しずくな日記

書きたいなあと思ったときにぽつぽつと、しずくのように書いてます。

風が吹く

2012-04-02 21:14:53 | 日記
今日は部活やりつつ、教室の片付けをやっとこさ終える。
教室移動のとき、間違えて違う教室へ物品を移動してしまうという
私らしいハプニングはあったけど、とりあえず教室はガランとした。
新しく赴任してきた先生方も見えていて、学校にいつもと違う新しい風が満ちている。

昨夜、最後の学活でみたクラスの思い出スライドをちょっと作り直そうとして、
保存してたのを見たら、なんと一部分が消えている!
・・急いで作ったから、きちんとやり直せってことかしらん。
チケチケと作り直し。生徒たちの写真を見ていると、
嫌なことや腹のたつこともあったはずなのに、懐かしい楽しい日々ばかり思い出す。
1年でずいぶんみんな大きくなった。それだけ私もきっと年をとったのだろう。
でも、幸せに年をとれた気がするから、いいかもしれない。

夕方、吹奏楽部の定期演奏会へちょこっと顔を出す。

生徒の演奏もさることながら、同僚の指揮が見事だった。
音楽の先生じゃないけど、
中学時代から吹奏楽をずっと今まで続けて、
今では個人的に頼まれて演奏したりしている人だ。
音楽をやっているときはほんとにとっても生き生きしている。
なんであれ、自分を表現できる手段を確立している人は幸せに見える。
先生と生徒の精一杯のパフォーマンスに惜しみなく拍手を送る。


そういえば明日はひどい嵐らしい。
嵐が強くなるころ、きっと私は調理室でカレーを作っている。
新しく赴任してきた人たちと一緒に、みんなでカレーを食べるという会があって、
私は調理担当になってしまったのだった。
ビュンビュンと吹きまくる嵐の中、カレーを食べてたら一体感が生まれそう。
しかし、カレー食べてる場合なのか・・・。早く帰らないと帰れなくなりそうだ。

遠藤周作の「沈黙」を電車内で読む。
とても読みやすい。長崎のガイドブックでこの物語を知った。
長崎には「キリスト教弾圧」という昏い歴史がある。
まだ途中までしか読んではいないけど、どんなに人間が苦しんでも苦しんでも、
信じている神は何も答えてはくれず「沈黙」したまま、ということに対する焦りとか
疑問は、この宗教を信じてやまない人にとっては切実だ。
キリスト教徒ではない人間が読む場合でも、信じるとはどういうことなのか、
まざまざと見せられて考えさせられる。
着地点はそこではないかもしれないけど。

長崎の五島列島は、知れば知るほど観光地として気軽に訪れてはいけないところなのではないか、
という気持ちになる。たくさんある教会の中には、弾圧されたキリスト教徒が、
その中に座ることもできないくらいの人数で閉じ込められ、死んで行った場所もある。

場所が人を呼ぶ、ということはあると思う。
呼んでいるのは場所ではなく、
そこで志半ばで亡くなった、私と似た心の「波長」を持った人なのかもしれない。
それならば会いに行って、言葉にならない『言葉』を聴いてこよう。
でも私は凡人なので、海風にしか聞こえないかもしれない。

キリスト教徒ではないけど、「愛する」という言葉の意味を深く考え、実践しようとする必死な心が
聖書からは読み取れる。キリスト教だけでなく仏教も根本は同じだと思う。

今までも、どうしても行きたい!と思ったところには行ったし、なにがしかの意味は、
後から考えるとやっぱりあった気がする。
しかし、ここはとてもとても重い場所だ。哀しみが満ちている場所だ。
いや、信じて逝ったのだから、幸せだったのだろうか?
軽い気持ちで行かないために、学んで、考えることが必要だと思う。

風が吹く、いろんな風が私の周りを吹いている。