『八重の桜』第19回と王政復古 前編の続きです。
前回、そこまで行きそこねまして、今度こそ、8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きになってくれるかと(笑)
しかし先にちょっと、秋月悌次郎の蝦夷左遷について、補足しておきたいと思います。
BS歴史館「幻の東北列藩・プロイセン連合」と史料にも、関係してくる話かと。
徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』より、以下、秋月が蝦夷(北海道)の斜里で、病に伏せっていたときの漢詩を引用します。
読み下しは徳田氏ですが、私が勝手に漢字をひらきました。
京洛この時 まさに謀を献ずべし
謫居病に臥す 北蝦夷州
死して枯骨を埋むるも また悪きにあらず
唐太以南はみな帝州
幕末から明治初年の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編と、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編を見ていただきたいのですが、秋月は、慶応2年(1866年)の12月、至急京都へ赴任するようにと言います異例の命令を受け……、異例といいますのは、当時、冬季に蝦夷地を移動するのは大変なことだったからですが、ともかく秋月は、一刻を惜しんで蝦夷を去りますので、このとき、最後の箱館奉行・杉浦梅潭に別れを告げるひまはなかったようですが、京都にいた時期も重なっていますし、杉浦は京で後の新撰組中核メンバーがいました将軍護衛浪士を担当したりもしていますから、知り合いだったはずです。
今度、杉浦さんの日記を、じっくり読んでみるつもりです。
ともかく。
ロシアは樺太を得ようと続々と囚人を送り込んでいる最中ですし、秋月さんには、北方の守りが大切なものだとわかっていたようなのですが、蝦夷の預かり地を放棄しながら、プロイセンに売ろうとしたのは、いったいだれ、なんですかね。
さて、話をもとにもどしまして、まずは討幕の密勅です。
NHK大河ドラマ『八重の桜』 第19回「慶喜の誤算」あらすじ動画を、ご覧ください。
西郷と大久保が、岩倉具視と、討幕の密勅について語っている場面が出てまいります。
討幕の密勅は、正親町三条実愛から、薩摩の大久保利通と長州の広沢真臣が受け取りました
正親町三条実愛は、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に書いておりますが、中御門経之とともに大久保利通から、さんざんっぱら幕府の陰謀を吹き込まれました倒幕派の公家です。
討幕の密勅に関係しましたのは、正親町三条実愛と中御門経之、そして、明治大帝の母方の祖父・中山忠能(倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)です。
岩倉具視はいまだ蟄居中の身ですが、中山忠能を仲間に引きずり込むなど、間接的にかかわっております。
ドラマでは、その岩倉が、「偽勅や」と、言っているのですが。
偽勅かどうかといいますと……、限りなく偽勅に近いのですが、そう言い切ってしまうことも、できないようです。
正式の勅は紹書であるべきなのですが、紹書は摂政関白が開く朝議を経て、帝直筆の裁可の文字が必要です。
しかし討幕の密勅は、直接的には上記の三人のみしかかかわっていませんから、筆をとりました正親町三条は、綸旨だったと言っているんだそうです。
綸旨は朝議を経なくてもいいのですが、帝の了解は必要です。
帝の了解を得たという体裁を整えるために、帝の祖父・中山忠能が一枚噛んだわけでして、しかし実際に帝のお耳に入れたのかどうか、疑わしいんです。
私は、ですね。少年帝は、子供のころに遊んでくれた叔父の中山忠光卿(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)を慕ってらして、攘夷討幕の旗頭でした忠光卿は長州にいると思われていたわけですし、叔父さんを助けなければ!と、密勅に積極的でおられたかもしれず、だとすれば偽勅ともいえないのではないのかな、説です(笑)
それはともかく。
吉川西郷さんが、言っていますよね。
「偽勅でんかまいもはん。これで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもっそ」
偽勅であるにせよ、ないにせよ、です。
佐幕派の二条摂政に知らせもせず……、といいますか、知られてはならず、朝議を経てもいない密勅を、公にするわけにはいかないわけでして、では、なんのための密勅だったのか、と言いますと、井上勲氏の『王政復古』では、後に正親町三条が「密勅によって薩長二藩の武力討幕の方向が決した」と語っておりますことから、薩摩にとっては藩主父子を説得し、藩内の反対論を押さえるためで、長州には、薩摩と対等の出兵であると保証するためとされております。
つまり、ドラマは、この名著を下敷きにしてくれているわけでして、さらに、岩倉具視に「王政復古や。日本を神武創業のはじめに戻す。2500年さかのぼれば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ皇国をいったん更地にして一から作り直すのや」といわせていますが、これがまた、井上勲氏が述べておられることなんです。
モンブラン伯王政復古黒幕説で、私、以下のように要約いたしました。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
ただ、せっかく、ですね。
