使お雇いアメリカ人として日本にやってきましたのエドウィン・ダンが、日本人の妻を娶り、ちょうど日清戦争のとき、在日本アメリカ公使となっていた、というような幸運の種も生まれましたので、かならずしも、それが悪かったわけではなかったのですけれども。
 
 岡本監輔は、失意のうち、明治4年に開拓使を辞職しました。明治37年、日露戦争の最中、東京の病院で、「旅順はまだ落ちないか、樺太へ早く!」と叫んで、息を引き取ったといわれます。

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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上

2010年10月02日 | モンブラン伯爵
明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編の続きです。

 まず、モンブラン伯爵が樺太問題に起用された証拠から、お話を進めたいと思います。
 wikiシャルル・ド・モンブランにも追記しておきましたが、国立公文書館 アジア歴史資料センター外務省外交史料館/ 柯太境界談判、レファレンスコードB03041106800、B03041106700、 B03041107200、B03041107300など、一連の書類がそれです。
 B03041106800をfhさまが全文読んでくださっていますので、下にあげます。

〔明治2年〕10月19日 弁官御中外務省 十月十九日達ス 此度佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候処右地方境界凡先年徳川ノ頃五十度ニテ相定メ云々ノ談判モ 有之当事政府ノ論ニテハ境界之処 如何之庁議一決ニ候哉同人心得迄に承置度段申出候ニ付 其段当月八日外務卿殿より岩倉大納言殿エ被申入御返答承之上 同人出帆之都合ニて出立見合せ此程中より築地ホテルに旅宿いたし日々宿料相掛候下知を相待居候 右は過日も認メ上候通同人儀来夕給料等も不被下儀ニて御用向相勤候事故御沙汰以来滞在中之宿料丈ケハ相当ニ不被下候ては相成間敷 就ては御下知速緩ニ相成候得は一同ハ一日丈ケノ御失費も相懸かり候

 モンブランより樺太之策申出
 以手紙啓上いたし候。就は過日御引合申候節、御談有之候カラフト島於て魯人之所為並彼等此後之所置振篤と探索いたし候間、左之弐ケ条申進、且同島御所置振之見込をも申上候。右ニ付、左之三ケ条はいつれも肝要之事件ニ御座候。

第一条 カラフト島於て、魯西亜人之所為は兵隊を以て厳重ニ固メ、其兵卒之人数ハ小銃常備隊は四大隊農兵四大隊其他山砲隊守城砲隊ニ有之候。何れもカラフトにある弐ケ所之岬に台場を設け備へ居申候。右兵隊如此集め候義は、全ニコラエフ之地において、軍器製作所を設け、巳ニ同所エ四百人之職人を抱入、亦同所ニは、施条元込大砲五百挺貯置申候。右は何れも欧羅巴より取寄候ものに有之、亦カラフト之内にて三ヶ所之石炭山を開き、且鉄鉱山をも見出申候。其海岸には蒸気軍艦二艘、小形帆前軍艦等繋泊いたし居、其外端舟運送船等之用意も有之候。

第二ヶ条 魯人此後之所置振を左ニ申上候。此度魯人カラフトエ侵入いたし候は、元大望有之義ニて、同所を兵溜りといたし、夫よりニコラエフ其外之港々并シベリヤ国守衛之海陸軍を盛大ニ致さんと欲し、先手初ニカラフト南ノ方を掠奪いたし候事と被察申候。右之訳は、米利堅よりシベリヤ国え諸品物之運送を十分ニ行届かせ、亦各国と戦争を起し候時は、大なる利益と相成候間、欧羅巴ニ於て海陸軍之勢力ある国々に取り候てハ、大害を可生義眼前ニ御座候。其大害と申は、
則左ニ記述いたし候。

第三ヶ条 前文申述候儀ハ、能々御注意有之度、若し魯西亜人朝鮮国を掠奪する時ハ、魯国東方之海岸カラフト之地より長崎辺迄陸続と相成、右様之場合ニ至り候節ハ、大日本国之義も、今日之カラフト島に於る如く相成可申候。右ニ付同島之事件を取纏候は、唯日本国之為め而已ならす、欧州各国之大関係ニて、其国力之強弱に係り候儀ニ付、最重大之事件ニ有之候。

右ニ付ては、欧州海陸軍之盛なる国々に於てハ、各自国之利益を計り候より、自然日本国之危難を救ひ可申存候。此日本之危難を救ふ為め、必用之急務は英仏両都之外務局より魯国之都府迄掛合之書簡を送り、公法ニ依て議論を起すより無他事、右書簡を可送手筈は最急速に無之てハ、難相叶間、日本政府より直ニ英仏両国外務局え書簡を以て掛合およひ候方可然。
尤日本在留之各国人えは報告不致方宜敷候間、其辺も御含之上何れとも右之手続を以て、カラフトを御取静め之御仕法有之度存候。


不用「再ひカラフトを取戻す迄之間に設備可致義は、先土工兵并砲兵を取立るに如ことなりく、右ニ付ては、幸仏国大砲隊一等士官アントワンと申者有之、既ニ伊達民部卿殿えも申上置候人物ニて、支那ニ於て伝習教師をいたし、漸成業当時不勤之身と相成居候間、若日本政府ニて急速カラフト之固等も有之御用も候はヽ、御下命次第奉職可致存候。惣して」
右申上候廉々取縮め申上候時は、欧羅巴ニ於て之義は、御委任次第御都合ニ相成候様、私於て取斗可申候。亦御国ニてハ、カラフトを御取戻之御用意有之度との義ニ御座候。


 我十月十日 千八百六十九年第十一月十三日 日本公務弁理職コントデモンブラン 沢外務卿閣下ニ呈す

 「築地ホテルのモンブラン滞在費用がもったいないから早く政府方針を示せ」だの、モンブランが自分が連れてきた砲兵士官アントワンを売り込んでいる部分を不用としますなど(ちなみにアントワンくんはフランス兵式を採用しました土佐藩に傭われることになりました)、おもしろい文書なんですが、それは置いておきまして。
 最初にはっきりと、「佛国人モンフランを 皇国弁理職ニ被仰付候就ては樺太雑居之義ニ付同人エ周旋申付候」と書いています。周旋申し付けた、とは、ロシアとの交渉を依頼した、ということです。そして、モンブランが沢外務卿宛に意見書を提出した日付が、明治2年10月10日。モンブランは、どうやら樺太、函館まで足を運んだらしいのです。


開拓使と北海道
榎本 洋介
北海道出版企画センター


 榎本洋介氏の上の著作で見ますと、樺太問題の急浮上で、開拓使は、北海道開拓事業だけではなく、外交をくり広げなければならない、という認識が浮上したようなのですね。といいますのも、ロシアは、明治7年(1874)東京に公使館を置きますまで、日本における外交施設は函館の領事館のみで、これが事実上のロシア大使館だったんです。

 8月1日、寺島宗則外務大輔が、イギリス公使パークスから、樺太情報を聞きます。外務卿は沢宣嘉で、実質、薩摩出身の寺島が外交を取り仕切っていました。
 翌2日、杉浦元箱館奉行が、外務省出仕を要請されます。もちろん、樺太の件について事情聞き取りのためです。杉浦は、江戸帰着後、駿府(静岡)へ移住していましたが、実務能力を買われて藩の公義人となり、ちょうど東京へ出向いていたところでした。
 5日、杉浦は外務省の樺太地取調御用掛に任命され、以降、ロシアとの条約提携にかかわった元幕府関係者から、詳細に事情を聞き取ります。
 9日、外務省の沢と寺島、開拓使長官・鍋島閑叟。岩倉具視、大久保利通、大隈重信が、樺太問題について、パークスから話を聞きます。

