郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

死人のおっかけの国語漢文

2005年12月13日 | 読書感想
昨日の続きです。現在の日本の国語教育について、少々。
といっても、ろくに知らないわけでして、下の本を読んでから、と思っていたのですが、昨日、言い足らなかった部分がありましたし、中学生になった姪が、国語の成績が悪いというので、相談にのったところでしたので。

国語教科書の思想

以下、野口武彦氏の解説の主要部分です。

 この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。
 今や息の根を止められた「ゆとり教育」を「いつも『正解』ばかり答えていたような頭でっかちの官僚が作った、歴史に残る大チョンボ」と断言する著者は、その凋落(ちょうらく)とワンセットで騒がれはじめた「読解力低下」というフレーズの独り歩きにも警告を発している。
 日本の十五歳の読解力が低下しているという主張の根拠になったのは、PISA(生徒の国際学習到達度調査)のテスト結果である。ところが、そのPISAの試験が求める読解力とは、「批評精神」であり、「他人とは違った意見を言うことができる個性」であって、文章の暗唱とか漢文の素読とか、教育方針を復古的にすれば得点が上がるものではないという指摘は大切だろう。

 この最後の部分なんですが、「批評精神」や「他人とは違った意見を言うことができる個性」と、「文章の暗唱とか漢文の素読とか」と、ほんとうに関係がないのでしょうか?
 なんの知識もない子供が、批評ができたり、他人とは違った意見を言えたり、するわけがありません。
 たしかに、学校教育において教師が、一定のパターンにあてはまる意見のみを求める姿勢は問題かもしれません。しかしそれは、ある程度は仕方のないことです。
 例えば、「戦争はよくない」というだけの感想は、思考停止を産むわけなのですが、そこから先、ではなぜよくないのか、いや、戦争とはそもそもなになのだろうか、と思考を進めていく部分まで、すべて学校教育に求めるわけにはいかないでしょう。
 学校教育では当然、「人を殺すのは悪い」となります。「人を斬るのは悪い。でも新撰組が好き。なぜかといえば……」というように、思考停止が解かれる鍵は、学校教育ではありません。
 しかし、その鍵を与えてくれる世の中の媒体が、これまた思考停止のワンパターンであったり、情調をかきたてるものばかりであったならば、「単純に善悪を決めつけるだけでいいのか」という、根本的な鍵にまでいきつけないで終わってしまいます。
 そして、ワンパターンではない思考材料に触れるには、基礎的な国語力が必要になってくるのです。

 生徒の側で、教師の求めるパターンを察知し、それにうまく応じているだけなのであれば、かならずしも問題ではないでしょう。応じる能力があるということは、基礎的な国語力がある、ということですから。
 なぜ中高生になっても、教師が、あるいは世の中がおしつけるパターンを疑わないか、あるいは、求められるパターンがなんであるかを洞察できない子が、増えたのでしょうか。
 基礎ができていなければ知的欲求がわかず、知識の仕入れようがないではありませんか。知識は、言葉で成り立っているものなのですから。
 世の中には多様な価値観があるのだと知り、知るだけではなく、押しつけられるものに正面から反論できるだけの論理性を身につけるには、その前提として基礎学力が必要です。
「文章の暗唱とか漢文の素読とか」をこなさなければ、「批評精神」やら「他人とは違った意見」なぞ、生まれる確率は少ないのです。
 気分や好き嫌いだけでは、「批評」にも「意見」にもなりません。

 戦後の国語教育を受けた私が、心底悔しく思ったのは、幕末にはまったときでした。これは、知り合いの長州好きの女性も、同じことを言っていましたが、「なんで小学校のころから漢文をたたきこんでくれなかったの! みみず文字の読み方も教えといて欲しかった!」と嘆きあったものです。
おたがい、すでに成人して仕事をかかえている身です。学者のように勉強するだけの余裕はなかったんです。せめて、大学生のころだったらよかったんですけどね。
それでも、「死人のおっかけ」と自嘲するほど入れ込んでいた男たちの書き残したものが、まず現物は読めず、活字になっていても漢文のままではいまひとつよく意味がわからない、引用している漢籍がなになのかわからない、では、悲しくなりますよね。ほんの百数十年前の日本語なのです。
ああ……、下手すると、全集の書き下し文や注釈が、まちがっていたりするんですよ。戦後の『松陰全集』で、私はまちがいを見つけましたもの。戦前の漢文の全集で意味がわからなかったものですから、戦後の書き下し全集を持っている友人に、その部分のコピーを送ってもらいましたところ、それでも意味がわからず、図書館に通って漢籍をあさって、ほんの短文にものすごい時間をかけて、ようやく全集の書き下しと注釈がまちがっているとわかって、意味がとれたという、苦い経験でした。
しかしまあ、おかげで私は、当時の人々の学識といいますか、知識量のすさまじさを、実感することができました。

で、例えばこの幕末の歴史です。なにをどう評価するか、世の中には、さまざまな意見があるわけですよね。それぞれにちがう専門家の意見を考察し、この人が鋭い見方をしているのではないのか、これはちょっとちがうだろう、結局私はこう考える、といったぐあいに自分の意見を持つためには、少しは原資料を……、いえ、少しではなくたくさんだったらもっといいんですが、読んでみることができるならば、それにこしたことはないわけです。物語や思想から得た思い込みではなく、実際はどうなのかと、考えてみることができますから。
 あるいは、歴史は不適切な例であったかもしれません。時事問題でもいいのですが、さまざまな角度から物事を見てみるためには、基礎知識が必要でしょう。

マザー・タングは思考の道具です。基礎をきっちりたたき込まれていなければ、なにごともはじまりません。
現代日本語、それも情緒的ではなく思考にふさわしい日本語の基礎には、漢文の書き下し文があるわけでして、漢文の素読が、意味がないわけはないのです。

しかし、それにしましても……、父が難病でして、月に一度大学病院につれていくのですが、担当の先生は助教授でおられて、とはいえ、お子様が小さいようですし、それほどお年の方ではないのですが、世間話のついでに盛んにこぼされるのです。「なぜ最近は、こんなに勉強していない学生が医学部に入ってくるのか」と。数学、英語がまるでできないので、高校程度から教えないとだめだそうでして。

ああ、書いているうちに、姪へのいいアドバイスを思いつきました。
姪は、本が嫌いなわけではないのです。物語は好きなのですが、ただどうも、説明文とか批評文とかが苦手のようでして、そういうものを読んだら、と言ってはみたのですが、嫌いなものをただ読め、といいましてもねえ。
文章を丸写しすることを勧めてみたら、いいかもしれませんね。
言い古されたことですが、これが案外、文章の組み立てを知るいい勉強になるのですよね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖国と国学とプロ市民

2005年12月12日 | 読書感想
なんとなく、野口武彦氏が『幕府歩兵隊』で一言もらされていた靖国に対するお言葉の真意が気になって、ぐぐっていたら、ありました。
今年話題になった高橋哲哉氏の『靖国問題』を、論評なさっていたのです。


asahi.com書評 靖国問題

 明快である。だが靖国問題は、どう論じても俗にいう「割り切れない」ものを残す。《靖国感情》のほぼ主成分をなすこの要素は、論理とはまた別の方法で透析するしかない。本書には不思議に土俗の匂(にお)いがしない。招魂社の夜店・見世物(みせもの)は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑(わいざつ)な活気が溢(あふ)れ、アセチレン燈(とう)の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからそう感じることが大切なのではないか。

あー、私が感じていたことなど、十分ご承知の上で、書いていらしたのですね。
うー、なんかとても困るんですよね。ものすごく私と似た感性を持っておられて、はるかに頭脳明晰で、学識豊かでおられる。それでいて、最後の最後の結論に、私は賛成しかねてしまう。
おそらく私は、ナショナルな幻影の政治利用を、必要なものだと思っているんですね。多くの人が、幻影なくして生きられないと同じように、国家というものも、物語を……、詐欺を必要としているのだと。
といいますか、せめて国家が幻影をつなぎとめておいてくれなければ、祖父母が生きた時代の土俗の思いは、のっぺらぼうな世界に呑み込まれて消えしまう、と、確信しているのでしょう。

国立の無宗教慰霊碑という存在は、思い浮かべただけで、気持ちが悪いんです。
つまり、まあ、これも積み重なった時間の問題で、ありえないことですが、戦後すぐにそれができていて、母は来ました~♪ とか、えーと岸壁の母、でしたっけ、そういうおかあさんたちもみんな、靖国ではなく無宗教慰霊碑に息子に会いにいったのならば、それでよかったんですけど。
満州からの引き揚げ者の方から、キリスト教だったご主人が、死ぬ前にどうしても、戦友にあいに靖国に行く、といって、病身を押し切って参ったお話など聞きますとね、ここに首相が参らないのは、国家の責任者として非礼だろうと。

靖国問題を考える上でも、ぜひ野口先生に、江戸の国学思想を取り上げてもらいたい、と、前々から思っていました。
平田国学は、偏っていたかもしれません。しかし、土俗の感情を吸い上げていたことはたしかですし、商人、回船問屋などに、ひろく門人がいて、彼らの世界が狭かったわけではなく、維新の原動力のひとつであったこともたしかです。
ぜひ……、と思っていたら、こんな解説をなさっていました。

asahi.com書評 国学の他者像

えーと、本の解説自体はおもしろくて、読んでみたい気にさせてくださったのですが、この部分はどうなんでしょ。うーん。

社会にネオナショナリズムの波がうねるとき、その根底ではネオ国学の心性が動いている。自己の複数化として「公」を強調する立場は、異論をすべて他者として排除する。それと奇妙に共存しているプチ保守主義の「私」の視野には、最初から他者が入ってこない。

いま、ネオナショナリズムの波がうねっているんですか? 知りませんでした。まあ、それほど世の中を見ているわけではないですから、わかりませんけど、「異論をすべて他者として排除する」「最初から他者が入ってこない」のは、ナショナリズムの保守のの問題なんでしょうか。
えーと、夏のNHKの歴史問題などの討論番組でしたが、他県で医者をしている妹から電話があって、「見てる? おもしろいよ! マンガに出てくる新興宗教の信者みたいなプロ市民がいっぱいいる~♪」と笑い転げていうものですから、見てみましたら、ほんとにそんな人たちがいました。特に、中学校だかの先生をやっているというおばさん(おばあさんかな)は、平田国学信者顔負、だったのではないか、と思います。いえね、平田国学信者を見たことがありませんので、断言できないんですが。
「プロ市民」と呼ばれる方々は、ネオナショナリズムのプチ保守のとは、言われませんよね。
おそらくそれは、こちらの問題じゃないんでしょうか。

asahi.com書評 国語教科書の思想

 この一冊が告発するのは、国語科でひっそりと進行している危機である。「戦後の学校空間で行われる国語教育は、詰まるところ道徳教育なのである」というのが著者の基本的な現状批判である。道徳が悪いのではない。特定の徳目を国語が唯一無二の「正しい読み」として教え込むことが危なっかしいのだ。

それはまた、ひどいことになっているものですねえ。
どうも、小中学校の先生に多そうですよね。「異論をすべて他者として排除する」という傾向を持つ方々。この本も、読んでみたくなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島由紀夫の恋文

2005年12月09日 | 読書感想
昨日、映画『春の雪』の感想を書いていて、ちょっと考え込んでしまったことがあります。
『豊饒の海』は、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の4巻からなる輪廻転生の物語なのですが、なぜ、『奔馬』以降、情感がない、といいますか、潤いのない物語になってしまうか、ということです。
一つには、視点の問題があるんでしょうね。
『春の雪』の主人公は、松枝侯爵家の一人息子、松枝清顕ですが、その友人として登場する本多繁邦が、二巻以降、清顕の生まれ変わりを追い、かかわっていく構成です。
一巻一人づつ、清顕の生まれ変わりの人物に共通するのは、「美しく若死にする」ということで、一巻では脇役でしかなかった本多が、二巻以降は主人公だともいえて、読者の視点は、必然的に本多の視点に重なるんです。
となると、本多は理論の人ですから、読者もまた、分析的な視点を共有せざるをえない。分析だけで、情念のない物語は、成立しないでしょう。
二巻以降、描かれる本多の情念は、「清顕の生まれ変わりを追う」という一点だけです。人様の人生を追う分析好きの傍観者の立場が、読者の立場となってしまいます。結果、読者は、物語からの疎外感を、本多とともに味わうわけです。
『暁の寺』の月光姫(ジン・ジャン)は女ですし、『天人五衰』の安永透にいたっては本物の生まれ変わりではなさそうな設定ですから、本多に視点が固定されていても、不自然ではないかもしれません。
問題は、二巻の『奔馬』です。

『豊饒の海』は、三島由紀夫の遺言ともいえる作品で、自衛隊の東部方面総監部に乱入し、自衛隊の決起を促す檄文をまき、割腹自殺をしたその日の朝に、『天人五衰』の最終章を、編集者に手渡したといわれます。
『豊饒の海』を執筆しつつ、現実に三島由紀夫がくりひろげていた行動の理想像として描かれているのが、二巻『奔馬』で本多がめぐり合う清顕の生まれ変わり、飯沼勲なんです。
この『奔馬』の主人公は、当然、飯沼勲であるはずです。しかし、すでにこの時点で、読者は飯沼勲に感情移入しきれず、本多の視点に立ってしまうのです。
なぜ三島由紀夫の分身であっただろう飯沼勲の情念が、読者を引きずり込むことができないのか。
ここらあたりは、野口武彦氏が見事に分析なさっていたはず、と思って、本棚をさがしてみたら、ありました。

野口武彦著『三島由紀夫と北一輝』(1992年福村出版発行)

この中の一編、「日本の超国家主義における美学と政治学」の中で、野口氏は、以下のように述べておられます。

この主人公を作中で活躍させるにあたって、作者三島由紀夫が用いた小説技法にはいささか疑問の余地がある。あらゆる作家は、自作の主人公を自己の分身として、多かれ少なかれ、自己自身の情熱を投入しながら描きあげてゆく。これは小説という、ジャンルにおいて不可避である。一方また、その主人公に対する作者の思い入れが強ければ強いほど、つまり、作中の自己の分身への愛着が作者の自己愛と見分けがつかなくなればなるほど、そこには読者の側からの心理的離反感情が生じてくるのは当然であり、作者はそのリスクを乗り切るために、必要な技法上の処置をほどこさなければならない。作者は読者を説得しなければならない。生前の三島がつねづねパラフレーズしていたように、三島にとっては、「現実感」とは、読者に対する説得力以外の何ものでもなかった。
『奔馬』の小説作品としての成功の度合いは、極端にいうなら、読者の何パーセントが右翼テロリズム、すなわち暗殺を支持し、是認し、肯定するかによって測定されるといってよい。あたかもゲーテが『ヴェルテル』を書いた後いかに黄色いチョッキを着てピストル自殺する青年たちが排出しようとも、作者は超然として八十歳以上も長生きしたように、三島はなにも、勲に殉じて割腹自殺してまでも自己の虚構の分身の「現実感」を証明して見せる必要はなかったのである。そのことは逆に、三島がそれだけ、作中の勲の行動について読者を説得することに或る種の焦りを感じていたのではないかという疑惑にわれわれをみちびく。

そうなんです。読者は説得されませんし、それを誰よりもよく知っていたのは、三島自身だったでしょう。
続けて野口氏は、五・一五事件の被告が、法廷で農村の飢餓と惨状を、クーデター参加の動機として切々と訴え、世論を動かしたことに触れ、三島が、こういったクールに計算された法廷闘争を好まず、また、現実に当時、テロに走った青年たちにとって、農村の悲惨は他人事ではなかったにもかかわらず、それをテロの動機として小説に取り入れることは、三島にとって「アジ・プロ小説風に低俗な扇動性に見えたらしい」と言います。
野口氏のおっしゃる通り、勲は、あくまで都会青年であり、テロの動機は「観念的な性質のもの」であり、「観念である以前に忠誠心情の問題」なのでしょう。
なにに対する忠誠心情かということを、野口氏は、三島由起夫が二・二六事件から、北一輝の影を極力遠ざけて見ようとしていたことから分析し、「文化的天皇の理想像」とされています。
つまり勲の行為は、自己完結の美学であって、まったく政治的な意味を持たず、社会にかかわりもせず、かかわりもしないことを、理想としているのです。
説得力のもちようがないではありませんか。

『奔馬』では、勲のめざすテロの理想として、明治9年に熊本で起こった神風連の乱をあげ、延々と詳細を記述しています。三島は、神風連を取材して、その土俗性に共感した、という話もあるんですが、少なくとも『奔馬』の勲の行為に、土俗性はまったくありません。
神風連の攘夷感情は、まさに土に根ざしています。土を耕し、鎮守の神に豊作を祈って、ごく平凡に暮らす者にとって、外部から強制されて、慣れ親しんだ風俗習慣を捨てるのは、いやであってあたりまえです。そういった農民のごく自然な攘夷感情の突出した形として、神風連はあったのであり、明治新政府のやり口への痛烈な抗議であることは意識されていましたし、鹿児島への誘い水になる可能性でさえも、計算されていました。農民一揆が頻発していた当時の状況からするならば、政治的であり、扇動性もそなえていたのです。

社会性のない恋の物語は、十分成り立ち得ますし、自己完結の美学であっても、真摯でありさえすれば、説得力は生まれます。しかし、社会性のないテロの物語が、説得力を持ちうるでしょうか?
結局のところ、これも野口氏が分析なさっていることですが、勲の物語があきらかに説得力を持たなかったことは、『天人五衰』の安永透の描き方に影響したのでしょう。清顕と勲が、三島の分身であったとするならば、本多もまた分身であり、安永透は、その本多の純粋型として描かれているからです。
しかし、あるいはだからこそ、『豊饒の海』は最後の最後で再び、『春の海』がさししめしていた三島の恋心を、……なにへの恋かといえば、「みやびのまねび」である「文化概念としての天皇」への恋心を、高みに押し上げたのではないのでしょうか。

それにしても野口氏は、いつも、周到な解説でうならせてくださったあげくに、あまりにも唐突に、それを現在の問題とつなげた、納得のいかない一言を残してくださいます。『幕府歩兵隊』の靖国がそうでしたけれども、今回はこれです。

三島由紀夫の十年前の血みどろの死を、故人の遺志どおりに、何ごとか悲劇的なものに向かって高めつづけるためにも、われわれは断固として、この文学者とおよそ政治的なるものとの回路を断ち切っておかなくてはならない。

なるほど、作中の勲の置かれた時代状況で、自己完結的な美学をつらぬかれても、そこにはなんの説得力も生まれてはきませんでした。しかし、文学者である三島由起夫が、戦後のあの状況の中で、美学を貫いて「文化概念としての天皇」への恋に殉じた現実の行為は、すでにその行為自体が現状への衝撃的な抗議であり、社会性を持ち、政治的なのです。
果たして三島が、その行為の政治性を意識していなかったといえるでしょうか?
もちろんそれは、直接クーデターにつながるような政治性ではありません。しかし、三島が生きた戦後日本の社会で、クーデターがどれほどの政治的リアリティを持ち得たでしょう。
回路は、断ち切ろうにも断ち切れるものでは、ないように思われるのです。

つまり、三島由紀夫がめざした行為の理想像は、テロではなく恋なのですから、その三島がテロの物語に自己投影したところで、その物語は説得力はもちません。しかし、現実に彼が成した行為は、時代の文脈の中で、十二分に説得力を持ち得たのです。

関連記事


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ

『春の雪』の歴史意識
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『哀歌』と『ジュノサイドの丘』

2005年06月16日 | 読書感想
『哀歌』曽野綾子著
『ジュノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』フィリップ・ゴーレイヴィッチ著

『哀歌』の参考文献に、唯一の翻訳文献として『ジュノサイドの丘』があげられていたので、読んでみました。
『哀歌』を読んで、「これは、中国の文化大革命やカンボジアの虐殺に近いのではないか」という感触を持っていたのですが、『ジュノサイドの丘』で、その思いは強められました。もっとも、著者のフィリップ・ゴーレイヴィッチは、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺のみを類似例としてあげています。著者がアメリカ人である以上、「ルワンダに対してアメリカはどうあるべきだったか」という問題意識が主題の一つになっていて、アメリカには手の出しようのなかった中国や、中国の影響下にカンボジアで起こった虐殺は、類例として適切ではなかったのかもしれませんけれども。

 植民地となる以前、ルワンダは王国だったのだそうです。フツ族とツチ族は、この王国の段階から分離しかけていたようなのですが、ちがう民族であったわけではなく、おおざっぱにいって、ツチ族が貴族階級、フツ族は被支配階級ではあるものの、その境界線はあいまいでした。
 著者は、そこへ、「ヨーロッパ人種に似た顔立ちのエチオピア人がアフリカで唯一の文明の担い手」というような、19世紀末ヨーロッパの選民思想が入り込み、支配者層であったツチ族とフツ族は人種がちがう、という神話になったのだとしています。一般に、ツチ族は背が高く面長で、フツ族はずんぐりして丸顔といわれるにもかかわらず、現実には、見分けはつかないのです。
 そういえば、徳川将軍家の墓所が調査されたとき、3代目あたりから、面長で貴族的な顔立ちになっている、と報告されていましたが、食べ物などのライフスタイルで、顔立ちも身長も相当にちがってきますから、結局、ツチ族とフツ族のちがいは、その程度のものなのでしょう。
 19世紀末、王位継承の争いでルワンダは乱れ、それに乗じて、ドイツが間接支配の植民地とします。第1次世界大戦によるドイツの敗戦で、支配者はベルギーに代わりますが、ベルギーはツチ族を貴族階級として優遇し、ツチとフツの断絶を深めたと、著者は言います。第2次大戦後、独立が日程にのぼり、ベルギーは民主革命をめざすフツに肩入れするようになりましたが、ルワンダの民主革命は、多数派のフツがツチに取って代わることであり、少数派の権利は考慮されなかった、のだそうです。
 しかし考えてみれば、そもそもフランス革命がそうであり、血まみれの虐殺は、民主主義革命の側面だったのではなかったでしょうか。
 結局、フツ族は流血の暴力革命で政権を奪い、ベルギーもそれを応援しました。
 以来、ツチ族は、中華人民共和国や北朝鮮における「地主・資本家・反革命者」のようなものとなり、差別を受けるのです。
 共産政権の例を引いたのは、著者のように、ドイツにおけるユダヤ人を引っ張ってくるよりも、その方が、状況がわかりやすいからです。
 ツチ族は、資本家であり地主であり知識階層であったわけですから、最初からすべて抹殺してしまうと、国が成り立ちません。したがって、政権の一角を担うツチ族もいましたし、始終、流血沙汰が起こっていたわけでもありません。また、難民となったり亡命者となって、国外へ逃れたツチ族も多かったわけで、1994年に起こった未曾有の大虐殺は、文化大革命だったと考えると、理解しやすいのです。ツチ族は、ルワンダにおける「黒五類」でした。
 貧しい、ごく普通の農家の息子や娘が、国営ラジオの扇動で民兵となり、隣人を殺し、犯し、略奪をする。文化大革命にそっくりではありませんか。
 ちがうところといえば、隣国を拠点とするツチ族の反政府ゲリラがいたことで、文化大革命の影響を受けた、カンボジアの大虐殺に例える方が、あるいはもっとわかりやすいかもしれません。
 当時のルワンダには、国連の平和維持軍が展開していました。しかし、ソマリアで米軍が虐殺された直後であり、また、当初にベルギーからの派遣兵が死者10名を出したことによって、国連軍は虐殺を傍観し、引き上げました。
 虐殺は、長期間にわたって準備されていました。ルワンダ政府そのものが、虐殺を扇動していたのです。これを防ぐことができたのは、ルワンダ軍よりも強力な武器を持った、軍隊だけでした。
 犠牲者100万人という大虐殺を止めたのは、反政府軍の侵攻でした。しかし、最初から政府軍の方に肩入れしていたフランスは、国際世論を誤った方向に導き、ジュノサイドをくりひろげる政府軍に、余裕を与えるような停戦のための派兵に、踏み切ったといいます。
 また、今度はフツ族が難民として国外へ出ることになり、もちろんその中にはジュノサイドの指導者も多数まじっていましたが、ここでようやく悲劇を知った世界の援助は、難民キャンプに集中し、虐殺の主体を助けるという皮肉な現象も起こったようです。
 『ジュノサイドの丘』は当然、最初に、見て見ぬふりをして放置した国連とアメリカ政府を問題視しています。
 そういえば、これと同じ頃、ボスニアでも虐殺が起こっていたのですが、国連指揮下にいたNATO軍は、国連の許可が出なかったために介入できず、虐殺を止めることができませんでした。このときの国連の現地最高指揮者は、明石康氏でした。
 明石氏は、この2年前のカンボジアPKOでは、選挙を成功させ、カンボジアに秩序を取り戻すという快挙を成し遂げましたが、カンボジアの場合、虐殺はベトナム軍の侵攻でとっくの昔に収束した後でしたし、人には向き不向きというものがあるのでしょう。
 といいますか、結局のところ国連は、頭のない、不効率で巨大な官僚組織にすぎませんから、責任逃れは体質であり、暴力には弱い、ということなのでしょうか。
 いまなお日本では、ボスニア紛争でのNATOの空爆を非難するむきもあるようですが、欧米ではリベラル派も空爆を支持し、明石氏を非難しています。

 ルワンダ虐殺における国連の責任について、当時のアメリカ国連代表部職員は、こう証言したそうです。
「まさに悲劇的な計算ですが、何人のルワンダ人が死のうが関係ないのです。ルワンダ人の命は、アメリカ人やベルギー人、あるいは日本人の命に見合う価値はないのです」

 もちろん、場合にもよるでしょう。しかし、虐殺をとめることができたにもかかわらず、軍事介入をしぶった場合、それは卑怯で傲慢な態度だと見なされるのだということを、私たちも知っておくべきではないでしょうか。
 話してわかるものならば、虐殺など起こりはしません。虐殺をとめうるのは、軍事力だけなのです。
 それにしましても、かつて大虐殺を引き起こした独裁政権のままの中国が、常任理事国であることを考えますと、国連というのは、つくづく異常な組織です。

ルワンダ大虐殺を描いた『哀歌』の題は、旧約聖書からとられました。
エルサレムの滅亡と捕囚という民族の悲劇を歌った哀歌です。

「街では老人も子供も地に倒れ伏し
おとめも若者も剣にかかって死にました。
あなたは、ついに怒り殺し、屠って容赦されませんでした」

「主よ、生死にかかわるこの争いをわたしに代わって争い
命を贖ってくださ。
主よ、わたしになされた不正を見、わたしの訴えを取り上げてください。
わたしに対する悪意を、謀のすべてを見てください」

「立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。
主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。
両手を上げて命乞いをせよ。あなたの幼子らのために」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『千々にくだけて』と『哀歌』

2005年06月14日 | 読書感想
『千々にくだけて』リービ英雄
『哀歌』曾野綾子

この2冊を、一気に読んでしまいました。
その感想が書きたくなって、ブログをはじめた次第です。
『千々にくだけて』は9.11、『哀歌』はルワンダ虐殺。
どちらも大量虐殺を素材にしているんですが、対照的な小説です。

リービ英雄は、非常に美しい日本語で、私小説を書く在日アメリカ人作家です。70年安保世代、いわゆる団塊の世代、でしょう。
一方、曾野綾子は、リービ英雄の母親に近いくらいのお年。保守的なカトリック信者で、構成が緻密な、つまり、感覚を重視する私小説とは対極にあるような、西洋的な小説を書いてきた女性です。

私はもともと、私小説を好みませんでした。湿気がありすぎる、とでもいうんでしょうか、じっとりと湿ったような感触が嫌いで、ほとんど読んでなかったのですが、リービ英雄はちがいました。日本語が本来の母語ではなかっただけに、距離感が作用しているのでしょうか。突き放したような、乾いた感覚で、しかし、しっかりと臨場感のある、美しい表現になっているんです。
wev上で偶然、彼の9.11関するアメリカの妹への書簡を見てから、『千々にくだけて』の発行を待ちかねていました。
現実にリービ英雄は、年に一度の恒例で、アメリカにいる母と妹に会うため、日本からカナダ経由でNYに飛ぼうとして、飛行機の中で、9.11の事件を知ったそうです。
9.11を「大量虐殺事件」と呼ぶことには、抵抗がある方もいるかもしれません。アメリカ合衆国は、その強大な国力ゆえに、日本では通常、「被害者の立場にある」という想念とは、結びつけて報道され辛いからです。
しかし、『千々にくだけて』によれば、日本からバンクーバーに向けて飛んでいた飛行機の機長は、直訳すれば「アメリカ合衆国は被害者となった。甚大なテロ攻撃の。したがって合衆国は、その国境を全部閉鎖しました」と放送したのだそうです。続いた日本人スチュワーデスのアナウンスにはもちろん、「被害者となった」という表現はありません。「アメリカ合衆国はテロリストの攻撃を受けました」と、「自分とは特に関係のない事柄だ、といった事務的な」声のアナウンスだったといいます。

9.11事件の最初の報道は、日本では夜中でした。
私がなにをしていたかというと、当時行きつけだったチャットをのぞいていました。しかしいつもの常連はいなくて、しばらく様子を見ていると、久しぶりに見る(おそらく1、2年ぶり)、ネット上の知り合いの男性が、顔を出しました。9.11のニュースを知って、だれかと話したくなったのだそうです。
私は、さっぱりニュースを見ていなかったので、知って驚かなかったわけではないのですが、まだ、なにが起こったのかよくはわからない段階でしたし、それこそ「自分とは特に関係のない事柄」というのが、第一印象でした。それより、その久しぶりのチャット相手が、いまなにをしているのかといった個人的な話題がはずんで、明け方近くまで語らっていました。
実感がわいたのは、寝て起きて、貿易センタービルがくずれ落ちる映像を、テレビで見てからです。それでも、「アメリカ合衆国は被害者になった」という実感は、わかなかったように記憶しています。

『千々にくだけて』という題は、芭蕉の句、「嶋々や千々にくだけて夏の海」からとったのだそうです。
リービ英雄、いえ、『千々にくだけて』の主人公エドワードは、カナダ西海岸の海岸線を機上から見下ろし、この句の英訳を思い浮かべていました。着陸後、余儀なく留まることとなったバンクーバーの宿で、テレビ画面の貿易センターの崩壊を見て、「ちぢにくだけて」という日本語と、「Broken into thousands of pieces」という翻訳が、彼の頭の中を走りまわります。

芭蕉の句! あの映像を見て芭蕉の句、というのは、ちょっとした驚きでした。
それはおそらく、アメリカ国籍を持ち、アメリカに親族がいる著者と、ごく普通の日本人である私との、9.11事件に対する距離感のちがい、なんでしょう。

ようやく電話連絡がとれたブルックリンの妹は、震える声で、そのときの様子を語ります。
マンハッタンの方向から、空を流れてくる灰の川。デッキにふりつもる灰に、焼けた紙切れがまじり、その紙切れの一つに「Miss Kato at Fuji Bank」の文字。富士銀行のミス・カトーは、どうなったのか‥‥‥。
印象的な描写です。

私が事件の重大さを実感したのは、妹の知り合いの肉親の女性が、出張で貿易センタービルを訪れていて行方不明だと聞き、同ビルで開業していた母の知り合いの医者が、当日、緊急の往診に呼ばれていたおかげで助かった、という話を聞いたあげく、だったでしょう。
「ミス・カトー」は、妹の知り合いの肉親の女性だったでしょう。
日本の地方都市の日常は、否応もなくアメリカ合衆国の貿易センタービルの日常とつながっていて、アラブのテロリストの日常と、つながってはいないのです。
ただそれは、たまたま出かけていた先の国で、地震や津波などの天災にまきこまれることもあると実感することと、あまりちがいはないような気がします。
少なくとも、エドワードがバンクーバーのテレビで見たイギリスやカナダの追悼式で、星条旗をかざし、あるいは「星条旗よ永遠なれ」を歌う人々のような、「私たちは悪意による攻撃の被害者の一員になった」という一体感とは、大きくずれているでしょう。
そういった日本人の距離感も、著者は、カナダに来ていて足止めされた日本人観光客を描くことで、見事に表現しています。

もっとも印象的な日本人の登場人物は、飛行機で、エドワードが隣あわせた老女でしょうか。「エドワードの母よりは若い」そうですが、おそらくは、曾野綾子と同年代でしょう。ブランドものの派手な花柄のドレスを着て、強い香水の匂いをまとった厚化粧の老女は、豪華客船によるアラスカ・クルーズに参加するため、バンクーバー行きの飛行機に乗っていたのですが、9.11を報じる機内放送で、はじめてエドワードは老女と会話をかわします。
アメリカ行きの飛行機は飛ばない、というアナウンスに、エドワードが「今日の夜は空港のベンチで寝ることになるかもしれない」と笑うと、老女は、「戦争が終わったときのことを、あなたは知らないでしょう」と応じます。
この言葉に、エドワードは不意をつかれます。
「戦争が終わったとき、わたし、三日間も駅のホームで寝たことがある。いざとなったときは大丈夫ですよ」
続いた老女の言葉に、エドワードは、「焼け跡の中で家へ帰ろうとしているもんぺ姿の女学生」を思い浮かべるのです。
これは現実にあったことだと、著者が週刊文春のインタビューで答えていましたが、実際、この老女の描写には、肉親や知り合いのこの年代の日本女性のだれであってもおかしくないような、リアリティがありました。
米軍の爆撃で学徒動員先の工場を焼かれ、機銃掃射に追われたもんぺ姿の女学生は、家も焼かれていて、両親の疎開先へ向かおうとする途中、列車が動かなくなり、駅のホームで寝たのでしょうか。
それは、当時の女学生のだれにでも起こったことなのですが、その女学生たちは戦後教育を受け、教師になったか、サラリーマンの妻になったか、商店や中小企業のおかみさんになったか、ともかく、日本の高度成長をささえて乗り越え、子供たちを育てあげ、豊かな蓄えを持って、少女時代にかなわなかった夢のかけらでも満たそうと、世界中へ出かけています。
そして、彼女たちの多くは、美しい外国の風景や珍しい風俗、あるいは昔読んだ小説や映画の舞台、本場のオペラやバレーなどに満足の吐息をもらし、帰国して言うのです。「すばらしかった。だけど日本が一番いい。日本に生まれてよかった」と。
彼女たちは、同年代の曾野綾子が、『哀歌』において、主人公であるルワンダの日本人修道女を、「日の丸とパスポート」に命を守られている、と描写したように、菊の紋章のパスポートに守られていることを、強く意識しています。国民を守るに足る国力を、焼け跡の中から再び築き上げたのは自分たちだ、という自負とともに。
老女がエドワードに、自分の息子を重ねていたのは確かでしょう。
「大丈夫ですよ」に続く言葉は、老女にとっては、自明のものだったはずです。
「あなたは、星条旗とアメリカのパスポートに守られているから」
エドワードがテレビで、アメリカの追悼式に出席した歴代大統領を見て、「かれらのために、だれが死ぬものか」と思うとき、私の頭に真っ先に浮かんできたのは、日本人の老女の姿です。彼女が、そんなエドワードをもし見たならば、苦笑とともにもらす言葉は、やはり、「でもあなたは、星条旗に守られている」でしょう。

著者は、そこまで計算して、日本人の老女を登場させたのでしょうか。だとするならば、舌を巻くうまさです。
登場人物それぞれの事件への距離感の的確な描写は、著者が、日本語で小説を書く在日アメリカ人でなければ、なしえなかったことでしょう。
老女に近い場所に身を置きながら、私小説という、近代日本が生んだ独特のジャンルが、これほどまでに実り豊かなものであったと気づかせてくれた著者の技に、感嘆を禁じえません。

リービ英雄と曾野綾子の対談を読んでみたい、と、いま、思っているのですが、曾野綾子の作品は、これまでに、『不在の部屋』しか読んでいませんでした。

『不在の部屋』は、おそらく著者の曾野綾子よりも10歳くらい若い、つまり、太平洋戦争の最中あたりに生まれた小川多枝子を主人公として、第二ヴァチカン公会議の結果にゆれる、日本のある地方都市の修道女の世界を描いたもので、書かれたのは1970年代です。
オードリー・ヘプバーン主演の『尼僧物語』という古い映画をご存じでしょうか。私もテレビで放映されて見ただけなのですが、その前に、アメリカのベストセラー小説である原作の翻訳を読んでいました。
舞台は戦前のベルギーです。主人公のガブリエラは、医学者の父を持ち、母を早くに亡くして、修道女の道を歩みます。信仰心と修道生活の不合理との狭間で葛藤しつつ、熱帯医学を学び、植民地コンゴの伝道に生き甲斐を見出しますが、修道院は彼女を、内地へ呼び返します。やがて第二次世界大戦が始まり、ベルギーはドイツに占領されて、修道院も戦争と無縁ではいられなくなります。ガブリエラは「敵を愛せよ」という神の教えに、どうしても従えない自分を発見し、ついに還俗することを決意します。神への絶対の服従を誓った修道女にとって、愛国心は私情であり、その私情に溺れることは許されないのです。
曽野綾子は当然、『尼僧物語』を読んでいたでしょう。
『不在の部屋』の主人公、多枝子は、1950年代に、聖心女子大を思わせる地方都市のカトリック系女子大で英文学を学び、修道女になる道を選びます。修道生活の不合理に驚きつつ、勝ち気な多枝子は、それを、打ち勝たなければならない試練と受け止め、修道院での地位を築きつつありました。
『不在の部屋』の最後に出てくる言葉ですが、修道院はなにも「特別」な場所ではなかったのです。個人の能力や実家の勢力による待遇の差もあれば、ねたみや偏見もありうる、社会の縮図でさえあったのですが、しかし、それでもやはり「特別」な場でありえたのは、神への絶対の服従を表明するために、修道女たちが耐え忍んでいた不合理でした。
 1962年にはじまった第二ヴァチカン公会議は、修道会が中世から引きずっていた修道女間の身分差を無くし、修道女たちの生活をおおっていた不合理、つまり、新聞やテレビ、ラジオのニュースとも無縁で、個室もない集団生活、蒸し暑い日本の夏でも入浴は週二回、食べるにも着るにも個人の好みはすべて排除される、そんな服従の不合理を、解消する方向へと進みました。
 それは当初、いいことずくめであるように見えたのです。たしかに、不合理な不自由はなくして、人並みな生活をしつつ世間にまじわる方が、より世の中の役に立つことができて、神の御心にもかなう、という理屈は、成り立ちそうに思えます。
 しかし、抑圧からの解放は、かえって修道女たちに、修道生活の意味を見失わせてしまいます。『不在の部屋』の「不在」は、神の不在を示しているのです。
 『不在の部屋』が、修道院という特殊な世界を舞台にしながら、確かなリアリティを持って迫るのは、曾野綾子の描くそれが、戦後の日本そのものの縮図であるから、でしょう。
 50年代の地方都市で、カトリック系の女子校は、戦前の公立女学校にとってかわってお嬢さま学校となり、戦後教育を受ける少女たちは、西洋文化の具象を、西洋人の修道女に見て、憧れます。やがて高度成長の中、洋式化は進み、生ハムや手作りのチョコレートといった贅沢品が地方でも手に入るようになり、海外旅行も普通のこととなる一方、「平等」のはきちがいが始まり、義務は忘れ去られ、権利の要求のみが声高に叫ばれるようになります。
 1970年代、修道女たちが神を見失ったように、一般の日本人もまた、合理性と快適のみを追い求めるあまりに、なにかを見失いつつあったのです。

最初、私は『哀歌』を、『不在の部屋』の続編として読もうとしたのですが、70年代から90年代へ、その落差を克明に描くことを、著者はしていませんでした。
『哀歌』の前半、ルワンダにおける主人公・春菜の修道生活と、ルワンダの社会、虐殺の過程は、具象性をもって緻密に描かれるのですが、一般の日本人にとっては非日常にすぎるその世界と、帰国した春菜が住む90年代の日本は、大きく断絶していて、ルワンダでの強姦の結果を引き受けて還俗した春菜の暮らしは、むしろ修道女であったとき以上に、日本の現実からは離れて、神に献身する世捨て人のように受け取れるのです。
日本の今を描くことにかけては、『哀歌』は『千々にくだけて』に劣っているでしょう。これは、二人の著者の年代の差なのでしょうか。
曾野綾子の最近の発言を見ていると、現在の日本を小説として構築することに、関心をなくしているのではないか、という気もします。
したがって、作品の完成度からすれば、『哀歌』は『不在の部屋』に劣るのです。ただ、「これだけは言っておきたい」という、荒削りな迫力のようなもの、ちょうど、『千々にくだけて』でエドワードが隣席の老女の言葉に「思わぬ力がこめられていた」と感じたと同じような感慨が、強く残りました。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする