ちょっと、話が幕末を離れます。
実は仕事で、「新渡戸稲造の松山事件について書いてください」と頼まれ、すでに故人となられた地方テレビ局のプロデューサー・藤堂治彦氏の「五千円札とマツヤマ」という短いエッセイを、参考資料としていただきました。
新渡戸稲造は、平成16年(2004年)に樋口一葉にかわるまで、五千円札の顔でした。
その新渡戸稲造が、昭和7年2月に、講演旅行で松山に来ているんです。以下、引用です。
新渡戸は宿泊先の道後鮒屋旅館(現在のふなや)で新聞記者の取材をうけた。
「将来、日本を滅ぼすものは軍部、軍閥…」
翌日の朝刊にのったインタビュー記事、それに対する軍部の反応は早く、きびしかった。反国家思想の持ち主ときめつけ、軍や警察の監視、圧力がかかった。極右テロの標的にさらされる危険な情勢にまでなる。暗い、暗い時代だ。
新渡戸はこの事件で、公職を辞し野に下り、一民間人として、孤立化してゆく日本の国際関係の緩和につとめようと決意、その年の秋、アメリカに渡り、翌年カナダで客死する。無念だったに違いない。松山事件はまさに昭和史の暗部を象徴する事件だ。
だいたい私、昭和史には詳しくないですし、新渡戸稲造の松山事件なんて、まったくもって知らなかったのですが、「ちょっとこれ、おかしくないかい?」と思ってしまったんですね。
なにがおかしいって、新渡戸稲造は昭和7年当時、貴族院議員だったんです。それが、ですね。ちょっと新聞のインタビューで時勢批判をしたからって、公職追放になったりするはずがないんですね。
そりゃあ、極右テロっていうのは民間のテロリストがやることですから、いったいなにを考えて行動するかはわかりませんし、標的になることもありえたかもしれないんですが、それにいたしましても新渡戸は学者で、政治家ではないですから、生臭い権力とはあんまり関係がないですし、効果的なテロの標的ではありえないんですよねえ。テロリストも、世間への衝撃を考え、自分の命をかけてテロを起こすわけですし。
それでまず、一番手に入りやすかった下の本「余の尊敬する人物」を読んでみました。
余の尊敬する人物 (岩波新書 赤版 65) | |
矢内原 忠雄 | |
岩波書店 |
著者の矢内原忠雄は、愛媛県の出身で、一高、東大で新渡戸の教え子だった人です。
以下、引用です。
先生がジュネーブを辞して帰朝した時は六十五歳ですから、もう老境と言はねばなりません。それから五年経って、昭和六年(一九三一年)九月に満州事変が勃発しました。之は先生七十歳の年のことです。この年先生は四国の松山で一場の講演をしたことがあります。その中で、「日本を滅ぼすものは共産党と何とかだ」といふことを、例により口をすべらしたとかいふので、折柄満州事変で神経の尖っている方面ではこの一言を捕へて、激しき非難を先生に浴びせました。その頃先生は神経痛で築地のルカ病院に入院しましたが、之は攻撃を怖れて米国人経営の病院に逃げ込んだのだなどと悪声を放つ者もあり、骨節の荒い人々が数名先生の病床を取り囲んで、陳謝を強要したりしました。結局無事にすみましたが、一時はどうなる事かと心配されました。
その翌年(昭和七年)四月、先生は満州事変に対する認識を米国人の間に広める為めの使命を帯びて米国に渡り、各地の講演旅行をすること満一年、翌昭和八年三月一日帰朝しましたが、八月にはカナダのパンフに開かれた太平洋会議に日本側理事長として出席しました。この時病を得て、カナダのヴィクトリア市ジュビリー病院に入院し、遂に十月十五日(日本時間十六日)其処で客死したのです。
之は誠に悲劇的な死でありました。先生の渡米に対しては、軍部と妥協したのだとか、変節だとか、逃げたのだとか、いろいろ悪口が起りました。悪口とまでは行かなくても、先生の出所進退を怪訝に思ふ気持ちが、之まで先生に対し尊敬と好意を抱いていた人々の心にさへ浮んだ模様です。先生はこの為めにまた、従来米国人の間にもつていた幾人かの友人を失ひました。しかし之ら内外の友情の損失以上に、先生に取りて最も苦痛であったのは、おそらく先生自身の心境の整理であつたでせう。
