郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.2

2019年01月05日 | NHK大河「西郷どん」
ID:2hao61

大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1の続きです。

岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで
丹尾 安典,河田 明久
岩波書店


 wikiの上野の西郷像の記述は、大方、上の「岩波近代日本の美術〈1〉イメージのなかの戦争―日清・日露から冷戦まで」を参考に書かれたようです。
 この本、全体的な論調には小首をかしげるようなことが多いのですが、事実関係はよくまとめられています。以下、引用です。

  この「西鄕星」(西南戦争直後に売り出された錦絵「一枚の絵は空にかかる火星を示し、その中心に西鄕将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している……E.S.モース」)は、文字通り西鄕が一般民衆のスターであったことを裏づけている。かれを描いた錦絵が流行したのみならず、戦後舞台のうえでも、実川延若や市川団十郎が西鄕を演じて大当たりをとった。西南戦争が終わって14年を経た1891(明治24)年にいたってもなお、来日するロシア皇太子一行とともに西鄕がもどってくるという風聞さえたった。 

 で、著者は、反徒の陸軍大将に人気が集まるのは政府にとって好ましいことではなく、上野の像は大将服を脱がされ、「西鄕は武人としての牙をぬかれ、犬をつれて歩く人畜無害な人物として、以降民衆のイメージのなかに定着していった」 というのですが。

 果たして、ほんとうにそうだったのでしょうか。
 政府が否定したかったことは、西郷は陸軍大将として薩摩軍を率いたのであり、反徒ではなかったという事実、つまりは、西南戦争の正当性、です。
 例え、像が大将服を脱がされてしまいましたところで、当時の日本国民にとっての西郷隆盛は、反徒ではありませんでしたし、ある意味、大山巌が意図しましたガリバルディ像のように、普段着姿の沈黙でもって、政府に対峙していたのではないでしょうか。
 したがいまして私は、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編において述べたように、「結局、西郷隆盛は、陸軍大将の軍服によってではなく、質素な着物を愛用していたという伝説によって、十分に権威たりえた」のだと思うんですね。

 

 大将姿の西郷隆盛の錦絵を、数多く描き残しました月岡芳年は、明治21年2月付け、やまと新聞付録で、上の着物姿の西郷を描いています。
 大赦で追贈される1年前のことですから、このときまだ西鄕は朝敵です。文章を書いたのはだれだか知らないんですが、維新の元勲にして反賊の首相としながら、「陸軍大将の服を着て官兵と矛先を接ふ」と認めているんですね。
 「隆盛は猟が好きで、軍中にあっても犬を連れて山野をかけめぐった。それを絵にしたものである」 とあり、しかもこの顔、すこぶる本物の西郷隆盛に似ていたといわれます。あるいは、政府側の薩摩人、それこそ大山巌でもの意向がはたらいたのかな、と思えます。

 上野の銅像は、どうも、この芳年の絵をもとにしたか、と思えるのですが、羽織を着てませんし、お行儀の悪い感じで、糸さんが嘆いたのも無理はありません。
 
 明治、西郷の後、民衆の大人気を得た大将と言えば、それはもちろん山縣有朋ではなく、陸軍大将・乃木希典、海軍大将・東郷平八郎の二人で、日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていた明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6参照)わけなのですが、さまざまな事情で政府に留まりながら、しかし、とりわけ乃木希典は、政府への批判のまなざしを持ち続けました。

 『花燃ゆ』とNHKを考えるは、「花燃ゆ」の放送がはじまる直前に書いたものです。以下再録です。

 源平の時代が一番わかりやすいのですが、平家物語や源平盛衰記の古典物語があって、それが能になったり、浄瑠璃、歌舞伎になったり、明治以降、いえ、戦後も昭和までは、舞台になったり小説になったりしてきたわけでして、そういうものの積み重ねの上に大河ドラマはあったんだと思うんですね。戦国には太閤記がありますし、忠臣蔵には、元に歌舞伎があります。〜中略〜大河において、これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく、しかも戦前、戦後であまりにも大きく明治維新の評価が変わった、ということがあったと思います。 

 上の「これまで幕末ものの視聴率が上がらなかったのは、古典というほどのものがなく」という部分には、訂正の必要があると、いま思います。

 西郷隆盛と西南戦争は、多くの錦絵になり、歌舞伎にも新国劇にもなりました。日本の近代史における、最大の伝説だったんです。
 その最後をも含めて、西郷隆盛を評価したのは、決して守旧派ではありません。
 福澤諭吉であり、中江兆民であり、内村鑑三であり、西洋的近代化を受け入れながら、なお、現実の明治政府のありように批判の視線を持ち続けた人々です。
 
 ただ、戦後生まれの私が、そのことに思い至れないでいたのは、西郷と西南戦争に対する価値観が一変してしまっていたから、だと思います。

 珍大河『花燃ゆ38』と史実◆高杉晋作と奇兵隊幻想
珍大河『花燃ゆ39』と史実◆ハーバート・ノーマンと武士道で書いたのですが、宣教師の息子として日本で育ったカナダ人、ハーバート・ノーマンが、ケンブリッジで共産主義思想にかぶれまして、戦前に書いた「日本の兵士と農民」こそが、この価値観の転変に、非常に大きな役割を果たしました。
 なにしろ、ハーバート・ノーマンは、敗戦日本に君臨しました占領軍の有力ブレーンとなり、戦後の日本の歴史教育におきましても、多大な影響力を発揮することとなりました。
 武士道を忌み嫌い、西郷を守旧派の親玉としか見ていなかったノーマンの影響力は、戦後の日本の歴史学会が、唯物史観一色に染まったことにより、いまなお、根強く残り続けています。

 といいますか、歴史学者がなにを言ったところで、戦前を肌で知る人々が健在だったころには、錦絵や歌舞伎、新国劇、童謡で親しんだ、西郷と西南戦争へのリスペクトは、生きていたのだと思うんですね。
 むしろ問題は、戦後教育を受け、「日本の兵士と農民」というハーバート・ノーマンの奇妙なマルクス主義物語しか知らない世代が主流となりましたことで、よけいに大きくなってしまったように見受けられます。

 歴史絵を好んで題材にしました月岡芳年は、西南戦争と西郷隆盛も多く描いているわけなのですが、ひとつ、ぎょっとするような絵があります。



 明治11年7月、つまり、大久保が暗殺されて2ヶ月後の絵です。

 明治8年、政府は、讒謗律と新聞取締法によりまして、反政府記事に体罰で応じるなど、はなはだしい言論弾圧を行い、西南戦争中、戦後もずっと、それを続けました。
 もちろんこの当時、西郷軍を賞賛しただけで牢屋行き、だったんですけれども、錦絵で美しく描くぶんには、政府も取り締まりようがありません。
 そして、美しく描いた錦絵の方が、庶民の人気だったわけですから、芳年の描く西郷も、英雄らしく、美しいものでした。
 ところがこの絵は、冥界にいる、幽鬼のような西郷が、建白書を差し出しています。
 「西郷隆盛霊幽冥奉書」を囲む鎖は「甲」の字に見えまして、これは大久保甲東の甲ではないのか、ともいわれます。
 つまり、大久保により冥界に閉じ込められてしまいました西郷隆盛が、大久保に差し出した建白書こそが暗殺であった、といいます、痛烈な明治政府への批判の絵であったと見られるんです。

 

 西南戦争直後の西郷星の錦絵です。火星の大接近で、夜空に赤く耀く星を見て、当時の民衆は、星の輝きの中に「陸軍大将の正装を西郷隆盛の姿が見えた」と、大騒ぎしたんですね。もちろんここにも言論弾圧を重ねる、政府への非難のまなざしは、十二分に感じとれます。
 これはドラマでも使われたのですが、「お父さまは、こんなふうに人々にあがめられて喜ぶような人ではなかった」とかなんとか、糸夫人に語らせてなかったですか?
 ものすごい矮小化なんですよね。

 西郷その人は冥界にいるわけですから、西郷星騒動をどう見たかなぞ、だれにもわかりませんし、どうでもいいことなんです。
 人々が騒いで、明治の伝説ができあがったわけでして、それはそのまま、日本人が大切にしてきたなにものかが、西郷軍と共に消えてしまった、という人々の哀惜の念でもあったわけです。
 夫人のものとした、馬鹿馬鹿しい、ただただ個人的な感想で、伝説へのリスペクトを踏みにじった演出でした。
 そうなんです。今回のドラマには、伝説と当時の日本人全体へのリスペクトが、微塵も感じられませんでした。
 見るのもいやになりました最大の理由は、それだったと思います。
 西鄕の最期も、語り残されたことをすべて無視して、リスペクトも哀惜もゼロ、ですませていませんでしたか?


 これも古い記事なのですが、陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌をごらんになってみてください。

陸自のフランス・パリの行進に、抜刀隊 陸軍分列行進曲を入れてみました。


 上は、去年のフランス革命記念日軍事パレードに、日仏交流160周年を記念して、自衛隊が招かれたときの映像です。
 陸軍分列行進曲は、制作者がかぶせただけで、実際に演奏されたわけではないんですが、作曲者がフランス人のシャルル・ルルーですし、演奏されていれば素敵だったんですが。
 シャルル・ルルーを雇ったのは大山巌で、作詞者はもと幕臣の外山正一。
 
  我は官軍我敵は 天地容れざる朝敵ぞ
  敵の大將たる者は 古今無雙の英雄で
 これに從ふ兵(つはもの)は 共に慓悍决死の士
 

 
南洲残影 (文春文庫)
江藤 淳
文藝春秋


 江藤淳氏の「南州残影」によれば、「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かしがたい事実である。『抜刀隊』は転調が多く、いかにも歌いにくい歌かも知れない。しかし、それはなによりもまず、『古今無双の英雄』と『これに従ふつはもの』を称える歌にほかならない」 ということでして、確かに、これほどに敵を褒め称えた軍歌は、類を見ないでしょう。

 そして、最後はまた、この手まり歌でしめさせていただきたいと思います。

 一かけ二かけて / 初音ミク


 大河「翔ぶが如く」には、当時、いろいろと言いたいこともあったのですが、今にして思えば、この歌を最後に聞かせてくれただけでも価値がありました。
 今は亡き父と、すっかり年老いてしまいました母が、テレビを見ながら声をそろえて歌ったことを、忘れることができません。
 幼い頃、祖父に買ってもらいました絵本の『孝女白菊』とともに、いかに西郷伝説が、日本人の心をゆさぶり続けてきたのか、教えてくれた瞬間でした。

一掛け二掛けで三掛けて 
四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って 
もしもし姉さんどこ行くの 
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の 
お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン


はるばる北海道から、祖先だと信じて桐野利秋のお墓参りに来られた桐野利春氏のご子孫の四姉妹も、かならずや、この歌を歌っておられたのではないでしょうか。

 次回から稿を改めまして、桐野利秋について書くつもりですが、これにつきましては、もう少し詳しく、史実とのつきあわせもしてみたいと思っています。
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大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.1

2019年01月02日 | NHK大河「西郷どん」

 あけましておめでとうございます。
 旧年中に書くつもりでいたのですが、遅れに遅れ、年が明けてしまいました。
 遅くなりましたが、大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編の続きです。

 バイクでこけて腕を折り、手術入院、退院リハビリと、いろいろありまして、なにも書けないでいるうちに、大河『西郷どん』は終わりました。
 そもそも、かなり見る気が失せていたのですが、えーと、突然、レオン・ロッシュが登場し、「幕府に戦力を貸すから、薩摩をくれ」 と、もう、どう転んでも絶対にありえなかったことを叫び、しかもそれが、幕末も押し詰まった慶応年間の焦点となり、あげくの果てに、鳥羽伏見の戦いから逃亡した将軍・徳川慶喜は、「国を売るように勧めるレオン・ロッシュが怖くて逃げたんだ!!!」なんぞと、大嘘をぬかす始末。
 「いくらシナリオライターが歴史に無知だからって‥‥‥、そりゃないわ!!!」と、のけぞり、脱力、お口ぽかーん。

 もともと、まともには見ていませんで、食事の支度をしながらBSで、とか、ゲームをしながら地上波で、とか、だったんですが、維新から明治6年政変、西南戦争へと話が進むにつれ、俳優さんの顔を見ると不愉快にさえなり、言及するのもばかばかしい状態。
 『花燃ゆ』とどっちがひどい?って、中村さまや山本氏と電話で話題にしていたんですが、どうなんでしょうか。
 ドラマとしての出来は『花燃ゆ』の方がひどいかもしれないんですが、個人的にはやはり『西郷どん』かもしれません。
 まあ、『花燃ゆ』の方は、ろくに資料を読み込んでいない出来事が多かったですから、ドラマにあきれて資料を読んで勉強、というパターンが多かったのですが、薩摩の方は、さんざん資料を読み込んでいまして、先に書きました「琉球出兵」と「薬売の越中さん」くらいしか、あらためて勉強してみよう、という気にもならないんですね。ただただ、あきれ果て、ドラマに関心を無くしただけでして。

 桐野のことは、とりあえず置いておきます。
 次回、桐野作人氏の著作の感想とともに、まとめて書きたいと思います。

 ドラマの流れとしては、結局、後半の主柱は、西郷と大久保の関係、ということらしいんですけれど。
 瑛太の大久保利通は、最初から、ミスキャストだよなあとうんざりする感じでしたが、鈴木亮平の西郷には、多少の期待はあったんです。
 誠実そうな雰囲気はありますし、風格に欠けまくりとはいえ、もしかして、回を重ねればなんとかなるのかなあ、と思ったりしていたんです。

 鈴木亮平って、アメリカの日系人で、アイスダンスの名スケーター、アレックス・シブタニに、兄弟かと思うくらいそっくりなんです。

Maia & Alex Shibutani's Figure Skating Highlight | PyeongChang


 アレックス・シブタニは、妹のマイヤ・シブタニをパートナーに、過去、全米選手権で優勝2回、平昌オリンピックでは銅メダルを手にし、今シーズンは休養中です。
 二人はユーチューバーでもありまして、大会を裏側から撮ったものには、羽生結弦や浅田真央など、日本の有名シングル選手なんかもよく写っていたりしたものですから、私もけっこう見ていて、ファンでした。
 兄妹ですからアイスダンスで求められる、恋人や夫婦のような濃厚な情感はなく、しかし、軽やかで、清潔感、スピード感があって、とてもチャーミングな二人です。

 だから、鈴木亮平も、シブタニ兄妹が銅メダルを手にしたように、化けたりするのかなあ、とひそかに期待していたりしたのですが、今や、顔を見るのも嫌です。

 細かな事実関係の相違は、この際、置いておきます。
 といいますか、よく見ていなくて、見る気も無く、指摘するのもめんどうです。
 まあしかし、一つだけ大きな点を指摘しますと、西南戦争挙兵の時点で、西郷隆盛は正三位で、日本陸軍の陸軍大将ですし、桐野利秋と篠原國幹は正五位陸軍少将です。

 アジ歴 行在所達第4号

 太政大臣三条實美は、明治10年2月25日付けで、西郷、桐野、篠原の官位を取り上げろ、と通達しています。
 西郷軍は2月15日に鹿児島を出発し、21日に熊本城を包囲したわけですが、つまりこの時点で、西郷軍は現役の陸軍大将に率いられた軍隊だったわけでして、反乱軍と呼べるわけはないんです。
 当時の日本陸軍におきまして、陸軍大将は最上位で、明治10年に西郷が大将でなくなりましたあとは、西南戦争終結後、つまりは西郷死去後の10月10日付けで、有栖川宮熾仁親王(和宮さまのかつての婚約者です)が任じられています。次いで大将となりましたのは、長州出身の山縣有朋ですが、鹿鳴館時代、明治23年のことです。つまり、明治22年、大日本帝国憲法発布にともなう恩赦で、西鄕隆盛一人が赦され、正三位を追贈された後のことなんですね。
 それほどに、西郷隆盛こそが日本陸軍の頂点に立つ陸軍大将にふさわしい、といいます暗黙の空気に、明治前半期の日本はおおわれていたんです。

 えーと。ドラマの冒頭でも使っていたように思うのですが、上野の西郷像除幕式のとき、糸夫人が初めて像を見て「うちの人はこげなお人じゃなかった」というエピソードがあります。これは別に顔がちがいすぎる、というようなことではなく、あまりに像の服装がラフすぎまして……、見ようによっては寝間着姿みたいですし、「うちのお人は、こんないいかげんな格好をして人前に出るような、礼儀知らずではなかった」と、夫人は言いたかったのだ、という説が一般的です。

 このページの見出し画像にあげています月岡芳年の西郷像もそうなのですが、大方、西南戦争時の西郷の服装は、陸軍大将の軍服で描かれます。
 実際西郷は軍服姿で出陣していまして、それはそのまま陸軍大将が率いる軍は、正当な日本陸軍だ!という西郷の意思表明です。
 これは事実ですから、ドラマでも、そう描かれていたようなのですが、なんというのでしょうか、西郷の態度が桐野を責めてみたり(事実としてありえないことは、次回書きます)、薩摩藩士を憐れむようであってみたり、「政府に尋問の筋これあり」と、毅然として立ち上がった陸軍大将、とはとても見えないんですね。
 うじうじグダグダうじうじグダグダ、とても気持ちの悪い西郷でした。

 うじうじグダグダうじうじグダグダ、とても気持ちの悪いのは、大久保にも言えることでして、明治6年政変は西郷と大久保の大喧嘩で起こったというところまでは、なんとか事実を描こうとしているのかなあ、という気配も見えましたが、そこからがいけません。
 史実として、以降の大久保のやり口は、例えば江藤新平に対して、など、かぎりなく冷酷でしたし、西郷は、佐賀の乱も萩の乱も、反乱側に同情的であった節が見えます。
 その大久保が、果たして、大喧嘩の相手の西郷、鹿児島に帰っていて多くの兵を率いることが可能な陸軍大将を、なにもしないで許容した、なんぞということがありうるでしょうか?
 大久保は大久保なりの苛烈な信念を持って、故郷も西郷も叩き潰そうと挑発をしかけた、と見る方が妥当ですし、自然でしょう。

 で、です。陸軍大将の軍服を着て、「新政厚徳」の旗をかかげて出陣した西郷に、「大久保は倒されるべきだ」という信念が、なかったとでもいうのでしょうか。
 
 wiki-西郷隆盛像

 wikiによれば、です。上野の西郷像建立に際して、「さる筋から大将服姿に猛烈な反対が起こった」ということなんですが、さる筋って、どこからどう考えましても、長州陸軍初の大将、山縣有朋だったんじゃないんでしょうか。
 それで、です。薩摩閥から日本陸軍に残って山縣に協力していました、西郷の従兄弟・大山巌によれば、「ガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案した」のだそうです。

明治、イタリア統一戦争(リソルジメント)の英雄でしたガリバルディに、西郷はよく擬せられました。年はガリバルディが20ほど上でしたけれども、同世代人といってもいいでしょう。
 西南戦争中、姉の国子に「おまんさあ、どげなおつもりで戻ってきやしたか。大恩ある西郷先生に刃向かい、生まれ故郷を攻め立て、血をわけた兄弟に大筒をむけるとは、人間としてできんこつごわんそな。腹切りにもどってきやしたとごわんそな」 と詰めよられたという大山です。
 「西郷どんはガリバルディのように、維新の後は一切の名利を捨てて隠遁していたかったのに、周囲がさせなかっただけ」だと信じてしまいたかったでしょうし、打倒大久保の決然とした意志など、見たくもなかったでしょう。

 とはいいますものの、ガリバルディは、ニース(現フランス領)の出身でして、日本で桜田門外の変が起こりました1860年(万延元年)、イタリア統一とひきかえに、ニースはフランス領となります。
 イタリア文化圏にあったニースですが、統一のための取り引きの結果、そうなったわけでして、生まれ故郷を失うこととなったガリバルディは、激怒したといわれています。
 まして故郷鹿児島に住む西郷が、です。鹿児島への無分別な政府の挑発を容認できないことくらい、大山にはわかっていたと思うのですが、まあ、あれですね。あれよあれよという間に、大久保がやっちまっていたのかもしれません。

 ずいぶん昔の記事ですが、民富まずんば仁愛また何くにありやで書きました小河一敏は、大久保利通にまつわる、ある有名なエピソードを語り残しています。
 完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族に出て来ます田中河内介、彼は明治天皇の母方の一族・中山家の家司で、明治天皇は幼い頃、母親の実家で育てられていましたから、子守もしてもらっただろう近しい人です。
 西郷島流しの原因となりました、薩摩藩上意討ちの方の寺田屋事件の中心に、この田中河内介がいて、小河も加わっていたのですが、志虚しく事破れて、田中河内介は薩摩の船上で惨殺され、海に投げ捨てられます。

 維新が成って後の話です。明治天皇は田中河内介をなつかしく思い出されて、「これからいくらでも活躍できる人なのに、すでに殺されてしまったと聞く。いったい誰がしたことだろうか」とつぶやかれたんですね。
 そこで小河は、「河内介を殺したのはこの男です」と、そばにいた大久保利通を指さした、といいます。
 薩摩藩が殺したことは確かなんですが、だれが命令したのかはわかりません。大久保であった証拠はないんですが、大久保は鎮圧側で動いていたわけですから、命令していても不思議はないですし、あるいは小河は、薩摩藩内のだれかから、大久保の命令だったと聞いていた可能性もあるでしょう。

 岩下方平(岩下長十郎の死参照)は、西郷、大久保と同じ下加治屋町に生まれた薩摩の家老で、共に倒幕に動いた人ですし、息子の長十郎は、維新後、大久保の渡欧の際の通訳を務めてもいます。明治6年政変に際しても新政府側に残りましたし、決して西郷側に立った人ではないのですが、明治20年代に書き残した回顧録では、かなり大久保に批判的でした。
 維新成ってからの大久保の政治手法には納得がいかず、ついていけなかった、とした上で、「大久保は非常の人だった。維新なった後は後進に道を譲って引退していれば、西郷と大喧嘩をすることもなく、西南戦争の悲劇は防ぐことができたかもしれなかったのに」と、嘆いているんですね。
 非常の人、つまりは、革命という非常の場では異才をふるったが、事が成った後には、その異才が行き過ぎて悲劇をもたらした、ということです。

 私もいま、大久保の果断は旧秩序の破壊には必要だったけれども、新秩序の構築には向いていなかったのではないか、と思っています。

 文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編で引用しましたが、明治10年7月、西南戦争の最中に、アーネスト・サトウは、友人への手紙にこう書いています。

 わたしは、これほど人民の発言を封ずる政府は、ありがたい政府ではなく、そういう政府に服従するよう西郷にすすめるのは、理にかなったこととは思えないと述べた。 

 長くなりましたので、続きます。
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大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編

2018年03月24日 | NHK大河「西郷どん」


 大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編の続きです。

島津斉彬 (シリーズ・実像に迫る11)
松尾千歳
戎光祥出版


 上の「島津斉彬」は、尚古集成館館長 ・松尾千歳氏の著作です。
 こちらも、とてもわかりやすくまとめられていますので、前回ご紹介いたしました芳即正氏の「島津斉彬」とともに、参考にさせていただきながら、話を進めたいと思います。


島津斉彬 (人物叢書)
クリエーター情報なし
吉川弘文館


 まず、なぜ、斉興はなかなか隠居しなかったのか?です。
 答えは簡単です。
 従三位になりたかったから!!!なんです。

 前回、斉興には叔母にあたる茂姫が従一位で、夫の将軍と同じ高位だった、と書きました。臣下として、従一位は最高位です。
 従三位にになれる大名は、清水徳川家(御三卿の一つ)くらい、でして、島津家は通常、従四位下まで、です。
 ただし、例外として、江戸時代初期、藩主としては初代となります家久と、将軍御台所の父親でした重豪だけは、従三位にまで昇進していました。
 昇進条件として、長年藩主の座にいたことがあげられることもあり、斉興としましては、できるだけ長く、藩主でいたかったわけなんです。

 斉興は伯母が将軍御台所でしたし、祖父の重豪は将軍家に金をばらまいていましたし、おそらくはずいぶんと、将軍家から丁寧に扱われていたことと思われます。
 そのせいなのか、なんなのか、「自分は高貴である」という思い込みが、激しかったんですね。

近世日本の歴史叙述と対外意識
クリエーター情報なし
勉誠出版


 上の「近世日本の歴史叙述と対外意識」に「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興」という論文があります。
 これによりますと、なんと! 斉興は祈る藩主だったんだそうです。
 
 えーと、ですね。島津氏は、もともと鎌倉幕府の御家人であると同時に、京の近衛家(五摂家の一つ)にゆかりのある、惟宗氏であったといわれます。
 ところが、いつしか島津家には、「実のところ島津の祖は源頼朝の落とし胤であった」、という伝説ができあがるんですね。
 これはおそらく、徳川家が、源義重の子孫だと称し、清和源氏新田流を名乗ったことに、対抗したのではないかと推察されます。
 
 清和源氏といいますのは、平安時代前期の清和天皇の子や孫たちのうち、臣籍降下して「源」(みなもと)を名乗った人々の子孫です。
 その中から、武士団を率いる家が生まれ、平安時代後期の源義家(八幡太郎)は、武勇をうたわれ、新興武士勢力を形成しました。鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏と、武家政権を樹立した将軍は、二人とも義家の子孫です。そして、徳川家が名乗った新田氏は、足利氏と祖先を同じくしていまして、徳川家も結局、八幡太郎の子孫だと自称したわけです。

 で、ですね。源頼朝は八幡太郎の直系、嫡流の子孫でして、史実として頼朝以降、直系は絶えましたが、もしも落とし胤の子孫がいたとすれば、足利や新田よりも、武家の棟梁を名乗るにふさわしい、という物語が成立するんですね。
 それどころか!!! 島津家に極秘に伝わったとされる話では、です。なんと!!! 「皇祖ニニギノミコトは、三種の神器とともに祈祷の秘法を授かって、天孫降臨し、歴代天皇は代々、皇位継承のたびにそれを伝えていたが、清和天皇は、生後3ヶ月で即位した陽成天皇が粗暴であることを憂えて、清和源氏の祖である皇子に秘法を伝え、秘法は天皇家を離れ、源家の正統が伝えるものとなった。島津家は源家の正統であるがゆえに、代々当主が秘法を伝え、修業してきたのであり、わたし(斉興)もそうしているのである」ということでして、これでは、「島津家は徳川家より上」どころか、「現在の天皇よりも、島津家こそが正統に皇位を継承する資格がある!」と、言っているに等しくないですか?

 こういったことが実は、斉興が書いた文書にあるのだそうでして、もうもう、お口あんぐり、です。
 まあ、ですね。天孫降臨から神武東征までの日本神話は、島津家の勢力圏である南九州が舞台ですけどねえ。それにいたしましても。
 天皇のお役目は、かなり昔から、国家安泰のために祈ることだと認識されていまして、斉興の認識では、薩摩藩主こそがその祈りの主体であるべき、ということに、必然的になるわけです。

 ところがこの斉興の自己評価と、せいぜいが従四位下という実際の朝廷での地位には、大きな乖離があります。
 「だからせめて従三位に!!!」って、ことだったらしいのですが。
 もうね、なんといいますか。

 うーん。いや、こうなってきますと、ドラマの島津斉興は、かなりイメージがちがいます。
 鹿賀丈史よりも、いまは亡き平幹二朗が似合ってた感じですねえ。
 平幹二朗が斉興で、斉彬が息子の平岳大だと、イメージぴったり、だったんですけどねえ。
 どうも私、渡辺謙の斉彬というのも、ピンときません。野性的すぎて、品がないんですよねえ。
 せめて、平岳大の斉彬だけでも見たかったなあ、と。

 さて。では、お由羅騒動とは、いったいなんだったのか?です。
 一言でいえば、琉球開国問題をきっかけとした、斉興、斉彬の親子喧嘩です。
 そして、琉球開国問題がなぜ起きたか、といえば、アヘン戦争の結果、西欧諸国が清国に拠点を得たからです。

 アヘン戦争が起こる3年前、イギリスでは、若きヴィクトリア女王が即位しました。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol8 赤毛のいとこに書いた時期でして、幕末、日本で活躍するイギリス外交官・アルジャーノン・バートラム・ミットフォードをはじめ、土方歳三、五代友厚、井上馨、徳川慶喜、桐野利秋、後藤象次郎たちが、産声をあげたころ、です。
 フランス革命からナポレオン戦争にいたる動乱、そして産業革命を経て、イギリスは圧倒的な経済、軍事、政治力で、世界システムのヘゲモニーを握ろうとしていました。
 
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争5には、以下のように書きました。
 
 第2次百年戦争と呼ばれる18世紀の百年間、イギリスはフランスとシーソーゲームをなしつつ、世界帝国を築き上げていきました。前回にも書きましたように、それは、主には海軍力によるものでして、植民地における英仏対戦にまで言及していく必要があるのですが、それは置いておきます。

 この「植民地における英仏対戦」は、アメリカ大陸における戦いについて書いたのですが、同時にインドでも、英仏は対立していました。
 7年戦争に連動して、イギリス東インド会社が、フランス東インド会社のインドにおける覇権を打ち破り、インド植民地化への道を開きます。

興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (講談社学術文庫)
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講談社


 上の「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」、著者の羽田正氏は近世イスラーム史がご専攻だそうですが、19世紀初頭、アヘン戦争までのアジア交易の状況を、わかりやすくまとめてくれています。

 16世紀、スペイン人はアメリカ大陸から太平洋を越えてフィリピンに到着し、ポルトガル人はアフリカ南端の喜望峰を経てインド、そしてアジア各地に到達し、やがて、「人とモノによる地球の一体化を実現」しました。
 いわば、地球を一周、あるいは半周して、大陸から大陸へ、人とモノの長距離移動を常態化したわけです。
 とはいえ、ポルトガル人の海の覇権は、それほど長く続いたわけではありません。
 当時の船旅は、相当な危険を伴いました。王室が投資し、一攫千金を狙う命知らずの商人が船を動かし、ならず者や罪人たちが兵士となって、アジアへ来たわけなのですが、女性が伴われることはまれでしたし、彼らの多くは現地女性と結ばれて土着化し、貿易も私貿易となって、本国との関係は薄れていったのです。

 そして17世紀、新興商業国家、オランダとイギリスの商船が、アジアの海に乗り出してきます。
 この2国で、アジア交易のために誕生しましたのが、東インド会社です。
 後を追って、フランス東インド会社が生まれ、さらには、短期間ながら、スウェーデン東インド会社、デンマーク東インド会社も活動しました。

 この場合の「東インド」とは、アラビア半島、東アフリカ、インド、そして東南アジア、中国、日本も含まれる広範な地域です。
 つまり、東インド会社とは、「東洋との交易で収益をあげることを目的にした株式会社」でした。
 莫大な利益を生み出す東洋交易は、さまざまな危険ととなりあわせで、多大な資本金を必要としていました。そのために、株式を発行し、安定した資本を得る方式が採用されたわけです。

 しかし、またこの株式会社は、王室と政府により、東洋貿易の独占権を与えられていまして、本国政府とは別に、出先の交渉相手の政府と交渉する外交権のようなものも、認められていました。
 つまりオランダ東インド会社は、独自の判断で、江戸幕府と交渉することができた、というわけです。で、そのオランダ東インド会社の本拠は、バタヴィア(現インドネシアのジャカルタ)でしたが、独自に軍隊を持っていて、場合に応じて、軍事力行使も辞さない、戦う株式会社でもありました。
 
 長崎は、そもそもポルトガル交易のために開かれた港町でしたが、江戸時代、幕府は、西欧諸国の中では、宗教を持ち込まないオランダの東インド会社にかぎって、長崎での交易を許可します。
 長崎は天領となり、それまで交易に携わっていた日本人たちは、通訳をも含めて、幕府の下級役人となり、幕府は効率的な管理貿易を行いました。
 長崎・出島のオランダ商館長は、毎年、江戸の将軍に挨拶に出向くことが求められ、もちろん、兵士の駐留は認められません。それどころか、長崎へ入港するオランダ船は、大砲を外してはじめて、陸揚げが許されました。
 18世紀に入り、幕府の統制はさらに徹底し、羽田正氏によれば、「それは、現地政権がその国の海外貿易全般と人の出入りを完全に掌握し、管理するという当時の世界で唯一の体制」となりました。

 一方、ですね。明から清へと王朝が変わった中華帝国ですが、これも、管理交易をめざしていました。
 しかし、清朝の支配者は、内陸から勃興した女真族。海外交易をしていたのは、沿岸部に住む商人、漁民たちです。
 したがいまして、清朝の管理は間接的で、江蘇・浙江・福建・広東に、海関を設け、特定の仲介商人(牙行)に取り引きと課税を請け負わせることで、行われていました。(村上衛著「海の近代中国」P.29
 しかし、西洋の商人たち、つまりは東インド会社に対する管理は強く、貿易港は広州一港で、滞在は貿易期間(9月から翌年3月)のみ。軍船の入港は禁じられ、行動も大きく制限されていて、その点では、日本の長崎におけるオランダ交易管理に似ていました。
 そうした理由も、基本的には、キリスト教の伝搬とその影響を危惧して、ということでして、これも日本との共通項です。

 1776年、イギリスのアダム・スミスは、「国富論」において、以下のように、東インド会社を強く批判します。
 「東インド会社のような独占企業はあらゆる面で有害であり、それが設立された国に多かれ少なかれ不利益をもたらし、その支配を受けるようになった国の住民には、破壊的な打撃を与えるのである」(山岡洋一訳) 

 実際に、ですね。国富論が出版されました前年に、アメリカ独立戦争は勃発していますが、その前哨戦とも言えるボストン茶会事件(1773年)は、イギリス東インド会社がらみで起こりました。
 イギリス東インド会社は、清朝中国から仕入れたお茶をアメリカで販売していましたが、高価すぎまして、アメリカの商人たちは、自然とオランダ・フランスの東インド会社から仕入れるようになっていたんですね。
 で、在庫をかかえ、経営不振に陥っていましたイギリス東インド会社のために、イギリス政府は、アメリカほか植民地での茶の独占販売権をイギリス東インド会社に与え、その代わりに、相場よりも安く売らせることとしました。
 イギリス政府は、確実に植民地での物品税を得るためにそうしたわけですが、それが多大な反発を招きます。
 そもそも、イギリス東インド会社の販売価格が高価に過ぎたからこそ、アメリカ商人たちは、ひそかに他から茶を仕入れ、販売して儲けていたわけですし、本国と植民地の貿易と課税のあり方が、大きな問題となったわけです。

 アメリカの独立、続くフランス革命によって、実際、特権商人の独占交易は、ヨーロッパ諸国のありようとはそぐわないものとなり、革命の最中にフランス東インド会社が消滅し、ついでオランダ東インド会社も形をかえます。
 そして、産業革命が起こったイギリスでは、資本家の数が増加し、また船旅の安全性も向上して、東洋交易に資本を投じる人々の数が劇的に増えます。ここで、「自由貿易こそが国を富ませる」といいます、アダム・スミスの国富論が出てくるわけです。
 国家の利益と東インド会社の利益が一致しなくなりました結果、イギリス東インド会社のインド、清国との独占交易は廃止されることとなりました。

 しかし、ですね。新興の貿易商人たちにとって、清国の貿易制限、欧米人に加えられました規制は、おおよそ馬鹿馬鹿しいものでした。その後ろ盾となって、自由貿易を推進していましたイギリス政府は、インドでは強大な支配権を握るようになっていましたし、清朝のやり口を、時代錯誤で、尊大にすぎるものと受け取るようにもなっていました。
 一方、清朝の方も、沿岸民の交易の取り締まりは、すこぶる困難になっていました。
 アヘンの密売が増加したのは、もちろん、イギリス東インド会社が持ち込み量を増やしたから、でしたけれども、需要があったから増やしたわけでして、清がアヘンの取り締まりを強化した1838年以前、すでに東インド会社は清との独占取り引きの中止を余儀なくされていました。
 結局、清朝のアヘン取り締まりは、少々乱暴な欧米商人の取り締まり強化におよび、イギリスはまたそれを口実に、清国におきます商業活動の自由(イギリスにとっての)を得ようと、艦隊を派遣し、対立は深まって、開戦におよびました。アヘン戦争です。

 ここで、明確になりましたのは、産業革命と戦乱を経て、世界の海を席巻するようになりましたイギリス海軍と、防衛する清国の、目のくらむような軍事力の格差です。
 主にイギリス東インド会社が派遣しました蒸気船は、まだ初期のもので、喫水の浅い小型の外輪船でしたけれども、大砲を50門以上積んだ大型帆船を、曳航して河川を上り、内陸部を攻撃することが可能でした。イギリス艦隊は、長江の河口から250キロ上流の鎮江を陥落させ、南京にまで到達して、勝利を決定的なものにしました。(「日蘭関係史をよみとく 下巻 運ばれる情報と物」西澤美穂子著「第3章 蒸気船の発達と日蘭関係」p92
 イギリス軍の目標となりました清朝側の防御拠点、砲台などは、イギリス軍が行動開始したその日のうちに、ほとんどすべてが陥落し、イギリス側の損害はごく軽いもので、しかも陸戦においても、イギリス軍(主にインド兵です)の圧勝でした。(村上衛著「海の近代中国」P.106

 結果、1842年に締結された南京条約により、イギリスは賠償金、香港の割譲、広州、福州、厦門、寧波、上海の開港、自由貿易、治外法権を得て、清は関税自主権を失います。
 そして2年後、アメリカ、フランスは、続いて、ほぼイギリスと同じ条件で、清国と通商条約を結びます。

 地図をご覧になってみてください。
 それまで開港していた広州は、台湾よりも南ですが、福州、厦門、寧波と北に連なり、上海にいたっては、日本の長崎まで、ごく簡単に来れてしまいます。
 開港地では、水、食料、石炭などの補給もできますし、早急に、艦船を修理するためのドックも造られたはずです。
 といいますのも、開港により、小さな港の漁民たちは密貿易にかかわり辛くなり、清国沿岸に跋扈する海賊が急増しまして、イギリスはやがて、開港地に海軍を常駐させることともなったわけです。

 そして、弘化元年(1844年)、清国に開港場を得たフランスは、直後に琉球に軍艦を派遣し、開国を迫りました。
 アヘン戦争の噂は、オランダおよび清国の商人たちから、逐一、日本に伝えられていて、直後に、識者による「鴉片始末」というアヘン戦争の論評も書かれました。つい目と鼻の先の上海に補給基地を得た欧米の艦船が、清国を打ちのめした圧倒的な軍事力で迫ってくることに、多くの日本人が危機感を抱いた矢先です。
 フランス船は、いったんは引きましたが、カトリック神父と通訳を那覇に残していきましたし、翌年には再び3隻の艦隊が那覇に現れ、通商を要求します。

 弘化3年(1846年)、斉彬は、世子の身分で薩摩へお国入りをしますが、これは、琉球開国問題を処理するため、でした。
 この年、調所広郷は、フランス艦隊の来航を幕府に届け、「千数百人派兵して防備は固めますが、最悪の場合、通商だけは認めてください」と申し出て、老中阿部正弘の許可を得ますが、阿部はすでに世子斉彬と懇談していて、事情は呑み込んでいました。
 斉彬の見解は、「琉球は建前上日清両属の地で、武備もなく、通商でも許さなければ滅びる。できれば、清国の福建か小島で通商を許す、ということで収めたい」ということでして、琉球本土への欧米人の滞留は避け、なんとか植民地化を防ごうとしていました。
 しかし、調所が幕府に派兵を約束したのは虚言でして、幕府隠密の手前、山川港まで人数を出し、派兵のふりをして、引き上げさせました。

 斉興は、ちょうど従三位昇進を願い出ていまして、近々それが叶うと勝手に思い込んでいましたので、自分は江戸にいたいし、琉球問題などは斉彬に任せようと、異例の世子の藩地入りを幕府に願い出ました。
 斉彬はもちろん、老中の阿部とも相談していて、自分が問題処置の指揮をとるべく藩地入りしたわけですが、これが、思うようにはできなかったんです。
 世子・斉彬は、生まれてからずっと江戸にいて、藩地にはそれまで、一度しか足を踏み入れたことがありません。
 帰ってみれば、調所の威光はすみずみまで行き渡っていまして、斉興家臣団はその意のままに動き、斉彬はまったく手の出しようもありませんでした。
 この当時の幕府の隠密はものすごいものでして、調所の派兵が見せかけでしかないことなど、薩摩藩の弱みを幕府はしっかりとつかみました。

 調所はじめ斉興家臣団にしましても、アヘン戦争の衝撃を、まったく感じていなかったわけではありません。
 洋式砲術を採用し、沿岸要所に台場を設け、火薬を洋式で製造するなど、他藩とくらべれば、かなり早い取り組みでした。
 
 しかし、芳即正氏によれば、斉彬は帰藩の翌年、調所が行った給地高改正と軍制改革について、強く非難しているといいます。
 薩摩藩では、家禄の売買を許していて、その結果、軍役動員を命じれば、応じきれない者がでるおそれが強かったんですね。
 といいますか、応じきれない現実があり、だからこそ薩摩は、派兵したくても派兵できなかったわけでして、給地高改正を行い、軍務に応じきれない困窮者を無くそうと、一応は努力します。
 調所にしましても、藩兵全員に鉄砲を持たせて西洋式の歩兵とする軍制改革を、考えていなかったわけではなかったのですが、ただ、そのやり方が、斉彬の目から見れば、成果の上がらないものと見えたのでしょう。

 すぐに動員可能なまとまった軍勢、それも鉄砲を持った西洋式の歩兵軍団をつくろうと思えば、これは徹底した藩政改革が必要となってきますし、藩士への手当など、莫大な資金も必要となってきます。
 つまり従来の調所の節約路線でできることではなく、斉彬は、自らが藩主の座に着かない限り、日本が迎えようとしています未曾有の危機に、適切に対処することはできない、と思ったわけです。
 そして、動員される側の藩士が、海から日本に迫りつつある危機を知らないはずもなく、斉彬の路線を支持する一般の藩士が、多数出て来ました。
 一方、調所を筆頭とします斉興家臣団にとりましては、斉彬も、それを熱烈に支持する藩士たちも、とても危ういものと思えてきたわけです。

 斉興はもちろん、調所と自らの家臣団を信頼していたわけなのですが、自身が精を出したのは祈祷です。
 なにしろ、「島津家の方が正統な皇統!」くらいなことを思っていますし、帝のもっとも大切なお役目は国家の安寧を祈願することですから、琉球に来た西洋人を呪詛したわけです。
 ところがそのことから、斉彬支持派の藩士たちは、斉彬とその子供たちへの呪いの祈祷が行われている、と誤解します。斉彬その人も一時、そう信じたりもしまして、親子の関係はこじれにこじれました。
 
 で、実のところ、お由羅は、少々神がかりな藩主・斉興の気に入りの側室だっただけではないのでしょうか。

 えーと、ですね。だから、琉球を薩摩が支配し、幕府の勢力下にあることは日本中に知れた話でして(琉球の朝貢使節が、琉球国王即位と幕府将軍襲職の際、ほぼ一年がかりで江戸へ出向いていました)、しかも、フランスの軍艦もイギリスの軍艦も、無事那覇に入港し、なんの攻撃も受けていないんです。
 だからこそ、ジョン万は、無事故郷に帰るために、狙って、琉球に上陸したわけですし、斉彬が藩主となった薩摩は、詳しい海外情勢を聞くために、賓客待遇でもてなしました。牢屋なんて、ありえんですわ。

 そして、次回よーやく、西郷隆盛に話を進めたいと思います。
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大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編

2018年02月24日 | NHK大河「西郷どん」

 大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場の続きです。
 まず、第6話「謎の漂流者」の感想なんですが、なに、このジョン万の描き方!!!と、少々うんざりしてます。
「ラブぜよ」はいいんですが、「アメリカではラブがなければ結婚しない」みたいなことを、言ってなかったですか?
 これが、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の成果でなくて、なんだというのでしょう!!!
 「海の向こうの民主的なアメリカでは愛がすべてだが、遅れた君主制の日本では愛のない結婚に耐えなければならない」みたいな印象操作をしてませんか?

 だ・か・ら、幕末当時、アメリカ南部には奴隷制があったんですよ?
 愛しても身分違いで結ばれないことは普通にありましたし、金のために結婚することだって多数。
 だいたい、当時のアメリカは清教徒中心の文化が根底にありましたから、建前だけは相当に禁欲的でして、「恋こそすべて!」なんてことは、絶対にありません。
 当時のアメリカ人、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」、少女のころに読みましたが、あまりに理不尽な世界で、とてもじゃないですが、「アメリカでは愛がすべて」なんぞと気軽に思えませんでした。
 清教徒の文化は苛烈です。少なくとも私には、源氏物語の方がなじみやすいんです。
 ちなみに、ジョン万がアメリカを出て、琉球に上陸したのは1851年(嘉永3年)ですが、前年の1850年に、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」は出版されています。
 
 まあ、家族愛も恋心もいっしょくたに「LOVE」にして、つっつかれないよーに、「アメリカすごーい」気分をもりこんだところが、ずるくて、気持ち悪かった、だけの話なんですが。

 まあ、それは置いておくとしまして。
 なんでジョン万が薩摩にいたのか、あの描き方では、まったく、さっぱり、わからなくないですか?
 琉球へ上陸したジョン万が、薩摩にとって「謎の漂流者」のわけはないんですね。
 また、大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場のコメント欄で、サトウアイノスケさまがご提起くださったことですが、斉彬が唐突に「琉球出兵の命に従わず」と言い出したことといい、要するに、琉球と薩摩の問題を真正面から説明せず、突然、ぽっと、ホームドラマの中に、なにの断片やらわからないままに歴史の断片がまぜこまれていまして、なんとも落ち着きが悪いことになっているわけなんです。
 
 私、島津斉彬のことは、ほとんど調べたことがないのですが、池田俊彦氏の「島津斉彬公伝」だけは、かなり昔に買って読んでいます。
 
島津斉彬公伝 (中公文庫)
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中央公論社


 池田俊彦氏は、西南戦争直後の明治13年に鹿児島で生まれ、東大の西洋史学科で学んだ研究者です。
 麻布中学、学習院で教えながら、島津家の史料編纂に携わり、晩年は、鹿児島の中学校の校長に招かれました。
 なにしろ島津家の史料にタッチしていた方ですから、事実関係は確かそうなのですが、なにやら、とても筋道がわかりづらい本でした。
 しかし、この本ですでに、「琉球出兵の命に従わず」は、出てくるんです。それも、唐突に。

 まず、調所広郷の死については、「密貿易をしたと幕府から疑われて、江戸において服毒自殺」とあり、「世子斉彬を浪費家として嫌っていた」というような説明はあるんですが、直接、斉興、斉彬の親子げんかに関係するようには書いてないんですね。
 そして、その2年後、斉興が隠居しなければならなくなった理由として、「斉興の琉球における処置に不都合があった。幕府には七,八百派兵すると答えたのに、実質はわずか百五十名派兵しただけだった」 ということが、出てくるんです。
 つまり、斉興隠居のとき幕府に握られていた弱みとは、実は密貿易ではなく、「琉球に、幕府に請け負っただけの派兵をしていなかった」ことなんですね。

 えーと、私、前後の筋道がとてもわかり辛く、もう1冊、新たに島津斉彬の伝記を買って読んでみました。

島津斉彬 (人物叢書)
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吉川弘文館


 芳即正氏の著作です。
 やはり、格段にわかりやすく書かれていました。
 そして私、自分がこれまで、お由羅騒動前後の薩摩藩について、まったくなにもわかっていなかった!ことを知ったんです。

 なにしろ、お由羅騒動です。
 島津斉興、斉彬父子の親子喧嘩に、斉興の側室・お由羅と重臣・調所広郷がからんだ島津家のお家騒動、というような、歌舞伎の題材みたいなおどろおどろしい物語にばかり、目がいってしまっていたんですね。
 
 まずは、お由羅騒動にいたるまでの薩摩藩、です。
 薩摩藩第10代藩主・島津斉興は、正室との間に数人の子女を設けていて、長男の斉彬は聡明。島津家の世継ぎとして申し分がなく、曾祖父で先々代藩主、蘭学好きの重豪にもことのほか可愛がられていました。
 
 この重豪、娘の茂姫を一橋家(徳川御三卿の一つ)の息子と婚約させておりましたところが、その息子が将軍・徳川家斉となり、茂姫はなんと、御台所となりました。将軍の正室・御台所になれるのは、京都の五摂家か宮家の娘と決まっていまして、茂姫は島津家と縁の深い近衛家(五摂家の一つ)の養女になって嫁ぐのですが、それにいたしましても、外様大名の娘とは異例中の異例でした。
 徳川家斉というお方は、後宮の華やかさで有名でして、数十人の側妻を持ち、50人を超える子女を設けました。

 まあ、現代的な感覚で見ますと、茂姫は不幸な女性のような気がするのですが、当時の正室は、相当な力を持ってきていまして、側室から生まれた子も、嫡出子にするためには正室の養子とする必要があり、側室はあくまでも使用人であって、身分が隔絶しているんですね。江戸時代前半期でしたら、男子を儲けた側室は、御殿をもらったりする場合もあるのですが、この時代、奥女中筆頭の御年寄よりも、側室の待遇は劣るほどでして、大奥ドラマに見るように、たとえ正室に子がなくとも、男子を産んだ側室を妬んだりする必要は、実のところまったくないんです。正室はあくまでも、大奥の頂点に君臨する女主人でした。
 しかも茂姫は後年、京都の朝廷から従一位に叙せられていまして、これは夫・家斉と並ぶ高位です。
 いや、だから茂姫が幸福だった、ということはないのかもしれないのですが、高位の身分には、それなりの責任が伴ってきまして、養子にした側室の子女の嫁ぎ先にも気を配り、庇護し、各大名家と交際し、華麗な大奥行事を主催し、と、するべきことは山のようにありましたので、使用人に嫉妬している暇があったのか、という話になります。

 で、高貴な将軍家御台所の父親、島津重豪は、娘のために将軍家に大金をばらまき、大奥には薩摩特産の貴重な砂糖を大量にプレゼントしまして、外様大名には考えられなかった特権を、さまざまに手に入れます。
 重豪は、次男の奥平昌高(養子に出ていました)と曾孫の島津斉彬をつれて、オランダ商館長の江戸参府に随行していましたシーボルトに会いに行っています。重豪82歳、斉彬18歳の時のことですが、シーボルトは「島津のご隠居(重豪)は60代にしか見えないほど若々しく、オランダ語をまじえて質問してきた」と書き残しています。シーボルトはですね、このとき、江戸城幕府天文方・高橋景保の手引きで、江戸城内紅葉山文庫(将軍のための貴重書図書館)の禁断の地図類を見て、写しを手に入れるのですが、秦新二氏は、著書「文政十一年のスパイ合戦―検証・謎のシーボルト事件」 において、重豪から茂姫に要請があり、シーボルトは大奥を通り抜けることが可能だったのではないか、とまで憶測しておいでです。

 重豪は42歳で、長男の斉宣・13歳に家督を譲りますが、実権は握っていました。
 しかし、やがて若い藩主のまわりには改革派の重臣が集まり、重豪の派手な交際でつのった藩財政の赤字をなんとか解消しようと、緊縮財政に走ります。
 江戸における節約を実行しようとした政策が、重豪の気に入らなかったのではないか、といわれているのですが、改革派の家臣たちは切腹、遠島多数で、政権から遠ざけられ(近思想崩れ)、斉宣は35歳で隠居。斉宣の長男・斉興が、18歳の若さで藩主となります。
 結局、重豪は実権を握り続けますが、藩財政の赤字は気にかけていて、晩年になり、下級藩士だった調所広郷を抜擢し、財政改革を任せます。
 調所広郷は、辣腕をふるい、わけても、調所の取り組みにより、薩摩藩の重要な財源となりましたのが、琉球を通じての清国との密貿易、でした。

 
薩摩藩対外交渉史の研究
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 私、びっくりいたしました!
 徳永和喜氏の「薩摩藩対外交渉史の研究」によれば、です。調所広郷が切り開いた密貿易の要にいたのは、越中富山の薬売!だったんです。
 ドラマの中では、「薬売の越中さんが噂をしちょいもした」と、縁談に関する噂話を藩内にひろげてまわる行商さん、みたいな感じで、会話の中にちょろりと出てくるんですが、なんで、こんなわけのわからない、もったいない使い方をするんでしょうか?
 この当時、清国と日本との交易は、長崎を中心に行われていました。日本は、昆布、俵物(いりナマコ、干しアワビ、フカヒレの高級中華料理材料)といった海産物を輸出し、漢方の薬剤を輸入していました。もちろん、双方に、幕府の統制がかかっていました。
 富山の薬売は、海運業者でもあり、蝦夷や北陸の海産物を取り扱っていましたので、調所は、藩内での薬の行商を認める見返りに、良質の昆布と俵物を、ひそかに薩摩まで運ばせ、琉球交易に利用したわけです。
 薩摩藩内の関係書類はほとんど残されていませんで、徳永和喜氏は薬売側の史料に丹念にあたって、密貿易を裏付けておいでなのですが、現在、徳永氏は、西郷南州顕彰館の館長さんをしておいでだそうなんですね。ライターさんが、シナリオを書くための取材で館長さんに話を聞く、という展開は十分にありそうでして、「薬売の越中さん」だけが頭に残って、せっかくの調所の密貿易の秘密を素通り、という、なんとも残念な断片になっちゃったんでしょうか。

 で、実際の所、調所が隠居の重豪に取り立てられ、財政改革に取り組んだことは、芳即正氏の「調所広郷」に、明確に述べられています。

調所広郷(ずしょひろさと) (人物叢書)
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吉川弘文館


 重豪が89歳で大往生を遂た後、藩主・斉興が引き続き調所を重用し、改革を続けさせたことは確かですが、それは、あくまでも重豪が引いた路線の延長、だったんです。

 ところが往々にして通説、………そうですね、例えばウィキペディアなどでは、の話ですが、「調所に改革を任せたのは斉興で、重豪によく似た浪費家の斉彬が藩主になれば、またも財政が傾く、と憂慮した斉興は、40になろうとしていた斉彬に家督を譲らず、側室・お由羅が産んだ久光を跡継ぎにしたいと望み、調所もそれに同調していた」と、されているんですね。
 しかし、ですね。これには大きな疑問があります。

 まず、重豪と曾孫の斉彬は、ともにオランダかぶれで浪費家だったとされますが、オランダかぶれ=浪費家とはいえません。
 重豪の次男・昌高は、養子として豊前中津藩主となり、シーボルトに会っていたことは前述しましたが、オランダ名を持ち、江戸の屋敷にガラス張りのオランダ部屋を造って、西洋の輸入品を展示していました。だからといって、中津藩の財政が傾いた、わけではないんですね。
 昌高が、どこからその費用をひねり出したか、なんですが、おそらく、かなりの部分、実家の薩摩藩から出ていたのではないか、と推測されます。
 つまり重豪の浪費とは、将軍家御台所となりました娘をはじめ、諸大名家に嫁いだり、養子となりました数多い子、孫へのお手当、親戚づきあいなどの経費が、莫大にふくれあがっていたことなんです。
 斉彬は子女を次々と亡くしていましたし、第一、藩主になってもいないわけですから、重豪の浪費をまねようにも、まねようがありません。

 次に、斉彬は正室が産んだ長子で、とっくの昔に世継ぎとして幕府に届け出て、お披露目されているわけですから、薩摩藩が勝手に廃嫡することは許されません。 
 先に書いたように、正室と側室の立場は隔絶していまして、斉興は、早くに正室(斉彬の母)を亡くした後、後妻を迎えていませんでしたから、久光は正室の養子にもなれていなかったんです。

 じゃあ、なぜ斉興は、藩主の座をあけわたそうとしなかったのか、そして「お由羅騒動」とは、実のところいったいなにだったのか、ですが、長くなりましたので、次回に続きます。

 第7話はなんとも地味なホームドラマでしたが、続く第8話は、ペリー来航となるようです。今度の日曜までにぜひ、続きをあげたいな、と思っています。
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大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場

2018年01月30日 | NHK大河「西郷どん」

 「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代で予告しましたように、NHK大河『西郷どん』について、定期的に感想を書いていくことにいたしました。
 いまのところ、 大河「花燃ゆ」と史実シリーズほど、克明に史実を追うつもりはないのですが、そこは私のことですから、どうなるかわかりません。

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
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NHK出版


 ともかく、第3話にして、中村半次郎(桐野利秋)登場!です。

5分で分かる「西郷どん」第3回『子どもは国の宝』


 まだごらんになっていない方は、上の5分で分かる「西郷どん」を、どうぞ。
 けっこうたっぷり出てくるんですが、子役の中村瑠輝人くん!!! かわいい上に芸達者!!!
 えー、太刀さばきに見惚れてしまって、文句を言う舌が鈍ります。

 彼に文句はないんです。先を見る気にさせてくれました。
 しかし。
 NHKは貧しい=汚いだと、勘違いしてやしませんか?
 いくら流罪人の子で貧しいとはいえ、あそこまで泥だらけで髪ぼうぼうのこ汚さは、ないと思うんですのよ。

 そういえば、一話目をいっしょに見ていました妹が、「西郷家が貧しい貧しいって、土佐の岩崎弥太郎の家より貧しいことはないでしょう?」と聞くんですね。
 「いや、西郷家の方が貧しいと思うよ」と私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に載せました中岡慎太郎の手紙の話をしました。
 つまり「薩摩のれっきとした士族は土佐の足軽より貧しい者が多く、ほんの少しの給料で歩兵になる」と中岡は故郷への手紙に書いています。
 実際、薩摩士族の数は異常に多かったわけですし、いくら岩崎家が郷士株を売った地下浪人だとはいえ、岩崎弥太郎には、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたように、江戸の超一流漢学塾に遊学するだけの経済的余裕がありました。

 ところが、です。妹がNHK大河「龍馬伝」で見ました岩崎弥太郎の生家は、超ボロボロでこ汚かったそうでして、その汚さにおいて「西郷どん」の西郷家を上回っていたんだそうなんですのよ。
 視覚に訴える印象は強烈ですからねえ。花のお江戸の安積艮斎塾で学んだ俊才が、泥まみれの貧民だったと、一般には印象づけられてしまったようなんですね。
 私、あの「龍馬伝」は、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書きましたように、あまりにばかばかしくて、ほとんど見てません。

 成長期の半次郎のエピソードにつきましては、あまり資料がなく、明治32年出版の春山育次郎著『少年読本第十一編 桐野利秋』くらいではないかと思うんですね。
 春山育次郎は薩摩出身で、子供の頃、桐野に頭を撫でてもらった思い出があったそうですし、桐野の甥(妹の子)と親しく、身内にいろいろ話を聞かせてもらったと同時に、幕末からの桐野の友人・中井桜洲(中井桜洲と桐野利秋)にも話を聞いて書いておりますので、かなり信憑性があろうかと思います。

 で、『少年読本第十一編 桐野利秋』によりますと、半次郎(桐野)の父は単身赴任の江戸詰であったため、最初の手習いは実兄に、次いで近所に住む外祖父(母の父)の別府四郎兵衛に、学問を教わった、というんですね。
 別府家には、半次郎の従兄弟になる別府晋介がおりまして、幼なじみのはずですが、晋介は後年、城山で西郷隆盛の介錯をしたと伝わります。
 普通に考えて、晋介は出してしかるべきではないか、と思ったのですが、話がややっこしくなりますし、もしかしてこのドラマは晋介の存在を消して、半次郎が介錯をしたことにするのかもね、と思い、林真理子の原作の最後の部分だけ、本屋で立ち読みいたしました。
 原作では一応、通説通り、晋介が介錯しておりました。
 しかしこのドラマ、かなり原作離れしているらしく、そもそも、子供の半次郎は登場しないらしいんですね。
 まあ、いいんですけどね。おかげで、かわいい半次郎を見ることができまして。

 半次郎の父親が流罪になった年は、はっきりしないのですが、およそ、彼が10歳の頃であったようです。
 私、これは、確証があることではないのですが、中井桜洲と桐野利秋に、以下のように書きました。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後、東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。


 海老原穆が海老原清熙の親族であったことは、確かなことだとわかりました。
 しかし、それ以外はいまだに雲をつかむような話なのですが、私は、島津斉彬が藩主になってのちに、父親は流罪になったのではないか、と思っております。

 それと、ですね。薩摩では士族の流罪はよくあったことでして、少なくとも桐野家の場合、自家で開墾した土地まで取り上げられたりはしておりません。
 もともとの石高はわずか五石でして、これとともに、父親が役職についてもらっていたお手当が、なくなったわけです。
 しかし開墾地では狭すぎまして、新たに開墾すると同時に、近隣の農民から土地を借りて耕していた、と伝わります。

 まあ、そんなこんななんですが、第4話にも、かわいい半次郎が登場しましたねえ。
 見ていると、批判する気も失せるのですが、次回、西郷とか大久保とか、もっと全般的なことについて、遠慮なく感想を書くつもりでおります。
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