郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

御所のいちばん長い夜

2007年04月19日 | 幕末雑話
本日は、野口武彦氏が描く、妖怪のような岩倉具視のリアルさに感激しまして、ひさしぶりにちょっと読書感想を。

江戸は燃えているか

文藝春秋

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この本の内容は、野口武彦先生ご自身の後書きでご紹介するのが、一番早そうです。
「この一冊に収めた七篇の作品は、いずれも幕末史の中で特に強く個性の輝きを放った人物を主人公にしている」
その七人とは、清川八郎、伴林光平、孝明天皇、山内容堂、相楽総三、小栗上野介、勝海舟、です。
ほんとうは私、小栗上野介の話が読みたくて、これを買ったのですが……、というのも、野口先生は、きっちり資料を見られ、最近の歴史学的成果にも目を通された上で、ひじょうに的確に、息づかいが聞こえてくるようなリアルな感覚で、時代と人物を描いてくださいますから、どういうとらえ方をなさっているのか、知りたかったんです。

期待通り、小栗を描いた「空っ風赤城山」はもちろん、七篇全部、すばらしかったのですが、圧巻は山内容堂を主人公とする「御所の一番長い夜」です。
「御所の一番長い夜」とは、もちろん、王政復興のクーデターの夜です。
不機嫌がとぐろをまいたような山内容堂の描き方も秀逸ですが、それぞれの人物の思惑、動きが、生々しく浮き彫りにされ、わけてもぞくっとするような存在感を持つのが、岩倉具視です。以下、クライマックスの引用です。

 御所の一番長い夜が始まった。
 上背と体格では満座を圧する山内容堂は、全身から怒気を放っていた。まだ体内から抜けきらない酒気が攻撃性を発散させている。
 真正面にいる岩倉具視とは初顔合わせである。春嶽も「御公家様の顔は初めて対面せり」(『逸事史補』)といっている。岩倉は短?だった。品川弥二郎などは最初一見し、あまりにも「身体矮小にして風采揚がらざる」(『大久保利通伝』中)容姿なので、こんな男と組んで大丈夫かと思ったほどだ。それが今は毛の生え揃わぬ頭に冠を載せて、不退転の決意を眉目にみなぎらせ、まるで別人のように大きく輝いて見えた。

徳川慶喜の処遇についての岩倉と容堂の対立は、やがて大久保利通と後藤象二郎の激論へとうつり、紛糾するあまりに休憩。そこで岩倉は、どっちつかずになりかけている安芸藩主・浅野茂勲をつかまえ、容堂を説得するようにと、迫ります。

 膝詰め談判であった。本当に膝と膝を突き合わせ、鉄漿(おはぐろ)で染めた歯の間から口臭が匂うほど顔を差し付けるのである。尋常な形相ではなかった。真っ青になって眼が据わり、唇をわなわな震わせている。

もう、脱帽するしかない描写です。
御所を征圧した、薩摩藩兵の無言の圧力も、その場にいるように、ひしひしと伝わってくるんです。
久しぶりに、野口先生の筆力を、堪能させていただきました。


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団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航

2007年04月17日 | 幕末留学
「団団珍聞」と書いて、「まるまるちんぶん」と読みます。明治10年に創刊された、絵入り風刺週刊誌でした。
明治8年(1875)に布告された新聞紙条例と讒謗律により、政府批判は牢屋入り状態でしたので、当時の新聞は○○(まるまる)という伏せ字だらけで、それを風刺した誌名だったのでしょう。
この「団団珍聞」を発行していたのは、野村文夫。幕末において、安芸(広島)藩でただ一人、密航留学を企て、薩摩や長州、肥前の密航留学生とともに、スコットランドで学んだ人です。

「団団珍聞」(まるまるちんぶん)「驥尾団子」(きびだんご)がゆく

白水社

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今回の参考書は、木本至氏著の上の本と、アンドリュー・コビング氏著『幕末佐賀藩の対外関係の研究』(鍋島報效会発行)、犬塚孝明氏著『明治維新対外関係史研究』(吉川弘文館発行)です。

幕末、最初に密航留学を企てたのは、長州藩士です。文久3年(1863)、イギリスへ向けて、のことでした。
伊藤博文、井上馨の二人は、翌年、四国連合艦隊の長州攻撃を知り、それをとめるために帰国します。
残されたのは、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の三人でした。
これはもちろん、藩の許可を得ての藩費留学だったのですが、攘夷論が渦巻く藩内では秘密にされていましたし、なにしろ長州藩の旗印が攘夷なのですから、幕府の禁制に逆らっているから、というよりも、藩としての事情から、こっそりと行われたものです。したがって、資金も潤沢ではありませんでしたし、横浜から上海まではジャーデン・マセソン商会の貨物船で、上海から先も、小型貨物船に分乗しての渡欧でした。
しかし、この渡欧航海においては、だれも日記を残しておりませんし、伊藤や井上などの後年の回顧談から、事情が知れるのみ、であるようです。

続いた、慶応元年(1865)、薩摩藩のイギリス密航は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、薩摩藩としては、外交使節をも兼ねた特異なものでした。
外交使節であるならば、格式が必用です。新納と五代が滞在していたパリのホテルは、幕府使節団も使っていた超一流ホテルですし、香港からの船旅も、幕府使節団がそうであったように、客船の一等船室です。
しかし、あたりまえなのですが、幕府のご禁制を破っていながら、薩摩藩のように派手に、留学生を送り出した藩は、他にはありません。
この年には、長州藩がさらに、竹田傭次郎(春風)、南貞助、山崎小三郎の三人の密航留学生を、イギリスへ送り出しています。南貞助は高杉晋作の従兄弟で、高杉が中心になって計画した留学だったのですが、ロンドンでの留学生は、学費どころか、生活費にも窮乏していた様子が伝えられていますので、これも、おそらくは貨物船だったでしょう。
慣れない環境で、食事、暖房費にも事欠くような生活がこたえたのでしょう。山崎は、ロンドン到着後、まもなく病死しています。

さて、この慶応元年、薩長のイギリス密航留学を知り、とてもうらやましく思った人物がいました。
肥前鍋島藩の石丸虎五郎です。石丸は、長崎でオランダ海軍伝習を受けた後、長崎英学伝修生となり、安政6年(1859)から英語を学んで、グラバーと親交がありました。いえ親交といいますか、グラバーと肥前藩との取り引きにも、当然、関係していました。
肥前藩は、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書きましたように、海軍熱心で、洋学を吸収することでは薩摩藩の上をいっていましたが、幕府に協力的でしたので、幕府の欧米使節団に藩士を随行させることもけっこうありました。
とはいえ、長期留学ではありませんし、この時期の幕府の留学は、オランダのみです。
石丸は、オランダ海軍伝習以来、五代友厚と親交がありましたので、すでに五代から直接話を聞いていた可能性もありますが、詳しくはグラバーから、五代の企てが成功したことを聞き、自分も行く! と、決心したようなのですね。
しかし、一人では心細いので、同じ肥前の長崎英学伝修生、馬渡八郎を誘います。馬渡は喜んで応じ、脱藩イギリス密航となったのです。とはいえ、後年のグラバーの回顧談では、「肥前の殿様に頼まれて」となっていて、おそらくは、幕府をはばかった肥前藩が、脱藩の形をとらせて黙認し、ひそかに支援したものでしょう。一応、費用はグラバーの援助となってはいるのですけれども。

これを聞きつけ、自分も混ぜてくれ! と申し出た安芸藩士がいました。野村文夫です。
野村は、安芸(広島)藩の藩医の家に生まれ、安政2年(1855)から、大阪にあった緒方洪庵の適塾で、蘭学を学びました。
同時期の適塾には、野村より二つ年上の福澤諭吉がいます。
福沢は、幕府の最初の遣米使節団にもぐりこみ、その後、幕府外国方に傭われて、文久2年(1862)、第一回遣欧使節団にも参加していました。薩摩の寺島宗則も随従していたものです。
福沢が、そうした経験をもとに、『西洋事情』を出版したのは慶応2年のことで、ベストセラーになるのですが、あるいは適塾のつながりから、野村はすでに、そのような話を、伝え聞いていたかもしれません。

話がとびましたが、文久2年(1862)、適塾が江戸へ移ったのをきっかけに、野村は藩へ帰り、安芸藩では数少ない洋学者として、重用されるようになりました。この年、安芸藩は、長崎で蒸気船を購入することになり、野村は、その購入を任されます。元治元年(1864)、この蒸気船修理のため、野村は再び長崎を訪れ、そのまま英学修行に励んでいて、五代友厚とも親交を持ちましたし、石丸とも知り合ったのです。

石丸虎五郎、31歳。馬渡の年齢はわかりませんが、野村は29際。数えでいうならば30です。薩摩藩留学生にくらべると、けっこう年がいったトリオです。
野村の場合も、脱藩の形をとりましたが、おそらくはこれも、藩の黙認を得ていたものなのでしょう。
ともあれ、石丸、馬渡、野村の貨物船密航航海の様子が詳細に知れるのは、野村のおかげです。筆が立った野村が、日記をつけていたのです。
そうです。この三人も当然、費用節約、グラバーの所有する貨物帆船チャンティクリーア号で、長崎からロンドン直行の船旅です。

なにしろ長崎は幕府の天領ですから、三人は日が暮れてから密かに船に乗り込み、出帆まで、船底に隠れていました。
それから後も、三人の密航の旅は苛酷です。客船とちがって、寄港地での上陸、見物はいっさいありません。途中で、食料積み込みもあるのですが、その際も短時間ですませ、下船はなし、なのです。
しかし、脱藩辞せずの覚悟で密航したこの三人、さすがに勉強熱心です。
船長室において、航海術、語学、算術の学習をはじめたのですが、算術では、水夫の中に、フレデリックという名で、非常に優れた少年がいて、毎夜のように、講義をしてもらったようです。
野村は、フレデリックの資質に驚き、船長に聞くと、船長は「ミンストル(執政職にしておよそわが幕府の大老中にあたれり)の子なり」と答えた、というのですが、ミンストルはさておき、船長をめざすような、けっこういい家の息子で、航海実習をしていたのかもしれないですね。

野村にとって、洋食は苦にならなかったようなのですが、なにしろ貨物船ですから、食べ物の種類が少なく、飽きてしまいますし、そこへ船酔いが加わり、病気になったそうです。しかし、石丸、馬渡の肥前ペアーは、食欲旺盛で、元気でした。
なによりも苦痛だったのは、入浴ができないことで、野村によれば、三人とも牢屋の囚人のような汚さで、「浴湯で結髪して更衣するのほか欲願なし」でした。

スマトラ島の近くには、危険な暗礁がありました。文久2年(1862)10月ですから、3年前、幕府オランダ留学生を乗せたオランダ船カリプソ号は、ここで座礁していました。
船長は、その危険を避けるため、遠回りしてバンカ海峡を通ることにしましたが、ここには海賊がいます。船の砲が引き出されて、火薬が用意され、現地司令官から、日本人三人にも、帯刀してくれと、要請がありました。幸いにも無事、なにごともなく通過しましたが、貨物船の旅は、スリリングです。

チャンティクリーア号は、喜望峰をまわりました。
野村は、世界地誌を熱心に読んでいたようで、喜望峰を知っていました。その風景を見ることを熱望していたようなのですが、残念ながら、沖合の航路で、まったく見えなかったようです。
ここで野村は、文久の遣欧使節団がスエズを通ったことを指摘し、………スエズといっても運河はまだ完成していませんから、一度上陸して陸行するんですが、いえねえ、使節団は豪華客船なのですからスエズ経由があたりまえで………、喜望峰を通ったのは、「一、二の脱走、あるいは漂流の輩あるのみ」と、自負を持って記しています。
「脱走」は、長州藩士の密航留学でしょう。
しかし、アンドリュー・コビング氏は、ポウハタン号でアメリカに渡った幕府遣米使節団が、アメリカからの帰路、ナイアガラ号で、大西洋から喜望峰をまわって帰国したことと、先にも述べました幕府オランダ留学生たちも、喜望峰まわりであったことを、述べられています。両方とも、いわばチャーター船でした。
ところで、福沢諭吉は遣米使節団に参加していますが、正使に随行したわけではなく、護衛船の咸臨丸乗り組みで、サンフランシスコから太平洋を引き返しましたので、喜望峰はまわっていません。
かんぐりすぎかもしれませんが、野村が、文久の遣欧使節団をわざわざあげているのは、もしかすると、福沢諭吉を意識してのことではないか、と、感じます。
ちなみに野村は、帰国後の明治2年『西洋聞耳録』を出版していて、ベストセラーとなっていますが、これも、福沢の『西洋事情』を意識したものではなかったか、と思えるのです。

百日にあまる航海の末、1866年(慶応2年)陽暦3月下旬、チャンティクリーア号はロンドンに入港しました。
三人の留学生は、スコットランド・アバディーンのグラバーの実家の世話で留学生活を送ることが決まっていましたが、船長が連絡をとりましたところ、直接来るようにとのことで、ロンドン滞在は二日間のみ、アバディーン行きの客船に乗り換えることとなりました。
三人のロンドン到着は夜でしたが、その翌日には新聞記事となり、野村たちがチャンティクリーア号の甲板に出ると、岸辺には、見物人が鈴なり、だったと言います。
その新聞記事を読んだのでしょう。当時、ロンドンにいた薩摩藩留学生たちも、野村たちのことは知っていました。
後年の回想ですが、海軍中将松村淳蔵洋行談では、「カラバの世話にて肥前人、石川虎五郎、馬渡八郎の二人来りしが、スコットランドの方へ赴きたり」となっていて、野村の名はぬけ落ちているのですが。

たった一日でしたが、三人はロンドンに上陸し、見物しました。
野村は、肥前の二人と別れ、一人きりの見物です。
薩摩留学生たちのように、洋服を買う機会も、仕立てる暇もありませんでしたから、和装です。両刀をさしています。
野村は、疲れると、道端で煙草を一服したらしいのですが、そのたびに見物人にとりかこまれました。わけても腰の刀が、注目の的だったようです。
ロンドン塔を見物しようとして、門番の衛兵に追い出されましたが、野村はまだ、風呂に入っていません。どろどろの牢屋の囚人のような状態では、仕方がなかったかもしれませんね。

さて、その日の夕方、三人は、アバディーン行きの客船に乗り込みました。
まずは、客船の豪華さに驚きます。いや、まあ、なにしろずっと、貨物船でしたから。
野村は、アバディーンに住む三人の子連れのご夫人と、すっかり仲良くなり、話し込みます。
えーと、まだ風呂に入っていませんで、私としましては、それが気になるんですが。
アバディーンに到着してすぐ、グラバー(長崎のグラバーの兄)は三人に古着を買ってくれまして、着替えて洋装になるとまもなく、長州の竹田傭次郎がやって来ました。学費に困っていた竹田も、グラバーの世話になっていたのです。竹田は、勝海舟の門人で、野村と共通の知り合いがいたようです。
続いて三人は断髪し、そして、ようやく風呂に入りました。

翌日の午後には、最年少の薩摩密航留学生で、グラバーの実家の世話になっていた長沢鼎が訪ねて来ました。
野村たちは、長沢から、イギリスにいる薩摩、長州の密航留学生の話を聞きます。山崎小三郎の死と、そして、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で、清蔵少年がその経緯を語っておりますが、山尾庸三がグラスゴーにいる、という話も、です。
野村は、わずか13歳の長沢が、あまりに流暢に英語を話すことに、驚きもしました。

アバディーンにおいて、野村は一人で部屋を借りて住みますが、勉強は、石丸、馬渡の肥前ペアといっしょでした。
肥前ペアは、慶応三年、パリ万博に参加した肥前藩に手伝いを命じられ、フランスへ渡りますが、野村は、同年の9月までアバディーンに滞在し、ひと月の間に、イギリス各地を見て回ったあと、ロンドンからパリに渡りって博覧会見物。再びイギリスに帰って、10月18日、帰国の途につきました。
復路は、ゆっくりと方々を見物してまわったのでしょうか。半年にあまる旅で、長崎帰着は慶応4年(明治元年)の4月27日。すでに、幕府は倒れようとしていました。

