郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

『八重の桜』第19回と王政復古 後編

2013年05月16日 | 幕末大河ドラマ
 『八重の桜』第19回と王政復古 前編の続きです。

 前回、そこまで行きそこねまして、今度こそ、8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きになってくれるかと(笑)

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 しかし先にちょっと、秋月悌次郎の蝦夷左遷について、補足しておきたいと思います。
 BS歴史館「幻の東北列藩・プロイセン連合」と史料にも、関係してくる話かと。

会津藩儒将 秋月韋軒伝
徳田武
勉誠出版


 徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』より、以下、秋月が蝦夷(北海道)の斜里で、病に伏せっていたときの漢詩を引用します。
 読み下しは徳田氏ですが、私が勝手に漢字をひらきました。

 京洛この時 まさに謀を献ずべし
 謫居病に臥す 北蝦夷州
 死して枯骨を埋むるも また悪きにあらず
 唐太以南はみな帝州

 幕末から明治初年の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編と、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編を見ていただきたいのですが、秋月は、慶応2年(1866年)の12月、至急京都へ赴任するようにと言います異例の命令を受け……、異例といいますのは、当時、冬季に蝦夷地を移動するのは大変なことだったからですが、ともかく秋月は、一刻を惜しんで蝦夷を去りますので、このとき、最後の箱館奉行・杉浦梅潭に別れを告げるひまはなかったようですが、京都にいた時期も重なっていますし、杉浦は京で後の新撰組中核メンバーがいました将軍護衛浪士を担当したりもしていますから、知り合いだったはずです。
 今度、杉浦さんの日記を、じっくり読んでみるつもりです。

 ともかく。
 ロシアは樺太を得ようと続々と囚人を送り込んでいる最中ですし、秋月さんには、北方の守りが大切なものだとわかっていたようなのですが、蝦夷の預かり地を放棄しながら、プロイセンに売ろうとしたのは、いったいだれ、なんですかね。

 さて、話をもとにもどしまして、まずは討幕の密勅です。
 NHK大河ドラマ『八重の桜』 第19回「慶喜の誤算」あらすじ動画を、ご覧ください。
 西郷と大久保が、岩倉具視と、討幕の密勅について語っている場面が出てまいります。
 討幕の密勅は、正親町三条実愛から、薩摩の大久保利通と長州の広沢真臣が受け取りました

 正親町三条実愛は、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に書いておりますが、中御門経之とともに大久保利通から、さんざんっぱら幕府の陰謀を吹き込まれました倒幕派の公家です。
 討幕の密勅に関係しましたのは、正親町三条実愛と中御門経之、そして、明治大帝の母方の祖父・中山忠能(倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)です。

 岩倉具視はいまだ蟄居中の身ですが、中山忠能を仲間に引きずり込むなど、間接的にかかわっております。
 ドラマでは、その岩倉が、「偽勅や」と、言っているのですが。

 偽勅かどうかといいますと……、限りなく偽勅に近いのですが、そう言い切ってしまうことも、できないようです。
 正式の勅は紹書であるべきなのですが、紹書は摂政関白が開く朝議を経て、帝直筆の裁可の文字が必要です。
 しかし討幕の密勅は、直接的には上記の三人のみしかかかわっていませんから、筆をとりました正親町三条は、綸旨だったと言っているんだそうです。
 綸旨は朝議を経なくてもいいのですが、帝の了解は必要です。
 帝の了解を得たという体裁を整えるために、帝の祖父・中山忠能が一枚噛んだわけでして、しかし実際に帝のお耳に入れたのかどうか、疑わしいんです。

 私は、ですね。少年帝は、子供のころに遊んでくれた叔父の中山忠光卿(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)を慕ってらして、攘夷討幕の旗頭でした忠光卿は長州にいると思われていたわけですし、叔父さんを助けなければ!と、密勅に積極的でおられたかもしれず、だとすれば偽勅ともいえないのではないのかな、説です(笑)

 それはともかく。
 吉川西郷さんが、言っていますよね。
 「偽勅でんかまいもはん。これで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもっそ」 

