『八重の桜』第19回と王政復古 前編の続きです。
前回、そこまで行きそこねまして、今度こそ、8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きになってくれるかと(笑)
しかし先にちょっと、秋月悌次郎の蝦夷左遷について、補足しておきたいと思います。
BS歴史館「幻の東北列藩・プロイセン連合」と史料にも、関係してくる話かと。
徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』より、以下、秋月が蝦夷(北海道)の斜里で、病に伏せっていたときの漢詩を引用します。
読み下しは徳田氏ですが、私が勝手に漢字をひらきました。
京洛この時 まさに謀を献ずべし
謫居病に臥す 北蝦夷州
死して枯骨を埋むるも また悪きにあらず
唐太以南はみな帝州
幕末から明治初年の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編と、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編を見ていただきたいのですが、秋月は、慶応2年(1866年)の12月、至急京都へ赴任するようにと言います異例の命令を受け……、異例といいますのは、当時、冬季に蝦夷地を移動するのは大変なことだったからですが、ともかく秋月は、一刻を惜しんで蝦夷を去りますので、このとき、最後の箱館奉行・杉浦梅潭に別れを告げるひまはなかったようですが、京都にいた時期も重なっていますし、杉浦は京で後の新撰組中核メンバーがいました将軍護衛浪士を担当したりもしていますから、知り合いだったはずです。
今度、杉浦さんの日記を、じっくり読んでみるつもりです。
ともかく。
ロシアは樺太を得ようと続々と囚人を送り込んでいる最中ですし、秋月さんには、北方の守りが大切なものだとわかっていたようなのですが、蝦夷の預かり地を放棄しながら、プロイセンに売ろうとしたのは、いったいだれ、なんですかね。
さて、話をもとにもどしまして、まずは討幕の密勅です。
NHK大河ドラマ『八重の桜』 第19回「慶喜の誤算」あらすじ動画を、ご覧ください。
西郷と大久保が、岩倉具視と、討幕の密勅について語っている場面が出てまいります。
討幕の密勅は、正親町三条実愛から、薩摩の大久保利通と長州の広沢真臣が受け取りました
正親町三条実愛は、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に書いておりますが、中御門経之とともに大久保利通から、さんざんっぱら幕府の陰謀を吹き込まれました倒幕派の公家です。
討幕の密勅に関係しましたのは、正親町三条実愛と中御門経之、そして、明治大帝の母方の祖父・中山忠能(倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)です。
岩倉具視はいまだ蟄居中の身ですが、中山忠能を仲間に引きずり込むなど、間接的にかかわっております。
ドラマでは、その岩倉が、「偽勅や」と、言っているのですが。
偽勅かどうかといいますと……、限りなく偽勅に近いのですが、そう言い切ってしまうことも、できないようです。
正式の勅は紹書であるべきなのですが、紹書は摂政関白が開く朝議を経て、帝直筆の裁可の文字が必要です。
しかし討幕の密勅は、直接的には上記の三人のみしかかかわっていませんから、筆をとりました正親町三条は、綸旨だったと言っているんだそうです。
綸旨は朝議を経なくてもいいのですが、帝の了解は必要です。
帝の了解を得たという体裁を整えるために、帝の祖父・中山忠能が一枚噛んだわけでして、しかし実際に帝のお耳に入れたのかどうか、疑わしいんです。
私は、ですね。少年帝は、子供のころに遊んでくれた叔父の中山忠光卿(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)を慕ってらして、攘夷討幕の旗頭でした忠光卿は長州にいると思われていたわけですし、叔父さんを助けなければ!と、密勅に積極的でおられたかもしれず、だとすれば偽勅ともいえないのではないのかな、説です(笑)
それはともかく。
吉川西郷さんが、言っていますよね。
「偽勅でんかまいもはん。これで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもっそ」
偽勅であるにせよ、ないにせよ、です。
佐幕派の二条摂政に知らせもせず……、といいますか、知られてはならず、朝議を経てもいない密勅を、公にするわけにはいかないわけでして、では、なんのための密勅だったのか、と言いますと、井上勲氏の『王政復古』では、後に正親町三条が「密勅によって薩長二藩の武力討幕の方向が決した」と語っておりますことから、薩摩にとっては藩主父子を説得し、藩内の反対論を押さえるためで、長州には、薩摩と対等の出兵であると保証するためとされております。
つまり、ドラマは、この名著を下敷きにしてくれているわけでして、さらに、岩倉具視に「王政復古や。日本を神武創業のはじめに戻す。2500年さかのぼれば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ皇国をいったん更地にして一から作り直すのや」といわせていますが、これがまた、井上勲氏が述べておられることなんです。
モンブラン伯王政復古黒幕説で、私、以下のように要約いたしました。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
ただ、せっかく、ですね。
ドラマでは、井上勲氏の著述に基づきまして、「密勅は薩摩藩内の団結のために必要だったのであり、大政奉還が行われていても関係がなかった」としておりますのに、ドラマの後の八重の桜紀行「二条城」で、「慶喜が二条城で大政奉還を表明したため、密勅は意味を失い、薩長の思惑は覆されました」なんぞと言っておりますのは、ドラマが台無しで、がっかりなんですが、通ですよねえ、このドラマの政治劇部分。
