郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍 番外編 コピペ横行

2014年03月28日 | 伝説の金日成将軍


  伝説の金日成将軍シリーズの番外編です。
 
 最近、世間を騒がせました佐村河内守氏のゴーストライター問題と、小保方晴子氏のコピー&ペースト問題。今回取り上げたいのは、コピペの方です。

 小保方氏は、博士論文におきまして、冒頭の20ページほどを、ほとんどそのまま、アメリカ国立衛生研究所のサイトからコピー&ペーストしていた、ということが、今回の騒動で明かされています。
 いわば一般論を述べる部分ですから、参照した上で、自分の言葉に直して語れば問題ないですし、一部分ならば、出典を明記して引用することもできます。
 しかし、いくら本論部分ではないとはいえ、博士論文で、出典もなく延々コピペって、常軌を逸しているでしょう。

 これに対して小保方氏は、「悪いことだと知らなかった」と言っているとも伝えられ、唖然とします。
 紙にかかれた論文ではなく、署名のないネットの文章、ということで、常識が飛んでいってしまうのでしょうか。
 
 実は、ですね。最近、ギョッとするようなwikiのコピペにめぐりあったんです。

歴史通 2014年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
ワック



 上の雑誌、半島特集の萩原遼氏と黒田勝弘氏の記事が読みたくて買ったのですが、連載らしい宮脇淳子氏の東洋史エッセイも、半島のお話でした。
 「金日成は何人もいた」という題で、文章量は見開き2ページ。
 内容は、ちょうどこの伝説の金日成将軍シリーズに重なるものですが、短いですし、結論部分で少々首をかしげたくなる話が出てくることは、後述します。

 宮脇淳子氏は、東洋史家とはいえ、モンゴル史がご専門ですし、北朝鮮の現代史にあまりお詳しくなくても仕方がないですし、Wikiの文章をそのままもってこられるにしても、「一般的によくいわれていることは、例えばwikiでは」と前置きした上で引用なさるのであれば、なんの不都合もありません。
 ところが、まったくwikiへの言及はなく、にもかかわらずWiki-金日成の文章とそっくりな部分がありまして、息をのみました。

 なんで私にそれがわかったかと言いますと、コピペされていたのは、私が書き換えた部分だったからです。
 私が書いた、というのではありません。書き換えたのです。

 wikiペディアの項目は、だれでも編集することができますが、いくら好きに書いてもほとんど誰からもなにも文句が出ない項目と、ちょっと書き直しただけで即ひっくりかえされたり、抗議されたりする項目があります。
 Wiki-金日成は、もちろん後者、多数の執筆者が関心を持ち、下手なことをすると騒動が起こる項目です。
 できれば触りたくなかったのですが、金日成伝説のモデル金ギョン天(金光瑞)を2009年に立ち上げました時、整合性をとりたくなりまして、おそるおそる手を入れました。
 下手をするともめる項目ですから、徹底的に原典を明記し、脚注を多用し、後述しますが、直さなくてもなんとかなる語句は、文章として多少不自然でもそのまま残し、書き換えたんです。

 おかげで、本文は文句をつけられることもなく、幾度も書き換えたのですが、一昨年(2012年)に金日成の上官でした呉成崙の項目を立ち上げまして、そのときやはり整合性をとりたくなり、本文だけではなく、冒頭の定義文にも手を出しましたところが、もめにもめまして、その記録はノートの最後「17 金日成のパルチザン活動について」に残っております。

 まあ、ともかく、私一人で書いた文章ではないですし、wikiに書いた時点で、著作権は放棄しております。
 しかし、だからといって、商業誌の連載エッセイに出典明記もないコピペは、いかがなものでしょうか。
 あまりにも露骨なコピペですので、あるいは、だれか学生アルバイトにでもやらせた結果なのか、とも思うのですが、あんまりうろんなことをなさると、宮脇氏がおっしゃるところの「北朝鮮寄りの研究者たち」、おそらく和田春樹東大名誉教授とか水野直樹京大教授とかではないかと思うのですが、彼らの言説への批判として、まったく説得力がなくなってしまうんですよね。

モンゴルの歴史―遊牧民の誕生からモンゴル国まで (刀水歴史全書)
宮脇 淳子
刀水書房


 宮脇氏の代表作はこちらでしょうか。専門では、りっぱなご研究をなさっているのですから、マルクス史観の中国、北朝鮮史を正面から批判していただくためにも、揚げ足をとられるような著述はひかえていただきたいと、あえて引用比較させていただきます。

歴史通 2014年 3月号 宮脇淳子著 東洋史エッセイ「金日成は何人もいた」
 確かな史実として金日成の名前が残るのは、1937年6月4日、満州の東北抗日聯軍の一部隊が、朝鮮の咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件である。
 国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったので、大きく報道されたことと、日本の官憲が討伐のために、現場指揮官の一人だった金日成を初めとする面々に多額の懸賞金をかけたので、その名が知られるようになった。
 日本軍は、このあと東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦をおこない、朝鮮の咸興(かんこう)の師団に属する恵山(けいざん)鎮守備隊を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況下で、金日成は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ、1940年3月には、満州の警察部隊の前田隊を事実上全滅させた、と北朝鮮寄りの研究者たちは書くが、それはあくまで、この金日成と、のちの主席が同一人物だという前提での話である。
 この抗日パルチザンの金日成の部下は、中国人苦力(クーリー)と朝鮮人農民と、人質を兵士に仕立て上げた朝鮮人の若者で、全滅した満州の前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人だった。
 満州の東北抗日聯軍は、日本側の帰順工作や討伐作戦により壊滅状態に陥り、1940年の秋、金日成は党の上層部の許可を得ぬまま、上司を置き去りにし、十数の部下とともにソ連邦領沿海州に逃れた。
 


Wiki-金日成
抗日パルチザン活動
1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと[9]、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円[10]で、金日成が一人突出していたわけではない。
 また、この普天堡襲撃は、在満韓人祖国光復会甲山支部(のちの朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている[11]。
 その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムフン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ[12][13]、1940年3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている[14][15]。
 このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。
ソ連への退却
しかし、日本側の巧みな帰順工作や討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥り、小部隊に分散しての隠密行動を余儀なくされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れた[16]。
 

Wiki-金日成脚注
13.^ 徐大粛『金日成』林茂訳、御茶の水書房、1992年、47-53頁。金日成部隊の兵力補充は、中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に訓練を施しては兵士に仕立てた。また食料の調達でもっとも一般的なのは、人質をとって富裕な朝鮮人に金を強要する方法だった。求めに応じない場合には、人質の耳を切り落とすと脅し、それでも応じない場合には首をはねるといって人々を恐怖に陥れた。
15.^ 和田春樹『北朝鮮 遊撃隊国家の現在』岩波書店、1998年、41頁。前田隊の隊員もほとんどが朝鮮人であり、死亡者も多くがそうだった。


 まず、「国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だった」という文章なのですが、これは確か、私が書き直す前に書かれていたものを、そのまま生かしたんだったと思います。「稀有だった」って、あるいは、もしかしましたら、他に表現を思いつかず、思いつかないままに私が使ったのかもしれませんが、最近あまり使わない言葉ですし、なんとか別の言葉をと思案した記憶が、鮮明に残っています。
 次に、「このように困難な状況のなかで、なお金日成部隊は満州での襲撃、略奪、拉致を成功させ」の部分なんですが、私が書き直す前の文章は、あきらかに北朝鮮よりのもので、よくは覚えておりませんが(wikiの履歴をたどればわかるのですが、面倒でして)、「このように困難な状況下で、なお金日成は日本軍に勝利した」みたいなことが書いてあったんですね。だいたい金日成は、日本軍そのものとはまったく戦ってはおりませんで、「このように困難な状況のなかで」という金日成によりそいました言葉は残したままで(金日成の項目ですのでそれもいいかと)、「襲撃、略奪、拉致を成功させ」と、脚注にもありますように、佐々木春隆氏と徐大粛氏の著作を原典として、書き換えたんです。
 佐々木春隆氏は戦前の陸士を卒業され、防衛大学の教授だった方ですし、徐大粛(ソ・デエスク)氏は、コロンビア大学政治学博士で、ハワイ大学朝鮮研究センター所長を努めた方で、お二方とも、まったくもって「北朝鮮寄りの研究者たち」ではありません。
 私は、北朝鮮寄りの和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授のご著書も、確かな事実関係を記述している部分は、存分に活用させていただいておりますが、正反対の立場の著作ともつきあわせて、ちゃんと検証して書き直したつもりです。

 こうしてwikiをほとんど引き写されたあげくに、宮脇淳子氏は、「というのが、(金日成の)公式の経歴である」とされているのですが、無茶苦茶でしょう。北朝鮮寄りの和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授にしましても、北朝鮮の公式発表をそのまま書かれているわけではなく、主に中国共産党系の史料を活用なさって、事実を究明しようとされていますし、それをまた私は、佐々木春隆氏や徐大粛氏の著作とも照らし合わせてwikiを書き換えましたし、wikiの記述は、けっして金日成の「公式の経歴」ではありません。

 あげく、「しかし、実際に抗日パルチザンだった朝鮮人たちは、戦後、今の金日成は別人だと証言した」とおっしゃるんですが、いったいなにを根拠にしておられるのでしょうか。
 
 東北抗日聯軍は、wikiにも書きましたし、この 伝説の金日成将軍シリーズでも書いておりますが、中国共産党の組織なんです。これに属した朝鮮人パルチザンで、金日成別人説を唱えた者はだれ一人としておりませんし、同じ部隊にいた中国人パルチザンもそうです。
 唯一、ですね、伝説の金日成将軍と故国山川 vol6に書いております朝鮮半島内・咸鏡南道(現在は両江道)甲山郡を中心に活動していた朴金、朴達などの共産主義団体(のちの朝鮮労働党甲山派が、別人説を唱えていたと伝わるんですが、彼らは満州の金日成と同じ部隊にいたわけではなく、朝鮮国内にいて、吳成崙にオルグされただけでして、金日成を直接知っていたわけではないんですね。
 憶測になりますが、私はこのシリーズで書きましたように「金成柱が実戦部隊の指揮をしていたことは確かで、それを吳成崙が金日成将軍として演出した」と考えていますし、ほぼ、それでまちがっていないでしょう。

 宮脇淳子氏の結論、「金日成という名前は抗日英雄というアイコン(記号)にすぎない」に異を唱えるわけではありません。むしろ、それに同感だからこそ、事実関係は正確に著述なさるべきではないのか、と思うんですね。
 だいたい和田春樹東大名誉教授や水野直樹京大教授には、肩書きで負けておられるのですから(笑)、短いエッセイでも、つっこみどころのないように要心していただければと。
 wikiのコピペは、わかってしまう確立が高いものです。くれぐれもお気をつけあそばせね、みなさま。
 
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主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』

2014年03月26日 | 大河「花燃ゆ」と史実

 ようやっと青色申告も終わり、しかし今なお蔵書の片付けがすみませんで、落ち着かないままに、今年になってはじめて書いてみる気になりました。
 突然ですが、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 シリーズの番外編になりそうです。

 昨年、卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編において、次のNHK大河ドラマの主人公が、吉田松陰の妹になるらしいことには、触れております。
 松陰の妹、といえば、私が思い出しますのはなんといいましても、「叔父の玉木文之進を介錯した気丈な千代さん!」でして、まあ、普通に考えますと、「久坂玄瑞と結婚していた一番下の文さん」なんでしょうけれども、なにしろこの文さん、伝えられますところでは、「いくら先生の妹でも不美人だからいやだと久坂がいった」 とされ、おまけに久坂ときた日には、京都でどうやら二人の愛人に子供をつくり、やりたい放題。
 お文さんは、維新以降、かなりな年になってから、病死した姉(松陰の真ん中の妹・寿)を看取って、その後釜におさまりますが、なんだか流されるままのような、気の毒なかんじを受けまして、「なんでまた、低視聴率確実そうなそんな企画を???」と、あきれていました。

 実は、ですね。この後、山本栄一郎氏に連絡しましたところが、この大河、幕末残照・周防紀行でご紹介しました『男爵 楫取素彦の生涯』に大いに関係していて、収録されております山本氏の労作「書簡に見る明治後の楫取素彦」につきましても、NHKのディレクターさんが、相当参考にして大河の企画を練っているらしい、というお話だったんですね。
 うかつでした! お文さんの再婚相手で「病死した姉(松陰の真ん中の妹・寿)の夫」こそが楫取素彦でして、その楫取素彦が、松陰の実兄・杉民治にあてた書簡184通を萩博物館が所蔵しているのだそうですが、これを全部読んで論文を書かれているのは、山本栄一郎氏だけなんです!!!



 この本、これまで一般には販売されていませんでしたが、さすがは大河効果です。再版されることが決まり、山口県外への販売は、マツノ書店さんが扱うそうです。

 いや、だから、しかし。
 山本栄一郎氏が書簡から読み解いておられます楫取素彦の実像が、魅力的かと申しますと、私なんぞは「危険を避けて平穏に、そこそこの世渡りを心がけていたらしいから、亭主にするには理想的だけど、ねえ。歴史上の人物としての魅力は、あまりないわねえ」という印象しかもちませんでした。
 いえね。この人の実兄は、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折で書いております松島剛蔵です。勝海舟とともにオランダの海軍伝習を受けた俊才で、長州海軍を一人で背負っていたんですのに、過激に走って、処刑された人です。
 松陰もそうですが、楫取素彦の身近には、偉大な過激派が次々に現れ、世間的には悲劇的といえる運命を呼び寄せます中で、身内がそうですと家族全体が危険ですから、素彦はなんとかバランスをとり「身の安全が一番!」となったのかもしれませんし、そうだったとするならば、気持ちはわからないでもないのですが、物語の主人公として見るには、まったくもって、わくわくする人物ではありません。

 ところがNHKは、「主人公は文で井上真央」と決めてまもなく、「楫取素彦は大沢たかお」(平成27年大河『花燃ゆ』大沢たかおさん出演決定!とさっそく発表しておりまして、ひいーっ!!!です。

 しかし山本氏からお聞きしましたところでは、さすがのNHKも『八重の桜』で懲りたらしく、幕末部分が膨らんで、明治篇は短くなりそうだ、ということなんですね。
 そうでしょうとも。私、明治になってからの『八重の桜』は、ばかばかしくて、ほとんど見ませんでした。
 それまでにも文句がなかったわけではなく、並べ立てますと、会津は長崎で買った銃の金を払わなかったのに、とか、スペンサー7連発騎銃であんなに狙撃が出来るわけがない、とか、世良修蔵を悪役にしすぎ、とか、2度ほどブログを書きかけたのですが、書くのもばかばかしくなって、やめてしまいました。
 いや、だから。嘘はいいんですよ。おもしろければ。しかしおもしろくないですし、おもしろくないから、つっこみたくなるんです。それに、ホームドラマは朝ドラだけでたくさんなんです。

 山本氏は、現在、お文さんの伝記を執筆されていまして、それはそれで楽しみなんですけれども、いったいNHKは、なぜ大河ドラマの題材に松陰の妹を選んだのでしょうか。
 山本氏にお話をうかがって後、雑誌サピオ2014年2月号に、大河ドラマが安倍首相の地元に決定するまでの「異例」の経緯(YAHOO!ニュース)という記事が載りました。

SAPIO (サピオ) 2014年 02月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小学館


 リンクしましたYAHOO!ニュースの記事は、全文を載せているわけではないのですが、これを書いた記者が、ろくに松陰を知らないことがよくわかる文章は、載っています。

 萩市商工観光部観光課の担当者の言葉として、「10月に入ってから、『吉田松陰はどうですか?』と聞かれ、松陰には妻や3人の妹がいると説明しました」と書いていますが、私は、「萩市商工観光部観光課の人物が、松陰に妻がいたなんぞとあきれた嘘を述べるわけがない!」と信じていますし、これは、聞き取って書いた記者が無知で、思い込んでまちがっちゃったんでしょう、おそらくは。

 松陰は、刑死したとき30歳でして、若いですし、司馬遼太郎氏の『世に棲む日日』では、若い女性を苦手としていて、妻帯なんぞ思いもよらない、というような描かれ方をしているんです。したがいまして私は、松陰が独身のまま刑死したことは有名な話だと思っていました。

世に棲む日日〈1〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 最近のサピオは、あきらかにアンチ安倍首相が編集方針でして、強引に安倍批判に話をもっていっている感じはします。
 しかし、「NHKのチーフ・プロデューサーが『山口県の女性でだれか大河ドラマの主人公にできる人はいませんか』と聞いて歩いていた」 とか「山口県では明治維新150周年の平成30年(2018年)に大河ドラマを誘致するつもりで、まだ誘致活動もはじめておらず、2015年の大河が長州とは意外だった」 という部分の事実関係は、山本氏から電話でお聞きした話とも一致します。
 私なんぞは、サピオの記者とは逆に、アンチ安倍首相のNHK労組が手をまわし、わざと明治維新150周年をはずして、視聴率の上がりそうもない幕末維新の女性ドラマを安倍さんの地元の山口県へ持っていき、文句がつけづらい形で低視聴率を誘って、安倍さんに意趣返しをしようとしているのではないの?、と妙に勘ぐってしまっちゃいました。

 が、しかし。
 主人公の文さんと楫取素彦の再婚夫妻と防府市(もとの三田尻です)は縁が深く、町おこしにつなげようと山本栄一郎氏はがんばっておられまして、執筆しておられます途中の文さんの伝記を見せていただき、必要があって『世に棲む日日』の冒頭を読み返したのですが。
 あらためて読み返してみますと、おもしろいです! 松陰の育った家庭って。

 NHKは、「家庭の愛を描きたい」と言っているそうでして、「またホームドラマかよ」と、うんざりしていたのですが、「信念を貫き通して犯罪人になった松陰を全肯定した家族愛をちゃんと描くのなら、いいかも」と思うようになりました。


吉田松陰―変転する人物像 (中公新書)
クリエーター情報なし
中央公論新社


 山本氏に感想を求められますうち、私と山本氏の松陰像が大きくちがっていますことに気づき、同時に、自分の松陰への無知を痛感したこともありまして、田中彰氏の『吉田松陰―変転する人物像』も読んでみました。 
 田中彰氏のご著書は、若いころに松陰と女囚と明治維新 (NHKブックス)を読み、小説にしたい!と思いつめたことがありまして、歴史観は私とだいぶんちがっておられるんですけれども、松陰にそそがれる視線はあたたかく、かつ真摯なもので、好きな学者さんです。

 今回また……、反論したくなります記述もありながら、びっくりすることの連続でした。
 松陰には、兄(杉民治)が1人に妹が3人(千代、寿、文)、そして弟が一人います。
 末の妹の文より二つ年下で、松陰とは15も年が離れました末弟・敏三郎は、生まれながらの聾唖者でした。
 そういや、そんな話を聞いたことがあったような気もしたのですが、これまで私は、気にもとめていませんでした。

 敏三郎を、松陰の家族はみなで愛し、敏三郎もなんとか人並みになろうと、文字の勉強もしていたのですが、彼はついに、理解することができませんでした。
 その弟を、松陰は両親に習って、心から慈しむんです。
 杉民治の息子で、刑死した松陰の跡を継ぎ、明治9年の萩の乱に参加して戦死した吉田小太郎も、ともに暮らす敏三郎叔父を尊敬し、松陰の書き残したものも参考にしながらその伝記を書き残しました。
 杉民治の長女・豊子は、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2で書いております乃木希典の実弟・玉木正誼の妻です。
 玉木正誼も小太郎とともに戦死し、豊子が忘れ形見の玉木正之を身ごもっていて、その正之がやがて、乃木将軍の葬儀で喪主を務めることとなります。

 そして、松陰の叔父・玉木文之進は、吉田小太郎と玉木正誼と、自分が心血をそそいで教育した青年たちが戦死して賊とされたことに対し、責任をとって割腹します。
 『世に棲む日日』の冒頭に出てくるのですが、このとき文之進を介錯したのは、松陰の一番上の妹・千代です。
 私、「明治の終焉・乃木殉死と士族反乱」シリーズを書き始めましたとき、この話の原典は雑誌「日本及日本人」の松陰特集号であると知りまして、マツノ書店さんの復刻版がありますから、さっそく読んだんですね。
 ところが、ここには、「介錯した」と」はっきり書かれているわけではなく、さらにさがしてみましたところが、斉藤鹿三郎著『吉田松陰正史』に、千代さんが語った言葉として「介錯した」と明確に書いていました。



 さらに、ですね。
 吉田小太郎戦死の後、吉田家を継いだのは、この千代さんの息子・吉田庫三なんです。
 庫三に関しては、wikiの記事(吉田庫三)しか、経歴記事が見つからなかったのですが、これで見ます限り、明治政府中枢の長州閥とは無縁だったように感じます。
 乃木さんのシリーズで、ちゃんと書いていくつもりですが、玉木文之進を主柱にしていました明治以降の松陰の家族たちは、あきらかに、敗者の側に身をおいているんです。

 田中彰氏は、「日本及日本人」松陰特集号収録、三宅雪嶺著述から、仮定としての松陰の後半生を「不遇に終はるべき数(運命)」 とみていたことを紹介なさっていて、「松陰のめざしたところと、門下生たちのつくりあげた明治の国家体制の乖離」 を指摘されています。
 田中彰氏は、なぜか士族反乱の評価を避けておられるのですが、松陰の身内であり、跡を継ぐことをめざした吉田小太郎と玉木正誼が、死して賊となっていたことは、そのまま、松陰の前半生の悲劇を受け継ぎ、仮定の後半生の運命を具象化していたといえるのではないでしょうか。
 
 文は反乱当時、久坂未亡人で、敗者の側にあった家族と同居していたと思われますし、文という名は、もともと玉木文之進からもらったものです。
 そのことを忘れないで、例え賊となろうとも信念を貫き通すことをよしとする家族愛を描いてくれるのならば、例え視聴率はあがらなくても、いいドラマになると思うのですが、これは期待のしすぎというものでしょうか?

 最後に、やはり田中彰氏が、大正デモクラシーと松陰像の関係を描く中で、中心にあげておられるのが、大庭柯公の「吉田松陰」(大正7年-1918 大阪朝日新聞連載)です。
 大庭柯公は、長州奇兵隊のスポンサーだった白石正一郎の弟で、長府報国隊の参謀となりました大庭伝七の三男です。報国隊には、乃木希典も加わっていましたので、小倉口での戦闘では、伝七もともに戦っていたはずです。

 柯公が描く松陰の仮定の後半生は、世界旅行家なんだそうですが、新聞連載と同時期に起こっておりましたロシア革命に共鳴し、「佐久間象山は、露国革命界の長老プレハーノフに比すべく、松陰はケレンスキー、東行(高杉晋作)はレーニン、前原一誠はトロツキーとも見ることができる」 としているのだとか。
 柯公はロシア通の新聞記者で、大正10年(1921)、つまり尼港事件の翌年、満州から極東共和国に入りますが、やがて消息を絶ちます。
 どうやら、高杉晋作にたとえてまで賞賛していましたレーニンのボルシェビキ独裁政権によって、スパイとされ、粛正されたようなんですね(加藤哲郎のネチズン・カレッジ情報収集センター 旧ソ連日本人粛清犠牲者・候補者一覧参照)。

 ロシア革命と日本の関わりにつきましては、尼港事件とロシア革命シリーズを読んでいただければ、と思うのですが、幕末維新を生きた大庭伝七の息子は、ロシア革命の未曾有の大惨劇の中に、消えていったんですね。
 これもまた、ちゃんと調べてみたい事件です。
 
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