郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol3

2009年05月31日 | 伝説の金日成将軍
 「伝説の金日成将軍と故国山川 vol2」の続きです。
 「伝説の金日成将軍と故国山川 vol1」の冒頭で述べましたが、「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」が転載していました「金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報」とは、実は、下の本からのものなのです。

北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 (1982年)
林隠
自由社

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 なにやら題名があやしげなので、これまで読んでいなかったのですが、著者名の「林隠」はペンネームで、本名は、カスタマーレビューでも書かれていますように、許真。北朝鮮育ちの方です。
 私……、実にうかつだったんですが、「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀 」において、萩原遼氏がこの本を紹介しておられるのを、読んでいたはずなんですね。
 萩原遼氏がおっしゃるには、許真氏はこの本を書かれた当時、ソ連共産党の幹部でおられたそうで、立場上、本名での北朝鮮批判はできず、ペンネームを使われたそうです。
 私、一読して、ソ連崩壊前なので共産党批判にまではふみこめなかったのだろう、と思ったのですが、ソ連共産党の幹部だった、というならば、納得です。
 いえ、そういう立場の方が、ソ連崩壊以前に書かれたにしては、非常な真摯な内容です。
 
 で、「林隠」氏が高麗人(ロシア・ソ連領の朝鮮族)から聞き取った金光瑞の消息もまじえつつ、日本陸軍騎兵中尉として、三・一独立運動を迎えたところから、金光瑞の足跡を語っていきたいと思います。




 上の写真は、「北朝鮮新義州ー中朝国境の町」で、最初にご紹介しました下の本からの転載です。金光瑞が、金日成将軍伝説のモデルだったことについては、著者の李命英氏が最初に掘り起こされたことでして、このシリーズの参考書も、基本はこの本です。
 半島から留学した陸士卒業生が作っていました親睦団体・全諠会のアルバムに残された、金光瑞騎兵中尉の写真なんですが、私はこれで、彼に惚れ込んでしまったんです(笑)

金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房

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 大正8年(1919年)、三・一独立運動が起こった経緯については、「金日成将軍がオリンピック出場!?」で、簡単に書きました。
 少々補足しますと、三・一独立運動は、併合前後の義兵闘争とはちがい、武装闘争ではありません。
 宗教指導者と学生が中心となって、非暴力のうちに独立を求め、広範な半島民衆の支持をえて、現在でいいますところのデモ行進が、全土にひろがっていったんです。ただ、その過程で、暴動化もしたのですが、基本的には、武器をとっての抵抗運動ではありませんでした。
 朝鮮総督府、つまり日本側は、これに対して徹底的な弾圧で応じ、短期間で沈静化させます。
 しかし一方、万を超える逮捕者のうち、不起訴釈放も多く、起訴した者も重罪にはしていません。
 そしてなにより、朝鮮総督府は以降、それまでの武断政治を改め、言論、出版、集会の自由を認めるなど(完全に、ではありませんが)、宥和政策に転じました。

 これには、理由があります。
 前年に第1次世界大戦が終結し、この年、戦勝国が中心となってその後始末を協議するパリ講和会議が予定されていたんですね。
 戦勝国とは、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、そして日本です。
 アメリカのウィルソンは、民族自決と植民地問題の公正解決を唱えていまして、日本には体面がありました。
 といいますのも、半島内外の独立運動家は、このパリ講和会議で独立を訴えるかまえを見せていまして、三・一独立運動の盛り上がりはそれを勢いづけ、臨時政府創設の動きも出てきたんです。

 当初、各地にちらばった運動家が、連絡もなく、とりあえず構想を発表しましたので、京城(ソウル)、シベリア(沿海州)、上海、フィラデルフィアの四つの臨時政府が立ち上がりましたが、フィラデルフィアの運動家はすぐに構想をひっこめ、ソウルでのそれは、発表した閣僚がほとんど海外亡命運動家で、なすすべもなく、すぐにつぶれました。
 残るは、シベリアと上海です。
 結局、上海に一本化されるのですが、シベリアで運動の中心となっていたのは李東輝率いる「韓人社会党」で、これはすでにレーニンの承認を得ていて、共産主義団体ともいえましたし、彼らが加わることで、ただでさえまとまりに欠けていた上海臨時政府は、激しい派閥争いの場となります。

 さて、大日本帝国の陸軍騎兵中尉となり、東京にいた、金光瑞です。
 この年、東京の留学生たちが、三・一独立運動の呼び水となった二・八宣言を発しますが、いつの時点でか、金光瑞は休暇願いを出し、ソウルへ帰った、といいます。
 このとき、三・一独立運動に呼応しようとした陸士卒業生は、金光瑞だけではありませんでした。
 26期生だった池青天(陸士入学当時の名前は錫奎、入学後に大亨と改名したもようで、さらに独立運動に身を投じてから青天と名乗りました)は、当時、岡山の歩兵部隊にいまして、同期の李応俊としめしあわせ、平城で落ち合って、満州へ行く計画でした。ところが、李応俊は汽車に乗り遅れて機会を逸し、結局、池青天は単身ソウルへ行き、金光瑞と合流したもののようです。

 前回書きましたように、李応俊中将は大韓民国陸軍の初代参謀総長で、現在の韓国では、親日罪がかぶせられています。
 しかし、日韓併合以前の陸士留学生は、もともと日本陸軍の将校になろうとして留学したわけではありませんで、大韓帝国軍の指導者となることこそが当初の目的でしたし、光復を願う気持ちは、人一倍強かったのです。
 27期生の李種赫(馬徳昌)も、このとき満州に渡り、独立運動に身を投じましたが、彼のことは、よくはわかりません。昭和10年(1935年)ころ獄中で死亡、といわれているようです。

 大韓帝国成立当時の陸士留学生、11期生、15期生は、もちろん、大韓帝国軍が解散させられました明治40年(1907年)にはじまる、丁未義兵闘争の中心になっていました。金日成将軍のもう一人のモデルである、金一成が挙兵した闘争です。
 で、鎮圧後、国内にとどまった者も多かったのですが、金一成のように、国境を越えて満州などに逃れ、再起を期していた人々もいました。
 李応俊の岳父(妻の父)、李甲もそうでして、沿海州に亡命し、すでに大正6年(1917年)、ニコリスク(ウスリースク)で病没していましたが、ペテルスブルクにも行ったことがあった、といいますし、ロシア革命のただ中にいたわけです。

 その李甲の甥が、現千葉医大で学んでいまして、李応俊とも連絡がありました。一度は、李甲から李応俊へ、一人の男を介して「拳銃を譲ってくれ」という伝言がまいこみ、李応俊は岳父のために、自分の拳銃を男に託しましたが、この男が憲兵につかまり、拳銃の刻印番号から、李応俊の持ち物だとわかってしまった、という事件もあったそうです。しかし、この拳銃事件も脱走未遂事件も、当時の日本陸軍は不問に付し、李応俊は、将校として日本陸軍にとどまりました。(「洪思翊中将の処刑」より)
 
 三・一独立運動の後、10年ほど前の義兵騒動のときよりも、より多くの人々が、武力による独立運動を志し、満州、シベリア(沿海州)へと向かい、ソウルで落ち合った金光瑞と池青天も、その中にいました。

 次回、なぜ、満州、シベリアだったのか、というところから、お話を進めていきたいと思います。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol2

2009年05月29日 | 伝説の金日成将軍
 「伝説の金日成将軍と故国山河 vol1」の続きです。

 えー、われながら、なにをごちゃごちゃ極東史を解説しまくっているのか、とじれったいのですが、まあ、私の頭の中の整理でして、お許しください。
 前回、そして今回の参考文献はいろいろとありますが、以下の本はお勧めです。あまりにも記述が広範なので、著者のご専門以外の部分で、普仏戦争後のフランスをナポレオン3世の帝政としておられるようなうかつさには、ちょっと引きますし、前書きにおける、現代に歴史を敷衍してのナショナリズム解説には、そもそも前提がおかしいのではないか、という疑問もあるのですが、本論には、それを補ってあまりある視点のおもしろさがあります。

大清帝国と中華の混迷 (興亡の世界史)
平野 聡
講談社

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 なお、満州については「馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道」、沿海州の朝鮮族については、イザベラ・バードの「朝鮮奥地紀行」など、つい読みふけってしまう、おもしろい参考書が多数あります。

 さて、解説の続きです。
 断末魔の大清帝国の息の根をとめたのは、義和団の乱、といえなくもないでしょう。
 日清戦争の後、大清帝国は、巧みな外交で三国干渉を誘い、日本の遼東半島領有を阻止しましたが、その代償としてロシアの旅順、大連の租借、そして露清密約により東清鉄道の施設権を認め、列強各国の侵食を誘うとともに、日本の警戒心を刺激する結果となっていました。
 そこへ、義和団の乱です。

 義和団の乱は、明治33年(1900年)に、山東省から興った排外運動です。
 1880年代から、欧米列強による中国鉄道の建設が本格化し、綿製品などの輸入品が農村部にまで入りますし、内陸部にも租界ができ、キリスト教宣教師の活動も活発になります。
 日本の幕末もそうでしたが、欧米との交易は、国内物価の高騰につながりますし、一般庶民にとって、慣れ親しんだ生活に急激な変化が起こる徴候は歓迎できるものではなく、武力をともなう排外行動が、広範な支持を得ます。

 で、ですね、詳しいことははぶきますが、攻撃対象とされた欧米列強は共同で軍隊を派遣することとなり、しかし、それぞれの事情で極東まで多数の軍を派遣することはできず、その中心になったのは、日本とロシアでした。
 イギリスは、中央アジアでもロシアと角をつきあわせていましたから、大部隊を派遣することがわかりきっていたロシアへの牽制に、日本の大部隊派兵を求めたんですね。
 実際ロシアは、義和団騒動とは関係のない満州に大部隊を派遣し、他国が引き上げた後も、軍を引こうとはしませんでした。

 そして、沿海州へのシベリア鉄道と並んで、東清鉄道の建設が着々と進められます。
 この東清鉄道には、ロシアの鉄道会社が排他的行政権を持つ鉄道附属地がともなっていまして、ロシアは沿線に都市を建設し、そこには清朝の行政権がおよばず、満州には、いわば、線路で結ばれた飛び地のロシア植民地が建設されていったのです。
 東清鉄道の建設は、多くの漢人や朝鮮人の労働者を満州に呼び込み、しかもできあがったロシアの鉄道附属地都市には、賃労働も多く、比較的にいえば治安もよく、定住者が爆発的に増えます。同時にそれは、都市周辺農業の活性化にもつながり、さらなる移民をうみ、満州は短期間で開発されつつ、確実にロシアの支配下に入ろうとしていたのです。
 その傍ら、ロシアは地続きの朝鮮(大韓帝国)に影響力を強めていたわけでして、日本の危機感は一通りではなく、日英同盟のもと、日露開戦となっていきました。
 
 明治38年(1904年)、日本は日露戦争の勝利により、樺太(サハリン)南半の割譲、旅順・大連を含む遼東半島南端部の租借権、東清鉄道のうち長春から大連を経て旅順へと続く南満州支線の租借権などを得て、大韓帝国の保護国化、併合へと、進むことになったのです。
 明治43年(1910年)日韓併合のその翌44年、辛亥革命が起こり、大清帝国は崩れ去ります。

 金昌希改め金一成が挙兵した丁未義兵闘争は、大韓帝国の解散させられた軍隊が中心になっていたわけでして、それまでの守旧的な義兵闘争とちがい、ナショナリズムの萌芽を含むものであったのではないでしょうか。
 金一成の場合、僻地の山岳にこもっていた上、おそらくは数十人規模の少数ゲリラだったためでしょう。日韓併合後も健在なまま、日本の警察にマークされる身となり、拠点を北方の白頭山に移したといいます。

 白頭山は、朝鮮と満州の国境にそびえる山で、周囲は原生林におおわれ、国境越えが容易であると同時に、野生の朝鮮人参や鹿茸、貂の毛皮など、高額で取引される産物に恵まれ、満州側で売却が可能です。おそらく、なんですが、数十人規模の人数ならば、長期間、平地の一般民家を脅かすことなく、容易に隠れ住むことができたのではないでしょうか。

 この間、金一成より一つ年上の金光瑞は、「金日成将軍がオリンピック出場!?」で書きましたように、日本の陸軍士官学校23期に留学し、日本帝国陸軍の騎兵中尉となっておりました。
 金光瑞が陸士に入学したときの名前は、金顕忠でした。一年の後、日韓併合の年に、光瑞に改名したと言われます。「光復(独立回復)の瑞兆」になってみせる、という決意のあらわれだったのでは、ないでしょうか。

 実はですね、その光復の後、大韓民国の陸軍は、日本の陸軍士官学校と、日本が支配した満州国の陸軍軍官学校の卒業生が中心となって、創設されました。初代参謀総長は、陸士26期生の李応俊中将です。
 金大中氏以来、左翼政権が続きました現在の韓国では、彼らに「親日罪」を被せる動きがあります。
 しかし、併合当時には、幼年学校に留学していた26期、27期生たちが集まり、「全員脱走帰国して抵抗しよう」という声が高く、士官学校にいた先輩の金光瑞に訴えた、という話なのです。結局、「吸収するべきことを吸収して力をつけ、時期を見よう」ということで、落ち着いたそうなのですが(「洪思翊中将の処刑〈上)」より)、近代軍隊は、近代国民国家の礎ですし、長い目で見て、それは意味のあることだったでしょう。
 ただ……、その場にいた多くの者が、30数年後の光復の日を平穏に迎えることがかなわず、また、大韓民国軍の戦闘相手は北朝鮮の同胞だった、という結末は、やはり悲劇です。
 後述しますが、李応俊にしても、ほんの一歩のちがいで、あるいはまったく別の道をたどった可能性があります。金光瑞の運命が李応俊の運命であっても、けっしておかしくはなかったのです。

 併合からおよそ10年、第一次大戦後の三・一独立運動を迎え、白頭山にこもっていた金一成(キム・イルソン)の活動は、活発になります。大正11年(1922年)、一度、警察に捕まったことがあった、ともいいますが、うまく逃げだし、そのまま消息を絶ちます。そして、1920年代の後半には、まったく噂も聞かれなくなり、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」においては、大正末年ころに没したのではないか、と推測されています。

 しかし、「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究」に、もしかすると、金一成が生存し続けたのではないか、と思われる証言があります。著者の佐々木春隆氏は、金光瑞のその後を語る証言、としてあげておられるのですが、正規の将校教育を受けた金光瑞は、山岳ゲリラ戦を行った形跡はありませんし、どうも、初代金日成将軍、金一成ではなかったか、と思われるのです。

 証言者は、李烱錫将軍。陸士45期生で、日本軍将校として満州の守備隊にいたことがあり、光復後は韓国軍の将軍となった人です。
 昭和10年(1935年)から13年ころのことです。
 白頭山の北部一帯は、測量部が危険で入れないので地図が無く、そのため「白色地帯」と呼ばれていたのだそうです。そこに、「金日成(キム・イルソン)部隊」がこもっていました。
 この当時、組織だって間島にいた抗日武装集団は、中国共産党系のパルチザンで、北朝鮮建国の父である金日成が率いていた部隊も、その中にいました。
 しかし、李烱錫が遭遇した「金日成部隊」は、どうも日本側がいうところの「共産党匪賊」、いわゆるパルチザンでは、なさそうなのです。

 李烱錫の部隊は鉄道を守備していましたが、この「金日成部隊」はそれを襲っていました。満州鉄道による日本軍の補給線を狙っていた、ということなんでしょう。
 この金日成は、「45歳から50歳くらいで、日本陸士の23期生、守備隊長の先輩だ」という噂が、ひろまってもいました。
 証拠は、まったくありません。
 ただ、この金日成部隊は、匪賊やパルチザンとちがって、古武士的な風格を持っていたのだそうです。
 まず、討伐に出た日本兵を戦死させると、遺体を丁寧に送り届けてきます。
 日本軍の歩兵砲をぶんどったときにも、「わが独立軍には必要がないのでお返しする。独立軍は兵器で戦うのではなく、精神で戦う」という手紙と共に、付近の住民にたくして、返してきた、と言います。
 そして関東軍司令部に、「韓国を独立させたら武装を解く、韓国が独立するまでは、万が一私が倒れても、何人かの金日成が受け継いで戦うだろう」という手紙をよこした、ともいうのです。

 「わが独立軍」という名のりからするならば、昭和7年(1832年)、満州国建国当時に、中華民国系の軍団と共闘して、満州平野部で抗日闘争をくりひろげていた「韓国独立軍」の残党が、流れこんでいたのではないか、と思われます。詳しくは後述しますが、この韓国独立軍の指導者には、陸士26期生で、途中まで金光瑞とともにあった池青天がいたのですが、翌昭和8年には壊滅状態となり、池青天は満州を去っていたのです。
 この残党の一部が、白頭山に逃れて、金一成の「金日成部隊」となり、独立軍の系譜を自負したとすれば、どうでしょうか。

 確かにこの「金日成部隊」は、同時期に豆満江を超え、故国に進入して、咸鏡南道の普天堡(保田)を襲った、パルチザンの「金日成部隊」とは、まったく風格がちがいます。

 後年のことですが、普天堡襲撃に参加していた北朝鮮のある老将軍は、自国の新聞記者に、軍糧調達、つまりは、軍資金と食料を強奪することが目的であったのだと正直に語り、さらには、「寝ぼけ眼の倭奴が、ズボンもはかずに飛び出してきて哀願するのを殺した」と、自慢げにつけくわえて、それを知った金日成の怒りを買いました。(「北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝 」より)
 普天堡は、およそ300戸ほど(うち日本人は26戸)の村役場所在地にすぎませんで、「寝ぼけ眼の倭奴」とは、交番の近くで食堂を経営していた日本人です。農事試験場や営林署、消防署、村役場、学校、郵便局に火を付け、同胞の民家で強盗を働いてまわった、という、匪賊とかわらない行為だったのです。それが北朝鮮では、「朝鮮人民に希望を与えためざましい抗日の戦い」だったと評価され、金日成の業績として美化されようとしていて、金日成は老将軍の正直な回顧談を、許しておくわけにはいかなかったわけなのです。

 白頭山において、パルチザンと同時期までも、金一成が活動を続けていて、それを、日本軍の側にいた陸士出の半島出身者たちが、金光瑞と勘違いしたのならば、です。金一成と金光瑞が合体して「金日成将軍」伝説が生まれ、それをパルチザン部隊が利用した経緯も、わかりやすくなります。

 しかし、もしそうだったと仮定して、金一成は、いつまで生存していたのでしょうか。光復の日を、その目で見たでしょうか。
 故郷へ帰った形跡がないところからして、伝説の金日成将軍の一人、金一成は、光復を目前にして白頭山で没し、将軍峰の洞窟に葬られたのだと想像することが、あるいは、伝説にもっともふさわしいのかもしれません。

 次回、やっと本論、金光瑞の足跡を追います。

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伝説の金日成将軍と故国山川 vol1

2009年05月27日 | 伝説の金日成将軍
 「金日成将軍がオリンピック出場!?」伝説の金日成将軍はオリンピックに出ていなかった!!の続きです。

 前回、伝説の金日成将軍のモデルであった金光瑞は、「大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います」と書いたのですが、手持ちの本やウェッブの情報では、朝鮮半島独立運動があんまりにもごちゃごちゃと四分五裂で、書いている方のイデオロギーによって内容がちがい、わけがわかりませんので、次の本を見てみました。

 
「朝鮮戦争前史としての韓国独立運動の研究 」(1985年)
佐々木 春隆
国書刊行会

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 著者の佐々木 春隆氏は、陸士54期生で、中・南支に連戦し、戦後、自衛官となられた後、防衛大学教授、京都大学法学博士、という経歴です。
 いや、実によくまとまっていまして、ようやくなんとか朝鮮半島の独立運動の筋道が、頭に入りました。途中、「わが民族は」とおっしゃっている部分があって、もしかしまして、戦後日本に帰化なさった方なんでしょうか。

 で………、なんということでしょう! 金光瑞のその後について、かなり確実性の高い情報が、この本に転載されていたんです。
 そして……、もしそうだったのだとすれば、と考えると、私の中の金光瑞が、かなりはっきりとした像を結んできたんです。
 あるいは、理想化のしすぎかもしれませんが、なにしろ私、いい男に弱いものですから(笑)

 えーと、ですね、この本を読んで、もう一つ、「ああ、そうだったのか」と気づかされたことがあります。
 「白馬に乗った金日成将軍が、いつか独立に導いてくれる」という、朝鮮半島の伝説のモデルは、「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」で述べられていますところの、一人目の金一成(キム・イルソン)と二人目の金光瑞との二人のみであり、すでに昭和の初めには伝説ができあがっていて、ソ連のコミンテルンにつながっていた中国共産党系の抗日パルチザン部隊がこれを利用し、またそれに対した日本側も錯覚し、半島の人々もそうだったのだろう、ということです。

 金一成と金光瑞が混同された理由について、佐々木春隆氏は、「二人とも咸鏡南道の出身であり、年齢もほぼ同じで(一つちがい)、活動時期も似ている上に、正体不明だったから」とおっしゃっておられて、もっともなご意見なんですが、正体不明というよりは、二人ともどの団体にも属さず、独自に抗日運動を続けたので、団体内部の権力闘争や、殺し合いまでともなった内部分裂には関係せず、孤高を保っていたから、といった方が、よさそうに思えます。

 そんなわけで、まずは前回省いた一人目の金日成(キム・イルソン)将軍のモデル、金一成(キム・イルソン)について、ちょっと述べてみたいと思います。
 本名は金昌希。威鏡南道端山郡黄谷里で、明治21年(1888年)か22年かに生まれました。年齢は、金光瑞より一つ、二つ下です。父親は威鏡北道隠城郡の郡守を務めた人で、次男でした。地方の有力者、いい家の息子、ですね。もっとも東学教徒であったため、一家は地域から浮いていた、という話もあります。

 明治40年(1907年)、19歳のとき、前々回にも書きましたが、第三次日韓協約により大韓帝国軍は解散させられてしまい、それを不服とした軍人たちが地方に散り丁未義兵闘争をまき起こすのですが、金昌希も故郷に近い五峯山に拠って、挙兵するんですね。
 あるいは、もしかすると、なんですが、金昌希は、漢城(ソウル)で軍の将校になっていたか、軍解散と同時に廃止された陸軍武官学校の生徒だったか、といった可能性もあるのではないか、と思います。
 挙兵と同時に、金一成(キム・イルソン)と名乗ったようです。

 三年後の日韓併合により、半島内での抗日闘争は難しいものとなり、かなりまとまった抗日武装集団が、豆満江を越え、間島と呼ばれる、対岸の満州国境地帯に渡ります。ここには、現在でも延辺朝鮮族自治州があり、朝鮮族が多数住んでいます。
 
 えーと、ですね。現在、私たちの頭の中にあります「国境線」というのは、西洋近代がもたらしたものでして、条約によって、きっちり国境線が確定されるわけなのですが、極東にこの概念を持ち込んだのは、17世紀の半ば以来、盛んに南下していたロシア帝国でした。
 1689年、日本でいえば元禄2年に、清朝の康熙帝とロシアの間で結ばれたネルチンスク条約がそれで、結局のところ、です、インドを手中におさめましたイギリスが、19世紀になって、さらなる交易の拡大をもくろみ、海路大清帝国にに手をのばしましたときにも、西洋諸国の一員であるロシアと清朝間の条約がすでにありましたがゆえに、広大な領土を、とりあえずは清朝のものと認めた上で、砲艦外交を重ね、すでに勢力が衰えていた清朝の譲歩を引き出し、アジアにおける植民地支配の基本ルールを、あみだしたわけなのです。

 で、ですね。康熙帝の時代の清国には、イエズス会宣教師がアドバイザーとしておりましたし、とりあえず、でしかないんですが、西洋的な国境線の概念が認知され、ネルチンスク条約の直後、1712年に、清朝の故地である満州と李氏朝鮮とのとりきめとして、白頭山に、「西は 鴨緑江、 東は土門江を境界とする」定界碑を建てたんですね。
 この「土門江」がどの川をさすのか、現在では、土門江を豆満江として中朝国境線が認識されているわけなのですが、19世紀末になって、大韓帝国は「土門江は松花江支流」と主張します。とすれば、間島は朝鮮半島に属する地、なわけでして、現在でも韓国にはこの主張があり(現実にいま中国と国境を接しているのは北朝鮮なので、おかしな話ではあるのですが)、中韓国境論争になっています。

 清朝は、満州族(女真族)の王朝です。その満州族の故地だったために、現在の中国東北部は満州と呼ばれるようになりました。
 満州族は、モンゴル人と同盟し、騎馬兵力によって明を滅ぼし、清朝を打ち立てました。皇帝は騎馬民族のハーンでもあり、モンゴルと同じくチベット仏教を信奉していたんですね。
 この皇帝の旗本である騎馬軍団を満州八旗といいますが、康熙帝のころには、盛んに外征し、南下したロシアのコサックを圧倒するほどだったこの武勇も、やがて少数の支配者として漢人の地で暮らすうちに奢侈に流れ、薄れてきたんですね。18世紀の半ば、これを憂えた皇帝が、なんとか満州八旗の姿をそのままに残そうと務め、その一環として、故地だった満州には封禁令が出されて、漢人の立ち入りが禁じられました。
 この封禁令、厳格に守られたわけではなく、満州族の荘園の小作人だとかの形をとって漢人が入り込み、19世紀のはじめには、有名無実と化します。

 この満州に国境を接する朝鮮半島の北部(主に咸鏡南道、北道)は、農業に適した条件になく、農民は豆満江を超えて間島に耕作に出かけ、飢餓の年には、年貢逃れに李王朝の支配の及ばない満州へ、移住していたんです。「土門江」がどの川であったにせよ、19世紀には、豆満江までしか李王朝の実行支配はおよんでいなかったわけでして、しかしでは、豆満江が国境線として意識されていたかというと、これもまたちがうでしょう。中華王朝が中心となった極東の秩序世界に、西洋近代の産物であるくっきりとした国境線は、なかったんです。

 ネルチンスク条約以降も、ロシア帝国のシベリア東進、南下は続きまして、ついには樺太、千島へ達し、18世紀末から、幕末の日本ともさまざまな摩擦を引き起こします。 
 しかし、ロシアが再び清と条約を結ぶにいたったのは、南方海路から清に迫ったイギリスに乗じて、でして、1858年(安政5年)のアイグン条約、1860年の北京条約によって、ネルチンスク条約は反古となり、ロシアは極東に沿海州を得ます。
 ちなみに、アメリカにより開国させられた日本は、清朝より早く、1855年2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約を結び、千島列島については、択捉島と得撫島の間に国境を定めますが、樺太は日露雑居のままで、国境を定めませんでした。

 で、話をもとにもどしまして、明治維新の7年前に、ロシアが得た沿海州なんですが、わずか18キロほどですが、朝鮮北部の咸鏡北道と、豆満江を国境として接しているんですね。
 当時の沿海州は人口が希薄で、ロシアが欲していたのは港と軍事拠点ですが、石炭、食料などの補給のためにも、開拓の必要がありました。
 沿海州がロシア領となった直後から、朝鮮族の移民はあったのですが、当初、ロシアは開拓民としてこれを歓迎しました。明治2年(1869年)、朝鮮北部で大飢餓が起こり、農民たちは大挙して豆満江を超えます。ロシア領沿海州にも、数千人規模で押し寄せ、食べるもののなかった彼らには、当座の食料や農具や種などの援助が与えられたといいます。
 こういった初期の朝鮮族移民は、なにしろロシアにとっては獲得したばかりの辺境ですから、農地を得ることも容易で、自治も認められていました。治安もよく、朝鮮にいたときには考えられなかった豊かな暮らしを手にし、ロシア正教を受け入れる者も多く出てきます。
 こうして沿海州は、朝鮮族が多数住む地となりました。
 
 清朝の統治は、もともと地方の治安まで保障するものではありませんで、地方に派遣された長官は、持たされた徴税権、人事権、治安維持権を、勝手に地元有力者に与え、上納金といいますか賄賂といいますか、を受け取り、いわば名義貸しのほったらかし状態でしたので、治安が乱れてきますと際限が無く、匪賊やら自警団やらの武装集団が跋扈して、といいますか、だれもが自分の身は自分で守るしかなくなり、富豪であれば自分で武装集団を組織したり雇ったり、あるいは有力武装集団に献金したりしますし、貧しい農民、商人といえども、こういった集団に税のようなものをおさめるか、あるいはその一員になるか、といった状況になっていきます。
 19世紀の満州は、まさにそういう状態でして、そこへ、ロシアの南下が続きました。

 19世紀、極東におけるもう一つの台風は、日本です。
 開国した日本は、徐々に真の攘夷に目覚め、欧米列強に対抗するためには、彼らのルールごと、積極的に西洋近代を受け入れるしかないという結論に達しますが、1867年(明治元年)、明治維新によって、その受け入れは加速します。
  ロシアとは、幕末以来もめ続けていた樺太の領有権について、明治8年(1875年)、北部千島列島と樺太の領有権を交換することで、話し合いにより、とりあえずの決着がついたのですが、問題は清朝でした。

 大清帝国は、満州族による征服中華王朝です。したがって皇帝には、先にも述べましたように、建国以来のチベット仏教の信者でありハーンでもある満州族としての側面と、儒教に基づき華夷秩序を重んじる中華王朝の皇帝である側面と、二つの顔がありまして、蛮族であるはずのハーンが中華文明の中心にある、という矛楯をはらんでいました。
 大清帝国自体も、建国以来の同盟者であったモンゴル、同じく文化的基盤の共通性から満州族の同盟者として位置づけられたチベット、ウイグルといった内陸部へ向けた顔と、経済の中心であった華中、華南の周辺に向けた顔は別のものでして、前者が藩部とされたのに対して、後者は朝貢国という伝統的な位置づけでした。
 李氏朝鮮は、その接点にあり、当初、満州族から同盟を迫られたのですが、中華世界の一員であることを誇りにしていたがためにこれを断り、討伐されて朝貢国となっていたわけです。

 中華帝国としての清朝が築いていた国際秩序は、西洋近代の国際ルールとは相容れないものでした。中心に清朝の天下があり、それを頂点として、周辺に朝貢国があるわけなのですが、朝貢国としてのあり方もさまざまでしたし、欧米諸国の視点からしますならば、朝貢国とは清国の主権が及んでいる国ではなく、とすれば、清国に関係なく、現地政権に対する砲艦外交によって、植民地が獲得できる対象であったのです。
  例えば、阮朝ベトナムです。19世紀の初期から、すでにフランスの接触がはじまり、幕末の文久元年(1862年)には、国土の一部がフランス領となり、半植民地状態でした。

 日本において、「朝貢国」の位置づけにもっとも敏感であったのは、琉球を支配していた薩摩藩です。
 琉球は、江戸期を通じて薩摩藩の支配を受けながら、清朝の朝貢国でもある、という二面性を持っていまして、ペリー来航に先立つ1844年(弘化元年)からフランスの接触を受け、やがて部分的な開国に応じました。
 そして、嘉永6年(1853年)、日本に来航したペリーは、琉球へも立ち寄り、薩摩藩の指示によって琉球は独自にアメリカと条約を結んで開国すると同時に、これに便乗したフランス、オランダとも条約締結に至りました。

 西洋近代の国際ルールを受け入れた日本にとって、朝貢国は、植民地化の危機にさらされた主権独立国です。
 しかし、日本がいち早くそういう視点を持ち得たについては、日本は大清帝国を中心とする秩序の外の海洋国家であって、日本国内の安定に清朝の存在は関係がなかった一方で、西洋列強による植民地化の危機を敏感に感じとる位置にあったからです。
 清朝が築き上げた秩序のうちにある朝貢国にとっては、その秩序こそが国の安定の源であり、まして、その頂点にあった大清帝国にとっては、その秩序が覆されるということは、王朝の存続、自らのアイデンティティにかかわる問題でした。

 明治維新以降、日本にとってまずは琉球が問題となるわけなのですが、朝鮮問題がそれに連動します。
 琉球については、薩摩藩が実行支配していた実績があり、イギリスもまたそれを認めていました。しかしそれでも、清は朝貢国であった琉球を日本の領土として認めることを拒み、また琉球王朝の側にも、大清帝国が築いた秩序の中に留まることを望む勢力がありました。
 それは、当然のことであったでしょう。維新以降の日本の変身は、性急といえばあまりに性急で、長らく極東を支配してきた中華秩序の中にある者にとっては、一見、いまだ威風堂々と見える大清帝国にくらべ、東海の蛮族が、奇妙で危うい、洋夷の猿まねをしている、としか、見えなかったのです。

 江戸期を通じて、幕府は李氏朝鮮と独自の外交関係を持ち、対馬藩は釜山に居留地を与えられてもいました。清の朝貢国であり、ロシア領沿海州と国境を接する朝鮮は、明治新政府にとって、極東外交の試金石となります。
 朝貢国は決して清の領土ではなく、日本と清とは対等の外交関係にあるのだと認めさせ、琉球を日本領土と確定することがかかっていましたし、弱体化した清に朝鮮をまかせておいたのでは、すでに隣の沿海州まで来ていたロシアが呑み込んで、日本にとっては、のど元に突きつけられた刃になりかねない、という危惧があったのです。
 実際に幕末、ロシアの軍艦は朝鮮領の巨文島に寄港して、貯炭所の設置を計画したことがありましたし、その直後に、対馬を占領し、得ようとしたわけです。

 朝貢国、琉球と朝鮮をめぐっての日清のにらみ合いの結果は、やがて日清戦争となり、勝利した日本は、沖縄を日本領土、朝鮮を独立国として認めさせ、極東における大清帝国の支配秩序を、突き崩すことに成功したのです。
 結果、日本は、それまで李朝がけっして受け入れようとしなかった近代化作を、高圧的に押しつけるのですが、これがまた性急すぎるもので、李王朝内部にも閔妃(王妃)を中心として多大な反発を生み、親ロシア勢力が増大しますし、その閔妃を日本公使館がかかわって暗殺してしまったことに加えて、なによりも断髪令が、両班や儒生を中心に憤激を呼び、最初の義兵闘争がまきおこります。

 とはいえ、一度日本が軌道に乗せた朝鮮の近代化は、それまでの李朝の価値観を反転させ、明治30年(1897年)、国号が大韓と改められ、朝鮮国王高宗は皇帝となって、大韓帝国が誕生します。大清帝国の皇帝を迎えるための迎恩門は倒され、冊封体制からの離脱を記念して、独立門が建てられるのです。このとき、大韓帝国軍から、多数の陸士留学生が日本にわたりましたし、とりあえず、近代国民国家への模索は、はじまろうとしていたのです。

 一方の大清帝国です。
 すでにベトナムもフランスの植民地となっていましたし、日清戦争の敗戦で、朝鮮も独立し、その支配論理が根底から崩れ去ったのです。結果、知識層が多数、日本への留学を選び、明治維新をモデルとした近代国家形成が、さまざまに構想されることとなりましたが、清と日本では、事情がちがいすぎます。
 清の支配層には少数民族である満州族がいて、広大な清朝の勢力範囲には、あまりにも多数の異民族がいました。
 いえ、そもそも、大清帝国の多数民族である漢族ですが、一言で「漢人」といっても、とりあえず漢字を使っている人々の間でさえ、地域によって言語はかけはなれていますし、文化にも相当なちがいがあります。
 しかし、なによりも大きな問題だったのは、建国以来の満州族の友邦、藩部とされていたモンゴル、チベット、そして回教徒のウィグルで、宗教、言語、文化のすべてにおいて、ベトナム、朝鮮などの朝貢国よりも、いえ、漢文、儒教をそれなりに受容した歴史を持つ日本とくらべても、中華文明とのへだたりが大きいのです。
 したがって、です。ありうべき近代国民国家中国の構想からは、当初、モンゴル、チベット、ウィグルが斬り捨てられる傾向があり、漢人の流入が進んだ満州については、微妙でしたが、これも中華民族主義からするならば、捨ててもいい地域ともなっていました。

 長くなりましたので、次回へ続きます。

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伝説の金日成将軍はオリンピックには出ていなかった!!

2009年05月17日 | 伝説の金日成将軍
 「金日成将軍がオリンピック出場!?」の続きです。

 伝説のキム・イルソン将軍のモデル、陸士23期に留学していました金光瑞(入学当初の名前は顕忠でしたが、在学中に光瑞に改名したといわれます)は、実のところ、大正14年(1925年)から消息不明で、おそらくは不遇のうちに満州で没したものと推測されています。

 それが、昭和7年(1932年)のロスオリンピックに、日本代表として出場している! という情報には驚きました。もし、そうだったならば、ソ連に裏切られた金光瑞は、日本軍に投降して、ソ連情報提供者となり、陸士留学生仲間のとりなしもあって、日本陸軍騎兵仲間の連帯感から復権を認められた、という線しか考えられなかったのですが、いくらなんでも金光瑞は武装闘争をしていた人物ですし、ちょっと信じがたいことだったんですね。
 といいますのも、陸士26期に留学していて、金光瑞とともに独立武装闘争をした池青天は、ソ連に裏切られた大正14年以降は、中華民国によって独立運動に邁進しているようですし、こちらの系統の独立運動に陸士留学関係者はけっこういまして、いくらソ連に怒りを覚えたとはいえ、日本軍に投降は、金光瑞の誇りが許さなかっただろうに、という気がしました。

 それで、横浜へ生麦事件の資料をさがしに行きましたついでに、麻布の外交資料館へ、ロスオリンピックの資料を見に行きました。
 アジ歴でキーワード検索をかけましたところが、ロスオリンピク関係の資料が外交資料館にある、とまでは、わかったんです。
 えー、実は階層検索をかけると、すべてデジタル画像で見ることができる資料だったんですが、その検索の仕方がわかりませんでして。無駄足といえば無駄足なんですが、検索の仕方を教えていただきましたし、実物を見ることができて、幸せでした。
 やっぱり、ですね、すべてモノクロームの資料画像よりも、現物で見た方が、時代の雰囲気が感じられますし。
 感心がおありの方は、レファレンスコード検索で、B04012502700を見ますと、 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻(ロスオリンピック関係の資料の綴り)の画像が出てまいります。分割されていますので、選手の名前が登場する資料は、左上の「次資料」をクリックすれば出てきます「分割2」にいろいろとあります。

 結論をまず述べますと、金光瑞の名はありません! 選手はもちろん、馬のめんどうを見る人々や役員にも、です。
 さっそく、陸軍騎兵学校ーWikiの記述を訂正しておきました。

 それはともかくとして、おもしろい資料でした。時間さえ許せば、じっと読みふけっていたことでしょう。
 西竹一の大障害飛越金メダルは、もちろん名馬ウラヌス号の存在とバロン西個人の資質もあったのでしょうけれども、何年も前からの陸軍を中心とする馬術関係者の力の入れようもあずかっていたのだと、よくわかりました。

 最初は帝国馬匹協会(昭和2年創立)が、次いで、途中から設立されたらしい日本国際馬術協会(会長・松平頼寿伯爵)が、単独で馬術選手派遣に動き、アメリカ在住の邦人に協力を求めたり、寄付をつのったり、活発に動いていたんですね。まあ、馬術は馬を連れていかなければなりませんので、準備も大変ですし、莫大な参加費用がかかります。
 選手は、民間からも募って陸軍騎兵学校で訓練を引き受ける、としていたのですが、結局、バロン西を含む4人が現役の騎兵将校、1人が現役の砲兵大尉で、民間から選ばれた山本盛重も、民間とはいうものの、後備役の騎兵大尉です。山本盛重は学習院初等科の出身で、大正10年から学習院で馬術教官を務めていたことが、学習院馬術部のHPに見えます。
 監督の遊佐幸平騎兵大佐の伝記を読めば、国際馬術大会と陸軍騎兵科の関係がよくわかりそうなんですが、この伝記がどうも、希少本のようです。 遊佐幸平は陸士16期だそうですから、もちろん金光瑞を知っていたでしょうし、もしかすると先生だったかもしれませんし、そちらの方の情報も、あるかもしれなくて、読んでみたいのですが。

 ともかく、おそらくなんですが、日露戦争によって、ようやく日本でも騎兵というもの、そして西洋馬術が世間一般に認知されて間もなく、第一次世界大戦によって塹壕戦の時代となり、騎兵の活躍する余地はほとんどない状況となってきます。イギリスやフランスの騎兵隊の大戦における悲劇は有名です。
 で、そんなこともあり、日本陸軍の騎兵科は、オリンピックをも含む国際馬術大会に熱心に取り組むようになったんじゃないんでしょうか。いえ、日本だけではなく、欧米各国の陸軍騎兵隊が、もはや儀仗兵としてしか意味が無くなり、国際馬術大会が盛んになった、ともいえるのかもしれない、と思うのですが。
 ロスオリンピックの日本の馬術代表団は、前述のように陸軍関係者のみでしたし、参加のために渡米しては、アメリカ陸軍騎兵隊の歓迎を受けました。

 まあ、そんなわけで、日本国際馬術協会は、陸軍の全面的バックアップを受けていたのでしょう。その自負からか、なにもかも単独でやろうとして、これに大日本体育協会がクレームをつけるんですね。

 えーと、この大日本体育協会というのは現在の日本体育協会でして、当時は日本オリンピック委員会の役目も果たしていた、ようなのですね。ところが、日本国際馬術協会はこれに加盟せず、単独行動をとろうとします。けしからん!というので、大日本体育協会は、ですね、なんとロスのオリンピック準備委員会に「あー、日本国際馬術協会というのがおたくに参加の申し込みをすると思うんだけどね、あれはうちに参加していない勝手な団体だから、参加を拒否してちょーだいな」と、申し入れたようなのです。
 これを知ったロスの日本領事が「えー、国内の団体の内輪もめを外国で晒すとは、見苦しいかぎりなので、なんとかしてちょーだいな」と、時の外務大臣、幣原喜重郎男爵にお手紙を書くほどの騒ぎ。結局、外務省が間に入って、日本国際馬術協会は大日本体育協会に加盟し、決着がついたようなのです。

 また当時のアメリカには排日移民法がありまして、どうも日本人には、旅行者といえども行動制限があったようなのです。この扱いを、オリンピック期間は停止する、というような資料もあり、選手や大会関係者にはアイデンティティカード(身分証明書)を持たせる、としたのも、どうも、有色人種に対する差別的な扱いを避けるため、であったようです。

 で、これまで述べてきましたように、金光瑞の名は、まったく見あたりません。
 年齢からいきましたら、遊佐幸平がこの4年前のアムステルダムオリンピックに選手として出場していますし、総合馬術の後備役騎兵大尉・山本盛重は、明治15年の生まれです。金光瑞が代表となってもおかしくはなさそうなんですが、資料を読んで、馬術競技というものは日々の研鑽が必要でしょうし、金光瑞にはシベリアで抗日武装闘争をしていた年月のブランクがありますから、例え、投降して復権していたにしましても、出場は無理だったのではないか、という気がしました。
 
 はっとしたのは、「満州国が出場を申し込んでいるので、これを機会にアメリカが承認しないだろうか」という、超楽観的な外交通信を読んだとき、です。
 そうなんです。もしもこの時期、金光瑞が生きていたとしましたら、満州国にいた可能性は、けっこうありそうなんです。
 はっとはしたんですが、検索をかけてみましたら、満州国のオリンピック参加についての論文が出てきまして、結局、参加はできませんでしたし、しかも満州国が派遣しようとしたのは、馬術の選手ではなかったんです。

 というわけで、金光瑞はオリンピックには出ていません! 結局、大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います。

 前回書いたのは、大正8年(1919年)、金光瑞は、日本陸軍騎兵中尉として三・一独立運動の勃発を知った、というところまで、でした。次回は、以降の金光瑞の軌跡をかんたんにまとめてみるつもりです。


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金日成将軍がオリンピック出場!?

2009年05月10日 | 伝説の金日成将軍
 えーと、あまりに驚きましたので、北朝鮮新義州ー中朝国境の町の続きです。

 チンダラコッチさまからメールでお知らせいただいたのですが、金日成のモデルと思われる抗日運動家、金光瑞。「彼は、バロン西が金メダルをとった昭和7年(1932年)のロサンジェルスオリンピックに、同じ馬術で出場している」「えっ!!! えええええっ???」です。
 ぐぐってみました。ネット上で、この情報のもとになっているのは、日本語版Wikiみたいです。

 陸軍騎兵学校ーWiki

 たしかに、「著名な卒業生」の項目に、西竹一とともに「金光瑞(ロサンゼルス五輪馬術代表)」とあります。

 代表って、もちろん日本代表です。この時代の朝鮮半島は、日本の領土ですから。
 この4年後のベルリンオリンピックにおいては、朝鮮半島出身の孫基禎、南昇竜の二人が、やはり日本代表としてマラソンで出場し、金、銅のメダルを獲得しています。
 
 えーと、ですね。別に抗日気分を持っていたからといって、オリンピックに日本代表として出ない、ということはないでしょう。現に、金メダルをとった孫基禎(新義州の出身です)は、「外国人へのサインにはKOREAと書いた」というエピソードを残し、「表彰台で涙を流したのは君が代が自分の国歌であることを嘆いてだった」ともいわれています。

 しかし金光瑞は、抗日武力闘争の首領だった、はずなんですね。
 それを日本帝国陸軍が、オリンピックの日本代表として認めるものなんでしょうか。といいますのも、バロン西がそうだったように、日本の馬術競技の中心は陸軍の騎兵科であり、この当時のオリンピック馬術競技出場者は、すべてその関係者なのです。

 Wikiが名前をまちがえているのか、あるいは、ロサンジェルスオリンピックに出場した金光瑞は、金日成のモデルだった金光瑞とは別人なのか、といったところも十分に考えられるのですが、もしもこれが同一人物だったとしたら……、と想像してみました。
 
 実は、救国の英雄「金日成将軍」のモデルだった金光瑞については、詳しいことがわかっていません。前回にご紹介しました「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」が出てまいりましたので、これを主に、そして下の本が、わずかながら資料を転載してくれていますので、両書から、確実そうなことのみを、書いてみたいと思います。

洪思翊中将の処刑〈上〉 (ちくま文庫)
山本 七平
筑摩書房

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 「金日成将軍」のモデルだった金光瑞は、咸鏡南道北青郡(北朝鮮、日本海に面した咸興市から北へ165キロほどのところ)で、明治20年(1887年)に生まれました。日本では鹿鳴館華やかなりしころで、イギリスではヴィクトリア女王在位50周年式典が行われた年、です。有名どころでは蒋介石と同い年、日本の軍人では、阿南惟幾や南雲忠一と同年です。
 ロサンジェルスオリンピック馬術で金メダルをとり、硫黄島で戦死しましたバロン西は明治35年(1902年)の生まれですから、出場当時30歳。この年、金光瑞は45歳で西とは15も年がちがい、ロスの金光瑞はやはり同姓同名の別人か、という気もするのですが、馬術は年がいっていても可能な感じもしますし、どうなんでしょうか。

 明治42年(1909年)、22歳にして日本の陸軍士官学校23期に入学するまで、金光瑞がなにをしていたのかは、実のところ、さっぱりわかっていません。
 常識的に考えれば、大韓帝国軍の将校になっていて、この2年前、第三次日韓協約によって軍が解散したにともない、皇帝を護衛する近衛兵になっていたのではないか、というところでしょうか。
 陸士が大韓帝国から留学生を受け入れたについては、詳しいことを知らないのですが、金光瑞以前には、明治32年(1899年)卒業の第11期に21人、明治36年(1903年)卒業の15期に8人、まとまった人数で2回受け入れ記録がありまして、これはおそらく、なんですが、大韓帝国軍近代化のための国費留学だった、と思われます。

 うーん。大韓帝国軍について、さっぱり知識がないものですから、すべて憶測になるのですが、ともかく、です。 日清戦争の後、高宗が皇帝となり、国号を大韓帝国としましたのが明治30年(1897年)ですから、同時に陸士に留学生を送り出し、さらに4年後に8人を送り出しましたところが、日露戦争後の第二次日韓協約によって、大韓帝国は日本の保護国となり、外交権を失います。これによってハーグ密使事件が起こるわけですから、高宗周辺の日本への不満は大きかったでしょうし、まして、大韓帝国軍の指導者たちは、そうだったのではないでしょうか。以降、陸士への留学はしばらくとだえます。

 で、明治40年(1907年)、第三次日韓協約により、少人数の近衛兵を残し、大韓帝国軍は解散させられてしまうのです。当然、軍は不満を持ちますよね。解散に応じなかった軍人たちが地方に散り、丁未義兵闘争をまき起こします。
 日本側の対応は、当初は、それほどこれを重視したものではなかったのですが、明治42年(1909年)に、初代韓国統監であった伊藤博文が安重根に暗殺されたことで、徹底的な掃討作戦が行われ、ほぼ鎮圧されるのです。
 金光瑞が陸士に留学しましたのはこの年でして、単身の留学ですし、私費です。叔父が11期か15期に留学していまして、留学費用を出してくれた、といわれているようです。
 そして、この翌年、つまり明治43年(1910年)ですが、日韓併合が行われ、大韓帝国は消滅します。

 金光瑞の陸士留学から3年後、つまり併合後なんですが、陸士26期、そして翌年27期には、また久しぶりに半島からの多数の陸士留学が復活します。彼らは、大韓帝国軍解体にともない廃止された陸軍武官学校の生徒だったようです。選ばれて、まずは陸軍幼年学校に留学し、続いて陸士進学、となったようなのです。
 この26期の中に、帝国陸軍で陸軍中将にまでなり、フィリピンで戦犯として処刑されてしまった洪思翊もいるのですが、ともかく、金光瑞の単身留学は異例です。
 あるいは、すでに明治40年、李垠殿下が来日していましたし、陸軍幼年学校から士官学校へ進まれる予定だったわけですから、おそばにせめて一人でも韓国側の士官を、というような配慮と、陸軍幼年学校留学組の監督者もいるだろう、ということで、金光瑞が23期に一人留学したもの、とも考えられるのではないのではないでしょうか。
 さらには、もしかしまして金光瑞は、李垠殿下のお供のようなかたちで、士官学校入学以前に来日していた、可能性もありそうな気がします。
 
 金光瑞は陸士卒業後、日本帝国陸軍の将校となり、おそらくは、陸軍騎兵学校に進んだものと思われます。
 当時、半島出身の陸士卒業者、23期の金光瑞と、26期13名、27期20名は、全誼会という親睦団体を作っていまして、自分たちのアルバムを残しています。その写真にそえられた金光瑞の経歴が、「陸軍中尉 騎兵第一連隊所属」です。

 明治天皇が崩御され、大正となって、大正3年(1914年)、第1次世界大戦が勃発します。
 4年間も続いた大戦は、いうまでもなく、大きく世界を変えました。
 戦いの過程においてロシア帝国に共産主義革命が起こり、大戦の結果、ハプスブルグ帝国とオスマントルコ帝国が解体し、民族主義の高まりから、欧州、中東ではいくつもの新興民族国家が生まれようとしていました。
 その嵐は、極東にまで伝わった、というべきでしょう。

 大戦が収束したその翌年、大正8年(1919年)の1月21日、京城(ソウル)において、大韓帝国初代皇帝高宗が崩じます。独立を守ろうと苦慮を重ねた皇帝の死は、半島の人々の民族意識に火をつけ、2月8日、半島からの日本留学生11人が、東京神田のYMCA会館において、独立宣言を発します。それが呼び水となり、3月1日には、ソウルでも独立宣言が読み上げられたのです。
 三・一独立運動のはじまりでした。

 洪思翊は生涯、高宗が発した大韓帝国の軍人勅諭を身につけていたといわれます。そもそもはといえば、大韓帝国軍のエリートとなるはずだった陸士留学生たちが、この独立騒動に無関心でいられるはずがありません。

 と、ここまで書きまして、ややっこしい話なのですが、朝鮮の独立運動は、半島内部よりも主に南満州を舞台にしていまして、なぜか、ということを調べていきますと、清朝から中華民国へ、ロシアからソ連へ、という二大帝国の激動にも触れる必要があります。
 ちょっといま、こちゃごちゃと調べたことをまとめる時間がありませんで、次回に続きます。

 それまでに、です。もしも、1932年のロサンジェルスオリンピック馬術競技に、日本代表として出場した金光瑞について、詳しいことをご存じの方がおられましたら、ご教授のほどをお願いします。


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