郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

松本良順と家茂と篤姫

2008年10月20日 | 幕末の大奥と薩摩
 また、ちょっと脱線します。
 大河の「篤姫」なんですが、将軍家定が、実は馬鹿ではなかった!設定になったあたりから、堺雅人の好演も手伝って、「なかなか、やるじゃないの」と思って見ていましたが、夫が死んで、篤姫が未亡人になってからというもの、あるわけない………とあくびが出るほど、ホームドラマ部分がつまらなくなってしまい、そうするといやでも史実を描いた部分の方へ目がいってしまいまして、まあ、当然なんですが、これがまたあるわけない………の連続で、最初の印象、「まあ、小松帯刀の名が世に知れわたるだけでもいいんでないかい」という境地に、落ち着いてまいりました。

 にしても前回は、実にひどかった、としか。小松帯刀、似合わなすぎ!です、総髪が。
 つーか、事実としては病気のときの「さかやき剃らなくていいですか」願いをたてに、外国人に髷が珍しがられてうるさいから総髪って、馬鹿馬鹿しすぎ!です。帯刀は外国に行っているわけじゃないんですから。
 アーネスト・サトウやミットフォードやグラバーやボードウィンなどが、髷を珍しがるわけがないでしょうがっ!!! 日本にいるんですから。
 だいたい、総髪は王政復古の象徴なんです。その昔、武士が政権をとる以前、朝廷に実権があった古代には、さかやきなどなくって総髪だったのだからと、勤王の志士は総髪を好んだんです。みんなでお公家さんのまねをしようってことで、外国人は関係ありません。

 まあ、文句をいえばきりがなく、例えばですね、家茂の実母・実成院が、酒好きで、賑やかなことの好きな人だった、という話を、本寿院におっかぶせていましたが、そもそも実成院を出していないのですから、仕方がないといえば仕方がないんですが、ますます本寿院が、あんまりにもありえない……状態。

 しかし、そんなことよりもなによりも、家茂将軍が勝海舟に抱かれて死んだ!!!という呆然とするような作り話に、心底うんざりしたのは、やはり、昔これを読んで、思わず松本良順に感情移入し、まあ、なんとおいたわしい上さま……と、ほろっとした記憶が鮮明だったせいでしょう。

松本順自伝・長与専斎自伝 (東洋文庫 386)
松本 順,長与 専斎,小川 鼎三
平凡社

このアイテムの詳細を見る


 松本良順は、将軍家の奥医師で、蘭方医です。勝海舟が長崎でオランダ海軍伝習を受けていたと同時期に、やはり長崎で、オランダ海軍軍医だったポンペ・ファン・メーデルフォールトから、医学伝習を受けました。
 実父は佐倉藩の蘭方医だった佐藤泰然で、日英同盟時のイギリス公使だった林董は、実の弟です。
 林董は、幕末のイギリス留学生で、帰国後、榎本武揚の脱走艦隊に身を投じて、函館戦争に参加していますが、兄の松本良順は幕府の脱走陸軍の治療にあたり、会津入りしています。良順は、結局、土方歳三とともに会津を出て仙台まで行き、そこから横浜へ帰ります。
 そもそもは、近藤勇が良順のもとを訪れて親交がはじまり、京都では良順が新撰組の屯所を訪れて土方にも会いましたし、良順は後年、この二人の顕彰に心を尽くしましたので、新撰組ファンには必読の自叙伝です。

 しかし、この自叙伝でどこが最も感動的かというと、将軍家茂の最後を看取る場面です。
 大阪城で病の床に伏した、21歳(満20)の若き将軍家茂は、無能な老中にかこまれ、次々に入る第二次征長の敗戦の報に心痛ひとかたならず、赤子が母親にすがるように良順をひきとめます。奥医師が、2時間ごとに交代でそばにつめることになっていたのですが、良順は三週間の間、ずっとつめきりで、その間、横になって眠ることはできませんから、朦朧としてきて、ついに「1,2時間の休息を賜え」と家茂に願います。しかし家茂は、良順がそばからいなくなることを怖れ、「ここに入っていっしょに眠れ」と、良順を自分の寝床に入れたんだそうです。
 良順は、「恩命の重き、辞することあたわず」、将軍の寝床に入りましたが、もちろん、眠れるわけがありません。
 「君上と同衾するの苦は、百日眠らざるよりくるしかりし」
 それから2、3日のうちに、良順に看取られながら、家茂はこの世を去りました。
 「これ順が終天無窮の恨事にして、公に尽くせし最後のことなり」
 
 そして、松本良順は、こうも記しています。
 「予は将軍家茂公に仕え、恩遇をこうむり、最も心を尽くしければ、そのことおのずから内殿に伝わり聞こえ、天璋院殿大いに予を信ぜられたり」
 つまるところ、実成院の逸話を本寿院のことにしてしまうと同時に、松本良順の回顧録を妙なぐあいに脚色して、勝海舟のことにしてしまったわけなのですが。

 なお、この場面は、司馬遼太郎氏が、実にみごとな脚色で、「胡蝶の夢〈第3巻〉」 (新潮文庫)において、描かれています。


クリックのほどを! お願い申し上げます。

にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村

歴史 ブログランキングへ
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天璋院篤姫の実像

2008年03月09日 | 幕末の大奥と薩摩
幕末の大奥―天璋院と薩摩藩 (岩波新書 新赤版 1109)
畑 尚子
岩波書店

このアイテムの詳細を見る



 大河ドラマのおかげで、天璋院本が多くでまわっております。
 えー、私以前、天璋院篤姫と慶喜公vol1 vol2で、ろくに調べもしないで勢いで篤姫のことを書いてしまいまして、きっちり資料調べした本がないものか、と思っていましたところが、ありました!
 この本の著者、畑尚子氏は、江戸東京博物館の学芸員さんだそうです。
 やはり宮尾登美子氏の「天璋院篤姫」から入り、何度か読んで少し資料をかじるうちに、「小説といえどもかなりの時代考証がされている」と感じ、「どのような史料を見られたのかという興味が沸き上がった」と、前書きに書かれています。
 で、あとがきでは、この本を書かれて、「私の天璋院像は一変し、宮尾登美子氏の小説に描かれたものは偶像であったことに気づいた」とされているんです。

 最初、私は、「一変してるかなあ」とちょっと首をかしげていました。
 たしかに、資料不足による細かなまちがいはあるようなんですが、将軍家御台所になってからの将軍後継者工作や、家定との関係、後に一橋慶喜を嫌い、家茂を支持していたこと、皇妹和宮との関係など、重用な部分はむしろ、宮尾氏がきっちり資料に基づいて書かれていたことがわかり、ただ、男勝りで「しっかり家をささえている」部分の描き方が古風なだけではないのか、と思ったのですが。

 宮尾氏の描かれた篤姫像で、私が一番疑問だったのが、「情報不足による攘夷主義者で蘭方医嫌い」という部分でして、「蘭癖大名といわれた斉彬公の養女で、将軍家後継者工作もあって御台所となった人が、これってありなの?」と思っていたのですが、畑氏によれば、篤姫さんの主治医が、薩摩藩医でもある蘭方医・戸塚静海でして、さらに情報不足どころか、かなり積極的に情報を集めているようすで、たしかにこの点では、一変しています。

 一番びっくりしましたのが、篤姫が御台所となりましたお相手の将軍家定が、大奥で逝去していたことです。
 たしか宮尾氏の小説では、篤姫は夫の逝去もすぐには知らせてもらえず………、とかになっていたと思うのですが、「彦根藩公用方秘録」によりますと、「家定公が脚気で重体になり、井伊大老をはじめ老中は、ふだん足を踏み入れない大奥のご寝所に入った」ということなんだそうです。
 また脚気ですか。いや、この当時の将軍家って、次代の家茂さんも和宮さんも、みなさん死因は脚気で、いったいどういう食生活だったんだろう、と思うんですが。
 さすがに、あれです。最後の将軍慶喜公は、豚一と呼ばれるほどの豚肉好きだったといわれ、鳥羽伏見から逃げ帰った直後もまずは江戸前のウナギを食されたともいわれ、長生きなさいましたよねえ。
 まあ、豚肉だのウナギだのは、品のいいものではなさげですが、大豆を食せばいいんですから、お豆腐なんか食べていればいい話ですし、副食をたくさん食べれば、と思うんですけどねえ。
 運動しないものですから、あっさりと白米につけもの、そして甘いものばっかり、食べていたんでしょうか。
 慶喜公は、なんとも身軽に、動きまわるお方でしたしねえ。
 それはともかく、です。
 家定将軍の脈をとった蘭方医の伊東玄朴は、「毒がまわられた」と言っちまったらしいんですね。いや、ですね、正確には「(脚気の)毒がまわられた」、だったそうなのですが、脚気は当時、ビタミンB1不足とは知られておりませんで、なんらかの毒素が体にまわってなるのだろうと考えられていましたようなわけで、脚気をはぶいちゃったんです。

 あー、また話がそれますが、明治になって、西洋医学の導入を長州がしきってドイツ式に決まり、これも薩摩は、陸軍と同じでイギリス式を推していたんですが、敗れて、戊辰戦争で援助してもらったイギリス公使館の医師・ウィリアム・ウィリスを薩摩藩で引き取ります。
 ドイツ式もいいんですが、なにも軍隊じゃないんですから、イギリス式も残しておけばいいのに、なんでそう、一辺倒にしてしまうんでしょう。
 結局、医学においても、イギリス式が残ったのは薩摩がしきった海軍だけです。
 薩摩でウィリスの教えを受けた高木兼寛が、イギリスに留学して、帰国後、海軍軍医となり、脚気の原因は食べ物にある、ということで、食事改善により、海軍の脚気による死者を根絶させます。
 ところが、ドイツ医学では、これを細菌による病気と見ていたんですね。
 森鴎外をはじめドイツ留学した陸軍軍医上層部、そして医学界の主流もそうなんですが、頑固に、海軍の成果を認めず、日清戦争においては、戦死者が450名ほどだったのに、その10倍近い脚気による死者を出します。それでも懲りずに、日露戦争においては3万近い脚気による死者が出たといいますから、あきれます。

 話をもとにもどしますと、「上さまに、毒を!」と大奥はパニック状態。
 家定つきの御使番(奥女中)藤波は、将軍逝去の翌日、「上さまはまだ、35才の若さでおられたのよ。御台さまも迎えられ、お世継ぎのご誕生をみんな楽しみにしてたのに、こんなことって! あんただから秘密の話をするんだけど、毒薬がつかわれたのよ! 水戸、尾張、一橋、越前がこれにかかわっていることは確かよ」と、弟に手紙を書いているんです。
 
 水戸、尾張、一橋、越前です。
 将軍後継者問題の一橋派、つまり、一橋慶喜を推す派が並んでいるんですが、薩摩がぬけてます。
 たしかに、島津斉彬は帰国中ですし、将軍家のお世継ぎに関係する親藩じゃないんですが、一橋派が毒殺にかかわったというのなら、別個にでも薩摩も名があがりそうなものです。実際、先に失脚した老中の名なんかもあげているんですよね。
 篤姫さん、ただ者じゃないですね。すっかり、大奥を掌握しています。
 この直後、島津斉彬は国許で死去し、徳川将軍家では紀州から家茂が入って将軍となり、井伊大老による安政の大獄へとむかうんですが、天璋院となった篤姫さんが、どのようにしていたかは、やはりさっぱり、資料がないようです。

 次いで、将軍家茂のもとへ御降嫁なった和宮さんとの軋轢です。
 ここらへんが、私は一番、畑氏と感想を異にするところなんですが、畑氏の見解は、おおよそ、以下のようです。
 「和宮は朝廷から格下の将軍家へ嫁いだわけで、さらにこの幕末、朝廷の権威は上昇している。尊重されて当然なのだが、天璋院は和宮とは逆に、格下の外様大名から将軍家へ嫁いだのに、これまでの大奥や将軍家、大名家のしきたりからいって当然のことに従わず、感情的な対処が多い」
 見解を異にするというか、あれですわ。
 朝廷の権威があがった、といいましても、それは薩摩藩など外様大名にとっては、われわれのおかげであって、薩摩藩は朝廷を盛り立てつつ、実力で将軍家を脅かすようになっていたんですから、天璋院が、「皇女ったって私の嫁よ。朝廷に実力なんかないんだから」と思ったとしても、それは、朝廷の権威があがると同時進行な事態ですわね。

 で、残念なことに、文久2年(1862)、島津久光が朝廷の勅使と軍勢を引き連れ、幕政改革を迫りに江戸へ姿を現したとき、篤姫さんがなにをしていたかは、これもさっぱり資料がないみたいです。
 一番、知りたいところなんですけどねえ。
 ただ、篤姫さんは、江戸の薩摩藩邸とは密接に連絡をとり、島津家と縁戚関係にある大名家と、積極的に外交をくりひろげていたようでして、家格をあげてあげたりもして、同時に情報蒐集にも務めていたようです。
 とすれば、私が以前憶測しましたように、京で一橋慶喜が久光を罵倒したことが、篤姫さんの慶喜嫌いを決定的なものにしたのではないか、ということは、十分ありえると思うんですね。
 畑氏はまた、将軍不在の期間が長くなってから、篤姫さんは表へ出て、政にかかわっていた節が見える、とされていまして、まったくもって、「徳川家は私がささえなければ!」だったようです。

 この本のハイライトは、なんといっても、徳川家存続の嘆願と、江戸開城でしょう。
 畑氏は、ここで、江戸城無血開城は、篤姫さんの西郷隆盛への嘆願がきいたのではないか、とされます。
 「いまさら言っても取り返しがつかないんだけど、一昨年、大阪で家茂公がはかなくなられたとき、慶喜は上京中だったし、そのまま将軍に座ったのも仕方がないかと口を出さなかったんだけど、慶喜は将軍としてどうよ、と前々から疑問だったし、国を危うくするようなことをしでかすんじゃないかと、心配だったの。だから、慶喜はどうでもいいんだけどね、徳川家がつぶれたのでは私、祖先に申し訳がたたないし、たくさんの家来たちを路頭に迷わせ、苦しませることに、たえられないわ。私は徳川家に嫁に来て、この家に骨を埋める覚悟よ。あの世で亡き夫に言い訳のたたないようなことには、したくないの。今の世の中、頼みがいがあり、実力のある諸侯(大名)もいなくって、ご迷惑でも、あなただけが頼りなの。わかって!」

 いや………、すごいです、篤姫。
 勝海舟に会って事情を聞いたりもしていたんでしょうが、ものすごい洞察力です。
 事態を動かしているのは、実家の島津家ではなく、ましてや朝廷でもなく、下級藩士の西郷隆盛なんだって、ちゃんとわかってるんですね。
 だって西郷は、和宮さんからの朝廷への嘆願に「和宮なんぼのもんじゃ!」とかいってますもんね。
 おまけに、「ねえ、ねえ、私だって慶喜は嫌いなのよ」みたいにはじまる嘆願書って、実に効果的!

 篤姫さんの嘆願書が、無血開城を決定的にした、という畑氏のご推測、なるほど頷けますわ。

 そして、江戸城大奥の最後なんですが、よく大奥ドラマに出てくる最後の大奥取締・滝山は、一橋慶喜が将軍になると同時にやめていた、という推測が成り立つみたいです。よほど慶喜公が嫌いだったんでしょうね。
 ともかく、篤姫さんも和宮さんも、荷物が多くて片付けが間に合わず、篤姫さんは薩摩藩士の海江田信義に、「女の荷物って大変なの。明け渡しの日を、少し先へのばしてもらえないかしら?」と言ってやるんですが、海江田の一存でできることでもないので、「動かせない荷物はまとめておいてくださったら、こちらで厳重に保管して、かならずお返ししますよ」との答え。
 それで安心して、篤姫は大奥を去ったのですが。

 ところがところが、後で江戸城にやってきた大村益次郎が、和宮さんのものも含めて全部略奪して売り払い、軍費にしたんだそうです。
 ここから後は、東郷尚武著「海江田信儀の幕末維新」からですが、海江田はもちろん大村を咎めましたが、大村は我意を通し、篤姫さんとの約束を守れなかった海江田は、以来、大村と不仲になったのだとか。
 


人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慶喜公と天璋院vol2

2005年12月23日 | 幕末の大奥と薩摩
さて、将軍後見職を押しつけられた一橋慶喜公から、お話をはじめます。
才気にあふれているだけに、自分の置かれた立場は十分に見えていて、うんざりしたでしょう。
幕府からありがたがられるわけではありませんし、一橋家の当主である以上、幕府に敵対するわけにもいきません。となれば、なにをどうしようと、かならず朝幕両陣営から文句が出るでしょう。かといって、久光のように、自前の軍団を持っているわけではなく、どちらにも圧力のかけようがないのです。

これは、宮尾登美子氏もそのように描いておられたことなのですが、どうも、一橋慶喜というお方は、相手によって、がらりと態度を変えるようなところがおありだったのではないか、という気がするのです。
言い方をかえるならば、育ちがよすぎて正直すぎる、とでもいうのでしょうか。相手に対する感情が、無意識のうちに態度に出てしまう、ともいえるのですが。
久光がしたことを思えば、慶喜が最初から久光に好感が持てなかったことは、理解できます。しかし、したことだけではなく、久光が側室腹の薩摩育ちであったあたりに、消しようのない軽蔑を、慶喜は抱いていたのではないのでしょうか。
だいたい、父親の水戸烈公が、正室が有栖川宮家の王女であることを誇り、側室でさえも、京の公家出を、異常なほどに好んだお方です。天璋院が将軍家へ嫁ぐについても、分家の出であることを察知し、難色を示したともいわれます。
そして、烈公が、数多い息子の中でも、慶喜を特に将軍候補にと押したのも、慶喜が正室の子であり、有栖川宮家の血を引いているから、であったわけです。
慶喜が十一歳で一橋家へ入ったときのことです。初めて大奥を訪れ、奥女中たちに母親の名を問われ、「麿は有栖川の孫なるぞ」と呼ばわり、奥女中たちを平伏させた、という伝説があるのですが、やはり、それを誇るような気配はあって、そういう伝説も生まれたのではないのでしょうか。
もしも、この推測があたっているとしたならば、天璋院に対しても慶喜は、外様の分家の出の分際で将軍家の正室におさまっている、というような反感は持っていたでしょうし、まして、同じ島津家の久光のおかげで災難がふってわいたところなのですから、慇懃にふるまいながらも、どこか、侮蔑の色がにじみ、投げやりな応答になったはずです。
それを受けた天璋院が、この人はやはり将軍になれなかったことが不満なのか、だとすれば、後見職などといってもみても、本当に徳川家のために、そして家茂のために働いてくれるつもりはないだろう、と感じたとしても、無理はないでしょう。