ドラマでは、井上勲氏の著述に基づきまして、「密勅は薩摩藩内の団結のために必要だったのであり、大政奉還が行われていても関係がなかった」としておりますのに、ドラマの後の八重の桜紀行「二条城」で、「慶喜が二条城で大政奉還を表明したため、密勅は意味を失い、薩長の思惑は覆されました」なんぞと言っておりますのは、ドラマが台無しで、がっかりなんですが、通ですよねえ、このドラマの政治劇部分。
えーと、ただ、クーデター現場には、です。まるでイメージちがいの反町大山巌がのさばってまして、パリ万博帰りの岩下方平は、さっぱり登場しません。
以下、モンブラン伯の長崎憲法講義から。
モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
次いで、大政奉還 薩摩歌合戦から。
小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
このとき、西郷、大久保、小松を迎えました薩摩国元では、密勅のおかげで挙藩一致が実現しまして、すでに、新政権の樹立をにらみ、モンブラン伯爵の手で新政権から諸外国への通達詔書が起草され、それに寺島宗則が手を入れます。
寺島は外交ブレーンとして大久保とともに上京し、モンブラン伯爵も五代友厚、通訳の朝倉省吾とともに上方へのぼり、大阪の薩摩藩邸にひそみます。
で、これは私の持論なんですが、アーネスト・サトウと龍馬暗殺から。
私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。
そして、モンブラン伯王政復古黒幕説へ帰りますが。
(王政復古の)「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
えー、いま考えれば、寺島宗則が考えた可能性も高そうなのですけれども。
まあ、ともかく。
ドラマは、山国で、超外交にうとかった会津中心ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが、けっこうまともに政治劇を描いていますだけに、慶喜公と薩摩の、丁々発止の対外宣伝のぶつかりあいが見られなかったのは、実に残念です。
なにしろ幕末の動乱は対外関係に端を発しているわけですから、幕末史の著述にも、もっと世界の中の日本という視点が必要だと、私は思うんですね。
大山巌が、幕末からドラマに登場しますのは、会津の山川捨松と結婚するから、なんでしょうけれども、私は、どーしても会津の女を大河の主人公にすえたいなら、捨松さんがよかったのではないか、と思います。
幕末はばっさり切り捨てて、戊辰戦争は子供の視線で見るわけです。
少女のころにアメリカに渡り、帰国しては逆カルチャーショックを受け、しかし自分の能力を新生日本のために生かしたいと、会津籠城戦で敵側にいた大山巌の後妻になります。
鹿鳴館の時代には、根も葉もないスキャンダルを新聞に書き立てられ、日清戦争後には徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』で意地の悪い継母に仕立て上げられ、メディアの中傷に苦悩しながらも、日露戦争におきましては、アメリカの世論を日本の味方につけるべく筆をとり、留学時の人脈を生かして、懸命の民間外交をくりひろげるのです。
まあ、ちょっといまのところ、八重さんの生涯が捨松さんより興味深いとは、思えないでいます。
だから、戊辰戦争が終わったら見なくなるかも、な可能性は、けっこうあります(笑)
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しかし先にちょっと、秋月悌次郎の蝦夷左遷について、補足しておきたいと思います。
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徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』より、以下、秋月が蝦夷(北海道)の斜里で、病に伏せっていたときの漢詩を引用します。
読み下しは徳田氏ですが、私が勝手に漢字をひらきました。
京洛この時 まさに謀を献ずべし
謫居病に臥す 北蝦夷州
死して枯骨を埋むるも また悪きにあらず
唐太以南はみな帝州
幕末から明治初年の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編と、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 中編を見ていただきたいのですが、秋月は、慶応2年(1866年)の12月、至急京都へ赴任するようにと言います異例の命令を受け……、異例といいますのは、当時、冬季に蝦夷地を移動するのは大変なことだったからですが、ともかく秋月は、一刻を惜しんで蝦夷を去りますので、このとき、最後の箱館奉行・杉浦梅潭に別れを告げるひまはなかったようですが、京都にいた時期も重なっていますし、杉浦は京で後の新撰組中核メンバーがいました将軍護衛浪士を担当したりもしていますから、知り合いだったはずです。
今度、杉浦さんの日記を、じっくり読んでみるつもりです。
ともかく。
ロシアは樺太を得ようと続々と囚人を送り込んでいる最中ですし、秋月さんには、北方の守りが大切なものだとわかっていたようなのですが、蝦夷の預かり地を放棄しながら、プロイセンに売ろうとしたのは、いったいだれ、なんですかね。
さて、話をもとにもどしまして、まずは討幕の密勅です。
NHK大河ドラマ『八重の桜』 第19回「慶喜の誤算」あらすじ動画を、ご覧ください。
西郷と大久保が、岩倉具視と、討幕の密勅について語っている場面が出てまいります。