 この後、鍋島閑叟が開拓使長官を退きます。おそらく、なんですが、ロシア領事と頻繁に接触するためには、開拓使長官が函館に常駐する必要があったから、ではないでしょうか。閑叟は高齢な上、病弱です。
 外務卿の沢を長官にして、黒田清隆を次官につけるとか、いろいろな案がいきかうのですが、そんな中、東久世通禧長官案が、浮上します。東久世は、鳥羽伏見直後の京都で、外国御用掛となり、元宇和島藩主・伊達宗城とともに、神戸事件、堺事件の解決にあたった人です。
 この東久世担ぎ出しについて、大久保利通日記8月24日条に「今朝東久世公開拓使長官、町田被遣候事共岩公へ建論一封を呈し候」とあって、最終的には、大久保が強く押したことがわかります。東久世を長官にして町田を遣わす、とは、町田久成を次官にするか、あるいは臨時に出張させるか、ということではなかったでしょうか。町田については、実現しませんでしたけれども。
 翌25日付け、大久保利通宛の岩倉具視書簡(「大久保利通関係文書1」収録)に、東久世に長官就任要請をした顛末が述べられています。結局、東久世は引き受けるのですが、最初はしぶり、次のように言ったというのです。

 「草莽徒西洋心酔説今日存候ヘハ尤ノ事ニテ、右様ノ者御登傭ハ実ニ不可然為朝廷御断申上候」

 榎本洋介氏は、この「右様ノ者」を東久世本人のこととされ、「草莽徒が私を西洋心酔者というのは、今にして思えばもっともなことで、このような私を登用するのはあってはならないことで、朝廷のためにお断りする」というように解釈されているのですが、私は、ちょっとちがうのではないか、と思うのです。
 だいたいこの書簡は、「昨日の朝密示ノ旨ヲ以三条公を訪ね、話したら同意してくれた」という文章にはじまっていまして、東久世を開拓使長官にすることが、「密示」なわけはありません。
 じゃあ「密示」とはなにかといえば、これが「樺太問題でモンブランに交渉してもらう」ことだったのではないでしょうか。ついては、顔なじみの東久世が長官を引き受けてくれないだろうか、と。
 小出大和守がロシアまで交渉に出かけましたとき、杉浦奉行は、頻繁にビュツォフ領事と連絡をとっていました。モンブラン伯爵と開拓使長官の間で、打ち合わせが必要になるだろう、ということだったのでしょう。
 したがいまして、「右様ノ者」とはモンブラン伯爵のことであり、「神戸事件の後、草莽徒が薩摩藩は西洋に心酔している、といったのは、今にして思えばもっともなことで、その元凶となったモンブランを登用するとはとんでもない。朝廷のためにお断りする」と解釈した方が、自然な気がするのです。

 薩摩藩は鳥羽伏見直前から大阪にモンブランを潜ませていまして、外交顧問としていました。神戸事件では、被害者がフランスの水兵でしたので、モンブランが解決に尽力したことが、薩摩藩の資料で確認できます。また、フランス公使ロッシュを説得して明治天皇謁見を実現。そのときには、京都の薩摩藩邸にいたことが、「フランス艦長の見た堺事件」に見えます。
 朝廷もその働きを認めて、モンブランを日本公務弁理職(総領事)に任じたのですし、東久世はいくどもモンブランと同席しています。
 しかし、ですね。神戸事件、堺事件が日本人の切腹で決着し、責任をとって切腹した者に同情が集まりましたことは、日本人として自然の心情ではあったでしょうし、モンブランと協力し、決着交渉を担当しました東久世にしてみましたら、心痛に堪えない出来事だったでしょう。

 町田久成は、ロンドン留学時代、弟の清蔵くんがモンブランのもとにいましたし、幾度も会っています。
 なぜ久成の派遣が実現しなかったのかはわかりませんが、大久保にしてみれば、モンブランにつける薩摩人としては恰好の人物、だったのでしょう。

 で、どうしてモンブラン起用が「密示」だったか、なのですが、「草莽徒」からの批判に対する憂慮も、あったかもしれません。ただ、榎本氏の解釈では、「草莽徒」イコール攘夷主義者で、対ロシア強硬論者というのは、ちがうでしょう。「草莽徒」イコール攘夷主義者としまして、モンブラン起用を嫌がる、というのはわかるのですが、そういう人々が、かならずしも対ロシア強硬論者とは限らないでしょう。
 そして、「密示」だったことの最大の理由は、対イギリス配慮、だったと思われます。
 これまで、このブログでずっと述べてきているのですが、幕府とフランスのシルク独占貿易は、イギリス商人の多大な反発を買い、イギリス公使館は、薩摩藩のモンブラン雇い入れをも、相当に警戒していました。

 幕府が倒れ、イギリス公使館は、これまで日本で勢力を張ってきましたフランスの追い落としをはかり、自国の影響力拡大を狙って動いています。
 モンブランは、維新直後の大阪、京都に滞在し、外交顧問として活躍しつつ、イギリスに対抗し、日本に対するフランスの影響力は保持しようとしていたことが、「フランス艦長の見た堺事件」でうかがえます。
 イギリスとフランスは、協力すべき場面では協力して日本に対し、しかし水面下で火花を散らしていまして、この時期にもちょうど、函館戦争にフランス軍事顧問団の一部が参加しましたことを問題にしていまして、寺島宗則は在日フランス公使ウートレーを相手に、やりあっていたりしました。
 これも、ずっと述べてきていることなのですが、海軍重視の薩摩はイギリス軍制、陸軍重視の長州はフランス軍制で、ちょうどぶつかりあっているところです。薩長もまた、水面下で火花を散らしていまして、薩摩閥としましては、イギリス公使館の意向は重視する必要がありました。

 樺太問題で、イギリスの協力は不可欠です。しかし、小出大和守がフランスの口利きもあってロシアへ交渉に出かけましたように、フランスのロシアに対する影響力は強く、フランス人のモンブランを起用しますことで、協力を得られる可能性もでてきます。
 とはいえ、イギリス公使館の手前、フランスに偏る姿勢を見せるわけにはいきませんから、モンブランが日本国内にいる間、樺太問題への助力は極秘にする必要があったのでしょう。
 いえ……、鳥羽伏見直後の京都におけるモンブランの活動には、すでにイギリス公使館からクレームがついていたのではないか、と、私は推測をしているのですが、これについては、確証がえられません。長州がフランス兵制を採用したについて、伊達宗城と大村益次郎の関係、五代友厚とモンブランの関係、宗城と五代の関係、を考えますと、モンブランが介在した可能性があると思うのです。

 さて、開拓使長官となりました東久世は、9月21日に出航し、25日に函館に到着しました。
 岡本監輔を中心としまして、樺太へ向かうメンバーは、それより早く、ヤンシー号にて9月13日に横浜を出航し、17日に函館入港。必要物資を買い入れまして、19日に出港し、22日に樺太のクシュコタンに到着しています。
 で、開拓使から二人、外務省から派遣の一人が、10月2日には再びヤンシー号に乗り樺太を出港。8日に函館へ到着して東久世に会った後、東京へ向かっているんです。
 モンブランは、これに同行していたのではないか、と、私は推測しています。
 意見書の日付が10月10日。樺太におけるロシアの備えが「二個所の岬に台場を設けて、小銃常備隊は四大隊、農兵四大隊、そのほか山砲隊と守城砲隊が常駐している。ニコラエフスク(尼港)が樺太の補給基地になっていて、武器製造工場があり、またヨーロッパからの武器もここに備蓄されている」などと細かく記されていますが、モンブランが実地に確かめたのでなければ、書く必要がないことでしょう。
 また、ロシア士官はフランス語をしゃべるでしょうから、日本人には話さないことも、フランス人であるモンブランは聞き出すことができたはずです。

 それにいたしましても、開拓使の記録から、なぜモンブランの名ががすっぽりとぬけ落ちているか、ということなのですけれども、それは開拓使の記録に限ったことではありませんで、「モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟」で書いたのですが、大久保と木戸の日記は、モンブランの名が当然出てくるべきところで、まったく出さず、東久世の日記も同じなのです。
 理由は、推測にしかなりませんが、やはり明治政府の初期外交の肝腎な場面で外国人であるモンブランに頼っていた……、といいますのは、明治の国民感情を考えますと、彼ら元勲のプライドの許すところではなかった、のではないでしょうか。まして堺事件は、切腹した土佐藩士たちが英雄となったのですし、仇であるフランス人に頼って事件を処理した事実は、政府の威信にかかわることであったのでしょう。
 その堺事件の後、今度は対ロシアという重大問題で、またもモンブランを起用。表立つ記録に残したくはなかったのだろうと思えます。
 それともう一つ、これも確証がつかめないことなのですが、私は、モンブランが山城屋和助事件にかかわっていたのではないか、とも憶測しています。

 今回また長くなりましたので、次回へ続きます。


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明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編

2010年10月01日 | モンブラン伯爵
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編の続きです。

 慶応2年(1866)、箱館奉行でした小出大和守が、樺太国境談判にロシアへ赴くことになりまして、後任となりましたのが、杉浦誠(梅潭)です。
 森有礼夫人・常の実父だった、かもしれない広瀬寅五郎が、仕えていた人です。
 最後の箱館奉行・杉浦は、こまめに日記を記していまして、下の本は読みやすいその解説書です。

最後の箱館奉行の日記 (新潮選書)
田口 英爾
新潮社


 杉浦は知識欲旺盛で、過激尊王攘夷論者・大橋訥庵の門下にいたこともありますが、かならずしも訥庵に全面的に同調していたわけでありませんで、バランス感覚にすぐれ、幕府官僚としての節度を守りつつの尊王開明派であった、といえそうです。
 その経歴を見ますと、大番衛士から鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取と昇進しまして、文久2年(1862)目付となり、翌年、松平春嶽に随行して、攘夷テロリズムの吹き荒れます京へ。杉浦は、このとき同時に浪士掛にもなっていますから、後の新撰組の中核メンバーが募集に応じました将軍護衛浪士の京での扱いにも、かかわっていたわけです。
 文久3年、春嶽が政治総裁職を放り出し、京を離れましたのにともない、杉浦も江戸へ帰りますが、翌元治元年、今度は将軍家茂に随行しまして、再び京へ。8.18クーデターの後ですから、過激浪士は一掃されていたのですが、このとき、横浜鎖港問題にまきこまれまして、鎖港不可能派だった杉浦は、江戸に帰った直後に罷免され、以降、一年半の間、自宅謹慎となります。
 そして、函館奉行赴任です。
 つまり杉浦は、京都におきまして、激動した幕末の政治状況を目の当たりにした経験を持ち、幕府の倒壊をも、冷静に受け止めるんです。

 杉浦が、鳥羽伏見の敗戦情報を得たのは、一ヶ月近く遅れてのことでした。
 部下からは、江戸に引き揚げようという意見が出るんですが、杉浦はそれを退け、幕府の姿勢を問い合わせる建白書を提出し、同時に一万両と米を江戸に送ります。
 杉浦の最大の懸念は、樺太でした。以下、上記の本から、田口英爾氏の建白書口語訳の一部引用です。

 「第一の大憂患は北地(樺太)のことである。たとい雑居の条約を取交しているといっても、もし支配向が現地を引揚げてしまったならば、ロシア人は現地人の撫育を大義名分として、たちまち南進してくるだろう」
 
 慶喜恭順の知らせに、杉浦は、奉行の職務を全うした上で、朝廷に引き継ぐ決心をします。
 4月になり、新政府の先触れが到着した10日、ロシア領事ビュツォフは、杉浦に面会を求め「抵抗するならばロシアが武器も兵力も援助する」と申し出ましたが、もちろん杉浦は断りました。

 そして4月26日、清水谷総督一行が到着します。実は、判事・井上石見を筆頭とします一行の中には、坂本龍馬の甥・小野惇輔(高松太郎)がいます。杉浦と小野は、京で面識があったようです。
 引き継ぎは見事に行われ、残留を希望する幕府の役人はそのまま残り、杉浦は、江戸へ帰りたいと願い出た者とその家族を引き連れ、箱館を離れました。
 権判事・岡本監輔は、農工300人ほどを募って樺太に渡り、魚場を開いて開拓に努めます。

 さて、実質的な長である、井上石見です。
 彼については、fhさまのところが詳しいんです。「種蒔く人」「備忘 井上長秋2」「宗谷のふたり」「北から来た男は北へ帰る。」などから、簡単に足取りをまとめさせていただきます。

 まず、5月13日、プロシャ領事で、貿易商でもありましたコンラート・ガトネルの兄で、七飯で開墾事業を行おうとしていたリヒャルト・ガトネルと会い、雇い入れを決めたようです。杉浦奉行は、ガトネル兄弟と親しくしていまして、七飯の開墾も、やらせてみようとしていたようなんですね。
 このガトネル、後に榎本武揚を中心とします旧幕府軍が箱館を占領しましたとき、300万坪という広大な土地をを99年間借りる契約を結びまして、騒動になるのですが、石見との契約は、雇い入れでして、ヨーロッパ式に機械を導入して手本になるような農場を作る、ということです。

 これ、やり方としては、黒田清隆が開開拓使でアメリカ人を雇い入れて、模範農場を作ったことに近いですよね。イギリスVSフランス 薩長兵制論争2で書いたのですが、どうも、薩摩密航留学生一行がイギリスで見学しました近代的農場から、「西洋流行之農器」による「農兵・屯田兵的な形での開墾」は、幕末薩摩藩におきまして、新しい日本の国作りにおいての基本アイテムになっていたのではないか、という気がするのです。

 それにいたしましても、新政府の箱館裁判所改め箱館府には、お金がありません。杉浦奉行は、一万両を幕府に送ってしまいましたし。
 いや、一万両って、もしかして購入船の代金だったんじゃないんでしょうか。
 といいますのも、杉浦奉行は、プロシャ船ロア号を買う契約をして、内金を払っていたそうなのですね。5月30日に船は箱館に着き、支払いを求められます。
 石見は、横浜、江戸へ、金策に走ります。まずは、6月20日横浜で、大阪から来たばかりの大久保利通に会います。そこで小松帯刀にも会い、金策を頼んだみたいなのですが、だめなので、今度は神奈川裁判所の寺島宗則さんにお願い。しかし、こちらも文無しです。26日には江戸で、また大久保に会っているそうです。
 あるいは、大久保から紹介されたのでしょうか。結局、イギリス公使パークスの口利きで、イギリス系の銀行から無事、借金。
 
 7月7日、石見は、小松帯刀、大久保利通、八田知紀、中井桜洲など、在京薩摩人に送別会を開いてもらい、さらに7月11日には、小松、中井、松根(宇和島)にアーネスト・サトウをまじえて宴会。
 7月22日、石見は、アーネスト・サトウとともに、イギリス船ラットラー号に乗り、出港します。
 えーと、ですね。たしか、「フランス艦長の見た堺事件」に載っていたのでは、と思うのですが、確かこのとき、エトロフ島にロシア人が基地を作りはじめた、というような噂が入ったんだったかなんだかで、イギリス、フランスともに、軍艦を千島列島偵察に出すんですね。
 石見は、そのイギリス軍艦に同行し、7月26日函館着。
 その後、石見はロア号に乗り換え、イギリス軍艦と東西に別れて、探索に出ます。
 イギリス軍艦は宗谷沖で座礁し、サトウはじめ、乗り組んでいたイギリス人は全員、フランス軍艦デュプレスク号に救助されます。
 同じころ、実はロア号も遭難していたんです。しかもこちらは、行方不明。
 井上石見は北海の霧の中に消え、そして箱館府は、舵取りを失ったまま、旧幕府軍の襲来に遭って、青森へ逃走します。

 えーと、岡本監輔は、ずっと樺太にいます。
 近デジに、「岡本韋庵先生略伝」というのがあるんですが、これによれば、です。明治2年になってロシアとの摩擦が頻発します中、樺太開拓に従事していましたところが、6月24日、ロシア船が母子泊(ハコドマリ)に現れて、アイヌの墓所や漁民の住んでいる場所に宿舎を建て始め、応援を求めようと箱館に出たのだそうなのです。
 旧幕府軍が降伏しましたのが、5月18日です。清水谷総督をはじめとします箱館府のメンバーは、青森以来、黒田清隆の指揮します薩摩中心の軍といっしょになり、戦勝後は函館に残って、戦後処理をしていました。

 明治2年になりまして、樺太で紛争が頻発しましたのは、おそらく、なんですが、北海道の内乱にロシア側が乗じたわけですね。杉浦奉行の危惧は当を得ていたわけでして、ガトネル問題といい、榎本武揚と旧幕府軍の行動には、思慮の足りない処置が見受けられます。

 監輔が函館に着きましたのが7月のいつなのかわからないのですが、ちょうどこの時期、中央では、戊辰戦争の終結と版籍奉還にともなって、大規模な官制改革があり、蝦夷開拓御用局が開拓使となって、開拓使人事が行われています。
 その事実関係を、以下、榎本洋介氏の「開拓使と北海道」を参考に述べますが、起こったことの解釈につきましては、私の考えです。

 7月11日、鍋島閑叟が大久保利通を訪問しまして、「開拓一条御談」と大久保日記にあります。つまり、閑叟から開拓使について、大久保に、なんらかの相談があったわけです。
 13日には、閑叟が開拓使長官となります。
 16日、大久保日記によれば、「蝦夷開拓議事、大綱決定」
 20日、民部大輔・広沢真臣(長州)が兼任で開拓使出仕。
 22日、島義勇(佐賀)、開拓使判官となる。
 24日、清水谷公考が次官に任じられ、兵部省が、蝦夷地開拓返上願書を出します。

 そもそも、です。官制改革の立案者は佐賀の副島種臣であり、大久保利通は副島と連携して、政権の中核となっていたわけですが、開拓使については、大久保利通がしきっていて、佐賀の元藩主・鍋島閑叟と相談し、名目上、広沢を加えることで長州閥の了解を得て、佐賀閥主導で蝦夷開拓を進める、となったように見えます。
 24日の兵部省云々といいますのは、です。兵部省は、長州の大村益次郎が事実上の長でして、明治2年の初めから、会津藩をはじめとします降伏人を、石狩、小樽、発寒へ移住させて開拓する、という計画を立てていたんです。大久保と閑叟が相談しました開拓使の方針も、函館から石狩へ開拓使の中心を移し、石狩を中心として開拓する、というものでして、兵部省の施策と重なるのです。兵部省に手を引かせるために、広沢を抱き込んだのではないでしょうか。

 ところがこの24日、岡本監輔が東京に姿を現し、樺太の危機を訴えます。
 監輔が最初に訪ねたのは、大久保利通の家です。「岡本監輔入来。唐太より今日着ニて彼地之近状承り実ニ不堪驚駭候」と大久保日記。
 翌25日、監輔は開拓使判官に任じられ、26日、樺太事件は廟堂に報告され、議論。
 あるいは、これと関係しているのではないかと思われるのですが、翌27日、長州閥のトップ・木戸孝允は、兵部省が蝦夷から手を引くことにクレームをつけ、29日、大久保がそれを了承します。

 樺太問題が緊急なものになった以上、兵部省の協力が不可欠となりかねない、という話だったのではないのでしょうか。

 さて、この樺太緊急事態によって、開拓使人事に大きな変更が生じるのですが、榎本洋介氏はそれを、「樺太放棄へ向かう政策決定を弱腰外交と解釈するであろう攘夷派士族の脅威を加える視点で考察」されているんですが、ちがいます!!!
 まず大久保は、この年、樺太放棄を考えたりはしていません。外交交渉によって、なんとか島の半分を日本領とできないものかと、モンブラン伯爵を起用したがゆえの人事ではないのかと、私は推測しています。
 モンブラン起用には証拠がありまして、詳しくは、次回に続きます。


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