郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件考 vol1

2009年02月06日 | 生麦事件
 生麦事件シリーズです。リンクをはるのが面倒になってきたので、生麦事件というカテゴリーを作ることにします。
 実は私、生麦事件を「大名行列の無礼討ち」と規定しながら、この「無礼討ち」について、きっちりと調べていませんでした。


武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち (角川叢書)
谷口 眞子
角川学芸出版

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 なんといううかつなことでしょう。
 上の本で、ちゃんと生麦事件が「無礼討ち」として、取りあげられているんです。そのしめくくりは、以下です。

 薩摩藩士が外国人を殺害した生麦事件は、攘夷運動の激しさを示す典型例として、紹介されるのが常である。しかし、これは相手が外国人だから生じた事件というわけではない。ここまで考察してきたことからわかるように、大名やそれに準ずる行列がきたとき、下馬下座することは、近世の日本において当然の行為であった。リチャードソンたち四人が、馬から下りて会釈をしさえすれば、この悲劇は防げたのではないだろうか。

 まったく、おっしゃる通りです。
 とはいえ、谷口眞子氏は生麦事件の詳細に立ち入っているわけではありませんので、主にこの本の他の例を参考にして、事件当事者だった薩摩藩士たちの意識のあり方を、考えてみたいと思います。

 その前に、まず無礼討ちとはなにか、つまりどういう法概念かということなんですが、これについては、高柳真三氏の「江戸時代の罪と刑罰抄説」も参考に、かんたんにまとめてみます。

 無礼討ちは、「名誉、あるいは秩序、威厳の侵害に対する正当防衛」と考えられています。
 西洋近代法においては、正当防衛は生命と身体に限られるわけなのですが、「名誉の防衛」という観念はあり、通常、名誉の回復は実力行使ではなく、裁判にゆだねられます。しかし、近代にいたるまで、慣習として「決闘による名誉の回復」は存在しましたし、決闘の合法性を要求する社会通念は、正当防衛と関連づけて論じられていました。

 これにくらべ、江戸時代において無礼討ちは、はっきり法によって正当防衛と認められていました。
 しかし、無礼討ちが無礼討ちとして成立するには、次のような要件を満たす必要があります。

 まず大前提として、「はっきり無礼があったと証明できること」です。
 例えば、狭い道で、武士と百姓・町人が出くわし、百姓・町人が道をゆずらず、武士の身体にあたったり、武士に悪口雑言をあびせたりすることは、無礼です。しかし武士の方も、はっきり武士だとわかる恰好をしていなければいけません。そもそも、きちんとした服装で、威儀を正してなければ、出会い頭に武士だと認識することもできませんから。
 さらに、無礼討ちが成立するには、以下の三つの条件があります。

 1.相手を斬り留める。無礼討ちの相手に逃げられることは、武士の恥なのです。

 2.事件を届ける。藩や幕府に届け出て、吟味の結果、はじめて、正当性が認められます。認められなければ、殺人です。

 3.現場に留まる。届け出た後、吟味を受ける必要がありますから、現場に留まらなければなりません。


 1の「相手を斬り留める」ですが、基本的には、無礼をはたらいたもの全員を斬り留める必要があります。それも、現場を離れて追いかけ、とめを刺すのではなく、その場で斬り留める必要があるのです。
 しかし、それがどこまで厳格に裁定されたかといいますと、仙台藩の無礼討ちの規定に「侍に慮外(無礼)いたし候者、他国御追放、慮外いたし、切り殺され候えば死に損」とあるそうですから、かならずしも全員を斬り留め損なったからといって、処罰を受けたわけでもなさそうです。
 とはいえ、やはり「斬り留め損なうことは武士の恥」であり、所払いになるのが通常で、恥じて切腹した例も多々あり、刀をぬいて無礼を咎める側も、命がけでした。

 でー、です。これがこのまま生麦事件にあてはまるか、といえば、それはちょっとちがうようです。
 まず相手が外国人ですし、個人対個人で無礼をとがめた、というわけではなく、大名行列の無礼討ちですから、主君に対する無礼を、お供の武士がとがめたわけです。

 というわけで、大名行列の無礼討ちについて見てみますと、まあ、大名行列に正面から馬で乗り入れる日本人は皆無ですから、あんまりふさわしい例はないのですが、駕籠の中の主君にも責任はあった、という例で、三万石を棒にふった大名の話を。

 元禄12年(1699)、江戸においてのことです。
 幕府御小姓組、400石の岡八郎兵衛が登城の途中、仙台藩主の弟で、三万石の大名・伊逹村和の行列の横合いに行きあわせました。伊逹家の家来が、八郎兵衛の行く手をさえぎったため、八郎兵衛は溝に足をつっこみ、刀をぬいたけれども奪われてしまいます。多勢に無勢、だったわけですね。八郎兵衛は「主人に対面したい」と申し入れましたが、無視され、行列は行ってしまいます。
 八郎兵衛は、登城できないわけを届け出て、村和の屋敷へ出かけて談判しているうちに、幕府の目付が現れ、事情聴取をします。
 伊逹村和は「駕籠の中で熟睡していて事件を知らなかった」と答えたのですが、「供先の狼藉を静止しなかった」咎により、逼塞。直参旗本に無礼をはたらいた供先の三人は成敗。八郎兵衛は、刀をとられた不覚によるものでしょうか、小普請入りとなりましたが、4年後に赦免されます。

 生麦事件においても、当然、幕府が無礼討ちの認定をするはずなのですが、すでに幕府の権威が落ちていたこと、相手が外国人であり、幕府の頭越しに戦闘状態になる可能性があったことなどから、薩摩藩は幕府を無視しきっています。
 事件に対する薩摩藩の公式見解は、大久保利通が、久光の意を受けて、佐土原藩の側役に書いたという、伝達書に見ることができます。
 岡野新助という架空の人物が異人を斬って逃げたのだと、人を食った届け出をして、「幕府が外国人と交渉できないのなら、直接薩摩にやってこいと伝えろ」と言い放った、その理由なのですが、簡単にいえば、こういうことです。

だいたい、大名之行列は作法が厳密で、日本人でも無礼があれば斬り捨てにするのが習いである。まして外国人であれば、久光は朝廷の勅使の警護だったのだから、日本の威光にもかかわる問題で、なおさらのことだが、外国人には日本の習慣も言葉もわからないだろうからと、当日は薩摩の行列が通るので外国人は通行するなと通達したはずだ。ところが、その通達をものともせず、東海道へ繰り出して、あろうことか無体にも行列に馬で乗り込んできた。外国人は日本の作法を知らないからというが、こちらの言い分をいうならば、主君の安全を守る職分の者(奈良原兄)が、礼儀を知らない外国人が主君の身に危険を及ぼすことを案じて斬り捨てたのであり、それを咎めたのでは、日本の気風に反する。

 幕府もそうですが、薩摩藩もまた、これを無礼討ちととらえ、その場に留まり、幕府の調べを受けることが通常の手続きであることは、わかっていたのです。
 しかし、薩摩藩としては、朝廷の勅使の護衛であったこと、また幕府が外国人の無法に対してとがめ立てする力がないことから、幕藩体制そのものを疑ってかかっています。そして、その薩摩藩の立場においては、最初の一太刀目をあびせた奈良原喜左衛門は、当番供目付として当然の職務を果たした、と認めていたことがわかります。
 なお、一太刀目が奈良原喜左衛門、兄の方であったことは、久光の近くにいて、一太刀目を目撃した松方正義の認識では、そうです。後世、事件直後沙汰書を整理した文言に以下のようにあり、また薩藩海軍史のもととなった、松方からの聞き書きノートにも、そうあります。

「三郎様江戸より御上京の節、生麦市中において、奈良原喜左衛門、異人を殺害いたし候事件、異人ども色々難題の事など申し出候につき」


 そもそも、日本の街道は狭く、住宅が密集した市中では、17世紀から、武士といえども乗馬で駆けることは禁じられていました。しかし、来日した外国人は平気で馬を乗り回しましたので、すでにさまざまなトラブルが起こっていたのです。
 外国人の乗馬による事故が頻発したのは函館で、この文久2年には、ロシア人の馬に蹴られた町人があばら骨を折り、眼球破裂で、危篤状態になりましたが、ロシア人が賠償に応えるわけではなく、幕府が治療費を払っています。
 横浜近辺でも、大事にはいたらなくとも、類似の事故は起こっていたのです。

 また、翌文久3年のことですが、一人の武士が、三人のイギリス人から悪口をあびせられ、近寄ると、小銃を向けられたので、刀に手をかけると、発砲された事件もあり、イギリス人に打たれた同心が刀で斬りつけた事件とか、日本人にとっての耐えられない無礼の感覚が、外国人には理解されず、無数に事件は起こっていたのです。

 まして、これは個人の面子の問題ではなく、久光と薩摩藩の面子の問題であると同時に、薩摩藩の見解では、日本の面子の問題でもあったのです。

 長くなりましたので、次に続きます。


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真説生麦事件 補足2

2009年02月02日 | 生麦事件
 今回も生麦です。真説生麦事件 上真説生麦事件 下生麦事件 補足生麦事件 余録に続きます。

生麦事件〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社

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 コメント欄では触れたのですが、今回、吉村昭氏の「生麦事件」を読み返し、あらためて、氏がかなり広範に史料を読み込まれて、事件を再現なさっておられたことがわかりました。私の再現と、大きくちがっていたのは「鉄砲隊」の位置、なのですが、それがちがった理由も、長岡さまのご指摘で、納得しました。吉村氏は、明治45年の久木村へのインタビューを、ある程度まで信用なさったんですね。これを信用なさると、仕方がないのかなあ、という気がします。
 あと、久光が生麦村でお茶休憩した「藤屋」なんですが、これを吉村氏は、「立場茶屋の藤屋伝七方」とされているんです。
 実は、横浜開港資料館発行の『「名主日記」が語る幕末 ~武蔵国橘樹郡生麦村の関口家と日記~』には、慶応元年の「生麦村往還軒並間数畳数書上帖」から作製されました、東海道沿い2キロにわたり185軒が密集した生麦村集落の図が載っています。
 よく紹介されていますベアドの生麦村の写真は、どうも、この密集集落ではなく、そこから500メートルほど神奈川寄りで、リチャードソンの落馬位置に近い桐屋のあたりなのではないか、と思います。185軒がすきまなく軒を連ねている様子は、うかがえませんので。
 



 それで、生麦村の密集集落図なのですが、他の史料からわかるものは、その家の主と商売の種類が書いてあります。
 リチャードソンが最初に斬られた場所が目の前だったという勘左衛門の家は、ちゃんと書いてあり、豆腐屋で、これは、もし藤屋がこの集落の神奈川宿よりの端にある立場茶屋ならば、弁之助の語る距離感覚がぴったりの位置なのです。
 ところが、藤屋とか、屋号が書かれているものはなく、名前で見るしかないものでして、私、吉村氏の記述通りに「伝七」でさがしましたところ、一応、「寛延元年 酒食肴類荷売 伝七」という家がありはしたのですが、勘左衛門の家に近すぎるんですね。これはおかしい、と思って、検索をかけてみましたら、どうも神奈川宿に、有名な、唄にまでなった藤屋という茶屋があったみたいで、もしかして、吉村氏は、そちらとまちがえられて、「伝七」とされたのではないか、と思ったんです。
 とはいえ、確証はなく、気にかかっていたのですが、長岡さまにコピーをお送りしようとして、また本をペラペラっとめくっていましたら、生麦事件の翌年、文久3年の関口日記に、藤屋万三郎が「照続火事物騒」を理由にたんすを預かって欲しいと依頼してくる。と、あるじゃないですか!
 万三郎なら、やはり関口日記で、慶応元年、家茂将軍上洛時に、生麦村の休憩所となった、とされている家です。
 集落図に場所こそ載ってないのですが、端っこと考えられます。すっきりしました!


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真説生麦事件 余録

2009年01月29日 | 生麦事件
 またまた生麦です。真説生麦事件 上真説生麦事件 下生麦事件 補足に続きます。

ジャポン1867年 (有隣新書 (27))
L・ド・ボーヴォワール,綾部友治郎
有隣堂

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 この本は、以前にもご紹介しました。宮廷料理と装飾菓子において、です。
 当時のフランスは第二帝政でして、ナポレオン三世が政権を握っているんですが、その前の7月王制を担ったオルレアン家は、ナポレオン三世といれかわるように、イギリスに亡命しています。
 で、亡命中の王族の一人で、18歳のジョアンヴイル公が、世界一周旅行に出る、というので、オルレアン家にゆかりの深いリュードヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵がお供します。こちらも20歳の若さの青年貴族です。帰国後、その世界旅行記を本にして出版しましたが、上は、そのうちの日本滞在記です。
 日本には35日間しかいませんで、なにやらものすごい勘違いも多いのですが、来日した時期が、幕末も押し詰まった慶応3年の3月から4月で、なかなかに興味深い本です。

 横浜へ到着してしばらくしたある日、伯爵の一行は、スイス領事ルドルフ・ランドウの案内で、川崎宿まで、東海道へ遠乗りに出かけます。4年前、リチャードソン一行が同じ道を通って、生麦事件が起こっています。
 で、生麦村の集落からはちょっとはずれて、すばらしくきれいな庭のある一軒の茶屋がありました。私、位置からいって、これは神奈川奉行所の役人が出張に使った桐屋ではないのか、と思います。
 リチャードソンが落馬した場所に、近いんです。
 この茶屋は、横浜のフランス人から「スペイン美人」と呼ばれていた、しっかりものの女性と、その母親が切り盛りしていました。「その顔立ちは今なお際立ってすぐれた美しさをとどめていて」と伯爵は書いていますから、かなり年増ながら、西洋人好みの彫りの深い美人、だったんでしょうね。

 伯爵は、生麦事件が起こった経緯についても、相当な勘違いをしながら、どこかでつじつまがあっているような不思議な書き方をしていますが、ランドウ氏が語ってくれたという「スペイン美人」とリチャードソンの悲話がまた、傑作です。いや、笑っちゃいけないんでしょうけれども、つい、笑ってしまいます。

 レノックス・リチャードソンは斬られて致命傷を負った。彼はついさっき挨拶したばかりの「スペイン美人」の家までやっとたどりついたが、娘は、陽気で若さ一杯の彼にこれまで何度も会ったことがある。瀕死の重傷を負った男は熱に喘ぎ、渇きを訴え、彼女のさし出す一杯の冷たい水を飲んだ。女が傷の手当てをしている時に、薩摩の刺客が戻って来て、女を荒々しく押しのけ、瀕死の男を路上に引きずり出し、とどめを刺し、怒りが収まったので悪口雑言の限りを浴びせながら、傍らの畑の溝の中へ投げ込んだ。その時、この健気にも勇気ある娘は、恐れず遺体を探しに行き、自分の家まで運んで家の中に隠した。横浜から彼を捜しに人が来た時には、彼女はうやうやしく葬ろうとしているところであった。

 やりますね、「スペイン美人」。庭が美しく、看板娘も年増ながら美しく、ついこの間起こった生々しい事件の悲話があったら、商売繁盛しますよねえ。

 そして、これは笑えない話なんですが………、薩藩海軍史の本文著者は、リチャードソンの惨劇を、匂わせてはいるのです。奈良原兄が最初にリチャードソンを斬った刀は、明治になって島津家に献上されたそうですし、なにも不吉な描写がないのに、です。海江田がリチャードソンを介錯した刀は、由緒ある名刀だったんですが、海江田家の家人に祟った、というのですね。

 桜田門外の変に、ただ一人、薩摩から参加し、大老・井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は、海江田信義の実の弟なんですが、このとき水戸と薩摩の有志が連携したのは、安政の大獄で獄死した日下部伊三治の縁でした。伊三治の父は、薩摩を脱藩して、水戸に身をよせた人で、伊三治は水戸藩士として生まれて、島津斉彬のもと、薩摩藩に復帰しました。

 海江田信義は、伊三治の長女まつと結婚して、伊三治の後を継いだわけでして、伊三治が水戸斉昭から拝領した名刀を脇差しにしてまして、それでリチャードソンを介錯したんだそうです。
 それが「洋夷の血」で汚れた、というので、家宝として床の間に飾るのも汚らわしいとしまいこみました。それから保管者も代わりましたが、これを保管すると病魔に犯されるので、東京浅草の某寺に納め、惨死者(リチャードソン)の冥福を祈ったんだそうです。

 最初に読んだときから、唐突に祟り話が入るなあ、と不思議だったんですが、薩藩海軍史の著者は、伊三治と次左衛門の功績が汚されたのだと………、ほのめかしているのではないか、と、ふと思いました。

 
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真説生麦事件 補足

2009年01月27日 | 生麦事件
 今回は、真説生麦事件 上真説生麦事件 下の補足です。


横浜どんたく (1973年)

有隣堂

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 この「横浜どんたく」の中の「生麦事件の始末」が、私が今回書きました真説生麦事件の推理の中心となってます。
 後世のものであるのはわかっているのですが、とりあえず薩藩海軍史の本文よりははるかに古いですし、それくらい、生麦事件には史料がないんです。

 なぜか。
 ということで、まず、川島弁之助が「生麦事件の始末」をまとめた経緯を、引用します。

  わたくしは17歳の時より、戸塚の宿役人を勤めまして人馬継立の職を執ておりましたが、慶応2年より横浜へ参りましたのでございます。横浜にも開港以来50年間には種々な出来事がありましたが、そのなかにも、もっとも大事件と申しましては英国人殺傷で、これより大事件はほかにありませんでした。それゆえこの事件は駅吏たる者の心得おかなくてはならぬ事と思い、その当時ずいぶん精探(さが)して筆記して置きましたが、なお、その後生麦村の関口次郎右衛門氏は、その当時、同村の名主でこの事件に昼夜奔走して事を執られた人であるから、この人についてわたくしの記録の遺漏をも補い誤りもあらばなおしておこうと思いまして、同氏を訪問してその意を語りますと、関口氏の申されるには、該事件については自分の在職中の事であるから、寝食を安んぜず奔走しつつ一々筆記し置きたるを、かの黒川氏が松原へ記念碑を建てるについて、わたくしの筆記を中村正直氏に借られ、中村氏より細川潤次郎氏に貸されしとかで、数回催促するもいまに返されず、貴氏の所望を残念ながら満し難しといわれたるによって、わたくしは自分の筆記を氏に示し、氏の記憶により補遺訂正を受けました。
 もちろん、生麦英人殺傷事件と申せば空前絶後の大事件ですから、この事を書いた書物も世に少くはありませんが、当時役人が出張して土地の百姓町人等を尋問せしも、後日の関係に及ばんことを恐れて、たれ一人実況事実を告白するものがない。もっとも、これはこの事件に限らず、すべての事がそのとおりなるは幕府時代の通弊なれば、世に在来の種々の書物、または事にあずからざりし人の筆記口碑などの幾多の誤りあれば、勢いぜひなき事であります。
 維新後は、その弊習を除去されて、そのころ口を禁じたりし人もその実を語るにおよんで、わたくしは自分の記録を補遺訂正して生麦事件の実況を詳細に知ることが出来ましたのです。


 うーん。この関口氏の資料が返ってこなかった経緯なんですけどね、明治16年のことですし、いま、私は疑惑でいっぱいです。細川潤次郎は、元土佐藩士で、アメリカへ留学し、主に文部省に奉職した人みたいです。しかしねえ、政府に薩摩出身者は多かったわけですし、抹殺しようと思った人の手に渡っても、おかしくないですよねえ。
 それと………、弁之助は「役人が尋問しても事実を告白するものがなかった」と言っているんですが、関口家がらみで、あるいはある程度のことを神奈川奉行所はつかんでいたのではないか、と思われる材料があるんです。

 関口家は生麦村の名家で、代々名主を務め、日記を残しているんです。ただ、弁之助のいう当時の名主・関口次郎右衛門なんですが、彼はどうも、分家の人だったようです。
 文久2年当時、生麦村の名主は、関口家本家当主の東右衛門と次郎右衛門が勤めていて、次郎右衛門の方が、年番でした。現在残っている関口家の日記は、東右衛門が書いたものです。このうち生麦事件に関する部分は、、横浜開港資料館発行の『「名主日記」が語る幕末 ~武蔵国橘樹郡生麦村の関口家と日記~』が抜き書きしてくれてまして、以下、事件から3日後の文久2年8月24日の日記です。

 七ツ半時過、定御廻り三橋敬助様当方へ御出、松原徳次郎女房并甚五郎女房異人殺害ニ而落馬いたし候始末御尋ニ付、当人共呼寄、桐屋へ御出ニ付参る、夜ニ入、御帰リニ相成候

 えーと、ですね。要するに、「七ツ半時過」ですから、夕方の5時過ぎくらい、でいいんですかね、神奈川奉行所定廻役・三橋敬助が、関口家へ来て、リチャードソンが落馬してからのことを聞きたいので、松原徳次郎の妻と甚五郎の妻の二人を呼んで桐屋へ来てくれ、というので、東右衛門は二人を呼び寄せ、ともに桐屋へいった。三橋は、夜になってから帰った。ということなのですが。
 桐屋というのは宿泊もできる料理茶屋かなんかで、奉行所が出張所みたいに使っていたみたいですね。そして、この二人の女性は、おそらく、なんですが、リチャードソン落馬後の惨劇を見ていた里人、ですよね。

 三橋敬助は、弁之助の話にも出てきます。事件直後の話です。

 このとき、神奈川奉行支配定廻役・三橋敬助は、生麦村に赴かんとして神奈川駅の内字新宿まで至りし。おりから、島津候の行列に行逢い、それより生麦村松原に至るに、同処は英人の殺害せられし場処なれば、村役人等打寄りいて、三橋敬助を出迎え、ただちに死骸の所在地に案内す。敬助死骸を見分し終り、なお異人等島津候に行逢い、かつ刃傷に及びし場所等子細に見分し、ここに居住せし同村百姓勘左衛門を呼出し、子細尋問に及ばる。勘左衛門は自宅前の出来事なれば、見分のままを言上し、左の書簡を出せり。

 つまり、事件直後、三橋敬助は生麦村に入って、関口次郎右衛門たち村役人の出迎えを受け、ただちにリチャードソンの死体のある場所に案内され、見分していたんですね。行列が異人に行きあって、最初の刃傷が起こった事件現場も見分し、ちょうど、それが自宅の前だった勘左衛門に話を聞きます。そして、勘左衛門は、関口次郎右衛門、東右衛門を含む6人の村役人と連名で、届出書を出すんです。これはもう、ごく簡単な事実関係のみ、です。
「島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た、どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去った」

 勘左衛門の家が、最初の事件現場にあったことは、関口東右衛門の日記でもわかります。
 弁之助は、後にこの勘左衛門と親しくなり、このときには語られなかった詳しい話を聞き出して、「生麦事件の始末」をまとめたのだと言います。
 
 そして、3日後に、三橋敬助が、リチャードソン落馬後の様子を聞きに現れた、ということは、おそらく、なんですが、イギリス公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの検死で、落馬後の斬殺が疑われ、その聞き取りだったのではないか、と思われるんです。

 ただ、生麦村は、事件の2週間後、「勘左衛門ほか2名以外の目撃者はいない」という届出書を出しているそうでして、果たして三橋敬助が、リチャードソンの落馬後を目撃した女性たちから、話を聞き出せたかどうかは謎です。
 もし、聞き出せたとした場合、三橋敬助が覚書くらいは残したはずですけれど、私は、こういった事件直後の神奈川奉行所の取り調べ書類が、いったいどこへ消えたのか、ちょっと疑いを持っています。

 いずれにせよ、少なくとも関口家には、女性たちの目撃談をまとめたものもあったはずでして、ほんとうに、いったいどこへ消えたのでしょうね。

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真説生麦事件 下

2009年01月24日 | 生麦事件
真説生麦事件 上の続きです。主な参考書は、今回もこれです。

横浜どんたく (1973年)

有隣堂

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 まず確認しておきたいのは、久光の行列は、事件現場から300メートルほど先にある、料理茶屋藤屋よりは、先にいっていなかったんです。おそらくは、なんですが、宿泊先に先送りしてしまう荷物とか、その管理者とか、宿泊先で準備をする藩士とかは、もちろん先へ行っていたのでしょうけれども、それは、大名行列の一部、というような、整然としたものでは、なかったのです。ですから、外国人が突入して問題となるのは、前回に構成を述べました、藤屋へ向かっていた久光の本隊、のみなのです。

 さて、その突入した外国人の側です。
 神奈川県史資料編15のマーシャルとクラークの口述書を、fhさまがコピーして送ってくださいまして、これから(1月25日)、そちらも参考に、一部書き換えます。

 クラークは横浜でアメリカ人経営の商社に務めるイギリス人で、事件後、肩に後遺症が残ったそうですが、横浜に住み続け、横浜で死去しました。事件からだいぶんたって後に、「やめた方がいい」と忠告を受けていたにもかかわらず、遠乗りに出かけたのだと、告白したそうです。
 残りの3人もイギリス人です。マーシャルは横浜在住の生糸商人、ボロデール夫人はその親戚であり、香港から遊びに来ていました。リチャードソンは上海の商人で、イギリスへ帰国する前に、横浜へ観光に来ていたものです。

 藤屋の周辺は、先に到着していた先共の人々の駕籠が並び、その従者たちもたむろし、相当に混雑していたはずです。
 馬上の4人は、そんなことは気にもかけず、まっすぐ前方をめざしていました。

 弁之助の話によれば、行列の前駆に突入したとき、4人は馬の頭を並べるようにして駆けていたのだそうです。徒歩の前駆の人々は、仕方なく左右に分かれ、言葉が通じないため、身振り手振りで停止するよう求めましたが、4人はまったく気にもかけない様子で、藩士たちは怒りもあらわに拳をにぎっていましたが、禁制が出ていて、刀をぬくことはできなかったんだそうです。
 4人はそのまま、「人なき巷を行くがごとく」鉄砲隊に突入していきました。

 鉄砲隊といっても、駕籠前のきらびやかな伊逹道具の代わりの、いわば儀仗兵です。弁之助は描写していないのですが、威風堂々たるべき鉄砲隊が左右に分かれたとは思えないので、クラーク供述の「百名ほどの二列の先導隊」とは、どうも、この鉄砲儀仗隊のことのようです。弁之助の話では、「人なき巷を行くがごとく」ですが、クラークの主観では、「道路の左はじを通行」です。
 弁之助の話にもどります。
 4人の前に、駕籠直前を固めた最後の侍衆の集団(数十名)が立ちふさがりました。藩士たちは口々に、「無礼者!」と叫びましたが、さっぱり応じるふうもなく、4人は集団に突入して、先頭のリチャードソンは、久光の駕籠を蹄にかける勢いです。
 
 4人が駕籠前の集団に突入したとき、それまで無礼のはなはだしきに耐えていた久光が、「ソレッ」と命令を出しました。………って、これはどうなんでしょう。
 当日の当番御供目付は奈良原兄だったとされていて、駕籠脇にいた供目付の命令だったとも、考えられます。
 ともかく、命令一下、駕籠前の藩士たちは、いっせいに抜刀しました。その中から、壮年の小柄な一人(20歳ばかり)が前へ出て、かけ声をあげて、駆けてくるリチャードソンに斬りつけましたが、藩士がひしめく雑踏の中、自由に身動きできず、浅手を負わせただけだったんですが、今度は飛び上がり、二の太刀鋭く、脇腹から腰へかけて斬りさげました。
 これは相当な深手で、落馬して当然のところを、リチャードソンは耐えて馬首をめぐらし、一目散に逃げ去ります。

 リチャードソンのそばにはマーシャルがいて、いち早く向きをかえ、逃げようとしますが、藩士の一人が後ろから斬りつけ、腰に浅手をおわせます。
 駕籠直前の侍集団が傷を負わせたのはこれだけです。

 浅手を負ったマーシャルは100メートルばかり、鉄砲隊を蹴散らして逃げましたが、前駆の一人が、太刀をぬき放って待っていました。マーシャルは、洋酒の入った小瓶を逆さまに持って、拳銃を発砲するように装いましたが、これはその藩士を怒らせただけで、飛び上がってマーシャルに斬りかかり、肩先4、5寸を斬り下げました。かなりの深手でしたが、これも落馬することなく、一目散に逃げます。

 洋酒の小瓶!!!です。私、この人たち、遠乗りしながら酒を飲んでよっぱらっていたのではないか、と、ふと思います。今でいうならば、通行規制を犯した上のよっぱらい運転、ですね。

 クラークとボロデール夫人は、リチャードソンとマーシャルが駕籠前の侍集団に斬られるのを見て、先に引き返しはじめました。前駆の人々が待ちかまえていて斬りかかりますが、クラークは馬を傷つけられただけで無傷。ボロデール夫人は帽子の金具を斬られ、馬の尻をやられただけで、無傷でした。

 以上が弁之助の話なのですが、マーシャルとクラークの話とそれほど、くいちがうわけではありません。
 二人の話を総合しますと、先を行っていたのは、リチャードソンとボロデール夫人です。その後に、マーシャルとクラークが続いていました。
 4人は、鉄砲儀仗隊をぬけ、駕籠直前の侍集団に突入します。先頭を行くリチャードソンの前に誰かが立ちふさがり、集団の真ん中から一人、長身の侍が飛び出してきてリチャードソンに斬りかかりました。
 マーシャルは逃げろ、と叫びましたが、馬が駆け出す前にリチャードソンは左脇腹を斬られ、マーシャルも同じ男に、同じく左腕下の脇腹をやられました。
 クラークはいち早く馬首をめぐらし逃げ出しましたが、先導隊(鉄砲儀仗隊)の一部、30名ほどが抜刀して斬りかかってきて、肩を斬られ、馬も斬られました。
 一方のマーシャルの記憶では、逃げる自分たちに前方からむかってきたのは、約6名なんですが、斬りつけてくる男たちを乗り越え、踏みにじって、無事逃れた、ということになります。
 このマーシャルの口述というのは、宣誓口述であるにもかかわらず、相当にいいかげんで、わけのわからないものでして、クラークのものの方が、まだ的確です。しかし、クラークはマーシャルがだれに斬られたかまで見ていませんで、マーシャルが、「自分はリチャードソンを斬ったのと同じ人物に斬られた」といっていることは、パニックに陥っての勘違い、とも考えられます。ただ、リチャードソンの近くで斬られた、ということは、確かでしょう。弁之助の話とも一致しますので。

 マーシャルとクラークの口述と、弁之助の話を総合しますと、4人が侍集団に突入したのち、抜刀命令が出て、リチャードソンが深手、マーシャルが浅手を負ったわけです。おそらく、ボロデール夫人は、ここでは女だったので見逃され、クラークは、マーシャルより後ろにいたのでしょう。
 クラークの口述では、「自分はマーシャルとともに、先を行くリチャードソンとボロデール夫人より10ヤード後ろにいた」となっているんですが、起こったことから考えますと、侍集団突入の後は、クラークにはためらいがあって、一人後ろにいたとしか、推測できないのです。
 ただ、この後、弁之助がいうところの前駆に肩を斬られたのは、マーシャルではなく、クラークでした。
 
 こうして見てきますと、薩藩海軍史が、リチャードソンに深手を負わせた凄腕の剣士を、奈良原兄だとしていることは、わかります。じゃあ、なぜ、弁之助の話には、「久木村治休の抜き打ち」がないんでしょうか。
 私は、久木村治休が斬ったのは、クラークだったのではないか、と思います。
 弁之助の話の中で、深手を負わせた描写はほかにないですし、「肩をやられた」というところで一致します。
 久木村のあてにならない回顧談では、「お咎めを覚悟していたら、主君からお褒めにあずかり金子をもらった」ということでして、少なくとも、彼がめざましい働きをしたことは確かなようです。
 そして、弁之助が前駆の集団に斬られた、としているのは弁之助いわくのマーシャル、実のところはクラーク、だけなのです。

 だいたい、薩藩海軍史本文が描写する「久木村がリチャードソンにあびせた二太刀目」は、非常に不自然なものです。
 なにしろ、リチャードソンは奈良原兄によって腹部に重傷を負わされ、左手でその傷口を押さえながら、右手で手綱をとって100メートルばかり(弁之助がマーシャルが逃げた、といっているのと同じ距離です)逃げましたが、そこで久木村によって、その傷口を、左手ごと斬られた、というのですから。
 普通、腹部の傷口を手で押さえたら前屈みになります。リチャードソンが静止しているならともかく、馬で走って逃げているんです。それを飛び上がって斬って、前屈みになって隠れているはずの傷口を、えぐれるものでしょうか?
 それにだいたい、昭和3年に発刊された薩藩海軍史は、どこから、こんな詳しい描写をひっぱってきたのでしょう。神奈川奉行所の役人の覚書にも、弁之助の語りにも、ないというのに、です。

 薩藩海軍史は、久木村が斬った相手を、クラークではなく、リチャードソンとする必要があった!のです。なぜか?
 薩藩海軍史の著者は、リチャードソンの遺体の惨状を、知っていたのです。「英人の検屍に心臓部に槍創一個とあるはこれなり」と、海江田が介錯したことを述べた後で書いているんですから。

 追記(1月31日)
 長岡さまから、明治45年7月2日付の新聞インタビューで、久木村がすでに「自分がリチャードソンを斬った」と述べているとのご指摘をいただきました。ただいま、久木村のいいかげんな自叙伝と思われるものを書店に注文中でして、それが届き、また長岡さまにお願いできるならば新聞記事もあわせて読ませていただきまして、あらためて、薩藩海軍史ができあがるまでに、すでにストーリーが出来上がっていた可能性につきまして、書きたいと存じます。



 リチャードソンは5カ所に傷を受けていた。腹部は切り裂かれ、右手は切り落とされ、左手に傷あとがあり、心臓部に槍で突かれたあとがあり、首はふかくえぐられていた。

 上は、アーネスト・サトウの日記からです。次は検死したウィリスアム・ウィリスの宣誓口述書。

 死体を調べましたところ、数か所にきわめて長い傷があり、そのいずれもが、致命的な性質のものであることがわかりました。故人の死亡は、これらの傷によるものであります。ー中略ー 故人を死にせしめた傷は、鋭利な武器によるもののようであります。ただし腹部の二か所の傷は、やりのような武器によって生じたものでありましょう。

 奈良原兄が深手を負わせ、海江田が一人で介錯をしただけでは、こうはならないでしょう。
 なぜ、これほどの惨状だったのか。
 それも、弁之助が語ってくれます。

 リチャードソンたち4人は、夢中で逃げていました。
 藤屋の前に並んだ駕籠や従者たちの雑踏も、行きは、うまくよけていたのでしょうけれども、逃げている身に、そんな余裕はありません。馬上で血を流しながら、次々と駕籠はひっくりかえすは、従者を蹄にかけて怪我をさせるはの大騒動でしたが、怒り心頭に発したのは、駕籠の中で久光の到着を待っていた先供の人々です。
 この中に、海江田も奈良原弟もいたのではないか、という推測は、主に、後年の史談会速記録における、市来四郎の証言によるものです。他にも、傍証はあるのですが。
 弁之助はもちろん、このとき駕籠の中にだれがいたか、ということは知りません。

 ともかく、です。弁之助によれば、ひっくり返された駕籠からはい出した藩士たちは、満面に朱をさして怒り狂いました。おのれ! と4人を追いかけ、落馬したリチャードソンを発見します。
 リチャードソンは、すでに息も絶え絶えで、伐木をしていた里人を手招きし、なにかを求める様子でしたが、言葉は通じませんし、怖れた里人は、近づこうとしません。
 そこへ、数人の薩摩藩士(おそらくは海江田、奈良原弟を含む)がやって来たのです。
 もの乞いたげなリチャードソンに、藩士の一人が、「さだめし末期の水を乞うならん。水よりこれがよろしからん」と目の前に刃をつきだし、次いで、全員でリチャードソンの手取足取り、畑の中へ運び込んで、切り刻んだのです。
 ものかげから、これを見ていた里人たちは、身の毛がよだち、体がふるえて、ものを言うこともできなかった、といいます。

 奈良原兄の一太刀目は、主君を警護する供目付として当然のものであったでしょう。結果的には、リチャードソンたちは武器をもっていなかったようですが、拳銃を撃つ可能性はあったわけですし、しかも相手は馬上。戦闘状態と考えれば、久木村もまた、りっぱに戦った、といえます。
 しかし、重傷を負って落馬し、戦闘能力を失ったリチャードソンを、よってたかってめった斬りにする、という行為は、いわば捕虜の虐待であり、武士道にも反するのではないでしょうか。
 しかも海江田たちは非番で、主君警護の職務としてやった、というよりは、自分の駕籠がひっくり返された私憤で、市来四郎にいわせれば「楽み半分に切試した」のです。
 
 薩藩海軍史本文の著者は、あきらかに、弁之助の話を読んでいた、と思います。史談会速記録も読んでいた、でしょう。当然、当時の英字新聞などにも目を通したでしょう。
 遺体の右手が無かったことが、左手とあやまって書かれていた可能性もあります。新聞って、そんなものですから。
 そして、ウィリスの口述書によれば、リチャードソンは、脇腹を二度斬られていたのです。

 こんな不名誉な残虐行為を、そのまま載せるわけにもいかず、久木村が、クラークではなくリチャードソンに二太刀目をあびせたことにし、海江田が一人で、りっぱに介錯したことにしたのだと、いま、私は思っています。

 海江田たちの駕籠が並んでいた藤屋は、事件現場から300メートルほど先です。リチャードソンが落馬したのは、事件現場から1キロ先。ということは、怒り心頭に発した彼らは、藤屋から700メートル先まで、追いかけたのです。
 先にお断りしましたように、久光は藤屋で休憩する予定で、それより先には、しばらく、進む必要はありませんでした。
 行列を外国人に傍若無人に犯されたことが、島津家の権威を傷つけるわけですから、暴漢が行列の外へ逃げてしまえば、それ以上追いかける必要は、まったくないわけです。
 そのままを正直に話したとすれば、だれも誉めはしなかったでしょう。
 宿場町でも京でも、久光は英雄あつかい。海江田と奈良原弟は、自分たちが勇ましく切り倒したのだと、詳しい事情がわからない那須信吾たちに、自慢をしたのではなかったでしょうか。

 そして……、たしかに落馬した場所の200メートルほど手前、桐屋という茶屋の前で、リチャードソンの脇腹から臓腑のようなものが出ていたとか、臓腑のようなものが落ちて犬がくわえていった、というような目撃談もあるわけなのですが、それが、ほんとうに臓腑であったとはかぎらないでしょう。手袋とかハンカチとかで傷口を押さえていたのが血に染まって落ちて、犬がくわえていったのかもしれません。

 最初の一太刀目が深手であったのは事実でしょうけれども、あるいは………、ということも考えられます。
 弁之助の話といい、クラークとマーシャルの口述といい、馬上の人物を斬るのは、相当にむつかしいことのようです。だとすれば、ウィリスがいうような数か所もの致命傷を、馬で逃げている間に負うわけはないでしょうし、最初の一太刀が致命傷だった、という証拠もないのです。
 リチャードソンを殺したのは一太刀目ではなく、落馬後の不必要な残虐行為であり、そういう意味では海江田たちの自慢は真実であった、かもしれません。

 ありがとうございました、冤罪事件追及者さま。
 おっしゃるように、生麦事件には、隠さなければいけないことが、あったんですね。
 そして、「一太刀目」は奈良原兄であっても、「犯人」は弟であった可能性も。
 wikiだからと、そこまでしなかったのですが、クラークとマーシャルの宣誓口述書を読みましたら、弁之助の語りの正確さが裏付けられました。
 死体を検死したウィリスの怒りが、いまはわかります。
 ウィリスは、「リチャードソンは落馬した後になぶり殺され、それも久光の命令だった」と思ったんでしょう。

 後に戊辰戦争で、敵味方の区別なく治療しながら、ウィリスは「双方が捕虜を殺しているが、わけても会津は捕虜のあつかいが残虐だ」というようなことを訴えています。
 そのウィリスが、薩摩の人となろうとしていたことは、歴史の不思議といいますか………、感慨深いですね。

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真説生麦事件 上

2009年01月23日 | 生麦事件
 私、まさか生麦事件の続きを書くことになろうとは、思っていなかったのですが、冤罪事件追及者さまがいらして、討論させていただくうち、どびっくりなことに気づきました。どうしても叫びたいので、本日は、生麦事件と攘夷の続きです。

 まず、冤罪事件追及者さまからご紹介しましょう。ご本名を名乗っておられないので、ご著書を紹介していいものなのかどうか、アマゾンで2冊さがすことができます。新しい方のご著書は、たしか品切れで、古書しかありませんが、古い方のご著書は、まだあります。
 二冊とも同じテーマです。生麦事件のリチャードソンへの一太刀目は、奈良原兄弟の兄なのか弟なのか、ということを追求なさってこられた方です。定説では、一応、兄です。昭和3年に出された薩藩海軍史という、この事件の基本文献とされている本が、本文で、そう書いているんです。そこらへんは、wiki生麦事件を見ていただければ、わかりやすいです。

『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であったという。

 この奈良原兄弟、私なぞ、よくまちがえまして、いえ、私だけでなく、書物もまちがえているそうです。一応、寺田屋事件が弟、生麦事件が兄と、そこまではいいんですが、桐野と一時は仲がよかった、というのはどっちだっけ? 高見弥一を引き取ったのは? と、なんか書くたびに???となって、調べ直しておりました。

 で、兄弟のご子孫が、ですね、「生麦事件の一太刀目は兄ではなく弟」と言い出され、新聞報道された、というのは、なんとなく知っていたのですが、なにしろ私、以前にも書きましたが、大名行列の無礼討ちですから、命令があろうがなかろうが責任は久光にあり、個々の藩士はたまたまであって問題にする必要はない、と思っていましたから、事実関係に興味がなかったですし、まして兄弟の区別もろくにつきませんから、「戦後、著述家やメディアが個人の犯罪みたいにいうようになって、子孫も気にするんだろうなあ」と、うすぼんやり考えていた程度でした。

 冤罪事件追及者さまは、私とちがって、ご子孫と面識をもたれ、真剣に探求しておられたのです。その過程で、冤罪事件追及者さまは、作家の桐野作人氏から、吉田東洋を暗殺し、生麦事件当時、京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の書簡を紹介されたんです。文久2年10月、那須信吾が、実兄の浜田金治に宛てた書簡には、以下のようにあります。

秋頃、三郎様御東下、金川(神奈川)御通行のみぎり、夷人三騎、御行列先へ乗りかけ、二人切りとめ、一人は大分手疵を負いながらのがれ候。これに出合い候人数、海江田、奈良原喜左衛門が弟・喜八郎などの働きと承り候

 上、漢字とかかなづかいとか私がいいかげんに変えておりますので、悪しからず。
 那須信吾のリアルタイムの書簡は、「一太刀目」というわけじゃないんですが、兄ではなく弟の名を出しています。で、那須が誰からこの話を聞いたかといえば、海江田であった可能性が高いんです。那須信吾たちは、長州の久坂が、薩摩の海江田と吉井に頼んで、京の薩摩藩邸にかくまわれたわけなのですから。
 さらに言えば、那須が聞いたのは自慢話であったと憶測できます。だって、リチャードソン一行に女性がいて、その女性にも藩士が斬りかかったことには触れていませんし、実際にはリチャードソン以外は死んでいないのですが、正確な情報を得て、ではなく、俺たち、二人も斬り倒したんだぞ!と語られたような感じだから、です。
 つーか、事件が起こった場所も神奈川宿と不正確ですし、「東下」とのみあったのでは、読む側にしてみれば往路とも考えられ、どうやって口コミで話が事実とかわっていくか、見本みたいな書簡ですね。

 私、「桐野作人氏によれば、那須信吾の書簡には、兄ではなく弟と書いているそうなんですよ」というお話は、だいぶん前に桐野ファンの大先輩からお聞きして、「へえ、那須信吾の書簡なら印刷本を持っているはず。そんなこと書いてたっけ?」と思ったんですが、どこへやったかわからず、「まあ、そのうち」と思っていたら、出てきまして、本当にそう書いてあったわけです。同時代の史料ですし、弟であった可能性は高そうだと、さっそく、生麦事件をはじめ、wikiの関連記事に、註釈をつけてまわったような次第です。

 で、今回、冤罪事件追及者さまと討論させていただき、ご著書も読ませていただき、私の読んでいなかった史談会速記録とか、春山育次郎が海江田から聞いた話とか、事件当日、行列に加わっていた薩摩藩士の書簡とかの内容を知りまして、やっぱり一太刀目は兄であったのではないか、という結論を得ました。
 それよりも、私がどびっくりしましたのは、以下の本に載っております「生麦事件の始末」の内容が、相当に正確なものである、ということが、わかったことです。これが正確な話なのならば、通説とは、かなりちがってきます。

横浜どんたく (1973年)

有隣堂

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 安い古本が、一冊だけありますね。お買い得ですよ(笑)
 この本は、明治40年から明治42年の間に、横浜開港50周年を記念して「横浜貿易新報」に連載された読み物を、昭和48年に上下2冊にまとめて復刻したものです。
 テーマはいろいろなんですが、全部、開港当時を知る古老からの聞き書きで、語る人物によって、素朴な思い出話から、史料を駆使してのけっこう綿密な回顧録から、いろいろです。日本初の婦人服仕立て職人や、開港直後にふらりとアメリカへ密航した小商人やら、おもしろい話がいっぱいなんですが、「生麦事件の始末」は、一次史料をはさんでの、かなり本格的な回顧録なんです。

 語り部は、川島弁之助。17歳の時から、戸塚の宿役人をしていた人で、慶応2年、つまり生麦事件の4年後に横浜に移り住み、なにしろ、宿場町で「人馬継立」を任務としていたわけですから、職務上も知っておかなくてはいけないと、生麦事件のことをずいぶん調べたんだそうです。
 事件当時、戸塚にいた、ということは、事件現場こそ目撃していないものの、久光一行の旅程変更を受けて奔走したでしょうし、余波の渦中にはいたわけです。

 維新までは、生麦の住人たちも、後難を怖れて、なかなか詳しいことを語らなかったそうなんですが、維新以降、だんだんと詳細に語るようになり、弁之助は目撃証言を聞き出してまとめておいたのです。
 生麦に事件を記念する石碑が建った明治16年以降のある日、弁之助は、事件当時の生麦村の名主で、渦中で奔走した関口次郎右衛門に、自分の記録にまちがいがないかどうか見てもらおうと訪ねたのですが、次郎右衛門の記録は、石碑を建てるときに、碑文を書いた中村正直に貸し出したまま帰ってこないでいまして、次郎右衛門は自分の記憶で、のみですが、弁之助の記録の誤りを正してくれた、ということなんです。

 実際、弁之助の語りの間には、事件直後、神奈川奉行所役人の取り調べに答え、村の住人が、村役人と連名で出した目撃届け出書きとか、リアルタイムの確かな史料もはさまれていまして、かなり信頼がおけそうだったんですが、私は、wikiを書くにあたって、はさまれた届出書以外は、ほとんど使いませんでした。
 なんといっても、事件の直後に調べた話ではないですし、通説とは大きくちがっていて、私に真実を確かめるすべはないですし、非常に簡略ではありますが、事件直後の神奈川奉行所の調べ以外は信用すべきではない、と思ったんですね。小説を書くなら、もう絶対に使うところなんですけど、wikiですし。

 今回、弁之助の語りが相当に正確だった、とわかり、これをもとにして、あるいはこうであったのではないか、という生麦事件の詳細を、書いてみたいと思います。
 ただ、薩藩海軍史が語るところの「リチャードソンへあびせた久木村治休の二太刀目」というのは、薩摩海軍史収録の神奈川奉行所役人の覚書にも記録されていませんし、弁之助も記録していません。とりあえず、その部分は、あんまりあてにならないんだそうですが、久木村自身の回顧録から補います。回顧録は読んだことがないんですが、以下のサイトに、簡単なその内容を見つけました。

日本ペンクラブ 電子文藝館 『ヘボンの生涯と日本語』(新潮選書)より
当時十八歳の鉄砲組徒士(かち)久木村利久は、供頭(ともがしら)当番奈良原喜左衛門が抜刀するのを目にし、供頭非番・海江田信義が「無礼者」と叫ぶのを聞いて、反射的に斬ってしまったと、のちに告白している。彼はお咎めを覚悟していたところ、主君からお褒めにあずかり、金子(きんす)を賜った。

 うー、ほんとにあてになんない回顧談ですね。喜左衛門の一太刀目を目撃し、海江田が「無礼者」と叫ぶのを聞いたって、ちょっとありえんです。鉄砲組徒士であった、というところのみを、重視させていただきます。

 wikiにも書いたんですが、久光の行列は、京から江戸への往路でも、外国人に遭遇しています。弁之助によれば、一行が神奈川駅を通過しようとしたとき、川崎駅の方から外国人2人が馬で駆けてきて、前駆を横切っていったんだそうですが、行列を指さして笑うような無礼な態度ではあったものの、それ以上、駕籠にむけて乗り入れるというわけではなく、なにより勅使・大原重徳の護衛で、これから江戸で一働き、という前ですから、見逃したんだそうです。
 なんで「横切った」という言葉が出たかについては、幕末には、全国規模の報道機関がありませんでしたし、口コミで事件が伝わるうちに、往路の遭遇話とごっちゃになり、鳥羽伏見の直後に備前事件が起こったとき、これはそれこそ「横切った」事件でしたから、生麦事件と同じといわれ、明治になって、あんまりよく事件を知らないものが、生麦事件も横切った事件として書いたりして、延々、現代まで受け継がれたんじゃないんでしょうか。
 まあ、行列の正面から久光の駕籠近くまで馬を乗り入れられて、薩摩藩士がそれまで我慢した、というのも、ちょっと信じられない話ですし、当の元薩摩藩士たちも、我慢したことが恰好がいいこととはとても思えず、あえて否定しなかったにちがいありません。

 そして、復路です。
 大原勅使は8月22日江戸を発つ予定で、久光一行は一日早く、21日に出発しました。とはいうものの、勅使の前駆を務める、という意味において、あまり勅使と距離を置くつもりはなかったので、いつもの薩摩藩主の旅程とは、ちがっていました。 薩摩藩主の通常の参勤交代では、江戸を発ったその日に、戸塚までいってそこで一泊なんだそうです。戸塚の宿役人だった弁之助のいうことですから、ほんとうでしょう。
 それにくらべて、事件当日の久光の旅程は、短いものでした。戸塚は横浜より先にありますが、手前の神奈川宿で一泊予定。川崎宿で昼食、生麦の茶屋で休憩、というゆったりとした旅程だったんです。

 
 ともかく、ものすごい数の大行列ですから、先駆の人々は、すでに午前11時ころから、生麦村に到着していたんだそうです。これは、私の推測なんですが、生麦村も川崎宿の一部ですから、本陣近くで昼食をとるものと、生麦まで行って昼食をとる者に分かれたんじゃないでしょうか。
 久光の本隊が生麦村にさしかかったのは、2時間後の午後1時ころです。
 どうも、海江田と奈良原弟は、非番であったため、この先共にいたらしく、久光が休憩する予定の藤屋という料理茶屋の前に自分の駕籠をとめて、久光の到着を待っていたらしいのですね。まだ藤屋で食事をとっているものもありました。
 藤屋は、事件が起こった現場から、300メートル(あるいは4、500メートル)ほど先、神奈川宿よりにあります。

 久光の本隊は、藤屋に近づきつつありました。御徒数十人が前駆で、つづいて鉄砲隊100人、なんですが、鉄砲は50人づつ、猩々緋と青色と駆け袋の羅紗の色が分かれ、整然とした2烈縦隊です。参勤交代の折には、きらびやかな金紋の鋏箱や長柄の槍など、藩主の駕籠前の「伊達道具」と呼ばれるものが続く場所へ、この鉄砲隊が入っていたのだそうです。
 さて、鉄砲隊が終わると、侍衆が数十名、そしていよいよ久光の駕籠なんですが、駕籠脇前後には近臣数名、この後ろに鞍を置いた乗り換え馬と武器弾薬、そして、お供頭・小松帯刀の一行400人が続いていました。
 
 長くなりましたので、続きます。

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生麦事件と攘夷

2008年10月06日 | 生麦事件
 またまた更新が滞っております。すみません。なぜか生麦事件に迷っていってしまい、なぜか一生懸命wikiの記事書きに取り組んでおりました。あー、まあ、一つは、「薩藩海軍史」という基本資料を持っていまして、なぜ持っているかといいますと、モンブラン伯爵について調べるためだったんですが、あんまり役に立ったともいえず、ここらでちょっと役立ててみようかと、生麦事件のあたりを読んでみたため、というのもありました。
 ちょうど、大河の「篤姫」で生麦事件をやっていたりもしまして、よく考えてみましたら、私、生麦事件の現場では、実際になにがどうなったのか、という事実関係については、きっちり知ってはいませんでした。

 えーと、話がそれるんですが、なんなんでしょうか。「篤姫」が描く禁門の変の小松帯刀は!!! 資料で見る方がはるかにさっそうとしている、というのは、ドラマとしていかがなものかと。まあ、手間をかけたくなかったんでしょうが、小松さんの場合、慶喜公をひっぱって、御所の中をかけずりまわったんですから、ちゃんと史実を描いても、合戦シーンは金がかかる、という話でもないと思うのですが。説明がめんどかったんでしょうか。政治劇をろくに描かず、お茶をにごされても、ねえ。

 話をもとにもどしまして、以前に書いたことがあるんですが、まずこの生麦事件は、いわゆる単純な攘夷ではなく、「無礼者!」ということから起こっているわけです。個人が起こした事件ではなく、大名(正確には島津久光は藩主じゃありませんが、それに準じる存在です)行列の供回りが、主従関係の中で、無礼を咎めて外国人を殺傷したわけですから、当然、これは久光の意志のうちです。
 そういう認識があったものですから、誰がどうしたとか、どこがどういうふうに無礼だっただとか、細かなことは気にしていませんで、なんといえばいいのでしょうか、えーと、事実関係については、いろいろな見方があるんだろうなあ、と、なにを読んでも読み飛ばしていた、といいますか。

 しかし、今回調べて、「いったい、なんなのお???」と、とても疑問に思ったことがあります。それは、生麦事件を簡単に説明する場合、よく、「島津久光の行列を、イギリス人が横切って、薩摩藩士に斬り殺された」としていることです。検索をかけてみましたところ、現在の高校の日本史の教科書も、多くが横切ったになっているんだそうですが、横切ったのではありません!!!
 生麦村の住人で、一部始終を見ていた勘左衛門の当日の届けと神奈川奉行所の役人の覚書を総合しますと、「神奈川方面から女1人を含む外国人4人が騎馬で来て、島津久光の行列に行きあい、先方の藩士たちが下馬するようにいったにもかかわらず、外国人たちは聞き入れず、(久光の)駕籠の脇まで乗り入れてしまったので、供回りの数人の藩士が抜刀して斬りかかった」ということであり、真正面から行きあって、イギリス人たちは、どんどんと久光の駕籠のそばまで乗り入れたのです。これは、アーネスト・サトウの日記、つまりはイギリス側の資料から見ても同じなのです。行列を横切ったのではなく、真正面から行列に乗り入れたのです。
 後世の談話も含めて、日本側にもイギリス側にも、横切ったという資料は、ただの一つもありません。いったい、どこから出てきた言葉なのでしょう。

 久光の行列は、往路でも騎馬で横に並んで傍若無人にいく外国人に出会っているんです。それでも、なにもしていません。長い行列です。久光の駕籠から離れた場所を外国人が横切ったくらのことで、薩摩藩士も抜刀はしなかったのです。久光の駕籠のごくそばまで、平気で乗り入れたから、なのです。リチャードソンが馬主をめぐらそうとして、駕籠をかつぐ棒に触れた、という話もあり、ほんとうにごくそばまで乗り入れていたのです。

 よく、後の神戸事件(備前事件)で、………いえ、この事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわり、事件の責任をとった滝善三郎の切腹をバーティ・ミットフォードが描いていますから、多少調べているのですが………、識者の方々が、「行軍をフランス人水夫が横切ったことは、「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、生麦事件と同じ」とか書かれていますが、ちがいます!!!
生麦事件は、横切ったどころか、真正面からずんずんと乗り入れられたのであり、それでも鉄砲隊が発砲したりはしていません。


生麦事件
吉村 昭
新潮社

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 吉村昭氏の小説は、いつもとてもリアルで、実証的なのですが、今回はちょっと、疑問でした。イギリス人の4人の行動については、「ロンドン・タイムズ」や「ヘラルド」の記事を参照になさったようで、私も生き残った確かクラークだったかの談話を読んだことがありますが、当事者が自己弁護で、自国新聞に語った話が、どれだけ信用ができるのでしょうか? アーネスト・サトウが日記に書きつけた程度のこと、つまり「わきによれといわれたのでわきを進んだ」、つまり当人たちは「わきによれ」といわれたと思いこんで、わきによったつもりだった、ということしか言えないと思います。少なくとも、目撃した生麦村住人の目には、「脇によって遠慮深く進んでいた」とは、とても見えなかったのです。
 まあ、とはいえ、小説ですから、「冷や汗たらたらで、なんとなく引き寄せられるように遠慮深く進んだ」とでも書かなければ、劇的にならないかもしれないのですが、しかし。ほんとうに「二本差しの侍たちが怖くて、おびえつつ」だったのなら、なにもそんな恐ろしい侍たちの中をつっきって、前へ進む必要はなかったのです。彼らは乗馬を楽しんでいただけで、前方に用事があったわけでもなんでもなかったのですから。それとも、肝試しを楽しんでいたのでしょうか。
 ここは、やはり、事件現場へ真っ先にかけつけたイギリス公使館医官、ウィリアム・ウィリスの以下の言葉が、真実でしょう。

「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。ー中略ー誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」

 つまり彼ら極東のイギリス商人たちは、幕府の役人がおとなしく彼らの罵声に従うので、二本差しをまったく怖がってはおらず、軽んじていたのです。
 ウィリスによれば、さらに彼の知人は、別に特別残忍な男というわけでもないのに、毎日、なんの罪もない日本人の下僕を鞭で打ち据えていたそうです。
 斬り殺されたリチャードソンは、上海で「罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑」を受けていたそうでして、こういう話を知りますと、当時、一般庶民が攘夷を歓迎していた、という話も、頷けてきます。
 いくら身分が低くとも、日本人にとって、鞭打たれるというのは、相当な屈辱です。同じ日本人が、理由もなく牛馬のように鞭打たれるのを見ることも、また、屈辱的なことだったでしょう。

 まあ、あれです。例えるならば、米軍基地の人々が、基地の中で日本人使用人を鞭打つことを常とし、基地の外へ出ては、日本の警官の静止などはものともせず、交通違反、ひき逃げを繰り返し、交通規制がかかっているときに、自分たちは特別だからと、ドライブに出かけて、行列に真正面から出くわしても、スピードをゆるめるだけで、どんどん行列にわけいっていく。例え、それが皇太子殿下のご成婚パレードであっても、です。
 もしも、そんな状態だったとすれば、「頼んで来てもらったわけでもないのに、何様のつもり?」と、憤慨するのが普通でしょう。

 明治16年、事件現場近くの住人が、事件を記念し、また事件で一人命を落としたリチャードソンの魂をなぐさめようと、碑をたてることを思いつきます。碑文は、元幕臣で幕末のイギリス留学生だった中村敬宇に頼みました。

 君、この海壖に流血す。わが邦の変進もまた、それに源す。
 強藩起ちて王室ふるう。耳目新たに民権を唱ふ。
 擾々たる生死、疇か知聞す。萬國に史有り、君が名傳はる。
 われ今、歌を作りて貞珉を勒す。君、それ笑を九源に含めよ。

 「君(リチャードソン)は、この海辺のあたりで血を流した。日本の国の変革は、この事件に源があるんだよ。強藩がしっかりと立ち上がって皇室を盛り立て、民権を唱える世の中になった。君が命を落とした生麦事件を、みんな知っているだろうか。どの国にも歴史があって、君の名は後世に伝わるよ。私はいま、歌を作って石碑に刻んでいる。君はあの世で、それを笑って受けてくれ」

 明治16年の時点から振り返って見れば、幕臣であった敬宇にも、イギリスに戦いを挑む薩摩の気概が、維新の変革をもたらしたのであり、その原点は生麦事件であったと、思えたのですね。
 以前にもご紹介した、中岡慎太郎の以下の文章。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 攘夷感情が、抵抗のナショナリズムとなり、民権論にもつながっていった、その歴史の原点が、生麦事件だというのならば、生麦事件の結果で起こった薩英戦争こそ、真の攘夷であったと、あるいは、いえるのかもしれません。


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コメント (26)
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