広瀬常と森有礼 美女ありき4の続きです。
えーと、いまごろになって、開拓使女学校に関する論文をみつけました。北海道大学の開拓使仮学校の設立経緯と、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)で、双方、開拓使仮学校の一部として女学校を扱っているだけですので、そう詳しいわけではないのですが、特に後の通史が、おもしろいです。
すごいじゃないですか。衣食住ほとんど開拓使もちで、文房具から日傘、雨傘、駒下駄、髪結い料、シャボン、香水、ハンカチーフまで支給され、散歩料という名のお小遣いが出たんだそうなんです。
いったい、これ、なんなんでしょ?
津田梅子や後の大山巌夫人・捨松や、開拓使がアメリカへ送り出した女子留学生5人もそうなんですが、いったい、なんのための女子教育なのか、さっぱりわからなくないですか?
どうも、ですね。イメージとして、良家の子女(下級士族や名主などの家の娘)が、大名屋敷の奧女中になり、花嫁修業として教養を身につける、その教養に、です。英語やら欧米知識を加えた、といった感じがします。
いや、別に高い教養を身につける花嫁修業がいけないというんじゃないんです。ただ、そうやって高い教養を身につけた良家の子女が、北海道開拓者の嫁になるでしょうか? 開拓使高官の嫁、というなら、またちがうかもしれませんが。
「開拓使仮学校の設立経緯」の方を見ますと、北海道開拓のための学校の原案は、お雇いアメリカ人アンティセルが練り、すでにその中に、女学校が含まれていたことがわかります。で、その原案といいますのは、教養学校ではなく実用学校で、科目が明治初年の日本の実情にはさっぱりあってませんが、目的としては、手に職をつけさせるためのものでした。それを日本側が「結婚後、母親として自身の子どもを教育する時のための素養を身につけさせる」ための学校と規定し、科目を変更したんですね。
この「良妻賢母女子教育」は、有礼の持論です。明治7年(1874)11月、常とのシヴィルウェディングの3ヶ月ほど前に、有礼が明六雑誌第20号に発表しました「妻妾論ノ四」は、そういう内容でして、有礼の女子教育観がわかります。どうも私、西洋知識がどーのこうのよりも、男勝りの孟母・里さんの影響を、強烈に感じます。
明治元年(1868)、ハリス教団を出た有礼と鮫ちゃんは、6月には京都へ到着します。9月、大久保利通とともに東京へ行き、有礼が新政府でもらった仕事が、当初は「学校取調兼勤」です。おそらく、なんですが、このころから有礼は、教育行政に携わりたかったのではないでしょうか。
しかし、新政府において数少ない洋行経験者ですから、各方面でひっぱりだこな反面、22歳と若いですし、ただでさえエキセントリックなところへもってきて、ハリス教団で特異な体験をしてきたばかり。翌2年、公義所議長心得となって「廃刀自由令」を提出し、猛反発をくらうんですね。
これは、有礼にはちょっと気の毒な背景もあります。「フランス艦長の見た堺事件」によりますと、維新直後の京都において、薩摩藩主・島津忠義は、「藩士にそうしてもらいたい」と望んで、廃刀の手本になっていた、というんですね。堺事件をはじめ、外国人殺傷事件が続いておりました中、堺事件の当事者でしたフランスの艦長が、そう述べているんです。京の薩摩藩邸にはモンブランが政治顧問としていたんですから、藩主の廃刀で、騒ぎになったりすることはありえません。
なにしろ薩摩では、藩主がそうしているんです。有礼が廃刀を軽く考えても、これは仕方がなかったんじゃないだろうか、と思います。
で、有礼は辞職し、明治2年7月に薩摩へ帰って、翌3年、英学塾を開きます。薩摩では洋学熱が高まっていまして、有礼の塾は盛況。塾生が多すぎて、自分の勉強をする暇がないのが不満だったようです。
ところで、そうこうしている間に、東京へ出た兄の横山安武は、政府批判の割腹自殺をします。
またこの時期、種子島士族の娘・古市静が塾生となったようですが、なって間もなく、有礼は外務省から呼出を受けますので、静が有礼の私塾にいた期間は、ごく短いみたいです。この静さん、洋学に目覚めたきっかけというのが、慶応4年(1867)に眼病治療のため父と長崎へ行ったときに、薩摩辞書を編纂していた前田正名と知り合ったことだった、というのですから、ちょっとびっくり、です。
鮫ちゃんと有礼は、日本が海外へ送り出す最初の日本人駐在外交官となりました。鮫ちゃんは普仏戦争最中の欧州へ、有礼はアメリカへ、20代半ばという若さで、日本を代表する少弁務使(代理公使)としての赴任です。鮫ちゃんは、イギリスでは拒否され、フランスに落ち着きます。何度か書きましたが、イギリスの外交官は官僚ではなく、貴族かジェントリーの子弟が自腹をきって奉仕するものでして、まあ世界の一等国イギリスとしましては、公使をよこすなら、せめて大名の一門とか、名門で、なおかつ経験豊かな年輩の者をよこせ、ということなんですね。
しかし、手探りで外交デビューする日本側にしてみましたら、条約改正問題もありますし、日本のお殿様は通常、「よきにはからえ」で大人しく祭られていることをよしとしていて、イギリスの貴族のように英才教育を受けてリーダーシップがとれるようには育てられていませんし、海外事情もなにもさっぱりわからないでは、手探りのしようさえないわけなのです。それでイギリスには結局、名門の条件は満たしていませんが、幕末からの外交経験を買われて、寺島宗則が赴任することになります。
明治4年(1871)初頭、ワシントンに到着した有礼は、鮫島とちがって、すんなりと受け入れてもらえます。当時のアメリカは、まだまだ若い国でした。で、2月になって、開拓使をアメリカ式に運営するために、留学生4人を伴った黒田清隆が、ワシントンの有礼のもとへ姿を現します。犬養孝明氏の「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、このとき黒田は、「ハリスって、ずいぶん変な世迷い言を言い散らす人らしいね。最初はすばらしく神聖な教えかと思い、すぐに実は迷信だと気づく代物だとか。ワハハハハ」と、大笑いしながら言ったそうなんですね。
えー、黒田にこの話をした人物は、かなりの確率で、吉田清成でしょう。
清成は前年の12月、有礼と入れ違いにアメリカを発ち、黒田が出発する直前に、帰国していました。生まれて初めてアメリカへ渡ろうという黒田が、薩摩出身でそのアメリカから帰ってきたばかりの清成に、話を聞かないはずがありません。清成は、鮫ちゃんとともに最初にハリスにはまり、絶好状をつきつける形で教団を後にし、同じく教団を出たにしましても、おだやかに別れを告げた畠山、松村とはちがっていましたから。黒田を介してのこの悪口も、江戸は極楽であるで書きました翌年の清成との大喧嘩に、油をそそいだ、かもしれませんね。これを書いた当時から、いろいろと知ることがありまして、私の二人に対する見方も、かなり変わってきてはいるんですけれども。
だから、ね、あなたたちっ!!! 「大理論畧」を、もう一度、よく読み返しなさいよ。「古ヨリ国家ノ危機ヲ生スルモノハ小理ニナツミ眼前ノ美ヲ美トシ悪ヲ悪トスルノ甚シキニ出サルハナシ」と、八田のじさまは、しめておられるじゃないですの。
話がそれましたが、ここで黒田は、開拓使に招くアメリカ人の選定から留学生の落ち着き先まで、すべて有礼の世話になり、で、有礼が黒田に女子教育の話ももちかけ、開拓使で女子留学生を出したり、女子学校を作るようなことも、スケジュールにのぼったらしいのですね。今回、詳しい話は省きますが、結局、有礼が一番やりたかったことは、最初から教育行政だったようなのです。
しかし、有礼は敵を作りやすい性格でして、岩倉使節団がアメリカにやってきましたとき、木戸孝允だけでなく、随行の文部官僚に嫌われまして、それはなかなかかなわず、外交畑にとどまります。薩摩閥の中から、代わりに教育畑に行きましたのが、木戸に気に入られました畠山義成です。
まあ、そんなわけで、明治6年(1873)、帰国しました有礼にとって、薩摩閥の黒田が長に座っています開拓使仮学校、わけても女学校は、けっこう気にかかる実験であったはず、なのです。
しかし、ですね。有礼はあくまで部外者ですし、アメリカで有礼が黒田に理想を語り、黒田が現場任せのやっつけで開校しました開拓使仮学校女子部が、です。いかに開拓使にそぐわない学校であったところで、有礼に責任があるわけではないのですけれども、なんともいえないちぐはぐさの一因は、こういった設立経緯にもありそうです。
有礼は、条約改正交渉では、海千山千大ダヌキの在日アメリカ公使デ・ロングにしてやられ、えー、今でもそうであったりするんですが、アメリカが派遣する公使(大使)は、大統領と仲がいいからとか、選挙で貢献してくれたからご褒美とか、そういう理由で知識も経験もない者が選ばれることが多々あります。このデ・ロング、相当にいいかげんな人物だったよーでして、まあ、ともかく、有礼はしてやられまして、また清成との大喧嘩で木戸はじめ岩倉使節団一行の顰蹙を買い、自ら代理公使をやめる、とわめき、しかし有礼でなけれできない用事もあり、しばらくアメリカに留まって、欧州まわりで帰国します。
欧州まわりの理由の一つは、そのころアメリカでその持論が流行っておりました、イギリスの社会学者・ハーバート・スペンサーに会って、日本の国作りに有益な意見を聞くためでした。まっ、小理は、さまざまに模索しませんと、ね。
余談ですが、このスペンサーじいさん、とてつもない面食いでした。若いころ、じいさんは、女流作家のジョージ・エリオットと結婚するのが自分の義務なのか、と煩悶したそうなのですが、鼻が長すぎて美人ではない!ので、義務ではないと判断したんだそーなんですの。
私、有礼は生来面食いであった、と決めつけておりますが、その点、スペンサーじいさんと意気投合したんだと思いますわよ。
えー、明治6年7月末、帰国しました有礼は、明治6年政変をよそごとに、といいますのも、まだよくは調べてないのですが、大隈重信の回想では、こちらもデ・ロングにひっかきまわされまして、有礼の所属する外務省の長・副島種臣が、征台と草梁倭館派兵に突っ走ろうとしたことをきっかけに起こったよーなものですし(明治6年政変と征韓論 明治4年参照)、傍観していますうちに、大久保利通が副島を追い出し、外務省はイギリスから帰国しました寺島宗則が掌握しまして、有礼はお咎めもなく、国内勤務で外務省にとどまることができました。
有礼は帰国直後、福沢諭吉など、主に旧幕洋行経験者を誘いまして、学者クラブ・明六社を立ち上げています。まっ、日本の国を啓蒙しようというわけなんですが、これを庶民向けだと思ってしまいますと、なんつー上から目線!と感じるんですが、クラブ発行の明六雑誌を読んでみますと、要するに学者クラブの雑誌ですから、国家官僚や官僚の卵、在野のインテリ向けです。
で、同時に有礼は、家を持ち、鹿児島から、両親と、すらりとした美少年に成長しました長兄喜藤太の遺児・有祐とその母・広を東京に呼びよせます。
そして、この明治6年末、鹿児島で有礼の私塾に通っていました古市静が、種子島から上京してきまして、森家に住み込んだ、といいます。
これは憶測なんですけれども、もしかしまして、孟母・里さんが、静を気に入ったんじゃないんでしょうか。「洋学熱心な薩摩おごじょ! 良妻賢母になりもっそ」というわけで。
えー、有礼がどう思ったか、ですって? そりゃあ、もう、有礼はとてつもない面食いですから(笑)。
実は、有礼と常がいつ出会ったかは、まったくわかってないんです。
しかし上記のように、有礼が開拓使女学校に関心をもたないわけがないですし、妄想をたくましくしますと、です。孟母・里さんから静さんとの結婚を勧められ、義務か、と煩悶し、実のところは単に「顔が気に入らない!」だけですのに、「神への愛を共有できる伴侶とは、魂がふれあうもの。ハリス教団で修業した身には、一目でピンと感じるはず。静さんにはそれがない! 教養を高めようと開拓使女学校で学んでいる少女ならば、もしかして」と、物色しに出かけた、かもしれませんわよ(笑)
そんなわけで(どんなわけやら)、明治6年末から明治7年前半にかけて、有礼は常を見初めたものと思われます。
次回、そのころ常が、どんな災難に見舞われていたか、というところから、お話を進めていきたいと思います。
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えーと、いまごろになって、開拓使女学校に関する論文をみつけました。北海道大学の開拓使仮学校の設立経緯と、通史. 第一章 開拓使の設置と仮学校(一八六九~一八七六)で、双方、開拓使仮学校の一部として女学校を扱っているだけですので、そう詳しいわけではないのですが、特に後の通史が、おもしろいです。
すごいじゃないですか。衣食住ほとんど開拓使もちで、文房具から日傘、雨傘、駒下駄、髪結い料、シャボン、香水、ハンカチーフまで支給され、散歩料という名のお小遣いが出たんだそうなんです。
いったい、これ、なんなんでしょ?
