「桐野利秋とは何者か!?」vol4の続きです。
前回の投稿から、一年以上の月日が流れました。
母が骨折、施設に入所、自分の腕の再手術といろいろありまして、ようやくなんとか落ち着いたかと思いましたら、コロナ騒動です。
久しぶりに東京へ行って、中村様にお会いして、いろいろ資料を調べたり、宝塚関係のコンサートへ行ったりの計画がすべてダメになりまして、やっとブログを書く気になりました。
更新しない間にも、読んでくださる方があり、コメントを残してくださる方がおられるのは、ほんとうにありがたいことです。
さて、本題ですが、桐野氏の著作となっております、薩摩の密偵です。
氏は「はじめに」において、以下のように述べておられます。
文久から慶応期(1861〜67)までの幕末の激動のさなか、桐野はひそかに「密偵」として活躍するとともに、逆に藩内に潜入する「密偵」を察知、排除する防諜活動を行う監察(目付)でもあった。
「密偵としての桐野」はこの本の眼目でして、氏の設定では、桐野が密偵となりましたのは「文久3年(1863年)からではないかと思われる」ということなんです。
しかしこれには、史料の裏付けがありません。
そもそも、藩士にして密偵とはなになのか、という問題があります。目付が密偵を兼ねていた、という例はありますから、目付であったというならば、密偵であったかもしれないと思うのですが、桐野が目付であったという史料は、ありません。
例えば、です。
幕末京都を吹き荒れました天誅の嵐。その先駆けとなりました島田左近暗殺は、薩摩藩の手になるものです。
田中新兵衛が有名ですが、一緒に行動しました志々目献吉は横目付で、あきらかに藩組織の一員として暗殺に加わっています。
この文久2年、志々目はまた、久光の命を受けて、西郷隆盛捕縛に向かってもいるんですね。
そして何年だったか、うろ覚えで申し訳ないのですが、忠義公史料に、彼が、在京長州の重要人物・久坂玄瑞を見張って、報告を上げていた文書も残っています。
しかし普通、史料が残る薩摩の密偵といえば……、いえ、密偵と言うよりは諜報員といった方がぴったりきそうですが、富山の薬売(大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編参照)とか、高杉晋作と奇兵隊の後援者として知られます下関の白石正一郎とか、薩摩藩から利益を受けていた商人が主です。ああ、白石正一郎の報告書は、忠義公史料に残っているのですが、政変で薩長手切れとなって後は、諜報の役目は返上したようです。
これ、別に薩摩に限ったことではありませんで、長州は京阪の出入り商人の多くから情報を仕入れていましたし、浄土真宗の僧侶も、役目を果たしたんじゃないんでしょうか。
ともかく桐野氏は、史料がないままに「桐野は密偵」と決めておいでですから、以下のような文章になるみたいなんですね。
第3章「神出鬼没の諜報家として」P49から引用です。
桐野は友人の肝付十郎とともに同藩邸(長州藩邸)に潜入している。むろん、長州や土佐の攘夷派に親近感を示しながら近づいたのである。そのためか、同藩邸に出入りしていた土佐脱藩浪士の大物である中岡慎太郎もコロリとだまされている。
桐野が中岡慎太郎を騙したという根拠は、なにもありません。
といいますか、仮に例え桐野が薩摩藩の諜報員だったにしても、です。なぜ、中岡慎太郎を騙す必要があるのでしょうか。
はっきり横目だと記録があります志々目献吉にしましたところで、久坂玄瑞を見張っていただけで、騙してはいません。
といいますか、志々目が薩摩藩の横目であることを、久坂は知っていた可能性が高いですし。
富山の薬売も白石正一郎も、情報を薩摩藩庁に入れただけで、だれも騙してはいません。
「コロリと騙されている」は、桐野と中岡、双方に悪意を持っていなければ書けないことだと、私は思うんです。
桐野にしろ中岡にしろ、自分の意志や志はなく、それぞれが属した組織にしばられた操り人形だった、とでもいうのでしょうか。
私、過去記事を見返してみたのですが、桐野利秋の生い立ちについては、まとまって述べたものがなく、簡単にですが、ここで触れます。
桐野利秋は、天保9年(1838年)生まれ。西暦で言えば、中岡慎太郎とは、ほぼ同い年です。
イギリスVSフランス 薩長兵制論争に引用しておりますが、後年、中岡慎太郎は国元へ送りました書翰に、「薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね」と記しています。
桐野の家も、れっきとした士分でしたけれども、わずか5石と貧しく、そこへもってきまして、父親が流罪となり、そのわずかな家禄も召し上げられました。
18歳の年に兄が病没。以降、一家をささえて、近所の農民に土地を借り、小作をしたり、開墾したりで、なんとか食べていました。
土佐の庄屋だった中岡慎太郎より、あきらかに貧しいですし、学問も剣術も、ちゃんと師匠について学ぶ余裕はありませんでした。
しかし、だから視野が狭かったかと言えば、そうではなかったのではないかと、私は思います。
桐野の父親は、島流しになるまでは江戸詰です。父親が江戸で働いていたとなれば、それなりに、薩摩の外の情報も入ってきたのではないでしょうか。
また、桐野が学問、武芸を教わったのは、主に母方の祖父・別府四郎兵衛なのですが、彼は、「兵道家」だった、というんですね。
「兵道家」とは、薩摩における修験者、山伏のことです。
話がそれますが、最近、20代の女の子と話していて、びっくりしました。
「私が子供のころは、そこの御幸寺山にも山伏(ヤマブシ)が来てたのよ」という私に、
「ヤマブシ? なんですか、それ???」と、彼女は聞いたんです。
御幸寺山というのは、松山市内、それも中心街近くにある小さな山です。
人里離れた山奥で修行するイメージの強い山伏が、昔は街中の山にもいた、ということを私は語りたかったのですが、彼女は、まったく山伏を知りませんでした。
「えーと。石鎚山のお山開きのニュースで、白い装束を着て、ホラ貝吹いている人がいるでしょ? あんな人たちのこと」と、とっさに説明しつつ、実のところ私自身が、簡単に説明できるほどに「山伏」について知らないことに、気づかされました。
知らないのも道理では、あるんです。
山伏とは、古来の山岳信仰に、渡来の仏教が重なった、神仏混淆の修験道の行者でした。
しかし明治5年、新政府は神仏分離令を発し、山伏は、僧侶になるか神官になるか、あるいは農民や商人など、一般人になるしかなくなり、公には存在しなくなりました。
和歌森太郎氏の「山伏」によれば、加持祈祷によって、雨乞いや庶民の病気治療にかかわってきた山伏のあり方は、「明治新政府なりの合理主義によって否定された」ということでして、要するに、西洋的近代には、そぐわない存在とされたわけです。そして現在、私たちが見ることができる山伏とは、「民衆の峰入り修業の指導者」であり、その日常においては、一般人であることが多いんです。
わが愛媛県にあります石鎚山は、西日本一の高峰で、古代から霊峰として崇められた伝統を持ち、山伏の修業の場であったのですが、明治の神仏分離令で、山岳修業の中心でした前神寺は廃寺とされ、石鎚神社が創設されました。しかし、だからといってけっして、神仏混淆の信仰が、消えてなくなったわけではないんです。
石鎚山は長く、山岳修業の聖地であり、庶民の信仰を集めていたのですが、江戸時代も半ばを過ぎ、18世紀の後半のことです。近在、といっても瀬戸内海を隔てた尾道や広島も含まれていたそうなのですが、村々の真言系寺院を中心に、年に一度のお山開きに参加する村民の信仰集団・石鎚講が生まれ、活動していました。
