郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「桐野利秋とは何者か!?」vol5

2020年05月11日 | 桐野利秋
 「桐野利秋とは何者か!?」vol4の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 前回の投稿から、一年以上の月日が流れました。
 母が骨折、施設に入所、自分の腕の再手術といろいろありまして、ようやくなんとか落ち着いたかと思いましたら、コロナ騒動です。
 久しぶりに東京へ行って、中村様にお会いして、いろいろ資料を調べたり、宝塚関係のコンサートへ行ったりの計画がすべてダメになりまして、やっとブログを書く気になりました。
 更新しない間にも、読んでくださる方があり、コメントを残してくださる方がおられるのは、ほんとうにありがたいことです。

 さて、本題ですが、桐野氏の著作となっております、薩摩の密偵です。
 氏は「はじめに」において、以下のように述べておられます。

 文久から慶応期(1861〜67)までの幕末の激動のさなか、桐野はひそかに「密偵」として活躍するとともに、逆に藩内に潜入する「密偵」を察知、排除する防諜活動を行う監察(目付)でもあった。

 「密偵としての桐野」はこの本の眼目でして、氏の設定では、桐野が密偵となりましたのは「文久3年(1863年)からではないかと思われる」ということなんです。
 しかしこれには、史料の裏付けがありません。 

 そもそも、藩士にして密偵とはなになのか、という問題があります。目付が密偵を兼ねていた、という例はありますから、目付であったというならば、密偵であったかもしれないと思うのですが、桐野が目付であったという史料は、ありません。
 例えば、です。
 幕末京都を吹き荒れました天誅の嵐。その先駆けとなりました島田左近暗殺は、薩摩藩の手になるものです。
 田中新兵衛が有名ですが、一緒に行動しました志々目献吉は横目付で、あきらかに藩組織の一員として暗殺に加わっています。
 この文久2年、志々目はまた、久光の命を受けて、西郷隆盛捕縛に向かってもいるんですね。
 そして何年だったか、うろ覚えで申し訳ないのですが、忠義公史料に、彼が、在京長州の重要人物・久坂玄瑞を見張って、報告を上げていた文書も残っています。

 しかし普通、史料が残る薩摩の密偵といえば……、いえ、密偵と言うよりは諜報員といった方がぴったりきそうですが、富山の薬売(大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編参照)とか、高杉晋作と奇兵隊の後援者として知られます下関の白石正一郎とか、薩摩藩から利益を受けていた商人が主です。ああ、白石正一郎の報告書は、忠義公史料に残っているのですが、政変で薩長手切れとなって後は、諜報の役目は返上したようです。
 これ、別に薩摩に限ったことではありませんで、長州は京阪の出入り商人の多くから情報を仕入れていましたし、浄土真宗の僧侶も、役目を果たしたんじゃないんでしょうか。

 ともかく桐野氏は、史料がないままに「桐野は密偵」と決めておいでですから、以下のような文章になるみたいなんですね。
 第3章「神出鬼没の諜報家として」P49から引用です。

 桐野は友人の肝付十郎とともに同藩邸(長州藩邸)に潜入している。むろん、長州や土佐の攘夷派に親近感を示しながら近づいたのである。そのためか、同藩邸に出入りしていた土佐脱藩浪士の大物である中岡慎太郎もコロリとだまされている。

 桐野が中岡慎太郎を騙したという根拠は、なにもありません。
 といいますか、仮に例え桐野が薩摩藩の諜報員だったにしても、です。なぜ、中岡慎太郎を騙す必要があるのでしょうか。
 はっきり横目だと記録があります志々目献吉にしましたところで、久坂玄瑞を見張っていただけで、騙してはいません。
 といいますか、志々目が薩摩藩の横目であることを、久坂は知っていた可能性が高いですし。
 富山の薬売も白石正一郎も、情報を薩摩藩庁に入れただけで、だれも騙してはいません。
「コロリと騙されている」は、桐野と中岡、双方に悪意を持っていなければ書けないことだと、私は思うんです。
桐野にしろ中岡にしろ、自分の意志や志はなく、それぞれが属した組織にしばられた操り人形だった、とでもいうのでしょうか。

 私、過去記事を見返してみたのですが、桐野利秋の生い立ちについては、まとまって述べたものがなく、簡単にですが、ここで触れます。

 桐野利秋は、天保9年(1838年)生まれ。西暦で言えば、中岡慎太郎とは、ほぼ同い年です。

イギリスVSフランス 薩長兵制論争に引用しておりますが、後年、中岡慎太郎は国元へ送りました書翰に、「薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね」と記しています。
 桐野の家も、れっきとした士分でしたけれども、わずか5石と貧しく、そこへもってきまして、父親が流罪となり、そのわずかな家禄も召し上げられました。
 18歳の年に兄が病没。以降、一家をささえて、近所の農民に土地を借り、小作をしたり、開墾したりで、なんとか食べていました。
 土佐の庄屋だった中岡慎太郎より、あきらかに貧しいですし、学問も剣術も、ちゃんと師匠について学ぶ余裕はありませんでした。

 しかし、だから視野が狭かったかと言えば、そうではなかったのではないかと、私は思います。
 桐野の父親は、島流しになるまでは江戸詰です。父親が江戸で働いていたとなれば、それなりに、薩摩の外の情報も入ってきたのではないでしょうか。
 また、桐野が学問、武芸を教わったのは、主に母方の祖父・別府四郎兵衛なのですが、彼は、「兵道家」だった、というんですね。
 「兵道家」とは、薩摩における修験者、山伏のことです。
 
 話がそれますが、最近、20代の女の子と話していて、びっくりしました。
 「私が子供のころは、そこの御幸寺山にも山伏(ヤマブシ)が来てたのよ」という私に、
 「ヤマブシ? なんですか、それ???」と、彼女は聞いたんです。
 御幸寺山というのは、松山市内、それも中心街近くにある小さな山です。
 人里離れた山奥で修行するイメージの強い山伏が、昔は街中の山にもいた、ということを私は語りたかったのですが、彼女は、まったく山伏を知りませんでした。
 「えーと。石鎚山のお山開きのニュースで、白い装束を着て、ホラ貝吹いている人がいるでしょ? あんな人たちのこと」と、とっさに説明しつつ、実のところ私自身が、簡単に説明できるほどに「山伏」について知らないことに、気づかされました。

 知らないのも道理では、あるんです。
 山伏とは、古来の山岳信仰に、渡来の仏教が重なった、神仏混淆の修験道の行者でした。
 しかし明治5年、新政府は神仏分離令を発し、山伏は、僧侶になるか神官になるか、あるいは農民や商人など、一般人になるしかなくなり、公には存在しなくなりました。

 
 
 和歌森太郎氏の「山伏」によれば、加持祈祷によって、雨乞いや庶民の病気治療にかかわってきた山伏のあり方は、「明治新政府なりの合理主義によって否定された」ということでして、要するに、西洋的近代には、そぐわない存在とされたわけです。そして現在、私たちが見ることができる山伏とは、「民衆の峰入り修業の指導者」であり、その日常においては、一般人であることが多いんです。

 わが愛媛県にあります石鎚山は、西日本一の高峰で、古代から霊峰として崇められた伝統を持ち、山伏の修業の場であったのですが、明治の神仏分離令で、山岳修業の中心でした前神寺は廃寺とされ、石鎚神社が創設されました。しかし、だからといってけっして、神仏混淆の信仰が、消えてなくなったわけではないんです。

 石鎚山は長く、山岳修業の聖地であり、庶民の信仰を集めていたのですが、江戸時代も半ばを過ぎ、18世紀の後半のことです。近在、といっても瀬戸内海を隔てた尾道や広島も含まれていたそうなのですが、村々の真言系寺院を中心に、年に一度のお山開きに参加する村民の信仰集団・石鎚講が生まれ、活動していました。
 石鎚講には月々の集まりもありましたが、なんといいましてもハイライトは、年に一度のお山開きに、山伏の先導で登拝することでした。15歳になった男児の初登拝は通過儀礼のようなもので、これを済ませれば一人前の男と認められたといいます。
 つまり、石鎚の山岳宗教は、講の存在によって、地域の庶民の日常にしっかりと根付いていたわけなんです。

 江戸時代後半、全国的にいえば、伊勢神宮へ参る伊勢講が有名ですが、富士講や出羽三山講などの山岳信仰も盛んで、宗教的な祭礼への参加は、庶民にとって、日常を離れた楽しみであり、修学旅行のような側面もありました。
 私が住む松山市は、石鎚信仰が及んでいた地域なのですが、私が通った中学校では、かつての男児の初登拝を引き継ぐように、三年生の夏には石鎚登山を体験する慣例でした。体力が許すかぎり、ですが。
 雲の上の頂上を極める達成感、澄んだ空気と絶景。今風にいえば、パワースポットに身を浸す高揚感があり、思春期にこれを体験することは、忘れがたい思い出となります。

 石鎚講は結局、神仏分離を越えて生き残り、前神寺も復興を遂げ、お山開きの伝統は、形を変えつつ、現在へと引き継がれた次第です。

 しかし、日本人にとっての山伏という存在の原像は、なんといっても、中世の軍記物なんじゃないでしょうか。
 最近、NHKの大河で、源平合戦が取り上げられることは少ないのですが、私が山伏のイメージを育んだのは、源義経を描いた大河ドラマです。
 能の「愛宕」、歌舞伎の「勧進帳」と、義経と弁慶が、兄頼朝の追っ手を逃れ、山伏一行に扮して奥州へ落ちるドラマは、時を超えて長く、日本人に親しまれてきました。
 義経一行は、消失した東大寺再建ための勧進をしている(寄付をつのっている)山伏、ということで、関を越えようとしたのですが、現在でも出羽三山の山伏は、勧進の伝統を伝え、国の重要無形民俗文化財に指定されているようです。(松例祭保存会参照)

 つまり山伏は、日本国中の山々で修業しますし、勧進も全国規模で、平泉の山伏が霊場白山の護符、丸薬を京都まで運んでいたり、あるいは霊場立山の「立山夢想妙薬」(漢方薬を調合したもの)は山伏の手で全国に運ばれ、これこそが富山の薬売のもとであったといわれます。(中世の聖と医療参照)

 このように、山伏の姿であれば、怪しまれることなく遠くへ旅ができましたので、軍記物でもっとも印象的な山伏の役割は、時の政権に反する勢力を結集するための連絡、じゃないでしょうか。
 「平家物語」では、全盛期の平家に対し、全国の源氏を結集しようと、不遇の皇子・以仁王が、令旨を発したことになっていまして、源行家が山伏姿で諸国の源氏に伝え、伊豆にいた源頼朝の手にも渡ったといわれます。
 以仁王の挙兵は失敗しますが、やがて反平家の機運は盛り上がって行き、源頼朝の鎌倉幕府樹立にまで、話は伝わっていくわけです。
 「太平記」では、後醍醐天皇の側近だった日野俊基(NHK大河「太平記」では榎木孝明が演じていました)が山伏姿で諸国をめぐり、打倒鎌倉幕府の機運を掴もうとしていた、ということになっています。

 ところで、山伏国広は、国の重要文化財に指定された日本刀です。
 作者は堀川国広。日向(現宮崎)の戦国大名・伊東氏に仕えた武士でした。
 彼は、伊東氏が島津氏との長年の戦いに敗れ、領国を追われたときに供をし、九州一の霊場・英彦山で、山伏となりました。修行しつつ、伊東氏の再興を願って作った刀が、山伏国広だったといわれます。
 紆余曲折の末、伊東氏は小大名として日向に返り咲き、幕末明治まで続きました。一族の中には、島津の家臣となった者もあり、初代連合艦隊司令長官・伊東祐亨は、その子孫です。

 伊東氏との戦いにおいて、島津側では、霊場・霧島山で修行した山伏・相模坊光久が、大活躍しました。
 相模坊を祖とする愛甲氏は、独自の兵法書を今に残していて、調伏だけではなく、どうやら、山伏の山岳ネットワークを使って、島津氏に寄与したようなのですね。
 鹿児島が特殊なのは、江戸時代に入り、「兵頭家」と呼ばれた山伏が、そのまま藩士になったことなのですが、それは結局、戦国時代の島津氏が土着の勢力をうまく取り込み、そのまま藩主となったことに関係しているのかもしれません。
 第16代当主・島津義久は、修験道の位階を持っていたといいますし、2代藩主光久は、修験道の祈祷書類編纂に熱心でした。(「中世島津氏研究の最前線」収録 栗林文夫著「中世以来、修験道・真言密教に慣れ親しんできた島津氏」)



 海音寺潮五郎の「二本の銀杏」は、西郷、大久保が少年だったころの薩摩を舞台にした小説ですが、主人公の源昌房は、郷士にして代々の兵頭家です。
 江戸時代の山伏は、その多くが京都の聖護院か醍醐寺三宝院を本山と仰いでいて、源昌房も例外ではなく、京で一年間の修行を積みます。
 現在で言えば、家を継ぐ前に、東京の大学へ行くようなものではないでしょうか。
 また、兵頭家は祈祷で農民の家にも呼ばれますし、他郷では庶民の間へ入って勧進もします。
 源昌房は情熱的な人物として描かれていて、この小説の一つのテーマは不倫の恋なのですが、一方、視野が広く、農民の窮状によりそって事業を興す実行力は、山伏としての修行で養われたものと推察できます。

 実は、源昌房には、堀之内良眼房というモデルがあります。
 良眼房は、西原八幡宮の第13代宮司であり、真言山伏の修行をおさめ、川内川を輸送路として使うための工事や、藩金の借用によって、農民の窮状を救ったのだそうです。(鹿児島県ー堀之内良眼房の事績(川内川の川浚え)

 川内川の工事のころ、桐野は6、7才でしたが、同じ頃にアヘン戦争が起こり、列強の東アジア進出が本格化しました。

大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編

 上にまとめてありますが、以降は怒濤の如く、フランスが琉球に開国を迫り、島津斉彬のお国入りがあって、嘉永2年(1849年)、お由羅騒動が起こります。
 桐野が満11才の頃のことです。

 上に、「島津斉興は祈る藩主だった」と書きましたが、斉興は密教の僧位僧官を得て、自ら修法を家臣に伝授していた、といいます。
 琉球に来た西洋人への調伏に、斉興は、兵頭家を使っていまして、その中心が牧仲太郎でした。
 斉彬支持派の藩士たちは、それを、斉彬とその子供たちへの呪いの祈祷が行われていると誤解したらしいのですが、調伏を防ぐには調伏しかないそうです。結局、斉彬支持派も兵頭家を使い、さながら調伏合戦となって、斉興は激怒しました。斉彬支持派は、切腹・蟄居・遠島など、かなりの数が厳しい処分を受けます。

 それで、桐野の外祖父・別府四郎兵衛ですが、春山育次郎の「少年読本 桐野利秋」には、友人藺牟田なにがしと共に、市中にいでて、兵頭の法を修し、天狗を嘯集したりとか云へる奇異のきわみなる罪名によりて藩庁のとがめを受け、南洋の徳之島に流るること十余年の久しきに及びぬ」とありまして、お由羅騒動では、ちょっと次期があわない感じなのですが、調伏合戦とか普通にあった土地柄ですので、誰を調伏した嫌疑だったのか、島流しにあっていたみたいです。

 別府四郎兵衛が京で修行をしたかどうか、それはわかりません。
 しかし、兵頭家のネットワークにつながっていた、ということはあると思いますし、複眼的に、物事を見ることができたのではないでしょうか。

 山伏で脱線し、すこぶる長くなりましたので、続きます。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol4

2019年02月14日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol3の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 桐野作人氏著「薩摩の密偵 桐野利秋」の「はじめに」より、以下引用です。

 薩摩藩は島津斉彬が国政関与に乗り出して以来、王政復古政変から戊辰戦争に至るまで、幾多の危機がありながらも、それを巧みに乗り越えて、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力である。並び称されている長州藩の浮沈の激しさとは対照的だといえよう。
 そうした薩摩藩の卓抜な政治力の源泉のひとつが広範かつ正確な情報活動だった。その有力な成員として活躍したのが、本書の主役である中村半次郎、のちの桐野利秋(一八三八〜七七)である。
 

  まず、「薩摩藩は、政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない希有な勢力」という前提について、です。
 薩英戦争は薩摩の勝ち戦だったんでしょうか???