 偽勅であるにせよ、ないにせよ、です。
 佐幕派の二条摂政に知らせもせず……、といいますか、知られてはならず、朝議を経てもいない密勅を、公にするわけにはいかないわけでして、では、なんのための密勅だったのか、と言いますと、井上勲氏の『王政復古』では、後に正親町三条が「密勅によって薩長二藩の武力討幕の方向が決した」と語っておりますことから、薩摩にとっては藩主父子を説得し、藩内の反対論を押さえるためで、長州には、薩摩と対等の出兵であると保証するためとされております。 

王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)
クリエーター情報なし
中央公論社


 つまり、ドラマは、この名著を下敷きにしてくれているわけでして、さらに、岩倉具視に「王政復古や。日本を神武創業のはじめに戻す。2500年さかのぼれば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ皇国をいったん更地にして一から作り直すのや」といわせていますが、これがまた、井上勲氏が述べておられることなんです。

 モンブラン伯王政復古黒幕説で、私、以下のように要約いたしました。

 幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
 で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
 尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
 次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
 で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
 

 ただ、せっかく、ですね。
 ドラマでは、井上勲氏の著述に基づきまして、「密勅は薩摩藩内の団結のために必要だったのであり、大政奉還が行われていても関係がなかった」としておりますのに、ドラマの後の八重の桜紀行「二条城」で、「慶喜が二条城で大政奉還を表明したため、密勅は意味を失い、薩長の思惑は覆されました」なんぞと言っておりますのは、ドラマが台無しで、がっかりなんですが、通ですよねえ、このドラマの政治劇部分

 えーと、ただ、クーデター現場には、です。まるでイメージちがいの反町大山巌がのさばってまして、パリ万博帰りの岩下方平は、さっぱり登場しません。
 以下、モンブラン伯の長崎憲法講義から。

 モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
 ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
 ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
 岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
 

 次いで、大政奉還 薩摩歌合戦から。

 小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
 こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
 

 このとき、西郷、大久保、小松を迎えました薩摩国元では、密勅のおかげで挙藩一致が実現しまして、すでに、新政権の樹立をにらみ、モンブラン伯爵の手で新政権から諸外国への通達詔書が起草され、それに寺島宗則が手を入れます。
 寺島は外交ブレーンとして大久保とともに上京し、モンブラン伯爵も五代友厚、通訳の朝倉省吾とともに上方へのぼり、大阪の薩摩藩邸にひそみます。

 で、これは私の持論なんですが、アーネスト・サトウと龍馬暗殺から。

 私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
 つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
 そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。


 そして、モンブラン伯王政復古黒幕説へ帰りますが。

 (王政復古の)「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
 それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
 

 えー、いま考えれば、寺島宗則が考えた可能性も高そうなのですけれども。
 まあ、ともかく。
 ドラマは、山国で、超外交にうとかった会津中心ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが、けっこうまともに政治劇を描いていますだけに、慶喜公と薩摩の、丁々発止の対外宣伝のぶつかりあいが見られなかったのは、実に残念です。

 なにしろ幕末の動乱は対外関係に端を発しているわけですから、幕末史の著述にも、もっと世界の中の日本という視点が必要だと、私は思うんですね。

 大山巌が、幕末からドラマに登場しますのは、会津の山川捨松と結婚するから、なんでしょうけれども、私は、どーしても会津の女を大河の主人公にすえたいなら、捨松さんがよかったのではないか、と思います。
 幕末はばっさり切り捨てて、戊辰戦争は子供の視線で見るわけです。
 少女のころにアメリカに渡り、帰国しては逆カルチャーショックを受け、しかし自分の能力を新生日本のために生かしたいと、会津籠城戦で敵側にいた大山巌の後妻になります。
 鹿鳴館の時代には、根も葉もないスキャンダルを新聞に書き立てられ、日清戦争後には徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』で意地の悪い継母に仕立て上げられ、メディアの中傷に苦悩しながらも、日露戦争におきましては、アメリカの世論を日本の味方につけるべく筆をとり、留学時の人脈を生かして、懸命の民間外交をくりひろげるのです。

 まあ、ちょっといまのところ、八重さんの生涯が捨松さんより興味深いとは、思えないでいます。
 だから、戊辰戦争が終わったら見なくなるかも、な可能性は、けっこうあります(笑)

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『八重の桜』第19回と王政復古 前編

2013年05月14日 | 幕末大河ドラマ

 えーと。
 今回、おそらくは最初で最後になるだろう、NHK大河ドラマ『八重の桜』の感想です。
 あるいは、歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る」の続きで……、いえ、それよりも8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きでしょうか。

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 最初に書いてしまいますが、今回の大河『八重の桜』、いままでのところ、京都におきます政治劇だけは、ストレスを感じず、けっこう楽しんで見ています。つっこみどころがないわけじゃあないのですが、どこの国のいつの時代のつもりなの??? ただのコスプレが見たいならコミケに行くわよっ!!!と、うんざりしますような大きな勘違いはなく、安心して見ることができます。

 ただね、視聴率が低い理由も、わかるような気がします。
 私が楽しんでおりますのは、主人公の八重には関係ない部分でして、八重の身辺の話になりますと、どーでもいい感じよねえ、と本を読んだりしはじめるから、です。

 どうしても『Jin- 仁』の咲さんとくらべてしまいます。

Jin- 仁 OST 最終回 咲さんからの手紙 MISIA ver.


 咲さんの場合、恋だけではなく、医者になりたいというその思いにも切実さを感じますし、婚約を破棄し、母親に勘当され、葛藤をかかえつつ、ひたむきに志を貫こうとします姿が、まっとうな意味で、時代に関係のない普遍的な感興をそそるのだと思うんですね。
 簡単に言ってしまいますと、感情移入しやすい、ってことでしょう。

 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上において、私、森有礼夫人の常がグラスゴー大学医学部に留学したかもしれない可能性にからんで、以下のようにシーボルトの娘イネのことを書いております。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。
 

 常の最初の子をとりあげたのはイネではなかったか、という話は、広瀬常と森有礼 美女ありき15に書きましたように、常が父親とともに元大洲藩上屋敷の門長屋に住んでいたことは確かで、どうやら常の父親は、武田斐三郎の紹介で、元大洲藩主・加藤家の財産管理の手伝いをしていたわけですから、可能性が大きくなります。
 なぜならば、イネの娘・タダの夫だった三瀬周三は、大洲藩領の出身で、武田斐三郎と三瀬周三は、大洲の国学者・常磐井厳戈の同門だったりするからです。

 話がそれましたが、当時、女性が医者になることは難しいことでしたが、不可能なことではなく、ちょうど幕末ころから、欧米でも女性に大学医学部への狭き門が、ひらかれようとしていたんです。
 実際、『Jin- 仁』の原作漫画では、咲さんとイネとの出会いが描かれていまして、幕末におきまして、女が医者になることは、現実にがんばれば望みはかなう!ことでした。

 一方、ですね。
 女が鉄砲を持ったからって、なにになるんですかね?
 当時の西洋近代軍隊は、女性に開かれておりませんでした。
 まあ、南北戦争に男装して従軍した女性がいたり、というような話はありますが、郷土が戦場になるような場合のイレギュラーな例でしかありませんし、職業軍人になる道は、閉ざされておりました。

 結果的に、八重が戊辰戦争の会津籠城戦で戦いましたことは、あきらかにイレギュラーな例で、それ以前に八重が鉄砲を手にしていましたのは、趣味でしかないんですね。
 年頃の武士の娘が趣味にのみ没頭し、そのわりには周囲との葛藤がほとんどなく、暖かく趣味を許容してくれる夫にも恵まれ、気楽に暮らしているだけですから、ああ、そうですか。と、見ている方は、ドキドキ感がまるでなく、どうでもよくなってしまうんです。

 おそらく、戊辰戦争までは見ると思いますが、京都時代は、どうですかね。
 桐野の愛人で、新島襄のもとで洗礼を受けていたといわれます村田サトさんが出てきたら、見ます! 会津開城式の官軍代表・薩摩の桐野の愛人だった、ということで、八重さんにいじめられたりしなかったんでしょうか(笑)

 ともかく。
 あと、ストレスなく楽しめます京都の政治劇で、これはちょっと……とつっこみたくなりましたのは、NHK大河ではいつものことなんですが、勝海舟が後年の大ボラ回顧談そのままに大活躍しすぎ、なのと、秋月悌次郎にからみまして、失脚の理由が池田屋事件って、悌次郎が「貶められて」蝦夷(北海道)の斜里に左遷されましたのは慶応元年9月のことでして、池田屋事件はそれより一年以上も前のことですから、あんまりにもばかばかしく、そのことにも関係しますが、最大の欠陥は、新撰組を馬鹿にしすぎ!な点、ではないでしょうか。

 秋月悌次郎に関しましては、一夕夢迷、東海の雲でご紹介しております、松本健一氏の『秋月悌次郎 決定版 - 老日本の面影』
がよかったのですが、最近出ました徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』も、あまり憶測をまじえることなく、淡々と書かれました労作です。

会津藩儒将 秋月韋軒伝
徳田武
勉誠出版


 現在まだ、飛ばし読んだだけなのですが、ただ、一つ、時期の特定を間違えておられるかな、と思えます部分があります。
 後年の秋月の語り残し(牧野謙次郎『維新伝疑史話』)に、「薩長の密約が成ったという説が盛んになっていたので、昔から知っていた小松帯刀を、京都の薩摩藩邸に訪ねたが、他に用件があって会えないといわれた。一日待っていたが会えず、実は、薩長の密約はこの日をもって京都においてなった」 というような話があるのだそうですが、これを徳田氏は、「密約とは、慶応元年6月24日、京都で西郷と龍馬、慎太郎が会談して、薩摩が長州の武器購入に名義貸しを約束したことを言うのだろう」と、推定しておられます。
 先に書きましたように、秋月は慶応元年の9月には蝦夷にとばされ、一般に薩長同盟が結ばれたとされます慶応2年の正月には、京都にいないからです。

 しかし、慶応元年6月には、小松帯刀が京都にいません。

 
小松帯刀 (人物叢書)
高村 直助
吉川弘文館


 上の本によりますと、この6月、小松帯刀は薩摩にいて、6月23日に薩摩を出立、26日に長崎に到着しているんだそうです。
 松浦玲氏は『坂本龍馬 』(岩波新書)で、近藤長次郎たちは、あるいはこのとき、小松に伴われて長崎に出たのではないか、と推測されています。

 結局、語り残しですから、おおざっぱな話でしょうし、秋月が再び京都へ呼び戻されました慶応3年、「討幕の密勅が出た日」のこと、と考えれば、ぴったりするのではないでしょうか。

 私、大政奉還と桐野利秋の暗殺に次のように書いております。


 この3日後の朝彦親王日記に、赤松暗殺のことが見えます。
 朝彦親王とは、青蓮院宮。8.18クーデターの中心人物で、佐幕派です。
 もともとは、薩摩藩と良好な関係だったのですが、薩摩が長州よりに大きく舵をきって以降、一会桑政権との連携を深めてきたお方です。

 慶応3年9月6日
 深井半右衛門参る。過日東洞院通五条付近にて薩人キリ死これあり候風聞のところ、右人体は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし、右人体天誅をくわえ候よし書きつけこれあり候。
 もっとも○十印、よほどこのころなにか計これあるべくか内情難斗よし、よほど苦心の次第仍摂公へもって封中申入る。もっとも秋月悌次郎へ申し入る。

 やはり、どうも、秋月悌次郎がかかわっていた可能性が高まります。
 そして、高崎正風の日記。(fhさまのご厚意です)

9月29日条。
朝、小松を叩、秋月(会)堀(柳河)を訪、後、大野と村山に行。

 やはり、秋月悌次郎に会っています。
 ふう、びっくりしたー白虎隊でも書きましたが、後年、秋月が熊本の第五高等中学校で漢文を教えていたところへ、高崎正風がたずねて来ます。8.18クーデターから30年数年の後、二人は終夜酒を酌み交わし、秋月は翌日の授業の準備も忘れるのです。
 私、なにかこう、ですね、中村彰彦氏の小説に出てくるように、慶応三年の高崎が、秋月に冷たくて、居留守を使うような状態であれば、このときの会合が、それほど秋月にとって、心に響くものとはならなかったと思うのです。
 クーデターを成功させた二人が、時勢の変化をかみしめ、それでもなんとかならないものかとあがいてみた、そんな共通の体験があったのではないでしょうか。
 

 大政奉還 薩摩歌合戦もあわせてごらんいただきたいのですが、大政奉還の時期、薩摩も一枚岩ではなく、秋月は高崎正風に会っています。
 そして、徳田氏によりますと、秋月はこのころ、ひじょうに朝彦親王の信頼を得ていて、しかも、幕府の大小目付で、9月11日に暗殺されました原市之進の代わりとして、朝彦親王が新撰組の近藤勇を推薦しようとしたことに、大いに賛成しているのだそうです。

 池田屋事件のとき、会津藩の意向を無視しまして、新撰組がつっぱしった、という『八重の桜』の設定からしておかしなものだったのですが、ドラマのように、秋月が新撰組を迷惑視したかのような描き方は、妙なものだった、といわざるをえません。

 えーと。
 『八重の桜』が描きます王政復興にまで話が進む前に、話が長くなりすぎましたので、後編に続きます。
 今回はけなしてばかりでしたが、後編では褒めます(笑)。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーミックス超人「龍馬伝」

2010年11月06日 | 幕末大河ドラマ
 「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編の続きです。
 続きっていいますか……、書く予定はなかったんですけど、もう、笑い転げて涙が出まして、ちょっとつぶやかねば、笑いがとまらない勢いでして。
 「スーパーミックス超人龍馬伝」とでも、題名を変えた方がいいんじゃないんですかねえ、このドラマ。
 アーネスト・サトウ登場!に引かれて、見たんです、再放送を。
 ギャグもここまできますと、りっぱな学芸会です!

 大政奉還だ、オー!
「オー、がんばれえっー! 運動会かよ。ひー、けらけらけら」

 なに? このパークス。机も叩かないし、大人しいよ。かわりにサトちゃんが怒鳴ってら。
 「パークス! もっと気張れや! ひー、けらけらけら」

 なんで、この時期の長崎奉行でもない朝比奈さんが、長崎で水戸黄門の悪代官みたいなのやってるの?
「おー! 捨て台詞かっこいいぞお! ひー、けらけらけら」

 なにを悲壮な顔して逃げてんの? お元ちゃん。
「ここで逃げるかよ! ひー、けらけらけら。浦上四番崩れは、フランスカトリック教会の神父が、堂々と信仰表明すべき、とたきつけたから起こったんだろうがよ。ひー、けらけらけら」

 「パークスさんが家を用意していてくれるきに」「マリア様の拝める国へ行きます」
「も、もう、もうだめえ!!! ひー、けらけらけら。居留地の教会は日本人に伝道をしない約束なのに、その約束を公然と破ったフランスのカトリック教会に、イギリスは批判的だったんだけどねえ。しかも、よりにもよってイギリスが、マリア様の拝める国だって!!! ひー、けらけらけら。パークスちゃん、聞いてる? 怒鳴ってやってよ。ひー、けらけらけら」

 「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」で書いておりますが、土佐にかかった犯人疑惑がなんとかおさまったのは、あきらかに、薩摩藩がイギリス公使館に働きかけたから、です。
 要するに、「西郷隆盛のやったことも、五代友厚がやったことも、後藤がやったことも、ぜーんぶ龍馬がやったことにして、しかも西郷も五代も、裏の裏を読んでイギリスに対していたのに、土下座と自慢話で相手を催眠術にかけるスーパーミックス超人龍馬ギャグをやりたいわけね。ひー、けらけらけら」

