風邪が治りません。パソに向かい合うのもかったるく、えー、私のパソは馬鹿でかいPower Mac G5。寝床で見るわけにはいかないもので、失礼をしてしまっております。
あー、関係ないですけど、近々発売予定の
Apple MacBook Air 13.3/1.6GHz Core 2 Duoが欲しい!!!
去年、発売と同時に
Apple iPod touch 16GBを買ってしまった新物食いです。しかし、アップルの初物はどんな不具合があるやら怖いですし、MacBook Airはtouch とちがってものすごくいいお値段だし、さて、どうしたものですか。
で、本日は「日出処の天子」です。風邪が治らないので、先週の金曜日に医者に行きまして、ついでに週刊新潮を買い、お薬を飲んで、寝床に入って、ぺらぺらとめくっておりました。そうしたら、
ベルばら「池田理代子」の聖徳太子マンガに「盗作疑惑」が浮上
という記事があったんです!
いや、池田理代子氏の聖徳太子漫画は読んでないんですけど、見出しを見たとたんにピンと来ました。
山岸凉子さんの「日出処の天子」は、私にとっては、少女漫画というより、すべての漫画の中で……、といいますか、おそらく日本古代史を素材とした小説、映画、TVドラマなどの創作物をすべて集めた中で、ぬきん出て衝撃を受けた作品で、好みのペスト1といえるものだったんです。
それから数年後、同じく聖徳太子を主人公とする作品を池田理代子氏が書いたということは、週刊誌か新聞記事かで読んで、本屋でその本を見かけたんですけど、その表紙絵が、どこからどう見ても、「日出処の天子」を模倣したとしか思えないもので、「まあ、少女漫画にするとああならざるをえないのだろうか」と思いつつ、なにしろ池田さんの絵はバタ臭いですから、違和感を覚えて手にとる気にもならなかったのですが、「盗作疑惑」って、山岸さんの「日出処の天子」を盗作したってことだよねえ、と思ったら、やっぱりそうでした。
しかし、なんでいまごろ? ということなんですが、池田理代子氏は去年、朝日新聞紙上で聖徳太子を語り、はっきりとわかる形で、「日出処の天子」を批判したんです。
この記事を読んだ人々の間に波紋がひろがり、ネット上で池田理代子氏の方こそ盗作ではないのか、という批判が延々とくりひろげられ、ついに去年の暮れには、「あきらかな盗作だろう」という話になったというのです。
いけません。みなさんに失礼をしながら、好奇心がおさえきれませんで、寝床からぬけだし、パソを立ち上げ、検索をかけてみました。
批判は2ちゃんねるで行われていたらしいのですが、一発でまとめページが出てきまして、詳細に資料があげられていました。
漫画『聖徳太子』(作 池田理代子)盗作疑惑検証サイト
これは、朝日新聞のコラムの書き方そのものがよくないですわ。
飛鳥をめぐる人物像、ということで、聖徳太子を取り上げ、池田氏の写真と彼女の描いた聖徳太子のカット(あきらかに山岸聖徳太子の模倣です)が載っています。
池田は91年~94年、漫画「聖徳太子」を発表した。「ベルばら」から約20年たっていた。「太子の顔に特定のモデルはありません」。しかし、史実にまじめに向き合った。
太子の顔に特定のモデルはありませんって、なに??? と私でも疑問を感じます。
どう見ても、山岸聖徳太子に影響を受けているんです。
史実にまじめに向き合ったって、飛鳥時代です。史料が少なすぎまして、なにが「史実」やら、学者にもわかりようがない、といいますか、史実とやらに忠実であるなら、学者によればああいう説もある、こういう説もあると列挙するしかなく、一つのストーリーにはならないんじゃないんでしょうか。
以下、朝日のコラムから続いて引用です。
東京教育大(現筑波大)の哲学科に学び、「学者になりたかった」という池田は、歴史を徹底的に掘り起こして作品にすることを信条とする。「ベルばら」の時は、断頭台に送られるマリー・アントワネットらを調べ上げた。
ええ? そうなの?
実を言うと、「ベルばら」は妹からコミックスを借りて読んだだけで、詳しくは覚えてないのですが、当時の私の印象では、
シュテファン・ツヴァイクの
「マリー・アントワネット 」 (河出文庫)をベースに、といいますか、そのまんまの世界に、池田氏の想像上の人物であるオスカルとアンドレを置いて遊ばせた、ツヴァイク作品へのオマージュでした。
ただ、ツヴァイクの「マリー・アントワネット」への傾倒ぶり、といいますか、その世界が好きでたまらない、という熱気が感じられましたし、戦後民主主義的な価値観のもとで育ちました私たち少女漫画の読者にとって、オスカルという架空の男装の麗人を出してきて、お姫様の世界に置きながら、最後の最後に革命軍の側に立たせる、というのは、少々通俗的にすぎる気はしますが、ツヴァイクが描くヨーロッパの過去の世界に、感情移入しやすくしてくれるうまい手だよなあ、と感心したのは覚えております。
実際、中学生の私は、夏休みの宿題にツヴァイクで読書感想文を書こうとしたのですが、おそらくは教師から要求されるだろうと私が想定した価値観と、私の正直な感想の間に、大きな乖離があって、どうにもうまくまとめることができませんでした。
今でこそ、ロココと化政文化をくらべてみるとか、うまいごまかしようがあったろうに、と思うんですが。
しかし、
等身大のマリー・アントワネットで書きましたように、すでにツヴァイク描く「マリー・アントワネット」に、おそらくは池田氏とは少々ちがう感覚で夢中になっていた私にとっては、自分でコミックスを買って読むほどのものではなかったんです。
以下、引用を続けます。
大阪そだちの池田にとって、聖徳太子は身近すぎて作品の対象にならなかった。 飛鳥は父親の故郷で、子どもの頃から飛鳥に何度も来た。四天王寺、法隆寺など、太子ゆかりの寺にも親しんだ。 ところが、ある漫画家が、聖徳太子と蘇我毛人との霊的恋愛を描いた。 『違和感をおぼえました』 。池田は文献を読み、仏教学者の中村元らに助言を受けた。
違和感をおぼえるのはいいんですが、この朝日のコラムの書き方だと、「日出処の天子」がろくに文献も読まず、史実を無視して描かれた作品だから違和感を覚えた、ということになりませんか?
それどころか「日出処の天子」は、驚くほどあれこれ、文献を読み込んで練り上げられた作品です。
読み込んだ上で、取捨選択し、山岸さん独自の世界が造りあげられているのです。
「ベルばら」がツヴァイクの「マリー・アントワネット」に影響を受けて描かれたように、山岸さんご自身が、梅原猛氏の
「隠された十字架―法隆寺論」 (新潮文庫)に影響を受けた、とおっしゃっておられるのですが、すでに「隠された十字架」を読んでいた私にとっても、「日出処の天子」は、梅原猛氏の描く古代の世界ともまったくちがう、山岸さん独自のものが、強烈に感じ取れました。
いえ、「日出処の天子」を読む前から、古代史には興味がありましたし、それほど詳しく文献を読みこんでいたわけではないんですけれども、現在、自分のサイトの
女帝の夢庭園に載せていますように、「蘇我蝦夷は実は聖徳太子と同年代ではなく、その長男の山背大兄皇子に年が近かったんじゃなかろうか」とか、自分なりにあれこれ想像をふくらませていたりもしたのですが、それがすべてふっとんでしまうほどだったんです。
えーと、つまるところは、です。蘇我蝦夷の年齢でさえも、史料ではわからないのです。
蘇我蝦夷が、甥(妹の子)であるにもかかわらず、なぜ山背大兄皇子の即位を支持しなかったのか、については、なんの史料も存在しないのですから、私のように、「蘇我蝦夷は通常考えられているよりも若く、山背大兄皇子の母の刀自子郎女と同母ではなく、田村皇子(舒明天皇)に嫁いだ法提郎女と同母ではなかったのか」と想像してみることも可能ですし、史料を読み込んでなお、それと大きく矛楯しないように、さまざまな想像が成り立ちます。
したがって、物語に「聖徳太子と蘇我毛人との霊的恋愛」を想定したからといって、史料を読んでいないことにはなりませんし、史実を無視したとも、言えないでしょう。
とはいえ、「日出処の天子」という作品のすばらしさは、もちろん、史料を読み込んでよく勉強した歴史ものである、というようなところにはありません。
今回、久しぶりに、寝床で読み返しましたが、20年も前の作品であるとは、とても思えませんでした。
なんといえばいいんでしょうか、漫画であるにしろ、小説であるにしろ、映画であるにしろ、です。創作物であるかぎりに置いては、現代に生きる私たちにも通じる、普遍的なテーマがなければ、読者の心に響くことはないんじゃないんでしょうか。フィクションだけではなく、あるいはノンフィクションにおいても、です。
「日出処の天子」には、確かに、それがあります。
と同時に、山岸さんの作品の構成のうまさにも、あらためて脱帽しました。
物語の冒頭は、敏達12年(西暦583)、蘇我馬子一家の描写です。
馬子は土建屋の社長さんタイプ、政治家でいえば田中角栄のような、ワンマンで精力的なイメージです。
物部から嫁いできた馬子の正妻は、地味で堅実な感じ。
二人の子がいます。兄の蝦夷は、書を好み、読書にふける秀才タイプ。
子供にしては覚めている感じで、父親の愚痴にも、他人事のように客観的な観察で応じます。
娘の刀自子は活発で、泥にまみれて戦遊びをするようなお転婆。
一家の話題は、10歳の子供でありながら、すでに学者よりもの知りだという厩戸王子(聖徳太子)。
この導入が、現代にでも普通にありそうな家庭での一こまのように描かれ、それでいて、この時代の政治状況をリアルに感じさせてくれるため、読者はごく自然に、蝦夷の視点になじみ、物語世界へ引き込まれていきます。
蝦夷は散歩に出かけて、池で泳ぐ美少女に出会い心引かれます。やがて、どうやらその美少女こそが厩戸王子だと知り、しかも美しい王子は、もの知りどころか、人間離れした超常能力を持ち、しかもその能力で大人顔負けに政治をきりまわしていこうとしているのだと、気づくのです。
途中まで、読者は、日本書紀の世界が、くっきりとリアルに、しかし斬新な切り口で解き明かされるのに幻惑されます。しかしやがて蝦夷とともに、厩戸王子が大きな欠落を抱えていることに気づき、王子に魅せられるのです。
これは、欠落の物語です。
厩戸王子を筆頭に、主要登場人物は、みな欠落をかかえています。
一番わかりやすいのが、刀自子でしょうか。
おそらく彼女は、女として生まれたくはなかったのです。女として生まれたことが、彼女の欠落です。
「男に生まれたかった」と思う、活発で、才気にあふれたお転婆娘。
これは少女漫画にかぎらず、「私がんばる!」タイプの少女の描き方の典型的なパターンでしょう。
現在の大河ドラマ「篤姫」で、宮崎あおいが演じている篤姫も、そうですよねえ。
小松帯刀が出てくるので、我慢して見ていますが、こうまでパターン通りにやられると、勘弁して! と悲鳴をあげたくなります。
「ベルばら」のオスカルもそうですよねえ。
しかし、なんといいますか、近代の賭場口、フランス革命の時代に、貴族のお姫様が近衛兵だかなんだか、軍隊を指揮するって、リアリティなさすぎです。たいした葛藤も摩擦もなく、軍隊の指揮官にしてもらって、じゃあ女を捨てたのかと思えば、アンドレでしたっけ、ちゃんと男にも愛され、女としての喜びも手に入れる。
ご都合主義にすぎる感じなんですが、まあ、少女(あるいはおばさん、でしょうか)の夢の世界だと思えば、確かに、きらびやかな宝塚の題材としては、ぴったりでしょう。
ただ、少女のファンタジーだというならば、です。私は、
パステル調「マリー・アントワネット」で書きましたソフィア・コッポラ監督の映画の方が、根も葉もある感じを受けるんです。
「日出処の天子」が描く刀自子は、ものの見事に、「私がんばる!」のパターンをはずしています。
がんばったところで、生物的に女が男になれるものではないですし、それは、実現不可能な願望なんです。そのことを刀自子は、もっとも無惨な形で思い知らされます。
蘇我と物部の戦争の最中、母親の実家である物部のもとにあった刀自子は、物部の奴たちに輪姦され、身ごもり、自ら堕胎するのです。
犯されたら身ごもる可能性がある、という女の性は、どんなにジェンダー、社会的、文化的な性のありようが変わろうとも、変わるものではありません。現実にこの現代においても、民族紛争の中で女が犯される話は、世界中に転がっています。
刀自子にとっての自己実現が、男になること(あるいは兄になること)だったのだとすれば、それはあまりにも無惨な形で砕かれ、彼女は他者を他者として愛することができず、救いを、同母兄である兄への恋情に求めます。
最後に、蝦夷が厩戸王子に告げるのですが、王子の蝦夷への激しい恋情が、他者への愛ではなく、自己の欠落を埋めるための自己愛であったように、刀自子の兄への恋情も、そうなのです。
だからこそ、王子は自嘲しながら、刀自子を苛みます。王子にとって、刀自子の存在は、鏡に映る自分の姿でしかないのです。
厩戸王子にとっての自己実現とは、なになのでしょうか。世界を思のままにあやつること、なのだとすれば、王子の苦しみは、天才的な創造者の苦しみでしょう。
精魂込めて一つの作品を作るということは、作者が、その作品世界に君臨する、ということでしょう。創造に打ち込む、といいますか、天才的な人間が内的欲求に突き動かされて、創造にとらわれてしまったならば、おそらく、それと引き替えに、その天才は、ごく普通の人としての喜びを失うのです。
そして逆説的なことに、作品創造の内的な欲求とは、渇望です。渇望のないものに、創造はできません。
その超常能力ゆえに、母に受け入れられなかった王子は、シジフォスの神話のように、永遠に満たされることのない渇望をかかえて苦しみます。
王子にとっての救いもまた、刀自子と同じく蝦夷への恋情でした。
厩戸王子の孤独を理解し、王子に魅せられようとしていた蘇我蝦夷もまた、欠落をかかえていたのではないでしょうか。
蝦夷にもまた、王子と共鳴することを条件に、超常能力があります。
どこか普通ではないものを抱えていたがために、一歩引いて世の中を見てしまい、現実に自己が置かれた蘇我の長子、跡取りという立場に違和感がある。
しかし、優等生タイプの蝦夷は、普通の人として、自らの生を引き受けようとします。
そうしたときに、蝦夷の欠落を埋め、満たされることのない渇望を押さええた相手が、布都姫でした。
石上の斎宮で、蝦夷の母方の叔母にあたる布都姫は、物部氏の没落で、石上に留まることがかなわなくなります。
この人は、斎宮として、欠落を強いられ、人としての普通の情愛から、遠ざけられていた人でした。
彼女の欠落は外部からやってきて、そして、すでにその外部の強制が失われたときに恋をし、超常能力は失われます。
例えば、ピアノやバイオリンに優れた才能を持った女の子が、猛烈なステージママに強いられて、演奏活動にすべてを捧げて打ち込み、恋も普通の遊びも知らないで大人になったところが、ぽっくりママが死んでしまった、という状況に近いでしょうか。
普通の少女時代を過ごしていないのですから、彼女にも欠落はあります。
内的な渇望はないにもかかわらず、世間を知らないがために、普通の人として生きることへの違和感もあります。
二人は、引かれあうべくして引かれあったのであり、おたがいに他者として認め合いながら、欠落を補いえる相手であったのです。
しかし物語は、厩戸王子の壮絶な絶望に染め上げられ幕を閉じます。
カタルシスがない、といえば、そうなのです。
王子はすでに、国家をデザインすることにさえ情熱は抱きえません。満たされない渇望に呑み込まれて、母に似た狂気の少女に慰めを見出す。
しかし、ここまで突き抜けてしまうと、これもまたカタルシスです。
続編の
「馬屋古女王」 (あすかコミックス・スペシャル―山岸凉子全集)は、厩戸王子、聖徳太子の死に始まり、一族の散華を予感して終わるのですが、この短編は、王子の悲劇の謎を解く鍵であるとともに、挽歌でしょう。
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