 薩摩側が賠償金を支払っています以上、勝ちではないですよねえ。薩摩は、確かに賠償金を幕府から借りて踏み倒していますが、それをいえば、長州も下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)の賠償金は、幕府に払わせています。条約を結んだ主体が幕府である以上、藩が勝手にはじめた戦争であっても、対外責任は、最終的に幕府にあったというだけのことなんですけれども。
 戦死者の数でいいましても、四国艦隊迎撃戦に限れば長州側18人ですし、それ以前の攘夷戦を含めましても30人ほど。
 薩英戦争の薩摩側戦死者24名で、長州とさほどかわりはないんですね。
 明治4年(1871)の辛未洋擾、アメリカ艦隊が江華島を攻撃しましたとき、李氏朝鮮側が二百数十名の戦死者を出しましたのにくらべ、格段の少なさです。
 城下を焼き払われましただけ、長州の被害よりも薩摩の被害の方が大きかったともいえそうですよねえ。

 「政治的かつ軍事的に一度も敗北したことがない」といえば、 「戊辰戦争の勝者で対外戦をやっていない佐賀藩こそ!」、そうじゃないんでしょうか。
 私、決して佐賀藩を褒めているわけじゃありません。対外戦をやって、負けていればこそ、薩長は自藩の改革に成功し、維新の主導者となり得た、と思っています。

 桐野作人氏は、(薩摩藩は)長州藩の浮沈の激しさとは対照的とも言っておられまして、おそらくはこちらが主眼なんでしょう。
 とすれば、薩摩と長州のちがいは、8月18日の政変と禁門の変、ということになります。
 しかしこれ、それほど単純に「長州は敗北したが薩摩は敗北しなかった」と言ってしまっていいことなのでしょうか。
 といいますか、なにをもって敗北、勝利というのか、という問題があります。
 8月18日の直前の状況、禁門の変の後の京都政局など、政治的に薩摩にとって、勝利とはとてもいえない状況でした。「その危機を乗り越えて勝者となった」というなら、長州もまた、大きな危機を乗り越え最終的に勝者となった、ということが可能でしょう。

 ここらあたりは、作人氏の「桐野利秋は密偵説」にも深くかかわってくる問題でして、以下、再び「はじめに」より引用です。

 桐野の諜報活動のなかで、もっとも異彩を放ち、成果をあげたのは一時期激しく敵対した長州藩に対してのものだった。
 桐野の「密偵」としての有能さは西郷が太鼓判を押しているから間違いない。では、なぜそのように有能だったのか。逆説的にいえば、桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたからだといえる。
 桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった。
 

 まず、前提条件に間違いがあります。
 桐野はむしろ、国父島津久光の下、小松帯刀・西郷・大久保利通らが指導する薩摩藩の方針とは対立、もしくは距離を置いていたという点ですが、薩摩藩の指導者の方針は常に一枚岩だったんですか?と疑問を呈したいと思います。
 次いで、桐野はずっと薩摩藩の方針と対立し、距離を置いていたんですか?という疑問もわきます。

 最初に、慶応三年、幕末も押し詰まった最後の年の、勝海舟の見解を見てみましょう。

 
勝海舟全集〈1〉幕末日記 (1976年)
クリエーター情報なし
講談社


 全集1収録の「解難録」探訪密告慶応三年丁卯より、以下引用です(p.295~6)。「解難録」は海舟が幕末維新期に書いたものを、明治17年の夏、自ら整理したものです。

 慶応三年、上国に在て事を執る者、探索者の密告せし処有といへども、皆、皮相の見にて、多くは門閥家を以て是が最とす。予が考ゆる処、是と異なり、
 薩藩  西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造
 萩藩  桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原
 高知藩 後藤象二郎 板垣退助
 佐賀藩 副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎
 此輩数人に過ぎざるべし。大事を決するに到ては、西郷、大久保、桂の手に出て、其他は是を賛し是を助くるに過ぎざるべし。〜以下略
 

 慶応三年、西日本の有力諸藩で政治を動かしている人物について、幕府の探索者は藩主やその門閥のお偉方が主導していると報告を上げてきているが、それはうわべしか見ていない者の言うことであって、私の考えは異なっている。
 薩摩藩は西郷吉之助 大久保市蔵 伊地知正二 吉井幸輔 村田新八 中村半次郎 小松帯刀 税所長造。長州藩は、桂小五郎 広沢平助 伊藤俊輔 井上聞太 山縣狂介 前原。土佐藩は、後藤象二郎 板垣退助。佐賀藩は、副島二郎 大木民平 江東俊平 大隈八太郎。
 お偉方ではなく、これら各藩数名が主導している。とはいうものの、大事を決しているのは、薩摩の西郷・大久保、長州の桂小五郎で、その他の人々は、彼らに賛同し、彼らを助けているだけだ。


 少なくとも慶応三年において、勝海舟の見ていたところでは、国父島津久光は、薩摩藩首脳部の意志決定集団からはずれていましたし、西郷・大久保が牛耳っていて、小松帯刀はその下で、中村半次郎(桐野利秋)と並び、西郷・大久保に賛同して、手助けしていただけだ、というんですね。

 もちろん、こうなるまでには経緯というものがあります。
 桐野が、生まれ育った鹿児島から京都へ出ましたのは、文久2年(1862年)春のことです。
 島津久光の率兵上洛に従ってのことでして、このときから桐野は、たまに短期間帰郷することはありましたが、ほぼ京都にいました。

外様藩の藩主の父親が、1000名の藩兵を率いて京都へ出た、といいますことは、江戸時代のそれまでの常識からしますと、破天荒なことです。
これにより、日本の政局の中心は京都となり、一気に流動化して、二十代半ばの桐野は、まずは藩命で青蓮院宮付き守衛兵となって、渦中に身を置きます。

原口清著作集 1 幕末中央政局の動向
クリエーター情報なし
岩田書院


 「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」といいます作人氏の見解にそって、原口清著『幕末中央政局の動向』収録の「幕末長州藩政治史研究に関する若干の感想」より、以下の引用部分を見ていただけたらと思います。

 藩士身分の尊攘派志士が、なによりも自藩を尊攘の方針に転換さすために努力したことは当然であり、長州藩や土佐藩では、成功の度合いはちがうが、一藩挙げての尊攘運動を行った。因幡・備前藩などは、藩主自身が熱心な尊攘主義者であり、ここでは急進・漸進の差異はあっても、一藩の多数が尊攘主義者となっていたものと思われる。尊攘主義藩士の脱藩浮浪化は、多くの場合藩論を尊攘主義に転換できず、藩内抗争などがあって脱藩したものでああって、脱藩それ自体が本来の目的であったわけではない。尊攘派は、藩力を利用し、朝廷・幕府に働きかけている。つまり、彼らは既存の国家組織を挙げて尊攘主義に転換させることを主要な運動・組織形態としているのである。 

 つまり、尊攘主義といいますのは、日本に押し寄せてきました外国を意識してのものですから、当然のことながら、藩士身分のものは、日本全体の国家組織を外国と戦いうるものに転換、変革しようと意図して動き、自藩の力をそれに利用して、朝廷幕府に働きかけようとしていた、というんですね。
 としますならば、一薩摩藩士にすぎませんでした中村半次郎(桐野利秋)も、「日本全体が対外戦のできる国となることを願って、自藩に働きかけ、動かすことに成功して、慶応三年には、勝海舟の見るところ、西郷・大久保に賛同して手助けし、重臣・小松帯刀と並ぶほどの実力者になっていた」、ということが可能でしょう。

 以上、勝海舟と原口清氏の著作をあわせみまして、作人氏がおっしゃるところの「桐野利秋は密偵だった」説のなにが胡乱かということは、浮き彫りになったかと存じます。
 薩摩藩首脳部のあり方は、徐々に変化していたのですし、桐野利秋は決して、薩摩一藩のために行動していたのではなく、日本全体のことを考え、長州と手を結ぶ方向へ藩を動かそうと、西郷・大久保・小松に協力し、それを実現したわけです。
 「薩摩の密偵」だったということにしてしまいますと、西郷・大久保・小松に真摯な志を利用され、薩摩一藩のためにしか働けなかったことになってしまいます。
 作人氏自身がおっしゃっているように、「桐野は思想信条が長州攘夷派にきわめて近かった」わけでして、としますならば、当然、唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』に書きました久坂の書翰、坂本龍馬に託して武市半平太に届けた書翰の以下の部分に、強く賛同していたと考えられるわけです。

「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。失敬ながら、尊藩(土佐)も弊藩(長州)も滅亡しても大義なれば苦しからず」
「諸候も公卿もあてにはならない。われわれ、無名の志士たちが集まって幕府を糾弾し、天皇のご意志を貫かなければならない。そのためには、長州も土佐も、滅びていいんだよ」

 幕末の動乱は、これほどの覚悟のもとにありましたのに、桐野利秋が薩摩の密偵であった、といいます作人氏の説は、桐野を貶めるだけではなく、桐野を利用したとされる西郷・大久保・小松をも、貶めることにならないでしょうか。この三人が、たかだか薩摩一藩の利益のみを考え行動していた、ということになってしまうわけですから。

 長くなりましたので、作人氏が「桐野利秋密偵説」におきまして、参考に挙げておられます史料の細かな見当は、次回にまわします。またまた、ありえない読み違いをなさっておられたり、します。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol3

2019年01月27日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol2の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版

 
 桐野作人氏は、著作の「はじめに」で、以下のように述べておられます。

 本書では「密偵」としての桐野のほか、「剣客」「軍人」「政論家」(必ずしも政治家ではない)、そして西南戦争の「軍事指導者」としての側面に光を当てている。そのなかには、当然向き不向きがあった。そのことが桐野個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。桐野のもつ功罪が入り混じった存在意義もそこにあるといえるのではないか。

 まず、これを読んだ時点で、大きな違和感がありました。
 「当然向き不向きがあった」「功罪が入り混じった存在意義」なんて、そもそも、だれについても言えることですよねえ。

 例えば、ですね。
 薩摩藩家老として、幕末のパリ万博で活躍しました岩下方平が、明治22年ころに書いた随筆には、以下のようにあります。
 
 大久保は非常の人なりし故、みつから任すること厚く、我か意にまかせ行ひし事多きか如し。 
 
 肥前佐賀の江藤新平、嶋団右衛門暴動せしは私の為にあらす、天下の為と思ひてなせし事なるへし。是皆御一新の功臣なりしなり。論旨の相合はさる所より斯に至りし物にもせよ、大久保政権を掌握せし程の事なれは、少し思慮を加へは非命の死には至らさりしなるへし。長州の前原にしても其他皆一個の人材なりしを死に至らししめしは日本の為め可惜事なりし。故に自らも刃の下に死せしは源本故ある事なりし。 

 上州の松園七助云、西郷・大久保等は創業の人なり。天下を破るに心を尽くせし人々なり。是よりは守成の人を撰ひ任用すへし、然らされは終に創業の人を疵つくる事あらん、功臣として政事に関わらしめす尊ひ置へしと。実に其事の如くなりし。

 上は、佐々木隆氏読み下しによります「岩下方平随想録」から引用です。

これを作人氏の桐野評の言葉を使って言い換えますと。
 人には向き不向きがあって、大久保利通は天下を破ることには向いていたけれども、維新が成った後の政治には向いていなかった。そのことが大久保個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。功罪が入り混じった存在意義のある人物だったが、罪を言えば、自分の思うままに独裁を貫き、自分と意見があわないというだけで、殺さなくてもいい人材を非業の死に至らしめたことである。自らも斬られて死んだのは、理由のあることだ。

 作人氏流に言いますと、大久保利通は、同時代人で、一緒に活躍しました岩下方平によって、上のように評価されているわけです。

 で、ふりかえって作人氏が桐野利秋について述べておられることを見てみますと、いったいだれが、桐野利秋の向き不向き、功罪を評価しているんですか?と聞きたくなるんですね。

 「おわりにー桐野利秋の人気と功罪」を読みますかぎり、作人氏の桐野評は、結局、以下に尽きると思うんですね。

 〜前略〜また私学校のあり方には批判的であり、それゆえ、西南戦争では必ずしも主戦派ではなかったことも明らかにしたつもりである。
 とはいえ、南九州一円で半年間にわたって戦われた西南戦争を早期に収拾することによって、みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする。しかし桐野はそれよりも、薩摩兵児(へこ)の意地を貫きとおし、城山で最後の一兵になるまで戦い抜くことを選択した。それは「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期にはふさわしいかもしれない。だからこそ人気や同情、共感を集めるのだろう。
 だが、両軍合わせて一万人を超える戦死者、それに倍するであろう戦傷・戦病者の存在とともに、熊本県や宮崎県に多大な人的、物的な被害をもたらし、鹿児島城下をほとんど灰燼に帰した責任も振り返らずにはいられない。その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える。
 

 「みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする」とか、「その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える」とか、これはあきらかに、作人氏の個人的感想、ですよねえ。
 少なくとも私は桐野の最期を、「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期なんぞとは思っていませんし、まったくもって同情はしておりません。
 といいますか、西南戦争を収拾することが、西郷と桐野の責任だったなんぞという見解を聞くのは初めてです。通常、反乱の収拾責任は、反乱の指導者ではなく、反乱を起こされてしまいました時の政府にあります。西郷も桐野も、大将・少将の身分を剥奪されてしまいましたし、なんで責任が、為政者ではなく彼らにあると思えてしまうのでしょうか。

 そして、いったい作人氏は、西郷や桐野と同時代の識者の見解を、どう考えておられるのでしょうか。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 福沢諭吉著「 丁丑公論」より引用です。

 およそ人として我が思うところを施行せんと欲せざる者なし。すなわち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性と云う可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得ず。政府の専制は咎むべからざるなり。
 政府の専制咎むべからずといえども、これを放頓すれば際限あることなし。またこれを防がざるべからず。今これを防ぐの術は、ただこれに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。
 〜中略〜余は西郷氏に一面識の交もなく、またその人を庇護せんと欲するにも非ずといえども、とくに数日の労を費して一冊子を記しこれを公論と名けたるは、人のために私するに非ず、一国の公平を保護せんがためなり。方今出版の条例ありて少しく人の妨をなず。故に深くこれを家に蔵めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、その気脈を絶つことなからしめんと欲するの微意のみ。
 

  要約すれば、「人はだれしも専制の精神をもちあわせているもので、専制政治そのものをとがめるわけにはいかない。しかし、これを放っておくと行き過ぎるので、弊害を防ぐためには抵抗が必要だ。現在、政府の専制に言論人がおもねり、正確なことが世に伝わっていない。私は西郷をかばうつもりはないが、一国の公平を守るため、後世に西南戦争の抵抗の精神を伝えようと筆をとった。昨今、出版条例があって、下手なことを書けば牢屋行きであるので、公表はせず、百年後の人々に見てもらいたい」ということでしてして、福沢は文中、専制政治に抵抗するには「文」「武」「金」をもってする方法があり、西郷は武力をもっての抵抗を選んだので、自分とは考え方がちがう、と断っています。
 しかし以下本文に入って、「政府が言論の道を閉ざしたのだから、「武」に頼らざるをえなかったのも仕方がない」というようなことも言っているんです。

 〜前略〜政府の人は眼を爰(地方民会を認め、地方自治を進めること)に着せず、民会の説を嫌てこれを防ぐのみならず、わずかに二、三の雑誌新聞紙に無味淡泊の激論あるを見てこれに驚き、これを讒謗としこれを誹議とし、はなはだしきはこれに附するに国家を顛覆するの大命以てして、その貴社を捕えてこれを見ればただこれ少年の貧書生のみ。書生の一言豈よく国家を顛覆するに足らんや。政府の狼狽もまたはなはだしきものというべし。
 これらの事情に由て考れば、政府は直接に士族の暴発を防がんとしてこれを未発に止まること能わず、間接にこれを誘導するの術を用いずして却って間接にその暴発を促したるものというべし。故にいわく、西郷の死は憐むべし、これを死地に陥れたるものは政府なりと。
 〜中略〜維新後、佐賀の乱の時には断じて江藤を殺してこれを疑わず、しかのみならずこの犯罪の巨魁を捕えて更に公然たる裁判もなくその場所において刑に処したるはこれを刑というべからず、その実は戦場に討取りたるもののごとし。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典というべし。一度び過て改ればなお可なり。然るを政府は三年を経て前原の処刑においてもその非を遂げて過を二にせり。
 故に今回城山に籠たる西郷も、乱丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず、たとい生を得ざるはその覚悟にても、生前にその平日の素志を述ぶべきの路あれば、必ずこの路を求めて尋常に縛に就くこともあるべきはずなれども、江藤、前原の前轍を見て死を決したるや必せり。然らば則ち政府はただに彼れを死地に落とし入れたるのみに非ず、また従ってこれを殺したる者というべし。
 

要約します。
政府は地方民会を盛んにすることを嫌い、地方自治を認めようとはせず、それどころか、わずか二、三紙の新聞雑誌が激論を載せたことに驚き、国家を顛覆する企てだとして記者を投獄するという、めちゃくちゃな対応をして、言論を封じた。政府は、それによって士族の暴発を防ぐどころか、間接的に暴発を誘ったわけで、結局、西郷を死地に陥れたのは政府の方だ。佐賀の乱のときは、江藤新平を裁判もなく処刑し、政府が政府として成り立っていないことを露呈した。一度の過ちならまだしも、3年後の萩の乱で、またも前原をろくな裁判もなく処刑した。したがって、今回城山に籠もった西郷も、江藤、前原を見れば、自分の志を述べる場がないことが明白であり、死を決するしかなかったのである。したがって、西郷を殺したのは政府だと、いうことができる。

 つまり、福沢の見るところでは、西南戦争を起こした責任は政府にあり、もちろん、西南戦争を収拾する責任もまた政府にある、ということです。
 また福沢は、「西郷が志を得れば政府の貴顕に地位を失うものあるは必然の勢なれども、その貴顕なる者は数名に過ぎず、それに付会する群小吏のごときは数思いの外に少なかるべし」とも言っていまして、つまるところ、「西郷には政府を転覆するつまりはなく、中枢にいる数名の権力者を退けたいだけで、維新の時ほどの大変革をめざしているわけではない」ということです。
 つまり、はっきり言いまして、福沢の見るところでは、「大久保利通はじめ数名が退けば、西郷の志は成る」ということですから、戦乱になった責任をとって大久保が引けば収拾は簡単だった、ということでもあります。

 栗原智久氏は「史伝 桐野利秋」の「はじめに」において、以下のように述べておられます。

 果して、歴史の流れが人物を生むのか、人が歴史を動かすのか、これは史観としての議論にも関るところであるが、しばらく措いて、本書はこうした桐野が幕末維新史の中でどのような位置にあり、どのような言動をみせたのか、その真実を、その軌跡を、史料に基づいてできるかぎりあらわそうとするものである。 

