郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「坂の上の雲」の幕末と薩摩

2008年03月10日 | 伊予松山
 春や昔 十五万石の城下かな

 この正岡子規の句を引いて、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」は幕をあけます。



 上の写真は、松山城天守閣から、その十五万国の城下町を見下ろしたところです。
 松山城天守閣は、市内中心部の小高い山の上にありまして、少し前までは、市内のどこからでも仰ぐことができました。

 実は、松山城の天守閣は、江戸時代も後期にさしかかった天明4年(1784)、雷が落ちて全焼してしまったんです。
 二度ほど建て直そうとしたんですが、財政難で、かなわないまま時は過ぎました。
 なんせ天守閣は、けっこうな山の上なんです。
 他県の友人を案内しましたら、「これ、散歩っていうより登山!」と驚いていたほどです。
 藩主の住居である二之丸などは麓にありまして、山の上の天守閣がなくとも、実質、困りはしないわけなのです。

 ところで、松山城を造ったのは、豊臣秀吉の家臣だった加藤嘉明です。
 しかしお城の完成を目前にして、会津へ転封。
 次いで蒲生忠知が入り、お城を完成させるんですが、男子なく断絶。
 次いで松平定行が来て、徳川家の親藩となり、幕末まで続きます。
 みーんな、鉢植え大名です。

 えーと、です。伊予の松山は、中世からの、いえ源平合戦に出てきますので古代からの、でしょうか。ともかく、古い豪族で守護職ともなった河野氏がずっと治めていまして、うちの近所に道後公園(温泉のそばです)がありますが、14世紀ころからそこに築城しまして、16世紀末に土佐の長宗我部氏に攻められて降伏しましたところが、その直後、豊臣秀吉に従った中国地方の毛利氏にやられて、河野氏は滅亡します。
 なんでも戦国時代には、道後にキリシタンの教会なんかもあったそうで、瀬戸内海の要所ですから、けっこう栄えていたんですけれども、まあ、そのー、兵は弱いですわ。
 あー、陸兵より水軍の土地柄なんですけどね、河野氏配下だった村上水軍が離反したりもしましたし。

 で、徳川将軍家光の時代、桑名から松山へやってきた松平定行です。
 松平といいましても、本姓は久松で、明治以降は久松にもどし、伯爵家となりましたが、この人の父親が、徳川家康の異父兄弟、なんですね。
 つまり家康のおかあさんの於大の方は、松平家に嫁いで家康を生み、離縁になった後、久松家に嫁いで、定行の父親を生んだ、というわけです。
 で、なぜだか知りませんが、定行の嫁さんが薩摩島津家の出で、この方は桑名で亡くなっているそうですが、二代定頼は、正室である島津家の姫さんのお子です。
 で、この二代目定頼の娘さんが、今度は薩摩藩・島津綱久に嫁ぎ、三代目薩摩藩主・島津綱貴を生みます。
 この島津綱貴の娘さんが、また松山藩五代目・松平定英の嫁さんとなり、六代藩主・松平定喬を生みます。
 伊予松山藩は、八代目までは、養子が入っても久松松平の血筋だったんですが、九代目にして、幕府の命で御三卿の田安家より、婿養子をとることになります。そして、九代、十代、十一代と田安家の血が続くんですが、十一代定通がなかなか男子に恵まれず、そこで、ですね、島津家より養子を迎えることになります。
 えーと、三代目薩摩藩主・島津綱貴の母親は、二代目松山藩主・松平定頼の娘で、島津家では綱貴の子孫がずっと続いていますから、「母系では久松松平の血だい!」というわけなんですが、何代前の話を持ち出すやら、ものすごい発想です。
 まあ、あれです。当時、徳川将軍家の御台所は、薩摩藩八代藩主・島津重豪娘・茂姫(広大院)でしたし、御台所のお世話なんかがあったんでしょう。
 で、松山藩に養子に入ったのは、重豪の孫で、薩摩藩九代藩主・島津斉宣の十一男、松平勝善(定穀)です。島津斉彬は斉宣の孫ですから、勝善にとっては甥に、天璋院篤姫も同じく斉宣の孫ですので、実の姪になります。
 
