ID:2hao61
大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1の続きです。
wikiの上野の西郷像の記述は、大方、上の「岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで」を参考に書かれたようです。
この本、全体的な論調には小首をかしげるようなことが多いのですが、事実関係はよくまとめられています。以下、引用です。
この「西鄕星」(西南戦争直後に売り出された錦絵「一枚の絵は空にかかる火星を示し、その中心に西鄕将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している……E.S.モース」)は、文字通り西鄕が一般民衆のスターであったことを裏づけている。かれを描いた錦絵が流行したのみならず、戦後舞台のうえでも、実川延若や市川団十郎が西鄕を演じて大当たりをとった。西南戦争が終わって14年を経た1891(明治24)年にいたってもなお、来日するロシア皇太子一行とともに西鄕がもどってくるという風聞さえたった。
で、著者は、反徒の陸軍大将に人気が集まるのは政府にとって好ましいことではなく、上野の像は大将服を脱がされ、「西鄕は武人としての牙をぬかれ、犬をつれて歩く人畜無害な人物として、以降民衆のイメージのなかに定着していった」 というのですが。
果たして、ほんとうにそうだったのでしょうか。
政府が否定したかったことは、西郷は陸軍大将として薩摩軍を率いたのであり、反徒ではなかったという事実、つまりは、西南戦争の正当性、です。
例え、像が大将服を脱がされてしまいましたところで、当時の日本国民にとっての西郷隆盛は、反徒ではありませんでしたし、ある意味、大山巌が意図しましたガリバルディ像のように、普段着姿の沈黙でもって、政府に対峙していたのではないでしょうか。
したがいまして私は、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編において述べたように、「結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえた」のだと思うんですね。
大将姿の西郷隆盛の錦絵を、数多く描き残しました月岡芳年は、明治21年2月付け、やまと新聞付録で、上の着物姿の西郷を描いています。
大赦で追贈される1年前のことですから、このときまだ西鄕は朝敵です。文章を書いたのはだれだか知らないんですが、維新の元勲にして反賊の首相としながら、「陸軍大将の服を着て官兵と矛先を接ふ」と認めているんですね。
「隆盛は猟が好きで、軍中にあっても犬を連れて山野をかけめぐった。それを絵にしたものである」 とあり、しかもこの顔、すこぶる本物の西郷隆盛に似ていたといわれます。あるいは、政府側の薩摩人、それこそ大山巌でもの意向がはたらいたのかな、と思えます。
上野の銅像は、どうも、この芳年の絵をもとにしたか、と思えるのですが、羽織を着てませんし、お行儀の悪い感じで、糸さんが嘆いたのも無理はありません。
明治、西郷の後、民衆の大人気を得た大将と言えば、それはもちろん山縣有朋ではなく、陸軍大将・乃木希典、海軍大将・東郷平八郎の二人で、日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていた(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6参照)わけなのですが、さまざまな事情で政府に留まりながら、しかし、とりわけ乃木希典は、政府への批判のまなざしを持ち続けました。
『花燃ゆ』とNHKを考えるは、「花燃ゆ」の放送がはじまる直前に書いたものです。以下再録です。
源平の時代が一番わかりやすいのですが、平家物語や源平盛衰記の古典物語があって、それが能になったり、浄瑠璃、歌舞伎になったり、明治以降、いえ、戦後も昭和までは、舞台になったり小説になったりしてきたわけでして、そういうものの積み重ねの上に大河ドラマはあったんだと思うんですね。戦国には太閤記がありますし、忠臣蔵には、元に歌舞伎があります。〜中略〜大河において、これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく、しかも戦前、戦後であまりにも大きく明治維新の評価が変わった、ということがあったと思います。
上の「これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく」という部分には、訂正の必要があると、いま思います。
西郷隆盛と西南戦争は、多くの錦絵になり、歌舞伎にも新国劇にもなりました。日本の近代史における、最大の伝説だったんです。
その最後をも含めて、西郷隆盛を評価したのは、決して守旧派ではありません。
福澤諭吉であり、中江兆民であり、内村鑑三であり、西洋的近代化を受け入れながら、なお、現実の明治政府のありように批判の視線を持ち続けた人々です。
ただ、戦後生まれの私が、そのことに思い至れないでいたのは、西郷と西南戦争に対する価値観が一変してしまっていたから、だと思います。
珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想と
珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道で書いたのですが、宣教師の息子として日本で育ったカナダ人、ハーバート・ノーマンが、ケンブリッジで共産主義思想にかぶれまして、戦前に書いた「日本の兵士と農民」こそが、この価値観の転変に、非常に大きな役割を果たしました。
なにしろ、ハーバート・ノーマンは、敗戦日本に君臨しました占領軍の有力ブレーンとなり、戦後の日本の歴史教育におきましても、多大な影響力を発揮することとなりました。
武士道を忌み嫌い、西郷を守旧派の親玉としか見ていなかったノーマンの影響力は、戦後の日本の歴史学会が、唯物史観一色に染まったことにより、いまなお、根強く残り続けています。
といいますか、歴史学者がなにを言ったところで、戦前を肌で知る人々が健在だったころには、錦絵や歌舞伎、新国劇、童謡で親しんだ、西郷と西南戦争へのリスペクトは、生きていたのだと思うんですね。
むしろ問題は、戦後教育を受け、「日本の兵士と農民」というハーバート・ノーマンの奇妙なマルクス主義物語しか知らない世代が主流となりましたことで、よけいに大きくなってしまったように見受けられます。
歴史絵を好んで題材にしました月岡芳年は、西南戦争と西郷隆盛も多く描いているわけなのですが、ひとつ、ぎょっとするような絵があります。
明治11年7月、つまり、大久保が暗殺されて2ヶ月後の絵です。
明治8年、政府は、讒謗律と新聞取締法によりまして、反政府記事に体罰で応じるなど、はなはだしい言論弾圧を行い、西南戦争中、戦後もずっと、それを続けました。
もちろんこの当時、西郷軍を賞賛しただけで牢屋行き、だったんですけれども、錦絵で美しく描くぶんには、政府も取り締まりようがありません。
そして、美しく描いた錦絵の方が、庶民の人気だったわけですから、芳年の描く西郷も、英雄らしく、美しいものでした。
ところがこの絵は、冥界にいる、幽鬼のような西郷が、建白書を差し出しています。
「西郷隆盛霊幽冥奉書」を囲む鎖は「甲」の字に見えまして、これは大久保甲東の甲ではないのか、ともいわれます。
つまり、大久保により冥界に閉じ込められてしまいました西郷隆盛が、大久保に差し出した建白書こそが暗殺であった、といいます、痛烈な明治政府への批判の絵であったと見られるんです。
西南戦争直後の西郷星の錦絵です。火星の大接近で、夜空に赤く耀く星を見て、当時の民衆は、星の輝きの中に「陸軍大将の正装を西郷隆盛の姿が見えた」と、大騒ぎしたんですね。もちろんここにも言論弾圧を重ねる、政府への非難のまなざしは、十二分に感じとれます。
これはドラマでも使われたのですが、「お父さまは、こんなふうに人々にあがめられて喜ぶような人ではなかった」とかなんとか、糸夫人に語らせてなかったですか?
ものすごい矮小化なんですよね。
西郷その人は冥界にいるわけですから、西郷星騒動をどう見たかなぞ、だれにもわかりませんし、どうでもいいことなんです。
人々が騒いで、明治の伝説ができあがったわけでして、それはそのまま、日本人が大切にしてきたなにものかが、西郷軍と共に消えてしまった、という人々の哀惜の念でもあったわけです。
夫人のものとした、馬鹿馬鹿しい、ただただ個人的な感想で、伝説へのリスペクトを踏みにじった演出でした。
そうなんです。今回のドラマには、伝説と当時の日本人全体へのリスペクトが、微塵も感じられませんでした。
見るのもいやになりました最大の理由は、それだったと思います。
西鄕の最期も、語り残されたことをすべて無視して、リスペクトも哀惜もゼロ、ですませていませんでしたか?
これも古い記事なのですが、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌をごらんになってみてください。
陸自のフランス・パリの行進に、抜刀隊 陸軍分列行進曲を入れてみました。
上は、去年のフランス革命記念日軍事パレードに、日仏交流160周年を記念して、自衛隊が招かれたときの映像です。
陸軍分列行進曲は、制作者がかぶせただけで、実際に演奏されたわけではないんですが、作曲者がフランス人のシャルル・ルルーですし、演奏されていれば素敵だったんですが。
シャルル・ルルーを雇ったのは大山巌で、作詞者はもと幕臣の外山正一。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
これに從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
江藤淳氏の「南州残影」によれば、「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かしがたい事実である。『抜刀隊』は転調が多く、いかにも歌いにくい歌かも知れない。しかし、それはなによりもまず、『古今無双の英雄』と『これに従ふつはもの』を称える歌にほかならない」 ということでして、確かに、これほどに敵を褒め称えた軍歌は、類を見ないでしょう。
そして、最後はまた、この手まり歌でしめさせていただきたいと思います。
一かけ二かけて / 初音ミク
大河「翔ぶが如く」には、当時、いろいろと言いたいこともあったのですが、今にして思えば、この歌を最後に聞かせてくれただけでも価値がありました。
今は亡き父と、すっかり年老いてしまいました母が、テレビを見ながら声をそろえて歌ったことを、忘れることができません。
幼い頃、祖父に買ってもらいました絵本の『孝女白菊』とともに、いかに西郷伝説が、日本人の心をゆさぶり続けてきたのか、教えてくれた瞬間でした。
一掛け二掛けで三掛けて
四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って
もしもし姉さんどこ行くの
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の
お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン
はるばる北海道から、祖先だと信じて桐野利秋のお墓参りに来られた桐野利春氏のご子孫の四姉妹も、かならずや、この歌を歌っておられたのではないでしょうか。
次回から稿を改めまして、桐野利秋について書くつもりですが、これにつきましては、もう少し詳しく、史実とのつきあわせもしてみたいと思っています。
大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1の続きです。
岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで | |
丹尾 安典,河田 明久 | |
岩波書店 |
wikiの上野の西郷像の記述は、大方、上の「岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで」を参考に書かれたようです。
この本、全体的な論調には小首をかしげるようなことが多いのですが、事実関係はよくまとめられています。以下、引用です。
この「西鄕星」(西南戦争直後に売り出された錦絵「一枚の絵は空にかかる火星を示し、その中心に西鄕将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している……E.S.モース」)は、文字通り西鄕が一般民衆のスターであったことを裏づけている。かれを描いた錦絵が流行したのみならず、戦後舞台のうえでも、実川延若や市川団十郎が西鄕を演じて大当たりをとった。西南戦争が終わって14年を経た1891(明治24)年にいたってもなお、来日するロシア皇太子一行とともに西鄕がもどってくるという風聞さえたった。
で、著者は、反徒の陸軍大将に人気が集まるのは政府にとって好ましいことではなく、上野の像は大将服を脱がされ、「西鄕は武人としての牙をぬかれ、犬をつれて歩く人畜無害な人物として、以降民衆のイメージのなかに定着していった」 というのですが。
果たして、ほんとうにそうだったのでしょうか。
政府が否定したかったことは、西郷は陸軍大将として薩摩軍を率いたのであり、反徒ではなかったという事実、つまりは、西南戦争の正当性、です。
例え、像が大将服を脱がされてしまいましたところで、当時の日本国民にとっての西郷隆盛は、反徒ではありませんでしたし、ある意味、大山巌が意図しましたガリバルディ像のように、普段着姿の沈黙でもって、政府に対峙していたのではないでしょうか。
したがいまして私は、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編において述べたように、「結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえた」のだと思うんですね。
大将姿の西郷隆盛の錦絵を、数多く描き残しました月岡芳年は、明治21年2月付け、やまと新聞付録で、上の着物姿の西郷を描いています。
大赦で追贈される1年前のことですから、このときまだ西鄕は朝敵です。文章を書いたのはだれだか知らないんですが、維新の元勲にして反賊の首相としながら、「陸軍大将の服を着て官兵と矛先を接ふ」と認めているんですね。
「隆盛は猟が好きで、軍中にあっても犬を連れて山野をかけめぐった。それを絵にしたものである」 とあり、しかもこの顔、すこぶる本物の西郷隆盛に似ていたといわれます。あるいは、政府側の薩摩人、それこそ大山巌でもの意向がはたらいたのかな、と思えます。
上野の銅像は、どうも、この芳年の絵をもとにしたか、と思えるのですが、羽織を着てませんし、お行儀の悪い感じで、糸さんが嘆いたのも無理はありません。
明治、西郷の後、民衆の大人気を得た大将と言えば、それはもちろん山縣有朋ではなく、陸軍大将・乃木希典、海軍大将・東郷平八郎の二人で、日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていた(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6参照)わけなのですが、さまざまな事情で政府に留まりながら、しかし、とりわけ乃木希典は、政府への批判のまなざしを持ち続けました。
『花燃ゆ』とNHKを考えるは、「花燃ゆ」の放送がはじまる直前に書いたものです。以下再録です。
源平の時代が一番わかりやすいのですが、平家物語や源平盛衰記の古典物語があって、それが能になったり、浄瑠璃、歌舞伎になったり、明治以降、いえ、戦後も昭和までは、舞台になったり小説になったりしてきたわけでして、そういうものの積み重ねの上に大河ドラマはあったんだと思うんですね。戦国には太閤記がありますし、忠臣蔵には、元に歌舞伎があります。〜中略〜大河において、これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく、しかも戦前、戦後であまりにも大きく明治維新の評価が変わった、ということがあったと思います。
上の「これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく」という部分には、訂正の必要があると、いま思います。
西郷隆盛と西南戦争は、多くの錦絵になり、歌舞伎にも新国劇にもなりました。日本の近代史における、最大の伝説だったんです。
その最後をも含めて、西郷隆盛を評価したのは、決して守旧派ではありません。
福澤諭吉であり、中江兆民であり、内村鑑三であり、西洋的近代化を受け入れながら、なお、現実の明治政府のありように批判の視線を持ち続けた人々です。
ただ、戦後生まれの私が、そのことに思い至れないでいたのは、西郷と西南戦争に対する価値観が一変してしまっていたから、だと思います。
珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想と
珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道で書いたのですが、宣教師の息子として日本で育ったカナダ人、ハーバート・ノーマンが、ケンブリッジで共産主義思想にかぶれまして、戦前に書いた「日本の兵士と農民」こそが、この価値観の転変に、非常に大きな役割を果たしました。
なにしろ、ハーバート・ノーマンは、敗戦日本に君臨しました占領軍の有力ブレーンとなり、戦後の日本の歴史教育におきましても、多大な影響力を発揮することとなりました。
武士道を忌み嫌い、西郷を守旧派の親玉としか見ていなかったノーマンの影響力は、戦後の日本の歴史学会が、唯物史観一色に染まったことにより、いまなお、根強く残り続けています。
といいますか、歴史学者がなにを言ったところで、戦前を肌で知る人々が健在だったころには、錦絵や歌舞伎、新国劇、童謡で親しんだ、西郷と西南戦争へのリスペクトは、生きていたのだと思うんですね。
むしろ問題は、戦後教育を受け、「日本の兵士と農民」というハーバート・ノーマンの奇妙なマルクス主義物語しか知らない世代が主流となりましたことで、よけいに大きくなってしまったように見受けられます。
歴史絵を好んで題材にしました月岡芳年は、西南戦争と西郷隆盛も多く描いているわけなのですが、ひとつ、ぎょっとするような絵があります。
明治11年7月、つまり、大久保が暗殺されて2ヶ月後の絵です。
明治8年、政府は、讒謗律と新聞取締法によりまして、反政府記事に体罰で応じるなど、はなはだしい言論弾圧を行い、西南戦争中、戦後もずっと、それを続けました。
もちろんこの当時、西郷軍を賞賛しただけで牢屋行き、だったんですけれども、錦絵で美しく描くぶんには、政府も取り締まりようがありません。
そして、美しく描いた錦絵の方が、庶民の人気だったわけですから、芳年の描く西郷も、英雄らしく、美しいものでした。
ところがこの絵は、冥界にいる、幽鬼のような西郷が、建白書を差し出しています。
「西郷隆盛霊幽冥奉書」を囲む鎖は「甲」の字に見えまして、これは大久保甲東の甲ではないのか、ともいわれます。
つまり、大久保により冥界に閉じ込められてしまいました西郷隆盛が、大久保に差し出した建白書こそが暗殺であった、といいます、痛烈な明治政府への批判の絵であったと見られるんです。
西南戦争直後の西郷星の錦絵です。火星の大接近で、夜空に赤く耀く星を見て、当時の民衆は、星の輝きの中に「陸軍大将の正装を西郷隆盛の姿が見えた」と、大騒ぎしたんですね。もちろんここにも言論弾圧を重ねる、政府への非難のまなざしは、十二分に感じとれます。
これはドラマでも使われたのですが、「お父さまは、こんなふうに人々にあがめられて喜ぶような人ではなかった」とかなんとか、糸夫人に語らせてなかったですか?
ものすごい矮小化なんですよね。
西郷その人は冥界にいるわけですから、西郷星騒動をどう見たかなぞ、だれにもわかりませんし、どうでもいいことなんです。
人々が騒いで、明治の伝説ができあがったわけでして、それはそのまま、日本人が大切にしてきたなにものかが、西郷軍と共に消えてしまった、という人々の哀惜の念でもあったわけです。
夫人のものとした、馬鹿馬鹿しい、ただただ個人的な感想で、伝説へのリスペクトを踏みにじった演出でした。
そうなんです。今回のドラマには、伝説と当時の日本人全体へのリスペクトが、微塵も感じられませんでした。
見るのもいやになりました最大の理由は、それだったと思います。
西鄕の最期も、語り残されたことをすべて無視して、リスペクトも哀惜もゼロ、ですませていませんでしたか?
これも古い記事なのですが、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌をごらんになってみてください。
陸自のフランス・パリの行進に、抜刀隊 陸軍分列行進曲を入れてみました。
上は、去年のフランス革命記念日軍事パレードに、日仏交流160周年を記念して、自衛隊が招かれたときの映像です。
陸軍分列行進曲は、制作者がかぶせただけで、実際に演奏されたわけではないんですが、作曲者がフランス人のシャルル・ルルーですし、演奏されていれば素敵だったんですが。
シャルル・ルルーを雇ったのは大山巌で、作詞者はもと幕臣の外山正一。
我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
これに從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
南洲残影 (文春文庫) | |
江藤 淳 | |
文藝春秋 |
江藤淳氏の「南州残影」によれば、「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かしがたい事実である。『抜刀隊』は転調が多く、いかにも歌いにくい歌かも知れない。しかし、それはなによりもまず、『古今無双の英雄』と『これに従ふつはもの』を称える歌にほかならない」 ということでして、確かに、これほどに敵を褒め称えた軍歌は、類を見ないでしょう。
そして、最後はまた、この手まり歌でしめさせていただきたいと思います。
一かけ二かけて / 初音ミク
大河「翔ぶが如く」には、当時、いろいろと言いたいこともあったのですが、今にして思えば、この歌を最後に聞かせてくれただけでも価値がありました。
今は亡き父と、すっかり年老いてしまいました母が、テレビを見ながら声をそろえて歌ったことを、忘れることができません。
幼い頃、祖父に買ってもらいました絵本の『孝女白菊』とともに、いかに西郷伝説が、日本人の心をゆさぶり続けてきたのか、教えてくれた瞬間でした。
一掛け二掛けで三掛けて
四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って
もしもし姉さんどこ行くの
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の
お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン
はるばる北海道から、祖先だと信じて桐野利秋のお墓参りに来られた桐野利春氏のご子孫の四姉妹も、かならずや、この歌を歌っておられたのではないでしょうか。
次回から稿を改めまして、桐野利秋について書くつもりですが、これにつきましては、もう少し詳しく、史実とのつきあわせもしてみたいと思っています。