郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

トゥオネラの舞姫

2007年01月29日 | 読書感想
舞姫(テレプシコーラ) 10 (10)

メディアファクトリー

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それほど詳しいわけではないのですが、その昔、少女漫画のあけぼのの時代から、バレー漫画は定番であったようです。

【図書の家】少女漫画研究室

昭和20年代に『赤い靴』という題名が見えますのは、モイラ・シアラー主演、昭和23年製作の名作バレー映画『赤い靴』の影響でしょうか。
『赤い靴』は、子供の頃、テレビで見た覚えがあるんですが、あまりに子供で、内容をよく覚えていません。ただ、モイラ・シアラーのバレーが美しかったことは、とても印象に残っています。
バレーに憧れたのも、小学校にあがる前後のことで、バレー漫画はほとんど読んでおりません。
山岸涼子氏の『アラベスク 』の第2部が、最初に読んだバレー漫画でした。
この『アラベスク 』、第1部は『りぼん』連載で、第2部は『花とゆめ』連載。この二紙では、ダーゲットとしていた年齢が、多少ちがうのではないかと思うのです。第2部があまりに面白かったため、第1部はコミックスを買って読みました。
第1部の方は、少女漫画の王道をいくような設定ではないかと思うのです。
主人公のノンナ・ペトロワは、キエフでバレー教師をする母の元、優等生で母の期待を一身に受ける姉とともに、バレリーナを志しています。母に認められないため、自分に自信がもてず、それでもバレーへの思いが消せないノンナが、ある日、真夜中のバレー学校で練習をしていますと、突然、すばらしい男性パートナーが現れ、ノンナは夢のようにきれいに踊ることができたのです。闇で顔も見えなかった男性は、かき消すようにいなくなりますが、その翌日、その男性の正体がわかります。レニングラード・バレー団から地方視察に来ていたソ連若手有数の男性ダンサー、ユーリ・ミロノフだったのです。
そして、優秀だった姉ではなく、ノンナが、レニングラード・バレー学校へさそわれ……、そこからは、ライバルと戦い、挫折を繰り返しながらも、プリマへの道を歩むノンナが描かれるのですが、醜いアヒルの子が白鳥になってはばたく、という大筋は、まさに少女漫画の王道ですよね。
ただ、山岸涼子の場合、非常に丁寧にバレーそのものの魅力と、ノンナの心理を描いていて、引き込まれる感じでした。ソ連が舞台というのも、当時の日本では、プリマをめざすということ自体が特殊で、現実感がなさすぎたのでしょう。それによって、リアリティーのある物語に仕上がっていたんです。
第2部は、まだ学生でありながらすでにスターとなったノンナの、新たな成長の物語なのですが、心理描写はさらに細やかになり、絵も細密に美しくなってきまして、クラシック・バレーとはなんぞや? という本質的な問いかけにまで、お話は深まります。
お話の終盤近く、ノンナが到達したラ・シルフィードの忘我の舞い。これはもう、何年たっても忘れられない美しい画面でした。

で、数年前のことです。なにかの書評で、山岸涼子氏がまたバレー漫画を書かれていると知り、慌てて買いに走りました。それから半年に一冊、つい先日に発売されましたこの10巻で、『テレプシコーラ』第1部が完了です。
最初は、はっきりと気づかなかったのですが、基本的な設定は『アラベスク 』に似ているのです。
舞台は日本ですが、バレー教室を開いている母の元、姉の千花は天賦の才と身体能力、美貌と負けず嫌いの根性をあわせもち、母の期待を一身に背負っています。妹の六花は、身体能力に欠け、のんびりとして気が弱く、母の関心が自分にはないことに、寂しさを感じています。
『アラベスク 』においては、そういった親子姉妹の葛藤は、物語の冒頭でわずかに語られるだけなのですが、『テレプシコーラ』では、少女にとってはもっとも重いはずのその肉親の相克の心理が、ごく身近な日常的な場面を丁寧に描くことで、ずっと物語の底流に響いているのです。
私が、最初にそれに気づかなかったのは、最初の三巻の間、もっと衝撃的な登場人物にスポットが当てられていたからでした。
千花、六花の姉妹は、バレー教室を開いている母親の実家は裕福ですが、父親は地方公務員で、少々経済的には恵まれていますが、ごく普通の家庭の子供です。
ところが、六花の小学校に、非常に貧しく、容貌にも恵まれず、性格もどこかゆがんで、いじめの対象になる少女が転校してきます。その少女、空美に六花の関心が引きつけられたのは、彼女がバレーにおいては天才的な能力を持ち、しかもしっかりとした基礎を身につけていたからです。実は空美は、今は足を悪くして落魄れたかつてのプリマの姪だったのですが、この落魄れたプリマが、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』の主人公ブランチのパロディのような人物なのです。いえ、元プリマはかわいがっている猫にブランチと名付けていますから、あきらかにパロディなのでしょう。
その落魄の描き方も壮絶なのですが、元プリマの弟、空美の父親のだめ男ぶりが強烈で、空美は児童ポルノ写真のモデルまでやらされる、というすさまじさですから、これはもう、こちらの方に気をとられてしまいます。
とはいえ、コンクールなどの山場は実に華やかですし、読み進むにつれ、六花は身体能力には恵まれないものの、どうやら別な才能、別な才能とはコリオグラファー(振り付け師)なのですが、があるのではないか、という展開が見えてきます。すべてに恵まれていたはずの千花が、次々に災難に見舞われる一方で、六花は少しづつ弱気を克服して、成長していきます。
年齢を経て、より緻密に、よりしっかりとした心理描写を、それも大上段にふりかぶらず、さりげなく重ねていく山岸さんの腕には、ただただ脱帽です。そして、ほんとうにバレーがお好きなのでしょう。実に美しい絵によって、細かなバレー技法の解説がけっして邪魔に成らず、むしろ確かなリアリティーと臨場感をそえてくれます。
途中から、大筋は読めてきたのですが、ぐいぐいと引き込まれ、半年に一度の新刊を、いつも待ち望んでいました。
母親に期待される姉と、期待されない妹。よくある話ですよね。しかし、よくある話であるだけに、作者が思春期にまだ近い時期には、それを綿密に表現することが、むつかしいのかもしれません。
今回は、期待される姉の側の苦悩をも、見事に描ききっておられました。
そして、第1部の最後は……、六花が自らの振り付けで舞う、トゥオネラの白鳥です。「あの世とこの世の境を流れる河トゥオネラ」。
ノンナの到達した舞いも、「妖精が生身の人間であってはならない」という言葉で言い尽くされていますように、観客を魅了してやまない舞踏の魔力は、結局、彼岸に心を遊ばせ、生身の人間ではなくなる忘我の境地にあるのだと告げていたのですが、いささか抽象的で、観念に流れていた感がありました。
しかし六花は、生身の女の子として日常を生き、傷つきながら衝撃を乗り越え、涙とともに得た表現欲で、トゥオネラの白鳥を舞うのです。
第二部で、六花は三巻で消えてしまった空美と出会うんでしょうね。
第二部での再会が、待ちきれない気持ちです。


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花びら餅と和製ピエスモンテ

2007年01月26日 | 幕末文化
昔、母がお茶の先生から、花びら餅をもらってきました。
たしか、そのお茶の先生が、京都で買ったかもらったかしたもののお裾分けだったんですが、ともかく、おいしかったんです。やわらかい白い羽二重餅が、ほんのりと紅を透かして、食べると、白味噌の風味と牛蒡の芳しさが、ふんわりと口にとけて出まして。
正式の名は、菱葩(ひしはなびら)。江戸時代、京の朝廷で、正月に食べられていたお菓子だと聞きまして、納得の雅な趣でした。
以降、花びら餅と称するものを、何回か食べたことがあるんですが、これがまったく味がちがうんです。餅の部分が堅かったり、白味噌の風味が利かず、甘すぎたりしまして。
ネットで調べましたところ、老舗中の老舗は京都の川端道喜とのこと。しかし、電話で予約した上、12月末の3日間の間に京都のお店で受け取り、となりますと、とても買えるものではありません。
今年の正月、通販しているところをさがし、買ってみました。



悪くはなかったんですけど、やはり、あの昔食べた味とはちがっていました。
薄紅の菱の入り方と、あとはやはり、白味噌の風味が足りなくて、甘いんですよねえ。

『和菓子の京都』

岩波書店

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上は十五代川端道喜氏の随筆のような本です。川端道喜といえば、粽が有名、といいますか、一月の花びら餅をのぞけば、粽しか置いていない和菓子屋さんですが、それほど凝ったお菓子でもない粽を、ともかく材料を厳選し、手間暇惜しまず、昔ながらに作っている様子を読みますと、これは一度は食べてみなくては、という気になります。
川端道喜は餅屋さんで、朝廷に餅を納めていたのであって、お菓子ではない、ということなのですが、季節の行事によって、さまざまな餅を納めていた江戸時代の話は、とても興味深いものです。
明治、天皇の東行に従わないで京都に残り、明治4年には、東京に呼ばれて、これまでの御定式を伝えたのだそうです。そして、京の川端道喜は、お茶菓子の店になったのだとか。

