郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

土方歳三のリベンジ

2005年12月01日 | 土方歳三
野口武彦著『幕末伝説』2003講談社発行

『幕末伝説』は、一昨日に書いた『幕末気分』の続きのエッセイ集です。
続きといっても、内容がはっきり続いているものはほとんどないのですが、伝説収録「幕末不戦派軍記」のみは、気分収録「幕末の遊兵隊」の続きなんです。
「幕末の遊兵隊」の遊兵は、本来の意味の遊兵ではなく、「ただ単純に遊んでいる兵隊」だそうでして、長州攻めのために東海道を大阪に向かった幕府の軍隊がいかに物見遊山気分であったかを、武具奉行配下の同心が残した日録を中心にすえ、巧みに描き出した一編でした。
日録の筆者には、行動をともにする仲良しの三人がいまして、この四人組はみな同心ですから、ごく下っ端の役人ですし、洒脱で、なまけものです。
その四人組が、大阪に居残りとなって、あげくの果てに鳥羽伏見の戦いにまきこまれてしまった後日談が、今回の「幕末不戦派軍記」です。
野口氏は、昔小説を書こうとされたこともおありだとか、なんですが、実に巧みに戯画にされていて、今回も笑えました。
個人的には、一瞬の土方歳三の出演が、受けました。
幕府混成部隊の命令系統はぐたぐたになっていまして、勝手に退却したりしていた状態だったんですが、兵糧を担当する勘定方の役人は、戦火が迫る淀で、律儀にご飯の炊きだしをやっていまして、同心四人組は、成り行きでここで使われていました。
いまや、戦場に取り残されようとしている炊きだし場に、ひょっこりと顔を出したのが、新撰組副長です。「お偉方はみんな引き上げたから、おまえたちも逃げろ」という土方の一言で、お握り炊き出し隊も無事引き上げることができたんですね。
これ、なにで見たのか忘れましたが、誰か体験者が語り残していることです。

しかし、鳥羽伏見の戦いについての記述を読むたびに、伝習隊はなにをしていたのか、と思わずにはいられません。
野口氏は、銃器にはお詳しくないらしく、『幕末パノラマ館』(新人物往来社刊)の方の一編で、「幕府がフランスから贈られたシャスポー銃は優秀だったとされているのに、なぜあまり使われた記録がないのか」と疑問を呈しておられますが、鳥羽伏見の伝習隊が、シャスポーを装備していなかったはずがないのです。
考えられることは、弾薬切れですね。シャスポーが、当時としては最新式だったというのは、簡単にいってしまえば後装式で、紙製ながら薬莢を使っていた、つまり、弾丸と火薬を別につめるのではなく、薬莢によって一体となっていましたので、素早く装填することができたからなんです。
しかし、弾薬補充の面からいいますと、紙薬莢は簡単には作れませんから、フランスからの輸入に頼るしかないですし、備蓄し、戦場への補給計画を綿密にしとかないといけないわけですね。
鳥羽伏見の戦いにおける、幕府の計画性のなさ、ずだずたの連絡網から考えて、伝習隊は、すぐに弾薬切れとなり、補給もしてもらえなかったんじゃないんでしょうか。

で、たしかに戦争において、いかに最新式の銃器を備えるか、ということは、勝敗の大きな要素ではあるんですが、いかにそれを使いこなすか、が、より問われるわけです。このわずか二年後、シャスポーを装備したフランス陸軍は、シャスポーよりはるかに性能が劣るといわれたドライゼ銃を装備したプロイセン陸軍に、完敗してしまうわけですし。
この時代、欧米においても、白兵戦がまるでなくなったわけではありません。たしか、明治元年だったと思うんですが、アメリカ南北戦争のころにの軍学書を、福沢諭吉が訳してまして、そこにはきっちり、白兵戦要員の育成について、書かれているんですね。
そりゃあ、そうでしょう。歩兵は銃剣を持っていたわけですが、剣の必要がなければ、銃だけにしておけばいいので、わざわざ銃剣は持ちませんわね。
この軍学書によれば、白兵戦の要員は、よりすぐりの精鋭を鍛錬するべきだ、とされています。銃にくらべて剣の方が、当然、熟練を必要とするわけなんですね。
これは、西南戦争を考えてみれば、よくわかることなんですが、西郷軍は、弾薬の補給に苦しみ、苦しまぎれに斬り込みをかけ、白兵戦をしかけます。この白兵戦に、政府軍の徴兵農民兵では対応ができず、志願軍を募って、士族を集めるんですね。
士族といっても、だれでも剣が使えたかというと、けっしてそうではなかったことは、幕末の同心四人組を見てもわかりますし、これはまあいわば、明治新政府が新撰組を募ったようなものです。

つまり、なにが言いたいかといいますと、この当時の火気の程度では、状況によっては、白兵も十分に活躍できる、ということなんです。
で、私には、土方が剣を捨てた、とは思えないんです。いえ、個人的には、捨てたでしょう。しかし、伝習隊と行動を共にしながら、一方で新撰組を存続させた、ということは、白兵戦には熟練が必要ですからね、銃撃戦と白兵戦をうまく組み合わせることを思い描いていたのではないか、と。
新撰組や会津軍の白兵戦が、伝習隊の銃撃戦とうまく噛み合っていたならば、伏見で、幕府軍に勝機がなかったとはいえません。
つまり、土方歳三にとっての戊辰戦争は、鳥羽伏見のリベンジではなかったのでしょうか。

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土方歳三と伝習隊

2005年11月30日 | 土方歳三
野口武彦著『新撰組の遠景』(集英社発行)

野口武彦氏の著書を、次々に読んでいるところです。
昨年でしたか、NHKの大河で新撰組をやったせいか、新撰組関係の著書が多数出ていたようです。この本もその関係で出版社が企画したらしく、野口武彦氏の幕末ものでは、最新の単行本です。
新撰組関係の著書は、以前に読みすぎて食傷気味だったのですが、さすがに目配りが聞いて、おもしろく読めました。

新撰組といえば、やはり土方歳三です。なぜ土方かといえば、やはりあの写真でしょうね。それともちろん、司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』。
あの写真については、草野紳一氏が、ほとんどそれだけを素材にして、『歳三の写真』という著作を残しておられるほどです。以下は、その著作をご自分で解説なさって、述べられた言葉です。

私は、男の顔っぷりには興味がある。しかし男の容貌そのものには気をほとんどひかれるということはないのだが、写真ながら、私は土方歳三に惚れてしまっていた。
彼の風貌に、私は「近代性」の匂いとやらを感じとったのかもしれぬ。薩長系には、むしむしたハイカラは多いが、旧幕系の人間には、近代性がある。
近代性を感覚的に身につけながらも、彼等が滅びいく幕府についたところに、日本の近代の運命がある。そのことは、もともと武士ではなかった新撰組の土方歳三にも言えるだろう。

いえね、函館戦争に参加した旧幕軍には、榎本武揚をはじめ海外留学組もかなりいますし、洋装の写真は多く残っているのですが、土方の写真がいちばん、しっくりと洋服を着こなしているように見えるんですよね。たしかに、容貌がいいから、なんでしょうけれども、それだけではないような、草野氏ならずとも、「近代性」といってしまいたくなるような、そんな感じがありませんか?
野口武彦氏は土方を、いわばすぐれた現場指揮官、と位置づけ、鳥羽伏見という短期間の敗戦経験で近代戦の指揮を身につけたのは、天性のものとしかいいようがない、としているのですが、実際、その通りですね。
近代軍隊の機能性は、近代性をもっとも濃縮した形で表象していますし、その軍隊の指揮官は、もっともスタイリッシュに機能性をまとうべき存在です。着こなしもまた、天性のものなのでしょう。

ちょっと残念だったのは、野口氏が、あまり土方と伝習隊の関係に踏み込んでおられなかったことです。土方が鳥羽伏見以降、剣を捨てたことは強調しておられますが、新撰組とは不可分であったように書かれています。たしかに、土方は新撰組を捨てたわけではないのですが、片方で、伝習隊との関係を育んでいたわけです。ろくに資料がないことなので、野口氏が触れておられないのは、もっともではあるのですけれども。

一つだけ、傍証があります。
釣洋一著『新撰組再掘記』に載っているのですが、岡崎市の法蔵寺に、近藤勇の首塚だとされる石碑があります。

http://www13.plala.or.jp/shisekihoumon/okazaki.htm

釣氏によれば、この石碑の土台には、土方歳三以下10名の名前が刻まれ、その10名、当初は新撰組隊士の偽名であろう、といわれていたそうなのですが、うち数名は、鳥羽伏見以来、土方歳三と行動を共にした伝習隊員の本名であったことが、わかったということなのです。しかも、建立年は慶応三年と刻まれてていて、近藤勇の死より前のことです。
結局、真相はわからないのですが、釣氏は小論の最後を、「この墓は伝習隊の墓ではないかという疑念を抱き始めているのだが」と結んでおられます。

流山で近藤勇が囚われた後、土方は単身で江戸へ帰って近藤の救援を試み、大鳥圭介率いる脱走伝習歩兵隊に合流します。新撰組の大多数は、先に、会津へ向かわせているのです。それまでに、土方が伝習隊となんらかの関係を持っていなかったとするならば、これは、あまりに唐突ではないでしょうか。
鳥羽伏見の戦いにおける伝習歩兵隊の動向については、ほとんど資料が残されていないらしいのですが、少なくとも一隊が、伏見から千両松の戦いにおいて、土方率いる新撰組や会津軍と、行動をともにしていたことは確かです。
伝習の期間も短く、実戦経験のない幕府の若手士官たちが、突然、戦場に立たされたとき、修羅場に慣れ、天性の指揮の才能を備えた新撰組副長を、頼りにしたと推測するのは、自然なことではないでしょうか。
おそらく、岡崎法蔵寺の石碑は、伏見で戦死した伝習隊の隊長のものであり、隊長の戦死後、伝習隊は土方の指揮下に入って生死をともにしたのでしょう。
だとするならば、江戸へ帰った後も伝習隊士官たちと土方の間には、連絡があったわけですし、土方の突然の洋装も頷けるのです。

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