帰国後の野村は、安芸藩でますます重用され、藩の洋学校教官も務めますが、明治3年、明治政府から出仕要請があり、東京へ出ます。当初は民部省でしたが、翌年廃止となるとともに、工部省(当初は工務省)に転じ、明治8年までいるんですが、工部省は、グラスゴーにいた長州の山尾庸三の提唱でできたわけでして、竹田傭次郎も所属しています。長州閥スコットランド仲間の引きだったんですね。
明治8年、内務省に転じた野村は、明治10年に退職し、団団社を創立します。
官吏時代の高給で、東京都内の土地を数千坪にわたって購入し、蓄財はできていました。

それで、というわけでもないのでしょうけれども、団団珍聞の風刺は、薩摩閥に向けられたものが多かったようです。
やがて長州閥への風刺へも向かうのですが、なんといっても、団団珍聞が精彩を放ったのが、薩摩スチューデント、路傍に死すで書きました、黒田清隆妻殺しの話なのです。なにしろ絵入りですから、読者への訴えも強烈です。
木本至氏は、後年の千坂高雅の証言をあげられ、「団団珍聞は相当深く真相を知っていて」、狂画を載せたのではないか、とされていますが、当時、内務省の高官だった千坂の家が、黒田の家に近く、千坂の娘が、黒田の妻の妹の親友だったと聞けば、「蹴殺した」という千坂の証言も信憑性を帯びてきます。
野村文夫は、内務省で、千坂高雅の同僚だったのです。

さらに、薩摩スチューデント、路傍に死すで出ました、「いったい、新聞「日本」に情報をよせ、村橋を悼んだのは誰なのか」という疑問なのですが、実は新聞「日本」は、野村文夫の奔走による援助で、明治22年に創刊されたものなのです。
ただ、村橋久成の追悼記事が出た明治25年10月の、ちょうど一年前、野村文夫は、すでに世を去っていました。
とはいえ、援助してもらった陸羯南が、野村文夫の人脈と、関係がなかったとは思えません。
山尾庸三ではなかったでしょうか。
山尾庸三は、あきらかに、ロンドンで村橋久成に会っています。町田清蔵少年の後年の回想がまちがっていなければ、山尾のグラスゴーまでの旅費を出した薩摩留学生の中に、村橋もいます。
青春の日の異国での出会いは、山尾にとっても忘れがたいもので、陸羯南に感慨を語り、陸羯南が記事にしたのではないかと、そんな気がしてなりません。


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薩摩スチューデント、路傍に死す

2007年04月15日 | 幕末留学
明治25年10月、神戸の地方新聞に、神戸市役所が小さな死亡広告を出しました。
半月前、神戸の場末で行き倒れた旅人の、身元がわからなかったのです。
付近を巡回していた巡査が、この男が倒れているのを見つけ、警察署へ運んで介抱し、身元を聞きます。男は最初偽名を使っていたのですが、やがて村橋久成という本名と、妻子の名、そして鹿児島の住所を告げます。
市役所に引き取られ、医者が呼ばれますが、病が重く、すでに手遅れで、発見から三日後、男は息を引き取りました。
ところが、問い合わせてみたところ、村橋久成という男が告げた鹿児島の住所に親族はおらず、身元がわからないまま、遺体は仮埋葬され、神戸市の新聞告知が出たわけです。

地方紙のこの小さな記事に、陸羯南が主催する新聞「日本」の記者が目を留め、雑報欄に「英士の末路」という記事を載せました。正岡子規が「日本」に入社する直前のことで、あるいは、陸羯南自身が書いたものかもしれません。
ともかく、新聞「日本」の周辺には、村橋久成の経歴を、かなり詳しく知る人物がいたのです。

「この行倒人、村橋久成とは、そもいかなる人の身の果てなるや。またこれ、当年英豪の士ならんとは、聞くも憐れの物語なり。また新子の語を聞けば、村橋氏は鹿児島藩の士族にして、薩摩一百二郷の内、加治木領主の分家なり。維新前、薩摩藩主が時勢のおもむくところを看破し、藩士中最も俊秀の聞こえある少年十名を選抜して、英京ロンドンに留学せしむべしとて、甲乙と詮索ありし時、村橋氏もその十指の中に数えられ、故の鮫島尚信、森有礼、吉田清成、今の松村淳蔵の諸氏と、串木野の港より船出して、八重の潮路を名誉と勇気に擁護せられ、英国に渡航し、蛍雪苦学の結果も見えて、前途きわめて多望なりしが、留まること一年ばかりにして、不幸にも他の二、三の学友と共に召還せられし」

村橋久成は、薩摩藩密航留学生の一人でした。
使節団として渡欧した、新納刑部、五代友厚、寺島宗則(松木弘安)、通訳の堀孝之をのぞいて、留学生は当初16名。巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたように、町田四兄弟のうちの一人が、出発直前に発病し、最終的には15名になりますが、このうち、将来家老となるだろう島津一門の門閥から、町田民部(久成)、畠山義成、村橋久成、名越平馬の4人が選ばれていました。門閥出身で、もともと蘭学を学んでいて、一家中が渡欧を喜び勇んだのは、町田一家のみです。
薩摩門閥は、新納刑部や町田とうさんのような、蘭癖の開明派ばかりではありませんでした。ほんとうは最初、町田と畠山、そして島津織之助、高橋要が、門閥の跡取りで候補にあがっていたのですが、町田久成をのぞいた後の三人は、渡航を恥辱と感じて、拒んだといいます。
島津久光が、直々に説得し、ようやく畠山は承諾しましたが、あとの二人がどうしてもいやだと言い張り、代わりに急遽、門閥から選ばれたのが、村橋久成と名越平馬だったのです。
つまり、留学生メンバーの中で、畠山義成、村橋久成、名越平馬の三人のみは、渡欧するまで、蘭学とも英学とも、無縁でした。村橋久成は天保13年(1842)生まれでしたから、渡欧時、数えの24歳。
しかし、英国で写した薩摩藩留学生の集合写真の中で、村橋はきわだって洋装が似合っています。
きりりと引き締まり、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちで、姿勢がよく、ポーズのつけかたがまた粋です。

これも巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で書きましたが、留学生の中で、最初に帰国したのが村橋です。慶応2年3月28日(1866年5月12日)、寺島といっしょの帰国で、滞欧一年に満ちていませんでした。
SAPPORO FACTORY 開拓使麦酒醸造所★物語の5.幕末の英国留学生(ここに村橋の写真もあります)、によりますと、帰国の理由は、以下だそうです。

もともと感受性のするどい村橋が、激しいカルチャーショックをうけてふさぎこみ、「留学の続行が危険な状態」にまでおちいったことが、使節として同行した新納刑部の書簡などから明らかになっている。

これを読んで、手持ちの書簡集を見返してみたのですが、その部分を発見することは、できませんでした。
ただ、まったく洋学の素養を持たず、名門の御曹司として薩摩で成長し、突然、藩命で洋行したのだとすれば、たしかに、すさまじいカルチャー・ショックを受けたのでしょう。

SAPPORO FACTORYの村橋のお話は、以下の西村秀樹氏の著作から抜粋されたものです。

夢のサムライ―北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成

文化ジャーナル鹿児島社

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この本では、これまで知られていなかった村橋久成死後の逸話が、ご子孫が大切に保存されていた文書から発掘されていまして、あらためて、村橋の死によって、薩摩開拓使人脈に走った衝撃を、まざまざと甦らせてくれています。
今回は、この本を参考に、書かせてもらっています。

村橋と寺島の帰国の航海は、ロンドンから上海までが定期客船、そして上海から、おそらくはトーマス・グラバーが関係していただろう、イギリスの帆船に乗ります。この船で二人は、陸奥宗光と出会うのです。
またいつものお方が、寺島宗則自叙伝のコピーを送ってくださいまして、以下、そこからの引用です。
「該船に、陸奥宗光および薩人林多助あり。なぜ乗船す、と問えば、帆船の使用を学ばんがためなりと」
帆船の操作を学んでいたんですね。
陸奥宗光は、村橋より二歳若く、実のところは、紀州藩の重臣の息子でした。子供の頃に父親が政争に敗れ、藩を飛び出していたのです。勝海舟の神戸海軍操練所に入っていましたが、これが閉鎖となり、坂本龍馬とともに、薩摩藩の保護下、長崎にいたころのことで、薩長同盟締結の三ヶ月後です。
年が近いだけに、村橋と陸奥は、船旅の開放感も加わり、うち解けて話し合ったのではないでしょうか。
後に書きますが、陸奥にとって、この出会いは、30年近い年月を経てなお、忘れがたいものであったようです。

さて、冒頭の新聞「日本」の記事の続きです。

「(帰国後)いくばくもなく戊辰の戦争となり、村橋は当時参謀長たる黒田清隆氏の手に属し、調所廣丈、安田定則両氏らと、奥羽函館に出軍し、勇名を官賊の間にとどろかし、ことに黒田氏に厚遇せられしが、乱平いでのち、特に軍功を賞せられ、物を賜う等の事あり」

黒田清隆は、村橋より二つ年上ですが、わずか4石の下級士族でした。西郷隆盛、大久保利通と同じ郷中で、薩長同盟のころから頭角を現し、戊辰戦争の活躍で、はっきりと門閥の上に立ったのです。
門閥の御曹司だった村橋が、4石の下級武士「黒田氏に厚遇せられ」という一言は、明治維新が革命であったことを、如実に語っています。
そして、黒田のもと、軍監として、越後口から函館へ転戦した村橋は、どうやら、榎本軍へ降伏を勧めた中心人物だったようです。
幕府最後の遣欧使節団のメンバーで、軍医として榎本軍に参加していた高松凌雲は、欧州で学んだ赤十字の精神を、函館病院に反映させ、敵味方の区別なく傷病兵を見ていましたが、そこへ講和交渉を持ち込んだのは、薩摩の池田次郎兵衛です。
この池田次郎兵衛の直接の上司が、村橋久成でした。

「黒田氏の開拓使長官となるにおよんで、調所廣丈、堀基、小牧昌業諸氏と肩を並べて奏任官たりしが、氏はその後、何事に感じてや不図遁世の志を抱き、盟友親族の切に留むるをもきかで、官を捨てて飄然行脚の身となり、身のなる果てを朋友知己にも知らせたり」

村橋が開拓使に入ったのは、明治4年のことです。
開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス で、少々触れましたが、黒田を中心に、多くの薩摩人がかかわり、西部開拓に習って、北海道を開拓しようとしたものです。洋式農園を開き、農作物、果実も洋種の導入が試みられました。
開拓使において、村橋久成が、もっとも情熱を傾けたのが、札幌におけるビール醸造所建設です。
しかし、そのビール醸造所が完成し、さまざまな試行錯誤、苦心の末、りっぱなビールを出荷するまでになったころ、西南戦争が起こりました。

明治6年政変の後、黒田清隆は大久保宛書簡に、「今日に立ち至り、退いてとくと我が心事追懐つかまつり候に、大いに西郷君に恥じ入る次第」と述べていて、すでに、西郷を陥れたことへの心痛を語っていました。結果、西南戦争となり、故郷を討伐せざるをえない立場となって、西郷を殺したのです。
深酒におぼれるようになった黒田は、泥酔して、妻を斬り殺した、という噂をたてられもしました。いえ………、どうも根も葉もないことではなく、斬り殺したわけではないのですが、酔いにまかせて、蹴ったか殴ったか、殺すつもりはなく、打ち所が悪かったのでしょうけれども、ほんとうに殺したのであったようなのです。
そして、大久保利通が暗殺されます。暗殺者は、西郷軍に心をよせた他県人でした。
親戚が、いえ、兄弟親子が、敵味方にわかれて戦い、結果、西郷、大久保の両巨頭を失い、残された明治政府中枢の薩摩人たちの多くは、虚脱状態にありました。わけても黒田は………、といえるでしょう。

そして、西南戦争に莫大な戦費を使ったことで、政府の財政は極度に苦しくなり、やがて、開拓使の廃止が決定されるのです。
もともと、開拓使は10年後に見直されることになっていて、それが、明治14年だったのですが、もはや黒田に、開拓使を存続させる気概も気力も、なくなっていました。
開拓使の数多い事業は、民間に払いさげられることになり、札幌のビール醸造所も、もちろんそうでした。
その払い下げの多くを、黒田は、破格の安価で、大阪を中心にはばびろく事業を展開していた五代友厚に任せようとしたのです。
村橋久成は、どうやら、そのことに深くかかわっていたようです。
それはそうでしょう。五代は、薩摩藩英国密航留学の主導者です。
新聞が、黒田の払い下げ計画をすっぱぬき、スキャンダルが巻き起こる2ヶ月ほど前に、村橋は辞表を提出し、開拓史を辞めました。
その理由は、わかりません。スキャンダルになるとは、わかっていなかった段階での辞表です。

ただ、その後の村橋は、世間にまじわることなく、いつからのことなのか、妻子を捨てて、病の身で漂白するのです。
それを思えば、村橋が虚しさを………、これまで自分がしてきたことはいったいなにだったのかと、やるせない思いを抱いて、官職を辞したことだけは確かでしょう。

自分が心血をそそいだ事業が、放り出されることへの怒りを感じていたのだとすれば、あるいは、辞職した上で、新聞にそのことをすっぱ抜いたのは村橋だった、という想像も、成り立ちはしないでしょうか。
しかし、そのスキャンダルを、大隈重信が利用して薩摩閥を追い落とそうとし、結局はまたしても薩長が手をにぎり直して、大隈を政権から遠ざける、という明治14年政変は、けっして村橋が望んだものではなかったでしょうし、そういったすべてが、あまりにも虚しく思えたのだとすれば、どうでしょうか。
村橋が神戸で行き倒れたのは、辞職から、11年の歳月が流れた後のことでした。

「定めなきが浮き世の常とはいえ、さりとははかなき最期かなと、揚升庵いわく。青史幾行名姓、北*無数荒丘、前人田地後人収、説其龍争虎闘。観し来たれば栄枯盛衰は夢のごとく、功名富貴は幻に似たり。村橋氏の感するなにのために感せしやは知らされとも、その末路を見て、うたた凄然たるものあり」

新聞「日本」のその日の記事は、そうしめくくられているのですが、翌日、哀悼の歌が載ります。

「村橋久成氏を弔う。はかなしみ君もはかなくなりにけり はかなきものはさても浮き世か。路傍の斃死、君にありては九品の浄室に寂を遂げたりといわんか。隻岡の法師かつて歌うを聞けば、ここもまた浮世なりけり。よそながら思ひしままの山水もかなと。さては浮世ながらの浄境なきを観ぜしならん。さるとても当年十秀才の一人、英京の留学生」

いったい、新聞「日本」に情報をよせ、村橋を悼んだのは誰なのか。西村英樹氏も疑問を投げつつ、答えを出してはおられません。
ただ、この記事を目にした元開拓使の薩摩人たちに、衝撃が走ります。
最初に動いたのは、愛知県知事になっていた時任為基でした。時任は、鹿児島出身で、神戸警察署長だった野間口兼一に問い合わせます。野間口は、ずっと警察畑だったためか、村橋の経歴を知らなかったのです。
そして、このとき逓信大臣だった黒田清隆も知るところとなり、村橋の遺族をさがし、弔うために人脈が動きはじめました。香典を集め、東京で盛大に葬儀を行い、青山墓地に墓を建てようというのです。

外務大臣となっていた陸奥宗光は、自ら黒田に「外航をともにした知遇があるので、弔意を表したい」と申し出たようです。
陸奥の脳裏には、外洋を走る帆船のデッキで、ふるような星空の下、潮風に吹かれて、村橋と語り合った青春のひとときが、あざやかに甦っていたのでしょう。

香典をよせた人々の中には、維新前、新撰組、高台寺党だった加納道広(鷲雄)、阿部隆明(十郎)の二人もいました。どちらも薩摩人脈に連なり、維新後は、開拓使にいたのです。
かつて近藤勇を狙撃し、首実検をした加納は、村橋の遺児を伴い、神戸まで、村橋の遺体を引き取りに行く役を引き受けました。
あるいは加納の胸にも、動乱の中で夢中に生きた青春の日々が、よぎったでしょうか。

自分たちは、なにに命をかけたのか。維新とは、いったいなにだったのか。
幕末維新から西南戦争にかけての動乱を生き延びた誰もが、日々の営みにまぎれて、奥深く封殺していただろう自問を、村橋久成の路傍の死は、苦くも、浮かびあがらせずにはいなかったのでは、なかったでしょうか。


追記 
fhさまが調べてくださったこと。『日本建築学会論文報告集』201(1972年)、小野木論文「皇居造営機構と技術者構成」に対する質疑および回答より。質問者は遠藤明久氏(「小野木重勝氏の論文 : 「皇居造営機構と技術者構成」に対する質疑」)。
小野木氏が回答(「遠藤明久博士のご質疑に対する回答」)のなかで、村橋久成について補足説明。)

村橋久成(鹿児島県士族・天保13年10月21日生・旧名直衛)は、明治4年11月開拓使十等出仕を振出しに、九等出仕権大主典・大主典・七等出仕・権少書記官に昇進、七重村官園詰・北海道物産縦観所・物産局製練課・東京出張所勧業課長・同農業試験所長などを歴任し、明治14年5月本官を免じられ、明治16年2月皇居造営事務局准判任御用掛として建築課兼監材課勤務を命じられ、同年12月1日付で建築課専任となり、明治17年4月に御用掛を免じられております。1年2箇月の短期間の在職ですが、基準4)および5)によって監材関係技術者中に包含いたしました。「皇居御造営誌・職員進退並賞与」によりますと、監材課では准判任御用掛林糾四郎と名前を並べて記載されており、その存在を無視することもできません。開拓使時代の農業試験場長などの経験をかわれて監材関係業務に従事したと考えられます。


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巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2

2007年04月10日 | 幕末留学
巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1の続きです。

慶応2年(1866)、イギリスの東アジア貿易は金融危機に陥り、ジャーデン・マセソン商会も危なくなります。グラバーの金主はジャーデン・マセソンでしたので、そんな関係があったことと思われますが、薩摩藩庁は留学費用に困ることになっていたようです。
五代友厚は、帰国後すぐに、新たにアメリカへ留学生を送り出す計画を実行し、この年の3月28日、長崎より、仁礼平輔(景範)、江夏蘇助、湯地治右衛門、種子島啓敬輔の五人を、欧州経由で送り出します。5人は途中、上海にも滞在し、喜望峰経由でゆっくりと旅をしたようで、ロンドン到着は9月7日なのですが、後年の清蔵少年談によれば、このため、イギリス留学生の費用を減らす必用が出てきて、数人の帰国が決まった、ということなのですね。
おそらく、それは、4月か5月ころだったでしょう。三笠(名越平馬)、岩屋(東郷愛之進)、松本(高見弥一)、塩田(町田甲四郎・兄)が帰国することになります。このとき、ほんとうは、清蔵少年も帰国するはずでしたが、フランスへ行くこととなりました。

「私が仏国行ともうすのは、仏国に、薩摩に同情をよする貴族で伯爵、モンブラン家において、青少年を帰すは将来、薩摩公の御ためならずだから、この青少年は私(モンブラン)が引き取り学費も出します、とのことより参りました。仏国では、学校教師の某(名を忘れました)の宅に居りました。この家庭は、老夫婦と17、8の娘さんと、8歳ばかりの男の子と4人で、私と5人で、その老婦は英国人で、娘さんも英語が流暢でしたから、英語ばかりで話ますと、おやじさんが不機嫌で、言うに、あまり英語を使わせると仏語が覚えぬからよくない、というもかかわらず、私は老母と娘さんにかわいがられて、食事の時だけ、一家団らんに仏語を使いました」

この下宿は、先にモンブランが連れ帰っていたジェラールド・ケン(斉藤健次郎)がいたところだったそうなんですが、どうやらケンは、薩摩藩に傭われて、日本へ帰っていたようです。翌年、博覧会で再び渡仏しますから、その準備に傭われたのでしょう。
それにしても、イギリスの下宿にくらべて家庭的で、清蔵少年にとっては、とても楽しい生活だったようです。

「私が仏国留学中、モンブラン伯の御妹子が男爵家に御婚儀が調ひました時、あたかもその時はゼルマン(プロイセン)とオーストリヤとの戦争中でありましたから、男爵家の観戦御旅行に随従しましたが、私もまだ16歳の時で、かつまた戦ということは、前九年後三年の絵本で見たばかりで、実物の鉄砲戦は生まれて始めて見る事で、それはそれは恐ろしきや面白いようでした」

えーと、薩英戦争は? とつっこみたくなるんですが、あんまり「戦争」という感じがしなかったんでしょうねえ。たしかに鹿児島城下は焼けましたが、火事みたいなもので、薩摩側はだれも死んでないですし。
「モンブラン伯の御妹子」が結婚した男爵は、フランス陸軍関係者でもあったのでしょうか。もしかすると、新妻を連れての観戦、でしょうか。
普墺戦争も、けっこう、のんびりしたものであったようです。

「その後、英国の学生沢井(森有礼)、永井(吉田清成)、上野(町田久成・にいさん)、参りまして、モンブラン伯爵の了解を得て、私を帰国さする用件だったようです。私は兄がいうなりにしておりました。議論というのは、よくよく外国貴族の世話で学費までも出してもらうという事は、わが君公に対し御不名誉につき、帰藩するが得策との事にて、兄上野は、私の実兄かつ学頭の身柄なれば、ほかのものは帰して、私を置くわけにはまいりませんでしたろうと思います」

また出てきました。性格が悪い、森と吉田ペアー。これも後年の思い違い、ということは、大いにありそうなんですが、白山伯vsグラバー 英仏フリーメーソンのちがいで書きましたように、おそらくモンブラン伯爵は無神論者に近かったと思われ、一方、この当時、イギリスで森や吉田に強い影響力を持っていたローレンス・オリファントは、ハリスの新興キリスト教に、狂信的といっていいほど傾倒していたんです。
そんな関係から、オリファント卿にモンブラン伯の悪口を吹き込まれた二人が、学頭だった町田にいさんに、「信用できないから、弟を預けるのはよせ」くらいは、言った可能性があります。
楽しいパリ留学生活を送っていた清蔵少年には、迷惑きわまりない話です。

「それで、ようよう伯爵の了解を得て帰国の事になりましたが、下宿屋の老夫婦、娘さんなどとは、大いにかなしみました。さて私は16歳でひとり旅であるから、伯爵家より仏国郵船会社長へ、日本薩摩少年を無事に取扱を申し入れられたるをもって、会社長は東洋出帆の郵船長に申し伝えられ、私は航海中、至極便利を得しました」

実際にはどうも、久成にいさんとともに畠山義成が、一人で帰国する清蔵少年を気遣い、モンブラン伯とも細かく連絡をとっていたことが、残された畠山の書翰からうかがえるのですが、おそらくは翌年、畠山が森や吉田などとともにモンブラン批判を建白し、藩の帰国命令にさからって、ハリス教団に入ったことから、町田にいさんをはじめ、町田家にとってはあまりいい印象が残らず、清蔵少年の記憶からも、すっぽりとぬけ落ちたのかもしれません。

「いよいよ仏国出発の前日、兄より私に船中の小遣いとして英金貨20ポンド(日貨百両)をくれました。ほかに香港にて受け取る為換英貨100ポンドの證券一枚をくれ、別れる時のかなしさ、その夜は泣いて寝ませんでした。翌日はマルセイユへ出発し、時刻を計りまして、一家族に別れる時は老夫婦はいくどか私と接吻をかわしまして、娘さんは、パリの中央停車場まで見送り、一等待合室に、一生の別れかと、将来またまた仏国へおいでなさいと、またまた接吻をかわし、発車20分前のベルが鳴り、私両人は室外に出て、娘君と幾度も接吻を続け車上の人となりました。かの接吻と申しまするものは、假令一青小の男女にても、別れる時の人情で、かつ外国の常習でありますから、ほかの多くの人たちは、さらさらかえりみません。車上では仏国を思い、英国の兄を思いまして、じつなふおさりました」

マルセイユ行列車が発着する駅ですから、バスティーユ広場に近いリヨン駅でしょうか。
停車場で、泣きながらキスをして、別れをかわす17、8のアドモアゼルと、16歳の薩摩貴公子。
楽しい留学生活でしたのにねえ。意地悪な人がいるものです。

「マルセール着しまして、一夜旅宿しまして、翌日出帆の仏国郵船に乗り組みました。マルセイユの支店長が乗り、この支店長と乗船し、船長にモンブラン伯爵の添書を渡しました。船中は私一人の日本人で、船長よりほかに知人もなく、しかし長き航海のうちにははなしみもできることと思っておりましたが、そのうち船客も乗組済、抜碇となりまして、桟橋をはなれて進行を始め約一里ばかり行った時、一等客上甲板にて、あたかも私と同年輩の少年が、私の安楽椅子により申しますに、あなたは日本人ですかシナ人ですか。私は、シナといわれ少しく腹が立ちましたが、私はこう答えました。私は日本帝国民で、長く英仏の間に留学しておりました。あなたはどちらですか」

さすがは、国学と蘭学で育った清蔵少年です。
同年配の少年は、オランダ人でした。少年の祖父が、「蘭領オースタリヤ」の海軍司令官で、父親が海軍中佐で、一家そろって赴任するところだったのです。
日本から、東南アジアまわりの幕末渡欧航海記に、このオランダ領「オーストラリヤ」というのがよく出てきて、とまどうんですけど、おそらく、いまでいう「オーストロネシア」で、インドネシアのことなんじゃないんでしょうか。

「今後はお友達になりましょうというので、これから無二の戦友となりまして、四十余日間兄弟のようにいたし、各港に着けば必ず二人で乗降しました。中将は白髪、年は72、3とか申し、中佐は50余歳で船友となりました。少年は私と同年で16歳でした。ある日、夕食後、上甲板で中将と椅子を並べて、孫さんがその次におり、孫さんと中将となにか蘭語で話しており、私はさらにわかりませんでしたが、中将はあまり達者でない英語でもって言うには、オーストラリヤへ行かんかと。私は、行きたいも私は香港為換券の百ナポレオンしか金がありませんからいかがいたしましょうか、と申しますと、中将が申しますに、お金などいらぬ、わしが小遣い金はあげるから心配はない、またオランダの海軍士官にして、オランダの国籍に入れる、と。このとき、戦友の孫さんがしきりに祖父さんにせまりましたから、ますます私にオーストラリヤ行きを勧め、私も孫さんと離別する事をかなしむところより、乗り気になりまして、承諾いたし、それからというものは、孫さんの大喜び、ますます兄弟のようになりましたから、いよいよ香港より南下脱走を決心しました」

あれあれあれあれ。数えで16歳ですから、今でいえば15歳ですが、新納少年にくらべて、町田少年、なんとも陽気です。
モンブラン伯爵に気に入られ、下宿では家族同然にかわいがられ、豪華客船一等船室では、オランダ提督のお孫さんと無二の親友になる。
育ちがよくて、素直で、人なつっこかったんでしょうね。
この部分になんとなく覚えがあって、司馬さんがなにかの随筆で紹介されていたように思います。
ともかく、当然ですが、香港では、おそらくジャーデン・マセソンの社員が連絡を受けていて、お孫さんとともに「オーストラリヤ」へ行こうとする清蔵少年を引き留めます。
大事なお得意先、薩摩藩の名門のおぼっちゃんが、オランダ人にさらわれた、では、申し訳がたちませんものね。
清蔵少年は、上海経由で長崎に帰り着きましたが、上海でも送金を受けて、三、四百両も持っていたんだそうです。
とりあえず、薩摩藩の長崎屋敷に落ち着くのですが、長崎留守居役の汾陽(かわみなみ)が、「ここの老人仲間におられてはご窮屈であるから、書生のところにおいでなさい」といって、二人の薩摩藩長崎留学生に清蔵少年を預けたのですが、この二人、とんでもない遊び人でした。

「ある日、長崎の丸山という遊郭に誘われて一泊しましたが、私は子供のことにつき、女郎と寝たばかりで、女郎の方では自分の子供を抱いたように思い大事に取扱いくれ、私は色気のいの字も知らん時ですから面白い事もなく、よく朝勘定をすまし帰りましたところ、いつしかこのことが汾陽の耳に入り」、汾陽は清蔵少年に、「二人の書生があなたを悪所に連れて、その費用をはらわせたとのことにつき、書生を呼びよせしかりおきましたが、この後、いかようのことをあなたに勧めるかもはかりがたいにつき、鹿児島にお帰りになった方がよかろうと思います」

そういうわけで、清蔵少年は、久しぶりに、故郷の土を踏みました。
「財部実行回顧談」は、昔日の洋行のことを語るのが主目的だったようでして、帰国後のことは、ごく簡単にしか述べられていません。
昔からの約束で、清蔵少年は、やはり島津一門の門閥で、平佐城主、北郷主水の養子となり、五代友厚が立ち上げた鹿児島紡績工場のイギリスたちの通訳を務め、維新を迎えたようです。
町田兄弟の間では、英文で手紙をやりとりするほどで、清蔵少年、さっぱり日本文ができません。久成にいさんの勧めで、東京へ出て、漢学を習い、その後、築地の海軍兵学寮で学んでいたのですが、「明治7年征韓論のとき退学」したそうなのです。
その後、清蔵少年がどういう人生を送ったのか、西南戦争には参加しなかったのか、知りたいのですが、かいもく、手かがりもつかめません。
なにか、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。


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巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1

2007年04月08日 | 幕末留学
しばらく休みましたが、またまた少々脱線を。
セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた は、新納武之助(次郎四郎)と新納とうさんのお話でしたが、今回は武之助の先輩ともいえる、町田清蔵少年のお話を。
町田家も、新納家と同じ島津一門、日置郡松元町石谷1750石の領主で、代々家老職を務める門閥です。
薩摩藩イギリス密航留学生には、門閥の子弟と、蘭学などの成績優秀な藩士(当然、蘭方医を含みます)とが入り交じっていました。
なんといっても薩摩藩は、島津重豪、曾孫の斉彬という蘭癖君主が続きまして、一門にも蘭学好みがひろがっていたようなのです。わけてもこの町田家は、すこぶるつきの洋学好きだったようで、四兄弟そろって(次男をのぞく)留学させようとしたのですが、上から三番目の町田猛彦は病気にかかり、長兄・町田久成、四弟・町田甲四郎、末弟・町田清蔵の三兄弟が、渡航することとなりました。
町田民部久成は、渡航当時27歳。大目付で、新納刑部が正使なら久成は副使なんですが、久成が留学生でもあり、最初から長期滞在の予定で、学生の取締官役も果たしました。

(追記) 
末弟清蔵少年が後年に書いた「町田久成略伝」によりますと、町田久成には「四弟」があったそうです。二弟は最初から留学仲間に入っていませんでしたようで、名前もわかりません。しかし「四弟」すべて、「各他家」を継ぐとなっていますので、健在ではあったようです。

久成については、以下の本に詳しく書かれていますが、東京上野の博物館創立者として、顕彰碑が建っているそうです。

博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館

岩波書店

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さて、末弟の清蔵少年です。
清蔵少年は、長寿を保ったようでして、大正11年(1922)、70を越えて、矍鑠と往事を語り残しています。新修森有礼全集第4巻に修められた「財部実行回顧談」がそれなんですが、清蔵少年は養子に出ましたので、財部は養子先の名字のようです。
これが、もう、なんといいますか……、財部実行氏、往年の清蔵少年は、座談の名手だったようでして、少々脚色して、お話しをおもしろくしているんじゃないか、と思えるほどです。
私、ごく最近、国会図書館にコピーを頼みまして、読んだのですが、お話しの一部、どうも、司馬遼太郎氏が、街道を行くかなにかで紹介されていたように思うんですね。あるいは、私の勘違いかもしれませんが。
ともかく、そのままで、短編小説になってしまうような、楽しい回顧談なんです。

「平生私の親は申しましたのに、貴様は孔子や孟子の学問をしたところが何にもならぬ。孟子のいうことは支那の話家だ。あんなものを習うては国を富し兵を強うすることはできぬというので、蘭学を12歳の時から始めて全く漢学をやめさせられました」

いや、新納とうさんといい、薩摩開明派門閥の蘭学重視、漢学軽視には、すさまじいものがあります。
長兄の町田久成は、江戸で平田国学の門下になっていますし、どうも、国学が基本にあって、漢学より蘭学を重んじるという、そういう流れがあったように感じます。

庄屋さんの幕末大奥見物ツアー で書きましたが、川路聖謨の日記に出てくる江戸のインテリ女性。「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」って、これ、女性版、町田とうさん、ですよね。
ちなみに幕府の開明官僚だった川路聖謨は、島津斉彬と親交があり、妻の高子さんは、斉彬侯の亡き母君を見知っていたので、法事に回顧文を献じたりしています。

それで、蘭学で優秀な成績を収めて14歳になった清蔵少年、ある日御用状が来てお城へ呼び出され、町田とうさんに、「今度は善い面白いことがあるのだ」と言われます。ところがところが………、正装して登城し、辞令をもらいましたのに、「大島渡海仰せ付け」とあり、清蔵少年、青くなります。
「おとと様、大島という所は咎人を遠島、島流しするところですのに、いやです」
と、とうさんに訴えました。とうさんいわく。
「否とよ。この節の大島は咎人あつかいではない。実はあの島に天下に内緒で、オランダ人をお雇いになって学校を御立てになり、その書生に行くのだ。貴様ひとりではない。今日のご用状を受けた人はたくさんいるから心配するな」
とうさんは、にっこりと請け合うのです。

あー、とうさんはもちろん、イギリス密航のことは知っていたのですが、一応、国外渡航禁止は天下の御法度です。秘密だったんですね。

「その時分は唐天竺というと、それほど遠き国にて」、清蔵少年は、とうさんと写真をとりかえっこします。
写真を撮るのが、また騒動です。当時の写真は、とても技術のいるもので、薩摩でその技術を持っていたのは、宇宿彦右衛門と中村宗顯(博愛)のみだったんだそうです。中村宗顯は、薩摩の長崎医学生で、イギリス密航仲間に入っています。おそらく、彼に撮ってもらったんじゃないでしょうか。

留学生たちは、串木野郷の西にある、羽島という小さな漁村に集まり、30日ほど船を待っていました。その間、清蔵少年は、中村宗顯から、英語、オランダ語の会話を学びます。蘭学っていっても、書物のみの学問なので、会話はさっぱりだったんですね。その点、中村は、長崎でオランダ人ボードウィンに医学を学んでいましたので、会話も、ある程度はこなせたのでしょう。

この羽島沖は、香港長崎航路になっていて、異国船を見張る遠見番所があったんだそうです。ある日、その番所から、「蒸気船が近づいてきますが、お城下へ知らせますか?」と問い合わせがあり、久成にいさんは、「それは、おれと新納さまで処置するから、知らせなくていい」と答えます。
と、これは薩摩の胡蝶丸でして、五代と寺島、通訳の堀宗次郎が乗っていて、船から降り立った五代は、学生それぞれに一枚、「ふらんけっと」を手渡しました。ブランケット、毛布だったんでしょうねえ。
「このようなものは生まれて始て見るものにて珍しく、子供心にうれしく思って大事にいたしおりました」
で、航海に備えて、鶏200羽、卵5000固、ダイダイ500個を、一日で集めたというのですが。なんか………、船員を入れても、おそらく50人強。香港まで1週間の航海。そんなにいっぱいの鶏や卵をどうしたんでしょう? 香港で売りさばいたんでしょうか。つーか、薩摩の片田舎の漁村近辺に、そんなにいっぱい鶏がいて、卵を産んでいたんでしょうか???

さて、その翌日、いよいよグラバーの持ち船オースタライエン号がやってまいりました。それに、イギリスへの案内人となるライル・ホームが乗っていて、清蔵少年は、生まれて初めて西洋人を見ます。
「私は小児のことであり、おそろしきような心地がしました」
船見物という形にして、オースタライエン号に乗り込みますと、船員はみんな西洋人です。
「船中はみなみな猿に寸分もかわらず、言葉は何を聞いてもキキチチ、まるで猿のようで、頭の毛は赤く、またそばによれば臭く」だったんだそうですが、えー、この部分、原文のままの引用ですので、差別的表現はご容赦ください。

「頭髪を切り刀を箱詰めにいたし積込み」、元治2年(1865)3月22日(新暦4月17日)、清蔵少年数えの15歳、香港へ向けて、7日間の航海が始まりました。
ただ、留学生の一人だった畠山義成(杉浦弘蔵)の洋行日記によれば、髪を切ったのは船に乗り込んで2日目です。
さっさと洋装になろうというこの意気込みは、おそらく、幕府の遣欧使節団に随行した寺島宗則の意見だったんじゃないんでしょうか。

「船中にては飯は食えず、くさくさし、まるで大病人にて、ただただ中村より習い覚えし片言の英語で、ワーターWater、オレンジOrangeをボーイにせまり喰い飲みても、すぐ吐くというあんばいで、夜10時ころともおぼしきに香港へ着船いたしまし、そのときのうれしさ、今にわすれません」
畠山日記では、途中天気が悪く、船がゆれてみな酔ったそうですから、少なくともダイダイは、品切れになったかもしれませんね。

アジアの小ロンドン、香港に着いたのは夜でした。
「夜なれとも前後左右を見るに港内は広く、帆前船、蒸気船は何千何万とも思うほどの船がつながりおり、陸は山上山下、あたかも星が雨ふるような光にて、なんとも言いようなく、早く夜があければよいと、子供心のうれしさを忍び寝ました」
夜が明けて早々、清蔵少年は甲板に出ます。前後左右に、船が何千と連なっているその賑わい。
広い鹿児島港に、蒸気船といえば、月に一度か二度、藩所有のものが1、2隻、入港するばかりだったのですから、驚くばかりでした。
留学生全員の洋服が、手配されます。仕立てている暇はなく、古着ですから寸法があいません。
「皆々着用して上陸と出かける時に、五代、銀貨50ドルづつを渡され、そのうれしさ。上陸しますと、道路の立派、家の大きいことや店の品物は始めて見るものばかりで珍しく、時計屋に入りまして、五代は金時計を購われ、子供心に欲しく、それは宇和島の殿様御用品とのことでありました」
ライル・ホームは、清蔵少年と、一つ年下の磯永(長沢鼎)少年のみ……、この二人をのぞけば、後はみな18歳以上ですので、子供二人だけ、なんですが、誘います。シナ人の担ぐ妙なカゴに乗せられ、着いたところは大きな異人館。
「入り口に男女の小児やジーサンバーサンの御出向て、キイキイというても私はわからず、バーサンが私の頭をなでたりさすったりしまして、笑顔をもってやはりキイキイしゃべくる。そして、客間へ引入れたるにその座敷の結構うつくしきことかぎりなく、お茶と菓子が出ました。男女の小児が私どもの長椅子によりかかり、小猿めが菓子をくえといはんばかりに仕向けたるに、2,3品を取り茶を飲みたるに、これはしたり、奇妙な味と香に吐出もならず、一口にのみました。これは紅茶にて牛乳の入れ足るものにて、ただ今なら、頭を二つ三つ打たれても飲みますが、なにせ60年近くの前にて、唐天竺とは十万億土の先、
くらいに思うた時代でありましたので、無理からぬ事であります。それからその家を出て、順々に異人館に参ることでしたが、まるで私などを無料見世物巡業したような、馬鹿馬鹿しい、よい面の皮でありました」
香港には一週間ばかり滞在し、イギリス東洋艦隊香港守備の巡洋艦にも招かれましたが、この巡洋艦は、薩英戦争に参加したとのことだったそうです。

香港で、イギリスの豪華客船に乗り換えます。イギリス、サザンプトン港までの船賃が100ポンド。一等客室です。
「この航海より船酔もなく、また異国人になれて食事も甘く、この飛脚船の客室、食堂、浴室、便所その他設備の完全し、すべてが目を驚かすばかりでありました」
シンガポール、セイロン、ボンベイ、アデン、カイロ、アレキサンドリヤ、マルタ島。
「この島は珊瑚珠の産島にて、珊瑚の卸商家並に大店を見物に出かけ、ある店にて五代が立派の珊瑚のかんざしを購われましたが、価格は250ドルで、聞きますとこれは、宇和島公のお姫様の御用品との事でありました」

マルタ島は、聖ヨハネ騎士団が開拓した島です。
ヨハネ騎士団は、もともとは聖地巡礼者を守護するためにエルサレムで結成された修道会に起源がありますが、12世紀、十字軍の中東遠征により、武力集団となって、騎士修道会として認められました。
中東を逐われた後、ロードス島を本拠地に、海軍騎士団となりますが、オスマン帝国に破れて、ここも逐われます。
次いで本拠にしたのがマルタ島でしたから、騎士団の手で、マルタ島は全島要塞となり、またなにしろ海賊的要素の強い海軍騎士団でしたので、港が整備され、格好の海軍基地となりました。
マルタ島に因った騎士団は、16世紀、オスマン帝国の大軍団を撃退しています。
しかし、時代の変化とともに、騎士団の組織そのものが衰え、18世紀の末、騎士団は戦わずして、ナポレオンにマルタを明け渡します。
その後、イギリス海軍が海軍基地としてのマルタ島の価値に目をつけ、イギリス領となっていたものでした。

そんなわけで、マルタ島には軍事的な見所が多く、畠山日記には、古の騎士団の武具を見た話などが出てくるのですが、清蔵少年………、そんなことにはまったく触れず、珊瑚のかんざしです。なんで、五代が買ったかんざしの値段まで、覚えていたのでしょうか。驚いたもの値段だけ、メモしていたのかもしれないですね。

元治2年5月28日(畠山日記より)、サザンプトン港着。
「香港で買うた古着は着ないで、まるで日本衣にてすぐと汽車に乗組みますと、英国の小児が、チャイニーズといって、停車場までうるさき事であり」、といったような状態なので、ロンドンに着いた一行は、ケンジントン公園に面した豪華ホテルに入り、まずは理髪をし、新しい洋服が出来上がるまで、「囚人のように」閉じこもりました。
「服屋は19人ぶんの寸法をとりにかかり、それはそれは大にぎやかで、二十日ばかりたって下縫いができて、30日くらいで皆の服が出来上がり、時計屋より、鎖は金鎖でよろしいが時計は銀側にせよと、学頭町田(にいさんです)の申渡しでした。銀でもなんでも、買うてもうろうた時のうれしさ、なにもたとえようもありませんでした。新しき服にシルクハット、胸に金鎖をひらめかし立派な紳士となり、はじめて市井に出まして」、郵便局電信科なんぞを見学し、アメリカと短時間で交信ができることに驚いたりします。

ここらあたり、多少、後年の清蔵少年、記憶ちがいをしているようでして、畠山日記によれば、留学生たちは即、近くのアパートメントに引き移り、語学教師を招いて、勉強をはじめています。つまり、洋服ができるまで、「囚人のように」閉じこもっていたのはアパートで、語学研修に日々はげんでいたのですね。
「ある日、下女来まして申すに、階下に日本人三名見えまして会いたいと申されますが、いかが取りはからいましょうかというに、沢井(森有礼)、永井(吉田清成)、野田(鮫島尚信)、出水(寺島宗則)、上野(にいさんです)、五人集り、なにか密々話の末、階上にご案内せよと申しましたら、下女のかたわらに三名、室に入れていわるるに、私らは長州藩より渡英したる遠藤謹助、山尾庸三、井上彌吉(勝)と申す者なるが、日本を発したときは五名にて、伊藤俊介(博文)、井上聞多(馨)なりしに、この両人は先に帰藩し、しかるに学費の送金あく困難しておりますとの話は、今に忘れません」

この部分にも記憶違いがあるようでして、畠山日記では、世話人ライル・ホームから、長州人が会いたがっている、という話がすでにありまして、この日の面会となったようです。
留学生たちの残された書翰からも、町田に次いで留学生全般の面倒を見たのは畠山義成ですし、この人も門閥です。
留学決定当時の年齢も、畠山(23)、吉田清成(20)、鮫島尚信(20)、森有礼(18)です。
寺島宗則、町田久成と同格で話あったとすれば、畠山義成のはずなんですが、吉田、森は、 江戸は極楽である岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保でご紹介しましたように、強引で、個性が強く、鮫島尚信もまたそうだったようで、これは言い換えれば性格が悪かったわけなのですが、その押しの強さで、滞欧中に留学生の中心となり、新政府でも、もっとも大きな活躍の場を得たんですね。そのことは、またお話することになろうかと思うのですが、町田久成などの門閥出身者は、やがて新政府に違和感を覚えて出家をしたり、ということになります。
どうも、そういった後年の様相が、記憶に影響を与えて、森、吉田、鮫島の登場になったのではないでしょうか。
これは憶測なんですが、後年の清蔵少年は、この三人に、あまりいい感情は持っていなかったように感じます。

「その後、めいめい分宿の後、上野学頭の分宿所に山尾君の来訪にて、いわるるには、拙者もスコットランド、グラスゴー造船に行き、職工かたがた苦学の考なるも、旅費に困入る次第なれば、なにとぞ拝借はかないますまいか、との事に、上野も藩金を貸すわけにまいりませんから、各学生に相談しまして、学生より1ポンドづつを拠出しましたところが、16人にて英金16ポンド、日本金にしては10両を得まして、山尾君に贈呈しました。大喜びにてスコットランドに行かれましたが、井上(勝)さんは、お気の毒にはウィリヤムソンの学僕に住み込まれました。私などは毎月一度づつ、惣世話人のウィリヤムソンの晩餐に呼ばれ、生徒の心得方などの訓示見た様なことをなしましたが、その時は井上君は私どもの配膳をなされました。遠藤君は、分宿後はあって見得へました。遠藤さんは中々好人物にて、ことに私みたような小児は、かわいがってくれました」

この部分の回想は、よくいろいろな書物で紹介されていまして、司馬遼太郎氏も、なにかで書かれていたと思います。
留学生たちの分宿は、渡英後二ヶ月で、行われたようです。このとき、最年少の磯永彦輔(長沢鼎)は、グラバーの兄の世話で、グラマースクールに入学するするため、アバディーンへ旅立ちました。
したがって、ロンドンにいる薩摩留学生のうち、最年少は清蔵少年となったわけです。
長沢鼎の旅立ちの時期について、後年の清蔵少年は記憶ちがいをしていますし、分宿の様子についても、松村淳蔵(市来勘十郎)の回顧談とくいちがうのですが、清蔵がいっしょに暮らした人を忘れることはないと思うので、ここは、清蔵談の方が正しいのでしょう。
清蔵談によれば、朝倉(田中静洲)と永井(吉田清成)といっしょだったそうなのですが、「私三人分宿後、半年ばかりして朝倉は仏国学生となり、永井はまた他に転じて、私一人残りましたところ、その時は私は15歳で、ひとりで泣いたことがたびたびありました」

中村宗顯(博愛)と朝倉(田中静洲)、ともにボードウィン門下の蘭方医留学生は、フランスの学校に転じることになったのですが、それが慶応元年(1865)年内だったとしますと、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きました、五代、新納、堀の三人の最後の渡仏に同行し、モンブラン伯爵の世話になることになったのではないかと思われます。

五代、新納、堀の帰国後、最初に帰国したのは、慶応2年3月28日(1866年5月12日)、寺島宗則と村橋直衛なのですが、維新後の村橋は数奇な運命をたどっていまして、これは、またの機会に語りたいと思います。

なにやらこのブログ、本文1000字以内になったみたいでして、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2へ続きます。


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