郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチ

2012年03月10日 | 土方歳三

 ちょっと寄り道しまして、久しぶりの新撰組記事です。
 
 松山の我が家に、東京で大学生をやっております姪が遊びに来ていまして、いっしょに広島に行きました。
 姪の名は、仮に千鶴にしておきます。
 ちょうど私は、中村武生氏の「池田屋事件の研究」を読んでおりました。

池田屋事件の研究 (講談社現代新書)
中村 武生
講談社


「おばちゃん、なに読んでるの?」
「あんまり千鶴ちゃんの趣味ではなさそうな本よ」
「池田屋事件? 新撰組の池田屋事件でしょ?」
「新撰組の池田屋事件ってー、あー、まー、そういう言い方もできなくはないわね」
「おもしろい? おもしろかったら教えてね。千鶴、新撰組には詳しいよ」
「そーなの? じゃあ、原田左之助が松山の出身だったって、知ってる?」
「えええええっ!!! うそー。日野じゃないの???」

 いったい、どこが詳しいっていうのよっ!!!!!
 と、そのときは、そう胸の内でさけんだだけでして、私はこの姪に、歴史・文学などの知識に関しましては、まったくもってなんの期待も持っていませんから、それ以上、新撰組と伊予松山池田屋で闘死した郷土の男で、書きましたことは話しませんでした。

 実は、私がこの本を読みました最大の目的は、福岡祐次郎についてなにかわからないか、と思ったからなのですが、それにつきましては中村武生氏も、「福岡祐次郎なる人物はまったく正体不明である」としておられます。
 しかし、この年の春あたりからの薩摩藩の分析でありますとか、逃げの小五郎はやっぱり屋根から逃げていたらしいとか(だったらなぜ自叙伝で嘘ついたんですかね)、当時の龍馬は大仏の土佐浪士合宿所みたいな家にいたとか(ここに半次郎が出入りしていて龍馬とも知り合ったのではないかと想像がひろがります)、いろいろと教えられますことも多く、私にとりましてはおもしろい本だったのですけれども、まあ、ねえ。千鶴ちゃんにとっておもしろい本だとは、とても思えませんでした。

 千鶴ちゃんはノーパソを持ってきていませんで、私のノーパソを使いました。共有しましたから、なにげに、私がコメントを書いていましたこのブログも見るわけです。

「おばちゃん、幕末が好きなの? 千鶴も読者になってあげようか?」

 いや、最近は新撰組のことも書いていないしねえ。
 だいたい千鶴ちゃんは、「おばちゃん、なに読んでるの?」とのぞきこみました「井上伯伝」が、ほとんど読めませんでしたくせに、私のブログの読者になって、おもしろいことがあるものなんですかしら、ねえ。


 と思いはしましたものの、一応、「あー、ずいぶん以前の記事だけど、新撰組のことも書いているわよ」と、カテゴリー土方歳三をざざっと見せましたところが、土方歳三 函館紀行は、そこそこ気に入ったようでした。
 まあ、写真記事ですからねえ。

 で、広島旅行でのことでした。
 日の丸と君が代で書きました家族旅行のとき、千鶴ちゃんはニュージーランドに留学しておりまして、同行していなかったものですから、今回、江田島にも行きました。見所は、旧海軍兵学校の講堂、校舎と、教育参考館の展示です。
 日本海軍の歴史の展示に、幕末の人物が数名出てまいります。
 千鶴ちゃんは、さすがに、勝海舟と坂本龍馬の名前は、知っていました。しかし。
「おばちゃん、この人、どんな人?」と千鶴ちゃんが指し示した写真は、吉田松陰の肖像画でした。

 広島最後の夜、千鶴ちゃんは、東京へ帰る途中、京都で新撰組史跡を見物したいと言い出しました。「壬生寺周辺よね」と、私は検索をかけて、ネットで場所を示してあげたのですが。
「池田屋にも行ってみたい。食べ物屋さんになっているんでしょ?」
「食べ物屋さん? 昔、おばちゃんが行ったときは、パチンコ屋の前に小さな石碑があっただけだったけど」
「えー、そうなの? ちゃんと調べてみてよ、おばちゃん」

 調べてみましたら、その通りでした。
 あのパチンコ屋さんが、海鮮茶屋 池田屋 はなの舞という居酒屋さんに生まれ変わり、有名な「階段落ち」の大階段が、再現されているというんです。
 えー、中村武生氏の「池田屋事件の研究」によりますと、階段落ちはフィクションですし、池田屋が現在言われております位置にあったかどうかも、確たる証拠はないんだそうですけれども。

 もちろん、そんなことは、千鶴ちゃんにとりましてはどーでもいいことです。
 「食べられるようだったら、そこで昼ご飯でも食べたら?」と私が言いますと、さっそく千鶴ちゃんは、お店に予約の電話を入れました。なんでも、平日の昼は、予約がなければ食べられないそーでして。
 私はもう、寝ようとしていたのですけれども、千鶴ちゃんの電話予約を聞いていまして、思わず起き上がり、吹き出してしまいました。
 「明日のお昼なんですけど、沖田総司定食をお願いします。……あっ、それと薄桜鬼の隊士カクテル、ノンアルコールの沖田総司、一番組組長もお願いします」

 薄桜鬼って、いったいなに???なのですが、もともとはゲームです。
 
薄桜鬼 ~新選組奇譚~


 いわゆる乙女ゲーというやつでして、アニメにもなっているんだとか。
 要するに千鶴ちゃんは、このアニメのおかげで新撰組が好きになったというわけなのですが、説明がもうめちゃくちゃでして、話を聞いてもわけがわかりません。
 「新撰組の敵は鬼なの。羅刹化した土方さんは、鬼の血を飲んで薄桜鬼になったの」
 「はあああああ???」
 えー、私、いまだにさっぱりわかっておりませんが、雪村千鶴という名の男装の女の子が主人公で、新撰組の仲間入りして美形の隊員たちと運命をともにする、というような、これまでも少女漫画などでよくあったパターンの話のようでもあるのですが、そこにどーも、バンパイア物語のような怪奇要素がからむようです。