石鎚講には月々の集まりもありましたが、なんといいましてもハイライトは、年に一度のお山開きに、山伏の先導で登拝することでした。15歳になった男児の初登拝は通過儀礼のようなもので、これを済ませれば一人前の男と認められたといいます。
つまり、石鎚の山岳宗教は、講の存在によって、地域の庶民の日常にしっかりと根付いていたわけなんです。
江戸時代後半、全国的にいえば、伊勢神宮へ参る伊勢講が有名ですが、富士講や出羽三山講などの山岳信仰も盛んで、宗教的な祭礼への参加は、庶民にとって、日常を離れた楽しみであり、修学旅行のような側面もありました。
私が住む松山市は、石鎚信仰が及んでいた地域なのですが、私が通った中学校では、かつての男児の初登拝を引き継ぐように、三年生の夏には石鎚登山を体験する慣例でした。体力が許すかぎり、ですが。
雲の上の頂上を極める達成感、澄んだ空気と絶景。今風にいえば、パワースポットに身を浸す高揚感があり、思春期にこれを体験することは、忘れがたい思い出となります。
石鎚講は結局、神仏分離を越えて生き残り、前神寺も復興を遂げ、お山開きの伝統は、形を変えつつ、現在へと引き継がれた次第です。
しかし、日本人にとっての山伏という存在の原像は、なんといっても、中世の軍記物なんじゃないでしょうか。
最近、NHKの大河で、源平合戦が取り上げられることは少ないのですが、私が山伏のイメージを育んだのは、源義経を描いた大河ドラマです。
能の「愛宕」、歌舞伎の「勧進帳」と、義経と弁慶が、兄頼朝の追っ手を逃れ、山伏一行に扮して奥州へ落ちるドラマは、時を超えて長く、日本人に親しまれてきました。
義経一行は、消失した東大寺再建ための勧進をしている(寄付をつのっている)山伏、ということで、関を越えようとしたのですが、現在でも出羽三山の山伏は、勧進の伝統を伝え、国の重要無形民俗文化財に指定されているようです。(松例祭保存会参照)
つまり山伏は、日本国中の山々で修業しますし、勧進も全国規模で、平泉の山伏が霊場白山の護符、丸薬を京都まで運んでいたり、あるいは霊場立山の「立山夢想妙薬」(漢方薬を調合したもの)は山伏の手で全国に運ばれ、これこそが富山の薬売のもとであったといわれます。(中世の聖と医療参照)
このように、山伏の姿であれば、怪しまれることなく遠くへ旅ができましたので、軍記物でもっとも印象的な山伏の役割は、時の政権に反する勢力を結集するための連絡、じゃないでしょうか。
「平家物語」では、全盛期の平家に対し、全国の源氏を結集しようと、不遇の皇子・以仁王が、令旨を発したことになっていまして、源行家が山伏姿で諸国の源氏に伝え、伊豆にいた源頼朝の手にも渡ったといわれます。
以仁王の挙兵は失敗しますが、やがて反平家の機運は盛り上がって行き、源頼朝の鎌倉幕府樹立にまで、話は伝わっていくわけです。
「太平記」では、後醍醐天皇の側近だった日野俊基(NHK大河「太平記」では榎木孝明が演じていました)が山伏姿で諸国をめぐり、打倒鎌倉幕府の機運を掴もうとしていた、ということになっています。
ところで、山伏国広は、国の重要文化財に指定された日本刀です。
作者は堀川国広。日向(現宮崎)の戦国大名・伊東氏に仕えた武士でした。
彼は、伊東氏が島津氏との長年の戦いに敗れ、領国を追われたときに供をし、九州一の霊場・英彦山で、山伏となりました。修行しつつ、伊東氏の再興を願って作った刀が、山伏国広だったといわれます。
紆余曲折の末、伊東氏は小大名として日向に返り咲き、幕末明治まで続きました。一族の中には、島津の家臣となった者もあり、初代連合艦隊司令長官・伊東祐亨は、その子孫です。
伊東氏との戦いにおいて、島津側では、霊場・霧島山で修行した山伏・相模坊光久が、大活躍しました。
相模坊を祖とする愛甲氏は、独自の兵法書を今に残していて、調伏だけではなく、どうやら、山伏の山岳ネットワークを使って、島津氏に寄与したようなのですね。
鹿児島が特殊なのは、江戸時代に入り、「兵頭家」と呼ばれた山伏が、そのまま藩士になったことなのですが、それは結局、戦国時代の島津氏が土着の勢力をうまく取り込み、そのまま藩主となったことに関係しているのかもしれません。
第16代当主・島津義久は、修験道の位階を持っていたといいますし、2代藩主光久は、修験道の祈祷書類編纂に熱心でした。(「中世島津氏研究の最前線」収録 栗林文夫著「中世以来、修験道・真言密教に慣れ親しんできた島津氏」)
海音寺潮五郎の「二本の銀杏」は、西郷、大久保が少年だったころの薩摩を舞台にした小説ですが、主人公の源昌房は、郷士にして代々の兵頭家です。
江戸時代の山伏は、その多くが京都の聖護院か醍醐寺三宝院を本山と仰いでいて、源昌房も例外ではなく、京で一年間の修行を積みます。
現在で言えば、家を継ぐ前に、東京の大学へ行くようなものではないでしょうか。
また、兵頭家は祈祷で農民の家にも呼ばれますし、他郷では庶民の間へ入って勧進もします。
源昌房は情熱的な人物として描かれていて、この小説の一つのテーマは不倫の恋なのですが、一方、視野が広く、農民の窮状によりそって事業を興す実行力は、山伏としての修行で養われたものと推察できます。
実は、源昌房には、堀之内良眼房というモデルがあります。
良眼房は、西原八幡宮の第13代宮司であり、真言山伏の修行をおさめ、川内川を輸送路として使うための工事や、藩金の借用によって、農民の窮状を救ったのだそうです。(鹿児島県ー堀之内良眼房の事績(川内川の川浚え))
川内川の工事のころ、桐野は6、7才でしたが、同じ頃にアヘン戦争が起こり、列強の東アジア進出が本格化しました。
大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編
上にまとめてありますが、以降は怒濤の如く、フランスが琉球に開国を迫り、島津斉彬のお国入りがあって、嘉永2年(1849年)、お由羅騒動が起こります。
桐野が満11才の頃のことです。
上に、「島津斉興は祈る藩主だった」と書きましたが、斉興は密教の僧位僧官を得て、自ら修法を家臣に伝授していた、といいます。
琉球に来た西洋人への調伏に、斉興は、兵頭家を使っていまして、その中心が牧仲太郎でした。
斉彬支持派の藩士たちは、それを、斉彬とその子供たちへの呪いの祈祷が行われていると誤解したらしいのですが、調伏を防ぐには調伏しかないそうです。結局、斉彬支持派も兵頭家を使い、さながら調伏合戦となって、斉興は激怒しました。斉彬支持派は、切腹・蟄居・遠島など、かなりの数が厳しい処分を受けます。
それで、桐野の外祖父・別府四郎兵衛ですが、春山育次郎の「少年読本 桐野利秋」には、友人藺牟田なにがしと共に、市中にいでて、兵頭の法を修し、天狗を嘯集したりとか云へる奇異のきわみなる罪名によりて藩庁のとがめを受け、南洋の徳之島に流るること十余年の久しきに及びぬ」とありまして、お由羅騒動では、ちょっと次期があわない感じなのですが、調伏合戦とか普通にあった土地柄ですので、誰を調伏した嫌疑だったのか、島流しにあっていたみたいです。
別府四郎兵衛が京で修行をしたかどうか、それはわかりません。
しかし、兵頭家のネットワークにつながっていた、ということはあると思いますし、複眼的に、物事を見ることができたのではないでしょうか。
山伏で脱線し、すこぶる長くなりましたので、続きます。
薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564) | |
桐野 作人 | |
NHK出版 |
前回の投稿から、一年以上の月日が流れました。
母が骨折、施設に入所、自分の腕の再手術といろいろありまして、ようやくなんとか落ち着いたかと思いましたら、コロナ騒動です。
久しぶりに東京へ行って、中村様にお会いして、いろいろ資料を調べたり、宝塚関係のコンサートへ行ったりの計画がすべてダメになりまして、やっとブログを書く気になりました。
更新しない間にも、読んでくださる方があり、コメントを残してくださる方がおられるのは、ほんとうにありがたいことです。
さて、本題ですが、桐野氏の著作となっております、薩摩の密偵です。
氏は「はじめに」において、以下のように述べておられます。
文久から慶応期(1861〜67)までの幕末の激動のさなか、桐野はひそかに「密偵」として活躍するとともに、逆に藩内に潜入する「密偵」を察知、排除する防諜活動を行う監察(目付)でもあった。
「密偵としての桐野」はこの本の眼目でして、氏の設定では、桐野が密偵となりましたのは「文久3年(1863年)からではないかと思われる」ということなんです。
しかしこれには、史料の裏付けがありません。
そもそも、藩士にして密偵とはなになのか、という問題があります。目付が密偵を兼ねていた、という例はありますから、目付であったというならば、密偵であったかもしれないと思うのですが、桐野が目付であったという史料は、ありません。
例えば、です。
幕末京都を吹き荒れました天誅の嵐。その先駆けとなりました島田左近暗殺は、薩摩藩の手になるものです。
田中新兵衛が有名ですが、一緒に行動しました志々目献吉は横目付で、あきらかに藩組織の一員として暗殺に加わっています。
この文久2年、志々目はまた、久光の命を受けて、西郷隆盛捕縛に向かってもいるんですね。
そして何年だったか、うろ覚えで申し訳ないのですが、忠義公史料に、彼が、在京長州の重要人物・久坂玄瑞を見張って、報告を上げていた文書も残っています。
しかし普通、史料が残る薩摩の密偵といえば……、いえ、密偵と言うよりは諜報員といった方がぴったりきそうですが、富山の薬売(大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」前編参照)とか、高杉晋作と奇兵隊の後援者として知られます下関の白石正一郎とか、薩摩藩から利益を受けていた商人が主です。ああ、白石正一郎の報告書は、忠義公史料に残っているのですが、政変で薩長手切れとなって後は、諜報の役目は返上したようです。
これ、別に薩摩に限ったことではありませんで、長州は京阪の出入り商人の多くから情報を仕入れていましたし、浄土真宗の僧侶も、役目を果たしたんじゃないんでしょうか。
ともかく桐野氏は、史料がないままに「桐野は密偵」と決めておいでですから、以下のような文章になるみたいなんですね。
第3章「神出鬼没の諜報家として」P49から引用です。
桐野は友人の肝付十郎とともに同藩邸(長州藩邸)に潜入している。むろん、長州や土佐の攘夷派に親近感を示しながら近づいたのである。そのためか、同藩邸に出入りしていた土佐脱藩浪士の大物である中岡慎太郎もコロリとだまされている。
桐野が中岡慎太郎を騙したという根拠は、なにもありません。
といいますか、仮に例え桐野が薩摩藩の諜報員だったにしても、です。なぜ、中岡慎太郎を騙す必要があるのでしょうか。
はっきり横目だと記録があります志々目献吉にしましたところで、久坂玄瑞を見張っていただけで、騙してはいません。
といいますか、志々目が薩摩藩の横目であることを、久坂は知っていた可能性が高いですし。
富山の薬売も白石正一郎も、情報を薩摩藩庁に入れただけで、だれも騙してはいません。
「コロリと騙されている」は、桐野と中岡、双方に悪意を持っていなければ書けないことだと、私は思うんです。
桐野にしろ中岡にしろ、自分の意志や志はなく、それぞれが属した組織にしばられた操り人形だった、とでもいうのでしょうか。
私、過去記事を見返してみたのですが、桐野利秋の生い立ちについては、まとまって述べたものがなく、簡単にですが、ここで触れます。
桐野利秋は、天保9年(1838年)生まれ。西暦で言えば、中岡慎太郎とは、ほぼ同い年です。
イギリスVSフランス 薩長兵制論争に引用しておりますが、後年、中岡慎太郎は国元へ送りました書翰に、「薩摩の歩兵はみんな士分で、足軽は兵士じゃないんだよ。身分は士族でも、とても貧しく、土佐の足軽より貧乏な者が多いので、ほんの少しの給料で歩兵になるんだよ。これは、他藩にない薩摩の特長だね」と記しています。
桐野の家も、れっきとした士分でしたけれども、わずか5石と貧しく、そこへもってきまして、父親が流罪となり、そのわずかな家禄も召し上げられました。
18歳の年に兄が病没。以降、一家をささえて、近所の農民に土地を借り、小作をしたり、開墾したりで、なんとか食べていました。
土佐の庄屋だった中岡慎太郎より、あきらかに貧しいですし、学問も剣術も、ちゃんと師匠について学ぶ余裕はありませんでした。
しかし、だから視野が狭かったかと言えば、そうではなかったのではないかと、私は思います。
桐野の父親は、島流しになるまでは江戸詰です。父親が江戸で働いていたとなれば、それなりに、薩摩の外の情報も入ってきたのではないでしょうか。
また、桐野が学問、武芸を教わったのは、主に母方の祖父・別府四郎兵衛なのですが、彼は、「兵道家」だった、というんですね。
「兵道家」とは、薩摩における修験者、山伏のことです。
話がそれますが、最近、20代の女の子と話していて、びっくりしました。
「私が子供のころは、そこの御幸寺山にも山伏(ヤマブシ)が来てたのよ」という私に、
「ヤマブシ? なんですか、それ???」と、彼女は聞いたんです。
御幸寺山というのは、松山市内、それも中心街近くにある小さな山です。
人里離れた山奥で修行するイメージの強い山伏が、昔は街中の山にもいた、ということを私は語りたかったのですが、彼女は、まったく山伏を知りませんでした。
「えーと。石鎚山のお山開きのニュースで、白い装束を着て、ホラ貝吹いている人がいるでしょ? あんな人たちのこと」と、とっさに説明しつつ、実のところ私自身が、簡単に説明できるほどに「山伏」について知らないことに、気づかされました。
知らないのも道理では、あるんです。
山伏とは、古来の山岳信仰に、渡来の仏教が重なった、神仏混淆の修験道の行者でした。
しかし明治5年、新政府は神仏分離令を発し、山伏は、僧侶になるか神官になるか、あるいは農民や商人など、一般人になるしかなくなり、公には存在しなくなりました。
和歌森太郎氏の「山伏」によれば、加持祈祷によって、雨乞いや庶民の病気治療にかかわってきた山伏のあり方は、「明治新政府なりの合理主義によって否定された」ということでして、要するに、西洋的近代には、そぐわない存在とされたわけです。そして現在、私たちが見ることができる山伏とは、「民衆の峰入り修業の指導者」であり、その日常においては、一般人であることが多いんです。
わが愛媛県にあります石鎚山は、西日本一の高峰で、古代から霊峰として崇められた伝統を持ち、山伏の修業の場であったのですが、明治の神仏分離令で、山岳修業の中心でした前神寺は廃寺とされ、石鎚神社が創設されました。しかし、だからといってけっして、神仏混淆の信仰が、消えてなくなったわけではないんです。
石鎚山は長く、山岳修業の聖地であり、庶民の信仰を集めていたのですが、江戸時代も半ばを過ぎ、18世紀の後半のことです。近在、といっても瀬戸内海を隔てた尾道や広島も含まれていたそうなのですが、村々の真言系寺院を中心に、年に一度のお山開きに参加する村民の信仰集団・石鎚講が生まれ、活動していました。
石鎚講には月々の集まりもありましたが、なんといいましてもハイライトは、年に一度のお山開きに、山伏の先導で登拝することでした。15歳になった男児の初登拝は通過儀礼のようなもので、これを済ませれば一人前の男と認められたといいます。
つまり、石鎚の山岳宗教は、講の存在によって、地域の庶民の日常にしっかりと根付いていたわけなんです。
江戸時代後半、全国的にいえば、伊勢神宮へ参る伊勢講が有名ですが、富士講や出羽三山講などの山岳信仰も盛んで、宗教的な祭礼への参加は、庶民にとって、日常を離れた楽しみであり、修学旅行のような側面もありました。
私が住む松山市は、石鎚信仰が及んでいた地域なのですが、私が通った中学校では、かつての男児の初登拝を引き継ぐように、三年生の夏には石鎚登山を体験する慣例でした。体力が許すかぎり、ですが。
雲の上の頂上を極める達成感、澄んだ空気と絶景。今風にいえば、パワースポットに身を浸す高揚感があり、思春期にこれを体験することは、忘れがたい思い出となります。
石鎚講は結局、神仏分離を越えて生き残り、前神寺も復興を遂げ、お山開きの伝統は、形を変えつつ、現在へと引き継がれた次第です。
しかし、日本人にとっての山伏という存在の原像は、なんといっても、中世の軍記物なんじゃないでしょうか。
最近、NHKの大河で、源平合戦が取り上げられることは少ないのですが、私が山伏のイメージを育んだのは、源義経を描いた大河ドラマです。
能の「愛宕」、歌舞伎の「勧進帳」と、義経と弁慶が、兄頼朝の追っ手を逃れ、山伏一行に扮して奥州へ落ちるドラマは、時を超えて長く、日本人に親しまれてきました。
義経一行は、消失した東大寺再建ための勧進をしている(寄付をつのっている)山伏、ということで、関を越えようとしたのですが、現在でも出羽三山の山伏は、勧進の伝統を伝え、国の重要無形民俗文化財に指定されているようです。(松例祭保存会参照)
つまり山伏は、日本国中の山々で修業しますし、勧進も全国規模で、平泉の山伏が霊場白山の護符、丸薬を京都まで運んでいたり、あるいは霊場立山の「立山夢想妙薬」(漢方薬を調合したもの)は山伏の手で全国に運ばれ、これこそが富山の薬売のもとであったといわれます。(中世の聖と医療参照)
このように、山伏の姿であれば、怪しまれることなく遠くへ旅ができましたので、軍記物でもっとも印象的な山伏の役割は、時の政権に反する勢力を結集するための連絡、じゃないでしょうか。
「平家物語」では、全盛期の平家に対し、全国の源氏を結集しようと、不遇の皇子・以仁王が、令旨を発したことになっていまして、源行家が山伏姿で諸国の源氏に伝え、伊豆にいた源頼朝の手にも渡ったといわれます。
以仁王の挙兵は失敗しますが、やがて反平家の機運は盛り上がって行き、源頼朝の鎌倉幕府樹立にまで、話は伝わっていくわけです。
「太平記」では、後醍醐天皇の側近だった日野俊基(NHK大河「太平記」では榎木孝明が演じていました)が山伏姿で諸国をめぐり、打倒鎌倉幕府の機運を掴もうとしていた、ということになっています。
ところで、山伏国広は、国の重要文化財に指定された日本刀です。
作者は堀川国広。日向(現宮崎)の戦国大名・伊東氏に仕えた武士でした。
彼は、伊東氏が島津氏との長年の戦いに敗れ、領国を追われたときに供をし、九州一の霊場・英彦山で、山伏となりました。修行しつつ、伊東氏の再興を願って作った刀が、山伏国広だったといわれます。
紆余曲折の末、伊東氏は小大名として日向に返り咲き、幕末明治まで続きました。一族の中には、島津の家臣となった者もあり、初代連合艦隊司令長官・伊東祐亨は、その子孫です。
伊東氏との戦いにおいて、島津側では、霊場・霧島山で修行した山伏・相模坊光久が、大活躍しました。
相模坊を祖とする愛甲氏は、独自の兵法書を今に残していて、調伏だけではなく、どうやら、山伏の山岳ネットワークを使って、島津氏に寄与したようなのですね。
鹿児島が特殊なのは、江戸時代に入り、「兵頭家」と呼ばれた山伏が、そのまま藩士になったことなのですが、それは結局、戦国時代の島津氏が土着の勢力をうまく取り込み、そのまま藩主となったことに関係しているのかもしれません。
第16代当主・島津義久は、修験道の位階を持っていたといいますし、2代藩主光久は、修験道の祈祷書類編纂に熱心でした。(「中世島津氏研究の最前線」収録 栗林文夫著「中世以来、修験道・真言密教に慣れ親しんできた島津氏」)
海音寺潮五郎の「二本の銀杏」は、西郷、大久保が少年だったころの薩摩を舞台にした小説ですが、主人公の源昌房は、郷士にして代々の兵頭家です。
江戸時代の山伏は、その多くが京都の聖護院か醍醐寺三宝院を本山と仰いでいて、源昌房も例外ではなく、京で一年間の修行を積みます。
現在で言えば、家を継ぐ前に、東京の大学へ行くようなものではないでしょうか。
また、兵頭家は祈祷で農民の家にも呼ばれますし、他郷では庶民の間へ入って勧進もします。
源昌房は情熱的な人物として描かれていて、この小説の一つのテーマは不倫の恋なのですが、一方、視野が広く、農民の窮状によりそって事業を興す実行力は、山伏としての修行で養われたものと推察できます。
実は、源昌房には、堀之内良眼房というモデルがあります。
良眼房は、西原八幡宮の第13代宮司であり、真言山伏の修行をおさめ、川内川を輸送路として使うための工事や、藩金の借用によって、農民の窮状を救ったのだそうです。(鹿児島県ー堀之内良眼房の事績(川内川の川浚え))
川内川の工事のころ、桐野は6、7才でしたが、同じ頃にアヘン戦争が起こり、列強の東アジア進出が本格化しました。
大河『西郷どん』☆「琉球出兵」と「薬売の越中さん」後編
上にまとめてありますが、以降は怒濤の如く、フランスが琉球に開国を迫り、島津斉彬のお国入りがあって、嘉永2年(1849年)、お由羅騒動が起こります。
桐野が満11才の頃のことです。
上に、「島津斉興は祈る藩主だった」と書きましたが、斉興は密教の僧位僧官を得て、自ら修法を家臣に伝授していた、といいます。
琉球に来た西洋人への調伏に、斉興は、兵頭家を使っていまして、その中心が牧仲太郎でした。
斉彬支持派の藩士たちは、それを、斉彬とその子供たちへの呪いの祈祷が行われていると誤解したらしいのですが、調伏を防ぐには調伏しかないそうです。結局、斉彬支持派も兵頭家を使い、さながら調伏合戦となって、斉興は激怒しました。斉彬支持派は、切腹・蟄居・遠島など、かなりの数が厳しい処分を受けます。
それで、桐野の外祖父・別府四郎兵衛ですが、春山育次郎の「少年読本 桐野利秋」には、友人藺牟田なにがしと共に、市中にいでて、兵頭の法を修し、天狗を嘯集したりとか云へる奇異のきわみなる罪名によりて藩庁のとがめを受け、南洋の徳之島に流るること十余年の久しきに及びぬ」とありまして、お由羅騒動では、ちょっと次期があわない感じなのですが、調伏合戦とか普通にあった土地柄ですので、誰を調伏した嫌疑だったのか、島流しにあっていたみたいです。
別府四郎兵衛が京で修行をしたかどうか、それはわかりません。
しかし、兵頭家のネットワークにつながっていた、ということはあると思いますし、複眼的に、物事を見ることができたのではないでしょうか。
山伏で脱線し、すこぶる長くなりましたので、続きます。