十数年前の旅です。三田尻(防府)へ行った次の日、とてもご親切な山口県出身の方に、長府の功山寺と東行庵を案内していただきました。
功山寺挙兵のときの高杉晋作の銅像です。
うーん。ピントがあってないですねえ。実は銅像の下に私がいて、双方にピントをあわせるのは、難しかったんでしょう、おそらく。
功山寺の山門なんですが、下手くそな写真ですよねえ。私が撮ったんです。
こちらは、たしか、東行庵にあった高杉の銅像だったはず。
だったはずって……、よく覚えてなかったりします。
(ぐぐってみましたら、東行庵はまちがいないのですが、銅像ではなく陶像、でした)
久坂玄瑞の法事
に書きましたように、一坂太郎氏をお訪ねして、桐野利秋についての情報をお願いしましたのは、このときです。
東行記念館に展示してあった「いろは文庫」です。
元治元年、晋作が京都から、妻お政(雅子)に宛てて書いた手紙に、以下の一節があるんです。
近日の中大阪へ帰り候故、さ候わば曽我物語、いろは文庫など送り候間、それを御読みなされ心をみがく事専一にござ候。
(一坂太郎著『高杉晋作の手紙』新人物往来社発行 より)
長州は八・一八政変で京を追われ、進発論が盛んだった時期です。
高杉は藩主の命で、進発論の最先鋒だった来島又兵衛を説得しようとして、罵られ、自分が脱藩して勝手に京へ上りました。帰藩後、投獄、謹慎となりますが、そのおかげで、池田屋事変、禁門の変敗戦という長州の窮地を、無事やりすごした、ともいえます。
そういう時期に、妻にいろは文庫を贈っていた、というのが、私にはとても印象的でした。
「心をみがく事専一にござ候」なんぞと、堅苦しい書き方をしていますが、いろは文庫って、ご覧のように絵入りで、為永春水が手がけた人情本なんですね。けっして、堅い本ではありません。
萩では手に入らない、きれいな絵入り読み物を妻のために買うって、なんだかかわいいじゃありませんか。
雅子さんが後年に語り残していることなんですが、高杉は彼女をを連れて料亭へ行き、芸者をあげて遊んだことがあります。「なにがおもしろいのかわからなかった」と、彼女は述懐しているんです。
当時、江戸の幕臣の妻は、夫とともに、柳橋の料亭や隅田川の遊覧屋根船に芸者を招き、三味の音と洗練された料理を楽しんだりすることが、けっこうありました。
おそらく、そんな江戸の風流を妻にも経験させてあげたいと、江戸遊学期間がけっこうあった晋作さんは、思ったんじゃないんでしょうか。
やはり東行記念館に展示してありました、有名な辞世の歌の色紙です。
高杉晋作 「面白きこともなき世を面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」
野村望東尼は、筑前藩士の未亡人で、元治元年の暮れ、亡命してきた晋作を山荘に匿い、勤王方の藩士たちに協力した罪もあって、姫島に流されます。それを晋作が助け出し、長州で晩年をすごして、臨終にも立ち会いました。
望東尼との交流を見ましても、晋作さんは、ずいぶんとかわいげのある男だったんだろうな、と思うのです。
僭越ながら、今回は、晋作さんの上の句に続けてみました。
面白きこともなき世を面白く 君翔けゆきぬ風のはるけき
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功山寺挙兵のときの高杉晋作の銅像です。
うーん。ピントがあってないですねえ。実は銅像の下に私がいて、双方にピントをあわせるのは、難しかったんでしょう、おそらく。
功山寺の山門なんですが、下手くそな写真ですよねえ。私が撮ったんです。
こちらは、たしか、東行庵にあった高杉の銅像だったはず。
だったはずって……、よく覚えてなかったりします。
(ぐぐってみましたら、東行庵はまちがいないのですが、銅像ではなく陶像、でした)
久坂玄瑞の法事
に書きましたように、一坂太郎氏をお訪ねして、桐野利秋についての情報をお願いしましたのは、このときです。
東行記念館に展示してあった「いろは文庫」です。
元治元年、晋作が京都から、妻お政(雅子)に宛てて書いた手紙に、以下の一節があるんです。
近日の中大阪へ帰り候故、さ候わば曽我物語、いろは文庫など送り候間、それを御読みなされ心をみがく事専一にござ候。
(一坂太郎著『高杉晋作の手紙』新人物往来社発行 より)
長州は八・一八政変で京を追われ、進発論が盛んだった時期です。
高杉は藩主の命で、進発論の最先鋒だった来島又兵衛を説得しようとして、罵られ、自分が脱藩して勝手に京へ上りました。帰藩後、投獄、謹慎となりますが、そのおかげで、池田屋事変、禁門の変敗戦という長州の窮地を、無事やりすごした、ともいえます。
そういう時期に、妻にいろは文庫を贈っていた、というのが、私にはとても印象的でした。
「心をみがく事専一にござ候」なんぞと、堅苦しい書き方をしていますが、いろは文庫って、ご覧のように絵入りで、為永春水が手がけた人情本なんですね。けっして、堅い本ではありません。
萩では手に入らない、きれいな絵入り読み物を妻のために買うって、なんだかかわいいじゃありませんか。
雅子さんが後年に語り残していることなんですが、高杉は彼女をを連れて料亭へ行き、芸者をあげて遊んだことがあります。「なにがおもしろいのかわからなかった」と、彼女は述懐しているんです。
当時、江戸の幕臣の妻は、夫とともに、柳橋の料亭や隅田川の遊覧屋根船に芸者を招き、三味の音と洗練された料理を楽しんだりすることが、けっこうありました。
おそらく、そんな江戸の風流を妻にも経験させてあげたいと、江戸遊学期間がけっこうあった晋作さんは、思ったんじゃないんでしょうか。
やはり東行記念館に展示してありました、有名な辞世の歌の色紙です。
高杉晋作 「面白きこともなき世を面白く」
野村望東尼 「住みなすものはこころなりけり」
野村望東尼は、筑前藩士の未亡人で、元治元年の暮れ、亡命してきた晋作を山荘に匿い、勤王方の藩士たちに協力した罪もあって、姫島に流されます。それを晋作が助け出し、長州で晩年をすごして、臨終にも立ち会いました。
望東尼との交流を見ましても、晋作さんは、ずいぶんとかわいげのある男だったんだろうな、と思うのです。
僭越ながら、今回は、晋作さんの上の句に続けてみました。
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幕末長州 |
この度もTBありがとうございました。
見慣れた写真が何点も載っていたので感激しました。
東行庵の高杉像の刀はやはりいつ見ても長くて立派ですね~。
私も今年の4月に行くまた予定です。
ところで質問なのですが、このように画像を何点も載せるにはどのようにすればいいのでしょうか?
良かったら、お教え下さい。
4月に行かれるとは、おうらやましい。
高杉の連作、楽しませていただいております。
画像のあげ方は、こちらじゃご不便でしょうから、ご訪問して、書かせていただきますね。
今は、公園になってますが、なぜか、隣に住戸がありますので、そこに、管理人さんか、あるいは縁故の方がお住まいなのかもしれません。
「質問のある方は、声をかけてください。」とか書いてあったような・・・。
姫島の方には、私も行ったことがありません。
このときは、高杉に依頼された筑前勤王党の人たちが、数人で姫島の牢へ決死の思いで救出に行ったら、脅かしたら、牢番は誰も手向かいせずに、あっさりと、救出出来たとか。
この辺りが、極めて、福岡人らしいように思えます(笑)。
「面白きこともなき世を面白く 生きて来た身ぞ ざまあみさらせ」(爆!)
高杉サン!!!
柳生新陰流の使い手だったみたいですねー☆☆☆
shobunです。
わざわざ、お気を遣って私のブログの方にコメントして頂き恐縮しております。
それと複数写真の載せ方もご丁寧に書いて頂いて・・・。
重ね重ね感謝申し上げます。
まだまだPCは下手っぴですが、トライしてみたいと思います。
その時はTB致しますので、宜しくお願い致します。
それでは☆
行きたいと思いつつ、行ってないんですよねえ。
望東尼さんの全集を見ていますと、「人やもりの司が来て歌はなきやといひしかば」というような詞書きもありますし、藩もあんまりきびしくはしていなかったんでしょうね。
面白きこともなき世を面白く
住みなす心得「男は容姿」
bu 郎女
写真がいっぱいの記事を、楽しみにしております
毎回、楽しく拝見させていただいてます。
ブックマークさせていただきましたよ。
>ブックマークさせていただきましたよ。
わあ! 光栄です。
えーと、です。高杉の場合は美形ではないんですけれども、きっとこれなんですのよ。
面白きこともなき世を面白く
住みなす心得「男は愛嬌」
by郎女