郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき5

2010年09月09日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき4の続きです。

 えーと、いまごろになって、開拓使女学校に関する論文をみつけました。北海道大学の開拓使仮学校の設立経緯と、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)で、双方、開拓使仮学校の一部として女学校を扱っているだけですので、そう詳しいわけではないのですが、特に後の通史が、おもしろいです。
 すごいじゃないですか。衣食住ほとんど開拓使もちで、文房具から日傘、雨傘、駒下駄、髪結い料、シャボン、香水、ハンカチーフまで支給され、散歩料という名のお小遣いが出たんだそうなんです。

 いったい、これ、なんなんでしょ?
 津田梅子や後の大山巌夫人・捨松や、開拓使がアメリカへ送り出した女子留学生5人もそうなんですが、いったい、なんのための女子教育なのか、さっぱりわからなくないですか?
 どうも、ですね。イメージとして、良家の子女(下級士族や名主などの家の娘)が、大名屋敷の奧女中になり、花嫁修業として教養を身につける、その教養に、です。英語やら欧米知識を加えた、といった感じがします。
 いや、別に高い教養を身につける花嫁修業がいけないというんじゃないんです。ただ、そうやって高い教養を身につけた良家の子女が、北海道開拓者の嫁になるでしょうか? 開拓使高官の嫁、というなら、またちがうかもしれませんが。

 「開拓使仮学校の設立経緯」の方を見ますと、北海道開拓のための学校の原案は、お雇いアメリカ人アンティセルが練り、すでにその中に、女学校が含まれていたことがわかります。で、その原案といいますのは、教養学校ではなく実用学校で、科目が明治初年の日本の実情にはさっぱりあってませんが、目的としては、手に職をつけさせるためのものでした。それを日本側が「結婚後、母親として自身の子どもを教育する時のための素養を身につけさせる」ための学校と規定し、科目を変更したんですね。
 この「良妻賢母女子教育」は、有礼の持論です。明治7年(1874)11月、常とのシヴィルウェディングの3ヶ月ほど前に、有礼が明六雑誌第20号に発表しました「妻妾論ノ四」は、そういう内容でして、有礼の女子教育観がわかります。どうも私、西洋知識がどーのこうのよりも、男勝りの孟母・里さんの影響を、強烈に感じます。

 明治元年(1868)、ハリス教団を出た有礼と鮫ちゃんは、6月には京都へ到着します。9月、大久保利通とともに東京へ行き、有礼が新政府でもらった仕事が、当初は「学校取調兼勤」です。おそらく、なんですが、このころから有礼は、教育行政に携わりたかったのではないでしょうか。
 しかし、新政府において数少ない洋行経験者ですから、各方面でひっぱりだこな反面、22歳と若いですし、ただでさえエキセントリックなところへもってきて、ハリス教団で特異な体験をしてきたばかり。翌2年、公義所議長心得となって「廃刀自由令」を提出し、猛反発をくらうんですね。
 これは、有礼にはちょっと気の毒な背景もあります。「フランス艦長の見た堺事件」によりますと、維新直後の京都において、薩摩藩主・島津忠義は、「藩士にそうしてもらいたい」と望んで、廃刀の手本になっていた、というんですね。堺事件をはじめ、外国人殺傷事件が続いておりました中、堺事件の当事者でしたフランスの艦長が、そう述べているんです。京の薩摩藩邸にはモンブランが政治顧問としていたんですから、藩主の廃刀で、騒ぎになったりすることはありえません。
 なにしろ薩摩では、藩主がそうしているんです。有礼が廃刀を軽く考えても、これは仕方がなかったんじゃないだろうか、と思います。

 で、有礼は辞職し、明治2年7月に薩摩へ帰って、翌3年、英学塾を開きます。薩摩では洋学熱が高まっていまして、有礼の塾は盛況。塾生が多すぎて、自分の勉強をする暇がないのが不満だったようです。
 ところで、そうこうしている間に、東京へ出た兄の横山安武は、政府批判の割腹自殺をします。
 またこの時期、種子島士族の娘・古市静が塾生となったようですが、なって間もなく、有礼は外務省から呼出を受けますので、静が有礼の私塾にいた期間は、ごく短いみたいです。この静さん、洋学に目覚めたきっかけというのが、慶応4年(1867)に眼病治療のため父と長崎へ行ったときに、薩摩辞書を編纂していた前田正名と知り合ったことだった、というのですから、ちょっとびっくり、です。
 
 
 鮫ちゃんと有礼は、日本が海外へ送り出す最初の日本人駐在外交官となりました。鮫ちゃんは普仏戦争最中の欧州へ、有礼はアメリカへ、20代半ばという若さで、日本を代表する少弁務使(代理公使)としての赴任です。鮫ちゃんは、イギリスでは拒否され、フランスに落ち着きます。何度か書きましたが、イギリスの外交官は官僚ではなく、貴族かジェントリーの子弟が自腹をきって奉仕するものでして、まあ世界の一等国イギリスとしましては、公使をよこすなら、せめて大名の一門とか、名門で、なおかつ経験豊かな年輩の者をよこせ、ということなんですね。
 しかし、手探りで外交デビューする日本側にしてみましたら、条約改正問題もありますし、日本のお殿様は通常、「よきにはからえ」で大人しく祭られていることをよしとしていて、イギリスの貴族のように英才教育を受けてリーダーシップがとれるようには育てられていませんし、海外事情もなにもさっぱりわからないでは、手探りのしようさえないわけなのです。それでイギリスには結局、名門の条件は満たしていませんが、幕末からの外交経験を買われて、寺島宗則が赴任することになります。

 明治4年(1871)初頭、ワシントンに到着した有礼は、鮫島とちがって、すんなりと受け入れてもらえます。当時のアメリカは、まだまだ若い国でした。で、2月になって、開拓使をアメリカ式に運営するために、留学生4人を伴った黒田清隆が、ワシントンの有礼のもとへ姿を現します。犬養孝明氏の「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、このとき黒田は、「ハリスって、ずいぶん変な世迷い言を言い散らす人らしいね。最初はすばらしく神聖な教えかと思い、すぐに実は迷信だと気づく代物だとか。ワハハハハ」と、大笑いしながら言ったそうなんですね。
 えー、黒田にこの話をした人物は、かなりの確率で、吉田清成でしょう。
 清成は前年の12月、有礼と入れ違いにアメリカを発ち、黒田が出発する直前に、帰国していました。生まれて初めてアメリカへ渡ろうという黒田が、薩摩出身でそのアメリカから帰ってきたばかりの清成に、話を聞かないはずがありません。清成は、鮫ちゃんとともに最初にハリスにはまり、絶好状をつきつける形で教団を後にし、同じく教団を出たにしましても、おだやかに別れを告げた畠山、松村とはちがっていましたから。黒田を介してのこの悪口も、江戸は極楽であるで書きました翌年の清成との大喧嘩に、油をそそいだ、かもしれませんね。これを書いた当時から、いろいろと知ることがありまして、私の二人に対する見方も、かなり変わってきてはいるんですけれども。

 だから、ね、あなたたちっ!!! 「大理論畧」を、もう一度、よく読み返しなさいよ。「古ヨリ国家ノ危機ヲ生スルモノハ小理ニナツミ眼前ノ美ヲ美トシ悪ヲ悪トスルノ甚シキニ出サルハナシ」と、八田のじさまは、しめておられるじゃないですの。

 話がそれましたが、ここで黒田は、開拓使に招くアメリカ人の選定から留学生の落ち着き先まで、すべて有礼の世話になり、で、有礼が黒田に女子教育の話ももちかけ、開拓使で女子留学生を出したり、女子学校を作るようなことも、スケジュールにのぼったらしいのですね。今回、詳しい話は省きますが、結局、有礼が一番やりたかったことは、最初から教育行政だったようなのです。
 しかし、有礼は敵を作りやすい性格でして、岩倉使節団がアメリカにやってきましたとき、木戸孝允だけでなく、随行の文部官僚に嫌われまして、それはなかなかかなわず、外交畑にとどまります。薩摩閥の中から、代わりに教育畑に行きましたのが、木戸に気に入られました畠山義成です。

 まあ、そんなわけで、明治6年(1873)、帰国しました有礼にとって、薩摩閥の黒田が長に座っています開拓使仮学校、わけても女学校は、けっこう気にかかる実験であったはず、なのです。
 しかし、ですね。有礼はあくまで部外者ですし、アメリカで有礼が黒田に理想を語り、黒田が現場任せのやっつけで開校しました開拓使仮学校女子部が、です。いかに開拓使にそぐわない学校であったところで、有礼に責任があるわけではないのですけれども、なんともいえないちぐはぐさの一因は、こういった設立経緯にもありそうです。

 有礼は、条約改正交渉では、海千山千大ダヌキの在日アメリカ公使デ・ロングにしてやられ、えー、今でもそうであったりするんですが、アメリカが派遣する公使(大使)は、大統領と仲がいいからとか、選挙で貢献してくれたからご褒美とか、そういう理由で知識も経験もない者が選ばれることが多々あります。このデ・ロング、相当にいいかげんな人物だったよーでして、まあ、ともかく、有礼はしてやられまして、また清成との大喧嘩で木戸はじめ岩倉使節団一行の顰蹙を買い、自ら代理公使をやめる、とわめき、しかし有礼でなけれできない用事もあり、しばらくアメリカに留まって、欧州まわりで帰国します。
 欧州まわりの理由の一つは、そのころアメリカでその持論が流行っておりました、イギリスの社会学者・ハーバート・スペンサーに会って、日本の国作りに有益な意見を聞くためでした。まっ、小理は、さまざまに模索しませんと、ね。
 余談ですが、このスペンサーじいさん、とてつもない面食いでした。若いころ、じいさんは、女流作家のジョージ・エリオットと結婚するのが自分の義務なのか、と煩悶したそうなのですが、鼻が長すぎて美人ではない!ので、義務ではないと判断したんだそーなんですの。
 私、有礼は生来面食いであった、と決めつけておりますが、その点、スペンサーじいさんと意気投合したんだと思いますわよ。

 えー、明治6年7月末、帰国しました有礼は、明治6年政変をよそごとに、といいますのも、まだよくは調べてないのですが、大隈重信の回想では、こちらもデ・ロングにひっかきまわされまして、有礼の所属する外務省の長・副島種臣が、征台と草梁倭館派兵に突っ走ろうとしたことをきっかけに起こったよーなものですし(明治6年政変と征韓論 明治4年参照)、傍観していますうちに、大久保利通が副島を追い出し、外務省はイギリスから帰国しました寺島宗則が掌握しまして、有礼はお咎めもなく、国内勤務で外務省にとどまることができました。

 有礼は帰国直後、福沢諭吉など、主に旧幕洋行経験者を誘いまして、学者クラブ・明六社を立ち上げています。まっ、日本の国を啓蒙しようというわけなんですが、これを庶民向けだと思ってしまいますと、なんつー上から目線!と感じるんですが、クラブ発行の明六雑誌を読んでみますと、要するに学者クラブの雑誌ですから、国家官僚や官僚の卵、在野のインテリ向けです。
 で、同時に有礼は、家を持ち、鹿児島から、両親と、すらりとした美少年に成長しました長兄喜藤太の遺児・有祐とその母・広を東京に呼びよせます。

 そして、この明治6年末、鹿児島で有礼の私塾に通っていました古市静が、種子島から上京してきまして、森家に住み込んだ、といいます。
 これは憶測なんですけれども、もしかしまして、孟母・里さんが、静を気に入ったんじゃないんでしょうか。「洋学熱心な薩摩おごじょ! 良妻賢母になりもっそ」というわけで。
 えー、有礼がどう思ったか、ですって? そりゃあ、もう、有礼はとてつもない面食いですから(笑)。

 実は、有礼と常がいつ出会ったかは、まったくわかってないんです。
 しかし上記のように、有礼が開拓使女学校に関心をもたないわけがないですし、妄想をたくましくしますと、です。孟母・里さんから静さんとの結婚を勧められ、義務か、と煩悶し、実のところは単に「顔が気に入らない!」だけですのに、「神への愛を共有できる伴侶とは、魂がふれあうもの。ハリス教団で修業した身には、一目でピンと感じるはず。静さんにはそれがない! 教養を高めようと開拓使女学校で学んでいる少女ならば、もしかして」と、物色しに出かけた、かもしれませんわよ(笑)
 そんなわけで(どんなわけやら)、明治6年末から明治7年前半にかけて、有礼は常を見初めたものと思われます。

 次回、そのころ常が、どんな災難に見舞われていたか、というところから、お話を進めていきたいと思います。


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広瀬常と森有礼 美女ありき4

2010年09月07日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき3の続きです。

 えーと、開拓使女学校における、広瀬常の災難なんですけれども、そのもとになった常の美貌なんですが、「美しい」とは、アーネスト・サトウとかクララ・ホイットニーとか、同時代のさまざまな人物が証言していますが、具体的な描写はなく、写真がなければ、いまひとつイメージがわきませんよねえ。
 鹿鳴館のハーレークインロマンスで書いておりますが、私が以前に広瀬常のものだと思っていた写真は、実は園田孝吉夫人・けい(金偏に土二つ)のものだったと、下の本ではされています。

明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム
犬塚 孝明,石黒 敬章
平凡社


 実はですね。もっているはずなんですが、この本、出てきません。で、記憶が曖昧になっているかもしれませんので、不正確な記述になるかもしれませんが、お許し下さい。
 私が、大昔に常夫人だと信じて、想像をふくらませた写真は、これです。森有礼の遺品のアルバムにあったんだそうなのですね。



 同じアルバムに、あと二枚、同一人物と見られる写真がありました。そのうちの一枚が、これです。



 で、この2枚の写真の胸元のアクセサリーに注目してください。明治18年(1885)、山本芳翠がロンドンで描いた園田けい像が、同じアクセサリーをしているんです。



 というわけで、上の2枚の写真は、常のものではなく、園田けいではないか、というわけです。
 確かに、アクセサリーは同じに見えますし、幼児を抱いた方の写真は、髪型や顔の角度も似ていて、言われてみればそうかな、という気がします。
 しかし、ですね。私、国会図書館で、大正15年に発行されました荻野仲三郎編「園田孝吉傳」を全編コピーしてきまして、ちょっと疑問に思ったんです。これには、ちゃんと章を設けてけい夫人の記述があり、写真も載っているのですが、有礼のアルバムにあった三枚の婦人像は、ないんですね。
 下は、その「園田孝吉傳」に載っています、明治15年(1882)、渡英直前の園田夫妻の写真です。



 このけい夫人の写真は、確かに芳翠の肖像画とそっくりです。で、くらべてみますと、有礼のアルバムにあった婦人像は別人に見えませんか?