朝廷料理といえば、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きました、幕末幕府の饗応に登場します和風ピエスモンテ、です。幕末の幕府料理役で、明治朝廷の料理人となった石井治兵家の『続 料理法大全』の復刻版を見まして、驚きました。M・ド・モージュ侯爵の描写力は、的確です。
野菜を刻んで花を作ったり、鶴と松、ススキにウサギなどの飾り物を作る方法が、絵入りで載っているのですが、これがもう、牡丹といい菊といいカキツバタといい、気が遠くなるほど手が込んだ細工なんです。たしかに、フランス貴族もびっくりの盆栽と花束、だったことがわかります。
その前書きに、石井治兵家のことが以下のように書いてあります。

延宝の頃に伊勢の国から江戸に出て、京橋鈴木町(その頃魚市場)に住んで、元禄、宝永、正徳と続いて、料理師範と幕府用達をして、勅使参考、朝鮮人来聘、また諸家の馳走などを引き受けた六代目石井治兵衛と七代目の新形の教授目録(手記は文化・文政。新形は天保以来明治十年頃まで)によって、むき物、むき花、作り物などの名目を記載する。

こうなってきますと、幕末の石井治兵衛さんが、フランス使節団正式饗応料理を手がけたことは、確かなことのように思えるのですが、わからないのは「幕府用達」という言葉です。御台所組頭といったような、幕府の正式な役人ではなく、お抱え料理士みたいな形なんでしょうか。
ペリーのときにも、正式な饗応料理は、石井治兵衛さんが受け持ったのでしょうか。料亭の仕出しだという話も伝わっていますから、両方使い分けたとも考えられます。
宮廷料理と装飾菓子 で紹介しましたリュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵などは、正式の使節ではありませんから、幕府の接待を受けたのは、料亭であったと書いていたりします。


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アウトローがささえた草莽崛起

2007年01月25日 | 幕末雑話
『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』

平凡社

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こちらの方が表紙がきれいなので貼り付けましたが、中公新書版がありまして、そちらも古書になりますが安価ですので、もしもこの本に興味を持たれましたせつは、さがしてみてください。
中公新書版が昭和52年の発行ですから、かなり古い本なんです。しかし、最近になって知り、読みました。
自由民権運動については、昔、少々読みかじっていた時期があるのですが、ほとんど図書館で借りて読んでいまして、手元にありますのは、『加波山事件 民権派激挙の記録』のみでして、鹿鳴館のハーレークインロマンスで、ご紹介しました『秋霖譜 森有礼とその妻』を読み、なにか静岡事件の参考になりそうな本はないかとさがしていました。
といいますのも、『秋霖譜』では、時の文部大臣・森有礼の妻であったお常さんの運命が、実家の養子、広瀬重雄が静岡事件を起こしたことによって狂ったっだけではなく、静岡事件そのものの裁き方が、文部大臣夫人の身内がかかわっていたことで変わり、さらには、森有礼の暗殺にまで影響している、という話でして、少々、疑問を抱いたことにもよります。
それにどうも、著者の森本貞子氏は、明治の自由民権運動には、あまりお詳しくなさそうにお見受けしました。「静岡事件容疑者たちはいずれも天皇制保持主義者である。これまでの民権事件や、加波山事件、大阪事件などの首謀者の共和制主義者とはまるで異質だ」と書いておられるんですけれども、「共和制主義者」が天皇制否定論者という意味だとしますなら、私の知る限り、そんな自由民権論者はいません。民権論者の私擬憲法もいくつか読みましたが、天皇制を否定しているものはありませんでした。この当時、共和制という言葉が出てきましても、天皇を否定しての共和制ではないんですね。
ただ、静岡の自由民権運動が、伊勢神宮に直結した新興の神道教団、実行教信仰と重なっていたことは、森本貞子氏によって、初めて教えられました。この線から森有礼暗殺を考えられていることは、卓見かと思います。

疑問点というのは、以下です。
たしかに、実家の養子が総理大臣だった伊藤博文の命を狙い、重罪人となったことは、文部大臣夫人だったお常さんの立場を危うくしたでしょう。しかし、犯人の中に文部大臣夫人の身内がいる、ということが、事件の裁き方にどこまで影響したかは推測の領域になりますし、広瀬重雄が、国事犯ではなく、強盗事件のみを問題とされる破廉恥罪での裁きに甘んじたことが、すべて常夫人の存在ゆえ、というのもどんなものだろう、という気がしたんです。
森本貞子氏は、広瀬重雄がたびたび名古屋へ足を運んでいることを描写され、、静岡と名古屋の自由民権運動が、一続きのものであるようにも書いておられるのですが、それでいて、静岡事件の直前に起こった名古屋事件に触れておられません。広瀬重雄は、名古屋事件の容疑者になっていませんので、枝葉末節は省いたのか、とも思われますが、名古屋事件は静岡事件に先立ち、国事犯としてではなく破廉恥罪で裁かれた事件なのです。
それで手にしたのが、この『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』でした。

なぜ、もっと早くに読まなかったのか、と思います。
この本によれば、尾張藩が維新時に仕立てた草莽隊には、博徒の親分を士分に取り立て、博徒組織そのままに歩兵隊として、戊辰戦争に参加させたものがあったのだそうです。他にも、庄屋層が隊長格になり、隊員は公募で集めた草莽隊もあったのですが、応募してきた者はほとんど、博徒予備群のような農村や城下町のアウトローであった、ということなんですね。

民富まずんば仁愛また何くにありやでご紹介しましたように、長州の奇兵隊をはじめとする諸隊が、アウトローの集団であったとしまして、 彼らのいない靖国でもの幕府歩兵隊も、大鳥圭介の証言によれば、ほとんどが江戸のアウトローであった、ということで、薩摩をのぞく幕末歩兵隊の主力は、アウトロー集団であった、ということになります。
幕府歩兵隊については、石高に応じて歩兵を差し出すようなお触れもありますし、フランス軍事顧問団が、「天領の良民の二,三男を」というような提言もしています。しかし、提言をしているということは、現実には大鳥の証言にあるように、博徒予備軍のようなアウトローを雇っていた、ということなのでしょう。
で、あればこそ、れっきとした旗本のお行儀のいい青年たちが、フランスの伝習を受けて士官になっても、とても統率のできる代物ではなかった、ということになります。
私は以前から、高杉晋作が奇兵隊を立ち上げながら、すぐに放り出し、奇兵隊への強い影響力を持っていなかったこと……、つまり功山寺挙兵において、奇兵隊を握っていたのが山縣有朋であり、山縣が決断するまで奇兵隊は動かなかったことを少々不思議に思っていたのですが、アウトロー集団である奇兵隊の統率も、高杉のように本質的にはお行儀のいいれっきとした藩士ではなく、山縣のような叩き上げでなければ、不可能だったのでしょう。
また、功山寺挙兵のとき、伊藤博文が立ち上げたという力士隊なんですが、なぜ力士なんだろう、と奇妙な感じを受けていました。これも、この本で謎がとけました。力士の興業は、博徒組織がかかわりますので、博徒が力士になることもありますし、力士とアウトロー集団とのつながりは、とても濃いというのですね。言われてみれば、たしかにそうです。
前原一誠が、攘夷戦でれっきとした藩士たちの干城隊を指導しましたとき、あまりにものの役に立たないので、憤慨した、という話がありましたが、三百年の太平は、れっきとした藩士をお役人に変え、軍学など、学問としては研究しても、現実の命をはっての闘争とはさっぱり無縁にしていたんですね。
武士が歩兵になることを厭うならば、農民商人はそれに輪をかけて嫌でしょう。お国を守るために武士が命をはらないのなら、なんのために武士を食わせているのか、ということになります。
慶喜公と天璋院vol1の余談で書きましたように、薩摩はちがいました。貧しい薩摩藩士たちは、歩兵となることを嫌がりませんでしたし、また歩兵を卑しむような気風がなかったのです。
徴兵制への薩長の温度差は、ここらあたりからきているのではないか、と、思ったりします。
ああ、そうでした。あるいは土佐も、ちがったかもしれないですね。土佐の郷士、庄野層は、勇猛な歩兵となりました。

話をもとにもどしましょう。
博徒草莽隊は、尾張藩の部隊の中ではもっとも果敢で、戊辰戦争に貢献するのですが、長州奇兵隊と同じく、使い捨ての運命にありました。解隊にあたって、士族身分が得られないということになりかかったのですが、これに猛反発した博徒隊員が直接中央政府に訴えて、ついに士族身分とわずかながらも秩禄保証を勝ち取ります。
しかし、失業は失業です。彼らは、博徒組織と密接な関係を保ちつつ、やがて同じく失業するにいたったれっきとした旧士族をも誘い、興業撃剣をはじめるんです。
博徒の親分、隊長級は、日頃から斬った張ったをやっていますから、士族の指南級の剣の腕前ですし、相撲興行を手がけていますので、興業はお手のものなのです。
そして、どうやら、その興業撃剣組織が、そのまま自由民権運動組織へと横滑りしていきました。単純な横滑り、というわけではなく、庄屋層や旧士族の反政府知識層の下に博徒組織があるような形、とでもいえばいいんでしょうか。アウトロー集団が知識層の下にある形は、自由民権檄派の他の騒動でもうかがえるのですが、尾張、三河の場合は、非常に博徒組織が強かった、というわけです。
やがて、松方デフレによる生活苦から、この地方の自由民権活動組織は、世直し強盗のようなことをはじめます。
取り締まる政府としては、国事犯となるような反政府自由民権活動は、当時、非常に人気がありましたので、弁の立つインテリ層を狙ってスターを作るよりも、博徒を狙う方が先、ということで、政府はまず、活動家とつながりがあると見られていた博徒組織の総検挙に踏み切り、その上で、自由民権組織の料理に取りかかったのです。
実際、強盗を繰り返した名古屋事件のメンバーにおいては、インテリ層が上にいたんですが、彼らはあまり他の強盗メンバーとかかわりを持たず、実質的なリーダーは博徒草莽隊の隊長格だった人物であったそうなのです。
だとするならば、です。静岡事件も、そうであったのではないか、と思うのです。
広瀬重雄は、旧幕臣のインテリ層です。そして、彼が実際にかかわった強盗事件はわずか2件であったとしても、です。彼の標榜する自由民権は、博徒と重なるアウトロー集団によって共有され、その集団が数多くの強盗事件を引き起こしている。見せしめ的に、彼らは名古屋事件と同じ破廉恥罪で裁かれたのではなかったでしょうか。
知識層からアウトロー集団を引きはがせば、牙はぬかれたことになり、大きな騒動は引き起こせない、ということになります。
実際、静岡事件は、最後の自由民権檄派事件となりました。
法廷で、国事犯としての主張をさせないために、官警が、常夫人を利用して、広瀬重雄を説得したということは、十分にありえるとは思うのですけれども。


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パステル調「マリー・アントワネット」

2007年01月24日 | 映画感想
マリー・アントワネット〈下〉

早川書房

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見てまいりました、映画マリー・アントワネット。
等身大のマリー・アントワネット で予想しておりました通りの映画でした。好みです。
欲を言いますならば、です。フェルゼン伯との恋が、ちと軽すぎないかい? というところでしょうか。奥手のお嬢様設定なんですから、そういう場面では、初々しさを出した方がよかったのではないかと。
しかしまあ、恋の重さを描くなら、パリ逃亡のエピソードは欠かせませんし、ヴェルサイユにさようならで幕を引くのならば、軽くてよかったのかもしれません。



普通の女の子が、突然、絢爛豪華で格式張ったヴェルサイユ宮殿に放り込まれた、という臨場感が、よく出ていました。これはこれで、根も葉もある少女のファンタジーではないかと。
検索をかけていたら、ベルバラの池田理代子氏が、公式掲示板で、「内容が納得いかないのでお勧めできない」と発言なさっているらしいと知り、好奇心を押さえられずに、見に行きました。ほんとうでした。
まあ、あんまり社会派受け、一般受けする映画では、なさそうな気もしますよねえ。それでも、日本ではけっこう初日の動員がよかったようで、宣伝がうまいんでしょうか。
ま、なんといっても本物のヴェルサイユ宮殿ですから、観光映画のつもりで見てもいいですし。
パンフレットを買って、一つ、驚いたことがありました。
ええっ!!! マリア・テレージア女帝が、マリアンヌ・フェイスフル!?
昔、年上の男性が大切そうに持っていましたドーナツ盤のシングル「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」。
ミック・ジャガーの恋人だった軽そげなねーちゃん、ですよね?
あー、びっくりした。



花とお菓子とシャンパンと、ドレスにジュエリー、扇にパンプス。すべてがパステル調の夢の世界で、面白うてやがて哀しき乙女かな。
ああ、もう一つ欲を言えば、ですね、オランダが日本から運んでいっていた漆器を、ですね、出していただきたかったかなあ。パステルの中に、漆器の黒と金が入ると、ステキに締まったと思うのですよね。マリー・アントワネットの漆器のコレクションは有名ですし。


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鹿鳴館のハーレークインロマンス

2007年01月22日 | 森有礼夫人・広瀬常
『秋霖譜 森有礼とその妻』

東京書籍

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これまで、たびたび出てまいりました、薩摩幕末イギリス留学生の森有礼。
江戸は極楽である に写真を載せておりますが、とても濃ゆいお顔立ちです。
実は、このお方は、日本で最初に西洋風の結婚式を挙げたといわれています。その時の相手、最初の妻は、幕臣の娘で広瀬常。
このお常さん、イギリスの駐日外交官、アーネスト・サトウが「美しい」と日記に書き残すほどの美貌で、鹿鳴館の花でもあったんですが、その鹿鳴館時代に、青い目の子供を……、つまり、いくら森有礼が外国人のような人だったとはいえ、生粋の日本人、薩摩隼人ですから、不倫をして外国人の子供を産んだという噂が立ち、そして実際、その後まったく人前に姿を現さなくなって、そのまま離婚に至っているんですね。
それで、以前にもバロン・キャットと伯爵夫人 でご紹介しました、近藤富江氏の『鹿鳴館貴婦人考』では、それが事実であったように書かれていました。その子供が女の子で、幼児のうちに養子に出されていることは、森有礼全集収録の戸籍から明白なんです。
 「安」と名付けられたその子は、当初は有礼の兄の一家・横山家の養子、ほどなく原宿村の平民で、森家とはまったく血縁のない家にもらわれ、高橋安となりました。もしも不倫の子でなかったのであれば、ここまでするのは不自然です。
 山田風太郎氏もまた、その「事実」を元に、『エドの舞踏会』の中の一編を書かれています。

 もう20年以上前のことです。私は、この青い目の子を産んだというお常さんの生涯に、とても関心を持ちました。
なにかに、夫森有礼のイギリス公使時代、公使夫人として過ごしたロンドンで、洋装で子供を抱いているお常さんの写真が載っていたのですが、しっくりとドレスを着こなしながら、どこか寂しげで、そして、たしかにとても美しい女性でした。ただ、現在発行されている『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』においては、その私が見た写真はお常さんのものではなく、同時期にロンドンにいた総領事・園田孝吉の婦人のものだとされています。だとすれば、お常さんの写真は現存していないこととなり、やはり、有礼がすべて破棄したわけなのでしょう。

 ともかく、です。『勝海舟の嫁 クララの明治日記』には、森有礼夫人であった時代の現実のお常さんが登場し、身近に感じられて、想像が、といいますか、妄想が、でしょうか、どんどんひろがっていく感じでした。
クララの明治日記の著者、クララ・ホイットニーの父親は、商法講習所の教師として、森有礼に招かれ、明治8年、一家をあげてアメリカから日本へ渡ってきたのです。後にクララは、勝海舟の息子と結婚し、別れて、アメリカで子供たちを育てますが、日本に来た当初からしばらくの少女時代、克明に日記をつけていて、常夫人のドレスまでもが、細かく描写されていたりするんです。

そんな風にお常さんが気になっていたとき、巡り会ったのが、森本貞子氏の『女の海溝 トネ・ミルンの青春 』でした。
後のトネ・ミルン、堀川トネは、西本願寺函館別院の住職の娘として生まれ、イギリスから政府のお雇い外国人として招かれていた地震学者のジョン・ミルンと知り合い、結婚します。明治28年、トネは帰国する夫に従い渡英。夫の死後まで、イギリスで暮らした女性です。
で、どこに常とトネの接点があるかといえば、開拓使女学校なんです。
開拓使とはなんぞや、といいますと、蝦夷、つまり北海道を開拓するための役所なんですが、ロシヤの南下を危惧していた明治新政府は、明治3年に薩摩の黒田清隆に樺太の視察を命じます。すでに樺太にはロシアの移民が入っていて、危機感を抱いた黒田は、開拓使長官となり、北海道開拓のために、さまざまな策を講じるのです。
開拓といえば、当時めざましかったのは、アメリカの西部開拓です。それを見習うべく黒田は、同じ薩摩出身でアメリカにもいたことのある森有礼に、意見を聞いたらしいのですね。
それで出てきたのが、地質学者など、アメリカから専門家を招き、北海道の殖産興業の可能性をさぐることと、もう一つは、開拓のための人材を育てることです。
一見、迂遠なようでもあるのですが、森は黒田に女子教育の必用も説き、有名な津田梅子など、5人の少女のアメリカ官費留学が実現するのですが、明治5年、東京芝の増上寺に設けられた開拓使仮学校(後に札幌に移す予定だったので仮学校と呼ばれました)には、女学校も併設され、授業料は官費で賄われることになりました。
静岡にいた常、函館にいたトネは、請願し、選ばれて、この開拓使女学校で学ぶことになったんです。同級生でした。
森本貞子氏は、トネの生涯を描きながら、常にも目を向けられ、他の本ではあまり触れられていなかった開拓使女学校時代の常の災難や、有礼と離婚後の常の手がかりを、掘り起こされていたのです。
災難とは、40になる開拓使お雇いアメリカ人鉱山技師のライマンが、常と結婚したい、と望んだことでした。どうやら、その常を助けるために、森有礼が結婚を申し込んだようなのですね。
森本貞子氏も、このときは、有礼夫人となった常が、青い目の不倫の子を産んだ末に離婚されたらしいことを、否定はなさっていませんでした。ただ、「モリ・イガ」と名乗る謎の日本女性の学籍簿を、スコットランドのグラスゴー大学医学部で見つけられ、これが離婚後の常ではないか、とされていたのです。モリ・イガの出身地は東京芝、つまり開拓使女学校のあった場所になっていて、ハワイを経て、カリフォルニアのクーパー・カレッジを卒業、そして、グラスゴー大学となっていました。

これでもう、私の妄想はかぎりなくひろがり、ついに、その青い目の女の子を主人公に、ハーレイクインロマンスを書くにいたりました。いま見てみれば、赤面ものの内容なんですが、そのころサンリオが募集していたロマンス賞に応募して、一応、佳作だったかにはひろわれ、わずかながら賞金もいただいたものです。
あー、アールヌーボーの時代で、衣装やアクセサリーを書くのも、楽しかったんです。
母を訪ねて何千里、ってやつだったんですが、お常さんのほかに、実在の人物で登場するのは、津田梅子ととともにアメリカに留学し、帰国後に大山巌夫人となって、やはり鹿鳴館の花とうたわれた、会津出身の山川捨松。
それにもう一人、森有礼とともに幕末の薩摩藩留学生だった長沢鼎です。長沢鼎は、最年少だったため、森のようにロンドンで学ばず、ただ一人、スコットランドのアバディーンにあるグラマースクールに入学しました。彼の場合、西洋人になりきってしまった、とでもいうのでしょうか、江戸は極楽であるで書きました宗教家ハリスに、心底共鳴して、吉田たちがハリスのもとを離れ、森と鮫島が帰国した後もハリスのもとに残り、ハリスの片腕となります。
後にハリスは、カリフォルニアで大きな農園を開きますが、長沢はその経営の中心になり、ハリスの死後は遺産を受け継いで、ワイン王と呼ばれる富豪になったのです。
明治末年のことです。日本海軍の練習艦隊が、サンフランシスコに入港しました。その艦隊には、長沢を送り出したとき藩主だった島津忠義の息子、忠重が、士官候補生として乗り組んでいたのですが、長沢は馬車を仕立てて迎えに出て、自宅に迎え入れるときには、門前に土下座して、周囲を驚かせました。
モリ・イガという女性が、カリフォルニアからスコットランドへ向かっているとなりますと、森有礼との関係からしましても、これは長沢鼎が世話をしたのではなかろうか、と、私は想像したんですね。

ところで先日、森有礼の伝記をさがしていまして、検索をかけていたら、この本『秋霖譜 森有礼とその妻』が出てきて、驚きました。森本貞子氏ではないですか! モリ・イガが本当にお常さんなのかどうか、青い目の女の子がどうなったのか、さらに事実を掘り返されたにちがいない、と、わくわくどきどき、さっそく買い求めたのです。
そして……、なんと、有礼とお常さんの離婚の原因は、どうやら、青い目の不倫の女の子ではなかったんです。
広瀬常は、旗本の娘でした。瓦解の後、静岡に移り、しかし父親には職が無く、常の開拓使女学校入学を機会に、一家で東京へ舞い戻ったのです。広瀬家には、常と妹の福の女の子二人で跡取りが無く、心細く思った父親が、同じ幕臣の養子を迎えるのです。その養子が、自由民権運動の活動家で、静岡事件を引き起こし、伊藤博文の命を狙ったというので、有礼が激怒し、離婚となったというのが、どうやら真相のようなのです。
少女だったお常さんが、瓦解により、江戸のお姫様暮らしから、突然、他人の好意にすがらなければ満足に食べるものもないような静岡での暮らしに突き落とされ、開拓でもするしかないと一家で移り住んだ場所が、現在の藤枝市のあたりだったというのも、私にとっては感慨深いものでした。藤枝市には、現在身内が住んでいて、去年も訪れたばかりです。
また常の妹の福は、明治屋の創業者、磯野計の妻になっていたりもしまして、娘を残しましたので、そこにわずかながら、常の面影が伝えられていた、というのも意外でした。

事実は小説より奇なり、といいますか、ほんとうに驚きました。
鹿鳴館の時代、大山巌夫人の捨松も、「馬丁と浮気をして離婚の危機に陥っている」といったような噂につつまれます。しかし、久野明子氏の『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』を見ますと、そんなことがありえる状況ではなかったようです。
常夫人の青い目の不倫の子も、それと同じように、根も葉もない中傷だったようなのですが、ではなぜ、常夫人が産んだ上の男の子二人は森家にとどまったにもかかわらず、最後の女の子だけが養子に出されたのか、謎は残りますし、私はやはり、森有礼が常夫人のその後を気にかけて、長沢鼎に頼んだ、という説を捨てきれません。
森本貞子氏は、榎本武揚など、旧幕臣の外務官僚たちの力添えであった、としているのですが、その部分は、確かな根拠のなさそうなことではありますし。
なんにせよ、20年の歳月を経て、森本貞子氏がお常さんの実像を追求し続けておられたと知ったことは、ちょっとした感動でした。


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民富まずんば仁愛また何くにありや

2007年01月21日 | 幕末長州
『評伝 前原一誠 あゝ東方に道なきか』

徳間書店

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前原一誠という人は、松下村塾の一員なのですが、高杉晋作を筆頭に、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、伊藤博文などなど、にくらべますと、あまり知られてない、といいますか、知られていないだけではなく、不人気です。
不人気の原因は、やはり、不平士族の反乱として知られる明治9年の萩の乱の首領として担がれ、刑死しているからでしょうけれども、年齢が高く、高いわりに幕末風雲時に派手な動きをしていない、ということもあるでしょう。
天保5年生まれですから、松蔭より四つ下、高杉より五つ上で、松下村塾の中では最年長の一員です。とはいえ、木戸孝允(桂小五郎)より一つ下、井上 馨より一つ上で、もしも前原に政治的力量があったならば、明治新政府で重きをなしただろう年齢です。いえ、重きをなさなかったともいえないのですが。
ともかく、です。颯爽とした、とか、切れ者、だとか、胸のすくようなイメージはなく、とっさの決断力には欠けたところがあり、生真面目で、頑固で、おまけに暗く、まあ、あれです、私好みの人物ではありません。
にもかかわらず、なぜこの本を読んでいたかというと、やはり萩の乱は、西南戦争に無関係ではありませんし、それよりなにより、吉田松蔭の叔父で学問の師である玉木文之進、松蔭の甥で後継者となるはずだった吉田小太郎、と、松蔭の身内が前原を盛り立て、萩の乱に参加していたからです。小太郎は戦死、文之進は松蔭の妹に介錯させて、切腹して果てます。
例えば、高杉が生きていたとしたら、どうしただろう? という思いがありました。

個人掲示板の方で、ちょっとこの前原のしたことを思い出すような話がありまして、読み返してみました。
といいますか、この評伝の中で、私の印象にもっとも強く刻まれていたのは、明治新政府の占領地越後で前原が試みようとした仁政でした。
後年のことですが、大隈重信はこういっていたのだそうです。
「前原はかつて公職を帯びて新潟県にいた。その時、救荒の詔勅の下った際、聖意に答え奉らんとする至誠からではあったが、指令を監督官庁である民部省に請ふ事なく、恣に新潟県の租税を半ばに減じた。それは儒流政治家の慣用手段で、何か事があれば直に租税を免ずるのを仁政と考へるシナ一流の形式政治に有勝のことであった。が、それはただに官紀維持の上から、監督官庁として座視し得ないのみならず、事実左様した仁政が続出すると、中央政府の政費を支へる事が出来ぬ。そこで君(大隈)は、直ぐに前原の処置を難じたが、前原はそれを憤り、救荒の詔勅の下った事を盾に取って、聖意この如きに、ひとり聚斂の酷使あって之をはばむのは心得ぬと抗議した」
これは、『大隈侯八十五年史』からなんですが、『大隈候昔日譚』でも前原を名指しで、似たようなことを言っていまして、大隈にとっては、晩年にいたるまで、よほど腹が立った出来事であったようです。
明治元年、ようやく東北の戦火がおさまろうかというころ、です。大隈は、ほとんど一人で、新政府の金の工面を背負い込んでいましたから、無理もない怒りといえば、そうなんですけれども、実は、前原の「仁政」には、まだ続きがあったのです。

戊辰戦争は、上野戦争の後、会津藩の処置をめぐって東北列藩同盟が成立し、北陸東北へ戦場が移ります。
越後口では、河井継之助率いる長岡藩や、飛び地領に陣取る桑名藩、新潟港を握る米沢藩などの善戦で、長州の山縣有朋、薩摩の黒田清隆が率いていた官軍側は苦戦。前原一誠は、長州から干城隊を率いて応援にかけつけ、戦勝後も、そのまま越後府判事となって、民政にたずさわることになりました。
なぜかといえば、おそらく、前原一誠の手腕は、軍事にはなく、民政にあったからなんですね。
それについては、実績がありました。四境戦争で、長州が占領した小倉藩領を、前原は見事に治めていたのです。

前原一誠、もとの名は佐世八十郎は、毛利家の旗本ともいえるれっきとした藩士の家柄に生まれましたが、わずか四十七石。当時の武士の暮らしはきびしく、一誠の父親は、今の小野田市にあった代官所勤務を引き受け、畑仕事をしたり、陶器を焼く内職をしたり、漁にまで出たといいます。
一誠は田舎で育ち、貧しかったために勉学も遅れました。萩の親戚の家に寄宿して塾に通ったりもしたのですが、やがて、落馬によって足を痛め、健康も害しました。
学問が遅れていることを自覚したまま24歳となり、松蔭にめぐりあいます。
「勇あり、智あり、誠実人にすぐ」と、松蔭は一誠を評しています。
貧しくとも、れっきとした藩士の家柄であったことは、その後の一誠の志士活動を制限します。松蔭が、老中の間部詮勝暗殺を計画したときには、父親の画策で、長崎のオランダ海軍伝習に、藩から派遣されて行きます。
その後、長州の尊皇派として、江戸、京都へも出るのですが、諸藩の志士とまじわったり、朝廷に出入りしたりということはほとんどなく、藩の内務に携わることが多かったようです。
8.18クーデターの後は、長州に落ちた七卿の世話係、その後、攘夷戦に備えた下関で、れっきとした藩士だけの干城隊の指導を受け持ち、そのやる気のなさに憤慨したりもします。攘夷戦に参加していたため、禁門の変とは無縁で、「俗論党」が支配した中では九州の志士と連絡をとり、高杉晋作の高山寺挙兵では、ぴったりと高杉によりそって補佐します。
そうなんです。一誠がだれよりも信頼をよせていたのが高杉であり、高杉もまた、一誠を信頼していたのですね。

長州の四境戦争、小倉口の戦いも、そうだったんです。高杉が病で倒れた後、高杉の後を引き継いだのは一誠です。
ほかに、人材がなかったのです。小倉口には、山縣有朋率いる奇兵隊とともに、長府藩兵などがいたのですが、れっきとした藩士でなければ、長府藩兵からの信頼が得られませんし、かといって、ただの藩士では奇兵隊が納得しません。一誠は、ずっと裏方に徹して、藩庁と諸隊の調整や兵站などを受け持っていて、高杉のような軍略家ではありませんでした。しかし、小倉口の戦闘指揮だけではなく、高杉が担当していた長州海軍までもが、一誠の受け持ちとなります。
高杉の死は、松蔭の死にまさるほどの衝撃を、一誠に与えたでしょう。

戦勝の後、長州藩の預かりとなった小倉藩領の民政を、一誠は担当します。このとき、どうも一誠は、奇兵隊を率いる山縣と、藩庁を預かる木戸孝允への不審を、芽生えさせたようなのです。
まずは、小倉藩領からの奇兵隊の引き上げです。戦勝におごる奇兵隊は、小倉藩領に駐屯していたのですが、これが領民の不評を買っていました。奇兵隊は、身分をとわずに成り立った軍隊ですが、それだけに、問題もまた起こりやすかったのです。以下は、一坂太郎氏の『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』からの引用です。

平成四年(1992)のある夏の日、下関市で行われた講演会が終わり、帰ろうとしていた私を引き留めたお爺さんが聞かせてくれた奇兵隊の話が、いまも耳に残っています。
「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒くれ者の集まりだった。仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじゃった。やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町のものは噂した」
これはお爺さんが幼いころ、幕末当時を知る祖母から聞いた話だそうです。

一坂氏は、それを裏付けるような話を奇兵隊士の日記から引いて、一般の人からは好意的に見られていなかったのが事実ではないか、とし、さらに、そのお爺さんが祖母から聞いたという隊士の無銭飲食や、報国隊士が文句を言っただけの料亭の主人を斬り殺した話をあげておられます。
本拠地の下関でさえそうであるならば、占領地での傍若無人ぶりは、察せられます。
一誠の懸命の要望にもかかわらず、奇兵隊はなかなか引き上げようとしなかったのですが、よくやく引き上げさせて、そして、年貢半減を、一誠は実行したのです。これには、長州藩庁がなかなか首を縦にはふりませんでした。長州の諸隊人数は、四境戦争でふくれあがっていて、それを、占領地からの収入で食べさせていく計算でした。武器の購入などで、藩財政は逼迫していて、年貢半減が好ましいはずはなかったのです。
それでも一誠は、「預かっただけの土地の領民を大切にしなければ、長州の評判が落ちる」と、粘り強く交渉し、ついに年貢半減を勝ち取るのです。

つまり、一誠が越後口でしたことには、すでに実績があったのです。
明治元年は天候不順で、日本全国、春から長雨が続き、信濃川をかかえる新潟では、梅雨時に堤防が決壊したまま、田畑は水につかり、ほとんど収穫のない地域も多い、という惨状でした。その上に、戦禍です。
人夫としてかり出された農民の賃金さえ、中央政府は出し渋っていて、当初、年貢半減を交渉していた一誠は、結局許可の無いまま、それを実行に移します。
事情はちがいますが、新政府の許可を得た上で公卿を担ぎ、年貢半減を宣伝して信州に進軍していた赤報隊が、偽官軍として処分されたばかりです。一誠の首がとばなかったのは、一重に、彼が長州の松下村塾出身者だったからでしょう。
さらに、続きがありました。
信濃川は、日本で一番長い川として知られますが、新潟に流れ込んで後、日本海沿岸にそびえる弥彦山系にはばまれ、内陸に蛇行することで、氾濫源が大きくなっています。このため、弥彦山南麓に日本海に水を落とす水路をつくれば、洪水は軽減されることがわかっていて、すでに分水計画があり、幕府に陳情したこともあったのですが、さまざまな藩の領地が入り乱れ、利益が折り合わなかったり、一つになって事業を興すことも難しく、また多大な資金が必用で、手がつけられないでいたのです。
しかし、この年の未曾有の水害に、地元では分水工事を求める声が上がり、関係諸藩も協力して、建白書が提出されていました。
その分水工事の費用を出せと、一誠は中央に迫ったのです。160万両といわれる大金です。立ちあがったばかりの明治新政府に、そんな金があろうはずもありません。「それならば、5年間分の越後の年貢を分水工事に使わせてくれ」と、一誠はねばります。東京に陳情に出かけた一誠は、足止めされて参議に祭りあげられ、一誠の請願が受け入れられることはありませんでした。
実は、こういった「仁政」をしていたのは、一誠だけではなかったのです。
例えば、豊後岡藩という小さな藩の志士、小河一敏は、藩によって幽閉されていましたが、王政復興がなって許され、中央に出て、鳥羽伏見の戦いの直後、天領だった堺県の知事になります。

JA堺市 小河一敏

上に書いているとおり、やはりこの年の長雨で氾濫した大和川の治水工事に手をつけ、どうも明治2年ではなく、正式には3年のようなのですが、ともかく免官され、明治4年には、なんの嫌疑かもわからないまま、鳥取藩邸に幽閉されます。

「誠実人にすぐ」という松蔭の一誠評は、やはりあたっていたのです。
一誠は、松蔭の教えに誠実であり続けたのではないのでしょうか。以下は、松蔭の『未焚稿』より。
「世の論者、民を仁し物を愛すると曰はざるはなく、国を富まし兵を強くすると曰はざるはなし。しかれども農勧めずんば富強何によりてか得ん、民富まずんば仁愛また何くにありや。農を勧むるは民を教ふるにあり、民を富ますは稼穡にあり。いやしくも道を学びて国のためにせんとする者、これを独り高閣に束ね度外に置くべけんや」
また松蔭の父への手紙には、「武士わづかなりとも殿様より知行をもらひ、百姓どもに養はれ、手を拱して美食安座つかまつり候君恩国恩に報い」という文句が見えます。松蔭の家は粗食だったと思いますが、「武士は農民に養われているのだから、なによりも農民の暮らしの安泰を考えることが一番」という武士としての自覚、日本版ノーブリス オブリージュは、叔父の玉木文之進から伝えられたものであったでしょう。
治水は、農村のインフラ整備です。
たしかに、新政府にそんな金銭的余裕はありませんでしたし、各地で仁政を競いあえば、ただでさえ揺れている中央政府の求心力にひびが入ります。
それでも、水害でほとんど収穫がない場合の年貢半減は、責められることではないように感じますし、小河一敏のした程度の防水土木工事を、問題にしなければならなかったのだろうか、とも思うのです。

そして、もちろん士族にもさまざまな人々がいたわけでして、松蔭の示したようなノーブリス オブリージュを自覚している者は、あるいは少数派であったかもしれません。
しかし一誠とともに萩の乱の中心となった奥平謙輔は、戊辰戦争でも、長州藩の隊長として前原とともにあり、ふう、びっくりしたー白虎隊で書きました会津の秋月悌次郎に、礼をつくしくした書状をよせ、鹿鳴館のハーレークインロマンスに出てまいります、大山巌夫人、山川捨松の兄・山川健次郎など、会津藩俊英の教育を引き受けます。捨松のアメリカでの生活は、一歩先にアメリカ留学を果たしていた兄の存在にささえられていました。
戊辰戦争の後、奥平は一誠とともに越後府にあり、佐渡の統治を手がけたりしますが、一誠が中央に足止めされた明治2年8月には、職を辞して萩へ帰ります。これは私の想像ですが、一誠の「仁政」を入れようとしない政府中央に、失望したのでしょう。なんのための維新だったのかと。
松下村塾では学んでいませんでしたが、奥平もまた、日本版ノーブリス オブリージュを身につけていた人ではなかったでしょうか。
萩の乱で捕らえられ、処刑される前のことです。牢獄の羅卒に、元会津藩士がいたのだそうです。奥平は、「自分がこうなったことを秋月さんに告げてくれ」と頼み、その羅卒は秋月に手紙を書き、それを見た秋月は、終夜痛哭したのだそうです。
それに……、そうでした。萩の乱に呼応しようとして果たせなかった思案橋事件の永岡久茂、中根米七らは、会津藩士でしたし、彼らは評論新聞を通じて、薩摩にも期待をよせていました。同じように越後でも、呼応の動きがあったんだそうです。

平成15年第3回(6月)見附市議会定例会会議録(第3号)

昨年9月15日の新潟日報に大橋一蔵の絵と革命家一蔵の起伏に満ちた一生のドラマがつづってありましたので、引用させていただきます。「昔越後に偉人ありき。一切の名誉、栄職を断ち一途に世のため突き進んだ大橋一蔵。維新前後の大変革期に身命を賭して国事に奔走された志士大橋一蔵は、嘉永元年(1848)2月16日、蒲原郡下鳥村(現見附市)代官大橋彦蔵の長男として生まれ、明治元年(1868)、越後府知事代行四条のもと、府判事となった松下村塾の俊才前原一誠は、年貢半減令を発し、また蒲原農民積年の宿願、信濃川分水を上申する。明治6年西郷隆盛らが下野し、新政府打倒の嵐各地にあがる。一蔵は深く前原に傾倒し、萩に帰郷したまま前原を訪ねること3度、薩摩へ西郷を訪ね、桐野と談合。萩、越後の同時蜂起を計るが、こと敗れ、前原は死し、一蔵は県庁に出頭、自訴した。時に29歳。「一身の寸安を偸んで恥を後世に残すことは欲せず」と。

これらのすべてを、「不平士族」「守旧派」とひとくくりにかたづけてしまう傾向に、私は疑問を抱かずにはいられないのです。


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白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理

2007年01月14日 | モンブラン伯爵
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『フランス人の幕末維新』

有隣堂

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この本、『フランス人の幕末維新』を買ったのは、実は、函館戦争に参加したフランス人、ウージェヌ・コラシュの手記が収録されていると、最近知ったからです。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)で書いたのですが、コラシュの手記は、鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』に要約が、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光 知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』に挿絵が載っています。
しかし、この本を買うまで、1860年にパリで創刊された旅行専門誌『世界周遊』の28号(明治7年・1874年発行)に載せられたものだとは、知りませんでした。
この本には、コラシュの手記だけではなく、『世界周遊』に載せられた他の二編の日本旅行記も収録されています。
最後の一編は、明治7年の富士登山記で、現在の私の関心から少しはずれるのですが、嬉しかったのは、最初の一編です。
安政5年(1858年)、ペリー来航からおよそ3年の後、国交を求めてやってきたフランス全権使節団の一員だった、M・ド・モージュ侯爵のものだったんです。

私がこのブログでモンブラン伯爵のことを書かなくなったのには、わけがあります。
検索をかけていて、法政大学が出している『社会志林』という雑誌に、宮永孝氏がモンブラン伯爵のことを書いているらしい、とはわかっていたのですが、近くの大学の図書館にはその号がなく、どこにあるものやらと思いまどっているうちに、ご親切に、コピーを送ってくださった方がいたんです。
これがもう、予想もしていなかったほどに詳しく、調べることもなくなりました。
それでわかったのですが、モンブラン伯爵が、グロ男爵を団長とするこのフランス全権使節団に加わっていたということは、本当だったんですね。

つまり、この旅行記の著者、M・ド・モージュ侯爵は、モンブラン伯とまったく同じ経験をしているのです。解説によりますと、侯爵の経歴はまったくわかっていないそうで、まさか、とは思うのですが、モンブラン伯の変名か? と勘ぐりたくなるほど、深く日本について勉強した旅行記です。例えば、以下のような部分。

日本には俗界的皇帝と宗教的皇帝、つまり大君とミカドが存在する。ヨーロッパ人が日本の皇帝と誤って命名する大君はミカドの代表、代理人にすぎず、ミカドが日本の真の主権者、昔の王朝の代表者であって神々の子孫である。ミカドはあまりの高位にあるので現世の所業に従事したり国事を規制したりせずに、それらを配下の者に任せて雑用から免除されている。
 大君は最初は宰相、つまり、失墜したので生来の力を剥奪された王朝の一等役人にすぎなかった。日本のメロヴィンガ朝ともいえる、その末裔を断髪した後も僧院に閉じこめないで豪奢な寺院に幽閉し、この半神(ミカド)および全国民にこの境遇こそが神々しい出自に一段とふさわしいと説得し、この半神を偶像にしあげたのだ。したがって、新王朝は玉座の上に樹立され、かつての支配者への尊敬を主張し、古の支配者のうちに日本列島の絶対的主権者を認め続けながら、政権を簒奪したのだ。日本の政治構造の全体系はこのようなフィクションの上に依存しているのだ。

ええっ!!! どびっくりしました。
アラゴルンは明治大帝かで、私はこう書きました。「このカロリング朝というのは、メロビング朝の宰相が、王国を乗っ取って成立しているんですね。メロビング朝の王は、祭祀王の趣が強く、もしも宰相が宰相のまま、王を祭り上げて実権を握っていたら、日本の天皇制に近かったのでは、と思ったりします」
百数十年も前に、はじめて日本を訪れたフランス貴族が、同じようなことを考えていたなんて!!!
かなり歴史を省略してはいますが、外国人の解釈として、驚くほど的確ではないでしょうか。洞察がまた、すぐれています。

そもそも、江戸の住民は将軍の存在に煩わされることはめったにないのだ。彼は年に五、六回、宮廷の敷地から乗り物で外出するだけで、町から一里に位置する寺院へ祖先の御霊を崇めに行くからだ。彼は礼儀作法に縛られ、生活はいろいろな祭儀でがんじがらめになっているので、人の目にはますます見えにくい半神のようなものになり、あまりにも高位に奉られているので現世の所業に手を染めることもない。したがって、政体を司るのは宰相、つまり大老と摂政会議なのだ。(中略)今日では大君はしだいに第二のミカドになっているのだ。

あー、よくおわかりで。
ただ、例えば日本の身分制度については、非常に強固なカースト制度のように書いてあったり、モンブラン伯の日本観幕末版『明日は舞踏会』で書きましたように、『モンブランの日本見聞録』が「階級は区別されてはいるが、カースト制度を作っているのではない」というような理解に至っているのにはかなわないところがあるのですが、モンブラン伯はその後も日本を訪れ、日本人と深くつきあって後に見聞録を書いたわけでして、モージュ侯のものは初来日の印象記なのですから、それにしては出色です。

最後に、フランス貴族ってみんな、お料理の描写が細かいですねえ。宮廷料理と装飾菓子で、明治維新の直前、リュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵が記した日本式「ピエスモンテ」のことを書きましたが、それと似たような話がありました。

がいして、日本料理は中国料理によく似ているが、料理の出し方、盛りつけや清潔さの点では、はるかにまさっているようだ。給仕人自身も大小を差しており、新たな料理を出すたびに、驚きや豪奢や品のよさのうちにも中国人の文官の食卓ではついぞお目にかかれないちょっとした洗練されたものが感じられた。そこに配されたものといえば、まずは花々や動物の姿に刈り込んだ盆栽であり、海や海藻を模した皿に盛られたばかでかい魚や、伊勢えびやかぶを切り刻んでつくった目を見張るような花々だった。これらの花々は外国奉行の手になるものだ、と奉行は自慢げに、ほほえみながら説明した。この点で役人たちのお手並みがいかに高度なものかを知らしめてくれはしたが、彼らの仕事の中身と重要性については、それほどのものではないと納得させるものでもあった。すべてがこのようにうまく秩序だっており、社会機構がこのように簡単に機能していて、主たる役人たちが、かぶ、人参や伊勢えびの切り身で素敵な花束をつくるのに日々を費やすことができるような国民とは幸せなるかな! というものだ。