えーと、ただ、クーデター現場には、です。まるでイメージちがいの反町大山巌がのさばってまして、パリ万博帰りの岩下方平は、さっぱり登場しません。
以下、モンブラン伯の長崎憲法講義から。
モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
次いで、大政奉還 薩摩歌合戦から。
小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
このとき、西郷、大久保、小松を迎えました薩摩国元では、密勅のおかげで挙藩一致が実現しまして、すでに、新政権の樹立をにらみ、モンブラン伯爵の手で新政権から諸外国への通達詔書が起草され、それに寺島宗則が手を入れます。
寺島は外交ブレーンとして大久保とともに上京し、モンブラン伯爵も五代友厚、通訳の朝倉省吾とともに上方へのぼり、大阪の薩摩藩邸にひそみます。
で、これは私の持論なんですが、アーネスト・サトウと龍馬暗殺から。
私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。
そして、モンブラン伯王政復古黒幕説へ帰りますが。
(王政復古の)「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
えー、いま考えれば、寺島宗則が考えた可能性も高そうなのですけれども。
まあ、ともかく。
ドラマは、山国で、超外交にうとかった会津中心ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが、けっこうまともに政治劇を描いていますだけに、慶喜公と薩摩の、丁々発止の対外宣伝のぶつかりあいが見られなかったのは、実に残念です。
なにしろ幕末の動乱は対外関係に端を発しているわけですから、幕末史の著述にも、もっと世界の中の日本という視点が必要だと、私は思うんですね。
大山巌が、幕末からドラマに登場しますのは、会津の山川捨松と結婚するから、なんでしょうけれども、私は、どーしても会津の女を大河の主人公にすえたいなら、捨松さんがよかったのではないか、と思います。
幕末はばっさり切り捨てて、戊辰戦争は子供の視線で見るわけです。
少女のころにアメリカに渡り、帰国しては逆カルチャーショックを受け、しかし自分の能力を新生日本のために生かしたいと、会津籠城戦で敵側にいた大山巌の後妻になります。
鹿鳴館の時代には、根も葉もないスキャンダルを新聞に書き立てられ、日清戦争後には徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』で意地の悪い継母に仕立て上げられ、メディアの中傷に苦悩しながらも、日露戦争におきましては、アメリカの世論を日本の味方につけるべく筆をとり、留学時の人脈を生かして、懸命の民間外交をくりひろげるのです。
まあ、ちょっといまのところ、八重さんの生涯が捨松さんより興味深いとは、思えないでいます。
だから、戊辰戦争が終わったら見なくなるかも、な可能性は、けっこうあります(笑)
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徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』より、以下、秋月が蝦夷(北海道)の斜里で、病に伏せっていたときの漢詩を引用します。
読み下しは徳田氏ですが、私が勝手に漢字をひらきました。
京洛この時 まさに謀を献ずべし
謫居病に臥す 北蝦夷州
死して枯骨を埋むるも また悪きにあらず
唐太以南はみな帝州
幕末から明治初年の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編と、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編を見ていただきたいのですが、秋月は、慶応2年(1866年)の12月、至急京都へ赴任するようにと言います異例の命令を受け……、異例といいますのは、当時、冬季に蝦夷地を移動するのは大変なことだったからですが、ともかく秋月は、一刻を惜しんで蝦夷を去りますので、このとき、最後の箱館奉行・杉浦梅潭に別れを告げるひまはなかったようですが、京都にいた時期も重なっていますし、杉浦は京で後の新撰組中核メンバーがいました将軍護衛浪士を担当したりもしていますから、知り合いだったはずです。
今度、杉浦さんの日記を、じっくり読んでみるつもりです。
ともかく。
ロシアは樺太を得ようと続々と囚人を送り込んでいる最中ですし、秋月さんには、北方の守りが大切なものだとわかっていたようなのですが、蝦夷の預かり地を放棄しながら、プロイセンに売ろうとしたのは、いったいだれ、なんですかね。
さて、話をもとにもどしまして、まずは討幕の密勅です。
NHK大河ドラマ『八重の桜』 第19回「慶喜の誤算」あらすじ動画を、ご覧ください。
西郷と大久保が、岩倉具視と、討幕の密勅について語っている場面が出てまいります。
討幕の密勅は、正親町三条実愛から、薩摩の大久保利通と長州の広沢真臣が受け取りました
正親町三条実愛は、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に書いておりますが、中御門経之とともに大久保利通から、さんざんっぱら幕府の陰謀を吹き込まれました倒幕派の公家です。
討幕の密勅に関係しましたのは、正親町三条実愛と中御門経之、そして、明治大帝の母方の祖父・中山忠能(倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)です。
岩倉具視はいまだ蟄居中の身ですが、中山忠能を仲間に引きずり込むなど、間接的にかかわっております。
ドラマでは、その岩倉が、「偽勅や」と、言っているのですが。
偽勅かどうかといいますと……、限りなく偽勅に近いのですが、そう言い切ってしまうことも、できないようです。
正式の勅は紹書であるべきなのですが、紹書は摂政関白が開く朝議を経て、帝直筆の裁可の文字が必要です。
しかし討幕の密勅は、直接的には上記の三人のみしかかかわっていませんから、筆をとりました正親町三条は、綸旨だったと言っているんだそうです。
綸旨は朝議を経なくてもいいのですが、帝の了解は必要です。
帝の了解を得たという体裁を整えるために、帝の祖父・中山忠能が一枚噛んだわけでして、しかし実際に帝のお耳に入れたのかどうか、疑わしいんです。
私は、ですね。少年帝は、子供のころに遊んでくれた叔父の中山忠光卿(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)を慕ってらして、攘夷討幕の旗頭でした忠光卿は長州にいると思われていたわけですし、叔父さんを助けなければ!と、密勅に積極的でおられたかもしれず、だとすれば偽勅ともいえないのではないのかな、説です(笑)
それはともかく。
吉川西郷さんが、言っていますよね。
「偽勅でんかまいもはん。これで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもっそ」
偽勅であるにせよ、ないにせよ、です。
佐幕派の二条摂政に知らせもせず……、といいますか、知られてはならず、朝議を経てもいない密勅を、公にするわけにはいかないわけでして、では、なんのための密勅だったのか、と言いますと、井上勲氏の『王政復古』では、後に正親町三条が「密勅によって薩長二藩の武力討幕の方向が決した」と語っておりますことから、薩摩にとっては藩主父子を説得し、藩内の反対論を押さえるためで、長州には、薩摩と対等の出兵であると保証するためとされております。
王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書) | |
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つまり、ドラマは、この名著を下敷きにしてくれているわけでして、さらに、岩倉具視に「王政復古や。日本を神武創業のはじめに戻す。2500年さかのぼれば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ皇国をいったん更地にして一から作り直すのや」といわせていますが、これがまた、井上勲氏が述べておられることなんです。
モンブラン伯王政復古黒幕説で、私、以下のように要約いたしました。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
ただ、せっかく、ですね。
ドラマでは、井上勲氏の著述に基づきまして、「密勅は薩摩藩内の団結のために必要だったのであり、大政奉還が行われていても関係がなかった」としておりますのに、ドラマの後の八重の桜紀行「二条城」で、「慶喜が二条城で大政奉還を表明したため、密勅は意味を失い、薩長の思惑は覆されました」なんぞと言っておりますのは、ドラマが台無しで、がっかりなんですが、通ですよねえ、このドラマの政治劇部分。
えーと、ただ、クーデター現場には、です。まるでイメージちがいの反町大山巌がのさばってまして、パリ万博帰りの岩下方平は、さっぱり登場しません。
以下、モンブラン伯の長崎憲法講義から。
モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
次いで、大政奉還 薩摩歌合戦から。
小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
このとき、西郷、大久保、小松を迎えました薩摩国元では、密勅のおかげで挙藩一致が実現しまして、すでに、新政権の樹立をにらみ、モンブラン伯爵の手で新政権から諸外国への通達詔書が起草され、それに寺島宗則が手を入れます。
寺島は外交ブレーンとして大久保とともに上京し、モンブラン伯爵も五代友厚、通訳の朝倉省吾とともに上方へのぼり、大阪の薩摩藩邸にひそみます。
で、これは私の持論なんですが、アーネスト・サトウと龍馬暗殺から。
私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。
そして、モンブラン伯王政復古黒幕説へ帰りますが。
(王政復古の)「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
えー、いま考えれば、寺島宗則が考えた可能性も高そうなのですけれども。
まあ、ともかく。
ドラマは、山国で、超外交にうとかった会津中心ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが、けっこうまともに政治劇を描いていますだけに、慶喜公と薩摩の、丁々発止の対外宣伝のぶつかりあいが見られなかったのは、実に残念です。
なにしろ幕末の動乱は対外関係に端を発しているわけですから、幕末史の著述にも、もっと世界の中の日本という視点が必要だと、私は思うんですね。
大山巌が、幕末からドラマに登場しますのは、会津の山川捨松と結婚するから、なんでしょうけれども、私は、どーしても会津の女を大河の主人公にすえたいなら、捨松さんがよかったのではないか、と思います。
幕末はばっさり切り捨てて、戊辰戦争は子供の視線で見るわけです。
少女のころにアメリカに渡り、帰国しては逆カルチャーショックを受け、しかし自分の能力を新生日本のために生かしたいと、会津籠城戦で敵側にいた大山巌の後妻になります。
鹿鳴館の時代には、根も葉もないスキャンダルを新聞に書き立てられ、日清戦争後には徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』で意地の悪い継母に仕立て上げられ、メディアの中傷に苦悩しながらも、日露戦争におきましては、アメリカの世論を日本の味方につけるべく筆をとり、留学時の人脈を生かして、懸命の民間外交をくりひろげるのです。
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