 「秋霖譜―森有礼とその妻」において、森本貞子氏は、有礼アルバムの婦人像をやはり常のものだとなさって、「磯野家に残っていた妹の福子の写真がよく似ている」ともされています。下が、その写真です。



 確かに、森本氏のおっしゃる通りなんですよね。
 じゃあ、アクセサリーはどうなのか、ということなんですが、「園田孝吉傳」に、明治17、8年ころ(鹿鳴館がオープンした当時です)の話として、次のようなことが載っているんです。
 日本で宝石の装身具が流行し、ロンドン領事の園田氏のところへ日本から、「買ってくれ」という依頼が多く舞い込んだんだそうなんです。しかし宝石は、とてつもなく高価です。外国の貴婦人たちは、先祖代々伝えているわけでして、日本人がそれと競って高価な宝石を輸入したのでは、国家財政上、おもしろくないと園田は考え、応じなかったんだそうです。で、「我国は古来美術の国、金銀細工物の妙技を誇つてゐるのに何を好んで他国の宝石を羨むことがあろうか。寧ろ我特有の装飾品に相当の美術的加工を施して宝石の代用に用いたならば、一には経済の一助ともなり一には国産奨励の意にも叶ふであらう」ということなんです。

 どうやら、園田けい像の独特のアクセサリーは、宝石の代用に、日本の工芸品を加工した可能性が高そうです。
 で、外交官夫人にとって、宝石をどうするかという問題は、なにも鹿鳴館時代にはじまったことではないんですよね。
 常は、渡英前にも、公使夫人として北京へ行っていますし、森家でアメリカ元大統領を迎えての晩餐会を催したり、ともかく、夜会服を着てつける宝石に困った経験は、早くからしていたはずです。いくら有礼の給与が高額でも、元大名家じゃないですし、また有礼は潔癖性で、実業家から貢いでもらうようなこととも無縁ですから、常の宝石にまでまわるお金は、あまりなかったでしょう。
 とすれば、工芸品アクセサリーを身につけたのは、園田夫人よりも常の方が先だったかもしれないんです。

 けい夫人は園田の二度目の妻で、結婚したのが明治13年(1880)4月。有礼と常が渡英して後のことです。
 園田孝吉は薩摩川内、北郷家の私領士の家に生まれまして、北賴家重臣園田家の養子に入ります。最初の妻は養家の娘です。明治4年に大学南校(東大の前身)を卒業し、外務省に奉職して、翌年、婚約していた養子先の娘と結婚。
 明治6年に、妻を日本に置いて単身英国に赴任し、明治12年の7月まで帰国していませんから、有礼と常の結婚式には出席していません。しかし帰国直後、アメリカ元大統領グラント将軍を迎えての一連の歓迎行事には、外務省の一員としてかかわり、常夫人の活躍は目の当たりにしたはずです。
 園田の渡欧中に、最初の夫人は死去していまして、薩摩の養家からは先妻の妹との結婚を勧められるのですが、園田は「外交官夫人として活躍できる妻を娶りたい。その方が園田家の名をあげることにもつながる」と断り、翌年、富永けいを娶るんです。
 けいの父親は、遠州横須賀(現在の静岡県掛川市)にあった小藩の家老でしたが、佐幕派であったため、維新後苦労します。山口県に官吏の職を得て赴任後、けいの教育に困っておりましたところが、井上馨が帰省中、けいを見込んで、東京での教育を引き受けるんですね。けいは洋学を学び、井上馨の世話で、園田と結ばれました。
 つまり、先輩有礼の伴侶、常の外交官夫人としての活躍を見て、園田がけいとの結婚を選んだ可能性は、高いんです。

 早くから、外交官の間で、夫人のアクセサリーは共通の悩みになっていたでしょう。日本の工芸品をアクセサリーにする、というのは、だれが考えついたことかはわかりませんが、園田孝吉が、有礼や鮫ちゃんや、寺島宗則や上野景範や(この二人が、夫人を伴って社交的外交をやったかどうかは確かめてないんですが)、もっとも早く日本人公使として海外に赴任した薩摩の先輩たちと、つきあいがなかったわけがありません。

 私は、常が園田夫人に、アクセサリーを贈った可能性が高いのでは、と思うのです。
 園田夫妻は、明治15年2月に日本を発ち、有礼が公使として滞在しているロンドンへ赴任しています。そして、有礼と常は、明治17年の初頭に帰国しているわけでして、別れに際して、常が園田夫人に愛用のアクセサリーを贈ったり、したかもしれないじゃないですか。

 というわけでして、今、私は、有礼のアルバムの三枚の婦人像は、やはり常夫人のものだったのでは、と思い直しています。
 なにやら話がそれましたが、次回、かならず二人が出会うところまでは、行き着くつもりでおります。

 
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広瀬常と森有礼 美女ありき3

2010年09月06日 | 森有礼夫人・広瀬常
 
 広瀬常と森有礼 美女ありき2の続きです。

 森有礼の伝記において、有礼がカルト的教祖トーマス・レイク・ハリスにはまりこんだことは、論者によって評価がわかれます。一般的には、洗脳がとけてたいした影響はなかったようにいわれてまして、略伝などでは、ハリスのハの字も出てこなかったりしますが、嘘です!
 この件に関して、真摯にご研究されましたのは、林竹二氏です。

森有礼 悲劇への序章 (林竹二著作集)
林 竹二
筑摩書房


 上のご著書の元になりました論文は、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上でも紹介しておりますが、オンライン公開されています。森有礼研究第一 森駐米代理公使の辞任と、森有礼研究第二 森有礼とキリスト教ですが、第二の方で、ハリス問題が主にあつかわれています。

 で、ですね。なんでイギリス留学生がー、イギリス留学生が、といいますのは、「畠山義成をめぐって」で書いておりますが、ローレンス・オリファントとハリスは、薩摩以外の留学生にも手をのばしていまして、実際に、高杉晋作の従弟・南貞助もはまりこみ、長州の殿様を誘い込むために帰国した形跡があるわけなのですが、ともかく、幕末イギリス留学生がなぜはまりこんだか、といいますと、ローレンス・オリファントがハリスにはまっていたがゆえ、だったでしょう。
 オリファントは、攘夷まっさかりの日本に外交官として来日し、東禅寺事件で水戸浪士に襲われて深手を負い、帰国後、下院議員になりますが、なぜか、非常に親日的だったんですね。まあ、スコットランドの出身ですし、幕末、日本にいた商人は、グラバーをはじめ、スコットランド系がほとんどでしたので、幕府とむすんだフランスに反発して雄藩に肩入れ、というのはあったと思うのですが、オリファントの場合、それだけでもなく、世界中を旅してまわった結果、既成キリスト教があきたらなくなったのではないのでしょうか。そこらへんのオリファントの心理については、宮澤眞一氏のローレンス・オリファントに於ける転石の苔が参考になります。
 まあ、いずれにしろ、オリファントもハリスもエキセントリックであったことは確かでして、「英国畸人伝」の「いかさま師と錬金術師」の章では、ハリスとオリファントを、性的に放埒な教団を運営したと決めつけています。実際、後年のアメリカで、こういった非難がハリスにあびせられましたのは事実のようですし、有礼が教団にいたと同時代にもすでに、既成キリスト教団からは「社会主義カルト」といった類の非難があびせられています。

 しかし、これはどうなんでしょう。アメリカの既成の価値観からは遠く離れた教団だったでしょうし、ハリスはとんでもなく変なおっさんですし、カルトといえば確かにカルトでしょう。
 ただ、林竹二氏の著作で、教団に残った森有礼&鮫島尚信と、出て行って既成のキリスト教信者となった畠山義成の論争を見ますと、要するに、ハリス教団は、スウェーデンボルグを奉じた修道会をめざした、といえるんじゃないんでしょうか。プロテスタントには修道会がありませんで、カトリック嫌いから修道会とはいえないんでしょうけれども、修道院というのは、理不尽なものなのですね。建前上、全財産を寄付して入会し、神のためにひたすら自己を殺して、修道院長の命令を受け入れるんです。『千々にくだけて』と『哀歌』の後半に書いているんですが、既成の修道院でさえも、人間が運営するものですから、俗の価値観はしのびこんでいますし、院長や同僚と馬があわないことだって、多々あります。
 ましてハリスは、既成の権威とは無縁の変なおっさんです。
 林竹二氏のおっしゃる通り、究極的には、ハリスをいわば命令権を持つ「修道院長」として認めるかどうか、の問題だったのだと思います。そして、畠山義成は、宗教問題をあくまでも個人的なものと考えていたがため、ハリスが奇矯なのは天然自然であって、決して悪人ではないが、他宗を許容しないことはまちがっている、という結論に達したのだと思うのですが、森有礼と鮫島尚信の場合、宗教を個人的なものと考えるよりも、近代国家を成り立たせる根本にあるものだ、という意識が強かったのではないでしょうか。で、あった場合、既成のキリスト教ではなく、ハリスが信奉するスウェーデンボルグは、定まった組織や解釈がある宗派ではないですから、日本流の解釈がしやすく、抵抗がないように思うのです。
 ハリス教団は、いわばハリス教の修道院であった、といいましても、外で活動する者も多かったわけでして、教団で修行をつんで、「あんたはもうりっぱに合格したから、外でがんばりなさい」というのは、ハリスの判断です。
 まあどうやら、おそらく畠山の報告を受けて、なのでしょうけれども、「こりゃ大変!」と薩摩藩から、森有礼と鮫島尚信の帰国旅費が送られていまして、ハリスはそれを受け取っているんです。だから、ではあるんでしょうけれども、ハリスが二人に「あんたたち二人は、もうりっぱに修行ができたから、日本の国を新しく造ることに専念することを、神も望んでおられる」といって日本に帰したことは、確かでしょう。だからこの二人は、在俗の修道者のつもりで、自分たちが理想とする近代日本創造に、残りの生涯をささげたわけです。自分たちは、日本のために神に選ばれている!と信じていますから、ただでさえ押しが強いところへもってきまして、独善的にならざるをえませんわね。

 ただ、有礼と鮫ちゃんにとっての神が、キリスト教のGodか、といえば、大きくいえばそうなんでしょうけれども、微妙です。
 私、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1で、以下のように書いております。
 「いや、新納とうさんといい、薩摩開明派門閥の蘭学重視、漢学軽視には、すさまじいものがあります。長兄の町田久成は、江戸で平田国学の門下になっていますし、どうも、国学が基本にあって、漢学より蘭学を重んじるという、そういう流れがあったように感じます」
 これ、まったく根拠のない妄想というわけでもありませんで、国立歴史民族博物館のHPのほっと一息 展示の裏話を見ていますと、平田国学には、そういう側面があったようです。特に、明治維新と平田国学」展 第5回 地動説と記紀神話 2004/11/10の短い紹介には、「篤胤が江戸で学んだことは、これまで真実だと思ってきた儒教的“知の体系”が大きく誤っており、ヨーロッパのそれが実証的で科学的だという、恐ろしい真実だったのである。儒学が前提とし、仏教的世界観も当たり前だとしてきた天動説ではなく、地動説が正しいとすれば、この宇宙の起源とはいかなるものでなければならないのか? 1813年に刊行された篤胤の主著『霊能真柱(たまのみはしら)』の第一の問いかけは正にこの問題だったのである。(中略)儒教や仏教に対する篤胤の批判の鋭い武器がこの地動説だった」とあって、おもしろいですよね。

 清蔵くんの話を書きましたときに、私がこういう話をしておりましたところが、fhさまが、とってもおもしろいものを見つけてくださいました。備忘 八田のおじいちゃん3なんですが、すばらしい町田にいさんと寺島さん、八田のじさまを、拝むことができます。
 ひいーっ!!! 実は、オリファントとハリスが平田国学にはまった???のかも、な発見です。
 えー、つまり、ですね。薩摩の留学生たちは、薩摩藩の国学の大家にしまして、和歌のお師匠さま、八田知紀じいさまが書きました「大理論畧」といいます冊子をよりどころにして、オリファントやハリスに、神国日本を語ったんですね。だって、勝海舟宛の八田じいさま書簡に、「英国隠士ハリス独り、かの玄天の大道を唱て、当時をうれたむよしなるハ、尤なる事歟と存申候」とあるんですから、吉田清成や鮫ちゃんや有礼が語らなくて、だれがハリスに「大理論畧」を語るというのでしょう。
 有礼がハリスにはまったのは、最終的には、ハリスが八田じいさまの「大理論畧」を認めたから、だと思います。有礼の父親は、和歌をやっていますから、八田のじさまとは親交があったでしょうし。

 Googleブックス横山健堂著「日本教育の変遷」、目次のセクション5をクリックしますと、「大公平小公平の道 森有礼の外国留学における覚悟 森文部大臣と八田知紀」という章が出てまいります。一読してみますと、森有礼の思想はけっこう「大理論畧」で読み解けそうな気分になり、私、横山健堂に習って「大理論畧」を手にいれなくっちゃあ!!!と思いつめました。国会図書館になくてがっくりきていたところに、古書店に出物がありまして、思わず買ってしまったんですが、なんと! 鹿児島県立図書館にあったみたいですわ。
 ともかく、おもしろいです。あとがきに、「此書ハ外国ニワタル人ノ若シカノ土ニテ皇国ノ道ヲ問フ者ノアランニ答フヘキノ大意ヲ示シテヨト云ヘルニ取アヘス書テオクリタル也」とありまして、いったいだれが、「じじさま、外国で日本のアイデンティティを聞かれたら困るから、アンチョコにしてよ」なんぞと、馬鹿みたいなおねだりをしたんでしょ! 私の独断と偏見で推測しますと、有礼か吉田清成か鮫ちゃんかです、きっと。
 で、じさまが苦労して、平田国学の奥義を、素人にも(町田にいさんのような玄人向けにではなく、です)わかりやすく解説しましたのが、この「大理論畧」です。

 えー、大理は円(まる)で、小理は方(かく)なんだそうです。
 もちろん、攘夷なんて馬鹿げていて、日本人は大いに世界に出て、議論をすべきなんだそうです。なにを議論するかといえば、シナの儒学や西洋の理論は、すべて小理なんだそうで、造化主(Godに似てますが、神道は江戸時代にキリスト教の影響を受けて、一神教的なものを取り入れています)は大理に従って世界を造られたので、日本は国の成り立ちが天然自然に大理に基づいていますから、天然自然のままでもっともすぐれた国であり、その証拠が万世一系の皇統なんだ、ということを相手にわからせるべき、なんだそうなんです。
 で、大理は円ですからすべてを包み込みます。読み方によっては、小理はシナ式であろうが西洋式であろうが、ともかく日本は大理の国なので、それは気にしなくていい、ということになりかねず、文化がどう変容しようとも、万世一系の皇統をいただいてさえいたならばそれでいい、という、かなりすさまじい解釈もできそうです。
 日本の古伝説では、太古の昔から地動説をとっているのに、シナの小理にまどわされて天動説がはびこっていましたが、西洋で近年になって地動説が真実だとわかって、日本が大理の国だと証明されたんだそーなんです。
 理屈はみんな小理です。大理は、理屈じゃないんです。感じ取らなくてはならないんです。大神楽に鞠の曲取りという曲芸があるんだそうですが、どうしてそんな不思議な動きを鞠がするかって、芸をする人の修練の結果であって理屈ではないのと、同じなんだそーなんです。
 えー、私、まったくもってよくわかってないですから、まちがって要約していたら、ごめんなさい。

 で、まあ、そういうことだとしまして、です。私、ふと思ったんです。
 シオリストの有礼は、「感じること」なんて大の苦手ですから、「ハリスのもとで理不尽な修練に耐えて生まれ変わらなければ、造化主の大理がわからない!」と、鮫ちゃんと意気投合しちゃったんですわよ、きっと。
 で、「日本は大理の国なんだから、細かいことはどー接ぎ木をしようが、国体はまもることができる!」なんちゃって、有礼の中では、英語を国語にしようが、神社の境内で牛肉を食べようが、大理の円につつまれる小理。そーいった細かいことは、日本の近代化にプラスになる方向へさっさと改変すべきなのであって、それがけっして、日本の国柄を守ることと矛楯することではなくなっていたりしちゃったんじゃ、ないんですかしらん(笑)

 まあ、奇人、変人の類ですわね。
 で、次回、いよいよ、その有礼と、常は出会います。


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広瀬常と森有礼 美女ありき2

2010年09月05日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき1の続きです。

 森有礼は、奇矯な人です。
 えー、私が勝手に言ってるんじゃありません。徳富蘇峰が言っているんです。「若き森有礼―東と西の狭間で」より、孫引きです。
「概して謂へは君は偏理家(シオリストTheorist)なり。奇矯(エキセントリックeccentric)なる偏理家なり」

 森有礼は過激な人です。
 えー、これも私が勝手に言っているんじゃありません。有礼を直に知っていた林董が言っているんです。
 「後は昔の記他―林董回顧録」 (ワイド版東洋文庫 (173))(近デジにあったと思います)に、森有礼が暗殺された話がありまして、そこに以下のようにあります。
 「森子は予の能く知る人なり。弊を撓め俗を正すに過激の手段を取りて憚からざる性質なり」

 森有礼が暗殺された理由は、暗殺者の西野文太郎が「有礼が伊勢参宮に際して杖で陣幕をあげたことが不敬だ」と思ったから、というのが当時の定説になっていたらしいんですが、林董は、これは有礼が故意にやったことではなく、うっかりやってしまったことだった、というんですね。ただ、普段から有礼は、「自分がまちがっていると思う俗風を正すときには過激な行動に出てやりすぎるので、こういう目にあった」ということなんです。
 このやりすぎの例としてあがっていますのが、林董が琴平宮の宮司さんから聞いた話です。
 有礼が琴平宮に参ったとき、宮司さんの家で昼食を出したら、それを食べずに「牛肉を所望」した、というんです。宮司さんが「ここにはありません」というと、「持ってきた肉が旅館にあるから取り寄せればいい」と、あくまで有礼は牛肉にこだわります。で、宮司さんが、「境内で獣肉を食べるのは禁制です」と断ると、「魚や卵はここに並んでいるのに獣肉を嫌うのは理屈にあわんぞ」と決めつけて、勝手に旅館から自分の牛肉をとりよせて食べた、そうなんですね。
 これは、林董にいわせると故意なんだそうです。理屈にあわないことを嫌ってやめさせようと、わざとやったのだというんです。
 いや、嘘かほんとうか知りませんが、文部大臣がやることにはさからえませんし、ほんとうだとすれば、やられた方には、権力者の嫌がらせとしか受け取れず、実際これでは、奇人、変人の類ですわね。
 えーと、こういった有礼の性格は、どうも、父親ではなく母親に似たもののようです。

 森家は、「小番」格の城下士でした。イギリスVSフランス 薩長兵制論争に表を載せていますが、「小番」というのは、薩摩藩では数少ない中級武士です。小姓与の西郷、大久保よりも家格は上。森家も代々、藩主の間近に仕えたといわれます。
 父親の有恕(ありひろ)は、温厚な人だったそうです。和歌、詩文にすぐれ、黒田清綱(洋画家・黒田清輝の叔父で養父)や税所敦子と唱和した歌草が残っているそうでして、八田知紀じいさまに、習っていたりもしそうです。晩年に歌集「漫吟百首」を私刊してもいます。 趣味人です。ただ、「仙骨の風があった」そうで、どことなく世離れはしていたようです。
 母親の里は、女丈夫でした。熱情的で、厳粛で、意志強固。男勝りでエキセントリック。毎朝、いくつもの神様を、熱心に祀っていたんだそうです。
 森夫妻は、五人の男子に恵まれまして、有礼は末っ子。母親のお気に入りの息子でした。

 長兄・喜藤太は、妻・広(旧姓相良)と息子有祐を残して、元治元年(1864)8月8日、27歳、禁門の変の直前に警備のために上京して、トラブルにまきこまれて死去したみたいです。遺児の有祐(文久2年生)は、背の高い、非常な美青年に成長したことが、下の本に見えます。

勝海舟の嫁 クララの明治日記〈上〉 (中公文庫)
クララ ホイットニー
中央公論社


 15歳のアメリカから来た少女、クララ・ホイットニーは、同年代の有祐を、「「王子さまみたい!」「これほど洗練されて優雅な子はほかに日本にはいない!」「美の典型!」」と絶賛しているんですが、それは常と有礼の結婚後の話ですし、後で詳しく述べることにします。

 次男・喜八郎は、江戸の昌平黌で学んだ秀才で、青山家の養子となりましたが文久3年(1963)、病没しました。
 三男は12歳で早世。
 そして四男・横山安武です。天保14年(1843)生まれ。有礼より四つ年上です。森有礼全集に写真がありますが、明治になってからのものなんでしょう。総髪が自然な感じで、聡明そうな整った顔立ちです。
 安武は、これまた俊才の評判高く、望まれて、藩の儒学者・横山家の養子となります。この人は、明治時代には、かなり高名でした。森有礼の兄としてではなく、本人が明治3年7月26日、集議院の門に建白書をかかげて、割腹自殺して果てたんです。主君を諫めて、ではなく、政府を諫めての諫死です。
 近デジで「横山安武」で検索をかけますと、8冊出てきまして、その建白書の内容は明治10年発行の「維新奏議集」に載っています。簡単にまとめますと「新政府の役人は、下々が飢えているにもかまわず、虚飾を求め、自分個人の利益や名誉ばかりを求めている。ふさわしい人を官職につけるのではなく、縁故がはびこっている。朝令暮改で、法制もも定まらず、私怨で罪に陥れられる上、諸外国とのつきあいでも問題ばかり起こしている。このままでは国が滅びる」といったところでしょうか。
 大久保利通は日記に「(安武の)朝廷への忠義の志を感じるべきだ」と書いて、この政府批判を肯定していますし、西郷隆盛は碑文を書いて顕彰しました。西郷の碑文の文面は安武の小伝にもなっているんですが、近デジ「西郷南州翁百話」で見ることができます。
 えー、細かいことは省きますが、安武兄さんもエキセントリックですよねえ。憂国の情に燃えたとはいえ、後には、妻と幼い男の子が二人(次男にいたっては、この前年に生まれたばかりです)、養子先の母と伯母が残されたんですから。
 横山一家は、有礼と常の結婚時は鹿児島にいましたが、西南戦争の後、有礼が永田町の新居へ引き取り、以降、めんどうをみました。で、甥が戸主になっているこの横山家の籍に、いっとき、青い目と噂された有礼と常の長女・安は、入っていたわけです。

 末っ子の有礼は、弘化4年(1847)の生まれです。安政5年(1858)、11歳にして藩校造士館入校。長兄喜藤太に漢学を教わり、13歳のころ、林子平の「海国兵談」を読んで海外事情を知る必要を感じ、三つ年上の上野景範に英語を学びます。元治元年(1864)、洋学教育のための藩校・開成所が開設されると同時に、そちらへ移り、数少ない英学専修生となって、翌元治2年、18歳にして、選ばれて密航イギリス留学生となります。
 留学の話は、巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol1をご覧下さい。つけ加えますと、ですね。留学生のほとんどは20代です。10代は4人しかいませんで、町田申四郎、清蔵兄弟と、森有礼、長沢鼎です。清蔵くん14歳、長沢13歳の二人はとびぬけて幼く、有礼と申四郎が18歳で同い年なんです。この若さで、清蔵くんが後年まで、有礼を留学生の中心的な存在として記憶していたのは、よほどにアクが強くて押しの強い性格だったのだとしか、私には思えません。
 清蔵くんが帰国した後も有礼はイギリスに残っていますが、以降の話は、薩摩スチューデントの血脈 畠山義成をめぐって 上にまとめております。

 えーと、また文字数が多いそうでして、広瀬常と森有礼 美女ありき3に続きます。
 

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広瀬常と森有礼 美女ありき1

2010年09月03日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼の結婚について、森有礼夫人・広瀬常の謎 前編中編後編上後編下の内容を踏まえた上で、妄想をめぐらせてみたいと思います。
 まあ、あれです。一応、妄想といえども、まったく根拠がない、というほどではないんですが、歴史上の人物の男女の仲なんて、思い込みと妄想なしには、書きようがないですし。
 
 最初は、ちょっとまじめに、広瀬常の出身から。
 えーと、幕臣の家の出てあったことは確かなんですが、よくいわれるように旗本であったのか疑問がわきまして、近くの図書館で、簡単に見られる本を調べてみました。

 まずは、「寛政重修諸家譜 」です。
 これ、18世紀末までの幕臣の系図が載っている本なんですが、ごく下っ端は載ってないんです。
 で、これに載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
 5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
 この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です。
 ただ、これ、原宿村の百人組書き割りじゃないかと思いまして、だとすれば旗本が住むにはおかしいのではと、ちょっと???なんですが、伊賀同心は甲賀、根来同心が譜代だったのとちがって一代限り、という話もありますし、組頭は旗本なんでしょうし、すでに小禄の旗本屋敷になっていたのか、なんぞとあれこれ思いまどい、甲賀同心百人組や与力衆は書き割ってないのにここだけ百人組同心が書き割り???と思ってみたり、私、幕末の幕臣の職制も切絵図の見方も、さっぱりわかっておりません。詳しい方がおられましたら、どうぞご教授のほどを。
 
 ところで、「文化武鑑人名総覧」には、文化年間(1804~1817)の幕臣の名前がすべて出てくるみたいなんですが、広瀬吉利も含めて、広瀬姓は10名います。なんで「寛政重修諸家譜 」の方に出てこないのかと思いましたら、広瀬吉利をのぞく残りの9人は、みんな坊主、ほとんどが表坊主なんですね。
 表坊主は、江戸城で、大名や高級役人の給仕をする役職で、坊主頭です。情報通で、大名家などから付け届けがあって、実入りはけっこうよかったといわれますが、身分は低いんです。
 幸田露伴の生家が、この表坊主だったんだそうなんです。開拓使女学校時代の常の住所が、えらく幸田露伴の生家に近く、もしかすると、常の父・秀雄は表坊主だったのかな、とも思ったのですが、下の本を見まして、別の可能性も浮かんできました。

江戸幕臣人名事典
クリエーター情報なし
新人物往来社


 あとがきを読んでも、元になった史料がよくわからないのですが、国立公文書館内閣文庫・多聞楼文書「明細短冊」というもののようです。
 どうも、慶応末年まで記録があるみたいでして、常の実家をさがすのに時期はぴったりなんですが、かなりのぬけがあるらしく、広瀬姓は3名しか載っていません。
 森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」には、「駿藩分配姓名録」という書類があって、静岡へ移ってからの幕臣の名前と所在地がわかる旨、書いておられるんですが、まさかこれまで創作ではないように思えまして、だとすれば、静岡に移った広瀬姓の幕臣だけでも、少なくとも4家はあるみたいなんですね。

 で、「幕臣人名辞典」の方なんですけれども、3名のうち2名は、役職からいって、文化年間の坊主の家の後継者っぽいんですね。一人はあきらかに表坊主ですし、もう一人は奧膳所の小間遣なんですが、似たような役職なんじゃないのか、と思います。
 そしてもう一人、嘉永7年(1854)、新しく幕臣となった広瀬寅五郎がいました。「もしかして、この広瀬寅五郎が、秀雄?」と、思わず決めつけてしまいそうになりましたのは、なかなかに経歴がおもしろいんです。
 本国正国ともに下野です。嘉永7年に同心株を買ったらしく「御先手紅林勘解由組同心」となります。先手組同心というのは、よく時代劇に出てきます八丁堀の町方同心とはちがいまして、番方です。江戸城の門の警備とか将軍警護とかが代表的な役目でして、弓組とか鉄砲組とかもあったりします。
 この「紅林勘解由」、検索をかけてみましたら、興味深い話がひっかかりました。「日本聖公会歴史の落ち穂」というサイトさんの名取多嘉雄著「一人の宣教師と3人の日本青年」というページなんですが、飯田榮次郎という元幕臣が大正8年に自叙伝を書いていまして、その中に「慶応元年から紅林勘解由にフランス式兵学を学び初め」とあるそうなのですね。
 先手組は軍隊に近く、といいますか、もともとは軍隊ですので、組ごと慶応年間からフランス式兵学を、というのは、ありえないことではなさげです。幕府がフランス兵式を導入した時期は微妙ですけど、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1で書いておりますが、フランス公使レオン・ロッシュの来日が元治元年(1864)で、同時に横須賀製鉄所の話が持ち上がり、横浜に仏語伝習所ができたのが翌慶応元年(1865)です。
 寅五郎は、安政年間(虫食か汚れで何年かわからないみたいです)に「箱館奉行支配調役下役過人」とやらになっているらしいんですが、これは、もしかしますと、紅林組が箱館奉行所勤務になったのかもしれません。元の史料が虫食いらしく、ずいぶん空白があるんですが、元治元年(1864)には講武所勤番になり、江戸へ帰っている様子です。
 えーと、ですね。安政5年(1858)には、栗本鋤雲が箱館奉行支配組頭になって赴任していまして、翌安政6年、函館開港で、フランス人宣教師メルメ・カションがやってきます。カションは、嘉永7年から琉球に滞在して日本語を勉強し、安政5年、日仏修好通商条約締結時には通訳を務め、ともかく、日本語ぺらぺらでした。カションは鋤雲と親交をもって、互いに言葉を教え合い、小規模ながらフランス語学校を開き、そこに箱館奉行所の役人が勉強に通って、横浜仏語伝習所の核ができていたんですね。鋤雲はもともとは医者ですから、カションに協力して、病院と医学校設立を企てるのですが、鋤雲は文久3年には函館を離れ、これは挫折します。
 講武所勤番となった広瀬寅五郎はといえば、田安仮御殿の火災に際して、火付盗賊改方に出向している様子。しかしこれが何年のことか、また虫食いらしく、わかりません。その同年、また「箱館奉行支配定役」になって経歴が終わっていますから、函館で維新を迎えた可能性がありそうなんです。

(追記)うっかりしてました! 広瀬寅五郎で検索をかけますと、慶応2年には、あきらかに函館にいますね。北海道庁の公式ホームページに、「函館奉行所履歴明細短冊」があがってまして、名前がありますわ。あきらかに、最後の函館奉行・杉浦誠の下で働いています。

 最後の箱館奉行・杉浦誠は、明治2年から開拓使に奉職していまして、常の父の秀雄が、もし、函館奉行所にいたことのある寅五郎だったとしますと、娘の常が開拓使女学校へ入学したというのも、話がわかりやすくなるんです。

 同心株といえば、樋口一葉の父親なんか、維新直前の慶応3年に買っているんですよね。甲斐の百姓で、身分違い(相手の女性が富農の娘)の恋をして、駆け落ち同然に江戸へ出て、苦労した結果だとか。
 そして、ですねえ。「広瀬寅五郎」も、検索をかけてみますと、ちょっとびっくりするような話があったんです。
 コトバンク-広瀬寅五郎です。
 「下野(栃木県)粟谷村の金井仙右衛門(せんえもん)の使用人。嘉永3年(1850)仙右衛門の子仙太郎をたすけて,主人の敵金井隼人を討った」

 出典は、講談社の日本人名大辞典みたいなんですけど、出身が下野で、幕臣の広瀬寅五郎と同じですよね。「金井仙太郎」もコトバンクにあります。

 「金井仙右衛門の子。下野(栃木県)粟谷村の富農。炭山をうばわれ刺殺された父の仇金井隼人らを討つため,久保克明に剣術をならう。嘉永3年(1850)隼人父子を討って12年ぶりに復讐をはたす。江戸の勘定所に自首したが不問に付された」

 時期と出身地はあいますし、同一人物だとして話をまとめますと、こういうことでしょうか。
 下野の富農・金井家に仕えていた広瀬寅五郎は、主人が親族に財産を奪われて殺されたので、その息子を助けて、嘉永3年に仇討ちを成し遂げ、4年後に同心株を買って幕臣になった、と。
 この寅五郎がもし、常の父・秀雄だとしますと、おもしろいんですけどねえ。可能性は、十分にありますよね。


 ともかく、です。いえることは、常は確かに幕臣の娘でしたが、どうも、旗本のお姫さまだったわけではなさそうです。表坊主の家だったか、同心株を買った成り立て幕臣だったか、ともかく、御家人かあるいはそれ以下の下級武士で、幸田露伴か樋口一葉の家程度、と考えればよさそうなんですよね。その生活の実態は、下の本が参考になります。これ、御徒の幕末維新自分史でして、同心だったとすると、もうひとつ格が低いかも、なんですが。

幕末下級武士のリストラ戦記 (文春新書)
安藤 優一郎
文藝春秋

 
 ここから先は、妄想です。結局、常の父親が正確にどういう幕臣だったのか、家族構成はどうだったのか、さっぱり資料がありませんので、妄想するしかないんです。
 と、いうわけでして、一番おもしろそうな広瀬寅五郎=秀雄説でいってみたいと思います。
 
 黒船襲来の15年前、天保9年(1838)のことです。
 下野足利の粟谷村は、絹と織物の里です。富農の金井家は、織元でもあり、先代仙右衛門の弟・繁之丞は、京の西陣へ遊学し、美しい模様織物を考案して、生き神様と崇められておりました。しかし、その繁之丞も10年前に死去し、親族の間で、財産争いが起こったのです。
 広瀬寅五郎は、金井家の食客となっていた医者くずれの流れ者の子でしたが、非常にかしこく、現当主・仙右衛門に見込まれて、使い走りをしながら、金井家の跡取り、仙太郎坊ちゃんのお相手をしたりもしていました。寅五郎が15の時、恩人仙右衛門は親族の金井隼人に刺し殺され、争いの種だった炭山が奪われました。
 苦節12年、寅五郎は、仙太郎坊ちゃんとともに剣術修行に励み、剣の師匠の助けも得て、ついに、仇討ちを果たしたのです。
 寅五郎は、坊ちゃんとともに江戸へ出て、関東取締役出役の元締め、勘定所に自首しましたが、お咎めがないばかりか、江戸で評判の美談となり、寅五郎もすっかり有名人になったのです。
 寅五郎は、以降も、金井家の絹織物の取り引きでたびたび江戸を訪れていましたが、勘定所に自首した際に係だった広瀬吉平に、同姓のよしみもあって気に入られ、江戸へ出るたびに原宿村の自宅を訪れたりもしておりました。
 吉平 「わが家は清和源氏じゃが、そちもそうか?」
 寅五郎「へえ」
 吉平 「ならば、そちの祖先も大和か?」
 寅五郎「いや、父は甲斐の医者のせがれでしたが、家業を嫌い出奔しましたような次第で、武田の流れと聞いとります」
 と、まあ、最初はこんな感じで。

 そこへ、ペリー来航です。仇討ちを果たしたときは、すでに20代の後半。なにか新たな挑戦をと焦り、新論を愛読なんかしていました寅五郎は、ふってわいた黒船騒動に、武士になって国を守りたい!と思い立ち、吉平に相談したんですね。
 で、嘉永7年(1854)、寅五郎は吉平の世話で同心株を買い、百人組同心・高橋家の娘を娶り、幕臣になったんです。名のりは源秀雄。
 翌安政2年(1855)5月、長女・広瀬常が誕生します。
 常が三つになった年、秀雄は、紅林組の一員として、箱館赴任となります。
 それから元治元年(1864)までの6年間、一家は函館で過ごし、この間に次女が生まれました。
 
 常が、3つから9つの年まで函館で過ごしたとなりますと、その間に五稜郭の新しい奉行所ができたことになりまして、父親の秀雄は、大洲藩出身で五稜郭設計者の武田斐三郎と知り合っていたかもしれませんし、だとすれば、開拓使女学校時代の常の東京の住所、「第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」というのは、大洲藩邸の長屋に住まわせてもらったのかもしれなかったり。常は手習いで、フランス語を学んでいたりしたかもしれなかったり。とはいえ、なんせ、もとが妄想です。

 一家が江戸へ帰った元治元年、三女の福が生まれます。
 えーと。前述の通り、寅五郎が秀雄だったとしまして、次の函館赴任がいつなんだか、さっぱりわからないんです。
 とりあえず、単身赴任だったことにします。長女の常は年ごろになりかかってますし、下に二人、女の子が増えたんですから。
 明治元年、常は13歳。数えでいえば14歳で、嫁に行ってもおかしくないお年頃。しかし広瀬家には男子がいませんし、婿養子をとるつもりで、とりあえず婚約していた可能性はありそうです。同心仲間の次男かなにかで、函館では常といっしょにフランス語を習っていたりしまして、選ばれて、横浜でフランス軍事顧問団の伝習を受けていました。

 戊辰戦争がはじまり、秀雄はお奉行さまとともに江戸へ引き揚げてきましたが、常の婚約者は脱走。そのまま行方不明になります。
 一家は、静岡への移住を決意しますが、母親の実家・高橋家は、そのまま原宿村で帰農する道を選びます。
 静岡での苦労の中、母親はお産で死に、娘たちのためにも、秀雄は江戸へ帰ることにしました。
 次女と福子は、母親の実家に預け、秀雄は常と二人で大洲藩邸の長屋に住まわせてもらうことができました。
 江戸でできる仕事はないかと、函館での上司で、常の婚約者の父親、いまは開拓使に勤めています福島某に相談しましたところ、「函館へ行くならともかく、江戸では難しいが、今度開拓使仮学校に女子の部ができるので、常さんを通わせては? 授業料がいらないで洋学が学べる。うちの娘も通わせる」との話。
 福島某の娘は、函館で常といっしょに手習いした仲。
 婚約者の行方不明で、未亡人気分の常は、洋学を学んで身を立てたい!と、喜んで、その話に乗ります。
 常は評判の美人。縁談はあるんですが、本人、結婚する気はありません。許嫁だった人に義理立てしているといいますよりも、外見に似合わずもともとが自立心旺盛で、できれば手習いの師匠かなにか、もしかしますと、このころから女医を考えていたかもしれませんし、父を助けて一家の柱になりたいと思っています。
 まあ、縁談がくるといえば、新政府の役人になって江戸へ出てきた田舎士族からで、我が物顔の田舎者への反発もあったりしましたり。

 明治5年(1872)9月、17歳の常は、15歳4ヶ月だとさばをよんで、開拓使女学校に入学します。
 もともと、ご直参とはいえ下層の同心一家。贅沢をしていたわけではないのですが、静岡での暮らしは、食べるに事欠くぼろ小屋生活。
 ひろびろとした増上寺の境内(現在芝公園)、りっぱな建物が寄宿舎で、教材も食事も無料。わずかながら小遣いももらえ、オランダ人の女性教師から英語も学べて、常ははりきっていました。
 実はこの年、開拓使は函館に医学校も開設していまして、お雇いアメリカ人外科医・エルドリッジが、英語で産婦人科の講義をはじめ、産婆教育論を展開していたんです。(「理想のお産とお産の歴史―日本産科医療史」参照。もっともエルドリッジの任期は2年できれ、明治7年には函館を離れて、函館の医学校は閉鎖されるんですけれども)
 えー、そんな情報を常が知っていたか、なんですが、秀雄が維新を函館で迎えたとしますと、函館の開拓使には最後の函館奉行・杉浦誠がいまして、秀雄の同僚も複数奉職していたことになります。「女学校から医学校へ進めるかも」と、常は期待していた、かもしれません。
 ところが明治7年、常は、それどころではない、とんでもない災難にみまわれます。

 災難の中には、もしかしまして、一見幸運なような森有礼との出会いも含まれるかもしれませんで、それもこれも、常の美貌ゆえ。
 美しいということもなかなかに、大変なことのようです。
 で、その災難を語ります前に、次回は森有礼につきまして、どーいうお方だったのか、手に入りました大変貴重な資料もありますし、ハイカラ啓蒙生真面目人間的な従来の像は、ちょっとちがうかな、ということで、独断と偏見に満ちて、語ってみたいと思います。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上の続きです。
 
 下の犬養孝明氏の著作は、森有礼の伝記として、簡潔に、かなりうまくまとめられていると思います。適宜、参考にさせていただいております。

若き森有礼―東と西の狭間で
犬塚 孝明
鹿児島テレビ


 明治12年末、有礼は特命全権イギリス公使となり、常と、長男・清、次男・英、二人の子供も同行。13年のはじめにロンドン着。明治17年に帰国するまでの4年間をロンドンで過ごし、常の不倫があったとすれば、この間のことです。
 さて、常はこのロンドン時代に、磯野計と知り合ったものと思われます。
 以下は、竹越與三郎著「磯野計君傳」より、です。

 磯野計は、安政5年(1858)生まれ。常より3つ下です。津山藩士の次男として、現在の岡山県津山市に生まれました。
 津山藩は、蘭学者・箕作阮甫の出身藩で、阮甫の養子・秋坪、孫の麟祥と、著名な洋学者を排出しています。
 計は、明治元年、10歳(数えで11)で神戸へ出て箕作麟祥の英学塾で学び、翌2年、藩の留学生となって東京へ行き、秋坪、麟祥の塾へ入りました。翌3年には、藩の貢進生に選ばれて大学南校(東大の前身)に入学。南校が開成学校と名を改めた明治7年、アメリカへ少年期留学をしていた大久保利通の長男・利和と次男・牧野伸顕が帰国し、入学してきました。「牧野 伸顕 回顧録〈上巻)」によれば、このころの開成学校は全寮制で、受業はすべて英語だったんだそうです。計は、一つ年下の大久保利和と非常に仲良くなり、生涯、友情が続きます。
 また、開成学校の関係者は、森有礼と福沢諭吉が中心になってはじめた明六社に多くかかわっていまして、有礼が新聞記者を招いて派手に喧伝した常とのシビルウェディングは、もちろん計も知っていたでしょう。

 開成学校は、明治10年東京大学となり、12年、計は法学部を卒業します。
 東大の法学部です。通常は官吏になるのですが、反骨精神が旺盛だったんでしょうか。計は、友人数人と、当時あまり高級な職業とはされていなかった代言人(弁護士)となって事務所を開きましたが、これはあまり上手くいかなかったようです。翌13年、三菱商会が優秀な人材を英国留学させるという試みに推挙され、イギリスへ渡ることになります。
 岩崎弥太郎が海運を中心に始めた三菱商会は、大久保利通、大隈重信の引きを受け、征台と西南戦争の輸送、商品納入で事業拡大し、さらなる発展のために、東大出の人材確保をめざし、留学投資をはじめていました。
 さて、22歳にしてロンドンに到着した計は、法学を学ぶのではなく、自らの意志で、回船仲立ち業のノリスエンドジョイナー商会へ見習い書記として入社します。実地で、商務を覚えようというわけです。
 当時のロンドン在留邦人は、そのほとんどが公使館官員や留学生で、商業にたずさわるものはごく少なく、会合して議論するたびに、官員および官費留学生と、私費留学生および実業家の間に対立があったんだそうです。前者の中心は末松謙澄。伊藤博文に見込まれて、公使館の書記生名目で、ケンブリッジに官費留学していました。後者の中心が計で、藩閥政治批判を展開し、末松謙澄と討論することしきりだったんだそうです。ところで、ちょうどこのとき、牧野伸顕も公使館の書記生になってロンドンに来ていたんですが、回顧録に末松は出てきても、計は出てきません。兄の大久保利和とは親友だった計ですが、弟の牧野はちがったみたいです。

 計の帰国は、有礼・常夫妻と同じ年、明治17年です。
 ところがこの計の留守中に、三菱商会は苦境に陥っていました。明治14年の政変で大隈重信は政府から追われ、翌15年、井上馨を中心とする長州閥が、三井を使って半民半官海軍会社・共同運輸を起こし、運賃値下げ競争による三菱つぶしをねらってきたんです。
 帰国したものの、三菱に連なる計の起業は不可能な状態にあり、計は一時、外国語学校(一橋大学の前身)の教授を務めますが、明治18年、岩崎弥太郎の死去にともない、政府の仲買で、三菱の海運部門と共同運輸は合併し、日本郵船となりました。これによって計は、三菱色の濃い日本郵船に働きかけることが可能になり、船舶へ物資を納入する商店を開くことができたんです。
 その開店の年の暮れに、計は広瀬福子と結婚したわけでして、このときにはまだ計の事業は小規模なもので、福子の結婚は玉の輿というようなものではなく、苦労を共に分かつ覚悟を持ってのものだったでしょう。
 ところが翌明治19年、結婚生活1年にも満たず、福子は生まれたばかりの女の子を残して、世を去ってしまうのです。以下、「磯野計君傳」から引用です。
 
 「(福子は)磯野君に嫁して後も、夫君に仕ふること静淑で、夫婦の仲は人の羨むほどのものであったが、十九年九月十九日一女を生み、分娩の後、五日にして病を得て不帰の人となった。その寿は僅かに二十二才であって、その遺骸は久保山の墓地にクリスト教の儀式に従つて葬られた。磯野君は琴絃を弾じて別鴻を傷み、股釵を折つて分鸞を悲しみ、孤児菊子嬢を他人に育養せしむるに忍びず、再婚せずして終つた」

 計は、この11年後、明治30年の冬に、急性肺炎で妻の後を追いますが、その間、再婚しなかったんです。
 常の離婚は、書類上、明治19年11月28日ですから、菊子が生まれて福子が死んだ三ヶ月ほど後です。
 離婚の4ヶ月前、同年7月13日には、有礼の父親が死去していまして、おそらく、なんですが、有礼の父は、初めての女の子の孫の誕生を、とても喜んでいたのではないか、と思うのですね。「青い目」といいますが、例え常夫人のロンドンでの不倫の噂が本当だったにしましても、イギリス人の目がかならずしも青いわけではなく、赤ん坊が混血かどうかなんて一目でわかるものでもないでしょう。で、もし有礼に身に覚えがなかったとしましたら、有礼にだけは、不倫の子だとわかるわけですわね。
 もしそうだったとしまして、常にとっては、義父が死去した直後、離婚話が本格化したときに、妹の福子が幼子を残して産褥死した、ということになります。

 常は離婚してしばらくの間、計のもとで、残された姪の菊子のめんどうを見たのではないでしょうか。
 福子が三女だというのですから、常には他にも姉妹がいたことになりますが、早世していたかもしれませんし、父親の秀雄が森家の執事のようなことをしていたということは、他に頼るべき親族はいなかったのではないか、と考えられます。
 「青い目」と噂された常の女の子が、最終的に高橋家に養子に出ていますのは、従来、「子爵となって再婚する有礼の体面上、甥の籍に混血児があっては差し障りがあって、赤の他人に養女に出した」と、森家の都合として考えられることが多いのですが、私は、常が自分の手元に引き取るために、とりあえず広瀬家の知り合いの家の籍に入れてもらったのでは、と思ったりします。
 幼い女の子をかかえて、一人で身を立てようとしたとき、常は、混血の女医、楠本イネを思い出しはしなかったでしょうか。
 これから幸せになるはずだった妹の、あまりにも早すぎる産褥死も、十分な動機になりうるでしょう。
 そして、離婚の前年、明治18年には、常より三つ年上の荻野吟子が、苦難の末、女性で初めて、国が施行する医師開業試験に合格し、正式に医者になっていたのです。

 当時まだ、女性が医者になるために、学ぶ場は少なかったのですが、後に初めての女子医学学校を東京に設立した吉岡弥生の例からしまして、明治20年代には、済生学舎(日本医科大学の前身)が女性を受け入れていましたし、また、荻野吟子はじめ、開業試験に合格した最初の三人の女性は、とりあえず、産婆を養成する紅杏塾で学んだといわれます。
 紅杏塾は、東京医学校(現在の東大医学部)の最初の卒業生・桜井郁次郎が開いていたもので、産婆学校とはいえ、物理学化学、解剖・生理・病理の基礎も教えていて、明治16年には東京産婆学校と名をかえ、19年にはアメリカへの女子留学生も送り出していました。

 実は、磯野計は、明治28年8月から翌29年5月まで、起業当初からの部下だった「広瀬角蔵」を同道して、事業拡張のため欧米諸国を巡遊しています。森有礼夫人・広瀬常の謎 前編で藪重雄の養子先を検討してみましたように、「広瀬」だけで決めつけるのは危険なんですが、あるいは、常と福子姉妹の若い親族だった可能性がなきにしもあらず、ではないでしょうか。
 そして、常がもし、明治31年からグラスゴウ大学に籍を置いたモリ・イガだとしますと、それ以前にいたサンフランシスコのクーパー・カレッジ入学は、計の欧米行きに同行して明治28年9月だったと考えれば、時期がぴったりなんです。
 計はこのころ手広く事業をやっていまして、サンフランシスコにももちろん、創業以来のなじみの取引先があります。
 そしてなにより、グラスゴウには、リチャード・ブラウンがいました。

 ブラウンはスコットランド系のイギリス人で、商船の船長として明治2年に来日し、前回書きました灯台局のお傭い外国人となり、7年間、灯台船舶長を務めました。その間の明治7年、征台において、輸送を約束していました英米船舶が参加を禁じられ、大久保利通と大隈重信は、急遽、グラバーの協力を求めて蒸気船を三隻買い求め、それを三菱商会に託して、指揮はブラウンに任せ、兵員と物資の輸送をやりおおせました。これが、先に述べました、三菱商会が海軍業で大きくなる最初のきっかけだったのです。
 その後ブラウンは、新設の海運局で航海に関する規則制定に尽力し、大久保が民営海運保護育成政策をとったのに呼応して、三菱商会に入社します。入社後は、三菱商船学校(東京商船大学の前身)を設立して商船員の養成に務め、また船舶修理や造船にもつながる三菱横浜製鉄所の設立、グラスゴウの造船所からの船舶購入にも活躍し、しかも西南戦争においては、全面的に政府に協力して、三菱商会飛躍に大きく貢献しました。
 日本の海軍業におけるブラウンの業績は大きく、前述しました経緯で日本郵船が誕生しましたとき、ブラウンは理事格で迎え入れられます。

 明治22年、ブラウンは帰国を決意して退社しますが、そのとき、グラズゴウ在日本領事に任命され、親日家として、生涯日本との関係を保つのです。
 帰国後のブラウンは、グラスゴウで日本領事を務めながら、日本育ちの長男とともに、日本郵船と東京海上保険の代理店を運営します。
 計は、ブラウンが日本にいたときから親しくしていて、帰国したブラウンと協力して、明治屋とは別に、機械や鉄材を扱う輸入商社・磯野商会を起こすに至りました。
 磯野家とブラウン家の関係は長く続き、計の死後、遺児・菊子と結婚して磯野家に養子に入った長蔵も、そしてその息子も、グラスゴウへ長期修業に出かけ、ブラウン家に滞在したといいます。

 で、あれですね。残る問題は、「常夫人は、ほんとうにロンドンで不倫をしたのか?」ということなのですが、離婚理由としては、やはり、それ以外には考えられない気がするのです。
 そしてむしろ、養女に出されました高橋安が、その結果生まれた混血の女の子であればこそ、常は安のために一人立ちを志し、グラスゴウ大学医学部に留学するまでのがんばりを見せたのではないのかと、そんなふうにも思えるのです。
 しかし、なぜ不倫をしたのかという話になりますと、これはもう完璧に妄想の世界ですし、森有礼という人物を男としてどう見るか、という、独断と偏見のオンパレードになりそうです。
 私、実像を考える、なぞという柄にあわないことをしまして、欲求不満がたまりにたまりましたので、次回、番外編で、思いっきり、常と有礼の結婚を妄想します。

 ところで、ネットで見ましたところ、このシリーズの最初に触れました植松三十里氏の「美貌の功罪」は、どうも「辛夷開花」と名を変え、9月に単行本として出されるみたいですね。楽しみに待ちたいと思います。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上

2010年08月25日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 中編の続きです。
 
 このシリーズは、森本貞子氏の小説「秋霖譜―森有礼とその妻」が、どこまで常夫人の実像を反映しているのか、というお話です。
 これも、鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることなのですが、下の本ですでに、森本氏は「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」という推測をされていまして、またこちらは常夫人が主人公ではないだけに、かなり事実に即した書き方をされています。
 前々回、「常夫人と森有礼の離婚は、記録の上で明治十九年十一月二十八日」と書いたのは、下の本によるのですが、基の資料は、木村匡著「森先生傳」であろうと思われます。
 
女の海溝―トネ・ミルンの青春 (1981年)
森本 貞子
文藝春秋


 常夫人に関しては、わずかな資料しかないのですが、その一つが、1972年発行、大久保利謙編、森有礼全集の伝記資料です。
 まず、森有礼と有礼の甥・横山安克の戸籍に、常、および「青い目」と噂された常の娘・安が出てきます。これらの戸籍の実物を、森本氏が森家のご子孫のご協力を得てさがされたそうなのですが、見つからなかったといいます。

(森有礼戸籍)
 妻 常 安政二年七月生 東京府士族廣瀬秀雄長女
 長女 安 明治十七年十二月八日生 明治二十年五月七日仝町士族横山安克養女トナル

(横山安克戸籍)
 養女 安 明治一七年十二月八日生 當県士族森有禮長女
 明治二十年五月七日仝町百十一番仝居ヨリ入籍
 明治二十年九月十九日東京府南豊島郡原宿村貳百九拾六番戸
 平民高橋尊太郎江線女(ママ)



 森有礼全集の伝記資料には、明治8年2月6日に行われた、有礼と常の結婚式の資料もあります。
 二人の結婚式は、もちろん有礼の発案なんでしょうが、東京府知事・大久保一翁を立会人としたシビルウェディングです。
 福沢諭吉を証人とする婚姻契約書をはじめ、招待状、新聞記事などが集められています。そのうち、二人の年齢がわかります契約書冒頭部分が、以下です。

 現今十九年八ヶ月ノ齢ニ達シタル静岡縣士族廣瀬於常同二十七年八ヶ月鹿児島縣士族森有禮各其親ノ喜許ヲ得テ互ニ夫婦ノ約ヲ為シ今日即チ紀元二千五百三十五年二月六日即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ婚式ヲ行ヒ約ヲ為シ双方ノ親戚明友モ共ニ之ヲ公認シテ茲ニ婚姻ノ約定ヲ定ムル■ 左ノ如シ

 
 結婚から間もないと思われる、有礼から常に宛てられた手紙で、有礼は常を「春江」と呼んでいますが、戸籍も結婚契約書も「常」ですから、あるいは愛称のようなものであったかもしれません。
 また常は、安政2年(1855)7月生まれで、明治8年(1875)2月に19歳8ヶ月というのは、ほぼあっていますから、戸籍の生年は正しく届けられたものと思われます。厳密にいえば、常の実際の生まれ月は7月ではなく、5月ではないか、ということになりますが。
 ところが、開拓使女学校の記録は、少々ちがうんですね。
 
 えーと、ですね。常の実像について述べるならば、開拓使女学校時代の資料を調べるべきなんですが、適当な論文がありませんで、実物は北海道ですし、さっぱり見てません。で、一応、小説ではなくノンフィクションということで、近藤富枝氏の「鹿鳴館貴婦人考 」からの引用です。

 宿所    第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門
 拝命入校  壬申(明治五年)九月十八日同十月十九日
 本貫生國  静岡県武蔵
 年齢    明治六年九月、十六年四ヶ月


 戸籍からいけば、明治6年9月には18歳になっているはずで、二つほど年を若くしていますが、これは、開拓使女学校の入学条件が、13歳から16歳までだったからだと思われます。

 (追記)通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)に開拓使女学校の記述がありましたので、以下、少々書き直します。
 開拓使女学校の生徒募集は、東京と北海道でしか行われていません。明治6年、開拓使女学校在籍者55人のうち、27人までが開拓使官員の縁故。当時、北海道開拓使5等出仕だった大鳥圭介の娘もいます。
 で、どうも、開拓使官員の娘以外では、北海道出身者がほとんどだったみたいです。なにしろ、北海道洋式開拓のための女学校だったんですから。
 しかし、広瀬常の父親は開拓使官員名簿には名前が無いそうで、常の場合は、そのどちらにもあてはまりません。

 開拓使については、鹿鳴館のハーレークインロマンス薩摩スチューデント、路傍に死すで、ちょっと触れた程度だったと思うのですが、簡単に言ってしまいますと、「ロシアに備えて、北海道をアメリカ風に開拓しよう!」と薩摩閥がはじめたことでして、しかし、薩摩の洋務官僚は外務畑などに多くがとられていましたので、大鳥など、抗戦した旧幕府系の者を多数かかえたんですね。元新撰組もいたりしますから、かならずしも西洋知識に明るい者ばかりではなかったんですが、主には、そうです。
 
 常の本貫が静岡県で生まれが武蔵ならば、幕臣の娘だったことは確かです。
 宿所の住所は、ネットで調べてみましたところ、大洲藩(加藤)の江戸藩邸が現在の御徒町台東中学校にあり、上野広小路に面した現在の松坂屋本館と南館の間から中学校(大洲藩邸)へ向いて行く小道を、青石横丁と言ったらしいですね。御徒町と通称される地域で、小さな屋敷が並び、旗本というよりは、御家人が多く住んでいたようです。
 推測でしかないのですが、おそらく常の母方などの縁戚に、開拓使関係者、それも洋学に関係した新興幕臣がいたのではないのでしょうか。
 いずれにせよ、明治5年の段階で、父親が開拓使の役人でもなく、北海道在住でもありませんのに、常が年齢のさばをよんでまで、洋学を教える、授業料のいらない学校に入学した、ということは、です。広瀬家が女子教育に熱心で、常自身も向学心に旺盛で、しかし維新によって貧しくなっていた、ということはいえそうです。
 前回出てきました妹の福子なんですが、元治元年(1864)生まれ。常とは10近く年が離れています。そして福子が通った横浜海岸女学校といえば、青山学院の前身の一つで、宣教師が経営していた女学校なんですが、学費は必要で、常が森有礼夫人となり、経済的に余裕ができた結果だと思えます。

 開拓使女学校時代に、常は森有礼と知り合い、結婚に至るわけでして、その結婚の動機は、常の生き方にかかわってきますし、森有礼との関係は、ロンドン時代の不倫の有無にもつながっていくんですが、憶測、妄想をまじえずに語れる話ではなく、それについては稿を改めまして、もっとはじけて書きたいと思います。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。

 清生誕当時、森有礼は特命全権公使として清国にいました。一時帰国した後、常夫人と清をともなって北京に赴任し、明治11年3月4日、常は北京で次男・英を出産します。北京での公使の生活は欧米式ですし、おそらく、なんですが、英を取りあげたのは欧米人ドクターだったのではないか、と思います。
 英誕生まもなく、森は帰国し、本国勤務となります。

 ところで、森有礼の屋敷について、全集の伝記資料解説から。
 有礼が常と結婚式をあげたのは、木挽町の自邸の豪壮な西洋館でした。
 ところが、ですね。築地精養軒(日本初の本格的な西洋料理屋です。仕出しもしました)を背にしたこの敷地、どうもかなりの部分が、東京商法講習所設立を目的として、東京会議所から借用していたものだったようなのですね。結局、有礼はこの件から手を引き、西洋館は東京会議所に寄付し、新しい屋敷が必要となりました。
 有礼の清国勤務の間、常の父・秀雄が、森家の執事のような役目をして、新しい屋敷を準備したのですが、これ、麹町区永田町1丁目14蕃地の5千坪にわたる大邸宅で、もちろん母屋は西洋館です。調べましたところ、現在の国会議事堂敷地の一部のようです。
 常夫人の日本における活躍は、実は、明治11年半ばから12年にかけて、有礼の短い本国勤務中が、もっとも華やかであったようです。12年の8月28日には、有礼が自宅で、アメリカの元大統領グラント将軍を迎えての晩餐会を催し、常はホステスを務め上げています。

 えーと、全文書き上げましたところが、文字数が多すぎるそうでして、急遽、後編を上下にわけることにしました。
 区切りがいいので、ここで切り上げ、森有礼夫人・広瀬常の謎 後編下に続きます。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 中編

2010年08月18日 | 森有礼夫人・広瀬常
 森有礼夫人・広瀬常の謎 前編の続きです。
 
 鹿鳴館のハーレークインロマンスですでに書いていることですが、私が森本貞子氏の「秋霖譜―森有礼とその妻」に感激しましたのは、「女の海溝―トネ・ミルンの青春 」以来、長年、森本氏が常夫人の実像を求められた、その情熱です。
 そして、もう一つ。当初から森本氏の姿勢が、定説をくつがえす史料を発掘することだった、ということもあります。
 従来、森有礼と離婚してからの常夫人については、「精神に異常をきたしたらしい」というような噂があり、森家にはまったく消息がのこされていないことから、「零落してひっそりと果てたのでは?」というような見方が一般的でした。
 そこへ、森本氏は、最初の一石を投じられました。

スコットランドと近代日本―グラスゴウ大学の「東洋のイギリス」創出への貢献
北 政巳
丸善プラネット


 北政巳氏は、明治、日本の近代化に多大な影響を及ぼしたスコットランドの経済史がご専門です。
 上の本は、昭和59年に発行されました「国際日本を拓いた人々―日本とスコットランドの絆」と内容が重なっていまして、明治時代からグラスゴウ大学に留学した日本人についての章があるのですが、中にただ一人、女性が在籍していたことを紹介されています。
 時期は、明治31年(1898)から翌32年。医学部病理学の専修過程です。

 明治、グラスゴウ大学に留学した日本人は多いのですが、そのほとんどが工学系です。
 といいますのも、明治初期、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など、近代的インフラを担当する工部省を握ったのは長州閥でしたが、日本人技術者を養成するために工部学校(後の東大工学部)を設けることになりました。そこへ招かれたのが、グラスゴウ大学を卒業したばかりのヘンリー・ダイアーです。
 えーと、ですね。こういった工学系の技術は、確かに産業基盤の整備に必要なものですが、国防、軍備にも直結します。
 もうこれは、私のこのブログの主要テーマともいえますが、幕府は、横須賀製鉄所の運営をフランス人にゆだねることによって、造船、製鉄、灯台など、海防にかかわる部分の工学は、フランスからの導入をはかろうとしていました。

 これには、理由がなくもないんです。
 幕末。そもそもの始まりは、近代海軍の導入でしたし、つきあいが長くて日本の事情を熟知している、ということから、当初はオランダが相手でした。
 しかし、やがて陸軍近代化の必要も悟ってきますし、列強各国からの売り込みも激しく、当時のオランダはすでに小国になっていて、系統立てた近代技術の導入先としては役不足でした。
 当時の世界の最強国は、イギリスです。
 ところがこのイギリス、産業革命の先端をきって、近代産業国としても世界一だったにもかかわらず、です。工学系の実学は軽視されていて、系統立てて学ぶ場が、整備されていなかったのです。いえ、おそらくこれは、先端をきっていたから、なんでしょう。実学は、もともとは職人の学問ですし、上に立つ文系エリートさえしっかり教育していれば、後は民間に任せて自由な発展を、といったところです。
 以前に書きましたが、グラバーの世話だった薩摩の密航留学においても、工学系の学問をめざしていた中村博愛、田中清洲(朝倉)の二人は、はロンドンで適当な学校を見いだせず、モンブラン伯爵の世話でパリに移ったんです。
 といいますのもフランスは、もともと中央集権化が極度に進んでいましたので、土木技術者なども官僚化していたのですが、産業革命に遅れをとっていたところに革命が起こって、産業と経済はますます荒廃し、テルミドールの後、イギリスに追いつけで、エコール・ポリテクニークを創設し、国策として軍事に役立つ工学系実学を盛り立てていたんです。これには、中流商工階層が台頭し、実学が軽んじられなくなった、という、革命のプラスの効用も、もちろんあります。

 一方、これも以前に書きましたが、薩摩に一歩先んじてイギリスに渡っていた長州の密航留学生・山尾庸三は、伊藤博文と井上馨の帰国後、薩摩からの留学生たちに出会い、カンパしてもらって、スコットランドのグラスゴウへ、造船を学びに行きます。
 実のところ、イギリスの産業革命を技術的にささえたのはスコットランドだった、といっても過言ではないんです。
 スコットランドは独立性が高く、イングランドにくらべて後進的とされていましたが、それだけに独自の気風が育っていて、実学を重んじていました。
 わけても当時のグラスゴウは、産業都市として大きくなってきていて、技術職人が働きながら学べるアンダーソン・カレッジ(現在のストラスクラウド大学)という新興の市民学校があったんです。薩摩藩留学生とちがって、藩から十分な留学資金をもらっていなかった山尾は、造船所で働きながら、このアンダーソン・カレッジの夜学に通いました。

 山尾が帰国してからの話は、一応、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol4の最後に簡単に書いたのですが、つけ加えますと……、といますか、訂正しますと、伊藤博文がトップに立ち、実質的に山尾がしきった工部省は、徐々にフランス人技師をイギリス人に入れ替え、技術導入先をイギリスに切り替える方策をとり、燈台設置に関しては、早々とそれを成し遂げます。
 ただ、造船に関しては、当時のフランスの小型軍艦の技術には見るべきものがあり、かなり後々まで、フランスとイギリス(スコットランド)と、並行して残りました。そして、日本人技術者を養成する工部学校には、山尾が学んだスコットランドのグラスゴウからヘンリー・ダイアーを迎え入れ、基本的な技術導入先はイギリス、という路線が確定するんですね。
 グラスゴウのアンダーソン・カレッジは、一般大衆を対象とした市民学校でしたが、優秀な者は伝統あるグラスゴウ大学への進級が可能で、ヘンリー・ダイアーは、山尾と同じ時期に、やはり働きながらアンダーソン・カレッジの夜学で学び、非常に優秀であったためグラスゴウ大学入学を認められ、そこでまた最優秀といえる評価を得ていた、若手の工学博士でした。

 これはおそらく、なんですが、18世紀末のエコール・ポリテクニーク創設で、フランスがリードしていた理工系エリート教育は、フランスの国力低下とともに、19世紀後半、民間産業の活力が上昇して結晶した形でようやく体系づけられてきたイギリスに、その先端の地位をゆずったのではないんでしょうか。
 明治日本の近代技術導入は、フランスに似た国家主導型でしたが、それだけに、どこが導入先としてふさわしいか、には敏感でしたし、またイギリスの自由貿易最盛期に理工系教育の隆盛を誇ったグラスゴウ大学土木・工学科は、この明治初期、ちょうど海外留学生の積極的な受け入れを推進してもいました。

 そんなこんなでして、明治、日本からグラスゴウ大学への留学生は、そのほとんどが工学系なのです。
 医学での留学は非常に珍しく、北政巳氏の調査で、二人しかいません。
 そして、その一人が、明治31年から2年間在籍した、モリ・イガという女性でした。
 といいますのも、明治日本は「医学はドイツから」という方針でして、官費留学生をはじめ、ほとんどの医学生が、ドイツに留学していたんです。
 しかしこの当時はまだ、欧州においても、女性に門戸を開いている大学は珍しかったのですが、グラスゴー大学はこの面でも先進的で、女性専用の寄宿舎を設けて積極的な受入を行っていましたし、医学教育は、エジンバラ大学の伝統を受け継ぎ、非常にすぐれてもいました。

 さて、森本貞子氏は、この北氏の調査から、「グラスゴウ大学医学部に留学していた日本人女性モリ・イガは、離婚後の常夫人ではないか?」と、推測されたんですね。
 モリ・イガは、「年齢は34歳。日本での住所は、東京芝。出身校はサンフランシスコのクーパー・カレッジ(スタンフォード大学医学部の前身)。父の名前はエマ(ユマとも)で、職業は医者」、一見、離婚後の広瀬常とは共通点が少なそうなのですが、森本氏は、「この当時、常は43歳だが、日本女性が年齢を若く届けるのはよくあることで、43歳を反対にすれば34歳。当時の日本では、離婚すれば広瀬姓にもどるが、欧米ではそのまま夫の姓を名乗ることもあった。また父の名の「ユマ」は「有礼」の音読みに通じる。届け出た住所は、開拓使女学校時代の常の親友の家のもの」と考え、当時、グラスゴウ大学に留学できるほどの語学力を持った日本人女性がそれほどいるわけはない、ということから、推測されたんですね。
 「モリ・イガ」の素性は、北氏の調査でもさっぱり判明していませんで、私は、これについては、森本氏の推測に、かなりの可能性があるのではないか、と思っています。

 森本氏は、「秋霖譜―森有礼とその妻」執筆にあたって、もう一つ、従来知られていなかった、常夫人にまつわる確かな史料を発掘されました。
 「常夫人の妹、福子は、明治屋の創業者・磯野計に嫁いで、娘・菊子を残している」というんですね。
 これは、事実です。
 昭和10年、磯野計没後、遺児の菊子と結婚して磯野家に養子に入った磯野長蔵が、竹越與三郎著「磯野計君傳」という伝記を発行していまして、戦後、明治屋がそれを復刻しているんですが、以下の節があります。引用です。

 「磯野君は、明治十八年十二月幕府の旗本広瀬氏の第三女福子嬢を迎へて夫人とした。夫人は元治元年十二月生まれであるから、此時二十一才であった。多分その媒酌人は森有礼君がロンドンで公使であったときその下に書生であり、後に領事となった宮川久次郎君であったであらうと思ふ。夫人は幼児から外国宣教師の建てた横浜海岸女学校で新教育を受けたものである。森有礼君が曾て伊藤博文公などをその邸に招待したとき、頻りに女子教育の必要を説いたことがあるが、伊藤公は森君に対し、君は頗る女子教育に熱心であるが、女子に教育を授けても、見るべきほどのものが出来るかと冷評するに対し、森君は席末に居た福子嬢を麾きて、伊藤公の傍に立たしめ、新教育を受けし婦人は、此の如き才媛であると示したほどであつて、その才学の評判が高かった」

 「旗本広瀬氏の第三女」としか書かれていませんが、これだけ森有礼が身近に出てくるのですから、これは常夫人の妹である、と断定してまちがいないでしょう。
 で、あるならば、です。離婚後の常夫人についても、磯野計の援助は当然あっただろう、と推測できますし、「グラスゴウ大学で医学を学んだモリ・イガは常夫人では?」という仮定も、非常に現実味をおびてくるんです。
 にもかかわらず森本氏が、そちらの方面の可能性を追求されず、不確かな藪重雄離婚原因説にこだわられましたのはなぜなのか、と不思議なんですが、おそらく、従来の「不倫の果てに離婚された性格の弱い女性」という常夫人像と、「グラスゴー大学で最先端の医学を学ぶ強い女性」という新たなイメージが、森本氏にとっては乖離するものであり、不倫を否定なさりたいあまり、だったのではないか、と思ったりします。

 次回後編、「常夫人の妹は磯野計に嫁いでいた」という事実から、離婚後の常夫人がグラスゴウ大学医学部で学んだのではないか、という可能性を追求して、結びとします。


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森有礼夫人・広瀬常の謎 前編

2010年08月14日 | 森有礼夫人・広瀬常
 唐突ですが、現在、ちょっとまじめに、森有礼夫人・広瀬常の実像の謎を追っています。
 したがいまして、鹿鳴館のハーレークインロマンスと、アウトローがささえた草莽崛起の続き、ということになります。

 ネット上で知ったのですが、去年から今年の春にかけて、静岡新聞夕刊に、植松三十里氏が、広瀬常を主人公に『美貌の功罪』という小説を連載されたようです。本になっているわけではないですし、読めていないのですが、著者ご本人がブログで述べておられることや、読まれた方の感想をもとに推測しますと、これはどうも、従来からある説を元に書かれたもののようです。
 従来からの説といいますのは、「森有礼の最初の妻・広瀬常は、公使夫人としてイギリス在住時、あるいは帰国後の鹿鳴館時代に不倫をして、青い目の子を産み、離婚にいたった」ということです。ただ従来説では、「開明的すぎる森有礼に常夫人はついていけず、性格が弱くて不倫に走った」というような、どちらかといえばマイナスの評価が多かったのですが、植松氏は、常の外交官夫人としての苦悩に焦点をしぼり、知的な像を描き出しているようではあるのですが。
 私がもっとも気に掛かりましたのは、植松氏は、同じく常夫人を主人公とした森本貞子氏の小説が、従来説をまっこうから否定していることを、まったく意識しなかったのだろうか、ということです。


秋霖譜―森有礼とその妻
森本 貞子
東京書籍

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 上の本における森本氏の提起は、こうです。
 「常夫人は、不倫をしてはいないし、青い目の子を産んでもいない。森有礼との離婚の理由は、広瀬夫人の実家に養子に入って義兄弟となった広瀬重雄が、自由党激派に属し、政府要人暗殺を企てた静岡事件に関与して罪人になったためである」


 鹿鳴館の劇的な色恋スキャンダルが、実は深刻な政治劇だった……とは、仰天です。
 小説とはいえ、森本氏は、かなりきっちり史料にあたっておられるようで、検索をかけてみますと、森有礼に関する論文でも話題にのぼるような提起だったようです。
 しかし、どこまでこれが事実であったのかは、どうも史料不足で確定できないのではないのか、という感触もありまして、まあ、最初に話題にしたときにも、疑問は並べてはおきました。
 ただ、当時、自由民権檄派事件を引き起こした藪重雄が、広瀬家に養子に入り、常夫人の義兄弟となったこと自体は、疑っていなかったんです。それについては、森本氏が断定的な書き方をなさっていましたし、この事実がなければ、成り立たない小説なのです。
 しかし、改めて読み返してみますと、なんと!!!、あとがきには以下のようにあったんです。

 「常の実家広瀬秀雄家については懸命の調査にもかかわらず戸籍もなく、一家の墓もない。しかし藤枝市役所には静岡事件と関係のある藪家と広瀬家が親類の間柄であるとの戸籍が現存していたのであった」

 「藪家と広瀬家が親類の間柄」という表現は、微妙です。なにか手がかりはないのかと、さがしました。
 

自由民権運動の研究―急進的自由民権運動家の軌跡 (慶應義塾大学法学研究会叢書 77)
寺崎 修
慶應義塾大学出版会



 寺崎修氏の上の本には「広瀬重雄 静岡事件を中心に」という章がありまして、ごく短いのですが、重雄の経歴が載っています。
 これによれば、藪家の除籍謄本が静岡県藤枝市に残っているそうなのですね。
 藪重雄は、安政6年(1859)、幕臣の家の次男として江戸麹町三番町に産まれ、慶応2年(1866年)、16歳年長の兄・藪勝が家督を相続していることがわかるのだとか。しかしどうも、この除籍謄本には、重雄が常夫人の父である広瀬秀雄の養子に入ったと書かれているわけでは、なさそうです。
 寺崎氏は、重雄が「広瀬家」の養子になったことは書いておられるのですが、その広瀬家が森有礼の岳父の家だとは一言も書いておられず、であるならば、森本氏の断定には、実は根拠があるわけではないのではなかろうかと、疑念がわきます。
 じゃあ、森本氏がいわれる「藪家と広瀬家が親類の間柄」とはなになのか、ということなのですが、これは森本氏の小説P253-4に見えます「重雄には四つ年上の姉・つるがあり、幕臣・広瀬滝蔵家の養子・義正の妻となった」という部分ではないのか、と思うのです。本文中に、広瀬滝蔵家の戸籍は残っている旨、書いておられますし。しかし、同じ幕臣の広瀬姓といいましても、果たしてこの滝蔵家と、森有礼の岳父・秀雄の家と、親しかったかどうかは謎ではないのか、と思われます。

 寺崎氏の論文で見るかぎり、藪重雄が広瀬姓になったについてわかることは、新聞紙上に広瀬姓で重雄が登場する時期からして、原口清氏が「明治11年頃のことではないか」と推定なさっている、ということのみです。

 (追記)原口清氏の「明治前期地方政治史研究〈下〉 」(1974年)を、図書館で見てきました。
 重雄が広瀬家に養子に入ったについての資料は、飯田事件の際の公訴状の以下の部分です。「被告実家ハ姓ヲ藪ト称シ、元ト東京麹町富士見町ニ居住セリ。被告出デテ広瀬家ニ養子トナリ、同家ヲ相続セリ」
 原口氏によれば、重雄は明治11年に広瀬家を相続したと推測でき、そうだとすれば、このとき、重雄は19歳なんだそうです。
 うわっ!!!!! これって、要するに徴兵逃れですね。そりゃあ、元旗本の家の子が一兵卒にはなりたくないですわね。だとすれば、便宜的に跡取りのない家に籍を入れただけ、かもです。
 あと、この本で、重雄と「広瀬家」のかかわりを見ることができるのは、明治19年2月19日付の警察の報告書です。「広瀬重雄ハ、 去ル十四日着京、四谷区四谷鮫ヶ橋南町六番地広瀬政良方ニ止宿ノ旨当地通ニ越セリ」とあるんですけど、四谷鮫ヶ橋って、ものすごい貧民街だったみたいなんです。これが養子先と関係ありだとすれば、ますます常夫人の実家とは関係なさそうで、これから少々、以下の文章を書きかえます。


 そして、この明治11年です。
 藪家の静岡での住まいは、旧田中藩(四万石)、現在の藤枝市にありました。
 田中藩主は本多家でしたが、江戸城明け渡しの後、徳川宗家が駿府70万石となって移封されるにつき安房に移されたのですが、藩校日知館は、どうもそのまま、移住してきた幕臣の手に移って運営され、その後、どうも養正舎という小学校になったらしいのですね。
 藪重雄はこの養正舎で教育を受け、卒業の後、小学校教師に採用されます。しかし、小学校教師の職にあきたらなくなったのでしょうか。
 明治10年から12年にかけて、重雄は東京に遊学し、共慣義塾と、広瀬範治の私塾で学びます。
 共慣義塾というのは、南部盛岡藩主が明治になって、人材育成のために東京に作った英学塾です。重雄より三,四歳年上の原敬や犬養毅も一時学んだ、といいますから、当時、東京で評判の英学塾だったのでしょう。原敬は盛岡の出身ですが、犬養毅は岡山の人です。藩外からの入塾も盛んであった反面、かなりの学費がかかったようです。

 さて、問題は、「広瀬範治の私塾」です。
 重雄が明治11年ころに広瀬家の養子となり、ちょうどその時期に広瀬範治の私塾で学んでいたのだとしますと、この広瀬範治は重雄の養子先となにか関係があるのだろうか、と推測するのが普通です。
 やはり森本氏も、なさっているのです。なさっているのはいいのですが、ここで、大きな勘違いをされています。
 なにが勘違いかって………、森本氏は、重雄の姉が嫁いだ広瀬滝蔵家の養子が、上京して四谷鮫ヶ橋(鮫河橋)に住んでいたことなどから、「広瀬範治の私塾」とは幕臣広瀬氏一族がはじめた私塾で、その中心人物が広瀬範治。重雄は、範治の教えを受けながら、この私塾で子供たちに教えていた、となさり、「広瀬範治は幕臣の広瀬氏」と断定しておられるんです。
 ちがいます!!!!!

 えー、インターネットは便利です。広瀬範治で検索をかけると、すぐに出てきました。
 広瀬範治とは広瀬青邨のことなんです!!!! つまり広瀬淡窓の養子であって、九州豊前の出身です。
 幕臣じゃありません!!!!!
 かんがくかんかく(漢学感覚)というサイトさんが詳しいのですが、個人ブログは信用がならないという方は、近デジで、「広瀬青邨」で検索をかけてみてください。明治40年発行の「大分県偉人伝」と明治43年発行の「先哲百家伝」に、小伝が載っています。
 広瀬淡窓の咸宜園は、大村益次郎や長三洲が学んでいた幕末九州の超有名漢学塾で、広瀬範治は淡窓の養子になって塾主を務めたのですから、新政府に知人は多いのです。誘われて奉職していましたが、明治10年に官職を辞し、東京神楽坂で私塾「東宜園」を開いたんです。
 重雄は、幕末以来の名声を慕って、超一流の漢学塾で学んだのであり、貧民街で元幕臣の親戚が細々とやっていた私塾なんかじゃないんです。
 また広瀬青邨(範治)は、ついこの2年前の明治8年には、咸宜園門下で岩手県令となった島惟精に推挙され、岩手県に奉職しています。つまり、岩手県の南部藩主が主催して名声を得ていた英学塾・共慣義塾を重雄に紹介したのも、広瀬青邨であった可能性が高いのです。
 
 これって、どうなんでしょうか。
 広瀬青邨の妻子については、さっぱりわからないのですが、あるいは重雄が養子になった広瀬家とは、青邨に関係した可能性も、ありえるんじゃないんでしょうか。
 もっとも、重雄の姉が幕臣の広瀬家に嫁いでいるそうなのですから、その関係で幕臣広瀬家の養子に入った可能性ももちろん高いのですが、それが広瀬秀雄、つまり森有礼の岳父の家であったとは、根拠のない想像にすぎないのではないのか、と思えます。
 つけくわえます。
 徴兵逃れのための養子だったとすれば、養子先が元幕臣の親戚である可能性は高まりますが、常夫人の実家だった可能性は、ゼロに近いのではないでしょうか。だいたい、公訴状で「広瀬家を相続した」となっているんですから、すでに戸主の死亡した家に養子に入ったようですし。

 そして……、もし仮に重雄が常夫人の義兄弟になっていたとしましても、そのことが常夫人と森有礼の離婚理由にはなりえなかったのではないのか、とも思えるのです。
 これは、偶然以外のなにものでもないのですが、常夫人が「青い目」と噂された女の子を産んで離婚にいたるまでの日々は、重雄が激化事件にかかわって逮捕された時期と、ぴったりと重なっています。
 記録の上からいって、「青い目」だったかもしれない女の子・安の出生は、明治17年(1884)12月8日です。近藤富江氏は、鹿鳴館貴婦人考 (講談社文庫)において、「実際の誕生日は、それ以前かも知れない」としておられますが、これはおっしゃる通りでしょう。
 「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、イギリスに公使として赴任していた森有礼と常夫人は、この年の4月14日に帰国。常夫人は、6月12日から鹿鳴館で開かれたバザーには出席していますので、すでにイギリスで妊娠していて、6月末から12月8までの間に出産した、ということになりそうです。

 重雄は、安出生とされる日の前日、明治17年12月7日、逮捕されます。飯田事件、名古屋事件の関係者と接触し、政府転覆の挙兵について話し合っていた、というのです。結局、この件では、証拠不十分で無罪となりますが、翌18年10月27日、判決が出るまで獄中にいました。
 重雄が再び逮捕されたのは、19年の6月12日です。予審が始まるのが9月で、公判は翌20年の7月。このときの裁判記録で、重雄は広瀬姓ではなく、藪姓にもどっています。
 森有礼と常夫人の離婚は、書類上、19年の11月28日です。

 えーと、です。要するにこれって、偶然以上の意味が果たしてあるのだろうか、ということなんです。
 重雄が、例え常夫人の義兄弟になっていたとしましても、です。養子なんですから、養子縁組を解消すれば、それで終わりです。事実重雄は、静岡事件によって縁組解消に至っていますし、これが離婚理由になどなるのでしょうか? 
 だいたいこの時期、西南戦争関係者はまだ大赦を受けていませんで、全員が国事犯です。政府の中枢にいる薩摩閥の要人で、国事犯の親戚を持たない者の方が、珍しかったでしょう。

 もう一つ、これは前々からの疑問なんですが、森有礼と伊藤博文の関係についても、森本氏は勘違いなさっています。「伊藤が森の能力を認めて文部大臣に起用したのは、森のイギリス公使時代(明治15年)に欧州へいったときのことで、森は伊藤に深く恩を感じていた」となさっているのですが、伊藤と森の縁は、もっと早くからありました。
 岩倉使節団の宗教問題 木戸vs大久保で書きましたが、岩倉使節団アメリカ訪問時、伊藤は森に心酔して、親分の木戸孝允との関係をこじらせるほどだったんです。木戸は森を嫌いぬいていまして、この直後、駐米公使(正確には初代少辮務使)を辞した森は、教育行政に携わることを望むのですが、木戸の反対で実現せず、大久保利通のはからいで外交畑にとどまります。
 重鎮の木戸、大久保亡き後、維新当初から外交に携わった薩摩出身の寺島宗則が条約改正に失敗して外務卿を辞任し、伊藤は後任の外務卿に盟友の井上馨を起用し、それと同時に、森有礼はイギリス公使に任じられているんです。当時のイギリスはアジア外交を牛耳っていた世界一の大国で、条約改正にイギリス公使が果たす役割は最重要です。つまり伊藤は、岩倉使節団以来、藩閥を超えてずっと森の能力を買っていたわけで、森の方はといえば、政治力こそありませんが自負心は強く、伊藤が能力を買ってくれることは喜んでいたでしょうが、恩にきて恐れ入るような玉ではありません。
 
 まあ、そんなわけでして、私はいま、「秋霖譜―森有礼とその妻」の最大のテーマに懐疑的なんですが、森本貞子氏は、他にも常夫人の実像に迫る史料を提示してくださっていまして、次回以降、それを検討してみたいと思っています。


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鹿鳴館のハーレークインロマンス

2007年01月22日 | 森有礼夫人・広瀬常
『秋霖譜 森有礼とその妻』

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これまで、たびたび出てまいりました、薩摩幕末イギリス留学生の森有礼。
江戸は極楽である に写真を載せておりますが、とても濃ゆいお顔立ちです。
実は、このお方は、日本で最初に西洋風の結婚式を挙げたといわれています。その時の相手、最初の妻は、幕臣の娘で広瀬常。
このお常さん、イギリスの駐日外交官、アーネスト・サトウが「美しい」と日記に書き残すほどの美貌で、鹿鳴館の花でもあったんですが、その鹿鳴館時代に、青い目の子供を……、つまり、いくら森有礼が外国人のような人だったとはいえ、生粋の日本人、薩摩隼人ですから、不倫をして外国人の子供を産んだという噂が立ち、そして実際、その後まったく人前に姿を現さなくなって、そのまま離婚に至っているんですね。
それで、以前にもバロン・キャットと伯爵夫人 でご紹介しました、近藤富江氏の『鹿鳴館貴婦人考』では、それが事実であったように書かれていました。その子供が女の子で、幼児のうちに養子に出されていることは、森有礼全集収録の戸籍から明白なんです。
 「安」と名付けられたその子は、当初は有礼の兄の一家・横山家の養子、ほどなく原宿村の平民で、森家とはまったく血縁のない家にもらわれ、高橋安となりました。もしも不倫の子でなかったのであれば、ここまでするのは不自然です。
 山田風太郎氏もまた、その「事実」を元に、『エドの舞踏会』の中の一編を書かれています。

 もう20年以上前のことです。私は、この青い目の子を産んだというお常さんの生涯に、とても関心を持ちました。
なにかに、夫森有礼のイギリス公使時代、公使夫人として過ごしたロンドンで、洋装で子供を抱いているお常さんの写真が載っていたのですが、しっくりとドレスを着こなしながら、どこか寂しげで、そして、たしかにとても美しい女性でした。ただ、現在発行されている『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』においては、その私が見た写真はお常さんのものではなく、同時期にロンドンにいた総領事・園田孝吉の婦人のものだとされています。だとすれば、お常さんの写真は現存していないこととなり、やはり、有礼がすべて破棄したわけなのでしょう。

 ともかく、です。『勝海舟の嫁 クララの明治日記』には、森有礼夫人であった時代の現実のお常さんが登場し、身近に感じられて、想像が、といいますか、妄想が、でしょうか、どんどんひろがっていく感じでした。
クララの明治日記の著者、クララ・ホイットニーの父親は、商法講習所の教師として、森有礼に招かれ、明治8年、一家をあげてアメリカから日本へ渡ってきたのです。後にクララは、勝海舟の息子と結婚し、別れて、アメリカで子供たちを育てますが、日本に来た当初からしばらくの少女時代、克明に日記をつけていて、常夫人のドレスまでもが、細かく描写されていたりするんです。

そんな風にお常さんが気になっていたとき、巡り会ったのが、森本貞子氏の『女の海溝 トネ・ミルンの青春 』でした。
後のトネ・ミルン、堀川トネは、西本願寺函館別院の住職の娘として生まれ、イギリスから政府のお雇い外国人として招かれていた地震学者のジョン・ミルンと知り合い、結婚します。明治28年、トネは帰国する夫に従い渡英。夫の死後まで、イギリスで暮らした女性です。
で、どこに常とトネの接点があるかといえば、開拓使女学校なんです。
開拓使とはなんぞや、といいますと、蝦夷、つまり北海道を開拓するための役所なんですが、ロシヤの南下を危惧していた明治新政府は、明治3年に薩摩の黒田清隆に樺太の視察を命じます。すでに樺太にはロシアの移民が入っていて、危機感を抱いた黒田は、開拓使長官となり、北海道開拓のために、さまざまな策を講じるのです。
開拓といえば、当時めざましかったのは、アメリカの西部開拓です。それを見習うべく黒田は、同じ薩摩出身でアメリカにもいたことのある森有礼に、意見を聞いたらしいのですね。
それで出てきたのが、地質学者など、アメリカから専門家を招き、北海道の殖産興業の可能性をさぐることと、もう一つは、開拓のための人材を育てることです。
一見、迂遠なようでもあるのですが、森は黒田に女子教育の必用も説き、有名な津田梅子など、5人の少女のアメリカ官費留学が実現するのですが、明治5年、東京芝の増上寺に設けられた開拓使仮学校(後に札幌に移す予定だったので仮学校と呼ばれました)には、女学校も併設され、授業料は官費で賄われることになりました。
静岡にいた常、函館にいたトネは、請願し、選ばれて、この開拓使女学校で学ぶことになったんです。同級生でした。
森本貞子氏は、トネの生涯を描きながら、常にも目を向けられ、他の本ではあまり触れられていなかった開拓使女学校時代の常の災難や、有礼と離婚後の常の手がかりを、掘り起こされていたのです。
災難とは、40になる開拓使お雇いアメリカ人鉱山技師のライマンが、常と結婚したい、と望んだことでした。どうやら、その常を助けるために、森有礼が結婚を申し込んだようなのですね。
森本貞子氏も、このときは、有礼夫人となった常が、青い目の不倫の子を産んだ末に離婚されたらしいことを、否定はなさっていませんでした。ただ、「モリ・イガ」と名乗る謎の日本女性の学籍簿を、スコットランドのグラスゴー大学医学部で見つけられ、これが離婚後の常ではないか、とされていたのです。モリ・イガの出身地は東京芝、つまり開拓使女学校のあった場所になっていて、ハワイを経て、カリフォルニアのクーパー・カレッジを卒業、そして、グラスゴー大学となっていました。

これでもう、私の妄想はかぎりなくひろがり、ついに、その青い目の女の子を主人公に、ハーレイクインロマンスを書くにいたりました。いま見てみれば、赤面ものの内容なんですが、そのころサンリオが募集していたロマンス賞に応募して、一応、佳作だったかにはひろわれ、わずかながら賞金もいただいたものです。
あー、アールヌーボーの時代で、衣装やアクセサリーを書くのも、楽しかったんです。
母を訪ねて何千里、ってやつだったんですが、お常さんのほかに、実在の人物で登場するのは、津田梅子ととともにアメリカに留学し、帰国後に大山巌夫人となって、やはり鹿鳴館の花とうたわれた、会津出身の山川捨松。
それにもう一人、森有礼とともに幕末の薩摩藩留学生だった長沢鼎です。長沢鼎は、最年少だったため、森のようにロンドンで学ばず、ただ一人、スコットランドのアバディーンにあるグラマースクールに入学しました。彼の場合、西洋人になりきってしまった、とでもいうのでしょうか、江戸は極楽であるで書きました宗教家ハリスに、心底共鳴して、吉田たちがハリスのもとを離れ、森と鮫島が帰国した後もハリスのもとに残り、ハリスの片腕となります。
後にハリスは、カリフォルニアで大きな農園を開きますが、長沢はその経営の中心になり、ハリスの死後は遺産を受け継いで、ワイン王と呼ばれる富豪になったのです。
明治末年のことです。日本海軍の練習艦隊が、サンフランシスコに入港しました。その艦隊には、長沢を送り出したとき藩主だった島津忠義の息子、忠重が、士官候補生として乗り組んでいたのですが、長沢は馬車を仕立てて迎えに出て、自宅に迎え入れるときには、門前に土下座して、周囲を驚かせました。
モリ・イガという女性が、カリフォルニアからスコットランドへ向かっているとなりますと、森有礼との関係からしましても、これは長沢鼎が世話をしたのではなかろうか、と、私は想像したんですね。

ところで先日、森有礼の伝記をさがしていまして、検索をかけていたら、この本『秋霖譜 森有礼とその妻』が出てきて、驚きました。森本貞子氏ではないですか! モリ・イガが本当にお常さんなのかどうか、青い目の女の子がどうなったのか、さらに事実を掘り返されたにちがいない、と、わくわくどきどき、さっそく買い求めたのです。
そして……、なんと、有礼とお常さんの離婚の原因は、どうやら、青い目の不倫の女の子ではなかったんです。
広瀬常は、旗本の娘でした。瓦解の後、静岡に移り、しかし父親には職が無く、常の開拓使女学校入学を機会に、一家で東京へ舞い戻ったのです。広瀬家には、常と妹の福の女の子二人で跡取りが無く、心細く思った父親が、同じ幕臣の養子を迎えるのです。その養子が、自由民権運動の活動家で、静岡事件を引き起こし、伊藤博文の命を狙ったというので、有礼が激怒し、離婚となったというのが、どうやら真相のようなのです。
少女だったお常さんが、瓦解により、江戸のお姫様暮らしから、突然、他人の好意にすがらなければ満足に食べるものもないような静岡での暮らしに突き落とされ、開拓でもするしかないと一家で移り住んだ場所が、現在の藤枝市のあたりだったというのも、私にとっては感慨深いものでした。藤枝市には、現在身内が住んでいて、去年も訪れたばかりです。
また常の妹の福は、明治屋の創業者、磯野計の妻になっていたりもしまして、娘を残しましたので、そこにわずかながら、常の面影が伝えられていた、というのも意外でした。

事実は小説より奇なり、といいますか、ほんとうに驚きました。
鹿鳴館の時代、大山巌夫人の捨松も、「馬丁と浮気をして離婚の危機に陥っている」といったような噂につつまれます。しかし、久野明子氏の『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』を見ますと、そんなことがありえる状況ではなかったようです。
常夫人の青い目の不倫の子も、それと同じように、根も葉もない中傷だったようなのですが、ではなぜ、常夫人が産んだ上の男の子二人は森家にとどまったにもかかわらず、最後の女の子だけが養子に出されたのか、謎は残りますし、私はやはり、森有礼が常夫人のその後を気にかけて、長沢鼎に頼んだ、という説を捨てきれません。
森本貞子氏は、榎本武揚など、旧幕臣の外務官僚たちの力添えであった、としているのですが、その部分は、確かな根拠のなさそうなことではありますし。
なんにせよ、20年の歳月を経て、森本貞子氏がお常さんの実像を追求し続けておられたと知ったことは、ちょっとした感動でした。


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