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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

特高のこと

2009年04月13日 | 藤田の部屋
 <板橋高校卒業式> 杜撰きわまりない高裁判決!
 ☆☆ 偽証を見抜けない高裁判事は辞職せよ! ☆☆
 ★ 1月26日最高裁に『上告趣意書』を提出。 ★

 ■ 「最高裁に公正な判決を求める署名用紙」ダウンロード ↓ (PDFファイル)
http://www.sirobara.jp/090303fujita-syomei.pdf


「イカル」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》

  ◎ 特高のこと
藤田勝久

 ネットで特高のことを見ていたら、安田徳太郎が出ていた。なつかしい。白金小学校の正門のそばに氏の寓居があった。「人間の歴史」がおもしろかったので訪ねたことがある。家中、本がびっしりあったのだけ覚えている。
 小林多喜二の検死を東大などが拒否した結果、最後、内科医・安田徳太郎が見たという記事に出会った。想像を絶する残酷な拷問であった。やったのは、警視庁特高部長・安倍源基、課長・毛利基、警部・中川成夫、同・山県為三である。
 中条百合子の本には、中川のことが書かれているという。「やせぎすで、神経質な顔に一種の笑いを浮かべて」と。その中川が手下の須田をつれて現れると、獄舎に緊張が走ったと言われている。
 多喜二の遺体を囲んでの母らの写真は、何とも言いようがない。
 母セキさんは叫ぶ。
 「ああ、いたましや。いたましや。」「これ。あんちゃん。もう一度立てえ。みなさんの見ている前でもう一度立てえ。」と。
 その足は、釘か畳針で十カ所以上も突き刺され穴があいていたという。
 凶悪な拷問・惨殺を行った野獣どもはその後どうなったのであろうか。

 安倍源基が特高部長であった1933年には小林多喜二を含めて19人を拷問で虐殺したという。その後、内務省保安課長、同警保局長、警視総監、1945年、内務大臣を歴任。戦後、従三位勲一等を受賞。
 毛利基は、埼玉県警察部長、旭日賞を受け終戦直後には内閣より特別表彰を授与されている。
 山県為三は、丸の内警察署長を経て東京府会議員。
 中川成夫は、1936.11,天皇賜杯銀杯授与、築地警察等の署長、板橋区、滝野川区区長となる。よくもまあ、殺人現場の警察署長でいられたことよと思う。この中川はなんと1967 ~ 1968 年、東京都北区の教育委員長になっている。
 戦後、特高の元締めであった内務省警保局長の半数近くが閣僚となる。
 唐沢俊樹……岸内閣法相、
 大村清一……鳩山内閣防衛庁長官、
 山崎巌……池田内閣自治相、
 町村金五……田中内閣自治相、
 古井喜実……池田内閣厚相。

 父を批判、断絶することなく、いつも薄ら笑いを浮かべて国会内を動き回っている町村信孝は言うまでもなく金五の子であり、高村正彦もまた、特高官僚、内務省調査局長・高村坂彦の子である。
 特高官僚の50人余りが、戦後、国会議員となる。
 何たる国であることか。

 文部省においては、内務大臣・大達茂雄が文部大臣となり、特高官僚・緒方信一が文部事務次官となる。
 1972.12~74.12の文部大臣は、鹿児島県特高課長であった奥野誠亮である。奥野は、「きりしま事件」で37人検挙、「溶岩に苔古り椿赤く咲く」の句を検挙の口実とした。他県では、「菊枯れる」でやられた例があるという。
 田中義男の履歴は次のごとくである。群馬県特高課長ー長崎県特高課長ー文部省思想局思想課長。戦後、1952年に文部省初等教育局長、その後、53年~56年、文部事務次官、あげく、1962,12~68.2、東京都教育委員長となる。
 特高によって獄中死させられた人々の数は、1600人をこえているという。
 奥野にしても中川にしても、この田中にしても、人を逮捕、陵辱しておいて文部大臣とか教育委員長になるとは、何か冗談のようにも思える日本の戦後である。
『藤田先生を応援する会通信』第33号より
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