郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

近藤長次郎とライアンの娘 vol6

2012年12月11日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol5の続きです。

 井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのか?なのですが、そこへ入ります前に、坂崎紫瀾が明治16年の「汗血千里駒」から「維新土佐勤王史」に至るまで、ずっともち続けました近藤長次郎の死の原因に関します「長州に頼っての留学が同志への裏切りと見なされ、自刃を迫られた」という説のうち、「長州に頼っての留学」は、本当だったのかどうか、考えてみたいと思います。

 前回、私、慶応元年11月10日付け伊藤の書簡に「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」とあります長次郎の洋行につきましては、「団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航」で書きました肥前鍋島藩の石丸、馬渡、安芸の野村といっしょに行くつもりで、資金は薩摩の小松帯刀が出す話だったのではないか、と推測しました。

 石丸、馬渡、野村の三人の洋行は、クラバーが所有する貨物帆船チャンティクリーア号で、長崎からロンドンへ直行したわけでして、食事代以外に船賃はかかりませんし、非常に安上がりです。しかも彼らは、ロンドンよりははるかに物価が安い、と思われますスコットランドのアバディーンで、グラバーの実家の兄さんの世話になっているのですから、薩摩藩の英国留学生などにくらべまして、滞在費も超格安、なはずです。

 しかし、グラバーの持ち船が長崎からロンドンへ直行する機会は、頻繁にはなかったように思うんですね。
 で、長次郎は、伊藤の書簡から察しまして、「長州のためのユニオン号の周旋でイギリス行きのグラバーの船に乗る機会を逃してしまった」のではないでしょうか。

 紫瀾が明治16年から一貫しまして、「長次郎の洋行費は長州に頼ったものだった」としているのに対しまして、グラバーと伊藤博文は、後年の回顧談ながら、「長次郎の洋行費は小松帯刀が出すはずだった」としているんですね。これは、最初に計画されていました石丸、馬渡、野村との洋行の話だったものと思われます。
 伊藤の回顧談につきましては、近代デジタルライブラリーの伊藤公直話 「詰腹切った近藤昶一郎」で見ることができます。

 そして、中原邦平がグラバーに聞いた話が載っています、明治45年発行「防長史談会雑誌」のコピーが届きました。
 これ、私、かなり大昔にコピーしてもらって持っていたはずなのですが、出てきませんで、また山口県立図書館にお願いしました。
 長次郎の洋行費用につきまして、グラバーは次のように述べています。

 問 上杉の洋行に就て旅費はどこから出しましたか。貴下がお出しになりましたか。
 答 多分私がやつたのだらうと思ひます。小松帯刀が幾らか小遣をやり、自分は無代で彼へ地往けるように切符をやり、其他幾らかやつたろうと思ひますが、判然覚えて居りませぬ。小松が多分金をやつたでせう。
 


真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」は、近藤長次郎の洋行につきましても、詳しく考察しています。
 参考にさせていただきまして、私なりに、貨物船密航が不可能になりました後の長次郎の洋行について、考えてみたいと思います。

 慶応元年10月18日付け井上聞多宛の近藤長次郎の書簡が、「井上伯伝 中巻」(p147-151)に収録されています。その中に、以下のような一節があります。
 「第三 書生彼之国之名前にて遠方御遣しの事、この義は今しばらく評議中なり」

 「彼之国之名前」は、当然薩摩藩でしょうから、これは聞多が、「うち(長州)の書生を薩摩の名義で洋行させてもらえないかな」と長次郎に頼みんだことへの返答、と推測できます。「その件は、薩摩藩としては、もうちょっと相談させてくれ、ということだよ」ということです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5で書いたことですけれども、中岡慎太郎が9月30日付けで故郷の親族に出しました手紙に、「先頃之思惑にては外国へ参り申度」云々、つまり、「外国へ行きたくて計画したけれど、用事ができて中止になった」とあります。
 これ、ですね。私、長州が金を出して、近藤長次郎とともに、石丸、馬渡、野村と同じグラバーの貨物船で洋行する計画だった、と推測したのですが、非常に安上がりな話ですし、近藤長次郎の費用は小松帯刀が、中岡慎太郎の費用は長州が、ということで、まちがいはなかろうと思います。

 しかし、実際に石丸、馬渡、野村が乗り込みましたグラバーの貨物船は、10月に出港しておりまして、風待ちで出港が遅れたことを考えますと、台風シーズンが終わりました9月末ころから、乗り込みメンバーは待機する話になっていたのではないか、と思われます。
 とすれば、ちょうど中岡が故郷に手紙を出したころ、薩長同盟の周旋で、中岡も長次郎も、乗り込むことが不可能になったのではないでしょうか。
 それで、新たな洋行話が持ち上がったのだと思うんですね。

 おそらく、なんですが井上聞多が、「うち(長州)の書生を薩摩の名義で洋行させてもらえないかな」と長次郎に頼みました中には、中岡慎太郎がいて、田中光顕がいて、そして長州人もいたのではないか、と思われます。

 えーと、ですね。翌慶応2年の4月には、幕府が、海外渡航を解禁します。
 この解禁について、私、まったく調べておりませんので、どなたか詳しい方がおられましたら、論文など、ご教授くださいませ。ともかく、いつころから計画されたことなのでしょうか。
 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2に書いているのですが、慶応元年(1865)7月、横須賀製鉄所建設にともないます機材の購入と技術者雇い入れのために、柴田使節団が渡仏します。
 やがて、新納&五代の薩摩使節団もパリに滞在し、火花を散らすのですが、薩摩藩は、密航していながら、欧州におきまして、独立国然としましたやたらに派手な動きを見せまして、洋行を幕府に隠すつもりは、もはやまるでないかのようなのです。

 ここまで面子をつぶされますと、幕府としましても、渡航禁止に固執する方が変ですし、解禁に踏み切ろうという議論は、慶応元年の秋くらいから、あったのではないかと思います。しかし。

 日本歴史学界の「日本歴史 453号」( 1986年2月発行 )p34-51に、犬塚孝明氏の論文「第2次薩摩藩米国留学生覚え書 日米文化交流史の一齣」が収録されております。
 これに慶応元年10月13日付け、ですから、ちょうど長次郎が聞多宛に手紙を書いたころの、在京の大久保利通から薩摩の伊地知壮之丞(貞馨)と市来六左衛門(政清)に宛てた書簡が引用されております。

 「木藤市助ほかに一人、遠行の志にて出立候。全体英の含みに候えども、大抵御談之の上、仏の方に差し出されたく、左候えば、ほかに両三氏これあり、左候て、新納、町田如き人を差し出されたき事に候。なにぶん崎陽(長崎)の方に両君のうちにても御出あい成たく候。おおよそ異船は横浜の方とあい考え候えども、彼方は形跡を潜め候ことむつかしきゆえ、探索だけのことにござ候」
 
 なんだか、意味のとり辛い文面なんですけれど、犬塚孝明氏の後の解説を参考にさせていただきつつ、いいかげんな現代語訳を試みてみます。
 
 「木藤市助ともう一人が、洋行したいと言い置いて、京都を発ちました。イギリスに行きたいという話なのですが、私はフランスに行かせる方がいいのではないかと思い、そうなれば、ほかに三人、行きたいというものがいます。さらに、今回の新納や町田のような、家老級の家の人にも行っていただきたいですね。長崎の方へ、両君もお出まし願えればいいのではないでしょうか。外国へ行く船便は横浜の方が多いと思うのですが、なにぶん幕府の目をくらますことがむつかしく、出発前に見つけ出される危険もありますから」

 木藤市助は、高杉晋作とモンブラン伯爵で書きました。長次郎の死後になりますが、高杉晋作に詩を贈られました薩摩人で、アメリカに留学しながら、自殺しています。犬塚氏によりますと、尊攘派の過激分子で、英学の知識はまったくなかったそうです。
 この時期になってきますと、薩摩藩では、攘夷派の猛者が洋行を望むようになっていまして、中岡慎太郎や青山のじじいも、その影響を受けたのかもしれませんねえ。

 まあ、あれです。なにしろ薩摩藩には、広瀬常と森有礼 美女ありき3に書いておりますが、国学の大家にしまして、和歌のお師匠さま、「大理論畧」を著しました八田知紀じいさまがおられますっ!!! えーっ、八田のじさまによりますと、攘夷なんて、馬鹿のやること。日本人は大いに世界に出て、日本こそが神の国だと、世界に向かって説教するべきなんだそーなんですのよ、チェストーッ!!!

 「イギリスよりフランスに行かせる方がいい」という部分は、果たしてこの時点で日本に手紙が届いていたかどうかわからないのですが、もしかしますと、技術系の分野でロンドンでは日本人が通う適当な学校がなく、薩摩藩の第一次イギリス留学生のうち、ボードウィン門下の蘭方医留学生、中村宗顯(博愛)と朝倉(田中静洲)は、フランスに行っていまして、それが影響したのかもしれません。そこらへんのことと、新納&町田家の家柄につきましては、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1をご参照ください。

 続きます「両君の長崎へのお出まし」がなんのことかと思うのですが、木藤市助が横浜からアメリカに渡る世話をしましたオランダ改革派教会の宣教師ブラウンが、ですね、本国のミッション本部宛書簡に「薩摩藩主の弟たちが留学する計画があり、木藤たちはその準備のためにそちらへ行く」というようなことを、書いているんだそうなんですのよ。つまり、実現はしませんでしたけれども、どうも、島津家の御曹司を留学に出そうという話が、あったようです。

 えー、藩主の弟君の洋行計画があったとしますならば、ですね。
 大久保のおフランスへのこだわりは、あるいは、セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いたの新納とうさん(刑部)が、「大久保さあ、欧州貴族の共通語はフランス語ごわす!」と手紙に書いた、とか。

 そして、この時点ではまだ、薩摩藩にも、幕府が海外渡航の解禁を考えている、という情報は、入っていなかったようです。大久保は、「横浜からでは目につきやすいので長崎がいい」と言っていますし。
 およそ8ヶ月後、慶応2年7月3日、実際に木藤がアメリカ留学に旅立ちましたときには、解禁されていまして、木藤は横浜からアメリカの船で太平洋を越えています。

 あるいは、ですね。井上聞多が、「留学生も薩摩の名義を借りて」と思い立ちましたのは、沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州に書いておりますが、8月のはじめころ、沢村惣之丞は開成所のオランダ語教師として薩摩にいまして、大久保も薩摩に帰っておりまして、そこへ、小松帯刀の帰藩にあわせ、近藤長次郎が井上聞多を連れて、薩摩入りします。
 このとき聞多は、薩摩がまた留学生を送り出す、という話を聞いて、さっそく、「長州人もまぜて欲しい」と、とりあえず大久保と小松に頼んでいたのではないでしょうか。

 結局、薩摩の第二次留学計画は二転三転しまして、藩主の弟たちは洋行しておりません。そして、沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州でご紹介しましたが、中岡慎太郎が日記に「岩下方平と新納刑部は子供を海外留学に行かせるために、それぞれ知行を五百石出した」と書き付けております私費留学の新納、岩下少年はフランス留学で、モンブラン伯爵の世話になっておりますが、残りの藩士達はみな、費用が安くてすみますアメリカ留学に変更になりました。
 
 しかし、犬塚氏によりますと、その第一陣、仁礼景範、江夏蘇助、湯地定基、吉原重俊(大原)、種子島敬助は、慶応2年3月26日、幕府の渡航解禁直前に、長崎を出港しました。彼らは、上海経由、喜望峰まわり、ロンドン経由でアメリカに行っていまして、ロンドンで一週間、薩摩藩英国留学生たちの案内で見物しております。
 つまり、ですね。彼らは、第一次英国留学生のような派手さはありませんで、アメリカの帆船(おそらく貨物船)で、この旅をしたようですが、イギリスへよっているのですから、長州から留学生を頼まれましたら、イギリスまでいっしょに連れていくことは可能でしたし、それほど高価な旅でもなかったんですね。

 私、長次郎が生きていましたら、この第二次の薩摩藩米国留学生に同行し、そしておそらく、中岡慎太郎と田中光顕、あと長州人がいく人か、とともに、イギリスへ行く話になっていたのではないか、と思います。
 長次郎の最初の洋行は、伊藤の書簡によれば、どうも、ユニオン号の周旋で、長州のために行けなくなったわけですから、お詫びの意味で、長州からも多少の資金援助は、ない方が失礼な話、ではないでしょうか。

 「井上伯伝」に、ユニオン号の扱いにつきまして、下関でちょうどもめている最中、慶応2年12月10日付けの伊藤博文から桂小五郎(木戸)宛の書簡が載っています。以下、引用です。

 「井上先生出足の節、委曲談じ置き申し候ことにつき、御聞きとりくださるべく候ところ、英ミニストルの論は、幾重も密々御熟慮御謀り、まづ廟算を厚く御取極めの上、薩へ御談合あられたく、反覆熟考仕候へは、これすなわち皇威回復の基ともあいなるべきかと存じ奉り候。さすれば、千載の一時、機を失うべからざる事につき、ひとえに御尽力あられたく、伏願い奉り候。上杉もこれが為に英行したき存念にござ候ところ、ミニストル左様の主意これあり候へば、実にこの間に力を尽くしてみたしと雀踊しおり候。とくと井上先生より御聞きとらるべく候。私崎陽(長崎)行つかまつり候へば、上杉もぜひ同行したきと申す事にござ候。さすれば無理に蒸汽(船)でなくても、陸行にても苦しからずと存じ奉り候」 
 これまた、意味がとり辛い文面なのですが、ご参考までに、以下、超いいかげんな現代語訳です。

 「井上聞多先生がそちらへ向かいまして、細かいことは話しておきましたので、お聞き取りください。イギリス公使パークスの論は、あくまでも内密の内によくお考えになって、深謀をめぐらして取り決めた上、薩摩へ話し合いをされるべきで、よくよく考えてみましたならば、これが朝廷の権威を回復する基ともなろうかと思います。だとすれば、これはまれな機会で、時期を逃すべきではなく、上杉(長次郎)もこのために、イギリスに行くつもりでいるのですが、イギリス公使にそのような考えがあるのなら、間に立って力を尽くしてみたいと、張り切っております。じっくりと聞多先生よりお聞きになってください。私、長崎へ行きますが、上杉もぜひいっしょに行きたいということです。無理にユニオン号ではなくても、陸行でもかまわないと思っています」
 
 なにより、です。「イギリス公使パークスの論」とはなにか???でして、わけがわからないのですが、中原邦平が次章で解説していますところでは、高杉晋作とモンブラン伯爵に書いております五代友厚のものすごい反幕プロパガンダにつながる話です。
 モンブラン伯爵につきましては、アーネスト・サトウ  vol1に書いておりますが、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官アーネスト・サトウに並びまして、薩摩の味方につき来日までしまして大活躍したわけなのです。しかし薩長の元勲たちの、これだけはものの見事な連携で、その足跡が歴史から消されまして、中原邦平にわけがわかっているのだとは、とても思えません。

 とはいいますものの、中原邦平が書いております大筋がまちがっているわけではなく、おおざっぱにいえば、フランスに対抗しまして、イギリスが薩長の後押しをする、という話です。
 実際フランスは、レオン・ロッシュの公使着任により、元治元年の半ばくらいから幕府よりの姿勢をとり、排他と独占に基づく貿易を指向まして、在日イギリス商人の多大な反発を買っていたんですね。
 だいたい、私がこのブログを始めましたのは、えー、桐野利秋(中村半次郎)ゆえではなく、実はモンブラン伯爵に関する情報をどなたかもってきてくださらないものかと、せっせと書き始めたわけでございまして、結局、ブログゆえに得られた情報といいますのはほとんどなったのですけれども(それまでの友人がくださった情報は大きかったですけれど)、ともかく、横須賀製鉄所と生糸交易と薩摩藩幕末イギリス留学生と幕末維新の英仏兵制論争は、すべてモンブラン伯爵がからみますので、このブログの大きなテーマです。

 そして……、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4を書きました時、このテーマに、近藤長次郎も大きくかかわっていたことを知ったのですが、いや……、私、龍馬のまわりにこれほど優秀な人材がいたことをこれまで知らずにいまして、驚きました。

 ともかく。
 伊藤の手紙が書かれました慶応元年の12月は、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書いておりますように、五代友厚のフランスでの策動はすでに終わっていましたが、まだ帰国の途にはついていませんし、寺島宗則のイギリス政府への働きかけは、まだ本格化しておりません。

 しかし。
 考えてみましたら、五代と寺島は、藩庁と関係なく動いていたわけではないのですから、日本国内で、この年閏5月に公使として着任しましたハリー・パークスを、薩摩へ招く動きはすでにあったでしょうし、薩摩が中心となった雄藩連合構想も、あるいは形になりつつあったかもしれません。
 そして、パークス本人はともかく、通訳官のアーネスト・サトウは、なにしろ長州には海上交通の要所下関がありますし、すでにもう、雄藩連合には長州を加えるべきだと考えていて、イギリスはそれを後押しすると、伊藤、井上に語ってしまった可能性があります。

 高杉晋作とモンブラン伯爵で、慶応2年3月、高杉晋作は、伊藤とともに薩英会談に同席して、その足で洋行しようと考えますが、実はこの薩英会談に、長州の代表も加えて三者会談を実現させよう、ということこそ、伊藤が書簡で「上杉(長次郎)も間に立って力を尽くしてみたいと、張り切っております」と書いたこと、だったんじゃないんでしょうか。
 長次郎の死で、長州を代表する高杉の薩英会談同席をセットできる人材は、消えてしまったわけです。

 こうして見て参りますと、長次郎の洋行は長州に頼ったものとは言い難く、むしろ長州の方が、長次郎を仲介として薩摩に頼りたい、ということだったと、わかって参ります。
 にもかかわらず坂崎紫瀾が、「長州に頼っての留学」と一貫して書き続けたにつきましては、やはりこれは、高松太郎から出た話だったろうとしか、思えないわけなのです。

 それで、肝心の井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのか?なのですが、長くなりすぎてしまいました。
 グラバー談話のコピーが届いたことは、すでにお話ししましたが、実は、これを読んでいますうちに、墨塗り部分には、グラバー談話も関係するのではないだろうか、という感を強くしまして、勝手ですが、次回に続きます。
 今度こそ、ちゃんとお話できようかと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol5

2012年12月07日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol4の続きです。

  国会図書館憲政資料室の井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、著者不明で、肝心な部分が4行ほど、墨で黒々と消されている!謎の伝記です。

 皆川真理子氏が土佐史談に書かれました論文の脚注で、私はこの伝記の存在を知りました。
 憲政資料目録 の●井上馨関係文書、●書類の部、●碑銘・建碑・記伝とクリックしていきますと「712-10 近藤長次郎伝」が出てきます。

 えーと、その。
 私、幕末オタクですし、若いころから、国会図書館の憲政資料室で、かなりの幕末維新関係の史料を複写できることは、知っておりました。
 憲政資料のあれが見たい、と思いました場合、近くの公立図書館で相談してみればいいことも、です。
 地方に住んでいますと交通費がかかりますが、国会図書館へ直接足を運びますのが、やはり一番早くはあるのですが。
 ともかく、この謎の伝記を自分の目で確かめてみたい、と思われましたら、どちらかで、どうぞ。

 まず、この井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」が書かれました時期です。
 文末に、長次郎の顕彰記事があるんですね。
 明治11年に靖国神社に祀られましたこと。
 明治18年に建立されました、高知の東大島岬の神社(現在の護国神社)の南海忠烈碑に名前が刻まれましたこと。
 高知県護国神社さんのHP南海忠烈碑銘に碑面の写真がありますが、裏面上から三段目の左端に、近藤長次郎の名前があります。
 そして最後が贈位記事なのですが、「明治三十一年七月特旨を以て正五位を追贈せらる」とありまして、明治31年以降に書かれたものであることには、まちがいがいありません。

 ただ、ユニオン号事件につきまして、あまり詳しく書かれているわけではありませんし、なにしろ井上馨関係文書ですから、私、「井上伯伝」が出版されます明治40年よりは以前に書かれたものと、推測しました。

 著者はだれなのか、ですが、最初、私、「井上伯伝」を書くための材料として中原邦平が書いたのかな、と憶測していました。文中、長次郎が高杉晋作に漢詩を贈られたことが出てきますので、ますますそんな気がしたのですが、そこで、一坂太郎氏の「高杉晋作 漢詩改作の謎」を思い出しました。

高杉晋作 漢詩改作の謎
一坂 太郎
世論時報社


 これによりますと、高杉晋作の漢詩文集「東行遺稿」は、明治20年、土佐の田中光顕(青山伯)の手で、改作された上(大方は悪意の改作ではなく、漢詩上手が添削した形らしいのですが、青山のじじいは、よほど自分が高杉に漢詩を贈られていませんのが残念だったようで、高杉が「(薩摩の)西郷隆盛の漢詩を読んで」と題名に書いておりますのに、「田中光顕が西郷の詩を見せてくれた」と、自分の名前をもぐりこませているそうです。p75-76)、自費出版されているんですね。
 近代デジタルライブラリーの「東行先生遺文」に「東行遺稿」が収録されていまして、確かに266コマp37の最後に「送上杉宗二郎」も掲載されておりますね。

 としますと、例えば高知県護国神社に祀られたことが詳しく書かれているなど、高知出身者が書いたものではないのか、という感を深くしまして、考えてみましたら、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」を下敷きにしております「井上伯伝」よりも、内容がはるかに、大正元年に刊行されました坂崎紫瀾の「維新土佐勤王史」に近いんですね。
 それで私、著者は坂崎紫瀾でまちがいなかろう、と思います。

 長次郎の死の原因は、はっきりと、「一人だけ留学しようとしたことが社中の掟に背いていたので、社中全員から自刃を迫られて、そうするしかなかった」と書かれています。手に入れるのがめんどうなものですし、関係部分を引用しますと、以下のようです。ただし、カタカナをひらがなにし、句読点を補い、漢字を開きますなど、改変を加えますし、まちがいもあるかもしれないことをご了承ください。

 はじめ長次郎、勝氏の塾にあって海外文物の盛んなるを慕ひ、遊学の心切なりといえども、学資を得る道なく、空しく志を遂くるを得ず。井上聞多、伊藤俊輔(博文)等の親愛を受け、その委託をもって汽船を求め、巨額の金員を授受するに至って素志勃発し、ほとんど制すべからず。ついに長藩に頼って素志を遂げんことを図り、聞多等に就て懇請して金を借り、英船の帰便に附搭するを約し、まさに明日をもって発せんとす。同志中、このことをもれ聞きする者あり。同志を集めて相議しもって違約となし長次郎を責問す。はじめ同志盟約書に連著し九つ事は大小なく必ず相議して行ふべく、もし相謀らずして行う者あれば違約の責は割腹をもって謝するの文あり。長次郎陳謝する道なく●●●●●●●●

 ここで、ほぼ4行分、黒々と墨線が引いてありまして、読めないんです!!!

 そして、●●●●●●●●遂に小曽根の家において自尽す。実に(慶応)二年正月二十四日なり。

 自尽の理由は、「汗血千里駒」と同じく、「長州藩に頼っての留学」なのですが、嘘か本当かはわかりませんが、社中の「盟約書」なるものがあったことになっておりまして、「長次郎に自尽を迫ったのは龍馬ではなく、社中の面々だった」ということです。
 「維新土佐勤王史」になりますと、社中の面々の代表としまして、沢村惣之丞の名前が出てくるのですが、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、読めます部分に限っての話ですが、個人の名前は出てきておりません。

 ただ、この井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」、ユニオン号をめぐります長州往来の中で、沢村惣之丞の名前ばかりが頻繁に出てくるんですね。
 しかし沢村惣之丞は、「沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州」に書いておりますが、井上聞多が汽船の名義借りの交渉で、小松帯刀、近藤長次郎とともに薩摩入りしましたときには、開成所(薩摩の洋学校)のオランダ語教師をしておりまして、ユニオン号購入に関しまして、当初はほとんどかかわってなかった、と思われます。
 したがいまして、「井上伯伝」の近藤長次郎とともに当初から活動していましたのは高松太郎であった、という方が、正確ではないか、と思うのですが、いま「井上伯伝」が手元にありませんし、そこらへんの考察は、また後日にまわします。

 坂崎紫瀾がずっと、「近藤長次郎の死は長州に頼っての洋行が同志を売るものとされたから」と信じ続けていたにつきましては、坂崎紫瀾著、明治31年発行の陸奥宗光(近代デジタルライブラリー)に25コマ、p27の最後に、「近藤のみは学才ありしが、たまたま軍艦買入の葛藤起り、長藩とひそかに洋行の内約をなせしは同志を売る者なりとて、割腹してその罪を謝したり」とあることで、知れます。
 
 坂崎紫瀾の経歴は、wiki-坂崎紫瀾に詳しいのですが、「汗血千里駒」の成功によりまして、自由党の星亨が主宰します小新聞「自由燈」に招かれて、上京します。
 星亨は陸奥宗光に近い人でして、紫瀾が後に林有造、陸奥宗光の伝記を書くことになったことから見ましても、この二人は西南戦争呼応挙兵を企てて、入牢した人物ですし、板垣退助とは距離を置くようになったのではないか、と思われます。
 そして、明治37年ころから「維新土佐勤王史」執筆の準備に入ったというのですから、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」は、その材料集めの段階で、中原邦平の求めに応じて、生まれたものではないでしょうか。

 コトバンクー中原邦平の「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」の方を見ますと、中原は紫瀾より一つ年が上なだけで、どうも同じくらいの時期に、ロシア正教の宣教師ニコライ・カサートキンの塾にいたようなのですね。
 ニコライ・カサートキンは、神田のニコライ堂の創設者で、その最初の日本人の弟子は、龍馬の実の従兄弟・沢辺琢磨です。

 紫瀾が陸奥宗光の伝記を執筆しました翌年、明治32年のことですが、16年前、紫瀾が「汗血千里駒」を連載しました土陽新聞に、川田雪山の龍馬の妻・お龍さんへの聞き書き 千里駒後日譚(青空文庫・図書カード:No.No.52179)が、連載されました。
 以下、引用です。

 ある日、伏見の寺田屋へ大きな髻わげを結つた男が来て、「阪本先生に手紙を持て来た」と云ひますから、私は龍馬に何者ですかと聞くと、アレは紀州の伊達の子(陸奥宗光)だと云ひました。此時から龍馬に従つたのです。持て来た手紙は、饅頭屋の長次郎さんが長崎で切腹した事を知らせて来たのです(千里駒には龍馬が長崎に於て近藤を呼び出し切腹を命じたりとあれど誤り也)。長次さんは全く一人で罪を引受けて死んだので、俺が居つたら殺しはせぬのぢやつたと龍馬が残念がつて居りました。アノ伊藤俊助さん(博文)や井上聞多さんは社の人では無いですが、長次さんの事には関係があつたと見え、龍馬が薩摩へ下つた時、筑前の大藤太郎と云ふ男が来て伊藤井上は薄情だとか卑怯だとかやかましく云つて居りましたが、龍馬は、ソンナに口惜しいなら長州へ行つて云へと、散々やり込めたのです。

 これは後年の聞き書きですから、どこまで本当のことかはまったく謎だったのですが、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」でご紹介しております皆川真理子氏の論文「史料から白峯駿馬と近藤長次諸を探る」(土佐史談240号収録)で、「桂久武日記で、上杉宗次郎の自殺を京都へ告げに来ている小松帯刀の家来・錦戸広樹は陸奥宗光の変名」と解明されていまして、現在では、陸奥が使者だったことは事実だったと、確かめられております。

 陸奥宗光は、長次郎の死を、長崎から京都の龍馬まで告げに駆けつけたわけでして、もしも紫瀾が、生前の陸奥にその話を聞いていましたら、その伝記に書かないはずはない、と思われますのに、書いておりません。
 紫瀾が生前の陸奥宗光に、まったく龍馬の話を聞いてなかった、とは思えないのですが、陸奥は入獄、洋行の後、要職にあり、海外赴任の期間もありましたし、最後は肺結核が進行しておりました。詳しく話が聞けるような機会を、紫瀾は得ることができなかったのだろうと思うのですね。

 しかし紫瀾が、おそらくは馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」も目にしたと思いますのに、「近藤長次郎の死は長州に頼っての洋行が同志を売るものとされたから」という「汗血千里駒」の以来の持論を捨てませんでしたのは、それが紫瀾の創作ではなく、高松太郎から出た話だったから、ではないのでしょうか。

 そして、私、「汗血千里駒」執筆当時の紫瀾は、近藤長次郎とライアンの娘 vol3で推測しましたように、坂本南海男(直寛)から、高松太郎の話を又聞きしただけではなかったか、と思うのですけれども、明治31年に高松太郎が世を去ります前に、紫瀾は直接、話を聞いたことがあったのではないでしょうか。

 それともう一つ、紫瀾は、トーマス・グラバーにも、直接話を聞いていたのではないか、と推測されます。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
クリエーター情報なし
文芸社


 ユニオン号事件に関しますトーマス・グラバーの談話につきましては、明治45年2月刊行の「防長史談会雑誌」27号に、中原邦平が聞き取ったものが掲載されていまして、現在、山口県立図書館にコピーをお願いしているのですが、まだ届いておりませんで、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」に一部引用されておりますので、参考にさせていただきます。

 このグラバー談話、ですね。活字になったのは明治45年ですが、グラバーは明治41年に叙勲されておりまして、山本氏によれば、これは井上聞多と伊藤博文の強力な推薦だった、というんですね。そして、そのために経歴をまとめる必要があり、聞多が中原邦平に頼んだ一環で、中原邦平はグラバーにインタビューしたのではないか、だとすれば、明治41年より前にそれは行われていたはず、ということなのです。

 グラバーの晩年は、基本的に東京住まいです。
 私、「維新土佐勤王史」の執筆準備を始めました坂崎紫瀾が、グラバーの話を聞かなかったはずはない、と思うんですね。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に書いておりますが、維新以降、グラバーを引き立てましたのは、大久保利通と大隈重信でして、グラバーのパートナーは岩崎弥太郎です。
 後藤象二郎の伝記を書きました紫瀾が、グラバーに話を聞きますのは、自然の成り行きかと思います。

 それで、近藤長次郎自刃につきましてのグラバー談話なのですが、山本氏によりますと、おおよそ以下のようです。
 「浪士たちが血判して攘夷団体ができて、長次郎はその一員だった。ところが長次郎は薩摩の人と交際するようになって攘夷に反対するようになり、薩摩の小松帯刀がイギリスへ逃がしてやってくれと頼んできた。そこで私の船に乗せたが、風が反対になってその日は出帆することが出来なかったので、日本を離れるなごりに一夜、長崎の茶屋で長次郎が遊んでいたら、坂本龍馬が踏み込んできて、攘夷の盟約に背いたと長次郎を責め、切腹になったということだ」

 これ、ですね。クラバーはもう、さまざまな記憶をごちゃごちゃにして、おもしろおかしく語っているようなのですけれども、まず。
 社中が攘夷団体であった、ということにつきましては、実際には薩摩から給金を受けていたのですけれども、薩摩は客分あつかいしておりましたし、ユニオン号の交渉では、社中のメンバーが伊藤博文、井上聞多とともにグラバーの前に現れ、長州よりの浪人たち、というような印象が残ったんでしょう。

 グラバーが長州への武器と軍艦の売り渡しをしぶっていたにつきましては、近藤長次郎とライアンの娘 vol2で書きましたように、長崎奉行所に届け出ることのできない朝敵・長州との取り引きは条約違反となる、といいますことも、もちろんあるのですが、伊藤と井上が長崎に武器と軍艦を買いに行きました慶応元年(1865)のほんの2年前、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、文久三年(1863)の馬関攘夷戦におきまして長州海軍は、オランダ海軍士官の助言を受けて砲を据えつけました洋式帆船・庚申丸、砲10門のイギリス製の小さな木造帆船・癸亥丸などで、見境もなく、外国商船に襲いかかったんですよ? 
 ついでにいいますと、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3に書いておりますが、長州攘夷派は、薩摩商船を二度も攻撃しましたが、薩摩商人が殺害され、積み荷も船も焼き捨てられました加徳丸は、グラバーに売り渡す綿花(アメリカの南北戦争で国際価格がつり上がっていました)を積んでいたんです!
 この時期、自由貿易を信奉しますイギリス商人たちも、さすがに、狂犬みたいに襲いかかってきました長州に、武器を売ろうという者はおらず、薩摩の名義借りに関係がなかった井上・伊藤とは別ルートの買い入れは、失敗に終わっているんです。

 「私の船に乗せたが、風が悪く出帆することが出来なかったので、茶屋で遊んでいた」、の部分は、おそらく、「団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航」の、肥前鍋島藩の石丸虎五郎と馬渡八郎、安芸の野村文夫の密航とごっちゃになっているんでしょうね。
 私、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」でも推測しておりますが、伊藤が書簡で「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」と言っていました長次郎の洋行は、肥前鍋島藩の石丸、馬渡、安芸の野村といっしょだったのではないか、と思うんですね。石丸はオランダ海軍伝習を受けていたのですから、当然勝海舟の知り合いです。野村も勝海舟の門人に知り合いがいたようですし、長崎で知り合って、そのまま洋行話になって、おかしくないのではないでしょうか。

 これ、いわばグラバーの持ち船でしたし、野村の日記に、風待ちで出港が遅れた話や、日本を離れるなごりに、上陸して長崎の茶屋で思う存分遊んだ話が出てきます。
 なにしろ長崎からイギリス直行の貨物船ですから、あまり費用はかかりませんし、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4で書きました長次郎の海軍振興の上書(建白書)(やはり「玉里島津家史料三」にありました!)は、使節と留学生とのイギリス密航に向けまして、最後の決断をしようとしておりました島津家にとって、非常に参考になるものだったでしょうし、少々の費用ならばと、小松帯刀が出す話になっていたのではないでしょうか。
 そして、おそらくは伊藤の言う通り、長次郎はユニオン号の周旋で、石丸たちとは洋行できませんで、また別の洋行話が持ち上がったんだと思うんですね。
 しかし、それはまた後に検討することにいたしまして、グラバー談話です。

 最後に、「坂本龍馬が踏み込んできて、盟約に背いたと長次郎を責め、切腹になった」という部分ですが、これは、「汗血千里駒」の照り返しでしょう。
 当然のことなのですが、グラバーは、長次郎の死の状況がどうだったのか、知らないんです。知っていたのは、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人だけです。
 グラバーは「汗血千里駒」が描きました長次郎の死の状況を、本当のこととして、聞いたのだと思います。誰からって、岩崎弥太郎からです。

 覚えておいででしょうか? 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1で書きましたが、長次郎は岩崎弥太郎の愛弟子でした。弥太郎は明治18年に世を去りましたが、その2年前に、「汗血千里駒」は出版されていまして、弥太郎が読んだ可能性は高いと思います。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に書いておりますが、弥太郎は最晩年、井上聞多が後援します共同運輸会社と熾烈な競争をくりひろげ、その心労で病死したともいえるほどでして、その時期に、幕末からの知己で、長年のパートナーでしたグラバーに、最新の出版物が語ります龍馬と長次郎のことを、話したとしてもおかしくないのではないでしょうか。

 というわけでして、グラバー談話は、ほとんど事実に即していないのですけれども、坂崎紫瀾は、そのうち「イギリス船で翌日欧州へ出発するはずだった」を採用し、井上馨関係文書第92冊「近藤長次郎伝」を書いたのだと、私は推測しています。「盟約に反したと仲間に攻められた」といいます部分は、グラバーの裏付けも得られた、と思っていたのではないでしょうか。

 では、黒々と墨線が引いてあって読めないほぼ4行分には、いったいなにが書いてあったのでしょうか。私は、この部分こそ高松太郎から聞いた話だったと思います。なぜならば、なにが起こったのか事実を知っていたのは、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人だけだったのですから。
 
 次回、私の推測を述べたいと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol4

2012年12月05日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol3の続きです。

 明治15年に発刊されました土居通豫の「海南義烈伝」(近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)は、近藤長次郎の人柄につきまして「人と為り温厚質直下問を恥じず」とあります。つまり、「温厚で素直な人柄で、自分より年下の者にものを問うのを恥じなかった」というんです。
 おそらくこれは、河田小龍の語ったことではないか、と私は思うのですが、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)を読みまして、長次郎がさまざまな人々からその才を愛でられ、援助してもらっていることを考え合わせますと、温厚で素直、というのは、あたっていたと思うのですね。

 にもかかわらず、なぜ長次郎が、まるで才を誇って誠意がなかったかのように言われることが多いのか、といいますと、 坂本竜馬手帳摘要(青空文庫・図書カード:No.52148)に残ります「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」という二行の言葉が原因でしょう。現代語訳しますと、「策略ばかりで誠意が足らなかった」「それで上杉氏は身を亡ぼした」とでもいったところです。

 実は私、「これ、ほんとうに二行とも龍馬が書いたのだろうか? もしも書いたのだとしても、上杉氏が長次郎だと断言できるの? また一行目の主語を長次郎と決めつけることができるの?」という疑念を持っていまして、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5」の「追記」を書きましたとき、中村さまにお電話で、坂本竜馬手帳摘要という史料の性格を説明しがてら、少々はお話しました。

龍馬の手紙 (講談社学術文庫)
宮地 佐一郎
講談社


 青空文庫にはないのですけれども、この講談社学術文庫版「龍馬の手紙 」に収録されております坂本竜馬手帳摘要には、龍馬全集と同じ解説がついております。
 実はこの手帳摘要、原本が残っておりませんで、龍馬全集は「坂本龍馬関係文書二」を典拠としております。
 で、「坂本龍馬関係文書二」収録の「手帳摘要」、注解は土方直行で、土方直行の以下のような後記があるのだそうです。カタカナをひらがなにし、漢字を開くなど、手を加えますのでご了承ください。
 なお、土方直行につきましては、佐川くろがねの会HP佐川の歴史的人物/土方直行に略伝がありますが、坂本龍馬よりも四つ年上の土佐勤王党士で、田中光顕(青山伯)と同じ佐川町の出身です。

 「この手帳は小さき普通の横巻にて、坂本直(高松太郎)氏の蔵本なるを借覧せり。しかるに龍馬氏の心覚へに止まる略記、草々の揮毫にて字体も弁じがたきほどのものもこれあり、巻尾と考へ披見すれば逆さまになるところあり。またとり直して巻尾を巻首として見れば読むべきところあり。二冊とも過半は白紙、年支日月あるもあり、また総てなきあり。縦横乱字、真に磊々楽々の性、今なお昔日あい見るの感あり。そのうちにつき引用ともなるべく、また読めるものを写し置く左のごとし」

「この手帳は小さな普通の横巻のもので、坂本直(高松太郎)氏が所蔵しているのを借りて見せてもらった。龍馬が自分の心覚えにしたためたメモなので、字体が崩れすぎて、なんと書いてあるのかわからない部分もあり、ここが巻の終わりかと思えば反対で、巻の終わりを始まりとして読んでみれば、意味の通じるところもある。二冊とも半分以上は白紙で、なにも書いておらず、年月日のある部分もあれば、まったくない部分もある。縦横に字が書き散らされて、豪放な龍馬の性格のなせるわざなのだろう。見ていると、これが書かれた昔の日々が、リアリティをもって迫ってくる。伝記を書くときなど、ここから引用もできるだろうと、読めるものを左のように書き写した」 

 つまり、ですね。
 高松太郎が所蔵していた龍馬のメモ帖を、高松太郎の生前に土方直行が借りて書き写したわけなのですが、なぐりがきのメモ帳ですから、読めない文字も多く、どこから始まってどこで終わるのかもわからないようなもの、だったというんです。
 「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」の二行がどういうふうにつながっていたのか、他に文字がなかったのか、原本がなくなっているというのですから、今さら確かめようもありません。

 写しでは、慶応2年正月、京都におきまして、いわゆる薩長同盟の会談があり、その後寺田屋で龍馬が襲われ、2月に近藤長次郎の死を陸奥宗光が知らせて来たころの日付はあるんですけれども、長次郎の死どころか、自分が襲われましたことも書いていません。
 6月まで記事がありましてその後、年月がなく日にちだけの記事があります。

龍馬「伝説」の誕生 (新人物文庫)
菊地 明
新人物往来社


 菊池明氏の『龍馬「伝説」の誕生』によりますと、従来、この日付を10月のものと見なして、大極丸購入に関するもの、という見解があるのだそうです。しかし菊池氏は、慶応2年3月のものとされているんですね。(p260)
 根拠の一つは、近藤長次郎とライアンの娘 vol2でもご紹介しました長崎県文化振興課のサイト「旅する長崎学」歴史探検コラム 【長崎と坂本龍馬と船】その1 ワイルウェフ号の購入記録 に載っております、「慶応二丙寅年 諸家届伺船買入御附札御条約外之船渡来達書」です。
 これによれば、薩摩藩の長崎屋敷から長崎奉行所へ、ワイルウェフ号の購入願いが出された日付が慶応2年3月26日ですから、手帳摘要で「28日 船受取」とのみ書かれていますのを慶応2年3月28日とすれば、話がぴったり、なのです。

 ただ菊池明氏は、「薩摩藩海軍関係史料」の慶応元年12月22日(西暦1866年2月6日)付け、新納刑部と五代友厚連名で、「コントテ白山伯」に出しました契約書だか書簡だかの中に「アメリカの南北戦争中、南軍がイギリスの造船所に注文して、イギリスが輸出を止めた軍艦ワイルウエルンを買いたいので、調べてみてほしい」とありますのを、ワイルウェフ号のことだとしていまして、それがために私は、この本のp257にしおりをはさんでいたのですが、もちろん、それはちがいます。

 これが書かれました状況ですが、「モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2」に書いておりますが、新納と五代はパリにいまして、慶応元年12月26日、つまり4日後に帰国の途についたわけです。
 「コントテ白山伯」とは、もちろんシャルル・ド・モンブラン伯爵です。
 そして、社中のワイルウェフ号は運送用の老朽帆船ですし、新納&五代が欧州で目をつけていましたワイルウエルンは、南軍がイギリスに発注しておりました最新の軍艦なのですから、まったく別の話です。

 それにいたしましても。
 「手帳摘要」の日付のみの記事がワイルウェフ号の購入記録ではないか、と菊池明氏のおっしゃることはもっともでして、だとすれば、これ以前にすでに慶応2年3月の日付はあり、そのころ龍馬は鹿児島にいて、お龍さんと霧島で温泉巡りをしていたことが書かれています。
 といいますことは、実際にプロイセン商人に面会して、ワイルウェフ号の購入交渉をしましたのは龍馬ではなく、直前に「周旋多賀(高松太郎)なり」とあるのですから、高松太郎だった、ということになり、6月までの龍馬の記録の後に、再び3月のワイルウェフ号購入記録を書き付けましたのは龍馬ではなく、高松太郎ではないか、ということになりはしないでしょうか?

 「手帳摘要」の年月日のあります記事は慶応2年で終わり、その後にイロハ丸の名前が出まして、次は風薬について。

 そして「倒にして巻首より左のごとし。二冊とも参考に用なき一時の心覚様の者多し。ここにその一類を写して望蜀の念なからしむ」、つまり「逆さにして巻の始めからは左のように書いてあった。二冊とも、後々の参考にするというようなものではなく、一時の心覚えのようで、ここにその一部を写して、これ以上は解読をあきらめる」と、土方直行の注釈があって、漢籍「貞観政要」からの記事、次に日本書紀から水時計を作った記事、そしてまた漢籍からかと思える記事がありまして、次の2行が、「術数有余而至誠不足」「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」なんです。

 先に見ましたように、この手帳二冊、すべて龍馬が書いたとは限らないわけでして、例えばワイルウェフ号の購入など、自分が経験したことについて、高松太郎が補って書き込んでいた可能性だって、ありえるのではないんでしょうか。
 別に悪気があったわけではなく、明治2年に高知へ帰りましてから、「龍馬の家を継ぐように」と新政府に呼び出されますまでの2年近く、高松太郎はいわば逼塞していたわけでして、叔父・龍馬が生きていたころの活動的な日々がなつかしく、形見の手帳の殴り書きをながめるうちに、「このころ社中はこうしていて、これはこうだった」と書き加えたとしても、おかしくはないでしょう。ちゃんと清書した日記ではなく、殴り書きのメモ帳なんですから。

 そして、あるいは高松太郎が書き加えたわけではなく、龍馬が書いたものだったにしましても、「上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ」という2行目、この「上杉氏」を上杉宗次郎であり、長次郎のことだと解釈するのが通常みたいなのですが、千頭の奥様が、「龍馬が昶次郎(長次郎)のことを上杉氏と呼ぶでしょうか?」とおっしゃっておられまして、私も同感です。

 確かにユニオン号事件当時、長次郎は上杉宗次郎と名乗ってはいたのですが、龍馬とは幼なじみといってもいい知り合いです。
 慶応元年9月9日付けの乙女姉さん宛龍馬の手紙(青空文庫)では、「水道通横町の長次郎」と親しく書いておりますのに、だれに見せるわけでもないメモ帳に「上杉氏」は、なんとも奇妙じゃないでしょうか。
 
 さらに、「術数有余而至誠不足」の主語が「長次郎」だという確証が、いったいどこにあるのでしょうか?
 まず一つ考えられますことは、これ以前の7行ほどが、どうも全部故事のようなのですから、これも例えば、関ヶ原の上杉氏のことを書きつけたと見ることもできるのではないでしょうか。

 また、例え2行目の「上杉氏」が長次郎のことだったにしましても、「術数有余而至誠不足」の主語は、井上聞多(馨)か伊藤博文か、と考えることもできますし、それで長次郎が身を亡ぼした、という話ならば、よくわかります。
 ユニオン号事件の詳細は、また後日、まとめて探求したいと思いますが、私にはどこからどう見ましても、長次郎に「術数」があったとは思えません。むしろ、愚直にすぎたような気がするんですね。

 続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で、私、「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」の解釈につきまして、ちょっと考えてみたのですけれども、どうも、ですね。龍馬の書いたものって、あらぬ思い入れで解釈されることが、多すぎるように感じます。

海援隊隊士列伝
土居 晴夫
新人物往来社


 ところで、土方直行が、坂本竜馬手帳摘要を書き写したのは、いったいいつのことなのでしょうか。
 上の「海援隊隊士列伝」に、土居晴夫氏著の高松太郎(坂本直)伝がありますが、これによりますと、高松太郎は明治22年に宮内省を免官となり、高知へ帰って、 明治31年(1898)11月7日、57歳で死亡しました。戸籍簿によれば、弟の坂本直寛(南海男)と同居していたそうでして、縁につながられる土居氏は、「不遇だったが、直寛とともに高知教会の熱心な信者であった」と述べておられます。
 手帳摘要が書き写されましたのは、高松太郎の生前ですから、 明治31年以前、おそらくは明治20年代だったのではないでしょうか。

 ここでちょっと、これまでの整理をしますと、明治15年、土居通豫の「海南義烈伝」におきまして、長次郎の死は「薩長の和解を志みる過程で行き違いが生じ、責任を感じた自発的なもの」とされいます。
 ところが翌明治16年、高知の土陽新聞で坂崎紫瀾の「汗血千里駒」が連載され、「洋行させてくれるという長州の誘いに乗って社中を裏切ったため、龍馬によって切腹させられた」という説が唱えられます。

 「汗血千里駒」は、明治16年のうちに大阪の摂陽堂から出版され、2年後には東京の春陽堂版が出て、どうもその後も版を重ねたようです。
 小説ですから読みやすく、あるいは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」が現代の龍馬像の基本を形作りましたように、「汗血千里駒」は明治の龍馬像を形作り、しかもそれが司馬氏の「竜馬がゆく」の原型であるわけです。

 しかし、小説は小説ですから、近藤長次郎の伝記としましては、「海南義烈伝」の方が信用が高かったようでして、明治24年に大阪で刊行されました「日本勤王篇 : 王政維新」近代デジタルライブラリー「日本勤王篇 : 王政維新」)の「近藤昶事績」は、ほとんどが「海南義烈伝」と同じ文章です。ただ、最後にとってつけたように「事みな龍馬の処置に出ず。しかして龍馬また大義のやむをえざるによりたるものなり」と書いていまして、自刃の理由は「薩長の行き違いに責任を感じた」ながら、自発的といいますより、龍馬が命じたような書き方です。これはあきらかに、「汗血千里駒」の影響でしょう。

 明治24年前後には、馬場文英の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」「坂本龍馬全集 」収録)もすでに書かれているはずなのですが、これは毛利家文庫に所蔵されていたものでして、果たしてどのくらい、世間に知られていたのでしょうか。
 そしてこれは、長次郎の死の原因に関しまして、「汗血千里駒」の影響は、まったく受けておりません。

 近藤長次郎が、ユニオン号にかかわっています時期、洋行の志を持っておりましたことは事実でして、伊藤博文の書簡や、高杉晋作の漢詩で確かめられるのですけれども、その洋行が、長次郎の死にかかわっていた、といいますことは、「汗血千里駒」で初めて出てまいりまして、これがもし、坂崎紫瀾の創作ではないのならば、高松太郎から出た話だろう、という推測は、前回述べました。

 さて、明治40年に「井上伯伝」が出版されますまでに、もう一つ、注目したい伝記があります。
 国会図書館憲政資料室の井上馨関係文書「近藤長次郎伝」なのですが、著者不明で、肝心な部分が4行ほど、墨で黒々と消されている!謎の伝記なのです。
 次回は、そのお話からはじめたいと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol3

2012年12月02日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol2の続きです。

 毛利家文庫「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」「坂本龍馬全集 」収録)の著者・馬場文英は、近藤長次郎につきまして、以下のように書いております。

 英案ずるに近藤昶次郎(長次郎)が直柔(龍馬)の依託を諾し、薩長の間に和談の周旋に労を尽し、既に六分の巧を達する事すこぶる大ひなりとす。しかるに今いささかの過失を慚愧し、節操義胆ここに自刃なす事痛ましいかな。予一面識の人ならざれども、その胆勇義魂節に歿する情実を賞誉し、憫然感涙に絶へず。

 私、馬場文英が考えますところ、近藤長次郎が龍馬からの依託を了承し、薩長の和解に尽力して、すでに六分まで事を成し遂げたわけですから、その功績は非常に大きいでしょう。ところが、ごくささいな過失に責任を感じ、節操高く、義に厚く、胆力にすぐれ、自刃したのは、ほんとうに痛ましいことです。私、長次郎さんには一度もお会いしたことがないのですが、その胆力と勇気、義に殉じる節操には、感嘆のあまり涙をこらえることができません。

 馬場文英は長次郎の行動を絶賛していまして、脚色はしていても、決してそれは、悪意あるものではありませんでした。
 明治初期には、土佐人の間でも、この認識は共有されていたものと、思えます。

 明治15年、高知出身で、京都府に奉職しておりました土居通豫が、「海南義烈伝」近代デジタルライブラリー「海南義烈伝.2編」)を発行しておりまして、その中に「近藤昶」として、長次郎の伝記が収録されております。
 土居通豫が語ります長次郎は、龍馬とも対等な関係ですし、薩長和解に動いたことも、龍馬からの指示があったとはされていませんで、経歴も正確です。この伝記で書かれました経歴は、以降、そのまま踏襲されることがけっこうありまして、それについては、また書くことがあろうかと思います。
 土居通豫に長次郎に関します情報を提供しましたのは、河田小龍ではなかったか、と、私は思います。
 さて、その「海南義烈伝」が記します長次郎の死の原因です。

 この時に当たって薩長あい善からず。昶(長次郎)すこぶるこれを憂ひ間に居て和解せんことを勉む。その往反の際事図を支牾を生し罪昶か一身に帰す。昶時に博多に在り之を明弁するに由なし。ここにおいて屠腹をもって心を明にす。薩藩の士某、昶の死を止んと欲し走てその旅舎にいたる。いたれば昶すでに死す。某天を仰て嘆いていわく、ああ天この良士を亡すと。よって慟哭するものこれを久しくす。

 長次郎は、薩長の和解を志して活動していたが、その間に薩長の行き違いが生まれて、その罪が、長次郎の一身に背負わされることになってしまった。長次郎はそのとき博多にいて、弁明するすべもなく、切腹して、自分が両藩和解にのみ心をくだいていたことを明かそうとした。ある薩摩藩士が、長次郎が泊まっていた宿に駆けつけて、切腹をとめようとしたが、長次郎はすでに死んでいた。その薩摩藩士は天を仰ぎ、「ああ、こんなにりっぱな志のある男を天は召されてしまった」と、いつまでも嘆いていた。

 なぜ、長次郎の死んだ場所が博多になっているのかがわからないのですが、あるいは、河田小龍から聞いた話が簡略にすぎまして、勝手に死んだ場所を博多にしたり、なんでしょうか。
 人づてに、簡略な小龍の話を聞いていたとしましたら、おそらく中村半次郎(桐野利秋)が小龍に、野村宗七の嘆きを伝えていたんでしょうねえ。
 ともかく、ここでも長次郎の死の原因は、「同盟中不承知之儀有之」からはずれてはいません。

 話が大きく変わってまいりますのが、翌明治16年、土陽新聞(現在の高知新聞)に連載されました坂崎紫瀾の「汗血千里駒」です。

汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝 (岩波文庫)
坂崎 紫瀾
岩波書店


 以下紫瀾の経歴は、主に上の岩波文庫版「汗血千里の駒」、林原純生氏の解説によります。
 坂崎紫瀾は、嘉永6年(1853)、江戸の土佐藩邸に生まれました。
 藩医の息子だったそうです。
 安政3年(1856)には一家で高知へ帰り、慶応3年(1867)、紫瀾は維新の前年に藩校に入学します。
 維新の年に15歳でして、戊辰戦争に従軍してはいません。

 明治6年(1874)、政変の年に上京しまして、政変で下野しました板垣退助たち、土佐と肥前の重臣が中心となって結成しました自由民権運動の政治結社・愛国公党の創立に参加します。その後、東京と信州松本で新聞ジャーナリズム活動に従い、高知に帰って、明治13年7月に創刊されました第二次高知新聞の編集長となります。
 この新聞は、自由民権運動の機関紙のようなものでして、度重なります政府の弾圧を受けてすぐに発行停止となり、翌14年12月には、身代わり紙として第二次土陽新聞が創刊され、明治16年、「汗血千里駒」が連載されることになります。

 えーと、ですね。
 明治6年政変と「民選議員設立建白書」を提出しました愛国公党につきましては、古い記事ですけれども、「幕末維新の天皇と憲法のはざま」と、「半神ではない、人としての天皇を」を、ご覧下さい。私の考える基本的な方向は、記事を書きました当時と変わっておりません。

 政変で板垣・後藤とともに下野し、愛国公党の主要メンバーとなりました江藤新平は、佐賀の乱に担がれて刑死しております。
 一方、板垣退助は、高知に帰りまして片岡健吉,林有造などと立志社を結成していましたが、明治10年、この立志社の林有造や大江卓などが、元老院議官でした陸奥宗光と連絡をとり、西南戦争に呼応して高知で兵を挙げようとしたことが発覚しまして、入獄しています。

 この時期、坂崎紫瀾は高知にいませんでしたので、挙兵騒動にはまったく関係しておりませんが、西南戦争後の日本におきまして、高知の自由民権運動派は、最大の反政府勢力であり、弾圧もまたすさまじいものがありました。
 紫瀾は政治小説などを執筆するだけでなく、高知の各地で演説をして自由民権を唱えていたのですが、その演説が法に触れたとして、明治14年の暮れには、一年間の演説禁止処分を申し渡されます。

 そんな中で執筆されました「汗血千里駒」は、政治小説ともいえるものでして、幕末の土佐勤王党に、弾圧される土佐自由民権運動が仮託されていた、といえるのではないでしょうか。
 そして、自由民権運動の指導者・板垣退助は、連載がはじまります前年の明治15年、岐阜で暴漢に襲われ刺されました。幸い命に別状はなく、そこまではよかったのですが、年の暮れから後藤象二郎と洋行しまして、指導者としての求心力を失い、運動は分裂します。

 板垣洋行問題の詳細は、田中由貴乃氏の「板垣洋行問題と新聞論争」(佛教大学大学院紀要文学研究科篇第40号)に詳しいのですが、要するに板垣の洋行費用が、運動を弾圧しています政府から出ているのではないか、という疑惑が問題を引き起こしたわけでした。

 紫瀾は、「汗血千里駒」連載中、短期間ながら、集会条例違反と不敬罪で入獄したほどの運動家でした。紫瀾のうちに、板垣洋行問題によりまして、運動指導者の洋行に対します否定的イメージが生まれたのではないか、という憶測は、許されるでしょう。

 さて、「汗血千里駒」なのですが、坂本龍馬が縦横無尽に活躍します伝記小説です。
 しかしでは紫瀾は、まったく取材しないで書いたのか、といえば、さすがはジャーナリスト、そういうことはないんです。
 いや、まあ、住んでいるのが高知ですし、維新からわずか16年、坂本龍馬と同時代を生きた人々の大多数が、まだ生きています。

 実は、ですね。
 私が今回、長次郎に強く関心を抱くようになりましたきっかけ、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)は、「汗血千里駒」のために書かれたのではないか、という推測があります。川田維鶴撰「漂巽紀畧 付・研究・河田小龍とその時代」(高知市民図書館発行)の宇高隨生氏著「解題」(p127)に、以下のようにあります。

 これ(藤陰略話)は明治の中頃手記されたものと思われる節がある。それはその頃板崎紫瀾の「干血千里の駒」が土陽新聞に連載中、同社の記者で小龍とも親交のあった野島嘯月が坂崎の依頼を受けて海援隊の近藤長次郎の経歴を尋ねて来た。その問いに答え手記したものではないかと思われる。

 えーと、ですね。
 「汗血千里駒」の連載は明治16年ですし、宇高隨生氏がその推測の典拠として出されています河田小龍の日記の日付は、明治26年1月24日でして、話がわからなくなるのですが、「藤陰略話」そのものではありませんでも、紫瀾が野島嘯月を通して小龍に近藤長次郎のことを問い合わせ、その回答を「汗血千里駒」の材料に使った可能性は、非常に高いと思います。
 といいますのも、長次郎に関しましては、「藤陰略話」と同じエピソードが書かれておりますし、それどころか、神戸での結婚のことまで書かれていまして、長次郎の妹の亀さんにも話を聞きに行ったのか、と思わないではないのです。

 しかし、ですね。
 いろいろと取材したにしましては、ずいぶんと荒唐無稽に脚色しておりますし、またそして、ここで初めて洋行話と長次郎の人格に関します否定的見解が出てまいります。

 まずユニオン号(桜島丸、乙丑丸)の話なのですが、船名が、長次郎の死後に高杉晋作がグラバーから購入しました小型貨客船オテント丸(丙寅丸)に変わってしまっています。
 しかし、「龍馬が京都にいるときは、社中の指導者は近藤昶、つまり長次郎であった」、となっていまして、基本的には、ちゃんと長次郎を評価しています。

 長次郎は、薩摩の客分であります社中に船の運用を任せてくれるのであれば、薩摩が長州に名義を貸すのだが、と高杉に持ちかけ、高杉が喜んで承知しましたので、イギリス人より軍艦を買って、これにオテントと名付けます。社中の浪士が乗り込み、下関へ着きましたところが、長州ではすでに乗り組みの藩士を選んでいまして、社中の浪士たちは「堂々たる長藩にして約に背き人を売るは不義不正のはなはだしきなり」と憤激し、「軍艦を渡さず、下関を焼き討ちしてやる」と騒ぎます。
 そこで長州側は奇兵隊をくりだす騒動になるのですが、たまたま龍馬が京都から下関へ来て、高杉は「社中の浪士たちは粗暴にすぎる」と怒り、龍馬は「長州のやり方に誠がない」となじるのですが、たび重なる交渉の結果、長州から社中の浪士へ慰労金を支払うことで、問題は解決しました。

 どうも、「ユニオン号事件は龍馬が解決した」といいます伝説は、「汗血千里駒」に始まったみたいです。

 それはともかく。
 この後龍馬は長崎で社中の浪士をよび集めまして、「われわれ社中は、友を裏切って売るような行為があれば、死をもってあがなうと誓約したわけだが、いま諸君のうちに、そうすべき人物がいる」と、きびしい口調で言いつのります。
 それが長次郎のことでして、長次郎が口を開こうとしますと、「近藤君、この後におよんで議論は無用だよ!」とつめより、長次郎を切腹させます。
 その理由は、以下に引用する通りです。

 かの浪士輩が高杉等と葛藤(もつれ)の折近藤は脆(もろ)くも長藩の誘う所となりて反覆しその報として近藤を洋行せしむるの内情あるによりてなりと。

 つまり、「社中の浪士が長州ともめたとき、長次郎は洋行させてくれるという長州の誘いに乗って、社中を裏切って長州の側についた」というんですね。

 い、い、いや、あのー、現実には長次郎はむしろ、薩摩の言い分の方を尊重し、長州海軍局と対立し、龍馬の方が長州海軍局の味方について話にわりこんでいるのですが、それはひとまず置いておきまして。
 「汗血千里駒」は()書きで、こういう説もあると、「海南義烈伝」が描きます長次郎の最後も併記しておりまして、かならずしも全部創作したのだとも思えないんですね。
 ユニオン号事件について、坂崎紫瀾は、いったいだれに取材したのでしょうか?

 ここから先はもう、私の憶測にしかならないのですが、「汗血千里駒」は坂本龍馬の伝記小説です。本文の最後に名前が出てきます坂本南海男(直寛)に話を聞かなかったということは、ありえないんじゃないんでしょうか。
 以下、「汗血千里の駒」の最後の部分を引用します。
 
 しかしてその坂本の家督を継ぎし小野淳輔は龍馬の甥にして前(さき)に高松太郎といえる者なり。現に宮内省に奉職せり。ちなみに説く。この淳輔の実弟南海男(なみお)は龍馬の兄権平の家督を継ぎて坂本と名乗りけるが、つとに立志社員となりて四方に遊説し人民卑屈の瞑夢を喝破するに熱心なるが如き、すこぶる叔父龍馬その人の典型を遺伝したるものあるを徴すべく、あるいはこれを路易(ルイス)第三世奈波侖(ナポレオン)に比すと云う。(完)

龍馬の甥 坂本直寛の生涯
土居 晴夫
リーブル出版


坂本龍馬の系譜
土居 晴夫
新人物往来社


 坂本南海男(直寛)は嘉永6年生まれ。坂崎紫瀾と同じ年です。
 母が龍馬の長姉・千鶴、父は高松順藏で、龍馬の甥にあたります。兄は高松太郎。
 明治2年、龍馬の兄・権平の養子となり、坂本家を継ぎます。
 その後、一時、東京に遊学していた時期があるようなのですが、明治7年には高知にいて立志社に加盟。明治9年から立志学舎の英学校に学んでいます。
 自由民権運動の闘士で、各地で演説をし、高知新聞、土陽新聞など、民権派の新聞に論説を寄稿する、坂崎紫瀾の同志でした。

 兄の高松太郎、ですが、龍馬の野辺送りに桐野(中村半次郎)と同道しておりますことは、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました。
 戊辰戦争に際しましては、海援隊とは別れ、清水谷総督の一行に加わりまして、箱館に向かいます。それについては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編に出てまいります。
 その後、ですね。箱館戦争になるわけなのですが、政府軍の反攻作戦に参加し、戦後再び箱館府に勤務。しかし明治2年の末になぜか免職となり、高知へ帰ります。
 明治4年、朝廷から、坂本龍馬と中岡慎太郎の家名を建てるように沙汰があり、高松太郎は名を坂本直と改め、叔父・龍馬の後を継ぎ、東京府や宮内省に奉職して、東京住まいでした。

 近藤長次郎の死に立ち会い、野村宗七にそれを告げに来た三人のうち、沢村惣之丞は慶応4年に長崎で自刃していますし、千屋覚兵衛は維新後、アメリカ留学の期間が長く、ユニオン号事件について故郷で実家の家族に語るようなことは、あまりなかったのではないか、と思われるんですね。
 一方、高松太郎は、箱館府を首になってから2年ほどは高知にいたわけですし、また、実弟の南海男が東京へ出ていた期間もあるわけでして、語っていてもおかしくはありません。
 坂崎紫瀾が高松太郎から直接話を聞いたとは、とても思えないのですが、南海男が聞いていた話を又聞きし、想像を膨らませたのではないのでしょうか。

 事実として、龍馬は近藤長次郎の死の現場に居合わせていませんから、長次郎に切腹を迫った者がいたのだとしましたら、それは沢村惣之丞、 高松太郎、千屋寅之助のうちのだれか、ということになりますが、その原因として、洋行話があげられているのは、どうなのでしょうか。
 長州に頼っての洋行が即裏切り、といいますあたり、伊藤博文が出した政府の金で賄われたからよくないと騒がれました板垣洋行問題とあまりにも似ていまして、どこまでが事実で、どこまでが紫瀾の創作なのか、ちょっとわかりかねます。

 ただ、もしかしまして、高松太郎は長次郎にあまり好意を抱いていなかったのではないかと、憶測できるような材料が、もう一つあります。
 次回は、龍馬が手帳に書きつけていたとされます有名なくだり、「術数余りありて至誠足らず、上杉氏の身を亡す所以なり」についての考察から、入りたいと思います。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol2

2012年11月30日 | 近藤長次郎

 近藤長次郎とライアンの娘 vol1の続きです。

 「ライアンの娘」はなぜ、興行的に成功しなかった(デビット・リーンの大作映画にしては、ですが)のでしょうか。
 私、それはおそらく、アイルランド独立運動の光と闇の、その闇の犠牲者として、ヒロインを描いたためではないのか、と思うんですね。
 ヒロインは夢を見すぎで、地に足の着かない感じがあり、一方、独立運動に献身します村の人々は、排他的で粗野にすぎます。どちらかに一方的に、感情移入して映画を見ることは、むつかしいんです。
 普通に一般受けする物語、と言いますのは、主人公に感情移入して見ることができるもの、なのではないんでしょうか。
 
 まだ、わからないことが多いのですけれども、私、「近藤長次郎使い込み伝説」も、「中村半次郎(桐野利秋)龍馬暗殺伝説」と同じく、戦後もごく最近になって、作られていったものではないのか、と思います。
 そしてこれらの馬鹿げた伝説は、どうも、龍馬に実像が霞むほどの強烈な光をあてて巨大化させました結果、その龍馬を引き立るための脇役を、事実をまげて作り上げ、闇に引きずり落とす必要があった結果、生まれてきたものと言えそうです。
 千頭さまの奥様も、「龍馬に光があてられる反面で、長次郎は石をくくりつけられて沈められている気がする」とおっしゃっておられまして、この奥様の感慨は、150年の時を超えて届いた、過去からの声そのもののように聞こえます。

 実は私、近デジに『維新土佐勤王史』があることをつい先日まで知らずにいまして、ようやくいま、読んだのですけれども、これには決して、龍馬がユニオン号事件を解決したなどとは書いていない!んです。かなり正確に、以下のようにあります。
 「桜島丸(ユニオン号)問題の葛藤は、土佐同志と長藩海軍局員との衝突となり、延きて薩長両藩直接の交渉談判となり、その間に幾多の波乱曲折あり、遂に翌年丙寅六月に至りて、始てその局を結ぶを得たるが、彼の上杉は土佐同志の攻撃を受け、まさに海外渡航の素志を達せんとして、空しく長崎に自尽するに至る」

 うへー、どびっくりです。
 「ユニオン号事件は龍馬が解決した!」といいますのは、司馬さんが「竜馬がゆく」で創作した伝説、だったんでしょうか。

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 さて、その『維新土佐勤王史』に行きつきますまでの「長次郎の死の原因」記述の歴史です。
 まずリアルタイムでは、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」で書きました、薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記(東大史料編纂所所蔵)です。皆川真理子氏の論文からの孫引きになりますが、再録します。慶応2年(1866年)1月23日、長崎における話です。

 野村のもとへ沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が現れ、長次郎が「同盟中不承知之儀有之」自刃したと告げます。
 ちょうど、木戸が薩長同盟の条文をつづり、ユニオン号のこともどうぞよろしく頼むと、書いたその日です。


 つまり、近藤長次郎の死を見届けました沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助、社中の仲間にして土佐勤王党士の3人は、その日のうちに、長崎の薩摩藩士に、「同盟中不承知之儀有之」、つまり「薩長が同盟しようとしている中で、承知できないことがあったので」長次郎は自決したのだと、言っているわけですね。

 これが本当だったにしろ、嘘だったにしろ、です。
 薩摩藩士がそれを聞き、納得できる理由ではあったわけです。
 この知らせを、陸奥宗光が京都の小松帯刀に知らせ、西郷隆盛が桂久武に伝え、久武は「誠に遺憾の次第なり」と日記に書いております。

 長次郎が承知できませんでしたのはもちろん、長州が、長次郎と井上薫(聞多)がかわしました最初の約束を覆し、ユニオン号の乗組員をすべて長州人とし、長州が金を出すのだから長州海軍局で運用する、と言い出したことです。
 長州名義で船は買えませんから、名義は薩摩です。

 長崎県文化振興課のサイト「旅する長崎学」歴史探検コラム に、【長崎と坂本龍馬と船】その1 ワイルウェフ号の購入記録 というコーナーがありまして、以下のように書いております。

 安政の開港により、安政6年(1859)長崎・横浜・函館で貿易がはじまりました。輸出入品の取引は基本的には自由貿易でしたが、武器・艦船などの軍用品については例外規定がありました。日米修好通商条約の第3条には「軍用の諸物は日本政府の外へ売るへからす」とあり、日本政府(ここでは江戸幕府ということになります)を通してしか輸入できないきまりでした。この規定はアメリカ以外の諸国との条約にも盛り込まれています。そのため、長崎において各藩が外国商人から軍用品を購入しようとするときは、江戸幕府の出先機関である長崎奉行所を通してしか購入できませんでした。長崎での軍用品の取引については、安政6年以降、各藩が長崎奉行所に提出した購入願の綴りが残されています。

 つまり、朝敵となり、これから幕府が攻め寄せてくる、といいます窮地にいました長州は、他藩の名義を借りなければ、武器は購入できないわけです。
 それを見越しました坂本竜馬や中岡慎太郎たちが、薩摩が長州に名義貸しをし、両藩の協力関係が築かれますことで、こじれにこじれておりました両藩が手を携え、幕府に対抗する以外に、日本を生まれ変わらせる道はなく、自分たち(佐幕派の自藩で弾圧されていました土佐勤王党)にも立つ瀬はないと、両藩の間を取り持ち始めていたところでした。
 長次郎もその一環の流れの中で行動していたのですが、長州が軍艦を買うのに薩摩が名義を貸し、そのかわりに、その船には長次郎たち、薩摩の客分であります社中が乗り込み、戦がないときには薩摩の交易に従事する、ということで、長次郎が最初に約束をかわしました井上聞多は、承知しておりました。

 承知しなかったのは長州海軍局ですが、しかし軍艦は、薩摩藩が長崎奉行所に願い出て購入し、薩摩藩籍で動かすわけですから、武器とちがいまして、名義貸しの証拠が残ります。
 つまり、薩摩藩にも、明確に幕府と敵対する覚悟がいるわけでして、なんのためにそんな危ない橋を渡らなければならないのか、藩内に反対する勢力は大きく、これは私の憶測にすぎませんが、久光公を納得させますのは、至難の業だったと思います。

 このユニオン号事件に置きます龍馬の行動には、私、「事情がわかってないんじゃないの?」と、釈然としないものがあるのですが、それは、「井上伯伝」が返ってきましてから、もう一度、分析してみます。
 しかし、ただ言えますことは、長崎では幕府が見張っているわけですし、久光公や長崎の薩摩藩通商部現場だけではなく、売り主のグラバーも、龍馬のやり方で納得したはずがない、ということです。

 実は、ですね。
 このときの幕府とグラバーの言動を浮かび上がらせますと同時に、戦後、それもごく最近になりまして、「近藤長次郎使い込み伝説」を生んだ元凶になったかも、と思えます風説書があります。
 「近世庶民生活史料 藤岡屋日記14」です。

 これ、幕末に、神田の書店・藤岡屋の店主がつけていました風聞スクラップ集でして、この慶応2年10月、ですから、6月に始まりました幕長戦争(第二次征長)が長州の勝利の内に終わり、9月に停戦したところです。7月には、将軍家茂(和宮の夫)が大阪城で若くして逝去しています。
 ともかく、その慶応2年10月付けの、「長州形勢探索書」が載っているのだそうなのです。

 「藤岡屋日記」、近くの図書館にありません。本当は、必要部分のコピーでもを取り寄せるべきなのですが、ちょっと今すぐのことにはなりませんので、山本栄一郎氏の「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」から、孫引きさせていただきます。
 この方、山口県の幕末維新研究家でおられるそうで、文芸社の自費出版らしき本なのですが、ユニオン号事件の文献に詳しく、とても参考になります。
 ネットで、「藤岡屋日記」のこの記事をあつかっているサイトさんもあるのですが、解釈が当時の実情からあまりにもかけ離れ、奇妙ですので、避けました。

 (追記) うへーっ! 藤岡屋日記の14巻、県立図書館に入ってました。コピーしてきます。結果、まちがいがあれば訂正します。

真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実
山本 栄一郎
文芸社


 当正月、桜島丸(ユニオン号)、長州下関へ相越候節、同所より乗組参り候上杉庄次郎(上杉宗次郎は近藤長次郎の変名)、元勝麟太郎門人にして、当時長州騎兵隊頭ニ相成候者に侯ところ、英商ガラハより承り候には、先達って受取候船代之内、二千両、船中用意致し欠け、貸(借)くれ候様申し候に付、貸渡し置候ところ、いまだ返却これ無き由にて、右は庄次郎(宗次郎)より疾く返却致候儀と、船中一同承知居り候ところ、いまだに返却いたさず、右は同人取込みおり候儀共、乗組一同より糺問致し候ところ、右二千両押貸(借)の企てはもちろん、それ以前桜島丸を下関江へ差置き、米積入れ、長州人を右船ニ乗せ、薩方より乗組おり候者は残らず上陸いたさせ、右船にて英国へ罷り越すべく、庄次郎一己の巧の由、相顕れ候に付、罪状詰問、切腹致させ候事。

 以下の現代語訳といいますか、解釈は、私のものです。かなりいいかげんですことを、ご承知おきください。

今年の正月、薩摩の桜島丸(ユニオン号)が長州の下関へ行きましたとき、上杉庄次郎という名で、元は勝海舟の門人であり、そのときには長州奇兵隊の隊長になっていた者が、乗り込んできたのだそうです。イギリス商人グラバーのところへうかがったのですが、彼は、次のようなことを話してくれました。「上杉庄次郎、ですね。彼は、先に私が受け取った船代金のうちから、船を動かす経費として2千両が足らないので貸してくれというので、貸しましたところ、まだ返してくれてないんですよ。船の乗組員一同(薩摩方の人々)は、上杉さんが返すものと思っていましたのに、返しませんので、糾問しましたところ、実は上杉さんはその2千両を着服したばかりじゃありませんで、その前に桜島丸が下関へ寄りましたとき、米を積み入れて、長州人ばかりを船に乗せ、薩摩方から乗り組んだ者は全員おろして乗っ取り、桜島丸で長州人とイギリスへ行くつもりだったんですよ。これ、上杉さん一人のたくらみだったんだから、怖ろしいねえ。それが、薩摩方の人々にばれてしまいましてね、罪を問うて、切腹させたということですよ」

 藤岡屋が、この探索書をスクラップしましたのが10月で、実際のグラバーへの聞き込みは、いつ行われたのでしょうか。
 この慶応2年、4月には海外渡航が解禁されているんですよね。
 それ以降では、これ、いくらなんでも馬鹿馬鹿しすぎる話になるんじゃないでしょうか。
 「船をうばってイギリスへ~♪ Go West ~♪」

Go West - Pet Shop Boys - World´s Armys


 すみません。ガラバさんのあんまりな口からでまかせに、つい。
 聞き込みに行ったのは、長崎奉行所の下っ端役人でしょうか? 通訳つき?
 ガラバさんのこんなホラ話を聞いていて、吹き出してしまわなかったんでしょうか。

 近藤長次郎の死は、薩摩藩士の死として、長崎奉行所に届けられたものと思われます。
 しかし、ユニオン号にまつわる動きは派手でして、奉行所は目をつけていたんでしょうね。
 長次郎は薩摩藩士ではないと、奉行所にはわかっていたでしょう。
 奉行所の疑いはもちろん、長次郎の仲介で、グラバーが実は、ユニオン号を長州に売り渡そうとしているのではないか、ということです。

 えー、船の運用費用千両を、長次郎がグラバーから借りていましたことは、長次郎の聞多宛の手紙に書いております。
 幕府の役人の聞き込みに、グラバーがわざわざ倍額にして話すのもおかしな気がするのですが、なにしろ、伝聞の伝聞くらいの話になりますので、聞き間違いもあるでしょうし、これはあまり気にする必要がないと、私は思います。
 ともかくこのお金、グラバーとしましては、長次郎の後ろには薩摩藩がいると、わかっていますから貸したわけなのですが、実際に金を払うのは長州でして、船のあつかいが宙に浮き、長州が金を払おうとしませんことから、すべてを死んだ長次郎のせいにして、語っちゃったわけなんでしょう。
 に、しましても、おちょくってますよねえ、幕府を。

 つまり、ただただガラバさんが言いたいことは、「私は~♪、薩摩と取り引きしているだけ~♪ 死んだ上杉さんが長州方についた悪い人で、船を薩摩から奪って、長州のものにしようとしたの~♪」ということにつきると思います。

 神戸海軍操練所の土佐人には、長州よりの過激派が多く、その一人の望月亀弥太は、池田屋事件で死んでいますし、だいたい神戸海軍操練所が閉鎖に追い込まれましたのは、勝海舟が過激浪人を集めているという評判が立ったからでして、勝海舟の弟子の土佐人というだけで、幕府にとりましては怪しいんです。
 禁門の変におきましては、他藩人を集めました長州の忠勇隊は、中岡慎太郎が指揮しておりますし、長州の諸隊は、幕府にとりましてはみんな奇兵隊かもしれず、まあ、勝の弟子の過激土佐人が長州諸隊の隊長になっている、といいますのは、当時、十分にありえる話だったわけです。
 そして実際、結局のところ、ユニオン号には一部、社中の人間も乗り込みまして、なんとか間に合って、幕長戦争に参加したわけですし。
 
 さてしかし。
 なにしろこの話、「長州形勢探索書」でして、ガラバさんが語った相手は幕府の小役人なわけですから、当時、それほど世間にひろまっていたとは思えないのですが、どうなのでしょうか。
 藤岡屋日記が刊行されました現代になって、例えば龍馬が商社の元を作ったとか、わけのわからない説を唱えます、ろくに史料も読まず、まったく幕末を知らない人々が、この記事を曲解し、近藤長次郎使い込み伝説をこしらえあげたわけではないんでしょうか。

 次いで、山口県立文書館所蔵の「土藩坂本龍馬伝 附 近藤昶次郎、池内蔵太之事」です。
 龍馬全集に収録されていまして、その解説には「旧公爵毛利家文庫所蔵のもの」とあります。そして解説では、著者不明となっていますが、山本栄一郎氏が「真説・薩長同盟―坂本竜馬の真実」におきまして、明快に著者を解明されています。
 
 その論考の詳細ははぶきますが、著者は、在野の史家で、「七卿西竄始末」(近デジにあります)で知られます馬場文英です。私、知らなかったのですが、この「土藩坂本龍馬伝」、中原邦平が「井上伯伝」の主要参考文献として、使っているのだそうです。

 ところで馬場文英は、「土藩坂本龍馬伝」の元になりました史料を、文中で明らかにしてくれています。
 「この原書は、直柔(龍馬)が籍嗣小野淳輔(高松太郎、坂本直)が維新の際、官に上する所の直柔が履歴書」とあるんです。

 一方、霊山歴史館の木村幸比古氏は、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」(p111)で、この毛利家文庫の「土藩坂本龍馬伝」には、「欄外に朱書したるは島津編輯員市来四郎氏の筆に係る、録して参照とす」(明治24年7月11日写本)とある、と書かれておりまして、ちょっと私、わけがわからなくなっております。

 馬場文英の書いたものを、市来四郎が写したってことなんでしょうか。
 それとも、「高松太郎が官に上する所の直柔が履歴書」を市来四郎が写し、それを馬場文英が下敷きに使った、ということなのでしょうか。
 どうも私、内容からいきまして、薩摩藩士だった市来四郎の筆が入っているように思いまして、龍馬の甥の高松太郎が、明治4年、朝命により龍馬の後を嗣ぎまして家を建てることとなった際、龍馬の履歴を書いて、明治新政府に提出しましたものに市来四郎が手を加え、さらにそれに馬場文英が手を加えたものが、毛利家文庫に残されているのではないか、と思います。

 えーと、まあ、ともかくです。
 馬場文英がこの伝記を書きましたのは、明治24年前後のことなのか、という感じですが、高松太郎が原書を書きましたのは、かなり早い時期、おそらくは明治4年前後、と思われるんですね。
 そして、そのころだったとしますと、政権中枢には、かなりの数、事件を知ります薩摩人がおります。
 高松太郎が新政府に提出しました原書が、近藤長次郎の死の原因に触れていたとしましたら、書いたものは、当然のことなのですが、自ら当日、薩摩藩長崎屋敷に届け出た「同盟中不承知之儀有之」を、大きくはずれるものでは、ありえないんですね。

 実際、次のような記述なのですが、文中に野村の名前まで出てきますことから、私は、市来四郎が調べられることは調べて、加筆したものではないのかと思うのです。
 あと、自刃の場面などの劇画のような描写は、馬場文英によるもののようでして、ちょっとありえないことも書いていますし、相当な脚色が見られます。

 原文は高松太郎によります龍馬の顕彰文なのですから、長次郎が「龍馬から、薩長連合のため、薩摩名義で長州の汽船を購入してはどうだろうか、と聞かされていて、自分にできるかぎりのことをした」と言った、としているのは、原文に忠実なのでしょう。
 しかし、長州海軍局の中島四郎が長次郎とともにユニオン号に乗って長崎に来て上陸し、「自分、中島四郎がユニオン号の船長である」旨の名刺を薩摩藩邸に届けた、というのは、やはり、馬場文英の脚色でしょう。
 薩摩藩邸では、当然、「金は長州が出しても、薩摩船籍の船だし、乗り組みは(薩摩に雇われた)社中でなければおかしい。長州の中島四郎が船長だなどと、最初の約束とちがうではないか!」と怒りの声がわきます。
 説明を求められた長次郎は、板挟みになって困り、「自分なりに、薩長連合の一助になればとしたことですが、このたびは長州の方でもいろいろ議論が起こりまして、中島四郎が乗船して来ることになり、いまだなんの説明もしないうちに、お屋敷に名刺を届けることになったのは私の不始末です」と言い、以下の引用のような事態になります。

「然りしかすれば一には定約状に違ひ、二には直柔(龍馬)よりかくの如き大事を委任せらるるを過ち、これよりしてまた両国の和約破談に至らば、いかにしてこれを謝せんや、これを謝するに道なし、身をもってその罪をあがなはんと。短刀を抜くより早く左の腹に立てる。薩吏これを見るやかつ驚きかつあわてて急に止めんとするに、はや重傷に弱りいわく、我不省といえども両国(薩長)和解の緒をひらきたるも、今不幸にしてその志を遂げず。衆庶ともになお尽力ありたくねがはんと。言果てずして右腹を切り回し斃れたり。このおりがら桜島丸(ユニオン号)帰り合せたるによって乗組の衆士等周旋し、薩邸の吏野村宗七へあい謀る。同氏も近藤が志を深く賞し、死体を懇に埋葬す。各野村が指図により、葬事まったく終われり。ああ惜しむべき壮士にこそ」

 基本的に「同盟中不承知之儀有之」からはずれてはいないのですが、具体的な状況は、野村の日記の記述とだいぶんちがってきます。
 市来四郎の加筆だけでしたらこうはならなかったと、私、思うのですね。
 馬場文英は、京都の農家の子に生まれ、筑前福岡藩御用達の商家の養子となり、長州よりの心情を持っていたようでして、慶応元年には、著作が幕府の禁に触れ、入獄しているのだそうです。
 まあ、ですね、この後に続けまして馬場文英は次のように注記していまして、原本を読みましても、事情がよく呑み込めなかったんでしょうね。

 総てこの原書は直柔(龍馬)が籍嗣小野淳輔(高松太郎)が維新の際、官に上する所の直柔が履歴書なれば、その実事確書なるは論をまつべきにあらずといえども、時事の年月日においてはその時々に日記したるものにあらざれば、事の前後あり、かつは年月日のちがひままあり。よって錯雑のところ多し。

 次回はいよいよ、明治16年に出版されました坂崎紫瀾の「汗血千里駒 」です。

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近藤長次郎とライアンの娘 vol1

2012年11月28日 | 近藤長次郎

 どこからお話すべきでしょうか。
 実は、音楽家の肝付兼美さまが、私のブログを読んでくださっておられるんです。
 Wikiに掲載されておりますが、肝付兼美氏は、小松帯刀のはとこのご子孫です。ちゃんと喜入肝付家の系図にご先祖のお名前がありまして、名門でおられます。行進曲「小栗公、メリケンを行く」を作曲しておられ、小栗上野介の菩提寺・東善寺さんのご住職とも、懇意にしておられるそうです。

 青葉マンドリン教室事業部のコンサート情報に、12月23日群馬マンドリン楽団の東京公演の案内がありまして、こちらで「小栗公、メリケンを行く」が演奏されるそうですので、お近くの方は、ぜひ。

 私、 Twitterのアカウントを持っていながら、ろくに使っていませんで、知らなかったのですが、ダイレクトメッセージという機能があるんですね。
 で、肝付兼美さまからそのダイレクトメッセージをいただき、近藤長次郎の妹さんのご子孫の方が、連絡したいと言っておられるとのことだったんです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書いておりますが、両親が亡くなりましたときに、長次郎は、家業の饅頭屋は妹が養子をとって継ぐこととして、土佐を出ました。
 長次郎は神戸で結婚しておりまして、百太郎という息子を一人残して世を去ったのですが、こちらにつながります直系のご子孫は、九州の方におられます。

 長次郎の妹・亀さんが養子を迎え、その曾孫にあたられます千頭さまと奥様が、肝付兼美さまと知り合われて、私のブログを読んでくださったとのこと。こちらから連絡させていただきました結果、千頭さまご夫妻は高知にお住まいで、ご夫婦で松山まで会いに来てくださいました。

 いや、ですね。
 ブログに書いた以上のことを、私が知るはずもありませんし、お話できることは限られておりますから、とりあえず『井上伯伝』をお貸ししまして、いま、手元にありません。
 電話やメールでも、幾度かやりとりをさせていただき、どうにもお話がすれちがう部分がありますのを感じまして、はたと気づきましたことは、いまさらなんですけれども、「私ってオタクなんだ!」ということです。

 千頭さまは、直系のご子孫が高知市民図書館に寄託なさった長次郎の遺品の管理を、任されていたりもなさるそうです。
 しかし、「龍馬伝」の放送まで、幕末そのものにはほとんど関心を持ってこられなかったそうなのですが、なにしろ、住んでおられるのが高知です。「龍馬伝」にまつわりまして、近藤長次郎は幾度か新聞などの記事になり、それが決して、好意的なものではなかったそうなのですね。
 
 なにより、ご夫妻が納得がいかれませんのは、「長次郎が自刃した原因は使い込み」といわれることだそうなのですが、「??? そんなことを書いている資料はないはず」です。
 ところが、ぐぐってみましたら、けっこうあるんですよねえ。そういうことを書いていますブログとかが。
 個人の方だけかと思いましたら、新聞でも書いていたりするみたいです。

 「涼やかな龍の眼差しを」というサイトさんの 坂本龍馬関連ニュース記事 「近藤長次郎碑建立を ひ孫ら寄付金募る 亀山社中の中心(読売新聞/2010年9月16日)ほか」に毎日新聞の記事が載せられていますが、次のような文章があります。

 長次郎は土佐藩(高知県)の饅頭(まんじゅう)商人の家に生まれたが、勝海舟に弟子入りして武士となり、龍馬とともに長崎に渡った。薩長同盟で主導的な役割を果たしたとされるが、英国渡航の直前に切腹。その死は謎が多い。亀山社中の公金を横領したともいわれるが、長崎史談会相談役の宮川雅一さん(76)は「そういう文献はない。薩摩も長州も長次郎のことを認めており『龍馬伝』ブームの今、正当に評価されるよう顕彰したい」。

 これはもう、長崎史談会相談役の宮川雅一さまという方がおっしゃる通りでして、「公金横領って、いったいどこから出た話なの???」と、不思議です。
 そこがオタクなのですが、私にとりましては、「史料にはまったく出てこない、いいかげんな回顧談や伝聞や伝説を、本当のことみたいに言い立てる方が馬鹿」なんです。
 とは言いますものの、わけもなくご先祖が「公金横領」だなどと言い立てられるのは、いやですよねえ。そのお気持ちはわかりますし、関係のない私でさえも、気分が悪くなります。

 私、つい最近、「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」(Wikisource)を見まして、河田小龍が中村半次郎(桐野利秋)に長次郎の最後を聞いたのだと知りますまで、近藤長次郎に、それほど関心を持っていたわけではありません。
 ちゃんと調べるまで、私が長次郎さんに対して抱いていましたぼんやりとしたイメージといいますのは、「留学を志して夢がかないかけたのに、社中の仲間からねたまれて、切腹に追い込まれた不運な人」というようなものでして、横領などとは無縁です。

 なんでこんなイメージを抱いていたのだろう? と、つらつら考えてみましたところ、やはりこれは、乙女のころに読みました司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』の印象が鮮烈に残ったのではなかろうか、と思い当たりました。
 
竜馬がゆく〈6〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 久しぶりにとばし読みしまして。
 中村半次郎が出てきておりましたのにびっくり。
 あんまり感じ悪く描かれてはいないのですが、もちろん嘘ばかり、です。
 小松帯刀が出てきましたのにも、ちょっとびっくり、です。
 小松に関しましては、嘘と言えるほどの嘘は、書かれておりません。

 近藤長次郎につきましては、六巻に突然出てきまして、それまで、まったく出てこないんですよねえ。
 いや、『竜馬がゆく』の「竜馬」につきましては私、いろは丸と大洲と龍馬 上「龍馬史」が描く坂本龍馬続・いろは丸と大洲と龍馬などで、「司馬さんの『竜馬がゆく』は嘘ばかりだけれど、娯楽に徹したフィクション、小説だから仕方がない」とこれまでにも、さんざん言ってまいりました。

 で、そのフィクションの中に、長次郎さんもはめこまれているわけですから、当然、嘘ばかり、ではあるんですけれども、司馬さんの場合、やっかいですのは、かなりちゃんと調べられたことが巧みにちりばめられておりまして、文章の非常な上手さも手伝い、登場人物が、驚くほどのリアリティを持ち、生き生きと動いているものですから、その印象が強烈に脳裏に焼きついてしまうことです。

 私の「留学を志して夢がかないかけたのに、土佐勤王党の仲間からねたまれて、切腹に追い込まれた不運な人」という長次郎さんのイメージも、やはり、『竜馬がゆく』によって形作られたものだったようです。
 最初にこの本を読みました当時、私は、幕末史をろくに知らず、そこそこは主人公の「竜馬」に感情移入して読んだのですが、私の性格が司馬さんが造形なさいました明るい「竜馬」とは、あまりにちがいすぎまして、「協調性がない」「仲間とともには仕事が出来ない」といいますような、司馬さんが「饅頭屋長次郎」を造形する上でついたマイナス方向への嘘に、私むしろ好感を抱きまして、長次郎の方に感情移入しちゃったようなんですね。
 「こんなことでねたまれるなんて、気の毒に。だから田舎者の集団はいやなのよ。長次郎さん、竜馬のもとになんかいないで、もっと早くから一人で留学する道をさがしてみればよかったのに」と感じ、その印象が長く尾を引いて残ったもののようです。

 それにいたしましても。
 司馬さんは、基本的に『維新土佐勤王史』(近デジにあります)を下敷きにされています。
 ユニオン号事件は龍馬が解決したことになっていまして「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」「高杉晋作とモンブラン伯爵」に書いておりますが、ユニオン号事件は長幕戦争の開幕直前まで解決しておりませんし、龍馬が解決したわけではありません)、長次郎は社中の隊規を破って、一人イギリスへ留学しようとしたことから、社中の仲間に迫られて自刃、ということになっております。

 しかし、「使い込んだ」とか、「社中の金を横領した」とかとは、まったく書かれておりませんで、いったい、どこから出た話なのでしょうか。
 もう一度叫びますが、そんなことを書いている文献は、どこにもありません!!!

 しかし、考えてみますと私、昔、『竜馬がゆく』で培いました長次郎のイメージ、「土着の強固な絆から浮き上がってしまった者の悲哀」は、一応、ちゃんと資料を読んでみました今も、ぬぐえないでいるみたいです。

 今回、「桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次諸 vol5」で書いておりますように、皆川真理子氏の論文により、薩摩藩士・野村宗七(盛秀)の日記が、リアルタイムで長次郎の死を記しておりますことを知りました。これによりますと、長次郎の死に直接かかわりましたのは、社中の中でも、沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助の三人です。

 長次郎の死の最大の要因は、やはり、薩長同盟におきまして、藩主父子から藩主父子への橋渡しという要に立ちながら、役目を果たせなかった、という自責なのでしょう。
 しかし、その死を野村に告げにきました三人は、亀山社中でも、土佐勤王党に属したメンバーで、長次郎とは肌合いがちがった、と思うんですね。
 自分たちの蒸気船乗り組みは保証されず、同じように活動しながら、長次郎のみがイギリスに遊学するとは許されない、という思いも、あるいはあったのではないんでしょうか。


 と、結論に書いたような次第でして、この「肌合いのちがい」が、お題につながるわけです。

ライアンの娘 [DVD]
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ワーナー・ホーム・ビデオ


Ryan's Daughter (1970) Trailer


 「ライアンの娘」は、「ドクトル・ジバゴ」と同じく、デビット・リーン監督の映画です。
 私、実は昔は大作映画嫌いでして、乙女のころに見ましたデビット・リーンの映画って、興行的には大失敗だったこの「ライアンの娘」のみでした。ヒットした映画ではありませんでしたから、リバイバル上映もなく、テレビ放映もなく、苦労して、どこかの小さな上映会で見たのだったと思います。
 
 この映画、「ドクトル・ジバゴ」と時代が重なっておりまして、第一次世界大戦の最中、アイルランドの話です。
 若く、美しいヒロインのロージーは、アイルランドの寒村で居酒屋を経営しますライアンの一人娘で、母親は早くに亡くなっていて、いません。
 村は全体に貧しく、村人の多くは教養とも洗練とも無縁でして、ロージーは、村の中では金持ちともいえますライアンの愛情を一心に浴びて育ち、服装も都会風で、浮き上がった存在です。
 確か冒頭、ロージーの白いレースの日傘が断崖に舞うんですが、ベルエポックの華やかな文化とは無縁のひなびた村で、ベルエポックを象徴しますような日傘が空に踊る光景は、印象的です。

 乙女のころの私は、自分で自分のことを、「協調性が無く、まわりに溶け込めない浮いた性格」と思い込んでいたところがありました。
 そんなわけでして、最初はロージーに感情移入して見ておりましたが、共感できたかと言いますと……、えー、私、昔から、うじうじごたごたしているのは大嫌いな性格でもありまして、途中から「あんた、なにしてるの! さっさと駆け落ちして、こんな村出て行きなさいよっ!」と怒鳴りたくなり、不倫の恋の行方よりも、ですね。アイルランド独立闘争の生の現実が、画面の中から飛び出して迫ってくるようでして、「ああ、人が生きていくって、こういうことなのよねえ」という感慨の方に、声を無くしました。

 ロージーは、一回りも年がちがいます村のやもめ教師に憧れ、結婚するんですけれども、すぐに失望し、満たされないものを抱えています。そこへ現れましたイギリス人将校ランドルフは、第一次世界大戦の戦場で、負傷し、神経を患い、アイルランドにまわされて来たんですね。リーズデイル卿とジャパニズム vol3 イートン校の最後に書いておりますが、第一次世界大戦は、イギリスにとりましても、本当に悲惨な戦いだったんです。
 ロージーとランドルフは惹かれあい、密かに逢瀬を重ねます。
 しかし、密会はいつしか知れ渡り、相手がイギリス人将校だったことも手伝って、ロージーは村中から白眼視されるようになります。

 そのとき、アイルランド独立闘争のため、ドイツからの援助(敵の敵は味方です。ドイツはロシアの反政府運動とともに、アイルランドの独立闘争も援助していました)の武器を積んだ船が、村の沖合に来るのですが、猛烈な嵐に見舞われ、村人は総出で、武器の荷揚げを手伝います。
 嵐の中、女子供も含めました村人たちが心を一つにして、独立闘争に燃えますこの場面が、なんとも感動的なのです。
 それだけに、密告によってランドルフが指揮するイギリス軍が出動し、独立運動の闘士が捕らえられましたとき、村人の密告者への怒りが爆発しますのは、当然のことと思える描き方ではあるのですけれども、しかしまたそれだけに、衝撃に呆然とする結末でもあります。

 密告者はライアンだったのです。
 しかし村人たちは、ランドルフと関係を持った娘のロージーの方が密告者だと決めつけ、リンチを……。
 
 なんといえばいいのでしょうか。
 独立闘争をささえます村人たちの紐帯は、非常に強固なものでして、それがあればこそ、危険も顧みず、嵐の中で無償の戦いに励むことができます。
 しかし、その紐帯の反面には、粗野な土着の排他性があり、異分子に容赦がないんです。
 そこに、自由はありません。

 幕末、土佐勤王党の戦いも、このアイルランドの村人たちの、独立闘争のようなものでは、なかったでしょうか。
 しかも、武市瑞山が死に、多くの犠牲を払い、坂本龍馬と中岡慎太郎も維新直前に逝き、生き延びた多くの郷士たちも、それほどに報われたわけではありません。
 司馬さんが書いていたのだと思うのですが、例えば田中光顕(青山伯)や土方久元のように、岩倉や三条など、公家出身の元勲に引き立ててもらい、宮内省を中心に集まった者たちが、わずかに生身で栄誉を得ただけです。

 長次郎は、この土佐勤王党の紐帯の外にいまして、あるいはそのことが、その死に関係したのではないだろうかと、そういう思いは、私の中でずっと続いています。

 今回、もう一度、近藤長次諸のことをこのお題で書いてみよう、と思いましたのは、千頭さまご夫妻だけではありませんで、幕末オタクではありません友人が、私が近藤長次諸のことを書いていると知ってブログを見てくれたのですが、「むつかしい!」という感想だったんです。
 い、い、い、いや……、むつかしいことを書いているつもりはないんですけれども、説明不足なんでしょうか、うーん。
 
 ともかく、まずは近藤長次郎の死の原因にお話をしぼりまして、大正元年に出版されました『維新土佐勤王史』に至るまで、どのように描かれてきたのか、変遷を追ってみたいと思います。
 お楽しみに(い、い、い、いや……、楽しいんでしょうか。また、むつかしいと言われたりしまして)。

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高杉晋作とモンブラン伯爵

2012年03月06日 | 近藤長次郎


 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5の続編、といいますか、発展といいますか。

 実をいいますと、高杉の従兄弟、南貞助のことが書きたくなりまして、書こうとしたのですけれども、慶応2年の高杉の洋行騒ぎについてちょっと補足をしたくなり、中原邦平著「井上伯伝」を読んでいますうちに、これって、モンブランがらみともいえるのかと。
 といいますか、えー、同じ時代の話なんですから、あたりまえといえばあたりまえなのですが、なにもかもが、驚くほどにリンクします。

 慶応2年(1866年)の一月、木戸孝允が上京し、西郷隆盛、小松帯刀と会談し、坂本龍馬が同席して、いわゆる薩長同盟の成立があります。それとほぼ同時期に、薩長同盟にからみますユニオン号のもつれで、薩長間の板挟みとなり、長崎におきまして近藤長次郎が自刃します。
 伏見の寺田屋で、龍馬が奉行所の捕り物にあって負傷し、京都の薩摩藩邸に移りましたところ、陸奥宗光が小松帯刀のもとへ、長次郎自刃の知らせを届けました。
 しかしユニオン号事件は、まったくもって解決しておりません。

 当然のことなのですが、木戸は薩長連合の話し合いの中で、西郷・小松に、ユニオン号のことも頼んでおります。
 それに答えまして、小松が、村田新八と川村純義を山口へ派遣しました。二人は、小松の書簡と龍馬の書簡(同行したかったが負傷して今は無理だという断り文)をたずさえていました。
 小松、龍馬の日付の手紙が2月6日でして、とすれば、陸奥宗光が小松の元へ長次郎自刃の知らせをもたらします以前の話で、村田と川村は、それを知らないうちに京都を発っています。

 小松帯刀が、村田・川村を通じまして木戸に伝えましたのは、だいたい、こういうことでした。
 「ユニオン号の所有権が長州にあると認めたいのは山々ですが、薩摩藩士や乗り組みの海援隊士には、それに反対する者が多いため、とりあえずユニオン号を鹿児島へ帰してもらえないだろうか。藩主に見せて、相談の上、返答したいと思う」

 西郷の意を受け、ちょうど長州にいました黒田清隆は、長州の薩摩連絡係・品川弥二郎に、「蒸気船の名義貸しは、近藤長次郎が公(長州藩主)に拝謁したときに頼まれて始まったことで、話がかなりこじれてしまったようなので、もう一度、公にご直筆の依頼書をお願いして、特使を鹿児島に派遣してもらうことはできないだろうか?」というようなことを言ったと、2月26日付け、弥二の木戸宛書簡に見えます。
 結局、藩主・毛利敬親は村田・川村に会ってねぎらい、いったん船を鹿児島へ帰すことを承知し、また特使派遣も決まりました。

 この特使に、高杉晋作と伊藤俊輔(博文)が志願します。
 といいますのも、ちょうどこのころ、イギリス公使パークスが鹿児島入りするという噂があり、二人は薩英会談に同席したいと、鹿児島行きを熱望していたんです。
 そして、そこへ現れましたのが、薩摩藩士・木藤市助です。

高杉晋作の手紙 (講談社学術文庫)
一坂 太郎
講談社


 上の本に、3月7日付け、高杉晋作の白石正一郎(下関の商人)宛て書簡が載っています。
 このとき、晋作さんは大変でした。
 晋作さんがおうのさんと同棲している噂でも聞いたのでしょうか、晋作さんのおかあさんが、嫁の雅さん(晋作の妻)と幼い孫(晋作の子)の東一さんを引き連れ、萩から下関へ出向いてきていたんです。
 晋作さんは三人を、奇兵隊のスポンサーだった白石正一郎さん宅に預かってもらっていました。その正一郎さんも、援助疲弊で左前状態。晋作さんは、なんとかしてあげようと奔走中だったりします。

 晋作さんの言うことには。
 「昨日は薩摩の木藤市助を妓楼に案内して盛り上がって、そのままいろいろ話し込んで今夜もここに居座ります。明日はかならず帰りますので、母親ほかへの取りなしをどうぞよろく」
 まあ、だいたいそういうことなのですが、木藤さんとは意気投合しましたようで、一坂太郎氏によりますと、漢詩も贈っています。
 以下、読み下しは一坂太郎氏です。

 贈薩人木藤市助時幕府欲有事宰府、薩藩防之
 薩軍振起して龍鱗を護る
 天拝峰頭俗塵を拂う
 君更快然たらん吾亦快なり
 神州の形勢今より新たなり


 幕府が太宰府で事を起こそうとし、薩摩が之を防いだ時、薩摩の木藤市助に贈る。
 薩摩軍ががんばって五卿を守った。
 天に拝む峰の俗塵が、これで払われた。
 君も愉快だろうが、ぼくも愉快だ。
 神州日本は、新しい時代を迎えた。


 太宰府に五卿がいます。
 そのこと自体、西郷隆盛がはからったことですし、警護の中心に薩摩藩がいまして、粗略に扱われないように注意を払っています。幕府は五卿を京都に帰して罪を問おうとしたようでして、細かなことは私は調べてないんですけれども、小競り合いがあったようです。
 五卿の扱いが、長州の薩摩藩に対する信頼を呼び起こし、薩長の連帯によって新しい時代が来ると、晋作さんは歌っています。

 近藤長次郎に贈った漢詩ほど、個人的に親しげな感じはしないんですけれど、気分よく歌い上げた感じですよね。
 さらに一坂太郎氏によりますと、晋作さんは文久2年(1862年)、上海で、欧米の有名人のブロマイドを張り込みました手帳サイズのアルバムを買い、その一部を抜いて、友人、知人の写真を貼っているそうなのですが、薩摩藩士の写真は4枚。高見弥一を含みます三人の集合写真が一枚、残りは一人の写真で、五代友厚、野村宗七、そして木藤市助です。

 このときなぜ、木藤市助が下関にいたのか、ちょっとわからないのですが、間もなく(慶応2年7月3日・1866年8月12日)彼は、薩摩藩の第二次留学生となって横浜からアメリカへ渡り、およそ一年後の慶応3年(1867年)6月、マサチューセッツ州モンソンの近郊で、首をつって果てます。
 理由は、はっきりとはわかりません。
 せっかく選ばれて留学しながら、しかし、どうしようもない思いを抱えてしまった、ということなのでしょう。
 その二ヶ月前には、漢詩を贈った晋作さんの方も、結核でこの世を去っています。

 話をもどしまして、高杉と伊藤は、小松・西郷が西下する船に便乗しようと待っていましたが、来ませんので、グラバーが横浜へ行く途中で下関へ寄りましたのを捕まえ、長崎に帰るときには乗せてくれるように頼みます。
 このとき、すでに高杉は、鹿児島へ行ってユニオン号事件を解決し、薩英会談に同席した後に、その足で洋行するつもりでした。
 木藤市助はすでに洋行が決まっていたでしょうし、彼から聞いた話に、いてもたってもいられなくなったのではなかったでしょうか。
 どんな話って、えーと。五代と新納が欧州で見聞しました幕仏関係です。

 「井上伯伝」に、突然、ここでモンブランの名前が出てまいりまして、びっくりしたのですが、よく読んでみますと、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3に書いております、『続・再夢記事』慶応2年7月18日付け越前藩士の報告書と同じ内容なんです。
 「フランスも四,五百年前までは、大小名が各地に割拠し、その小国ごとに法律があったが、日本の今の状態はそれと同じであるので、現在のフランスのように中央集権化する必要がある。大名の権力をけずるためには、軍事力が必要だろう。それがないのであれば、日本はフランスに依頼して借りるべきだ」とモンブランが幕府に吹き込んだのだと、越前藩士の耳に入れましたのは、まちがいなく五代ですし、まあ、これに近い幕府とフランスの協力話を、木藤が高杉に語っていても、おかしくはないわけでは、あります。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2に、「五代、新納、堀の三人は、パリの地理学会が終わるといったんロンドンへ帰り、再びパリに滞在してモンブランと契約を交わし、慶応元年12月26日(1866年2月2日)、帰国の途に就きます」と書いたのですが、いったいいつ、日本へ帰り着いたのか、ちょっとわかりません。
 しかし二人は、欧州での出来事を、書簡でいろいろと国元へは知らせているわけですし、第二次の留学予定者でしたら、かなりのことを知っていて、おかしくないと思うのですよね。
 そして、高杉は文久2年の上海行きで、五代友厚とすでに知り合っていますから、「五代さんはこう言ってきている」と、木藤が高杉に語った可能性は、かなり高いでしょう。

 それにいたしましても、五代!!!
 ものすごい反幕プロパガンダです。

 高杉と伊藤は、3月21日にグラバーの船で下関を離れ、長崎へ向かいます。当日の夜半には長崎に着きましたが、すでに小松と西郷は、鹿児島に帰っていませんでした。
 長崎の薩摩藩邸で留守番をしておりました市来六左衛門は、高杉たちに、「鹿児島では、いまだに薩長の連携を知らない人間も多いので、親書はかならずお届けしますが、入国は遠慮願います」と言ったというのですが、これってどーなんでしょ。
 長州藩主の特使が薩摩に入国できないって、ねえ。
 薩摩藩主父子の返書があった6月まで、薩長同盟が成立していたとはいいがたいのではないか、と、私が考えるゆえんです。久光が認めてなかったのではないか、という話なんですけれども。

 3月28日付けの高杉の木戸・井上宛書簡では、「薩ニハ家老新納刑部五代才助先日英ヨリ帰着、日々外国之事ニ手ヲ附候様子ニ御座候、既ニ昨夜モ米利幹ニ五人書生ヲ遣セシ也」とあり、五代と新納が薩摩へ帰っていたこと、薩摩の第二次留学生がアメリカへ旅立ったことが、わかります。
 結局、高杉晋作は、幕府との開戦が近づいたことから洋行をあきらめました。
 モンブランが日本へ入国しましたのは、翌慶応3年の秋で、晋作さんはすでにこの世の人ではありませんでしたけれども、晋作さんの義弟にして従兄弟、南貞助は、当然、モンブランとも面識があったものと思われます。

 次回はちょっと、素っ頓狂なところばかりが似ました、晋作さんのかわいい従兄弟の楽しい話を、してみたいと思います。


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沢村惣之丞と中岡慎太郎の夢見た欧州

2012年02月28日 | 近藤長次郎

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol5の続編です。

 続編なんですけれども、まったくもって桐野は関係ない話ですし、タイトルを変えました。
 書く予定はなかったんですけれど、fhさまにお電話しましたところが、昔、沢村惣之丞に関することを大久保の書簡で見てブログに書いたことがある、ということでして、さっそく見せていただきましたところが、どーしても、書かないではいられなくなりました。
 今回、私は原本を見ておりませんで、fhさまのご厚意によります。

 鹿児島県史料のなかの大久保利通史料より、慶応元年(1865年)8月4日付新納・町田宛大久保書簡です。
 つまり、ちょうど伊藤博文と井上馨が、薩摩名義での武器と蒸気船調達に長崎へ出かけ、井上は7月28日に、小松帯刀、近藤長次諸とともに長崎を出港していますから、鹿児島入りしていたときの話です。
 実は、その鹿児島には、開成所(薩摩の洋学校)の教師として、沢村惣之丞がいます。

 大久保の手紙の宛先は、当時、密航してヨーロッパにいました新納刑部、町田久成。
 新納刑部は、五代友厚とともに欧州を視察しますとともに、薩摩のいわば外交使節団の長ともいえる存在でしたし、町田久成はイギリスにいました薩摩留学生の長です。えー、二人とも門閥ですから。
 といいますか、これまでいく度も書いて参りました、「少しははばかれよ幕府を!」と叫びたくなりますくらいド派手な、薩摩のヨーロッパ密航使節団および留学生のメンバーです。

 開成所益振起之内ニ而英学之方は当分牧退蔵教授方ニ而、其余近頃両三輩長崎より御雇入相成指南方いたし、蘭之方八木死後石川旅行等ニ而師員人数相闕候処、是以近頃江戸より三人御雇下ニ而指南方いたし候付、子弟中も一同差はまり奮励之向成立、無此上事ニ御座候、右蘭学者は勝安州門生一人(前河内愛之助)有之候、人物至而面白、数学ニ長候由

 洋学校もますます盛んになっておりますが、英学につきましては、牧退蔵(前島密)が教授で、そのほか、最近2、3人長崎より教師を雇い入れています。
 蘭学は八木称平(前田正名のお師匠さんです)の死後、石河が旅行に出て、教師の人数が足りなかったのですが、最近、江戸から3人雇いましたので、生徒たちもやる気になっております。
 蘭学者のうち勝海舟の門人が一人いまして、前河内愛之助(沢村惣之丞)といいますが、非常におもしろい人物で、数学が得意だとのことです。


 ド派手な使節団と留学生を出しまして、薩摩藩の洋学校・開成所では、先生が足らなくなっております。
 えー、えーと。さっぱり忘れておりました。
 ここで前島密が英語の教師になっているんですね。
 前島密は、 函館で武田斐三郎に洋学と航海術を学んだ人ですから、それで、生徒だった薩摩藩第二次留学生の吉原重俊が、江戸に帰りました斐三郎の洋学塾に入ったわけなんですね。納得。
 その前島密が長崎から呼び寄せました2、3人の英語教師の中に、続・龍馬暗殺に黒幕はいたのか?で書きました林謙三、後の男爵・安保清康、龍馬の最後に近い時期の手紙の受取人で、龍馬と慎太郎の暗殺現場に立ち会いました人物が、いたようです。

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 下・中編に出てまいります小松帯刀書簡で、龍馬が船を江戸へ借りに行っていることが知れますが、沢村惣之丞は、これに同行していました。
 龍馬は翌慶応元年の春、京都にいたことが確認できますが、どうも沢村は、江戸で直接、薩摩藩に雇われまして、鹿児島へ行き、洋学校のオランダ語教師になったようです。数学が得意!だそうですから、この人は、航海術もいけたんでしょうね(笑)

 で、その沢村が大久保に、こう言ったんだそうです。

当分ニ而は御国より遠行之事江戸辺ニ而も申触、眼ある国々ニ而は別而欣慕いたし居候由、尤有志之洋学者ハ是非薩ニ就テ志を述セん事を欲シ候

「薩摩藩がヨーロッパへ留学生を出したことは江戸でも噂になっていましてね、先見の明のある藩では、それはいいことだと憧れていて、留学したいと思う洋学者は、ぜひ薩摩藩に就職して望みを果たしたい、と思っているんですよ」

 ひいーっ!!!
 これ、昔、fhさまのブログで読ませていただいていたんですけど、前後の事情がわからず、ユニオン号事件に関係していますとは、夢、思ってなかった、です。
 普通に考えまして、沢村は、このとき鹿児島で、近藤長次諸に案内されて来ました井上馨に会い、井上が大久保と会ったときにも、長次郎とともに同席していたりしたんですよねえ。
 それで、井上のイギリス留学の話になり、薩摩藩の密航留学で高見弥一も行っているという話になり(英国へ渡った土佐郷士の流離参照)、長次郎とともに、うらやましいな、と言い交わしていたり、したんでしょうね。
 その後、長次郎にのみ留学の話が持ち上がって……、と考えると、なんとも切ないですね。

龍馬の手紙 (講談社学術文庫)
宮地 佐一郎
講談社


 この直後、坂本龍馬も慶応元年9月9日付け実家宛の手紙(青空文庫・図書カード:No.51409)で、「御国より出しものゝ内一人西洋イギリス学問所ニいりおり候。日本よりハ三十斗(人)も渡り候て、共ニ稽古致し候よし」(土佐脱藩者の一人は、海を渡ってイギリスの学校へ入っているんだよ。日本からいま、三十人ばかりイギリスに行って、いっしょに勉強しているらしいよ)と、薩摩、長州の密航留学を語り、土佐の高見弥一がその中に入っていることを、誇っています。

 推定の上に推定を重ねた話にしかなりませんけれども、私は、龍馬は、近藤長次郎と中岡慎太郎、青山伯(田中光顕、じじいです)の三人が、伊藤と井上の好意で欧州へ行かせてもらえるという話を知り、承知していたのではないか、と思っています。

 そして、これも以前にfhさまが書かれたことなのですが、それから一年以上立ちました、慶応2年暮れ。
 この年、幕府は海外渡航を解禁し、各藩から、留学生の数は飛躍的に増えています。

中岡慎太郎全集
宮地 佐一郎
勁草書房


 「中岡慎太郎全集」収録の「行行筆記一」、慶応2年(1866年)12月8日条です。

聞、岩下、新納、各知行五百石を出し、小児を外国に出す云々。

岩下方平と新納刑部は子供を海外留学に行かせるために、それぞれ知行を五百石出した、と聞いたよ。

 一橋慶喜に将軍宣下があった三日後です。
 
 慎太郎は京都にいて、薩摩藩の小松帯刀や西郷隆盛などと、盛んに会っています。
 だれから聞いたのか、薩摩藩の重役、岩下方平と新納刑部は息子を留学させるために、知行五百石を費やした、というんですね。知行五百石って、いくらになるんでしょう??? 
 まあ、門閥でしたから、小さな息子を私費留学させてやれた、ってことなんでしょう。
 新納刑部の息子・武之助(竹之助)くんにつきましては、セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いたを、岩下方平の息子・長十郎くんにつきましては、岩下長十郎の死を、ご覧になってみてください。

 恵まれた彼らにも、それぞれに悩みも悲しみもあったのですが、しかし慎太郎はこのとき、近藤長次諸の死に思いを馳せたのではなかったでしょうか。
 そして、おそらくは、なんですが、長次郎の死とともに潰えました、自分たちの洋行にも。

 およそ一年の後、慎太郎は林謙三に看取られましてその生を終え、間もなく、沢村惣之丞も自刃して果てます。

 竹之助と長十郎の留学を聞いた後、慎太郎は小松帯刀の家へ向かいながら、小雪舞う空を見上げて、深く溜息をついたのではないかと、ふと、そんな気がしました。


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コメント (22)
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