討幕の密勅は、正親町三条実愛から、薩摩の大久保利通と長州の広沢真臣が受け取りました
正親町三条実愛は、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に書いておりますが、中御門経之とともに大久保利通から、さんざんっぱら幕府の陰謀を吹き込まれました倒幕派の公家です。
討幕の密勅に関係しましたのは、正親町三条実愛と中御門経之、そして、明治大帝の母方の祖父・中山忠能(倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)です。
岩倉具視はいまだ蟄居中の身ですが、中山忠能を仲間に引きずり込むなど、間接的にかかわっております。
ドラマでは、その岩倉が、「偽勅や」と、言っているのですが。
偽勅かどうかといいますと……、限りなく偽勅に近いのですが、そう言い切ってしまうことも、できないようです。
正式の勅は紹書であるべきなのですが、紹書は摂政関白が開く朝議を経て、帝直筆の裁可の文字が必要です。
しかし討幕の密勅は、直接的には上記の三人のみしかかかわっていませんから、筆をとりました正親町三条は、綸旨だったと言っているんだそうです。
綸旨は朝議を経なくてもいいのですが、帝の了解は必要です。
帝の了解を得たという体裁を整えるために、帝の祖父・中山忠能が一枚噛んだわけでして、しかし実際に帝のお耳に入れたのかどうか、疑わしいんです。
私は、ですね。少年帝は、子供のころに遊んでくれた叔父の中山忠光卿(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)を慕ってらして、攘夷討幕の旗頭でした忠光卿は長州にいると思われていたわけですし、叔父さんを助けなければ!と、密勅に積極的でおられたかもしれず、だとすれば偽勅ともいえないのではないのかな、説です(笑)
それはともかく。
吉川西郷さんが、言っていますよね。
「偽勅でんかまいもはん。これで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもっそ」
偽勅であるにせよ、ないにせよ、です。
佐幕派の二条摂政に知らせもせず……、といいますか、知られてはならず、朝議を経てもいない密勅を、公にするわけにはいかないわけでして、では、なんのための密勅だったのか、と言いますと、井上勲氏の『王政復古』では、後に正親町三条が「密勅によって薩長二藩の武力討幕の方向が決した」と語っておりますことから、薩摩にとっては藩主父子を説得し、藩内の反対論を押さえるためで、長州には、薩摩と対等の出兵であると保証するためとされております。
王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書) | |
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つまり、ドラマは、この名著を下敷きにしてくれているわけでして、さらに、岩倉具視に「王政復古や。日本を神武創業のはじめに戻す。2500年さかのぼれば、たかが300年の徳川など、一息に吹き飛ぶわ皇国をいったん更地にして一から作り直すのや」といわせていますが、これがまた、井上勲氏が述べておられることなんです。
モンブラン伯王政復古黒幕説で、私、以下のように要約いたしました。
幕末の政治劇については、井上勲著『王政復古』という、鋭くかつよくまとまった解説書があります。ここで最後に問題にされていますのは、「神武創業の始に原づき」という王政復古の宣言、なのですが、なぜ問題とするかについて、井上氏は「今を改革し将来を望もうとする場合、過去がその作業に構想力を与えることがある。くわえて、正当性の根拠を提供することがある」と書いておられます。
で、復古というならば、どこまで過去を遡った復古か、古ければ古いほど、なにものにも縛られず、新しい政体を創設することができる、というわけです。
尊皇攘夷派の志士の唱える復古は、もともとは建武の中興、つまり、武家から政権を取り返そうとした後醍醐天皇のころ、でした。とりあえず、「今の幕府ではだめだ」というだけで、「新しい政体」はまだ、夢でしかなかったわけです。
次いで文久二年、長州の久坂玄瑞が「延久への復古」を唱えます。延久とは、平安後期、武家政権誕生前のこと。後三条天皇のときなんですが、このお方は母親が皇女で、摂関政治を否定し親政を志した、とされていました。
で、慶応三年の夏ですから、王政復古の「神武回帰」宣言からわずか数ヶ月前。山県有朋は、大化改新への復古を、長州藩主に建白します。中大兄皇子、天智天皇の時代への回帰ですから、ここで、摂関政治の枠もさっぱりと否定されたわけです。
それが、「神武回帰」となれば、古代律令制も否定することになります。
ただ、せっかく、ですね。
ドラマでは、井上勲氏の著述に基づきまして、「密勅は薩摩藩内の団結のために必要だったのであり、大政奉還が行われていても関係がなかった」としておりますのに、ドラマの後の八重の桜紀行「二条城」で、「慶喜が二条城で大政奉還を表明したため、密勅は意味を失い、薩長の思惑は覆されました」なんぞと言っておりますのは、ドラマが台無しで、がっかりなんですが、通ですよねえ、このドラマの政治劇部分。
えーと、ただ、クーデター現場には、です。まるでイメージちがいの反町大山巌がのさばってまして、パリ万博帰りの岩下方平は、さっぱり登場しません。
以下、モンブラン伯の長崎憲法講義から。
モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
次いで、大政奉還 薩摩歌合戦から。
小松さま、西郷さま、大久保さまのお三人は、討幕の密勅を奉じて国許へ立たれまして、10月17日、それを桐野さまは伏見まで見送りに行かれました。