 「おばちゃん、薄桜鬼は歴史に忠実だから、幕末のことがよくわかるよ」
 「はあああああ??? どこがっ!!!」
 どーも、ですね、姪の千鶴ちゃんにとっては、池田屋があって、鳥羽・伏見があって、函館戦争があって、とりあえず、中身はどーでも、歴史上の事件が順番に出てまいりますと、それだけで歴史に忠実だということに、なるようです。

「千鶴ちゃんは、沖田総司のファンなの?」
「そうだよ。薄桜鬼の沖田総司のファン。ほんとうは、ヒラメみたいな顔だったんだって?」
「そういう話もあるわね。薄桜鬼の沖田総司はどんな性格?」
「ひねくれてて、意地悪なの」
 「はあああああ??? ひねくれてて、意地悪な沖田総司って!!!」
 土方のタトエばなしby『新選組の哲学』に書いておりますが、天才剣士でさわやかスポーツマンな総司は、司馬さんが造形なさいました。女の子向けに、ひとひねり陰を加えてあるってことなんでしょうかしら。

 いや、ですね。もとが乙女ゲーですから、美形キャラばかりなのは当然でして、といいますことは、当然、男同士のかけ算パロディも多く出回っている作品のようです。
 戦後の話、になると思うのですが、なんで乙女たちって、新撰組がこんなに好きになったんでしょ???
 やっぱり、元の種は、司馬遼太郎氏が蒔いたような気がするのですが、一度、ちょっぴりまじめに考察してみたい、ですね。

 薄桜鬼が興味深いのは、ですね。
 新撰組に敵対します鬼で、アニメでは、最後に土方と死闘を演じて、土方に薄桜鬼の名を贈りました謎の剣客・風間千景が、薩摩藩に雇われている、という設定なのだそうです。
 雇われている、といいますのが、ちょっとあれですが、やはりモデルは中村半次郎(桐野利秋)だったりしないんでしょうか?(笑)
 あと、ですね。トマス・レイク・ハリスとモンブラン伯爵の洋鬼対決なんぞも出てきますと、それはすばらしいゴシックロマンになったんですのに、ねえ。
 
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新撰組と三多摩壮士とシルク

2007年02月21日 | 土方歳三
がらりと話がかわります。
中里介山の『大菩薩峠』をご存じでしょうか? 1巻は、青空文庫にも入っていまして、無料で読めます。
って、実は私、読んでいません。
えーと、幕末を舞台に、虚無的な剣士が、奇妙な因縁の世界をさまよう、と一言でいっちゃっていいんでしょうか。
いえ、最初に土方歳三を含む、初期の新撰組が登場するというので、読んでみたいな、とは、ずっと思っているのですが、戦前の小説ですし、あまり格好よくは描かれてないのだろうな、と予測して、いまひとつ手が出なかったり。
しかし、なんとなく不思議ではあったんです。
粗筋などを見てみますと、主人公をはじめ、登場人物はほとんど架空なのに、新撰組関係だけが、近藤、土方、芹沢鴨、清川八郎と、あらわれるみたいで。

『中里介山 辺境を旅するひと』

風人社

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これを読んで、謎がとけました。
中里介山って、多摩の人だったんですね。で、大菩薩峠がそもそも、多摩にあったとは。
で、明治の多摩の自由民権運動。新撰組と自由民権運動 で書きましたけれども、新撰組のスポンサーだった小島鹿之助は、明治の自由民権運動のスポンサーでもあり、土方歳三の姉の嫁ぎ先、佐藤家も運動にかかわっていたらしい、という程度は知っていたのですが、中里介山が幼い頃、つまり明治、多摩の自由民権運動家たちは、三多摩壮士と呼ばれていたんだそうなんです。

三多摩壮士って………。えーと、いまひとつ理解できていないのですが、ともかく、特殊な風土がありまして、大人しいものではなかったんですね。過激、といった方がはやいでしょうか。もちろん、演説もしましたが、資金強奪とか武器製造とか。
なんでも、明治22年、大隈重信に投げられた爆弾も、もとはといえば、大阪事件のために三多摩壮士が製造したものだったとか。いえ、投げたのは三多摩壮士じゃないんですけど。
いや、まあ、風土というものは、おもしろいものですねえ。

もっとも、私がこの本を読んだのは、なにも新撰組を育んだ風土について、知りたかったわけではなく、以前に、モンブラン伯爵は大山師か で書きました、昭和6年発行の中里機庵著「幕末開港 綿羊娘(ラシャメン)情史」、この中里機庵って、もしかして中里介山の別名ってことはないんだろうか、とか、思ってみたりしまして。
で、どうだったか、といいますと、さっぱりわかりません。ただ、介山は、幼い頃に実家がおちぶれて、横須賀で貿易商をしていた母親の実家を頼った、という話で、可能性としては、ありそうです。
えーと、母親の実家も多摩だったんですけど、多摩は生糸の産地ですから、貿易に手をそめる者も多かったんですね。
そういえば、横浜開港以前から、多摩と神奈川をつなぐ絹の密輸ルートがあったのではないか、というような話を、昔、読んだことがあります。また、その本が出てこなかったりするのですが。
ぐぐったら、出てきました。辺見じゅん著『呪われたシルク・ロード』 (1975年)です。
いえ、これ、別にホラー小説ではなく、地道に土地の言い伝えや資料をさぐったドキュメントです。
ともかく、なんだか、不思議な土地柄ではないでしょうか。


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松浦玲著『新選組』のここが足りない

2006年02月09日 | 土方歳三
あー、すごいお題ですねえ。どうもこの松浦玲先生のご著書には、坂本龍馬の虚像と実像 でご紹介しました『検証・龍馬伝説』もそうだったんですが、最初に大きく頷き、途中で首をかしげるのが宿命のようです。
松浦玲著『新選組』(岩波新書)を読みました。

