おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

鉛色の空の下。

2005-06-14 23:09:59 | 我思う、故に書くなりよ。
ぐったりで、とぼとぼとタバコを買いに出る。

で、タバコを買う…という目的だけだと、ぐったりだし、だるいし、ムシムシだし、出ると言う事がひどくつらいモノになってしまい、出ない…って事にもなるので、何かしらカメラは持って歩く事にしている。

とは言え、どんよりと濁った鉛色の空の下では、何を撮ってみても「冴えない」。色気のある景色や物が写っていたほうが、何となく満足出来る事の方が多い。

んで、どうせ色気なんか無いんだから、モノクロで…。

往路復路ともに同じ道を歩いてタバコを買いに出たのだが、行く時には気付かなかったモノが帰りに見えてくる事もある。子猫の死もそうだった。気付かない程に周囲に馴染んでいるほどモノとして古いモノでは無いみたいだし、かといって、不慮の死を遂げてしまったばかりでも無さそうだった。

色気の要らない写真にはぴったりかもしれない。だいたい、死に関わる写真はモノクロが多い。人間でも、遺影がカラーになったのはそんなに昔の事じゃない。昔は、どこの家でも写真と言えば「モノクロ」だったんだけど、カラーが当たり前になった。わざわざ「遺影」として写真を撮っておく…という人も最近じゃ多いみたいだけれど、普通は何気なく撮った写真から選んで使うことになる。

その何気なく撮ってあった写真がカラーであった場合、わざわざモノクロに写し替えて遺影としていたんだけれど、それも面倒だし、そのままカラーで…って場合が自然な流れだったんだろう。そんな中であっても、不幸には白黒というイメージから未だにモノクロが使われる事もあるし、それを望む人もいる。

写真としては、カラー化されたのはつい最近の話で、モノクロの時代が長い。人間の目は古くからカラーを認識する事が出来たと考えられ、古い遺跡の絵付きの壁画などを見ても、あまり違和感は無い。見ただろう色がそこにあり、それは今の人が遠い時代を超えて見ても、理解出来る彩色となっている事が多い。

これがモノクロだったら、どうだろうか。人間の眼と大きく違った違和感がそこに広がっているのがモノクロ写真なのであって、そこに写っているモノとしては形も陰影も同じなのに「色」が無い。とても大きな違和感がそこにあっておかしく無かったと思うのだが、受け入れられた。そこに色が無くても、見たままが写し取られる事の方が大きかったんだろうねぇ。

とか、つらつらと考えながら、だるく重たい体を引きずって帰ってきた。相変わらず空も鉛色だった。

★ちゅーちゃん情報★

昨晩は外出していたので不明だが、今夜は暴動も暴走もなく静かである。のそのそと出て来てはエサを食べたり、水を飲んだり、チビちゅー同士でじゃれあっていたり、普通というのか、平静というのか。ウッドチップがあまり散乱していなかったので、昨晩もおとなしかったみたいだ。

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1 Comments

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やっちゃった? (ガボ)
2005-06-14 23:29:09
また猫を殺めちゃったの・・・?

またあの頃の悪夢が蘇る。
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