新渡戸博士は前にも述べた通り、「太平洋の橋になる」志を抱いて東京大学へ入つたのです。その後米国に遊学し、米国人を妻とし、米国にて病を養ひ、最初の日米交換教授として渡米し、その他公私共に米国とは深き関係があり、並々ならぬ努力を日米親善の為めに払うたのです。それ故米国が一九二四年の移民法を通過させた時、先生は深く心に之をなげき、移民法の修正を見る迄は再び米国の土を踏まず、と決心したのです。この為めジュネーブの任満ちて帰朝する時も、わざと米国経由を避け、印度洋航路を選んだのでありました。その先生が、移民法は未だ修正せられざるのみか、満州事変以来対日感情の一層悪化した米国に向つて、自分から出かけて行く決心をしたのは、よくよくの事であったに相違ありません。世間の誤解や批難はまだ忍ぶことが出来るとしても、自分の良心を偽ることは新渡戸博士には出来ません。それならばどうして先生は自己の屈辱を忍んで渡米したのでありませうか。
日米間の友好関係が取り返しのつかぬほど悪化する危険を、先生は直感したのです。
こちらには、まず事実誤認があります。
新渡戸稲造の松山事件は、先に書きましたように、昭和7年2月のことでして、第一次上海事変の最中だったんです。また、新渡戸は講演で口をすべらせたのではなく、新聞記者の取材の席で、「日本を滅ぼすものは共産党と何とかだ」と言ったんです。
ですけれども、大筋で、矢内原氏がまちがったことを書いているとは思えませんし、だとすれば、問題になった新聞記事のインタビューで、新渡戸は軍部批判をしただけではなく、共産党も批判していたのですし、カナダで客死したときには、「太平洋会議に日本側理事長として出席」していたわけですから、公職を辞して渡米したわけでは、ないんですね。
私、必要を感じまして、事件が起こった時代背景を、ちょっと調べてみました。
結果、とてもじゃないですけれども、提示された文字数で気軽に書ける事件ではないと思い、また、ややっこしい歴史事件を載せる媒体でもないですし、松山事件は、はずすことを提案しました。
了承してもらいましたが、なんといいますか、つくづく、「これって、軍部がどうのこうのっていうより、まず、メディア(新聞)と政党がおかしいよねえ。普通選挙って怖いっ!!! 現代と変わらないねえ」と、痛感しまして、ブログに書くことにしました。
最初に、新渡戸稲造の略歴です。今回の仕事で、私がまとめたものです。
文久2年(1862) ー 昭和8年(1933)
農学者にして教育者。盛岡藩士の家に生まれる。札幌農学校から東京大学に進学。明治17年、私費でアメリカ留学し、札幌農学校助手となって、ドイツへ公費留学。帰国後、札幌農学校教授となり、要職を歴任。東京帝国大学教授になる。『武士道』(英語)の著者として国際的に知られ、大正9年の国際連盟設立に際しては、事務次長を務めた。
矢内原忠雄氏の記事中、「ジュネーブを辞して帰朝」といいますのは、大正15年(1926)、国際連盟事務次長を辞して帰国したことを指します。国際連盟の本部は、スイスのジュネーブにありました。
さて、松山事件です。
おそらく、下の本が、一番詳しいと思います。
晩年の稲造―共存共栄を説く (1984年) | |
内川 永一朗 | |
岩手日報社 |
内川永一朗氏は岩手日報の記者だった方で、農業担当だった時に新渡戸の功績に触れたことが研究に手を染めるきっかけになり、十数冊の著作がおありだそうです。
この「晩年の稲造―共存共栄を説く」を主な参考書に、県立図書館へ行き、当時の新聞三紙、海南新聞、愛媛新報、伊予新報の記事に直接あたりましたので、そこから導き出されました、私なりの事件の解釈を、書きます。
新渡戸稲造が国際連盟事務次長を辞する前年、大正14年(1925)のことです。日本において、男子の普通選挙法が成立しました。
そして昭和3年(1928)、その普通選挙法に基づく最初の衆議院議員総選挙(第16回)が行われました。当時の内閣は、軍人から政友会総裁に転身した田中義一(長州出身)が首相で、大規模な選挙干渉を行ったとされます。しかし結果は、与党政友会218議席、野党民政党216議席と、ほぼ拮抗していました。
この田中内閣、大蔵大臣は高橋是清で、金融恐慌は沈静化するのですが、外務政務次官の森恪(外務大臣は田中が兼任)が対外強硬派で、満州におきます張作霖爆殺事件の始末が不適切で、昭和4年(1929)に総辞職します。また田中内閣は、貴族院とは敵対的で、新渡戸は貴族院議員でしたし、国際協調派ですので、政友会とは相容れなくなっていました。