いや、もう、笑いました。笑ったんですけど、いくらなんでも、ほんとうに下田のお奉行さまが、日本式ピエスモンテを作っていたんでしょうか。
その部屋に飾られていた盆栽か生け花を、お奉行さまが作った、飾ったと説明されたのを聞きまちがえたんじゃないんでしょうかしらん。盆栽ならば作ってそうですし、生け花は武士のたしなみです。
あー、料理にしましても、氏家幹人氏の『小石川御家人物語』を見ていますと、幕府の御家人が日記に南蛮漬(ピクルスです)のレシピを書いていたりしまして、漬け物は男が漬けるもののようでしたけど、いくらなんでも手の込んだ細工料理をねえ。ペリーのときと同じく、料亭の仕出し料理のはずです。
お奉行さまは、中村出羽守となっているんですが、ちょっとフランス人をからかってみたのでしょうか。それとも、やはり盆栽か生け花か。なんにしても、フランス人もあきれるのんきなことではあるんですが。
なお、デザートはカステラで、「えもいえぬほどおいしく、見事な切り口で出されたサヴォア菓子」と記され、昔スペインから伝わったもの、と、ちゃんと説明されています。

忘れていました。書き加えます。
幕府には、ちゃんと料理人がいて、彼らももちろん武士ですよねえ。
「幕府料理方頭取・石井治兵衛家」というのがあって、明治維新後、代々宮中の御厨子所預だった高橋家が、石井家に職をゆずったって、ありました。慶応義塾図書館の貴重書、『中原忠兼料理式伝書』の解説です。検索をかければpdf書類で出てきます。
手持ちの『江戸幕府役職集成』を見てみたんですが、石井治兵衛家が務めていたという料理方がどの役職なんだか、よくわかりません。しかし、御膳奉行というのがあって、御膳所御台所頭、なんていうのもあります。ここらあたりなんでしょうか。
場所が下田なので、江戸の料亭の仕出しを頼むのも不便で、江戸城から料理方が出張したとか、なんでしょうか。それで、料理方の役人が調理した、というのを、もてなされたグロ男爵、モージュ侯爵たちフランス人は、下田の外国奉行が調理した、と勘違いした、とか。
それが一番、可能性が高そうですね。


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ふう、びっくりしたー白虎隊

2007年01月07日 | 幕末東西
なにしろテレビ朝日ですから、あまり期待はしていなかったのですが、つい見てしまいました。新春ドラマスペシャル『白虎隊』を、です。
それにいたしましても、ふう、びっくり!
なぜに沖永良部島に流刑の身の西郷隆盛が、8.18クーデター当時の京都にいるの???
頭がくらくらしてまいりました。
まあ、いいや。

『幕末とうほく余話』

無明舎出版

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白虎隊といえば、ヤッパンマルスと鹿鳴館 で、ご紹介いたしましたこの本、『幕末とうほく余話』が出版されていたことを知りまして、さっそく注文しました。まだ全部は読んでいないのですが、東北の幕末群像をていねいに追っていて、いい本でした。
これまで知らなかったことも、けっこう出てきます。
藩主に従い、恭順派の家老を斬ったといわれる二人の桑名藩士のその後など、いい話でした。函館戦争にまで参加した後、渡米。またも登場、という感じですが、薩摩の森有礼の引きを受けたらしいのですね。一人は後の一橋大学の助教授となった上、横浜の銀行発展に尽力。もう一人は、横浜で実業家になったのだそうです。

この本は、会津の話は少ないのですが、つまらない『白虎隊』を見ておりまして、母の本棚からひっぱり出して読んだ本を思い出しました。珍しく幕末ものだったのです。
8.18クーデター、会津方の立役者だった秋月悌次郎を描いた『落花は枝に還らずとも?会津藩士・秋月悌次郎』です。
江戸の昌平坂学問所に長くいたため、他藩士との交遊がひろく、薩摩藩に見込まれて交渉相手となった秋月悌次郎。
後年、悌次郎は熊本の第五高等中学校で漢文を教え、ラフカディオ・ハーンから「神のような人」といわれます。そのころ、クーデター当時、京における薩摩の中心になっていた高崎正風が、悌次郎をたずねるのです。
クーデターから30年数年、終夜酒を酌み交わした二人。
たしかこのエピソードは、司馬氏がエッセイかなにかに書いておられて、一度、秋月悌次郎の伝記を読みたいと思っていたところでした。
『落花は枝に還らずとも』ではじめて知ったのですが、秋月悌次郎は、会津と薩摩が敵対するようになったころ、蝦夷に左遷されていたのですね。
幕末の最初の衝動は、ロシアの南下でした。維新の60年ほど前、ロシア使節のレザノフは、幕府に開国を迫るとともに、千島や樺太の日本人居留地を攻撃したんです。
恐れをなした幕府は、会津藩に北方領土の防備を託しました。
このときは、ロシアの襲撃にはあわなくてすんだのですが、極寒の地のきびしい自然に、命を落とすものもありました。
そして、ペリー来航。続いて、またしてもロシアがやってきまして、一時ですが、対馬を占領したりもします。これは、イギリスに牽制してもらって、なんとか引き上げてもらいましたが、幕府がまっさきに心配したのが北方でして、かつて功績のあった会津藩に蝦夷の一部の領地を与えて、せめてもの防備を考えるんです。
その蝦夷地へ、悌次郎は左遷されたのです。会津もまた、けっして一枚岩ではなく、内紛があったことがうかがえます。

ところで、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。 にまとめてありますが、パリ万博に赴いた水戸民部公子・徳川昭武の一行には、二人の会津藩士がおりました。
20歳の横山常守と24歳の海老名季昌です。公子に先だって帰国した二人は、戊辰戦争を戦い、横山常守は戦死します。

慶応から明治へ。この時期、パリと京都、江戸を往来した人々の運命の転変には、呆然としてしまうものがあります。


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猫絵と江戸の勤王気分

2007年01月03日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
猫絵の殿様―領主のフォークロア

吉川弘文館

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バロン・キャットと伯爵夫人 でご紹介した本です。

ピエール・ロチの『江戸の舞踏会』(『秋の日本』収録)は、フランス海軍士官として明治18年に来日したロチが、外務大臣主催の鹿鳴館の舞踏会に招かれ、その様子と感想を、ほとんどフィクションをまじえず書き記したものです。
時の外務大臣は井上馨、連名で招待状を出した外務大臣夫人を、ロチは「Sodeska《ソーデスカ》伯爵夫人」としているのですが、これはあきらかに井上武子伯爵夫人なのです。
武子さんについては、あまりたいした資料もなく、伯爵夫人となった次第は、鹿鳴館と伯爵夫人 で書きました。
その武子さんの実家・岩松家は、幕臣だったのですが、とても奇妙な幕臣でした。
清和源氏の名門、新田氏の血脈であるため、大名並の格式を与えられながら、禄はわずか百二十石。
明治、男爵に取り立てられたのは、どうも、娘の武子さんが長州の大物政治家、井上馨の正妻になったからのようです。

岩松新田家には、中世からの古文書が多数残されていて、その中には、江戸時代中期から明治に至るまでの、歴代殿様の日記もありました。昭和41年(1966)、元男爵家の新田義美氏が、それらの資料をすべて、地元群馬大学の付属図書館に寄贈なさったんだそうです。
著者の落合延孝氏は、1980年に群馬大学に赴任し、新田岩松氏古文書の整理を頼まれ、10年以上も研究を重ねて、この本をかかれました。
「1980年代から顕著になった近世史像の転換の中で」と著者は書かれていますが、「鼠の害をふせぐ」とされた岩松氏の猫絵に注目し、それを「領主の祭祀機能」と受け止めるような見解は、従来の日本の歴史学に欠けていた視点でしょう。
江戸時代後半に盛り上がった国学の興隆は、これまでにも幾度かふれましたが、講談などによって太平記が流行ったことも、大きく勤王気分を盛り上げました。
太平記における新田氏は、南朝の忠臣で、勤王の血筋なのです。
18世紀後半以降、農村における商品経済の発展と通信制度の発達の中で、朝廷の権威が浮上し、明治維新を準備した、という基本的な見解はもっともなものですし、結びの言葉が印象的です。
「幕藩体制から、外圧に対する復古主義的な民族運動の形態をとりながら、天皇制という形をとった近代国民国家への転換期のなかで、鼠をにらむ猫絵は、殿様の権威を求めてきた人々の歴史をもにらんでいたに違いない」

戊辰戦争において、岩松家の当主・俊純は、幕臣ながら新田官軍を立ち上げます。しかし、あまり品がいいともいえなかったらしい新田の郷臣は、江戸ではいろいろと問題を起こしたりもして、俊純は窮地に立ったこともあったようです。神坂次郎氏の『猫男爵?バロン・キャット』では、この時に武子さんは中井桜洲と知り合ったのではないか、と推測していますが、私もそう思います。


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陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌

2007年01月02日 | 明治音楽
&tag
戦前日本の名行進曲集~陸軍軍楽隊篇~
行進曲, 陸軍軍楽隊
キングレコード

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あけましておめでとうございます。
元旦には初詣のはしごをしまして、最後は護国神社でした。いえね、うちの地方では、おそらく護国神社がもっとも初詣客が多いんです。
いつも行く近所の延喜式内社、つまり10世紀初頭から朝廷に認められていた由緒ある神社ですが、ここもまあ、かなりの人出ではあります。次に、藩政時代に藩主がこの式内社から分祀したような形の神社で、非常に格式は高いのですが人出の少ないところへ行き、そして最後が、人であふれる護国神社でした。
それで、というわけではないのですが、本日は帝国陸軍分列行進曲のお話しです。
このCD、戦前の帝国陸軍軍楽隊の演奏がおさめられていまして、トップが分列行進曲。

YouTube『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-1)

昭和18年、雨の神宮。当時女学生だった母は、学校でこの映画を見ていて、私が子供の頃、幾度もそのときの哀切な思いを話してくれていました。このとき、ずっと流れていた曲が、帝国陸軍分列行進曲です。
ところが、です。なつかしいだろうと思いまして、「これ、なんの曲かわかる?」と、母に聞かせてみましたところが、「なんだか、聞いたことがある曲ねえ。トルコの行進曲じゃない?」といわれて、がっくりきました。
「忘れたの? 陸軍の分列行進曲よ。雨の神宮でも流れていたでしょ?」というと、さすがに思い出しましたが、母に言われてみれば、どことなくトルコの軍楽に似ているんですよねえ。下のサイトさんに、「旧日本陸軍分列行進曲 抜刀隊」と「トルコ軍楽 古い陸軍行進曲ジェッディン・デデン(先祖も祖父も)」と両方ありますから、聞きくらべてみてください。もっとも、分列行進曲の方は、前奏が略されています。

MIDI pro musica antiqua 軍楽等のコーナー

さがしていたら、陸上自衛隊中央音楽隊の演奏がありました。帝国陸軍分列行進曲は、現在も陸上自衛隊に受け継がれているのです。

YouTube JSDF MARCHING FESTIVAL 2006

下は、ロック調ジェッディン・デデン(先祖も祖父も)です。あまりによかったので、ついリンクを。YouTubeには、メフテルの正調演奏もいくつかあるようですので、聞いてみてください。

YouTube zafer i?leyen ceddin deden

実は最近、前田愛著『幻景の明治』という本を読みました。これに「飛ぶ歌 民権歌謡と演歌」という章がありまして、否定的なニュアンスで、陸軍分列行進曲(抜刀隊の歌)が取り上げられていたんですね。
先ほどから、陸軍分列行進曲イコール抜刀隊の歌のように書いていますが、厳密にはイコールではありません。しかし、陸軍分列行進曲は、抜刀隊の歌を取り込んでいるのです。抜刀隊の歌は、明治10年、西南戦争時の軍歌です。

天翔艦隊 軍楽隊 抜刀隊

こちらのリンクに歌詞が載っておりますが、官軍、つまり政府軍の側の軍歌です。
しかし「天地容れざる朝敵ぞ」と歌いながら、「敵の大将たる者は、古今無双の英雄で、これに従うつわものは、ともに剽悍決死の士」と、西郷軍を褒め称えていまして、なんとも不思議な軍歌なのです。
作詞は外山正一。元幕臣です。幕末も押し詰まった慶応2年、林董(蘭医佐藤泰然の子で松本良順の弟。函館戦争に参加。日露戦争時のイギリス大使で日英同盟の立役者)などとともに、19歳にしてイギリスに留学しました。瓦解によりやむなく帰国しますが、外務省にひろわれ、薩摩のイギリス留学生だった森有礼の引き立てでアメリカ留学。化学と哲学を修めて学者となり、東京帝国大学初の総長となった人です。

東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 幕末の遣欧使節団 5.幕府イギリス留学生

明治15年、正一は『新体詩抄』を発表しますが、その中に、この『抜刀隊』がありました。「フランスの『ラ・マルセイエーズ』やドイツの『ラインの守り』のような愛国歌に倣って作ってみた」という詩なんです。
作曲は、フランス人お雇い軍楽教師のシャルル・ルルー。ルルーを雇ったのは、西郷隆盛の従弟である大山巌です。

前田愛氏によれば、堀内敬三氏がこういっていたのだそうです。
「ビゼーの『カルメン』を下敷きにつくられた『抜刀隊』のメロディーは、『ノルマントンの歌』から『小川少尉の歌』を経て、添田唖蝉坊の名作『ラッパ節』にいたるまで、演歌のもっとも代表的な旋律としてうたいつがれた」
とりあえず驚いたのは、「ビゼーの『カルメン』を下敷きにつくられた」という部分です。初耳でした。

SigMidi MIDIダウンロード

上のサイトさんで、ビゼー「カルメン」組曲1番 アルカラの龍騎兵、を、お聞きになってみてください。たしかに最初の部分が似ています。
ビゼーはフランス人で、歌劇『カルメン』の初演は1875年(明治8年)、パリのオペラ・コミック座。シャルル・ルルーが、そのメロディーの一部を、日本での作曲に使ったとしても、なんの不思議もないわけなのですよね。
ただ、ふと、ビゼーもまた、どこかからこの旋律をひろった可能性はないのだろうか、と思ったりします。どこかって、もちろん、トルコの軍楽です。
以前にヤッパンマルスと鹿鳴館でも少し書きましたが、西洋のマーチ、行進曲は、オスマントルコの軍楽の多大な影響を受けて成立したものです。

ジェッディン・デデン(祖先も祖父も) トルコ軍楽隊

バー ステイツ コラム

上のバー ステイツ コラムさんの投稿「Vol.174 ウィーン包囲 投稿者:KEN1 投稿日:2004/05/09(Sun) 16:04 No.553」が、とても詳しく、トルコ軍楽の西洋音楽への影響を、まとめておられます。
さらにいえば、『カルメン』の中で一番有名な『ハバネラ』なんですが、ビゼーは、キューバのハバナの民謡と信じた曲をモチーフに使っているんですね。その曲は民謡風でしたが、実はスペイン人の作曲者がいて、裁判沙汰になったりしています。

さて、堀内氏の「演歌のもっとも代表的な旋律としてうたいつがれた」という後半の部分なんですが、前田愛氏は、さらにこの旋律から、「私の家内が、群馬県の疎開先で聞きおぼえた手合わせ歌を三十年ぶりにおもいだしてくれたのである」とおっしゃるのです。

ごんべ007の雑学村 なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡

上のサイトさんに『一かけ二かけて』というわらべ歌があります。これがその「手合わせ歌」です。

一掛け二掛けで三掛けて 四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って もしもし姉さんどこ行くの 
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン

昔、NHKの大河ドラマで司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』をやったんですが、そのラストで、この歌がうたわれていたんです。
私にとっては、まったく知らない童謡だったんですが、いっしょに見ていた父母が、突然、声をあわせて歌いはじめて、びっくりしました。なんでも手まり歌で、子供の頃によく、この歌を歌いながらまりをついて遊んだんだそうだったんです。
似ているんでしょうか? 陸軍分列行進曲、抜刀隊のメロディーに。
いえね、明治から昭和へ、戦前の日本に流れていた、どこか哀しく、それでいてなぜかなつかしいような、そんななにものかが、地下水脈となって、陸軍分列行進曲とこの手まり歌をつないでいることは、感じられもするのですが。

江藤淳氏の晩年の著作に、『南洲残影』があります。
最初にこれを読んだとき、ほんとうに久しぶりに泣きました。
なんといえばいいんでしょうか、『海は甦える』で、明治海軍を取り上げ、近代海軍が代表する西洋近代の合理性を、肯定的に描いた江藤氏が、まさかこんな風に西南戦争を描き、西郷軍とともに滅び、そして先の敗戦で再び滅びた「何ものか大きなもの」、「もう二度と取り戻すことができないもの」への哀惜の情をつづられようとは、思いもかけないことでした。
そして私は、この本ではじめて、陸軍分列行進曲と抜刀隊の関係を知ったのです。
江藤氏によれば、シャルル・ルルーが作曲した日本陸軍分列行進曲は『扶桑歌行進曲』という曲で、後に定まって、雨の神宮でも流れた日本陸軍分列行進曲とは、似ても似つかないものだったのだそうです。
ルルー帰国後、陸軍分列行進曲は変遷を経ますが、最終的に、扶桑歌行進曲の前奏のみを残し、同じシャルル・ルルー作曲の『抜刀隊』に入れ替えられたのだというのです。
「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かし難い事実である」と江藤氏。

実は、『抜刀隊』の歌が最初に演奏されたのは、明治18年の鹿鳴館だったのです。
それを、前田愛氏は、皮肉なこととして描いておられますし、江藤氏もまた「少々グロテスクな様相」としています。
しかし、続けて江藤氏は、『抜刀隊』を作曲したルルーの心情について、「作曲者自身に国籍を超えた西郷への共感がなければ、あのような曲譜が生まれるはずもないではないか」とし、またルルーを雇った大山巌の存在を描きます。
さらに、作詞の外山正一についても、「この稀代の秀才が、その心の奥底に西郷、桐野や貴島の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたとしても、少しも不思議ではない。外山もまた二十一歳のとき、幕府留学生として滞在していた英京ロンドンで、幕府の瓦解、つまりは滅亡を遠望していた一人だったからである」というのです。
鹿鳴館の舞踏会もまた、二度と帰りこないものへの哀惜とともにあった、悲壮な舞いであったのかもしれないのですよね。それがいかに皮相に見えようとも、そうせざるをえなかった人々の心情としては。

『南洲残影』の最後もまた、あの不思議な手まり歌で結ばれるのです。

お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン


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