こうして挙兵へ向け、ご藩主忠義公さまの兵力を伴っての上京が、実現したのでございます。
このとき、西郷、大久保、小松を迎えました薩摩国元では、密勅のおかげで挙藩一致が実現しまして、すでに、新政権の樹立をにらみ、モンブラン伯爵の手で新政権から諸外国への通達詔書が起草され、それに寺島宗則が手を入れます。
寺島は外交ブレーンとして大久保とともに上京し、モンブラン伯爵も五代友厚、通訳の朝倉省吾とともに上方へのぼり、大阪の薩摩藩邸にひそみます。
で、これは私の持論なんですが、アーネスト・サトウと龍馬暗殺から。
私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。
そして、モンブラン伯王政復古黒幕説へ帰りますが。
(王政復古の)「神武回帰」は、国学者・玉松操のアイデアだったというのが通説ですが、実際、神話の時代への回帰を唱えることで、まったく新しい絵が描けるわけですから、これが果たして玉松操のアイデアだったのかどうか、憶測するしかないのですが、大久保利通が一枚噛んでいたんじゃないか、と思いたくなるわけです。
それでまあ、ここからはもう妄想に近いのですが、ナポレオン帝政が古代ローマへの回帰を唱えた新秩序であったことを、モンブラン伯が五代友厚、あるいは岩下方平あたりに語り、大久保利通にまで伝わった、ということは、考えられなくもないのです。
えー、いま考えれば、寺島宗則が考えた可能性も高そうなのですけれども。
まあ、ともかく。
ドラマは、山国で、超外交にうとかった会津中心ですから、仕方がないといえば仕方がないのですが、けっこうまともに政治劇を描いていますだけに、慶喜公と薩摩の、丁々発止の対外宣伝のぶつかりあいが見られなかったのは、実に残念です。
なにしろ幕末の動乱は対外関係に端を発しているわけですから、幕末史の著述にも、もっと世界の中の日本という視点が必要だと、私は思うんですね。
大山巌が、幕末からドラマに登場しますのは、会津の山川捨松と結婚するから、なんでしょうけれども、私は、どーしても会津の女を大河の主人公にすえたいなら、捨松さんがよかったのではないか、と思います。
幕末はばっさり切り捨てて、戊辰戦争は子供の視線で見るわけです。
少女のころにアメリカに渡り、帰国しては逆カルチャーショックを受け、しかし自分の能力を新生日本のために生かしたいと、会津籠城戦で敵側にいた大山巌の後妻になります。
鹿鳴館の時代には、根も葉もないスキャンダルを新聞に書き立てられ、日清戦争後には徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰(ほととぎす)』で意地の悪い継母に仕立て上げられ、メディアの中傷に苦悩しながらも、日露戦争におきましては、アメリカの世論を日本の味方につけるべく筆をとり、留学時の人脈を生かして、懸命の民間外交をくりひろげるのです。
まあ、ちょっといまのところ、八重さんの生涯が捨松さんより興味深いとは、思えないでいます。
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実は、八重の桜と戊辰戦争にひっかけて、野口武彦氏の「鳥羽伏見の戦い」を紹介批判しつつ、自分の考えをまとめようかなあ、と、書きかけていたのですが、あれこれと雑用が募りまして、まだ書けておりません。
私は、明治維新とは、要するに「諸外国と肩を並べて戦えて、脅しに屈しなくてもいい日本にするため」に行われたのだと思っておりまして、おっしゃっておられることの大方に同感です。
江戸時代の後期、日本を訪れた朝鮮通信使のメンバーは、江戸、大坂、名古屋などは、北京よりも繁華で美しいと言っておりますし、よく時代劇の舞台となります文化、文政のころともなれば、日本は豊かで、それなりに近代のとば口にいて、身分の垣根も徐々に少なくなって、暮らしやすかったと思います。
私の祖先もその中にいますが、幕末の一般の人々にとっては、世の中の急激な変化なんぞ迷惑なだけですし、この瀬戸内海の狭い海峡を、小さな日本の漁船を蹴散らし、わがもの顔に黒船が行き来するようになりました開国は、憎むべきものだったと思います。
しかし、それでも、西洋ルールの受け入れは必要なことであったとも、思うんですね。
私の祖先も含めまして、幕末維新に生きた日本人みんなが、愛しいと思う今日このころです。
其の中には薩摩藩邸焼き討ちに関する談話もある。
大政奉還を決断した慶喜は【政治決着路線】を進みたかったので、当然ながら【武力行使は是認出来無い所】だ。其れを抑えきれ無かった為に戊辰戦争が勃発した。
其の事は慶喜も認識していただろうし、だからこそ江戸在府の幕臣らが戦争を引き起こそうとして【薩邸焼討】という暴挙に及んだのだと語っている訳だ。
【薩摩藩邸焼討事件】は幕府側が薩摩藩の謀略に載せられた結果だというのが通説だが、旗本が御用盗の元祖であったり、幕府陸軍の歩兵が新吉原で発砲騒ぎを起こしたり、御用盗を取り締まる【新徴組】が逆に強盗をしでかしたりと、江戸に於ける悪徒の暗躍は全てが薩摩の陰謀とは言い難いのだ。
薩摩藩が陰謀を企てて居たにせよ、幕臣達が便乗する様な事態に至っては当然ながら【制御不能の事態】に陥って居たと言わざるをえない。
そうした実態が慶喜に伝わっていたかどうかは疑問だが、其れを慶喜が知っていたなら身内に裏切られた思いがしただろう。
平たくいえば諸外国と対等に交際するという意味だ。其の中には、不平等条約の改正という悲願も含まれている。
維新後初めて対等に結んだ条約は日清修好条規だ。日本と清国が対等であるならば、日本と清国の衛生国家との関係はどうなるのか?
其の問題の延長上に征韓論争があり、琉球処分があった。
其処迄考えると安保世代の様な左がかった人には【万国対峙】を口に出すのは憚られるかもしれない。
しかし、元々の意味は世界各国と対等であろうとする事だから口に出して悪い事は一つもないのだ。
【維新を問い直す】
戦前迄、維新史は尊王論を唱えた倒幕派を英雄視する皇国史観で語られてきた。
其の枷が外された戦後は一転してマルクス主義から派生した唯物史観で語られる様になった。
只、其の多くは社会経済的な観点からの研究で、幕末に於ける政治権力の本質を究明するには、より広い視野での考察が必要であると考えられている。
例えば急進的な近代化を目指した倒幕派にしても薩摩藩或いは長州藩という封建制の枠組みを利用しなければ戦争を遂行する事が出来なかった。
此処に潜む深い矛盾に対する明確な回答は未だ得られていない。
只ひとついえる事は【変革に取り組もうとするエネルギーは卓越した創造力を生む】という事である。
其の意味において倒幕派は佐幕派に優っていた。
そして其のエネルギーは、時に暴走しながらも条約改正という大命題を見据えつつ、明治時代の全期間にわたって維持され続けた。
この様な大所高所から明治維新の意義を問い直す事が今求められているのである。
【海禁政策】
所謂鎖国のこと。
幕府は海外との交流を完全に遮断したのではなく、清国とオランダとは細々ながら交易が続いており、渡航禁止だけが徹底されたので其の実態に合わせて近年は海禁政策と呼ばれる様になった。
【不平等条約】
日本と米英仏露蘭の各国との間に結ばれた修好通商条約のこと。
列強に治外法権を認め、日本の関税自主権を放棄させられるという不平等な内容から、この名で呼ばれる様になった。
安政五カ国条約ともいう。
【経済は大混乱】
江戸時代の日本は国内交易のみによる自給自足のサイクルを確立させていた。
不意に貿易が開始された事で、絹、茶、米など輸出品目が国内で品薄となったのを切っ掛けに諸物価が暴騰した。
【攘夷論】
ペリー来航以前にも「日本は神の国」と認識し、外国勢力を排除するべきだという観念的攘夷論があった。
横浜開港以後貿易によって経済が混乱状態に陥ると感情的に攘夷を唱える人々が急増し、異人斬りが横行した。
【尊王思想】
幕府の官学であった朱子学では上下秩序を重視した。
幕府は上位にある朝廷から政権を委任されたという建前を正当性の根拠としたので朝廷を尊ぶ思想を否定出来無かった。
故に幕府の開国政策に反発した攘夷派は孝明天皇が攘夷を望んだ事を根拠に尊王論を唱えつつ幕府に攘夷決行を要求した
【公武合体】皇女和宮と将軍家茂の政略結婚によって朝廷と幕府の融和を目指した政策。
朝廷から交換条件として要求された攘夷決行を幕府が履行しなかった為、寧ろ攘夷派の感情を逆撫でし、倒幕運動に向かわせてしまった。
【大攘夷論】
開国を是認した上で、貿易による利益で列強と対峙するに足る軍備を整えようとする考え方で日本の植民地化を防ぐ事を目的とした。
外国勢力を完全に排除しようとする旧来の考え方は小攘夷論とも呼ばれる。
【更なる動乱】
薩摩藩と長州藩は共に攘夷論を唱えたが、性急な攘夷決行を無謀とする薩摩藩は早期に攘夷を断行すべきだとする長州藩と対立し、禁門の変での武力衝突に至った。
【薩長同盟】
福岡藩士月形洗蔵が提唱し、坂本龍馬らの周旋で成就した薩摩藩と長州藩の同盟の事。
両藩の提携によって武力による倒幕が現実味を帯び始めた。
【第2次幕長戦争】
慶応2年(1866)幕府は洋式歩兵を基幹とする陸軍の他、紀州、彦根、熊本、越後高田等の諸藩を動員して長州藩を攻撃したが、長州勢の逆襲によって浜田や小倉を占領されてしまう程の大敗を喫した。
【旧幕府陸海軍の軍事力】
幕府の海軍力は諸藩の艦船を結集させても対抗出来無い程突出しており、陸軍も幕長戦争以後にフランス軍事顧問団を招聘して大幅に強化されていた。
【無血クーデター】
王政復古発令の当日未明、薩摩、土佐、芸州、尾張、越前の5藩兵が御所の9門を封鎖した。
其の後、朝敵指定が解除された長州藩も兵を入京させている。
【皇国史観】
戦前の思想統制下での歴史観であらゆる歴史を天皇中心に捉え様とした。
日本を神国とみなす選民思想と結びつき軍国主義を助長した。
【唯物史観】
カール・マルクスの唱えたた歴史観で、歴史学に於いても自然科学と同様な客観的な法則性を見いだせるとする考えである。あらゆる社会は必然的に共産主義へ向かうと定義されたが、共産国家の崩壊が現実となった今、其の論理は破綻している。
【明治の原点】
明治という時代の担い手逹は大きな課題があった。
旧幕府から受け継いだ不平等条約の改正である。
発足以来、明治新政府は条約改正を何度も試みては挫折を繰り返した。
欧米列強が日本を非文明国と見なした為であった。
故に明治人は近代化に取り組み、工業をはじめとする産業を振興して軍事力を強した。
其の何れもが国際社会に日本を文明国として認めさせる為である。
そして漸くにして関税自主権を回復できたのは明治44年(1911)の事で、日本を野蛮な国と見なしていた列強に対等の権利を承認させるに至る迄の道のりが、すっぽりと明治時代に収まっている。
明治維新による急速な近代化は列強の目を驚かせ、列強の圧迫に苦しむアジア諸民族を勇気づけた。
この世界史的にも重要な明治維新について考えるには先ず幕末の動乱に目を向ける必要がある。【動乱の時代】
いうまでもなく幕末の発端はペリー来航にある。
阿片戦争が記憶に新しい時期の事であり、黒船の威容は日本中を震撼させた。
蒸気軍艦に対抗する手段が無い以上、幕府は祖法であった海禁政策を捨て、更には不平等条約をも締結せざるをえなかった。
貿易が開始されると経済は大混乱に陥ったが、関税自主権を持た無い日本には為す術が無かった。
生活に苦しんだ人々が攘夷論を過熱させたのは当然の成り行きであったろう。
幕府は攘夷派を弾圧によって押さえ込み、攘夷派はテロリズムで対抗した。
果てのない殺し合いが続く中で公武合体が試みられ、皇女和宮と将軍家茂の政略結婚に漕ぎ着けたが却って攘夷派の反発を強めてしまう。
やがて攘夷派は幕府に攘夷の断行を要求するのではなく、幕府を倒して新政権を樹立し、其の上で攘夷という大目的を成就させる事を考える様になった。
だが、其の攘夷という目的も列強の実力を知るにつれ変質を余儀なくされ、最終的には日本の自主独立を守ることのみを目的とする大攘夷論に到達し、やがては明治政府の開化政策に繋がった。
しかし、大攘夷論は旧来の攘夷論と対立し、更なる動乱を招いてもいる。
【新政権樹立に抱いた淡い期待】
幕府官僚の中には収拾のつかない動乱を見て幕藩体制の限界に気付いた人々がいる。其の代表格が大久保一翁と勝海舟であった。
政権を朝廷に返還し、古代の天皇親政を再現しようとする【王政復古】を名目としながら、諸藩による公議会を設立し、新たな統一政権を形成しようとする考え方は彼らの発案によるものだが、幕府の内部には受け入れられず、松平春嶽らに引き継がれて公議政体論と呼ばれる様になった。
一方で、薩長同盟の締結を機に武力による倒幕を目指す動きも活発になっていたが、幕府から朝廷への政権の返還=大政奉還と王政復古というスローガンは、大筋に於いて倒幕派も妥協できるものであった。
倒幕派が描いたシナリオは京都御所周辺でのクーデター迄であったが、其れが大規模な内戦に発展した場合は列強の介入を招きかねず、危険であった。
故に倒幕派は大政奉還を足掛かりに徳川氏の800万石に及ぶ所領を朝廷に返還する事を要求し、其れを拒絶されれば改めてクーデターを決行する方針を採った。
公議政体派にせよ倒幕派にせよ、新政権の樹立に拘ったのは旧来の政権を解体する事で不平等条約を白紙に戻せるのではないかという淡い期待があっての事であった。
だが、現実には戊辰戦争が勃発して政治決着路線が挫折したばかりか、列強は局外中立と引き替えに不平等条約の引き継ぎを新政府に要求した。
列強の介入を恐れた新政府は其の条件を呑まねばならなかったのである。
【第三極としての佐幕派】
倒幕派から無能無策と罵られた幕府とて列強のいいなりになってばかりではなかった。
文久2年(1862)に派遣した遣欧使節団は新潟と兵庫(神戸)の開港延期を申し入れ、列強の承認を得た。
だが翌年の第2次遣欧使節団は横浜鎖港を申し入れて拒絶され、却って関税率の低減を約束させられる始末であった。
これにはさすがに幕府も批准を拒み、国家としての意地を示している。
こうした幕府による外交努力も攘夷派から見れば無能無策に過ぎなかったのだが果たして新政権を樹立させたとして、幕府よりも優れた外交手腕を発揮出来るかどうかは未知数という他なかった。
其ればかりか新政権が考え方の異なる諸藩を統制できるかどうかすら危ぶむ声もあり、幕臣や親藩譜代など幕府に連なる人々は無論の事、朝廷や外様諸藩にも佐幕派は存在した。
これらの佐幕派は公議政体派と倒幕派が大政奉還路線で妥協したのに対し、あくまで幕府権力の回復を主張して他の2派と鋭く対立した。
しかし、第2次幕長戦争に敗退した事で幕府の権威は大きく失墜しており、元の様な強力な支配を再現させる事は望むべくもなかった。【公議会の形成ならず】
各派の様々な思惑があった中で、佐幕派以外は大政奉還を是認し、徳川慶喜も其れを受け入れた。
残る課題は新政権の盟主に誰を据えるかであった。
慶喜は徳川氏の800万石に及ぶ領土と旧幕府陸海軍の軍事力を背景に新政権に於いても絶対的な権力を確保しようとした。
倒幕派は徳川氏の領土を朝廷に返上させ、其れを新政権の財源に充てる考えであった。
そうした政治的な綱引きは300諸侯を集めての公議会で行なわれるべきであったが、朝廷が諸侯を招集すると紀州藩の佐幕派は親藩・譜代の諸侯にボイコットを呼び掛けて対抗した。
其の結果、板挟みとなった諸侯の大半は病気等を口実として上京せず、公議会の形成は無惨な迄の失敗に終わった。
そして業を煮やした倒幕派は無血クーデターという形で王政復古を断行するに至ったのである。
この様に当時の日本人の意識は議会制の意義すら理解出来無いレベルでしかなく、王政復古によって発足した暫定政権の前途は極めて多難であった。そして、財源となる領土を持たないまま、献金のみを頼りに佐幕派との戦争に臨んだのは危険な賭けであったが、新政府は戊辰戦争での勝利によって本格政権へ移行する事が出来た。
其れ故軍事的に有力であった倒幕派が明治政府の主導的地位を占める事になったのである。
慶応3年末迄の時点で、旧幕府の陸軍兵力は過小評価されているのだ。慶応4年正月、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍が惨敗を喫した。其の敗因はもっぱら倒幕側の兵力、殊に装備した兵器の差に求められているが、これが大間違い。
少なくとも両軍の兵器は対等であり、ともすれば旧幕府側の優勢であった可能性すらある。
現実に新政府軍は勝った。
其の事実の前で兵器の優劣は枝葉の論議でしかない。
しかしながら軍事史から政局史へ目を転じると、この軍事力の事前評価は重要になる。はたして薩長の陰謀によって旧幕府軍を開戦に向かわせたとする定説とやらが、的確に軍事力を評価していくと出鱈目でしたかないと解る。
例えば慶応3年10月25日、京都薩摩藩邸の吉井友実から江戸薩摩藩邸の益満休之助に宛てた書状では「云々之事状御見合可被成候、東西繰違ニテハ大ニ不宜、尤モ何事モ諸侯会議之上、朝議相居候節……」と関東での破壊工作を見合わせるよう指示した上、薩摩藩が諸侯会議を是認する立場である事を述べているのである。これは所謂、定説でいわれる「薩摩藩は諸侯会議を否定して倒幕戦争を目指し、関東での破壊工作を指令した」というシナリオにそぐわない内容である。
又、慶応4年12月10日にも吉井は江戸藩邸に「御鎮静被下候様」と重ねて軽挙妄動を慎むよう指示している。
実際、薩摩・長州をはじめ倒幕派の在京兵力は、在坂の旧幕府軍に対抗しようがないと思える程でしかなかった。鳥羽・伏見の勝敗は番狂わせであり、其の結果のみを見ていたのでは軍事力を背景にした政治抗争を見誤る事になる。あげくには間違った定説のシナリオにそぐわない史料を見なかった事にしなければならなくなるのだ。
又、過激な輩に至っては今京都で今兵を動かさないでいれば、時機を失うばかりでなく、在京の士がみな臆病なので、此方(江戸)で兵を動かせば、初めて眠りを覚まし、憤然として兵を挙げるだろうから、是非砲撃するのが良いと論じ、甲斐守・相模守などは、上(慶喜)の御深謀を知らないで此方(江戸)で事を起こし京都(慶喜)の思し召しと齟齬する事になっては無謀な砲撃で取り返しの付かない事になるので、兵を動かす事は重大で、其れをただ現在の愉快だの又、下から上を突き上げるだのという様な軽挙では後に必敗を招きます。と、意見した。
これらの論議は3昼夜に及んだ。甲斐守などは「今から直ちに上京して、京師(慶喜)の御事情も直々に伺い、関東の事情も報告して、其れから事を決するとしてもこの往復は蒸汽船ならばおよそ8日間でしょう。
其の間は薩邸から強盗団が出られない様に防いで於いて、もし出てしまったとしても強盗事件に止まる事です。
全般の状況に比べれば、強盗事件は小事で、兵を挙げるのは大事ですから、是非直ちに上京しましょう」と意見し、大体其の様に決まったのは12月24日の昼過ぎ頃だった。
閣老はこの意見を容れて直ちにこの事を砲撃を主張する輩に伝えた所、忽ち反対説を唱え、薩州砲撃は強盗団の対策だけでなく、関東で兵を挙げる事で京都の睡眠を覚ますという策だ。
其れなのに京都(慶喜)の意向を聞いてしまえば『必ずしや果断挙兵の事は否決され』故に強盗団対策は小事だけれども其れは問題では無いという議論が沸くが如くで、閣老に至っては誠に酔うが如くだった。
未だこの2つの案を決めかねて居たが、挙兵の事は大いに考える所があって躊躇する方へ傾いて居た所、砲撃派は酒井左衛門尉家来松平新十郎を窃に煽動して、松平新十郎が登営して薩邸を砲撃しないならば、市中を巡邏しても何の甲斐もないのでもし砲撃しないならば酒井家は市中取締を直ちに御免を願うと云うのだった。
閣老も此処に至って、酒井家が市中取締の御免を願ってはならないといって砲撃論に一決、12月24日夜から三兵(歩兵・砲兵・騎兵)を動員、翌25日遂に薩邸を焼いた。この時、松平□□頭家来、其の他応援の兵も出た。酒井家では25日夜明け過ぎ、新徴組ノ者を漸く出動させた。其の出で立ちは甲冑・重籐ノ弓を携え、天晴れ300年前の軍押しの様だった。
25日は早朝から砲声が聞こえ、見付ごとの衛士は着込(鎖帷子)・白木綿の後ろ鉢巻で身を固めていた。
又、薩邸砲撃は事前の通告もなく、ただカタツメバシからドンドン撃ち立てたので、忽ち火事となり三田辺りの町並みは焼失、閣老は登営、御用部屋に居て、ただ気遣わしいいうだけ、市中の延焼は早く、防ぎ様はないかとの事で、相模守・甲斐守などはこの事態を不愉快に思ったので、3昼夜の建言も御用い無く、かくの如き無謀の御振舞いは私共は知った事ではありませんと言って閣老の言う事を聞かなかった。
又、砲撃派は誠に愉快そうで今日初めて旗下の士の勇武も顕れ、裏金の笠の光も輝くと悦びあっていた。
薩邸では予て覚悟があったのか何れも其の跡を隠して逃走した。この時薩州の持船平運丸(翔鳳丸の誤)江戸湾に来て居たので、この事を聞くや否や直ちに出船した為、咸臨丸(回天の誤)がこれを追い、紀州灘で撃沈した(自焼の誤)
慶応3年10月の頃より、江戸市中で強盗が富豪の家に侵入して、江戸府内を騒がせたので、町方でも其のアジトを捜索した所、7~8人或いは10人余りの強盗団は三田の薩摩藩邸に出入りして居ると分ったけれども、どうもこの頃の町方与力・同心らは皆、軟弱な輩ばかりで、この強盗団を捕縛する事を躊躇した為、酒井左衛門尉(忠篤庄内藩主・此時府内の取締りを担当していた)に市中を警邏させたが、強盗事件は全く減らなかった。酒井左衛門尉にはかねて幕府に於て一時、江戸の浮浪の士を所置する為、これらの輩を集めて新徴組という組織を作り、久保田治部右衛門・河津三郎(祐邦)らに支配させたが良い結果にはならなかったので、酒井左衛門尉の配下とし、市中を巡視させていた。
この新徴組も全く強盗団を捕縛する事はなかったので幕閣でも種々の評議があった。
其の頃の勝手方(勘定奉行)小栗上野介(忠順)は勢いがあって、3~4人の大物以外は多くが上野介の意見に雷同していた。
又、京都(慶喜)の御所置は関東では非常に緩慢だとの衆評で武力に訴える事を愉快だとする意見、関東にいる海陸軍士官等は最も暴論を主張し、遂に上野介もこれらの意見に基づいて薩邸を襲撃する事が上策だと閣老に迫ったが、閣老松平周防守(康直)稲葉美濃守(正邦)小笠原壱岐守(長行)らは無断で武力行使を決める事が出来ず、町奉行の駒井相模守(信興)朝比奈甲斐守(甲斐守は外国惣奉行並で町奉行を兼帯していた。実名は昌広でこの手記の筆者)は、この強盗団の捕縛して鎮定するには薩摩藩邸に掛け合って悪徒を追い出させ、其れでも追い出さないならば其れぞれ所置すべき事もあるでしょう。最もこの場合は何れにせよ「寛」か「猛」かの二つに一つです。問題なのは寛(穏当)に事を運んで失敗した場合、猛(厳正)に事を運んで失敗した場合を考える事です。今この強盗団は実に許し難いのですが、警備を厳重にして置けば、犯行があっても強盗だけです。
砲撃すれば戦争に発展する。
京都の事情等は今の有様をただ推測しているだけで、上(慶喜)の御深意も解りませんので、薩邸砲撃は速やかに京都の事情を知ってから決めるべき事で、寛の路線で失敗するのは害が少なく、猛の路線で失敗すれば害は大きいです。
速やかに昼夜兼行で京都(慶喜)の思し召しを伺って事を決めるのが良いでしょう。と、意見した。
2011/08/16 09:18
歴史的な事件の結果を知っている後世の人間はややもすると歴史上のあらゆる出来事が当然起こるべくして起きたかの様に錯覚しがちである。
例えば大政奉還は当然の事ではなく、其れが成就しなかった場合のプランが王政復古クーデターであった。
では何故大政奉還が成就したのにクーデターを起こしたか?
一言で説明するなら、諸侯会議の形成が頓挫したからである。もう少し詳しくいうと大政奉還の後、三百諸侯の会議(諸侯会議若しくは列侯会議)によって国の行く末を決定しようとするプランが暗礁に乗り上げた為であった。
其の原因は佐幕派が諸侯会議のボイコットを呼び掛けた事による。其処で大政奉還以後も暫定的に統治権を預けられていた旧幕府を完全に政権から切り離すべく倒幕派と公議政体派は協働でクーデターを起こした。
つまり、王政復古クーデターは必然ではなかった。
王政復古クーデターが必然であったと思い込み、其処から根拠の薄弱な陰謀論の底無し沼に落ちてしまう研究者も多い。
又、クーデターが必然であったなら倒幕派が旧幕府に対する軍事的優位を確信していた事が論証されねばならない。其の論拠は兵器の優劣に求められてきたが、其れが全くのまやかしでしかない。旧幕府陸軍は兵器の質に於いて薩長両藩に遜色なく、量的には寧ろ優位にあった。
まして旧幕府の海軍力は諸藩の艦船を結集させても対抗できない程圧倒的であった。軍事の世界は第1にリアリズムである。人々が浪漫を抱きがちな精神論は二の次でしかない。
其れでも倒幕派はクーデターに踏み切り、公議政体派も其れに乗った。其れは何故かという事を考えねばならないのだが如何せん学界は軍事的な分野での理解度が低過ぎて其処に到達できていない。寧ろ、薩摩藩が鳥羽伏見以前の段階で七連発銃を装備していた等という妄説を瓦版等という今日のスポーツ新聞の飛ばし記事に等しい信憑性の薄いものを根拠に唱えている。
確かに鳥羽伏見の戦いに旧幕府側は敗れた。
しかし、其れもまた偶然が生んだ結果でしかない。殆ど命中を期待出来無い最初の砲撃で、薩摩藩の砲弾は旧幕府軍の弾薬車に命中したのである。この劇的な一発が旧幕府軍を混乱させ、緒戦の劣勢を強いた。もし戦いを司る神がいるならば彼が振ったサイコロは必ずやインチキであったに違いない。其れ程の奇跡的な出来事であり、軍事史の面から見れば新政府軍の勝利は偶然という他ない。
鳥羽伏見の勝敗が偶然の結果である以上、王政復古クーデターの意義は再検討されるべきである。