戦前、新選組といえば近藤勇でした。
明治はともかく、大正、昭和になってきますと、大衆文学における近藤勇のイメージは、けっこうよかったようなのです。一方で、土方歳三は知名度がなく、その写真は、土佐脱藩の志士、土方久元にまちがえられた時期もあったほどです。
それが、まったく逆転してしまったのは、司馬遼太郎氏の『新選組血風録』『燃えよ剣』の大きな影響であったことは、いうまでもありません。
これに関しては、あまり他人のことは言えませんで、ファンとしての私の気分は、土方歳三一人に集中しております。

しかし、「新選組の研究」ということともなれば、近藤勇の方が中心となって当然だとは思います。ところが、現在刊行されています近藤勇書簡は、残されているもののごく一部、なんだそうです。
あらま、存じませんでした。『新選組史料集』(新人物往来社)は持っているんですけど、研究しようと思ったことは、ないですしねえ。
収録されている土方の書簡もそうなのですが、近藤勇の書簡の大多数も、郷里多摩へ出されたものです。
で、松浦先生は、公表されていない近藤勇の書簡が数多いことを嘆かれつつ、それを求めて小島資料館にまで足を運ばれ、近藤勇の書簡を中心に据えて、この『新選組』を書かれています。
近藤、土方の郷里三多摩と、新選組の関係は、以前に、新撰組と自由民権運動 で書きました。
で、松浦氏の『新選組』、最後の締めくくりのお言葉が、以下です。

洋学系の新知識で陪臣が幕臣に取り立てられる道は開けていたが、刀一本で全く無名の浪士から幕臣へというコースは、新選組以外には見当たらない。徳川幕府支持の大枠のなかにいて武士になりたいと願う庶民にとっては輝ける登竜門だった。そういう道が開けたまさにそのときに幕府が倒壊するのは悲運である。
新選組はその悲運の中で輝きを維持しようと務めた。
(中略)
こんな組織は他に無い。滅びる徳川幕府の最後の輝きだった。それを支えたのが武州多摩、多摩はやがて自由民権の一大拠点となる。

って……、近藤さんの書簡に注目されたのなら、やはり出ますよね、多摩の自由民権運動。私の見方と、松浦先生のおっしゃることに、あるいは、あまり大きな差はないかもしれません。
花の都で平仮名ノ説 で書きました、後の実業家・渋沢栄一と、近藤勇の土壌には共通点があるというお話には、大きく頷けますし、渋沢栄一がもともとは水戸の天狗党であったように、近藤勇が攘夷志士でありながら、ごく狭い意味での「攘夷」を脱したというご解説も、もっともに思います。
といいますか、横浜の生糸商人・中居屋重兵衛が、桜田門外の変を援助したように、そもそも「攘夷」感情は、そう簡単に分別できるものではないですし、どの時点で、ナショナリズムに転化するのか、といえば、はっきりと指し示すことのできるものでも、ないでしょう。

新選組ファンには、けっこう有名な話だと思うのですが、上京間もない初期の新選組を、郷里多摩の井上松五郎が訪ね、近藤勇が「天狗」になった、と、日記に書き残しています。これは従来、「近藤が威張りだした」という意味にとられていたのですが、松浦氏は、水戸天狗党の「天狗」と捉えられていて、これは卓見か、と思われます。たしかに、芹沢鴨は水戸天狗党ですし、近藤勇がその仲間になろうとしていて、土方や沖田たちが、それは困る、といっているとすれば、話が通ります。

問題はおそらく、松浦氏が、日本国の国と、幕府の国を、わけておられる点、ではないでしょうか。松浦氏のおっしゃることを、私の言葉で言い直すならば、幕府にしばられた尊皇攘夷はナショナリズムに転化できないが、幕府にしばられない尊皇攘夷が開国になると、ナショナリズムとなって倒幕を考える、そういうことかと思います。
この論理でいくならば、したがって、幕府にしばられた新選組は、ついにナショナリズムに目覚めることはなかった、となりかねないように思えるのです。
次いで松浦氏は、長州の攘夷が失敗に終わった時点で、新選組の幕府にしばられた攘夷思想は行き場を無くし、新選組は思想集団ではなくなった、という文脈で、土方の手紙から、「尽忠報国」という言葉を持ちだし、丁寧に解説しておられます。
しかし、江戸の幕閣と京都の一会桑政権の温度差の中で書かれたこの手紙をもって、「幕府にしばられているから思想集団ではなくなった」というご解説は、いかがなものでしょうか。なくなった、とおっしゃられるなら、そもそも新選組は、どういう思想集団だったのでしょうか。それについての定義、あるいは説明がきっちりなされているわけではなく、なにをもって松浦氏が、「思想集団」という言葉を使われるのか、いま一つ、理解に苦しみます。

長州の攘夷が失敗に終わった時点で、単純攘夷が意味を失った、という点は、松浦氏のおっしゃる通りです。
しかしこれは、大きな意味での「攘夷」の終わりではありません。幕藩体制を改革する必要は、幕府も長州も、ともに痛感したのです。
幕府にしてみれば、一国の外交を担うものとして、長州が勝手にやった無謀な砲撃の責任も、対外的にはとらなければいけません。理不尽なことです。
一方、長州にしてみれば、日本を統治している幕府が、自国領土の長州に、外国艦船の勝手な報復を許すということは、理不尽なことなのです。
結局のところ、一枚岩で諸外国に対するためには、幕藩体制を解消するしかない、ということが、幕閣の一部にも、雄藩の識者にも、実感としてわかった敗戦でした。
そして、それは、統制のとれた強い軍事力を持ったものにしか、なしえないことです。
つまり、志士集団がそれぞれに動いても、あまり意味のない状況になったのです。
幕府か雄藩か、ともかく、どちらの陣営も、その内部変革によって実力を握り、軍事力を蓄えて、状況を切り開く以外に道はなきところにまで、状況が煮詰まった、ともいえます。
そこらへんの長州攘夷戦以降の、対外をも含めた政治状況の分析が、松浦氏の『新選組』は、明確に描かれず、「思想」という言葉が一人歩きをしているようで、いまひとつ、しっくりときませんでした。


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土方のタトエばなしby『新選組の哲学』

2006年02月07日 | 土方歳三
以前に土方歳三と伝習隊 でご紹介しました野口武彦著『新選組の遠景』(集英社)に、福田定良著『新選組の哲学』(中公文庫)が、絶版になっている旨、載っていました。
リンクをはっておりますが、ほんとうみたいですね。しかし、380円の文庫が2100円とは! 絶版って、こわいですねえ。

「哲学」といっても、小難しい話じゃないんです。
私にいわせれば、司馬遼太郎著『新選組血風録』の楽しいパロディです。
著者ご自身が後書きの「言訳」で、以下のように断っておられます。

『新選組の哲学』は新選組の研究者や哲学に関心をもっている人たちに文句を言われそうな本である。だから、この本に必要なのはその道の専門家の解説ではなく、著者自身の言訳であろう。
この本に出てくる新選組の隊士は実在の人物ではない。二十数年前、司馬遼太郎氏の『新選組血風録』を何度か読み返し、そのころNETから放映されていた同名の連続ドラマを見ているうちに、いつの間にかぼくのなかに根をおろしてしまった隊士たちである。かりに彼らがいくらかは面白く書けているとしても、その面白さは司馬さんの小説の面白さ、あるいはあのドラマの面白さの二番煎じでしかない。

野口氏が、『新選組の遠景』の中で、この『新選組の哲学』を紹介しておられるのは、「沖田総司伝説」という章の中で、です。以下、『新選組の哲学』が描く沖田総司像への、野口氏の言及です。

たとえ司馬遼太郎の作中人物であろうとも、ここにはその総司像を透過して、沖田総司の原質を見きわめる視線がつらぬかれている。「スポーツマンの明るさ」とは、
言い得て妙である。
(中略)
福田定良が沖田総司の生涯に見出しているのは、ひたすら<<剣>>一筋に生きようとしているのに心ならずも<<政治>>に引き込まれてしまった純朴な青年の悲劇である。

沖田総司像を「スポーツマンの悲劇」と位置づける福田氏の視線は、野口氏のおっしゃるよう卓見で、今回の大河新選組にも、引き継がれているように思います。
この『新選組の哲学』の中で、私のお気に入りは、「土方のタトエばなし」です。
冒頭に、俳句と歌が出てきます。

しれば迷ひしなければ迷わぬ恋の道

故郷の母の御袖にやどるかと思へば月のかげぞ恋しき

上は、言わずとしれた土方さんの俳句ですが、下はだれの歌だと思われますか? といったところから、お話は始まります。
実は、伊藤甲子太郎の和歌なんです。
で、この俳句と歌の論評も笑えるのですが、その後の土方さんのタトエ話が、おもしろいんです。
ある日、土方さんが沖田さんを呼んで、豆と茶を勧めつつ、語ります。
「もっと面白い話をしよう。そうだ、浮気の話がいい」と口をきるのですが、「浮気をされても、妻は夫を憎むわけにはいかない。といって、むろん、平気ではいられない。そういうもんだろう」と、真面目くさって続けるんです。

ここまで書けば、新選組好きで、勘のいい方ならば、どういうタトエ話なのか、おわかりになられるはず。
このタトエ話の間、沖田さんが入れる合いの手も絶妙で、パロディとして絶品です。
私のお気に入りなのです。

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土方歳三 函館紀行

2006年01月13日 | 土方歳三
2004年五月の旅でした。




函館、一本木にある土方歳三終焉の地の碑です。
最期の地がどこであったかについては、他に異国橋などがあげられていましたが、現在では、一本木説が有力なようです。
先に、お参りしている方がいました。時間をかけて、寄せ書きノートを読んでおられたのですけど、軽装で、市民の方のようでした。





五稜郭の大砲。土方の遺体が葬られた地として、この五稜郭がもっとも有力なのですが、すでにその場所は、まったくわからなくなっています。現代の五月の五稜郭は、藤の花に彩られ、あくまでも明るく、きれいな公園でした。





碧血碑です。函館山の山麓にあります。
「義に殉じたる武人の血は、三年たつと碧(みどり)に変わる」という中国の故事から名づけられました。
すぐ近くまでタクシーで行ったのですが、舗装道からしばらく、細いハイキング道を歩きました。熊笹や大きな蕗など、植物が本土とはちょっとちがう感じでした。
函館戦争の後、旧幕府軍の遺体は、打ち捨てられてました。
それを、市内の寺に埋葬したのは、新門辰五郎の子分だった柳川熊吉で、そのために彼は、新政府
軍に捕まって処刑されそうになった、といわれます。
各所に仮埋葬されていた遺体は、明治4年、この碧血碑の建つ場所にまとめて埋葬されたと伝えられ、ここに土方歳三も眠っている、という説もありました。
碧血碑は、大鳥圭介が中心となって建てたものです。





函館港です。遊覧船から望んだ赤レンガ倉庫街。




称名寺の土方歳三供養碑です。
称名寺は、函館戦争終結直後、旧幕府軍降伏者の収容所であり、新撰組も当初、ここに収容されていました。また遺体が仮埋葬された所でもあったのですが、明治12年の火事で焼けていて、なにもわからなくなっていたのです。函館は、火事の多い町でした。
土方歳三の故郷、日野のお寺の過去帳に、鴻池の手代が、この称名寺に歳三の墓を建立したことが見え、このことを司馬遼太郎が『燃えよ剣』で取り上げました。それで有名になり、昭和47年に、あらためてこの碑が建立されたのだそうです。

 君が夢ただよいてあり皐月浪(さつきなみ) 郎女


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鳥羽伏見の土方歳三

2006年01月09日 | 土方歳三
山村竜也著『新撰組証言録 史談会速記録が語る真実』 PHP新書 2004年発行

この本が届きまして、さっそくとばし読みしてみました。

土方歳三のリベンジ

に書いた以下の部分の詳細が、わかりました。

いまや、戦場に取り残されようとしている炊きだし場に、ひょっこりと顔を出したのが、新撰組副長です。「お偉方はみんな引き上げたから、おまえたちも逃げろ」という土方の一言で、お握り炊き出し隊も無事引き上げることができたんですね。
これ、なにで見たのか忘れましたが、誰か体験者が語り残していることです。

あー、史談会速記録だったんですね。手持ちのなにかの本にも載っていたはずなのですが、見つけられないでいたんです。
炊きだし場の指揮をとっていたのは、幕府勘定奉行配下の役人、坂本柳佐で、そのご本人が、明治27年になって、語り残したものです。
この坂本柳佐の証言に、伏見の新撰組とともに、伝習隊半大隊がいたこともあります。

それでその時に徳川家の伝習隊というのがおよそ半大隊もおりました。その半大隊の伝習歩兵だけが役に立ったと思います。そのほかは会津藩にいたしても、桑名藩にいたしても、または見廻組におきましても、鉄砲は持っておりましたが、なきがごとくといって可なりでありました。

幕府炊きだし場から見た鳥羽伏見の戦いは、興味深いものです。野口武彦氏も、これを題材に書かれているのですが、「土方歳三のリベンジ」では、ごく簡単に略した部分を引用します。淀まで戦線が下がった時点で、炊きだし方に、「兵糧がまにあわん」という兵士の文句がくるのですね。

それから兵糧は必ず戦いをいたしまする最寄りへ置けという松平豊前守の命であった。よほど馬鹿げた話ですが、その頃の閣老の命であるから淀の町の真ん中で、兵糧を四日、五日と焚いておりました。それも始終その兵糧を焚いておりまするところへ矢丸はどんどん参りますから、焚き出しを致しまする人足が働きませんから、しまいには抜刀して刺すぞと言わば、お刺し下さいと言ってたおれてしまうような仕儀で、どうしても兵糧が間に合わんといった様な都合がござりました。
それから五日の夕、淀を引き上げまする時には、私どもが一番しまいまでそれに残っておりますると、新撰組の土方歳三という男が参って、どうも君たちここで兵糧を弄っておったところがいかんじゃないか、もう小橋も破れて味方がおらんくらいの話である、いや、しかし松平豊前守とも約束して、この地を我が死するところと覚悟したから、一歩も動かないつもりだ。なに、もはやその松平は八幡の方へ引き揚げた、これで我らも驚いて、それからすぐに金も少しありますし、兵糧もよほどござりましたから、残らず舟に積んで楠葉の入江を指して遣わしました。

坂本柳佐氏にとって、この時の土方は、とても印象深かったのでしょうね。明治27年というこの時点で、新撰組についても、好意的な見方をしています。

伏見の伝習隊については、新撰組の『島田魁日記』にも、「伏見城外江伝習第一大隊陣ス」とあって、まちがいなく、新撰組は伏見で、伝習隊とともに戦っていたのです。

土方歳三の写真に、懐中時計の鎖が見えますよね。
あれを、私は長い間、おしゃれなのか、と思っていたのですが、そうではなかったんです。
野口武彦氏によれは、征長戦の時点で、幕府の海陸軍は、西洋時間を採用していたのです。共同作戦の時など、時間を確かめるために、指揮官は時計が必要、だったんですね。


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新撰組と自由民権運動

2006年01月05日 | 土方歳三
雉子(きじ)啼くや 躓(つまず)く石に残る闇

土方歳三の義兄、佐藤彦五郎の句です。この句、好きです。
佐藤彦五郎は、歳三の姉・のぶの夫、なんですが、天領多摩の日野の名主で、歳三は早くに母を亡くして、歳が離れたこの姉が母代わりでしたので、子供のころから、我が家のように、佐藤家へ出入りしていたんですね。
その佐藤家が、天然理心流の道場を持っていて、土方歳三は、そこで剣に目覚めたわけです。
なぜ、多摩の名主が剣道場を持っていたか。

やはり、攘夷でしょう。
攘夷感情を、単純な外国人排斥、異人斬りとのみ結びつけるのは、あまりに一面的です。勤王佐幕にかかわらず、当時の日本人の大多数が、共通して持った感情なんですが、そこには大きな幅があり、どう対処すればいいのか、具体的な方策について、深刻な対立となったわけです。
黒船来航のとき、日本にはそれに対抗するなんの軍備もないことを、改めて、大多数の人々が覚ったのです。

幕末、なぜまず水戸藩が中心になったかといえば、ペリー来航に先立って、国防強化の必要性を強く唱え、その書が、いわば当時のベストセラーとなっていたから、です。
会沢正志斎の『新論』です。
水戸藩は、徳川御三家の一つ、つまり最大の親藩なのですが、黄門さま、水戸光圀公以来、『大日本史』と呼ばれる壮大な日本史編纂を延々と続けていまして、幕府の公式な歴史観、まあ、現代に例えていうならば検定教科書史観ですか、とは、趣の違った尊皇思想を育んでいたんです。
尊皇思想とはいっても、もちろん幕府を否定するようなものではなかったのですが、それが、です。より尊皇の方へゆれるには、ひとつの事件がありました。
ペリーの来航より二十数年前のことです。
水戸藩領の大津浜に、イギリスの捕鯨船の船員が上陸したのです。
関東の水戸藩領に英国船が押し入って来た、というのは、それだけで、幕府にも衝撃的だったのですが、当の水戸藩にとってはなおさらです。
このとき、『大日本史』の編纂に携わっていた水戸の儒学者、会沢正志斎は、筆談役として取り調べに出向きます。筆談役って……、イギリス人とどうやって? と、ちょっと不思議なんですが、イギリス人が中国人を連れていたんじゃないのでしょうか。それならば、漢文でやりとりができますから。
ともかく、これは水戸藩にとって、世界を肌で知る生の機会となり、世界の中の日本を強く意識して、尊皇攘夷の観念が燃え上がるのですね。
なぜって……、そうですね。つまり、このままでは西洋列強に太刀打ちできない、もっと国防を強化し、反対に世界へ押し出していかなければならず、そのためには日本独自の求心力が必要だ、ということです。

ともかく、ペリー来航時の日本は、武士は役人になっておりましたし、対外を考えるならば、まったく軍隊のない状態、といっても過言ではなかったのです。
すでにロシアの南下事件などもありましたし、識者は、もう長年、国防強化を叫んでいたのですけれども、一口で国防強化といいますが、それは、幕府の体制を大きく変革しなければ取り組めないことで、さしせまった脅威がなければ、急激な変革は、だれにとっても望ましいものではなかったのです。
そこへ、黒船です。
海防は緊急な問題となり、各地で、駆り出された郷士や農民たちにも、火がつくんですね。彼らの攘夷感情は、いつしか、自分たちが国を守るんだ、という、ナショナリズムとなります。
自分たちが国を守る、ということは、自分たちにも意見を言わせて欲しい、という政治参加につながるんです。
普仏戦争で、愛国者イコール共和主義者といわれ、『ベルリンへ!』と開戦を求めたフランスの戦争推進勢力が、民主主義の理念を追求する人々であったと同じように、ナショナリズムと民権運動は、本来、表裏一体のものであったのです。

天領三多摩の剣道勃興も、巨視的に見るならば、ナショナリズムの芽生え、でした。
島崎藤村の『夜明け前』の世界ですね。
自分たちが自分たちの手で郷土を、そして国土を守らなければ、という気負いが、江戸の文人たちとの交流も深く、文雅に造詣の深かった多摩の名主たちを、剣道に向かわせたのです。

天然理心流は多摩の剣法です。理心流三代目宗家、近藤周助は、多摩の豪農層を門人として、その援助で、江戸にも道場を持っていました。近藤勇は、やはり多摩の豪農の出で、養子となって周助の後を継いだわけです。
佐藤彦五郎や、やはり新撰組を支援した多摩の名主、小島鹿之助は、天然理心流の門人であると同時に、スポンサーでもありました。
幕府瓦解までの新撰組の核にあったのは、多摩の土着の人間関係です。
佐藤彦五郎は、甲陽鎮撫隊の甲州出陣に際しては、春日隊という多摩の農兵を組織し、新撰組に協力しています。
冒頭の句は、その敗戦のときに詠まれた句だと、言われているんです。

そして明治、多摩は、自由民権運動の地となります。新撰組のスポンサーだった小島鹿之助は、新撰組の顕彰に心血をそそぐと同時に、自由民権運動の闘志たちを、応援するようになります。
明治の自由民権運動は、ナショナリズムと民主主義が一体となった、反政府運動です。佐藤家もまた、民権運動にかかわっていたようですし、だからこそ彼らは、土方歳三の遺品を多摩に運んだ市村鉄之助が、西南戦争で、西郷軍に参加して死んだと、語り伝えたのではないでしょうか。
いえ、あるいは、それが事実だったのかもしれませんが、その語り伝えには、多摩の人々の願いが込められているように、感じるのです。
明治10年の時点において、西郷軍は、自由民権派をも含む、反政府勢力の希望の星でした。当時の錦絵の描き方や報道を見れば、人々が鬱屈した思いを、いかに西郷軍に託していたかが、はっきりとわかります。
福沢諭吉も、「言論が封じられたときには武力で抗議するしかない」と、西郷軍を擁護しておりますしね。

……って、えーと、これで、平太郎さまにいただいたTBへの反論になっておりますでしょうか(笑)

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土方歳三 最期の一日

2006年01月03日 | 土方歳三
見ました! NHKの正月時代劇。いえ、なかなかよかったです。

実は、大河の新撰組は、最初の何回か見て、見るのをやめてしまったんです。
初回が池田屋で、殺陣の下手さかげんに腹を立てまして、そこではまだ、これからうまくなるかもしれないしー、と我慢したのですが、史実無視の著しさ、なによりハリスだかが出てきた回に我慢の限界がきまして、精神衛生上よくないから見るのはよそう、と。
いえね、そりゃあドラマなんですから、史実無視もあるのはわかっているのですが、ばかばかしくなってしまうような無視の仕方、と思えてしまうと、もうダメなんです。

しかし今回、五稜郭での最後のわずか1日、ということで、凝縮していたせいか、悪くなかったですね。
土方は、和装のときよりもしっくり演じてましたし、榎本と大鳥の描き方もなかなかのもの。
榎本子爵、けっこう好きなんです。あのおっちょこちょいなところが。
そりゃあ、突っ込めば、「あー、榎本さんは海軍専門なんだから陸軍を任せるなんていわないでねえ」とか、「伝習歩兵で桶狭間はどんなもんでしょ」とか、突っ込みどころはいろいろありましたが、それすらも楽しめた、といいますか。
つーか、なんで松平太郎を出さないんでしょううか。陸軍の一番上は彼ですし。あの方は、歳さんと気があったと思いますよ。
といいますか、私は、土方を伝習隊指揮に迎えたのは、そもそも松平太郎ではなかったか、と思っています。
フランス人が出てこなかったのは、最後にいないんですから仕方がないですけどねえ。
永井尚志は、笑いました。いえ、再び、野口武彦氏が、『幕府歩兵隊』に書かれていたこの言葉を思い出しまして。

永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった。

参照  彼らのいない靖国でも

ちょっとやめて欲しかったのは、料亭が鹿鳴館になっちまっていたこと、くらいでしょうか。
あのねー、明治2年なんだから、函館がいくら開港地でも、芸者さんがみんな洋装っていうのは、いかがなものかと。それにドレスのシルエットがねえ、あまりに時代が下りすぎです。
あの時代はぎりぎりまだ、クリノリンです。当時は、パリの流行りがすぐに函館まで伝わることもありませんから、なおさら確実にクリノリン。
そうですね、映画で見るならば、『風とともに去りぬ』の前半や『若草物語』、『山猫』あたりの格好、といえばいいでしょうか。スカートがぱあっと大きく広がっているスタイルです。
それに髪型も、あれじゃあ19世紀末から20世紀初頭のアールヌーボー期です。
つーか、榎本さんは江戸っ子ですから、柳橋の料亭で芸者と遊ぶのがお好きで、明治に海軍にいて薩摩ともめたときも、芸者遊びがやり玉にあがったほどですのに。
鹿鳴館は、それほどお好きじゃなかったと思いますよ。外交官もなさいましたので、つき合いはこなしておられたでしょうけど、ご自分が、ダンスはできない、と書いておられますし。
あー、少しは華やかな場面を、入れてみたかったんですかね。でもだったら、最低限の時代考証はしろよ、と。

これをやる前に、大河の後半部の総集編みたいなのをやっていまして、そちらも見たのですが、驚きました。
えー、近藤さんが、私が慶喜公について書いたと似たようなことを、言っているじゃないですか。「錦の御旗に目がくらんでいる。朝敵がなんぼのものだ」と。

参照 慶喜公と天璋院vol2

坂本龍馬暗殺の裏は、ちょっといただけなかったですけど。
龍馬を殺しても、薩摩にはなんの得もありませんもの。
孝明天皇の死は、あまりに都合がよすぎるので、私は薩摩を疑っていますが、龍馬は、政治力のある人ではなかったですし、すでに薩摩は、板垣退助を取り込んでいましたしねえ。土佐藩を動かすのに、龍馬はなんの力ももっていません。
だいたい、いっしょにいた中岡慎太郎は、徹底した倒幕派ですし、人望があって、土佐の脱藩者をまとめていたんですから、慎太郎の死は、薩摩にとって大きな痛手です。龍馬だって、あくまで倒幕に反対、ってことはなかったでしょう。
薩摩倒幕派の位置づけでは、大政奉還は武力倒幕への道程、なんです。

でも、まあ、あれだけ近藤と土方を描けているなら、よしとしましょう。後半は、けっこうよくなっていたんですねえ。
残念なことをしました。


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二本松少年隊と碧血碑

2005年12月03日 | 土方歳三
今日は税務相談に街へ出かけまして、ついでに週刊新潮を買ってきました。野口武彦氏の「幕末バトル・ロワイヤル」が連載されはじめてから、毎週買うようになってしまいました。

昔、幕末にはまっていたころのことです。母が、大学の同級生に会いに二本松へ遊びに行くことになりまして、二本松といえば、二本松少年隊です。
「ねえ、もし二本松少年隊の資料があったら買ってきて。地元の教育委員会なんかが出しているかもしれないし」
と、私は頼み込みました。
いえね、体験談の筆記とか日録とか、地元で小冊子を出している場合がありますし。
そのとき母は、「二本松少年隊ってなに?」と、まったく知らなかったのです。
「まあ、会津の白虎隊みたいなもの」と簡単に説明して送り出したのですが、そのおかげで母は、二本松のお友達に大喜びされたのです。
「遠いところに住んでいるのに、娘さん、よく知っていてくださった!」
というわけです。地元には銅像が建っていて、墓地には花と線香がたえず、いまなお語り継がれる郷土の誇り、だったんですね。
資料はなかったのかどうかわかりませんが、資料のかわりに、地元で出している子供向けの物語を、母はそのお友達からもらってきてくれました。
挿絵が入ったりっぱな本です。でも、おかーさん、資料が欲しかったんだけどお、とつぶやきつつ、読ませていただきました。どこまで実話でどこまでフィクションか、資料を読んでいないので、さっぱりです。ただ、泣かせどころは、この部分でしょう。

志願して、大砲隊にいた12、3歳の少年が、隊長の戦死ののち、四散して、二人になったところで、敵兵に遭遇。傷ついた少年を、無傷だった少年がかばい、勇敢にも敵の隊長に斬りかかっていったところが、隊長は軽くいなして、「お主たち、年端もいかぬ子供の身で、よう戦いなすったのう。丹波どのは立派なご家来をお持ちのことじゃ。しかしお主たちの働きは、もう十分にすんだはずじゃ。さ、早う母上のもとに行かしゃれ」と言って逃がそうとするのですが、その目の前で、流れ弾にあたって、少年は死んでしまいます。

これ、読んだ当時から、なんとなく、この隊長は薩摩みたいだな、という気がしていたのですが、さっきぐぐってみましたら、やはり、この方面にいたのは薩摩兵で、野津道貫が後に、二本松藩の武勇を賞賛して、歌まで詠んでいるようですね。
ともかく、母は友達にお城にある少年隊の銅像やらお墓やらを案内され、もうすっかり「いたいけな子供が、りっぱに母親に挨拶して、戦場に出て……、かわいそうに。滅びの美学よ」と、感激してしまいました。
それはよかったのですが、一方、なにも知らずに「三春の滝桜が見てみたい」という母の希望を、二本松のお友達は、「裏切り者の三春の桜なんか、見なくていい」と、拒絶なさったそうです。
いや、桜まで悪いことはないと思うんですが。
もう、なんといいますか、百年を超える恨みですねえ。どうも二本松では、攻めてきた薩摩よりも、同盟関係にありながら、途中で薩長側についた隣藩、三春への恨みの方が強いようです。

その後、母は病気をしまして、一人旅に不安を覚えるようになり、年に一度くらい、私がつきそって旅行をするようになったのですが、その行き先です。旅行が終わると次の日から、次の旅行の希望を、しつこくくり返します。
先年は、函館でした。函館はいいのですが、「五稜郭よ。滅びの美学を見に行くの」と母は言います。続く言葉が、「誰だっけ? 榎本?」
おかーさん、榎本子爵は滅んでませんってば。
いえね、オタクではない母が言っているのは、土方くらいのものだろうとわかってはいたのですが、あれは滅びの美学なんか? という思いもありまして、「函館戦争で死んだ人はいろいろいるわよ」と意地悪く、肩をすくめてみたり。
滅びの美学というなら、息子二人と共に千代ヶ岡砲台で死んだ、中島三郎助なんかが、一番そういう感じを受けます。彼の場合、桂小五郎の師だったこともありますし、降伏しても、助命されることは確実、だったでしょうし。
まあ、ともかく、誰なのかもわからないまま、滅びの美学、といってしまえる母は、すごいですわ。
もっとすごかったのは、実際に函館に行って、母が一番感激したのが、碧血碑だったことです。
一応、説明はしたのですが、母はなにも知らなかったのです。知らなかったにもかかわらず、この碑に込められた旧幕軍への鎮魂の思いを、感じとったんでしょうね。
帰ってから母は、言いはじめました。
「よかった! 滅びの美学よ。あれはなんの碑だった?」

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彼らのいない靖国でも

2005年12月02日 | 土方歳三

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
野口 武彦
中央公論新社



やっとこれが届きまして、読みました。
野口先生、失礼しました。昨日私が書いた伝習隊とシャスポーのことなど、こちらの方で書いておられましたね。
いえ、当然、ですよね。先日書きましたが、以前にも、『王道と革命の間~日本思想と孟子問題~』と『江戸の兵学思想』で、私が幕末によせていた問題意識に、答えてくださったお方です。
近代軍隊のなんたるかを考えることなく明治維新は語れない、というところへ行き着くのは、必然です。そして、今回もまた、きっちりと資料を読み込んだ上で、私が通説に対して、「ちょっと待って」と思い続けてきたあれこれを、きっちり指摘してくださっていました。脱帽です。
そうなんです。おっしゃる通りです。鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の火器が劣っていたから負けたわけではありませんよね。
そして、幕府の軍隊の洋式化が、かならずしも遅れていたわけではないんですよね。取り組みは、長州なぞより、むしろ早かったんです。
野口先生の幕府歩兵隊の綿密な描写の中で、唯一私に補えるものがあるとすれば、禁門の変、蛤御門の戦いにも、幕府歩兵隊は、一橋慶喜の手勢として参加しているはずだ、ということです。
なにで見たかといえば、薩摩藩の資料集です。
禁門の変における薩摩藩は、幕府、会津に見方して、長州を迎え撃っています。とはいうものの、すでに西郷隆盛が復帰していますし、幕府に対する態度は、是々非々とでもいうのでしょうか、敵対する可能性も視野に入っています。それで、味方であるはずの幕府軍や会津軍などの観察報告を、藩庁にあげているんですね。
薩摩藩は、幕府軍の洋式化がどこまで進んでいるか、という点を非常に気にしていたようなんですが、報告は「格好だけで戦いぶりはたいしたことはない」です。
そうなんです。野口先生も、水戸天狗鎮圧に出動した幕府歩兵隊の服装が、半洋式化していたことを述べておられますが、この時点で、幕府歩兵隊が一番洋式化していたんです。
にもかかわらず、なぜ、幕府歩兵隊が活躍できなかったか。いえ、野口先生は、「幕府歩兵隊は皮肉なことに脱走隊となってから生き生きと活躍した」と指摘しておられまして、おっしゃる通りです。
結局幕府は、近代軍隊を有効に使いこなしうる政体変革を、なしえなかったのです。幕府が倒れ、脱走軍となって、無能な上層部から解放された歩兵隊、伝習隊は、古屋佐久左衛門、大鳥圭介、土方歳三といった叩き上げの指揮官に率いられ、ようやく本領を発揮できたのです。
最後の結びの一章で、野口先生は、こうおっしゃいます。

明治の帝国陸軍は幕府歩兵隊ばかりか、けっきょくは長州奇兵隊も薩摩小銃隊もないがしろにする発想で建軍された。徴兵制は、階級分化した農村社会を背景に職業軍人と兵役で駆り出される消耗品的な兵卒の群を作り出した。何か貴重な職人芸のようなものが見捨てられたのである。幕末に生まれた軍隊は、円満には近代軍隊と接続されなかった。

これを読んだときには、思わず涙が出そうになりました。
先生、よくぞおっしゃってくださいました。
昔、桐野について調べていたころ、明治の建軍について、あんまりにも短絡に「徴兵制を否定するのは士族主義で旧弊」とばかりいわれることに、私は大きな疑問を抱いていたんですね。
ただ、あのー、先生、たしかに靖国には、土方も桐野も祀られてはおりませんが、私は、靖国を否定する気には、なれませんです、はい。
徴兵制にも、そして靖国にも、近代国家の秩序構築において、必然性があったわけですし、結果、靖国には、明治以降の庶民の情もからんでいます。
といいますか、長州奇兵隊も薩摩小銃隊も、革命軍だったわけでして、新しい秩序が構築されるにあたっては、犠牲となるしかなかったのではないでしょうか。また脱走幕府歩兵隊は、秩序の外にあったからこそ、自由だったのでしょう。近代軍隊に、変革期の軍隊が持っていたものを求めるのは、無い物ねだりであるように思うのです。
感情の上からは、明治陸軍の建軍者たちを、けっして好きにはなれませんけれども。

最後に、鳥羽伏見の章で述べておられた次のお言葉には、楽しく笑わせていただきました。

永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった。

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