郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた

2007年03月26日 | 幕末留学
 今日はちょっと、思わずほろっとしてしまいましたので、維新の動乱前夜、数えの11歳、つまり現代でいうならばわずか10歳で、パリに留学しました貴公子のお話を。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、慶応元年(1865)、モンブラン伯爵のもとを訪れた薩摩使節団は、五代友厚、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)の三人でした。
私、五代友厚が中心であったように書きまして、事実そうなのですが、イギリス留学生をも含めて、この薩摩密航留学使節団の長は、新納刑部久脩です。
新納家は一所持と呼ばれる島津の門族で、850余石の大口領主。
新納久脩は、軍役奉行として藩兵制の洋式化を積極的に進め、大目付となって、密航使節団の長を務めました。
天保3年(1832)生まれで、渡欧当時33歳。寺島宗則と同じ年で、五代より3つ上です。帰国後、家老になりました。

実は、です。私、『密航留学生たちの明治維新?井上馨と幕末藩士』を再読していまして、五代が帰国後、諸藩士の留学に手を貸す話の中で、「家老新納刑部の息子次郎四郎がフランスに留学するにあたって、長崎遊学中の加賀藩士関沢考三郎(明清)と岡田秀之助(元臣)の両人を密かに同伴させたのも、加賀藩からのたっての依頼があったからである」と一節を、気にとめてはいました。
 気にとめてはいたのですが、しかし、新納次郎四郎については、それだけしか出てきませんでしたし、あまり深く考えないでいたのです。

ところがある日、いつものお方のブログを見て、びっくり。
その方は、別の資料から、明治5年(1872)秋ころと思われる、在パリ日本人留学生の名簿から、新納武之助(次郎四郎)16歳、1866年11月29日フランス着、となっていたのを、発見されていたんです。
とすれば、新納武之助(次郎四郎)が留学したのは、10か11のころ!? これには驚きました。
しかも、よく考えてみましたら、武之助少年は、父親が帰国した年の暮れに、パリへ渡っていることになります。めんどうを見たのは、当然、モンブラン伯爵でしょう。
その方によれば、写真も残っていて、明治6年、岩倉使節団の一員として欧州に渡っていた大久保利通が、帰国するにあたって、当時パリにいた複数の薩摩藩士と写真を撮っているんですが、大久保の右側にいるのが、新納武之助だというのです。
この集合写真、よく見かけるんですが、たいていは小さい上に、ぼんやりしているのですが、私、大きくて、かなりくっきりした写真を見つけましたところが、17歳の武之助少年は、少しウェーブのかかった貴公子らしい髪型で、なかなかに秀麗な、品のある様子です。

いや、これもそのお方から送っていただいた資料に、密航留学生の書簡がありまして、慶応2年(1866)12月下旬、イギリスにいた畠山義成から新納刑部宛のものに、以下の言葉があります。
「御息童子も英十一月仏へ御安着。ほか加藩之両生も大元気に而着英被礼 童子様の事承候。その長船中殊の外退屈もこれなく、船酔などはまったく成られず候」
金沢藩のお兄さん二人につきそわれて、11歳の武之助少年は、元気に、船酔いもせず、退屈することもなく、欧州に至ったんですね。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。

『若き薩摩の群像―サツマ・スチューデントの生涯』

春苑堂出版

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門田明氏著の上の本を見て、またまた、びっくりしました。
明治4年(1871)の後半、父親の新納刑部が、パリの息子に出した手紙が、載っているじゃありませんか!!!
それが、どういうわけか、森有礼がアメリカ公使(弁務使)だったとき、秘書として雇っていたチャールズ・ランマンが、「アメリカの日本人」という本を出していて、その中に英文で出てくるんだそうです。
元は、日本文、いわゆる漢字交じりの候文だったはずです。それが英語に訳されていて、またまたこの本で日本語に訳されています。

「お前と別れて、もう五年になる。お前ももう一六歳になる。真剣に一生の志をたてるべきこのときに、親心をもって言い聞かせておきたいと思う。第一に、国のため、わが最愛の子を捧げるのは父たる者のつとめである。残念にも日本に適切な教育制度がないために、わが子が、教育を受けることなく成人するかも知れないことを、私は怖れた」

パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。

新納刑部は、欧州への往路の船がシンガポールに停泊したとき、七歳にもならない三人の子供を連れた、オランダ人の夫婦を見たのだそうです。夫婦は別れを惜しんで泣き、夫一人が陸に戻り、妻と子供たちは船に残りました。子供たちはシンガポールで生まれたけれども、教育のためには、故国オランダへ返さなければなりません。そのために、夫婦は離別の苦痛に耐えていたのだと。
「このことは、私の胸を強く打った。オランダのような小国でさえも、子供の教育にこれほどの熱意を持っている」
いや、オランダを小国と言い切ってしまうところに、なんか………、この時代の日本人のすごみを感じましたが、この情景を見て、そしてロンドン、パリの教育を視察して、二人の息子を、ロンドンとパリに、それぞれ送ろうと決意したのだというのですね。

「しかし、ロンドン滞在中に、お前の弟が亡くなった知らせが届いた。私の悲しみは大きかった。こうして私の願いは、すべてお前一人にかかることになった。私の大きな気がかりは、だれをお前の先生にお願いするか、ということだった。たまたま、モンブランというフランス人に会う機会があり、彼に私の考えを話し、お前には、主として政治経済学を学ばせたいといったところ、彼は私の考えをよく理解し、最善をつくすことを約束してくれた。これが、お前のために、私が心をくだき、努力してきた大体のいきさつだ」

ロンドン滞在中というのは、新納とうさんが、ロンドンに滞在していたときです。
武之助少年、弟を幼いときに亡くして、一人息子になったんですねえ。

ところで、薩摩藩は、幕末の動乱時に、あまり内紛を起こしませんでしたし、うまく立ち回って、犠牲者もほとんど出しませんでした。
そのために、小松帯刀、桂久武、岩下方平、新納刑部といった、島津家一門の革新派の家老が、みな健在でした。
長州は、中下級の藩士を取り立てた勤王派の家老は、維新までにほとんど死に絶えましたが、それが薩摩にはなかったんですね。
薩摩に下克上が起こったのは、戊辰戦争の結果、でした。
幕末すでに、実質的な薩摩の指導者は、西郷、大久保、外国へ出た場合も五代、寺島といった工合で、革新派家老たちと協力しながらも、中下級藩士たちがのしあがってはいたのですが、下級藩士たちが隊長となって勝利した戊辰戦争の実績が、すっかり様相を変えました。
戊辰戦争から帰国した「兵隊」たちが、門閥打破を叫んで藩政をにぎり、それを西郷が暗黙のうちに認めて、島津久光は、一門が禄を失うことに心を痛めたのですが、廃藩置県前の藩政改革で、高禄の門閥は消えたんです。
また、大久保が中心にいた新政府においても、次第に門閥は脇へ追いやられ、新納刑部は、最後の薩摩藩家老として藩政に幕引きをし、その後は大島の島司となり、中央で活躍をすることはなかったんです。
すでに、この手紙の時点で、生活はかなり苦しいものに変わっていたと思われます。

「お前を外国に送ったのは、短期間で呼び返すためではない。学業を達成するまでは、帰すつもりがないことははっきりしている。お前に、学業を終わってからしてもらいたいことは、文明ヨーロッパの各地、各国を回ってもらうことだ。帰り道には、中国の北京にも寄ってもらいたい。お前が、フランス語しか知らないのであれば、満足するわけにはゆかない。お前には、英語の知識も持ってもらいたい。モンブラン氏は、こういう細かいところまで、すべて理解され、その実現を目指すことに同意してくれた」

世界を回れ、というのは、ナポレオンを見習え、ということなのだそうなのです。
ナポレオンは、年端もいかないころ、母親に人生の目的を尋ねられ、「自分は、世界の歴史に残る地を、すべて心に留め、剣一振を持って、世界の端から端まで行くつもりだ」と答えたのだそうで、「私は、これを知って深い感銘を受けた」と。こういう雄大な目標を、人生に持ってもらいたい、と。

「ヨーロッパから帰ると、私は早速、お前を外国に行かせてもらいたいと両親にお願いした。有難いことに、二人は大変深い感心を持ち、すぐさま同意してくれた。それは、お前一人にとって幸せなことであっただけではなく、私にとっても幸せなことであった。お前は、その時、たった十一歳で、私が何を望んでいるかなど、まるで知らなかった。お前の年を考え、また、最近、次男が逝去したことを考えあわせて、友達や親戚の者が、大反対するのをおさえ、この人たちの心配を和らげるのは、実に大変なことであったが、とにかく、理解を得るのに成功した。お前が故郷を去り、一万マイルの外地に、このような大志をもって、行くことができたのは、まさに天の恵みというものである。お前の胸深く、このことは、いつも忘れてはならない」

おそらく、開明藩主、島津斉彬にかわいがられただろう新納刑部自身、錦紅湾の彼方の南の海に憧れを抱いて、少年時代をすごしたんじゃなかったんでしょうか。
その少年の日の夢を息子にたくしたような、そんな感じがします。

「私が、お前にほとんど手紙を書かないのには理由がある。これは、お前にたいする私の深い愛によるものなのだ。まだ年若い者が、遠く離れた土地にいて、故郷を思うのは、自然の情である。しかし、故郷からの便りというのは、益より害になる。便りは感情を刺激しがちで、勉学の妨げとなる。お前は、まだ三歳にも満たぬとき母と別れた。それ以来、余人の手によらず、ただ私の胸に抱かれて育てられてきた。このような事情であったから、お前をいとおしく思う気持ちが、どうして冷めたりするものか。お前に便りを送ることが滅多にないからといって、私を誤解しないでもらいたい」

な、なんか、泣けてきません?
武之助少年、死に別れか生き別れか、お母さんがいなかったんですねえ。
なんとなく、なんですが、死に別れではなかったか、と思われます。
新納とうさんが、子供の教育のために別れるオランダ人夫婦を見て、感慨を深くしたのは、年若い妻に先立たれた悲しみを抱いていたこともあったのではないかと、そんな気がするのです。
そして渡欧してロンドンにいたとき、妻の忘れ形見の次男を亡くし、それでも、たった一人残された幼い長男を、パリへ教育に出そうと決意する………。
当時の人々にとって、いかに欧州が遠い場所だったかを考えると、壮絶な覚悟、だったのではないでしょうか。

美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。
明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
おそらくは、お父さんからの言付けを持っての正名の登場に、武之助、喜んだでしょうね。
しかし、喜んでまもなく、7月19日(和暦6月21日)、普仏戦争が勃発するんです。パリ籠城の時期には、あるいはインゲルムンステル城に、避難していたかもしれないですね。しかし翌年、パリコミューン騒ぎ。
この手紙が書かれたのは、その年の後半で、どうもこれ以前から武之助は、帰りたい、と訴えていたらしいのですね。
花のパリを半分廃墟に変えた一年の動乱。故郷の青い錦江湾と、とうさんの暖かい胸が、恋しくなったんでしょうか。

「私は、お前が前田氏に、もうすぐ日本へ帰るつもりだ、と言ったと耳にした。どういう理由があって、そうするのだろうか。お前を留学させた目的については、すでに十分話した。お前が学業を完全に終わったというのであれば、お前が戻って来ると聞いて、さぞかし嬉しいことだと思う。わたしにとって、それ以上の満足はない。しかし、お前が帰るといっているのは、怠惰な心から、わが家がなつかしくなったからではないかと、心配している」

正名くん、新納とうさんに頼まれていて、近況を知らせたんですかねえ。
どうも武之助は、日本人留学生が多くやってくるようになったパリで、焦りを感じるようにも、なっていたらしいのです。

「教育の第一の目的は、国の利益のために最善を尽くすことである。われわれは、広くわが国全土にわたって、漢字をつかっている。海外で、お前が出会う日本人は日本語や漢文を使うので、それが分からないと不便だと思うかもしれない。また、日本の事情を知るために、日本語や漢文を勉強しようという気になるかも知れない。これが私の最も気がかりなことだ。今こそお前にとって、最も大切な時なのだ。お前は未来の大きな目的を心得て、小さなことに係わってはいけない。お前は、全霊を尽くして、西洋の勉強に打ち込むのだ。日本語とか漢文とかは、日本に帰ってから学んでも、決して遅くはない。この問題で、お前が迷いを持たないことが最も大切だ」

お、お、お、おとーさん、それは極端ですって。
ちょうどこの手紙の頃、岩倉使節団とともに、アメリカ留学に向かった5人の少女がいました。
森有礼と黒田清隆と、そういえば、これも薩摩藩士の試みでしたね。薩摩の少女はいませんでしたけど。
5人のうち、もっとも長くアメリカにいたのは、留学時12歳だった山川捨松と8歳だった津田梅子なんですが、あー、忘れてましたわ。妻とともに津田梅子の面倒を見たのが、新納とうさんの手紙を英訳して本に載せたチャールズ・ランマンでしたわ。
そういう経験者だけに、新納とうさんの手紙に感激したのでしょうね。
しかし、どうやって手に入れたのやら…………。

ともかく、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』によりますと、梅子は日本語をさっぱり忘れ、帰国直後には家族と話をすることもできなかった、といいます。そして、捨松もなのですが、日本語ができないために帰国した当座には仕事もなく、逆カルチャー・ショックに苦悩し、生涯、手紙を書くのも本を読むのも、英語だったとか。
当時の日本で、日本語も漢文もだめだとなれば、仕事ができないはずなのですが、門閥だった新納とうさんには、そんなせこせこした考えはなかったようです。
それがお国のため、なんですから、アイデンティティ・クライシスなんて、思もよらなかったんでしょうね。

そういえば、やはり薩摩門閥の子弟で、14歳でイギリスに密航留学し、モンブラン伯爵に気に入られてしばらくパリにもいた町田清蔵も、後年の回想ですが、「儒学なぞは国を弱体化して、滅ぼすだけだ」とう親の方針で、幼い頃から蘭学しか習わなかった、というようなことを言っていましたっけ。
帰国してから、兄に勧められて、やっと漢学を学んだんだとか。
蘭癖って言葉がありますけど、薩摩の開明派門閥って……、なにか、すごいものがあります。

これもいつものお方が調べてくださったのですが、武之助は結局、明治6年5月には、帰国しているようです。
私費留学だったので、あるいは、学費が続かなくなったのかもしれません。
帰国後は、主に陸軍省に勤務しているのですが、不運、というべきでしょう。
明治陸軍は、最初、フランスに習って、お雇いフランス人伝習教師も多く、教科書もフランス語のものが多かったのですが、徐々にドイツ式に切り替わっていくんです。
陸軍大学教授にまでなっていますから、それほど不運というわけではないのですが、地味な後半生です。
明治28年、病死。
新納とうさんは、この7年前、明治21年に世を去っていました。
検索をかけましたら、現在、カナダに、新納とうさんのひ孫に当たる方がおられるようです。
新納とうさんが、他に子供を作らなかったとすれば、武之助のお孫さんのはずですよね。
書簡とか、残ってないんでしょうかしら。
もし残っていたら、本にしてくれないものでしょうか。

「お前の手紙を、何度も何度も読んだ。まるで、お前と向き合って話しているような気がした。この父の手紙を読んで、お前も同じように感じて欲しい。おまえの学業がまっとうされるようにという、私の深い胸の内にある、ただ一つの思を、お前にいつまでも、忘れないでいてもらいたいと願っている」



追記
新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。


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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3

2007年03月24日 | モンブラン伯爵
&tagモンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2 の続きです。
前回は、五代・寺島夫婦の側から語ってみたわけなのですが、では、モンブランの側から言うならばどうなのか、というお話です。


モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2の時期からなんですが、まず、この内容を補足します。

『社会志林』の宮永氏論文では、池田使節団がパリを訪れていたころ、「モンブランは池田から日本の形勢について聞かされ、そのとき反幕的な諸大名を倒し、政権を一つにするように進言した」と断定され、さらには、幕府に力がないならフランスが助力する、と言ったとしているんですが、モンブランは、最初の来日時にも学術員ですし、フランス外務省員でもなければ、在日フランス公使館の一員でもありません。
いくら池田筑前守がまがぬけていたと仮定しましても、助言ならばともかく、フランス外務省、およびフランス公使の意向と、モンブランの個人的意見との区別もつかないほどまがぬけていたとは、とても思えません。

宮永氏の断定の根拠は、『旧幕府第八号 長防再征の目的』だというので、見てみました。
この小論文の著者は、元越前藩士・佐々木千尋。松平春嶽を中心とする越前藩の幕末記録、『続・再夢記事』の編者です。
で、結局のところ、えらく見当ちがいなことに、『旧幕府第八号 長防再征の目的』は、第二次征長の時点での幕府とフランスの密着、つまりは横須賀製鉄所建設などの話を、『続・再夢記事』に収録された慶応2年7月18日付けの越前藩士の報告書、までさかのぼって結びつけ、「幕府が長州、薩摩を討って中央集権化することを軍事的にフランスが助ける」といったような話になっているんです。

ちょっと、まってください。
『続・再夢記事』慶応2年7月18日付け越前藩士の報告書には、たしかに、モンブラン伯爵というフランス人が、池田筑前守に言ったこととして、「フランスも四,五百年前までは、大小名が各地に割拠し、その小国ごとに法律があったが、日本の今の状態はそれと同じであるので、現在のフランスのように中央集権化する必要がある。大名の権力をけずるためには、軍事力が必要だろう。それがないのであれば、日本はフランスに依頼して借りるべきだ」とあるんですが、これ、欧州から帰ってきた五代友厚の話を、越前藩士が聞いて、書いたものなのです。

遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際

朝日新聞社

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また登場しますが、萩原延壽氏の『遠い崖』によりますと、慶応元年 (1865年)、つまり、ちょうど五代が渡欧していた年なんですけれども、モンブラン伯爵はパリで、『日本(Le Japon)』という著作を刊行しています。
おそらく、モンブラン伯の日本観で書きました『モンブランの日本見聞記』が、その訳書なのだと思うのですが、書籍の山に埋もれて出てまいりません。
ともかく、上記、萩原延壽氏によりますと、『日本(Le Japon)』の内容は以下です。
「日本人の国民性の優秀さを説き、積極的に異質の西洋文明から学ぼうとする精神をたたえ、その輝かしい未来を予言した。当時これほど日本の可能性を高く評価した西欧人の日本論はめずらしい。モンブランは日本の政情にもふれ、天皇を擁する勢力と幕府との対立を論じたが、改革と開国の味方として、モンブランが支持したのは幕府の側である。これにたいして、朝廷につらなる勢力は、旧秩序の維持を目論む進歩の敵とみなされた」

それが、五代、寺島との出会いを経て、この年の暮れには、薩摩人を伴ってのヨーロッパ地理学会で、前回記したような「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という考え方に変わり、翌慶応2年には、この講演の内容を、『日本の現状に関する一般的考察(Consideration Generales sur IEtat Actuwl du Japon)』と題して刊行しているんだそうです。
萩原延壽氏も推察されていますが、慶応元年暮れのモンブランの地理学会発表と、慶応2年3月から、イギリス在日公使館員アーネスト・サトウが横浜の週刊英字誌『ジャパン・タイムズ』に連載しはじめました『英国策』は、内容が酷似していまして、あきらかに、五代友厚が介在しているでしょう。
五代、寺島は、モンブラン講演の内容を筆記して持ち帰り、サトウも含む在日イギリス人などに見せてまわった、と考えてもいいのではないでしょうか。

で、越前藩士が五代友厚から聞いた話なのですが、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、池田使節団は横浜鎖港交渉にフランスに出向いていたわけでして、さらには、四国連合艦隊の長州討伐問題があったわけなのです。
モンブランが池田に「フランスの力を借り」と話したとしましたら、長州の「攘夷」は瀬戸内海航路の封鎖であり、自由貿易をさまたげる行為でしたから、当然、航路の安全保証は幕府の責任であり、勝手に四国連合艦隊がそれを長州に迫るよりは、幕府がその責任を果たすべきで、幕府にその力が足りないというのなら、フランスは手助けしますよ、というものなのです。
統一国家とはどういうものであるのか、そういう道理を、モンブランが池田に説いた可能性はありますが、元治元年の時点で、「幕府はフランスの軍事力を借りて諸侯を征伐し、中央集権化すべきである」と、モンブランが池田に吹き込んだ、というのは、当時のフランスの思惑とは大きくかけはなれていて、「統一国家のあるべき姿」という一般論と、その当時の状況、つまり四国連合艦隊の長州征伐、におけるフランスの申し出を、故意に混同したものです。
『日本(Le Japon)』において、モンブランは日本を、『天皇をいただく諸侯連合国』だとは、見ていないわけなのですから。

あきらかに五代は、意図的に話を短絡化し、越前藩士に吹き込んだのです。
フランスと幕府の関係に、薩摩藩中枢が危惧を抱くようになったのは、駐日フランス公使がベルクールからロッシュに交代し、横須賀製鉄所建設の話が持ち上がってからです。
たしかに、ロッシュ公使になってから、幕府が陸海の軍備を近代化することに、フランスは手を貸そうとしていたわけですが、それも、かつてオランダが海軍伝習を引き受けたのと同じように、交易の実をあげるためであって、イギリスとの外交関係からいっても、例えばフランス軍が、フランス人の安全に関係のない第二次征長で幕府の味方をするとか、そういう話ではありません。
対外関係に暗い越前藩士に「幕府はフランスの力を借りて諸侯をつぶすつもりだ」というような話をしておけば、春嶽候の耳に入るのは見えています。
薩長連合はなり、第二次征長における長州の勝利も見えてきたこの時期、春嶽を薩摩の味方につけることをねらっての、五代の工作でしょう。

ようやく本題に入ります。
モンブラン伯爵が、フランスの全面援助による横須賀製鉄所建設に反対し、肥田浜五郎に味方しただろう理由なんですが、ひとつには、もちろん、ベルギーを介した利があったでしょう。
しかし、理念の面からいえば、モンブラン伯爵は、自由貿易主義者だったように感じます。
当初、生糸、蚕種の現物で、幕府が鉄工所建設費を払う、というような噂も出回っていまして、このことからも、在日イギリス商人が猛反発したのです。
さらに、以前にも書きましたが、在日フランス公使レオン・ロッシュは、富豪で銀行家のフリューリ・エラールに、フランスの対日貿易をすべて取り仕切らせるような画策をするんですが、フリューリ・エラールは、ロッシュの個人的友人なんですね。当時、主に生糸はイギリス商人が取り扱っていたのですが、柴田使節団訪仏の翌年、慶応2年(1866)から幕末の2年間だけ、極端に、イギリス商人の生糸取扱量が減っています。
取扱量が減ったのは、あるいはこの年、在日イギリス商人は、軒並み、金融危機に見舞われていまして、これはインド、中国貿易に原因した資金繰りの悪化だったんですが、そのためかとも受け取れますが、減り方が異常です。
証拠はあげようもないのですが、小栗上野介と三井の関係を考えますと、幕府が三井を使って、うまくフランスに、それも独占的にフリューリ・エラールの関係した商人に、生糸をまわしていたのではないか、という疑念に、私はとらわれてしまうのです。
ともかく、いくらモンブラン伯爵がフランス人であっても、フリューリ・エラールが個人的に対日貿易を独占する、というのは、自由貿易主義者として、賛成しかねることだったんじゃないんでしょうか。

さらに、なぜモンブランが、密航薩摩藩士に会ったか、という問題なんですが、池田筑前守が、帰国後罷免になったという話は、モンブランの耳にも届いていたと思われます。
池田筑前守に、モンブランが長州を幕府が討つべきだと語ったとして、その時点での話は、瀬戸内海航路安全のために、「攘夷」と称する長州の無法な発砲を咎め、二度とそういうことが起こらないようにするためです。
これは、日本が統一国家として全面的に開国し、自由貿易を促進するべきだ、という見解からの発想なのですから、横浜鎖港に失敗したからといって、池田筑前守を咎め、今度は貿易を独占しようとしているらしい幕府に、モンブランは失望を禁じ得なかったのではないでしょうか。

モンブランが来日していた文久2年(1862)は、生麦事件の起こった年でした。薩摩藩のつもりがどうであったにせよ、薩摩が攘夷の旗頭のように見られた時期に、モンブランは日本にいたのです。
その薩摩藩士が、欧州まで出向いて来ているとなれば、当然、好奇心が起こるでしょう。
モンブランが幕府に失望を感じていたとなれば、なおさらです。
モンブランと五代が実際に出会って、五代は、生麦事件が攘夷ではなかったことを熱弁したでしょうし、当然、薩摩は海外貿易をもっとしたいのだが幕府が邪魔をしているのだと、持論を語ったでしょう。
その弁舌とあいまって、なによりもモンブランを動かしたのは、薩摩藩が現実に、欧州まで留学生と使節団を送ってきている、という事実だったのではないでしょうか。
欧州において、国家の誕生は、戦いと外交交渉の積み重ねによって、可能になっていたわけです。
帝を中心とした新しい日本へ向けて、欧州で外交交渉をしようという薩摩藩の意欲は、高く日本人を評価していたモンブランを、強くゆさぶったでしょう。

結果、五代と寺島、そしてモンブランの合作だと思える日本の現状表現は、『日本は天皇をいただく諸侯連合国』となったわけなのですが、しかしそれはけっして、藩がそれぞれに外交権を持つような独立国である、という認識では、ないでしょう。
なぜならば、先の話ですが、慶応3年(1867)のパリ万博で、薩摩は薩摩国名義ではなく、琉球国名義を使うことにしているからです。
薩摩は、けっして外交権を持つ独立国ではない。しかし、その薩摩が独自に外交をしているのは、帝を中心とする新しい日本を作るためである………。
そういう認識が根底にあったのではないか、ということを、推測できる材料があります。

慶応元年(1865)12月7日、ちょうど、五代がヨーロッパ地理学会出席を果たし、ロンドンの寺島のもとへその報告をもたらし、さらに話し合いを重ねただろう後、ということになりますが、寺島は、薩摩藩の蘭学仲間だった中原猶介のもとへ、手紙を書いています。
「5年前イタリヤに有名の将ガリバルチなる者、このパラガンタ(プロパガンダ)の術をもって国人を説き、王の兵を借らすして義勇の兵を越し、ローマ・リアを撃ち、ついにサルヂニー小国王をしてイタリア全国王となし、功なって郷里に帰り余生を養えり。今年六十ばかり。先日ロントンに参りたるよし。欧にては三歳の児もこの名を知らんものはなし」

ガリバルディは、いうまでもなく、イタリアのリソルジメント(統一戦争)の英雄です。
この手紙から半年後、イタリアはプロシャと同盟してオーストリアと戦い、オーストリア領だったヴェネチアを統合して、統一を完成させています。
プロシャもまた、オーストリアに勝利し、さらに明治維新の2年後にはじまった普仏戦争の勝利によって、ドイツ帝国を成立させます。
近代国家としての発展には、中央集権化が必要なのであり、諸侯連合国から統一国家へという道筋は、当時の欧州に、イタリア、ドイツという現在進行形の見本があったのです。

寺島は、ガリバルディが果たした役割を、島津久光の行動とくらべていますから、その例えでいうならば、サルデーニャ王が帝なわけです。
続けて寺島は、久光が割拠論に傾いていることを憂えていて、目標として統一国家を見る必用を説いているのですが、一応、理想としては「将軍・諸侯・国人相合し」としながら、その直後に、幕府の専横を始皇帝に例えて痛烈に批判していますので、結局のところは、幕藩体制を否定し、帝を中心とする統一国家を提唱しているに等しいのです。
そして、その帝を中心とする統一国家を実現するためには、ガリバルディがしたように「プロパガンダ」、寺島が言う「プロパガンダ」とは「入説」に近いのですが………、ともかく「プロパガンダ」を行うことが大切だ、ということなのですから、イギリス公使館員アーネスト・サトウへの働きかけも、春嶽候を狙った越前藩士へのささやきも、すべては、「帝を中心とする統一国家」実現への「プロパガンダ」なのです。

おそらく、モンブランやロニーにとって、五代や寺島が語る「日本の現状」は、プロシャやイタリアを想起すれば、わかりやすかったのでしょう。
そして、日本のリソルジメントをめざす薩摩隼人たちに、モンブラン伯爵は、わくわくしてしまったのではないのかと、私はつい、妄想してしまうのです。

次回に続きます。


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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2

2007年03月18日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1の続きです。
時期的には、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 の続きとなります。

1865年6月21日(慶応元年5月28日)、薩摩藩密航イギリス留学生の一行が、ロンドンに着きました。
しかしこの一行、先にイギリスに密航していた長州ファイブとは趣がちがい、多分に政治的意図を持った、薩摩藩外交団でもありました。
外交の中心にあったのは、随行の五代友厚と寺島宗則(松木弘安)です。
この二人、 花の都で平仮名ノ説で書きましたように、薩英戦争でわざと英艦の捕虜になり、その後、清水卯三郎にかくまわれていたりしたんですね。
で、卯三郎自身の回想では、寺島は古くからの友人だったけれど、五代には英艦で初めて会ったようです。
卯三郎さん、長崎のオランダ海軍伝習を受けたくて、八方手を尽くして長崎まで行った過去があります。結局、町人であるから、というので、勝海舟にも冷たくあしらわれ、望みはかなわなかったのですが、このとき五代にも会ったりしたかな、と思ったんですが、会ってなかったんですね。

卯三郎さんがひらがなで語るところの五代と寺島は………、もうなんといいますか、なにをするかわからない無鉄砲な夫と、心配性の妻、といった趣で、笑えます。
天祐丸艦長だった五代は、船ごと英艦に拿捕されるのですが、無念やる方なく、火薬庫に火をつけようとします。同時に捕まった寺島は、「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふてさまたげたり」。
えー、漢字は勝手に入れましたが、かな文のせいなんでしょうか、なんかこう、楚々とした賢夫人が夫をたしなめている風情がありません?
あー、写真で見る寺島は、かなりの身長があり、顔つきはけっこうごつい上に、五代より三つ上で、30を越えてます。

敵(イギリス)に通じたと疑いをかけられた二人は、卯三郎さんの故郷の親戚、吉田家にかくまわれますが、そこでも、寺島は大人しくしていたのに、五代は落ち着かず、ひそかに江戸へ遊びに出たりしたあげくに、吉田家の次男、吉田二郎をともなって長崎へ行き、グラバーのもとに身をよせ、藩に建白書を出すことになったんです。
一方の寺島は、ひたすら大人しく身をひそめていましたところが、薩摩藩江戸藩邸の岩下方平、大久保利通などが手をつくしてさがしだし、一年ぶりの江戸帰還となったもののようです。
寺島は元が蘭方医で戦嫌い。学者肌です。モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2で書きましたように、幕府の蕃書調所教授でもあり、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、福沢諭吉と仲良しでした。
五代の破天荒な欧州行きが受け入れられ、藩命を受けて、江戸から薩摩へ帰ったのですが、思うに、です。卯三郎さん流にゆいますと、「君のさあらんことを知りしかば、われ、うなずけり。こたびは、君につきしたごうて助けん」だったんでしょう。

『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈3〉英国策論』

朝日新聞社

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上記の本によれば、寺島は、イギリスに着くと同時に、旧知のローレンス・オリファントに会い、イギリス外務省の政務次官レイヤードに、紹介してもらっています。
オリファントは、江戸は極楽であるに詳しく書きましたが、在日経験のある親日家で、帰国後、下院議員になっていました。
このときの寺島の提案は、薩摩藩内に外国貿易のための港を開きたい、ということでした。
それを、です。寺島はイギリス外務省に直接交渉しようとしているのですから、薩摩藩はすでにこのとき、独立国気分です。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3において、「肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し」と書いたのですが、おそらく、肥田浜五郎とモンブラン、モンブランと五代を結びつけるのに介在したのは、オランダの貿易会社代理人で、長崎駐在領事だったアルベルト・ボードウィンではなかったでしょうか。
というのも、維新直後の事ですが、ボードウィンを通じて、薩摩藩はオランダ系金融機関から多額の融資を受け、グラバーなどからのそれまでの借金を、一気に返しているからです。もっとも、そのオランダ系金融機関からの借金も、廃藩置県までには、ほぼ返し終えているそうですが。

1865年8月9日(慶応元年6月18日)、モンブラン伯の使者であっただろうジェラールド・ケンは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!のレオン・ド・ロニーとともに、ロンドンの五代や寺島のもとに姿を現します。
ロニーは文久2年(1862)の竹内使節団の接待役で、寺島は使節団の随行員だったわけですから、二人は知り合いです。ロニーが紹介役を務めたわけなんでしょうね。
ケンはもちろん、すでにフランスで、肥田浜五郎に会っています。

そして、五代は、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)とともに、7月25日(旧暦9月14日)、ロンドンを発って、モンブランの待つベルギーへ向かいます。
この日から、五代の日記が残っているのですが、昨日の花冠の会津武士、パリへ。の海老名日記にくらべますと、そりゃあもう、気分は一国の外交官ですから、趣がちがいます。
一行はベルギー、プロシャ、オランダをかけめぐり、再びベルギーにもどった後、パリへ赴くんですが、五代もそれぞれの国情や産業に関する観察は、端的に記しています。
しかし、しっかりと遊んだ様子も書いていまして、パリでは美味を堪能し、オペラや芝居も見物し、モンブランに案内されて、遊女も買っております。

話が先走りました。
五代一行は、まずインゲルムンステル城に迎えられ、モンブラン家の狩猟場で鳥打ちに興じ、五代は「欧羅巴(ヨーロッパ)行以来にて、始て快愉に思う」と記しています。
そうでしょうねえ。
なにしろ薩摩藩士は、狩りが好きです。桐野の日記でも、滞京中、藩士仲間で誘い合わせて山へ猪狩りにいっていたりしまして、ロンドンの町中で2ヶ月も閉じこもったあと、ひろびろとした私猟地で駆け回るのは、楽しかったでしょう。
そしてブリュッセルでは、ベルギー王子に面会していますし、モンブラン個人ではなく、ベルギー政府そのものと、交渉していたわけなのです。

五代のパリ滞在はけっこう長く、11月13日(和暦9月24日)から12月20日(和暦11月3日)まで、一ヶ月を超えます。
その間、モンブランとはもちろん幾度も会っていますし、5日間ほどは、ロンドンから寺島も来ていて、その間に、ロニーも顔を出しますし、なぜか「新聞屋」の接待も受け、「ケンが肥田浜五郎に会った」と記されていたりします。
ベルギーとの貿易の件や、パリ万博参加の件は、すでに話終わった時点ですので、いったいなにを話あっているのかと思われるのですが、寺島がロンドンへ帰ってまもなく、今度は、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?で書きましたように、幕府のオランダ留学生だった津田真道と西周が姿を現します。
わざわざ、津田、西と知り合いの寺島が時期をずらしたのはなぜか、考えてみたんですけど、寺島は知り合いだからこそ、つまり幕府の蕃書調所にも属していながらの密航ですので、とりあえず、やはり、顔を合わすのはまずい、ということだったのではないんでしょうか。

津田と西がオランダに留学していることは、当然、寺島は知っています。
フリーメーソンのネットワーク、ライデン大学との交流を考えれば、当然、ロニーも知っていたでしょう。
モンブラン、あるいはロニーが、津田と西を呼んだのではないかと思うのです。
なんのためかといえば、五代と新納に、欧州各国の政体や歴史、法律などの詳しい説明をしてもらうためです。
もちろん、そんなことは、モンブランやロニーの方がよく知っているわけなのですが、言葉の壁があります。
どうも、ケンはそれほど学問があったようではないですし、薩摩側通訳の堀にしても、日本で語学の勉強をしただけです。欧州の歴史や政治制度を詳細に日本語で説明するには、訳語を作る必要もあり、漢学や国学にも詳しくなければなりません。
津田と西は、幕臣である前に学者ですから、知識を乞われるならば、喜んで応じたでしょう。
五代は、津田と西の解説を受けて、薩摩が描くところの日本のあるべき姿を、西洋人、つまりモンブランやロニーにわかりやすい形で、説明することができたのではないでしょうか。

五代と新納がなぜ、長期にわたってパリに滞在したか。
12月19日(和暦11月2日)、パリで開催されたヨーロッパ地理学会に出席するためです。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈5〉外国交際』によれば、この地理学会で、モンブランは、日本の現状について講演しています。その内容を引用すれば、こういうことです。
「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない。諸外国がこの将軍と条約を結んでいるところに諸悪の根源があり、幕府は諸外国から中央政府とみなされることを利用して、外国貿易の利益を独占し、他の諸侯を抑圧している。諸侯はこの幕府の独占体制を打破しようとしているのであって、その本心は、西欧諸国との友好関係を切望している。その証拠に諸侯は使節団や留学生をヨーロッパに派遣し、西欧諸国との接触をふかめる努力をつづけている」
その使節団や留学生として、五代と新納、堀、そしてどうも、このときロンドンから幾人か呼んでいたのではないか、という節もうかがえ、数人の薩摩人が出席し、挨拶をしたのでしょう。

あきれてものが言えません。
慶応元年11月2日です。薩長連合もまだ成立していません。
密航留学生を送り出しているのは薩摩と長州だけですし、使節団って……、密航使節団を送ろうなどと思いついて実行しているのは、薩摩だけです。
この時点で、「幕府の独占体制を打破しようとしている」諸侯の数など、しれていたでしょう。積極的なのは、薩摩と長州のみではなかったでしょうか。
一致した「諸侯」の意志なぞ、ありえようはずもないわけですから、これはもうすでに、武力倒幕を視野に入れた認識です。
それでいて五代は、柴田使節団に随行していた幕臣には、「密航留学生を出すのは、日本がヨーロッパに劣らないようにとのみ思ってのこと。日本のためは幕府のため。幕府に異心など毛頭無い」と語ったんだそうです。

五代たちは、「新聞屋」にも紹介してもらっています。
すでにもうこの時、慶応3年(1867)のパリ万博において、薩摩藩が琉球国名義で、独立国であるかのように参加し、それを新聞に書かせて宣伝する協議は、なされていたと思われます。
その点に関しては、モンブランがフランス人であったことは幸いでした。
フランスは、この時期からおよそ20年ほど前、7月王制期に、琉球に軍艦を派遣し、通商貿易とカトリック布教を迫っていたのです。薩摩藩はそのとき、警備隊を派遣しますが、結局、通商のみを許可し、布教は禁じます。とはいえ、ひそかにフランス人神父が滞在して、布教を試みたりもしていたのです。
前藩主・島津斉彬が、藩の軍制改革、近代化に力をそそぐ、きっかけになった事件でした。
当然、新納も五代もそれは知っていますし、一方、日本通のフランス人であるならば、琉球に詳しくて当然でもあったのです。

五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます。
ロンドンに残った寺島は、それから一ヶ月して、イギリスのクレランドン外相との面会に成功します。
『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄〈3〉英国策論』によれば、クレランドン外相に寺島が語ったことは、こうです。
「大名たちは、日本と条約を締結した諸国が、天皇に対して、御三家、十八の国持大名、それに天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たちの招集をおこなうよう要請することを希望している。(それが実現すれば)、大名たちは京都で会合し、そして、天皇はすでに批准した条約に対する大名たちの署名をとりつけることになるであろう」

あきらかに、モンブランの地理学会講演を、下敷きにしています。
しかし賢夫人、思いきったことをしますよねえ。
密航の身で、イギリス外務省に交渉とは。
あー、あのね、孝明天皇はご健在です。
「天皇が助言を得たいと望んでいる他の大名たち」って、会津や桑名も入るんですかね。
この時点で、朝廷に外交権があるかのように語ることには、あきらかに無理があります。
したがって、寺島の提案は、そうなるようイギリスから圧力をかけてくれ、というに等しいのですが、この提案を、本国から知らされた駐日イギリス公使パークスは、さすがに、「これは日本の現状ではなく、薩摩の政策にすぎない」と鋭く見抜いています。

とはいえ、この寺島の提案は、けっして無駄ではなかったのです。
先に帰国した五代は、グラバーの仲買で、イギリスから多量の武器、機械類を買って帰っていましたし、その中には、紡績機械もありました。ここで雇った技師たちも、グラバーの世話でしょう。
紡績所の立ち上げもあって、グラバーは薩摩藩に招かれます。
そしてグラバーは、パークスに、薩摩藩訪問を要請していたのです。
思いきった寺島の提案とグラバーの要請と、その二つがあいまって、慶応2年の夏、パークスの薩摩訪問は実現します。

無鉄砲な夫と賢夫人。
「さるにこそ、われは君のさあらんことを思いしかば、つきまとふて君とともにあらん」と。
ある意味、賢夫人の方が大胆ですよね。

ということで、このお話、さらに次回に続きます。


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花冠の会津武士、パリへ。

2007年03月17日 | 幕末留学
いつものお方から、あんまりにもいいものをいただきましたので、今日はちょっと白山伯をお休みしまして、今を去る百数十年前、花のパリをかけめぐった二人の会津武士のお話を。
ふう、びっくりしたー白虎隊土方歳三はアラビア馬に乗ったか?vol2に出てまいりました、横山主悦常忠と海老名李昌です。
横山が弘化4年(1847)生まれですから、欧州へ渡った慶応3年(1867)には、数えで21歳。
海老名は天保14年(1843)で数えの25歳。
玉川芳男編著『幕末明治を記録した夫婦 海老名李昌・リンの日記』(2000年発行 歴史春秋出版株式会社)に二人の写真と、海老名の日記が載っていたんですが、これが………、実にいい男なんです、二人とも。
わけても横山、パリで写した写真で、なおちょんまげを落としていなくて、和装なんですが、私、ここまで貴公子然としたいい男を、見たことないですわ。
一方、海老名も和装ですが、こちらは渋め。やはり品はいいのですが、少しワイルドな感じです。




ああ!!! きっとこんな感じだったんですわ。
海老名は後年、北会津郡長や会津町長を務め、妻のリンはキリスト教に入信し、若松幼稚園、若松女学校を設立したんだそうです。前記の本は、若松幼稚園の園長さんが出されたもので、残念ながら、原文で載っているのは海老名が欧州へ出かけたときの日記の一部だけ。残りは口語訳っていうんでしょうか、一般にわかりやすい、ですます調に直してあって、ちょっと面食らうんですが、ありがたい本です。

海老名家は、代々軍事奉行を務める家柄で、本来は江戸詰めであったそうです。それで、会津には屋敷がなかったとか。
しかし、李昌は会津で生まれました。長男です。
三歳の時に天然痘にかかり、なんとか一命はとりとめましたが、その後遺症から病弱でした。
6歳のころ、お向かいの家で漢文を学ぶようになりましたが、先生のところで、孝経を開いたとたんに気を失って倒れ、学問はいやだ、と思ったんだそうです。
しかし、成長するにしたがい、李昌はたくましくなり、学問、武術ともにすぐれ、お小姓にとりたてられたりもしました。
十代のころには、父の勤務にしたがって蝦夷地に行き、やがて単身で京都勤番。禁門の変の活躍で取り立てられ、会津へ帰って家督を継いだ後、再び京都へ出て、大砲組組頭となります。
そして慶応2年の11月(旧暦)、横山常忠とともに、徳川民部公子のお供で、パリへ行くことを命じられたのです。

横山家は知行千三百石、代々家老職の家柄でした。
常忠は江戸で生まれ、幼い頃に父を亡くし、祖父の跡継ぎと定められます。
江戸表奏者番見習いとなって、11歳で藩主にお目見え。
文武修業で優秀な成績を収め、19歳で祖父の跡を継ぎ、当主となります。
20歳で京都勤番、21歳で海老名とともにパリ遊学を命じられました。

海老名によれば、11月に命令が出て、12月に出発です。
二人とも、漢学では非常に優秀で、家柄と相まって選ばれたみたいなんですが、フランス語どころか、英語もオランダ語も、まるで学んだことがなかったようなのですね。
当然、さっぱり言葉がわかりません。
だというのに、です。パリに着いてしばらくすると、幕府使節団の外国奉行組頭・田辺太一に、会津の横山、海老名と、唐津藩(藩主・小笠原長行)からただ一人参加していた尾崎俊蔵が呼び出され、「公子は別の旅館にお移りになる。君たちは、これを機会に勝手にしなさい」と申し渡されたのだとか。
海老名は、「約束がちがう」と腹立たしかったのですが、その方が自由に遊学できるかもしれない、と思い直し、メルメ・カションを師にして、フランス語を詰め込みました。
メルメ・カションは、カトリックの宣教師で、長く日本にいて、非常に日本語が達者です。
在日時の実績から、幕府使節団の正式通訳になれると踏んでいたところが、思惑がはずれ、へそをまげていました。「利と名をむさぼる事はなはだしい」と海老名は評していて、好ましい人柄ではなかったようですが、日本語能力はすぐれていますから、速習教師としてはよかったようです。

海老名はかなりの堅物だったみたいでして、産業、軍事、政治、社会、産物などなど、そんな記事がほとんどです。
「人は富める者でなければ貴ばれないので、貧者はどうしようもなく一生苦役をし、筋骨が衰えれば老院に入るばかりです。私ははなはだ気の毒に思います」
あー、花のパリで! まじめです。誉めているところは、以下。
「人々は善行を誉める風習があります。事を秘密にすることは更にありません。政府も同様です。新事ができれば新聞紙に書き、政治堂に人を集めてその事を説き聞かせます。異議があればねんごろに論争した上で実施します。事によりすでに起きたことは後で人にこうであったと説いて知らせます」
ほんとーに、まじめです。

7月からは、欧州各国をまわります。これが、二人でまわったものなのか、唐津藩の尾崎もいっしょだったのか、そこらへんがよくわかりません。カションに語学を学んだときには、尾崎もいっしょだった、と書いているんですけど。
会津の二人は、和装の写真しか残ってないようなのですが、尾崎は、和装と洋装と、二枚の写真を残しています。それ以外、尾崎についてはさっぱりわかりませんので、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、冷たい幕府使節団も、会津の二人が欧州をめぐるにあたっては、各国政府への紹介状を出してくれたんだそうです。
スイスでは、初めての日本人だというので、国賓待遇でした。イタリア、バルカン半島、ブルガリアかと思われる東欧の国、オーストリア、ロシア、プロシア、オランダ、ベルギー、イギリス。
これだけの国をかけめぐったんですが、オランダでは、こうしるしています。
「長州をうちて勝利を得たる軍艦帰り祝う。余、朝敵なれども同国のことなれば身を潜め見るにしのびず」
そうなんです。長州の方が、朝敵だったはずでした。
しかし、二人がフランスから帰国の途についた11月、故国では、事態が急展開していました。

海老名は、帰国早々、鳥羽伏見を戦い、戦傷を受けます。
横山主税は、若年寄となって白河口で総軍を指揮。一度は防戦に成功しますが、新政府軍の反攻で、乱戦の中、戦死。数えで22歳の若さでした。


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モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1

2007年03月16日 | モンブラン伯爵
あー、やっと確定申告がすみました。で、いきなり、なんですが。
もしかしてモンブラン伯爵は、明治大帝が初めてあった外国人であったのか?
と、思えてきたりしまして。
確証はありません。ありませんがしかし……。

『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』

講談社

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リーズデイル卿、アルジャーノン・バートラム・ミットフォードは、幕末の日本に駐在したイギリスの外交官です。
幕末の駐日イギリス公使は、オールコックからパークスに引き継がれまして、維新当時はパークスです。
ミットフォードは、そのパークスの下にいまして、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)、京都の御所で、パークスとともに、明治天皇にお目にかかっているのです。

そもそも、です。王政復古のクーデター(慶応3年12月9日)は、兵庫(神戸)開港式典(12月7日)の二日後です。
兵庫(神戸)開港と同時に、大阪にも外国人居留地を設ける、という話になっていまして、大阪城のそばに居留地ができようとしていました。
つまり、駐日外交官は神戸に集結していまして、その目の前で、維新回天の動乱はくりひろげられたわけです。
鳥羽伏見の戦いの後、これまで一度も外国人と接したことがなかった西日本各藩の軍が関西に集結し、外国人殺傷事件が多々起こるんですが、維新政権としましては、です。それをふせぐ意味からも、また、欧米各国に新しい政権を承認させる必要からも、明治天皇の各国公使接見が急務となったんですね。

しかし、京の公家たちはもめました。それはそうでしょう。外国人を京都に近づけたくないと、兵庫開港もなかなか実現しなかったんです。それが、「禽獣のような」外国人が千年の都へ押し入り、帝のおそばに近づこうというのです。いったい、なんのための維新だったのか、と、いうことになるんです。わけても、宮中の女性たちにとっては。
もっとも強く反対したのは、明治天皇のご生母、中山慶子であったといいます。

そんな反対をねじふせて、明治元年3月23日(慶応4年2月30日)、フランス、イギリス、オランダ3公使の接見となるんですが、鹿鳴館と伯爵夫人に書きましたように、イギリス公使パークスは暴漢に襲われまして……、いえ、暴漢ではなく志士ですね。維新回天がなったかと思えば帝が「禽獣のような」外国人に会われるとは、政治的ではなかった、純粋な尊攘檄派の志士にとっては、裏切り行為です。

まあ、ともかく、その日の接見は、フランス、オランダ公使のみとなり、パークス公使とミッドフォードは、明治元年3月26日(慶応4年3月3日)に改めて接見、となったような次第です。
フランス、オランダ公使の感想については、中山和芳著『ミカドの外交儀礼?明治天皇の時代』で、見ることができます。
次いで、パークス公使の接見は、冒頭の『リーズデイル卿回想録』に詳しいんですが、ともかく、それらを総合しますと、風俗は朝廷風でありながら、西洋の王族の接見と、大きくかけ離れたものではなかったようなのです。


会場は、京都御所の紫宸殿です。
控えの間には、赤と黒の漆塗りの小型の円卓が並べられ、待つ間、茶と菓子(カステラ)とタバコが供されます。
そして、どこからともなく雅楽の演奏が聞こえます。
時間になりますと、衣冠束帯(だと思うんですが)姿の案内人が、公使たちを案内します。
雅楽の演奏は、紫宸殿の縁側に並んだ楽人たちによるもので、ずっと続いています。
紫宸殿の部屋そのものは、とても簡素なのですが、中央に黒い漆塗りの細い柱で支えられた天蓋があり、天蓋の中、左右には木彫りの獅子の像、そして中央、「ゴシック風の椅子」に、明治天皇は腰掛けておられました。

少年帝は、お歯黒、化粧をされていて、白い上位に赤くて長い袴姿、とありますから、お引き直衣でおられたんですね。
ミッドフォードによれば、「このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並たいていのわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた」のだそうです。
公使たちが入場すると帝は立ち上がられます。
「彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった」
日本側の廷臣はみな「ひざまずいて」いましたが、公使たちは立ったままで、深々と礼をします。
公使の挨拶を受けられると、帝が一言二言話されて、おそばの山階宮に文書を渡される。山階宮がそれを読み上げ、通訳の伊藤博文が英語でその内容を伝える、という順序だったようです。
しかし……、今気づいたんですけど、お引き直衣って……、帝は普段着でおられってことなんでしょうか。うーん。
平安時代のお引き直衣は普段着なんですけど、幕末にはどうだったのか、よくは知らないんですが。

ともかく、です。帝が公式に外国の使節に会われるって、いったい、何百年ぶりでしょうか。
渤海使の接見は、いつが最後なんでしょう? 詳しい方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、あまりにも大昔のことで、前例もなにもないわけでして、とりあえず、各国公使側の希望としては西洋風でしょうけれども、では実際に欧州の皇室、王室は、どのように接見を行っているのか、日本側には、だれ一人見たことのある者はいないんです。
幕府側には、わずかながら経験のある者もあったわけですが、なにしろ、まだ東海道軍が江戸に到達していませんで、戦争はこれから、状態。
公使側に聞くといっても、公使を捕まえて「で、お国ではどんなもんで?」とか、詳しく聞いたら、それだけ相手のペースにまきこまれて、交渉になりませんよね。かろうじて、例えば、イギリス公使館のアーネスト・サトウをつかまえて、さりげなく聞き出す、とか、一応考えられなくもない感じがするんですが、これが、だめなんです。
長く日本にいて、日本語の達者なサトウが、なぜ帝に謁見できなかったか、といえば、自国の宮廷で謁見の経験がなかったからなんですね。
そういう欧州外交官の風習なども、だれから聞き出したものか、と思うのです。

そこで、モンブラン伯爵の登場です。フランスの伯爵にして、ベルギーの男爵。
彼がこの時期、新政府の外交にアドバイスをしていたことについては、かなりの証拠があります。
だったとすれば、「世界の中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎ」で、御簾の中の半神だった少年帝が、西洋風の接見をなさるにあたっても、当然、アドバイスをしたものと考えられるでしょう。
しかし、公使を接見する以前に、モンブラン伯爵が謁見したかどうかについては、まあ、妄想の領域になってしまうんですけどね。ありえたのではないか、と、つい、思ってしまうわけなのです。
で、なぜモンブラン伯爵は、この動乱期の新政府に食い込んでいたのか。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4 に続く時期から、順を追ってお話していこうかと思います。

というわけで、次回に続きます。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4

2007年03月09日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3 の続きです。

少々話が先走りますが、横須賀製鉄所建設に、もっとも猛烈に反発したのはイギリスで、その結果、建設推進の中心になっていたフランス駐日公使レオン・ロッシュは、海軍伝習をイギリスに譲ります。
本来、海軍造船所である横須賀製鉄所と海軍伝習は、セットになってしかるべきものだったのですが、造船、つまり機関関係の伝習のみがフランスで、兵科は、イギリスとなったのです。
イギリス海軍伝習教師団の日本到着は、慶応3年(1867)の暮れで、年が明けてすぐに鳥羽伏見の戦いが起こりますので、実質、ほとんどなにもできませんでしたが、イギリスはなにも、幕府を見放していたわけではないですし、幕府はかならずしも、フランスのみに頼っていたわけでもありません。

当時のオランダは、すでに、イギリスのような世界の海軍強国ではありません。
したがって、イギリスのように、真正面から強引に、幕府に迫ることはできなかったでしょう。
しかし、自国に機材を買い付けにきていた肥田浜五郎が、不満を訴えたとしますならば、からめてからの手助けは、喜んでしただろうと思うのです。

さて、慶応元年(1865)7月、フランスに姿を現した柴田使節団です。vol2で書きましたが、この使節団の目的は、横須賀製鉄所に必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入することです。

『日本・ベルギー関係史』

白水社

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この本によりますと、柴田日向守剛中は、香港で、在日経験のあるドイツ人から、ベルギー政府が日本と通商条約を結ぶ用意をしていると、知らされています。
使節の派遣は、すでに前年の暮れに決まっていて、オーギュスト・トキント・ド・ローデンベークが全権公使に任命されていたのですが、実際に来日したのは、この年の暮れです。
このトキントが来日するにあたっては、以前に日本公使を務め、当時は中国公使だったイギリスのラザフォード・オールコックが幕府に斡旋し、また横浜に到着したトキントを江戸に案内して、幕府に条約提携を口添えしたのは、オランダ公使だったのです。

シャルル・ド・モンブラン伯爵の両親は、フランス人です。
そして、モンブラン自身も、この本によれば、生涯、フランス国籍であったようです。しかし、彼の弟二人はベルギー国籍をとっていますし、6000人の領民がいたという領地インゲルムンステルは、ベルギーにあります。

はっきりはしないのですが、モンブラン家は、南フランスの旧家だったようです。
モンブラン伯爵の父親は、1835年に、ベルギーのインゲルムンステル城と男爵の称号を譲りうけ、フランスにおいてはモンブラン伯爵、ベルギーにおいてはインゲルムンステル男爵という二つの称号を持ち、1861年(文久元年)死去。同時に、長男のシャルル・ド・モンブランが、双方を受け継いでいるのです。

ところで、ベルギー王国は新しい国です。
歴史的経緯はいろいろとあるのですが、成立は1831年。つまり、モンブラン家がインゲルムンステル城主となる、わずか4年前のことなのです。
それでいったい、シャルル・ド・モンブラン伯爵の帰属意識がどうであったのか、私にはちょっと想像がつき辛いのですが、モンブラン家の伯爵の称号は、あるいは、自由主義的な7月王制(オルレアン家。この当時、オルレアン家はイギリスに亡命)期に受けたものではないか、という情報をいただいたりもしていまして、だとするならば、ナポレオン三世の宮廷に帰属意識は薄かったのではないか、とも思ってみたりします。
宮廷はともかく、どちらの国に、ということなのですが、フランス人としての意識は、強かったでしょう。両親がフランス人で、パリで生まれたわけですし、もちろんパリに邸宅を持ち、おそらくは教育も、パリで受けているのですから。
しかし、国家となるとどうなんでしょうか。経済的な基盤はベルギーにあるわけです。
おそらく、国籍はほとんど意識していなかったのではないのでしょうか。
そしてまた、モンブランと親交のあったロニーが共和主義者で、父親を追放した帝政に反感をもっていたらしいことは、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で見ました。
フランス人であるという意識と、時のフランス政府の対日政策を支持するかどうかは、また別の問題でしょう。

ともかく、柴田日向守に近づいたモンブランは、まず、ベルギーとの通商条約締結を勧めます。
この時点で、柴田がモンブランに怒りを覚えた様子はないのですが、9月22日(「仏英行」8月3日)になって、突然、柴田はモンブランに怒りを覚え、「このベルギー貴族は愚物でイカサマ師」であると思ったようなことを、日記に記しているのです。
この時期、五代友厚と薩摩藩家老・新納刑部などの一行は、すでにモンブランのベルギーの居城を訪れていて、引き続きブリュッセルに滞在し、ベルギーと薩摩の商社設立契約などを話あっています。
その一行を置いて、モンブランはパリの柴田のもとを訪れているわけで、柴田がいったい、なにを言われて激怒したのかわからないのですが、私にはどうしても、横須賀製鉄所に関係することだと思われてならないのです。
といいますのも、肥田浜五郎は当時、柴田のもとで技術者雇い入れ、機材買い入れの責任者となっていたフランス人のヴェルニーと、機材の選択や造船所の設置場所で、激しく言い争っていたのです。
横須賀製鉄所の所長がフランス人ではなく、日本人の肥田浜五郎であれば、技術者にしろ機材にしろ、オランダ、イギリスの食い込む余地は、出てくるでしょう。
日本人・肥田に指揮をとらせるべきである、そうでなければ、例えば横浜の英字紙が書いたように、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」ようになる、と、モンブランが力説したのだとすれば、どうでしょうか。
五代や新納にしましても、とりあえずフランスの幕府支援がくずれるならば、果たしてオランダとイギリスが幕府の製鉄所建設にどれほどの援助をするかは未知数ですし、それにこしたことはなかったでしょう。

オランダ、イギリスの思惑は、あわよくば、フランスの融資をはずし、計画をのっとることも、視野に入っていた可能性があります。
しかし、両国が前面に出て邪魔をしたのでは、外交問題になります。これに、ベルギーも一枚かませるということで、モンブラン伯爵に交渉がもちかけられたのでは、なかったのでしょうか。
モンブラン伯爵はフランス人なのですから、いい隠れみのです。
しかし、ヴェルニーは非常に誠実な人柄の技術者であったらしく、柴田日向守は、深く信頼をよせていました。
さらに、フランス側では、銀行家で富豪のフリューリ・エラールが、対日貿易を取り仕切ることになり、全面的な金融協力を形で見せていたのですから、端からモンブランが口を出せば、詐欺師にも見えかねません。現実には、モンブランの陰にオランダ、イギリスがいて、融資が可能だったのだとしても、です。
またフランス政府が、モンブランの策動に気づいていたとすれば、当然、モンブランに対する非難を、柴田日向守の耳に入れるでしょう。

が、この問題にオランダとイギリスが噛んでいたのだとすれば、五代はもう一枚、したたかだったのではないでしょうか。
この時点で、グラバーやオリファントなど、イギリス人は個人として、薩摩藩に好意的な動きをしています。しかし、イギリス政府そのものが、交易相手として、幕府よりも薩摩藩に好意的だったわけではなく、フランスにいたっては、まったく相手にしていません。
ベルギー人にしてフランス人、というモンブラン伯爵は、薩摩にとって、願ってもない味方になりうる、と、五代は踏んだのでしょう。
2年の後、このとき五代が打った布石は見事に生き、パリで薩摩藩は独立国であるかのようにふるまうことに成功し、小栗上野介が企てた起債をつぶします。

ちなみに、明治新政府の最初の大仕事は、横須賀製鉄所の接収でした。
資金は結局、イギリス系のオリエンタルバンクからの融資でまかなわれますが、利子が高かったため、次いでオランダ系銀行の融資があてられます。
そして、所長には、長州からの密航イギリス留学生だった山尾庸三が、ただちに座るのです。
山尾は、伊藤博文や井上馨とともにイギリスへ渡った、いわゆる長州ファイブの一人です。四国連合艦隊が長州を攻撃するという話を聞き、伊藤と井上が慌てて帰国した後も、山尾を含む三人の長州人が残っていたのですが、馨薩摩藩留学生がイギリスに到着したことを知り、訪れて友好を暖めます。いまだ薩長連合はなっていませんが、密航ですし、異国の地で、心細い思いを噛みしめていたのでしょう。薩摩留学生たちとちがって、ろくに留学費をもらっていなかったのです。
やがて山尾は、グラスゴーへ造船を学びに行くことになります。旅費にも窮し、薩摩留学生のカンパによって、やっと旅立つことができました。
おそらくは、薩摩留学生とともに横須賀製鉄所設立の話を聞き、造船を実地に学ぶ決意をしただろう山尾にとって、横須賀製鉄所接収と所長就任は、宿願が実った瞬間では、なかったでしょうか。

しかし、ヴェルニーと技術者の多くは、当面、そのまま留まりましたし、そのおかげで、フランスの海軍造船学校へ、優秀な留学生を送り出すこともできました。
つまり、山尾が上にかぶさってみても、フランス人が主導した横須賀製鉄所の運営と伝習は見事で、口を出す余地は、あまりなかったのです。
横須賀鉄工所は、やがて横須賀海軍工廠となり、日本海軍の造船技術を育み、花咲かせたのです。
幕末、フランスの造船技術が体系的に伝えられたことは、近代日本の造船に多大な貢献をしたわけでして、小栗上野介の英断は称えられてしかるべきでしょう。

現在、横須賀にあるヴェルニー記念館には、ヴェルニーと小栗上野介の像が建てられているそうです。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3

2007年03月08日 | モンブラン伯爵
一日あきましたが、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2 の続きです。

島津久光は、勤王家で、開国論者です。
開国論者なら、なぜ生麦事件を起こしたか、ということなんですが、これは久光にしてみれば、攘夷を実行したわけではないのです。
日本では大名行列に敬意を表することになっているのだから、郷にいらば郷に従えよ、無礼者! ということなのです。
実際、アメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、友人への手紙にこう記しています。(『古き日本の暼見』有隣新書)

その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです。

また、幕府のイギリス留学生で、後に駐英大使になった林董の『後は昔の記 他 林董回顧録』によれば、こうです。

友人等は、「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」という。四人は聞き入れずして、「否、此等アジア人の取扱方は、予能く心得おれり。心配なし」とて、8月21日、東海道に出で、終に生麦の騒動を引き起こせり。
予が知れるヴァンリードという米人は、日本語を解し、頗る日本通を以て自任したるが、リチャードソン等よりも前に島津の行列に逢い、直に下馬して馬の口をとり、道の傍らにたたずみ、駕籠の通るとき脱帽して敬礼し、何事なく江戸に到着したる後、リチャードソンの生麦事件を聞き、「日本の風を知らずして驕傲無礼のためにわざわいを被りたるは、これ自業自得なり」

結局、薩摩藩は生麦事件の犯人を罰していませんし、これは、久光の命令だったから、と見た方がいいでしょう。
他の攘夷事件とは、ちょっといっしょにできない面があります。

ま、ともかく、薩摩藩は薩英戦争を余儀なくされ、受けて立つんですが、実は、その準備に、アームストロング砲を購入しようとしているんです。自藩の大砲がすでに旧式であることは、認識していたんですね。
それを知った駐日イギリス公使館は、慌てて輸入を差し止め、結局、薩摩はアームストロング砲を買うことができなかったのですが、もうなんといいますか、オランダに据え付けてもらった砲でオランダ船を攻撃した長州といい、なにを考えていたのか、という気がします。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書きましたように、薩摩は島津斉彬の時代から、造船には非常に力を入れ、帆船ですが軍艦を幕府に献上したり、蒸気船の建造にも成功していたのですが、当時の欧米の造船は日進月歩。
莫大な費用をかけ、手探りで造船に取り組んでも、一つの藩でできることは限られていますし、欧米の軍艦に太刀打ちできるようなものは、できなかったのです。
佐賀藩もまた、熱心に造船に取り組んでいましたが、自藩での造船をあきらめ、造船のためにオランダから買い込んだ機材を、幕府に献上したため、それをどう使うか、ということで、石川島や横須賀の新しい製鉄所の話が持ち上がっていたようなわけでも、ありました。

つまり、結局、です。
自国の独立を守るため、海軍力、軍事力を強化するには、開国通商により、当面、欧米から軍艦、武器を輸入し、大々的に技術導入をはかるしかない、ということが、はっきりしてきていたんですね。それも、一藩でできることは、限られています。
佐賀藩は、とりあえず自藩の技術力、軍事力を高めることに全力を尽くし、対外的な軍事力増強という面に関しては、幕府に協力する姿勢を示していました。
国内的なもめごとは、外国を利するだけと見て、さけて通ることにしていたかのようです。

それで薩摩は………、なのですが、久光が主導していた間、積極的に幕府の改革に乗り出し、また、とりあえずは、朝廷の下に幕府と雄藩が協議する機構を設け、かなり朝廷に重心を移した公武合体をめざしていた、でしょう。
慶喜公と天璋院vol2に書いたのですが、薩英戦争後ただちにイギリスと和睦し、8.18クーデターで、朝廷における長州の主導権をひっくりかえし、参与会議の開催にこぎつけます。
で、参与会議が紛糾したのは、攘夷か開国か、ということでして、行きがかり上、幕府が横浜鎖港を唱えていて、本来開国派の一橋慶喜が、横浜鎖港に固執し、島津久光を筆頭とする開国派諸侯と、衝突したんです。
しかし、一つだけ、決まっていたことがありました。長州藩に制裁を加える、ということです。
慶喜の暴言に怒った久光は、ついに西郷隆盛の復権を認めて、幕府と一線を画すことに決め、薩摩へ帰りますが、なんのために帰ったかといいますと……、長州処分の派兵準備をするためです。長州処分には、幕府以上に熱心だったんです。
原因は、加徳丸事件です。

『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』

中央公論新社

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以前にもご紹介したことのある、一坂太郎氏の著作ですが、『第3章 堕落する「志士」』に、詳しい事件の経緯が載っています。
グラバーは坂本龍馬の黒幕か? では、グラバーの求めに応じて、「薩摩藩は、御用商人の浜崎太平次に、大阪で綿花を買い集めさせ、長崎に送ろうとしたのですが、長州の上関で、この薩摩商船加徳丸を長州義勇隊員が襲撃し、薩摩商人を殺害した上で、積み荷も船も焼き捨てた、という事件」と書いたのですが、一坂氏によれば、義勇隊員がしたことかどうか、はっきりしているわけではなく、しかも、実は8.18クーデターを怨んでのことで、攘夷気分に乗って、薩摩藩を悪者に仕立てたのは、久坂玄瑞を中心とする長州の「志士」たちの策略であった、ということなのです。

薩摩藩の船に対する長州尊攘檄派の攻撃は、加徳丸が最初ではありません。
政変があった後の文久3年(1863)暮れ、薩摩藩が幕府から借用して交易に使っていた長崎丸が、下関で砲撃されています。美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きましたが、前田正名の兄は、長崎丸の釜焚をしていて、殺されました。
このときは、長州藩が慌てて薩摩に使者を送り、丁寧に詫びたので、島津久光は、むしろ激高する藩士をおさめる側にまわりました。
ところが、それから2ヶ月もたたないうちに、上関で加徳丸事件が起こったのです。
そこで、長州藩の策謀なのですが、一坂氏のご解説では、こうです。
「先手を打って、できるだけ人目につくところで犯人に派手に責任をとらせ、世間の同情を先に長州藩に集めてしまう。さらにその際、焼き討ちの理由を、薩摩藩が行っていた密貿易に対する義憤だったと公表する。そうなると、今度は薩摩藩が苦しい立場に置かれ、一石二鳥である」
実は、犯人はわかっていなかったようなのですが、「だれか名乗り出て藩の窮状を救え」ということで、義勇隊士二人を選び、時山直八、杉山松介、野村靖の三人が、自殺を強要したのだというのです。二人はびっくりして、「それなら薩摩藩邸に身柄を引き渡してくれ」というのですが、切腹しないのならば殺す、とまで迫られ、逃げるのですが、品川弥二郎と野村靖に追いかけられ、つかまったあげくに、二人の自決は藩政庁の命令とされてしまい、やむなく従います。

なんともやりきれない話ですが、この長州の工作は、大成功をおさめるのです。
薩摩商人の首が斬奸状とともにさらされ、その前で、二人が切腹しているところを見て、攘夷気分にひたっていた当時の人々は、二人の正義感を信じ、殺された薩摩商人に同情しようとは思わなかったのです。
これは、島津久光が怒るのも無理はないでしょう。
しかし、参与会議では、一橋慶喜が攘夷よりの姿勢を見せ、しかも、この時点において、幕府は長州処分に消極的だったんですね。
とりあえずの久光の気分は、割拠、だったのではないでしょうか。

禁門の変、四国連合艦隊による下関砲撃、双方の敗北で、長州藩は、藩としての単純攘夷は捨てます。
第一次長州征討があって、そして高杉晋作の功山寺挙兵で、長州も割拠の趣を見せるようになります。
なにより、長州が単純攘夷を捨てたことで、薩摩は長州との提携を視野に入れるようになりました。
ちょうどそのころ、幕府の横須賀製鉄所建設が決定をみます。
この噂は、多方面から薩摩に入ったはずです。
まずはイギリスとオランダ。そして、幕府の中の横須賀製鉄所建設反対派から。
ちなみに、肥田浜五郎は、オランダへ出向く以前、勝海舟が主導した、幕府の神戸軍艦操練所で教授をしていました。
これは、築地にあった幕府の軍艦操練所とは方針がちがい、他藩士も多くとることにしていましたので、一応、薩摩藩士も通っていたのです。

横須賀製鉄所建設を決めたのは、幕府勘定奉行の小栗上野介ですが、その下には、勝とともにオランダ海軍伝習を受け、咸臨丸の太平洋横断時には、実質艦長の役目を務めた小野友五郎がいました。
この人は陪審の出身で、もともとの身分が勝より低かったため、当初は勝の下に立たされましたけれども、もとが天文方で、総合的な近代海軍技術導入については、勝つよりもすぐれた見識を持ち、それだけに勝とは対立していました。
咸臨丸渡米後、小野が海軍に残り、勝ははずされるのですが、勝が海軍に帰った時点で、小野は勘定方にまわったような次第だったのです。

そんなわけで、勝海舟周辺から、横須賀製鉄所建設の話は、薩摩に入った可能性もあり、イギリス、オランダにしろ、勝にしろ、「フランスの野望」を強調した情報となっていたと、推測できるのです。
後年の回想なのですが、「横須賀のことか何かで、ついにイギリスとフランスといくさをしかかったというようなこともありました」と、グラバーは述べています。
また、横浜で刊行されていたイギリス系の風刺雑誌には、「タイクンとその家臣たちとは今後フランスの臣下とみなされる」といったような記事が、載るようになろうとしていたのです。
その情報を受けた薩摩としては、一方に、思うにまかせない自藩海軍力の増強、という現実があるわけでして、あるいは薩摩藩首脳部の一部は、将来に、朝廷のもとでの中央集権までも、想定したのではなかったでしょうか。
対外を考えるならば、なによりも増強すべきは海軍なのです。
しかし、海軍には莫大な費用がかかり、また技術導入も一藩では容易に進まず、幕府海軍との格差は、ひらくばかりでした。

薩摩藩が、五代友厚の献策を入れて、イギリスへ密航留学生を送り出すことにしたのも、幕府の大がかりな、横須賀製鉄所建設を知ったことによるものと思われます。
現実に、薩摩密航留学生の中で、海軍関係の勉学を積んだのは、アメリカに渡って、維新後にアナポリス海軍兵学校に入ることができた松村淳蔵のみですが、それは結果論であって、最初は大多数が、海軍関係の勉学を志していたのです。
そんな薩摩が、オランダにいる肥田浜五郎や、幕府の留学生に、連絡をとろうとしなかったとは、ちょっと思えません。前回書きましたように、五代にしろ、寺島宗則にしろ、知り合いは多いのです。
といいますか、オランダの海軍大臣カッテンディーケは、在日時、当時の藩主、島津斉彬に招かれて、薩摩を訪問しています。

つまり、肥田浜五郎のモンブラン接近と、五代友厚の肥田浜五郎への接近が交錯し、フランスの全面協力による横須賀製鉄所建設反対、という点においては、五代と肥田は一致しますので、肥田浜五郎から、あるいはオランダ海軍関係者から、五代に、モンブラン伯爵が紹介されたのではなかったでしょうか。

というわけで、さらに続きます。おそらく、次回で終わるでしょう。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2

2007年03月06日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1 の続きです。

モンブラン伯爵は、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きましたように、安政5年(1858年)、フランス全権使節団の一員として、来日します。学術調査(おそらくは地理学)員でした。このときの在日期間は、40日間ほどだったのですが、文久2年(1862)、今度は一旅行者として、横浜を訪れました。
宮永孝氏の論文では、同年のうちにフランスへ帰国、となっているのですが、これは、帰国時にモンブランが伴った日本人、斉藤健次郎(ジラール・ド・ケン)が、文久2年にフランスへ来たと話していたと、記録に残ったりしているからでしょう。
斉藤健次郎の写真は、東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 幕末の遣欧使節団 4.幕府オランダ留学生 で見ることができます。
って、オランダ留学生じゃあ、ないんですけどね。ほかに分類できなかったので、ここに入ったみたいです。

ただ、これはどうなんでしょう。密航ですし、かならずしも、ケンが正確なところをしゃべったとも思えないんですね。
といいますのも、文久2年(1862)3月(陽暦4月)、フランス入りした日本初の遣欧使節団の前に、モンブラン伯もケンも、姿を現していないのです。奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で書きましたように、モンブラン伯と親交の深かったロニーが、接待役を務めていたにもかかわらず、です。
したがって、モンブラン伯がケンを伴って帰国したのは、もし文久2年だったにしても、使節団が欧州を離れた9月以降のことではないか、と考えられます。

さて、モンブラン伯とケンが日本人の前に姿を現すのは、元治元年(1864)3月、池田使節団がフランスを訪れたときです。
この池田使節団、そもそもの渡欧目的が、横浜鎖港を交渉する、という実現不可能なものでして、幕府の役人にもそれくらいのことはわかっておりましたので、一応交渉はしました、と、朝廷に言い訳するための生け贄のような、気の毒な使節団でした。
さらに、前年に横浜でフランス士官が浪人に斬り殺された事件や、長州藩が下関でフランス船を砲撃して水兵4人を殺した事件や、ともかくそんな、言い訳もしづらい事件を謝罪しつつ………、なのですから、気の毒もいいところ、です。

で、この池田使節団なのですが、フランスで「秘密条約」なるものを結んでいまして、それが「下関における長州の外国船砲撃を防ぐため、幕府が航路を警備するのであれば、フランス海軍はそれを助ける」というものでした。これを後世、尾佐竹猛氏が「フランス海軍の指揮下に幕府が長州征伐をする」というような文脈で解釈なさり、昭和初期の排外思想の中で、「外国軍隊を引き入れて植民地化の道をひらく危険な条約だった」ということになったのですが、どんなものでしょう。

現実問題、この時期、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊が、報復のため下関を攻撃する、という話が持ち上がっていました。池田使節団帰国後、現実にそうなるのですが。
長州藩が勝手に外国艦船を攻撃したこと自体、対外的な幕府の威信が地に落ちた事件でしたが、その報復のために、外国艦船が勝手に長州藩を攻撃するとなりますと、今度は国内的に、幕府の威信は底をつくわけです。
長州藩は、外国艦船だけではなく、外国と交易しているという理由で、薩摩の交易船、長崎丸、加徳丸も攻撃して、乗組員を殺傷していたのですから、日本が統一国家だというのならば、瀬戸内海航路の安全確保は、時の政府である幕府の役目です。
したがって、むしろフランスの提案は、「日本政府に役目を果たす気があるのならば、顔を立てて、われわれは支援にまわりますよ」というものであって、植民地化がどうの、という話ではありません。
むしろ、幕府が動かないのならばと、四国連合艦隊が下関を攻撃した結果、伊藤博文の後年の談話では、ですが、イギリスが彦島租借を持ち出した、というような話にもなっているのです。

筋道から言うならば、幕府は四国連合艦隊の出動を押さえて、自ら長州を攻撃するべきだったでしょう。
ただ、日本国中で攘夷気分が盛り上がっていましたし、長州の宣伝工作は巧みでもありましたので、実際問題としては、幕府がコーストガードにせいを出すにしても、フランスのいうように外国船の力を借りたのでは、反幕気分を高める材料にしかなりません。
そんなわけで、帰国した使節団の主立った面々は、蟄居、閉門、免職などの処分を受け、幕府は使節団がパリで結んできた条約を破棄しました。
それまで、下関攻撃参加を見合わせていたフランスも、これによって、イギリスの主導に従い、攻撃に参加することを決めたのです。

で、ですね、昭和初期の講談では、大筋、日本の植民地化をねらったフランスの野望に従い、モンブラン伯爵が横浜で暗躍して幕府の役人をたらしこんだ、というようなことなのですが。
池田使節団を送り出すについては、ときの駐日フランス公使ベルクールが幕府に助言したようですし、モンブラン伯は、このベルクールとは関係がよかったのではないか、という感じがするにはするのですが、当時、モンブラン伯は日本にいません。
あるいは、書簡でベルクールからの依頼を受けて、「秘密条約」提携を、説得したのかもしれないんですけれども、統一国家の政府として幕府が果たすべき義務を説いたのだとしましたら、「暗躍」というようなものなんでしょうか。

さて、あきらかにモンブラン伯の「暗躍」があったのが、翌慶応元年(1865)7月、フランスに現れた柴田使節団にからんで、です。
柴田使節団渡仏の目的は、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1において書きましたように、前年の暮れに横須賀製鉄所の建設が決まりましたので、これに必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入すること、でした。
その柴田使節団がリヨンに到着したとき、オランダから駆けつけた肥田浜五郎が出迎えたのですが、そのそばには、ジラール・ド・ケンがいました。
これは、です。肥田浜五郎は、使節団を出迎える前に、モンブラン伯爵と会っていたのではないか、と、考える方が自然でしょう。

肥田浜五郎は、石川島造船所のために、オランダで機械類の買い付けをしていたわけなのですが、石川島造船所整備計画が中止となったことを知らされ、さらに、すでに買った機械類を持ってフランスへ行き、柴田使節団を補佐するよう、幕府からの命令を受け取っていたのです。
これが、肥田浜五郎にとって、不満でなかったはずがないでしょう。
横須賀製鉄所の所長は、すでにフランス人のヴェルニーに決まっていましたし、その下の技師たちも、みなフランス人を雇う予定です。この大がかりな横須賀製鉄所計画において、オランダ人から学んだ肥田は、よそ者になるのが目に見えています。
石川島のこじんまりとした造船所で、肥田は所長として、すべてを取り仕切る予定だったのです。
そして、滞在先のオランダ政府も、フランスのこの計画に反発しています。
当時オランダは、榎本武揚を中心とする海軍関係者のほか、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?に出てきます、政治学を志した西周や津田真道など、幕臣の留学を受け入れていました。
このときのオランダの海軍大臣は、海軍伝習の教授として来日した経験のある、カッテンディーケで、彼は一時、外務大臣もかねていました。つまり彼は、教え子たちと日本に、親近感と期待を持っていたと察せられるのです。

この時点で、そんなことが可能だったかどうかはわかりませんが、フランスの提案を変更させ、日本人を所長にし、フランスからの技術提供は部分的なものにできないか、というような画策を、オランダが考え、肥田に持ちかけた、あるいは肥田からカッテンディーケに持ちかけた、としたら、どうでしょうか。
その画策のために、肥田をモンブランに紹介したのは、オランダ海軍関係者であったのではないか、と思うのです。おそらくはモンブラン伯爵はフリーメーソンか? で書きましたような、フリーメーソンのネットワークを使って、です。

ところで、柴田使節団がフランスに姿を現す2ヶ月ほど前、イギリスのロンドンに、薩摩藩密航留学生の一行が、到着していました。そして1ヶ月後、ロニーとケンが、一行に会うため、ロンドンへ姿を現します。これは従来、モンブラン伯爵の方から、薩摩藩への接近を試みて派遣したもの、とされているのですが、果たしてどうでしょうか。
一行の中心にいたのは、五代友厚と寺島宗則(松木弘安)でした。
そして、五代は長崎のオランダ海軍伝習に参加していて、肥田浜五郎や幕府のオランダ留学生とも知り合いでしたし、寺島は、幕府の蕃書調所教授でしたので、やはり蕃書調所にいた西周、津田真道と知り合いですし、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、ロニーとはすでに懇意だった上、柴田使節団のメンバーにも、けっこう知己がいたのです。といいますか、柴田日向守自身、文久2年の使節団に加わっていた人です。
オランダとともに、フランスの横須賀製鉄所計画を快く思っていなかったイギリス。
薩摩藩密航留学は、イギリス商人グラバーの手助けでなされているわけでして、これまで、幕府に武器や中古蒸気船を売っていたグラバーにとっても、当然、快くはなかったわけでしょう。
それではいったい、五代友厚と薩摩藩はなにを考えていたのか………。

ということで、また、明日に続きます。


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モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1

2007年03月05日 | モンブラン伯爵
今日はちょっと覚え書きに近いんですが、幕末のさまざまな動きに、「海軍」というキーワードを持ってくると、けっこう話が見えてきたりします。

幕末の黒船騒動で、最初に敏感に反応したのは、雄藩大名だったんですけれども、水戸斉昭、島津斉彬、鍋島閑叟などは、まっさきに、造船に取り組んでいます。
すでに、それぞれの藩で、海軍力のなさを痛感した事件があったからです。
水戸の場合は、大津浜事件。文政八年(1824)、常陸大津浜に、イギリスの捕鯨船員が勝手に上陸し、食料や薪水を要求した事件で、大騒ぎになりました。
薩摩は、支配下の琉球に、天保15年(1844)、フランス軍艦が現れ、開国要求をして以来、琉球や西南諸島で、たびたび黒船騒動が起こっています。
佐賀の場合は、少々古いんですが、文化5年(1808)のフェートン号事件でしょう。
佐賀藩は、幕府から長崎警備を任されていたのですが、イギリスのフェートン号がオランダ国旗をあげて長崎に入港し、オランダ商館員を拿捕して、食料薪水を要求。しかし、港内の船を焼き払う、というイギリス船の脅しに、警備の鍋島藩はなすすべもなく、長崎奉行は要求を呑み、責任をとって鍋島藩家老は切腹しました。

こういった事件を自藩で経験していた雄藩は、海軍力増強、西洋近代兵器導入の必要を痛感し、それぞれに取り組んでいたのですが、幕府、そして藩内保守派が、なかなか動こうとしなかったところへ、ペリー来航です。
さすがの幕府も海軍の必要を痛感し、雄藩の取り組みを奨励するとともに(たとえば水戸藩の石川島造船所)、最初に頼ったのが、古くからつきあってきたオランダです。

まずオランダに、新造機帆小型コルベット2隻(咸臨丸、朝陽丸)を注文し、その軍艦の乗組員を育てるため、安政2年(1855)、長崎オランダ海軍伝習所を開くことになります。
ところで、軍艦を持つということは、その整備、修理を国内でする必要もある、ということです。幕府は2年後に、長崎製鉄所(名前が製鉄所なんですが船舶修理所です)を起工し、文久元年(1861)には完成させていますが、ここの設備機械なども、オランダ製を主としていました。
その後、幕府はいろいろな国の中古蒸気船を買いはするのですが、新造軍艦としては、元治元年(1864)アメリカに富士山丸、そして再びオランダに、フリゲート艦開陽丸発注です。
幕府は、長崎オランダ海軍伝習所において、諸藩からの希望者受講を許しましたので、主に西南雄藩から、多くの受講生が集いましたが、もっとも人数が多かったのは、佐賀藩です。
その佐賀は、オランダに、電流丸(咸臨丸と同型)、日進丸(開陽丸より一足遅くに注文。受取が明治維新後となったため、明治海軍の主力艦となる)という新造軍艦を注文しています。
つまり、佐賀、薩摩など、海軍に力をそそいだ雄藩は、イギリス製造の軍艦をも買いましたが、これらは中古品で、最初から発注して、という形では、オランダのみだったんですね。
これは、オランダにとって、最初に一隻、幕府に軍艦を贈った上で、海軍伝習を引き受けた成果だった、といえるでしょう。
だとすれば、幕府がフランスに横須賀製鉄所(これも製鉄所と言われていますが、海軍船舶整備修理、造船所です)建設をゆだねたことは、オランダにとって、大きな脅威だったはずです。

『横須賀製鉄所の人びと 花ひらくフランス文化』

有隣堂

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あらま、現在すごい値段になってますねえ。暴利です。普通に古書店でさがせば、こんな値段はしないはずです。

えーと、その横須賀製鉄所のお話に入る前に、なぜ、フランスが幕府支援に力を入れたか、です。
フランスは、ちょうどこの時期、ベトナムを植民地支配しようとしていますが、日本への関心は、それとはちょっと、趣がちがうんです。
生糸、シルクです。
横浜開港以来、日本からの輸出の大半は、生糸でした。これには、理由があります。
欧州における生糸の産地は、フランスとイタリアだったんですが、蚕の病気が流行り、生産高が激減してしまったんです。石井孝著『港都横浜の誕生』によれば、嘉永6年(1853 ペリー来航の年)から慶応元年(1865)までに、フランスの生糸生産は、4300万斤から160~170万斤ほどにまで、落ち込んだんだそうです。
フランスにおいて、ファッション産業は、大きな比率をしめています。リヨンではさまざまな絹織物が作られ、その絹織物はパリで最先端のファッションとなり、欧米各国に輸出されていたのです。
フランスにとって、生糸の安定的な輸入は、とても重要なことだったんです。
横浜が開港するまで、欧州に生糸を輸出していたのは、主に中国だったのですが、ちょうど太平天国の乱が起こり、上海の交易が中止となり、開港した横浜の生糸が注目されました。非常に品質もいい、ということで、日本からの生糸の輸出は、フランスにとって、貴重なものとなったのです。

ところが、この生糸輸出、国内的には、いろいろと問題が生じました。なにしろ、輸出生糸の価格は、国内相場よりはるかに高かったものですから、西陣など、日本の絹織物産地に生糸が入らなくなってしまったんですね。
京都の攘夷気分には、そんなことも影響していたため、幕府はさまざまな輸出制限を試みます。
フランスなどは、日本の蚕ならば病気にやられないのでは、というので、蚕種の輸入もはじめるのですが、これにも、一時幕府は制限をかけます。
イギリスなどの商人は、日本の生糸や蚕種をフランスに仲買して、中間利益を得るだけですから、個々の商人の利害でしかなく、あまり政府がかかわるような問題でもなかったのですが、フランスの場合、国内産業の死活問題でした。
そんなわけで、土方歳三はアラビア馬に乗ったか? のアラビア馬なぞ、フランス皇室秘蔵の種馬だったりなんぞしたのですが、ナポレオン三世は、幕府が蚕種紙を贈ったお礼として、奮発したりもしたわけなのです。

ところで、幕府は、築地に軍艦所を設けていましたが、その軍艦を整備する造船所は、浦賀にありました。しかし、これは設備の整っていないものだったので、水戸藩にまかせていた石川島(現在の豊洲)の造船所を充実させ、本格的なものにしようと、元治元年(1864)8月ころ、軍艦操練所教授方頭取だった肥田浜五郎を、オランダへ工作機械の購入と、その使い方の伝習に、行かせました。
肥田浜五郎は、長崎でオランダ海軍伝習を受けた幕臣で、機関方で非常に優秀だったと、オランダ人も誉めています。咸臨丸のアメリカ渡航時にも、機関方の主任となり、帰国後、蒸気機関の製造にも成功をおさめていました。

ところが、です。ちょうどそのころ、か、あるいはそれ以前でしょうか、この年、新しく日本に赴任してきたフランス公使レオン・ロッシュが、幕府が造船所を作りたがっていると知り、横須賀にフランスが造船所を作り、そこで造船に関する伝習も行う、という案を、小栗上野介に提案していたのです。その支払いには幕府領の生糸の売り上げをあてる、というようなことで、非常に具体的な建設案であり、しかも、幕府の見積もりよりもはるかに安い建設費でした。
造船所がフランスの技術によるもので、そこで伝習も行われるとなりますと、将来、フランスへの軍艦注文も期待できます。生糸の安定的輸入とともに一石二鳥で、現実に、フランスは、かなり良心的な建設案を提示したのでしょう。
そこで、幕府は、その年の11月10日、正式にフランスの提案を受け入れたのです。
ただ、支払いには生糸の売り上げをあてる、という話は、自由貿易に反する、というイギリスとオランダの反対で、とりやめになり、フランスの会社が融資の保証に立った、という話もあるのですが、さて、イギリスとオランダの反対って、生糸の売り上げ云々のみの話でしょうか? 

軍艦に武器。日本の輸入品の中で、これは大きな割合をしめていますし、オランダとイギリスは、幕府への軍艦、武器の売り込みで、これまでは、フランスより優位に立っていたのです。
ほんの一年前、長州は下関で外国艦船を砲撃しましたし、薩摩は薩英戦争に至りました。まだこの時点では、欧州各国、売った軍艦や武器が攘夷に使われることを警戒していましたし、取引相手として信頼できるのは、幕府のみです。
このフランスの幕府接近に、イギリス商人たちが猛烈な反発をしめしていたことは、当時、横浜で発行されていた英字新聞にも見られるようですが、国を挙げて軍艦を売り込んできたオランダだとて、そうでしょう。
そして、舞台はフランスに移ります。

というところで、続きは明日。


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岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保

2007年03月03日 | フリーメーソン・理神論と幕末
えーと、本日はもしかして、江戸は極楽である の続きだったりします。
どこが続きかって………、明治4年(1871)暮れから明治6年にわたって、欧米をまわった岩倉使節団における、もめ事の話だからです。幕末維新の天皇と憲法のはざま半神ではない、人としての天皇を で、少しだけ触れましたように、留守政府ももめましたが、使節団ももめました。

もっとも、台風の目は、使節団員ではない、駐米公使(正確には初代少辮務使)森有礼だったんです。
江戸は極楽であるで触れました吉田清成との喧嘩はすさまじいもので、吉田の起債を邪魔するために、あらゆる手をつくし、ついに吉田はアメリカでの公債をあきらめ、イギリスで起債することになります。しかし、森有礼は、イギリスにまで手をのばして、邪魔しようとしたんです。
いえ、あのー、つい数年前、パリで薩摩藩は幕府の起債をモンブラン伯を使って妨げましたし、留学生としてイギリスにいて、ある程度はその経緯を知っているだろう森有礼と吉田清成なんですが、えーと、もう幕府は倒れていまして。
森有礼は明治新政府から派遣された公使で、吉田清成個人が起債しようとしているわけではなく、明治新政府が起債しようとしているんです。
これは、木戸孝允でなくとも、あきれますよね。

木戸が、森有礼に激しい怒りを覚えていたのは、それだけが原因ではないんです。
幕府が欧米各国と結んだ不平等条約の改正は、明治新政府の悲願でした。明治5年(1872)から改正交渉に入ることになっていたため、岩倉使節団は派遣されたのですが、現在では、改正するための国内法の準備が進んでいないので延期交渉をするためだったのではないか、といわれているそうです。
少なくとも、岩倉使節団が、直ちに本格的な改正交渉をするつもりがなかったことは確かなのですが、森有礼は、アメリカ政府はただちに日本側に有利な改正に応じる可能性がある、というような幻想を抱きまして、使節団の伊藤博文は、その説に心酔するんですね。
それで、本交渉をするつもりならば全権委任状が必要だとアメリカ側に指摘され、大久保利通と伊藤博文が日本へ取りに帰り、その間、使節団はアメリカに足止めされます。
しかし、結局、アメリカ側の思惑は、かならずしも日本側の立場に譲歩したものではなく、大久保と伊藤がアメリカに帰りつく前に、交渉は暗礁に乗り上げていました。
森有礼のアメリカ幻想にふりまわされ、しかもそれに子分の伊藤博文が心酔しているとなりますと、まあ、木戸にしてみれば、おもしろかろうはずもありません。
しかも、その心酔の仕方が、です。『醒めた炎 木戸孝允〈4〉』によれば、どうも、「キリスト教を国教にする」という話が中心であったらしいのです。使節団にいた土佐出身の佐々木高行の日記に、「耶蘇教国ならずては、とても条約改正も望みなく、かつ日本の独立もむつかしくと伊藤などは信じたるなり」と、あるんだそうです。

『青木周蔵自伝』

平凡社

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これは、長州出身で、当時ドイツに留学していた青木周三の後年の回顧録なんですが、これを見ますと、佐々木高行が、簡単に記していた問題が、詳しく記されています。
当時ベルリンで政治学を学んでいた青木は、木戸にロンドンまで呼び出されて、質問されたのだそうです。以下、引用です。

木戸翁は予に問いて曰く
「欧米人は何故に彼の如く宗教に熱心なるや。予の如きは、仏教以外他の宗教の真意を知らざるのみならず、従前予等の学問は孔孟(儒教)を主としたれば、仏教と雖も、現世と未来にわたる勧善懲悪の意味以外、果たして別に高尚なる教義の存するや否やも、なおかつ解する能はざるなり。そもそも西人(西洋人)の尊信する宗教は素といかなるものなりや。足下、もし知る所あらば幸いに語るべし」
と。予答へて曰く
「本件たる、ほとんど天地を震動せしむる大問題あり。不肖、欧州に留学せし以来、欧人の宗教に熱心なるを目睹として多大の疑惑を生ぜしにより、某宗教家ついてキリスト教教典の講義を聞き、また、あるインドの学者について多少仏教の教義に関しても聞知する所有り。しかれども未だいづれに関してもその堂奥に達せざるをもって、なんら参考に資すべき説なし」

と、まあ、問答が始まるのですが、要するに、理神論的な宗教を知らない日本人である木戸には、欧米人が宗教熱心であるのが不思議で、「欧米では、宗教にはどういう高級な理論があるといっているのか」と、同じ長州の青木に、聞いたんですね。
後年の回顧録ですから、どこまで正確かはわかりませんが、さすがは松蔭を生んだ長州人の会話です。
この二人のやりとりでわかることは、結局、理神論的な普遍性を持つ一神教的な神、つまりモンブラン伯の日本観に引用しましたシュリーマンのように、ですね、「宗教……キリスト教徒が理解しているような意味での宗教の中にある最も重要なこと」が、文明の根底にあるべきだ、とする欧米人の考え方が、当時の日本の知識人には、さっぱりわけがわからなかった、ということでしょう。
といいますか、現在でも、果たしてわかるんですかね。まあ、知識人ではないんですけど、少なくとも私も、木戸と同じで、さっぱりわかりません。
そして、仏教にしろ、青木周蔵が欧州で勉強した、と言っていますように、日本の仏教は、別に普遍性のある一神教的な神、を呈示するものではありませんし、おそらくインドでも他の地域でも、そういう近代的理念に適合する仏教は、西洋近代に接触した刺激から生まれた、といってもいいんじゃないんでしょうか。といいますか、そもそも西洋人が、発見したものでしょう。
イスラム教については、ユダヤ教とともに、もともと根がキリスト教と同じですので、西洋近代の側でも、理念にくるみやすかったとは思うんですが、それにしても、現実の信仰の形は、その理念をはじくものであった、といえるような気がします。

話をもとにもどします。さらなる木戸の求めに応じ、青木は、キリスト教と西欧文明の関係を、木戸に説明します。青木がごく簡単に要約したものを、ひらたく述べますと、以下です。
「ギリシャ、ローマには一神教が存在しなかったので、物質的には繁栄したが、キリスト教の高尚な理念を理解することなく、堕落、退廃したままで滅んだ。キリスト教が、暗愚だった欧州に光をもたらし、崇神、正心、博愛的な道徳をもって、文明に導いたわけです。仏教というのは、老荘思想(儒教の中で仏教に近いもの)のように巧みな議論のみの虚無的なものではなく、哲学的で、広大無辺の思想です。しかし、バラモン教の輪廻の思想が入り込んでいて、涅槃の境地などというのは、人間の生産的な活動を妨げる趣もあります。したがって、私はキリスト教がすぐれていると思いますね」
青木はこの回顧録を書いたころには、キリスト教徒になっています。もっとも、木戸に話をしている時点では、そうではないのですけどね。

続いて木戸が聞きます。
「しからば足下は、われら日本人もまた、キリスト教を信じる必要ありとするか」
青木の答えの大意は、こうです。
「今現在、かならずしもそう言ってしまうことはできないのですが、白人だろうが黄色人種だろうが、人たるもの、なんらかの宗教を信じる必要があります。学問の要は、理論を極めることであって、それは手段であり、人がよりよく生き、国をよりよく治めるための支柱にはなりません。宗教は必要でしょう」
さらに木戸が問います。
「われわれはアメリカで条約改正を提議したが、アメリカ政府は、日本のような無宗教の国、あるいはキリスト教を信じていない国と平等の条約を締結して、日本の法律や裁判官に、日本にいるアメリカ人を任せるのは危険だと、提議をしりぞけた。有力なアメリカ人にも、条約改正を望むなら日本はキリスト教を国教にするべきだ、と熱心に言う者がいた。それを聞いて、われらの一行の中には、この事情を陛下に申し上げてまず陛下にご入信いただき、高官がみなこれに習えば、国民もすべて改宗するだろう、なんぞと言う者がいるんだが、どう思う?」
青木が答えます。
「もし、本当にそんなことを実行するという話ならば、忠告します。欧州では、キリスト教宗派の争いで、悲惨な内戦を経てきています。その苦い経験から、最近の各国憲法では、信仰の自由をうたっているんです。政略的改宗などといっても、国民がそんなことを納得するはずがありません。内乱が起こります」
この場には、伊藤博文がいたのですが、木戸は、この青木の言葉を待っていたように、「おまえが日頃言っていることと、青木くんのいうことはちがうじゃないか」と、伊藤を怒鳴りつけて怒ったというのです。

この青木の回顧録を読んでいますと、青木の言い分の方がまともですし、理屈が通っているんですが、ほんとうに、ここまで単純に、伊藤博文がキリスト教を国教にしよう、というようなことを言っていたのでしょうか。
青木も、最初の問答では、理神論的な信仰が文明開化には必要だと言っていますし、しかも、その信仰は、キリスト教であるべきだ、というように述べているんです。ただ、それを国教にするとなると問題だ、ということで、信仰の自由の話になるのですが、それくらいの筋道は、伊藤にもわかっていただろうと思うのです。
あるいは伊藤にとっては、宗教は衣装のようなもので、現実に天皇陛下に洋装をお願いし、官員も洋装になったのだから、理神論的な信仰が必要だというのならば、そんなものは日本にはないのだから、キリスト教の導入がてっとり早かろう、という気分で、しゃべりまわったのかも、しれませんね。
この子分の軽薄さが、ただでさえ、森有礼や吉田清成や、無神経に海外で大喧嘩をする薩摩人にうんざりしていた木戸さんにとって、がまんの限界を超えて、癇に障ったのでしょう。

そんなわけで、親分のご不興にむっとした伊藤は、大久保利通になつきます。それがまた、木戸さんの気に障るのですが。
しかし、大久保はなにを考えていたのでしょうか。森有礼のしたことに、もっとも腹を立ててしかるべきは、同じ薩摩人の大久保でありそうなものですが、あまり、そんな様子もみえません。
外交という分野は、これまで、大久保は薩摩藩時代にも体験していませんから、口を出せなかった、というのもあるかもしれませんが、「若者(ニセ)どんの暴走と失敗は成長の肥やし」くらいに、高をくくっていた気がしないでもないんです。実際、後に大久保は、台湾出兵の際の清との交渉に森有礼を使い、見事に成功しています。

そして、キリスト教の国教化の話、ですね。
はっきり言って、木戸は、神経を昂ぶらせすぎだったでしょう。
伊藤博文の説は、森有礼の影響だと思われます。現実に森は、アメリカの有識者に、日本の教育についての助言を求めているのですが、当時のアメリカの有識者というのは、プロテスタントの牧師が多いですし、かなりの人数が、「日本におけるキリスト教の国教化」を提言しているんです。
しかし、いくら伊藤や森が外国で叫んでみても、現実に当時の日本で、そんなことが可能なはずがないんです。
そして、伊藤博文にしろ森有礼にしろ、事の本質を見ていないわけでは、ありません。
むしろ、イギリスの王制がイギリス国教会にささえられている現実を見て、幕末維新の天皇と憲法のはざま半神ではない、人としての天皇を で書きましたように、半神ではなくなった天皇の新しい権威に思をめぐらしていた大久保にとっては、森や伊藤が持ち出すキリスト教の方が、日本的な儒教道徳よりも、はるかに頷けるものだったでしょう。

といいますのも、日本の武家的な儒教道徳は、かならずしも天皇に絶対の権威を約束するものではなかったからです。
例えば、陽明学からきているといわれる、西郷隆盛の「敬天愛人」ですけれども、「道は天然自然のもの、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て、人を愛するなり」とあります。
「人の道の道理というものは、天然自然に存在するものであり、天を敬うことを目的として、行うべきものである。天は、他の人間にも自分にも、同等な愛を与えてくれるものなのだから、自分を愛すると同じように、他人も愛するべきである」というのですから、この西郷が言うところの「天」とは、理神論的な神の概念にかなり近いものではありますし、近代国家の道徳をささえるに十分なものなのです。
ただ、革命は死に至るオプティミズムか に出てきました孟子の言葉に、「民を貴しとなす。社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」とありますように、天皇もまた人の子であられるのならば、天命の下にあり、人の道には従わなければいけない、というのが基本ですから、君主の絶対的権威を保証するものではありません。
現実に、半神ではない、人としての天皇を でご紹介しました小田為綱は、廃帝の規定を考えていますよね。
日本的なキリスト教者を志した内村鑑三が、西郷隆盛に心酔していたのも、ゆえのないことではないんです。
あるいは、日本的な道徳規範として、武士道をアメリカに紹介した新渡戸稲造を想起してもいいでしょう。

「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」という大久保の信念は、イギリス的な王権をささえるキリスト教のかわりに、「万世一系」の国体論に守られた天皇の大権を、という置き換え論から、導かれたものともいえ、それはすでに、森有礼や吉田清成などの欧米体験談から、組み立てられていたのではないでしょうか。

明治21年(1888)5月8日、枢密院における憲法草案の審議において、伊藤博文はこう述べています。
「歐洲ニ於テハ憲法政治ノ萌セル事千餘年、獨リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又タ宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ爲シ、深ク人心ニ浸潤シテ、人心此ニ歸一セリ。然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ國家ノ機軸タルヘキモノナシ。佛教ハ一タヒ隆盛ノ勢ヲ張リ、上下ノ人心ヲ繋キタルモ、今日ニ至テハ巳ニ衰替ニ傾キタリ。神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト雖、宗教トシテ人心ヲ歸向セシムルノ力ニ乏シ。我國ニ在テ機軸トスヘキハ、獨リ皇室アルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ專ラ意ヲ此點ニ用ヒ、君憲ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサラン事ヲ勉メリ」
ひらたくいって、こういうことでしょう。
「欧州においては、憲政に歴史があるとともに、宗教がこの基軸をなしているので、人心がまとまっている。しかし、わが国においては、宗教の力が微弱で、仏教にしろ神道にしろ国家の基軸にはなりえない。わが国の基軸となるのは、皇室しかない。したがって、この憲法草案においては、天皇大権を中心にすえ、これに束縛がくわわらないよう勉めた」

これは、大久保利通が明治6年に意図したところと、ほとんど変わらないでしょう。
伊藤内閣において、森有礼は文部大臣となり、「国家公共ノ福利」を教育の柱とし、国家主義的な教育施策を展開したため、「変節か」といわれたりもしますが、まったくもって、変節ではありません。
キリスト教の理神論的な神のかわりに、天皇大権を置き、その絶対の権威のもとに国民の道徳意識を確立する、という大久保の国家観は、森有礼のキリスト教受容と、かならずしも矛盾するものではなかったはずです。


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