=福島原発避難者訴訟第24回口頭弁論=
▼ 國分富夫証言「“原発は危険”は本当だった」 (週刊新社会)
福島地裁いわき支部で6月21日、福島原発避難者訴訟の最後の証人尋問が行われた。189世帯584名の原告から、この間59名が証言したが、多くの証言と裁判の敏速化をはかるために途中から二つの法廷を使用してきた。また、原告の要求で昨年には3回にわたつて被災地の現場検証も実施された。21日の弁論はその集大成で、100人近い支援者が参加する中で早川篤雄(原告団団長)、國分富夫(相双の会会長)両氏をはじめ4名の原告が、3時間にわたつて訴えた。10月11日には判決日が指定される予定だが、来春3月判決が想定される。國分富夫さんの証言の要旨を報告する。
▼ 避難生活について
会津若松の避難先から南相馬に15年6月に移動しました。妻・美枝子が自分とも話さず、避難先の家で一人で泣いているようになり、欝(うつ)気味になったからです。
これまでの居住の小高から出たことがない妻をとんでもないところに避難させてしまったと思いました。事故で自分の居る場所がなくなったと訴えています。下ばかり見ていたので、桜が咲いたのも気付かないほどだったと言っています。
避難生活中の11年9月に義母・井戸川カツエが他界しました。皆避難中で連絡もできずひっそりと送り出すことになりました。
同居していた孫は高校1年の終わり頃からいじめに遭い、学校に行くなら死んだ方がいいというようになりました。そこで不登校の子どもの支援学校に転校しました。
娘は10年4月に南相馬市市民課に異動になったばかりで、原発事故に遭遇、通常業務はできない状態で、窓口で怒鳴られて泣いたこともある、という状態でうつ病が再発しました。
事故当時は「仕事に行かなきゃ」と思い、1回逃げた人は戻ってきて気まずい思いをしている、逃げることは悪いような感覚になっていました。それで辞めることはできませんでした。しかし、11月に休職になり、17年3月に退職しました。原発事故で娘親子は人生を狂わされた、事故がなければ地域に見守られて孫もはつらつとしていたはずです。
▼ 故郷喪失の痛手
原発事故が起きた11年の前までの、私の人生の中ではいい時間でした。地域に貢献しようと思い始めて、ゴルフをやめて、今度はもっと違うことをしようとして畑をつくったり、野菜を配って歩きました。紙漉きをやり、蜂も飼っていました。それが楽しかった。今思えぱ貴重な時間、それが何もなくなりました。
小高には行政区があり、行政区の会計を2年やりました。会計をやると区長をやるのが恒例でした。行政区の中に隣組という組織があり、葬儀の用意をしたり、花見、バーベキュー、流しそうめん、よくお酒も飲みました。流しそうめんの竹の長さは30メートル以上ありました。
転居した相馬では、隣組や近所の住民と流しそうめんのようなことは一切ありません。
小高町が町ぐるみでやっていた行事は農協主催の農業祭と工業高校主催の工業祭、小高区主催の小高の文化祭、マラソン大会もありました。
文化祭では小高町民は老若男女が下手な筆字を出したり、絵を出したりして、体育館に貼り出して、金賞を決める。全員参加の文化祭でした。農業祭では畑でとれた野菜の品評会をしたりしました。
小高の自然の恵みの野菜は自分で作りました。実家(金房)の川ではウナギ、イワナ、カニがとれた。秋になると味噌汁の具がないとなれば裏山に行ってキノコをとってくる、魚は友人が海で釣ってきてくれた。川も海も釣りし放題でした。
そういう小高は東北と言っても雪も降らず、海の幸、山の幸、人情味が深い。このような地域を失ったことが残念でなりません。
とくに若者、子ども達が生涯、放射能と向き合って生きていかなければならないことは可哀想でなりません。離れてみて、小高はよかった、助けてくれではなくてお互いに助け合うところでした。
▼ 自宅を軸とした友人関係
小高の自宅は1978年に建てました。私が33歳、妻美枝子が31歳の時です。お金がないから基礎工事を自分でやり、妻も基礎のコンクリートを隅々まで流し込む作業をやりました。
そうしてできた自宅で、地域の人たちと読書会を開いたり、勉強会をしたり、交流をしてきました。勉強会では憲法の勉強もしました。
小高町のモットーは文教の町。小高は有名人が出ました。憲法学者の鈴木安蔵も。そのことは私にとって小高を誇りに思うとともに”平和は小高から”なんだなと考えるようになりました。
こういう友人との関係はつくろうと思ってできるものではありません。長い時間をかけてつくられる信頼関係でできるものだと思います。そういう友達関係は繋がりがなくなってしまいました。
このことは残念でなりません。なんで俺、ここにいなきゃなんないんだと思う。すべてなくなりました。今まで何十年もかかって培ってきた自分の人生、すべてがなくなりました。
原発は危険だと教えを受けてきたが、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。事故に遭遇して教えを受けた通りだった。だからよけい悔しい。ハッキリしたのは原発事故が起きると全てを失うこと、そしてもとには戻らないということでした。
▼ 「平穏な未来を奪われた」
小高の自宅は、2016年11月に取り壊しました。その時は孫と一緒にいたが無言だった子もいるし、半分泣いている子もいた。娘たちはこれが最後だねと気落ちしていました。近隣住民の方も、「なんでー」と言って寂しがっていた。わざわざ電話をかけてきて、「なんで壊したの。なんか寂しいよ」「もう帰ってこないのか」など。会うたびに口々に「寂しい」と。とくに高齢の方から言われました。
取り壊したあとの風景は今までと違う。何か遠くへ行ってしまったような気がしました。寂しい。長く暮らしてきた家、粗末な家だったけど、お金がないために自分で基礎をつくった思い入れのある家。材木も山から自分で運び出した家ですから。悔しい。解体しているときの妻は泣きっぱなしだった。私と目をあわせるのが嫌で、隣近所の人に「壊しているの」と言われて余計悲しくなったのでしよう。
▼ 相馬へ
居住用不動産を相馬に再取得しました。14年4月には家が完成ずる予定でしたが、工務店が土地の造成や建物工事に着手できず、待たされました。
工務店によれば、原発事故後に注文が増えたので順番待ちになりました。16年10月5日に建物完成。転居しました。
しかし、庭の外構は完成せず、車庫の土の入れ替えが残っています。これらの残っている工事にあと1000万円かかります。これらの合計だと、東電賠償額の上限枠より700万円不足しています。
家を建てる場所を相馬にしたのは息子がそこに行くと決めたからで、福島の浜通りから出たくなかったのです。子どもがいるから浜通りの中で、できるだけ原発から離れたところにしました。生まれ育つた浜通りから出たくはなかったのです。長男夫婦が一緒でなかったとしたら相馬には家を建てなかったのでしょう。なぜなら老夫婦だけで知らないところには不安で暮らしていけない、子どもたちも孫たちもいないところに住みたくないからです。息子と一緒でなかったら、東京の娘のところに住むと妻は言っています。
▼ 避難指示解搬後の小高
小高区内で小学校、中学校、高授は全部再開していますが、ある小学校は全学年で63人。今年入学した1年生は3人と聞いています。事故前、小学生は4つの小学校で1000人くらいと思います。今、原町区等から通っている子どももいるようです。
避難指示解除後、コンビニが2軒できました。事故前からあるお店では双葉食堂、寿司屋、鮮魚店2軒。理髪店2軒が再開しました。鮮魚店の1軒は仮設を回って行商しているものの、芳しくなく、店自体は閉まっていることが多く、もう1軒も閉まつていることが多いと思います。小高に戻った人は、食糧や日用品は原町区まで買い物に出ていると聞いています。
▼ 言いたいこと
小高は安全だと被告は主張していますが、自然界であつても被曝するよりは被曝しない方が良く、医療被曝も自己決定によるものですが、できるだけしない方がいい。しかし、それに原発事故による放射線量がプラスされて少なくても3倍から100倍、200倍になっていると言われます。さらに放射能セシウム137は100年で10分の1、200年で100分の1となれば、低線量被曝は20年~30年後どうなるか分かりません。
大丈夫と言うのはあまりにも無貴任です。放射能が自然界のものと同程度になるまで、帰還させるべきではないと思います。
私が原発事故で一番失ったものは人間関係です。私がこの裁判を起こした要因は、私たちが被害者だということだからです。
若い人は生涯放射能と向かい合つて生きなければならなりません。平穏な未来を奪われました。
私たちに非はありません。私たちはどこにも助けを求められないので、司法に助けを求めているのです。
『週刊新社会』(2017年7月4日・7月11日)
▼ 國分富夫証言「“原発は危険”は本当だった」 (週刊新社会)
福島地裁いわき支部で6月21日、福島原発避難者訴訟の最後の証人尋問が行われた。189世帯584名の原告から、この間59名が証言したが、多くの証言と裁判の敏速化をはかるために途中から二つの法廷を使用してきた。また、原告の要求で昨年には3回にわたつて被災地の現場検証も実施された。21日の弁論はその集大成で、100人近い支援者が参加する中で早川篤雄(原告団団長)、國分富夫(相双の会会長)両氏をはじめ4名の原告が、3時間にわたつて訴えた。10月11日には判決日が指定される予定だが、来春3月判決が想定される。國分富夫さんの証言の要旨を報告する。
▼ 避難生活について
会津若松の避難先から南相馬に15年6月に移動しました。妻・美枝子が自分とも話さず、避難先の家で一人で泣いているようになり、欝(うつ)気味になったからです。
これまでの居住の小高から出たことがない妻をとんでもないところに避難させてしまったと思いました。事故で自分の居る場所がなくなったと訴えています。下ばかり見ていたので、桜が咲いたのも気付かないほどだったと言っています。
避難生活中の11年9月に義母・井戸川カツエが他界しました。皆避難中で連絡もできずひっそりと送り出すことになりました。
同居していた孫は高校1年の終わり頃からいじめに遭い、学校に行くなら死んだ方がいいというようになりました。そこで不登校の子どもの支援学校に転校しました。
娘は10年4月に南相馬市市民課に異動になったばかりで、原発事故に遭遇、通常業務はできない状態で、窓口で怒鳴られて泣いたこともある、という状態でうつ病が再発しました。
事故当時は「仕事に行かなきゃ」と思い、1回逃げた人は戻ってきて気まずい思いをしている、逃げることは悪いような感覚になっていました。それで辞めることはできませんでした。しかし、11月に休職になり、17年3月に退職しました。原発事故で娘親子は人生を狂わされた、事故がなければ地域に見守られて孫もはつらつとしていたはずです。
▼ 故郷喪失の痛手
原発事故が起きた11年の前までの、私の人生の中ではいい時間でした。地域に貢献しようと思い始めて、ゴルフをやめて、今度はもっと違うことをしようとして畑をつくったり、野菜を配って歩きました。紙漉きをやり、蜂も飼っていました。それが楽しかった。今思えぱ貴重な時間、それが何もなくなりました。
小高には行政区があり、行政区の会計を2年やりました。会計をやると区長をやるのが恒例でした。行政区の中に隣組という組織があり、葬儀の用意をしたり、花見、バーベキュー、流しそうめん、よくお酒も飲みました。流しそうめんの竹の長さは30メートル以上ありました。
転居した相馬では、隣組や近所の住民と流しそうめんのようなことは一切ありません。
小高町が町ぐるみでやっていた行事は農協主催の農業祭と工業高校主催の工業祭、小高区主催の小高の文化祭、マラソン大会もありました。
文化祭では小高町民は老若男女が下手な筆字を出したり、絵を出したりして、体育館に貼り出して、金賞を決める。全員参加の文化祭でした。農業祭では畑でとれた野菜の品評会をしたりしました。
小高の自然の恵みの野菜は自分で作りました。実家(金房)の川ではウナギ、イワナ、カニがとれた。秋になると味噌汁の具がないとなれば裏山に行ってキノコをとってくる、魚は友人が海で釣ってきてくれた。川も海も釣りし放題でした。
そういう小高は東北と言っても雪も降らず、海の幸、山の幸、人情味が深い。このような地域を失ったことが残念でなりません。
とくに若者、子ども達が生涯、放射能と向き合って生きていかなければならないことは可哀想でなりません。離れてみて、小高はよかった、助けてくれではなくてお互いに助け合うところでした。
▼ 自宅を軸とした友人関係
小高の自宅は1978年に建てました。私が33歳、妻美枝子が31歳の時です。お金がないから基礎工事を自分でやり、妻も基礎のコンクリートを隅々まで流し込む作業をやりました。
そうしてできた自宅で、地域の人たちと読書会を開いたり、勉強会をしたり、交流をしてきました。勉強会では憲法の勉強もしました。
小高町のモットーは文教の町。小高は有名人が出ました。憲法学者の鈴木安蔵も。そのことは私にとって小高を誇りに思うとともに”平和は小高から”なんだなと考えるようになりました。
こういう友人との関係はつくろうと思ってできるものではありません。長い時間をかけてつくられる信頼関係でできるものだと思います。そういう友達関係は繋がりがなくなってしまいました。
このことは残念でなりません。なんで俺、ここにいなきゃなんないんだと思う。すべてなくなりました。今まで何十年もかかって培ってきた自分の人生、すべてがなくなりました。
原発は危険だと教えを受けてきたが、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。事故に遭遇して教えを受けた通りだった。だからよけい悔しい。ハッキリしたのは原発事故が起きると全てを失うこと、そしてもとには戻らないということでした。
▼ 「平穏な未来を奪われた」
小高の自宅は、2016年11月に取り壊しました。その時は孫と一緒にいたが無言だった子もいるし、半分泣いている子もいた。娘たちはこれが最後だねと気落ちしていました。近隣住民の方も、「なんでー」と言って寂しがっていた。わざわざ電話をかけてきて、「なんで壊したの。なんか寂しいよ」「もう帰ってこないのか」など。会うたびに口々に「寂しい」と。とくに高齢の方から言われました。
取り壊したあとの風景は今までと違う。何か遠くへ行ってしまったような気がしました。寂しい。長く暮らしてきた家、粗末な家だったけど、お金がないために自分で基礎をつくった思い入れのある家。材木も山から自分で運び出した家ですから。悔しい。解体しているときの妻は泣きっぱなしだった。私と目をあわせるのが嫌で、隣近所の人に「壊しているの」と言われて余計悲しくなったのでしよう。
▼ 相馬へ
居住用不動産を相馬に再取得しました。14年4月には家が完成ずる予定でしたが、工務店が土地の造成や建物工事に着手できず、待たされました。
工務店によれば、原発事故後に注文が増えたので順番待ちになりました。16年10月5日に建物完成。転居しました。
しかし、庭の外構は完成せず、車庫の土の入れ替えが残っています。これらの残っている工事にあと1000万円かかります。これらの合計だと、東電賠償額の上限枠より700万円不足しています。
家を建てる場所を相馬にしたのは息子がそこに行くと決めたからで、福島の浜通りから出たくなかったのです。子どもがいるから浜通りの中で、できるだけ原発から離れたところにしました。生まれ育つた浜通りから出たくはなかったのです。長男夫婦が一緒でなかったとしたら相馬には家を建てなかったのでしょう。なぜなら老夫婦だけで知らないところには不安で暮らしていけない、子どもたちも孫たちもいないところに住みたくないからです。息子と一緒でなかったら、東京の娘のところに住むと妻は言っています。
▼ 避難指示解搬後の小高
小高区内で小学校、中学校、高授は全部再開していますが、ある小学校は全学年で63人。今年入学した1年生は3人と聞いています。事故前、小学生は4つの小学校で1000人くらいと思います。今、原町区等から通っている子どももいるようです。
避難指示解除後、コンビニが2軒できました。事故前からあるお店では双葉食堂、寿司屋、鮮魚店2軒。理髪店2軒が再開しました。鮮魚店の1軒は仮設を回って行商しているものの、芳しくなく、店自体は閉まっていることが多く、もう1軒も閉まつていることが多いと思います。小高に戻った人は、食糧や日用品は原町区まで買い物に出ていると聞いています。
▼ 言いたいこと
小高は安全だと被告は主張していますが、自然界であつても被曝するよりは被曝しない方が良く、医療被曝も自己決定によるものですが、できるだけしない方がいい。しかし、それに原発事故による放射線量がプラスされて少なくても3倍から100倍、200倍になっていると言われます。さらに放射能セシウム137は100年で10分の1、200年で100分の1となれば、低線量被曝は20年~30年後どうなるか分かりません。
大丈夫と言うのはあまりにも無貴任です。放射能が自然界のものと同程度になるまで、帰還させるべきではないと思います。
私が原発事故で一番失ったものは人間関係です。私がこの裁判を起こした要因は、私たちが被害者だということだからです。
若い人は生涯放射能と向かい合つて生きなければならなりません。平穏な未来を奪われました。
私たちに非はありません。私たちはどこにも助けを求められないので、司法に助けを求めているのです。
『週刊新社会』(2017年7月4日・7月11日)
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