後を受けて組閣しましたのは、民政党の濱口雄幸です。
濱口は、貴族院議員を多く入閣させました。外務大臣も、貴族院で、国際協調派の幣原喜重郎男爵。
昭和5年(1930)2月の第17回衆議院議員総選挙では、濱口率いる民政党が単独過半数の273議席をとって、政友会に圧勝。ロンドン海軍軍縮会議に若槻元総理を首席全権として派遣し、条約締結にこぎつけて、同年に批准しました。
要するにこの時期、ごく簡単に言ってしまいますと、対外強硬姿勢の政友会と国際協調姿勢の民政党、二大政党が衆議院で争い、交代で組閣していたということになります。
ロンドン海軍軍縮条約につきましては、海軍内部の反対があり、国家主義運動が活発化してそれにからんだことは確かですが、なにしろ海軍の軍縮なのですから、海軍首脳部が承認でまとまりさえすれば、それですむ問題でした。
ところが政友会は、この国際外交問題を政争の具にして、倒閣をねらい、ひそかに統帥権の干犯を唱えて、軍部をたきつけてまわっていました。総裁の犬養毅は、臨時党大会で、「政府がロンドン条約案に関し軍令部の同意なくして全権に対し回訓を発したることは明らかに統帥権干犯である」と演説しています。
しかし、与党民政党にとって、なにより痛かったのは、ライオン宰相と呼ばれて国民に人気があった濱口雄幸首相が、東京駅で、玄洋社系右翼団体の党員に撃たれ、重傷を負ったことです。ロンドン条約批准直後のことで、いわば政友会の煽りに乗った犯行でした。
濱口が入院している間、幣原が臨時代理を務め、昭和6年(1931)1月に、濱口は退院して復帰しますが、体調はすぐれず、それを政友会(鳩山一郎が中心だったといわれます)が、執拗に議会への出席を求めて、再入院。四ヶ月後に死去しています。
濱口内閣の後を引き受けたのは、同じ民政党の若槻内閣(第二次)です。外相は続いて幣原です。
この昭和6年には、満州で事件が相次ぎました。
6月の中村大尉殺害事件に続き、7月には万宝山事件と、満州の無法が際だつ事件が起こります。
そして9月には柳条溝事件。関東軍の自作自演といわれています満州鉄道爆破事件です。これを理由に関東軍は軍事行動を起こし、中央の命令もなく、朝鮮にいた日本軍が越境出動します。
中華民国が、国際連盟に提訴し、日本政府は、事変の不拡大方針を宣言します。
しかし若槻は、陸軍の暴走を止めることができず、十月には陸軍少壮幕僚の軍閥・桜会によるクーデター未遂事件もあり、民政党のみの内閣だから軽んじられることになるのだろうかと、政友会との連合を模索します。
とはいいますものの、内政、外交ともに方針がちがう政友会との連合には、閣内に大きな反対があり、若槻内閣は総辞職しました。
後を継ぎましたのは、政友会の犬養毅内閣です。
政友会は、衆議院で少数派ですから、多数を得て国民の信任を背景にしたいと、昭和7年(1932)1月、解散総選挙に打って出ます。
ほぼそれと同時に、第一次上海事変が勃発しました。
新渡戸稲造が松山を訪れましたのは、その直後なんです。
「晩年の稲造―共存共栄を説く」によれば、執拗に新渡戸排斥キャンペーンを繰り広げたのは、海南新聞一紙です。
海南新聞は、愛媛新報、伊予新報など他の地元紙とくらべて、とびぬけて有力で、愛媛県下ではよく読まれていました。
それが、2月5日に新渡戸来松のインタビュー記事を載せた後、6日、7日の社説で新渡戸攻撃をくりかえし、7日の夕刊では松山連隊の副官にインタビューし、新渡戸非難、社説擁護談話をとっています。さらに8日の朝刊一面では、二人の一般人の読者投稿を取り上げ、激しく新渡戸非難をくりひろげているんです。
内川永一朗氏は、「海南新聞が軍部に迎合して」というようなことで、そのあんまりにも執拗な攻撃の理由を片付けておられるのですが、私は、それにしましては奇妙すぎる、と思ったんです。
実は、昭和44年(1969)の伊予史談に、中村宏氏の「新渡戸稲造博士の松山談話事件1」という論文が収録されておりまして、ものすごい誤植のおかげで、どれがどの新聞の記事なのか、わけがわからない論文になってしまっているのですが、マイクロになっています新聞紙面(欠けあり)とくらべてみますと、海南新聞、愛媛新報、伊予新報の新渡戸来松インタビュー記事をちゃんと収録してくれています。読んでみますと、同じインタビューをもとにしたはずが、三紙三様、相当にちがう記事になっているんです。
いったい、「海南新聞のみが執拗に新渡戸攻撃をくりかえしたのはなぜか」、と考えてみまして、私、「選挙ではないのか」という結論に達しました。
といいますのも、海南新聞は、政友会と縁が深いんです。このときの衆議院選挙にも、海南新聞関係者の岩崎一高(コトバンク岩崎一高)が、政友会公認で立候補していました。
愛媛県選挙管理委員会の衆議院議員選挙の歩みを見るとわかるのですが、この当時の衆議院は中選挙区で、愛媛一区は定数三人。岩崎一高は、初の普通選挙だった昭和3年に政友会から立候補し当選。このとき愛媛一区は、政友会が三議席独占しています。
そして、昭和7年2月3日付けの海南新聞二面記事によりますと、昭和5年の政友会は与党ではなかったため二人しか候補を立てず、岩崎は公認立候補に至らなかったようです。翌4日の記事は、与党になり、再びの三議席独占を狙います政友会から、岩崎一高の公認立候補が決まったと報じているのですが、政友会候補3人のうちで、一番落選の可能性が大きいともされています。
新渡戸稲造の来松記事は、民政党の若槻総裁の上海事変談話発表と、重なっています。
若槻は、元老の西園寺公望と会談した後、大阪へ向かう列車の中でインタビューを受け、それが配信されて、2月5日の記事となったのですが、海南新聞は、一面ながら目立たない最下段に「事件拡大は極力避けよ」という見出しで、載せています。
一方、愛媛新報は二面の上段に、若槻の写真入りで「国民は空景気に迷てはならぬ 上海は早く解決したい」という見出しで載せていまして、どうも、紙面を見る限り、なんですが、愛媛新報は民政党支持、といった印象を受けます。
同じ配信を元にした記事と思われ、本文の内容は両紙、ほぼ同じです。
大阪を振り出しに、選挙遊説をする予定の若槻は、「選挙の主題は金の再禁止を中心とする経済問題。外交問題、特に対支(シナ)問題についてこの際政府の遣方について批判を避けたい」と言っています。
愛媛新報は、このおだやかな若槻談話記事のすぐ隣に、「犬養首相は資本家の傀儡? 金の為めには同志を売った過去の政治生活を見よ!!」というものすごい見出しの独自関連記事を載せていますから、どう見ても、反政友会、親民政党姿勢なんですよねえ。
そして愛媛新報は、同日の四面に、新渡戸の来松インタビュー記事を載せているんですが、「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」という大見出し、そして、「軍閥擡頭の反面に左傾分子 莫大な軍事費は国民の負担」という小見出しです。
一方の海南新聞は、「共産党と軍閥が日本を危地に導く」の大見出しに続いて、「上海事件に関する当局の声明は全く三百代言式だ」という小見出し。
政友会にも民政党にもそれほど関係がなさそうな伊予新報の新渡戸記事は、といいますと、「平和の戦争」という大見出しに、 「軍事的勝利は救ひでない」と小見出し。本文中に「現在の日本を亡ぼすものは軍閥と共産党だ」とあるんですが、すぐ続いて、「戦争がさかんになれば共産党が反動的に必ず勢を増す。そこで日本の危機を招来するといふようなことを日本の軍人は少しも考えないでワイワイ騒ぐんだ、刻下の問題として日本の国では、共産党より軍閥の方が危険だ」と説明があります。
いったいどの新聞記事が、新渡戸がしゃべったことにもっとも近いのか、それはわからないのですが、海南新聞が大見出しにして、しかも後で大攻撃しました「共産党と軍閥が日本を危地に導く」という言葉は、愛媛新報も表現を変えて、「軍閥擡頭の反面に左傾分子」と小見出しにしているわけですから、そういった趣旨の発言があったことは、確かなんでしょう。
なぜ軍閥が擡頭すると左傾分子が増えるのか、愛媛新報は本文で「今度のばく大な軍事費は当然国民の税の加重となる」という新渡戸の発言を載せて、説明しています。
ただ、内容を言いますならば、海南新聞は突出して、詳しい本文記事を載せています。
例えば、愛媛新報が「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」と大見出しにして、しかしでは、犬養内閣の外交のどこがだめなのかといえば、具体的に書いていないのですが、具体的に言いますならば、海南新聞の小見出し「上海事件に関する当局の声明は全く三百代言式だ」ということに、なるのではないか、と思えます。
実は新渡戸稲造は当時、大阪毎日、東京日々新聞の顧問をしていまして、「晩年の稲造―共存共栄を説く」によれば、なのですけれども、あまりに海南新聞の新渡戸攻撃が激しかったため、大阪毎日新聞の松山支局記者・曽我鍛が動き、インタビュー当時の状況を取材して、擁護記事を書きました(えー、私、毎日新聞までは調べきれませんでした)。
それによりますと、海南新聞の記者はインタビューの場に遅れて来たあげくに、オフレコで、という前提で新渡戸がしゃべったことまで記事にした、というんです。
そういわれてみますと、「当局の声明は全く三百代言式」なんぞといいます批判は、日本政府が海外に向かって発した声明の批判になってしまいますから、オフレコでなければ言わなかったことではないのか、と思うんですね。
海南新聞がかちんときましたのは、愛媛新報が「犬養内閣の猪突外交 全く土台を崩壊さす」と、政友会内閣批判に、新渡戸インタビューを利用したことじゃなかったでしょうか。
実際、対外強硬路線で、倒閣のために、統帥権干犯を唱えて軍部を煽ってきました政友会を、新渡戸はうとましく思っていたでしょうし、海南新聞としましては、国際的に著名な貴族院議員が、自社が応援する政友会の外交をけなすとは、選挙の最中だけに、許せないことだったのでしょう。
政友会を擁護し、そして同時に、岩崎一高に在郷軍人会票を、というもくろみが、海南新聞にはあったのではないかとまで、つい疑ってしまいます。
民主党の鳩山由起夫元首相は、政友会の鳩山一郎の孫です。
普天間基地代替施設移設問題で大混乱を巻き起こしました孫は、軍縮条約を政争の具にしてしまいました祖父を思い出させますし、海南新聞は今の愛媛新聞なんですが、前回の衆議院選挙では、民主党にはやたらに甘かったよなあ、と。
歴史は、くりかえすんですよねえ。
なお、ですね。
このとき新渡戸稲造が泊まっておりました道後の鮒屋は、江戸時代から続く宿屋さんで、幕末、土方久元の日記にも出てきたりします。現在もふなやの名で営業するお勧めの宿です。
近所に住んでおります私は、温泉付きのランチを、時折楽しむだけなのですが、和食よし、フランス料理よしで、上の写真は、先日ふなやさんで食しましたランチの前菜です。
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「日本史同好会」 管理人:住兵衛
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松山事件を調べております。
このブログ、海南新聞の新渡戸博士攻撃報道記事の背景に、政友会と民政党の政争があった、というのは説得力のある一つの検証です。面白く拝読しました。この当時の海南新聞の社長(事実上の)香川熊太郎について、いま少し書き足して下さればよかった、という感想です。
「海運王 山下亀三郎」を書かれた方、ですよね?
石原慎太郎氏の祖先が愛媛の人だった、という話を追っていて、読ませていただきました。まったく知らない話で、こんな人が愛媛にいたのか、とびっくりいたしました。まだ母が元気な頃でしたので、「山下汽船って知ってる?」と聞いてみましたら、名前は知っているということで、2度びっくりしました。
私、雑文を松山で書いていましたので、必要に迫られて、愛媛の歴史に関わることを少しはかじっていたのですが、実のところ、あんまり興味は持っておりませんで、愛媛新聞社の出版局で仕事をもらったことも多々ありながら、愛媛新聞社の歴史も、まったくもって存じませんでした。
新渡戸稲造の松山事件は、結局、仕事にはなりえなかったのですが、ついつい、県立図書館のマイクロフィルムで新聞記事を確かめて調べるほどの関心を抱いてしまったものですから、せめてブログに書いておこう、と思ったのですが、知らないことが多すぎました。
ご感想、ありがとうございます。
もし松山事件を書かれるようでしたら、ぜひ、読ませていただけたらと存じます。