 やっぱ、このシナリオライター、頭に蛆がわいていますわ。少なくとも、数千匹は。

 つーか、こんな甘ちゃん学芸会歴史ドラマをNHKが作っているよーだから、どーしようもない甘ちゃんたちが政権とって、現場の苦労はそっちのけの勘違いした「柳腰」芸者右往左往のきちがい沙汰になるんでしょうか。
 「がんばれえ!!! 流出尖閣ビデオ。YouTube万歳!!!」(笑)

 (追記)「がんばれえ!!! テキサス親父、平成のエドウィン・ダン。愛してるよ!!!」(笑)


クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編

2010年11月03日 | 幕末大河ドラマ
 実はつい先日の日曜日、アクセスが爆発的に増えたんです。
 ?????と見てみましたら、「アーネスト・サトウと龍馬暗殺」「アーネスト・サトウ vol1」と、アーネスト・サトウの記事に集中しています。「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」も読んでね(笑)

 な、な、な、なにごと???と驚いたんですが、「アーネスト・サトウ 龍馬」のキーワード検索が多く、「イカロス号事件」というのもけっこうありましたから、「そういや、龍馬伝でイカロス号事件をやるとかいってたっけ。もしかして……、サトちゃん登場したの???」と喜んで、検索をかけてみましたら、パックンがやったとのこと。
 パックンですかあ。外見は、そこそこ似てますね。
 ルパート・エヴェレットがイメージだったんですけど、若き日を演じるには、年がいきすぎましたねえ。まあNHKが、端役にそんなお金を使うはずもないんですけれども。
 ともかく、慌てて、土曜日の再放送、録画予約しましたわ(笑)

 えー、「アーネスト・サトウ vol1」の続きは、長らく放ったままですが、愛が募って書けない、ということもありまして、私は、サトちゃんに惚れていますし。

 有川弥九郎さんと楽しく酒盛りしたり、江戸留守居役・柴山良助の死を知って、「仇を討ってやりたいものだ」と日記に書いた、若き日のサトちゃん。
 
 その晩年、日本人の息子を連れて、リーズデイル卿、バーティ・ミットフォードのバッツフォード邸を訪れ(訪れたと思います)、竹林を歩きながら、遠い日本の過ぎ去った昔に思いを馳せるサトちゃん。

 どんな場面を思い描いても愛おしいのですが、以下の場面で涙ぐむ私は、病気かもしれません。

 
アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より (東西交流叢書)
イアン・C. ラックストン
雄松堂出版

このアイテムの詳細を見る


 上の本から、です。
 明治36年(1903)11月14日、北京在住イギリス公使・アーネスト・サトウのもとに、日本公使館付き武官・山根武亮中将が現れます。転任の辞令があって帰国することになり、別れの挨拶に訪れたのです。日露開戦の3ヶ月たらず前のことです。
 その日の日記に、サトウはこう書きました。

「彼は最後に私に、公使としてではなく日本を知り全般的な情勢に通じた一私人として、日本はいま戦うべきか、それとも延期した方がよいかと尋ねた。私は考え込んで、暫くして、いまだ、と答えた」

 山根武亮中将は、嘉永6年(1853)、長州藩士の次男として生まれました。維新時は、まだ15歳。
 しかし、外敵への備えをまったくもたない小さな島国だった日本が、多くの屍を乗り越えて、光と闇を織りなしつつ、ようやくロシアと対峙できるまでになったその過程の、その渦中で成長し、年を重ねてきた人です。
 幕末から日本をよく知り、日本人の妻と息子をもっているイギリス公使に、どうか「一私人」として答えてくれ、と頼んだ山根中将は、果たして日本はロシア相手に戦いえるのかどうか、不安にゆれていたのでしょう。
 それに答えるサトウは、真剣でした。血をわけた息子の国なのですから。

「文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編」でも引きましたが、日清戦争の直後、知人への手紙に、「私が日本に滞在中、日本が第3位、第4位の地位に上ると信じたことは一度もありませんでした。国民はあまりにも単なる模倣者であり、基本的なものに欠けているように思えました。しかし、私が一度でも疑わなかったことの一つは、サムライ階級の騎士的勇気でした」と書いたサトウです。

 サムライ階級は滅び、しかし、そのサムライ階級出身の中将が、これまで日本が積み上げてきたものが潰え去るかもしれない瀬戸際に立って、不安を押さえつつ、真剣なまなざしで問いかけてきたんです。
 サトウは、成長したわが子の決断のときを前にした思いで、答えたでしょう。
 力強い、励ましのようなその答えに、山根中将は心からの敬礼で応じ、サトウは万感を胸に秘め、その後ろ姿を見送ったにちがいありません。

 と、ですね、そんな場面を思い浮かべつつ、毎回龍馬伝を見ています妹に、
「前回、アーネスト・サトウが出てたんだって?」
 と、聞きましたところ、
「ちょっぴりね。そんなことより、長崎の芸者さんで、お元っていう龍馬の恋人がいるんだけどね、それがキリシタンで、捕まりそうになったもんで、龍馬がパークスに頼んで、イギリスに逃がすのよ。あの時代に日本人の女が一人でイギリスに行って、生きていけるわけがないじゃない。幸せになれると思う? 牢屋に入った方がなんぼかましよっ!!!」

 はああああ????? パークスが!!! あのフランス語がしゃべれなくて、サトウに通訳させながら、フランス公使ロッシュと喧嘩していたパークスが、フランスの修道会がカトリック教会に復帰させて鼻高々の日本のキリシタンを、幕府の意向を無視して、カトリック嫌いのイギリスに逃がすってええええ?????
 もう、茫然自失。

 い、い、い、いや……、そんな珍妙な、きちがいじみた冗談に、真剣になられても。
 ふきだしたいのをこらえて、つい、私は、言ってしまったんです。
「慶応3年よねえ。ちょうどパリ万博で、日本の芸者さんがものすごい評判になって、ジャポニズムが巻き起こっている最中よ。カトリック嫌いのイギリスじゃなくて、フランスへ行って、祖先から受け継いだ信仰を守り、現在に復活したカトリック芸者でござあーいって、見世物になったら、絶対、大もうけできるよ」
「私は、幸せになれるかどうかって、言ってるのよっ!」
と、妹に怒られてしまいましたわ。

 浦上四番崩れね。
 隠れキリシタンの信仰は、村落共同体の土着信仰でしたからね。村を離れては、意味のないものなんですわよ。
 フランス革命でいったんぐだぐだになりましたフランスのカトリック教会は、この19世紀半ばリニューアルし、新たな熱を集めて、東洋伝道に情熱を燃やしていました。その昔、弾圧で根絶やしになったと思われていた日本のキリシタン発見!!! わがフランスの伝導会がそれをカトリック教会に復帰させたぜい!!! と、たいした手柄だったわけです。

 パークスはもちろん、アーネスト・サトウにしましても、信仰の自由は信奉し、日本がキリスト教全体を邪教視していることには抵抗をもち、弾圧がいいこととは思っていませんでしたけれども、それとこれとは、別の話です。
 だいたい、当時のイギリスは、他国の信仰に口をはさむのは内政干渉とこころえておりましたし、カトリック排斥を国是とした歴史を持つ国ですし(当時、まだ根強くカトリック信者への差別もありました)、自国民が関係しているわけでも、ないんですからねえ。
 えー、もし、もしもです。龍馬がほんとうに
「わしのといちがキリシタンじゃきに、イギリスへ逃がしてやってつかあさい」
 と言ったとします。
「おとといおいで」でおわりでしょうが、サトちゃんはやさしいですから、片目をつぶって、「フランス公使へ訴えるのが筋です。通訳してあげましょうか?」と、言ってくれたりしたかも……、しれません(笑)

 しかしねえ。見るのが怖くなりましたわ。
 笑い転げそうで。
 きっとシナリオを書いている人の頭に蛆がわいている、にちがいありません。

クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする