じいじのひとりごと

高齢者の悲哀と愚痴を綴っています
唯一の相棒、mシュナウザーのベルが残り人生を伴走してくれます

原爆の日、誕生日

2015年08月06日 | 日々のこと
窓を開け放った部屋のベッドに、蝉の声が響いて目覚める平和な朝・・・。
いつも通り7時に起きて、朝食を済ませた後
広島平和式典をテレビで見ながら、8時15分、私も一緒に黙祷しました。
市長の平和の誓いの言葉に対して、首相は非核三原則にも触れませんでした。
それに物々しいSPのガード、当然かも知れませんが、違和感がありましたね。

70年前は2歳でしたからもちろん私は覚えてはいませんが、忘れません。
くしくもこの日は私の誕生日なのです。
あの日の朝、一発の原爆で10万人以上の人々が亡くなり、街は一瞬にして廃墟となったのです。
それはそれは筆舌に尽くせない修羅場であったことでしょう。
人間のやることではありません。
小学生の時、初めて学校から集団で映画を見に行ったのが「原爆の子」でした。

今夜のNHKスペシャル「きのこ雲の下で何が起きていたのか」
戦時下、国の惨状を撮影することは一切禁じられていたなか、広島の新聞社のカメラマンが写した貴重な写真。投下3時間後に御幸橋の袂で写されたたった2枚の白黒写真です
それを現代のデジタル技術で出来るだけ再現していました。正視出来ないほどの地獄絵。
大人は戦地に赴いていて、写っているのはほとんど子供だけだったというのです。
実はこのたった2枚の写真も米軍によって没収され7年間も隠されていたというのです。
正気の沙汰ではないですね。


私の故郷、今治市もその8月5日夜から6日未明にかけての空襲で町の80%が焼け野原になったと聞きます。
何故か私の記憶の奥底には真っ赤な炎が残っているような気がするのです。
私の生家は少し離れた、街が一望できる地区でした。
恐らくは兄や姉から聞いた話が自分の記憶に置き換わっているのかもしれません。
体験はしていないが、聞き伝えられた恐ろしさが記憶のようになって残っているのです。

戦後70年を迎え、原爆被災者も戦争体験者も年々少なくなってきました。
戦争の悲惨さ、戦後の貧しさ、その後の平和への道のり、
それらがだんだんと風化していっているような世の中になっています。

いままたヒタヒタと戦争に近づいているような、そんな風潮を肌で感じるのは私だけでしょうか。
原爆体験者の語り部が今 学校の方から断られるそうです。
「原爆体験者だからこそ、私は原発も・・・・」
と言いかけた途端に校長から「はいそこまで」と遮られるそうです。

夏空に青田


子供たちからはいつもビール・・・これが一番です。ネット宅配恐るべし

コメント (13)
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