 で、松山城の天守閣は、数十年なかったんですが、この島津家から養子に入った勝善が、復興するんです。
 いや、さすが大藩からのご養子です。
 完成したのは安政元年(1854)、ペリー来航の2年後です。
 その天守閣が、今も残っているわけでして。

 残念なことに、松平勝善は子を残しませんで、十三代松山藩主はまたまた養子で、今度は高松藩松平家(ここは水戸徳川家の血筋です)からの勝成。十四代がまたまたまた養子で、どういうわけか津藩藤堂家からの定昭で、ここで維新を迎えます。
 しかし、将軍家御台所となった島津家の篤姫さんの親族交際の中に、島津家から養子が入った家、ということで、松山藩の勝成、定昭父子は、しっかりと入っています。

 幕末の松山藩は、悲しいかな親藩です。第二次長州征伐(四境戦争)に出兵せざるをえなくなり、周防大島へ出兵するんですね。
 周防大島って、その昔、毛利家に従った村上水軍が移住したところでして、伊予とは深いかかわりがあり、松山城下でも、姻戚関係にある者があったりもする土地なんです。だいたい、村上水軍の氏神も氏寺も、伊予大三島、伊予大島にあったわけでして、往来は盛んです。
 えーと、おまけに松山は、薩摩とは正反対の土地柄。
 士族数は存じませんが、俳句とかお能とかが盛んで、小作農までが俳句をやるような土地柄ですから、武士も軟弱。
 農兵の取立をやってましたから、主にはやーさんとか(水争いは盛んでして)みたいな方々が、兵士だったようでして、幕府の歩兵といっしょに、かなりな乱暴をした様子で、負けて逃げて帰った上に、幕府からさえ咎めをうけていたりするんですわ、これが。
 あげくの果てに、慶応3年(1867)、最後の最後に、若い藩主・定昭が、二条城で老中を押しつけられてしまい、大阪城まで慶喜公のお供なんかしたこともありまして、すっかり朝敵にされてしまうんです。
 ここらへん、私、なんだか、篤姫さんが嫁入り先の徳川家のために、一生懸命尽くしたのではないか、という気が………、します。
 最後まで、容堂公が徳川家をかばってねばり通したのも、容堂公の義母、島津家から土佐山内家にお輿入れした智鏡院候姫に、篤姫さんが懸命の働きかけをしたのではないかと、勘ぐってみたり。
 なにしろ、土佐の支藩、土佐新田藩の藩主・山内豊福とその奥方は、江戸の麻布藩邸にいたのですが、鳥羽伏見の後、「土佐藩兵が徳川家に対し発砲したとは申しわけない」と、自刃して果てたというのですから。

 まあ、海をへだてて長州の筋向かいですし、山路をゆけば高知のお隣ですので、多勢に無勢ですわ。
 戦国時代の繰り返しです。
 山を越えて土佐から進駐軍がやってきて恭順しましたのに、今度は海から長州軍がやってきまして、土佐軍と長州軍は一色触発のにらみ合い、だったそうですが、朝廷から正式に命令を受けたのは土佐だったので、長州はしぶしぶ引きましたが、松山藩虎の子の汽船をかっぱらって行ったそうです。

 さて、しかし、久松家と島津家のご縁は続きます。
 定昭の後はさらに養子だったんですが、こんどは旗本になっていた久松松平の分家からで、ここできっちり血筋をもどします。その久松定謨伯爵は、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学します。
 秋山好古はそのおつきでフランス留学し、正岡子規の叔父・加藤拓川も、おつきで行って、そのままパリ公使館の外交官となり、旧藩主のお世話をします。
 この加藤拓川というお方、陸羯南や原敬とともに、司法省法学校でストライキをやらかした方で、晩年、外交官を辞めて郷里へ帰り、松山市長を務めるんですが、そのとき、大正12年、久松家へ払い下げられた松山城を、定謨伯爵からそのまま市で貰い受け、公園として市民に開放する基礎をかためました。
 拓川はこの年に死ぬんですが、翌年には、秋山好古が故郷に帰り、北予中学校という小さな私立中学の校長を務めるなど、故郷松山の発展に尽力します。
 フランスでともに時をすごした三人は、みな、松山への愛着を持っていたようです。

追記
 フランス時代、久松定謨伯爵は、薩摩出身で、同時期にフランス留学をし、洋画家となった黒田清輝ととても親しくつきあっていました。加藤拓川もいっしょに遊んだりしていたようですし、あるいはフェンシングなんかしていますので、秋山好古もいっしょだったりした可能性は高いんです。(fhさまのところの黒田清輝の日記参照)

 駐在武官を勤め、フランス生活が長かった定謨伯爵は、大正11年、城山の麓にフランス風の別邸・萬翠荘を建て、一家で住んでいたような話です。
 
  

 で、その定謨伯爵なんですが、島津忠義公爵令嬢、島津貞子を妻に迎え、嫡子定武伯爵をもうけています。
 貞子伯爵夫人の妹・島津俔子が、久邇宮邦彦王に嫁いで、香淳皇后の母となっていますので、久松定武伯爵香淳皇后は、母親が島津家の姉妹で、いとこになります。
 戦後、久松定武氏は、愛媛県知事になるんですが、最初、社会党から選挙に出たそうなんです。
 祖父母の話で、どこまで本当かしらないんですが、松山へ来られた昭和天皇が、皇后のいとこにあたる定武知事に、「社会党はいかがなものか」とご忠告なさったので、自民党に鞍替えしたとかで(笑)
 これも祖父母の話ですが、当時、田舎にはまだ、投票用紙に「お殿さま」と書く人がいるとの噂だったそうです。


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5 コメント

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久松のお殿様 (のり坊)
2008-03-10 23:16:55
おばんでーす。
松山、道後の本館いいなあ、浴衣着て寝ころんでたいなあ...いつだったか、会議早く終わって?
最近、「坂の上の雲と日本人 関川夏央著 文藝春秋」というのが(もう古本で)出てまして、
...司馬さんは、子規からはじまった(松山の町内から悲壮感なき青春の)同心円を広げてるうちに日露戦争に当ったと...ここまで見て、ツンドク。
久松のお殿様も、明治になってもいいことなさいましたね。いい洋館ですね。子規のいた根岸の寄宿舎みたいなのも久松家のだったでしょう。

さて、薩摩というとこは、徳川の時代通しても、明治はじめも一種独立国のおもむき、でも、こんなにお姫様たち、あちこちバラまいてたんですか...
そうか、相手方のほうが、薩摩が怖かったんだなあ...
そういえば、昭和の御世でも「私の選んだ人を見て下さい」があったなあ。選ばれたのも、薩摩だった?...
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おひさしぶりです (郎女)
2008-03-11 03:18:10
あの本館は、湯の質は最高なんですけど、混んでいけません。旅館の内湯って、かならずしも本来の道後の温泉じゃなかったりするんです。新しくできたところは、奥道後から引いていたりします。本館の湯が最高なんですけどねえ。
萬翠荘は、今、県立美術館分館なんですけど、管理が悪い上に、観光に生かせてないんです。場所も市内の中心部で、申し分ないのに。

島津忠義公爵のご令嬢たちは、山階宮妃にもなってますし、徳川宗家の公爵家正にも嫁いでいますし、筑前黒田侯爵家、備前池田公爵家と、いろいろ嫁いでますが、幕末、徳川宗家には篤姫さんが嫁入り、黒田侯爵家には島津重豪の息子が養子、池田侯爵家は島津斉彬のお母さんの里ですから、みんな江戸時代からの親戚なんです。

昔、仕事で、松山城の歴史をまとめるようなことにかかわり、初めて、実は天守閣を再建したのは島津家からのご養子、と知ったときには、ちょっとびっくりしましたです。松山でも、あんまり知られた話じゃないんです。
ついでに、加藤拓川が松山城公園化にかかわっていたことも、あんまり知られていることではないので、紹介したくなりまして。
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忘れてました (郎女)
2008-03-11 05:17:29
幕末から、松山藩主は、藩民にとってはけっして、悪くはなかったようです。むしろ土佐は苛酷な農政をしいてましたから、山地の農民が逃散して、松山藩領に逃げ込んだりしてましたし。
長州もどうなんでしょ。あれがうらやましいとは、松山藩民は思わなかったですわ、きっと。やーさんの集まりみたいな奇兵隊や他国の浪人なんかが幅をきかすって、普通の人にはいやじゃないですか。
松山藩ではあんまり不満がないから、危機意識も薄く、こう、世の中を変えようとか思う人間が少なかったんですわ(笑)
朝敵にされたときも、お殿さまかわいそう運動っていうんでしょうか、藩民が朝廷に赦免を嘆願する運動を起こしてますし、廃藩置県では、熱心に藩主お引き留め運動をやっております。

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Unknown (よりぞ)
2008-03-13 11:44:32
ちょうど去年の今頃、松山には仕事で行きました。坂の上の雲ミュージアム開館間近で「のぼり」や垂れ幕があったのを覚えています。
松山城は10年ほど前の一人旅で徒歩にて登りました。鹿児島の城山と同じぐらい時間がかかったかも?
萬翠荘もこの時見学し、自分以外誰もいなかったので好き放題写真を撮ってしまいました。鹿児島も観光を売りにしているわりには施設をうまく生かせていない例があります。新しい施設ばかり表向きに出して本当に価値のあるものに対しては冷遇というバランスの悪さ…。私の場合は、東京にいるからそういう所が目につくのかもしれません。地元にいたら気づかなかったでしょうね。
松山藩と薩摩藩のお家関係がこんなに親密だったとは!次回、訪れた際はそのあたりも頭に入れて見学したいと思います。

画像の件>有難うございます。一応、メールの返信を送っておりますが重ねて御礼申し上げます。
返信する
坂の上の雲ミュージアム (郎女)
2008-03-13 16:13:19
開いてすぐに行ったんですが、展示物はともかく、建物はいいです。一面ガラスで、萬翠荘がどんと見えるフロアがあったりしまして。でもガラスばりなんで、写真におさめるのは難しく、残念でした(笑)
私も足かけ10年東京にいましたので、目につくんでしょうか。松山も観光都市をうたうわりに、なんだか、なところが多いように思います。

鹿児島の城山は、高さより広さでした。
かなり昔、仕事が忙しかったころでしたので、年末しか休みがとれず、お目当てにしていた博物館とかは全部休み。
西南戦争の跡をたどって城山を歩きましたが、ひどい靴づれができて大変でした。
鹿児島は、なんといっても桜島ですよね。
まだ学生の頃、種子島でコンサートがあるので、福岡の知り合いと夜中に九州縦断ドライブをしまして、早朝、鹿児島の港で初めて見た桜島は、忘れられません。
南洲墓地からの桜島の眺めも、感動しました。

メール、お返事しなくて申し訳ありません。
桐野の写真は、長野英世著「桐野利秋」(新人物往来社 昭和47年発行)より、です。本の中身は、かなりいいかげんなんですが、写真は慶応2年初冬ころのものといわれ、なかなかいいですよね。
桐野は京都で、村田煙草店のお嬢さん、サトさんを愛人にしていたんですが、いっしょに写っているのは、そのサトさんの甥の忠次郎くんです。忠次郎くんは京在日記にも出てきます。

どうも、鹿児島の親族(おそらくは桐野のお母さん)の反対で結婚できなかったみたいで、サトさんは独身を通し、後、キリスト教に入信したそうです。
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