津田梅子や後の大山巌夫人・捨松や、開拓使がアメリカへ送り出した女子留学生5人もそうなんですが、いったい、なんのための女子教育なのか、さっぱりわからなくないですか?
どうも、ですね。イメージとして、良家の子女(下級士族や名主などの家の娘)が、大名屋敷の奧女中になり、花嫁修業として教養を身につける、その教養に、です。英語やら欧米知識を加えた、といった感じがします。
いや、別に高い教養を身につける花嫁修業がいけないというんじゃないんです。ただ、そうやって高い教養を身につけた良家の子女が、北海道開拓者の嫁になるでしょうか? 開拓使高官の嫁、というなら、またちがうかもしれませんが。
「開拓使仮学校の設立経緯」の方を見ますと、北海道開拓のための学校の原案は、お雇いアメリカ人アンティセルが練り、すでにその中に、女学校が含まれていたことがわかります。で、その原案といいますのは、教養学校ではなく実用学校で、科目が明治初年の日本の実情にはさっぱりあってませんが、目的としては、手に職をつけさせるためのものでした。それを日本側が「結婚後、母親として自身の子どもを教育する時のための素養を身につけさせる」ための学校と規定し、科目を変更したんですね。
この「良妻賢母女子教育」は、有礼の持論です。明治7年(1874)11月、常とのシヴィルウェディングの3ヶ月ほど前に、有礼が明六雑誌第20号に発表しました「妻妾論ノ四」は、そういう内容でして、有礼の女子教育観がわかります。どうも私、西洋知識がどーのこうのよりも、男勝りの孟母・里さんの影響を、強烈に感じます。
明治元年(1868)、ハリス教団を出た有礼と鮫ちゃんは、6月には京都へ到着します。9月、大久保利通とともに東京へ行き、有礼が新政府でもらった仕事が、当初は「学校取調兼勤」です。おそらく、なんですが、このころから有礼は、教育行政に携わりたかったのではないでしょうか。
しかし、新政府において数少ない洋行経験者ですから、各方面でひっぱりだこな反面、22歳と若いですし、ただでさえエキセントリックなところへもってきて、ハリス教団で特異な体験をしてきたばかり。翌2年、公義所議長心得となって「廃刀自由令」を提出し、猛反発をくらうんですね。
これは、有礼にはちょっと気の毒な背景もあります。「フランス艦長の見た堺事件」によりますと、維新直後の京都において、薩摩藩主・島津忠義は、「藩士にそうしてもらいたい」と望んで、廃刀の手本になっていた、というんですね。堺事件をはじめ、外国人殺傷事件が続いておりました中、堺事件の当事者でしたフランスの艦長が、そう述べているんです。京の薩摩藩邸にはモンブランが政治顧問としていたんですから、藩主の廃刀で、騒ぎになったりすることはありえません。
なにしろ薩摩では、藩主がそうしているんです。有礼が廃刀を軽く考えても、これは仕方がなかったんじゃないだろうか、と思います。
で、有礼は辞職し、明治2年7月に薩摩へ帰って、翌3年、英学塾を開きます。薩摩では洋学熱が高まっていまして、有礼の塾は盛況。塾生が多すぎて、自分の勉強をする暇がないのが不満だったようです。
ところで、そうこうしている間に、東京へ出た兄の横山安武は、政府批判の割腹自殺をします。
またこの時期、種子島士族の娘・古市静が塾生となったようですが、なって間もなく、有礼は外務省から呼出を受けますので、静が有礼の私塾にいた期間は、ごく短いみたいです。この静さん、洋学に目覚めたきっかけというのが、慶応4年(1867)に眼病治療のため父と長崎へ行ったときに、薩摩辞書を編纂していた前田正名と知り合ったことだった、というのですから、ちょっとびっくり、です。
鮫ちゃんと有礼は、日本が海外へ送り出す最初の日本人駐在外交官となりました。鮫ちゃんは普仏戦争最中の欧州へ、有礼はアメリカへ、20代半ばという若さで、日本を代表する少弁務使(代理公使)としての赴任です。鮫ちゃんは、イギリスでは拒否され、フランスに落ち着きます。何度か書きましたが、イギリスの外交官は官僚ではなく、貴族かジェントリーの子弟が自腹をきって奉仕するものでして、まあ世界の一等国イギリスとしましては、公使をよこすなら、せめて大名の一門とか、名門で、なおかつ経験豊かな年輩の者をよこせ、ということなんですね。
しかし、手探りで外交デビューする日本側にしてみましたら、条約改正問題もありますし、日本のお殿様は通常、「よきにはからえ」で大人しく祭られていることをよしとしていて、イギリスの貴族のように英才教育を受けてリーダーシップがとれるようには育てられていませんし、海外事情もなにもさっぱりわからないでは、手探りのしようさえないわけなのです。それでイギリスには結局、名門の条件は満たしていませんが、幕末からの外交経験を買われて、寺島宗則が赴任することになります。
明治4年(1871)初頭、ワシントンに到着した有礼は、鮫島とちがって、すんなりと受け入れてもらえます。当時のアメリカは、まだまだ若い国でした。で、2月になって、開拓使をアメリカ式に運営するために、留学生4人を伴った黒田清隆が、ワシントンの有礼のもとへ姿を現します。犬養孝明氏の「若き森有礼―東と西の狭間で」によりますと、このとき黒田は、「ハリスって、ずいぶん変な世迷い言を言い散らす人らしいね。最初はすばらしく神聖な教えかと思い、すぐに実は迷信だと気づく代物だとか。ワハハハハ」と、大笑いしながら言ったそうなんですね。
えー、黒田にこの話をした人物は、かなりの確率で、吉田清成でしょう。
清成は前年の12月、有礼と入れ違いにアメリカを発ち、黒田が出発する直前に、帰国していました。生まれて初めてアメリカへ渡ろうという黒田が、薩摩出身でそのアメリカから帰ってきたばかりの清成に、話を聞かないはずがありません。清成は、鮫ちゃんとともに最初にハリスにはまり、絶好状をつきつける形で教団を後にし、同じく教団を出たにしましても、おだやかに別れを告げた畠山、松村とはちがっていましたから。黒田を介してのこの悪口も、江戸は極楽であるで書きました翌年の清成との大喧嘩に、油をそそいだ、かもしれませんね。これを書いた当時から、いろいろと知ることがありまして、私の二人に対する見方も、かなり変わってきてはいるんですけれども。
だから、ね、あなたたちっ!!! 「大理論畧」を、もう一度、よく読み返しなさいよ。「古ヨリ国家ノ危機ヲ生スルモノハ小理ニナツミ眼前ノ美ヲ美トシ悪ヲ悪トスルノ甚シキニ出サルハナシ」と、八田のじさまは、しめておられるじゃないですの。
話がそれましたが、ここで黒田は、開拓使に招くアメリカ人の選定から留学生の落ち着き先まで、すべて有礼の世話になり、で、有礼が黒田に女子教育の話ももちかけ、開拓使で女子留学生を出したり、女子学校を作るようなことも、スケジュールにのぼったらしいのですね。今回、詳しい話は省きますが、結局、有礼が一番やりたかったことは、最初から教育行政だったようなのです。
しかし、有礼は敵を作りやすい性格でして、岩倉使節団がアメリカにやってきましたとき、木戸孝允だけでなく、随行の文部官僚に嫌われまして、それはなかなかかなわず、外交畑にとどまります。薩摩閥の中から、代わりに教育畑に行きましたのが、木戸に気に入られました畠山義成です。
まあ、そんなわけで、明治6年(1873)、帰国しました有礼にとって、薩摩閥の黒田が長に座っています開拓使仮学校、わけても女学校は、けっこう気にかかる実験であったはず、なのです。
しかし、ですね。有礼はあくまで部外者ですし、アメリカで有礼が黒田に理想を語り、黒田が現場任せのやっつけで開校しました開拓使仮学校女子部が、です。いかに開拓使にそぐわない学校であったところで、有礼に責任があるわけではないのですけれども、なんともいえないちぐはぐさの一因は、こういった設立経緯にもありそうです。
有礼は、条約改正交渉では、海千山千大ダヌキの在日アメリカ公使デ・ロングにしてやられ、えー、今でもそうであったりするんですが、アメリカが派遣する公使(大使)は、大統領と仲がいいからとか、選挙で貢献してくれたからご褒美とか、そういう理由で知識も経験もない者が選ばれることが多々あります。このデ・ロング、相当にいいかげんな人物だったよーでして、まあ、ともかく、有礼はしてやられまして、また清成との大喧嘩で木戸はじめ岩倉使節団一行の顰蹙を買い、自ら代理公使をやめる、とわめき、しかし有礼でなけれできない用事もあり、しばらくアメリカに留まって、欧州まわりで帰国します。
欧州まわりの理由の一つは、そのころアメリカでその持論が流行っておりました、イギリスの社会学者・ハーバート・スペンサーに会って、日本の国作りに有益な意見を聞くためでした。まっ、小理は、さまざまに模索しませんと、ね。
余談ですが、このスペンサーじいさん、とてつもない面食いでした。若いころ、じいさんは、女流作家のジョージ・エリオットと結婚するのが自分の義務なのか、と煩悶したそうなのですが、鼻が長すぎて美人ではない!ので、義務ではないと判断したんだそーなんですの。
私、有礼は生来面食いであった、と決めつけておりますが、その点、スペンサーじいさんと意気投合したんだと思いますわよ。
えー、明治6年7月末、帰国しました有礼は、明治6年政変をよそごとに、といいますのも、まだよくは調べてないのですが、大隈重信の回想では、こちらもデ・ロングにひっかきまわされまして、有礼の所属する外務省の長・副島種臣が、征台と草梁倭館派兵に突っ走ろうとしたことをきっかけに起こったよーなものですし(明治6年政変と征韓論 明治4年参照)、傍観していますうちに、大久保利通が副島を追い出し、外務省はイギリスから帰国しました寺島宗則が掌握しまして、有礼はお咎めもなく、国内勤務で外務省にとどまることができました。
有礼は帰国直後、福沢諭吉など、主に旧幕洋行経験者を誘いまして、学者クラブ・明六社を立ち上げています。まっ、日本の国を啓蒙しようというわけなんですが、これを庶民向けだと思ってしまいますと、なんつー上から目線!と感じるんですが、クラブ発行の明六雑誌を読んでみますと、要するに学者クラブの雑誌ですから、国家官僚や官僚の卵、在野のインテリ向けです。
で、同時に有礼は、家を持ち、鹿児島から、両親と、すらりとした美少年に成長しました長兄喜藤太の遺児・有祐とその母・広を東京に呼びよせます。
そして、この明治6年末、鹿児島で有礼の私塾に通っていました古市静が、種子島から上京してきまして、森家に住み込んだ、といいます。
これは憶測なんですけれども、もしかしまして、孟母・里さんが、静を気に入ったんじゃないんでしょうか。「洋学熱心な薩摩おごじょ! 良妻賢母になりもっそ」というわけで。
えー、有礼がどう思ったか、ですって? そりゃあ、もう、有礼はとてつもない面食いですから(笑)。
実は、有礼と常がいつ出会ったかは、まったくわかってないんです。
しかし上記のように、有礼が開拓使女学校に関心をもたないわけがないですし、妄想をたくましくしますと、です。孟母・里さんから静さんとの結婚を勧められ、義務か、と煩悶し、実のところは単に「顔が気に入らない!」だけですのに、「神への愛を共有できる伴侶とは、魂がふれあうもの。ハリス教団で修業した身には、一目でピンと感じるはず。静さんにはそれがない! 教養を高めようと開拓使女学校で学んでいる少女ならば、もしかして」と、物色しに出かけた、かもしれませんわよ(笑)
そんなわけで(どんなわけやら)、明治6年末から明治7年前半にかけて、有礼は常を見初めたものと思われます。
次回、そのころ常が、どんな災難に見舞われていたか、というところから、お話を進めていきたいと思います。
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