 これに比べまして、作人氏がおっしゃるところの「功罪が入り混じった存在意義」とやらは、相当に胡乱なものとしか、私には受け取れません。

 次回、これも相当に胡乱な「桐野利秋密偵説」に踏み込みたいと思います。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol2

2019年01月19日 | 桐野利秋

「桐野利秋とは何者か!?」vol1の続きです。


薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 伝記を書きますのに、本人の日記があれば、それは、とても重要な史料ですよね。丁寧に解読するべきものだと、私は思います。
 もちろん、日記は本人の主観で書くものですし、また当時の日記は秘密に書くものではなく、後世に見られることがほぼ前提です。したがいまして、日々の出来事を、それなりに取捨選択して書いていたりもするわけです。
 しかし、そういうことも含めて、丹念に読んでこそ、それを書いた本人と、真摯に向き合えるのではないでしょうか。

 桐野の「京在日記」は、幕末も押しつまった慶応3年9月1日から12月10日までの3ヶ月あまりのものしか、現存していません。
 しかしこの時期、倒幕の勅命、大政奉還、龍馬暗殺、王政復古と、まさに激動の渦の中に桐野はいます。
 この日記は、昭和45年(1970年)、田嶋秀隆氏の手により、読み下して活字化されているのですが、少部数発行の非売品。長らく、手に入れることが困難でした。
 ところが2004年、栗原智久氏が、現代語訳され、解説付きで出版されましたおかげで、手軽に手にできるようになりました。

桐野利秋日記
栗原 智久
PHP研究所


 いや、しかし。
 どびっくりの高値ですねえ。
 これって、大河ドラマ効果でしょうか。がっくり。
 私は、中村さまのご厚意で非売品のコピーも持っていますし、もちろん、栗原氏の現代語訳も持っているのですが、コピーは見づらいですし、通常、このブログを書くときなど、きっちり製本されました現代語訳を手にすることが多い次第です。

 まあ、ともかく。
 例えば人物の特定など、解読の難しい部分もあるのですが、栗原氏の解説もありますし、文章自体は、それほど難しい日記ではありません。
 それが、ですね。
 桐野作人氏は、いったいなんでこんな!!!、というような、ちょっとびっくりするような読み方をされていたりするんですね。

 例えば、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました、以下。

 10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。


 この5日前、慶応3年10月23日の日記に、桐野は「10月の初めころから病気だったが、症状が重くなってどうしようもなくなった」というようなことを書いていまして、26日には藩医・石神良策に往診してもらっています。
 石神良策につきましては、楠本イネとイギリス医学に詳しく書いていますので、ご覧になってみてください。

 で、桐野は石神に、10月26、27、28、11月1日と続けて診てもらってまして、最後の11月1日にやっと「病が快方へ向かう」と記してあります。11月4日には近所を散策するまでに回復しましたが、しかし、28日から石神が同行しましたもう一人の医師・山下公平は、この11月4日にも見舞いにきています。

 つまり、桐野の従兄弟の別府晋介と弟の山之内半左衛門が、路上で斬り合いになった、という10月28日の時点で、桐野はまだ病が篤く、伏せっていたらしいんですね。
 で、どこからどう読んでも、この斬り合いは、従兄弟と弟が当事者です。もっとも、別府がさしていた刀は、桐野の刀であったそうなのですが。

 それが、ですね。
 桐野作人氏は、第2章で「剣客としての桐野」を描くにあたりまして、「桐野が弟、従兄弟と歩いていると斬りかかられた」という話に仕立ててしまっているんです。日記の原文では、前日に見舞いに来てくれた藤屋権兵衛のもとへ「従兄弟と弟を御礼に遣わした」と書いていますのに、どこをどうひねったら、「桐野は一間ほど後ろに飛び退いて、刀を半分ほど抜きかけたところ、別府が先に刺客を斬ってしまった」なんぞという光景が出現するのでしょうか。

 もう一つ、日記からです。
 桐野作人氏の著作、p.233「桐野の和歌」より、以下引用です。

 桐野の日記でもっとも意外なのは、和歌や漢詩を少なからず詠んでいることである。和歌は十五首、漢詩は二編載っている。 

 和歌が意外ですかね? 土方歳三も俳句を作っていますし、ねえ。どっちもド下手くそですが、土方の俳句の方が少しだけましかなあ、という気がします。
 桐野の和歌につきましては、昔、書きました。

 大政奉還 薩摩歌合戦

 ここのコメント欄で、私、書いております。

 11月3日条を最初見たとき、「あれ、これなかなかうまい!」と思いましたら、「長府の奥善一、京都に於ける作」とあって、がっかりしましたです(笑)

 私、まちがえて「奥善一」としか書いていませんが、11月3日条には、漢詩が二つと和歌が一つありまして、「長府の奥膳五郎、六郎、善一、京都における作」となっています。
 つまり、どこからどう見ましても、この漢詩二編、和歌一首は、長府の奥氏たちの作品なんですね。
 この日以外、桐野は漢詩は日記に書いておりません。

 和歌につきましては、確か「鹿児島県史料 西南戦争」に市来四郎が桐野について書いた文章がありまして、そこにもいくつか載っていますし、一応、師匠について勉強していたようなことも書かれていました。(すみません。コピーが出てこなくて、不確かです)

 桐野が漢詩を作ったかどうかは、ちょっとわかりません。
 いくつか、桐野のものと称されます漢詩の軸物は残っているようなのですが、それらが本当に桐野の筆であるかどうかは確かではないですし、例え桐野の真筆であったとしましても、その漢詩にいたりましては、あるいは友人の有馬藤太や中井桜洲が作ったかもしれません。

 で、日記から離れまして、先に出てまいりました従兄弟の別府晋介、です。
 wikiー別府晋介は、ほぼ「西南記伝」をもとに書いているのではないかと思うのですが(私は手を入れていません)、「鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる」とあります。桐野の母・スガの実家は別府家ですので、通常、スガと別府十郎は兄妹、あるいは姉弟だったと理解されます。

 ところがですね。
 桐野氏著作p.78「桐野利秋とは何者か」より、引用です。
 
 父十郎が利秋の母スガの妹と婚姻し、その二男として晋介が生まれた。兄は九郎という(塩満郁夫「別府晋介と西南戦争」)

 私、塩満氏の論文を持っていませんので、中村さまに見ていただきました。
  「桐野利秋とは何者か!?」vol1のコメント欄に中村さまご本人が書き込んでくださっていますが、塩満氏の「別府九郎と西南戦争」では、九郎の父十郎の姉スガ、となっています、ということなんです。もっとも、年を計算すれば、十郎の妹スガ、かもしれないようですけれども。

 もう一つ、p.29、別府晋介の項目より。

 同5年に征韓論が起こるや、八月、外務大丞の花房義質が朝鮮国に派遣されることになり、晋介はその同行を命じられている

 いや、明治5年に征韓論は起こっていません!!!


アジア歴史資料センター

 上のリンクで、レファレンスコードB03030134500、「対韓政策関係雑纂/明治五年日韓尋交ノ為花房大丞、森山茂一行渡韓一件 第一巻」の明治5年8月10日、朝鮮尋交手続並目的をご覧ください。外務卿・副島種臣が正院に提出したものです。
 国交交渉が上手くいっていない現状を延べた後、次のように言っています。

 和館(草梁倭館)は、嘉吉以来、わが人民が行き来して住み、我が国の国権が行われて来た場所なので、捨てるわけにはいかない。いずれ使節を立てて談判するまで、便宜的な取り計らいをする 

 ということでして、要するに、外務省が釜山の草梁倭館を確保するための諸策を実行しようと、花房は渡韓したわけです。
 別府たちを派遣しましたのは、対馬(草梁倭館も含まれます)を所轄する鎮西鎮台(熊本鎮台)司令長官の桐野ですが、どこからどう見ましても、目的はいずれ正式に使節を立てるときのための草梁倭館偵察のためでしょう。

 これにつきましては、次回かその次か、明治6年政変を取り上げますとき、もっと詳しく書きます。

 いずれにせよ、です。
 細かいことばかり、と思われるかもしれませんが、何事も細かいことの積み重ねです。
 不審なほどに変な間違いが多いですし、あるいは桐野作人氏は、ゴーストライターにでも書かせたのか、と勘ぐりたくなるほどです。

 日記をちゃんと読んでくれていない、というだけで、著作全体への不信感が芽ばえたのですが、次回からは、もう少し大きな問題に取り組む予定です。
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「桐野利秋とは何者か!?」vol1

2019年01月15日 | 桐野利秋

  一応、大河『西郷どん』☆あまりに珍な物語 Vol.2の続きです。

 去年の9月です。
 山本氏からお電話で、「桐野作人氏が桐野利秋の本を出されるみたいですよ。中村さんにも伝えて差し上げてください」と言われました。
 お聞きしたところでは、「密偵としての桐野」という新しい視点で書かれた、ということでして、なんとなく、嫌な予感がありました。
 といいますのも、30年ほど前、大河で「跳ぶが如く」が放映されましたとき、小説や随想など、桐野利秋に関する多くの本が出版されましたが、その中に、確か、「密偵」のように書かれたものがありまして、それは決して、私にとりまして魅力的な桐野像ではなく、納得もいかず、とばし読みして放り出した記憶があった、からです。

 しかしまあ、読んでおいた方がいいだろうとアマゾンで購入し、とばし読みましたところで、骨折、手術、入院。
 とばし読みましただけで、言いたいことが山のようにあったんですが、少し丁寧に読まねばと、病院に携えました。
 

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版


 私、大河ドラマにつきましては、「まあ、原作とシナリオライターがあれじゃあ、ね」と、結局のところは、あまり期待していませんでした。
 しかし、桐野作人氏の本であれば、「少なくとも史料に忠実だよね? 新しい史料紹介があるかもしれないし」と、かなりの期待はあったんです。

 
史伝 桐野利秋 (学研M文庫)
栗原 智久
学習研究社


 これもずいぶん以前の記事なんですが、史伝とWikiの桐野利秋でご紹介しました栗原智久氏の『史伝 桐野利秋』は、好著でした。
 あれから、いろいろと付け加えたいことも出てきましたけれども、基本、「桐野利秋について知りたい」という方には、まず、この本をお勧めしていました。
 主観をまじえず、史料に語らせるスタイルで、淡々と書かれているんですが、それでいて、著者の桐野利秋への愛情が感じられるんです。
 それは長らく、「感じられる」だけだったんですが、最近、先輩ファンの中村さまが、国会図書館で「歴史研究 441号」に栗原氏が寄稿された随筆を、コピーしてくださいました。

 「歴史研究」は、在野の歴史愛好家に論文発表の場が開かれた月刊誌でして、いまも続いているようです。
 月刊『歴史研究』特集一覧を見ていただければわかるのですが、平成10年発行の441号の特集は、「司馬遼太郎の世界」です。栗原氏は、司馬遼太郎氏が描いた桐野利秋について、述べられていまして、以下、引用です。

 「『翔ぶが如く』における桐野の考え・思想に対する司馬人物観は、必ずしも好意的なものばかりではない。しかし、著者が桐野に魅かれたのはこの小説のところどころにあらわされたその所作の印象によるところが大きい。〜中略〜 行動の型としては、桐野は司馬人物観にかなう、司馬さんの好きな人物のひとりであったのだろうと思う。
 著者はいま、史料をもとに桐野の思想について考えるものであるが—自らの思い込みでしかないが、許されるものなら、史料をもって桐野利秋について司馬さんと語ってみたかった。お便りしてみたかった。その司馬さんはもういない」
 

 栗原氏は、これを書かれて4年後に、『史伝 桐野利秋』を出版されたことになります。

 愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-を見ていただければわかっていただけるかと思うのですが、栗原氏のように理路整然と語ることはできていなくても、結局のところ、私も司馬遼太郎氏の作品で、桐野を好きになったわけだったみたいでして。

 実をいえば、ですね。栗原氏が寄稿なさった5年前、私も、「歴史研究 375号」に「桐野利秋と民権論」という論文を投稿しております。
 いま読み返しますと、勉強不足のあらが目立って、目をおおいたくなるんですけれども、大筋で、私の考え方が変わったわけではありません。
 しかし、それにしましても、いまさらこの論文が日の目を見ようとは……、絶句でした。

 桐野作人氏の著作について、ざっと読みしました感想を一言で言えば、「栗原氏みたいに、桐野への愛情があって書いたわけじゃないよね、この本」ということです。
 愛情のなさは、史料の読み方にあらわれていまして、読解がいかにも雑です。
 しかし、桐野作人氏は著名ですし、発行はNHK出版。
 この愛情のない本が、これから桐野の伝記の定番になるのかと思いますと、いったいどこへ不満をぶつければいいものやら、入院中にもかかわらず、夜、携帯で中村さまと長話をしまして、看護士さんに叱られる始末。

 しかし、この時点でまだ飛ばし読み状態の私に、中村さまいわく。
 「桐野氏は、郎女さんと私の名前を出しておいででしたが、あれは、どういうおつもりなんでしょう」 
 「えええっ!!! 私の名前???」

 中村さまは「敬天愛人」に、近年、桐野に関する論文を発表しておいでなので、引用してらしたというのもすぐに合点がいったのですが、なんで私がっ!!!と絶句しつつ、言われたページを開きましたら、これが、30年近く以前に書きました「桐野利秋と民権論」からの引用であった、というわけです。あまり納得のいく箇所の引用ではなかったですし、いまだに、どういうおつもりだったのかはわかりません。

 どこがどう愛情がなく、どこがどう雑なのか、具体的には、次回から順を追って書いていくといたしまして、今回は最後に大河の桐野につきまして。
 子役の子は、ほんとうによかったんですけど、大人になって、大野拓朗。
 整った顔立ちで、「花燃ゆ」では野村靖をやり、本物の野村靖の写真を知っている私からしましたら、「嘘だろ!」だったんですが、なんだかともかく、幕末劇では影の薄い人です。
 今回の桐野も、シナリオが悪いのが第一でしょうけれども、まったくもって、存在感も魅力もありませんでした。
 朝ドラ「わろてんか」のキースは、なかなかよかったんですけれど。

 『翔ぶが如く』の杉本哲太、好きでした。
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中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほか

2013年08月01日 | 桐野利秋

 えーと。
 いろいろと書きかけているのですが、ちょっと忙しく、まとまって書く時間がとれません。

 久しぶりに桐野です。
 中井桜洲と桐野利秋桐野利秋と伊集院金次郎の続きでしょうか。
 実は、桐野に関しまして、ちまちまと情報が見つかり、それをメモしますついでに、Wiki-桐野利秋に大幅に加筆しておりました。
 
 きっかけは、しばらくお休みしておりましたヤフオクに復帰し、アラートで桐野利秋、中村半次郎にかかわる出品を、チェックし始めたことです。
 書とかゲームとか映画とか、それなりの情報を得ることができ、そこから話がひろがっていったのですが、wikiには書けなかったことをまとめて、こちらにメモしたいと思います。
 まずは、映画「オトコタチノ狂」から。こんな映画があったとは、存じませんでした。

オトコタチノ狂 [DVD]
クリエーター情報なし
インターフィルム


オトコタチノ狂



 これ、俳優たちの映画制作集団・石井組が自主制作のような形で作った映画だそうでして、低予算ですが、制作者の熱意は感じられます。
 しかし、一言で言いまして、熱意が空回り気味。残念な映画!!!です。

 どういう映画なのか、ごく簡単に言ってしまいますと、現代の東京で一人暮らしをする青年のアパートに、突然、幕末から、長州の久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎、薩摩の中村半次郎、新撰組の土方歳三の四人が、時を超えて現れた!!!、という設定です。なんでこの四人だったのか、なんの脈略もないんですが、魅力的な人選です。
 なにしろ低予算ですし、つっこみどころもまた満載です。
 薩摩藩士の中では突出して長州よりの中村半次郎が、なんでお友達だったと思われる久坂に斬りかかるのか、あげく中岡慎太郎ごときに(笑)押さえつけられるって、なんなんでしょ??? いや、慎太郎よりは、半次郎の方が力があると思うんですけどねえ。畑仕事で鍛えていますから。

 しかしね、制作者の熱意は十二分に感じられまして、もうちょっと、どうにかならなかったの?という意味で、残念だったんです。
 途中、幕末の四人が、一人の赤ん坊を囲んでいる映像が幾度か挟まれるのですが、赤ん坊は、近代国民国家としての日本を象徴しているのだろう、とは、容易に察しがつきます。
 これ、ですね。パゾリーニ監督のイタリア映画「アポロンの地獄」[DVD]を、ちょっと思い出す場面でした。
 「アポロンの地獄」はギリシャ悲劇『オイディプス王』を題材にしているんですが、 やはり突然、19世紀末か20世紀初頭と思われる衣装を身につけた若夫婦と赤ん坊の映像が、はさまれるんです。それが、とても印象的に、オイディプス王の悲劇が、時を超えた、普遍的な人間の業であることを、訴えてくるんです。

 私、もともとタイムトリップものは好きなんですが、時を超えた人々の思いが、もう少しこう、じんとくるように上手く描けなかったものなのでしょうか。終わり方も変でしたし。
 一番時の流れを感じましたのが、10年前の東京を描きました現代の場面の風俗が、とても古びて見えたことだった、と言いますのが、なんとも。

 次いで、桐野の雅号について、です。
 ヤフオクに、桐野が書いたもの、とされる書が一点出ていまして、雅号が鴨溟でした。どなたか、落札されたようですが、私には、桐野が書いたものとは、ちょっと思えません。しかし、他にも鴨溟、または鴨瞑という雅号で、桐野が書いたとされる書が複数存在することは、wikiに書きました通りです。

 いったい、どういう意味の雅号なんだろう、と検索をかけていまして、私、頼三樹三郎の雅号が、wiki-頼三樹三郎にもありますように、鴨崖だったことを知りました。そして、その漢詩集に北溟遺珠があるんです。
 いうまでもなく頼三樹三郎は、安政の大獄で処刑された漢詩人でして、なにしろ頼山陽の息子ですし、幕末の志士たちにとっては英雄だったでしょう。
 とすれば、都に出て、長州寄りの思想に目覚めました半次郎が、憧れて当然でしょうし、あるいは、漢詩を作ったのは有馬藤太か中井桜洲で、実は桐野の雅号を考えたのも彼らなのかもしれず、そうだったにしましても、どっちみち、鴨崖の北溟遺珠にちなんだ雅号の可能性は高そうだな、と思ったりしたのですが。

 で、「少年読本 桐野利秋」を読んでいましたら、著者の春山育次郎が、桐野の話を聞くために京都の中井桜洲を訪ねるんですが、この中井の住居を、鴨崖の家と書いているんです!!!
 「ええっ??? もしかして、頼三樹三郎が住んでいた家に、後年、中井が住んだとか???」と謎は深まりまして、もうこれしかない!と、中井にお詳しい某さまにお電話を。
 某さまのお話によりますと、中井が京都府知事時代に住んでいました家は、荒神橋のすぐ北で、鴨川のほとり(右岸)にあったから鴨崖と呼ばれていたんだそうなんです。
 「ええっ??? 鴨崖って、鴨川のほとりって意味だったんだっ!!!」と、ここではじめて気づいた、馬鹿な私でした。
 言われてみましたら、頼三樹三郎が育ちました山陽の山紫水明処は、荒神橋の南数百メートルのところにあり、やはり鴨川の右岸、なんです。位置関係は、下の地図に示しておりますので、どうぞ、ご覧になってみてください。

 Googleマップー幕末の京都

 えーと。
 つまり、です。
 中井が頼三樹三郎の号にちなんで、自宅を鴨崖の家と呼んでいたのではないか、ということは、あっておかしくないでしょう。若き日の中井が師としていた大橋訥庵は、刑死した頼三樹三郎の遺骸を引き取った人です。
 しかし、鴨崖の鴨が鴨川を意味するとしましたら、鴨溟って、鴨川の海、ですか? 相当、頓珍漢な雅号になるのではないだろうか、と思うのですが、鴨溟の意味について、他に考えられる解釈があれば、どうぞ、ご教授くださいませ。

 最後に、桐野利秋の子孫について、です。
 これね、私と中村太郎さまとの間に見解の相違がございまして、長らくお電話で、言い争いをさせていただいております。
 どういうことかと申しますと、伝えられています戸籍、あるいは大正5年に桐野が贈位されましたときの新聞記事などでは、「桐野利秋には子供がいなかったので、実弟・山内半左衛門(山内家に養子)の長男(幼名栄熊、利義と改名。明治3年生まれ)が跡を継いだ」となっているんですね。

 ところが、です。
 桐野の孫(利義の娘)にあたります桐野富美子氏のインタビュー記事には、利秋の正妻だった久(富美子には義祖母)の語った言葉として、以下のようにあるんです。歴史読本「子孫が語る幕末維新人物100」から、引用です。

 「栄どん(栄熊、利義)は妾(私)が生んだ子じゃないが、おじいさん(利秋)の若い時、自分の母方に弟の子として預けて、京など奔走したのだけど、籍は、私より先に入っていたね。むかしの結婚は、やかましかったで、その頃はおじいさんはもう軽輩じゃなかったでなあー」

 少なくとも桐野富美子氏は、このように信じていたようでして、直系のご子孫の間では、「利義は利秋の実子だった」と言い伝えられているようなのですね。

 桐野利秋本人のファンであります私にとりましては、ご子孫が桐野の直系か弟の血筋か、まあどちらでもいいことでして、気にもとめてなかったんです。
 ところが、ところが。

 美少年と香水は桐野のお友達に書いておりますように、この富美子氏談話に、以下の一節がありますことを再認識することとなりまして。

 生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。


 「まっ!!! 正名くんが、利和はおじいさんの利秋に似ていると言ってなつかしんだのなら、これは、実孫だった方が絵になるよねえ」と、俄然、富美子氏談話を信じる気になったんですね。

 これを信じて、利義が利秋の実子だったとしますと、利秋の若いころの話ですから、利義の母親は、桐野の京都時代の愛人だった村田さとさんの可能性が、高いんですね。
 しかし、だとすれば、利義が明治3年生まれ、というのは、ちょっとおかしな話にはなるんです。
 まあ、ですね。利秋の足跡がすべてわかっているわけではありませんから、明治2年に京都に立ち寄ったことがなかったとも言えず、だとすれば、さとさんが明治3年に出産した可能性が、これまたなきにしもあらず、なんですけれども。

 中村太郎さまは、利義は甥だとする戸籍の方を信じたい、とのお考えで、富美子氏談話になんらかの裏付けがあるわけではありませんから、ごもっともではあるんです。
 結局、おたがいに、私はこう信じたい、ということにつきまして、話は平行線にしかなりません。

 それは一応、置いておきまして、最近、検索をかけておりましたら、tondenwikiという、屯田兵の歴史を調べておられるサイトさんに行き着きまして、そこに、以下のようなことが書かれてあったんです。

 野幌屯田兵の名簿の中に「桐野利春」という名前が載っています。 西南戦争で戦死した西郷軍総司令・桐野利秋(中村半次郎・1838~1877)と名前が1字違い。 屯田兵名簿によると、利春は明治元(1868)年生まれで、原籍地は鹿児島郡清水馬場町(現・鹿児島市清水町)番外地となっています。 

 私がどびっくりいたしましたのは、桐野利秋と伊集院金次郎のコメント欄に来られた北村典則氏のご先祖のお話が、あったからです。
 さっそく、江別市役所発行の「野幌屯田兵村史」を買い込みました。

 これによりますと。
 江別の野幌への屯田入植は、明治18年と19年の2回行われまして、すべて士族です。
 鹿児島からの入植は、明治18年入植の30戸のみ。この中に、18歳の桐野利春がいたわけです。
 なにしろ、明治7年に桐野利秋は清水馬場に屋敷をかまえましたので、利春の原籍が清水馬場ということであれば、利秋の遠縁にあたるかなにか、関係があった可能性はありそうなわけでして、妄想をたくましくしますと、利秋が外で作った実子を遠縁の籍に入れてもらったり、もあり??? とか、つい、思ってしまったりするわけなのです。

 実は、栄熊が利義として、利秋の死後養子になりました時期が、奇妙なことに明治18年でして、桐野利春が野幌に屯田入植しました年と同じなんです。
 明治10年の西南戦争で、桐野利秋も実弟の山内半左衛門も戦死し、その時点で、山内家の長男となっていました栄熊が山内家を継ぎ、子供がいませんでした桐野家は妻の久さんが戸主になった、というのは、わからないでもないのですが、それから明治18年まで数年ありまして、養子に迎えるタイミングが、ちょっと遅いのではないのか、という気がしてしまうんです。ここでまたまた、妄想をたくましくしますと、利春と利義はともに利秋の実子かもしれず、遠縁に養子に出していました利春を跡継ぎに迎えようと考えていましたところが、養家先の事情で、利春は屯田入植することとなり、結局、利義が跡を継いだ、とか。

 妄想は横へ置いておくにしましても、北村典則氏のお話に、野幌に屯田入植しました桐野利春を重ねますと、あるいは、北村氏の曾祖母・桐野ヒロさんが、桐野利春の娘、ということも考えられるのではないんでしょうか。利春が利秋の遠縁だったとしまして、男の子が生まれず、屯田兵は世襲だったそうですから、故郷の鹿児島から、娘の婿として、利義の次男、三男を養子に迎えたのだとしましたら、話がぴったりとあうんですけれども。

 いずれ、もう少しちゃんと調べてみるつもりではいるのですが、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授くださいませ。


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三千世界の鴉と桐野利秋

2012年03月12日 | 桐野利秋

 去年の3月11日の午後は、母を眼科に連れていっていました。
 なんといえばいいのでしょうか、関東大震災が当時の日本の世相を一変させてしまったことが、身をもってわかったような気がしました。
 安政の東海、南海、そして江戸直下型その他の連発大地震も、黒船来航と重なりまして、「生滅流転、この世に確かなものはない」というような諦念から、やがて、世の変革を促す大きなエネルギーが生まれたようにも思えます。

 そんなわけで(どんなわけやら)、今回もちょっと寄り道しまして、「三千世界の鴉を殺し」の続きです。
 なんだか最近、同名ライトノベルのおかげで、検索でこのページにアクセスする方が増えていたんですけれども、その理由の一つは、どうも私が、「主と朝寝がしてみたい」だけではなく、「主と添い寝がしてみたい」の歌詞も載せていたためでもあったのではないか、と思います。
 これ「朝寝」の方が一般によく知られていまして、「添い寝」と書いているサイトさんは少ないんですよね。

 それは、ともかく。
 私が前回、この都々逸について書きましたのは、
この秀逸な都々逸を、桐野利秋作だと書いているブログがある、とお聞きしてどびっくりし、しかもそのブログのこの都々逸の解釈が、「邪魔なものは全て殺してしまえという考え方を述べたもの」ということであることに呆然として、のことでした。

 要するに、私が憂えておりましたのは、です。
 日本人の日本語読解能力がここまで低下するって、許されることなんでしょうかっ!!!
 ということだったんですが、実はこれにはネタ本があった、ということが、最近わかりました。

名禅百話―人生の真理と不動の心を求めて (PHP文庫)
武田 鏡村
PHP研究所


 この武田鏡村氏の「名禅百話」が、元凶だったんですっ!!!
 しかも、信じられませんことに、検索をかけてみますと、著者の武田鏡村氏は、僧籍のある作家!!!だそうでして、ここまで読解力のない作家さんがいまの日本には存在するのかっ!!!と、呆然といたします。

 だいたい、書き出しからして、こうです。
 幕末に、人斬り半次郎と異名をとった人物がいた。薩摩の中村半次郎、のちの桐野利秋である。
 幕末に、人斬り半次郎なんて異名はないですから。あるとおっしゃるなら、典拠をはっきりさせていただきたいものです。

 つーか、人名の前に「人斬り」とつけることは、半次郎に限らず、幕末にはありません。
 人斬り俊輔とか、人斬り晋作とか、人撃ち龍馬とか、言わないですよねえ。
 それと同じことです。
 明治になっても、剣に強くて必要なときにそれを存分にふるえますことが英雄の条件だったとは、龍馬暗殺に黒幕はいたのか?に書いております近藤勇の例などを見ましても、わかることです。

 これもだいぶん以前の記事ですが、詳しくは続・中村半次郎人斬り伝説をご覧ください。

 
萌えよ乙女 幕末志士通信簿
幕末維新研究会
泉書房


 上の本を買いましたのは、ひとえに、薄桜鬼の土方と池田屋の沖田ランチに書きましたように、姪に「薄桜鬼」を教えられまして、「最近の幕末死人のおっかけ事情はどうなっているの???」と、関心をもったためです。
 えー、それが、ですね。ちゃんと中村半次郎も見開きで載せてもらっていました。
 書かれました内容はともかく、濡れ羽色の長髪の半次郎のイラストの色っぽいこと色っぽいこと、でして、ここで「三千世界の鴉を殺し、主と添い寝がしてみたい」と台詞を入れてくれましたら、芸者さんも悩殺されるよねえ、と思ったほどでした。

 イラストは幾人かで分担して描かれているのですが、半次郎を手がけられたのは、あおいれびん氏。ぐぐってみましたら、BL系の漫画家さんみたいでして、どうりで、色っぽいはずです。
 しかし、後書きであおいれびん氏が書いておられますことには、「四大刺客を描かせて頂きました!」ということでして、「四大刺客」って「四大人斬りの言い換えだよねえ」と、田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎と並べられますことに、ちょっと違和感があったのですが、四人とも色っぽい中でも、半次郎は格別に色っぽく描かれていますので、まあいいか、と思いもしました。

 違和感といいますのは、なになのでしょうね。
 最大の違和感は、田中新兵衛も岡田以蔵も河上彦斎も、孤独な剣士という感じがしまして、桐野(中村半次郎)は、そうではないから、です。
 伊集院金次郎も肝付十郎も、戊辰戦争で先に逝ってしまいましたけれども、永山弥一とは生涯の友で、桐野の説得で、死を覚悟してともに戦うことを承知してくれたわけですし、桐野の死後に桐野を描いた歌舞伎を見まして中井桜洲はしのんでくれましたし、おそらく前田正名も、パリで泣いてくれたはずですし。

 なにしろ、私の半次郎に対しますイメージが、愛のバトン・桐野利秋-Inside my mind-に書いたようなものですから、ねえ。
 といいますか、フランス軍服に金銀装の儀礼刀を持ち、アラビア馬に乗っていた桐野も史実なんですから、田中新兵衛、岡田以蔵、河上彦斎と並べますよりは、土方歳三の向こうを張るイメージの方が、事実に近いんじゃないんでしょうか。

 と、話がそれてしまいましたが、武田鏡村氏の著作です。
 人斬り半次郎云々の後に、こう続きます。
 あるとき、半次郎が京都相国寺の独園和尚を訪ねて、たわむれに「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」と詠いましたところが、独園和尚はニヤリと笑い、「桐野さん、そんなことでは天下は取れぬ。わしならこう詠む。三千世界の鴉とともに、主と朝寝がしてみたい」と詠った、というのです。
 ここまでは、いいんです。

 実は、ずいぶん以前から、中村太郎さまが、相国寺さんのサイトで桐野の名前を見つけ、教えてくださっていました。
 臨済宗相国寺派 歴史資料 関連人物に、独園承珠の項目があります。この最後に「参禅の居士に伊達千広、鳥居得庵(鳥尾小弥太)、桐野利秋、山岡鉄舟等があります」とありまして、独園和尚は、廃仏毀釈に反対して、信仰の自由を求めた方だそうですので、その和尚さんに私淑していましたといいますことは、これまた意外な桐野の側面ですよね、と、中村さまとも話していたようなことだったんです。

 京都の薩摩藩二本松藩邸は、相国寺の領地を借りて、相国寺に隣接して建てられておりましたので、幕末、中村半次郎時代から、相国寺で修業しておりました荻野独園を知っていた可能性はあるのですが、wiki-荻野独園を見ておりますと、「明治5年(1872年)教部省が設置されて独園は教導職として招かれたのを機に東京に入り、次いで増上寺に大教院が設置されると大教正に任じられ、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の総管長を兼務した」とありますこの時期に本格的に私淑したと考えますと、おさまりがいいんじゃないのか、と思います。

 ま、そういうわけでして、桐野と独園和尚との逸話伝説が残っていますこと自体は、ありえることとと思われました。
 それで、中村さまが国会図書館でさがしてくださいまして、武田鏡村氏がネタにした可能性があります戦前の禅の逸話集が、いくつか見つかりました。
 そのうち、一番古いものが、大正15年発行の「禅林逸話集」です。
 中村さまいわく「国会図書館のデジタル化が進みますと、もっと古いものが見つかりそうですね」でして、私もそう思いますが、短い逸話ですから、全文引用します。

 桐野利秋の情歌
 
 西郷南洲の股肱といわれた桐野利秋、ある時相国寺の独園和尚に参じて、
「和尚さん、拙者はかやうな都々逸を作ってみたが、如何です?」と大いに自慢して見せた情歌に曰く、
  三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい
 これを見た独園和尚、ニヤリと一笑して、
「桐野さん、そんな事ぢゃお気の毒だが天下は取れませんよ」
「それはまたどういふわけですか」
「わしならばかうするよ」と和尚が示した歌にいわく、
  三千世界の烏と共に主と添寝がしてみたい
 他日桐野が人に語って言ふやう、
「あの坊主はなかなか油断がならぬぞ」と。


 大正時代に出版されていますこの逸話と、武田鏡村氏が書いた逸話のどこがちがうかといいますと、もっともちがいますことは、大正時代のものは「添寝がしてみたい」で、鏡村氏のものは「朝寝がしてみたい」ということでしょう。
 添寝と朝寝。これだけでニュアンスが相当ちがってまいります。

 三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい
 この世の義理もしがらみをみんな捨て、あなた(おまえ)と体を重ねてしまいたい

 三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい
 この世の義理やしがらみから解き放たれて、あなた(おまえ)とのんびり朝寝ができる身分になりたい

 つまり、「添寝」は肉体関係を持つということですから、あからさまな恋歌にしかならないのですけれども、「朝寝」は朝寝坊という意味ですから、「のんびりしたいなあ」という気分の方が強く、高杉晋作や逃げの小五郎(木戸孝允)が作ったと仮託しますならば、「朝寝」の方がふさわしい、といえます。

 大正時代の方の逸話を解釈しますと、以下のようではないでしょうか。
桐野利秋が、あるとき独園和尚のもとへ来ていいました。
「和尚さん、こんな恋歌を作ってみたんですが、いかがですか? 三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい」
 桐野は、三千世界という仏教用語を使って、「この世の義理もしがらみも、仏の教えもみんなかまわず、おまえと体を重ねてしまいたい」という恋歌を巧みに作ったわけでして、色っぽい世界で粋にふるまっていることを自慢するとともに、独園和尚をちょっとからかったつもりでした。
 ところが、独園和尚はニヤリと笑って、こう返しました。
「桐野さん、そんなに色事にばかりかまけていては、お気の毒だがあなたは大成しませんよ。わしならばこうするよ。三千世界の烏と共に主と添寝がしてみたい」
 つまり和尚は、「烏を殺し」を「烏と共に」と一言言い換えただけで、「この世の義理やしがらみやさまざまな政治上の難問を、あなた(桐野あるいは国民)とともに解決しよう」と、恋歌を治政者の歌に変えてしまったのです。
 桐野は、「あの坊主はなかなか油断がならぬぞ」と感心して、他人にもそう言いました。


 ところが、ですね。
 武田鏡村氏ときましたら、「朝寝」の方でこの逸話を紹介しましたあげく、勝手に、こんな言葉を付け加えているんです。
 桐野のようにカラスが邪魔だからと、殺してしまっては何にもならない。カラスを殺さずに活かし、ともに生きる。これが本当の生き方である。
 その後、西郷隆盛に私淑する桐野は、政敵を倒すことを考えて蜂起し、西南戦争を引き起こして自滅した。
 ライバルや政敵は、殺して葬るのではなく、殺し(否定)、活かし(肯定)、そしてともに生きるものである。その度量がなければ、天下人や大企業の社長にはなれない。


 だいたい、桐野がこの歌を作ったということ自体、逸話の仮託にすぎませんが、それにしましても、「カラスが邪魔だからと、殺してしまっては」なんぞといいます無茶苦茶な解釈が、なんでできるのでしょう。えー、カラスが一匹、カラスが二匹と殺していく、これはカラス狩りの歌だとでもいうのでしょうか。馬鹿馬鹿しい。

 次に、桐野が私淑しておりましたのは独園和尚だと、相国寺さんのサイトにちゃんと書いております。 中村太郎さまがおっしゃっておられましたが、独園和尚は私淑します桐野になんの影響も与えることができない程度の人物だった、ということになりまして、失礼きわまりないんじゃないでしょうか。
 ちなみに、維新に際しまして、鹿児島で、徹底的に仏教が排斥されましたのを残念に思い、独園和尚は、禅宗の再布教を志し、明治9年から鹿児島入りするほど、熱心な導き手でした。

 もっともお口あんぐりになりますのが、西南戦争が政敵を倒すことを考えて蜂起って、はあ。このお人は、福沢諭吉の「丁丑公論」を読んだことがない!!!のでしょうか。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫 (675))
福沢 諭吉
講談社


 佐賀の亂の時には斷じて江藤を殺して之を疑はず加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其塲所に於て刑に處したるは之を刑と云ふ可らず其の實は戰塲に討取たるものゝ如し鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云ふ可し一度び過て改れば尚可なり然るを政府は三年を經て前原の處刑に於ても其非を遂げて過を二にせり故に今回城山に籠たる西郷も亂丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず假令ひ生を得ざるは其覺悟にても生前に其平日の素志を述ぶ可きの路あれば必ず此路を求めて尋常に縛に就くこともある可き筈なれども江藤前原の前轍を見て死を决したるや必せり然らば則ち政府は啻に彼れを死地に陷れたるのみに非ず又從て之を殺したる者と云ふ可し

 「江藤新平をちゃんとした裁判もなしに殺し、前原一誠も問答無用で殺して、志や意見を述べる場さえ与えなかった。西郷はその前例を見ていて死を選んだのだから、西郷を殺したのは政府だ」と、福沢諭吉は言っていまして、つまり、殺しまくって人材を葬ったのは政府の側で、アーネスト・サトウも「ここまで言論弾圧ばかりやっている独裁政府をありがたがることはない」と言っていますし、イギリス流に言いますならば、西南戦争は、圧政によって言論の道が封じられ、勝手に政府が税金を増やしましたがために、有志が武器をとって義勇軍を形成し、国民の抵抗権を行使した戦い、という言い方もできるわけです。
 といいますか、福沢諭吉はそれに近い見方をしていますね。
 政府の言論弾圧にも重税にも、国民には抵抗する権利があります。

 で、西郷隆盛嫌いで、西南戦争も傍観しました元薩摩藩士、市来四郎は、『丁丑擾乱記』でこう言っているわけです。
「世人、これ(桐野)を武断の人というといえども、その深きを知らざるなり。六年の冬掛冠帰省の後は、居常国事の救うべからざるを憂嘆し、皇威不墜の策を講じ、国民をして文明の域に立たしめんことを主張し、速に立憲の政体に改革し、民権を拡張せんことを希望する最も切なり」

 なんぞと、色気のない話になってしまいましたが、「三千世界の烏を殺し主と添寝がしてみたい」と、情歌を詠う桐野を、ぜひぜひ、あおいれびんさまに描いていただきたいものです。

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桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5

2012年02月25日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4の続きです。

 前回、ですね。私、小松帯刀の書簡で、龍馬たち土佐の海軍塾生(神戸海軍繰練所と勝の私塾の区別がつき辛いものですから、まとめて海軍塾と呼ばせていただきます)について触れられている部分を意訳しましたが、これ、ほんの少しですが従来の解釈とちがうと思います。
 松浦玲氏が、「坂本龍馬」におきまして、この書簡の解釈に悩んでおられまして、確かに意味のとり辛い文面です。
 従来、非常におおざっぱに、「龍馬は船を調達に江戸へいっている。龍馬が船を借りられなかったら、勝の海軍塾生だった連中は役に立ちそうだから薩摩で雇ってやろう」くらいにしか、受け取られていなかったようなのですが、松浦玲氏に触発されまして、私、ちょっとまじめに悩んでみたんです。

 
坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 従来、龍馬が船を借りられたとして、その船をどこの籍で運用するのか、といいますことが、まったく問題にされていなかった、と思うんです。
 薩摩は、長州に下関で沈められました長崎丸など、これまでにも幕府の船を借りていますし、薩摩が借りたい、ということですと、禁門の変でともに戦った直後ですし、貸す可能性はあったでしょう。
 龍馬は、最初から薩摩藩の船籍を使うつもりで、江戸へ、船を借りる交渉に行ったのだと推測できます。
 幕府籍で浪人が船を運用することは不可能ですし、勤王党員の浪士中心では土佐藩籍も無理です。
 となれば、薩摩しか考えられません。
 したがいまして、小松が「海軍塾にいた浪人たちを航海の手先に召し使えばいいんじゃないかな」といっておりますのは、この時点におきましては、龍馬が借りてくる予定の船ごと、であろうと思われます。

 それに関連しまして、小松が「もし龍馬が船を借りてこられなかったら、薩摩藩の船で使ってあげてもいいんじゃないかと考えている」という部分なのですが、これが従来、神戸にいた土佐の海軍塾生を含めて、考えられていたと思うんです。私はそうではなく、直前の「器械取扱候者并火焚水夫」、つまり幕府の翔鶴丸に乗り組んでいて士官と喧嘩した技術者や釜焚き水夫たち、おそらくは塩飽水軍の佐柳高次とその子分たち、のみだったのではないか、と思うんです。

 神戸海軍塾の塾生は、いわば見習い士官です。
 海軍塾の教育は、士官教育でして、薩摩の士官が乗り込んでいます船に、浪人を士官として乗せますことは、命令系統の乱れにつながりますし、船を一隻彼らのみに任せますならともかく、混在にはかなり問題があり、士官の命令に従うべき技術者(下士官と思います)や釜焚き水夫とは、話がちがうと、私は思うから、です。
 そして、薩摩の海軍士官のレベルは、土佐の海軍塾生よりは、上です。

 薩摩藩は、長崎のオランダ海軍伝習に、氏名がわかっているだけで、16人を出しています。
 その中で有名なのは、五代友厚と後の海軍卿・川村純義ですが、ともかく、勝海舟といっしょに学びました人数が、少なくともこれだけいたわけでして、一方の土佐はゼロです。(参考文献は勝海舟著「海軍歴史」。近デジにあります)
 はっきり言いまして、近藤長次諸をのぞけば、龍馬をも含めまして、実質、使いものになる士官はいなかったと思われます。 
 このことは、ユニオン号事件でも大きな焦点になってまいります。

 龍馬が、船を借りることをあきらめまして上方へ帰り、薩摩の保護下に入りましたことが確実に確認できますのは、慶応元年4月5日のことです。太宰府の五卿のもとにいた土方久元が吉井友実の家で、大阪の薩摩藩邸から出向いてきました坂本龍馬に会っています。
 この後、4月25日に胡蝶丸で薩摩にむかった模様なのですが、土佐の海軍塾生や翔鶴丸の技術者や水夫たちが、いつ大阪藩邸を離れたかは、はっきりとはわかりませんで、それぞれ、時期がちがっていたと考えた方がよさそうに思います。

 (追記)
 土方久元の「回天実記」4月21日条によりますと、この日、中村半次郎は山田孫一郎とともに京都藩邸を出て、帰国しています。翌日、西郷、小松、大山彦八が藩邸を出て帰国、となっていますから、これは、大阪で龍馬たちと合流し、胡蝶丸に乗り込んだ、と考えてよさそうです。
 半次郎の妻・久さんが大正年間に「坂本龍馬を歓待したことがある」と言っているのですが、翌年の寺田屋の後の4月には、河田小龍が京都藩邸に半次郎を訪ねているわけですから、この慶応元年のことと思われます。
 青空文庫の図書カード:No.52148 坂本竜馬手帳摘要で、「四月廿五日、坂(大坂)ヲ発ス。 五月朔、麑府(鹿児島)ニ至ル。五月十六日、鹿府ヲ発ス」ですから、5月1日~16日のどこかで、半次郎は自宅に龍馬を招いた、ということになります。



 中岡慎太郎と土方久元は、五卿問題で西郷隆盛に信頼をよせまして、薩長の連携のために動こうとしておりました。
 慎太郎は、このときすでに太宰府へ帰っておりましたが、龍馬と土方の間で話し合われましたのは、いかに薩長を結びつけるか、であったと推測できます。
 この後、龍馬の動きと慎太郎たちの動きは交錯するのですが、薩摩名義で長州の蒸気船を買う話が、長州から出たのか龍馬から出たのか、ともかく、幕府に敵対しています長州が武器や蒸気船を買い込むことはできませんから、蒸気船が欲しいけれども買えない、というその状況を見て、薩摩藩籍で買って運用は土佐浪士で、という思いつきは、当然、龍馬から出ていたのでしょう。

幕末維新の政治と天皇
高橋 秀直
吉川弘文館


 高橋秀直氏は「幕末維新の政治と天皇」の「第五章 薩長同盟の成立」におきまして、慶応元年(1865年)9月8日付け、長州の毛利敬親・定広父子から薩摩の島津久光・茂久(忠義)父子へ、「子細は上杉宋次郎(近藤長次郎)に話しておきましたので、お聞き取りください」と結ばれた書簡(「大久保利通文書一」収録)を送ったときに、すでに薩長同盟は結ばれたのだ、としておられます。
 果たしてここで同盟が結ばれたことになるのかどうか、私はかなり疑問なのですが、なぜ疑問なのかは後述するとしまして、高橋氏が、従来、武器、蒸気船の購入の名義借りの御礼のための手紙にすぎない、と軽く見られていましたこの文書に、大きくスポットを当てられましたことは、卓見かと思います。

 藩と藩の同盟が、最終的には藩主の同意がなければ正式なものとは見なされない以上、この手紙は、長州から薩摩への最大の働きかけであり、少なくともここで、長州が薩摩に同盟を申し出たことは、公式の事柄になったわけです。
 その手紙に、近藤長次郎の名前があるといいますことは、長次諸は従来いわれておりましたように、単に蒸気船の仲買者であったのではなく、薩長同盟へ向けて、藩主と藩主をつなぐ、非常に重要な使者だったわけです。
 これはもう、推測にしかならないのですが、前回に書きました上杉宋次郎上書によりまして、長次諸は久光に会ってもらっていたのだと思います。
 もちろん、龍馬は会っていないわけでして、同じ土佐の浪人でも、薩摩藩主父子への書簡を長州藩主父子が託しますのに、客観的に見まして、このとき、長次諸の方がふさわしかったわけでしょう。

 
龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 実は、ですね。吉村淑甫氏の「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」は、長次郎自刃の原因となりましたユニオン号事件につき、なぜかまったく詳しくないんです。
 龍馬関係の著作が大方そうですので、これはどうも、土佐系の史料に詳しいものがないのだろうと、手持ちの本を調べてみました結果、中原邦平著「井上伯伝 中」が、一番詳しいとわかりました。
 私、ずいぶん以前にマツノさんが出しました復刻版を持っております。持っていながら、これまで、ろくに読んでいなかったのですが、ようやっと役に立つようです。

 中原邦平は長州の史家でして、この「井上伯伝」は明治40年の刊行ですから、井上馨(聞多)本人も伊藤博文も、まだ生きていたときに書かれているんです。主に木戸家から実物の書簡を提供されましたようで、原文引用をはさみつつ、かなり事実に即して書かれていると思います。
 といいますか、なぜ井上馨の伝記がこれほどユニオン号事件に詳しいのか、最初はよくわからなかったのですが、高橋秀直氏の論文を読んで、気づかされました。
 井上馨も、薩長同盟の要に近藤長次郎がいたと、おそらくは認識していたんですね。
 そして、それにもかかわらず自分たちのせいで長次郎は板挟みになって死んだのだと、どうも、心底から悼んでいたのではないか、と思えます。
 尾去沢鉱山事件のイメージが強すぎまして、聞多といえば厚顔、と思っていましたが、ちょっと見直しました。

 まず、「井上伯伝」を読んでわかりますことは、薩長提携のために薩摩名義で長州の蒸気船と武器を買う、という計画にかかわっていましたのは、龍馬だけではありませんで、中岡慎太郎も大きく噛んでいた、ということです。
 少なくとも、長州側の受け取り方はそうでして、実際、慶応元年後半の龍馬と慎太郎は、連携して動いていますし、蒸気船の名義借りにつきましても、慎太郎の薩摩への働きかけもあったと思われます。
 次に、これが後に大きな問題になるのですが、薩摩名義の蒸気船の購入につきましては、最初から長州海軍の大反対があった、ということです。

 長州が薩摩の名義を借りて、薩長の提携を深めていく、といいます話は、実は、薩長ともに、といっていいと思うのですが、かならずしも広く、藩内の合意が得られていたわけではありませんでした。
 中心となりましたのは、薩摩側では小松帯刀、西郷隆盛、吉井友実といったところで、一方の長州は、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(聞多)、伊藤博文に、後で高杉晋作が加わってきた、といったところでしょうか。
 龍馬、慎太郎の奔走により薩摩の合意が得られた、ということで、井上と伊藤は長崎での武器と蒸気船購入のため、7月16日、下関を離れました。
 ところが、その後にいたって木戸は、武器はともかく、蒸気船購入については長州の海軍局からクレームがついていて、裁可できるかどうか微妙だ、というような知らせを、藩庁から受け取ります。
 そして、このもめ事は、延々続いたんです。

 長州海軍につきましては、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております。
 これにつけくわえますならば、長州海軍の重鎮でした松島剛蔵は、野山獄につながれていて、高杉晋作の功山寺挙兵が萩に伝わりましたとき、いわゆる俗論派によって殺されました。
 それから半年、松島剛蔵が生きていましたら、蒸気船購入はかならず、松島が中心になって行われていたにちがいないのですが、残されました海軍局メンバーは政治力のない者ばかり。
 いくら蒸気船を買ってくれと言っても、金がかかるからと断られ続けていましたのに、自分たちのまったく知らないところで、自分たちをまったくぬきにして、薩長提携のために、蒸気船購入が進められているというのです。
 海軍局から、文句が出ない方がおかしいでしょう。

 ちなみに、勝海舟の「海軍歴史」によりますと、長州は長崎のオランダ海軍伝習に15人も出していまして、これは、長崎防備をかかえました佐賀と福岡、そして海軍熱心だった薩摩に次ぎます、多人数です。
 攘夷戦で船は沈めてしまいましたけれども、海軍士官教育の質は悪くはなく、相当な知識を持ったメンバーがそろっていたといえます。
 木戸にしろ井上にしろ伊藤にしろ、海軍を軽視しすぎです。
 自分たちが運用するわけではありませんのに、です。海軍局ぬきで蒸気船購入の話を進めるなんぞ、いくら薩長連携のためでも、あってはならないことでした。

 長崎に着きました井上と伊藤は、長崎にいました薩摩保護下の神戸海軍塾メンバー(早いのかもしれませんが、以後亀山社中と呼びたいと思います)、社中のメンバー、千屋寅之助、高松太郎に会い、次いで、近藤長次諸と新宮馬之介などに紹介されます。
 長次郎はすぐに小松帯刀に連絡をとりまして、小松は、井上と伊藤を薩摩藩邸にかくまうとともに、武器(小銃)も蒸気船も薩摩名義で長州が買いますことを承知します。
 小松はこのとき、薩摩へ帰る予定がありまして、井上は長次郎とともに、小松に同行して薩摩へ行くことになりました。伊藤が長崎に残り、武器購入を進めます。

 蒸気船に関しましては、長州海軍局の不満が激しく、木戸も購入見合わせの手紙を二人に送ったのですが、伊藤は今さら中止にはできない、と返事を出します。
 結果、藩庁は、「蒸気船は全部で三隻買い、残りの二隻は海軍局に任せるから最初の一隻は井上、伊藤に任せる」ということで、海軍局をなだめます。
 とはいえ、本当にあと二隻船を買えるのかどうかも疑わしく、海軍局の不満はおさまりませんでした。

 井上は薩摩で桂久武や大久保利通などに会い、親睦を深めましたが、その間に長崎にいた伊藤が、グラバーの斡旋でユニオン号を、ほぼ購入候補に決めたようです。もちろん、その選定には、長崎の薩摩藩出先と亀山社中も、かかわっていたものと思われます。
 ユニオン号は下関で長州海軍局の点検を受け、その上で購入が決められることになりました。
 このころの伊藤の木戸宛書簡を見ますと、薩摩船に積み込みました長崎からの武器とともに、小松帯刀か大久保利通か、薩摩の要人が下関に行く予定があったようなのですけれども、結局、それは実現しませんで、井上は鹿児島から長崎、そして長州まで、亀山社中の同行を求めまして、近藤長次諸がその任を果たすことになります。

 8月26日、薩摩名義で買いこみました武器とともに、伊藤と井上、そして長次諸は、長州に着きます。
 長次郎は長州藩主の拝謁を得てねぎらわれ、先に書きました9月8日付けの島津藩主父子宛て手紙を託されます。
 確かに、高橋秀直氏のおっしゃっていることにも一理がありまして、長州藩側としましては、これでもう薩長同盟はまちがいがない、と信じての書簡だったのではないか、と思われます。
 ただ、私はやはり、それに対する薩摩藩主父子の返書があるまで、薩長同盟は成立したとは言い難く、返書がありましたのはほぼ一年近く後、第二次征長開戦直前の慶応2年(1866年)6月ですから、成立といいますならば、それをもって、ではないんでしょうか。

 ちなみに、このとき前田正名が、長州に返書を届けます使者の一人になって龍馬に見送られるのですが、それはまた稿をあらためまして。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3にも書いておりますが、その前田正名の兄は、薩摩藩が運用しておりました長崎丸を、長州に砲撃されたことで戦死しておりますし、続いて加徳丸事件が起こりましたことで、薩摩の交易事業従事の現場も、そして島津久光も、長州には多大な反感を抱いていまして、そのことが、開戦直前まで返書を遅らせ、長次郎を悲劇に追い込みますひとつの要因になった、と私は思います。

 そうこうしますうちに、ユニオン号がとりあえずの検分のため長州に姿を現し、長州海軍局も購入を了承して、このとき井上、伊藤とかわした近藤長次諸の約定では、船の名義は薩摩藩、長州が全費用を支払い、乗り組み運用は亀山社中で行い、平時は交易に使う、ということでした。幕府と和解できていません長州の船が交易をすることは不可能ですし、亀山社中の運用によって薩摩藩の交易に従事することで、名義借りの借りを返すのだ、との判断があったのでしょう。
 この9月に、中岡慎太郎と青山のじじい、つまり田中光顕が、長州にいます。
 まったくもって記録にはあらわれないのですが、ここで二人は、近藤長次諸と会ったはずなんです。

 従来、まったく結びつけて考えられていなかったことなのですが、私は、近藤長次諸が外国へ行く予定だった、という話は、中岡慎太郎と田中光顕がいっしょの計画だったのではないか、と思います。
 船便としましては、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航に書いております、安芸の野村文夫、肥前の石丸虎五郎、馬渡八郎との同行を、グラバーは考えていたのではないか、と思われます。三人の実際の長崎出港は10月ですが、計画は、もっとずっと早くからあったでしょう。

 中岡慎太郎が9月30日付けで故郷の親族に出しました手紙に、「先頃之思惑にては外国へ参り申度」云々、つまり、「外国へ行きたくて計画したけれど、用事ができて中止になった」とあります。
 「中岡慎太郎全集」の解説では、田中光顕が12月22日付けで故郷の父親に書きました書簡にも「かねて外国に渡りたいという志があって、いまもますます思いがつのっているけれど、力が無くてなかなかかなわない。このことについて、中岡慎太郎と密かに計画していて、他の者は知らない」とあるそうなんです。
 そして、11月10日付けの伊藤博文書簡に「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」とありまして、おおざっぱに考えますと、9月はじめころに計画があったと考えまして、おかしくないんじゃないでしょうか。

 いろいろと考え合わせますと、この洋行は、イギリス帰りの伊藤と井上が、薩長提携の仲に入ってくれました御礼として、長州の武器と船の代金から費用を出すことでグラバーと話し合い、中岡慎太郎と近藤長次諸に遊学提供を申し出たものではなかったでしょうか。
 長州側の身になりますならば、薩摩への働きかけにおいても、慎太郎がが多大な貢献をしてくれたのですし、慎太郎と青山のじじいは、龍馬たちとちがいまして、いっしょになって戦乱をくぐりぬけ、苦労してくれたわけです。
 近藤長次諸は、実際に動いてくれたこともありますが、長州藩主に目通りした、ということは大きかったでしょうし、伊藤と井上の認識では、薩摩藩主への書簡が書かれたといいますことは、それでもう薩長同盟はなったも同然だったでしょう。
 そして、慎太郎と長次郎の間には、切腹した間崎哲馬、という共通の知人がいますし、英語の勉強もしていたらしい長次郎の存在は、イギリスに渡るに際し、慎太郎と青山のじじいには、心強かったことでしょう。

高杉晋作 漢詩改作の謎
一坂 太郎
世論時報社


 高杉晋作が、近藤長次諸に送った漢詩があります。
 この親しみは、安積艮斎塾同門のよしみではなかったでしょうか。
 11月ころのものといわれます。
 上の本から引用で、読み下しは一坂太郎氏によりますが、一部、私が漢字をひらがなにしております。

 上杉宗次郎を送る
 突然相見て突然離る。未だ交情を尽さざるにたちまち別愁。
 此より去って君もし愚弟に逢わば、為に言え忘るなかれ本邦の基をと。


 突然君にあって、突然分かれる。親しむ間もなく、別れの悲しみにみまわれる。これからイギリスへ行って、もし弟に会ったら、日本の国の根本を忘れないでくれと、彼のために言ってやってくれよ。

 愚弟といいますのは、南貞助のことでして、本当は従兄弟なのですが、高杉家の養子になっていたこともあり、実の兄弟がいなかった晋作にとりましては、かわいい弟だったんですね。
 えーと、広瀬常と森有礼 美女ありき3に書いておりますね。貞ちゃんは、このときイギリスへ密航留学しておりましたが、森有礼や鮫ちゃんたちに誘われてカルト教祖トーマス・レイク・ハリスにはまりこみますし、岩倉使節団のときには、今度は自分が詐欺にはまりこみまして、鮫ちゃんもいっしょにはめて、欧州の日本人が集団で大がかりな金銭詐欺被害に会うという、一大事件を引き起こします。
 もう、なんといいますか、高杉晋作に素っ頓狂なところばかりが似まして、勘のよさは似ませんでして、実におもしろいお方で、私は大好きなんですけれども、またの機会に。

 それはともかく。
 ユニオン号は整備のためにいったん長州を離れ、近藤長次郎は預かった長州藩主の書簡を持って鹿児島入りし、忠義公に拝謁し、長州の意向を伝えます。
 このとき、返書がなかったのは、おそらく、なんですが、久光の承認が得られなかったから、ではないでしょうか。
 しかし、藩主・忠義公の意向で、海軍奉行の本田弥右衛門が長崎に出張することになりまして、グラバーとの本格的な金銭交渉、薩摩藩籍での登録など、すべて長次郎が中心になって、事は進みました。

 ところが11月上旬、ユニオン号あらため桜島丸に、長次郎をはじめとします亀山社中が乗り込んで、下関につきましたところが、問題が起こるんですね。
 長州海軍局にとりましては、自分たちがせっかく手に入れました蒸気船に、亀山社中が乗り組んで運用権を握る、といいますことは、許せないことだったんです。
 長州海軍には、長州海軍のプライドがあります。
 しかし、伊藤、井上との約束により、近藤長次諸は薩摩藩を説得したのですし、間に入りました長次郎にとりましては、突然ふってわきました長州側のクレームは、許容できないものでした。

 この問題、従来、おそらくは土佐勤王史かなにかを根拠に、龍馬が中に入って長州海軍局の言い分を入れ、解決したかのように語られてきましたけれども、「井上伯伝」によりますと、まったくもって解決しておりません。
 翌慶応2年(1866年)1月23日付で、木戸が書いた文章に龍馬が裏書きしました薩長同盟の盟約書、なんですけれども、箇条書きが終わった後、木戸は綿々と、「乙丑丸(桜島丸、ユニオン号の長州名)のことでは困苦千万で、どうかうまく運ぶように尽力をたのむ」と書いているんです。解決したのならば、これはありえません。
 いつ解決したのかといいますと、「井上伯伝」によれば、第二次征長開戦直前の6月、長州藩主へ、薩摩藩主からの返書がきましたときです。
 そしてこの返書は、高杉晋作の提案で、もう一度、長州藩主父子が懇願の書簡を書きましたことで、ようやく実現しました。

 話をもとにもどしまして、解決していませんから、伊藤博文は、長州海軍局員も連れて、近藤長次諸とともに長崎へ向かいました。
 これから後の話は、当時、長崎におりました薩摩藩士、野村宗七(盛秀)の日記が語ってくれるようです。
 原本は東大史料編纂所にありまして、私、彼の洋航日記をコピーしたくて、許可までは得たことがあるんですが、その後の手続きを怠りまして、まだ見たことがありません。
 土佐史談240号に、皆川真理子氏が、桐野作人氏から提供を受けられました日記の関係部分を抜粋しておられると知り、高知県立図書館からコピーを取り寄せました。
 土佐史談会さま……、隣の県の県立図書館にくらい、寄付してくださいませな。
 「史料から白峯駿馬と近藤長次諸を探る」という論文です。参考にさせていただきます。

 慶応2年(1866年)1月13日、長次郎は、伊地知壮之丞や喜入摂津など、薩摩藩の重役と会談しています。
 翌14日には、野村は、長次郎、伊藤博文、菅野覚兵衛(千屋寅之助)とグラバーの別荘で会っています。
 そして23日。
 野村のもとへ沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が現れ、長次郎が「同盟中不承知之儀有之」自刃したと告げます。
 ちょうど、木戸が薩長同盟の条文をつづり、ユニオン号のこともどうぞよろしく頼むと、書いたその日です。

 長次郎の死の最大の要因は、やはり、薩長同盟におきまして、藩主父子から藩主父子への橋渡しという要に立ちながら、役目を果たせなかった、という自責なのでしょう。
 しかし、その死を野村に告げにきました三人は、亀山社中でも、土佐勤王党に属したメンバーで、長次郎とは肌合いがちがった、と思うんですね。
 自分たちの蒸気船乗り組みは保証されず、同じように活動しながら、長次郎のみがイギリスに遊学するとは許されない、という思いも、あるいはあったのではないんでしょうか。
 覚えておられるでしょうか? 沢村惣之丞は、龍馬とともに脱藩した人ですが、このほんの2年後、戊辰戦争の折りの長崎で、あやまって薩摩人を射殺してしまい、薩摩と土佐の関係がこじれることを恐れ、自刃します。
 まわりの薩摩人もとめたといいますのに、死に急ぎましたのは、長次郎を死に追い込んだことへの悔恨の念があったから、ではなかったんでしょうか。

 野村の日記によりますと、そのころ長崎の英語塾で前田正名と同じ布団に寝ていました陸奥宗光が使者になり、京都の小松帯刀に長次郎の死を知らせることになります。
 当時、京都にいました桂久武の日記では、2月10日に、小松から西郷へ、西郷から桂久武へという経路で、陸奥がもたらしました長次郎の死の知らせは届きました。
 皆川真理子氏は、龍馬の妻、お龍さんの後日談から、陸奥より先に、亀山社中の白峯駿馬が龍馬に長次郎の訃報を伝え、長次郎の妻に遺品を届けたのではないかと、推測なさっています。

  Wikisourceに、坂本龍馬関係文書/三吉慎蔵日記があります。
 通常、薩長同盟が成り立った、といわれます京都での西郷・木戸会談に立ち会いましたのち、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の捕り物にあい、負傷して、京の薩摩藩邸にかくまわれます。
 いっしょにおりました三吉慎蔵によれば、京都への移動は2月1日のことでして、多くの薩摩藩士がそのもとを訪れ、大久保市蔵、岩下左次右衛門、伊地知正治、村田新八、中村半次郎と、桐野の名は5番目にあがっております。
 皆川真理子氏の推定があたっておりましたら、すでにこのとき、長次郎の死の知らせは龍馬に届いていたことになりますが、少なくとも2月10日には、半次郎もそれを知った、と思われます。

 河田小龍が、京都で近藤長次諸の死を聞き、薩摩藩邸を訪れましたのは四月のことで、新宮馬之介は九州、龍馬もお龍とともに鹿児島へ行っておりました。
 半次郎は、別府彦兵衛などとともに、惜しんであまりある長次郎の生と死を、小龍に語ったのでしょう。

 最後になりましたが、近藤長次諸顕彰会というサイトさんを見つけまして、記事というコーナーに、平成22年7月7日の高知新聞の記事が載っています。
 長崎の晧台寺に、長次郎の50年忌に青山のじじいが奉じた漢詩が残っていたんだそうです。
 若かりし日、ともにイギリスへ行くはずだった英才をしのんでのことでは、なかったんでしょうか。

 もう一つだけ、龍馬の「梅太郎」といいます変名、使いはじめた時期がいまひとつはっきりしないのですが、慶応2年からであるようです。私には、龍馬が近藤長次諸を悼んで、その別名、梅花道人にちなみ、その生をも引き受けて生きようとしたがための変名、と思えます。
 
 ずいぶん長くなってしまいましたが、長次郎は、もっとちゃんと調べて、ちゃんとした伝記を書きたいな、と思わせてくれる人でした。
 とりあえず区切りをつけまして、前田正名にかえります。

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桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4

2012年02月23日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3の続きです。

 元治元年(1864年)11月26日、小松帯刀が大久保利通に出しました書簡(「大久保利通関係文書三」)に、以下のようにあります。

 中村半次郎兵庫入塾いたし度内願御座候、御案内通之人物ニは御座候得共願通被仰付候而宜敷は有之間敷哉、御用立様ニ相成候ヘハ御国家之為若無其義は人ヲ捨候計ニ御座候、罷下候様被仰付候而も迚も罷下候向ニ無之候間兵庫ニ而も江戸ニ而も被差出候得は探索之為ニは相成場も可有之と相考申候、尚御吟味可被成候、此節長に参筈御坐候処病気ニ而被取残未病中ニ御坐候
 中村半次郎が神戸海軍操練所に入りたいと願っているんだよ。知ってる通りの人間なんだけど、願いをかなえてやってくれないかな。願い通りにしてやれば、薩摩のためになると思うよ。そうでなければ、せっかくの人材を捨てるようなもの。帰国しろといってもしないだろうし、神戸でも、あるいは勝が江戸に帰るようだから江戸でも、勝の塾に入れてやれば、幕府の内情がわかってためになるんじゃないかな。考えてやってみてくれよ。このたび、半次郎は長州に行くはずだったのに病気で取り残され、いまもまだ病気なんだよね。

 えー、ほんとーにいいかげんな現代語意訳ですので、ほんのご参考までに。
 ともかく、中村半次郎(桐野利秋)が、数学必須の海軍の勉強をしたがりますとは、仰天なんですけれども、なにしろ、坂本龍馬でさえ弟子になっております勝海舟の塾、ですからねえ。
 私思いますに、政治塾のつもりだったにきまってます。
 ちなみに、勝海舟は後年、『氷川清話』において、「(西郷の)部下にも、桐野とか村田とかいうのは、なかなか俊才であった」と言っております。
 勝の言うことですから、俊才といいましても、決して理数系の俊才ではなかったと思います。

 もう一つ、気になりますのが、此節長に参筈御坐候処病気ニ而被取残未病中ニ御坐候の部分です。
 この元治元年、池田屋事件直後、西郷隆盛の大久保利通宛書簡には「中村半次郎は暴客(尊攘激派)の中へ入って、長州藩邸にも出入りしている。本人が長州へ行きたいというので、小松帯刀と相談の上、脱藩したことにして行かせることにした。本当に脱藩してしまうかもしれないが、もし帰ってきたら役にたつだろう」というようにありまして、しかし5日後の西郷書簡には「中村半次郎を長州へ行かせたが、藩境でとめられ入国できなかった」とあるんです。
 一見、半年近く前のこのことを言っているのかと思い込んで、見過ごしてしまいそうになっていたのですが、病気で取り残されて、いまも病気が治っていないとなれば、ちょっとちがいます。

 小松の手紙が書かれました11月、西郷隆盛は征長軍参謀になり、吉井友実と税所篤を伴って、長州処分のために現地へ出かけています。これに、西郷は半次郎を伴うつもりだったのではないんでしょうか。
 実際このとき、長州にいました五卿の遷座問題が起こりまして、西郷は遷座に反対の諸隊幹部たちを説得しようと、下関へ乗り込みました。五卿問題に尽力しました中岡慎太郎と半次郎は旧知の仲ですし、長州過激派に知り合いが多かったようですし、実際に行っていれば、活躍の場面があったはずでした。
 病気で取り残されました半次郎の無念、いかばかりか、です。

 この11月26日付け手紙に、ですね。小松帯刀は、半次郎のことを書きました直後に、龍馬と勝塾(あるいは神戸海軍操練所)の他の土佐人たちのことを書いています。意味がとり辛い文面なのですが、私なりに、以下、意訳してみます。

 神戸の勝海舟のところにいる土佐人たちは、幕府から蒸気船(黒龍丸ですかねえ)を借りて航海する計画があり、坂本龍馬という人物がいま関東へ行って借りる交渉をしていて、すでに話は決まったと言っていたんだ。これに関係して、高松太郎という人物が、国元の土佐の様子をうかがったところ、彼ら(勤王党員)にとって国元の政治向きはきびしく、帰れば命がないという状態だそうな。龍馬が幕府から船を借りてきたらそれに乗り込むから、それまで土佐人たちを預かってくれ、という話で、西郷などが京都にいた10月に、「船を幕府の所属のままで使うことも、土佐の藩籍で使うことも彼らには無理だろうし、薩摩藩籍にして使ってあげればいいんじゃないかな」という話になっていて、大阪の薩摩藩邸にいま彼らを一部、かくまっているんだよね。
 また、彼らとは別に、幕府の翔鶴丸に乗り組んでいた技術者や釜焚き水夫たち(塩飽水軍の佐柳高次とその子分じゃないんでしょうか)が船の士官と喧嘩してね、龍馬が借りてくる船に乗り組みたいといっていて神戸に残っていたんだ。食べるだけでも、といわれてあずかったよ。勝海舟が海軍奉行を免職になったそうだから、船を借りる話もどうなるかわからない。だめな場合は、うちの藩の船ででも使ってあげようかな、と考えているので、承知しておいてほしいな。


坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 元治元年後半の政局は、禁門の変の後始末に終始します。
 このとき、京都におきます薩摩の政治向きの中心には、この年の春に島流しを許され、復帰したばかりの西郷隆盛がいます。
 禁門の変の直後、最初に勝のもとへ現れました薩摩人は、吉井友実で、龍馬といっしょだったようです。
 そののち、西郷と勝、龍馬の出会いがあるのですが、その詳細は、省きます。
 幕府側に立って禁門の変を戦わざるをえなくなってしまいました薩摩にとって、その後始末におきましても、幕府の動向を正確につかんでおく必要があった、ということでしょう。

 実は、ですね。松浦玲氏によりますと、勝海舟は、この年の8月23日に龍馬のことを書いて後、まったくと言っていいほど、日記に龍馬のことを書かなくなるのだそうです。
 間崎哲馬の紹介で、龍馬が勝塾に入った当時とは、状況がまったく変わってきておりました。
 間崎は切腹し、勤王党は壊滅状態。
 前年の政変以来、天誅組の変をはじめとするさまざまな事変、そしてこの年の池田屋事件、禁門の変でも、なんですが、多くの土佐勤王党員が国元で弾圧され、長州に与して戦い、命を落としています。

 幕臣である勝海舟のそばで政治秘書修業をしておりました龍馬は、しかし、あまりにも勝とは足場がちがいますことに気づき、これは私の想像にすぎないのですが、すでにこのころから、勤王党員が仲介しましての薩長の連携を、模索するようになったのではないでしょうか。
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 中で書きましたが、龍馬が最初に脱藩しましたときの目標は、薩摩の富国強兵策、海軍の取り組みを確かめることであった、と想像することは可能ですし、集団で勝塾に学びましたことで、小龍との約束の種は育ちつつあります。

 幕府ではなく、薩摩の懐に飛び込めば、新しい局面を開けるのではないか。
 そう考えて龍馬が走り出しまして後に、これもまた私の妄想にすぎませんが、龍馬本人か、あるいは高松太郎か、だれかはわかりませんが、半次郎は、海軍塾の土佐メンバーに出会ったのではないでしょうか。
 病気のため、西郷の共がかなわず、そちらから手伝いができないのならば、この土佐の海軍塾生たちといっしょになって、これから薩長提携の方向へ向かう手助けができたならばと、そう考えての海軍塾修業願い、だったのではないか、と、私は思います。

 結論から言いまして、神戸海軍操練所は閉鎖。
 12月6日ころには、近藤長次郎、新宮馬之介、千屋寅之助(菅野覚兵衛)が神戸から退散、12月の末ころには神戸にいた土佐人はすべて大阪へ行き、薩摩藩にかくまわれました。
 どういう経緯か、おそらく龍馬に私淑していた、ということかと思いますが、神戸海軍操練所で学んでいました紀州の陸奥宗光、越後の白峰駿馬なども、土佐人と同じく脱藩の形となり、薩摩の保護下に入ったようです。
 そして、龍馬は結局、船を借りることができず、しばらくは江戸にいたようですが、翌年の春には、合流したことが確認できます。

 結局、桐野は神戸海軍操練所へは入れませんでしたし、江戸の勝塾へ遊学した様子もありません。
 と、なりますと、これまた私の想像でしかないのですけれども、大阪の藩邸で、しばらくの間なりとも、土佐人たちの世話係をしたりしたのではないかと思うのですね。
 翌慶応元年(1865年)3月3日には、土佐脱藩者で五卿側近の土方久元が京都の吉井友実のもとに滞在しておりまして、「中村半次郎、訪。この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と書いていますので、大阪にいたか京都にいたか、半次郎が上方にいたことだけは確かなんですけれども。

定本坂本龍馬伝―青い航跡
松岡 司
新人物往来社


 この、松岡司氏の「定本坂本龍馬伝―青い航跡」、ものすごく分厚く、膨大な史料を活用なさっているのですが、史料がそのまま引用されておりませんで、その解釈も、例えば今回引用しております小松帯刀の書簡など、私が原文を知っておりますものを見ますかぎりにおいては、かならずしも納得のいくものではなく、新書版ながら、松浦玲氏の「坂本龍馬」の方がすぐれている、と判断し、あまり参考にしてきませんでした。

 しかし私今回、拾い読みをしていて、どびっくりしたのですが、饅頭屋の近藤長次郎は、元治元年12月23日付け、つまりは薩摩藩の保護下に入りまして間もなく、島津久光へ、海軍振興の上書を奉っているというのです。
 「上杉宋次郎(近藤長次郎)上書」って、なにに収録されているんでしょう? ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。もしかして、「玉里島津家史料」かなあ、と推測しているんですけれども。

 ともかく、です。この内容が驚くべき、でして、長次郎くんは龍馬とちがいまして、相当まともに海軍の勉強をしたようなのです。おそらくは数学も、得意だったにちがいありません。
 とはいいますものの、この本の常で、原文全文の引用はなく、松岡司氏が書かれている内容の紹介になりますが。
 徳川氏以前は鎖国はおこなわれていなかった、というところから説き起こしました、ものすごい長文の上書なのだそうで、だいたいのところは以下です。

 国威というものは、国の大小ではなく、海軍の力と貿易の拡大で培えるもので、薩摩も山川港を開港し、西洋人を入れて取り引きを盛んにし、海外に商館を置いて、ロシアとも交易をはじめるべきだ。ロシアと西洋諸国には戦争の可能性があり、そうなった場合も、ロシアとの通商が盛んであった方が、日本の利益をはかれる。
 日本は四方を海に囲まれていて、海軍を優先した富国強兵策を急がなければならない。
 海軍振興の具体的な問題として、現在、日本が西洋から買った蒸気船が、1、2年もすれば使いものにならぬ船が多く、原因として考えられることは、運用士官の未熟さもあるが、購入したときにすでにかなり古くなっているケースも多い。
 対策として、海軍士官の養成を急ぎ、またドックが必要だ。
 ドックは、船舶の修理、保全にどうしても必要なもので、これがなければ、どのようにりっぱな船を買っても、すぐに使い物にならなくなってしまう。軍艦を持っていてドックがなければ、それは刀があって砥石がないようなものだ。
 ドックをつくるには製鉄所が必要だが、これはすでに建設がはじまっているので、ドックで軍艦の建造もするようにしたいものだ。
 そういった海軍全体の事業をするために、若い人を選んでイギリスへ留学させ、それぞれの勉強をさせるべきである。


 ひいーっ!!! 龍馬ばかりを見ていたばっかりに、「海援隊(亀山社中)は政治には熱心でも海軍に関してはほとんど素人ばかり」という偏見を持ってしまっていましたっ!!! 私、饅頭屋さん、なんぞと呼ばれていたという俗説にまどわされて、近藤長次郎のすごみをまったく知っていなかったことを、認めます。

 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1 vol2 vol3 vol4の内容は、私がこのブログを書く動機となりました最大のテーマを追っておりまして、大筋では、いまもまちがってないと思っております。
 ただ、細部を言いますならば、訂正の必要がある部分もありますし、以降に、もっと深めて書いたものもあります。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3の以下の部分なんぞ、確実に今回、訂正すべきなのだとわかりました。

 ちょうどそのころ、幕府の横須賀製鉄所建設が決定をみます。
 この噂は、多方面から薩摩に入ったはずです。
 まずはイギリスとオランダ。そして、幕府の中の横須賀製鉄所建設反対派から。
 ちなみに、肥田浜五郎は、オランダへ出向く以前、勝海舟が主導した、幕府の神戸軍艦操練所で教授をしていました。
 これは、築地にあった幕府の軍艦操練所とは方針がちがい、他藩士も多くとることにしていましたので、一応、薩摩藩士も通っていたのです。


 訂正といいますか、ここに、長次郎の上書を入れるべきなんでしょうね。
 そうでした。長次郎は肥田浜五郎の教えを受けていたんでした。
 安積艮斎にいたといいますことは、間崎哲馬に紹介され、小栗上野介に会っていた可能性だってあります。
 ロシア交易について述べています部分は、いろは丸と大洲と龍馬 上に書いておりますが、文久元年(1861)、武田斐三郎がロシア領のニコラエフスクまで交易に出かけたことを、長次郎は、知っていたのだと思います。

 どうして知ったかといいますと、これは広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、武田斐三郎はプチャーチンの応接をしていて、安積艮斎はプチャーチンが持ってきましたロシア国書の返書を起草したり、しているんです。面識があって不思議ではありませんし、艮斎がロシアとの交易に興味を持たないはずもないんです。
 河田小龍の教えを受けて素直に伸び、長次郎は着々と研鑽を重ねて、おそらくは小龍が褒め、憧れていただろう薩摩の殖産興業政策と海軍振興に、自分が直接かかわることになったんですね。
 
 五代友厚の留学生派遣の建白書がいつだったんでしょう? ちょっといま、五代の全集が出てきません。
 五代と長次諸の間に連絡はなかったんでしょうか?
 これは、まだまだ調べなければならないことが多いテーマですので、またあらためて取り上げることにします。
 それにいたしましても、薩摩の第一次密航英国留学生たちが鹿児島を出ましたのは、元治2年(慶応1年、1865年)1月20日。
 長次郎の上書から一ヵ月しか間がありませんで、非常に微妙なのですが、準備は以前から進められていたにしましても、上書が派遣の背を押したことには、まちがいがないでしょう。

 あと、長次諸が鹿児島入りした時期もわかりませんで、もし上書の時期に鹿児島にいたのだとしますと、長次郎は、土佐出身で留学生の仲間入りをしておりました高見弥一(英国へ渡った土佐郷士の流離参照)に会い、いずれは自分も、と胸をふくらませていたかも、しれません。
 といいますか、高見弥一は、土佐から最初に藩の命令で勝塾に入っておりました大石弥太郎の従兄弟、でして、機会さえありましたら、長次諸はかならず、会っていたでしょう。
 
 そして、ドックです。
 必要性はおそらく、薩摩でも認識されていました。
 しかしだからこそ、横須賀製鉄所といいます、造船まで可能なドックに、幕府が取り組もうとしておりましたことは、衝撃だったのだと思います。
 この衝撃が手伝いまして、薩摩は留学生だけではなく、使節団を欧州へ送り出し、外交交渉をはじめようとしたといってよく、山川港を開くといいましても、独自の通商条約が必要になってきますし、この長次郎の上書に欠けていますのは、そういった政治面なのですが、あるいは、非常に不穏当になりますことから、文面では省き、口頭だった、ということも考えられます。

 一方、薩摩は、ドックは長崎に造ることになりました。
 通称ソロバンドック、小菅修船場です。
 グラバーの手を借り、完成は明治元年も末のことになりました。
 グラバーではなく、モンブランが手を貸していた、というような話もありましたので、以前に長崎へ行ったとき、写真を撮ってきております。






 なんか、ですね。
 ここまで書いて参りましただけで、私、従来の饅頭屋・近藤長次郎像は、大幅に書き換える必要があると思います。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社



 吉村淑甫氏の「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」は、好著です。
 氏は、長次郎のご子孫に出会われ、史料がごく少ないにもかかわりませず、非常な愛情を持って長次郎を造形しておられまして、安積艮斎自筆の門人帳に名がないにもかかわらず、入塾を確かなことと推定しておられます。
 私も、この推定には大きく頷けますし、吉村氏のこの書なくして、長次諸は語れないとも思います。
 しかし、長次諸は決して「龍馬の影を生きた男」ではありません!!!
 
 なにやら、またまたけっこうな長さになりましたので、これは下の中編とし、下の後編で、結末をつけようと思います。
 ようやく、ユニオン号と薩長同盟です。

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桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol3

2012年02月21日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol2の続きです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたが、饅頭屋の近藤長次郎は、最晩年の安積艮斎に師事したものと推測されています。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 安積艮斎につきましては、生誕の地であります安積国造神社のサイトをご覧ください。生涯、門人、漢詩文の代表作まで載せてくれています。

 肖像画もこのサイトに載っていますが、なかなかに味のある、いい顔のように思えます。
 しかし吉村淑甫氏によれば、「わしが今日の栄達を得たのは、昔、妻女に嫌われたことが原因である」と、艮斎本人が言っておりまして、16歳にして隣村の叔父の家に婿養子に行きましたところが、艮斎があんまりにも醜いので、従姉妹でもあり妻でもある家付き娘が口も聞いてくれず、艮斎はいたたまれなくなりまして、学問で身を立てる決心をし、家出して江戸へ出たのだそうです。
 なんでこの面食いの私が、若い娘が口をきくのもいやがるほど醜い男の話を書いているのかと思うのですが、まあ、そこまでいきますとねえ。醜いのも個性です。書く文章は、とても美しかったそうですし(笑)。

 安積艮斎が24歳にして、江戸神田駿河台に私塾を開いた、といいますのは、旗本小栗家の敷地内でのことでして、当然のことなのですが、小栗家の嫡子・小栗又一(忠順・上野介)がここで学んでおります。
 小栗上野介はいうまでもなく幕府の殖産興業の中心となり、幕府海軍最大の事業でした横須賀製鉄所を軌道に乗せたお方です。
 バロン・キャットと小栗上野介が一番まとまっているかと思うのですが、ともかく、横須賀製鉄所設立の価値は明治海軍も認め、朝敵とされました上野介ですけれども、海軍だけは価値を認めて顕彰していた、といいます。

 日本海軍の基礎を築く、という面におきまして、実は勝海舟はほとんどなにもしておりませんで、海舟が政敵として嫌っておりました小栗上野介が中心になって築いたものが、新政府に継承されたわけでして、一方、上野介が三井にやらせました生糸取り引きを中心とします商社活動には、維新後、長州閥が寄生し、井上聞多(馨)が「三井の番頭さん」と呼ばれるようにもなったりします。

 それはともかく、安積艮斎の門人には、木村芥舟、栗本鋤雲と、小栗上野介が進めました富国強兵策の協力者がいます一方で、吉田松陰、高杉晋作の過激倒幕派子弟がいます。
 しかし、松陰の思想の中にも富国強兵的な面がありまして、弟子の中で一番、高杉がそういった面を受け継ぎ、いっときは海軍を志しましたことは、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております。古い記事ですが、このとき書きましたことは、ユニオン号事件で近藤長次諸が自刃するにいたった経緯に、かなり深く関係しますので、後でまた取り上げます。

 早稲田大学の古典籍総合データベースで、安積艮斎著作は、かなりの数がデジタル公開されていますが、この洋外紀略を嘉永元年(1848)、つまりはペリー来航の数年前なんですが、黒船騒動が頻発します時期に書いて、世界地誌を説き、海防、海外交易を論じていますのは、注目すべきですし、塾生が受けるインパクトは大きかったことでしょう。
 ここに、三井が近代的な商社に脱皮する機会を与えました小栗上野介、海運業から出発しまして商社となりました三菱の創業者・岩崎弥太郎の二人が学んだといいますことは、勝塾ではなく、こちらにこそ、商社に育ちます種はあったことになります(笑)

 おそらく、なんですが、その岩崎弥太郎の紹介を受けまして、短い間ながら、近藤長次郎は安積艮斎に学んだわけです。
 艮斎塾の学頭でした間崎哲馬(滄浪)がいつ再上京したのか、私にはちょっとわからないのですが、文久元年(1861年)に江戸で勤王党が結成されましたとき、間崎は土佐に帰っていた、という話があるのですが、それ以前には、再び江戸に遊学していた、というようにも言われているようです。
 そして、前回に書きましたが、江戸で土佐勤王党の盟約文を起草しました、高見弥一の従兄弟の大石弥太郎。弥太郎さん、武市半平太とは、江戸の桃井春蔵の剣道塾・士学館でいっしょに学んだ仲ですが、この文久元年3月には、藩から洋学修行の命を受けて、勝海舟の塾に学んでいました。
 
 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 上の最後に、長次郎くんは、土佐藩邸の刀鍛冶・左行秀に学費を出してもらい、高島秋帆に弟子入りし、勝海舟にも弟子入りしたということを述べたんですが、これは、河田小龍の「藤陰略話」に書いてあることでして、これによりますと、長次諸は、龍馬とは関係なく、龍馬より先に、勝海舟の塾に入っていたことになるんです。
 勝塾へは、高島秋帆の紹介、ということも考えられるか、とも思ったんですが、左行秀かもしれず、私は、艮斎塾の先輩、間崎哲馬の線が濃厚ではないか、と思うんですね。なにしろ、艮斎塾の学頭だった間崎です。相当、顔がきいたと見てよく、ともかく、長次諸は龍馬より先に、少なくとも大石弥太郎と同じくらいには、勝塾に入ったと見てよさそうに思います。

坂本龍馬 (岩波新書)
松浦 玲
岩波書店


 坂本龍馬の虚像と実像松浦玲著『新選組』のここが足りないに書いておりますが、松浦玲氏のご意見には、ときどきついていけなくなりまして、呆然とすることもあるのですが、この「坂本龍馬」は、そこそこ納得のいくまとめ方がされていまして、そしてなにより今回気づいたのですが、松浦玲氏は文章がすばらしくお上手です。
 わけても「はじめに」で、島津久光が率兵上京をし、龍馬が脱藩して江戸にたどりつき、勝塾に入りました文久2年の政治状況と、勝海舟の当時の立場を、多少美化されたきらいもありますが、コンパクトにわかりやすくまとめておられます。

 ともかく、です。
 藤井哲博氏の「咸臨丸航海長小野友五郎の生涯―幕末明治のテクノクラート」 (中公新書 (782))には、勝海舟について、以下のようにあります。

 なるほどその(勝海舟の)経歴は日本海軍の父と呼ぶにふさわしい。
 しかし、これらの経歴を通して、果たして彼は日本海軍の基礎作りに、実質的にそれほど貢献したのであろうか。答えは否というべきだろう。当時、幕閣も諸有司もそのことはよく承知していた。だが彼には、人一倍すぐれた才能が備わっていて、ある意味では幕府に是非必要な存在だった。それは、巧みな弁舌をもって周旋・調停をする能力である。これは親譲りの才能らしく、彼の父小吉は、本所界隈の無頼の徒のもめごとを巧みに収拾し、それが生活の資を得る手段にもなっていたと、『夢酔独言』で自らのべている。
 海舟は、航米後いったんていよく海軍を追われたが、大久保越中守忠寛(一翁)、松平慶永(春嶽、政治総裁職に就任)、将軍家茂など、海軍のことに暗い時の権力者に直接接触する機会を作って、これに働きかけ、海軍に返り咲くことができた。


 藤井哲博氏は、海軍兵学校で学び、帝国海軍に在籍したことのある方でして、戦後は京都大学理学部などで学ばれました理数系の方です。海軍史を研究されて、「長崎海軍伝習所―十九世紀東西文化の接点」 (中公新書)も書いておられますが、技術者の視点から見ましたとき、勝海舟は巧みな弁舌をもって周旋・調停をする政治家であって、海軍の基礎作りに貢献したわけでは、決してないわけなのですね。

 オランダの長崎海軍伝習で、勝海舟が数学に苦しんだらしいことは記録に残っていることですが、航海術、測量術、砲術など、海軍を学習します基礎には数学が欠かせないんです。
 高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、海軍を志しました初航海の後、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」(性格がおおざっぱで、狂い気味なんだからさ、航海術なんぞというちまちま細かなものは、向いてなかったね)と、高杉は挫折するのですが、船酔いもしたかもしれませんが、それより、見習い士官として船上で学びました航海術必須の数学に、うんざりしたんでしょうね。

 松浦玲氏は、この藤井哲博氏の説を、かなり受け入れるようになっておいでのようです。 
 長崎のオランダ海軍伝習で5年間の長きにわたって数学と取り組み、悪戦苦闘いたしました勝海舟は、41石と石高は少ないながら直参旗本となり、海軍伝習を受けた中では家柄がよく、売り込みの才にも長けておりました。
 そんなわけで、咸臨丸の太平洋航海が決まりましたとき、勝は自分で自分を売り込んで艦長になったのですが、ほとんどなんの役にも立たずに終始しました。それは、実質的に艦長のような役目を果たしましたアメリカ人・ブルック大尉の日記や、咸臨丸に乗組んでおりました斉藤留蔵の手記などで、確かめられることでして、東善寺さんのサイトの「咸臨丸病の日本人」にも、簡潔にまとめられております。

 勝海舟というお方の値打ちは、周旋、調停といいます政治家としての能力にありまして、その国内政治活動のために海軍を使ったのであって、国防を真剣に考えて海軍の基礎作りに寄与した、というわけでは、まったくもってないんですね。
 松浦玲氏は「坂本龍馬」におきまして、龍馬が出会った当時の勝海舟について、「政治に海の時代を開こうと奮闘中だった」と、すばらしく美しい表現を使っておられますが、これは「海軍を人質に政界に乗り出そうと奮闘中だった」と言い換えましても、まちがいではないと思います。

 咸臨丸が日本へ帰りつきましたとき、勝海舟は咸臨丸の部下たち、つまりは長崎で海軍伝習を受けました海軍仲間から嫌われ、海軍からはずされます。蕃書調所や講武所に二年ほどいました。

 そして文久2年、島津久光の率兵上京があり、久光は勅使とともに、幕政改革のために江戸へ向かいます。
 圧力に屈した幕府は、朝廷の要請にしたがった改革を行い、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職となり、かつての一橋派幕臣が全面復権するんですね。
 それが、勝には幸いしました。勝は島津斉彬と面識がありましたし、春嶽の片腕として活躍し、安政の大獄で刑死しました橋本左内とも知り合いで、一橋派の人脈に連なっていたのです。
 一橋派の復権と重なりますように、勝海舟は「将軍や幕府高官の移動は蒸気船で行い、江戸と京都の関係が、素早く、潤滑に取りはからえるようにしよう」という建白を行い、軍艦奉行並に返り咲きます。

 まあ、確かに、将軍さまが蒸気船に乗られることには、それなりの意味があったかもしれないのですが、問題は、蒸気船の数にも、それを運用する人員にも、限りがあったことでして、勝が、ですね。自分の蒸気船に将軍さまやら高官やら、お公家さんやらを乗せまして、「どうです、海風がよござんしょ?」なんぞと機嫌をとりつつ、自分の望みを果たそうとしている間に、ですね。幕府海軍が真摯に取り組んでおりました小笠原開拓事業は中止になりまして、おかげさまで小笠原諸島が日本領と確定しますのは、ようやく明治9年のことになります。

 脱藩した龍馬が江戸にたどりつきましたのは、ちょうど、勝が海軍に返り咲いた直後でした。
 9月10日付けで、間崎哲馬が江戸から国元に出した書簡に、龍馬の名が出てくるのですが、この時点ではまだ、勝塾には関係がなさそうです。
 平尾道雄氏が、龍馬を勝海舟に紹介したのは千葉重太郎としておりましたのは、勝が後年に書きました「追賛一話」に、年月日は記さないで「坂本氏は剣客千葉周(重)太郎とともに氷川の拙宅を訪ねてきたので、海軍の必要を大いに説いたら、坂本氏は、公の説によっては刺そうと思って来たが、自分がまちがっていたようだ、いまから公の門下生になる、と決心した」というようなことを書いていまして、これをもとになさったんですね。
 
 この年の暮れ、越前藩の記録・「続再夢紀事」に、12月5日付けで、「土佐藩の間崎哲馬、坂下(本)龍馬、近藤昶次郎(長次郎)が来て、春嶽公が会われた。彼らは大坂近海の海防策を申し立てた」とあります。
 吉田東洋暗殺によって、武市半平太は土佐藩政を牛耳れるようになりまして、土佐勤王党は躍進し、このときの間崎哲馬は、江戸の土佐藩邸で重きをなしています。龍馬は脱藩の身ですし、近藤長次郎はおそらく、士分になったばかりのころですから、政事総裁職の春嶽が彼らにあったのは、どう見ても間崎哲馬がいたから、です。
 土佐藩は、幕府から大阪湾岸の防衛を任されておりまして、住吉に広大な土地をもらい、吉田東洋の指揮で住吉陣屋を築いておりました。まあ、このおかげで、維新直後に堺事件を起こしたりするのですけれども、それは置いておきまして。

 この直後、12月11日付けの勝海舟の日記に「当夜、門生門田為之助・近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず」とあり、はじめて長次郎の名が現れますが、すでに長次郎は門生であり、松浦玲氏によれば、勝海舟の日記は相当にいいかげんなものだそうでして、とっくの昔に入門していた可能性が高いんです。
 龍馬の名が初めて勝の日記に現れますのは、この20日ほど後の大晦日です。
 勝は、幕府の蒸気船・順動丸で小笠原図書頭長行を大阪へ運び、兵庫で、航海で傷つきました順動丸の修理をしていました。
 その順動丸に、千葉重太郎と坂本龍馬が訪ねてきて、勝に京都の上京を訪ねた、というんですね。

 千葉重太郎は、坂本龍馬が長く修行していました千葉道場の師匠であり、友人でもありましたが、鳥取藩士になっておりまして、鳥取藩主は、一橋慶喜の実兄・池田慶徳です。このとき、藩主の上京にともない、重太郎は、周旋方となって上方へ派遣され、どうやら、龍馬と同行したようなのです。
 「追賛一話」は、どうもこのときのことを書いたらしいのですが、勝塾には長次郎がいるわけですし、龍馬がいつ入塾したかは謎なのですが、確実なのは、やはりこのときでしょう。
 翌日、文久3年の元旦の勝日記には、「龍馬、昶次郎、十(重)太郎外一人を大坂へ到らしめ京師に帰す」とあるそうでして、長次諸が登場し、順動丸に乗り組んでいたことがはっきりします。

 続きまして、その8日後、1月9日の勝日記には「昨日土洲之者数輩我門に入る、龍馬子と形勢之事を密議し、其志を助く」と、あるそうです。
 龍馬は、自分が入塾すると同時に、土佐藩士を多く勝塾に誘ったようです。当時はまだ、勤王党の弾圧ははじまっておりませんで、おそらく、なんですが、これは春嶽公に訴えました、土佐が受け持つ大阪近海の防備をどうするか、という方策に結びつくものだと思えます。
 大阪は当時の日本の物流の中心ですし、土佐が海軍を持てば、当時はどうもそれが流行の考え方だったようなのですが、暇なときには通商に使える、ということで、とりあえずは海軍の人材を育てよう、といいます、小龍との約束の話につながるんですね。
 小龍の話は、土佐のコーストガードでしたけれども、龍馬が取り組もうとしておりますのは、土佐藩が受け持ちます大阪近海のコーストガードも含めて、の話に発展しております。
 実際、例えば長崎防衛を任されておりました肥前や福岡、そして薩長という雄藩にくらべまして、土佐の海軍への取り組みは著しく遅れておりまして、勝が塾頭でした長崎のオランダ海軍伝習に、一人も藩士を送っておりませんでした。

 これ以降、龍馬はさかんに土佐藩士を勝塾に誘い、その多くは勤王党員です。
 特筆すべきは、龍馬といっしょに脱藩しました沢村惣之丞が入塾したことでしょうか。
 この人は後に、近藤長次諸の死に、深くかかわることになります。
 ほとんどが勤王党員だった、とはいえ、です。小龍が育てておりました農民の子、新宮馬之助も入塾しました。江戸へ遊学中に入塾、ということですから、あるいは龍馬ではなく、長次郎が誘ったのかもしれませんが、長次郎が死んだ後々までも、その遺族と交流を持ったのは、新宮馬之介のみであったようです。

 いずれにいたしましても、龍馬はこの時期、脱藩の罪を許され、また龍馬が誘いました塾生ともども、土佐藩から航海術修行を正式に命じられた形になっています。
 しかし、どうなんでしょうか。
 高杉晋作が、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と述べて海軍終業に挫折いたしましたのに、龍馬は高杉よりおおざっぱな性格ではないとでもいうのでしょうか? 数学が得意だとでもいうのでしょうか?
 私には、とてもそうは思えません。

 この3月、龍馬は故郷の乙女姉さんに「日本で一番すごい人物、勝麟太郎という人の弟子になったよ。以前から、毎日思っていたような方面で、がんばってます」と書き、5月には「天下に二人といない軍学者・勝麟太大先生の門人となって、とてもかわいがられ、客分みたいなものになっちゃっているよ」と書いています。
 どちらの書き方も、航海術やら測量術やら砲術やらを学んでいるとは、とても思えない書き方で、龍馬が勝に学んでいたのは、勝が得意としました巧みな弁舌をもって周旋・調停をする政治であり、実際に、龍馬は非常に社交的で、明るく、そういう方面に長けていまして、勝に気に入られ、例えて言いますならば政治家秘書の修行をはじめた、というようなことであったのではないでしょうか。

 文久3年は、激動の年でした。
 長州が攘夷戦をはじめ、薩英戦争があり、8月18日の政変で過激公卿と長州が都を追われ、天誅組の変は失敗に終わります。
 土佐勤王党にも破局が訪れました。
 最初は、間崎哲馬をはじめ、武市半平太が頼りとしました中核人物、三人の切腹です。
 次いで、山内容堂は、完全に藩政を掌握し、吉田東洋暗殺を問題としまして、半平太も投獄されます。
 この年の暮れには、勝の塾生であります勤王党員にも帰国命令が出されますが、ほとんど全員がそれを無視しましたので、脱藩の身になります。



 神戸海軍操練所跡地の記念碑です。去年、神戸に行き、撮ってまいりました。
 この年から、勝海舟は神戸海軍操練所の開設準備をしておりました。
 それまでの間、最初は大阪に、次いで神戸に勝の私塾がありました。
 翌元治元年(1864年)、築地の軍艦繰練所が火災にあったこともありまして、5月に神戸海軍操練所が開かれます。
 しかし、これがどうも、あまり落ち着いて勉強ができる場では、なかったようなのですね。
 
勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)
松浦 玲
中央公論新社


 松浦玲氏の「勝海舟」に、薩摩の伊東祐亨、後の元帥海軍大将、日清戦争におきましては連合艦隊司令長官だった人ですが、この人が神戸海軍操練所について、語った言葉が引用されています。孫引きです。

 「授業の時間はおおむね午前中に終るので、放課後は各藩士は、おのおの同藩のみ相集合し、あつまれば要なき時事の慷慨話にふけり、ために伝習をさまたげらるることも多し、ややもすれば、それがため講学を休まねばならぬ場合も少なくなかった」

 これ、検索をかけてみますと、どうも、明治43年の「日本及び日本人 南洲号」に載っています「余の観たる南洲先生 伯爵 伊東祐亨」の一部であるらしいんです。
 個人の方が Yahoo!掲示板にもう少し長く、「余の観たる南洲先生」をあげておられるのですけれども、どこまで正確かはわからず、上の引用とは語句の異同がかなりあります。本当は、国会図書館ででも確かめる必要がありますが、いまちょっと暇がありませんで、同じものだと考え参考にさせていただきますと、この後、若かりし日の伊東は「西郷先生、こげなところでおいは勉強できもはん。江戸の海軍塾に転学させて欲しか」と訴えましたところが、西郷は、「転学するのはかまわんが、今、大阪から急使が来て、長州藩の軍が迫っているようじゃ。朝廷をお守りせなならん危急のときじゃということを知っときなさい」と、若年の書生に対しても懇切丁寧にいさめてくれた、というんです。

 えー、禁門の変の直前、ですから、7月のことなんでしょう。
 神戸海軍操練所は5月に開校したばかりで、6月のはじめには池田屋事件が起こり、土佐勤王党員の生徒・望月亀弥太が死んでいますし、同じく土佐の志士で生徒だったといわれる北添佶摩も闘死しています。
 神戸海軍操練所には、薩摩藩士が21人入っていましたが、これがまた、薩英戦争を戦った壮士が多かったそうですし、はっきりいいまして、数学の勉強どころではなかったでしょう。
 
 伊東が転学したがっていた江戸の塾、といいますのは、築地軍艦繰練所のことなんでしょうか。幕臣以外は受け入れていなかった、という話だったと思ったのですが、受け入れるようになっていたのか、あるいは、だれか教授の個人塾かなんか、でしょうか。
 実は、もう少し後の8月になりますと、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、武田斐三郎が江戸に帰りまして、この人の洋学塾が評判で、薩摩藩第二次留学生の吉原重俊が学んだようなのですが、函館では航海術も教えていたようなのですから、江戸でも教えた可能性はありそうなのですけれども。

 ともかく、勝海舟の神戸海軍操練所は、西日本雄藩の大名たちに働きかけるための、非常に政治的意味合いの濃いものでして、きっちりとした教授法とか、勉強ができる環境とか、整えられていたわけでは、ないんです。
 私、この年の11月末に、半次郎(桐野利秋)が、「兵庫の塾に入りたい」、つまりは海軍の勉強がしたいと言っていたと知りましたときから、ながらく「えええええっ! 数学大丈夫???」と首をかしげておりました。

 なにしろ高杉晋作が、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と言って挫折しましたのに、半次郎が高杉よりおおざっぱな性格ではない、ということはなさげですし 数学が得意そうでもありませんし。 いやそれとも、あるいは得意だったんでしょうか。
 しかし、です。
 伊東祐亨の回想を知りましてからは、納得がいきました。
 要するに、ろくろく航海術や測量術や砲術の勉強はしませんで、時事放談をする塾だったというのですから。

 えー、またまた長くなりすぎてしまいましたので、下を前編、後編の二つにわけます。
 次回下の後編で、いよいよユニオン号事件の話になりまして、終わることができると思います。
 
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