郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1

2007年04月08日 | 幕末留学
しばらく休みましたが、またまた少々脱線を。
セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた は、新納武之助(次郎四郎)と新納とうさんのお話でしたが、今回は武之助の先輩ともいえる、町田清蔵少年のお話を。
町田家も、新納家と同じ島津一門、日置郡松元町石谷1750石の領主で、代々家老職を務める門閥です。
薩摩藩イギリス密航留学生には、門閥の子弟と、蘭学などの成績優秀な藩士(当然、蘭方医を含みます)とが入り交じっていました。
なんといっても薩摩藩は、島津重豪、曾孫の斉彬という蘭癖君主が続きまして、一門にも蘭学好みがひろがっていたようなのです。わけてもこの町田家は、すこぶるつきの洋学好きだったようで、四兄弟そろって(次男をのぞく)留学させようとしたのですが、上から三番目の町田猛彦は病気にかかり、長兄・町田久成、四弟・町田甲四郎、末弟・町田清蔵の三兄弟が、渡航することとなりました。
町田民部久成は、渡航当時27歳。大目付で、新納刑部が正使なら久成は副使なんですが、久成が留学生でもあり、最初から長期滞在の予定で、学生の取締官役も果たしました。

(追記) 
末弟清蔵少年が後年に書いた「町田久成略伝」によりますと、町田久成には「四弟」があったそうです。二弟は最初から留学仲間に入っていませんでしたようで、名前もわかりません。しかし「四弟」すべて、「各他家」を継ぐとなっていますので、健在ではあったようです。

久成については、以下の本に詳しく書かれていますが、東京上野の博物館創立者として、顕彰碑が建っているそうです。

博物館の誕生―町田久成と東京帝室博物館

岩波書店

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さて、末弟の清蔵少年です。
清蔵少年は、長寿を保ったようでして、大正11年(1922)、70を越えて、矍鑠と往事を語り残しています。新修森有礼全集第4巻に修められた「財部実行回顧談」がそれなんですが、清蔵少年は養子に出ましたので、財部は養子先の名字のようです。
これが、もう、なんといいますか……、財部実行氏、往年の清蔵少年は、座談の名手だったようでして、少々脚色して、お話しをおもしろくしているんじゃないか、と思えるほどです。
私、ごく最近、国会図書館にコピーを頼みまして、読んだのですが、お話しの一部、どうも、司馬遼太郎氏が、街道を行くかなにかで紹介されていたように思うんですね。あるいは、私の勘違いかもしれませんが。
ともかく、そのままで、短編小説になってしまうような、楽しい回顧談なんです。

「平生私の親は申しましたのに、貴様は孔子や孟子の学問をしたところが何にもならぬ。孟子のいうことは支那の話家だ。あんなものを習うては国を富し兵を強うすることはできぬというので、蘭学を12歳の時から始めて全く漢学をやめさせられました」

いや、新納とうさんといい、薩摩開明派門閥の蘭学重視、漢学軽視には、すさまじいものがあります。
長兄の町田久成は、江戸で平田国学の門下になっていますし、どうも、国学が基本にあって、漢学より蘭学を重んじるという、そういう流れがあったように感じます。

庄屋さんの幕末大奥見物ツアー で書きましたが、川路聖謨の日記に出てくる江戸のインテリ女性。「あなたはご存じないの? 西洋では一夫一婦が守られているのよ。中国も西洋も、神国日本から見れば野蛮。同じ蛮国のまねをするのなら、淫乱な中国のまねをするよりも西洋に習う方がましでしょう」って、これ、女性版、町田とうさん、ですよね。
ちなみに幕府の開明官僚だった川路聖謨は、島津斉彬と親交があり、妻の高子さんは、斉彬侯の亡き母君を見知っていたので、法事に回顧文を献じたりしています。

それで、蘭学で優秀な成績を収めて14歳になった清蔵少年、ある日御用状が来てお城へ呼び出され、町田とうさんに、「今度は善い面白いことがあるのだ」と言われます。ところがところが………、正装して登城し、辞令をもらいましたのに、「大島渡海仰せ付け」とあり、清蔵少年、青くなります。
「おとと様、大島という所は咎人を遠島、島流しするところですのに、いやです」
と、とうさんに訴えました。とうさんいわく。
「否とよ。この節の大島は咎人あつかいではない。実はあの島に天下に内緒で、オランダ人をお雇いになって学校を御立てになり、その書生に行くのだ。貴様ひとりではない。今日のご用状を受けた人はたくさんいるから心配するな」
とうさんは、にっこりと請け合うのです。

あー、とうさんはもちろん、イギリス密航のことは知っていたのですが、一応、国外渡航禁止は天下の御法度です。秘密だったんですね。

「その時分は唐天竺というと、それほど遠き国にて」、清蔵少年は、とうさんと写真をとりかえっこします。
写真を撮るのが、また騒動です。当時の写真は、とても技術のいるもので、薩摩でその技術を持っていたのは、宇宿彦右衛門と中村宗顯(博愛)のみだったんだそうです。中村宗顯は、薩摩の長崎医学生で、イギリス密航仲間に入っています。おそらく、彼に撮ってもらったんじゃないでしょうか。

留学生たちは、串木野郷の西にある、羽島という小さな漁村に集まり、30日ほど船を待っていました。その間、清蔵少年は、中村宗顯から、英語、オランダ語の会話を学びます。蘭学っていっても、書物のみの学問なので、会話はさっぱりだったんですね。その点、中村は、長崎でオランダ人ボードウィンに医学を学んでいましたので、会話も、ある程度はこなせたのでしょう。

この羽島沖は、香港長崎航路になっていて、異国船を見張る遠見番所があったんだそうです。ある日、その番所から、「蒸気船が近づいてきますが、お城下へ知らせますか?」と問い合わせがあり、久成にいさんは、「それは、おれと新納さまで処置するから、知らせなくていい」と答えます。
と、これは薩摩の胡蝶丸でして、五代と寺島、通訳の堀宗次郎が乗っていて、船から降り立った五代は、学生それぞれに一枚、「ふらんけっと」を手渡しました。ブランケット、毛布だったんでしょうねえ。
「このようなものは生まれて始て見るものにて珍しく、子供心にうれしく思って大事にいたしおりました」
で、航海に備えて、鶏200羽、卵5000固、ダイダイ500個を、一日で集めたというのですが。なんか………、船員を入れても、おそらく50人強。香港まで1週間の航海。そんなにいっぱいの鶏や卵をどうしたんでしょう? 香港で売りさばいたんでしょうか。つーか、薩摩の片田舎の漁村近辺に、そんなにいっぱい鶏がいて、卵を産んでいたんでしょうか???

さて、その翌日、いよいよグラバーの持ち船オースタライエン号がやってまいりました。それに、イギリスへの案内人となるライル・ホームが乗っていて、清蔵少年は、生まれて初めて西洋人を見ます。
「私は小児のことであり、おそろしきような心地がしました」
船見物という形にして、オースタライエン号に乗り込みますと、船員はみんな西洋人です。
「船中はみなみな猿に寸分もかわらず、言葉は何を聞いてもキキチチ、まるで猿のようで、頭の毛は赤く、またそばによれば臭く」だったんだそうですが、えー、この部分、原文のままの引用ですので、差別的表現はご容赦ください。

「頭髪を切り刀を箱詰めにいたし積込み」、元治2年(1865)3月22日(新暦4月17日)、清蔵少年数えの15歳、香港へ向けて、7日間の航海が始まりました。
ただ、留学生の一人だった畠山義成(杉浦弘蔵)の洋行日記によれば、髪を切ったのは船に乗り込んで2日目です。
さっさと洋装になろうというこの意気込みは、おそらく、幕府の遣欧使節団に随行した寺島宗則の意見だったんじゃないんでしょうか。

「船中にては飯は食えず、くさくさし、まるで大病人にて、ただただ中村より習い覚えし片言の英語で、ワーターWater、オレンジOrangeをボーイにせまり喰い飲みても、すぐ吐くというあんばいで、夜10時ころともおぼしきに香港へ着船いたしまし、そのときのうれしさ、今にわすれません」
畠山日記では、途中天気が悪く、船がゆれてみな酔ったそうですから、少なくともダイダイは、品切れになったかもしれませんね。

アジアの小ロンドン、香港に着いたのは夜でした。
「夜なれとも前後左右を見るに港内は広く、帆前船、蒸気船は何千何万とも思うほどの船がつながりおり、陸は山上山下、あたかも星が雨ふるような光にて、なんとも言いようなく、早く夜があければよいと、子供心のうれしさを忍び寝ました」
夜が明けて早々、清蔵少年は甲板に出ます。前後左右に、船が何千と連なっているその賑わい。
広い鹿児島港に、蒸気船といえば、月に一度か二度、藩所有のものが1、2隻、入港するばかりだったのですから、驚くばかりでした。
留学生全員の洋服が、手配されます。仕立てている暇はなく、古着ですから寸法があいません。
「皆々着用して上陸と出かける時に、五代、銀貨50ドルづつを渡され、そのうれしさ。上陸しますと、道路の立派、家の大きいことや店の品物は始めて見るものばかりで珍しく、時計屋に入りまして、五代は金時計を購われ、子供心に欲しく、それは宇和島の殿様御用品とのことでありました」
ライル・ホームは、清蔵少年と、一つ年下の磯永(長沢鼎)少年のみ……、この二人をのぞけば、後はみな18歳以上ですので、子供二人だけ、なんですが、誘います。シナ人の担ぐ妙なカゴに乗せられ、着いたところは大きな異人館。
「入り口に男女の小児やジーサンバーサンの御出向て、キイキイというても私はわからず、バーサンが私の頭をなでたりさすったりしまして、笑顔をもってやはりキイキイしゃべくる。そして、客間へ引入れたるにその座敷の結構うつくしきことかぎりなく、お茶と菓子が出ました。男女の小児が私どもの長椅子によりかかり、小猿めが菓子をくえといはんばかりに仕向けたるに、2,3品を取り茶を飲みたるに、これはしたり、奇妙な味と香に吐出もならず、一口にのみました。これは紅茶にて牛乳の入れ足るものにて、ただ今なら、頭を二つ三つ打たれても飲みますが、なにせ60年近くの前にて、唐天竺とは十万億土の先、
くらいに思うた時代でありましたので、無理からぬ事であります。それからその家を出て、順々に異人館に参ることでしたが、まるで私などを無料見世物巡業したような、馬鹿馬鹿しい、よい面の皮でありました」
香港には一週間ばかり滞在し、イギリス東洋艦隊香港守備の巡洋艦にも招かれましたが、この巡洋艦は、薩英戦争に参加したとのことだったそうです。

香港で、イギリスの豪華客船に乗り換えます。イギリス、サザンプトン港までの船賃が100ポンド。一等客室です。
「この航海より船酔もなく、また異国人になれて食事も甘く、この飛脚船の客室、食堂、浴室、便所その他設備の完全し、すべてが目を驚かすばかりでありました」
シンガポール、セイロン、ボンベイ、アデン、カイロ、アレキサンドリヤ、マルタ島。
「この島は珊瑚珠の産島にて、珊瑚の卸商家並に大店を見物に出かけ、ある店にて五代が立派の珊瑚のかんざしを購われましたが、価格は250ドルで、聞きますとこれは、宇和島公のお姫様の御用品との事でありました」

マルタ島は、聖ヨハネ騎士団が開拓した島です。
ヨハネ騎士団は、もともとは聖地巡礼者を守護するためにエルサレムで結成された修道会に起源がありますが、12世紀、十字軍の中東遠征により、武力集団となって、騎士修道会として認められました。
中東を逐われた後、ロードス島を本拠地に、海軍騎士団となりますが、オスマン帝国に破れて、ここも逐われます。
次いで本拠にしたのがマルタ島でしたから、騎士団の手で、マルタ島は全島要塞となり、またなにしろ海賊的要素の強い海軍騎士団でしたので、港が整備され、格好の海軍基地となりました。
マルタ島に因った騎士団は、16世紀、オスマン帝国の大軍団を撃退しています。
しかし、時代の変化とともに、騎士団の組織そのものが衰え、18世紀の末、騎士団は戦わずして、ナポレオンにマルタを明け渡します。
その後、イギリス海軍が海軍基地としてのマルタ島の価値に目をつけ、イギリス領となっていたものでした。

そんなわけで、マルタ島には軍事的な見所が多く、畠山日記には、古の騎士団の武具を見た話などが出てくるのですが、清蔵少年………、そんなことにはまったく触れず、珊瑚のかんざしです。なんで、五代が買ったかんざしの値段まで、覚えていたのでしょうか。驚いたもの値段だけ、メモしていたのかもしれないですね。

元治2年5月28日(畠山日記より)、サザンプトン港着。
「香港で買うた古着は着ないで、まるで日本衣にてすぐと汽車に乗組みますと、英国の小児が、チャイニーズといって、停車場までうるさき事であり」、といったような状態なので、ロンドンに着いた一行は、ケンジントン公園に面した豪華ホテルに入り、まずは理髪をし、新しい洋服が出来上がるまで、「囚人のように」閉じこもりました。
「服屋は19人ぶんの寸法をとりにかかり、それはそれは大にぎやかで、二十日ばかりたって下縫いができて、30日くらいで皆の服が出来上がり、時計屋より、鎖は金鎖でよろしいが時計は銀側にせよと、学頭町田(にいさんです)の申渡しでした。銀でもなんでも、買うてもうろうた時のうれしさ、なにもたとえようもありませんでした。新しき服にシルクハット、胸に金鎖をひらめかし立派な紳士となり、はじめて市井に出まして」、郵便局電信科なんぞを見学し、アメリカと短時間で交信ができることに驚いたりします。

ここらあたり、多少、後年の清蔵少年、記憶ちがいをしているようでして、畠山日記によれば、留学生たちは即、近くのアパートメントに引き移り、語学教師を招いて、勉強をはじめています。つまり、洋服ができるまで、「囚人のように」閉じこもっていたのはアパートで、語学研修に日々はげんでいたのですね。
「ある日、下女来まして申すに、階下に日本人三名見えまして会いたいと申されますが、いかが取りはからいましょうかというに、沢井(森有礼)、永井(吉田清成)、野田(鮫島尚信)、出水(寺島宗則)、上野(にいさんです)、五人集り、なにか密々話の末、階上にご案内せよと申しましたら、下女のかたわらに三名、室に入れていわるるに、私らは長州藩より渡英したる遠藤謹助、山尾庸三、井上彌吉(勝)と申す者なるが、日本を発したときは五名にて、伊藤俊介(博文)、井上聞多(馨)なりしに、この両人は先に帰藩し、しかるに学費の送金あく困難しておりますとの話は、今に忘れません」

この部分にも記憶違いがあるようでして、畠山日記では、世話人ライル・ホームから、長州人が会いたがっている、という話がすでにありまして、この日の面会となったようです。
留学生たちの残された書翰からも、町田に次いで留学生全般の面倒を見たのは畠山義成ですし、この人も門閥です。
留学決定当時の年齢も、畠山(23)、吉田清成(20)、鮫島尚信(20)、森有礼(18)です。
寺島宗則、町田久成と同格で話あったとすれば、畠山義成のはずなんですが、吉田、森は、 江戸は極楽である岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保でご紹介しましたように、強引で、個性が強く、鮫島尚信もまたそうだったようで、これは言い換えれば性格が悪かったわけなのですが、その押しの強さで、滞欧中に留学生の中心となり、新政府でも、もっとも大きな活躍の場を得たんですね。そのことは、またお話することになろうかと思うのですが、町田久成などの門閥出身者は、やがて新政府に違和感を覚えて出家をしたり、ということになります。
どうも、そういった後年の様相が、記憶に影響を与えて、森、吉田、鮫島の登場になったのではないでしょうか。
これは憶測なんですが、後年の清蔵少年は、この三人に、あまりいい感情は持っていなかったように感じます。

「その後、めいめい分宿の後、上野学頭の分宿所に山尾君の来訪にて、いわるるには、拙者もスコットランド、グラスゴー造船に行き、職工かたがた苦学の考なるも、旅費に困入る次第なれば、なにとぞ拝借はかないますまいか、との事に、上野も藩金を貸すわけにまいりませんから、各学生に相談しまして、学生より1ポンドづつを拠出しましたところが、16人にて英金16ポンド、日本金にしては10両を得まして、山尾君に贈呈しました。大喜びにてスコットランドに行かれましたが、井上(勝)さんは、お気の毒にはウィリヤムソンの学僕に住み込まれました。私などは毎月一度づつ、惣世話人のウィリヤムソンの晩餐に呼ばれ、生徒の心得方などの訓示見た様なことをなしましたが、その時は井上君は私どもの配膳をなされました。遠藤君は、分宿後はあって見得へました。遠藤さんは中々好人物にて、ことに私みたような小児は、かわいがってくれました」

この部分の回想は、よくいろいろな書物で紹介されていまして、司馬遼太郎氏も、なにかで書かれていたと思います。
留学生たちの分宿は、渡英後二ヶ月で、行われたようです。このとき、最年少の磯永彦輔(長沢鼎)は、グラバーの兄の世話で、グラマースクールに入学するするため、アバディーンへ旅立ちました。
したがって、ロンドンにいる薩摩留学生のうち、最年少は清蔵少年となったわけです。
長沢鼎の旅立ちの時期について、後年の清蔵少年は記憶ちがいをしていますし、分宿の様子についても、松村淳蔵(市来勘十郎)の回顧談とくいちがうのですが、清蔵がいっしょに暮らした人を忘れることはないと思うので、ここは、清蔵談の方が正しいのでしょう。
清蔵談によれば、朝倉(田中静洲)と永井(吉田清成)といっしょだったそうなのですが、「私三人分宿後、半年ばかりして朝倉は仏国学生となり、永井はまた他に転じて、私一人残りましたところ、その時は私は15歳で、ひとりで泣いたことがたびたびありました」

中村宗顯(博愛)と朝倉(田中静洲)、ともにボードウィン門下の蘭方医留学生は、フランスの学校に転じることになったのですが、それが慶応元年(1865)年内だったとしますと、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きました、五代、新納、堀の三人の最後の渡仏に同行し、モンブラン伯爵の世話になることになったのではないかと思われます。

五代、新納、堀の帰国後、最初に帰国したのは、慶応2年3月28日(1866年5月12日)、寺島宗則と村橋直衛なのですが、維新後の村橋は数奇な運命をたどっていまして、これは、またの機会に語りたいと思います。

なにやらこのブログ、本文1000字以内になったみたいでして、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2へ続きます。


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セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた

2007年03月26日 | 幕末留学
 今日はちょっと、思わずほろっとしてしまいましたので、維新の動乱前夜、数えの11歳、つまり現代でいうならばわずか10歳で、パリに留学しました貴公子のお話を。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたが、慶応元年(1865)、モンブラン伯爵のもとを訪れた薩摩使節団は、五代友厚、新納刑部、通訳の堀孝之(長崎出身)の三人でした。
私、五代友厚が中心であったように書きまして、事実そうなのですが、イギリス留学生をも含めて、この薩摩密航留学使節団の長は、新納刑部久脩です。
新納家は一所持と呼ばれる島津の門族で、850余石の大口領主。
新納久脩は、軍役奉行として藩兵制の洋式化を積極的に進め、大目付となって、密航使節団の長を務めました。
天保3年(1832)生まれで、渡欧当時33歳。寺島宗則と同じ年で、五代より3つ上です。帰国後、家老になりました。

実は、です。私、『密航留学生たちの明治維新?井上馨と幕末藩士』を再読していまして、五代が帰国後、諸藩士の留学に手を貸す話の中で、「家老新納刑部の息子次郎四郎がフランスに留学するにあたって、長崎遊学中の加賀藩士関沢考三郎(明清)と岡田秀之助(元臣)の両人を密かに同伴させたのも、加賀藩からのたっての依頼があったからである」と一節を、気にとめてはいました。
 気にとめてはいたのですが、しかし、新納次郎四郎については、それだけしか出てきませんでしたし、あまり深く考えないでいたのです。

ところがある日、いつものお方のブログを見て、びっくり。
その方は、別の資料から、明治5年(1872)秋ころと思われる、在パリ日本人留学生の名簿から、新納武之助(次郎四郎)16歳、1866年11月29日フランス着、となっていたのを、発見されていたんです。
とすれば、新納武之助(次郎四郎)が留学したのは、10か11のころ!? これには驚きました。
しかも、よく考えてみましたら、武之助少年は、父親が帰国した年の暮れに、パリへ渡っていることになります。めんどうを見たのは、当然、モンブラン伯爵でしょう。
その方によれば、写真も残っていて、明治6年、岩倉使節団の一員として欧州に渡っていた大久保利通が、帰国するにあたって、当時パリにいた複数の薩摩藩士と写真を撮っているんですが、大久保の右側にいるのが、新納武之助だというのです。
この集合写真、よく見かけるんですが、たいていは小さい上に、ぼんやりしているのですが、私、大きくて、かなりくっきりした写真を見つけましたところが、17歳の武之助少年は、少しウェーブのかかった貴公子らしい髪型で、なかなかに秀麗な、品のある様子です。

いや、これもそのお方から送っていただいた資料に、密航留学生の書簡がありまして、慶応2年(1866)12月下旬、イギリスにいた畠山義成から新納刑部宛のものに、以下の言葉があります。
「御息童子も英十一月仏へ御安着。ほか加藩之両生も大元気に而着英被礼 童子様の事承候。その長船中殊の外退屈もこれなく、船酔などはまったく成られず候」
金沢藩のお兄さん二人につきそわれて、11歳の武之助少年は、元気に、船酔いもせず、退屈することもなく、欧州に至ったんですね。
パリには、朝倉(田中清洲)、中村博愛の二人の薩摩藩密航留学生がいましたし、まもなくパリ万博。すぐに、家老の岩下方平を長とする薩摩の正式使節団がやって来まして、その中には、岩下の息子で、やはりパリに私費留学することになっていた16歳の岩下長十郎もいましたから、とりあえず武之助少年は、寂しがる暇もなく、パリを楽しんだでしょう。

『若き薩摩の群像―サツマ・スチューデントの生涯』

春苑堂出版

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門田明氏著の上の本を見て、またまた、びっくりしました。
明治4年(1871)の後半、父親の新納刑部が、パリの息子に出した手紙が、載っているじゃありませんか!!!
それが、どういうわけか、森有礼がアメリカ公使(弁務使)だったとき、秘書として雇っていたチャールズ・ランマンが、「アメリカの日本人」という本を出していて、その中に英文で出てくるんだそうです。
元は、日本文、いわゆる漢字交じりの候文だったはずです。それが英語に訳されていて、またまたこの本で日本語に訳されています。

「お前と別れて、もう五年になる。お前ももう一六歳になる。真剣に一生の志をたてるべきこのときに、親心をもって言い聞かせておきたいと思う。第一に、国のため、わが最愛の子を捧げるのは父たる者のつとめである。残念にも日本に適切な教育制度がないために、わが子が、教育を受けることなく成人するかも知れないことを、私は怖れた」

パリ万博の半ばで、薩摩使節団は帰国し、モンブラン伯爵も朝倉(田中)も、ともに日本へ行きます。
残された薩摩留学生は、中村博愛と岩下長十郎、新納武之助の三人です。
そして年が明け、鳥羽伏見の戦いが起こり、維新を迎えて、明治元年5月ころ、中村博愛も帰国します。
モンブランが先に預かっていた、やはり薩摩藩留学生の少年、町田清蔵の例からしますと、おそらく二人の少年は、とても家庭的な下宿に預けられ、かわいがられていたとは思えるのですが、それでも、父親がその渦中にある祖国の動乱は、なにかしら二人を不安にしたんじゃないんでしょうか。

新納刑部は、欧州への往路の船がシンガポールに停泊したとき、七歳にもならない三人の子供を連れた、オランダ人の夫婦を見たのだそうです。夫婦は別れを惜しんで泣き、夫一人が陸に戻り、妻と子供たちは船に残りました。子供たちはシンガポールで生まれたけれども、教育のためには、故国オランダへ返さなければなりません。そのために、夫婦は離別の苦痛に耐えていたのだと。
「このことは、私の胸を強く打った。オランダのような小国でさえも、子供の教育にこれほどの熱意を持っている」
いや、オランダを小国と言い切ってしまうところに、なんか………、この時代の日本人のすごみを感じましたが、この情景を見て、そしてロンドン、パリの教育を視察して、二人の息子を、ロンドンとパリに、それぞれ送ろうと決意したのだというのですね。

「しかし、ロンドン滞在中に、お前の弟が亡くなった知らせが届いた。私の悲しみは大きかった。こうして私の願いは、すべてお前一人にかかることになった。私の大きな気がかりは、だれをお前の先生にお願いするか、ということだった。たまたま、モンブランというフランス人に会う機会があり、彼に私の考えを話し、お前には、主として政治経済学を学ばせたいといったところ、彼は私の考えをよく理解し、最善をつくすことを約束してくれた。これが、お前のために、私が心をくだき、努力してきた大体のいきさつだ」

ロンドン滞在中というのは、新納とうさんが、ロンドンに滞在していたときです。
武之助少年、弟を幼いときに亡くして、一人息子になったんですねえ。

ところで、薩摩藩は、幕末の動乱時に、あまり内紛を起こしませんでしたし、うまく立ち回って、犠牲者もほとんど出しませんでした。
そのために、小松帯刀、桂久武、岩下方平、新納刑部といった、島津家一門の革新派の家老が、みな健在でした。
長州は、中下級の藩士を取り立てた勤王派の家老は、維新までにほとんど死に絶えましたが、それが薩摩にはなかったんですね。
薩摩に下克上が起こったのは、戊辰戦争の結果、でした。
幕末すでに、実質的な薩摩の指導者は、西郷、大久保、外国へ出た場合も五代、寺島といった工合で、革新派家老たちと協力しながらも、中下級藩士たちがのしあがってはいたのですが、下級藩士たちが隊長となって勝利した戊辰戦争の実績が、すっかり様相を変えました。
戊辰戦争から帰国した「兵隊」たちが、門閥打破を叫んで藩政をにぎり、それを西郷が暗黙のうちに認めて、島津久光は、一門が禄を失うことに心を痛めたのですが、廃藩置県前の藩政改革で、高禄の門閥は消えたんです。
また、大久保が中心にいた新政府においても、次第に門閥は脇へ追いやられ、新納刑部は、最後の薩摩藩家老として藩政に幕引きをし、その後は大島の島司となり、中央で活躍をすることはなかったんです。
すでに、この手紙の時点で、生活はかなり苦しいものに変わっていたと思われます。

「お前を外国に送ったのは、短期間で呼び返すためではない。学業を達成するまでは、帰すつもりがないことははっきりしている。お前に、学業を終わってからしてもらいたいことは、文明ヨーロッパの各地、各国を回ってもらうことだ。帰り道には、中国の北京にも寄ってもらいたい。お前が、フランス語しか知らないのであれば、満足するわけにはゆかない。お前には、英語の知識も持ってもらいたい。モンブラン氏は、こういう細かいところまで、すべて理解され、その実現を目指すことに同意してくれた」

世界を回れ、というのは、ナポレオンを見習え、ということなのだそうなのです。
ナポレオンは、年端もいかないころ、母親に人生の目的を尋ねられ、「自分は、世界の歴史に残る地を、すべて心に留め、剣一振を持って、世界の端から端まで行くつもりだ」と答えたのだそうで、「私は、これを知って深い感銘を受けた」と。こういう雄大な目標を、人生に持ってもらいたい、と。

「ヨーロッパから帰ると、私は早速、お前を外国に行かせてもらいたいと両親にお願いした。有難いことに、二人は大変深い感心を持ち、すぐさま同意してくれた。それは、お前一人にとって幸せなことであっただけではなく、私にとっても幸せなことであった。お前は、その時、たった十一歳で、私が何を望んでいるかなど、まるで知らなかった。お前の年を考え、また、最近、次男が逝去したことを考えあわせて、友達や親戚の者が、大反対するのをおさえ、この人たちの心配を和らげるのは、実に大変なことであったが、とにかく、理解を得るのに成功した。お前が故郷を去り、一万マイルの外地に、このような大志をもって、行くことができたのは、まさに天の恵みというものである。お前の胸深く、このことは、いつも忘れてはならない」

おそらく、開明藩主、島津斉彬にかわいがられただろう新納刑部自身、錦紅湾の彼方の南の海に憧れを抱いて、少年時代をすごしたんじゃなかったんでしょうか。
その少年の日の夢を息子にたくしたような、そんな感じがします。

「私が、お前にほとんど手紙を書かないのには理由がある。これは、お前にたいする私の深い愛によるものなのだ。まだ年若い者が、遠く離れた土地にいて、故郷を思うのは、自然の情である。しかし、故郷からの便りというのは、益より害になる。便りは感情を刺激しがちで、勉学の妨げとなる。お前は、まだ三歳にも満たぬとき母と別れた。それ以来、余人の手によらず、ただ私の胸に抱かれて育てられてきた。このような事情であったから、お前をいとおしく思う気持ちが、どうして冷めたりするものか。お前に便りを送ることが滅多にないからといって、私を誤解しないでもらいたい」

な、なんか、泣けてきません?
武之助少年、死に別れか生き別れか、お母さんがいなかったんですねえ。
なんとなく、なんですが、死に別れではなかったか、と思われます。
新納とうさんが、子供の教育のために別れるオランダ人夫婦を見て、感慨を深くしたのは、年若い妻に先立たれた悲しみを抱いていたこともあったのではないかと、そんな気がするのです。
そして渡欧してロンドンにいたとき、妻の忘れ形見の次男を亡くし、それでも、たった一人残された幼い長男を、パリへ教育に出そうと決意する………。
当時の人々にとって、いかに欧州が遠い場所だったかを考えると、壮絶な覚悟、だったのではないでしょうか。

美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子で書きました前田正名を連れて、モンブラン伯爵が日本を発ったのは、1869年(明治2年)12月30日です。どうも、長州の太田市之進(御堀耕助)もいっしょだったようです。
明けて1870年(明治3年)の3月ころには、パリについたでしょうか。
おそらくは、お父さんからの言付けを持っての正名の登場に、武之助、喜んだでしょうね。
しかし、喜んでまもなく、7月19日(和暦6月21日)、普仏戦争が勃発するんです。パリ籠城の時期には、あるいはインゲルムンステル城に、避難していたかもしれないですね。しかし翌年、パリコミューン騒ぎ。
この手紙が書かれたのは、その年の後半で、どうもこれ以前から武之助は、帰りたい、と訴えていたらしいのですね。
花のパリを半分廃墟に変えた一年の動乱。故郷の青い錦江湾と、とうさんの暖かい胸が、恋しくなったんでしょうか。

「私は、お前が前田氏に、もうすぐ日本へ帰るつもりだ、と言ったと耳にした。どういう理由があって、そうするのだろうか。お前を留学させた目的については、すでに十分話した。お前が学業を完全に終わったというのであれば、お前が戻って来ると聞いて、さぞかし嬉しいことだと思う。わたしにとって、それ以上の満足はない。しかし、お前が帰るといっているのは、怠惰な心から、わが家がなつかしくなったからではないかと、心配している」

正名くん、新納とうさんに頼まれていて、近況を知らせたんですかねえ。
どうも武之助は、日本人留学生が多くやってくるようになったパリで、焦りを感じるようにも、なっていたらしいのです。

「教育の第一の目的は、国の利益のために最善を尽くすことである。われわれは、広くわが国全土にわたって、漢字をつかっている。海外で、お前が出会う日本人は日本語や漢文を使うので、それが分からないと不便だと思うかもしれない。また、日本の事情を知るために、日本語や漢文を勉強しようという気になるかも知れない。これが私の最も気がかりなことだ。今こそお前にとって、最も大切な時なのだ。お前は未来の大きな目的を心得て、小さなことに係わってはいけない。お前は、全霊を尽くして、西洋の勉強に打ち込むのだ。日本語とか漢文とかは、日本に帰ってから学んでも、決して遅くはない。この問題で、お前が迷いを持たないことが最も大切だ」

お、お、お、おとーさん、それは極端ですって。
ちょうどこの手紙の頃、岩倉使節団とともに、アメリカ留学に向かった5人の少女がいました。
森有礼と黒田清隆と、そういえば、これも薩摩藩士の試みでしたね。薩摩の少女はいませんでしたけど。
5人のうち、もっとも長くアメリカにいたのは、留学時12歳だった山川捨松と8歳だった津田梅子なんですが、あー、忘れてましたわ。妻とともに津田梅子の面倒を見たのが、新納とうさんの手紙を英訳して本に載せたチャールズ・ランマンでしたわ。
そういう経験者だけに、新納とうさんの手紙に感激したのでしょうね。
しかし、どうやって手に入れたのやら…………。

ともかく、『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』によりますと、梅子は日本語をさっぱり忘れ、帰国直後には家族と話をすることもできなかった、といいます。そして、捨松もなのですが、日本語ができないために帰国した当座には仕事もなく、逆カルチャー・ショックに苦悩し、生涯、手紙を書くのも本を読むのも、英語だったとか。
当時の日本で、日本語も漢文もだめだとなれば、仕事ができないはずなのですが、門閥だった新納とうさんには、そんなせこせこした考えはなかったようです。
それがお国のため、なんですから、アイデンティティ・クライシスなんて、思もよらなかったんでしょうね。

そういえば、やはり薩摩門閥の子弟で、14歳でイギリスに密航留学し、モンブラン伯爵に気に入られてしばらくパリにもいた町田清蔵も、後年の回想ですが、「儒学なぞは国を弱体化して、滅ぼすだけだ」とう親の方針で、幼い頃から蘭学しか習わなかった、というようなことを言っていましたっけ。
帰国してから、兄に勧められて、やっと漢学を学んだんだとか。
蘭癖って言葉がありますけど、薩摩の開明派門閥って……、なにか、すごいものがあります。

これもいつものお方が調べてくださったのですが、武之助は結局、明治6年5月には、帰国しているようです。
私費留学だったので、あるいは、学費が続かなくなったのかもしれません。
帰国後は、主に陸軍省に勤務しているのですが、不運、というべきでしょう。
明治陸軍は、最初、フランスに習って、お雇いフランス人伝習教師も多く、教科書もフランス語のものが多かったのですが、徐々にドイツ式に切り替わっていくんです。
陸軍大学教授にまでなっていますから、それほど不運というわけではないのですが、地味な後半生です。
明治28年、病死。
新納とうさんは、この7年前、明治21年に世を去っていました。
検索をかけましたら、現在、カナダに、新納とうさんのひ孫に当たる方がおられるようです。
新納とうさんが、他に子供を作らなかったとすれば、武之助のお孫さんのはずですよね。
書簡とか、残ってないんでしょうかしら。
もし残っていたら、本にしてくれないものでしょうか。

「お前の手紙を、何度も何度も読んだ。まるで、お前と向き合って話しているような気がした。この父の手紙を読んで、お前も同じように感じて欲しい。おまえの学業がまっとうされるようにという、私の深い胸の内にある、ただ一つの思を、お前にいつまでも、忘れないでいてもらいたいと願っている」



追記
新納とうさんの手紙の英訳を、チャールズ・ランマンが見た経緯なんですが、畠山義成が見せたのではないか、という推測が自然ではないか、と、思われます。
武之助少年の帰国は、明治6年5月26日です。ということは、岩倉使節団に参加していて、一足先に帰国した大久保利通に、いっしょに連れて帰ってもらったことになります。パリの集合写真で、武之助が大久保のそばにいるのは、武之助少年の送別会でもあったからなんでしょう。
畠山義成については、また改めて書きたいと思いますが、1867年(慶応3年)、ロンドンからアメリカに渡って、ラトガース大学で学んでいました。1871年(明治4年)の春、新政府の帰国命令を受けたんですが、猶予をもらい、同年10月28日にアメリカを発ち、ヨーロッパまわりで帰国する予定でパリへ向かいました。あるいは、自分がロンドンにいたころ、留学して来た武之助少年のことが、気になっていたのかもしれません。
おそらくはパリで武之助に会い、とうさんの手紙を見せられて、望郷と不安を訴えられたのではないでしょうか。
これもまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、13歳で密航留学生となり、ハリス教団にどっぷりと身を入れてしまった長沢鼎を、畠山は見たばかりですので、これは武之助の不安ももっともだと思っていたところへ、岩倉使節団への協力要請があり、アメリカへ引き返します。
ライマンが幼い女子留学生の世話をしてくれているのを見て、「親御さんは、こんな思いでいるんだよ」と、新納とうさんの手紙を見せます。
そして、使節団随行中、新納とうさんに連絡をとり、大久保利通に武之助の帰国のことを頼んだ、と、そういう筋道ではなかたかと、私には思えてなりません。


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花冠の会津武士、パリへ。

2007年03月17日 | 幕末留学
いつものお方から、あんまりにもいいものをいただきましたので、今日はちょっと白山伯をお休みしまして、今を去る百数十年前、花のパリをかけめぐった二人の会津武士のお話を。
ふう、びっくりしたー白虎隊土方歳三はアラビア馬に乗ったか?vol2に出てまいりました、横山主悦常忠と海老名李昌です。
横山が弘化4年(1847)生まれですから、欧州へ渡った慶応3年(1867)には、数えで21歳。
海老名は天保14年(1843)で数えの25歳。
玉川芳男編著『幕末明治を記録した夫婦 海老名李昌・リンの日記』(2000年発行 歴史春秋出版株式会社)に二人の写真と、海老名の日記が載っていたんですが、これが………、実にいい男なんです、二人とも。
わけても横山、パリで写した写真で、なおちょんまげを落としていなくて、和装なんですが、私、ここまで貴公子然としたいい男を、見たことないですわ。
一方、海老名も和装ですが、こちらは渋め。やはり品はいいのですが、少しワイルドな感じです。




ああ!!! きっとこんな感じだったんですわ。
海老名は後年、北会津郡長や会津町長を務め、妻のリンはキリスト教に入信し、若松幼稚園、若松女学校を設立したんだそうです。前記の本は、若松幼稚園の園長さんが出されたもので、残念ながら、原文で載っているのは海老名が欧州へ出かけたときの日記の一部だけ。残りは口語訳っていうんでしょうか、一般にわかりやすい、ですます調に直してあって、ちょっと面食らうんですが、ありがたい本です。

海老名家は、代々軍事奉行を務める家柄で、本来は江戸詰めであったそうです。それで、会津には屋敷がなかったとか。
しかし、李昌は会津で生まれました。長男です。
三歳の時に天然痘にかかり、なんとか一命はとりとめましたが、その後遺症から病弱でした。
6歳のころ、お向かいの家で漢文を学ぶようになりましたが、先生のところで、孝経を開いたとたんに気を失って倒れ、学問はいやだ、と思ったんだそうです。
しかし、成長するにしたがい、李昌はたくましくなり、学問、武術ともにすぐれ、お小姓にとりたてられたりもしました。
十代のころには、父の勤務にしたがって蝦夷地に行き、やがて単身で京都勤番。禁門の変の活躍で取り立てられ、会津へ帰って家督を継いだ後、再び京都へ出て、大砲組組頭となります。
そして慶応2年の11月(旧暦)、横山常忠とともに、徳川民部公子のお供で、パリへ行くことを命じられたのです。

横山家は知行千三百石、代々家老職の家柄でした。
常忠は江戸で生まれ、幼い頃に父を亡くし、祖父の跡継ぎと定められます。
江戸表奏者番見習いとなって、11歳で藩主にお目見え。
文武修業で優秀な成績を収め、19歳で祖父の跡を継ぎ、当主となります。
20歳で京都勤番、21歳で海老名とともにパリ遊学を命じられました。

海老名によれば、11月に命令が出て、12月に出発です。
二人とも、漢学では非常に優秀で、家柄と相まって選ばれたみたいなんですが、フランス語どころか、英語もオランダ語も、まるで学んだことがなかったようなのですね。
当然、さっぱり言葉がわかりません。
だというのに、です。パリに着いてしばらくすると、幕府使節団の外国奉行組頭・田辺太一に、会津の横山、海老名と、唐津藩(藩主・小笠原長行)からただ一人参加していた尾崎俊蔵が呼び出され、「公子は別の旅館にお移りになる。君たちは、これを機会に勝手にしなさい」と申し渡されたのだとか。
海老名は、「約束がちがう」と腹立たしかったのですが、その方が自由に遊学できるかもしれない、と思い直し、メルメ・カションを師にして、フランス語を詰め込みました。
メルメ・カションは、カトリックの宣教師で、長く日本にいて、非常に日本語が達者です。
在日時の実績から、幕府使節団の正式通訳になれると踏んでいたところが、思惑がはずれ、へそをまげていました。「利と名をむさぼる事はなはだしい」と海老名は評していて、好ましい人柄ではなかったようですが、日本語能力はすぐれていますから、速習教師としてはよかったようです。

海老名はかなりの堅物だったみたいでして、産業、軍事、政治、社会、産物などなど、そんな記事がほとんどです。
「人は富める者でなければ貴ばれないので、貧者はどうしようもなく一生苦役をし、筋骨が衰えれば老院に入るばかりです。私ははなはだ気の毒に思います」
あー、花のパリで! まじめです。誉めているところは、以下。
「人々は善行を誉める風習があります。事を秘密にすることは更にありません。政府も同様です。新事ができれば新聞紙に書き、政治堂に人を集めてその事を説き聞かせます。異議があればねんごろに論争した上で実施します。事によりすでに起きたことは後で人にこうであったと説いて知らせます」
ほんとーに、まじめです。

7月からは、欧州各国をまわります。これが、二人でまわったものなのか、唐津藩の尾崎もいっしょだったのか、そこらへんがよくわかりません。カションに語学を学んだときには、尾崎もいっしょだった、と書いているんですけど。
会津の二人は、和装の写真しか残ってないようなのですが、尾崎は、和装と洋装と、二枚の写真を残しています。それ以外、尾崎についてはさっぱりわかりませんので、ご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
ともかく、冷たい幕府使節団も、会津の二人が欧州をめぐるにあたっては、各国政府への紹介状を出してくれたんだそうです。
スイスでは、初めての日本人だというので、国賓待遇でした。イタリア、バルカン半島、ブルガリアかと思われる東欧の国、オーストリア、ロシア、プロシア、オランダ、ベルギー、イギリス。
これだけの国をかけめぐったんですが、オランダでは、こうしるしています。
「長州をうちて勝利を得たる軍艦帰り祝う。余、朝敵なれども同国のことなれば身を潜め見るにしのびず」
そうなんです。長州の方が、朝敵だったはずでした。
しかし、二人がフランスから帰国の途についた11月、故国では、事態が急展開していました。

海老名は、帰国早々、鳥羽伏見を戦い、戦傷を受けます。
横山主税は、若年寄となって白河口で総軍を指揮。一度は防戦に成功しますが、新政府軍の反攻で、乱戦の中、戦死。数えで22歳の若さでした。


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英国へ渡った土佐郷士の流離 2

2007年02月15日 | 幕末留学
『島津久光と明治維新―久光はなぜ討幕を決意したのか』

新人物往来社

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この本、著者の芳即正氏が、薩摩藩の幕末維新史料の専門家でいらして、幕末薩摩藩の動向を、久光を中心とした視点から、コンパクトにうまくまとめておられます。
以下、この本から、ばかりというわけではなく、他の資料や、私の解釈も多大にまじりますが、昨日書いた英国へ渡った土佐郷士の流離 の続きです。

「ここらへんが、このころの薩摩藩のやることのわけのわからなさ」と昨日は書いたのですが、細かく見ていくと、わからないわけでもないのです。上洛した久光は、浪士取締の勅命を受けたんですね。
つまり、浪士の策動を、孝明天皇が嫌がっておられ、久光は勅命にしたがって、上意討ちをしたわけです。さらに、田中河内介殺しについていえば、完結・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族で少しだけ触れましたが、田中河内介は、上意討ちにされた薩摩尊攘檄派とつながり、清川八郎などともいっしょになって、西日本の志士に、檄文をまいて歩いていました。それに、中山家の跡取り、忠愛卿もかかわっていて、青蓮院宮(中川宮)の討幕の密旨があるという話にまでなっていまして、孝明天皇が浪士の策動を嫌がっておられるとなりますと、皇子(後の明治天皇)の母系一族である中山家にとっては、非常に困った事態だったわけです。久光は、当主の中山忠能に会っていますし、隠蔽策を頼まれて、殺して口を封じる決意をしたのではないか、とも考えられるでしょう。

で、吉田東洋暗殺なんですが、これは他藩のことです。土佐勤王党が、土佐藩政を握ろうとしていた時期ですし、薩摩藩にとっては、他藩のうちわもめでしかありません。勅命とはなんの関係もないんですよね。

高見弥一が、薩摩人となることを選んだ最初の動機も、幕末における「勅命」のゆれ動き、にあったのではないかと思うのです。『流離譚』によれば、三人の暗殺者の中で、高見弥一はただ一人、藩外で活動していて、長州、薩摩藩士とも面識があったので、脱藩後の身の振り方を決めるに必要な人物として選ばれたのだろう、ということです。つまり、他藩士との付き合いに慣れていて、社交性があった、ということなのですが、同時に、土佐藩内の情勢の上にあった、久光上洛にともなう西日本一帯の志士活動のうねりを、熟知していたことになります。
それがなぜ、上意討ちという無惨な形になったのか、彼は真剣に知ろうとしたのではないでしょうか。
奈良原をはじめ、上意討ちにおもむいた薩摩藩士たちにしても、好きで同じ藩の仲間に斬りかかったわけではありません。ちゃんと聞く耳を持った者には、勅命があったことを説明したはずです。
その後の久光の動きも、勅命遵守が基本にあったことを知っていれば、長州主導で煮えたぎった京の情勢も、しごく冷静な目で見えてしまって、一歩引いてしまうことになるのではないのでしょうか。自分が、藩の重役殺しに手を染め、もはや故郷へは帰れない身になっていればこそ、なおさらに。
土佐勤王党の大儀が、彼にとっては、しだいに遠いものとなっていったのでしょう。

薩摩藩士であることを選び取った時点で、弥一は、部外者であることを選んだことにもなります。薩摩生まれの薩摩育ちでなかったからこそ、彼は、薩摩藩がその中心にあった激動に巻き込まれることもなく、血しぶきをさけて、静かな日常に埋没できた、ともいえるでしょう。そして、流離こそが彼の平安であったのだとすれば、海のむこうのイギリスを目指したことも、彼にとっては、新しい刺激を求めたというよりも、より郷里から遠い場所こそが、流離するしかないその心の均衡を、保証してくれそうに思えたからでは、なかったのでしょうか。


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英国へ渡った土佐郷士の流離

2007年02月14日 | 幕末留学
流離譚〈上〉

講談社

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『流離譚』は、数多い幕末ものの著作の中で、私にとっては、屈指といっていい名著です。
安岡章太郎氏は、土佐出身の小説家ですが、土佐にいたのはごく幼いころのみです。その著者が、丹念に古文書を読み解いて、幕末維新期を生きた祖先たち、安岡家の人々を描いているんです。
安岡家は土佐郷士で、男たちは勤王党員となり、横死したり、入牢したり、戦死したりもするのですが、ごく日常的な日記や手紙が、幕末維新の動乱に結びついていて、安岡氏の筆は政治的な大局におよび、あの時代に身を置いたかのような確かな感触で、しかし客観的に、描写を重ねています。

最初にこの本を読んだ動機は、昔、吉田東洋暗殺犯の一人である、大石団蔵、後の高見弥一に関心を持ったこと、でした。
吉田東洋暗殺は、土佐勤王党が組織ぐるみで企てた事件で、後の藩内大弾圧につながり、多くの者が死に、土佐郷士はぞくぞくと脱藩し、高市半平太は切腹に終わります。
暗殺志願者は多く、何組かにわかれて狙っていたようですが、最終的に実行したのは、那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の三人です。そうなんです。安岡嘉助は、安岡章太郎氏の血縁です。
三人はただちに脱藩し、島津久光の上洛でわいていた京へ上り、最初は長州藩邸にかくまわれました。しかし、土佐藩庁の追求はきびしく、長州藩邸でかくまいきれなくなり、久坂玄瑞が頼み込んで、薩摩藩邸が引き受けるんですね。
ここらへんが、このころの薩摩藩のやることのわけのわからなさ、なんですが、自藩の過激尊攘派は寺田屋で上意討ちにし、しかも、行動をともにしようとした他藩士は国元へ送り返し、後ろ盾のない田中河内介などは殺害し、ですね、土佐藩の重役殺害犯は、かくまって丁寧にもてなす、わけです。
しかし、京の情勢は転変し、長州藩主導で過激尊攘派が主導権を握り、結局、那須信吾、安岡嘉助は薩摩藩邸を出て、同じく土佐郷士の吉村虎太郎とともに、天誅組の義挙に参加したところで、薩摩藩が8.18政変を引き起こします。
天誅組のお話は、またの機会にゆずりたいと思いますが、結論だけいいますと、那須信吾は戦死、安岡嘉助は捕らえられ、翌年、処刑されました。

大石団蔵がなにをしていたかと言いますと‥‥‥、彼は薩摩藩邸をでることなく、薩摩藩士になったんです。寺田屋事件で上意討ちの中心になっていた奈良原喜八郎と親しくなり、その親戚だったかの養子になった、というんですが。
いえ、それだけだったら、私はさほど関心を持たなかったかもしれません。これも昔読んだ犬塚 孝明氏の『薩摩藩英国留学生』によれば、なんと大石団蔵改め高見弥一は、幕末薩摩藩英国留学生の一人になったのです。
なにかもう、すごい転変じゃないですか?
土佐郷士で、勤王党員。刺客を志願して、藩の重役を暗殺。土佐藩にとっては犯罪人で、この事件のために勤王党は壊滅状態。自分が深くかかわった故郷の流血沙汰をよそ目に薩摩の人となり、薩摩藩士でも厳選された数少ないイギリス留学生におさまっているんです。いえ、おそらく、けっこう年がいっていたせいもあるんでしょうけれど、あまりイギリスにはなじめなかったみたいで、短期間で引き上げ、それから後は鹿児島で学校の先生。以降、歴史の表舞台には、いっさい顔を出しません。

いえね、『流離譚』が追っているのは安岡嘉助で、高見弥一のことが詳しく載っているわけではないと、知ってはいたのですが、どういう心境で、弥一がこの転変を選び取ったのか、なにか手かがりでもあるかな、と。
『流離譚』は、人にとって、切っても切れない故郷の原風景への思いを、淡々とうたいあげた物語です。
幕末も押し詰まった時点での、坂本龍馬の心境も、その故郷への執着から読み解いていて、それは、とても説得力のあるものでした。
高見弥一はどうだったのでしょう? なにが彼を故郷から断ち切り、流離させたのか。個人の日常の平安を選び取り、そのことが流離につながったのだとすれば、彼は、もはや帰ることのできなくなった故郷に、どんな思いを抱き、維新後の日々を生きたのでしょうか。
いまなお、そのことが、心にひっかかっています。


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