久光東上の後、政局の舞台は、江戸から京都へ移ります。
安政の大獄以前、すでに流動化のきざしを見せていた朝廷は、久光の上京で力を得て活気づき、さらには藩をあげて尊攘志士化した長州の手入れで、すっかり下克上状態となり、これまでの機構は機能しなくなりました。
しかし、かといって、新しい機構が整ったわけではありませんので、そうなってくるとかえって、孝明天皇の真意はかき消されてしまいます。
テロの横行については、桜田門外の変の大きな後遺症だったでしょう。
安政の大獄では、大名から公家まで弾圧されましたから、本来、大老を暗殺するなどという秩序破壊の行為に、共感する立場にはないはずの賢侯や高位の公家までが、これを義挙、と見たのです。
大獄で隠居させられていた土佐の山内容堂などは、「亢龍元(くび)を失う桜花の門、敗鱗は散り、飛雪とともに翻れり」にはじまり、「汝、地獄に到り成仏するや否や、万傾の淡海、犬豚に付せん」という、すさまじい漢詩をつくっています。
「亢龍」とは井伊大老、「万傾の淡海」とは大老の彦根の領地です。
つまり、「首を失って負けたおまえが成仏できるものかな。おまえの領地は犬や豚にくれてやれ」というのですから、なんとも格調の高い罵詈雑言です。
しかしその容堂が、土佐の内政においては、公武合体派の吉田東洋を片腕としていて、土佐勤王党が東洋を暗殺するにおよんでは、暗殺者に激昂し、徹底した究明を命じました。
久光にいたっては……、私は、京のテロの最初の一石となった島田左近暗殺は、ひそかに久光が命じたものではなかったか、と思っています。
島田左近は、幕府よりの九条関白家の侍ですが、大獄の時には大老側にたって、京の公家や志士たちの動向をさぐり、報知していました。
近衛家はこのために当主が辞官、落飾に追い込まれ、恨みとともに怯えを持っていたようなのです。この時期、久光への書簡で、「京にいてくれなければ九条家の島田がなにをするかわからない」というようなことをこぼしているのです。
島田左近の暗殺犯としては、薩摩の田中新兵衛、志々目献吉、鵜木孫兵衛の名があげられていますが、志々目、鵜木は、探索方とでもいうのでしょうか、あきらかに薩摩藩庁に属していました。
つまるところ、桜田門外の後遺症で、テロは正義になり、公家は暗殺におびえて、尊攘派の志士の言うとおりに動くようになってしまったのですね。
孝明天皇の意志もなにも、あったものではありません。

京へ出た慶喜は、有栖川宮家の血を受けているだけに、公家に幻想は抱いていませんし、才覚のある人ですから、長州や志士たちがふりかざす天皇の意志など、真意ではなく、偽勅に近いものが数々発せられている、というからくりは、十分に見透かしていたでしょう。
尊攘派に牛耳られた朝廷からは、攘夷の総大将として期待をかけられますし、かといって慶喜のよって立つ地盤は幕府の下にあり、下手に動けば幕府主流派から疑われます。それよりなにより、慶喜はそもそも開国派です。
なんとも微妙なその立場からするならば、できるかぎりの事をしたとはいえるのですが、あげくの果てに、攘夷を宣言しておいて、将軍家茂を置きざりにして江戸へ帰り、将軍後見職を辞してしまった、というのは、どんなものなのでしょうか。
少なくとも、幕府の側からするならば、誠意ある態度とは見えませんし、ならば最初から将軍後見職を固辞してくれ、という話にもなってきます。

無法地帯となった京の状況を一転させたのは、またしても薩摩でした。
久光は、江戸から引き上げる途中、行列に割り込んできたイギリス人たちを斬らせて、薩英戦争を余儀なくされていました。そのために国元に帰っていたのですが、朝廷を牛耳る長州に、反感を募らせてもいました。
薩摩が、京都守護の任務についていた会津藩と手を結ぶにいたったのは、京に残っていた高崎正風の働きによります。彼は久光の側近でした。
薩摩は、中川宮を動かし、孝明天皇の真意をさぐり出して、クーデターの決意をかためたのです。しかし自藩兵は、薩英戦争のために、京へ多数を送ることはできません。しかし、孝明天皇の大和御幸が策されていて、京の状況にも猶予がありません。それで会津と組むことを決意したわけですから、久光の指示による藩の方針、以外のなにものでもなかったはずです。

薩摩が会津と組んで、京から尊攘派を一掃した八.一八クーデターの結果、再び、慶喜は京に帰り咲きます。幕府は、慶喜の行動に疑念を抱きながらも、朝廷との橋渡しを、慶喜に頼らざるをえなかったのです。
長州が追われ、尊攘激派の公家や志士たちがいなくなった朝廷では、新しい政治の形の模索が、はじまっていました。
参与会議です。参与に任命されたのは、賢候と呼ばれた大名たちで、もちろん、島津久光がその中心にいました。慶喜は、幕府を代表しての参加です。
慶喜が、久光を気に入らなかった気持ちは、わかります。
元々の反感に加えて、新たに、してやられた、という気分が加わったでしょう。
孝明天皇の真意を引き出し、会津と結んで朝廷クーデターを起こすことならば、中川宮を動かす機略を持ち、決断と度胸がありさえすれば、できたことなのです。
外様の田舎者とあなどっていた久光に、それをやられてしまい、参与会議の中心に座られてしまったのです。
横浜鎖港というばかげた提唱を幕府がして、その幕府の意向を背負うという窮地のなかで、慶喜は、あまりにも正直に、その気持ちを表明してしまいました。
久光と松平春嶽、伊達宗城とともに、中川宮邸で供応を受けたときのことです。慶喜は泥酔し、中川宮につめより、「薩摩の奸計は天下の知るところなのに、宮は騙されておられる」と放言し、久光、春嶽、宗城の三人に、「天下の大愚物、大奸物」と罵声をあびせ、さらに宮へ、「久光を信用するのは薩摩から金をもらっているからだろう。ならば、これからはこっちが面倒をみるからこっちのいいなりになればいい」とまで、言いつのったのです。

これは、慶喜にとって、取り返しのつかない失敗だったではなかったでしょうか。
久光は、基本的には、公武合体をよしとしていたのです。田舎者のくせにえらそうであろうが、考えなしの行動で波瀾をまきおこす無骨者であろうが、薩摩の事実上の支配者です。なんとしてでも、幕府側に取り込んでおくべき人物だったのです。
久光は、正室の子ではなく、江戸育ちではないことに、コンプレックスを持っていたでしょう。しかしそれと同時に、薩摩人としての誇りを、強く持っていた人です。
中川宮の面前で、春嶽や宗城もいる中、年下の慶喜に、ここまで罵られた屈辱と怒りは、生涯忘れられないほどのものとなったのではないでしょうか。
この事件は、決定的に、久光の気持ちを幕府から遠ざけました。西郷隆盛の京都返り咲きという薩摩の方向転換は、この直後です。

江戸の大奥にいる天璋院は、この事件を知らなかったでしょうか。
この時点では、江戸の薩摩屋敷との連絡もあったでしょうし、天璋院は近衛家の養女で、京の近衛家の当主・近衛忠房は、妻も母も島津家の養女です。ちょうど、将軍家茂が上京していたときですし、情報を集めようとすれば、噂がまいこんだ可能性は十分にあります。
知っていたのではないか、と思うのです。
自分の実家を罵られて、気分のいい人間は、あまりいないでしょう。
それ以上に、慶喜の行動は馬鹿げています。
天璋院にしてみれば、将軍家と家茂のためを思うならば、島津家を遠ざけるべきではない、と、暗澹とするしかなかったのではないでしょうか。

慶喜の側に立ってみるならば、久光を遠ざけたことは、一面、朝廷における慶喜の行動を軽快にしました。
なんといっても慶喜は、有栖川宮家の血を受けています。孝明天皇にしても、中川宮にしても、慶喜には身内の感覚で接し、信頼することができたはずです。
そして慶喜は、実に誠実に雄弁をふるって孝明天皇を説得し、きっちりと勅状を引き出して、京に一会桑政権を築き上げました。一会桑とは、一橋、会津、桑名です。外様を遠ざけ、がっちりと公武合体をめざしたわけです。
あまり知られていないことですが、長州攻めの幕府軍は官軍です。二度目の征長のときも、ちゃんと孝明天皇の勅命を得ているのです。
長州寄りの路線をとり、倒幕に傾きはじめた薩摩の大久保利通は、この勅命を「もし朝廷これを許し給い候らはば非議の勅命にて」と、西郷隆盛宛の書簡に書き残していますが、いくら非議の勅命でも、勅命は勅命で、しかも偽勅ではなく、慶喜が誠実に引き出したものだったのです。

第二次征長の幕軍苦戦の中、将軍家茂が大阪城で病に倒れ、死去します。当然、世継ぎ問題が起こってきますが、このとき天璋院は、家茂の遺志は田安亀之助(後の家達)にあったとして、慶喜の将軍就任に反対したといわれます。
しかし、亀之助はわずか四歳です。征長の最中であってみれば、幕閣としては、中継ぎであったにしても、慶喜を立てるしかなかったでしょう。
そして、慶喜の将軍就任は、暗黙のうちに、中継ぎと意識されていたのではないか、と思われます。慶喜の正妻は、大奥へ入ることなく、一橋屋敷に留まりました。

慶喜は、徳川家の宗主の座は受けるけれども、将軍職は受けない、と、しばらくの間、がんばり続けます。これは、幕閣の全面支持をとりつけるための闘争であると同時に、孝明天皇へのデモンストレーションでもあったでしょう。
しかし、慶喜が将軍となっそのわずか20日後、慶応2年(1866)12月25日、孝明天皇が崩御されます。
天然痘でした。12月11日に罹患され、回復のきざしを見せながら、突然、崩御されたのです。当時から、毒殺の噂がありました。
ついに将軍となった慶喜にしてみれば、思いもかけない出来事で、大きな打撃だったでしょう。
一方の薩長にとっては、あまりにも都合のいい崩御です。これで、「非議の勅命」を気に病むことはなくなるのですから。
私は、家茂が毒殺されたとは思いませんが、孝明天皇の毒殺は、考えられるのではないかと、つい、思ってしまいます。

話を先へ進めましょう。
大政奉還をして、慶喜はほんとうに、政権を手放す気でいたでしょうか。
ちがうと思います。政権の受け皿が出来上がっていたわけではないのです。
幕府は、諸藩を統べる中央政府でした。その役割を、突然朝廷が果たせるはずがありません。朝廷には、まったくといっていいほど、領国もなければ、経済的基盤もないのです。

この押し詰まった段階で、慶喜の誤算は、またしても、薩摩を甘く見すぎたことだったでしょう。
武力に訴えなければ、新しい政体の創出は不可能であると、薩摩の大久保と西郷は見切っていました。
薩摩藩は、けっして一枚岩ではなかったのです。久光の慶喜への反感を利用し、二人は徐々に、倒幕へと舵をとってきましたが、最後の止めが、倒幕の密勅でした。
これは、井上勲氏が『王政復古』で述べられていることですが、密勅とは、表沙汰にできないから密勅なのです。そんなものが、なぜ必要だったのでしょうか?
薩摩にとっては藩内向け……、久光を説得するため、でした。
もちろん、この密勅は、かぎりなく偽勅に近いのです。

そして、鳥羽伏見です。
慶喜は、最初から、戦いを避ける気でいたのでしょうか?
たしかに、好んで戦をする気はなかったでしょう。しかし、幕軍は「討薩の表」を持って京へ向かい、それを慶喜は、知らなかったわけではないようなのです。
ほんとうに、なにがなんでも戦いを避ける気でいたのならば、例え不可能でも、孝明天皇を説得したときの誠意をもって、幕軍の首脳部を、説得するべきだったでしょう。
薩摩への憎悪は、このときの慶喜の目を曇らせていたでしょうし、戦になるならなれ、負けることはない、くらいの気でいたと、私は思うのです。
そして、幕軍の敗退です。慶喜は、これに怖じ気づいて、軍艦に飛び乗り、江戸へ逃げ帰ったのでしょうか? いいえ、そうとも思えません。
薩長軍が押し立てた錦の御旗ゆえ、ではなかったのでしょうか。
朝敵になったことが、怖かったのです。
最初から最後まで、このお方は、理念に生きたのではなかったかと、私には思えます。あまりにも長い期間、一橋家の当主であるというだけで、最終的な責任のない立場にいたための錯誤も、あったでしょうし、なによりも育ちがよすぎて、才気走りすぎ、下のものを思いやる想像力に欠けたのではないでしょうか。
そして、現実にそこで戦っている兵士たちよりも、路頭に迷うかもしれない幕臣たちよりも、自分が朝敵となり、歴史に汚名を残すことの方に、リアリティーを感じてしまったのです。
置き去りにされた幕軍にとってみれば、あまりにも無責任な放り出され方であったでしょう。
「非議の勅命」など、どうでもいいではありませんか。
そう思いさだめられなかったところに、このお方の、悪い意味での育ちのよさがにじみます。

逃げ帰ってきた慶喜に泣きつかれて、天璋院は、その無責任にあきれ、煮えくりかえる思いだったことでしょう。最初は会わないとつっぱねていたものを、幾度も懇願され、周囲に説得され、ようやく会ったといわれています。
しかし、天璋院にも負い目はあります。実家が仕掛けていることなのです。
慶喜のため、ではありません。
徳川家の御台所として、できる限りのことをしなければ、という責任感が、天璋院を突き動かしたでしょう。
そして、徳川家は存続しました。
天璋院は、念願かなって家達を当主として迎え、手ずから養育して、徳川宗家の子々孫々に崇められ、一方で、慶喜を嫌い抜き、世を去ったのです。

関連記事
TVが描く幕末の大奥
幕末の大奥と島津家vol1
幕末の大奥と島津家vol2

慶喜公と天璋院vol1


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

慶喜公と天璋院vol1

2005年12月22日 | 幕末の大奥と薩摩
宮尾登美子氏が、『天璋院篤姫』という歴史小説を書いておられます。
本来、大奥については資料といえるほどの資料がありませんし、フィクションが多くなってくるのは当然なのですが、ここに描かれた天璋院篤姫像には、リアリティがあります。
分家から本家に引き取られ、薩摩から江戸に出て、養父・斉彬公から託された使命を果たすため、将軍家定の正妻となるのですが、実際に一橋慶喜に会って失望し、「なによりも徳川のためをお考えください」というような、大奥総取り締まり・滝山の説得にも心を動かされ、積極的に動くことをやめ、やがて、慶喜を嫌い抜くようになるのです。
宮尾登美子氏は、これについて後書きの対談で、次のように述べられています。

この小説の中で、天璋院が最後まで慶喜を嫌いまして、家茂が毒殺であるということをずうっと終わりまで言いましたね。それは徳川の天璋院が自分の子として育てました家達の娘さんがまだ生きてらして、お話を伺ったんです。私が、取材させていただきました後ですぐ亡くなられましたけど、その方が、おばあさまに当たる天璋院のお話として、「うちの家訓は代々家茂が毒殺されたということを後々子々孫々まで伝えよ」と、天璋院が大変堅く言い伝えたということとか、そういうふうなことは、私は徳川さんのお話を信じていいと思うのです。それで慶喜さんをとても悪く言っていたと。

家茂は紀州徳川家の出ですが、11代家斉の孫にあたります。一橋慶喜と並んで将軍世継ぎ候補となり、大奥はこちらを支持していたのですが、結局、井伊大老の強引な決定で、慶喜を押しのけて14代将軍となり、皇妹和宮を正妻に迎えた人です。
つまり、天璋院の本来の使命からすれば、敵方、であったわけなのですが、天璋院は家茂を義理の息子として大切に思い、一橋慶喜に毒殺されたと信じこんで、徳川宗家の子々孫々にまで伝えていた、というのですね。
いったいなぜ、そうなったのでしょうか。

天璋院は、島津の分家に生まれた人ですから、最初から江戸屋敷の派手な暮らしの中にあったわけではなく、地味で、厳格な武家のしつけの中に育っていて、また、斉彬公から見込まれたのであってみれば、聡明で、美しい女性だったのでしょう。
宮尾登美子氏もそう描いているように、夫となった家定が、夫としての役目を果たせない人物であった、というのも、事実のように思われます。
昨日、藤田覚著『幕末の天皇』を読み返していて、当時、孝明天皇が近衛左大臣に送った書簡に、家定を「愚昧の大樹(将軍)」と述べているのを発見しました。
近衛家は島津家と姻戚関係にあり、広大院の例にならって、天璋院も近衛左大臣の養女として、将軍家に輿入れしていました。近衛左大臣は当然、一橋派です。
それはともかく、孝明天皇が手紙に書かれるほど、家定が「愚昧」であるという評判は、ひろまっていたことになります。

そういえば、フランス大革命で断頭台の露と消えたルイ16世も、当初、男性としての務めが果たせず、王妃マリー・アントワネットの情緒不安定はそこに原因があった、という説があります。
しかし、ハプスブルク帝国の王女だったマリー・アントアネットにくらべて、薩摩の分家の出であった天璋院は、本来は将軍の正室にふさわしくない身分であったわけですから、誇りの持ちようがちがってきます。血筋ではなく、徳川家の御台所の職分を果たすことに、生き甲斐と誇りを見出したのでしょうし、むしろ、夫をかばって自分が徳川家をささえなければ、という責任感を強く持っただろうことは、宮尾登美子氏の描かれた通りだと思えます。

それでいったい、いつ天璋院は、一橋慶喜を嫌うようになったのでしょうか。
その点では、多少、私は宮尾氏と見方がちがいます。
天璋院は責任感の強い人だったようですし、例え個人的に慶喜に好意を持たなかったにしても、養父・斉彬の見識は信じていたでしょう。また、斉彬は徳川家のために一橋慶喜を押していたわけですから、それと夫をかばうことは矛盾することではない、と感じていたでしょう。

天璋院輿入れの直後から、事態は急展開します。
ハリスが来日し、日米通商条約の調印問題と将軍の世継ぎ問題が、同時に切迫した課題となったのです。京の朝廷もまきこんで、一橋派と紀州派が争う中、紀州派の井伊大老が就任し、間もなく将軍家定が死去し、大老の果断により、条約は調印され、家茂が14代将軍となります。
条約の調印は、ある程度、仕方のないことでした。前々回に書きましたように、攘夷戦争を覚悟することで、覚醒した可能性もあるのですが、幕府は藩ではないのですから、それこそ、国が滅ぶ方向へ行った可能性も、ないではないのです。
斉彬や春嶽は開国派ですし、水戸烈公でさえも、最終的に調印を認めてはいたのです。ただ、一橋派は、調印するにしても幕府の政治機構を大きく改革する必要がある、という立場でしたから、その先頭に立ちうる将軍として、慶喜を据えようとし、条件闘争のような形で、京都朝廷の調印反対の気運を利用していました。

で、京都です。
幕府は、日米和親条約については、朝廷に結果報告しただけです。しかし、通商条約については、将軍世継ぎ問題もからみ、諸大名の意見が割れたため、天皇の勅許があれば反対派も納得するだろうと、勅許を得ようとしたのです。簡単に得られるはずでした。
それが……、得られなかったのです。
幕府の意志決断を老中が担っていたように、朝廷もまた、意志決断は最終的に摂政関に任され、天皇はお飾りのはず、だったんです。
将軍が口をききはじめるより早く、「愚昧の大樹」に任せてはおけない、とばかりに、天皇が、動きはじめたんですね。
朝廷も幕府と同じで、頂点はお飾りにすぎない、という政治機構になっていますから、頂点にいる天皇が、それを破って発言をしようとすると、別の回路が必要になってきます。それで天皇は、広く、下位の公家にまで意見を求められ、結果、摂政関白が牛耳るという、これまでの機構は否定されてしまったんです。
長く政治にかかわってこなかった朝廷は、幕府のように国政に責任を持つ機構ではありませんから、天皇のひと動きで、いとも簡単に流動化しました。
その朝廷と、一橋派は手を結んでいるのです。
これは、幕府守旧派から見れば、看過できない事態でした。

井伊大老は、無勅許調印を責めた一橋派の諸侯に蟄居を命じ、弾圧しました。安政の大獄のはじまりです。
この事態に、国元にいた島津斉彬は、軍勢を率いて江戸へ出て、幕政改革をせまろうともくろんでいた、といわれますが、志を果たせないまま、急死しました。
もはや、井伊大老の果断をはばめる者はいません。弾圧は各藩の志士、公家にも及び、志士たちへの扱いは苛烈をきわめました。西郷隆盛は月照をかばいきれずに入水、吉田松陰の死刑と、これが、各藩の志士たちの反幕感情に、火をつけたのです。
わけても、孝明天皇の勅書をもらった水戸藩では、家老や京都留守居役まで死罪となり、藩士たちの反感は強烈だったのですが、薩長の志士たちとちがうのは、やはり反幕というよりは、幕府守旧派や井伊大老個人への恨みが強かった点でしょう。
水戸浪士と、ただ一人薩摩から有村治左衛門が参加して、井伊大老は、桜田門外で首を落とされます。
下級藩士たちが、幕府の大老という最高権力者を斬殺したのです。幕府の権力は失墜し、朝廷に続いて、各藩が流動化するきざしが、見えはじめました。

天璋院はどうしていたでしょうか。
夫の死に引き続き、養父斉彬の死、さらには同じく養父である近衛左大臣にも弾圧の手はのびて、井伊大老に対しては、けっして好感情は持てなかったはずです。
しかし、年若くして将軍となった家茂に対しては、今度は養母として、かばってあげなければ、という強い責任感とともに、好感を抱いていたようなのです。
家茂は、まわりに、「この方のためならば」と思わせる、気配りのできる少年であったようです。
勝海舟も好意的な回想を残していますし、けっして守旧派であったわけではなく、幕府の組織がしっかり機能している場合であったならば、名君と呼ばれてもおかしくなかったでしょう。

さて、桜田門外に続く次の衝撃は、島津斉彬の異母弟、久光です。
斉彬は斉興の正妻の息子でしたが、久光の母はお国御前、お由羅の方です。江戸の町人の娘だったお由羅は、斉興の寵愛を得て、自分の息子を藩主にしようとたくらんだといわれ、斉彬の藩主就任は異常に遅くなりましたし、世継ぎの男子は次々に夭折します。斉彬派の藩士が騒いで弾圧され、お由羅騒動と呼ばれるほどの確執がくりひろげられたのです。
その確執を乗り越えて藩主となった斉彬は、久光の息子を世継ぎに据え、久光に後をたくすのです。
斉彬は正室腹の世子で、江戸で生まれ江戸で育ちましたが、久光は薩摩で育ち、視野が狭く、人付き合いが下手ではありましたが、生真面目だった、とはいえると思います。自分なりに、真剣に兄の意志を継ごうとしたのでしょう。

桜田門外の変の時、誠忠組と呼ばれていた薩摩の尊皇派の一部は、水戸浪士と提携して京へ上ろう、としていたのですが、それを止めたのは、大久保利通に話を聞いた久光であったといわれます。
「幕政改革は藩を挙げて迫らなければ不可能だ」という久光の言い分は、もっともではあったでしょう。
久光は、藩政を掌握し、ついに薩摩藩兵を率いて、京へ、そして江戸へ、向かいます。しかし、井伊大老の弾圧と桜田門外の変を経て、世の中は大きく変わっていたのです。
薩摩が動く、という知らせは、西日本を駆けめぐり、尊皇派の志士たちは色めきたちます。坂本龍馬が脱藩したのも、このときです。
いえ、長州などは藩を上げて、薩摩と連携する気配さえ見せていました。

余談ですが、幕末も早い時期から、なぜ薩摩の軍が他を圧して強かったか。
もちろん、斉彬が軍の洋式化に腐心した、ということもあります。
しかし洋式化とは、外国から新式銃を買えばすむことではなく、簡単にいってしまえば、銃を持つ歩兵を数多く養成すること、なんです。
他藩には、この歩兵がいません。
ペリー来航以来、国防が叫ばれ、各藩は兵士を養成しようとするのですが、そもそも下級藩士の数が少なく、しかも役人化していて、歩兵にはならないのです。そこで大多数の藩は、郷士や農兵を募集しますが、これも、はかばかしくは集まりません。
ちなみに、土佐郷士が勤王党を結成して志士化したのも、もとはといえば、海防のために、土佐藩が郷士をかり集めたことがきっかけです。
しかし、薩摩はちがっていました。農民より貧しいほどの下級藩士の数が、異常に多かったのです。しかも薩摩には、そもそも戦国時代、足軽ではなく藩士が、銃を持って戦った、という伝統があったんですね。
また伝統だけではなく、貧しくて、山の畑を耕したり、開墾に携わった藩士が多い、ということは、それぞれが鉄砲を持っている、ということでもあります。猪などの害から農作物を守るために、必要なのです。

その強力な薩摩藩兵を千人あまりも引き連れ、大砲まで引いて、久光は上京したのです。
久光本人は、幕政を改革し公武合体の実を上げるため、つまりは、幕府のためにやっていることだと、思い込んでいました。
京都で、自藩の尊攘激派を上意討ちにし(寺田屋事件です)、志士たちの期待には冷や水をあびせましたが、それくらいのことで、京に巻き起こった熱気がおさまるわけがありません。
しかしともかく京はそのまま置いておいて、朝廷の勅使を伴い、軍勢をも引き連れたまま江戸へ行き、幕府に脅しをかけて、改革を迫ったわけなのです。改革の目玉は人事で、とりわけ、一橋慶喜を将軍後見職にする、というものでした。
無茶苦茶です。
慶喜が将軍になることと、家茂という将軍がいるにもかかわらず、さらに後見職をかぶせることとでは、まったく意味が変わってきます。
しかも慶喜には、よって立つ地盤がありません。
一橋家は、格式は高いのですが、水戸などの御三家とちがって、領国のある大名ではなく、独自の家臣団がいないのです。必要最小限の家臣は、幕府からの出向でした。
その慶喜が、薩摩軍団の圧力により、朝廷の口出しという形で将軍後見職になったのでは、幕府側が反感を持たないわけがありません。

嫁ぎ先に実家の理不尽な圧力がかかる、というこの事態に、天璋院はどうしていたのでしょうか。
この時期の資料はないらしく、宮尾登美子氏もほとんど触れておられません。
ただ、養子である家茂に、母性愛を育んでいたらしい天璋院の立場に立てば、わが子を貶めるような形で、一橋慶喜が浮上してきたことは、歓迎できなかったのではないか、と思えます。
また斉彬に見込まれたほど聡明であったわけですから、慶喜が将軍になることと、家茂にかぶさってくることとのちがいは、十二分にわかっていたはずです。
そして、おそらくこの時点で、天璋院は慶喜とゆっくりと話し合う機会を、得ていたのではないのでしょうか。
天璋院が慶喜への反感を育みはじめたのは、この時期からであったのではないか、と、私は思うのです。

で、また続きます。次回でしめくくれると思うのですが。

関連記事
慶喜公と天璋院vol2

TVが描く幕末の大奥
幕末の大奥と島津家vol1
幕末の大奥と島津家vol2


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末の大奥と島津家vol2

2005年12月21日 | 幕末の大奥と薩摩
大奥というのは、不思議なところです。
昨日、十一代将軍家斉の大奥が乱れに乱れていたことを書きましたが、しかし、女たちには女たちの言い分が、あったようなのです。
この家斉公、ともかく子供の数が多かったものですから、養子に、嫁にと、あちこちの大名家に子供たちを押しつけました。
有名なのは、加賀前田藩に嫁いだ溶姫でしょうか。将軍御息女が大名家に下れば、専用御殿を建て、御守殿さまと奉らなければなりません。加賀屋敷の溶姫のための専用御殿の門が、現在の東大の赤門なのです。
この溶姫のご生母、お美代の方は、一応、旗本の娘であることになっているのですが、実は日啓という坊さんの隠し子で、家斉にねだって、実父のためにりっぱな寺を建ててもらっているのですね。
この日啓のお寺は、日啓の息子でお美代の方の兄、日尚に引き継がれ、ここで大奥女中たちが、密通をくりひろげていました。家斉死去後の幕府の調べでは、正室・広大院茂姫つきの老女(高級奥女中)の名もあがっていますから、お美代の方周辺だけではなく、大奥総ぐるみで遊んでいた、としか思えないのです。
まあ、お美代の方が大奥で勢力を培うための接待であった、のでしょうけれども。
しかも、真偽のほどはさだかではないのですが、お美代の方は、家斉の世継ぎに、加賀に嫁にいった溶姫の息子、つまり自身の孫を据えようとしたといわれ、そんなこともあって、幕府は家斉の死去後、お美代の方がらみの寺に、捜査の手を入れたのですが、結局、将軍家の権威にかかわる問題ですので、寺側はきびしく罰しても、大奥には手をつけませんでした。

ところで、島津家にも、家斉公の御息女は入っています。
今回話題にしている島津斉彬の正室、英姫です。
しかし島津家は、大奥に正室・広大院茂姫を送り込んでいますし、勝手がきいたのでしょう。英姫を、将軍の息女としてではなく、一橋家の養女としてもらった上で正妻に迎えていますので、前田家のような大騒ぎはしないですんでいるんです。

実は、家斉公の御息女は、水戸藩にも天下っています。
これも今回話題にしている水戸烈公・斉昭の兄にあたる、前藩主・斉修の正室、峰姫さまがその人です。
こちらは、大騒ぎだったようです。水戸屋敷と加賀屋敷は近く、峰姫さまは姉妹の溶姫さまに張り合って、あれこれと贅沢な要求をなさる。貧乏な水戸藩としては、たまったものではありません。
水戸烈公は、兄の養子となって藩主となりましたので、峰姫さまは義母です。
ところが水戸烈公は、大奥から峰姫さまについてきた最高級の奥女中・唐橋に手をつけたというのです。嫌がるのを無理矢理犯した、といわれています。
大奥というところには、独特の決まりがあったようでして、例え将軍といえども、お清、つまり生涯処女、と決まっている最高級の奥女中には手をつけないもの、だったそうなのですね。したがって、乱れに乱れていたはずの家斉の大奥なんですが、家斉は唐橋の美貌に目をつけながらも、手は出せなかった、と。
つまり、将軍でさえ手をつけなかった唐橋を、水戸藩主ごときが犯した、というのが、大奥の水戸烈公に対する反感の最たるもの、であったかもしれません。
峰姫さまは怒って、唐橋は公家の娘でしたから、京の実家に返したそうなのですが、烈公は手をまわして……、って、貧乏公家の唐橋の実家に金を払った、ということなのでしょうけれど、唐橋を側室にし、水戸に置いて、つまりお国御前として遇し、寵愛したそうです。
ああ……、江戸には義母の峰姫さまがおられますしね。ここらへんの意地くらべも、大奥の反感を募らせたのでしょう。

さらに水戸烈公は、息子の正室に手を出したとの噂もありました。
息子とは、慶喜の兄で、水戸藩主となった慶篤で、正室は、有栖川宮家の娘・線姫なのですが、このお方は、12代家慶将軍の養女となって慶篤に嫁いでいますので、京から江戸へ下り水戸屋敷へ輿入れするわずかな期間ですが、大奥にいたことがあるんです。
といいますのも、家慶と水戸烈公の正妻は、ともに有栖川宮家の娘で姉妹なのです。
家慶の正妻・楽宮は世継ぎを生みませんでしたが、烈公の正妻・登美宮は、慶篤、慶喜と男子をもうけました。楽宮は甥たちをかわいがり、親族の有栖川の娘を慶篤の妻にと、配慮したわけです。
家慶も妻の甥たちに親しみを見せ、そんな縁から、慶喜は、家定に男子がない場合の将軍家世継ぎ候補として、一橋家に養子に入りました。
で、話は慶篤の正室・線宮にもどりますが、烈公は無理矢理、この美しい嫁を犯し、線宮はそれを恥じて自害した、というのですね。烈公の妻の親族ではありますし、ちょっと信じられない話なのですが、そういう噂が流れていたことは確かで、またそれとは別に、烈公が息子の側室となにかあったというようなほのめかしが、島津斉彬が松平春嶽に送った手紙にあるといいますから、まあ、烈公の女性関係が、行儀のいいものではなかったのは事実でしょう。艶福であるだけならいいのですが、ルール違反なんですね。

家慶の正妻・楽宮は、ペリー来航より十年以上前に亡くなっていましたし、家定が将軍となった当時の大奥の女性たちは、家定の生母・本寿院を筆頭に、水戸烈公を嫌いぬいていました。
そんな中へ、烈公の七男、一橋慶喜を将軍世継とするために、島津斉彬は養女を送り込みます。
それが、大奥の最後をしめくくった、天璋院篤姫だったのです。

で、次回、ようやっと本題に入れそうです。

関連記事
慶喜公と天璋院vol1
慶喜公と天璋院vol2

TVが描く幕末の大奥
幕末の大奥と島津家vol1


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末の大奥と島津家vol1

2005年12月20日 | 幕末の大奥と薩摩
いったいいつからを幕末というか、については、いろいろな解釈があり、「幕末」という言葉もさまざまな使われ方をするのですが、とりあえず、嘉永6年(1853)、ペリーの黒船浦賀来航で火がついてからが、もっとも「幕末」という言葉のイメージにふさわしい時代、とはいえるでしょう。

この黒船来航のときの将軍は、十二代家慶なんですが、騒ぎの最中に、六十歳で死去します。跡継ぎの男子は、30歳になろうとする家定一人しかいませんでした。
この家定は、病弱な上にお菓子作りが趣味で、政治向きには関心がなく、子孫を残す能力のない方であった、といわれます。
事実だったかどうか、しかとはわかりませんが、政治は老中たちがするものでしたし、それまでの平和な時代であれば、おそらく、なんの問題もなかったのです。跡継ぎは、養子をもらえばすむことですしね。

変革期には、無数の政治的決断が必要になってきます。
しかし大方の場合、大変革の決断には、大多数の人々が反対します。だれだって、慣れ親しんだこれまでの暮らしを、突然大きく変えられたくないですよね。
攘夷ができるならば、それにこしたことはないのですが、黒船と戦争になれば、あきらかに江戸は戦火にあい、負け戦の末に、幕府は大きな変革を迫られます。
開国すれば……、結局、幕府はこちらを選んだのですが、それはそれで、とりあえずはその場しのぎの対応を続けていても、実際にそうなったように、大変革なくしては立ちいかなくなります。

大多数の人々が反対する中で、大変革に取り組むには、いままでお飾りでしかなかった将軍に、政治的決断を求めるしかありません。権威と権力を一致させなければ、大きな変革は不可能です。
かといって、家定公にはなにも望めません。
そこで浮上してきたのが、子がなく、病がちな家定公の世継ぎ問題です。
幕末、賢侯といわれた大名数名が、危機意識を持って、この将軍家お世継ぎ問題に取り組みました。
その先頭にいたのは、ご三家のひとつ、水戸徳川家の烈公、斉昭でした。黄門さまのご子孫、です。
この人は、頑迷な攘夷主義者のようにいわれることがありますが、かならずしもそうではありません。
当時の幕府主流派、といいますか、井伊大老を中心とする幕府守旧派の方針というのは、「とりあえず開国して外国をぶらかしておいて、国力を蓄えてまた鎖国をしよう」ということです。
それに対して、水戸烈公の言い分は、「ぶらかしなんぞというその場しのぎで姑息なことをして、それでも国力を蓄えることができるならばいいが、危機意識など喉元すぎればすぐ忘れるものなのだから、何年たっても国力増強などできまい」
というのですから、後に、長州が攘夷戦争をしてみて、はじめて大変革の必要性が飲み込めたように、予言的なお言葉ではあるのです。
あるいは、江戸を焼け野が原にする覚悟で、幕府が攘夷を実行していたならば、幕府も大変革をなし得て、ちがう形の維新があったかもしれません。
しかし、長州や薩摩という藩ではなく、幕府は一国の統治者であったのですから、無謀な攘夷が、大火傷になってしまった可能性もあります。

そして、因果なことに、公方様は征夷大将軍なのです。
水戸烈公は「攘夷をしない征夷大将軍はそれだけで権威をなくす」というようなことをおっしゃっていて、これもまた、おっしゃる通りなんです。
つまり、守旧派は幕藩体制を守るためにぶらかし開国を選びますが、そんなその場しのぎで幕藩体制は守れないだろう、というのですから、これもまた予言的なお言葉なのです。
そうなんです。賢侯たちはけっして反幕だったのではありません。むしろ、幕藩体制を守りたかったし、またこの時点では、体制を根本的にはくずさないままの変革の方が、現実的で、諸外国につけこまれるすきが少ないだろう選択だったでしょう。

賢侯の中でも、越前の松平春嶽は徳川家の親藩ですからそれでいいとして、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城は外様で、ほんとうに反幕の意図がなかったのか? と思われるかもしれませんが、幕府の倒壊は、幕藩体制の倒壊でもあるのです。さらに、維新まで生きた容堂も宗城も、けっして倒幕を望んではいませんでしたしね。
で、島津家です。もしも維新まで斉彬が生きていたらどうなんだろう、という仮定には、ちょっとうなってしまいます。ただ、斉彬公もまた、倒幕は望まなかったとは、いえると思います。

島津家は外様ですが、長州の毛利家などとちがい、徳川家に対して、身内の感覚を持っていました。
なぜかといえば……、ということで、話はようやく大奥につながります。

大奥というのは、いうまでもなく、将軍の正妻、御台所が君臨する将軍の家庭なんですが、将軍の世継ぎ問題というのは政治ですし、世継ぎを決めるにあたっては、大奥の意向も強く響きます。
そういう意味では、表の政治の介在する場所でもあります。
で、徳川幕府の基礎が固まったのち、三代将軍家光からは、諸大名を外戚にしないために、正妻はかならず京の五摂家か宮家から、という不文律ができあがるんですね。
結果、正妻の御台所はお飾りで終わり、しかも、偶然かどうなのか、三代将軍以来、将軍の正妻が将軍の生母となることは、いっさいありませんでした。男子が生まれたこともあるんですが、幼児のうちに亡くなっています。
で、将軍は世継ぎを得るために数多の側室を持つことが普通で、歴代将軍の母親は、三代以降、幕末まですべて、側室腹でした。

ところが十一代家斉、つまり、今話題にしている幕末の子無し将軍・家定の祖父ですが、その家斉の正妻は、それまでの不文律を破って、外様の大藩である島津家の姫君だったんです。
これは、家斉公が、御三卿、一橋家から将軍家への養子であったから、なんですが、島津家の徳川家食い込み策が幸運を呼んだ、わけでもありました。
将軍家斉の夫人・広大院茂姫は、薩摩の島津斉彬公の曾祖父・島津重豪の娘ですから、斉彬には大叔母、にあたります。

島津重豪は、海外通で、さまざまな文化事業を興した賢君として知られていますが、10歳という若さで藩主となりました。このときにちょうど、長良川の治水工事が完成しています。
天領岐阜にある長良川の治水工事は、幕府が薩摩の力を弱めるために押しつけたものだといわれます。巨額の費用がかかった難工事で、千名近い薩摩藩士が工事に従い、病に倒れたほか、はかどらない工事の責任を感じて多数の藩士が自刃し、苦難の果てに完成させたあげく、工事の責任者だった家老も切腹して果てます。
家老をはじめ薩摩藩士たちの自刃には、幕府への抗議の意志も込められていたのですが、薩摩藩は幕府への遠慮から、すべて病死としました。
この工事はおそらく、薩摩藩士たちに、根深い反幕感情を植えつけたでしょう。
自藩の治水工事ならば、苦難も納得がいくでしょうけれども、苦労して多くの仲間を死なせたあげくに、藩は多額の借金を背負い、自藩領にはなんの益もなく、暮らしは苦しくなるばかり、だったのです。

重豪の父、重年は、いわば藩士たちに負わせてしまった苦難に心を痛め、若くして死んだようなものでして、幼い重豪の後見には、祖父の継豊が立ちますが、父を、そして息子を亡くした孫と祖父は、二度とこんな理不尽な要求を幕府にさせないために、徳川家への接近をはかるのです。
実は、そのためのいいパイプ役がいたのです。
継豊公の正妻で、重豪公には義理の祖母にあたる竹姫です。

さて、ここでお話は大奥にもどります。
現在、フジテレビで放映中の大奥ドラマ、たしか明後日が最終回ですが、五代将軍綱吉公の大奥のお話です。生類憐れみの令で有名な将軍ですね。
ドラマにも出てきますが、この将軍の側室に、大典侍(おおすけ)の局といわれる京の公家の娘がおりました。子供が生まれず、京から兄の娘をもらって養女にします。これが竹姫なのですが、綱吉公の養女にもしてもらって、血筋は公家ながら将軍家の姫君、ということで、会津藩の嫡子と婚約しましたところが先立たれ、今度は有栖川宮家の親王と婚約。親王がまた早死にされます。

綱吉公死去の後、甥の六代将軍家宣公は、わずか三年の在世で終わり、その子の幼将軍家継公も三年で夭折。その後に、紀州徳川家から八代将軍吉宗公が入ります。
つまり、六年間の間にめまぐるしく将軍が入れ替わったわけでして、売れ残り状態になっていた竹姫は、江戸城で、ひっそりと八代将軍を迎えました。
将軍となったとき、すでに吉宗公は、宮家の出だった正妻を亡くしていて、側室腹の世継ぎはいますし、後妻を娶る気はなかったようなのですね。
こういう場合、前代将軍の正室が大奥の主となるのですが、前代は幼くて正妻がいませんでしたし、吉宗公は、六代家宣公の正妻・天英院熙子を、大奥の主として遇します。
天英院は近衛家の出で、近衛家は五摂家の一つですが、戦国時代から島津家と関係があり、非常に親しいのです。
吉宗公は、江戸城に入ってみたところ、将軍家の娘として遇されている竹姫が売れ残っていると知り、自分の養女にして、嫁ぎ先をさがします。
しかし、婚約者が二人も死んでいるのは不吉で、縁起が悪いと評判がたち、適当なところがなかったので、自分の後妻に据えようとしたともいわれますが、真偽のほどはわかりません。
ともかく、吉宗が相談したのでしょう。竹姫の嫁ぎ先に心をくだいたのは、天英院だったようです。実家の関係から、島津家へ話を持ちかけるのですが、当初、島津家は警戒しました。
養女とはいえ将軍の娘ですから、物入りです。さらには、当主継豊公にはすでに側室腹の世継ぎがいて、竹姫が後妻に入り男子を生んだ場合、お家騒動の種になりかねません。
しかし、竹姫を案じる吉宗公が、「竹姫に男子誕生の場合も世継ぎにはしない」など、島津家側の言い分を全部のんだため、無事、竹姫は島津家に輿入れしたといいます。

竹姫は、嫁いだとき、すでに24歳になっていて、当時としては晩婚です。結局、継豊との間に生まれたのは姫君一人でしたが、側室が生んだ男子、宗信、重年を養子にし、義理の孫の重豪公養育にもあたり、島津家と徳川家の融和に心をくだく、賢夫人であったようです。
夫とともに、でしょうけれど、竹姫は徳川家と島津家の婚姻をはかるのです。
重豪の正妻として、吉宗の孫になる一橋家の姫君を迎えたのが第一歩とすれば、さらに竹姫は遺言で、重豪の娘・茂姫を、早々と一橋家の世継ぎ・家斉と婚約させます。
竹姫の遺言は、あるいは重豪の遺志の補強であったかもしれません。
徳川将軍家は、八代吉宗から九代家重 十代家治と、父子関係が三代続きましたが、直系世継ぎがなくなった場合、養子に入る可能性がもっとも高かったのが、九代家重の弟の血筋である一橋家だったのです。

十代将軍家治には、家基という世継ぎがいたのですが、十七歳で急死したため、毒殺説もあります。
あー、余談ですが、昔、家斉の父・一橋治済と島津重豪が共闘して、将軍家世継ぎを毒殺するという短編小説を書こうか、と思ったことがあるのですが、資料調べがめんどうになって、やめました。治済の妹が重豪の正妻ですしね、あってもおかしくない話ではあるんです。
ともかく、家基は急死し、家斉はわずか六歳で将軍家の養子となります。十代家治の死去にともない、十四歳で十一代将軍となりますが、幼い頃の婚約を守って、島津重豪の娘、茂姫を正室にしました。茂姫は、一応、公家の近衛家の養女の形をとりますが、重豪は将軍の岳父として、さまざまな便宜を手に入れるのです。
そのかわり、大奥にもかなりの金銭をばらまいたでしょう。

十一代将軍家斉は、歴代将軍の中でも、もっとも子供の数が多い艶福家です。
側室数十名、子供も数十人。手をつけた女の数は、数え切れていません。
『偽紫田舎源氏』という源氏物語のパロディ読み物は、この将軍の大奥をモデルにしたといわれます。
将軍が将軍ならば、側室も側室で、後に、この時代の大奥の女人たちが、寺院でくりひろげた密通を幕府は調べ上げるのですが、さしさわりがありすぎて、大奥には手をつけませんでした。
そんな大奥の主であった正室の広大院茂姫は、不幸だったでしょうか。
かならずしも、そうではなかったのではないでしょうか。
これまでの正室だった公家の姫君たちは、京都から嫁いできます。
大奥も、歴代御台所が公家ですし、その御台所に京から公家の高級女中もついてきますので、公家の礼法を取り入れないではなかったのですが、やはり将軍家は武家ですし、奥女中たちも多くは旗本の娘です。側室も、旗本の娘が一番多いわけでして、なんといっても江戸の武家風が基本、なんです。
京から嫁いで、なじむのには努力がいったでしょう。

大名の妻子は、江戸住まいが基本です。お国御前と呼ばれる国元の側室やその子供たちは、地方にいたりもするのですが、女の子は、他の大名家の正室、になることが多いですし、となれば、嫁ぐのは江戸の他藩の屋敷、ですので、江戸住まいが多いのです。
広大院茂姫も、江戸屋敷で生まれ育ち、実家の屋敷はすぐそこですし、父親は惜しみなく援助をしてくれます。
その父親の重豪も、家斉とどっちこっちないほどの艶福家でしたし、そういうことは慣れっこで、絢爛豪華な大奥の主であることに、けっこう満足していたのでは、ないでしょうか。
ともかく、広大院茂姫は世継ぎこそ残せませんでしたけれども、長命を保ち、長く大奥に君臨して、黒船来航の十年ほど前に世を去りました。

それで、ようやく、黒船来航騒ぎの最中に将軍となった十三代家定に、話がもどります。
30歳で将軍になった家定は、すでに二人の妻を亡くしていました。
最初の妻は鷹司家の娘で、次は一条家の娘です。どちらも伝統通り、五摂家の娘なのですが、後妻の一条家の娘には養女であったという噂があり、しかも、人並みはずれて小さく、四、五歳の幼女並みの背丈で、おまけに病弱だったといわれます。
これに懲りたのか、将軍家では実は、三人目の正妻を、島津家から迎えようとしていたのです。
黒船が来る三年前、家定の父、十二代家慶将軍が生きていたころのことで、「島津家から」という要望は、家慶の側室で家定の生母である本寿院から出たことが、書簡に見るそうです。本寿院は旗本の娘で、奥女中から側室となり、広大院茂姫の権勢を目の当たりにしていましたし、嫁は公家の娘よりは武家、という気分もあったようです。

島津家の側に、適齢の娘がいなかったためか、あるいは将軍家への輿入れに莫大な費用がかかることを嫌ってか、この話は進んでいなかったようなのですが、嘉永4年(1851)、藩主になった斉彬は、俄然、この話に注目したようなのです。
斉彬自身に適齢期の娘がいればそれにこしたことはないのですが、分家から養女を迎え、多少強引でも、実子で押し通す手があります。
斉彬が、実際にはいつ、分家の篤姫を養女に迎えたかは、はっきりとわからないのですが、黒船騒動が起こり、家定が将軍となるにいたって、将軍家への輿入れは、具体化しました。
家定が世継ぎを作ることは、不可能でしょう。養子を迎えることになるでしょうし、そしてその養子には、政治的決断のできる英明な人物が望ましいのです。
となれば、世継ぎ問題に発言権を持つ大奥へ、島津家の娘を送り込むことは、大きな意味を持ちます。

さて、このとき、斉彬をはじめとする賢侯たちが、将軍世継ぎに、と望んでいたのは、水戸烈公の七男で、一橋家に養子に入っていた一橋慶喜なのですが、大奥は、これを嫌っていたのですね。
なぜか……、というお話は、明日にいたします。

関連記事
幕末の大奥と島津家vol2
慶喜公と天璋院vol1
慶喜公と天璋院vol2

TVが描く幕末の大奥


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TVが描く幕末の大奥

2005年12月19日 | 幕末の大奥と薩摩
うちはケーブルTVです。
母は最近、時代劇チャンネルばかりを見ています。昔はけっしてそんなことはなかったのですが、年をとると小難しいものは見たくなくなるのだと、本人が言っています。
いや、まあ、いいんですけどねえ。大昔の時代劇ばかりくり返し見せられたのでは、こちらまで、今がいつやらわからなくなりそうなので、母が怒るのもかまわず、食事のときくらい、と、NHKニュースにかえます。
でも、時に見入ってしまうのですが、先日は、幕末の『大奥』でした。

一番新しい大奥のTVドラマは、今もフジテレビで元禄あたりをやっています。これの幕末版は、以前にやっていましたが、天璋院篤姫が「じゃっどん」とか薩摩弁だったりするものですから、あまりのばかばかしさにいやになって、途中で見るのをやめました。
いえ、『大奥』は笑うために見るものですから、大まじめなギャグだったらそれもおもしろいのですが、そういう軽快な乗りが感じられませんで。

時代劇チャンネルで放映している大奥シリーズは、私の知っているだけで、二つあります。昨日、ちらっと見たのは新しい方です。
新しい方といってもかなり古いもので、1983年のものです。もう一つ古いのは、1968年版だそうです。
ともかく、その1983年版の最終章です。
何回も放送されていますので、これ、以前にも偶然見て、どびっくりしたのですが、中村半次郎、つまり後の桐野利秋が出ているんです。
なんで京都にいるはずの桐野が江戸に????? なんですが、江戸薩摩屋敷でくりひろげられた挑発の指揮をとっているような感じ、だったと思います。
まあ、ともかく、栗原小巻演じる大奥最後の総取締役、滝山殿が、春日局の墓参りだったかで松方弘樹演じる中村半次郎と出会って、その後、倒幕軍の江戸先遣隊長だったかに桐野がなっていて、また出会う。
いや、ばかばかしいことこの上ないんですが、ラストがなかなかよくって、これは母もお気に入りです。
最後の最後、見事に大奥の後始末を終え、江戸城を背にする滝山。「滝山どんに敬礼!」と、桐野率いる薩摩藩兵は敬意を表し、ヤッパンマルスの演奏で見送るんですね。
そこに森山良子だったかの歌がセフィニとかぶさって……、あの歌はやめてほしくはあるんですが。

まあ、ともかく、なにしろ桐野が出ていますから、さらっと見てはいるのですが、細かいことはさっぱり覚えてません。先日見かけたのは、その最終回のひとつ前です。
最後の将軍慶喜公が、鳥羽伏見の直前に「江戸から京へ進軍されて」って、そんな馬鹿なあ~! もう無茶苦茶です。

で、なにが言いたかったって、とりあえず、薩摩の島津家から徳川家へ輿入れして、皮肉にも、実家の藩兵から攻撃される役回りとなった最後の御台所、天璋院篤姫と最後の将軍慶喜公、について語りたかったのですが、また明日にします。

最後の御台所は将軍慶喜の妻、のはずなんですが、この方は大奥に入っていません。
では皇妹和宮ではないか、と思われるかもしれませんが、和宮は御台所と呼ばれるのを嫌っていたというお話で、実質的に、大奥最後の総取締役(いわば女官長で、表の老中にも匹敵するといわれたほどです)・滝山の信頼を得ていたのが天璋院であり、最後を締めくくったのが天璋院と滝山であったことは、事実のようなんです。
で、詳しくは明日にします。

関連記事
幕末の大奥と島津家vol1
幕末の大奥と島津家vol2
慶喜公と天璋院vol1
慶喜公と天璋院vol2


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする