郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍はオリンピックには出ていなかった!!

2009年05月17日 | 伝説の金日成将軍
 「金日成将軍がオリンピック出場!?」の続きです。

 伝説のキム・イルソン将軍のモデル、陸士23期に留学していました金光瑞(入学当初の名前は顕忠でしたが、在学中に光瑞に改名したといわれます)は、実のところ、大正14年(1925年)から消息不明で、おそらくは不遇のうちに満州で没したものと推測されています。

 それが、昭和7年(1932年)のロスオリンピックに、日本代表として出場している! という情報には驚きました。もし、そうだったならば、ソ連に裏切られた金光瑞は、日本軍に投降して、ソ連情報提供者となり、陸士留学生仲間のとりなしもあって、日本陸軍騎兵仲間の連帯感から復権を認められた、という線しか考えられなかったのですが、いくらなんでも金光瑞は武装闘争をしていた人物ですし、ちょっと信じがたいことだったんですね。
 といいますのも、陸士26期に留学していて、金光瑞とともに独立武装闘争をした池青天は、ソ連に裏切られた大正14年以降は、中華民国によって独立運動に邁進しているようですし、こちらの系統の独立運動に陸士留学関係者はけっこういまして、いくらソ連に怒りを覚えたとはいえ、日本軍に投降は、金光瑞の誇りが許さなかっただろうに、という気がしました。

 それで、横浜へ生麦事件の資料をさがしに行きましたついでに、麻布の外交資料館へ、ロスオリンピックの資料を見に行きました。
 アジ歴でキーワード検索をかけましたところが、ロスオリンピク関係の資料が外交資料館にある、とまでは、わかったんです。
 えー、実は階層検索をかけると、すべてデジタル画像で見ることができる資料だったんですが、その検索の仕方がわかりませんでして。無駄足といえば無駄足なんですが、検索の仕方を教えていただきましたし、実物を見ることができて、幸せでした。
 やっぱり、ですね、すべてモノクロームの資料画像よりも、現物で見た方が、時代の雰囲気が感じられますし。
 感心がおありの方は、レファレンスコード検索で、B04012502700を見ますと、 国際「オリムピック」競技大会一件 第二巻(ロスオリンピック関係の資料の綴り)の画像が出てまいります。分割されていますので、選手の名前が登場する資料は、左上の「次資料」をクリックすれば出てきます「分割2」にいろいろとあります。

 結論をまず述べますと、金光瑞の名はありません! 選手はもちろん、馬のめんどうを見る人々や役員にも、です。
 さっそく、陸軍騎兵学校ーWikiの記述を訂正しておきました。

 それはともかくとして、おもしろい資料でした。時間さえ許せば、じっと読みふけっていたことでしょう。
 西竹一の大障害飛越金メダルは、もちろん名馬ウラヌス号の存在とバロン西個人の資質もあったのでしょうけれども、何年も前からの陸軍を中心とする馬術関係者の力の入れようもあずかっていたのだと、よくわかりました。

 最初は帝国馬匹協会(昭和2年創立)が、次いで、途中から設立されたらしい日本国際馬術協会(会長・松平頼寿伯爵)が、単独で馬術選手派遣に動き、アメリカ在住の邦人に協力を求めたり、寄付をつのったり、活発に動いていたんですね。まあ、馬術は馬を連れていかなければなりませんので、準備も大変ですし、莫大な参加費用がかかります。
 選手は、民間からも募って陸軍騎兵学校で訓練を引き受ける、としていたのですが、結局、バロン西を含む4人が現役の騎兵将校、1人が現役の砲兵大尉で、民間から選ばれた山本盛重も、民間とはいうものの、後備役の騎兵大尉です。山本盛重は学習院初等科の出身で、大正10年から学習院で馬術教官を務めていたことが、学習院馬術部のHPに見えます。
 監督の遊佐幸平騎兵大佐の伝記を読めば、国際馬術大会と陸軍騎兵科の関係がよくわかりそうなんですが、この伝記がどうも、希少本のようです。 遊佐幸平は陸士16期だそうですから、もちろん金光瑞を知っていたでしょうし、もしかすると先生だったかもしれませんし、そちらの方の情報も、あるかもしれなくて、読んでみたいのですが。

 ともかく、おそらくなんですが、日露戦争によって、ようやく日本でも騎兵というもの、そして西洋馬術が世間一般に認知されて間もなく、第一次世界大戦によって塹壕戦の時代となり、騎兵の活躍する余地はほとんどない状況となってきます。イギリスやフランスの騎兵隊の大戦における悲劇は有名です。
 で、そんなこともあり、日本陸軍の騎兵科は、オリンピックをも含む国際馬術大会に熱心に取り組むようになったんじゃないんでしょうか。いえ、日本だけではなく、欧米各国の陸軍騎兵隊が、もはや儀仗兵としてしか意味が無くなり、国際馬術大会が盛んになった、ともいえるのかもしれない、と思うのですが。
 ロスオリンピックの日本の馬術代表団は、前述のように陸軍関係者のみでしたし、参加のために渡米しては、アメリカ陸軍騎兵隊の歓迎を受けました。

 まあ、そんなわけで、日本国際馬術協会は、陸軍の全面的バックアップを受けていたのでしょう。その自負からか、なにもかも単独でやろうとして、これに大日本体育協会がクレームをつけるんですね。

 えーと、この大日本体育協会というのは現在の日本体育協会でして、当時は日本オリンピック委員会の役目も果たしていた、ようなのですね。ところが、日本国際馬術協会はこれに加盟せず、単独行動をとろうとします。けしからん!というので、大日本体育協会は、ですね、なんとロスのオリンピック準備委員会に「あー、日本国際馬術協会というのがおたくに参加の申し込みをすると思うんだけどね、あれはうちに参加していない勝手な団体だから、参加を拒否してちょーだいな」と、申し入れたようなのです。
 これを知ったロスの日本領事が「えー、国内の団体の内輪もめを外国で晒すとは、見苦しいかぎりなので、なんとかしてちょーだいな」と、時の外務大臣、幣原喜重郎男爵にお手紙を書くほどの騒ぎ。結局、外務省が間に入って、日本国際馬術協会は大日本体育協会に加盟し、決着がついたようなのです。

 また当時のアメリカには排日移民法がありまして、どうも日本人には、旅行者といえども行動制限があったようなのです。この扱いを、オリンピック期間は停止する、というような資料もあり、選手や大会関係者にはアイデンティティカード(身分証明書)を持たせる、としたのも、どうも、有色人種に対する差別的な扱いを避けるため、であったようです。

 で、これまで述べてきましたように、金光瑞の名は、まったく見あたりません。
 年齢からいきましたら、遊佐幸平がこの4年前のアムステルダムオリンピックに選手として出場していますし、総合馬術の後備役騎兵大尉・山本盛重は、明治15年の生まれです。金光瑞が代表となってもおかしくはなさそうなんですが、資料を読んで、馬術競技というものは日々の研鑽が必要でしょうし、金光瑞にはシベリアで抗日武装闘争をしていた年月のブランクがありますから、例え、投降して復権していたにしましても、出場は無理だったのではないか、という気がしました。
 
 はっとしたのは、「満州国が出場を申し込んでいるので、これを機会にアメリカが承認しないだろうか」という、超楽観的な外交通信を読んだとき、です。
 そうなんです。もしもこの時期、金光瑞が生きていたとしましたら、満州国にいた可能性は、けっこうありそうなんです。
 はっとはしたんですが、検索をかけてみましたら、満州国のオリンピック参加についての論文が出てきまして、結局、参加はできませんでしたし、しかも満州国が派遣しようとしたのは、馬術の選手ではなかったんです。

 というわけで、金光瑞はオリンピックには出ていません! 結局、大正14年(1925年)から消息不明、おそらくは不遇の内に病没、という従来の推測で、問題はなさそうに思います。

 前回書いたのは、大正8年(1919年)、金光瑞は、日本陸軍騎兵中尉として三・一独立運動の勃発を知った、というところまで、でした。次回は、以降の金光瑞の軌跡をかんたんにまとめてみるつもりです。


 人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (19)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金日成将軍がオリンピック出場!?

2009年05月10日 | 伝説の金日成将軍
 えーと、あまりに驚きましたので、北朝鮮新義州ー中朝国境の町の続きです。

 チンダラコッチさまからメールでお知らせいただいたのですが、金日成のモデルと思われる抗日運動家、金光瑞。「彼は、バロン西が金メダルをとった昭和7年(1932年)のロサンジェルスオリンピックに、同じ馬術で出場している」「えっ!!! えええええっ???」です。
 ぐぐってみました。ネット上で、この情報のもとになっているのは、日本語版Wikiみたいです。

 陸軍騎兵学校ーWiki

 たしかに、「著名な卒業生」の項目に、西竹一とともに「金光瑞(ロサンゼルス五輪馬術代表)」とあります。

 代表って、もちろん日本代表です。この時代の朝鮮半島は、日本の領土ですから。
 この4年後のベルリンオリンピックにおいては、朝鮮半島出身の孫基禎、南昇竜の二人が、やはり日本代表としてマラソンで出場し、金、銅のメダルを獲得しています。
 
 えーと、ですね。別に抗日気分を持っていたからといって、オリンピックに日本代表として出ない、ということはないでしょう。現に、金メダルをとった孫基禎(新義州の出身です)は、「外国人へのサインにはKOREAと書いた」というエピソードを残し、「表彰台で涙を流したのは君が代が自分の国歌であることを嘆いてだった」ともいわれています。

 しかし金光瑞は、抗日武力闘争の首領だった、はずなんですね。
 それを日本帝国陸軍が、オリンピックの日本代表として認めるものなんでしょうか。といいますのも、バロン西がそうだったように、日本の馬術競技の中心は陸軍の騎兵科であり、この当時のオリンピック馬術競技出場者は、すべてその関係者なのです。

 Wikiが名前をまちがえているのか、あるいは、ロサンジェルスオリンピックに出場した金光瑞は、金日成のモデルだった金光瑞とは別人なのか、といったところも十分に考えられるのですが、もしもこれが同一人物だったとしたら……、と想像してみました。
 
 実は、救国の英雄「金日成将軍」のモデルだった金光瑞については、詳しいことがわかっていません。前回にご紹介しました「金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!」が出てまいりましたので、これを主に、そして下の本が、わずかながら資料を転載してくれていますので、両書から、確実そうなことのみを、書いてみたいと思います。

洪思翊中将の処刑〈上〉 (ちくま文庫)
山本 七平
筑摩書房

このアイテムの詳細を見る


 「金日成将軍」のモデルだった金光瑞は、咸鏡南道北青郡(北朝鮮、日本海に面した咸興市から北へ165キロほどのところ)で、明治20年(1887年)に生まれました。日本では鹿鳴館華やかなりしころで、イギリスではヴィクトリア女王在位50周年式典が行われた年、です。有名どころでは蒋介石と同い年、日本の軍人では、阿南惟幾や南雲忠一と同年です。
 ロサンジェルスオリンピック馬術で金メダルをとり、硫黄島で戦死しましたバロン西は明治35年(1902年)の生まれですから、出場当時30歳。この年、金光瑞は45歳で西とは15も年がちがい、ロスの金光瑞はやはり同姓同名の別人か、という気もするのですが、馬術は年がいっていても可能な感じもしますし、どうなんでしょうか。

 明治42年(1909年)、22歳にして日本の陸軍士官学校23期に入学するまで、金光瑞がなにをしていたのかは、実のところ、さっぱりわかっていません。
 常識的に考えれば、大韓帝国軍の将校になっていて、この2年前、第三次日韓協約によって軍が解散したにともない、皇帝を護衛する近衛兵になっていたのではないか、というところでしょうか。
 陸士が大韓帝国から留学生を受け入れたについては、詳しいことを知らないのですが、金光瑞以前には、明治32年(1899年)卒業の第11期に21人、明治36年(1903年)卒業の15期に8人、まとまった人数で2回受け入れ記録がありまして、これはおそらく、なんですが、大韓帝国軍近代化のための国費留学だった、と思われます。

 うーん。大韓帝国軍について、さっぱり知識がないものですから、すべて憶測になるのですが、ともかく、です。 日清戦争の後、高宗が皇帝となり、国号を大韓帝国としましたのが明治30年(1897年)ですから、同時に陸士に留学生を送り出し、さらに4年後に8人を送り出しましたところが、日露戦争後の第二次日韓協約によって、大韓帝国は日本の保護国となり、外交権を失います。これによってハーグ密使事件が起こるわけですから、高宗周辺の日本への不満は大きかったでしょうし、まして、大韓帝国軍の指導者たちは、そうだったのではないでしょうか。以降、陸士への留学はしばらくとだえます。

 で、明治40年(1907年)、第三次日韓協約により、少人数の近衛兵を残し、大韓帝国軍は解散させられてしまうのです。当然、軍は不満を持ちますよね。解散に応じなかった軍人たちが地方に散り、丁未義兵闘争をまき起こします。
 日本側の対応は、当初は、それほどこれを重視したものではなかったのですが、明治42年(1909年)に、初代韓国統監であった伊藤博文が安重根に暗殺されたことで、徹底的な掃討作戦が行われ、ほぼ鎮圧されるのです。
 金光瑞が陸士に留学しましたのはこの年でして、単身の留学ですし、私費です。叔父が11期か15期に留学していまして、留学費用を出してくれた、といわれているようです。
 そして、この翌年、つまり明治43年(1910年)ですが、日韓併合が行われ、大韓帝国は消滅します。

 金光瑞の陸士留学から3年後、つまり併合後なんですが、陸士26期、そして翌年27期には、また久しぶりに半島からの多数の陸士留学が復活します。彼らは、大韓帝国軍解体にともない廃止された陸軍武官学校の生徒だったようです。選ばれて、まずは陸軍幼年学校に留学し、続いて陸士進学、となったようなのです。
 この26期の中に、帝国陸軍で陸軍中将にまでなり、フィリピンで戦犯として処刑されてしまった洪思翊もいるのですが、ともかく、金光瑞の単身留学は異例です。
 あるいは、すでに明治40年、李垠殿下が来日していましたし、陸軍幼年学校から士官学校へ進まれる予定だったわけですから、おそばにせめて一人でも韓国側の士官を、というような配慮と、陸軍幼年学校留学組の監督者もいるだろう、ということで、金光瑞が23期に一人留学したもの、とも考えられるのではないのではないでしょうか。
 さらには、もしかしまして金光瑞は、李垠殿下のお供のようなかたちで、士官学校入学以前に来日していた、可能性もありそうな気がします。
 
 金光瑞は陸士卒業後、日本帝国陸軍の将校となり、おそらくは、陸軍騎兵学校に進んだものと思われます。
 当時、半島出身の陸士卒業者、23期の金光瑞と、26期13名、27期20名は、全誼会という親睦団体を作っていまして、自分たちのアルバムを残しています。その写真にそえられた金光瑞の経歴が、「陸軍中尉 騎兵第一連隊所属」です。

 明治天皇が崩御され、大正となって、大正3年(1914年)、第1次世界大戦が勃発します。
 4年間も続いた大戦は、いうまでもなく、大きく世界を変えました。
 戦いの過程においてロシア帝国に共産主義革命が起こり、大戦の結果、ハプスブルグ帝国とオスマントルコ帝国が解体し、民族主義の高まりから、欧州、中東ではいくつもの新興民族国家が生まれようとしていました。
 その嵐は、極東にまで伝わった、というべきでしょう。

 大戦が収束したその翌年、大正8年(1919年)の1月21日、京城(ソウル)において、大韓帝国初代皇帝高宗が崩じます。独立を守ろうと苦慮を重ねた皇帝の死は、半島の人々の民族意識に火をつけ、2月8日、半島からの日本留学生11人が、東京神田のYMCA会館において、独立宣言を発します。それが呼び水となり、3月1日には、ソウルでも独立宣言が読み上げられたのです。
 三・一独立運動のはじまりでした。

 洪思翊は生涯、高宗が発した大韓帝国の軍人勅諭を身につけていたといわれます。そもそもはといえば、大韓帝国軍のエリートとなるはずだった陸士留学生たちが、この独立騒動に無関心でいられるはずがありません。

 と、ここまで書きまして、ややっこしい話なのですが、朝鮮の独立運動は、半島内部よりも主に南満州を舞台にしていまして、なぜか、ということを調べていきますと、清朝から中華民国へ、ロシアからソ連へ、という二大帝国の激動にも触れる必要があります。
 ちょっといま、こちゃごちゃと調べたことをまとめる時間がありませんで、次回に続きます。

 それまでに、です。もしも、1932年のロサンジェルスオリンピック馬術競技に、日本代表として出場した金光瑞について、詳しいことをご存じの方がおられましたら、ご教授のほどをお願いします。


 人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮新義州ー中朝国境の町

2009年04月26日 | 伝説の金日成将軍
 チンダラコッチさまから、貴重な北朝鮮の画像をいただきましたので、今回はちょっと北朝鮮のお話を。いま手元に、北朝鮮に関する本がありませんので、多少、お話が不正確になるかもしれないのですが、ご容赦のほどを。

 私とチンダラコッチさまとの出会いは、朝鮮半島と在日に関する討論BBSにおけるものでした。
 えーと、そこで私がなにをしていたかといいますと、どーも、喧嘩を売っていたような気がしないでもないのですが、とりあえず当初は、朝鮮半島の歴史的知識を求めて訪れたように覚えています。しかし、そこはそういう掲示板ではなく、政治的色彩が濃く、いつのまにか私は、バトルを楽しむようになっていたのですが、やはり比較的、歴史関係の書き込みが多かったのでしょう。ロムっていらしたチンダラコッチさまが、私を歴史の専門家と勘違いされて、メールをくださったのが最初でした。

 チンダラコッチさまは、併合時代の朝鮮半島に、日本人植民者の子供として生を受けられ、半島で育たれ、旧制中学校まで半島で教育を受けられました。戦時中に予科練入学で内地へ帰られ、そのまま終戦を迎えられたのです。
 そしてチンダラコッチさまは、その少年時代、半島にて「王世子・李垠殿下のご学友として日本の陸軍士官学校へ留学していたキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という伝説を聞いておられた、というのです。
 ところが、日本の敗戦により、ソ連が北朝鮮に連れてきた金日成は、伝説のキム・イルソン将軍にしては年が若すぎ、「偽物ではないか」と騒ぎになったわけでして、チンダラコッチさまは、「李垠殿下のご学友だった本物のキム・イルソン将軍についてご存じないか」と、私に問い合わせメールをくださったのです。

 えー、私、朝鮮の歴史にさほど詳しいわけではありませんで、メールをいただいて驚いたのですが、たまたま、直前に下の本を読んでおりました。

金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!
李 命英
成甲書房

このアイテムの詳細を見る


 現在、手元に本が無くて不正確ですが、確か著者の李命英氏は、現在の北朝鮮地域のご出身で、38度線を超えて韓国側に逃れた方でして、金日成への恨み骨髄、というかんじで書かれた本ですが、かんたんにいいますと、統合時代に朝鮮半島にひろまっていたキム・イルソン伝説には複数のモデルがあった、ということでして、その点では、なるほどと思わせますし、二人目のモデル金光瑞は、チンダラコッチさまが聞いておられたという「李垠殿下のご学友として陸軍士官学校に留学」という伝説に、かなり近い経歴です。
 陸士23期卒で、29期卒の李垠殿下のご学友というには年上すぎるのですが、日本で騎兵中尉となり、半島に帰った後、満州における抗日運動に身を投じ、白馬に乗って軍(まあ朝鮮族の馬賊のようなものだったみたいですが)を指揮したという話です。3代目、4代目のキム・イルソンのモデルより、はるかに時代が古く、大正期、シベリア出兵前後の話なんですね。結局、ソ連に裏切られてよるべなく病没したらしいんですが、日本陸軍時代の写真が残っていまして、とてもいい男です。
 生まれも育ちもいいですし、日本の士官学校を、おそらくは優秀な成績で卒業した元騎兵中尉で、ソウルの妓生たちの憧れの的で、白馬に乗って抗日軍を指揮していたって、いかにも伝説になりそうな実在の人物なんです。

 ちなみに、李命英氏は、現実にソ連が連れてきた金日成は抗日運動はろくにしていない、としているのですが、それについては異論もありまして、私も以降、いろいろと金日成に関する著作を読んでみたのですが、3代目、4代目のキム・イルソンのモデルと現実の金日成の関係は、なにが事実やら、ちょっとわけがわかりませんでした。
 金光瑞の死亡は、はっきり確かめられていたわけではありませんでしたので、昭和になり、中朝国境付近で武装集団が「抗日」をかかげますと、その長は、どうも代々、伝説のキム・イルソンを名乗ったようなのですね。
 で、ソ連が連れてきた金日成については、まったく抗日運動をしていなかったわけではなさげなのですが、果たして、どれほどの活動をしていたかについては、いろいろと話がありまして、とりあえず、よくはわからない、としておきます。
 しかし、「白馬に乗ったキム・イルソン将軍が、いつか朝鮮を独立に導いてくれる」という統合時代の半島の伝説についていいますならば、モデルの中核は金光瑞だったわけですし、だとすれば、確かにソ連が連れてきた金日成では、若すぎたでしょう。

 ともかく、そんなわけで、チンダラコッチさまとはお近づきになり、現実にお目にもかかったわけなのですが、そんな中で、ふと思い出したことがありました。我が家の親戚にも、北朝鮮から引き上げてきた一家がありました。統合時代、祖父の姉が、半島北部の鉱山で技師をしていた日本人に嫁ぎ、平壌に住んでいたんです。
 その子供たち(母のいとこになるわけですが)は、やはり平壌で旧制中学を卒業した後は、内地の学校へ進学していまして、終戦時、平壌にいましたのは、祖父の姉夫婦と年頃の長女のみ、だったようです。
 朝鮮半島からの日本人の引き上げは、ソ連が進駐してきた北部では、非常に悲惨なものであったことが知られています。引き上げ船を待つ間の収容所で、飢え死にさせられた例もかなりあったような話です。

 うちの母は、東京にいた大学生のころ、平壌から引き上げて来たいとこ(長女)夫婦の世話になりまして、そのいとこの死去を知り、いつかお参りしたい、といっておりました。で、つい先年、母を連れて仏前を訪れたのですが、私たちを待っていてくださったその旦那さまから、平壌引き上げの話をお聞きすることができたんです。
 実のところ、母のいとこの女性は、敗戦のどさくさに、鴨緑江水力発電株式会社の日本人技師だったその方と結婚したのであったようです。ちょっと驚いたのですが、電力会社の技師などは、ソ連軍にも地元の人々にも、代わりになる人材がなかったため、日本人でも優遇され、ちゃんと給料をもらって残留を求められたのだというのですね。もちろん、食べるに困るようなこともなく、お話をうかがっていて、なにしろ日本女性の強姦など日常茶飯事だったという当時の状況ですから、祖父の姉夫婦が急遽、年頃の長女を、優遇された電気会社の技師にゆだねたのではないか、と推察いたしました。
 日本人の北朝鮮引き上げにも、いろいろなケースがあったんですね。

 チンダラコッチさまがかつて住まわれていた新義州市は、中朝国境の北朝鮮の町です。鴨緑江をはさんで、向こう岸は中国の丹東市です。通常、日本人が観光で北朝鮮を訪れても、新義州市へは行くことができません。立ち入りが制限されているのだそうです。
 チンダラコッチさまは、幾度か訪れることがおできになったそうでして、貴重な画像をくださいました。なお、詳しくは新義州市ーwikiをご覧ください。
 このwikiのメーデーの写真で、市民はけっこういい服装をしているように見えますが、チンダラコッチさまのお話でも、TVで報道される北朝鮮地方都市の貧しさとは、ちょっとちがっていて、みなこざっぱりとした様子で、飢えに苦しむような様子はうかがえない、とのことです。
 また、商取り引きがさかんな様子であったというお話ですが、最近の報道で、中朝国境地帯は中国との交易で潤っている、といっていたのは、どうも本当のことのようです。
 経済的には、すでに中国の影響下に呑み込まれている、といえなくもないような気がするのですが、一方、総連の活動も盛んだそうでして、どんなものなのでしょうか。金王朝の三代目ともいわれる三男の母、亡き高英姫は、鶴橋出身、ですしねえ。
 
 といいますか、先日のTBSの番組といい、時折メディアで評論家などが口にする台詞といい、どうも北朝鮮は、またしても日本へ融和世論形成の工作をしかけているような気がするのですが、いいかげん、拉致問題を置き去りにしては何事も始まらないのだと、わからないものなのでしょうか。

 以下、写真の説明につきましては、すべてチンダラコッチさまのお教えに基づくものです。



 鴨緑江大橋(中朝友誼橋)です。手前が北朝鮮・新義州市。対岸に見えている丹東市側からの写真は多いのですが、新義州市側からの写真は、きわめて珍しいと思います。



 右が大橋、左は鴨緑江断橋の橋桁です。丹東市側には途中まで橋が残っているのですが、北朝鮮側は橋桁のみになっています。

 いずれも朝鮮総督府鉄道局、つまり日本人によってかけられたものです。鴨緑江断橋の方が先で、1911年(明治44年)に完成しました。鴨緑江大橋の方は、1943年(昭和18年)、輸送力のアップをはかってできたものです。双方、朝鮮戦争中にアメリカの空爆で破損しましたが、大橋の方は修復され、中朝友誼橋と名付けられ、いまなお活躍している、というわけです。
 断橋の方も、丹東市側では、観光資源になっているようですね。

 ともかく、チンダラコッチさま、貴重な写真を、ありがとうございました。

 人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする